2006年03月11日

ソ連が満州に侵攻した夏 半藤一利著 文藝春秋

『ソ連が満州を侵攻した夏』 半藤一利著を読み終わりました。
 なかなかの大作でした。大日本帝国の侵略そのものを問題にするというよりは、関東軍に着目の悲劇を生んだ無知蒙昧、無策、優柔不断といったとてつもない欠如を取り上げた本でした。満州国という巨大な植民地をもったがゆえに、不分相応な巨大な軍隊を編制しなければならず、それが政治というものを変節させて、幾多の悲劇を生む元となったのでした。また、この本では、"満州国"という今は亡き傀儡国家を中心に、満州事変以後の日本軍部の動き、ソ連との関わり、戦争中あるいは戦争末期での降伏問題、ソ連の対日参戦をめぐっての米英ソの各連合国の複雑怪奇ともいえる国際政治の駆け引きを知る上ですばらしいテキストだと思う。大日本帝国の加害という点ではないけど、国際感覚の欠如、無責任主義そして楽観主義など、体たらくには呆れるべきでした。
 スターリンが対日参戦(満州侵攻)を急いだのは、原爆投下で日本が早めに降伏することに焦ったからだ。米ソ冷戦の取引における「満州」の重要さ。ヤルタ、ポツダムの連合国首脳会談、ソ連を仲介とする和平工作、ドイツの敗北、ソ連軍の極東への大移動…その「夏」に向かって、怒濤のように展開した一九四五年の国際情勢が活写されている。日本がソ連が参戦する前に降伏すれば、アジア戦線での分け前を失ってしまう。日本が対米戦で戦力を喪失し、抵抗不能の熟した柿のような段階になってから、参戦する。トドメを刺す名優の役割を演じ、労せず、2分なり3分なりの分け前を取ることという計画が破産になってしまうからだ。それよりも許せないのが、これらの悲劇を生む原因となった大日本帝国首脳部の無能さ、荒廃ぶりだったのである。大日本帝国なり、日本軍部、陸軍そして関東軍というものが国民を守らなかったというのはこの本を読んでさらに痛感した。
 まず、帝国日本のソ連に対する姿勢は、「信用していないけれども、信用している」
とでも形容したくなる異常なものだった。朝鮮半島、中国、アジア・太平洋地域の人々を蔑視し、上から大和民族が頂点という形で見下していた。太平洋戦争がはじまれば鬼畜米英となった。ところが、ソ連・ロシアに関しては奇妙なほど心を傾斜させ、親近感させ抱いていた。その原因にはノモンハン事件があった。当時満州では国境をへだて日ソ両軍が相対することで、国境線が不明確のため、あるいは武力偵察のために越境事件が数々おきたという。そのうち最大のものがノモンハン事件であり、日本軍はほぼ一個師団消失という手痛い打撃を受けたという。ノモンハン事件ではソ連軍の砲兵、戦車、飛行機などの兵器の近代さと優秀さ。しかもそれら火力の緊密な協同攻撃のすさまじさに日本軍は圧倒された。あらゆる点で帝政ロシア軍とは違い、近代化し強力な軍となっていた。そうしたことと日中戦争という泥沼の戦いに足をとられていた日本陸軍は恐怖を抱いた。そのような強敵であればあるほど、正面衝突は避けたいという戦略意識が働いた。陸軍のみならず海軍、政治家そして知識層にまでノモンハン事件以後、奇妙なほどソ連への心の傾斜をみせてきたことをこの本では「ノモンハン症候群」と名づけていた。日ソ中立条約は不可侵条約ではない。ただし、「両国の領土の保全および不可侵を尊重する」の条文がある。また「締結国の一方が、1また2以上の第三国より軍事行動の対象になる場合、他方の締結国はその紛争の全期間中、中立を守る」という条文もあり、これの意味するところは独ソ戦が起これば日本は中立を守り、一方日米戦開戦となってもソ連は中立を守るということを意味する。事実上、日米衝突、独ソ衝突の状況下においては不可侵条約と同義なものだと考えてもいい。日ソ中立条約を結んだ背景には、ドイツとソ連も独ソ不可侵条約を結んでおり、ドイツ・イタリアとの三国同盟を結合させることで日独伊ソの四国協商ができる。海軍は当初反対していたが、ドイツの外相が日本を訪問し、ノモンハン事件で悪化した日ソ関係を戻すためドイツが仲介すると約束した。こうして日独伊三国同盟が成立する運びとなった。米英と対決する日本の立場を飛躍的高めると考えた。また、南進論という石油確保のために東南アジアを侵略・占領して、アジアの盟主になろうという八紘一宇論的指向が強く、ソ連と提携することで米英と安心して正面衝突できると考えたのだ。しかし、ドイツはソ連に侵攻し、三国同盟締結時の目標である日独伊ソの4カ国が提携して米英にあたるという夢は果かなく消えた。ヒトラーは西部戦線への電撃作戦後のアメリカの対独政策の急激な硬化に驚き、ソ連と提携することを考え、独ソ不可侵条約を結んだが、その構想が効果をあげないのをみるとあっさりと独ソ戦への道へ戻ったのであった。ドイツがソ連に侵攻することで、約束を破ったドイツと手を切り三国同盟から脱退、中立化して世界戦争から脱出できるチャンスが日本に訪れることになる。しかし、そうは考えなかった。ドイツの勝利を信じ、その後に来る新しい世界地図を妄想したからであった。日本は帝国主義国家であり野望を捨てきれなかったのだ。中立条約を結んだ直後であることを忘れて、陸軍も外務省も対ソ戦の発動に大きく動いた。その辺の変わり身の早さには呆れるものがあった。先制攻撃を考えるなど、条約としての絶対的価値を認めていない。右翼勢力は中立条約を破って、ソ連が侵攻したと非難するが、日本だってドイツが侵攻した直後、「バスに乗り遅れるな」と言ってソ連を叩くことを考えていたのだった。人の事をいえるものではない。ただし、実現はしなかった。ノモンハン事件の記憶が残っており、ソ連に対して及び腰であった。「極東ソ連軍の戦力半減」というのが対ソ連攻撃の条件であった。もちろん、ソ連は極東方面から兵力を抽出したものの、日本側の策略を見抜きただちに新兵力でソ満国境をかためた為、対ソ攻撃の条件が実現せず、日中戦争を続けていることと、7月下旬の南仏印(ベトナム)進駐にたいするアメリカの対日石油禁輸というのが重なり陸軍は対ソ攻撃を取りやめざる負えなかった。このことをソ連のスパイのリヒアルト・ゾルゲは見抜き、スターリンに対し「どうやら日本はドイツの勝利をあてにしている。その目途がついたらソ連を攻撃するつもりらしい。しかし、他力本願ということは、本気でソ連と戦う意思のないことを告白しているにすぎぬ」という情報を送った。ただし、ソ連に対してはあれだけ及び腰だったのに対し、ほとんど躊躇することなく12月8日真珠湾を奇襲攻撃、そしてマレー半島のコタバルに上陸し、対米英戦争に踏み切ったのであった。
その後、中央が関東軍に「対ソ静謐保持を厳命した。また、対外的にはニ正面作戦をするわけにはいかないので、「対ソ戦不参加」を改めて国家方針として決定するとともに、「ソ連と米英との間にくさびを打ちこむ」ことを外交方針として決めた。もちろん、ソ連侵攻に備えて国境を防備し、場合によっては反撃とれるような体制だけは整えていくことにした。しかし、ミッドウェイ開戦を境に次第に日本軍が非勢になってくる。そして、ソロモン諸島のガダルカナル島で昭和18年(1943)2月に撤退に追い込まれる。それ以後、日本軍は敗退を続けた。戦況が悪化しはじめた際、陸軍中央は関東軍作戦課長以下の全作戦の参謀を入れ替えた。理由は、南方戦局の切迫に伴い関東軍から兵力を抽出するためだ。戦局の悪化を喰いとめるために大量の兵力の補充が必要だったが、国内にはほとんど余裕がなかった。そこでほぼ無傷で、対ソ防衛に備えて精錬された満州から兵員や物資を戦局の悪化のため、転用しようと考えたわけである。「満州国」防衛のために貼り付けられた関東軍部隊は南方の苦戦の前に、順次引き抜かれていった。12個師団(25万人)が満州からひきぬかれて、フィリピン、台湾、沖縄、中部太平洋の島々へと運ばれた。そして、引き抜かれた兵力の穴埋めのために「満州」居留民の中から、在郷軍人や徴兵適齢者は根こそぎ徴兵された。屈強の青年層はもちろん、一家の大黒柱といえる父親までが。このことがのちに満州の国境付近の開拓団や居留民に悲劇をもたらすことになる。関東軍は兵力の空洞化という厳しい状況に直面して満州国におけるあらゆる作戦計画をこういった状況の中、あらゆる計画推進を中止した。しかし、民間人(とくに開拓農民)を国境線から引き下げるように、との命令はださなかった。そればかりか、満州の居留民に知らされることなく行われた。理由は国境付近はもちろんのこと、その他の地域の居留民に知らせることで、軍隊の保護がなくなるならばと大量の日本人が後方へ動き出すことが予想され、すべての秘匿行動が水泡に帰すからだという。もちろん、分からないではないが関東軍に満腔の信頼を傾け、まだ満州は安全な楽土であると信じきっていた開拓団の人たちを含め、一般の邦人たちは哀れである。満州移民を推進したのは関東軍そのものであった。しかも治安の悪いソ満国境付近まで入り込み、満州の先住民(中国人や韓国人)が拓いた土地に入植し、現地住民を追い払ったり圧迫したりして、恨まれてまでして開拓団がどんどん入植していったのは関東軍を信頼していればこそであった。それが夢まぼろしのようにはかなくなっている現実を、かれらはついに知らされることはなかったのだ。
 19年7月中旬ころの、参謀本部作戦部長の真田穰一郎少将の日記に,「満州大部ヲ放棄シ、初動ヨリ主力ハ南満ノ要線ニ於テ防衛スルハ己ムナシ。『ソ』ノ積極的企図ヲ諜知セバ、中・北満兵力ノ主力ヲ南満ニ後退セシメ、主要軍需品ノ残部ヲ後退ス」という記述がある。参謀本部ははやばやと満州の土地の大部分を放棄していることが読みとれる。さらにいえば、兵力の転用を決めた際、陸軍中央は関東軍を見捨てたのであった。関東軍が在留邦人を見捨てて、守らなかったと非難されているが、関東軍そのものも南洋作戦と本土決戦のために陸軍中央に見捨てられた存在だったのだ。ただし、関東軍の腐敗ぶりを非難せずにはいられない。関東軍からぞくぞくと精鋭兵団が引き抜かれ、満州には、いまや広大な原野と長い国境線を守りぬけるだけの戦力がなくなっていた。にも関わらず、日ソ中立条約によりかかり、いぜんとして「王道楽土」の逸楽をむさぼっていた。中国大陸からのB29空襲が前後3回あったからと、重要機関や軍需工場をソ連に近い北方へ移そうとしていた。さらには軍の幹部や、満鉄や満州国の要人たちは、家族を絨毯爆撃の下の日本本土においておくのは危険だからと、わざわざ満州へ呼びよせたりもしていたのである。関東軍に1945年5月13日に対ソ作戦準備を命じられた。もちろん、陸軍中央は大いにソ連に対して及び腰であったが、満州防衛と居留邦人の命と安全を守るはずの関東軍は2ヶ月近くも立ってようやく関東軍は作戦計画を策定したのであった。このことは太平洋の島々、沖縄、フィリピンで玉砕戦闘が続けられているときに、満州は別天地であり、戦争とは無縁だと高を括っていたのであった。また、その作戦計画はずさんなものでソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦にもちこむ、という戦術だった。それゆえに関東軍総司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。そして主力は戦いつつ後退し、全満の4分の3を放棄し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する、というものであった。しかし、はじめから満州の土地の大部分を放棄することが前提となっており、満州各地に散在する満州開拓団の人たちのことなど視野に入っていないし、さらに最後に集結して徹底抗戦の中心となるべき陣地など、その日までまったく造くろうとなどしていなかったのである。にも関わらず、8月2日、関東軍報道部長は新京放送局のマイクを通して豪語している。「関東軍は磐石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生業に励むがよろしい・・・」 と。国境開拓団を含む邦人を騙したのである。
もちろん、関東軍だけをこのことで責めるわけにもいかず、政府はずっとソ連に対して和平を依頼し続けていた。
小磯国昭内閣のときより和平斡旋について続けられ、1945年ソ連に提供する代償を想定している。工藤美知尋著『日ソ中立条約の研究』によれば、もうすでにこのとき、「日本は・・・ソビエト連邦の仲介で全般的和平が実現するなら、ソビエト連邦の要求をすべて受け入れる」と、最高戦争指導会議がきめていたという。戦時下の日本人は政府も軍部であっても「鬼畜米英」と叫びつつ、永遠の宿敵と目していたソ連にべったりと傾斜していくのである。天皇の側近内大臣木戸幸一が知人に語った言葉があった。「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義者ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」 さらに木戸は条件が不真面目なものでなければ、ソ連が共産主義者の入閣を要求してきた場合、認めるともいっていた。また、終戦の年4月に鈴木内閣が成立するが、そのとき参謀本部は「今後採ルベキ対ソ施策ニ関スル意見」を起案した。それはそれは「ソ連に対し大譲歩をして、対ソ戦を回避し、さらにソ連をわが方に誘引せんとする」目的をもつものであった。5月8日にはドイツが無条件降伏、そして、日本軍の沖縄防衛戦も敗北が決定的となった。もはや手遅れであろうと、可能性皆無であろうと、ソ連の対日参戦防止にはあらゆる方途を講ずる必要ありと、陸軍中央は躍起になる。これに海軍中央も同調したのであった。さらに海軍は独断でソ連の参戦防止ばかりか軍需物資、とくに石油を買い入れようとすら考えていた。ソ連大使館に軍務局第二課長を派遣し、残っている軍艦の全部ソ連の飛行機を、燃料つきで交換しようと申しこんでいた。しかし、ソ連大使館に何度足を運ぼうが、ウォトカを振舞われるだけであった。当時の日本の指導者たちはやけくそになっていたのだろう。その対ソ哀願的国策に対し、東郷茂徳外相は1人反対した。東郷外相はノモンハン事件当時のソ連大使であり、ソ連のことをよく知っていた。東郷外相は反対したものの、押し切られ、「連合国との一般的な講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼む」という国策方針を決定されてしまった。ソ連への和平仲介を依頼するのにあたり、ソ連は大きい代償を要求してくるのに違いないという結論に至った。そこで、和平仲介へのソ連への代償として、。(1)南樺太の返還(2)北洋漁業権の解消(3)津軽海峡の開放(4)北満における諸鉄道の譲渡(5)内蒙におけるソ連の勢力範囲の認定(6)旅順、大連の租借を覚悟する必要あるべく、場合によっては千島北半を譲渡するのもやむを得ざるべし。また南満州は中立地帯とする・・ということが決定された。しかし、ソ連との交渉は何の進展も見せなかった。1945年7月26日のポツダム会談でポツダム宣言という日本政府に降伏を呼びかける勧告を出したが、日本政府は黙殺した。なぜなら、宣言にスターリンの名がないので、ソ連仲介による和平に最後の望みを抱いたのであった。あえてソ連が中立を守り、会談の席で署名しなかったのは子守唄であやされているからだということは知らなかった。宣言にスターリンの名がないことに注目し、ソ連仲介による和平に最後の、そのまた最後の望みを抱く。追い詰められて、国体護持の一点を守るべく交渉に夢をつなぎ、国際情勢の動きに注意を払う暇もなかったのだ。そういう努力も空しく、ソ連は8月9日午前0時に満州への侵攻を開始する。しかし、これまでの流れの中で気付くことがある。満州というのは日露戦争で「10万の戦死者、20億円の国費」をかけて、手に入れた日本帝国の植民地であった。満鉄副総裁の松岡洋右が「満蒙は日本の生命線である」といい、親米派の吉田茂までが、同じ頃『対満政策私見』にて「日露戦争において20億円の国費を費やし、10万同胞の血をもってロシアの勢力を払いのけた"満州"は、まさしく日本の生命線、これを他に譲るわけにはいかぬ」と書いた。米国は「ハル・ノート」が突きつけたのは実質的に満州を含む日本の海外植民地の放棄であった。満州などを失うこと(日露戦争以前の状態に戻る)は我慢にならないからであった。しかし、このどうしようもない窮地に及んで宿敵ソ連の対日参戦防止のために満州を含むすべてを見捨てたのであった。和平の終局の条件は国体の護持だけであった。対米英戦争前の日本の指導者が当時の日本の国力を把握し、米国の潜在的能力を知っていたら米国に戦争を挑むのがどれだけ無謀か分かるはずだった。日本帝国の指導者はとことん無能だった。ハルノートを飲んで対米英戦争を回避していれば、300万人の日本国民や2000万人といわれるアジア民衆の犠牲を避けることができただろう。幾多の悲劇を繰り返さなくてもすんだ。ソ連への和平交渉への代償で決めた条件はハル・ノートを呑んだ時以上のものを放棄している。大戦下で日本国民、満州の開拓民の悲劇はそういった日本帝国指導者の見識のなさと、アジア・太平洋地域支配願望の強欲さの上に招いた悲劇だったといえる。過ちはこれだけではなく、1944年の7月のサイパンの陥落をもって、絶対国防圏がなくなり、勝ち目がないというのは軍部も身をもって確認していた。ソ連に無意味に願望を抱かず、ソ連に和平依頼の時呑む覚悟を決めていた条件でもって条件付き降伏をはっきりと意思表明していれば、その後の本土空襲、沖縄決戦、2つの原爆投下、各地の玉砕戦、そして満州の悲劇はなくてすんだのである。また日中戦争による中国民衆の犠牲も、アジア・太平洋地域の民衆の犠牲も、日本兵・日本国民自身の犠牲もより少なくて済んだはずである。避けられるはずだった幾多の犠牲、悲劇、悲しみ、憎悪を考えると私としては怒りを感じずにはいられない。

ところで話を満州に戻したい。関東軍も満州国もソ連への和平交渉の代償のため捨てられたということをこれまでに書いた。関東軍が捨てられたというが関東軍司令部が犯した数々の罪行を糾弾しないわけにもいかないのである。関東軍が満州防衛を担い、そして、満州にいる邦人の命を預かる軍隊として、ソ連に対して中央と同様に甘い考えを抱き、ソ連は当分参戦してこないと現実逃避していており許せないと思った。もっと糾弾されてしかるべきは関東軍がソ連侵攻の直後何をしたかという点にある。それは守るべきはずの開拓民や居留民を置き去りにして逃げたということにある。その狂態の一部を本書から抜き出したい。p205〜206より

 この新京の居留民の避難輸送にかんして、消し去ることのできない歴史的汚点を残したことは知られている。その経緯をていねいに書くには厖大な紙数を要するから、要点だけにとどめるが、軍官の要人会議できめられたはじめの輸送順序は、たしかに民・官・軍の家族の順であったようである。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められている。
 実は、そこに問題が残った。会議決定は正午少し前であり、そのことが新京にいる邦人の一軒一軒に知らされるためには多くの時間がかかる。それとこのときになっても新京を離れたがらぬ人も多かったであろうし、また避難準備が手早くゆかない人もあったであろう。そこで、軍人の家族は緊急行動になれているし、緊急集合が容易であるから、これをさきに動かして誘い水にしようとした。軍の責任者はのちになってそう弁解する。
 ところが、事実は第一列車が小雨降るなかを出発したのは遅れに遅れて11日の午後1時40分なのである。避難民集合の不手際のためではなくて、列車編制と輸送ダイヤを組むのに時間がかかったからである。目的地は平壌。となれば近道は新京から四平街―奉天―木渓湖―安東―平壌であるが、このコースは満州南部の複廓陣地築城のための軍需物資集結に使っていた。そこでやむなく新京―吉林―梅河口―通化―平壌へのコースをとることになった。ダイヤの組み直しで時間がかかったのもやむをえない。そうであるから、時間はたっぷりとあった。一般市民に決定をくまなくゆきわたらせることもできたのではないか。
 さらにいえば、軍人家族には、午後5時に忠霊塔広場に集合、の非常命令が早く伝えられている。これは当初予定の第一列車出発のわずか一時間前。輸送順序で軍人家族が最後であるというなら、動かない市民を動かすための誘い水としても、あまりにも早すぎる呼集ではあるまいか。
 そして会議できまった避難順序がいつの間にか逆になるにつれて、こんどは軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立った。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追いはらわれるようになった。
 こうして11日の正午ごろまでに18列車が新京駅を離れた。避難できたものは新京在住約14万人のうちの約3万8000人。内訳は軍関係家族2万310余人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6700人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民である。
 11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入りホームにあるふぇ、怒号、叫び声そして泣き声が入りまじって異様な熱気にあたり一帯が包まれた。かれらは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の優先に対する不満と怨みの声をあげたのである。
こうした軍部とその家族、満鉄社員とその家族が、特権を利し列車を私した、という非難と責任追及の声は現在でも大きく叫ばれている。たいていは少しは理のある弁解や言い訳もないではないが、およそ耳をかす人はなく、通用しないといっていい。悲劇の体験記のほとんどすべてにおいて、その事実が告発されている。「牡丹江市では、軍の家族の引揚げにしげきされて、こんどは満鉄がお手のものの列車を仕立てて家族の引揚げをはじめた」とあり、「私たちが午後4時東寧駅に着いたとき、避難列車はとっくにでてしまったと聞かされた。・・・奇妙なことに私たちが『もう列車はでない』といわれて東寧駅を離れたあと、午後7時30分、第二次の避難列車が東寧駅を出発した。これには東寧の野戦鉄道司令官をはじめ軍人とその家族など約1000名が載った。・・・・午後11時30分、さらには第三次の避難列車が発車した。この列車には東寧県庁や県職員約50人をはじめ、軍人、その家族、満鉄社員の残り全員・・・」とあるなど、列挙に遑がない。書いているとその卑劣さには反吐がでそうとなる。

もちろん、新京から避難民を逃がそうと計画されたのは、関東軍総司令部が中央の命令どおりに南部の通化に移動するためと、数日後に大空襲や新京防衛線が予想されるので、居留民婦女子を急いで避難させて、満州国皇帝と満州国政府を通化に移すためという。ようは退却行動であるが、決められたはずの退却順序が守られず、関東軍は自分たちの家族だけを特権を利用して避難させた。ものすごく卑劣な行為である。卑劣さはこれだけでは留まらなかった。p212〜213より引用
 ソ連侵攻の予期せぬ大混乱のさなか、関東軍総司令部だけではない、軍の指導者・参謀たちの情けない卑劣そのものの行動を語るエピソードがほかにもある。
 満州国中が大混乱にあったとき、「関東軍の上級将校が家庭ともども列車を仕立てて、大連へ向かうという情報を予備士官学校の候補生がんできました。軍人たる者が何事かッ、学徒出身の私どもは怒りました。守備隊の武器庫から重機関銃を持ち出しまして通過駅の大石橋のプラットフォームの両端に一基ずつ据えました。果たして情報通りでした」とは、柏原健三氏(大阪教育大学教授)の語る終戦秘話である。読売新聞大阪社会部編『戦争8』「ああシベリア」に載っている。
 結果はどうなったか。下級将校たちの厳しい検問に、列車から金ピカの参謀肩章を吊った佐官クラスの士官たちが降りてきた。「惨めな居留民や開拓民を見捨てて逃げるとは何事か」と詰め寄る学徒出身将校たちを前に、参謀たちは平然として言いはなった。
「本官らは身を賭して本土防衛の任に赴くものである。それを何だ、貴様らの行為は抗命罪だぞ」
 この一言に、残念ながら、下級将校たちの一斉射撃の決断は突如として萎えてしまったという。もちろん、本土防衛に赴くなどはペテンもいいところである。列車内には参謀たちの妻子がいた。それで決戦場への急行もないものである。しかし、まだ命令系統と階級秩序は生きている。敗軍であればあるほど、軍紀は守らなければならないのである。「それにしても、なにゆえに女子供連れでありますか」ぐらいの、皮肉の一言も浴びせることも忘れて、空しく列車の立ち去るのを見送ってしまったことに、柏原氏はいまも地団太を踏んでいるという。 
 参謀たちの正体ならびにその後は不明である。ちなみに柏原氏たちはシベリアへその後送られている。氏が帰国したのは昭和24年のことである。

人間としての最低のあるまじき行為であろうと思う。そればかりではない。100万人ともいわれる一般の在留邦人については何ら確たる避難措置をとらずに見捨てたが、関東軍傘下の作戦に関係のない部隊については8月9日のソ連侵攻の当日という早業で後方に移している。その部隊は関東軍軍楽隊、関東軍化学部、防疫給水隊、毒ガス研究部隊、軍馬防疫廠などであり、特に防疫給水隊すなわち生物兵器作戦用の731部隊にいたっては、職員の婦女子・子供などの家族に至るまで一刻も早く日本本土へ避難させる措置を取った。その中でも細菌学の学士をもったたった53名の医官たちのためだけに軍用機を用意し直路、日本へ帰還させている。ほかの職員もその家族に至るまで避難において直通特急まで手配されている。この待遇の差は何なんだと思う。ほんとにどこまでも腐った連中である。腹立たしい。いち早く満州の大部分を見捨てて後退作戦を取った関東軍は橋や道路を破壊し、後から逃げてくる老人や婦女子たちの進路と速度を妨害した。その老人や婦女子たちはソ連軍に追いつかれたり、怒りに駆られた満州の原住民たちに囲まれてどんな目にあったかは言うまでもない。ちなみに著書によれば、ドイツでの"満州"の事例も紹介されている。p214〜215より
 ヒトラー自決後、敗亡のドイツの総指揮をまかされた海軍元帥デーニッツの回想録『10年と20日間』を想起せざるをえない。すでにドイツの敗北を予見していたかれは、海軍総司令官の権限で、降伏の4ヶ月前から水上艦艇の全部を、東部ドイツからの難民や将兵を西部に移送するため投入していた。ソ連軍の蹂躙から守るためである。こうして東部から西部へ運んだドイツ人同胞は200万人を超えている。
 敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また被占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行である。ヨーロッパの戦史をみると、いかにそのことが必至に守られていたかがわかる。日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識すら無知であった。
 だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体維持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、非難してくる非戦闘員の処置をどうするか。この切実な質問にたいし陸軍中央の参謀はいったという。
「やむをえん、轢き殺して前進せよ」
そうした帝国陸軍の本質が、満州の曠野において、生き残った引揚者に「国家も関東軍もわれわれ一般民を見棄てた。私たちは流民なのだった。棄民なのであった。ソ連軍の飽くなき掠奪と凌辱、現地民の襲来、内戦の弾下の希望亡き日々」(村岡俊子氏)とつらい叫びをあげさせるもといをつくったのである。そして、こうした国家と軍の無知蒙昧そして無策が、スターリン元帥の思う壺だったのである。

大日本帝国は国家としての最低限の義務すら果たさなかった。ドイツの場合は海軍元帥デーニッツが敗北を予想して、東方からドイツ同胞を救出しようとした。もちろん、中央に反対し、満州居留邦人の命を救おうと努力した将兵・幹部もいないわけではなかったが、全体としてこの本に登場する将兵・幹部指導者連中の身勝手さには怒り心頭です。ところで著者は大日本帝国の軍隊を国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であり、国体維持軍であると言っている。ある一面では正解だ。戦争終結までに時間がかかったのも、満州に居留する邦人をあっさりと見捨てたのも大日本帝国指導部の中には「天皇制を守る」しか頭になかった。しかし、何のためにその天皇制を守ろうとしたのか、国体護持にこだわろうとしたのか?それは軍部や政治指導者、財閥、軍需複合体などの既得権益・利権体制温存にあったのである。それは旨い汁を失いたくなかったからだ。半藤一利氏は当時の日本の軍隊を、"天皇の軍隊"と評している。しかし、もっと突き詰めていけばもはや"天皇の軍隊"ですらなく、自らの野望のために多くの国民を犠牲にし、多くの中国人・韓国人、アジア・太平洋諸国の民衆の血を啜る軍事指導者・財閥・官僚役人などの利権吸血マフィアどもの手先となる傭兵組織でしかなかったと私は思う。その人間性の欠如、脳内の荒廃ぶりは現在の日本の官僚や政治制度にも受け継がれている。私たち日本国民はいかなる政府に生命や自分たちの暮らしを預けているのか問わねばなるまい。ソ連の侵攻後5日もたった8月14日にようやくポツダム宣言を受諾を決定し、その翌日の15日昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが正式に日本国民に知らされた。しかし、8月15日で第二次世界大戦が終結したわけではなかった。大日本帝国の指導者の間抜け・無知ぶりがここでも発揮された。国際法上でいえば、連合国にとって降伏意思の表明にすぎないし、法的拘束力はなかった。国際法上の正式の「降伏」を完了させるにはすべての降伏条件をみたす降伏文書に正式に調印しなくてはならなかったのだ。そういう国際法の知識すら軍事・政治の指導者たちは知らなかったのだ。正式の降伏はミズーリでの降伏文書調印の9月2日にまで待たなければいけなかったのである。停戦しようにもできない日本軍の各部隊との衝突は続き、満州ではいたずらに死傷者が増えていった。国際法無視のほかにも問題点があり、天皇の聖断を前にしても陸海軍軍人は血気盛んであり、降伏命令を誰が書くかをめぐって争いが繰り広げられていたようである。戦争終結の「聖断」は政治上の決定であって、統帥命令ではなかった。正式の停戦命令がこない間は、和戦の選択は現地軍の権限にでてくる。大本営が陸海軍全部隊に対し停戦命令を発したのがやっと16日の午後4時になってのことだった。14日の降伏決定から2日間の空白ができて、このことが各方面の前線部隊に無駄な犠牲をさらに強いることになった。しかもその停戦命令の中には「止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ゲズ」という文言が含まれており、自衛戦闘を許すあたりにも不徹底甚だしいものがある。満州では他の地域よりもさらに停戦が遅れた。アメリカが連合国の代表であり、連合国最高司令官はマッカーサーであると信じこんでしまったのである。実はそうではなく、ソ連はそれを認めてはいなかった。それゆえに、マッカーサーに停戦の正式通告をなそうとそれに関係なく、満州ではソ連軍の進軍が続いていた。米ソは日本の無知と無力の舞台裏で、日本占領後の占領地域の区分をめぐり熾烈な冷戦を続けていた。8月14日の天皇降伏声明は、無条件降伏の一般的声明にすぎず、日本軍に対し戦闘中止命令はでておらず、まだ抵抗を続けている。戦闘行為を中止し武器を捨てることを命令し、かつこの命令が実行されたときに初めて日本軍は降伏したものと認めることができる。したがって、日本軍の実質的降伏は存在しないので、ソ連軍は進撃をやめなかった。ソ連軍はたたみかけ、既に組織の体をなしていない関東軍を粉砕した。一方開拓団にとってはまさに悲劇そのものであり、屈強の青年や一家の主である父親がいない満州に散った子供、婦女子らを対象にした絶え間のない強姦と暴行、掠奪が続いた。ソ連軍は数々の軍人・将校らを捕らえていった。ポツダム宣言受諾後の満州においても戦闘は終結せず、悲劇はミズーリでの降伏文書調印の9月2日の翌日3日まで続いたのであった。ソ連や日本の文献も検索され、精度の高い著作だと思われる。
 しかし、満州中心なのはいいが、居留邦人以外の満州にいた中国人や朝鮮人の苦痛や彼らが何を体験し、何を思ったか、その引用や文献がほとんど紹介されていないのが残念だ。ただ、満州へ日本人が移民する際、もともと住んでいた朝鮮人や中国人から土地を取り上げたということについてのみ若干書かれていた。明治末から対満移民政策がとられ、、多くの日本人が海を越えて渡満した。農家の次男、三男の土地なき農民たちから挫折した人々(失恋から左翼運動まで)がこれにつづいたこと。満州の広大な土地は地の果てまでも開拓可能の一大沃野ではなく、3分の1が森林や沼沢や山岳であった。必然的に、すでに中国人や朝鮮人たちが開拓し、住み着いていた農地を日本人が強権的に奪うことが多くなったこと。昭和11年(1936)に、広田弘毅内閣が国策として決定した20ヶ年100万戸移民計画によって、この傾向はいっそう強くなったこと。既耕地をふくむ農地の強制買収によって、次々と開拓村が新設され和20年の敗戦までの移民数は30万人を超えたが、現地の中国人そして朝鮮人に与えた苦痛はなみなみならぬものがあったこと。対ソ戦に備えて、国境地帯8000キロに関東軍の予備軍として青少年義勇軍を配備させており、終戦の年8月までにその総数が8万6500人が超え、先住民をおしのけて、大地に住みついた。そこから日本および日本人に対するどす黒い怨嗟や憎悪が生まれたということも。当然8月15日も暮れてその夜、新京では満州国禁衛隊が叛乱を起こしたこと。これをきっかけ満州国軍の脱走、叛乱がつづき、日本軍との間に交戦が早くもはじまった。さらに満人の暴動も計画されて、漢字新聞は翌日の朝刊の一面に「東洋鬼を皆殺しにしろ!」の大見出しが載ったこと。「王道楽土」も「五族協和」も、日本人中心の虚偽にみちた作文でしかなかったことが当然明らかになったと。ただし、淡々としており、それ以上には詳しく著者は書かなかったようだ。開拓団の悲劇には目を覆うものがあった。もちろん、満州にいた当時の日本人は都市部の住民はもちろん、辺境の居留民や開拓団ですら「優越民族」として君臨し、現地人の土地を奪い、圧迫し苦しめた加害者であるという一面をもっていることは認めなくてはならない。それは"泣く子も黙る"関東軍の威力を背景にしてのことであった。関東軍はしかし、ある時満州の一般邦人たちを見捨ててしまう。時に辺境の居留民や開拓団の人々は急転直下して、今日まで続く被害者として追いやられてしまったのである。そんな彼らをソ連軍が急追してくる、さらには現地人が報復の意味を含めて匪賊のごとく襲撃してくる。根こそぎ動員によって、屈強のものがいないことを知れば、親しんできた満州の友人や使用人たちも加わって暴動化して、現地人がかたまって日本人の難民たちに一度に襲いかかったのであった。子供や婦女子ばかりであった。どんな凄惨な地獄絵図が繰り広げられたのであろうか?想えば胸が痛くなるばかりである。考えてみれば、開拓民や居留民の多くも最初から被害者だったのかもしれない。「王道楽土」「五族協和」などの国策プロパガンダを信じ、豊かな楽園の生活を夢見て貧困の中骨を埋める覚悟で海を渡り、移住してきた人たちが大半であろう。多くは加害者として満州の地に君臨するために来たのではない。その証拠に私も旧満州の在留日本人が書いたいくつかの出版されている手記を手にとって読んでいたが、異民族にまじりともに汗水たらして働いたり、土地や家屋を奪われたりして苦境に喘ぐ満州の人間を使用人に雇ったり家族に迎えるなりして救った日本人も多くいたことは確かである。逆に現地の人々のすべてが敗戦時に、開拓民や居留民に敵対行動をとったわけではなく、使用人として雇われ、「主人」である日本人と最後まで運命をともにした人もいたし、危険を冒して匿ってくれたりした現地人もいた。日本人の子供を保護してわが子のように育ててくれた人もいた。こういう草の根の助け合い/友情の部分にも視点を当てることで新たな日中友好の架け橋にもなるのではないだろうか。こういう可能性も満州にはたくさん残されていると感じた。まだまだ「満州」の問題は未解決である。天皇、軍人、政治家、外交官、ジャーナリズムの戦争責任の問題はまだまだ追及していかなければならない。また、今後誰かがまた次の“ソ連が満州に侵攻した夏”を書いてくれることを期待したい。今度は居留民の悲劇を強調するのではなく、満州にいてその影で痛めつけられた中国人の視点で、日本人ではなく中国人の手で書かれることを期待したい。在中朝鮮人の視点でもいい。次なる大作がでてくることを個人的には望みたい。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:47 | Comment(4) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
家に姿見のような大きめの鏡がある方は一度試して貰いたい
鏡に映った自分を見ながら 『 お前は誰だ 』 と言ってみてください
いえ、お化けとか幽霊だとかそういう類のモノでは無いんです
鏡に映った自分の眼を見ながら 『 お前は誰だ 』 と言ってみてください

何か不安感というか、奇妙な感覚に囚われるかと思います

Posted by at 2007年01月14日 06:00
岡山の姫は面白いことになってますな。




【政治】 「『ぶってぶって』とよくせがむ」 “虎退治”民主党・姫井ゆみ子氏に、6年にわたる不倫疑惑…相手の教師激白★27

1 :☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★ :2007/08/31(金) 20:10:41 ID:???O
・民主党の参院議員、横峯良郎氏(47)の不倫&賭けゴルフ疑惑を報じ、同氏から
 5500万円の損害賠償訴訟を起こされた週刊新潮が、30日発売号で疑惑の“第2弾”を
 報じる。また同党の新人議員、姫井由美子氏(48)の“不倫スキャンダル”が同日発売の
 週刊文春で報じられることも分かった。

 参院選の岡山選挙区で自民党の片山虎之助前参院幹事長(72)を破って初当選し、
 「姫の虎退治」として話題を呼んだ民主党の姫井氏に、不倫疑惑が浮上した。
 30日発売の「週刊文春」9月6日号が報じている。

 「虎退治 姫井ゆみ子との愛欲6年」と題する記事で、交際していた岡山市在住の元高校
 教諭(42)が実名で告白。平成12年9月、ある会合で知り合った2人は、ダイビングなど
 共通の話題で意気投合。初めて2人きりで飲んだ13年12月、岡山市内のラブホテルで
 一夜を過ごしたという。

 参院選で学校、家庭、地域が一体となった教育の重要性などをアピールしていた姫井氏には
 夫がおり、一男一女の母。教諭はバツイチの独身だった。2人は頻繁に同市内のラブホテル
 などで密会し、教諭によると、「彼女はかなりのMで『ぶって、ぶって』とよくせがまれ」、
 「妻になってあげる」ともいわれたという。

 2人は、姫井氏らが昨年5月にオープンした喫茶店の経営を巡る問題で同10月に破局。
 今年4月、教諭らは未払い分給料など約1500万円の支払いを求める調停を裁判所に
 申し立てた。
 姫井氏は29日、都内で民主党の女性議員研修などに出席。同氏の事務所は「事実確認が
 できないので、何も言えない」と言葉少なだった。
 http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200708/sha2007083002.html
Posted by at 2007年09月01日 02:37
       ☆ チン            
 ☆ チン  〃 ∧_∧   /癡所の右翼討伐人チャソ
  ヽ ___\(\・∀・)<2チ ヤ ソ ネ ルで他人のメ ア ド晒した謝罪まだー ?
      \_/⊂ ⊂_)_ \____________
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
   |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|  |
   | H A N 板人  .|/
数万円もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようとした癖に自からHAN板でバラして罵倒嘲笑を浴びた。

他人のメ ア ドを本人の許可無くHAN板で晒し、スレ住人にたしなめられたが開き直って削除依頼もせず逃走した。

2TIYANNELUの理系板で日本軍悪口雑言板スレ立てをして沈着冷静、頭脳明晰な住人の罵倒嘲笑を浴びた。

2TIYANNELUの海旅板で日本の加害情報求む等と馬鹿なスレ立てをして総スカンを喰らった挙げ句スレストされた。

HAN板で(さば)を(こい)と読んで無知文盲がばれて祭りになった。

理系大学の学生でありながら本を買ったのがたった二冊だけだと平然とほざいてHAN板でスレ住人にあきれられた。

南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記のHAN板住人に全く歯が立たず泣き言を吐いて逃走した。

HAN板で意気揚々とソースに「半月城通信」を引用して大爆笑になった。

自分の専門分野について質問された時に錬金術の如き化学反応式を並べて文系住人さえ絶句させた。

鬼女板と恐れられる既婚女性板にカキコして百戦錬磨一騎当千の鬼女板住人に粉砕されて逆上、「お前らなんて一生結婚出来ないぞ!!」と
既婚女性板住人が化石するしかない捨て台詞を吐いて逃走した。

就職の面接で担当者が一文字姓だった為、勝手に在日朝鮮人と決めつけ、得意満面でこの自慰ブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた。

民団の掲示版に日本の悪口を書いて賛同を求めたが逆に門前払いを喰らって唖然とする程の癡所ぶりをオチされて侮蔑と嘲笑を浴びた。
Posted by at 2007年10月08日 06:14
雨にも恨み 風にも呪い
雪にも夏の暑さにも妬む
丈夫なエラと吊り上がった不細工な一重瞼をもち 体だけは頑丈で 色欲は無限大
♀とみれば0歳児から90過ぎの死にそうな婆でも平然とぶちこみ ♀がいなければ♂でもぶちこみ 
強姦は男の甲斐性と開き直り そのくせ
容姿に凄まじい劣等感を抱き 母子で揃って整形し
生まれた子供は親に似ても似つかぬ鰓張り面で
Aigooo-!!を連呼して又整形する
近親相姦が常態で 遺伝子は欠陥だらけで奇形児が生まれりゃぶち殺し 運がよければ捨て子にし 
脳味噌はカプサイシンの過剰摂取で海馬がいかれ
そのおかげで決して静まらず いつも大声で怒鳴ってゐる
直ぐに発火点に達し あらゆるものに放火してついでに自分
にも着火して大やけどをおい それはイルボソが悪いと責任転嫁し
一日にコーriャn四合と大量のキムチと少しのコチジャ素を食べ
あらゆることを自分の勘定に入れ 1%見聞きして分かったつもりになり
そしてすぐ忘れ 何一つ自分で創造出来ず 全て他人様の劣化コピーしか
出来ず そのくせurinara世界一と斜め上時空でHoruほruし
半島の禿山の陰の小さな萱ぶきのあばら家にゐて
東海に日本の竹島あれば行って旗を立てて威張りちらし
西に宗主国あれば行って三拝九叩頭してそのご機嫌を伺い
南に死にそうなベトコンあれば武器を向けてこわがらなくてもいいと殺し
北に干ばつや飢饉があればつまらないものですがと日本の米を送り
世界中の海図に文句をつけ F5アタックを連発しすぎてKRドメインをはじかれ 
それで勝利宣言する位のTEINOUさをさらし
日照りの時は謝罪を求め 寒さの夏は賠償を求め
全てイルボソのせいにすりゃkesotyanayoで済み
全世界のあらゆる物の起源はuriのものと捏造しまくり
全世界から嫌われ者と呼ばれ 褒められもせず 尊敬もされず
虚仮にされ 嘲笑され 嬲り物にされ 罵倒される 
そういうものに uriは なってるnida

        ∧__∧   ________ 
      <丶`Д´>/ ̄/ ̄/ 
      ( 二二二つ / と) 
      |    /  /  /  
       |      ̄| ̄ ̄
Posted by 全世界のあらゆる物の起源はuriのものと捏造しまくり at 2009年02月10日 19:10
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Excerpt: 昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989半藤 一利 平凡社 「何かあったら、私が責任を取ります。」責任を取ると、いうことは、会社や組織を辞めることを意味しない。なんとしても、成就させるよう尽力する覚悟を..
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Tracked: 2006-04-22 14:12
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