"信念"という言葉をよく聞いたことがあると思います。
ちなみに、私自身のことを言えば、"過去の加害歴史の清算を日本人が自らの発意で徹底した清算を行うことで、現代の大部分の諸問題の解決につながる。その清算の行っていく中で、過去の加害歴史を知ることは、その侵略国や被害国の被害者や犠牲者のことを思い、その痛みや苦しみに思いを馳せることであり、そのことが他者の痛みや苦しみを共感し、他者(自分と異なるもの)を尊重することにも繋がり、周囲に対する謙虚さ、寛容さという人間としての当たり前のあるべき感性を得ることにも更に繋がって行く"というのが私自身の根幹にある信念であります。この信念に基づいて、過去の加害の歴史の追及や清算、右翼に対するこれまでの言論的活動を行ってきましたし、これからも行っていく次第です。
"信念"という言葉をもっと本質的な定義を言いましょう。私自身が言った訳ではなく、とある講演会で講師の方の言葉です。
「"信念"とは(過去、現在を問わず)、自分自身がその事象や事実をどう意味づけ(解釈)していくかである」とその講師の方がおっしゃってました。私はなるほどなと思ったのです。
例えば、Aさんという方がいました。Aさんは「過去に父が離婚し家を出て行った」という過去があります。Aさんにその父のことを聞くと「父は私たち家族が嫌いだから愛想を尽かせて家を出て行った」と言います。
さて、「過去に父が離婚し家を出て行った」というAさんにとっての過去の事実があります。その父が出て行ったことに対し、「私たち家族が嫌いだから愛想を尽かせて出て行った」と意味づけ(解釈)したことがAさんにとっての"信念"であるわけです。
ちなみにですが、Aさんの父は多額の借金を背負っており、家族に迷惑をかけまいと離婚し出て行ったことが真相でした。
私自身なるほどなと思いました。人間というのはその過去の出来事に対して、勝手に解釈や脚色、誇張を付け加えていく加工していくものです。その積み重ねが"信念"でありその人の価値観や行動を形成しているといえるものだと思います。
私の前述の"信念"も例にとれば、"過去の加害の事実、大日本帝国の日本軍の戦争犯罪や侵略行為"という事実があって、その事実に対して"過去の我が国が行ったことは、同じ日本人として恥ずべきものであり、被害者や犠牲者の苦しみや痛み、憤りに対して心が痛み、申し訳ないと謝罪したいと思う。それを否定したり正当化するような右翼どもやその存在を容認する日本社会に対して嫌悪感をもち、大日本帝国的なものを完全に解体し、消し去りたい"という"信念"に繋がっているのです。
さて、脚色や誇張どころかあたかも真実のように、嘘を加えたり、事実そのものを隠蔽したり、捻じ曲げたり、修正ないし美化、捏造したりして、事実そのものの痕跡すら残さぬほどに捻じ曲がった病的な"信念"をもつ右翼のような奴等に日本社会は溢れています。
さまざまな事象・事実に対して良識的・良心的な"信念"を持っていただきたいと思います。過去の加害歴史について勉強し、"過去の加害の事実、日本軍の戦争犯罪"について"現代の日本人として過去の国や日本人がやったことの負いを感じ、被害者や犠牲者の痛みや苦しみ、憤りに対して思いを馳せ、申し訳ないと思う""信念"を持ってください。
人間のタイプを見分ける方法はいくつもありますが、確実なのは"過去の我が国の加害の歴史や犯罪"に関する"信念"を問うことです。どんな風な信念をもつかは、例えば"南京事件や従軍慰安婦問題"について聞いてみれば分かるはずです。「過去の我が国が紛れもなく行ったことであり、正当化することや事実を否定することは許されない。ご存命のうちに1人でも多くの被害者個人に対して謝罪や補償を行い、心の傷を癒し、名誉や尊厳の回復を果たさなければならない」と答える人間のタイプであれば、間違いなく問題はありません。逆に右翼的な信念をもち、「捏造である」「誇張誇大化されたものであり、謝罪も済んでいる」「そんな過去は済んだことであり、未来のことを云々」という風に答える人間は信用ありません。
そんな信頼たる人間になるために、良識的、良心的な"信念"を持ちましょう。このエントリーを読んで、そういう良識的な、良心的な"信念"をもつものが増えてくれたら、私も心強いと思います。