インドネシア文化宮さんのところで読めます。
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.htmlマルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.htmlマルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.htmlマルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.htmlマルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.htmlマルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.htmlマルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.htmlマルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.htmlタニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.htmlタニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.htmlタニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html一見、夢溢れるバカンスの南の島という感じもしないではないですが、とてつもない悲劇の歴史の傷跡を背負う島なのです。右翼連中は都合の悪いことをみない機能的文盲連中ばかりなので、それらの中から日本軍の占領や日本の戦争・戦後責任に関するところを中心に抜粋していきたいと思います。
戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.htmlより
終戦記念日の前日(2007.8.14)、マルク州西南東マルク県のセラル島のレミャン海岸に立った。ここは、日本軍が連合軍と対峙した、正真正銘、“最前線”だった。南の方角にはオーストラリアのダーウィンが位置する。レミャン海岸に夜間上陸した日本部隊は、陸路、東海岸に面するリンガット村に進駐した。リンガット村で、“戦後”が訪れていないことを実感した。陸地、海岸、そして海中に投棄された多量の弾薬と兵器。「村は破壊され、連合軍の爆撃で約200名の村人が死亡した。そして村のおよそ50名の若い女性が慰安婦として強制的に性の奴隷となった」と、現村長のユスフ・サンボヌさん。
これが悲劇の概要です。未だに戦後が訪れていない日本軍の被害にあった地域がたくさんあるという事実を理解すべきですね。
リンガット村のユスフ村長。「私たちに戦後は未だ来ていない。戦後賠償ができないことは分かっている。しかし、日本軍の最前線として、強制的に協力させられた村のことを少しでも思い出して欲しい」
被害を受けた側の人間が「日本は戦後賠償できないということができないということは分かっている」という現実、胸が張り裂けるほど痛いです。
マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html悲劇の舞台である西南東マルク県のあらましについて書かれています。地理的なことからアラブ人に支配されていたところから香料を求めてヨーロッパ勢力がやってくるまでの概要など、そして東ティモールとオーストラリアと関係を結んで経済を引き立てようとするような計画のことまで書かれています。で、日本軍に関するところは
タニンバル諸島は、かつて太平洋戦争の時代、日本軍にとって、連合国と対峙する“最前線”と位置づけられていた。このため、今日のMTB県の主要な島に、その地元住民数並びに農水産能力とは不釣り合いな規模の日本兵が駐屯した。また、日本軍の“最前線”はそのまま連合国軍の“最前線”をも意味し、その結果、海上・航空能力で優った連合国軍の攻撃を受け、多数の地元住民もその犠牲者となった歴史がある。疑心暗鬼が軍と住民双方に生まれやすい緊張感に包まれた最前線。この結果、後述するが、日本軍による地元住民の大規模虐殺事件もMTB県の一角であるババル(Babar)島で起きている。
の部分です。
マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.htmlより
セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。日本軍兵士による虐待は、それは酷いものだった。多くの女性が慰安婦にさせられた」---マルク州MTB(西南東マルク・Maluk Tenggara Barat)県の現県知事で、セラル島出身のビット・テマール(Bitto S Temmar)さんが語る。
「当時、私の父はセラル島のナムタブン(Namtabun)村の村長だったが、日本軍から村の若い女性をサムラキ(Saumlaki)へ送れと。そこで、父はお婆さんを送ったんだね。そしたら、怒った日本兵は、父の指の間に鉄棒を挟んで縛り上げたそうだ。父の世代は、私たち次の世代にそれらの話を伝え、そしてトラウマは引き継がれた。なんでも日本は戦後賠償をしたそうだが、それらの賠償金はすべてジャカルタへ行ってしまった。地方には何も来なかった。是非、日本政府に伝えてほしい。私たちは何も謝罪を要求するつもりは毛頭ない。私たちが言いたいのは、突然やってきて、突然去っていった中で起きた事に関して、少なくとも戦後に関心を払ってくれても良かったのではないかということです。言い換えれば、社会のリハビリに対する可能な援助をしてくれないか、ということです。ここは“忘れられた島々(Forgotten Islands)”とも言われる地域ですが、“忘れられない出来事”があるのです」と。
また、戦争の賠償金や謝罪は要求しないと被害地域の住民に言わせている。戦後のことだけにでも関心を払ってくれと。私からすれば悲しいですね。ここの文で重要なのが、やはり慰安婦(性奴隷)の徴収に日本軍が関与していて、村の有力者に若い女性を慰安所に送れと強制していたところ。軍の関与がなかったとか、軍の強制はなく自発的なものだったと嘘の上塗りとセカンドレイプを続ける右翼勢力はとっとと死ねって。
インドネシアが独立して60数年。電気が入っていないばかりか、灯油の入手にも苦労するセラル島。小学校を卒業すると、村に残る以外に選択肢のない現状。テマール県知事は言う。「お金のことは二の次の問題です。まずは、思い、関心を持って欲しいということです。私が知っている限り、戦後、旧日本兵がセラル島を再訪したことはありません。私は、その昔セラル島に居ざるを得なかった、そうした旧日本兵たちが、あるいはその子孫たちがやってきて、今の世代と友好を築き上げて欲しいと願っています。援助ではなくても、旧日本兵の孫の世代が、この島に投資をしてくれないだろうか。例えば、電気の問題でいえば、太陽光発電などの技術を持ってきてくれると大変嬉しい。あるいは、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出してくれるとか、あるいは優秀な生徒を日本へ留学させてくれてもいい。終戦時、他の地域では、恨みから日本軍が攻撃を受けたこともありますが、この県の中で、セラル島やその他の島々にいた日本兵は、皆無事に祖国へ帰ることができました。そればかりか、実の兄は、日本兵に養子縁組される直前まで親密な間柄だった。時代が残虐性をもたらしたが、一時期とはいえ、日本人と地元民との間に、うまくは表現できないが、普通では考えられない友好や友情があったことも事実です」
サムラキ市内で、日本軍支配時代を知る少なくない人々から「セラル島は、今の県知事もそこの出身であることからも分かるが、勤勉で高いディシプリンを持った住民が多い。それは、日本軍が残したものであることは間違いない」との話を聞いた。連合軍と対峙する、正真正銘の“最前線”であったセラル島。サムラキから40馬力のエンジン2基装備のボートで出発。ヌス・タブン(Nus Tabun)島とマトゥクス(Matkus)島の間を抜けて、アンワール・マス(Angwar Mas)島を右手の見ながら約2時間。セラル島の中央付近のくびれ部分の北岸にある白浜(レミャン海岸)に到着。そこで、オジェック(オートバイタクシー)が来るのを待つ。浜の沖合、そして陸上の到る所に、日本軍が投棄した弾薬や機材が眠っているという。
多大な苦痛を与えたのにも関わらず、誰一人やってこない無事に祖国に帰れた元日本兵。過去の侵略・加害について無関心で、そういう小さな島一つの過去の出来事すら関心を向けようとしない日本政府。十分に戦争犯罪を裁ききれず、戦争責任の精算ができないまま大日本帝国の残滓が温存されたままの日本社会、大変腹立たしいものです。
レミャン海岸から十数メートルの場所には未だに旧日本軍が投棄した弾薬や機材が眠る。ここは、掘り返された跡。地元民によれば、アンボンで宗教抗争が激しかった頃、手製爆弾を作るための材料として、この場に埋まっていた弾薬などが持ち去られたという。連合国との戦いの最前線に蓄積された日本軍の弾薬が、半世紀以上も経て活用されようと誰が想像できよう。レミャン海岸のずっと東に位置するナムタブン村では、2003年、沖合から打ち上げられた旧日本軍投棄の迫撃砲弾のような形をしたものを、魚料理の焚火の脚として使用し、爆発、二人の村人が亡くなった。いまだに“大東亜戦争”の遺物が村人を苦しめている
戦後不当に投機された日本軍の兵器類が今尚住民の前に現れては傷つけるという点で、中国で問題になっている日本軍の遺棄化学兵器の問題に似ていますね。マーシャル諸島のほうでもそういう事例があり、戦後補償裁判で取り上げられています。日本軍が占領時代に行った加害ばかりに目を向けることは大切ですが、不当に投機された兵器類が現れて現代も住民を傷つけているという現在に現れた加害にも目を向けていかなければなりません。
マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。ユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長(36歳)が語る。
「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村人は巻き込まれてしまった。連合軍の爆撃でたくさんの家屋が破壊され、焼かれた。日本兵による拷問で死んだ村人もいたが、少なくとも200名近くの村人が連合軍の爆撃に巻き込まれて亡くなった。村の墓を見てください。一目瞭然です。それから、村の若い女性たちが性暴力の犠牲者となった。その数は約50名。日本軍によって強制的に性の奉仕をさせられたのです」
リンガット村ではあの“先の不幸な大戦”が終わっていないような錯覚にとらわれる。到る所に“戦争”が残っている。日本から赤道を越え、5千キロ以上もの長旅をして運ばれてきた、日本軍の武器・装備が残骸となって視線に飛び込む。
「繰り返して言いますが、私たちは罪のない犠牲者です。人間としての威信を傷つけられた女性たち。そして意味のない軍票で強制労働に従事した男たち。傷はいまだに癒えていません。どうか、傷を癒してくれませんか。どのようにしたら傷が癒えて、私たち村人に、本当の戦後が来るのか、考えてもらいたいのです」とユスフ村長。
村長の悲痛の叫びが聞こえてくる。勝手にやってきて、最前線に関係のない村を巻き込んだ日本軍。て村の若い女性たちを集め、弄び、性奴隷にした罪や強制労働や拷問で村人を苦しめたこと、連合軍の爆撃に巻き込んで罪は許されるもんではない。その傷は今もなお癒えていない。このような悲痛な小さな村の叫びが右翼や日本政府に届く日は来るだろうか。
村では、旧日本軍が残した武器・装備などを一か所に集め『戦争博物館』を建設する計画を持っている。付近の珊瑚礁の海底や砂浜の地中に投棄された装備なども回収したい考えだが、多量の弾薬や武器も一緒に捨てられているため、その回収は困難だ。「戦後、一人として日本人がこの村に来たことはない。ただし、日本兵の血を引く村人はいますがね(笑)。日本軍にとって最前線だったこの地に戦争博物館ができ、そこで平和の尊さを感じることは大切なことだと思います。日本の方で、建設に協力してくれる人はいないでしょうか?」とユスフ村長。、
取材中、乳飲み子を抱いた30代の女性が近づいてきた。「まだ生きているけれども、私の母エマは終戦間じかに、日本兵の“サノ”とアディテナお婆ちゃんとの間に生まれたの。だから私はサノの孫ね」と。
戦後、この島に来たのはこの記事の筆者一人だけだった。こういう小さい大日本帝国・日本軍の占領被害の現場にももっと着目して事実を掘り起こしていかないといけないと思います。
マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html日本軍によって“最前線”基地が築かれたため、連合国軍の爆撃で200名もの村人を失ったリンガット村(ユスフ村長談)。サンゴが作り出した真っ白な砂浜。そしてコバルトブルーの海。光景はまさに“南の楽園”のような、この美しい小島に、島の人口と比べて不相応な数の日本兵が駐留した。“日本軍支配時代”の残像がまだまだ生き続けているリンガット村。60数年前から時が止まってしまったかのような空気が流れている。日本の軍歌を昨日習ったかのように、見事な節で歌い上げる古老たち。一時期の駐留とはいえ、村の歴史は日本軍無しには語れない。家々の庭に置かれた旧日本軍の赤錆びた鉄の塊は、黙して語らないが、村人の心の髄に、あの大戦の記憶が刻み込まれている。あの戦争は未だ終わっていない、と言うユスフ村長の言葉には、入村儀式を経ることもなく、いわんや招待状も無しに突然村に進駐し、悲劇だけをもたらして、そして潮が引くように去って行った“日本”に対する積年の思いがある。
「2,003名のリンガット村を代表して“日本”にお願いしたいことがあります。まず第一に、家々の周囲用のレンガの柵を造るための援助は期待できないでしょうか。レンガとセメントの提供を受ければ、作業は村人が行います。次に、日本軍が残した物を集めた戦争博物館の建設に協力できないかということです。博物館と言っても、簡易なもので十分です。第三に、村の伝統・慣習ハウス(Rumah Adat Desa)を建ててくれないかということ。そして、第四に、およそ10kmの長さの海岸線の浸食を防止するために、何か防止装置のようなものを考えてくれないか。最後に、電気ですが、この村にも島の東端のアダウト(Adaut)から電線はきていますが、ほとんど機能していません。可能ならば2万ワット規模の発電機もしくは太陽光発電装置の援助はしていただけないでしょうか。あれやこれやお願いが多いのですが、私たちが戦後を迎えられるよう、そして村人があの戦争から真に癒されるように、是非とも願いを聞いて欲しいのです」---ユスフ村長からのメッセージだ。
悲しいながら要求が随分と小さめで、太陽光発電といったインフラ設備なのの未来のことが中心だ。ただし、その小さな要求すら耳を傾けようとしない日本政府。ただし、その要求だと日本の商社や外務省の喰いものにされるだけだと思う。過去の謝罪及び補償、並びに調査団の派遣や加害の全体像を明らかにし未来永劫に子孫代々に教育することを日本政府に誓わせるなどもっと過去を取り上げた大きい要求でなければならない。それが大日本帝国の残滓に病んだ日本社会に対する薬にもなる。そう考えると非常に残念でならない。
マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html 日本軍が進駐した時8〜16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。
まず、日本軍は1942年3月に、一大隊規模で、セラル島の北岸のレミャン海岸に夜間上陸した。そしてリンガット村を始め各村へ移動。リンガット村では教会を本部として使用した。(海軍か陸軍かは記憶が曖昧だが)ナカムラ部隊は、自転車、戦車、トラックなどの四輪車を持ち込んだ。
リンガット村西方の滑走路は1942年に建設を開始、その年、日本軍機が飛んできた。建設には村人が強制労働で駆り出された。日本軍は直ちに学校を作り、日本語や君が代などの歌を教えた。村は、連合国軍の爆撃を何度か受け、200〜300名の村人が亡くなった。日本軍の軍医も、その爆撃で死んだ。彼の墓は今でも残っていると思う。
敗戦後、日本軍は1945年9月頃、島を去った。武器類は、この近辺で地中に埋めたり、焼いたりした。弾薬の多くは海中へ投棄した。レミャン海岸の海中と浜の地中には、たくさんの自転車、戦車、そして銃、迫撃弾、100kg爆弾などが捨てられた。リンガット村東方の北海岸の村ナムタブンでは、2003年、日本軍が残した、そういった弾薬類とは知らずに、迫撃砲弾のようなものを、村人が魚を焼くための焚火の脚として使用し、それが爆発して二人死んでしまった。
何年か前に、地中から日本軍が埋めていった鉄製の箱が見つかった。その中には、(日本語だから)読めないドキュメントが詰まっていた。しかし、ほとんど腐っていたため、保管せずに捨ててしまった。
リンガット村に駐留していた部隊は:「ニシハラ部隊」そして「ナカムラ部隊」だった。二人の部隊長以外で、まだ記憶している日本兵の氏名は:「ヒロハタ」、「サイキ」、「コタケ」、「ミソベ」、「イレシド(イシド?)」、「スギタ」、「オイダ」、「イケダ」、「サノ」など『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、第5師団(別名:鯉師団、司令部はケイ島のトゥアル)の歩兵第42聯隊(司令部タニンバル、リンガット?)の隊長は「西原修三大佐(43.7〜44.3.1)→吉川章大佐(44.3.1〜)」とある。現住民が言うところの「ニシハラ部隊」とはこの「西原修三大佐」指揮下の部隊と思われる。
以上、リンガット村へ日本軍が来たいきさつのまとめという感じですね。この記事には実際の占領時代経験者からインタビューをされています。その中から2人ほど抜粋
ウルバヌス・ランコラタットゥ(Urbanus Rangkoratat)さん(73歳)
@「日本軍が来た時はまだ子供だったから、日本軍が開校したSR(Sekolah Rakyat・国民学校)に3年通った。私の日本人の友人はタラダだった。私は何も仕事というようなものはしなかった。だって“kodomo(子供)”だったから。いつもいつも、タラダと遊んでばかりいた。SRの教師はインドネシアだった。歌は日本兵から習ったけれども」---と言うや、ガスパルさん同様に一気に歌い上げた。
見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ
『愛国行進曲』だ。「私は日本兵士が好きだった。なぜなら生活は悪くなかったし。。。」「しかし、父親は連合軍の空爆で死んだ。空爆ではこの村で300人近くが死んだ」
A「日本軍がいたために村人が失った財産を弁償してほしい」
ルカス・ララットマセ(Lukas Raratmasse)さん(75歳)
@「いわゆる苦力(クーリー)みたいな手伝いをした。主に魚獲りをした。でもある日、魚を隠したと誤解され、日本兵から叩かれたこともある。実際はそうじゃなくて日本兵のために保管していたのに」
A「村人が失った財産分の賠償金を支払ってもらいたい」
村長は日本政府に補償は求めないといいつつも、村人は失った財産の補償を求めているのです。その村の補償や謝罪の要求有無以前に、日本社会は補償だけではなく、謝罪にも被害の調査などの過去の清算に取り組む義務があるのです。セラル島のリンガット村のような小さなところを含めて、大日本帝国・日本軍が被害を与えた地域の隅々まで。現にそれだけのことをしても、未来永劫謝罪を続けても償いきれないほどのことをしたのだから。リンガット村をはじめとする広大な大東亜共栄圏の隅々に至るまで徹底的に血と屍のキリングフィールドの大地に変えていったのである。その蛮行は人類が地球上に誕生して以来、歴史上例のないものだったのだから。
さておいて、大日本帝国・日本軍の占領地域の戦争体験者の証言・オーラルヒストリーを集めることは即急に進めなければならない課題である。歴史上例のない大日本帝国という
最厄(災厄)を未来永劫伝えていくために必要な作業である。私個人としては女性、とりわけ性暴力被害者のインタビューも聞きたかったところ。性奴隷以外に一個大隊もの日本軍が駐屯していたリンガット村で強姦事件はなかったのかとか、セラル島の他の村はどうか、他の島々はと気になるところである。一つ分かったことがある。やはり慰安婦の徴収に軍の関与があり、村長らに若い女性を集めさせて性奴隷にしていたという事実。当時の村長も女性たちを性暴力の被害者と捉えており、自発的に応募したとか、村人が集めて商売として自発的に女性を集めたとか嘘を上塗りを続ける奴はいい加減にしろと言いたい。
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.htmlのババル島事件の話でも裏付けられていることである。
農産物やヤギなどの家畜といった食糧とともに、各村に対して兵士の性奉仕のための女性を供出するように割り当てている事実が明らかになっており、複数の地域にまたがていることも明らかになったのだから、嘘の上塗りは許しません。リンガット村のような小さなところを含めて隅々まで大日本帝国・日本軍の加害の事実が明らかにされ、謝罪や補償を含む過去精算が被害にあったすべての地域の隅々に至るまで、米粒一つ足りの穴を残さないほど徹底的に行われることを望みます。以上