2010年08月02日

消滅の危機に瀕するマクア語― 最後の話し手3人とのインタビュー ―

ネットサーフィンをしていて、以前にみつけたものですが。

消滅の危機に瀕するマクア語― 最後の話し手3人とのインタビュー ―
http://www.geocities.jp/hkbtls/hakerek/Hakerek13/makua_japan.htm

.3人とのインタビュー


(1)老婦人1:フェニシダーデ・コレイアさん。推定年齢およそ80歳。近親結婚で脱色しておられ一見したところ豪州人のような白人に見える。


 日本軍が侵略してきた1942年2月にはすでに結婚しておられた。日本軍は全てを破壊した。特に食料とするため動物(水牛・豚・鶏など)を殺して食べてしまった。ココナツもそうだ。

 子ども:息子1人。キクオラ(マクア語)=ツツアラ(ファタルク語)で生きている。少しマクア語が話せる

(2)老人男性1 アルフレド・ドス・サントスさん。推定年齢80歳以上。日本軍が侵略してきた時まだ結婚しておられなかったが「老婦人1」よりも年上であるという。


日本侵略時リウライの補佐役をしていた。日本軍の下で「見張り」として働いた。日本軍は「見張り」の仕事に対し賃金は未払いのままである。日本軍は民衆をたくさんではないが少し殺した。午後4時以降、火を使うと殺された。日本軍は、水牛や鶏を殺してわれわれの食料を奪った。

 子ども:3人。2人の息子はファリンティルの英雄。森でインドネシア軍に殺された。1人の娘は生きているがマクア語は話せない。


(3)老婦人2 ラウリンダ・ダ・コスタさん。日本軍侵略時未婚だったがすでに大人になっていた。推定年齢およそ80歳。

  子ども:5人。娘2 --- 1人は東ティモール 1人はインドネシアに居る。でも2人ともマクア語は話せない。息子3 --- 2人はインドネシア軍に殺された。1人は生存している

(4)「なぜ子どもたちはマクア語を話せないか?」


老婦人2の答え。困難な情勢でマクア語を学べなかった。ポルトガルの殖民統治時代には学校の教師は学校でポルトガル語とファタルク語を使用。ポルトガル殖民統治者はポルトガル語のみの使用を望んだ。マクア語を尊重しなかった。子孫がマクア語を話せないのは、ポルトガル植民地主義の帰結だ。


(5)基本的なマクア語


数の数え方や挨拶を3人に発音していただき録音録画した挨拶の例証。

 こんにちは ケンナ カチ アカ 

さようなら ラハ 

 有難う   ブラハ  

(6)このインタビューに対する3人の印象

 

 良かった。なぜなら、消え行く言語を保存するためということを理解しているから

.今後の課題―言語学者の責任と日本政府の責任


(1)急ぐべき言語学的調査


消え行く言語マクア語を話せる3人の老人はいずれも推定年齢80歳以上で、いまだ元気ではあったが、語学的調査をおこなうなら早急におこなうべき段階であることは明らかである。言語学者のご協力を要請する。


(2)日本政府の戦争責任


 同時に第二次大戦中の日本軍による東ティモール侵略に対する調査と賠償を急がなければ、調査し、謝罪し、損害賠償する機会を失う恐れがある。彼らが生きているうちに日本政府の責任ある対応がぜひ必要である。 

特にマクア語を話せる最後の老人アルフレド・ドス・サントスさんに対し日本政府は早急に面会し日本軍の与えた損害(見張りとしての労働対価)を調査し謝罪し損害賠償を行うとともに、マクア語民衆の家畜の殺害と食料化による日本軍の略奪の実態調査を行い、謝罪・損害賠償をおこなわねばならない。

 このことは東ティモール全体に対する日本政府の実態調査・謝罪・損害賠償の基本方針の確立が問われていることを意味する。

 しかし基本方針確立の議論の開始と平行して、3老人への実態調査を開始しなければ、誠意あるマクア語を話す3老人への対応の時間を失うのである。

 日本人の倫理の根本が試されている。

一応、ここまでHPの内容を転載しました。大日本帝国・日本軍の加害歴史というのは奥深く、そしてとてつもなく罪深い。日本軍が深い理由もなくアジア・太平洋諸国に攻め込み、占領し、惨たらしい酷政を強いて、占領地の民衆を虐げた、大日本帝国・日本軍の加害がマクマ語という少数言語を滅ぼそうとしている。こういう細かい事例はまだ研究されてないだけで、大日本帝国・日本軍が植民地支配したり、占領したりした広大なアジア・太平洋地域には陽の目が当たることがなく、埋もれているに違いない。こういうときこそ、海外の旅行者や在住者が現地の大日本帝国・日本軍の占領時代の古老から話を伝えたり、自発的に集め回ったりするそういう草の根の歴史研究が重要となってくるとつくづく感じる。大日本帝国・日本軍の残っている戦史叢書といった公文書、戦記、今いる日本軍兵士の話やメディアの輪から外れ、陽の目が当たることなく埋もれた加害歴史の事実を掘り起こす上で不可欠なものであり、今後もこういう活動を日々の仕事の忙しさに負けることなく続けていなければならないとつくづく感じます。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:43 | Comment(1) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月22日

大日本帝国・日本軍が朝鮮人や台湾人ら、植民地(かつての支配地域の人々)を"日本人"として利用し、戦後"日本人"ではなかったとして切り捨てた問題について・・林博史著、BC級戦犯裁判、岩波新書より

まあ、タイトルの通りです。
ところで、裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著は私の心のバイブルだったみたいなものですが、ずっと前に親戚の子に貸していたのですが、、親戚の子がなくしたらしく困っています。暇ができたら、シンガポールやマレー半島の華人虐殺事案について書きたかったのですが。
一応、もうひとつの岩波新書からでた林博史著のBC級戦犯裁判をもっています。こちらはイギリスだけではなく、連合各国の戦犯裁判の各部に加えて、林博史独自の男性と女性のジェンダーの観点などいくつもの側面からの視点も加えて、コンパクトにまとめてあります。書評などを書きたいのですが、私にはそうする時間が取れません。
今は朝鮮学校に高校実質無償化問題や在日コリアンの方々が中心となる外国人参政権の問題といった民族問題で日本社会は揺れています。そもそもこれ自体が争点になることがおかしく、当然のこととして、実行されていなければおかしいことです。そもそもこういった問題に異論がでること、異論の存在、在日外国人参政権に反対とかいう意見を言うもの存在そのものが日本社会において認めてはならないのだ。ドイツのように民衆扇動罪で逮捕されることはもちろん、そうでなくても社会的に、政治的にそういう右翼勢力は抹殺し、ネットを含む表層には、些かたりとも出てこられないような良識的な社会にはなっていなければならないのだが、現状はそうではない。
過去の加害の歴史を日本人1人1人が認識していないこと、それを突き詰めれば戦後、日本政府や日本社会が過去の国の加害の被害者や犠牲者に対して真の意味での十分な謝罪や賠償を行っておらず、向き合ってこなかった、戦争責任、侵略加害責任や戦後責任に向き合ってこなかったことにつきる。
それらを何度言っても仕方がないことだが、こういう様々な意味での民族問題や外国人問題が民主党政権下において今この時期において特に顕在化してきています。在日コリアン・外国人、彼らが負う心および歴史的な痛みを理解する一助となれば思い、朝鮮人や台湾人ら、植民地(かつての支配地域の人々)を"日本人"として利用し、戦後"日本人"ではなかったとして切り捨てた問題について林博史著、BC級戦犯裁判、岩波新書からまとめたいと思います。

戦争犯罪の定義云々については私が裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著をもとに書いた下記の記事においてまとめられているのでご参照ください。

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/16966486.html
裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17242931.html

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part3―戦犯裁判に関する問題点
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17518766.html
裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part4―総括とまとめhttp://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17825025.html

続きを読む以降をクリックしてお読みください。続きを読む
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 12:56 | Comment(46) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月05日

戦争中に友人を日本軍に強姦されたフィリピン人祖母

国境を越えて@山陰 (3)国際結婚
http://mytown.asahi.com/shimane/news.php?k_id=33000001001040003
 
◆不安支える 家族愛/妻ら腕組み 自助グループも◆
 

 陽気な音楽が流れるJR松江駅近くのたこ焼き店。強風にはためく赤いのぼりに雪粒がはじける。開け放たれた売り場に立つ錦織ジャマリンさ
ん(34)は分厚い上着を羽織り、夫の宏明さん(53)と2人で店を切り盛りする。南国フィリピン育ちだから山陰の寒さはつらい。子どもが生まれる前は毎
冬3カ月間は帰省していたという。

 13歳と6歳と4歳の3人の子どもがいるから、洗濯物は毎日てんこ盛り。仕事の合間に帰宅して夕食の準備もしなければならない。でも「今が一番幸せ」という。「お父さん(夫)と2人のときはさびしかった。今は子どもがどんどん増えて、フィリピンの家族みたい!」
 大岡昇平の「レイテ戦記」で知られるレイテ島で、兄弟6人の大家族で育った。大都会にあこがれて16歳で首都マニラに出てダンスなどを学び、エンターテイナーとして来日した。

 飲食店の客だった20歳年長の宏明さんは、言葉が通じなくても身ぶり手ぶりで思いを伝えてくれた。デート後には、日本語を読めないジャマ
リンさんのために「TANOSHIKATTA(楽しかった)」などとローマ字で手紙を届ける。言葉がわからなくて毎日不安だから、小さな気遣いがうれし
かった。今でもバレンタインやクリスマスには「いつまでも愛してる」といったメッセージを交わす。

 結婚して子どもが学校にあがってからは、日本語が不自由なジャマリンさんのため、学校の授業参観も付き添い、教師の言葉を耳元でゆっくりくり返してくれる。
      ◇
 だが、夫が会社員の場合は同様の協力は望めない。
 森桜ジャネットさん(41)はレイテ島近くの島で育ち、マニラをへて1992年に来日した。まもなく14歳年長の男性と結婚した。戦争中に日本軍に友人が強姦(ごう・かん)された経験をもつ祖母は猛反対だった。

 やさしい夫との生活は順調だったが、子どもが生まれると壁にぶつかることが増えた。子どもを病院につれていっても、看護師の説明が理解で
きない。氏名や住所をローマ字で書くと、けげんな表情をされる。「どうしたらいいかわからない。一緒に来てよ」と会社員の夫にぶつけると、「仕事だから無
理だよ」と言われる。「日本人は仕事ばかり!」と腹を立てることもしばしばだった。

 07年、森桜さんら県内のフィリピン女性約70人が自助グループ「松江ピノイ・カピットビスィグ」を結成した。「フィリピン人は腕を組も
う」という意味のタガログ語だ。県などの助成金を受け、日本語教室やパソコン教室を開いている。「学校の先生の手紙を読めるようになった。パソコンで漢字
の読み方を調べられ、年賀状もつくることができる。とっても役立ってます」と森桜さんは話す。

 錦織ジャマリンさんも教室に参加して平仮名が読めるようになり、たこ焼き屋のチラシをパソコンでつくって夫を驚かせた。だが、09年は活動への助成金がなくなり、受講中に子どもを預ける託児コーナーを設けられなくなった。ジャマリンさんは教室通いをあきらめた。
      ◇
 ジャマリンさんは、長男が結婚して孫ができたら、フィリピンのように3世代一緒に暮らしたいという。でも日本人の若者は親との同居を嫌が
り、老人は施設に入所すると聞いている。同居が無理ならフィリピンに帰ろうかなあとも思う。長男にそう伝えると「そんな(同居を嫌がる)奥さんなら結婚な
んかしないよ!」と言ってくれた。

 ちょっとだけ、頼もしく思えた。(藤井満)

日本人男性がフィリピン人女性と結婚したという国際結婚関係の記事ですが、強調したいのは太字で赤字の部分です。こういうところにも大日本帝国・日本軍の加害情報がでてくるんですよね。私なら、ジャネットさんの祖母に今すぐにでも会いに行って日本軍のフィリピン占領の実態や強姦されたという友人についての具体的な話を聞きたいくらいですから。こういう民間の個人レベルの大日本帝国・日本軍の加害情報というのは記者にインタビューされて滅多に新聞やメディアに載って陽の目をみることはありません。教科書に記載されることもありませんし、ブログ等でもなかなかみませんね。朝日新聞の記者にはもっと掘り下げてその祖母の方にまでインタビューして欲しいものでした。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:21 | Comment(1) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月27日

北朝鮮に核技術を持ち込んだのは天皇の隠し資産管理会社?

天皇の隠し資産管理会社が北朝鮮に核技術を売った
http://alternativereport1.seesaa.net/article/136140820.html
こんなブログ記事を発見した。

>天皇一族が、第二次世界大戦中、中国・朝鮮半島で略奪した富。

>その天皇一族の犯罪の証拠=隠し資産を管理するイスラエルの軍事商社

>この商社が、北朝鮮に核兵器技術を売っている。

>この軍事商社のアジア支店の本拠地の住所を公開。


>詳細は、メールマガジン版オルタナティブ通信、11月バックナンバー。


ということらしいですね。

天皇一族は大日本帝国・日本軍の侵略戦争および植民地支配で中国や朝鮮などの占領地において民の生き血を啜り、死肉を喰らい富を掠奪した。戦後も戦争責任を問われることなく、天皇一族は資産を各被害国・地域に返還せず、イスラエルの軍事商社に預けている。この隠し資産を元手に運営している軍事商社が北朝鮮に核技術を売っているということでしょうか。

拉致被害者家族という生物は天皇一族に対して怒るべきではないでしょうか。家族を拉致した北朝鮮を支えているのは天皇一族のの隠し資産というわけで、根源には天皇一族がいるという事実。
あろうことに、拉致被害者家族という生物はイスラエルを支える米に媚びて、右翼陣営に迎合する。改めて拉致被害者家族は心底腐りきった生物だと思えてきますね。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:36 | Comment(2) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

インドネシア:マルク州西南東マルク県セラル島リンガット村における日本軍

インドネシア文化宮さんのところで読めます。
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html
 マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html
マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html
マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html
マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html
マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html
マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html
マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html
マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html
タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html
タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html
タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html
戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

一見、夢溢れるバカンスの南の島という感じもしないではないですが、とてつもない悲劇の歴史の傷跡を背負う島なのです。右翼連中は都合の悪いことをみない機能的文盲連中ばかりなので、それらの中から日本軍の占領や日本の戦争・戦後責任に関するところを中心に抜粋していきたいと思います。

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.htmlより
終戦記念日の前日(2007.8.14)、マルク州西南東マルク県のセラル島のレミャン海岸に立った。ここは、日本軍が連合軍と対峙した、正真正銘、“最前線”だった。南の方角にはオーストラリアのダーウィンが位置する。レミャン海岸に夜間上陸した日本部隊は、陸路、東海岸に面するリンガット村に進駐した。リンガット村で、“戦後”が訪れていないことを実感した。陸地、海岸、そして海中に投棄された多量の弾薬と兵器。「村は破壊され、連合軍の爆撃で約200名の村人が死亡した。そして村のおよそ50名の若い女性が慰安婦として強制的に性の奴隷となった」と、現村長のユスフ・サンボヌさん。
これが悲劇の概要です。未だに戦後が訪れていない日本軍の被害にあった地域がたくさんあるという事実を理解すべきですね。

リンガット村のユスフ村長。「私たちに戦後は未だ来ていない。戦後賠償ができないことは分かっている。しかし、日本軍の最前線として、強制的に協力させられた村のことを少しでも思い出して欲しい」
被害を受けた側の人間が「日本は戦後賠償できないということができないということは分かっている」という現実、胸が張り裂けるほど痛いです。
マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html
悲劇の舞台である西南東マルク県のあらましについて書かれています。地理的なことからアラブ人に支配されていたところから香料を求めてヨーロッパ勢力がやってくるまでの概要など、そして東ティモールとオーストラリアと関係を結んで経済を引き立てようとするような計画のことまで書かれています。で、日本軍に関するところは

タニンバル諸島は、かつて太平洋戦争の時代、日本軍にとって、連合国と対峙する“最前線”と位置づけられていた。このため、今日のMTB県の主要な島に、その地元住民数並びに農水産能力とは不釣り合いな規模の日本兵が駐屯した。また、日本軍の“最前線”はそのまま連合国軍の“最前線”をも意味し、その結果、海上・航空能力で優った連合国軍の攻撃を受け、多数の地元住民もその犠牲者となった歴史がある。疑心暗鬼が軍と住民双方に生まれやすい緊張感に包まれた最前線。この結果、後述するが、日本軍による地元住民の大規模虐殺事件もMTB県の一角であるババル(Babar)島で起きている。
の部分です。
マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.htmlより

セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。日本軍兵士による虐待は、それは酷いものだった。多くの女性が慰安婦にさせられた」---マルク州MTB(西南東マルク・Maluk Tenggara Barat)県の現県知事で、セラル島出身のビット・テマール(Bitto S Temmar)さんが語る。
「当時、私の父はセラル島のナムタブン(Namtabun)村の村長だったが、日本軍から村の若い女性をサムラキ(Saumlaki)へ送れと。そこで、父はお婆さんを送ったんだね。そしたら、怒った日本兵は、父の指の間に鉄棒を挟んで縛り上げたそうだ。父の世代は、私たち次の世代にそれらの話を伝え、そしてトラウマは引き継がれた。なんでも日本は戦後賠償をしたそうだが、それらの賠償金はすべてジャカルタへ行ってしまった。地方には何も来なかった。是非、日本政府に伝えてほしい。私たちは何も謝罪を要求するつもりは毛頭ない。私たちが言いたいのは、突然やってきて、突然去っていった中で起きた事に関して、少なくとも戦後に関心を払ってくれても良かったのではないかということです。言い換えれば、社会のリハビリに対する可能な援助をしてくれないか、ということです。ここは“忘れられた島々(Forgotten Islands)”とも言われる地域ですが、“忘れられない出来事”があるのです」と。
また、戦争の賠償金や謝罪は要求しないと被害地域の住民に言わせている。戦後のことだけにでも関心を払ってくれと。私からすれば悲しいですね。ここの文で重要なのが、やはり慰安婦(性奴隷)の徴収に日本軍が関与していて、村の有力者に若い女性を慰安所に送れと強制していたところ。軍の関与がなかったとか、軍の強制はなく自発的なものだったと嘘の上塗りとセカンドレイプを続ける右翼勢力はとっとと死ねって。
インドネシアが独立して60数年。電気が入っていないばかりか、灯油の入手にも苦労するセラル島。小学校を卒業すると、村に残る以外に選択肢のない現状。テマール県知事は言う。「お金のことは二の次の問題です。まずは、思い、関心を持って欲しいということです。私が知っている限り、戦後、旧日本兵がセラル島を再訪したことはありません。私は、その昔セラル島に居ざるを得なかった、そうした旧日本兵たちが、あるいはその子孫たちがやってきて、今の世代と友好を築き上げて欲しいと願っています。援助ではなくても、旧日本兵の孫の世代が、この島に投資をしてくれないだろうか。例えば、電気の問題でいえば、太陽光発電などの技術を持ってきてくれると大変嬉しい。あるいは、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出してくれるとか、あるいは優秀な生徒を日本へ留学させてくれてもいい。終戦時、他の地域では、恨みから日本軍が攻撃を受けたこともありますが、この県の中で、セラル島やその他の島々にいた日本兵は、皆無事に祖国へ帰ることができました。そればかりか、実の兄は、日本兵に養子縁組される直前まで親密な間柄だった。時代が残虐性をもたらしたが、一時期とはいえ、日本人と地元民との間に、うまくは表現できないが、普通では考えられない友好や友情があったことも事実です」

サムラキ市内で、日本軍支配時代を知る少なくない人々から「セラル島は、今の県知事もそこの出身であることからも分かるが、勤勉で高いディシプリンを持った住民が多い。それは、日本軍が残したものであることは間違いない」との話を聞いた。連合軍と対峙する、正真正銘の“最前線”であったセラル島。サムラキから40馬力のエンジン2基装備のボートで出発。ヌス・タブン(Nus Tabun)島とマトゥクス(Matkus)島の間を抜けて、アンワール・マス(Angwar Mas)島を右手の見ながら約2時間。セラル島の中央付近のくびれ部分の北岸にある白浜(レミャン海岸)に到着。そこで、オジェック(オートバイタクシー)が来るのを待つ。浜の沖合、そして陸上の到る所に、日本軍が投棄した弾薬や機材が眠っているという。
多大な苦痛を与えたのにも関わらず、誰一人やってこない無事に祖国に帰れた元日本兵。過去の侵略・加害について無関心で、そういう小さな島一つの過去の出来事すら関心を向けようとしない日本政府。十分に戦争犯罪を裁ききれず、戦争責任の精算ができないまま大日本帝国の残滓が温存されたままの日本社会、大変腹立たしいものです。
レミャン海岸から十数メートルの場所には未だに旧日本軍が投棄した弾薬や機材が眠る。ここは、掘り返された跡。地元民によれば、アンボンで宗教抗争が激しかった頃、手製爆弾を作るための材料として、この場に埋まっていた弾薬などが持ち去られたという。連合国との戦いの最前線に蓄積された日本軍の弾薬が、半世紀以上も経て活用されようと誰が想像できよう。レミャン海岸のずっと東に位置するナムタブン村では、2003年、沖合から打ち上げられた旧日本軍投棄の迫撃砲弾のような形をしたものを、魚料理の焚火の脚として使用し、爆発、二人の村人が亡くなった。いまだに“大東亜戦争”の遺物が村人を苦しめている
戦後不当に投機された日本軍の兵器類が今尚住民の前に現れては傷つけるという点で、中国で問題になっている日本軍の遺棄化学兵器の問題に似ていますね。マーシャル諸島のほうでもそういう事例があり、戦後補償裁判で取り上げられています。日本軍が占領時代に行った加害ばかりに目を向けることは大切ですが、不当に投機された兵器類が現れて現代も住民を傷つけているという現在に現れた加害にも目を向けていかなければなりません。

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html
セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。ユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長(36歳)が語る。
「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村人は巻き込まれてしまった。連合軍の爆撃でたくさんの家屋が破壊され、焼かれた。日本兵による拷問で死んだ村人もいたが、少なくとも200名近くの村人が連合軍の爆撃に巻き込まれて亡くなった。村の墓を見てください。一目瞭然です。それから、村の若い女性たちが性暴力の犠牲者となった。その数は約50名。日本軍によって強制的に性の奉仕をさせられたのです」
リンガット村ではあの“先の不幸な大戦”が終わっていないような錯覚にとらわれる。到る所に“戦争”が残っている。日本から赤道を越え、5千キロ以上もの長旅をして運ばれてきた、日本軍の武器・装備が残骸となって視線に飛び込む。
「繰り返して言いますが、私たちは罪のない犠牲者です。人間としての威信を傷つけられた女性たち。そして意味のない軍票で強制労働に従事した男たち。傷はいまだに癒えていません。どうか、傷を癒してくれませんか。どのようにしたら傷が癒えて、私たち村人に、本当の戦後が来るのか、考えてもらいたいのです」とユスフ村長。
村長の悲痛の叫びが聞こえてくる。勝手にやってきて、最前線に関係のない村を巻き込んだ日本軍。て村の若い女性たちを集め、弄び、性奴隷にした罪や強制労働や拷問で村人を苦しめたこと、連合軍の爆撃に巻き込んで罪は許されるもんではない。その傷は今もなお癒えていない。このような悲痛な小さな村の叫びが右翼や日本政府に届く日は来るだろうか。
村では、旧日本軍が残した武器・装備などを一か所に集め『戦争博物館』を建設する計画を持っている。付近の珊瑚礁の海底や砂浜の地中に投棄された装備なども回収したい考えだが、多量の弾薬や武器も一緒に捨てられているため、その回収は困難だ。「戦後、一人として日本人がこの村に来たことはない。ただし、日本兵の血を引く村人はいますがね(笑)。日本軍にとって最前線だったこの地に戦争博物館ができ、そこで平和の尊さを感じることは大切なことだと思います。日本の方で、建設に協力してくれる人はいないでしょうか?」とユスフ村長。、
 取材中、乳飲み子を抱いた30代の女性が近づいてきた。「まだ生きているけれども、私の母エマは終戦間じかに、日本兵の“サノ”とアディテナお婆ちゃんとの間に生まれたの。だから私はサノの孫ね」と。
戦後、この島に来たのはこの記事の筆者一人だけだった。こういう小さい大日本帝国・日本軍の占領被害の現場にももっと着目して事実を掘り起こしていかないといけないと思います。

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html
日本軍によって“最前線”基地が築かれたため、連合国軍の爆撃で200名もの村人を失ったリンガット村(ユスフ村長談)。サンゴが作り出した真っ白な砂浜。そしてコバルトブルーの海。光景はまさに“南の楽園”のような、この美しい小島に、島の人口と比べて不相応な数の日本兵が駐留した。“日本軍支配時代”の残像がまだまだ生き続けているリンガット村。60数年前から時が止まってしまったかのような空気が流れている。日本の軍歌を昨日習ったかのように、見事な節で歌い上げる古老たち。一時期の駐留とはいえ、村の歴史は日本軍無しには語れない。家々の庭に置かれた旧日本軍の赤錆びた鉄の塊は、黙して語らないが、村人の心の髄に、あの大戦の記憶が刻み込まれている。あの戦争は未だ終わっていない、と言うユスフ村長の言葉には、入村儀式を経ることもなく、いわんや招待状も無しに突然村に進駐し、悲劇だけをもたらして、そして潮が引くように去って行った“日本”に対する積年の思いがある。

「2,003名のリンガット村を代表して“日本”にお願いしたいことがあります。まず第一に、家々の周囲用のレンガの柵を造るための援助は期待できないでしょうか。レンガとセメントの提供を受ければ、作業は村人が行います。次に、日本軍が残した物を集めた戦争博物館の建設に協力できないかということです。博物館と言っても、簡易なもので十分です。第三に、村の伝統・慣習ハウス(Rumah Adat Desa)を建ててくれないかということ。そして、第四に、およそ10kmの長さの海岸線の浸食を防止するために、何か防止装置のようなものを考えてくれないか。最後に、電気ですが、この村にも島の東端のアダウト(Adaut)から電線はきていますが、ほとんど機能していません。可能ならば2万ワット規模の発電機もしくは太陽光発電装置の援助はしていただけないでしょうか。あれやこれやお願いが多いのですが、私たちが戦後を迎えられるよう、そして村人があの戦争から真に癒されるように、是非とも願いを聞いて欲しいのです」---ユスフ村長からのメッセージだ。
悲しいながら要求が随分と小さめで、太陽光発電といったインフラ設備なのの未来のことが中心だ。ただし、その小さな要求すら耳を傾けようとしない日本政府。ただし、その要求だと日本の商社や外務省の喰いものにされるだけだと思う。過去の謝罪及び補償、並びに調査団の派遣や加害の全体像を明らかにし未来永劫に子孫代々に教育することを日本政府に誓わせるなどもっと過去を取り上げた大きい要求でなければならない。それが大日本帝国の残滓に病んだ日本社会に対する薬にもなる。そう考えると非常に残念でならない。

 マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html
 日本軍が進駐した時8〜16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。

 まず、日本軍は1942年3月に、一大隊規模で、セラル島の北岸のレミャン海岸に夜間上陸した。そしてリンガット村を始め各村へ移動。リンガット村では教会を本部として使用した。(海軍か陸軍かは記憶が曖昧だが)ナカムラ部隊は、自転車、戦車、トラックなどの四輪車を持ち込んだ。
 リンガット村西方の滑走路は1942年に建設を開始、その年、日本軍機が飛んできた。建設には村人が強制労働で駆り出された。日本軍は直ちに学校を作り、日本語や君が代などの歌を教えた。村は、連合国軍の爆撃を何度か受け、200〜300名の村人が亡くなった。日本軍の軍医も、その爆撃で死んだ。彼の墓は今でも残っていると思う。
敗戦後、日本軍は1945年9月頃、島を去った。武器類は、この近辺で地中に埋めたり、焼いたりした。弾薬の多くは海中へ投棄した。レミャン海岸の海中と浜の地中には、たくさんの自転車、戦車、そして銃、迫撃弾、100kg爆弾などが捨てられた。リンガット村東方の北海岸の村ナムタブンでは、2003年、日本軍が残した、そういった弾薬類とは知らずに、迫撃砲弾のようなものを、村人が魚を焼くための焚火の脚として使用し、それが爆発して二人死んでしまった。
何年か前に、地中から日本軍が埋めていった鉄製の箱が見つかった。その中には、(日本語だから)読めないドキュメントが詰まっていた。しかし、ほとんど腐っていたため、保管せずに捨ててしまった。
リンガット村に駐留していた部隊は:「ニシハラ部隊」そして「ナカムラ部隊」だった。二人の部隊長以外で、まだ記憶している日本兵の氏名は:「ヒロハタ」、「サイキ」、「コタケ」、「ミソベ」、「イレシド(イシド?)」、「スギタ」、「オイダ」、「イケダ」、「サノ」など『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、第5師団(別名:鯉師団、司令部はケイ島のトゥアル)の歩兵第42聯隊(司令部タニンバル、リンガット?)の隊長は「西原修三大佐(43.7〜44.3.1)→吉川章大佐(44.3.1〜)」とある。現住民が言うところの「ニシハラ部隊」とはこの「西原修三大佐」指揮下の部隊と思われる。
以上、リンガット村へ日本軍が来たいきさつのまとめという感じですね。この記事には実際の占領時代経験者からインタビューをされています。その中から2人ほど抜粋

ウルバヌス・ランコラタットゥ(Urbanus Rangkoratat)さん(73歳)
@「日本軍が来た時はまだ子供だったから、日本軍が開校したSR(Sekolah Rakyat・国民学校)に3年通った。私の日本人の友人はタラダだった。私は何も仕事というようなものはしなかった。だって“kodomo(子供)”だったから。いつもいつも、タラダと遊んでばかりいた。SRの教師はインドネシアだった。歌は日本兵から習ったけれども」---と言うや、ガスパルさん同様に一気に歌い上げた。
見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ
『愛国行進曲』だ。「私は日本兵士が好きだった。なぜなら生活は悪くなかったし。。。」「しかし、父親は連合軍の空爆で死んだ。空爆ではこの村で300人近くが死んだ」
A「日本軍がいたために村人が失った財産を弁償してほしい」
ルカス・ララットマセ(Lukas Raratmasse)さん(75歳)
@「いわゆる苦力(クーリー)みたいな手伝いをした。主に魚獲りをした。でもある日、魚を隠したと誤解され、日本兵から叩かれたこともある。実際はそうじゃなくて日本兵のために保管していたのに」
A「村人が失った財産分の賠償金を支払ってもらいたい」
村長は日本政府に補償は求めないといいつつも、村人は失った財産の補償を求めているのです。その村の補償や謝罪の要求有無以前に、日本社会は補償だけではなく、謝罪にも被害の調査などの過去の清算に取り組む義務があるのです。セラル島のリンガット村のような小さなところを含めて、大日本帝国・日本軍が被害を与えた地域の隅々まで。現にそれだけのことをしても、未来永劫謝罪を続けても償いきれないほどのことをしたのだから。リンガット村をはじめとする広大な大東亜共栄圏の隅々に至るまで徹底的に血と屍のキリングフィールドの大地に変えていったのである。その蛮行は人類が地球上に誕生して以来、歴史上例のないものだったのだから。
さておいて、大日本帝国・日本軍の占領地域の戦争体験者の証言・オーラルヒストリーを集めることは即急に進めなければならない課題である。歴史上例のない大日本帝国という最厄(災厄)を未来永劫伝えていくために必要な作業である。私個人としては女性、とりわけ性暴力被害者のインタビューも聞きたかったところ。性奴隷以外に一個大隊もの日本軍が駐屯していたリンガット村で強姦事件はなかったのかとか、セラル島の他の村はどうか、他の島々はと気になるところである。一つ分かったことがある。やはり慰安婦の徴収に軍の関与があり、村長らに若い女性を集めさせて性奴隷にしていたという事実。当時の村長も女性たちを性暴力の被害者と捉えており、自発的に応募したとか、村人が集めて商売として自発的に女性を集めたとか嘘を上塗りを続ける奴はいい加減にしろと言いたい。

マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.htmlのババル島事件の話でも裏付けられていることである。
農産物やヤギなどの家畜といった食糧とともに、各村に対して兵士の性奉仕のための女性を供出するように割り当てている事実が明らかになっており、複数の地域にまたがていることも明らかになったのだから、嘘の上塗りは許しません。リンガット村のような小さなところを含めて隅々まで大日本帝国・日本軍の加害の事実が明らかにされ、謝罪や補償を含む過去精算が被害にあったすべての地域の隅々に至るまで、米粒一つ足りの穴を残さないほど徹底的に行われることを望みます。以上
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バハル島事件の追記

バハル島事件で新しい資料を発見しました。ババル島事件というのは、1944年の大戦末期におきた日本軍による大規模な住民虐殺です。

ババル島虐殺事件
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/22899657.html
ですが、真実はもっと凄惨で理不尽なものだったとのこと。虐殺人数も700人どころではなく、1000人近くにまで及んだこと、『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修のババル島事件の項には、煙草や食糧の不当な代価による供出強制や現地習俗に対する日本軍の理解不足による暴行などが原因だとされていますが、エンプラワス村での事件の発端となったのは日本軍が未婚の女性や若妻を性奴隷として差し出すように要求したことで、村人たちは村の女性たちの尊厳と威信にかけて戦いを挑んだのです。
インドネシア文化宮さんの
 マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.htmlのババル島事件の調査を行っているMTB県副知事のバルナバス・オルノ(Drs. Barnabas Orno)さんのインタビューを抜粋
『実を言うと、エンプラワスという名前の村があることは知っていたが、事件についてはまったく知らなかった。そして知らなかったから、本を書こうとも思っていなかった。少なくとも、1990年に今の妻とつきあい始める時までは。(エンプラワス村の)彼女の家で、当時はまだ義理の父候補で今は義父となった彼女のお父さんから、エンプラワス村で起きた日本軍による虐殺の悲劇に関して話を聞いた。義父は、その話をする時、幾度も言葉に詰まった。思い出して涙を抑えきれなかったからだ。なぜなら義父は実の兄弟や、両親そしてその他の村人たち全員が目の前で一斉掃射されたのだから』

『私は義父に尋ねた。1970年代、牧師が地元紙にエンプラワス村で虐殺された村人の数はおよそ700人と話したが、その通りか、と。義父は答えた。「700人程度ではない。なぜなら当時、エンプラワス村の人口は1,000人以上だったが、虐殺の後には100人も生き残っていなかった」と。私は時間をかけて、何度も、義父に知っていることを話すように仕向けた。全てのトラウマを吐き出して下さい、私はいつか事件について本を書きたいから、と頼みました。そして義父は最終的には全てを話してくれました。一方で、私は、事件について知っている他の村人たちから聞き取りを始めました。私の実の父の話も含めて。当時父はまだ子供だったけれど、人から聞いていた』

『父の話によれば、エンプラワス村のティウィ川で虐殺がまさに行われるという時、ワクパパピ村長など、近辺のすべての村長が招待された。そして(日本軍は)この中に兄弟など縁者はいるか?と村長らに尋ね、指名された者は自由の身になり、その他の者は虐殺された』

『1991年、私と妻は結婚した。私は公務員になって、マルク州政府の社会局に入った。まだババルに住んでいた頃、エンプラワスの村人は“日本軍の残り” という言い方があった。残りなんていう表現は間違いだ。彼らは日本軍に抵抗した立派な独立闘争貢献者であり、このインドネシア共和国から占領者を追い払おうとした英雄行為を国は認めなければいけない』

『1996年に独立記念日の催しの一つとして、ケイ諸島のトゥアルでババル島出身家族会が催された。そこで、アイデアが出た。旧日本軍による虐殺事件に関してセミナーをババル島で開こうと。目的は、賠償云々を言う前に、占領者に抵抗した崇高な島民がいた史実を、インドネシアの中央政府が知らなければならない、という観点だった。インドネシアの独立闘争の中で、南東マルク県(注:後にババル島は西南東マルク県に入る)にあっても、ババル島のエンプラワスの貢献などのように、マルク人も、ババル人も貢献したんだという史実を表面化させようと。そこでセミナーのための委員会ができ、私は事務局長になった。そしてババル島でセミナーが実施され、そのセミナーの結果は中央政府に届けた。その時の願いは、賠償問題よりも、まずは政府が、占領者を追い出そうとした抵抗運動に正しい評価を与えるということだった。そして、もしも可能ならば、中央政府が、彼らババルの犠牲者に対する補償に関して、地元に代わって努力してくれないか、と。そのセミナーの場では、毎年10月に、事件を記憶するための慰霊の日を定めることも合意した』

『エンプラワスの村人が日本軍に抵抗した理由は、それは余りにも理不尽な課税と、それから人間の尊厳に関わる酷い要求の二つだった。大東亜戦争の中、日本軍は現地で食料を調達。軍票で支払うこともあったが、支払わないこともあった。それを村人は“税”と捉えていた。農産物を始めヤギ、豚などの食料供出を、各村々に割り当てていた。日本軍は、さらに、まだ未婚の女性や美人の若妻をイアンフ(慰安婦)にしようとした。村々から集められた女性たちは(注:陸軍部隊の本部があった)ワクパパピで選別された。さらにエンプラワス村に義務付けられた納税の一つはタバコだった。エンプラワスはババル島で最高の品質のタバコ産地だった』

『悲劇の始まりはというと、シノハラ(注:極秘報告書によれば、シノハラとは海軍錦隊の嘱託だった篠原と思われる。シノハラがエンプラワス村にやってきたのは1944年10月27日とされる)はイタリアと言う名のスパイらと共に、慰安婦候補探しとタバコの調達の二つの用事で村にやってきた。村人は税のことは分っていた。供出物資の事は承諾していた。プロテスタントの牧師の家にやってきたシノハラは、村長らを呼び、そこで、要求を突きつけた。元々はこれぐらいと言っていたのに、今後はこれぐらい増加でタバコを供出せよと、酷い増量を求めた。村人は納得できない。さらにシノハラは娘と美人の人妻を出せとも要求した。イアンフ候補を急いでセレクションしろと』

『しかし、牧師や村長らは、それらの要求は呑めないと答えた。死んでも受け入れられないと。物資ならいいが女性は認めるわけにはいかない。タバコはいいが女性は人としての尊厳・威信から無理だと。それでトラブルになった。結果、シノハラとスパイらは村人に殺された。村人は予想した。シノハラらが帰らなければ、必ずや日本軍は報復してくるだろうと。これでは安全ではない。三日後ぐらいには日本軍が攻撃してくるだろうと。そこで、日本軍に抵抗しなければ、となった』

『当時の教会のデータによれば、当時エンプラワスは3つの集落で一村を形成、ババル島で一番大きな村だった。エンプラワス村長は近辺の村々に呼びかけて、一緒に日本軍へ抵抗しようと訴えた。尊厳と威信を守るため、日本軍と闘おうと。トゥトゥアワン村は同意。そしてマヌウェリ村も同調。アナルトゥール村も賛同。しかしココアリ村まで行った際、そこには日本軍のポストがあり、村人の計画は日本軍の知るところとなった。そこで、日本軍の襲撃前に、村人は山へと逃げた。エンプラワス村の家々はすべて焼かれてしまった』

『後日、日本軍は、使者を山へ送ったり、森の中に書いたものを貼り、村人に対して日本軍はもう怒ってはいない、和解したいから下山しなさいと呼びかけた。山にこもった村人たちは、夜のみ動き回り、食べ物を探し、苦しい生活を余儀なくされた。飢えで死んだ子供たちもいた。やがて日本軍の呼びかけを信じた村人の多くが下山を決めた。その時、日本軍は、これは和平なんだから、鋭利なものは持ってくるなと命令した。しかし100人ぐらいは山から下りなかった。和平はエンプラワス村近くのティウィ(Tiwi)川で行うと日本軍は言った。二陣に分かれて村人は山から下りてきた』

『下山した村人を日本軍は三つのグループに分けた。最初のグループは、抵抗などの虞のない男たち、女性そして子供ら。二つ目のグループは抵抗勢力になりそうな屈強な男たちで、彼らは後ろ手に縛られた。第三のグループは、長老や慰安婦候補の若い女性たち。日本軍はまず二番目のグループを最初に殺した。義父は当時7歳でそのグループにいたが遺体の陰で生き延びた。日本軍はまず強い男たちのグループを抹殺し、それから次のグループの番と考えていたようだが、最初のグループが殺されたことから、残りの村人が騒ぎ出し、その瞬間から誰彼問わず射殺を始めた』

『奇麗な水のティウィ川は血の川に変わった。子供らは上に放りあげられ、銃剣で刺された。助けてという悲鳴が響いた。義父は両親、兄弟が目の前で殺されるのを見た。死んでいようが死んでいなかろうが、川に投げ込まれた。妊婦の腹は銃剣で裂かれ、中の赤子まで刺された。義父の記憶によれば、初めの頃は20人ぐらいがまだ川の中で息をしていたとか。引き上げる前に、スパイ(注:日本軍に就いたインドネシア人)らは、死んだかどうかの確認をし、まだ息をしている者は、銃剣で息の根を止めた。やがて満足した日本軍はワクパパピへ帰って行った』

『私は、エンプラワス村で虐殺された人数は、700人程度ではないと断言する。いわんや日本軍が報告したような400人とう数値はまったく事実とかけ離れている。1,000人近くの数になる。私はそれら犠牲者の名簿を持っている。さらに慰安婦にされた女性たちの数やその設置場所に関するデータもすべて分っている。私は、すでに書き上げた内容をいつでも出版できる立場にいる。一方、賠償云々について私は発言する立場にはない。史実にどう向き合おうとするのか。そのことを日本に問いたい』
以上抜粋です。これがババル島事件の概要ですね。日本軍はアジア・太平洋の占領地各地でこの種の住民虐殺や戦争犯罪を犯してきたわけですが、矮小化されていて、実際のところはさらにで悲惨で筆舌に尽くしがたいものだったりするわけです。補償はもちろんのこと、調査団を即急に派遣して、アジア・太平洋の占領地で日本軍によって行われたあらゆる事象についてすべてを明らかにして、子孫代々若い世代にこの侵略加害の歴史を伝え向き合う義務があるわけです。
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2008年01月14日

(特にフィリピンにおける)日本兵による人肉食

もの食う人びと 辺見庸著 共同通信社にみる日帝悪part1 ちょっとした本書の感想とミンダナオ島における残留日本兵における人肉食の話
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/76192229.htmlで取り上げましたが、

http://blogs.yahoo.co.jp/hobb9313jpjp/8144302.htmlでは
  生涯を捧げたという、70歳に近いころまで働いたが二〜三年前亡くなり3日後には親も他界した。戦争の悲劇の一つの例である。

 もう一つは、「敗走する旧日本兵」 旧日本兵が人肉を食っていたということが、テレビで放映されていた。戦後軍部は戦争が終ったことを知らず山へ逃げ込んだ。日本兵は食料がなく住民を襲い人肉を食料にしていたという、それに反対するものは、殺されそうで兵隊の間にも不信感があり同僚も信頼されない状況であった。
 ある人は、せめてもの罪滅ぼしにフィリッピンにボランチチァを続けているという。この話は12年前の日記(平成5年10/23、10/24)からの抜粋であります。
ほかにも
食人文化ファイル0045 フィリピン敗残兵食人事件
http://shock.gray-japan.com/ura/can/file-0045.htmlでは

 日本は敗戦したが、敗残兵がフィリピンに取り残された。
その敗残兵が食人行為を働いていたと言う事実でる。

1946年10月、5人の敗残兵は、ある一家に食糧を奪いに入ったが、食料が無いのを知ると、父親の首を切り食べた。
1946年10月、7人の敗残兵が、ある一家に押し入り兄を連れ去る、後日、頭部のみ発見。

80人近くの人名が奪われ、敗残兵14人に死刑、終身刑が言い渡されたが、恩赦により日本に戻された。


なお、この食人の発生した地域には野生の鹿が多数生存していたという。
敗残兵は鹿を捕まえることができず、人肉に走ったのだろうか?
それとも、鹿肉より人肉の方が旨かったのであろうか・・・


尚、これほどの事件を一般日本人は殆ど知らない。
この事実は1993年にTBS、テレビ朝日が簡単に短い時間で報道しただけで、新聞にも発表されなかった。

放送されなかった理由として、あまりにも悲惨な事件であったこと、遺族会からのクレーム等である。
しかし、こういった事実はあったのである。


敗戦後、残留日本兵により人肉食があったが、やはり人肉以外の食糧はあったのである。この事例は辺見氏が取材したミンダナオ島のインタバス村での事件だと考えられる。

フィリピンとのビデオ交換プロジェクト
http://blog.canpan.info/ideaeast/archive/123
 元日本兵の方は、戦争が終わって60年以上、ほとんど戦争の時のことを語らなかった方が多いのですが。人生の終わりが見えてきたこともあり、今、戦争の体験を語り出しているのだそうだ。
その証言を、フィリピンの方が見たとき、当時の様子がフィードバックされる人もいたそうだが、日本兵も仕方なく戦っていたという被害者でもあるという事を言う方も出てきた。
そして、そのビデオを、元日本兵の方に見てもらうと。いままで、語らなかった事実を語り出したのだ。
それは、日本兵が、日本兵の人肉を食べたという話しだった。
昭和20年の6月〜8月が、当時のフィリピンにいた日本兵にとって最悪の時期で、総ての補給が絶たれ、軍隊内でも食料の取り合いが行われるようにもなっていた。そんなある日、アメリカ軍の基地に投降すると見せかけて、自爆テロをするという3人が現れたのだ。しかし、なんとなく、おかしいと思って、調べたら爆弾ではなく米が入っていて、どうもこの3人は、食料を持った上、アメリカ軍に投降しようとしていたようだ。
そんなことが、そのにいる辛い思いを共有している兵士にばれ、収まりがつかなくなったので、この3人の日本兵を殺すことになった。
その殺された日本兵の肉を、その部隊の何人かが、あまりもの飢えのために食べたそうだ。

同じ日本兵同士でさえも、人肉を喰いあう共食いの狂気。言葉がないですね。

カニバリズムについて
http://www1.odn.ne.jp/~ccb07360/sub/sub7.htm

日本兵による人肉食事件

1946年6月、フィリピンのインパソゴン村でその事件は起きた。村で評判の美人である若妻(20歳)が、日本兵に捕らえられ、刃物で切り殺された。日本兵は全裸にした女を、バナナの葉の上に横たえ、解体作業を行った。切り取った肉片とトウモロコシと雑草でスープを作って食べたということである。日本兵によって、同様な行為が、各地で行われた。(「棄てられた日本兵による人肉食事件」)
インタバス村、いや現在分かっている日本兵の人肉食も氷山の一角であり、フィリピン以外のほかの地域でもごく日常的に行われたというのですから、恐ろしいですね。

サンイシロでの聞き取り調査@−ICANのご協力を頂きました−
http://blog.bridgeforpeace.jp/?eid=490153
 
●LUCIO SAN JOSEさん、71歳
 「いつも走って、逃げて、隠れていたのを覚えています」。
そう切り出した妻のLUCIO さん。洗濯をしている時に日本兵が急に現れ、「殺される」と夢中で逃げたこともありました。食事の用意さえ、ままならなかったと言います。煙が出ると日本兵に存在がばれてしまうので、調理は見つからないよう夜に行うのが暗黙の了解でした。
 「だから、いつもお腹が空いていました」。
戦時中の為、食糧自体が不足し、日本兵にとっておいた食べ物を取られたこともあると言います。
 そんな逃避行の日々の中、彼女は父親を亡くします。家族で日本兵から逃げている時、事故で亡くなってしまったそうです。無我夢中で逃げ切った直後、父親がいないと気付いて来た道を戻ってみると、無残な姿で息を引き取っていました。それ以来、彼女が家族の責任を負う立場になりました。母親も、戦時中は何とか生き抜いたものの、戦後すぐ亡くなってしまったそうです。
 
 日常的に辛い経験をしていたと見受けられるLUCIOさんですが、最も怯えていたことは、日本兵にレイプされること。独身女性と分かると連行されることが常だったので、日本兵に見つかった時は子供を抱え、連れて行かれぬようごまかし通したと言います。
 「抵抗は出来ない。拒否すれば銃剣で殺されました。男性も連行されていく女性を助けることは出来ないのです。助けることは死を意味しましたから」

 1年位続いた日本兵の占領の中、日本兵が人肉を食べる場面にも遭遇したというLUCIOさん。その話の後、当時を思い出してしまった様子で、彼女が再び口を開いて語ってくださることはありませんでした。フィリピン人女性の足を日本兵が食べているところを、木陰から目撃してしまったというのです。
「思い出してしまった。本当にひどかった。二度と若い人に同じことを経験してほしくないと思っています」
日本軍による女性への性暴力の話と一緒に、人肉食がでてくるのですから、これほど怖ろしいものはありません。右翼からすれば、ただの証言であり、被害者と称するものが嘘をついているということになりますが、私の会社のフィリピン人の同僚からも聞きましたし、戦犯裁判の資料でも証明されている以上、疑いのない事実なのです。それにフィリピン人が嘘をつく必要性も無いわけですから、右翼の根拠のない言いがかりは、被害者や犠牲者の尊厳と名誉をさらに貶め、傷つけるセカンドレイプ以外のなにものでもありません。

中国でも日本兵のカニバリズムがありました。
脳を食った話 日本側の記録
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/nou.html
日本国内でいえば父島での人肉食事件や辻政信がビルマで英軍捕虜の人肉を食ったという話が有名、

パプアニューギニアではゆきゆきて神軍が有名ですが、日本兵は現地人を黒豚、白人を白豚などと称して喰っていたそうです。

ニューギニアで旧日本兵が行った残虐
http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.htmlでは日本兵による凄惨な数々の現地人への人肉食蛮行が繰り広げられました。人肉食の被害は現地人が名乗り出ているだけでも、1,867人です。強姦などの性暴力の被害もすさまじく、強姦5,164人以上、慰安婦12,718人に上っています。その後朝日新聞による続報もあってさらに人数が増えています。戦後50年以上経っており、パプアニューギニアというのは他の村落同士でコミュニケーションもとりづらく、通信手段もなく、被害が被害だけに名乗り出ない人などのことも考えれば、どれほど被害が惨烈を極めたことか想像できません。
日本兵による人肉食が一方で、大日本帝国の侵略戦争での必然でもあったと考えられるのです。明治維新以来、富国強兵の名の下、欧米の列強以上に侵略の欲望をむき出しにし、帝国主義路線をとり、一方で国内では天皇を中心とする恐るべき軍事的圧制体制を築きあげた。満州事変、日中戦争とアジア太平洋戦争に至る中で、さらに狂気を増し、占領地に出て行く兵士には恐るべき軍隊教育がなされた。理性と良心の微塵の欠片さえもない、人間を殺しても、女を強姦して殺しても、幼い少女の膣に銃剣でえぐり殺しても、人間的な感情など全く持ち合わせていない畜生道に堕ちるところまで堕ちた殺人マシーンにしたのである。戦況が悪化する中で、各地で補給が絶たれ、戦陣訓に縛られ投降すらできず、大本営から捨てられた殺人マシーンたちの成れの果てが現地の人々を女子供も関係なく殺して喰って、日本兵同士ですら関係なく喰いあう地獄絵図であったのだ。日本兵の人肉食という行為は大日本帝国の侵略戦争の狂気がエスカレートして極限までいった当然の帰結である。日本兵の人肉食という蛮行を否定するのではなく、そこまでの狂気に至らせた大日本帝国という過去の体制を憎むのが本来の筋ではないだろうか。右翼はその辺分かっていない。
ついでにですが、この前ですがフィリピン人の同僚が祖父(お爺さん)のことを少しだけ話してくれました。日本兵が拷問して殺した抗日ゲリラを殺して食ったという人肉食を目撃したという話を私は聞きました。将来、私がフィリピンに渡航することも視野に入れて、詳しく報告できたらいいと思います。
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2008年01月13日

ナウル共和国における大日本帝国の加害・・・軍隊のない国家(23)――ナウル共和国より

ナウル共和国における大日本帝国・日本軍の加害についてはこちら、

ナウル共和国における大日本帝国加害事実
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13729281.html
他の太平洋諸島の島々における加害情報も扱っております。

前田朗氏の[AML 17731] 軍隊のない国家(23)――ナウル共和国 より転載

前田 朗「軍隊のない国家(23)――ナウル共和国」法と民主主義424号(2007年)

目次

一 リン鉱石の島

二 憲法政治の構造

三 日本による占領

以下にさわりをご紹介。

* ***********************************


  日本軍は、一九四二年八月二三日、ナウルに侵攻した。二隻の艦船と九機の爆撃機による爆撃が行われ、翌日、オーストラリア側が降伏した。占領は八月二六日である。日本軍兵士三〇〇人が上陸した。西欧人はすべて自宅拘禁となった。八月二九日、南洋興発会社の七二人がナウルに到着し、リン鉱石採掘所の調査を行った(4)。

 ナウルは戦略拠点とされ、さらに日本軍が集中した。一九四二年一二月には海軍三〇〇人が加わって六〇〇人になり、日本人および朝鮮人労働者七〇〇人が送り込まれた。三〇〇人のナウル人を労働させて飛行場滑走路建設も行われた。

 ナウル人の生活は劇的に変化した。オーストラリア統治下では想像もできない厳しい強制労働につかねばならなかった。しかも、食料は一日あたり米二ポンド、牛肉十分の一ポンドしかなかった。日本人労働者も同じだったが、中国人労働者にはもっと少ない食料しか与えられなかった。滑走路は一九四三年一月末に完成し、日本軍機が飛来するようになった。二月二一日には連合軍による空襲で戦闘機一五機が大破した。

 ナウル人は国内で強制労働させられただけではない。一九四三年六月三〇日、日本軍はナウル人の強制移送のための選別を始めた。食料の豊富な島に避難するという口実であった。ナウル人は、日本軍が土地所有者を移送することによって土地を取り上げるのではないかと疑った。七月、ナウル人六〇〇人の移送が始まり、他方、六五九人の日本人がナウルに送り込まれた。八月一六日にも六〇一人のナウル人がトラック島(現在のミクロネシア連邦のチューク島)に移送された。

 日本軍は結局、一二〇〇人のナウル人をはるか遠くのトラック島に運び、逆に七〇〇人のバナバ人をナウルに送り込んだ。この強制移送は実に不可解なことであった。他方、占領期にナウルに送り込まれた日本軍兵士はのべ三〇〇〇人に及ぶ。

 ナウル人と入れ替えに送り込まれたバナバ人にとっても悲劇であった。バナバ島はナウルの東にある六平方キロメートルの小さな島(現在はキリバス共和国領)であり、ナウルと同様にリン鉱石の島である。かつては南洋の楽園であったが、第二次大戦の悲劇や、ナウルやフィジーへの強制移住のため、民族が破壊された。かつては一万人であったのに、現在は二〇〇人がバナバ島に住んでいるにすぎない(本連載次回キリバス参照)。

 日本占領期のナウルの人口構成については二つの統計が知られる。一九四三年六月一日の調査によると、日本海軍一三八八人、南洋興発会社七二人、朝鮮人を含む労働者一五〇〇人であり、以上の合計が二九六〇人である。西欧人二人、ナウル人一八四八人、中国人一八四人、その他太平洋諸島人一九三人。総計五一八七人である。

 一九四四年五月一二日の調査によると、日本海軍二八六七人、朝鮮人を含む労働者一三一一人、ナウル人を含む太平洋諸島人一四六三人、中国人一七九人で、総計五八二〇人である。

 強制移送に伴って、日本軍はナウルの家屋、学校、教会を破壊した。ナウル人は飢餓ぎりぎりの状態に置かれ、伝統的な生活様式そのものが破壊された。ナウル人の三分の二が強制移送され、トラック島で農作業を強制された。戦後、帰還できたのは七三七人だという。約五〇〇人が死亡したと推定される。このため戦後のナウル社会には世代間のギャップが生じ、通常の家族生活が成立しない有様だった。社会の存続にとって最低限の一五〇〇人しか生存できなかったのだ。

 日本人はナウル人を通訳として利用したが、ナウル人が熟達した通訳や教師になるような教育は受けさせなかった。日本が提供した教育は最低のものでしかなかった。オーストラリア統治期には、ナウルの学校教師はすべてナウル人であったし、教員として訓練を受けるためにオーストラリアに留学した者もいたのとは、対照的である。

 戦争末期、一九四四年には、ミクロネシアにおける日本軍守備隊は住民をさらに虐待するようになった。ポナペ、トラック、ロタでも虐待が行われ、オーシャン諸島とナウルでも虐殺があったといわれる。

虐殺、強制労働、強制移送、家や学校、教会などの財物の破壊、食糧難による飢餓など、蛮行と悲惨のオンパレードです。ナウルは地球温暖化の危機にありますが、すでに危機は50年以上も前にあったのです。ナウルの伝統や文化、そして民族の尊厳までも一かけらたりも残さず奪っていった侵略者・大日本帝国という存在がありました。今なお苦しんでいられる被害者の方もいられるでしょうが、何ら補償も償いもしない日本という国は一体なんなんでしょうね。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:58 | Comment(16) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月24日

"慰安婦"強制連行の鉄の証拠

コメント欄をみていると、ほとんどが荒らし右翼でしたが、中には懐疑主義者なる新右翼もいました。私も忙しい身で彼らの相手をしてはいられません。彼らが黙る一次資料を提示します。

極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2007/05/0705j0509-00001.htm
http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-4.html
極東国際軍事裁判において、各国が提出した公文書そのもので、従軍慰安婦の強制連行が決して、右翼が主張するでっち上げられたものだとか、狭義の強制連行を裏付ける資料はないというのが嘘だと示すものです。以下抜粋します。

【資料1】(PD5330/EX1702)  インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック

 日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告
 一九四六年七月五日

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所(official brot-hel)を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所(brothel)は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。
 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。
 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の盡力によって集められました。
 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合共三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。
 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。
 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。
 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。
 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

 バタビヤ 一九四六年七月五日
 ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク
 J.N.Heijbroek陸軍大尉
 蘭印軍情報部




【資料2】(PD5326/EX1701A)
 インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック  
 ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書
 調書
 本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。
 問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。
 答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。
 一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略)
 [証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた]
 答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。

 問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。
 答 それは私は知りません。
 問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。
 答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋(brothel)に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。
 問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。
 答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。

 (以下、略。現地住民や中国人、ヨーロッパ人らの大量逮捕、虐殺の話になる。)

【資料3】(PD5591/EX1794)
 インドネシア・モア島
 オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書  
 一九四六年一月一三日

 問 貴方の氏名、年齢は?
 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。
 問 貴方の所属部隊は?
 答 タナカ部隊ハヤシ隊
(略)
 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。
 答 私でありました。
 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は?
 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。
 問 何故殺されたのですか。
 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。
 問 誰がその殺すことを命令したのですか。
 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。
 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。
 問 誰が貴方の手助をしたのですか。
 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。
(略)
 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。
 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。
 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。
 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 六人です。
 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 五人です。
 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。
 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。
 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 八ヶ月間です。
 問 何人位この娼家を利用しましたか。
 答 二十五人です。
(以下略)


【資料4】(PD5770/EX1725)
 インドネシア・ジャワ島マゲラン
 イエ・ベールマンの尋問調書
 一九四六年五月一六日
 
 私は一般被抑留者としてムテラン(Moentilan)収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前は(略)。
 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲラン(Magelang)へ輸送され午後四時に到着しました。我々はテウグラン(Teogoeran)と称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。
(略)
 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼(brothel)に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠りましたが他は其通りにしました。私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。
 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。
 一九四四年二月の終り頃か三月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じされました。其処にはタキグチと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を根拠として事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士官や一般日本人に対して娼家を閉館して私達のために直に情況を改善して呉れました。
【資料5】(PD5806/EX1792A)

 ポルトガル領チモール(東チモール)
 ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書  
 一九四六年六月二六日

 一九四二年二月二一日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。
 日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所(brothel)に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。
 (訳注)この宣誓陳述書の中で、日本軍が族長に命じて、労働力を提供させたことなども述べられており、族長に強制して提供させる手法がとらえていたことがわかる。なおこの宣誓陳述書には、連合軍東南アジア司令部の戦争犯罪捜査将校とポルトガル領チモールの行政官のサインが付されており、ポルトガル当局が捜査に協力していることがわかる。
【資料6】(PD2772E-5/EX2120)
 ベトナム・ランソン
 ニェン・ティトンの口述書抜粋
 
 四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。(中略)私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。
(略)
 ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等/日本人等/が光安(Tienyen)に設けた慰安所(broth-el)へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。

 【資料7】(PD2220/EX353)
 中国桂林
 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」
 一九四六年五月二七日
 
 敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、略奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。長縄の秘書即ち鈴木華□(日本女性)は彼の行為を幇助し、更に甚しきは此の敵が楽群路に在った李子園に憲兵隊を設立し、(以下略)
 
以上、証拠抜粋終わります。各国の検察団が提出したもので、証拠書類として採用されているものだ。PDXXXX/EXXXという風にきちんと資料Noもつけられており、元資料に当たればきちんと検証できるものだ。ぐぅの音もでない鉄の証拠というべきところ。これをもってしても、氷山の一角ですらないことは明白。この資料の中にはグアムの慰安婦強制連行の事例は紹介されていない。インドネシア、東チモール、ベトナム、中国(桂林)と、これだけでも地域が広範にわたっているから、特定の将兵個人や部隊、業者などが勝手にやったことだと、決して特定の個人や対象に責任を帰すことのできません。日本軍の全体・組織としてのケダモノ以下の集団性暴力体質を示す証拠として、十分であろう。右翼どもはこれでもしらばくれるつもりだろうか。既にお前らの日本軍正当化および弁明史観はすでに完膚なきまでに論破されているのだ。日本軍の侵略・戦争犯罪の数々、とりわけ各地の女性を性奴隷にし、日夜やりたい放題、欲望の赴くままにやりまくった鬼畜のレイプ所業がヒトラーやポルポト、スターリンも真っ青の人類史上最悪のものだったということを認めるべきだ。日本軍がアジア・太平洋戦争中に展開した地域、例えば上記の資料にでてくるインドネシアやベトナム、東チモール、中国はもちろんのこと、それらの地域で日本軍占領時を生きた体験者、特に女性、お婆さんなんかに話を聞いたことある人がいれば分かると思いますが、日本軍占領の残忍・惨酷性、そして多くのお婆さんが日本兵によって性奴隷にされたり、強姦されたりなどの数々の性暴力を訴えるのに違いないと思います。そして、日本軍に性奴隷にされた女性、その他日本兵に強姦され、自殺したり、妊娠して憎い日本人の子供を産んだり、腹を蹴られ流産して深い身体や心にも一生消えない深い傷を負った女性の被害者や犠牲者がどれほどの人数に達するかを考えたとき、私は非常に寒気がします。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:00 | Comment(97) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月08日

新年祝賀記念!日本軍がアジアを解放したという右翼の恥ずべき、犯罪的な自慰史観をブッタ斬る!!!!インドネシアの事例を中心に、改めて大日本帝国・日本軍の侵略・加害事実を見ていきます。

まず、各国の教科書に日本軍の占領時代がどう書かれているのかみてみよう。
マレーシア、ミャンマー、フィリピン、インドネシアの教科書の日本
http://web.hpt.jp/ficus/newpage25-INNDONESIA.htm

マレーシアの「歴史の中のマレーシア」より。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まる
で自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座
を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ブルネイの「ブルネイの歴史」より。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 一九三八年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府
を打ち倒し、中国を手中に収めるためのものであった。また新秩序は、東アジ
アにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガン
は「アジアのためのアジア」であった。
―――――――――――――――――中略――――――――――――――――
 日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本
陸軍の宣伝が乱暴かつ横暴だったために、ブルネイの人々の歓迎を受けなかっ
た。クアラ・ベイトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強
いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視したもの達に対して行われた大
量処刑を目の前で見せられた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ミャンマーの「ビルマ史」より
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファ
シスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権
力を見せ付けたのは、日本軍のキンペイタイン(憲兵隊)である。憲兵隊が管
轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も
口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問さ
れ、さらには虐殺されたのである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 タイの「歴史学 タイ2」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。
タイ人グループの中には、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対する
ものもあった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 フィリピンの「フィリピンの歴史と政治」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フ
ィリピン人全体で一一一万人千九三十八人が戦死した。このなかには、戦場や
日本の捕虜収容所で死亡した兵士たち、また日本軍によって虐殺された市民(
男性・女性・子供たち)が含まれている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 インドネシアの「社会科学分野・歴史科第五分冊」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
 当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族に
歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれ
るだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、
日本がやってきてまもなく、次のような宣伝を展開したからである。
―日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネ
 シア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
―日本が「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
 その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、並外れた苦
痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころかインドネシア民衆を圧迫し、
摂取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超え
る、非人道的なものだった。資源とインドネシア民衆の労働力は、日本の戦争
のために搾り取られた。


もちろん、大日本帝国・日本軍の侵略や加害事実に当てる分量や表現の違いはあっても、日本軍の占領を侵略と捉え、憲兵隊などによって残虐な支配がされたとしている記述は各国同じである。どの国も日本軍による占領が前宗主国(インドネシアならオランダ、マレーならイギリス、フィリピンならアメリカ)以上に残酷で、より多大な苦痛を蒙ったとしている。
 
アジアの教科書に書かれた日本の戦争
<東南アジア編>
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/war/textbooks/asianwar/
をさらに見てほしいと思う。

 
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/war/textbooks/asianwar/indonesia1.htmlより抜粋
 その実態はおづであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代()のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシアの民衆の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。

農地造成のための場当たり的な森林伐採は、結局のところ、食料増産にはつながらず、それどころか逆に収穫は減少した。思慮を欠いた森林伐採は、土地の浸食と洪水の原因となった。浸食は土地の肥沃度を低下させ、灌漑に不可欠な水源をかれさせた。洪水は、稲作を破壊した。 
 そのほかにも、農業生産を減少させた原因があった。
ーー優れた農業技術を欠いたまま、農業が続けられていた。日本は、その国内で実施していたような、近代的農法の指導をしたことがなかった。
ーー日本軍政府は、軍隊の消費のために家畜を大量に殺した。その結果、家畜の数が次第に減少していった。しかし、農民たちには、田を耕すために、家畜が必要だった。
ーー民衆は、各自の庭でヒマを栽培することを義務づけられた。その収穫は日本軍政府に引き渡さねばならなかった。これは、オランダ東インド政府時代の強制栽培とどこが違うだろうか。結果的に、耕地は減少し、農民には田で働く時間が不足してきた。
ーー多くの民衆が無理やりロームシャ()(強制労働者)にされた。こうして、田を耕作する労働力が、しだいに減少していった。
 農業生産はすでに減少していたが、民衆は依然として収穫の80パーセントを、日本軍政府に引き渡すよう強制された。
 この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた
。飢餓の危機がいたるところで発生した。栄養失調で腹ばかりがふくれた。多くの人びとが死んでいった。道端や店先など方々で死体が目撃された。
 一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地時代には、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシア国内で加工することは、まだできなかった。
 その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、綿やシュロの繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことができない民衆もまたいたのである。
 
 もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人びとだった。彼らは田舎の出身で、多くは文字が読めなかった。もし教育のある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。
 そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕が、いまでも残っている。カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのは、その一つだ。
 ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林で働かされた。それどころか、例えばマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、国外で労働させられた人びともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だった。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その仕事だった。それとともにロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。かららが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼らの健康は、配慮されなかった、衣服は満足に配給されなかった。彼らは食糧を与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカ()の粉の粥だった。それも1日1回であり、量もきわめて限られたものであった。
 その結果、何千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることがなかった。彼らは、働かされていた森林で世を去ったのだ。
 この事実を目にして、多くの青年たちが村々から姿を消した。彼らは、ロームシャにされることを恐れて逃げたのだ。もちろん、これは地方の農業に悪い影響をもたらさざるをえなかった。その結果は、どのようなものだったのか、いうまでもないだろう。


おのずと理解できただろう。日本軍占領がいかにインドネシア人を苦しめ、蹂躙したのかを。インドネシアは日本軍のアジア解放論で最もよく持ち出される国だが、とんでもないことがわかる。インドネシア人は日本軍によって最も協力させられたあげく、食料を供出されて餓死し、ロウムシャとしてヘイホとして扱き使われて捨てられ殺された(虐殺といっても過言ではない)のである。
 
教科書だけではわからないので、実際にインドネシアに滞在したブログやサイト管理人の文を参考にします。

 
刺龍堂ブログ
http://shiryudoh.blog.ocn.ne.jp/ron/2006/01/style_of_asian__3.htmlより
 
スマトラの人々は非常に親切でした。どこに行ってもご馳走してくれるし、気にかけてくれる。そんなインドネシア人と日本人の僕という間柄でしたが、過去に国同士では、暗い歴史があります。
ガライ・シアノッというインドネシアのグランドキャニオンと言われるところでは、巨大な防空壕があるのですが、そこは旧日本軍がインドネシア人達に強制労働させ、作らせたところと言います。動けなくなった人間は、刀で切捨て、大勢の人が崖から投げ捨てられたと言います。(略奪)他の島々でも日本軍による虐殺があったという話はごろごろあります。肉親が食われたという話も耳にしました
しかし現在、日本ではそのような虐殺はなかったという事を訴えています。
これが真実かどうかは分かりません。
ただ僕にはこんなインドネシア人達がよく言う言葉が印象的でした。  
オランダ統治の300年間よりも、日本の3年間の圧制の方がきつかった

教科書のみならず、オランダ統治の300年間よりも、日本軍占領の3年間の残虐の方がきつかったと、草の根の民衆の間で世代を越えて語りつがれていることがわかりましたね。余談ですが、肉親が食われたという話ですが、日本兵による人肉食がインドネシアでも行われていました。ニューギニアにおける人肉食(ゆきゆきて神軍がその代表例)、そしてミンダナオ島をはじめとするフィリピンにおける残留日本兵による人肉食(もの食う人びと)があります。世界中で人肉を食う狂気を見せた蝗軍の実態でしょうね。
 
ガルーダの翼に乗せて 第8章
http://www.keicho.com/indonesia/garuda8.htmlより
 インドネシアは日本軍の占領下に入る前に、数百年にわたってオランダの植民地であった。しかし、オランダの支配には誇りを持って懐かしみ、オランダ語を使う老人達もいる反面、日本軍の侵攻に対しては、思い出したくない悪夢という印象が強いという。この違いはどこから来るのだろうか。当時の日本軍が、相当残酷なことをしたと思わざるを得ない。また現在でも、インドネシアでは欧米人は尊敬されるが、日本人は尊敬されないというのを聞いたことがある。欧米人は仕事を離れても、インドネシア人に無償で教育を施したり、文化を教えてくれたりするそうであるが、日本人は単に打算的で、仕事以外は全く閉鎖的で現地に溶け込もうともしないという。現地の人たちの最大の不満は、インドネシアに進出している日本の企業に就職しても、日本人ではないという理由だけで給料も安く、いくら優秀な人材でも高いポストに就けないことだという。これでは、現地の人たちに顰蹙を買うだけである。こんなことをしているから、未だに日本は何をしでかすか分からないと、アジア諸国に根強く残る日本軍国主義復活への不安感を拭い去ることができない。莫大な円借款のために日本に遠慮をしている彼らの気持ちが分からないようでは、真の友人となるべきアジアとの精神的な距離を縮めることなどできない。

これがインドネシアの人々の本音でしょうね。オランダ時代を懐かしむ人はいる一方、日本軍時代は残虐な悪夢というのが実態でしょう。オランダへの独立戦争という側面もありましたから、終戦直後は、オランダからも独立したいというのが終戦直後のインドネシア人の気持ちかもしれません。その当時のインドネシア人が老人となり、昔のことに思い出し、日本軍とオランダを比べると、オランダの時代は良きものがあったと懐旧の思いに浸るのです。共産主義から解放され、民主化した後の東欧やロシアの人々に、当時は共産主義からの解放を訴え、闘ったはずが、不況や治安の荒廃を目にするあたり、昔の共産主義時代に誇りと懐かしさを感じるという気持ちと同質のものでしょう。オランダ時代にはそういう回顧の情の気持ちがでてくる一方、日本軍占領時代に関しては、直接の残虐行為の被害者にならなくても、ひたすら残虐で苦しかった思い出したくない思いが残るのですね。オランダ時代より比べ物にならないほど残虐だった日本軍時代という答えが皆様の頭の中ににでたはずです。 
 
パパバリ・三浦襄と南方楽土の夢
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura.htmlより、バリ島における日本軍占領時代とはいかなるものか見ていきたいと思います。
日本軍占領下のバリ島に偉人がいました。三浦襄という方です。右翼が喜びそうな話ですが、絶対にそうではありません。彼の話は大日本帝国・日本軍の支配の蛮行、非人道性、残虐性を物語るものです。

http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura2.htmlから
 そして翌日の9月7日、日本によってインドネシアの独立が許容されるはずだった日の明け方に、島の人たちに日本軍が占領した3年間を詫びる遺書を残し、拳銃で自決した。「この戦争でわが祖国日本の勝利を念ずるためとはいえ、愛するバリ島の皆様に心ならずとも真実を歪めて伝え、日本の国策を押しつけ、無理な協力をさせたことにお詫びする」としたためていた。そして、捕虜となる日本人が無事故国へ帰還するまでの支援を依頼していた。日本人が無抵抗で屈従したのは天皇の諭によるものだから、彼等の尊厳を尊重して欲しいとも懇願した。

 この戦争を機会に植民地支配をはね除けて、アジアの国々は独立を果たした。日本が意図した「八紘一宇」と「大東亜共栄」の構想は、西欧列強支配の肩代りでしか無かったが、この三浦襄のように同じアジアの友として真の幸せを願い、独立を支援した数多くの日本人がアジアの各地で汗と血を流したことを銘記したい。どうか永久の友情のために、語り継いで欲しい。そして日本人がアジアの一員であることを、忘れないためにも語り継いで行きたい。


明確に大日本帝国・日本軍によるアジア解放論を打ち砕いていますね。日本軍の政策を押し付け、無理に協力させたことをお詫びしている。彼も大日本帝国・日本軍の支配に参加した加害者であるが、その最後は悲惨だった。バリ島民と大日本帝国・日本軍の相反する意識の狭間で非常に苦しんでいると思う。
 
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura11.htmlより

進駐した日本軍は大規模な収容所を作りオランダ人ら敵性国民を収容し朝鮮人と台湾人の軍属に管理させましたが、戦乱で生じた難民や孤児への対策はまったく手を着けませんでした。駐軍の軍属としてバリに戻った三浦襄はまっさき孤児院作りに着手し、琉球人漁夫の妻たちを寮母として雇い入れ自分たちの子どもと孤児たちの面倒を見させました。孤児院の運営費用は私費で賄い、のちに軍の民生部から資金援助の申し出があっても、自主性が損なわれる恐れからその申し出を断わったようです
なんと、人道の精神に溢れる人なんだろうか。本当にそんな日本人があの時代にいたのかと信じがたい気持ちだ。  
 日本軍将兵が進駐していることで、毎日牛と豚が数十頭づつ食用に供されていました。そのうちにバリ島内全ての農耕用水牛まで食べ尽くしてしまう恐れが予想されたので、そのような事態が起こらないようにと食肉缶詰の備蓄が計画されました。軍からの要請ということにして事業を進め易くして、台湾を主とした東南アジア各地から牛と豚を輸入して缶詰に加工しました。皮革製品を開発し獣毛がブラシとなり骨で日用品の柄を作るなどして、捨てる部分を出さず完全利用して家内工業を育成しました。この事業は「三浦商会」という名称で自身は社長に就任しましたが、軍との渉外役に徹して運営の全てをバリ人に任せました。前出のブジャ氏と共に軍の民政部の特別顧問に就く前から、民政官の役割を果たし民政の安定に尽くしました。軍の民政官には望めない事柄にまできめ細かく対応し民衆の福祉の充実に尽力したので、バリの老若男女全てから「パパ・バリ」という愛称で呼ばれていました。"バリのお父さん"という意味合いよりも、ローマ法皇が「パパ」と呼ばれているような意味合いで"聖者"のように敬愛されました。


日本軍はアジア・太平洋の膨大な地域を占領するに至ったが、各地に日本軍の進駐を維持するためには物資、とりわけ食糧が必要である。膨大な数の兵員を食わせないといけない。本土から食糧を輸送するのではなく、現地自活を絶対方針とした。現地自活とは、各地にいる部隊はその土地で食糧を調達しろということである。もちろん、ラバウルなどの一部では耕作したりとか、初期には物々交換や現金調達などの乱暴な手法を使わない場合もあったが、しかし、大半は徴発と略奪によるものである。バリ島でも牛と豚などの家畜を現地の人々に食用として供出されていました。日本兵は現地の食糧事情などお構いなしに、食料を奪う。やがては、食糧は食い尽くされ、農業用の水牛までも取り尽くされ、バリ島民に大規模な飢餓が襲うことは確実でしょう。日本軍が進駐したアジア・太平洋のほとんどは食糧不足でベトナムのように大規模な飢餓が生じた場合もありました。まさに、自力で調達せず、現地民から強制的に収奪し、餓死者がでようと、農業生産が破綻しようとお構いなしに、籾まで供出させ、ひたすら食い尽くす蝗軍なのである。バリ島のような小さい島なら、なおさらのことでしょう。三浦氏は予想されうる最悪の事態を食い止めたのである。それでも

http://www.hcn.zaq.ne.jp/rukisan/Diary2003.htm
 その実家に泊めてもらった時のこと。彼のおじいさんに僕が日本人だというと日本軍が占領していた頃の話をしてくれた。軍の食料の徴収が厳しくて食べる物が無くなってとても辛かったという話しを聞きながら果実の女王といわれるドリアンをご馳走になった。それまでうかつにも日本軍がバリ島の歴史に登場するとは思ってもいなかった。高原とはいえ熱帯の夜の空気は甘くねっとりとした香りをまとわせ、ドリアンの濃厚な味と舌触りと良い勝負をしていた
のように、バリ島に日本軍の食料の徴収と飢えの話が出てくるあたり、いかに過酷だったということを示す。三浦氏がいたバリ島でさえ、こうなのだから、ほかの地域、特に日本軍に進駐された小さい島・離島なんかの悲惨さは想像をはるかに絶するものであろう。

 バリ島民の生活はそれなりに豊かで信仰心は強く、島内に乞食と売春婦はいませんでした。にもかかわらず慰安婦を要求することがあり、バリ舞踊の踊り子たちをそれに代えようとしました。それに対してバリの宗教と文化を説明して、踊り子は神に仕える巫女のようなものであり仏に仕える尼僧のようなものであると納得させました。そして、是非と言うなら還俗させなければならないし、それには日数がかかるからと諦めさせました。不幸にして将校宿舎の下働きとして雇い入れると騙され、被害にあった女性を孤児院の寮母として"居場所"を与えました。

日本軍は人権も人道も人間性も一切欠いたどこまでも卑劣な組織であることを思い知らされる。
一切欠いたどこまでも卑劣な組織であることを思い知らされる。 
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part6
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13238032.htmlでは、もともと性を売買する習慣のない土地に不浄な売春を持ち込んだりしている。バリ島でも同様のこと。日本軍はバリ島でも売春婦がいない、信仰心が強い土地柄でも慰安婦、いや性奴隷として女性を狩ろうとしていたのです。日本軍のいるところ、日本兵の去ったところ処女なしと言われています。慰安婦、性奴隷として幼い少女を含む多くの女性を連行し、陵辱の限りを尽くしました。規律もきわめて粗暴で慰安所外の女性もレイプされたのです。だから処女なしです。世界の軍隊のなかでもずばぬけて好色な日本軍にとって、女は肉便器以外のなにものでもないのです。アジア・太平洋地域の日本軍が進駐した地域で、性奴隷にされたり、強姦されたりした女性は数知れません。バリ島でも現地の信仰心や宗教や文化を無視して、性奴隷としての女性の供出を強制したのです。日本軍は女性の中でもとりわけ、非売春婦・処女、特に幼い少女や美人が大好きでしょう。売春婦がいない貞操を大切にするバリ島の土地柄は駐屯した日本軍にとって好みの女を収集する環境としては抜群でしょうね。最初にバリ舞踊の踊り子に目をつけ、彼女らを日本軍専属の性奴隷に変えようとしたのです。三浦氏は日本軍を説得して、あきらめさせようとしました。あきらめたかのように見えましたが、将校宿舎の下働きにするとバリの女性を騙し、性奴隷として奉仕させていたのです。多くのバリ女性が日本兵によって、性奴隷を強制されて、強姦・輪姦されました。多くの被害者がバリ島にもいたことでしょう。日本軍は本当に許しがたい犯罪集団です。そういう系譜を受け継いでいる連中に対してますます怒りが沸いてきます。

 
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura12.htmlより
 語り継がれた有名な事件として、スパイの嫌疑をかけられ銃殺刑にもなりそうな小学校の先生を機転をきかせて救ったことがありました。無実の罪で罰せられる人たちをたくさん救ったことはありましたが、機転のきかせかたが絶妙だったのでしょう。それは、平穏な生活を続けている日々であっても、夜間は外出禁止で特別な許可証を持たないものは逮捕されて処罰を受けました。
 子どもの病状が悪化して医者を呼びに行きたくても夜間外出許可証を持たない教員の父親が、友人の警察官からその許可証を借りて医師を呼びに街へ出た際に起こった出来事でした。運悪く陸軍の巡察隊に出会ってしまい尋問をうけました。警察官になりすますことはできたのですが、私用外出に「公用証」を持っていたことで不審に思われ、分屯地内の司令部に連行されてしまいました。警官で無くて教員であることがばれて、スパイであろうということになりました。 
 バリ人の間で評判の悪い日本人のことを「ニップ」またはバリ語で「ゆでたまご」の意味の言葉で呼んでいました。なぜ「ゆでたまご」と呼んだかは、日本兵は場所を選ばず何処ででもドラム缶風呂に入っていたので、水浴の習慣しかないバリ人たちには奇妙なことと思えたようです。またバリ人はバリ・ヒンドゥの宗教的習慣から、中国の「風水」に似たこだわりがあったのです。一方的な尋問を受けてついこの言葉を口にしてしまい、新任の若い将校を怒らせてしまったのです。
 先任の特幹准尉は悪意の無いことを知っていたので仲裁にでましたが、大学出のエリート少尉のプライドが事態をこじらせてしまったようなのです。急を知らされ駆けつけた三浦襄は、病気の子どもの医者呼びであってスパイでないことを説明して納得をして貰いました。しかし、引っ込みがつかなくなったエリート少尉は一度判決した銃殺刑を撤回出来ません。事態は膠着し、夜は明けて来て一番鳥が鳴き始めました。
 エリート少尉の体面に傷がつかないよう配慮すれば解決できると考えた三浦襄は、日本人に馴染みのある「大岡裁き」や「相撲の痛み分け」の例を出し、江戸時代の昔から死罪を避ける方便として「遠島流罪」と「処払い」があることを思い出して貰いました。そのことから事態は急転して、銃殺刑が"閉居謹慎"刑に変更されました。デンパサール市内から「処払い」となり、郷里へ「遠島流罪」となったのです。殆ど無罪放免と変わらない処置であったことに気付かれることを心配するむきもありましたが、その人たちに「英語は解ってもバリ語は解らないから心配ない。バレるころには他の任地へ転属だろう。暫く辛抱してデンパサールが静かになったら、もとの教員生活に戻れば良い。」と涼しい顔をして言ったとのことです。バリと日本の双方の事情に詳しくて、バリ人のために尽力してくれたのですから、なによりも心強かったことと思います。
平穏な日々(日本軍占領地の人々にとってはどこも平穏ではないのだが)でも、夜間外出禁止令が敷かれていました。バリ島だけでなく、どこの日本軍占領地でもそうでしょう。とてつもなく不自由な生活をバリ島民は強いられていたわけです。日本軍の恐怖とあわせて、息が詰まる地獄のような日々だったでしょう。とんだ事件が起こります。夜間に子供の病状が悪化して、医者を呼びにいきたいがために、友人の警官からその許可書を借りて町へ外出したときにおきた出来事でした。途中、陸軍の巡察隊に出会い、捕まって尋問を受けてしまいます。やがて、警察官でないことをばれて、スパイ容疑で逮捕という筋書きです。ところで、バリ島の人々は日本兵のことを"ニップ"という蔑称を持って呼んでいました。バリ島だけではなく、占領されたアジア・太平洋各地に日本兵に対する蔑称は多くあります。それだけ、日本兵は横暴で、現地の人々の憎しみを買っていたということでしょう。一方的な尋問のなかで、この蔑称を日本兵に対して使ってしまい、若いエリート将校を怒らせてしまったのです。三浦氏が知らせを聞いて駆けつけ、子供の医者呼びであり、スパイではないと誤解は解けたのですが、若いエリートの少尉は一度出した銃殺刑を自身のプライドのために、撤回しません。日本軍というのはとても体面にこだわります。エリートであればなおさらです。自分自身の体面のほうが一人の人間の命よりも大切だというのでしょうか?そういうのは日本軍では当たり前で、インパールやガダルカナルのような多くの日本兵を餓死に追いやったという悲惨な失敗を招いたのも、人間の命より自分ひとりの体面が大切だという日本軍上層部のエリートに一因があることは間違いありません。
 バリ島の三浦氏は機転を利かせ、銃殺刑から一人の人間を救いました。日本軍の体制側に協力する日本人(日本兵を含む)として極めて珍しい偉人でしょう。ちなみに、ほかのケースとして横小路喜代美中尉という、マレー半島のイロンロン村で憲兵隊から住民を守ろうとした人物もいた。そういう人もいたことが確かだが、当時の日本人といえば、日本兵以外の現地在住の日本人を含めて、鬼の形相で、時に薄ら笑みを浮かべながら、没人間的で残酷非道な禽獣(多くの当時のアジアの人々からはそう見えた)として絶対的支配者として君臨し、すき放題殴る、蹴るの暴力振るうは、女性を連れ去り強姦するは、住居に押し入り略奪するはで好き放題苦しめてきたのである。
 日本の戦争指導者たちにとって「八紘一宇」と「大東亜共栄」のスローガンは、侵略と植民地化の鎧を隠す衣でしか無かったわけですが、それを信じた日本人は少なくなくアジアの各地でその夢の実現のために血と汗を流しました。アジアの国々の人たちと手を握り互いに協力し合って共に豊かな生活を実現させようとしたのです。アジアの国々が植民地支配をはね除けて、それぞれの自国が独立を果たし自由を獲得することが「共栄」に繋がると信じていました。しかし、独立を支援するための戦争でもあったはずが、いつの間にか傀儡政権を擁立して第二、第三の満州国を作ろうとしていたのです。しかも、夢が破れただけでは済まされず、国家総動員法で侵略戦争の遂行に協力しなければならなくなってしまったのです。心ならずも日本人であるが故にアジアの友を裏切らねばならなかったのは死んでしまいたくなるほど辛かっただろうと思います。

 日本がインドネシアの独立を許容するはずだった昭和20年9月7日に自決したのは、生涯をかけた夢の実現を完成目前に打ち砕かれた悔しさ、信じてくれていた人たちを裏切らねばならない情況に追い込まれた悔しさ、バリ人の幸福とそれに繋がるインドネシアの独立を願う気持ちに偽りのなかったことの証としてのことだったのでしょう。戦争指導者たちへの激しい憤りとは別に、捕虜となって抑留された日本人たちも戦争犠牲者だったわけですから、無事祖国へ帰還できるよう引き上げ船に乗るまでの安全をお願いしたのだろうと思います。さらに驚くばかりの徹底ぶりは、自決するについて室内を汚さぬよう中庭のアタップハウス(ヤシ葺きの東屋のような小屋)を選び、粗末な棺をいつの間にか準備して中庭ぞいのヒサシの下に置かれてありました。(三浦襄は個人の資産は所有せず、住居もブジャ氏宅に"居候"していた。義父と息子のような関係になっていて、子どもたちは日本のおじいちゃんと慕っていたそうです。)そしてさらに驚かされたのは、街はずれの住民墓地の中のひときわ目印になる老樹のかたわらに棺のはいるだけの墓穴が掘らせてあったことです。

三浦氏のことを思うと、日本はアジアを解放したなどと自慰史観に走り、オナニーして大日本帝国の美化に走り歴史を美化する右翼勢力に対する憎悪がさらに沸いてきます。こういう偉大な先人の業績すらも葬りさろうとしているのは、右翼そのものです。三浦襄氏ら現地を愛して、また日本をも愛した真のすばらしい愛国者を第二、第三の満州国を築き、自身の侵略の野望に利用した大日本帝国と、一部をもってして、大日本帝国・日本軍の加害事実を亡き者とし、歴史を捏造に邁進する右翼と何が違うのでしょうか。本質は同じです。大悪魔国、大日本帝国の穢れた精神を受け継ぐのは右翼であり、右翼を倒さない限り、三浦氏ら当時存在した偉大な人物の慰霊は済んだことにはならないでしょう。右翼に対する憎悪がさらに沸いてきました。右翼とこれからも全力で戦い、この悪しき日本の右翼という物体をこの世から消し去るまで頑張っていきます。以上
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 18:28 | Comment(18) | TrackBack(119) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

ソロモン諸島における大日本帝国・日本軍の加害情報について 

amlに前田朗氏の記事がありました。転載します。
10月28日

「法と民主主義」10月号(412号)の特集は「天皇制の現在」です。

http://www.jdla.jp/houmin/index.html

同号に、前田朗「軍隊のない国家(11)――ソロモン諸島」を掲載してもらいました。

目次

一 メラネシアのソロモン

二 戦争の記憶

三 混迷する現在

以下に一部をご紹介。ヴーザの写真を掲載していますが、ここでは省略。

* **********************************

二 戦争の記憶

 ガダルカナルは第二次大戦の激戦の地であり、旧日本軍の記録や回想記にもよく登場する「餓島」である。

一九四二年八月、日本軍が建設したルンガ飛行場(現在のヘンダーソン空港・ホニアラ国際空港)をめぐって連合軍と日本軍が戦い、日本軍一木支隊など約二〇〇〇人が戦死した「血まみれの丘」。ルンガ飛行場の東のアリゲーター・クリークが海に出る場所で、一木支隊が「バンザイ突撃」をして全滅した「地獄の岬」。一九四二年一〇月から日本軍の二師団が上陸したタサファロング岬。一九四三年一月から二月にかけて、ガダルカナル西方に撤退したものの、日本軍一一〇〇〇人の大半がマラリアや下痢など病気になり、一部は餓死したエスペランサ岬やタンベア。

血まみれの丘とタンベアには、第二師団勇会が一九八五年に建立した「ガ島戦没者慰霊碑」が建っている。また、ギフ高地のククムの近くには、日本人が建設したソロモン諸島平和記念公園がある(5)。日本軍人の回想記だけを読むと、日本軍はあたかも無人島で戦っていたような錯覚にとらわれる。しかし、ガダルカナルには現地の人々が暮らしていた。

 連合国側の記録では、ソロモン諸島人の参戦協力があったことや、ジョン・F・ケネディ(後の米大統領)が現地の村人に救助された逸話が有名である。

 ホニアラ中心部にある警察署の前には一九八九年に建立された「ヴーザ像」が建っている。ジェイコブ・チャールズ・ヴーザ(一八九二年〜一九八四年)は、アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド連合軍に協力して日本軍と闘った現地部隊のリーダーである。ガダルカナルからブーゲンヴィルに至る戦線を闘いぬいた。ヴーザは手に斧を持って身構えながら、北の海を見据えている。日本軍は北からやってきたからである。

 南太平洋大学が調査し、出版した『大量死――ソロモン諸島人は第二次大戦を記憶する』(6)には、九人の証言が収録されている。そのうち、ウィリアム・ベネットとジョージ・マエラは戦争英雄として知られているという。

 ベネットは、一九二〇年、サンタイザベル島のキア村生まれ。父親はニュージーランド人で、母親がソロモン人である。ソロモン行政区ドナルド・ケネディ隊第二指揮官として日本軍と戦った。サンジョルジ島のケバンガや、当時の首都であったツラギや、セゲでの戦闘に加わった。捕虜となった日本兵が、捕虜になるくらいなら自殺しようとしたのに驚いたという。

 マエラは、一九二四年生まれで、英軍ソロモン守備隊の一員として戦った。日本軍が銃剣で脅して村々から食料を強奪していたこと、ジャングルの消耗戦を戦いぬいて生き延びたことが語られる。太平洋戦線における「日本に対する勝利」の代表格として、ソロモンでは有名だという。

 また、アルノウ・ングワディリとアイザック・ガフは、ツラギに空爆してから上陸してきた日本軍との戦いを証言している。日本軍とのジャングル戦の記憶だけでなく、英軍ソロモン守備隊に加わったが、イギリス軍はソロモン人を平等に扱わなかったという。それに比べてアメリカ軍は親切で食料や装備をくれた思い出を語っている。植民地宗主国軍と解放軍の違いであろう。

 『大量死』によると、第二次大戦におけるガダルカナルでの死者は、日本軍一九〇〇〇人、米軍五〇〇〇人、ソロモン諸島人は不明であるという。
 

 以上前田朗氏の記事でした。おなじみの「軍隊のない国」シリーズですね。私はガダルカナル戦(ソロモン諸島)における戦記を立ち読みしたり、ガダルカナル島の戦場に関するネットサイトを見ていたのですが、日本軍兵士に関する悲劇ばかりで、現地住民に関することはほとんどかかれていませんでした。日本軍と連合軍の間で巻き込まれた当時のガダルカナル島民にとってはたまったものではないでしょう。日本軍兵士以上に苦しんだのはガダルカナル島民であることを忘れてはなりません。
ネット上のガダルカナル島(ソロモン諸島)に関する唯一の加害情報といえるのが、
http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/solomon5.html
 
近くにあるコカンボナ村を訪問したのは、8月14日である。
ホワイトリバーまで、一人2ソロモンドル(33円)のミニバスが走っている。
そのから、1qも歩かぬうちにこの村にたどり着く。
戦時中は、日本の兵隊が集結していた地域である。
人々は、素朴で明るい。
たまには、お金を要求する若者・子供もいるが、驚くほど対日感情がよい。
3万人もの日本兵がこの地に土足で踏み込み、食料を求めて村を襲撃した事実もあるのにである。


頭の下がる思いである。 

 
やはり、この地で、日本軍部隊は中国戦線で行ったように、銃剣でもって村落から食料を強奪したのである。書かれてはいないが、村人が抵抗するそぶりを見せれば容易に銃剣で刺し殺したり、何よりも食糧強奪のついでに、村の婦女(老婆も少女、幼女も)に集団で襲いかかり、拉致したり、暴行を加え、集団レイプを繰り広げたことは想像に難くない。ガダルカナルを含むソロモン諸島全体は、戦記などから考えるに、すぐに連合軍の反攻にさらされ、ほかの地域と異なり明確な占領軍政が敷かれたとはいい難い。しかし、ガダルカナル島が餓島と言われて、酷い戦場として有名であるように、日本軍がこの地に駐屯し、連合軍との間で激しい戦闘が行われたのである。日本軍部隊や兵士がジャングルの中で餓死し全滅するなり、撤退するなりでソロモン諸島が解放されるまでの短い期間であるが、大日本帝国・日本軍の占領や被害の苦痛にあったどこの地域よりも言葉を失する阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられたの
だろう。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:15 | Comment(5) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

大日本帝国・日本軍の加害情報募集についての協力のお願い

とある掲示板に
 
韓国、北朝鮮、中華人民共和国、マーシャル諸島、ミクロネシア、パラオ、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東チモール、フィリピン、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ナウル共和国、キリバス共和国など大日本帝国・日本軍の侵略の被害にあった国々や地域に旅行した方も多いかと存じますが、そこで見聞きした大日本帝国・日本軍の加害事実について教えてください。特に各国の被害者(憲兵隊に拷問されたり、鉱山や軍事工場、鉄道等で強制労働させられたり、日本兵による強姦被害、従軍慰安婦(性奴隷)被害者)、大日本帝国・日本軍の占領時代体験者から話を聞いた人はいませんか。アメリカやイギリス、オランダ、オーストラリアなどの旧連合国を旅行した方構いません。アジア・太平洋戦線に従軍していた元軍人にあって、捕虜収容所、泰緬鉄道で有名な"戦場に架ける橋"に象徴される大日本帝国・日本軍によってもたらされた悲惨な体験を聞かされた人もいませんか。
 
という内容で、大日本帝国の加害情報を求める投稿をしてきました。安倍ファシスト政権打倒ばかりに囚われていましたが、肝心なのは安倍ファシストの登場を許した右傾・反動の日本社会を変えなければ意味はありません。まずは草の根の日本市民一人ひとりが過去の戦争と加害の歴史に向き合う意識をもつことです。日本人は愚劣化する一方でしょう。北朝鮮の核実験騒ぎ(北朝鮮による核実験偽装を含む)を招いたのは、米国と共同した日本政府の圧迫政策です。そうしたことができたのは、朝鮮半島に対する侵略と植民地支配の歴史に対する欠如です。たとえば、日本は朝鮮戦争をきっかけに経済復興を成し遂げましたが、自らが侵略し、植民地支配して蹂躙した最も近い朝鮮半島の悲劇による特需をもとになしとげられたことについて反省がないではありませんか?韓国をはじめとして、ほかのアジア諸国に対しても経済侵略を行い、その国の為政者に取り入って、アジア民衆の圧迫と貧困の上に日本の高度経済成長に成し遂げられたのです。そのことに対する反省も何もないから、わが日本は道徳も倫理のかけらもない図体だけがやたらとでかい偏屈な平和主義の看板だけの愚劣な国に成り下がってしまったのです。過去の侵略・植民地支配で1度目の加害、朝鮮戦争による特需によるぼろもうけと経済侵略によるアジア民衆の犠牲のもと戦後復興が成し遂げられたことで2度目の加害、従軍慰安婦問題などが過去の加害事実が明らかになり、アジア諸国の民主化が進み、日本に対する加害行為に対する謝罪および清算へのアジア民衆や被害者への要求にこたえなかったことで、3度目の加害・・・・考えてたらきりがないね。いったい何回日本という国はアジア・太平洋地域に加害をしたら気が済むんだろうね。こういう悪循環に歯止めをかけるためにも、幾十もの、アジア・太平洋諸国に対する加害への反省と償いの精神のもと、大日本帝国・日本軍の加害情報の収集に取り組んで生きたい所存であります。良識派の皆様はお力をお貸しください。大日本帝国の加害情報をお持ちの方はuyotoubatsunin@yahoo.co.jpまでよろしくお願いします。
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トラック諸島のデュプロン島(夏島)における海軍病院生体解剖事件

生体解剖:「フィリピンでも」 84歳元衛生兵が証言、住民30人以上が犠牲
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/25907588.html
でフィリピンで日本軍の生体解剖があったことを取り上げましたが、私もひとつ日本軍の生体解剖事件を紹介したいと思います。実際に戦犯裁判で裁かれていまして、陸軍ではなく、j海軍が行ったものです。 
 
『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修、文藝春秋社 p179〜181の"トラック病院の生体解剖事件"より抜粋します。

トラック病院の生体解剖事件 
 中部太平洋トラック諸島のデュブロン島(夏島)にあった第四海軍病院で、1994年2月末から7月までに米軍捕虜8人を処刑した「2月事件」と、同年7月に捕虜2人を処刑した「7月事件」の2件を指す。「2月事件」は、米軍捕虜の「生体解剖事件」としても知られている。
 米軍グアム法廷の判決要旨によると、44年1月末から2月にかけて起きたものとされる「2月事件」は、1月30日に発生したことになっている。院長岩波浩軍医大佐と軍医4人(うち1人は戦死、1人は自殺)が、海軍第四一警備隊から譲り受けた米軍捕虜4人の手足に止血器を取り付け生体切開を行った。止血器は捕虜2人については2時間後、残り2人はついては7時間後に外された。  
 前者の2人は一命を取り止めたものの、後者の2人はショック死した。岩波大佐はさらに米軍捕虜4人にぶどう状球菌を注射し、捕虜は高熱を発し死亡した。
 止血器実験で生き残った2人の捕虜は2月1日病院裏で爆風実験として1メートルの距離で爆発させたダイナマイトで足を引き裂かれ、なお絶息しなかったので、毒薬を注射して殺害した。遺体はショック死した捕虜とともに岩波院長らによって解剖され、頭部、心臓、内臓は標本として内地の軍医学校へ送られた。遺体の残部は島民によって地中に埋められた。
 「7月事件」は44年7月22日に起きた。岩波大佐の命令で捕虜2人が病院裏の丘に連行され、棒杭に縛り付けられた。神川秀博少佐が中心となり約100人の病院関係者が現場に集合し、岩波大佐がスピーチした後、大石鉄夫大尉に捕虜の処刑が命じられた。大石大尉ら被告16人は列を作り、次々に槍と銃剣で捕虜を刺した。岩波大佐は大石大尉と浅沼大尉に斬首せよと明治、遺体は現場近くに埋められたが、後に岩波の命令で海に捨てられた。
 「2月事件」では岩波と坂上衛生中尉が起訴され、坂上には終身刑が言い渡されたが、岩波は無罪になった。大佐が無罪になったのは、「証拠並びに証言等に於いて疑問とせらるるもの、或はねつ造作為せる点の露骨なる点」があったとされたためである。しかし「7月事件」では岩波大佐に絞首刑の判決がくだり、被告17人が有罪となった。
 被告側の主張によると、いずれの事件も終戦時に、第四艦隊参謀長(澄川道男少将)、第四根拠地隊軍医長、トラック警備隊付軍医官、海軍病院外科部長、同外科科長、同部員が協議し、関係者の被害を少なくするための隠蔽工作が行われたようである。協議により、実際は44年2月末より7月にわたる事件の発生時期を1月下旬と捏造することによって、当時の艦隊司令部の責任を前任者に転嫁しようとした。
 その結果、小林仁海軍中将(昭和19年2月19日まで第四艦隊司令長官)、若林清作海軍中将(昭和19年2月19日まで第四根拠地隊司令官)、原忠一海軍中将(昭和19年2月19日より終戦まで第四艦隊司令長官)にまで、指揮系統上の統括責任が波及する。
 戦後の47年6月10日から始まった法廷は、「2月事件」、「7月事件」を含む戦争の放棄慣例に対する違反で、小林中将に懲役15年、原中将に懲役6年を言い渡した。
 澄川参謀長や海軍病院の外科部長種田軍医大佐、外科科長岡村軍医中佐、同部員中村軍医大尉(裁判中に自殺)らは検事側証人となり、米軍に協力することにより起訴を免れる。
 ついで両事件の捜査過程で、関係者の米軍側への密告によって、海軍警備隊の「第二事件」画発覚した。判決文によると、軍医長上野千里中佐は、昭和19年5月上旬から8月にかけて(上野中佐によると6月中旬)、中瀬庄七少佐により米軍捕虜2人の処分を持ちかけられ、上野中佐は第四一海軍警備隊(司令浅野新平少将)の江里口武歯科少尉と小林和三衛生少尉の立ち会いで、捕虜の生体解剖を実行した。同中佐らは、捕虜1人にクロロホルムで麻酔をかけ、右足の爪を抜き、右足大腿部を切開、腿の付け根の動脈のほか虫垂、睾丸を摘出した。
 さらに腹部や右胸を切開し、筋肉と助骨を取り出した後、傷口を接合しテープで止め、診療室の裏に掘った穴に運び、そこで江里口少尉が斬首したとされる。もう1人の捕虜は、診療室の裏で田中末太水兵長によって銃剣で処分された。
 裁判では警備隊の全員が関与したと認められたが、有罪となったのは6人に止まった。判決では浅野少将と上野中佐に死刑、江里口少尉と田中水兵長にも死刑判決が下されたが、後に終身刑に減刑された。中瀬少佐と小林少尉には、終身刑が言い渡された。
 その他にも、トラック警備隊関係では1944年2月7日と18日の空襲の混乱時に、米軍捕虜8人を処分したいわゆる「トラック警備隊第一事件」がある。この事件では、田中政治海軍大佐に絞首刑、檀崎留六少佐と吉沼義治少尉に終身刑が言い渡された。
 トラック島捕虜事件は、陸軍軍医が中国大陸でしあしば試みていた捕虜の生体解剖を海軍でぜひ実行したい、と意気ごんで着任した岩波大佐の「熱意」に起因するところが大きい。裁判を混乱させたのは、責任者の1人である澄川参謀長をふくむ関係幹部が自身の罪を免れ、他に押し付けようとしたに日本側内部の不和で、結果的に公正を欠く判決を招いた。

(桶口和歌子)

《参考文献》
"Final Report of Navy War Crimes Program"(submitted by the Director War Crimes, U.S. Pacific Fleet to the Secretary of the Navy. December 1, 1949) 
岩上隆『孤島の土になるとも』(講談社 1995) 

 大日本帝国は極悪帝国主義国家であるし、その皇軍はもはや救いようのない残虐行為を重ねに重ねた人類史上例のない悪逆非道な悪魔の軍隊であろう。虐殺などの残虐行為、生体解剖などはそうした日本軍の救いようのない悪魔な体質、いや性質からくるものである。トラック海軍警備隊の海軍病院で岩波軍医大佐らが行った生体解剖はナチスや悪魔も真っ青の所業である。こうした中部太平洋ミクロネシアのデュブロン島の海軍病院でもこうした非人道の生体解剖が行われていたのである。生体解剖といえば、731部隊が有名だが、何も731部隊に限ったことではない。生体解剖は中国大陸に駐屯していた陸軍全体で公然と行われていたことだし、フィリピンでも行われていた。海軍はどうだろうか?海軍も皇軍であり、明治維新以来大日本帝国の侵略の歴史の中で脈々と培養され、侵略や戦争を重ねることに増長してきた残虐非人道の極みを行った悪魔の体質を受け継いでもっているのである。したがって、日本海軍には陸軍と異なり、開明的で紳士的だという話があるが、これは誤りである。バハル島の住民虐殺事件やボルネオのポンチャナック事件など日本海軍が関わった虐殺行為は数々ある。海軍でも生体解剖が行われたというのは、当たり前の話だ。 生体解剖については、731部隊(陸軍)起源であるが、岩波軍医大佐のように陸軍で行っていた生体解剖を海軍でやりたいという人間がでてくるのは皇軍であるが故の宿命である。生体解剖をやりたいという熱意をもったのは、別に岩波軍医大佐1人だけではない。生体解剖を試みようとした海軍(軍医)関係者はもっと多くいた。皇軍は、各地で捕虜や住民を虐殺、惨殺してもしても、人間の生き血を求め続ける血に飢えた野獣なのだから。現に私の抜粋した部分にあるように、止血実験と称して、捕虜を生きたまま解剖し、その上、生き残った兵士に対して、爆風実験と称して1メートルもの近距離でダイナマイトを爆破させるようなナチスの親衛隊員やゲシュタポでさえ、真っ青にさせるような残虐行為が海軍病院という閉鎖的環境で行われていたのである。
 話が少し脱線したので、トラック諸島デュブロン島の海軍病院における生体解剖について話を戻そう。マーシャル諸島のミレー島やチェルボン島では、現地住民とともに、朝鮮人軍属が虐殺されたことが明らかになっている。まずは、明らかになったのは、米軍捕虜に対する生体解剖であるが、朝鮮人軍属や現地人の犠牲者がいなかったのかどうか、そうした見逃された余罪がないのかどうか調べられなければならない。トラック諸島ひとつをとっても、デュプロン島のほかに、モエン島などの数々の島があり、ほかにはヤップ島、ポナペ(ポンペイ)島、パラオ、マーシャル諸島、サイパン・テニアン・ロタ、グアムなど日本軍が支配した島々がたくさんある。それらの島々の海軍病院でも同様の生体解剖が行われたことは間違いがない。何度もいうように、侵略と植民地支配の加害の歴史に対して、向き合い"ケジメ"をつけなければならない。ただ、生体解剖についての情報は中国戦線を除けば、情報が限られてくるのである。毎日新聞の記事で、2006年の今頃になって、フィリピンで日本軍が生体解剖を行っていたことが明らかになったぐらいだからである。日本軍の生体解剖の問題というのは、現在の医療問題や生命倫理の問題にも深く結びつくのである。闇に葬ってうやむやに済ますことは許されない。日本政府やマスゴミを含む日本社会には北朝鮮の核問題で騒いでいる暇があったら、過去の侵略と植民地支配の加害の歴史に全力に向き合えと言いたい。戦争加害国であった日本政府が全責務を負う問題であるが、国内外の戦争体験者が高齢化し鬼籍に入り、戦争を知る人が少なくなる中、時は許してくれないのだ。国際社会も北朝鮮の核実験への制裁や再実験阻止に向けたくだらない屁理屈を考えるくらいなら、大日本帝国・日本軍の加害事実の掘り起こしに全力を傾けるべきであろう。各国(日本、連合国、大日本帝国の被害を蒙ったアジア・太平洋諸国(韓国、中国、インドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポール、ミクロネシア))の資料や戦争体験者からの証言や(祖父から孫へのように)世代から世代へと語り継がれた体験談、戦争体験者の手紙や日記等の掘り出し物を国連のレベルで緊急に調査し、収集する必要がある。国際社会もアホみたいに北朝鮮の核実験などくだらない議題で馬鹿騒ぎしている場合ではないのだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:28 | Comment(39) | TrackBack(45) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月02日

バリ島における日本兵による女性の略奪や強姦事実についての情報 についての中間結果発表と、さらなる情報募集のお知らせ

バリ島における日本兵による女性の略奪や強姦事実についての情報提供のお願い
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/22864044.html
で呼びかけていました。
百瀬直也氏よりの返答も得られましたので少しお知らせしたいと思います。コメント欄からは現地で調査を行っている(?)人からのコメントがありました。

掲題の件ですが、インドネシア方面の情報に関しては、あまり確かな情報(つまり裏付けのある情報)は多くありません。

残念ながらバリ島のその情報も、民間研究者の間では、現在のところ「大東亜戦争を知っていますか」などの著書のある倉沢愛子氏の創作とされています。

今後、研究が進めば証拠・証言等が得られる可能性はありますが、氏の著書には創作も多く、残念ながら検証作業は進んでおりません。

ご参考までに、現在までの情報の経緯をお知らせします。

(1)
韓国で元従軍慰安婦が名乗りを上げ、韓国政府が彼女らを支援したためにインドネシアでも重い口を開く人が出てきた。
(2)
倉沢氏をはじめ民間団体のいくつかがバリ島でも聞き取り調査を行った。
(3)
倉沢氏らは、何度も話を聞くうちに、日本政府からの補償が得られるのではないか、という証言者らの期待になかなか添えないことに心を痛める。
(4)
その他の日本の支援団体も多数が証言を聞き取りに訪れたために、証言者は、今度こそは補償が、との期待が度々裏切られ、証言者は日本の支援団体に対し疑念を抱くようになってしまった。
(5)
これに対し日本の支援団体は政府へ働きかける一方、支援団体独自でも補償する動きになる。
(6)
その中で出てきた寺院のレリーフ(製作年度は不明)であり、過去に存在を示す情報は見つかっていない。
Posted by at 2006年08月27日 08:26
倉沢愛子氏をはじめとするバリ島での民間団体の慰安婦関連調査の名でメングウィにあるパナルンガン寺院のレリーフがでてきたようです。
私の質問への返答では、そのレリーフの存在が確認されたのは、2002年のつい最近といえば、最近のことであり、倉沢愛子氏の当該著書にはでてこないこと。倉沢氏がバリ島で1980年から1981年にかけて聞き取り調査をしたが、それ以前の存在、それ以前の証言が確認できていないということ。
現地語ではpana la candi と言い、「Mengwi」「pana la candi」で検索すれば情報が見つかるということです。
そのコメントをくれた方は、バリ島での日本軍占領時代経験者にあったことがあるようですが、『詳細は、ただある程度のサンプル数において結果が7対3で分かれた場合、7だけを全部のように俎上したり、3だけを全てであるように印象付けすることは、資料を扱う上で最も忌避すべきことです。私たちは、3だけを全てであるように印象付けするという、貴殿の危険性を払拭できないのです』と言う風にはぐらかして、私にはそれ以上の詳しい情報を教えてくれませんでした。でもこれから推測するに、10のうち"3"が日本軍に悪い見方を持つような意見、"7"が良い見方を持つ意見という風になるという、中立を装った右翼的思想の持ち主かもしれません。
私にこれ以上の情報を教えない最大の理由と思われる部分は
老婆心ながら申し添えますと、貴殿のような立ち位置で資料を収集されましても、資料の公平な評価についての貴殿の信用がそもそも得られない以上、多くの人を首肯させる事が出来ず、逆効果になり大変勿体無く思います』というものでした。そもそも"貴殿の立ち位置"というのは、どういうことでしょうか。右翼の立ち位置であれば良いというのでしょうか?私は資料の公平な評価を心がけているつもりですが。ですが、大日本帝国・日本軍の歴史的、そして朝鮮半島や中国大陸を含むアジア・太平洋全域に対する絶対悪は数々の資料より絶対的に確立したものなんですが、おかしいですね。
 パナルンガン寺院にある、戦時中に日本軍兵士が女を略奪したり強姦した場面を描いたレリーフや、"日本兵が車で村々を走り、美しい女性を見つけると強姦したり、強奪して現地妻にしたにある日本兵たちは車で村々を走り、美しい女性を見つけると強姦したり、強奪して現地妻にしたという蛮行事実"は、日本軍・インドネシア・オランダ(連合国)側の史料によっても裏づけが取れておらず、書籍にも該当情報はなく、、当時バリ島にいた元日本兵や日本人の証言はありません。何よりもバリ島の被害女性や目撃者すら名乗りでておらず、被害者の証言すらありません。ですが、私は日本軍は人類史上例のない極悪非道の非人間性を極めた悪魔の軍隊であり、日本兵が女性を強姦したり、連れ去った場面を描いたレリーフがバリ島にあることと自体、そうしたことが行われた鉄の証拠であることは疑いようがありません。バリ島における日本兵による集団レイプ事件として日本の歴史教科書に、刻み込むべきでしょう。
 百瀬直也氏の回答ですが、残念ですが決定的な情報は得られませんでした。
ご質問の件については、私自身もどの本で読んだのか記憶がないのです。
国会図書館かどこかで読んだ本だったのかもしれません。
お役に立てずにすみません。

という回答でした。国会図書館かどこかの本ではそういう記述があるのかもしれないです。
レリーフがあること自体が被害者の証言すらなくても、そうした日本軍の蛮行の何よりもの証拠でしょう。だけどやはり、バリ島の被害女性や目撃者の証言、当時バリ島にいた元日本兵や日本人の証言、日本やインドネシア側で出版された書籍、オランダ(連合国)・インドネシア・日本側の史料などで、はっきりとした裏づけや確立した詳細な情報がほしいです。この件についてまだまだ情報を募集します。どこかの文献や史料、バリ島における被害者や目撃者についての情報、元日本兵の証言など、ご存知の方がいらっしゃればコメント欄、あるいは私のメールuyotoubatsunin@yahoo.co.jpまでお知らせいただければ大変うれしいです。情報をお待ちしています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:07 | Comment(20) | TrackBack(117) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月16日

今日は何の日 平頂山事件

【中国】【今日は何の日?】1932年:平頂山事件起こる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060916-00000001-scn-cn
 
【今日は何の日?】1932年:平頂山事件起こる

 1932年9月16日、日本軍が平頂山村の村民を虐殺する「平頂山事件」が起きた。平頂山村は遼寧省・撫順市から約4キロメートル離れた所にあり、当時は400世帯3000人余りが住んでいた。

 前年9月に始まった満州事変により東北地方では抗日運動が活発化していて、遼寧省でも抗日自衛団が組織されていた。事件前日、抗日自衛団1200人が平頂山村を経由して日本軍の配給店を焼き払い、更に日本の支配の象徴であった撫順炭坑を襲撃、この戦闘によって炭鉱所所長など数名の日本人が死亡した。

 日本の撫順守備隊は平頂山の村民が抗日自衛団に協力的であるとして、報復のために全員を崖下に集めて機銃掃射を浴びせるなどして虐殺、村全体を焼き払った。後日、日本軍は遺体に石油をまいて焼却し、ダイナマイトで崖を爆破させて遺体を埋めた。

 1951年、犠牲者を悼んで撫順市に記念碑が建てられた。1970年には事件があった場所で遺骨の発掘作業が行われ、その後「平頂山殉難同胞遺骨館」が建設された。ただし、遺骨に関しては、「別の戦闘による犠牲者の可能性があり、疑問が残る」とする意見もある。

 1996年には事件で生き延びた村民3人が、日本国政府に国家賠償を求める訴訟を起こした。一審の東京地裁、東京高裁ともに「平頂山事件」を事実として認定したが、賠償に関しては国家無答責の法理により賠償責任を退けた。最高裁は2006年5月16日、原告の上告を棄却した。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)

 
(サーチナ・中国情報局) - 9月16日5時21分更新
今日は何の日か覚えていますか?平頂山事件の日です。9月16日は平頂山事件の日ですね。8月15日が敗戦 あるいは大日本帝国天皇ファシズム体制解放記念日、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原爆が投下された日などということは、日本人であれば誰でも思いつくことでしょう。今日が平頂山事件の日であるということに、日本国民1億人のうち、何人が知っていたと思いますか?なくなられた被害者や家族・身内を亡くしたり、重症を負ったものを難を逃れた被害者の悲劇に、この16日に思いを馳せていた人はどれだけいたのでしょうか?実は私も忘れていました。この記事を目にするまでは・・・。私も日本人失格ですね。今度から気をつけたいと思います。とはいっても、研究室に篭る忙しい日々が続き、過去の日本の加害や罪行のことに思いを巡らす余裕がありません。というか、進路間違えたかな・・・・?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:38 | Comment(94) | TrackBack(70) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月27日

ババル島虐殺事件

http://www.asiavoice.net/rickshaw/n200106.html

ババル島虐殺事件
 ババル島はインドネシア東南部にある孤島です。この島のエンプラワス村で1944年に住民虐殺事件がありました。この事件では村民ほとんどが殺されました。ベトナム戦争時のソンミ事件のような事件です。1992年、インドネシアの知識人向け週刊誌『テンポ』がこの事件について報道し、いくらかは知られるようになりました。しかし、辺境の地であるババル島へはインドネシアのメディアも含めて現地調査が行われていませんでした。そこで、1992年にインドネシア研究者である内海愛子さんと村井吉敬さんとともに調査に行きました。その報告は、私もメンバーであったアジア民衆法廷準備会のニューズレターに掲載しました。  
 じつは、この事件について、その調査の数年前に日本軍が作成した秘密文書が発見されていました。戦争直後、オランダが戦争犯罪として裁判にかけようとていたことに対して、そうならないように、日本軍が現地で関わった人から文書を出させて作ったものです。それらの文書には、数次にわたる改竄の後がみられるのです。後で作成された文書ほど、住民が混乱のなかで自暴自棄になって、同士討ちしたといった記述が書き加えられるなど、日本軍の責任を逃れるための改竄、追記のあとがありました。これらの文書のうち、もとになる最初の文書を書いた当時の士官は、この文書が明らかになった後の朝日新聞の取材に対して、日本軍による一方的な虐殺をおおむね認めています。
 また、私たちの調査でババル島の陸軍駐屯地にも慰安所があり、エンプラワス村からも女性が連れていかれたことがわかりました。日本軍の秘密文書のなかには、生き残った人に生業を与えるようにとりはかったという記述があります。少なくともその「生業」の一部が「慰安婦」だったと思われます。ここでも性奴隷の問題にぶつかっているのです。
 こうして、ポンティアナック、ババル島の事件で性奴隷・「慰安婦」問題の片鱗が見えてきたのです。しかも住民虐殺と性奴隷の問題はセットで出てくるところが極めて恐ろしい。日本軍の負の面を強烈な形で示すものだと感じました。

『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修、文藝春秋社p167〜168より抜粋します。
ババル島事件(インドネシア) 
 1944年10月から12月にかけて、ニューギニア島とティモール島の中間に位置するババル島で起きた同島駐屯日本軍守備隊による数百人規模の住民虐殺事件。
 煙草の供出をめぐり、海軍の日本人嘱託によるエンプラワス(Emplawas)村の村長殴打を直接の引き金として、現地人が10月27日同嘱託と現地人密偵を殺害、さらに海軍見張所、憲兵屯所を襲撃、日本軍側に死傷者が出たことに対する報復討伐に端を発したといわれる。
 同島駐屯の陸海軍守備隊は2回にわたる討伐を行い、その過程で婦女子を含む週百人の住民を拘束、銃殺した。日本側資料によると、第一回目(11月3-9日)は30人から40人程度の小隊規模の討伐隊を編成、住民100人余を「銃殺及ビ捕ヘタノミ」としている。
 第二回目(11月11-20日)には、タニンバル諸島の歩兵第42連隊本部よりおよそ60人の増派を受け、田代中隊の主力が討伐を実施した。密林山中に逃亡避難していた住民400人ないし500人が帰順してきたものの、村落間の対立抗争を反映した他村落村長の「徹底的処分ヲ要スルノ意向」に乗じて、婦女子を含む帰順者400人余を銃殺したとされる。日本側資料により推計すれば、エンプラワス村の住民716人のうち、銃殺された数は400人から500人余とみられる。
 一方、インドネシア側証言およびエンプラワス村の資料では、焼き討ちされた家の数が400、殺害された住民の数704人とされている。また銃殺を免れ、あるいは連合軍の銃爆撃を逃れて終戦まで密林に隠れていた住民も、食糧難、マラリアなどにより多数が死亡した。
 いずれにせよ、極めて限られた典拠資料となる複数の第五師団参謀報告書に「添削、修正」されたあとがみられ、事件の実態を性格に把握することが困難になっている。さらにインドネシア側証言についても、生存者が少なく、事件後48年(調査者のインタビュー当時)を経ているうえに、証言者の多くが事件当時幼少であり、郡長、軍警関係者の立ち会いという特殊な状況下での証言ということもあって、戦時下のインドネシアでも異例の大規模な住民虐殺の実態解明をきわめて困難なものにしている。
 事件の背景としては、まずババル島に駐屯する陸海軍軍人・軍属が現地住民を「獰猛ナル」習俗の持ち主と認識したことによる高圧的態度が軍と住民間相互不信を生み、蓄積していたことがあげられる。
 食糧、煙草の不当な代価による供出強制、殴打を最大の侮辱と捉える現地習俗に対する日本人の理解不足は、島内の住民の不満を募らせていた。
 さらにガダルカナルの失陥いらい、豪州、ニューギニア、ティモール島の中間で、パンダ海とアラフラ海にはさまれたババル島は最前線と化し、連合軍の激しい空襲下におかれていた。 
 事件発生の当時は日本の制海・制空権はほとんど失われた絶望的な終局状況にあった。連合軍の伝単散布や工作員の潜入工作にさらされるなか、わずかな兵力(陸海軍あわせて60人から70人前後)のみで、最前線に孤立した同島守備隊(第五師団歩兵第42連隊より派遣、連隊本部は120キロ東方のタンニバル諸島)と住民の相互猜疑はますます高まった。そのなかで起きた村長に対する侮辱的殴打をきっかけとした、日本軍への襲撃は起こるべくして起きた事件といえよう。
 しかし9ヵ月後に終戦を迎えた第五師団の幹部は、連合軍による追及は必至と判断、関係書類を書き直したのが利いたせいか、戦犯事件として訴追されることはなかった。病院船橘丸の兵員輸送事件(230頁参照)の責任を負う形で、山田青一中将(第五師団長)が自決したことも影響したのではないかといわれている。
(山崎功)
 

 《参考文献》
 武富登巳男「発掘されたババル島残虐事件」(『歴史と人物』1961年冬号、中央公論社)
 武富登巳男編『ババル島事件関係書類』(不二出版 1987)
  村井吉敬「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(『上智アジア学』第10号 1992)

某所(サイトが行方不明)より、
インドネシアのババル島で旧日本軍、住民400人を虐殺
 朝日新聞 1986年(昭和61年)11月23日 朝刊 第1面より
 太平洋戦争末期の昭和19年11月、南海の小島、ババル島(現インドネシア領)を占領していた旧日本軍第5師団の部隊が、 住民400人以上を虐殺した事件があったことが、戦史研究家が入手した同師団参謀部作成の極秘書類で明らかになった。 書類では戦争犯罪人の追及を恐れてか、「虐殺」を「原住民の反乱」と言いくるめようと、師団長あての報告書の内容を2回に わたって変更していく過程が克明に記録されている。戦史研究家はこの書類をもとに、25日発売の雑誌「歴史と人物」61年冬号(中央公論刊)で、戦後40年以上隠され続けてきた住民虐殺事件を告発しているが、関係者は、 朝日新聞社の取材に対して、「報告書を改ざんすることで、戦犯として訴追されることを免れた」と認めた。

  制海・制空権はほとんど失われた絶望的な終局状況に追い込まれていたという事情があるにしても、日本軍人への襲撃のための報復として、婦女子を含め村人の大部分を虐殺するというのは日本軍の人命を何とも思わない愚劣な典型的な体質があってのものであろう。この闇に葬られた凄惨な日本軍による虐殺事件の存在を明らかにしたのは、 自宅を「兵士庶民の戦争資料館」として開放し、日本軍の戦争史を追及し続ける故武富登巳男氏です。「兵士庶民の戦争資料館」のサイトがあったのだが、消えていました。  
  この事件でのポイントとして、日本軍の史料が廃棄・焼却されたのではなく、改竄された点にある。たまたま、武富登巳男氏が日本軍の極秘書類を入手し、あからさまな改竄・修正の痕を見つけて、戦後長い間隠されてきたババル島エンプラワス村での住民虐殺事件が明らかにされることになった。そもそも、オランダがどうして日本軍の改竄・修正の痕を見抜けなかったのかという点を調べなければならないだろう。日本軍がもっと巧妙に史料の改竄・修正を行っていれば、現在でもこの恐ろしい虐殺事件が明らかになっていなかったかもしれない。もちろん、根本的に史料の遺棄や廃棄によって、闇に葬られた大日本帝国・日本軍の蛮行は数知れないかもしれない。しかし、このババル島虐殺事件を考える上で、現存する大日本帝国・日本軍の史料や書類史料についても、国家犯罪や戦争犯罪を隠し、作成当事者の罪を覆い隠す改竄や修正、捏造が施されている可能性を考えなければならないという点にある。戦後残されたアジア歴史資料センターなどにあるような公文書や史料が改竄や修正、捏造がなく、資料が正しいかどうかを吟味する必要もあるのではないだろうか?もちろん、大日本帝国・日本軍の一次史料は大変重要であることには変わりない。それだけではなく、大日本帝国・日本軍の被害者や犠牲者遺族の証言や目撃証言の地道な収集、日本兵などの加害当時者の証言、連合国側の一次史料をあわせて、まだ埃がかぶって埋もれている極秘史料の発掘を急がなければならない。ババル島住民虐殺事件をはじめ、関係者による史料の廃棄・焼却・秘匿、史料の埋没あるいは改竄・添削によって埋もれてしまった大日本帝国・日本軍の国家犯罪・戦争犯罪を被害者・犠牲者の人数や加害者の特定を含めて、余すところなく実態を解明し、応分の謝罪や補償、主要な加害実行者への処罰を含む誠実な措置が行われることを改めて求められているのである。戦後61年たったというけれど、日本にとっての第二次世界大戦はまだ終わっていないのである。
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バリ島における日本兵による女性の略奪や強姦事実についての情報提供のお願い

日本軍による非人間的な数々の戦争犯罪・残虐行為がアジア・太平洋地域各地にあることは知っていると思う。百瀬直也氏のサイトにあるのだが、
■ ジャワ・バリ・幽玄・夢現 ■
【連載2 独立記念日の祈り (2)】
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/AA/JB/JavaBali002.html
 
 たとえば、こういう話...。バリ島には、日本人観光客が決して訪れることのない場所がある。メングウィという村にあるパナルンガン寺院だ。ここには、戦時中に日本軍兵士が女を略奪したり強姦した場面を描いたレリーフが残っているという。
 1942年、日本軍はバリ島に侵攻。2350隻のボートでサヌールに上陸した。日本兵たちは車で村々を走り、美しい女性を見つけると強姦したり、強奪して現地妻にした。
 
という話が気になって仕方がなかった。「バリ島 日本兵 強姦」という風にぐぐっても、はっきりとした情報はでてこないし、「メングウィ、パナルンガン寺院」とぐぐっても、百瀬直也氏のサイトにしかヒットせず、インターネット上では情報が得られないのである。裏づけが欲しい。バリ島といえば、多くの日本人が訪れる有名な観光地ですが、実際に旅行した方で日本軍占領時代を経験した方から話を聞いた方がいたら教えて欲しいと思います。実際に日本兵にレイプされたり、現地妻にされた被害女性から話を聞いたり、現地の老人から目撃証言やそういった噂があったという当時の証言が得られたなら、教えてください。私からのお願いです。ちなみに、自分でも少し調べてみました。
 

日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p107_141.pdf より

10.バリ島
外務省公文書館には、バリ島での女性周旋に関する資料がいくつかあった66)。1942年及び1946年に複数のバリ人男性がオランダ語で書いた記録によると、日本占領期が始まった頃、日本人兵士の、女性に対する嫌がらせが横行していた。女性を集めて慰安所へ送るというような噂が流布し、連れて行かれることを免れるため、偽装結婚が盛んに行われるようになった。正式に日本当局から命令され、バリ人の官吏が地元の有力者に依頼し、おこなわれた女性の調達は、慰安所用の女性と日本人将校の愛人用も含まれていた。公文書から、この募集の結果は窺い知れない67)。この2点の資料は、同人物によって異なる時期、つまり異なる歴史環境のなか、異なる政治的圧力のなかで書かれたものである。このような、時代背景が異なっている2点の資料だが、大きな違いが見られないため情報としての信頼性は高いと思われる。他の1点の資料は、女性の犠牲者数人も含め異なる生活背景のバリ人の証言を抜粋した記述だった。日本人の猥褻行為のため女性の調達に関わった中心人物として、日本人憲兵隊の指図にしたがっていたバリ人男性と2人の中国人男性を指摘している。これは、慰安所のための徴募ではないようだが、連れ去られた期間は3日から10日であった。女性たちはその後、自宅に戻されている。女性たちは全員がバリ人だった68)。
オランダ側の資料ではバリ島の日本軍占領期の初期に、日本兵による女性に対する嫌がらせが多発していたことは確かなようだ。この"日本兵による女性に対する嫌がらせ"というのはどういったレベル・程度のものなのか、この論文では示されていないのでわからないのが、百瀬直也氏のサイトにある日本兵は「車で村々を走り、美しい女性を見つけると強姦したり、強奪して現地妻にした」ということも満更嘘ではないということが証明された。バリ島では日本軍の侵攻当時も今と同じように、ビーチに美しい女性がいるリゾート地だったのだろうか。リゾート地で、日本兵は多くの美しい女性がいることに興奮し、襲いまくっていたのであろうか?恐ろしい情景がバリ島で繰り広げられていたのであろうか?後実際は、さらなる裏づけである。元日本兵の従軍記や日記などの書籍に含まれる具体的な記述的な裏づけ、何よりもバリ島の旅行者・在住者からの、現地の長老・老人などの日本軍占領時代経験者による見聞きした被害あるいは(日本兵が女性を襲ったり、連れ去ったような)目撃の裏づけ証言である。メングウィという村にあるパナルンガン寺院やそこに存在する日本兵が現地の女性に襲いかかる風景を描いたレリーフを含む情報について、私のブログを見ているバリ島在住者・旅行者で何らかの情報をお持ちの方は、コメント欄、ブログをお持ちの方はトラックバックでももしくは、uyotoubatsunin@yahoo.co.jp までお知らせください。管理人からのお願いです。以上
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2006年07月09日

少し補足。日本人(内地人)慰安婦などについて

麻生徹男氏資料等にみる朝鮮人慰安婦問題
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/20480666.html
のエントリーですが、補足すべきことがありました。
日本人慰安婦は花柳病に罹患しているものが大部分であり、年齢もほとんど20年をすぎて、42年に達するものがあって、幾度も売淫嫁業を経てきた娼婦経験者のみだということが麻生徹男氏の資料には書かれていました。しかし、必ずしも日本人慰安婦のなかには、「婦女売買に関する国際条約」に違反し、騙されて慰安婦にされた未成年者がいないわけではなかったようです。

 
【社会】"従軍慰安婦" 日本人女性を騙した判決文、現存が判明...長崎  

http://news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1087278080

★慰安所業者有罪の判決現存 日本人15人を上海に移送

・戦前、中国・上海の旧日本軍海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせるため、日本人女性をだまし、長崎から移送した慰安所の日本人経営者らを 当時の刑法の国外移送誘拐罪に当たるとして、有罪とした1936年の 長崎地裁判決文と控訴審判決文が現存することが15日、分かった。

 長崎地検に保管されており、戸塚悦朗龍谷大教授(国際人権法)が、住所など一部を削除した原本のコピーを閲覧した。有罪が確定した同事件の大審院(現在の最高裁)判決は確認されていたが、事実関係や証拠を詳細に記した下級審判決は見つかっていなかった。
 この事件が、慰安婦問題で日本の司法が関係者を裁いた唯一の例として知られている。

 戸塚教授は「日本政府は国会などで真相究明を約束していたが、調査が不十分だったことを示す証拠だ」としている。
 1審判決文はB4判の裁判所用紙31枚で、36年2月14日に宣告された。 被告は男性8人、女性2人。
 

というニュースがありました。右翼どもは、従軍慰安婦募集における業者の違法行為を取り締まっていた証拠だとほざきます。あくまでも、内地の日本人女性が被害者だった場合の判決であって、朝鮮人や台湾人、中国人、アジア・太平洋地域の現地人が被害者で、加害者である業者が裁かれた判決があるのかと問い詰めたいものです。慰安婦募集における女性を騙したり、拉致したりして国外に移送したり、未成年女性を意思にかかわらず売春行為をさせることを禁じた法的根拠となる刑法の条文も、大日本帝国が締結していた「婦女売買に関する国際条約」も、朝鮮半島や台湾を除外地域としていたのです。したがって、朝鮮や台湾、まして、中国大陸やアジア・太平洋の占領地域においては、取り締まるような法的根拠がなかったので、朝鮮や台湾、中国、アジア現地の女性を騙したり、強制的に皇軍慰安婦にしたり、朝鮮や台湾、中国、アジア現地の未成年女性を慰安所で売春させた業者を罰した判決事例など絶対にでてこないでしょう。朝鮮や台湾などの植民地、まして、中国大陸やアジア・太平洋の占領地域・交戦地域にあっては、日本軍や業者が好き勝ってやれる無法地帯でしたからね。しかし、長崎地検に保管されていた判決文のみが、刑法の国外移送誘拐罪で慰安所業者が裁かれた唯一の判決であることが驚かされます。日本人女性のみの業者の違法事例のみを取り締まっていたにしても、戦線が拡大するにつれて皇軍の慰安婦の需要が急増し、業者の活動が活発化するなかかで一例しか見つからないというのは少なすぎではないでしょうか。
日本人慰安婦については以下のサイトを参考にしていただきたい。


封印された過去 ー 日本人慰安婦 (前編)
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-44/hirao%2044.htm
封印された過去 −日本人慰安婦たち− (後編)
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-45/hirao-45.htm
日本人女性の慰安婦の徴募については、陸軍兵務局兵務課から「軍慰安所従業婦等募集に関する件」、内務省警保局から「支那渡航婦女の取扱に関する件」、と立て続けに通牒が発せられている。慰安婦を募集する際、軍部の威光を利用し、誘拐などに類した強引な方法が業者により取られることがあり、軍の威信を傷つけ、社会不安を招く恐れがあるので、内地での募集にあたっては、売春に携っている21歳以上の女性の渡航のみ許可し、募集の取扱いに関しては充分、配慮するようにとのことであった。だから、日本人女性の場合、当初は公娼制の下で管理売春させられていた女性たちが借り出されていったのだろう。それにしても、日本人女性を違法に慰安婦にし、業者が罰せられた例がひとつとは少なすぎるし、麻生徹男氏資料にみるように、一方で軍部は20歳以下の若年齢者で、売春に携わっていない女性を求めていたのである。「婦女売買に関する国際条約」や大日本帝国刑法や他の法的な制約がなかった朝鮮半島や台湾の植民地、それ以上に中国大陸の日本軍占領地において、内地以上に酷い業者らの女性の無法拉致が繰り広げられた想像できる。しかし、厳しい法的制約下にあった内地でも、このような無法な誘拐まがいの女性徴募がなくなったわけではなかった。2つのサイトを紹介したが、日本人女性慰安婦被害者の多くはやはり、挑戦や台湾の被害者女性と同様に、社会的地位の低い階層に属しており、社会から排除され、魔の手から逃れるすべもなかった哀れな少女たちであった。最終的には、日本人女性慰安婦の多くも、朝鮮や台湾、アジア・太平洋の現地人慰安婦と同様、従軍看護婦として高給を稼げると騙されたり、あるいは拉致まがいで強制的に狩り出され皇軍慰安婦にさせられた被害者であったことが、2つのサイトをみて、よくわかると思う。 

 
「政府もあんたがたも韓国人の慰安婦の支援ばかりして何故、日本人のことをほおっておくのか。」
と、激しい口調で言い募った。謝罪と補償を求めて名乗り出た日本人がいないからだと言っても、老人は聞こうとはしない。
 思えば、戦後六十年も経ちながら被害者が名乗り出られないような状況が続くこの社会の在りかたとは何なのだろう。真相も責任も全てがうやむやのままで、国が膨大な資料を隠匿したままにしていること…近代日本の公娼制の問題点を共有することもなく、また、慰安婦は、全て元々、売春に携っていたというような誤った認識が広く流布されている状況を放置していること…これらが相俟って、硬直した社会認識を変革できずにいるのだ。
 そして、老人の話を聞くうちに、何故、彼がこれ程までに日本人慰安婦の問題にこだわるのか、理由が明らかになってくる。

 1944年7月、スラバヤからアンボンに転属したIさんは、兵舎にいても寂しいから外出しないかと同僚に誘われ、慰安所に行った。「うめまる」と名乗る十六か十七歳の日本人慰安婦が出てきた。どう見ても子どもにしか見えず、相手にしなかったところ、あどけない顔の「うめまる」は、ふて腐れたように自分を抱けと迫ったという。
 
 
・・・・始めて眼前の紅い友禅の女が、親戚の娘、「まさこさん」であることに気づいたそうだ。「まさこさん」の父親が海南島に軍属で行って、手を負傷したため、『手切れの石原』と通称されていた。無理もない。Iさんが入隊した時、この女性は、まだ幼い少女であり、それから七年近い月日が流れていた。その間に彼女の身に起こったことを考えれば、変貌ぶりも窺える筈だ。
 驚いたことにその慰安所には、「まさこさん」だけでなく、妹で当時十六歳位の「はるこさん」も連れてこられていた。姉妹で同じ慰安所に入っていたのだ。
 「まさこさん」と「はるこさん」が、同郷のしかも親戚の娘でもあることから、Iさんは、慰安所の日本人慰安婦と急速に親しくなっていった。
 人間の記憶というのは、ある部分、極めて鮮明に昨日のことのように残影が凝集されていく。日本人慰安婦たちと親しくなったIさんは、ある時、将校が土産として慰安婦に与えた干し鰯二十匹をもらったそうだ。兵舎に戻ってから誰に何匹ずつ、分け与えたかを今も正確に覚えていた。
 日本人慰安婦にまもなく、自分の所属部隊がセラムに移転すると告げると、女たちは、泣いて連れて逃げてくれ、日本に帰りたいとIさんに懇願した。しかし、七名もの女性を連れて見知らぬ南方の地のどこに逃げる場所があるだろうか。また、捕まって一番最初に憲兵に殺されるのは、自分でもある。日本に戻ることができるように話をつけるからと、なんとか女性たちをなだめたという。
 
しかし、やっと故郷に戻ることができたというのに、そこには衝撃的な事実が待っていた。家に帰ってまず帰還の報告をするため、仏壇に手を合わせると、なんと妹の写真も仏間に飾られてあった。驚いて母に問い質すと、妹の一人も看護婦の仕事と騙されて南方で慰安婦にされ、猫いらず(殺鼠剤)を飲んで自殺して果てたという。
 骨も戻ってこなかった。老人は、この事実を思い出すと、未だに死んでも死に切れない思いに捉われると語った。
 実の妹を含めた犠牲者をいったい誰が連れていって、誰が利権を得ていたのか、真相を知りたいと願い、復員後、市役所の援護局などにも出向いてみたが、まったく相手にされなかったそうだ。
 結局、Iさんの周辺で実の妹を含め、三人もの女性が、日本軍慰安婦制度の犠牲者となっている。
 この元兵士は、二回目の聞き取りの際も初年兵の時に受けた暴行やいじめの話を繰り返したが、ざわついたファミリーレストランの一角で、急に太い濁声を押し殺して、周囲を訝るかのように指をそっと四本立ててみせた。私は、その意味をすぐには呑み込めなかった。
 四つ立てた指は、「四つ足」、すなわち被差別部落を現す隠語を指していた。
 初年兵に対するリンチは、日本軍の体質から派生し、恒常的に存在したものと考えられたが、Iさんが受けた暴力には、それを凌駕する理不尽さが隠されていた。
 厚生係の兵士が指摘してわかったことだが、Iさんの名簿には赤線が入っているとのことだった。赤線の持つ意味を厚生係の者も知ってか知らずか、Iさんには告げなかった。
 兄は、兵士として狩り出され、被差別部落出身であるが故に軍隊内で凄まじいリンチや苛めに遭う。しかし、反面、日本軍の一兵卒として殺戮や強姦を中国やフィリピンの村々で平然と行ない、慰安所にも出入りする。一方、妹は、戦争・国家・貧困・部落・女性―幼い少女の身で担うには担いきれない様々な円環の連鎖の果てに性奴隷とされ、自ら命を絶ってしまった。 
  太字で強調した部分だけでも読むだけでも衝撃的だろう。慰安婦とされた女性以外にも、日本兵自身も人間扱いされていなかったこともあげられる。従軍慰安婦制度も、大日本帝国・日本軍が生み出した暴力の体質から派生したものである。
もうひとつサイトをあげれば、
http://www.nwjc.ac.jp/~yamashiro/yamashiro/txt/maria/2.htmをみてほしい。城田すず子氏は、名乗り出た数少ない日本人慰安婦被害者です。
 これからしばらく、城田すず子の生涯を概観してみたいと思う。 以下は、本書「マリヤの讃歌」および、石川逸千著「『従軍慰安婦』にされた少女たち」(岩波ジュニア新書)を参考にする。次に、新聞記事の中から従軍慰安婦たちの証言を取り上げたいと思う。
口城田すず子
東京・深川森下町にパン屋の娘として生まれた城田すず子は、なに不自由なく、幸福な少女時代を過ごした。女学校一年の時、母を亡くした。14歳だった。
 それから不幸な歩みが始まった。親戚が借金した時、父は店を担保に保証人となったが、保証倒れとなり、店を失い、城田さんは遊郭に売られた。たびたび城田さんのところに金を借りに来る父に、城田さんは自分の借金がふくらんでいくことを知らず、客がくれた祝儀をためて、父に渡していたそうです。借金はふえつづける一方であった。あまり増えた借金のために、彼女はやむなく植民地下の台湾にある遊郭に行くことを承知しなければならなかった。17歳の時であった。「何でこんなお嬢さんみたいな人を連れていくの」といわれたそうです。その後、台湾の馬公で「海軍御用」と看板をかけた20軒ばかりの遊郭のなかの常盤楼に引き取られた。着いた翌日、楼主とともに馬公市庁に娼妓の鑑札をもらいに行った。「親の承諾書や、戸籍謄本をもっていって鑑札をもらい、名実ともに奴隷の生活が始まりしまた」と城田さんは言う。鑑札をもらう前、海軍の軍人に病気をうつしてはいけないと、膣の検査をされた。はじめてのことで足ががたがたふるえた。馬公の遊郭でのくらしは、「ふつうの日は泊まりを一人とればいいほうでしたが、土曜、日曜になると、兵士たちが列をつくり、競争で遊ぼうとしました。ほんとうに人肉の市で、人情とか感情とかはまったくなく、欲望の力におし流されて、一人の女に10人も一五人もたかるありさまは、まるで獣と獣とのたたかいでした」。やがて戦争がはじまると、城田さんはサイパン島へ、さらにトラック島、そしてパラオへと連れて行かれた。船には「海軍特別慰安隊」の名目の少女たちが20人ほど乗っていて、船のまわりを駆逐艦が護衛していた。20人の少女たちは朝鮮人と沖縄人、内地の者は城田さんの他にはいなかったという。
「ヤシの木だとかアンぺラだとか集めて川の流れるところへ慰安所つくったの。ほんとにみじめだった。水兵さんだってもうやせこけて骨と皮ばかりになって飢えていても、やつぱり女のところへくるわけよ。そんな核塙におそわれてごらんなさい。気持ち悪いわよ。それで自殺しちやった女の子もいっぱいいる。それで死んでも埋めることなんかない。ポーンと放り投げておくと、野良犬とか見たこともない動物なんかが夜きて食べるわけ。それで骨ばかり散らかってるのよ」と城田さんはTBSラジオで語った。
(石川逸子 「『従軍慰安婦』にされた少女たち」 岩波ジュニア新書19頁)
 敗戦後、日本に引きあげた城田さんは占領軍相手の売春をしながら、覚醒剤のヒロポンをうったりばくちをしたり、荒れた生活を送って各地を転々とした。からだも心もボロボロになっていた。
そんなある時、駅の売店で週刊誌を買ったら、「赤線」(売春禁止法が公認されていた地帯)から出た人が更生する施設「慈愛寮」のことが出ていて、「あそこへ行けばまじめな仕事を教えてくれる」と思い、まつすぐそこに向かった。入寮した翌日、礼拝につれていかれ、「わが罪をあらいて、雪よりきよくしたまえ」という讃美歌の歌詞に泣き出してしまった。まじめな仕事を覚えようとしたが、からだがどんどん窓くなって、下腹が痛み、だろく、吐き気がする。男たちの性の楽しみは、一人の女のからだを駄目にしていたのである。 今、城田さんは下半身麻癖で車椅子の生活をしている。・・。・

城田すず子氏は、日本人未成年慰安婦被害者というべきだろうか。日本人女性でさえ、未成年で慰安婦にさせられていたのである。日本が加盟していた「婦女売買に関する国際条約」、大日本帝国刑法、そして、発せられた数々の通牒などの法令において、たとえ、親の承諾、本人の意志があっても、慰安婦として売春行為をさせることは違法のはずである。「海軍特別慰安隊」と表し、日本海軍の駆逐艦が警備にあたるなど、軍が大きく関与していたことは間違いないし、内地人にあっても、慰安婦として素通りして売春させられる。日本人女性慰安婦被害については、まだまだ研究途上であり、アジア・太平洋地域における大日本帝国・日本軍の慰安婦問題とともに取り組んでいかなければならない。大日本帝国はとんだ人治国家であり、軍も憲兵も警察も業者も法令を守る気などさらさらなかったのであろう。もはや、現代のパチンコ業界と警察のように、利権の強い結びつきがあって、大本営・参謀本部・軍、憲兵、警察、内務省、その他官庁、慰安所業者、徴募業者の間で巨大な皇軍慰安婦強制売春カルテルができあがっていたのではないだろうか。大日本帝国というのは、人間を消耗品として扱い、酷使する近代史上存在した国家の中で、史上最悪な人権無視国家ではないだろうか。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 18:31 | Comment(10) | TrackBack(38) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

麻生徹男氏資料等にみる朝鮮人慰安婦問題

戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とす防衛庁防衛研究所所蔵《衛生・医事関係資料》の調査概要 波多野澄雄
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p033_039.pdf を見ていただきたい。

「麻生資料」のほとんどは、麻生徹男『上海より上海へ』(石思社、1993年)として刊行済みのものであるが以下は有益である。「花柳病ノ積極的予防」(昭和14年6月26日)「陣中日誌」(昭和13年10月23日−昭和15年12月10日)本書には、慰安所や慰安所規則等の現場写真が含まれており、内容的にも刊行資料のなかでは最も信頼できるものの1つである。

というわけである。以下を見ていこうと思う。
 
4「麻生徹男氏資料」について「麻生資料」を総合すると、1938年初春、上海軍工路に「楊家宅慰安所」が最初の兵站司令部直轄の慰安施設として建設され、細かな慰安所規定が作成されたこと、これに呼応して民間人経営の慰安所が次々に開設されたこと等が明らかになる。上記の慰安所で働く慰安婦人は100名前後で、そのうち8割が朝鮮人女性、2割が内地人婦人であり、内地人婦人には花柳病に罹患した者が多く、既往の売淫稼業の跡が認められること等も判明する。
 例えば、「花柳病ノ積極的予防法」(第十一軍第十四兵站病院麻生徹男)と題する資料には次のように記されている。
「コノ時ノ被験者ハ半島婦人八十名内地婦人二十名余ニシテ半島人ノ内花柳病ノ疑ヒアル者ハ極メテ少数ナリシモ内地人ノ大部分ハ現ニ急性症状コソナキモ、甚ダ如何ハシキ者ノミニシテ、年齢モ殆ド二十歳ヲ過ギ中ニハ四十歳ニ、ナリナントスル者アリテ、既往ニ売淫嫁ママ業ヲ数年経来シ者ノミナリキ半島人ノ若年齢且ツ初心ナル者ノ多キト興味アル対象ママヲ為セリ。ソハ後者ノ内ニハ今次事変ニ際シ応募セシ、未教育補充トモ言フ可キガ交リ居リシ為メナラン
 上記記述で判明することは、日本人女性の多くは内地で娼婦として働いていた者であるが、8割にのぼる朝鮮人女性は事変勃発後に初めて「応募」した若年齢者がほとんどであったことである。大半が20歳に満たないと思われるこれらの朝鮮人女性が、自らの意思で「応募」したとは考えにくい。さらにこの資料は、「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」として、若年娼婦を奨励する一方、花柳病の烙印を押され、内地で食い詰めたような「アバズレ女ノ類」を「此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何ハシキ物ナレバナリ」と批判する。つまり、内地女性より朝鮮人女性を奨励しているのであり、こうした意向が業者にも伝えられ、業者は強引に現地の若年女性を集めたことは想像に難くない。
 
花 柳 病
http://www1.odn.ne.jp/~jyourei/karyuubyou.html
花柳病は、医学上硬性下疳即ち梅毒及軟性下疳と淋病の三種とされている。尤も医学は近来今一種発見され第四種ありとしているが、茲では三種だけの説明で足りると思う。


花柳病というのは、 性感染症であり、調べによれば、特定の病原体だけではなく、梅毒、淋病、クラミジアなどを含んでいる。上海の「楊家宅慰安所」にて、麻生徹男軍医が調べたところによれば、慰安婦として働く女性の8割が朝鮮人女性であり、2割が日本人女性であった。日本人女性の大部分は、花柳病に罹患していて、売淫業を数年営んでいた経験者であった。しかし、8割もいた朝鮮人女性のうち、花柳病に罹患しているのはきわめて少数であり、若年齢、かつ娼婦未経験者であったというわけだ。

大変納得できる話である。たとえば、半月城通信の
「従軍慰安婦」29、植民地時代の公娼
http://www.han.org/a/half-moon/hm016.html#No.139によれば、李朝時代には、公娼制度はなかったこと。日本政府が公娼制度を持ち込み、確立していったことが書かれています。
しかし、朝鮮人女性の間では、公娼制度は根付かなかったようだ。 
 
 こうして確立した公娼の人数は、1920年に日本人4330人、朝鮮人3492人になりました。一方、「利用客」は1929年の統計で、日本人483、743人、朝鮮人107、482人という記録が残されています。ちなみにこの時の人口は、日本人50万余、朝鮮人2000万人でした。

   日本の「廃娼運動」に逆行して植民地、朝鮮で遊郭はさかんになる一方でした。また、国際法の年齢制限も「植民地条項」の保留で逃げましたが、こうした政策が後日「従軍慰安婦」の供給をかなり支えることになったのではないかと思います。


というわけです。植民地朝鮮における日本人は入植政策が進められていたとはいえ、たったの50万人で、朝鮮人の4分の1の水準にもかかわらず、公娼の数が1920年にはほぼ同じ数だったのに対し、わずか9年で、朝鮮人公娼よりも日本人公娼が4倍以上に膨れ上がったという事実は何を意味するのでしょうか?右翼は売春は朝鮮人の伝統文化だというが、朝鮮人より日本人のほうがよっぽど民族的伝統としての売春文化を確立していたのではないでしょうか?「からゆきさん」という言葉をご存知でしょう。海外各地に売春しにいった日本人女性のことを指します。さらに参考記事米帝から「売娼輸出」を非難されていた明治のニッポン。麻生徹男氏の調査は非常に納得できるものではないでしょうか?朝鮮人女性で自ら応募してきたと考えられる性病持ちの売淫業経験者はきわめて少数であり、ほとんどは自らの意思に反し、つまり詐欺(騙し)、強制連行・拉致に近い横暴な手段で集められたのであろう。しかも、1937年の上海事変の戦争初期にあって、太平洋戦争中後期の朝鮮人女性慰安婦徴収実態の惨状がいかに地獄絵図であるかはいうまでもないでしょう。以上わかったことは、若年娼婦を望んでいたこと、しかも花柳病の烙印を押され、内地で食い詰めたような日本人女性を皇軍の慰安婦にするのはとんでもないことであり、花柳病に罹患している恐れが極めて低く若年齢の朝鮮人女性を皇軍慰安婦に推奨しているのであろう。麻生徹男氏の資料であり、公文書であり、慰安婦とすべき女性も業者ではなく、日本軍自身が決めていたのである。軍が慰安所の経営のみならず、慰安婦の徴収に深く関与していた。日本軍の犯罪的事実に他ならないのではないのであろうか。
なぜ、日本人女性でも若年齢(未成年)を集めることはできなかったのであろうか。日本自身も加盟していた「婦女売買に関する国際条約」(1905年、1910年、1921年に締結)に言及されることが多い。当時「からゆきさん」と呼ばれた女性の人身売買を禁じるものだったらしく、それにあわせて、大日本帝国下の刑法では、国外に日本人女性を移送して、売春させようとする者を「国外移送罪」で厳しく罰したそうである。さらに、この国際条約では未成年による売春行為を厳禁しており、仮に自らの意思であったとしても条約違反である。しかし、この国際条約において、植民地である朝鮮や台湾を条約の対象外にしており、それで朝鮮や台湾の若年女性が犠牲になったのであろうが、それだけではない。日中戦争勃発当時の大日本帝国は、軍国ファシズム体制を強化しており、戦争目的のためなら、刑法違反だろうと、まして国際条約違反など平気で犯す国家だったから、日本人女性の若年齢者を積極的に利用しなかったのは、自分の娘が強制的に慰安婦にされると徴兵される兵士自身の士気に大きく響き、戦争遂行の上で支障がでるというのがもっともな理由ではないだろうか。

多くの朝鮮人女性が慰安婦政策の犠牲になっており、しかも、日本軍自らが慰安婦徴募を先導し、朝鮮人の若年齢(未成年者)、しかも初潮前の10代の少女を皇軍慰安婦に従事させていた日本軍の行為はまさに非人道的であり、厳しく処断されてしかるべきなのではないだろうか。


半月城通信の

http://www.han.org/a/half-moon/hm028.html#No.207には、
前出の麻生徹男軍医は具申書「花柳病の積極的予防法」のなかで「軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所なる故・・」と極論したそうです。性欲処理の玩具と私は日本軍慰安婦のことを表現しましたが、これほどまでに日本軍のジェンダー意識は酷いとは。これを日本軍の犯罪的歴史蛮行事実でなくしてなんなのでしょうか?

 
「軍用特殊慰安所は享楽の場所にあらずして、衛生的なる共同便所なる故・・」の部分は、右翼のサイトですが、
花柳病の積極的豫防法
http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/asou.htmlで確認できます。まさに、日本軍の従軍慰安婦制度がホロコーストのような人道に対する罪にあたる犯罪的事実の証拠そのものです。20歳以下の女性を性病に罹患の恐れが低く、>戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とす としている。慰安婦女性を「皇軍将兵への贈り物」と称すなど、日本軍にとって女性とは人間ではなく、兵の軍需品どころか、共同便所としか見ていなかった大日本帝国軍の荒んだジェンダー意識の反映そのものではないか・・・。あきれてものがいえん。
最後に細くということで、http://www.awf.or.jp/program/pdf/p033_039.pdfによれば、「金原日誌原本」および「金原日誌摘録」より、抜粋したものであるが、
[昭和18年]7/1 課長会報(恩賞)
3.慰安施設現地養成慰安婦ハ評判良シ、内地輸入ノモノハ評判良カラズ
 
昭和18年1月7日課長会報
(恩賞課長)慰安施設を数多く設けたるが内地輸入のものは評判悪し。現地養成のもの評判良し。
とあった。内地で集めた日本人女性は評判が悪く(つまり性病・花柳病罹患率が高い)、現地で養成、つまり、日本軍が占領地で集めた女性の方が質がいい(性病罹患率が低く、若年齢)と推奨しているのである。もちろん、日本のような売春(公娼)制度がなく、詐欺や甘言、現地の有力者に強要したり、銃剣による武力を突きつけて女性を拉致して強制的に現地調達したのだから、質が良いに決まっているが、結果として現地の日本兵の強姦を減らし、日本軍の住民の支持をつなぎ止める宣撫上の目的を従軍慰安婦制度は担っていたわけであるが、結果として元も子もなくなってしまったのである。日本人女性が慰安婦の大半だという指摘は間違いであり、日本軍は間違いなく、日本人以外の朝鮮人女性、そして、アジア・太平洋の占領地の現地女性を望んでいたことがわかっていただけたと思う。まだ論じ足りないところが多々ある。このエントリーではあえて、"従軍慰安婦"という名称を用いたが、実態は日本軍性奴隷であることは言うまでもない。見ず知らずの汚らわしい一日に何十人もの日本兵に、レイプされた朝鮮人や、アジア・太平洋地域の占領地の現地女性の痛みを考えたことがあるだろうか。私のように男性の方は、なかなか当事者の女性の気持ちになりきって、理解できないかもしれない。しかし、自分の母親なり、妹なり、姉なり、将来結婚してできる娘が連れ去られ、レイプされたことを考えてほしい。その事実が本人や家族へ残す深い傷跡に思いをめぐらせてみて欲しいものだ。日本軍性奴隷制度を否定し、被害者を嘘つき呼ばわりし、被害者の告発に耳を傾けようとしないセカンドレイプ野郎の糞右翼どもには、なぜこういうことに思いをめぐらすことができないのであろうか。このような右翼という非人間の鬼畜どもを駆逐するまで、私の戦いは終わらない。
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2006年06月18日

驚愕すべきビルマにおける日本軍性暴力の実態

ビルマにおける驚愕すべき日本軍の性暴力について取り上げたいと思います。

これが日本だ ファシストジャパン
http://www.sankei.co.jp/asia/hello/myanmar/fascist/01.htm

 ミャンマーの学校の歴史教育で描かれる日本のイメージは決してよいものではない。それを代表する言葉が「ファシスト・ジャパン」である。この言葉が生まれた時期は第2次世界大戦中にさかのぼる。中国戦線でイギリスの援助を受けた蒋介石軍に手を焼いた日本軍は、当時のミャンマー、英領ビルマに侵攻してその武器輸送路を遮断しようとする。おりしも英領ビルマ内では反英独立運動が盛り上がっており、日本軍はこれを利用しようと図る。かくして30人の独立運動家の青年が日本軍の軍事訓練を受け、これが現在のミャンマー国軍の基礎ともなる。青年たちが厳しい訓練に耐えたのは、日本はイギリスを放逐し、ミャンマーの独立に協力するという日本側の言葉を信じてだった。事実、日本の将兵たちの中には善意にこの「アジア解放」の夢の使命感に燃えている者もいた。
 しかし、日本が英領ビルマを占領して行ったことは新たな植民地宗主国の振る舞いであり、日本が与えた独立も傀儡政権の樹立にすぎず、独立運動家たちにとっては「日本に裏切られた」というのが実感だった。さらに日本軍による住民の強制連行や婦女子に対する暴行、英国と通じたスパイ探しのため憲兵隊が行った拷問などは「ファシスト・ジャパン」という言葉を残すに至る。やがて独立運動家たちは日本軍に対する反乱を準備する。1945年3月27日、彼らは抗日武力闘争を開始する。事実上、数年間にわたり独立運動を助けた日本に恩義も感じていた彼らにとって、これは苦しい選択でもあった。と同時にその数年は彼らに外国人不信の念を残すことにもなったようである。3月27日はその後ミャンマーでは国軍記念日となり、毎年盛大な式典が行われている。

山の町の日本語学校
http://www.ayeyarwady.com/ph_essay/essay2.htmより
彼が十歳、一九四二年にそのサガインにも日本軍がやってくる。
「日本人は自分たちと同じ仏教徒だから、よい人ばかりだと信じていました。実際に日本人と会うと、親切な人も多かったんですが、お坊さんをなぐったり女性を引っぱっていった軍人もいました。」
ビルマでは僧侶は非常に尊敬されていて、いくら戦時中でもなぐるなど想像すらできないことだ。それを、仏教徒のはずの日本人がしていたという。
 
http://www.jca.apc.org/fem/news/women2000/113.htmlより
朝日新聞12月7日夕刊記事紹介  
ミャンマーで55カ所の慰安所確認 フリー編集者が取材

日本政府に謝罪と補償を求めながら亡くなった朝鮮人従軍慰安婦の足跡をた
り、ミャンマー(ビルマ)で現地調査を続けてきたフリー編集者の森川万智
さん(52)=福岡市在住=が、同国各地の慰安所跡地をまわり、生き証人や関係者らにインタビューした結果をまとめた教材用ビデオを完成させた。これまでほとんど知られることのなかった同国内の慰安所の実態などが、証言と映像で明らかにされている。

森川さんは慰安婦問題に取り組む市民団体のメンバーとして、1991年末に名乗り出た文玉珠(ムンオクチュ)さん=96年10月死去=と知り合い、韓国・大邱市の文さん宅を訪ねて起居をともにしながら、その体験を聞き書きしてきた。

その裏付けのため、95年2月から何度かミャンマーに通い、今回は初めて1
4カ月に及ぶ長期の現地調査が実現した。

昨年9月までに20の都市や町村を訪れ、元慰安婦を含む200人以上に面接。35の慰安所だった建物と20の跡地を確認した。ヤンゴン(旧ラングーン)、マンダレー、ミッチナーなど、日本軍が占領した主要都市には必ずといってよいほど慰安所があり、日本軍が慰安婦を連れて転戦していたという多くの証言も聞けた。
文さんが連行されたイラワジ川に面したプローム(ピイ)では、戦後も現地に残った残留日本兵が「連隊長の許可を得て私が慰安所を造り、慰安婦を募集した」「将校に女性を世話した」などと話した。慰安婦の中には、退却の際、殺されたり、前線に置いてきぼりにされたりした者もいる。日本兵と地元の女性との間に生まれた子どもも多く、その数は3000人を超えるともいわれている。
生き残った日本軍将兵は100以上の戦友会を作って慰霊や遺骨収集、戦後補償運動に取り組んでいる。「彼らが建てた慰霊碑が各地にあって『英霊』をたたえているが、そこには一緒に連れ歩いた慰安婦を悼む言葉もなければ、ビルマ女性との間の子どもに対する思いもない」と森川さん。ビデオの申し込みはファクスで092・525・1800。1本3000円。

日本兵がビルマの女性との間に生まれた子供が3000人以上に達するというのは驚くべき数だ。慰安所あるいは日本兵による強姦・レイプによって生まれた子供も多いはず。もちろん、それがすべてだとはいわないが、それだけの混血児を残してきた事実を無視し、侵略と加害の謝罪や反省の視点もなく、慰霊や遺骨収集に励んでいる元日本軍将兵の姿には大変醜いものがある。このような加害意識を持たない戦争体験者が右翼勢力が蔓延り、世紀末のようなどん底の現在の日本社会を作り出しているのである。彼らの罪は非常に重い。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/books07.htm
 第五章では森川万智子氏が現地調査に基づいて、ビルマにおける日本軍「慰安婦」について明らかにしている。ビルマでは韓国人、中国人、ビルマ人らが「慰安婦」にされており、彼女たちの被害を粘り強い調査によって掘り起こしている。

http://www.jca.apc.org/video-juku/testimony.html
ビルマの日本軍「慰安婦」1997年―2000年現地調査の記録  

取材・構成:森川万智子/1999年/22分
証言者は中国の広東と香港から連行され首都ラングーンに残留する被害者2人、韓国大邸から連行され祖国に戻ることの出来た故文玉珠(ムン・オクチュ)さん。日本人残留兵をふくむ日本軍関係者が、ビルマ人被害者についても証言する。当時をリアルに語る慰安所の映像も多数登場する。


http://www.asahi-net.or.jp/~FM7s-KNJY/gunma_b/bccourt/kiji.htm
 カンボジアのプノンペンの北約五十`にあるウドンで四五年七月、窃盗容疑で逮捕した住民一人を生体解剖し、軍医三人が死刑になった事件や、「慰安婦」になることを拒否したビルマ人女性七十五人が集団暴行を受けたとされる事件の記録もあった。

ビルマの慰安所と商社ー旧日本軍の新史料
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper17.htm
 さてアメリカの日本軍関係史料については、研究者やマスコミも注目をし、「従軍慰安婦」問題についてもいくつか貴重な史料が見つかっている。しかしイギリスについては手がつけられていなかった。ビルマやマレー半島などは元イギリスの植民地であり、戦争末期にはイギリス軍がインドからビルマに攻め込んできた。さらに日本の敗戦後には、マレー半島やインドネシアなどに上陸し日本軍の武装解除にあたったことから、これらの地域の日本軍関係史料をイギリスが持っていることは十分に予想された。昨年の夏に私が訪英した際に、マレー半島の華僑粛清=虐殺などに関する史料とともにビルマにおける日本軍慰安所に関する史料も見つけた。ここではこの慰安所に関する史料について紹介したい。
 ビルマについては、これまで慰安所に関わる旧日本軍の公文書はまったく見つかっていなかった。多くの旧日本軍史料が所蔵されている防衛庁防衛研究所図書館からもビルマ関係は報告されていない。もちろん日本軍関係者や慰安所の業者、元慰安婦の方々などの証言によりビルマの各地に日本軍の慰安所が設置されたこと、ビルマ人女性の慰安婦もいたことなどは明らかだったが、公文書の裏付けがなかった。そのためか、日本政府が一九九三年八月に発表した調査結果「いわゆる従軍慰安婦問題について」(内閣外政審議室)においては、「慰安婦の出身地」の中にビルマが入っていなかった。つまりビルマ人慰安婦の存在を日本政府は認めていないのである。
 今回発見した史料はロンドンのインペリアル・ウォー・ミュージアム(大英帝国戦争博物館)の史料部に所蔵されている文書である。おそらくビルマ戦線でイギリス軍が日本軍から没収したものと推定される。
 この史料の表紙には『昭和十八年 諸規定綴 第三六二九部隊』と書かれていた。第三六二九部隊とはビルマ中部の都市マンダレーに駐屯していた野戦高射砲第五一大隊のことである。この綴りの中には、マンダレー駐屯地司令部などが定めた様々な規定が綴じられている。その中に慰安所に関するものが四点あった。交通の要衝であるマンダレーは日本軍の補給・集積・輸送の拠点であり、兵站など後方関係の部隊が駐屯していた。
(略)

 日本軍の慰安所であるから軍人軍属の使用が原則であるが、民間人、特に規定中にも出てくるように商社の社員にこのように特別の便宜を図っている。別紙第一には「慰安所使用時間及ヒ遊興料金」が記されているが、その「備考」には「商社関係者ハ規定第二条を厳守スルモノトス」と記されており、第二条で想定されているのは主に商社員と見られる。但書きにもあるように、マンダレーには多数の日本企業が進出してきており、中北部の各地での活動の拠点になっていたと見られる。そうした奥地の企業活動から帰ってきた商社員たちには特別の便宜を図って、規定時間以外でも利用させていることがわかる。このことは軍と商社との結びつきの強さをうかがわせる。この慰安所規定を定め、管理していたのは軍の物資の調達補給輸送などを担当していた兵站部隊であり、この兵站と商社の結びつきが強いことは十分に想像できる。
(略)

 もう一つ興味深い史料は、一九四五年一月二日にマンダレー駐屯地司令部によって制定された駐屯地勤務規定の中に別紙として付けられている慰安所の一覧表とその地図である。「軍指定軍准指定食堂慰安所」と題された表には、飲食店八店とともに軍指定慰安所五軒と軍准指定慰安所四軒が掲載されている。ここに慰安婦の出身を示すと見られる項があり、指定慰安所の一つは「内地人」がおり「将校慰安所」となっている。残りの指定慰安所は「広東人」のもの一軒、「半島人」(朝鮮人)のもの三軒となっている。准指定の四軒はいずれも「ビルマ人」であり、そのうち一軒は「ビルマ兵補専用」と記されている。つまりこれら九軒の慰安所には日本人と朝鮮人だけでなく、中国の広東からも慰安婦として連れてこられ、また現地のビルマ人も慰安婦にされていたことがわかる。
 兵補とは日本軍が補助兵力として占領地の住民から採用したもので、日本軍の下請けをする植民地軍のような存在である。そのビルマ人兵補にも慰安所を設けていたことがわかった。
 ところでこのイギリスで発見した史料に関連する史料を調べたところ防衛庁防衛研究所図書館にこの『諸規定綴』を持っていた野戦高射砲第五一大隊の『陣中日誌』が所蔵されていた。この中にも少しだが慰安所に関する記述があった。たとえば、一九四三年一二月二一日の項には「林第三六二九部隊日日命令」の中に「巡察勤務」における「着眼」として「食堂及慰安所等ニ於ケル行動」があげられている。つまりマンダレーに慰安所があり、これが巡察の対象になっていることを示している。こうした記述が数件あったが、これまでの政府の発表した「従軍慰安婦」関係史料には含まれていない。わずかな記述なので政府調査の際に見落としたのだろうが、ビルマに関する日本軍史料がまったく見つかっていないだけに日本政府の真相解明に対する姿勢に関わるのではないだろうか。

ビルマ人女性も慰安婦にさせられていたようである。ただ、ネット上で調べてみたが、慰安婦(日本軍性奴隷)を含むビルマ人女性らに対して日本軍が行った性暴力に関する情報がほとんどなく、大きなブラックボックスに包まれています。そこで、『裁かれた戦争犯罪、イギリスの対日戦犯裁判』林博史著 岩波書店を基に続きをよむ・・・以降でビルマにおける凄惨な日本軍性暴力の実態について書き記したいと思います。  続きを読む
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:38 | Comment(29) | TrackBack(4) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月01日

ビルマにおける日本軍の住民虐殺事件―カラゴン事件について

ビルマにおける日本軍虐殺事件―カラゴン事件をアップします。
http://www.come.or.jp/hshy/j96/08c.htmlより

【歴史残影】
旧日本軍戦犯を裁いた英国の全記録発見
共同通信によると、第二次大戦後、英国が旧日本軍の戦争犯罪を裁いた計303件、5万ページに及ぶ東南アジアなどでの裁判の全記録がロンドンの英国立公文書館から、ロンドン滞在中の関東学院大の林博史助教授(41)によって発見された。  

 英軍は原鼎三海軍中将以下、計8900人を逮捕したが、起訴されたのはそのうちの約1割。これまで英国人に対する残虐行為が中心とみられていた訴追対象が、現地住民の被害にも広く及んでいたことも判明し、林助教授が一年間にわたり裁判記録の分析を進めた結果、被告数は延べ919人、うち279人に死刑、55人に無期懲役の判決が下され、約230人の死刑が実際に執行されたことが分かった。107人は無罪となった。
 記録によると、1945年7月、陸軍第33師団歩兵第215連隊第3大隊が、ビルマ中部のカラゴン村を急襲。男性174人、女性196人、子ども267人の計637人を銃剣で刺し、井戸に投げ込むなどして殺害したと、難を逃れた当時の村長が証言した。

 46年4月、兵士3人とともに死刑判決を受けた同大隊の少佐が「(英軍に協力する)住民を殺せという連隊長命令に従っただけ。子どもを殺したのは、助けても孤児になって生きていくことはできないと判断したからだ」と供述した調書も見つかった。
 カンボジアのプノンペンの北約50キロにあるウドンで45年7月、窃盗容疑で逮捕した住民1人を生体解剖し、軍医3人が死刑になった事件や、「慰安婦」になることを拒否したビルマ人女性75人が集団暴行を受けたとされる事件の記録もあった。

続・戦犯容疑者の囹圉記
故 岡崎 武男 大正七年七月五日生(昭和四十三年没)
http://hp.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/0707okazaki.htm

四月二十七日
今日も又 立ち上りける 友と友
    吾れ腹空きて 止むる気もなし
今日入獄以来始めての、戦犯の裁判判決が伝えられて来た。判決で刑を言い渡された者は夫々別棟の独房に移されて行く。
 ◎ 判決 弓部隊関係(カラゴン事件)
 市川少佐         絞首刑
 緑川大尉以下中隊長三名  銃殺刑
 憲兵准尉一名        五年
 小林曹長           五年
 野本軍曹           七年
 

戦犯裁判記録翻訳資料
関連新聞記事
http://www.asahi-net.or.jp/~FM7s-KNJY/gunma_b/bccourt/kiji.htmより

埋もれた残虐行為克明に 
英の旧日本軍裁判記録発見  

 【ロンドン14日近藤共同記者】第二次大戦後、英国が旧日本軍の虐殺、拷問などの戦争犯罪を裁いた計三百三件、五万nに及ぶ東南アジアなどでの裁判の全記録が、ロンドンの英国立公文書館から見つかった。
連合国側は米国、英国、中国、オランダなど七カ国がBC級戦犯に対する戦争裁判をそれぞれ実施したが、件数が多かった英国による裁判の起訴状、判決文、調書などの全容が明らかになったのは初めて。
日本近現代史研究のため、ロンドン滞在中の関東学院大の林博史助教授(四一)が発見した。
記録は、住民約六百人が殺害されたビルマ(現ミャンマー)でのカラゴン村虐殺事件やカンボジアでの生体解剖事件など、歴史のやみに埋もれかけた戦争犯罪を克明に記載、旧日本軍兵士の目撃陳述書なども含まれており、貴重な歴史文書として注目される。

ビルマの村民600人虐殺
カンボジアで生体解剖

 林助教授が一年間にわたり裁判記録の分析を進めた結果、被告数は延べ九百十九人、うち二百七十九に死刑、五十五人に無期懲役の判決が下され、約二百三十人の死刑が実際に執行されたことが分かった。百七人は無罪となった。その後、冷戦による対日占領政策の変化から、減刑された戦犯も少なくない。
 英軍は原鼎三海軍中将以下、計八千九百人を逮捕したが、起訴されたのはうち約一割。これまで英国人に対する残虐行為か中心とみられていた訴追対象が、現地住民の被害にも広く及んでいたことも判明した。
 記録によると、一九四五年七月、陸軍第三三師団歩兵第二一五連隊第三大隊が、ビルマ中部のカラゴン村を急襲。男性百七十四人、女性百九十六人、子ども二百六十七人の計六百三十七人を銃剣で刺し、井戸に投げ込むなどして殺害したと、難を逃れた当時の村長が証言した。
 四六年四月、兵士三人とともに死刑判決を受けた同大隊の少佐が「(英軍に協力する)住民を殺せという連隊長命令に従っただけ。子どもを殺したのは、助けても孤児になって生きていくことはできないと判断したからだ」と供述した調書も見つかった。
 カンボジアのプノンペンの北約五十`にあるウドンで四五年七月、窃盗容疑で逮捕した住民一人を生体解剖し、軍医三人が死刑になった事件や、「慰安婦」になることを拒否したビルマ人女性七十五人が集団暴行を受けたとされる事件の記録もあった。
 裁判は四六年一月二十一日から四八年十二月二十日まで、現在のシンガポール、マレーシア、ミャンマーと香港の計二十カ所で開かれ、計三百五件が扱われた。うち資料の紛失は二件分にとどまっており、死刑執行日などこれまで日本で伝わっていた記録を大幅に書き換える内容となっている。

『大東亜共栄圏』の実態
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm
 ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。  
 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。

続きを読む・・・・以降ではさらにカラゴン事件を詳細に掘り下げて述べていきたいと思います。続きを読む
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:42 | Comment(9) | TrackBack(5) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月15日

大日本帝国・日本軍によるパプアニューギニア加害事実について

パプアニューギニアの太平洋戦争のあらまし、1942年1月〜1945年8月
http://web.archive.org/web/20030228112020/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/jproject.htmlより

 真珠湾攻撃からマレー侵攻と、破竹の勢いの日本軍の波はパプアニューギニアのニューブリテン島北端の町ラバウルにも押し寄せました。ラバウルは当時オーストラリアの委任統治のための行政府が置かれていた町で、天然の良港に恵まれ、南太平洋の重要な戦略地点でもありました。1942年1月23日、堀井冨太郎少将に率いられた南海支隊は、このラバウルのオーストラリア守備隊をわずか数時間で撃破して占領します。
 日本軍はラバウルに引き続き、ビスマルク諸島やソロモン諸島の島々、ニューギニア本島の北岸の主要な町々を次々に占領していったのです。日本軍の目的は、アメリカとオーストラリアの包囲ラインを分断し、ミクロネシアのトラック島にあった南西太平洋最大の日本軍の軍事基地の防御を確実にすることでした。
 しかし、日本軍の勝利は長続きしませんでした。1942年半ばから本格化した連合軍の反抗に遭い、一気に守勢に転じたのです。ニューギニア本島では、東端のミルンベイへの上陸軍は撃退され、ココダ道を通ってポートモレスビーを攻略する作戦は中止され、その後は、悲惨な敗退行に終始しました。アメリカ軍とオーストラリア軍を主力とする連合軍は、ソロモン諸島から巻き返しを始め、その後ニューギニア本島北岸のモロベからセッピクにかけて日本軍を掃討すると同時に、ニューブリテン島のマーカス岬、ブーゲンビル島のトロキナ、アドミラルティ諸島等に次々に上陸しました。
 豊富な物資に支えられた連合軍と十分な補給線のなかった日本軍との戦いの行く末は、すぐに明らかになりました。連合軍は、やがて制空権、制海権をほぼ完全に手中に治め、これに対して日本軍は有効な反撃をする戦力がなかったからです。その後、日本軍はラバウルに要塞基地を建設し、その他のわずかな地域を占領し続けたのですが、戦域の大部分は連合軍の制圧下におちました。
 1945年8月の戦争終結までの日本軍の損失は凄まじく、約6万人が戦闘で戦死し、11万人が飢えとマラリアなどの病気で死んだ、といわれています。これに対してオーストラリア軍の戦死者数は14500名と、記録されています。
 現在でも、戦闘の名残りを示す戦闘機や大砲の残骸は至る所に見られますが、これらの残骸以上に、直接戦場となったパプアニューギニアの人々にとって、この戦争の記憶は消しがたく、今でも世代から世代へと語り継がれています。

プロジェクトについて
http://web.archive.org/web/20030228112020/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/jproject.htmlより
 パプアニューギニア人は日本のことをよく知っていますが、日本人は彼らのことをほとんど知りません。現在、パプアニューギニアでは日本製品があふれ、日本商社が進出し、日本からのODA(政府開発援助)プロジェクトが進行し、海外青年協力隊員が至るところに派遣され、パプアニューギニア人は日本という国を物と人からじかに観察できるのですが、日本人とってパプアニューギニアは遠い南の未開の国というイメージぐらいしかないようです。このギャップは、太平洋戦争観にもよく表れます。
 パプアニューギニア人の記憶は鮮烈です。日本軍の記憶は世代から世代へと語り継がれています。親切な日本兵の記憶も、残忍な日本兵の記憶も同じように語り継がれているのですが、どちらも辛い時代の記憶として残っています。中には今でも、日本軍から教わったというを歌ってくれる日本語の歌を歌う老人もいれば、片言の軍隊調の日本を話す老人もいます。しかし、日本兵がスパイ容疑にかけた村人を公開処刑に科して日本刀で斬首する光景を、身振り手ぶりで再現し、その時の恐怖心を懸命に訴える老人もいます。
 実際、パプアニューギニア人の受けた被害は壮絶です。 直接戦闘に巻き込まれて死傷した人も少なくないのですが、それよりも日本軍と連合軍によって徴用された数万の成年男性に起因する被害が大きいといわれます。主要な働き手を失った彼らの村では食料生産が低下し、残された婦女子の栄養状態が悪くなり、そのため栄養不足や病気等で死亡する者が増加したというこです。労働者徴用が自給自足で成り立っていた村の生産システムを多く破壊したのでした。それは、戦後5年あまりに渡って人口が減少し続けるという甚大な被害に如実に表れています。
 一方、戦後の日本人は、パプアニューギニアは悲惨な戦線であったことを知る人はいることはいても、パプアニューギニア人が受けた壮絶な被害を知っている日本人は少ないようです。日本人が語る戦争とは、あまりにも悲惨すぎた戦いということに力点が置かれ、その陰で苦しんだ現地の人々のことはほとんど眼中にありません。そして一般的には、現地住民に対して加害者であったという認識は薄いようです。
 この戦争観のギャップが、両国間の国民レベルでの相互理解の形成を妨げているのは明らかです。戦後、平和憲法を制定した日本が、未だにアジア・太平洋地域の一員として、この地域の人々にすんなりと受け入れられない原因の一例がここにもみられます。日本人が知っている太平洋戦争とパプアニューギニア人の知っている太平洋戦争とは、あまりにも違うものなのです。このギャップを乗り越えないかぎり日本とパプアニューギニア、しいては日本とアジア・太平洋諸国との間には真の友好関係は生まれません。
 このプロジェクトは、このギャップと埋めるため、まず、戦争の実態を知ることから始めます。そして、そこから日本とパプアニューギニアの人々が、互いにどのように戦争を認識しているかを分析していきます。そうすることによって初めて、公正で対等な日本人とパプアニューギニア人の関係を作るための土台が出来るとわれわれプロジェクトメンバーは考えます。また、このプロジェクトによって、より包括的な歴史観の構築に貢献したいと思っています。

大日本帝国および日本軍が太平洋地域を侵略したことはご存知でしょうか。特にパプアニューギニア地域のいかに日本軍が悲惨な目にあったかはよく語られるところです。しかし、そこに住んでいた原住民が受けた壮絶な被害について語ることがほとんどないのが現状です。このエントリーではパプアニューギニアにおける大日本帝国・日本軍の加害事実を取り上げていき対と思います。  

日本軍占領下のラバウル--「記録」と「記憶」からの考察--
立教大学アジア地域研究所
岩本洋光
http://web.archive.org/web/20030219082908/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/2001symposiumpaper/iwamotorabauru.htm より

 日本軍は太平洋戦争開戦直後の1942年1月から終戦までラバウルを占領した。終戦時にはラバウルとその南の町ココポを中心とする周辺の村々に約10万人の日本軍将兵、軍属と数千人の朝鮮人、インドネシア人、インド人労務者がいた。この地域の現地住民の人口は約2万人であるから、その5倍近い日本人が駐留したことになる。またラバウル周辺地域の戦闘はパプアニューギニアの他の地域と比べて大きく異なる。これは連合軍がガダルカナル島やニューギニア本島での戦闘で多大な犠牲を払った経験から、ラバウルへの上陸を回避し、空襲によって日本軍の戦力を無力化する作戦を採ったため、ラバウルの日本軍は連合軍と直接戦闘をすることがなかったからである。一方、日本軍は連合軍の上陸に備えてラバウルを要塞化し、総全長約300キロに及ぶトンネルを掘り、約2500ヘクタールの農場を開墾して自給自足体制を整えるなどして決戦に備えていた。[1] そのためラバウルは同一地域に約4年間にわたり日本将兵が駐留し、現地住民の統治を組織的に実行できた地域であり、その結果として日本将兵と現地住民との接触が多くあった。このことは日本軍占領に関する「記録」と「記憶」が比較的多く存在させることとなり、日本軍占領の実態についての考察を可能にしている。本報告では便宜上、「記録」の定義を主として日本軍・連合軍の公文書資料、公刊戦史およびラバウルでの戦争体験者によって書かれた戦記とし、「記憶」は文字化されたものも含めて聞き取り調査によって得られた証言およびラバウルでの戦争体験者によって書かれた回想記などに定める。

ラバウルについては、『水木しげるのラバウル戦記』を読んだことがある。ニューギニアでは悲惨な戦場となったが、ラバウルは異なるようだ。水木しげる氏の戦争体験では、ラバウルにおける日本軍の現地住民への虐待および加害についてほとんど語られていなかった。このアーカイブより実態はどうだったのか見ていこうと思う。  
1.現地住民(パプアニューギニア人)の記憶

a. 村人の証言

(略)

 同じ頃、ラバウル市街に近いバーイ(Baai)村に住んでいたDanks Tomilaによると、上陸した日本軍は村人に危害を加えることもなく、村人と一緒にラバウルの町で略奪行為を行ったという。しかし、日本兵の態度は数ヶ月後から変化し始め、村人の大切な財産である椰子の木を勝手に切り、村は日本軍のものであると宣言しし村人を追い、その結果、村人は村を離れてジャングルで新しい畑を作らなければならなかった。また、日本軍は村人を労働者として徴集し、陣地構築や畑で農作業をさせ、作業中は食事は一日に一食だけで多くの村人は飢えと栄養失調から来る病気に悩まされた。村人の中には日本軍の畑から作物を盗む者もいたが、見つかった者は他の村人の前でむち打ちや斬首など厳しく処罰されたという。[3]  
 村人の中には日本軍に協力する者もあった。特に、戦前現地住民の間では蔑視されていた混血の人々(中国人やドイツ人などと現地住民との混血人)やマレー人が日本軍に協力し、中には「憲兵ボーイ」とよばれた憲兵隊の現地隊員となる者もいた。中国人と現地住民の混血人であるJoseph Tokankanも憲兵ボーイとなった一人である。自ら進んで憲兵ボーイになったかどうかは明らかにしなかったが、日本軍は陣地構築や訓練など非常によく働き、また非常に規律が厳しい軍隊で、もし連合軍が上陸しても日本軍は負けることはなかったという。

日本軍の態度は上陸時には解放軍みたいな形で穏健なものだったが、占領数ヶ月ごろ経つと態度が横暴になり、貪欲な侵略者としての姿に変貌していく、ほかの東南アジア地域と同様の経過をとったようである。日本軍はほかのアジア・太平洋地域でやったように財産の略奪やひどい強制労働を住民たちに課して、苦しめたようである。反対に日本軍に熱心に協力した対日協力者も多くいたようです。その強制労働の実態は  
 日本軍の占領下での生活で多くの村人が体験したのが強制労働だった。日本軍は民政部を通じて村ごとに労働者の割り当て人数を決め、道路、飛行場、地下壕、農作業などに肉体労働に多数の村人を駆り立てた。この約4年間続いた日本軍による強制労働は村人にとって非常に苦しいものだったと、Jacob Timeleは語る。
「日本軍は村人を捕まえて畑で働かせました。またトベラの飛行場やあちこちの村や町で働かせました。とてもつらい労働でした。本当につらい労働でした。私たちは日本軍の働き方を見てとても驚きました。朝8時に仕事が始まってから、村の男たちはただただ腰をかがめたり伸ばしたりして黙々と作業をしなければなりませんでした。日本兵が日本語で『切れ、切れ』と言っていました。日本兵は男たちを長い一列に並ばせて、ブッシュ・ナイフを渡しました。そして、ボスが『カカレ!』とかけ声をかけると、村人は腰をかがめてただひたすらに草を刈るのです。休むことも一服することなくただひたすら働くだけです。10時になって、『ヤスメ!』の号令がかかって始めて休むことができるのです。この時、その日始めてのたばこを吸ったり用を足したりしました。そしてこの後すぐに、また『カカレ!』の号令がかかり、働き始めるのです。4時に『ヤスメ!』の号令がかかるとその日の仕事は終わりです。『ヤスメ』とは休憩の意味だとわかりました。昼には、日本兵は日本語で『オーケー、ボーイ、カム!メシ、メシ!』と言いました。『メシ、メシ!』というのは『食べよう』という意味だと知りました。日本兵は食事を支給しました。米だけでしたが、私たちは食べました。それが昼休みです。そして1時から4時まで働きました。それが一日の労働です。本当に重い労働でした。」[5]
またTimeleによると日本軍は村人に日本軍への忠誠を強制し、従わない者は制裁を受けたという。
「これは日本軍が出した重要な知らせでした。日本軍は私たちに次のように言うことを強制しました。『ジャパン、ナンバーワン。アメリカ、オーストラリア、ナンバーテン。』こんな風にして私たちは日本軍の規則を覚えました。このように言わない者は、顔を平手で殴られました。」
さらにTimeleは村人が戦争の終結を知ったのは、日本軍がこの日本への忠誠を止めるようにいいに来た時だったと語る。

ラバウルでも酷い軍政が敷かれていました。特に強制労働は酷いものでした。日本軍はわけのわからない規則をつくって、ラバウルの原住民に押し付けました。まさに恐怖の圧政が敷かれていたわけです。一方で
 だが、村によっては過酷な体験をあまりしなかった村もある。医務隊だけが駐屯していたココポ地区にあるクナクナイ(Kunakunai)村の村人は、常に日本軍から医療を受け、子供たちは軍医や衛生兵から日本の歌を教わるのを楽しんだという。[6] 同じような日本軍についての肯定的な証言は、当時父が牧師だったTo Kilalaの証言にもみられる。[7] それによると、日本軍は宣撫工作の一環として学校を開き、そこでは村の子供たちに簡単な日本語の読み書き、歌、数の数え方などが教えられ、年長で優秀な子供には軍事教練を施し、銃の使い方などを教えたという。また、To Kilalaの村に駐留していた日本軍は村人と仲良くなり、村人に食料など色々な物を与えたと回想している。同じような証言は自ら憲兵隊のスパイとなったと語るArap Tibakからも得られる。Tibakは日本軍憲兵と一緒に食事をしたり酒を飲んだりし、日本軍はいい軍隊だったと語る。

という風に過酷な体験を押し付けられず、親日的な村も存在したようです。たとえば、ウルルン滞在記で取り上げられていたようです。
ウルルン滞在記で取り上げられるのはいいですが、そのほかの多くのラバウルの地域で行われた過酷な日本軍の支配の実態や加害、この地域を侵略したことについて、触れずに一部の例外的なものを取り上げて、多くの日本国民を誤解させるような番組をつくったテレビ局の罪は重いと思います。こうして、アジア・太平洋諸国の民衆と日本人の歴史認識のギャップが深まり、いつまでも友のいない日本であり続けてきたのです。
このアーカイブでは、水木しげる氏のラバウル体験も取り上げている。  
d. 兵の回想・証言
 民政部の他にもラバウルに駐留した陸・海軍部隊の回想記や証言から占領の様子をうかがうことができる。
 ラバウル西方のズンゲンでの戦闘で負傷しラバウルに帰還した陸軍二等兵だった現在漫画家の水木しげるは、ラバウルの丘陵地帯のトマという村の村人との交流を『水木しげるのラバウル戦記』(1994)、『トペトロとの50年』(1995)、『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』(1995)の中で描いている。そこには村人と水木との友情の発展の様子がユーモラスに書かれ、親切な村人のイメージが醸し出されている。しかし、これは水木個人と彼の部隊が駐留したトマの村人との関係であって、日本軍とラバウル現地住民との関係全体を示すものではないことを水木氏自身が筆者とのインタビューで明確に述べている。[17] 水木によると村人が日本兵に協力するようになったのは、最初に日本軍がラバウルの「大酋長」を3人殺したからであり、また終戦時村人が日本軍に対して敵対行為を表さなかったのは、10万の兵隊を恐れていたからであって日本軍が戦中「善政」を行ったためではないという。また、村人が親切にしたのは水木の部隊の中では水木だけで、他の日本兵は追い払らわれていたという。これは他の日本兵は村人を一段下の人間として扱っていたからであり、水木氏が仲良くなれたのは片腕を失っていた水木に村人が同情してくれたからだという。

『水木しげるのラバウル戦記』については
水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 日本軍内部の暴力性part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13473427.html
水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 従軍慰安婦、日本軍以外の捕虜など対する記述、現地住民などへの加害part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13479992.html
で触れました。私が水木しげる氏の体験を見る限りは、ラバウルの原住民と日本軍との関係は穏やかなように見えましたが、実際は違うようです。原住民が水木しげる氏の所属した日本軍部隊に協力するようになったのは、
ラバウル戦記では触れられていないものの、酋長らを殺して原住民に恐怖を植えつけたからでした。終戦時においても、原住民が表立った敵対行為に走らなかったのも、日本軍の「善政」ではなく、10万の兵隊を恐れていたからであったといいます。地もとの住民と交流をもてたのは水木氏一人だけといいます。水木しげる氏にはその辺の事情をもっと、書いてほしかったと思いました。
a. 諜報活動記録  
 戦中のオーストラリア軍の諜報活動に日本軍のラバウル占領について報告したものがある。まず開戦当初の報告で日本軍が現地占領部隊に出した現地住民への待遇についての命令書の英訳があり、これによると、まず現地住民に日本軍の権威、日本軍が現地住民を保護することなどを理解させ、日本軍に敬意を払い、協力させること、現地住民への住居への立ち入りや現地女性に近づくことを禁じている。[20] また、村長を丁重に待遇し、労働者の供給に便宜を図らせるよう命令している。また別の報告では、白人の威厳を失墜させるために日本軍は現地住民の前で白人捕虜に肉体労働をいること、ラバウルの現地住民がニューギニア本島の戦線へ労働者として連れ去られたこと、日本軍に協力的な現地住民が現地女性を強姦していること、現地住民の中には進んで日本軍の憲兵に協力し憲兵ボーイとして従軍していることなどが報告されている。[21] この他には日本軍から脱走した現地人労働者の証言もあり、慰安所の存在やラバウル在住のマレー人と混血人は例外なく日本軍を歓迎した事が報告されている。

c. 戦争犯罪記録  
 戦後ラバウルで開廷されたオーストラリア軍による戦争犯罪裁判記録には、日本軍による連合軍捕虜、スパイ容疑をかけられたラバウル在住のオーストラリア人・中国人と現地住民の処刑・拷問などについての記録が多数ある。これら裁判記録に収められている関係者の証言の中に、日本軍の占領の様子を伝えるものがある。まず、憲兵隊員として日本軍に従軍した現地住民の証言があり、日本軍の規定を犯した現地住民に体罰を与えるのがこの隊員の役目であったとある。[24] また裁判に証言者として出廷した民政部員の証言から、スパイ容疑の現地オーストラリア人や軍律に違反した現地住民に対して処刑が行われたことや、日本軍が現地住民のために学校を開いたことなどがうかがえる。[25]
d. 戦争被害調査記録
 連合軍の空襲によって焼け野原となったラバウルの戦争被害は、シドニーのオーストラリア公文書館が所有する戦争補償委員会が記録した膨大な数のファイルに人的、物的被害が詳細に記録されている。このファイルから連合軍による空襲によってラバウル市街にあった建物や住居のほとんどが灰となったことが確認できる。[26]
 この他、戦後オーストラリア行政府のパトロール官によって行われた戦争被害調査報告が、Patrol Reportsという報告書の中に記録されている。この報告書は、現地の言葉や習慣に精通した戦前から現地に勤務していたパトロール官による現地調査に基づくもので、信頼性が高い。報告書は、日本軍と連合軍の被害にあった死傷者の名前、損害を受けた家屋、家畜、農作物、物品、およびそれらに対する補償額などを記している。Patrol Reportsには日本軍の占領下にあったラバウル周辺地域の被害報告があり、それによるとラバウル南方のココポ地区の報告では、日本軍が畑を荒らし椰子の木を伐採したこと、家畜が殺されたこと、日本軍に殺された現地住民の名前などが村ごとに詳細に報告されている。[27] またラバウルの後背地バイニン地区での報告で、通常の被害報告の他、主にニューギニア本島のアイタペ・セピック地区出身で日本軍の憲兵隊に従軍した現地憲兵ボーイによる戦中の現地女性への乱暴、また戦後の村人に対する虐殺行為などが報告されている。[28]

ラバウルの日本軍の加害事実一つをとっても非常に複雑であり、積極的に日本軍憲兵隊の犬となって憲兵ボーイとして振舞った現地の対日協力者たちが存在したりした事実もわかりました。日本人、現地住民、現地白人の記憶、日本軍・連合軍の双方の公文書・記録からさまざまなイメージがでてくると思います。総合すると、やはり加害のイメージについては中国やフィリピン戦線に比べれば程度は軽いかもしれませんが、他地域と変わらない日本軍の非人道的体質による同質の残虐行為がラバウルの地でも例外なく行われていたことを示すものであります。  

「原生林を守るパプアニューギニアのウボル村からのお願い」
http://members.aol.com/tkyseihei/tsnews05.htmより

パプアニューギニアのニューブリテン島の中央に原生林を守っているウボル村があります。背後の数十万ヘクタールの森は太古からの生きとし生けるもので満ち満ちています。その森からの水は神秘の色をたたえて人々の生命を養いつづけています。ウボル村はすばらしい熱帯雨林の楽園です。  
1942年、日本軍はラバウルを占領した後、このウボル村の浜辺にもやってきました。日本軍は洞窟に隠れては村人をおどしていました。日本軍にとってやっかいものだったのがウボル村に赴任していたウィリアム・クーヘン神父でした。彼はドイツからの宣教師でしたが、日本軍はすでに他の海岸沿いの村々で何人かの神父、あるいは教会の指導者の住民を殺してきました。
1943年の2月のある夕方、日本軍は誰もついてくるなと住民に命じ、神父だけを村はずれに連れ出しました。そして海岸で銃殺し、首を銃剣で跳ね遺体は土の上に放置されたのです。日本軍は住民に、遺体にふれてはならぬ。ふれたらおまえ達も処刑するぞとおどしました。神父の遺体は海岸の捨て置かれ、波がさらっていったのか、ワニに食べられたのか、その後住民は知ることもできませんでした。
住民は後に神父が殺された場所に小さな記念碑を建てました。その碑は薄汚れたままひっそりと、今も同じ場所にたっています。ちょうど修道院のシスター達の診療所前の海岸です。
そのまわりには蝶々の好きな花や樹が沢山あり、昼間はニューブリテン島独自のトリバネアゲハが舞い、夜には海岸にまで溢れる伏流水の流れの中で蛍が乱舞しています。
殉教して行った神父の生命が今もそこで人々に恵みをもたらしつづけているかのようです。
いつか皆さまをそのカトリックのウボル村、原生林の恵みに溢れるウボル村にお連れできたらと思っています。関心のある方は清水靖子までお問いあわせください。

ニューズレター「太平洋の森から」第23号(2005年6月発行)から
1 「パプアニューギニア、原生林を守る村人のメッセージ」集会報告
http://www6.ocn.ne.jp/~png/newsletter23.htmより
 2004年11月〜12月、「森を守る会」では、パプアニューギニア、ニューブリテン島のクランプン村より、若きリーダーのパトリック・カウプン氏を招き、各地で「原生林を守る村人のメッセージ」と題した集会を開催しました。
 以下、パトリック氏のメッセージの抜粋をご紹介いたします。
(略)

 今日のようなお話をする機会をいただいて、クランプン村を代表してお伝えしたいことがあります。
 日本の企業であるコスモ石油は、事実と反する広告を行いました。クランプン村の本当の姿は何なのか、クランプン村の暮らしと原生林はどのようなものなのか、コスモ石油は焼畑が原生林の破壊の大きな要因であるとして、稲作を推進していると言っていますが、私たちの伝統的な焼畑は原生林を破壊する要因ではありません。
 パプアニューギニアの森の70%は商業伐採で失われています。パプアの人々がタロイモやヤムイモをつくる伝統的な焼畑のための伐採は、10%以下です。コスモ石油は、クランプン村が自然災害と食糧事情の悪化と、貧困に苦しんでいるような前提で広告を作っていますが、クランプン村は自然災害にも、食糧事情の悪化にも、貧困にも陥っていません。自然災害や食糧事情の悪化、貧困化に苦しんでいるのは、商業伐採で原生林を奪われた村々なのです。
 コスモ石油は、「『生きるために森を焼く人たちに、森を守ろうという声は届かない』・・」という広告で、広大な焼畑の写真を使用し、あたかもパプアニューギニアの焼畑であるかのような誤解を生み出したが、その写真はアマゾンとアメリカの写真であったのです。 また、米づくりは、家族によっては、家計支出の一部を押さえることに役だった面もあったかも知れないが、貧困を救うということにはなりません。なぜなら、私たちは貧困なんていう状態に陥ったことがないのです。
 私たちクランプン村は、コスモ石油が私たちの森の問題に口出しするずっと以前から、生命がけで森を守ってきたのです。コスモ石油が本当に森を守りたいと言うのならば、原生林を守っているクランプン村の人々とともに、商業伐採に反対して立ち上がるべきだと思います。
 私たちは、二度、日本に侵略されました。最初は第二次大戦で日本軍が来たことです。私たちの隣村ムー村で、日本兵は人々に薬を与えようとしたそうですが、実際には集団虐殺を行いました。第二の侵略は、日本の企業による森林伐採です。
 日本の皆さんにお願いしたいのは、私たちの生命そのものである森林を伐採から守るために力を貸してほしい、ということです。私たち、パプアニューギニアの原生林を伐り続けている商業伐採に反対してください。私たちの原生林からの丸太を日本で合板にして建材に使用することも止めてください。私は、森を守るためにあらゆる努力を惜しみません。未来の世代とすべての生命に、貴重な原生林を手渡すために、どうぞ私たちと共に立ち上がり、原生林を守る活動に協力してください。」

今日の日本と東南アジア
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
 日本軍が占領していたニューギニア島北側のティブンケ村では、住民がオーストラリア軍に通じているとみなした日本軍が住民を集め、その中の男たちを銃剣や軍刀でさらに機関銃で殺していった。現在九九人の犠牲者の名前が確認されている。さらに日本軍は、親日派の他の村の男たちにティブンケ村の女性たち約六〇人を集団で強姦させた。何人かの少年は初めは男たちと一緒に紐でつながれたが幸い釈放され、彼らが虐殺の目撃者となった。

ティンブンケ事件の詳細については
『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修、文藝春秋社p181〜182より引用します。
ティンブンケ事件(ニューギニア)


 1944年7月、東部ニューギニア(オーストラリア委任統治領)のティンブンケ村で、約100人の村民が日本軍に集団虐殺された事件。この事件には、原住民間の部族抗争もからんでいて、今も謎の部分が残っている。
 ティンブンケはセピック河中流に位置するが、1942年末、北側の要点ウエワクを占領した日本軍は、この地域一帯に軍政を施行した。第41師団の歩兵第239連隊は、浜政一大尉の指揮する一個中隊(約150人)をコログ村に駐屯させ、約100キロ下流のティンブンケに一部を分派していた。
 44年7月、反撃に転じた米豪連合軍がティンブンケを爆撃したが、村民が通謀していると疑った浜大尉は、コログ村民もひきつれてティンブンケに報復攻撃を加えた。村民たちは村の中心部に集められ、縛り上げられたのち、日本兵は軍刀、銃剣と機関銃で、コログ村民は斧、弓、ナイフでティンブンケ村民を殺害した。
 犠牲者は男99人、女1人とされ、別に数十人の女はレイプされたのちコログ村に拉致されているが、子どもたちは処刑を免れた。コログ村民が積極的にこの虐殺に加わったのは、以前からつづいていた部族同士の対立抗争に起因したといわれる。
 終戦後、浜大尉は犯行を認め、豪州軍のラバウル法廷で死刑を宣告されたが、コログ村村長マンバーの嘆願により減刑され、代わりに逮捕されたマンバーは獄中で死亡した。
 1994年来日したこの地域の首長ラクは、日本軍による虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を要求したが、日本政府はサンフランシスコ平和条約で解決ずみだとして応じなかった。 

(秦郁彦)

《参考文献》
「浜政一手記」(『丸』1972年3月号)
清水靖子『森と魚と激戦地』(北斗出版 1997)

この事件では、日本軍だけではなく、現地住民同士の部族抗争という点で日本軍の残虐行為に現地の住民が関わっていることにも注目です。部族抗争が前からあったようで、悲惨な惨状となりました。同質の事件についてはほかにもあります。
http://72.14.203.104/search?q=cache:MdaiU8jG9OsJ:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/zinmin_1994/08/moririronhantai.htm+%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96&hl=en&ct=clnk&cd=1より
「太平洋戦争中にニュ−ギニアで大虐殺 遺族らが日本国首相に対し謝罪を申し入れ」という見出しで次のような記事がでております。  
 「太平洋戦争中、ニュ−ギニア島南部のトンボンチョ村で日本軍による大虐殺があったとして遺族らが来日、八月十日、村山首相あてに日本政府への謝罪と補償を申し入れた。来日したのはこの村の遺族、被害者代表のカビド−ル・マキさん(六十六才)、ピ−タ−・カンボラさん(六十七才)であります。ピ−タ−・カンボラさんの証言によると、旧日本軍は昭和十九年七月、村人がスパイ活動をしたという理由で村の男性九十九人を銃剣などで殺し、さらに隣村の男性たちに対し、この村の女性たちにたいする集団強姦をさせた」。
 この事件は八月十三日、十四日の両日、新宿でひらかれている集会で報告されているはずであります。

トンボンチョ村虐殺事件というべきでしょうか。ここでも現地住民も日本軍の虐殺行為に加担していることが伺えます。この事件についてはネット上には詳細が見つかりませんでした。
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/remember.nsf/pages/NT00005182?openDocumentより
 1943年、オーストラリア人とニューギニア人の将兵から成る連合軍情報局(AIB)斥候隊は、情報収集と島におけるオーストラリアの存在感の回復、及び撃墜された航空兵の救出任務のため、ニューブリテン島に派遣された。現地民らは往々にして、これら斥候隊を支援した廉で報復を受けた。例えば1943年の終わりごろ、日本軍は、AIBの斥候隊が支援を受けていたナカナイ地区(Nakanai area)での支配力を回復しようと努め、そのために村の関係者数人を拷問して処刑し、他の事例では住民は殺害されるか殴打され、または強姦された。オーストラリア軍は友好的な住民をゲリラとして訓練し、1944年2月から3月にかけて、ゲリラたちはわずか二名の戦死を出す間に、二百八十六名もの日本兵を殺害した。ゲリラたちが、日本軍に協力したラバウルの近くの村人に対する報復をしようとした事で、部族間の抗争もまた勃発した。

 日本軍占領期間中に、住民らが分かれてどちらか一方の側についた事から、ワイド湾地区で部族間の抗争が発生した。ラバウルに最も近いところにいた部族は、そろって日本側につく傾向が強かった。1944年5月、オーストラリア人に訓練された八十名のゲリラが、日本兵十四名と日本軍についたニューギニア人十四名を殺害し、このようにしてゲリラ戦は以後数ヶ月間続いた。日本軍はワイド湾後背地における警戒を厳にし、連合軍に加担した疑いのある住民を処罰した。報復を恐れるAIBは、住民らに、より離れた地域へ移り住むよう説得した。この活動は同時に、日本軍にとっての潜在的労働力を殺ぐ事にもなった。

パプアニューギニアの歴史
http://www.meigaku.ac.jp/kokusai/png/19.htmlより
第二次世界大戦、日本軍の進出  

 第二次世界大戦(この場合は1941年以降の太平洋戦争)では、メラネシア地域の多くが戦場となり、日本軍の侵攻とそれに対する連合国軍との戦闘により、多くの地域が激戦場となりました。特に激しい戦場とされて被害を受けたのは、現在のソロモン諸島とパプアニューギニアにあたる地域でした。
 真珠湾攻撃後、マレー半島侵攻に続いて、日本軍はニューブリテン島の町ラバウルに押し寄せました。ラバウルは、当時オーストラリアがパプア地域とニューギニア地域を統治するために行政府を置いていた町でした。1942年1月、日本陸軍の南海支隊(ココダの戦いで米豪軍と死闘を演じて敗退した部隊)がオーストラリア守備隊を撃破してラバウルを占領しました。ラバウルはこの後、南太平洋地域における日本陸海軍の重要な拠点とされました。ラバウルを失ったオーストラリア軍は、ポートモレスビーを強化して日本軍に対抗しようとしました。ここでの戦闘については、別稿「太平洋戦争について」で記述します。
 戦争中のニューギニア現地住民の態度は各地で異なっており、一様なものではありませんでした。日本軍に協力した地域もあれば、連合国軍に協力した地域もあったのです。そして、住民は基本的には日本軍を支持していたわけでも、連合国軍を支持していたわけでもありませんでした。その地域にやってきたのが日本軍であればそれに従わなければならなく、連合国軍であればそれに従うの他なかったのです。場合によっては、日本軍と連合国軍との戦闘に巻き込まれ、村人たちもまた対立せざるを得なくなっていく例もありました。日本軍と現地住民との間に友好関係が成立した例もあれば、対立から現地住民に殺害された日本兵もありました。
 今回、我々は、戦争の犠牲になった人たちの地を訪れるのです。日本がかつてパプアニューギニアを侵略した事実を忘れるわけにも、大国同志の戦争が、その間に立たされた小国の運命を狂わせてしまった事実から目をそむけるわけにもいきません。国際間の友好が真にどこにあるべきなのかを感じることができる旅となることを祈ります。


ニューギニアにおいて連合軍と日本軍の熾烈な戦闘が行われました。しかし、連合軍と日本軍の綱引きは現地住民の協力や支持の奪い合いという側面を持っていました。この地域に支配圏を双方が確立するためには、その地に住む住民の支持および協力が必要でした。そのようにして、戦争に現地住民が巻き込まれていったのです。そうした中で、日本軍についた住民もいれば、連合軍についた住民もいます。部族抗争の側面も絡んで、住民同士の殺し合いという側面もありました。パプアニューギニアにおける日本軍の加害行為の地域の特徴として、部族対立が密接に絡んで住民同士が根本から対立していたところがほかのアジア・太平洋地域とは大きく異なる点かもしれません。日本軍の侵略によって、パプアニューギニア人が多く犠牲になり、壮絶な苦痛を味あわせた事実について目を背けてはならないと思います。  続きを読む
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2006年04月19日

中国の鉄道線路を持ち去った日本軍 中谷孝(元日本軍特務機関員)

【コラム・戦中派の目】中国の鉄道線路を持ち去った日本軍 中谷孝(元日本軍特務機関員) 2006年04月15日掲載
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200604151747186より

 
  戦争を知らない日本人に、日中戦争の私の体験を話すと「エッホント、マサカ」という声が返ってくることがある。平時の常識では考えられないことが多かった。戦場の常で、残虐な話など聞き飽きる程だったが、略奪も軍の組織が"作戦"という名目で行なうと、当事者に余り罪悪感が無いようだ。 
 
 私の勤務していた蚌埠(パンプー)特務機関の管轄する安徽省の揚子江北側に、南北に通じる鉄道が二路線あった。一つは南京の対岸、浦口(プーカオ)から蚌埠・徐州・天津を通り北京に至る大幹線"津浦鉄道"。他に、揚子江上流、裕渓口から北に巣県、合肥県を通り、淮南炭鉱の積出し口、田家庵に至る全長約200粁(キロメートル)の淮南鉄道である。昭和18年頃だったと記憶するが、この淮南鉄道を日本軍が撤去すると知らされた。考えられないことだ。 
 巣県、合肥県には特務機関も現地事務所を置いている。私は昭和16年、新任の機関長櫻庭大佐の初度巡視に随行した折りに利用したことがあったが、沿線には人口が密集していた。この重要な鉄道を日本軍が一方的に廃止するなど無茶なことをするはずはないと思ったが、説明を聞いて唖然とした。大本営参謀の思いつきだった。南方戦場で鉄道を敷設しているが、内地は鉄不足でレールを送れない。そこで中国の線路を外して送ることにしたというのである。 
 撤去される現地はたまったものではない。路盤はそのまま自動車が走れるから、さほど不便ではないというが、巣県、合肥県の住民にとっては、生活必需物資の輸送ができなくなる。この沿線、民間の自動車は一台もない。単線の鉄道路盤は狭くて、荷馬車は軍用トラックと共存できない。自給自足の農民は別として、一般都市住民にとっては大変な事態である。併し、日本軍が住民の立場を考慮するはずはない。秘密裏に準備が進み、蚌埠には工兵の鉄道隊が到着し、直ちに現地に向かった。淮南炭の積出しは田家庵で船積みし、淮河を下り、蚌埠で鉄道に積み替えるルートのみになった。 
 最初の話では淮南-蚌埠間に最短ルートの新線を敷くということだったが、遅々として進まなかった。中国の鉄道を占領したからといって、勝手に線路を持ち去るなどと想像もできなかったが、戦争とはそういうものなのだ。その頃から、南方へ向かう輸送船の撃沈される数が激増した。果たしてあのレールが南方の戦地に届いただろうか。 
 
 レールを外した路盤は自動車が走れるようにはなったが、既に自動車用ガソリンが逼迫していた。各部隊の割当量も減らされる一方で、特務機関の現地班には事実上ゼロに等しかった。内地では民間車軸は木炭車に替わっていたが、戦場まで、代用燃料を使うことになったのである。淮南鉄道撤去の影響はあまりに大きかった。 
 昭和19年12月、淮河上流の古都寿県で、1人で情報工作に当たっていた私は、合肥に転勤命令を受けた。鉄道のない合肥には行きたくはないが、やむを得ない。田家庵まで船で下って、合肥警察隊の連絡トラックに便乗して任地に向かった。警備隊本部ではドラム缶1本だけ、最後の一戦用のガソリンを残してあると言っていたが、連絡用のトラックはアセチレンガスで走っていた。 
 配当される自動車燃料はペール缶に入ったカーバイド(炭化カルシウム)である。ガス発生器にカーバイドを入れ、タンクから水を垂らすとアセチレンガスが発生する。運転手は必要出力を予測して水を垂らしながら走る。ガスと同時に化学反応で熱が出る。すると、当然、水蒸気も発生する。これが禍の原因になった。途中、カーバイドを詰め替えながら走るが、時折、力が無くなって、遂に停まってしまう。水蒸気が凍結してパイプが詰まってしまうのだ。パイプを外し、焚火で溶かして又走る、又停まる。繰り返すうちに暗くなり、途中の分遣隊に一泊する羽目になった。外套を着たままでも、毛布一枚の夜は眠れなかった。結局、80kmを二日がかりで着任するはめになった。 
 この道路がわたしにとって忘れることのできないものとなったのは、昭和20年3月16日のことである。業務連絡の為、巣県に出張することになり、日本軍に協力する南京国民政府第一方面軍のトラックに便乗した。私は第一方面軍の王占林師長とは、昭和14年、彼が日本軍に帰順した当時以来の付き合いで、親しい仲だったので、日本軍のトラックより気楽に便乗していた。日本で開発した木炭車はアセチレン車よりはましであった。釜の中で不完全燃焼して発生する一酸化炭素を燃料として走るのである。 
 巣県に一泊して、空の弾薬箱を積んだトラックに便乗して帰路に就いた。便衣(中国服)を着ていた私は、ソフト帽の上から頬かぶりして弾薬箱の上に座っていた。午後2時過ぎ、橋を渡り終わったとき、突如、大きな衝撃とともにトラックは右に倒れながら土手から飛び出した。地雷にかかったのだ。何も覚えていないが、かすかに足の下に美しい青空が見えた記憶がある。まっさかさまに放り出されたのだ。重症を負い、後遺症に苦しんだ。 
 戦後40歳過ぎて、日本で専門医の診断を受けたが、頚椎捻挫、外傷性硬膜下出血であったといわれた。全く命拾いである。淮南鉄道撤去の影響は大きい。 
 
 そして8月15日、敗戦と同時に合肥県城は敵に囲まれた。敵の各部隊は日本軍の武器を手に入れようとひしめいていた。然し、警備隊は現地での武装解除を嫌い、淮南まで移動することを決定、19日払暁、総員脱出した。城外でわずかな銃撃を受けたが戦闘にはならず、脱出は成功したが、居留民の保護はタライ回しで決まらない。結局、身軽な立場の私が引き受けざるを得なかった。 
 合肥には29名もの民間人が入り込んでいたとは知らなかった。将校用慰安婦、隊外酒保(兵用飲食店)経営者、物資買付商人等であったが、2才の幼児を連れた夫婦者もいた。この烏合の衆を、炎天下、全く日陰のない道を80kmも死なせずに歩かせて、九竜崗の領事館出張所まで連れて行く自信はなかった。1日目の午後、早くも部隊に死者が出た。下痢患者は脱水症状に弱い。2日間の予定を3日掛けることになり、2晩星を仰いで寝た。 
 29名の水の確保が大変だった。休憩中、農家に走り汲み置きの水を飯盒と水筒に分けてもらった。九竜崗に着いて、領事館員に引き継いだとき、急に疲れが出た。今時の流行語だが、自分を褒めてやりたい。淮南鉄道撤去の影響は日本軍にも大きくのしかかった。自業自得である。 
 
 戦争に常識は通用しない。戦場で紳士的な軍隊など見た事もない。同情心、良心を捨てなければ戦争はできないことを、私は7年間充分に体験した。
 
中国戦線で日本軍や日本兵はやりたい放題やっていたことはすでに有名であります。略奪や強姦、虐殺、民間人への暴虐、殺害といった直接の加害の側面だけではありませんでした。中国では鉄道線路でさえ、略奪してしまったのです。ろくに自動車もない時代、住民らの移動の手段は鉄道でした。さらにいえば、生活必需物資の輸送手段でした。南洋の占領地に敷くレールがないので、苦肉の策として中国からの鉄道路線の持ち出しでした。中谷孝氏が言うように本当に考えられないことをするものです。全長約200粁(キロメートル)の淮南鉄道ですが、単線であり、撤去した跡の路盤は自動車が通れるものの、民間に自動車を持っているものはおらず、単線で狭いため荷馬車では軍用トラックとの共存は不可能とのことでした。地域住民の立場など日本軍が考慮するわけではありません。しかし、鉄道線路を撤去したつけは日本軍にまわってきます。路盤には自動車が走れるようになったものの、自動車用のガソリンが底をついて戦場でさえ代用燃料を使うはめになりました。代用燃料のアセチレンを用いたものの、効率が非常に悪く使い物にならないとのこと。敗戦後、混乱の中で民間人を連れて脱出しなければならなかったが、目的地まで鉄道もなく歩いて『死の行進』という有様。もちろん、自業自得というだろうが、歩かなければならかった者たちも上層部の無責任で身勝手な政策で犠牲になった被害者であろう。中谷孝氏は「戦争では常識は通用しない」と。また、憲法9条改正など平和に逆行し、戦争への道を進もうとしているが、同情心、良心を捨て、60年前のように大量虐殺を行う狂信的兵士に自ら、そしてその後の世代にさせるような世の中にしてはいけない。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:06 | Comment(4) | TrackBack(119) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月16日

アンダマン・ニコバル両諸島における日本軍の加害事実(虐殺事件を中心に) 追記編

アンダマン・ニコバル両諸島における日本軍の加害事実(虐殺事件を中心に)
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/16455967.html
にちょっとだけ追記。インターネット上でアンダマン・ニコバル両諸島における日本軍の加害事実に関するソースを見つけました。
 

自由研究発表 要旨03
日本占領下のアンダマーン・ニコーバール諸島-軍政・海洋少年塾・「インド独立運動」
杉本雄一郎(東京大学大学院) 
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssah/conference/prog68_abstract.html

 1942年3月23日アンダマーン・ニコーバール諸島の首府ポートブレァPort Blairは,日本軍により占領された後3年半海軍軍政がしかれる。占領直後より日本側は島民生活圏に東京時間,皇紀といったいわゆる「日本式」を導入するいっぽうで他地域の海軍軍政とは異なり,当地における民族独立運動を支援する旨を表明し,実際にインド独立連盟I.I.L.支部やインド国民軍I.N.A.が創設される。しかし武力を是とする日本側とM.K.ガーンディー流の非暴力主義を信奉する島民との間に独立運動に対する根本的な認識乖離が生じてもいた。いっぽう日本軍政は,「南方占領地域」軍政の三大原則に含まれる国防資源の確保を試みると同時に島民や東南アジア方面からの「ロームシャ」を人的「資源」として動員した。諸島内の労働力動員には進出していた台湾拓殖会社も関与していたが,これらの人々は半ば騙される形で島内外動員を受け,「モノ」のごとく酷使され,多くの人々は終戦後生きて故郷に戻ることができなかった。
 43年初旬連合軍によりボールドヘッドスパイ作戦Operation Baldheadが発動され,占領後約1年間「平穏さ」を保っていた同諸島は戦争という現実の渦中に巻き込まれる。同作戦は44年初旬まで実施され,第1回スパイ潜入時には島民中の通牒者と直接接触していたことが確認できる。いっぽうスパイ潜入を察知した日本軍は,多数の島民をスパイ容疑者として逮捕し拷問を用いた取調べを実施する。結果的に43年初旬に7名,44年初旬には44名の島民がスパイ真犯人として処刑された。これらはすべて島民指導者層に位置するI.I.L.やI.N.A.のメンバーであった。スパイ事件発生と指導者層処刑により,島民は同諸島における独立運動が日本支配とその戦争遂行に従属的な存在であることを確認することになる。ところでスパイ捜査が進行していた43年初旬には,海軍軍政の人的物的動員業務のサポートを主要業務とするアンダマーン海軍民政部が開庁するが,要員の補充が滞ったためその対処策の一環として同年4月に日本語教育機関海洋少年塾が設立される。一期6ヵ月全寮制のもと日本人教員と概ね友好的に寮生活を過ごした島民少年たちが塾において浴した日本語教育は,言語運用能力訓練を優先する実用第一主義と異なって,軍国思想の注入,日本支配への忠誠心の養成,「日本人」化を企図するものであったことが元塾生のノートの記録から確認することができる。そして塾生の多くは軍政機構下の通訳などとして巣立ってゆく。
 大東亜会議が開催された43年の暮れにS.C.ボースは同諸島の地を踏んだが,三日間の訪問中すべての行事は日本側のシナリオにもとづき実施され,島民との直接的接触は実現しなかった。さらに自由インド仮政府P.G.I.代表団が民政の移管を前提に進出するが,当時の司令部参謀による「いてもいなくても同じような存在」という評価があるように日本側から等閑に付されるほどの存在であったといえる。結果的に日本側からの民政移管は実施されず,45年6月に代表団はシンガポールへ退却している。いっぽうでS.C.ボース来訪以降もスパイ捜査は継続され多くの島民が逮捕されるが,取調室には日本人の命令で容疑者に対し拷問を適用する島民警官とともに海洋少年塾出身者の姿があった。現在島民が記憶する日本語で「ケームカチョー」なる単語があるが,これはスパイ捜査の中心で島民の恐怖の対象であった民政部警務課課長をさす。このように日本軍は戦争と軍政遂行に障害を来すものはすべて排除した。そして当地の独立運動は,元I.N.A.兵士が「メヘズ ナームmehz naam」と証言するように限りなく実体の伴わない「有名無実」の存在にとどまっていたと考えられる。そして終戦後島民は人的物的被害に対する謝罪の言葉さえも日本軍側からうけることなく「戦後」をむかえる。

これによれば、島民側の独立運動はガンディー流の非暴力主義に基づいており、武力と暴力の塊である日本軍とは相容れない存在でした。多くの島民、とりわけ島民指導層がスパイ容疑で逮捕され、拷問されて殺されていったのです。驚くべき事実がありました。日本語教育機関海洋少年塾が創設されて島民少年らが洗脳されて忠実な対日協力者に仕立てられていくいくとうものであり、日本軍が逮捕した容疑者の拷問には島民警官とともに、海洋少年塾出身者として対日協力者として仕立てられていた島民少年の姿があったというものです。触れられなかった真実です。日本軍は戦争と軍政遂行のために障害とみなしたものを次々と粛清し、自由インド仮政府の担った独立運動も有名無実の存在となりました。結局は島民の人的物的な被害に対する謝罪の言葉さえも日本軍から受けることもなく「戦後」を迎えましたが。戦後60年の現在でも島民の犠牲者や被害者に対する日本政府の謝罪の言葉もないし、アンダマン・ニコバル両諸島はスマトラ沖地震の大災害で注目を一時浴びましたが、日本軍がこの両諸島でいかに暴虐を働いたのか知っている日本人はいません。まことに嘆かわしい次第です。以上
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2006年04月13日

アンダマン・ニコバル両諸島における日本軍の加害事実(虐殺事件を中心に)

壊滅的...アンダマンニコバル
http://am.tea-nifty.com/ep/2004/12/dairyandamanese.htmlより
 
うちのじいちゃんはアンダマンに派兵されてた。
戦犯で処刑されるところを、アンダマンの現地の人々による申し立てで命を救われたという。
じいちゃんは故人。
大戦を知る古老も、日本語や日本の唱歌を覚えているアンダマン人も、大半はすでに故人であったろう。
このたびの津波災害で震源地直近であるアンダマンニコバルの情報がみごとに欠けているのが非常に気になっていた。
(略)  

大戦当時。
食糧が涸渇し、ゾウをも殺す日本兵と現地民との確執が深刻だったという。
スパイ容疑での民間人処刑も行われたという。
記録の少ないアンダマン戦。

 
ゾウをも殺すことができる残虐非道な心をもつ日本兵と現地民の確執が深刻になるのは当然だろう。第二次世界大戦中、最前線であり連合軍の工作の中心となり、大海の中で孤立し、疑心暗鬼になり日本軍が凶暴性を高める中で虐殺や民間人の処刑が行われた。


インド領アンダマン諸島にも韓国人の日本軍「慰安婦」

発見された新しい関連資料

http://www.jrcl.net/web/frame04a6.html
 
 日本軍の慰安婦として引っぱられていったハルモニ(おばあさん)たちの苦難に満ちた旅路はどこまで続いていたのか。
 「満州」からインドネシアまで東アジアの全域にわたっている慰安所の跡ごとに朝鮮の乙女たちのハン(恨)は涙でにじんでいる。ここに、さらにもう一つインド領アンダマン諸島にも韓国人の軍慰安婦がいたという事実が最近、文献から明らかになった。アンダマン諸島は太平洋戦争において日本が占領した地域のうち、最も西方に位置している。当時、日本軍の最前方だったのだ。  
軍属や商社員までもが利用

 「日本軍の慰安婦として連れてきた一団の韓国人女性たち(a batch of Korean women)が居住できるように彼の事務所を貸すことを要求した」。
 インドのドキュメンタリー作家であるイクバル・シンが書いた『アンダマン・ストーリー』(1978)の245ページに出てくる一文章だ。「彼」とは当時アンダマン諸島でインド独立運動をしていたティワン・シンを指している。1942年2月23日、アンダマン島の中心地であるポートブレアに進駐した日本軍は、彼を排除するために反対派が作りあげた話に乗せられて、彼をスパイ容疑で投獄しようとし、そのきっかけをつかむ方便として彼にこのような無理な要求をしたのだという。
 脈絡はともあれ、このひとことの言及はアンダマン島に韓国人の軍慰安婦がいたという事実を証言している。この本は、83年にヘチョのインド巡礼の道を調査中にアンダマン諸島に立ち寄ったコ・ビョンイク元ソウル大総長が、この諸島の歴史に関心を持ち購入、所蔵してきたものだ。コ元総長から、この本についての話を聞いた在米の史学者パン・ソンジュ氏が韓国挺身隊研究所に連絡し、この新たな事実が陽の目を見ることになった。
 アンダマン諸島に日本軍の慰安所があったということは日本の戦争資料センターが発行している季刊誌『戦争責任研究』95年冬号に紹介されたことがある。アンダマン諸島を管轄していた日本海軍第35独立混成旅団所属の第12特別根拠地隊司令部が定めた「海軍慰安所利用内規」を通じてだった。軍慰安婦問題研究家である木村コウイチロウは日本の防衛庁防衛研究所に所蔵されていた資料を引用して記録した。この論文において内規の詳細な事項を、こう紹介している。
 「海軍慰安所の管理と経営は海軍司令部が一括してこれを定める。家屋は業者が無償貸与するものとし、家具調度品などは最小限必要なものを一時貸与する。業者は貸与された物件の保管に責任をとる。軍慰安所の使用券は司令部が発行し、それを各隊が定めた標準によって配布する」。
 このような各条項を通してみるとき、この慰安所は軍が強力な影響力をもって管理、経営の責任者として業者に慰安所の経営を委託していたことが分かる。この資料によれば司令部傘下の慰安所は五カ所で、軍人だけではなく、軍属、司令部の許可を得た商社員もが利用でき、階級、身分を基準に利用時間や料金を定めた。
 今日までビルマ(現ミャンマー)、タイ、インドネシアなど東南アジアに散在した日本軍慰安所に、わが国のハルモニたちが引っ張られて行った事実は証言や文献を通じて明らかになったが、インド領のアンダマン諸島にまで韓国人慰安婦がいたことが確認されたのは今回が初めてだ。インド洋のコバルト色の海と風変わりな植生がぐっと異国的だとして最近の韓国人観光客を誘惑しているが、大洋のまっただ中でその凄絶な生を終えたハルモニたちがいたという事実は、また違う思いにわれわれを誘う。

だれがいたのかは分からない

 アンダマン諸島は19世紀中葉、英国の植民地支配に立ち向かったインドの政治犯たちが幽閉されていた「セルラー」という監獄で有名だ。その監獄のそばで、死ぬまで同じ夜を送らなければならなかった一群の朝鮮の乙女たちは、独立という言葉を口にのぼせることさえもできたのだろうか。
 韓国挺身隊研究所カン・ジョンスク研究員は今回、明らかになった事実について「日本軍が行った所なら韓国人慰安婦も必ず行ったと言える」と言い切った。アンダマン諸島は日本の敗戦後、連合軍が管理したのだから軍慰安所についての記録は英国などに残っているだろう、というのがカン研究員の主張だ。だがいまのところ、ここにどんな顔の、どこ出身の、だれが生きていたのか、われわれは知ることができない。(「ハンギョレ21」第268号、99年7月29日付、パク・ヨンヒョン記者)

 
 アンダマン・ニコバル島の最前線にまで韓国人女性が連れてこられました。誰がいたのかは分かりません。恐らく敗戦後帰国できずにアンダマン・ニコバルの地ではるか祖国へ帰ることを夢みて朽ち果てていかれたのか、あるいは日本軍によって虐殺されたのか分かりませんが、余すところなく真相究明を行い、事実の公表し、遺族への謝罪および補償、連れてこられた慰安婦女性が生存しているならば、一刻も早く帰国させなければなりません。そのための調査が全く日本政府によってなされていません。  アンダマン・ニコバル諸島はインドの独立闘志チャンドラ・ボースのゆかりの深い島々として知られ、自由インド仮政府が置かれていた。インドの独立を目指す有志たちがアンダマン・ニコバルを拠点に日本軍とともに存在した。また、英国の植民地であるインドの政治犯の流刑所としても知られており、皮肉なことに日本の植民地体制の下で苦しんでいた韓国人女性が日本軍性奴隷として連れてこられたのである。
 
東南アジアの日本軍慰安所
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper22.htm
 
インド領だったニコバル諸島にも日本軍の慰安所が開設され、ここには日本人やインドネシア人の慰安婦が連れてこられていたという(26)。
 
 (26)河東三郎『ある軍属の物語』思想の科学社、1989年
アンダマン・ニコバルには日本人やインド時ネシア人の慰安婦も連れてこられていたようだ。
 
  東南アジアで日本は何をしたのか  
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htm
 
 日本との戦争が始まると、インド領であるベンガル湾のアンダマン・ニコバル諸島が一九四二年三月日本軍に占領された。最前線のこの島々は連合軍の工作の対象となり、そのため住民がスパイを働いているという疑いをもった日本軍による住民への拷問、虐殺がおこなわれた。


最近読んだ本(お勧めしたい本)やビデオのページ
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/16review.htm

木村宏一郎『忘れられた戦争責任―カーニコバル島事件と台湾人軍属』  

 連合国が日本に対しておこなった、いわゆるBC級戦犯裁判についてはこれまで多くのことが語られてきた。しかしその圧倒的多数は日本側の被告に身を寄せてその語りだけに耳を傾け、日本人の被告がいかに虐待され報復裁判で根拠もなしに罰せられたのか、ということをことさらに強調してきた。もちろんそうした側面を否定するものではないが、日本軍の残虐行為の対象とされて殺され苦しめられた人々(被害者)、裁いた連合軍の裁判関係者、裁かれた日本人戦犯や日本人弁護士(ここには当時、日本国民にさせられていた韓国・朝鮮人や台湾人も含まれる)のそれぞれに耳を傾け、冷静に戦犯裁判について議論しようとする姿勢がほとんど見られなかった。評者はさきにイギリス裁判についての研究をまとめた(『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、一九九八年)が、連合国のいずれかを取り上げ、その政策意図や裁判の実施過程について裁判国の資料を使ってまとめたものは残念ながらそれまでなかった。同書のなかでシンガポールやマレー半島でのいくつかのケースを取り上げて検討したが、個々のケースについて被害者、連合軍、日本の三者の資料をあわせて検討する作業が必要であると痛感していた。本書はカーニコバル島事件について見事にその真相を抉り出し、イギリスがおこなった戦犯裁判の意義と限界を明らかにしている。
 本書はカーニコバル島事件に関わって、シンガポールでイギリス軍によっておこなわれた戦犯裁判で死刑に処せられた台湾人軍属安田宗治(本名頼恩勤)の跡をたどり、その事件の真相に迫ろうとするものである。インド洋にあるアンダマン・ニコバル諸島(インド領)のなかの一つの島カーニコバル島には日本の陸海軍が配備されていたが、連合軍の反攻の前に孤立し、英機動部隊による三度にわたる空襲を受け緊迫した状況下におかれた。そうしたなか一九四五年七月から八月にかけて島民八〇数名をスパイ容疑で逮捕し処刑するという事件がおきた。安田軍属は通訳として島に駐留し、逮捕した島民の取り調べにあたった。日本側の資料によれば島民がスパイ活動をおこなったので彼らを逮捕し軍律会議にかけて銃殺したというものだった。論者によっては(茶園義男氏)、対日協力者が戦後、自分の身を守るために事実無根の事件をでっち上げ、イギリスは報復のために利用したという議論さえある。
 この事件について筆者は日本側の文献や関係者の証言を集めるとともに、イギリスがおこなった裁判の記録(速記録や証拠書類など関係書類一式がまとめて綴じられている)を入手し、さらにインド人の研究も参照しながら事実を読み解いていく。日本軍は、島民のスパイ組織があり、信号ロケットやランプで英軍の潜水艦や飛行機に連絡を取っていたと主張したが、筆者はロケットもランプも根拠のないものであること、スパイ組織なるものが存在しなかったことなどを諸資料と照らし合わせて結論づけていく。裁判長の訴訟指揮が検察に有利に導いたということはなかったこと、証人数や尋問時間においても弁護側が検察の二倍以上の機会が与えられていたことなど裁判の運営が「公正」であったと評価している。
 裁判では一六名が起訴され、齋俊男少将(第三六独立混成旅団長)以外に安田宗治軍属を含む五名、計六名が死刑となった。全体の責任者である旅団長とともに島民の取り調べにあたり、拷問をおこなってニセの自白をひきだしたと見られた下級の五名にも死刑というものだった。この五名のなかには取調べをおこなった木村久夫上等兵も含まれていた(なお齋俊男少将について筆者は「総司令官」としているが旅団長をこのように呼称するのは適切ではないだろう)。
 筆者は裁判記録のなかから、判決後木村が、弁護士と共謀して真相を伏せていたと訴えている嘆願書を見つけた。残念ながらその真相を書いたものは残っていなかったが、ほかの日本側関係者の証言から、軍律会議は開かれておらず裁判なしで島民を処刑したこと、しかも銃殺というものではなく、銃撃、銃剣刺殺、首の試し切り、軍医による肝臓摘出などきわめて残虐な虐殺であったことを明らかにした。裁判では拷問によるウソの自白が事件の重要なポイントであると考えられ、取調べにあたった五名を旅団長とともに死刑にしたが、それは真相からは外れていた。軽い刑に終わった、あるいは免罪された参謀や大隊長ら駐屯部隊の上層部こそが厳しく裁かれるべきであることを主張している。 この裁判がイギリスによる報復だとか、でっち上げだというような、これまで日本側から言われてきた議論が完全に否定されると同時に、イギリス裁判が一定の「公正」さを持ち、事実をそれなりに追求していたことを承認しつつ、事件の真相を捉えそこない、責任をとるべき者を免罪し、そうではない下級の者に極刑を与えたという裁判の欠陥を見事に抉り出した。筆者の、それぞれの資料を読み解きながら真実に迫る、資料批判の確かさと執念にあらためて敬服させられた。
 戦犯として処刑された安田宗治の妻頼黄甘さん、娘の暎暎さんと筆者との交流が氏を動かした大きな要因だろう。台湾人軍人軍属の遺族にはようやく一九八九年になって二百万円の弔慰金が支払われたにすぎなかった。軍事郵便貯金は九五年に一二〇倍の計算で支払われただけだった。日本が引き起こした戦争が頼黄甘さんをはじめ台湾の人々に深い傷を残している。本書のタイトル「忘れられた戦争責任」とは、日本軍の犠牲となったカーニコバルの人々に対するものであると同時に、日本軍の一員として駆り立てられた台湾など植民地の人々に対するものでもある、その二重の意味が本書には込められていると読める。
 本書は今後、BC級戦犯裁判を研究するうえでの一つのモデルとなる、すぐれた著作である。氏の努力に敬意を表するとともにこうした作業の積み重ねこそがいま必要であると感じる。(青木書店、2001年12月刊、3400円)   <『歴史評論』2002年9月号、に掲載したものです> 
 

 木村宏一郎『忘れられた戦争責任-カーニコバル島事件と台湾人軍属』という本については私は読んだことはありません。しかし、林博史の書評とこれまでの情報からは想像はできます。日本軍のアンダマン・ニコバル島の島民に対する残虐行為、そして免罪された日本軍の上層部と下級兵士に責任を押し付けられた裁判の問題点ととりわけ台湾人軍属安田宗治氏が極刑にされたことだった。アンダマン・ニコバル諸島という小さな最果ての島々に大日本帝国・日本軍の戦争加害の問題、戦後の戦犯裁判、日本人の逸れに対する有り方など重要な問題点がたっぷりと詰まっているのである。日本人の被告がいかに虐待され報復裁判で根拠もなしに罰せられたのか、この裁判がイギリスによる報復だとか、でっち上げだというような側面はこの本によればすべて否定されている。イギリス側はむしろ一定の公正さを保ち、見方によっては証人数や尋問時間においても弁護側が検察の二倍以上の機会が与えられてたなど、むしろイギリス側の検察にとって不公正であり、より力のある日本軍の上層部が弁護士を雇い、自分たちが免罪、あるいは軽い刑で済んで、本来なら裁かれるべきではない、あるいはより軽い刑で済むはずの下級兵士に大罪をなすりつけることにつながったような気がする。ネットの右翼的妄言にはイギリスの報復裁判であり、でっち上げだった、著しく不公正で根拠はないものとして、アンダマン・ニコバル島での虐殺事件を否定しようとするような典型的な思考停止型歴史修正主義言論がありました。紹介します。
東方見聞録 アンダマン島
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/19440630matukawa/2501matukawa-andaman.htmより
●アンダマン島の戦略的価値 


(略)

地理上のアンダマンはイギリスとオーストラリアの連絡ルートを断つために重要だったのであり、そのことは南太平洋の島々にも言えることでした.
政治的に見るならば,日本政府がアンダマン諸島を,インド独立を目指すネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの自由インド仮政府に割譲したこと,この事実は現在殆ど顧みられることはありませんが,もっと注目されるべき事だと思うのです.
戦後になってイギリスは,自由インド仮政府の首脳だったインドの人々を英国王に対する反逆罪で告訴しますが,弁護側はアンダマンという領土を保有した自由インド仮政府は交戦権を持つれっきとした独立国と認められるという反論を行います.民衆もまた被告を熱狂的に支持し,結局イギリスによる復讐裁判は被告たちを極刑に処することに失敗するのです.詳しい経緯は紙面を改めて書きます.
マルコ・ポーロから650年後のアンダマン諸島は,西洋と東洋が熾烈な鍔迫り合いをせめぎあう文明衝突の最前線となっていたのです.そして犬頭人が住んでいた島々は,飢えと戦闘と病に薨れた数多の日本軍将兵の骨に埋め尽くされたのでした.(この項おわり)


この記述は嘘をついています。どこだか分かりますか?太字にした部分です。民衆側が被告を熱狂的に支持するわけはありません。日本軍占領下は連合軍の封鎖もともない食糧の枯渇、飢餓(日本兵も多数餓死している)、強制労働、そして戦争末期にかけて起きた住民処刑および虐殺です。それに被告たちを極刑にするのは失敗してません。ただ、本来裁かれるべき上層部が免罪されたり、軽い刑で済まされたということです。日本軍上層部はいろいろ事実を隠蔽して、でっち上げたりして下級兵士に罪を押し付けました。この記述は事実無根であり、歪曲甚だしい右翼的妄言の典型的例です。

 
側の海路三万キロ   ニューヨークの思い出 島崎生徒
http://www2u.biglobe.ne.jp/~navy77/page019.html
 
 彼の厳父は海兵50期出身の大佐であった。海軍大学出の参謀としてアンダマン諸島第12特別根拠地隊のあるポートブレアの副長兼先任参謀として、昭和19年4月、インド洋方面最前線基地である海軍部隊に赴任した。横須賀海軍砲術学校の教官研究部員からの転任であった。
 アンダマン・ニコバル諸島といえば、インド洋の一部ベンガル湾海域のマラッカ海峡の北海上にスマトラからビルマのヤンゴンの方に向けて連なる300以上の島嶼である。
 英国が管理している時代は、巨大な監獄が辺りを睥睨し、インド本国やビルマでの反英活動家や凶悪犯人を連行投獄していた。住民は殆どが流刑囚人とその子孫家族で、道路工事やジャングルでの材木の伐採などの雑用があてがわれ、食料はビルマやインドから米や小麦などを運び込んで配給しており、ここでの農耕による生産活動などは皆無であった。
 太平洋戦争時には日本軍は英軍と戦いこの島嶼に進駐した。このような背景の中での島民の統治、食料の供給は至難を極めたことは想像に難くない。英国統治時代は、何しろ労働は酷だが何とか心配なく食えていたのであるから。
 チャーチルは声を大にしてアンダマン奪回を叫んだと聞く。占拠していた日本軍にして見れば、英軍による海上封鎖と執拗な攻撃、スパイ・ゲリラの送りこみ、敵軍の来襲を避けての部落民移動、食糧の供給(日本軍の食料も覚束ない中)、その内一部住民の餓死事故の発生、どれをとっても何も分からない住民から見れば虐待と見えただろう。
軍政方針としては一定の自給自足の促進、日本語学校の創設、農耕指導など、日本軍側の親切心から出た配慮も虐めとしか受け取られなかったであろう。
 やがて敗戦、英軍は人道的責任を問い、戦犯者の認定摘発、報復的裁判、それに原住民による顔実験などにより被告96人を認定し、その内の43人がシンガポール チャンギー刑務所にて刑死されたのである。
 当然、その中の筆頭として島崎大佐がおられたのである。最善を尽くしたと自負できる島民に対する軍政のあり方、それも現地人にして見れば拉致・虐待となり、報復的裁判前後には言語に絶する侮辱と憎悪の暴行なども繰り返されたと聞く。
 こうしてアンダマン・ニコバル諸島の戦後処理として一方的そして報復的裁判により刑死者は無念の涙を飲んで憤死されたものと思う。本来試合が終われば英国流のノーサイド(ラグビー)として紳士的判断を下しそうなものの英国軍の、思わぬ残虐なる仕打ちには憾み骨髄に徹するものがあったろう。  

(略)


ああ!黄泉への道には味方も敵もなく、ただ死にいくだけであり、(踏むべき道を違えようが違えまいが拘泥することなく、片っ端から冥土に連れ込んでしまう)
 
戦局の悪化とともにアンダマンは、ポートブレアといい山中といい、友軍も住民〔放浪的、反抗的、また純朴な種族が混住していた〕も白骨の山と化し、露さえ降りていた。

住民政策では、一部住民のスパイ・ゲリラ活動とも相俟って、情を優先すれば敵の思う壺であったし、(当時のアンダマンは、英軍海軍の海上封鎖により兵料責めの状態であり、住民の食料生産などは元より不必要な政策下にあったため、食糧危機に瀕していた)
戦争遂行の必須政策を真面目に実施すれば、住民の生活は深刻度を増す結果となる。しかし
、住民は英国の統治下、労働奴隷的食料のあてがい扶持的政策の下にあり、その習慣は、幾ら指導しても、食料緊迫の状況下でも自給体制を自ら考え様とはしなかった。
時に我が方は決戦態勢下、その中での最適化を目指して島における軍政を推進し、住民に対する配慮も含めこれ以外に道はなかったし、正道に外れたとは決した思わない。
勝者が敗者を裁く、しかも住民の摘発的検索による認定を唯一の証拠として戦犯者の烙印を押すことが罷り通ってよいのであろうか。
報復の手段としての裁判などは、幾ら勝ち戦の後の異常な精神状態の下とはいえ、歴史の正義からしても全く愚者たちのやることである。
嘆かわしい次第である。
 

 前の『東方見聞録』の記述よりはるかにましである。前の『東方見聞録 アンダマン島』のページの記述を明確に否定する部分があるからだ。英軍の封鎖のためだけの理由だとしながらも、食糧の供給の外からの供給がなく、飢餓が蔓延していること。住民が食糧を自給できない制度に慣れており、日本軍がいくら指導しても自給体制を自ら考えようとしなかったとかいろいろ住民側を悪く罵り、日本軍は努力しており、何の非はないととんでもないことを書いているものの、日本軍の占領統治が結果的に住民の反発を招いていることを認めている。戦犯裁判の際、被告らに住民らが侮辱と憎悪の暴行を加えたことも認めている。これらの記述は民衆が日本兵戦犯の被告らを熱狂的に支持し,極刑を覆したなる妄言を木っ端微塵に否定するものだった(島民に慕われていたり、島民自身が被告は極刑に値することはやっていないことを知っており、島民からの嘆願で極刑が覆った日本軍戦犯裁判史上稀な事例がアンダマン・ニコバル諸島で起こった可能性も否定できないが、その場合も日本兵個人であり、日本軍や日本軍の占領統治が慕われていたからではない)。しかしこれもまた典型的な日本軍の戦争加害を減免しようとする記述に他ならない。 
太字を中心に反論しておこう。『軍政方針としては一定の自給自足の促進、日本語学校の創設、農耕指導など、日本軍側の親切心から出た配慮も虐めとしか受け取られなかったであろう』とあるが、自給自足の促進、日本語学校の創設、農業指導などを行ったのは事実かもしれないが、占領軍の自衛措置に他ならないものである。それに日本軍は親切心など一欠けらももたない。たとえば日本語学校を創設したことの意味を考えてみればわかる。大東亜共栄圏下に組み込んて大日本帝国の植民地下にして島民に皇民化教育を行ったことにほかならない。本当に馬鹿馬鹿しい限りの記述である。『アンダマン・ニコバル諸島の戦後処理として一方的そして報復的裁判により』しているが、前述の通り、一方的な報復的裁判ではないことは明らかである。『刑死者は無念の涙を飲んで憤死されたものと思う』とあるが、これはその通りだと思うが、その無念の涙というのは自身の冤罪、罪を上層部から被せられて、信じていた上官などから裏切られたという風な気持から来るものだ。決して裁判での日本軍加害事実が冤罪であるということを意味するものではない。『情を優先すれば敵の思う壺であったし』とあるが、本当にそうだろうか?敵のスパイ行為というのもたとえば、スパイ組織なるものがなかったことは木村宏一郎著『忘れられた戦争責任―カーニコバル島事件と台湾人軍属』によれば明らかだ。もちろん、日本軍は連日来る連合軍の空襲と窮乏と戦況の悪化が相まって、疑心暗鬼になっていたことは事実である。疑わしい島民を処刑するためにスパイ組織なるものをでっち上げたのが真相だろう。情を優先するどころが、日本軍は情など一欠けらもなく(もちろん日本兵個人個人のレベルでは例外もあるかもしれないが)、残酷・残忍に振る舞い、島民の反発を募らせていったことこそが、反日感情を高ぶらせ、連合軍(敵)の思う壺だったのではないのか?『住民は英国の統治下、労働奴隷的食料のあてがい扶持的政策の下にあり、その習慣は、幾ら指導しても、食料緊迫の状況下でも自給体制を自ら考え様とはしなかった。』という記述も何回も言うように住民を愚弄するものであり、日本軍を免罪しようとするものだ。そもそも、アンダマン・ニコバル諸島を侵略して、駐屯しているのはどこのどいつだと言いたい。日本軍である。日本軍の兵員数に関する資料は見当たらないが、少なくとも数万人はくだらないと思う。何万人もの日本兵が駐屯したのであれば、もともと非食糧自給地区であったアンダマン・ニコバル諸島で食糧危機に陥るのは必至である。長年身についた習慣を変えるのは並大抵のものではない。まず、きちんと前もって調査せずに、アンダマン・ニコバル諸島を侵略して、英国・インド領を攻略する基地にしようとしたのが悪い(そもそもアンダマン・ニコバル諸島を侵略したこと、アジア・太平洋地域への侵略戦争を発動したこと)が悪いのである。もう一つは戦術・戦略面の準備不足・欠如である。日本軍は「現地自活」「現地調達」の方針をとって、兵站を軽視し、現地から過酷な取立てすることを基本方針としていた。まして、アンダマン・ニコバル諸島のような食糧の生産土壌が根本から欠如している地区でこのような方針をとった場合、どういう惨事になるのか想像できるだろう。もう一つは物理的に兵站がのびきって、英軍の封鎖も合わさって補給(日本本土からも、他地域からも)が不可能になっていたことで、アジア・太平洋戦争を発動した際、明確な戦略がなく、海軍・陸軍間に留まらず、相互の各部隊間で連携が全く欠如しており、物理的・経済的・国力の面を無視して戦線を無秩序に底なしに広げていったのである。そういった失敗の数々を住民のせいにしてごまかそうとするのは甚だおかしいのだ。『勝者が敗者を裁く、しかも住民の摘発的検索による認定を唯一の証拠として戦犯者の烙印を押すことが罷り通ってよいのであろうか。報復の手段としての裁判などは、幾ら勝ち戦の後の異常な精神状態の下とはいえ、歴史の正義からしても全く愚者たちのやることである。』ということだが、これも完全に間違っている。アンダマン・ニコバルでの戦犯裁判をはじめ、英国の戦犯裁判に限っていえば、単純に勝者による敗者に対する報復裁判という観点でみるのは(個々の事例)にもよるだろうが、間違っているといえる。英国裁判の中心は日本軍による自国の捕虜や抑留者に対する日本軍の残虐行為を裁いたというよりは、日本軍による自国の植民地の住民への加害をより多く裁いたといえる。アンダマン・ニコバルでの戦犯裁判における被害者は島民なのだから。それに一部に報復の手段での裁判という観点を認めるとしても他にどうすればいいという代案はあるのか?アンダマン・ニコバルで日本軍の残虐行為の犠牲になった島民犠牲者・被害者を無視した横暴な言論である。日本人の手で裁きなおすべきだったというのであれば別だが。アンダマン・ニコバルでの戦犯裁判をはじめ、日本軍の残虐行為を裁いたということ自体に意義があるのである。裁かれなかったら被害者や犠牲者の人々は報われないだろう。英国自身、昔の大英帝国を復活させるために住民の支持を必要としていたのである。

ところで、『その中の筆頭として島崎大佐がおられたのである。最善を尽くしたと自負できる島民に対する軍政のあり方』と
いう部分があり、島崎大佐自身は島民のために最善を尽くした良心的な軍人だった可能性がある。そのような軍人がいた可能性にについては詳しくは<続きを読む>で 触れることにする。
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2006年03月22日

インドネシアにおける日本軍強制売春(性奴隷)システムについて

ネットサイト上におけるインドネシアにおける従軍慰安婦についてまとめてみました。

インドネシアで子供に教える日本軍の性犯罪
http://www.ipsnews.net/jp/n02/09.htmlより
(1月30日)
リチェル・ダルシン著
【ジャカルタIPS】
第二次世界大戦中の占領日本軍による性犯罪の実態が、まもなくインドネシアの学校で子供たちに教えられるようになる。遅すぎた歴史教育ではあるが、ないがしろにできないテーマだ。
「インドネシアで起きた日本軍による性犯罪を子供たちに教える目的は、日本の占領下で何が起きたのかという真実を伝えることです。過去を隠すことなどできませんから」とエラ・ユララワティさんは語る。ユララワティさんは、文部省で初等教育のカリキュラムを担当する責任者だ。
 学校教育課程に性犯罪問題を盛り込み、1942年から45年まで、インドネシアの女性たちが日本軍の性の奴隷として働かされるようになった事実を学校で教えるべきだと提案したのは、ジョクジャカルタの非政府組織(NGO)の「司法支援所」(LBH)だ。「インドネシアの子供たちが、自分たちの国の歴史を漏らすことなく学ぶことは重要なことです」とLBHの弁護士ブディ・ハルトノさんは言う。
一方、文部省の研究開発課程センター所長のスード・カリム氏によれば、「日本軍の残虐行為は、小中学校、高校の教科の中に盛り込まれることになる」。おそらく、改定されたカリキュラムが導入される来年には、実施されることになりそうだ。
 数十年前、第二次世界大戦中のインドネシアで、どのようにして女性たちが日本軍の「慰安婦」にさせられたかをよく知るインドネシア人は、高齢者も含め少ない。中国、韓国からフィリピンまで、東アジアで約20万人の女性たちが、占領日本軍から兵士たちの性の奴隷として働くよう強要された。インドネシア女性もその20万人の一部だ。
 「これまでインドネシアでは、日本軍による性犯罪の問題は決して教えられることがありませんでした。歴史の教科書はインドネシアの英雄たちのことだけを伝え、犠牲者としての女性を扱うことなどなかったのです」と文部省で教育課程の研究に携わるヘルマナ・ソマントリーさんは話す。例えば歴史教育に登場するインドネシアのヒロインとしてはカルティニさんが挙げられる。彼女は、インドネシアで女性が二流市民とみなされがちだった時代に女性の権利を訴えた活動家だ。
 「90年代になって、韓国やフィリピンの元慰安婦が証言するのを耳にするまで、インドネシア人はインドネシアで従軍慰安婦が存在したことすら知らなかったのです」。ソマントリーさんは、自分の過去について公言するようになった韓国とフィリピンの女性たちに触れながら、こう指摘した。彼女たちが証言してくれたおかげで、圧力を感じた日本政府はようやく、アジア中に設置された「慰安所」について「自責の念」を表明したのだった。今では高齢となった犠牲者らが「性の奴隷」に関する報道の正しさを証明した90年代初め以降のことだ。
 第二次世界大戦末期の日本軍による占領について、歴史の教科書はかなりの紙数を割いてはいるが、インドネシアの女性たちが性の奴隷として搾取された事実には触れていない。90年代に入ってようやく戦時中の性犯罪が明らかになったことを別にしても、2億1000万人の国民の大半がイスラム教徒であるインドネシアでは、とかく「性」がタブー視されがちだ。
 専門家によれば、歴史の教科書は、日本人について性以外の面で、悪いイメージを伝えているという。「インドネシアの女性が日本軍兵士の性の奴隷となった問題は学校で教えることがなかったものの、日本軍占領時代の日本人について、欲深い泥棒だったといった教え方がなされてきました」とソマントリーさんは指摘する。
 歴史教科書には例えば、日本軍兵士が住民から米や戦闘で利用できそうな物資を盗んだことが記されている。「彼らは戦争で必要なものとあれば何でもインドネシア人から奪いました」。ユララワティさんは歴史教科書の記述をこう紹介している。
 自国の国民に事実を知ってもらうことなく、多くの慰安婦がすでに他界している。現在も生存が確認されているのはジャワと東ヌサテンガラの計1156人だ。ただ、実際の元慰安婦の数は、これよりもっと多いとみられる。中には過去を葬りたがる女性たちもいるからだ。ソマントリーさんは言う。「恥だと思って、名乗り出ない元慰安婦がいるのです」
 だが、他のアジア諸国の犠牲者らのように、法的な謝罪と補償を求めて立ち上がった女性たちもいる。昨年は、過去の日本政府による補償がスハルト政権によって不当に流用されたとして、元慰安婦が追加補償を求める出来事があった。彼女らは、他のアジア諸国の元慰安婦が訴えているように、過去の日本政府による謝罪は形式的なものに過ぎないとして、明確な真の謝罪を要求した。
 ジョクジャカルタ出身で71歳になる元慰安婦のマルディイェムさんは言う。「私たちに対する行いについて日本政府にきちんと遺憾の気持ちを表現してほしいのです」。
 96年、スハルト政権は当時の社会相のインタン・スウェノ氏を通じ、90億ルピア(約90万米ドル)の金を元慰安婦支援金として受け取っている。資金源は、日本政府が寄付金を集めて創設したアジア女性基金だ。受け取った金のうち、7億7500万ルピアは、高齢者用の住宅5棟の建設費として使われたが、残りの使途は不明だ。「犠牲者は一文も手にしていないのです」と「正義と民主主義のためのインドネシア女性連合」に所属する国会議員のカトジャスンガナさんは言う。
 日本軍占領下でインドネシア人女性が強いられた苦境そのものを子供たちに教えることに加え、慰安婦問題の教育では、女性への暴力を減らすことも同様に大切な目的だ。「女性が守られなければならないこと、女性への暴力は許してはならないことをインドネシアの国民が学ぶことはとても重要なことなのです」とユララワティさん。
 文部省関係者は、日本軍が犯した性犯罪を倫理教育の中で教えることも予定している。「女性の苦しみや勇気に重点を置いた授業にするべきです」とユララワティさんは言う。「さらに、子供たちが日本人を憎むことにならないよう慎重に教える必要もあります」と主張する。
 日本軍の慰安婦問題以外の戦争犯罪についても教えるべきだと要求している専門家もいる。「なぜ日本軍の性犯罪だけを子供たちに教えるのか。オランダ軍の兵士だって、350年にわたる植民地時代に自分たちの性欲を満たすためインドネシア人女性を使ったではないですか」とユララワティさんは指摘する。

大日本帝国はインドネシアにおぞましいことをしました。米や労働力、そして、女性までも徴発し、奪いました。インドネシア人の女性は性奴隷として日本兵への性奉仕を強制されました。現在生存が確認されている被害者だけでこの記事では1156人で死去された方や実際に名乗りでない方、別の場所へ強制連行されて戻ることができずに残留された方、終戦時に日本軍によって虐殺された犠牲者などを含めれば、これ以上の数になるのは当然です。

日本のインドネシア占領と独立運動
   講師;藤原 彰先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)
http://www.ei-en.net/frenet/kouen5.htmより
 日本は、基本的には、インドネシアは独立させず、日本直轄の領土にすると言ってきたわけです。インドネシア人を、「兵補」とか「義勇軍」とかに編成したのも、日本軍の下働きをさせる意味だった。ですからインドネシア人は、兵補という形で日本軍に直接使われたり、或いは労務者として連れて行かれたりした。またインドネシアへは、軍隊だけなく商社もいっぱい資源開発のために出て行っている。日本人の人口は、軍隊よりも多かった。その人々のために、インドネシアの女性が何万人も慰安婦にされた。ということで、結局日本はインドネシアの独立の援助をしたのではなく、それを抑えた側に終始立っていた。

このサイトでは何万人もの女性が慰安婦にされたという。軍人だけでなく民間人も多くいて、そういう人たちのためにインドネシアの女性は性奴隷として弄ばれたという。
半月城通信 No. 36 性奴隷と奴隷条約
http://www.han.org/a/half-moon/hm036.htmlより
 被害者の証言以外では、インドネシアの事例がかなり明らかになっている。ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を連行したケースや、スマランからフローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が連行したとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したとする証言、アンボン島で地元女性を連行したとする証言などがある。

半月城通信 No. 36 インドネシア「慰安婦」(1)より
 私はインドネシアの場合、暴力的な強制連行・強制売春の方針は現地部隊止まりであったと考えています。陸軍省など軍首脳は暴力的な強制連行を国策上指示するはずはなかったと思います。
 一方、現地司令部の方針は、後に示すように、建前は女性の自由意志尊重、本音は強制連行もやむを得ないという姿勢であったようでした。これに反し、「慰安婦」集めに苦労していた現地部隊は暴走しがちで、時には暴力的な強制連行に走ったようでした。そのような暴走行為が判明しても、往々にして処罰はないがしろにされたようです。

国立国会図書館所蔵の極東軍事裁判の関係文書の中に、日本軍人の戦争犯罪を立証する尋問調書が見つかった。指揮官だった陸軍中尉が(インドネシア)モア島で現地の女性をむりやり「慰安婦」にしたことが供述されている。

問「ある証人はあなたが婦女たちを強姦し、その婦人たちは兵営に連れて行か れ、日本人たちの用に供せられたと言いましたが、それはほんとうですか」
答「私は兵隊たちのために娼家を一軒設け、私自身もこれを利用しました」

問「婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか」
答「ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした」

問「幾人女がそこにおりましたか」
答「六人です」

問「その女たちのうち、幾人が娼家に入るように強いられましたか」
答「五人です」

問「どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るように強いられたのですか」
答「彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘たちでありました」

問「ではその婦女たちは父親のしたことの罰として娼家に入るよう強いられたのですね」
答「左様です」

半月城通信 No. 36 インドネシア「慰安婦」(2)より
 日本軍により『ロームシャ』にされた人たちは、戦後、インドネシア兵補協会を結成し補償を求めていますが、その一環として元「慰安婦」の補償問題でも重要な役割を果たしているのは、よく知られていることと思います。
 日本人の調査では、ノンフィックション作家の川田文子さんたちがインドネシアを何回も訪れ、「慰安婦」の聞き取り調査を精力的に行いました。それに基づき、川田さんはインドネシアの軍事的性奴隷を、六つのタイプに分類しました(「インドネシアの『慰安婦』」、明石書店)。
1.人口の稠密なジャワ島の女性が他の島に連行された慰安所
2.日本軍駐屯地近くに住む女性たちが軍人に拉致されるなどして造られた慰安所
3.営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に連れ込み、専用の性奴隷にした例
4.当時、日本の植民地であった朝鮮、台湾の女性が連行された慰安所
5.オランダ人抑留所から若い女性が連行され、造られた慰安所
6.インドネシアの女性がフィリッピン、ビルマ、シンガポールなど他の国の慰安所に連行された例

 この分類を見ると、インドネシアでは実にさまざまな方法で多くの女性が日本軍の性奴隷にされたようです。そうした被害者二千人を対象に、インドネシア兵補協会が被害の実態を調査し、760名から回答者を得ました。
 アンケートで、「何が原因で『従軍慰安婦』になったのですか?」という
問いに対し、回答は次のとおりでした。

45% 逆らうと家族を殺すと日本兵に脅迫されて強制された。
45% 看護婦にしてやる、学校へ行かしてやる、職を紹介するなどと言わてだまされた。
 9% 帰宅途中、あるいは路上で拉致・誘拐されて。
 1% その他。

これをみると、脅迫・拉致・誘拐による強制連行が半数以上になります。

●13歳の時、学校から帰る途中に拉致された元インドネシア人「慰安婦」マリアムさんの証言
 両親はバティック(ジャワ更紗)の商人だったが、1932年に亡くなり
、マリアムさんは、カラテンガ村(現スカブミ市)の村長の秘書をしていた叔父に育てられ、スラバトゥにあった学校に通っていた。その学校は家から歩いて3キロぐらい、オランダ時代にはオランダ語で授業を行っていたが、日本の軍政が敷かれると、日本語の授業になった。
 日本語で授業を受けるようになってまだ間もない1942年10月のころである。学校の帰りに、突然四人くらいの剣を持った日本兵に囲まれた。剣を突きつけられたので、殺されるかと思ったが、日本兵は「歩け」と、身振りで指示した。その中の一人がツムラであった。
 同じ村の顔見知りの女性も何人か捕らえられていた。連れていかれたのはキリスト教会のすぐ側の建物だった。まだ13歳、何のためにその建物に入れられたのか、まったく分からなかった。そこに入れられた直後、軍医から性病検査を受けた。その検査も何のための検査であるのか、理解できなかった。
 三日目、叔父が会いに来た。叔父は、マリアムさんが学校へ行ったまま帰ってこなかったため、学校へ問い合わせるなどして、ようやく探し当ててきたのである。
「なぜ家に帰って来ないんだ」
 叔父は、マリアムさんが自分の意志でキプロス(ホテルやレストラン、オランダ語)に来たと思いこんでいた。日本兵に捕らわれたのだと話したが、充分説明しきれないうちに、叔父は部屋から出ていくようにと日本兵から警告された。その警告に逆らうことなどできなかった。
 キプロスを管理していたのはふたりの日本人男性である。まず最初に、そ
の建物から外に出ることは厳禁された。用便以外には部屋から出ることさえ自由にはできなかった。食事は他の女性が運ぶと説明されたが、食事を部屋に運んできたのは同じ村の六歳年上の女性だった。その女性は食事を運んだり、掃除をしたりなどの雑用をしていた。
 軍人は切符を持って、キプロスに来た。受付で軍人から切符を受け取って
いたのは、ふたりの日本人だが、もうひとり17,8歳のインドネシアの女性も受付にいた。彼女は軍人の相手もしたが、ふたりの日本人とともに、部屋にいる少女たちが逃げ出さないように、常に見張っていた。
 キプロスに入れられていた少女たちの全体の数は分からない。マリアムさんがキプロスにいた期間、ずっと一緒だったのは7名である。だまされてキプロスに連れてこられた人が多かった。
 キプロスを利用しに来たのは軍服を着た軍人だけである。兵隊は朝から夕方までの間に、階級が上の軍人は夜に来た。
 ツムラは度々やって来た。軍服の襟に星三つをつけていた。太っていて、年齢は40代だっただろうか。13歳のマリアムさんにはとても年をとっているように見えた。横暴な軍人で、しばしば、ここから逃げ出したら殺す、と脅された。マリアムさんの両親はすでに他界していたのに、お前がここから出ていけば両親の命はないものと思え、といった。
 キプロスに入って間もない頃は、軍人の要求をなかなか受け入れられなかった。すると、しばしば剣を突きつけられた。
 用便のため、部屋から出て、廊下で顔を合わせた他の部屋の少女と話をしていたら、逃亡を図っているとでも勘違いされたのだろうか。部屋に引き戻されて殴られたこともある。軍人のいうことに従わないと、罰として食事を減らされた。だが、日本語を理解できなかったから、何が原因で罰せられているのか、理解できないことの方が多かった。
 つらかったのは、マリアムさんには、キプロスに連れてこられた時に着て
いた服、たった一着しかなかったことだ。他の少女たちは、2,3枚着替えを持っていた。
 高原地帯であるスカブミは雨期には気温が20度以下になることもある。
そんな日には軍人の上着を部屋においてもらって、寒さをしのいだ。洗濯をする時にはツムラの服を借りるか、裸になって、乾くまで待つ他なかった。
「外に出ることはないし、軍人に犯されるために部屋に閉じ込められていたのだから、衣服は必要ないと思われていたのでしょう」
 と、マリアムさんはいった。
 性病検査は週に二回、民間の病院から中国人医師が定期的に来ていた。性病にかかると、ただちに病院に送られた。食事の量が少なく、体力が衰弱していたためであろうか、下痢など、性病以外の病気にかかる人も多かった。
 倉本部隊がスカブミから去り、キプロスから解放された時、マリアムさんは17歳になっていた。その時、金は一銭も受け取っていない。カラテンガ村の叔父のもとに帰ったが、受け入れられなかった。その直前までキプロスにいたことを、叔父は嫌ったのだ。
 近隣の人々も学校などを通じ、マリアムさんが日本軍に捕らえられていたことを知っており、蔑まれ、辱められた。叔父が受け入れてくれたとしても、カラテンガ村では暮らせなかったのだ。

●中曽根氏の発言
(略)中曽根氏は首相在任当時、「国家国民は汚辱を
捨て、栄光を求めて進む」と発言し、大見得を切りました(第5回自民党軽井沢セミナーでの特別講演)。
 この発言は、インドネシアでかっての部下である「イモ兵士」たちのために特別な「慰安所」を作ったと豪語する中曽根氏にふさわしいといえましょうか(注1)。このように、国家の帝国主義的な栄光しか眼中になく、恥知らずな汚辱の過去を切り捨てるという思考方式は、「新しい歴史教科書をつくる会」が唱える「誇りの持てる歴史教育」をほうふつとさせます。
 さて、イモ兵士の総指揮官であった中曽根氏ですが、同氏は、その当時「慰安婦」をどのように集めたかについては何も語りませんでした。あるいは台湾総督府に依頼して「慰安婦」を軍需物資として送ってもらったのかもしれません。(略)。
 あるいは、手っ取り早く現地女性を「調達」したのかもしれません。中曽根元首相と似たような境遇にあった、海軍(四南遣艦隊)司令部副官である東大出身の大島主計大尉が、インドネシアでの「慰安婦」集めについておよそこう述べたことが伝えられています(禾晴道「海軍特別警察隊」太平出版社)。              ・・・・・
 「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってくる女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」
「特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくから(女集めを)どうか」
 これに対し、特警隊の禾(のぎ)晴道中尉は「治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなる」ことを理由に、「特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察隊とか、住民のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります」と述べて、この任務を逃れました。結局、「慰安婦」集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになりました。 そうやって政務隊が「女集め」をしましたが、その後のエピソードを、担当の司政官が禾中尉に戦後、次のように語りました。
「あの慰安婦集めには、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞくと港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ! 娘を返せ! と叫んだ声が耳に残っていますよ。
 こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピスト
ルに手をかけましたよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなことをされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」
 このような強制連行でも、司令部副官のいうように「慰安婦として働いてもよいという承諾書」はとられたのかもしれません。この承諾書は前回、スマラン慰安所の例からすると、おそらく日本語で書かれ、うむをいわせずに承諾させられたのではないかと思われます。
 ここに書いたインドネシアの例はほんの一部にしかすぎません。ここ数年来、インドネシア「慰安婦」に関する研究も進展しだしましたので、今後、新たなたな事実が徐々に明るみに出されるのではないかと期待されます。(注1)
 <半月城通信、「従軍慰安婦」33,「イモ」の総指揮官>
 元首相の中曽根氏は「慰安所」をつくったと堂々と公言しています。元首相は回想記「二十三歳で三千人の総指揮官」で次のように記しています。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった」(松浦敬紀編「終わりなき海軍」文化放送開発センター)

半月城通信より引用しましたが、日本軍のおぞましさに寒気がします。インドネシアを日本軍は侵略しましたが、食糧や労働力を奪っただけではなく、女性そして13歳の少女まで奪ったのです。禾晴道「海軍特別警察隊」太平出版社という本に従軍慰安婦強制連行の事実が載っていることや、中曽根元首相が慰安所の開設などの日本軍の人権侵害に自ら手を下しているという事実が明らかになりました。

http://www.ask.ne.jp/~hism/nikki7.htmより
8月19日

吉見義明著「従軍慰安婦」はもう少しで読み終わる。
元慰安婦の人たちに、日本が補償することは不可能に思える。
国のお金で補償をするのに感情、同情ではできない。
元慰安婦の一人一人が異なったケースで慰安婦体験をしているし、慰安婦ではなく強姦、輪姦され挙げ句に証拠隠滅のために殺された人もいる。
(略)
吉見氏の「従軍慰安婦」のなかには証拠となるような資料が色々とあげられている。中曽根元総理の回想記「23歳で3000人の総指揮官」というものまである。中曽根氏は主計将校(中尉)として軍慰安所設営に関係していたそうで、フィリピンのダバオ、ボルネオのバリクパパンと転戦し、この間、みずから軍慰安所を開設したと回想記に書いてある。
 このように自らが手を下した経験のある人が厚顔無恥に世に憚っていることは従軍慰安婦の問題が国際的にも知られている中、日本人として恥ずかしく、また、そのような人に対する軽蔑の気持ちを抑えるのに苦労する。かなりお年を召した方だし、戦時中に洗脳されたまま今日まできてしまったのだろうと考える。

平成の妖怪・中曽根康弘を読む 鎌田 慧http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N87/KamataSatoshi.htmより
この古田班長は、松浦敬紀編『終わりなき海軍』でも重要な登場人物としてつかわれている。七十万円(現在の金額で数十億円という)の軍票(占領地で流通させる紙幣)を受け取った中曽根輸送隊隊長は、それを紙のベッドにして、勇躍ボルネオ島のバリクパパンに侵入した。が、ここでイギリス駆逐艦の攻撃を受け、古田班長は足に負傷する。
「片足がぶらぶらになり、皮一枚でくるぶしの下がぶらさがっている」と描写されている(「片足がぶらぶらになり」と「皮一枚でくるぶしの下がぶらさがっている」という様子はよく飲みこめない)。全身血まみれ(足をやられて全身血まみれとは、逆立ちでもしていたのか)の古田班長、ただ一言、「隊長すまねぇ」という。
「しっかりしろ、傷は浅いぞ」
と中曽根隊長、名セリフを言ったのだった。
「こうして古田正夫は、南の海で壮烈な戦死をとげたのである」。これがかれの自慢の戦闘体験なのだが、そのあとに書かれていた事実で、それ以降、忽然として消えてしまったエピソードがある。引用してみよう。

「三千人からの部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」

軍がつくった「慰安所」とは、いうまでもない、売春施設のことである。が、そこではたらく女性たちは、日本から志願して渡ってきた女性ではない。何人いたかは明らかではないが、これまでの侵略地での女性たちの証言で明らかにされているように、「拉致」だった、と考えられる。
とすると、まるで婦女拐帯の責任者、女衒のような仕事をしていた隊長が、のちに一国の首相になったことになる。まあ、戦犯だった岸信介も首相になったのだから、ことさら驚くこともないか。

中曽根はまさに妖怪。このような戦争犯罪に手を染めて、平然としている人間はどうかしている。このような戦争犯罪を犯した人間を日本政府あるいは日本国民は自らの手で処罰しなかった。それがいまの戦前から脈々と続く日帝悪の体質によって今まさに窮地に陥っている原因である。

従軍慰安婦資料集より
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/1794/ianfu.html
モア島での取調べ
モア島(現インドネシア)指揮官だった日本陸軍中尉が、連合国のオランダ軍の取り調べの中で、「現地在住の女性を無理やり慰安婦にした」と供述している(46年1月)。次のような問答があった。
問 ある証人は婦女を強姦し、その婦人たちは兵営に連れて行かれ、日本人達の用に供せられたと言いましたがそれは本当ですか。
答 私は兵士達のために娼家を一軒設け、私自身もこれを利用しました。
問 婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか?
答 ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした。
問 幾人そこに居りましたか。
答 6人です
問 その女たちの中、幾人が娼家に入るように強いられましたか。
答 5人です
問 どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るように強いられたのですか。
答 彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。
問 ではその婦女たちは父親たちのした事の罰として娼家に入るように強いられたのですね。
答 左様です。
モア島のすぐ西にあるチモール島のポルトガル領(現東チモール)では進駐した日本軍が、地元の酋長に慰安婦募集への協力を強要していた。その様子を目撃したポルトガル人の医院事務員が証言している。(46年6月)「私は日本人が酋長に原住民の女の子たちを娼家に送る事を強要した多くの場所を知っています。彼らはもしも首長が女の子達を送らないのなら、彼ら即ち日本人が酋長の家に行って彼らの近親の女達をこの目的で連れ去ると言って脅迫しました」
(97年3月31日、朝日新聞の朝刊)

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/slave.htmより
 管理される側の慰安婦は、どんな状況の下に暮らしていたのか。

 連合国軍がビルマで捕虜にした経営者、朝鮮人慰安婦に尋問してまとめた報告(四四年)では、一カ月三百―千五百円の稼ぎを得て、五〇―六〇%は経営者の取り分だった。「都会では買い物も許された」という。
 一方で、慰安婦たちが厳しい条件、監視の下に置かれたことを示す文書もある。東京裁判に提出された証拠資料の中に、ボルネオ島の慰安所状況について、オランダ軍が作成した報告書があった。
 「日本人と以前から関係のあった婦人たちは、鉄条網の張りめぐらされたこれらの性慰安所に強制収容されました。彼女らは特別な許可を得た場合に限り、街に出ることができたのでした。慰安所をやめる許可は守備隊司令からもらわねばなりませんでした」(四六年七月)

 インドネシアでは民間団体の呼びかけに対し、二万人以上が、「慰安婦にされた」「強姦された」などと名乗り出ている。同国政府と基金は今年三月、元慰安婦を優先する福祉施設建設の覚書に調印。日本政府が基金を通じて経費を出資する。インドネシアは「元慰安婦の特定は困難」などとして、個人対象の支援事業には応じていない。このほか、ジャワ島にいたオランダ人一人が提訴している。

◇インドネシア

 インドネシア・ジャワ島チマヒ出身のスハナさん(七〇)は一九四二年、無理やり慰安婦にされたとしている。家の前で遊んでいると、日本の軍服を着た五、六人の男に車に乗せられた。両親は留守だった。男たちは刀を持っており、抵抗できなかったという。
 連れて行かれたのはオランダ軍の旧兵舎だった。ほかにも多数の女性と通訳兼雑役係がいた。
 一週間は何もせず、八日目から兵士の相手をさせられた。
 「食事と衣料の支給はあった。現金をもらったことはない。いつも『お金は、あとで』と言われ続けた。一人の将校から二度、軍票をもらったが、額は覚えてない」
 外出はいっさい許されなかった。二年半ほどたって、突然家に帰るように言われた。両親はすでに死んでいた。

http://www31.ocn.ne.jp/~hinode_kogei/DATA02.htmlより
元日本軍「慰安婦」スハナさん(インドネシア出身)の証言

「一九四三年、私は一六歳でした。私が家の道端にいた時、突然「ダイニッポン」(日本軍)のジープがやってきました。ジープには軍人が六人ぐらい乗っていたと思います。その男たちは私に「一緒に来るか?」と訪ねました。私は「いやだ」と答えました。すると彼らは私に「ジープに乗れ」と命令しました。私が再び「いやだ」と拒否しますと、頬をぶたれました。私の両親は市場で店を出していたので、「それなら、お父さんとお母さんに行くと言わなければ」と私は言いました。しかしもちろん両親に会いに行くことを許してはもらえませんでした。彼らは私の長かった髪を、まるで馬のたてがみを引っ張るようにして私を引きずりました。私が必死に抵抗したので、結局彼らは私を抱え上げてジープのなかへ押し込みました。
 そのあと私は、もともとオランダ軍の将校用住宅だったグドゥン・ドゥラパンという建物へ連れて行かれました。日本兵は私に「働け」と命令しました。私は「いやだ、学校に行きたい。私の両親も私がここへ連れてこられたことを知らないから、絶対に働くのはいやだ」と言いました。
 しかし、その建物に入れられた後、別の部屋に連れて行かれました。そこには若い女性がたくさん、三十人くらい入れられていて驚きました。私は「家に帰りたい」と泣き続けていたら軍人に殴られました。すると、女性たちの一人がそばに来て、「泣くのはやめなさい。私たちはどうせ「囚われの身」なのだから」と私に言いました。
 一晩その部屋で過ごした翌日、私は中国人に別の部屋に連れて行かれました。その部屋に入れられると、まもなくして「ダイニッポン」の男がやってきて、そこで私はむりやり犯されました。抵抗しようとすると平手打ちされました。
 その日本軍の男は、私に服を脱ぐように命令しました。私はいやだったので抵抗したところ、私が腰に巻いている布をむりやり剥ぎ取り、下着も剥ぎ取りました。その「イケダ」という日本の軍人に私は犯されました。私はそのとき処女でした。私は本当に死んだような気がしました。
 そうやってその男に犯された後、私はまたもとのたくさん女の人がいる部屋に戻されました。部屋の中で私は泣きました。周りにいた人たちは同情してくれました。私が彼女たちの中では一番若かったからです。「これ以上泣いているとまた殴られるよ」となぐさめてくれました。その日から毎日毎日、イケダに限らず他の日本軍の男たちに犯され続け、とても時が長く感じられました。
 そして金曜日がやってきました。私は「タナカ」という医師に検査されました(性病の検査と思われる)。検査が終わると、また中国人にタナカ医師の家に連れて行かれました。そこでなんと、タナカ医師も私をレイプしたのです。そのときタナカ医師は、コンドームを使用しました。そのあと私はまたもとの部屋に帰されました。
(中略)
 軍人たちの相手をさせられる部屋は、私たち一人に一部屋ではなく、一部屋に三人入れられました。それなのに軍人たちは他の人がそういうことをやっていたり、あるいは他の人に見られているということも全然おかまいなしです。ですから、他の女性たちが同じ様な目に遭っている中にいて、私は周りをとても見ることができず、いつも目を覆っていました。そんな私を見て日本軍の男は「こんなこと恥ずかしがる必要はない」と言いました。
 また、拒否すると足蹴にされたり、頬を殴られたりしました。私は拒否をしたためにずいぶん殴られました。殴られるのが恐ろしかったので、私は仕方なく犯されざるをえませんでした。いろんな軍人が次々に指名してくるので体を休める暇もなく、終わったかと思うとまた次の軍人が来るという状況でした。」
(koβ註:スハナさんは犯され続けたためか、後に病気になり、一年半後、そのまま慰安所と共に放棄される形で日本軍から解放された。が、スハナさんの父親は日本軍により殺されており、母親も夫と娘を失ったショックから病気になり亡くなっていた。)

「インドネシア侵略と独立」(戦争犠牲者を心に刻む会・編 東方出版)より

「インドネシアで会った人々」(その3)
http://www.haruko.gr.jp/enews/enews2000/enews2000_16.html
スハルディさんは1943年従軍慰安婦にさせられました。日本名ミキと呼ばれました。
 「私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が家にきて『各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われました。壮年はロームシャ(労務者)に、青年はヘイホに、女の子は遠いところで事務の仕事をするた』と言われたので、二人でやってきたということでした。

 父は『たった一人の子なので行かせないで』と頼みました。母は村の代表の足にしがみついて『やめてほしい』といいました。しかし村長は、『心配するな。学校で教育を受けて働けるいいチャンスだ』と。また『子どもを行かせないとたいへんなことになる。日本兵に拷問される』といい、2日後、父親は村長のところに行きサインしました。5日後、42キロ離れている村長の事務所に父と歩いて行きました。15歳の時でした。少女達はスラバヤ行トラック二台に乗せられました。そのとき母が、『おまえともう一度会えるのか、会えないのか』と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐった)

 スラバヤ港から船に乗せられて出航したが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかは分からないが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸。軍艦の上で身体検査をされて、OK.の者から下船させられました。名前を呼ばれグループごとに別れました。グループは18人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって慰安所になった。病院に連れてゆかれ18人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れて行き、彼から暴力を受けました。・・中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。・・5時間に5人に奉仕しなければなりませんでした。一人の男が3回犯す場合もありましたが平均2回でした。夕方5時から労働の始まりです。・・・
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。」

「インドネシアで会った人々」(その4)http://www.haruko.gr.jp/enews/enews2000/enews2000_17.htmlより
 13才の時 元従軍慰安婦にさせられたスイボンさんは、私たちがあった三人の元従軍慰安婦の中で一番小柄でした。にこにことして私の手を取り身体をすり寄せる等、大変人なつこい態度でした。
 私たちは他の二人の元従軍慰安婦からはインドネシア語の通訳を介して話を聞きましたが、彼女は「インドネシア語が正確でない」とのことで、付き添いの人が中に入り、二重通訳で話を聞きました。

 それによると、「13才の時、村上という人物にジョクジャカルタの郊外に連れて行かれた。村上はいつの間にか自分の管理をするようになっていた。大きな家で女中をするといわれ、そのつもりでいたら夜男が襲ってきた。二年間そこにおかれ次から次に男が襲ってきた。そこには三人の女性がいて同じ運命にあった。一時間程度の外出は許可されたが、いつもスパイがついていた。町の外に行くことはできなかった。その後脱走して自分の家に帰ったが、病気をして病弱になった。」

http://www.ashir.net/siis/koron/shohgen.htmlより
 マルディエムさんは、淡々とご自分のつらい体験を話されました。13歳の時に侵略してきた日本軍から「芸能人募集」の誘いがあり、だまされてカリマンタン(ボルネオ)島につれて行かれました。慰安所にいれられ、そこで日本軍の将校・兵隊・民間人に連日レイプされ続けたことをはっきりと証言しました。妊娠がわかると日本軍は中絶の手術をし、また慰安婦として陵辱し続けたのです。マルディエムさんは、中絶させられた時(5ヶ月になっていたといいます)子どもに名前をつけ、忘れないようにしたといいます。連合軍の反撃が激しくなると、日本軍はマルディエムさんたちを放置し、逃走しました。故郷に帰るすべもなくボルネオ島に置き去りにされたのです。

 こんな女性たちに日本の政府は何の謝罪も補償もしていないのです。マルディエムさんは、一番若い方です。慰安婦にさせられた方々の多くは70歳をこえています。マルディエムさんはインドネシアで元慰安婦の方々の世話もしています。高齢で生活も苦しい方がたくさんいます。当然戦後も幸せな人生を送った方というのはほとんどありません。日本軍がこの人たちの人生を狂わせたからです。マルディエムさんは言います「日本の政府は責任をきちんととって欲しい。そして補償もすみやかに行うべきだ。時間がない」と。
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2006年03月20日

東アジアにおける日本軍初の民衆虐殺―甲午農民戦争の史実解明に取り組む 歴史研究者たち 「弾圧」したのは、四国から出征した貧しい兵士たちだった。

とりあえず、過去にあったニュース記事より。おそらく、日本軍が東アジアで行った始めての民衆の虐殺の記事です。

良識派による市民的ニュース総合研究スレ2
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1106654363/の私自身の投降より

甲午農民戦争の史実解明に取り組む 歴史研究者たち
「弾圧」 したのは、四国から出征した貧しい兵士たちだった。
事実と向き合う姿勢を
朝日新聞 マイタウン愛媛 2005年3月3日(おそらく)
http://mytown.asahi.com/ehime/news01.asp?c=5&kiji=571 (キャッシュにも情報なし)
 1894年の甲午農民戦争(東学党の乱) 時、抗日戦線を展開した東学農民軍の指導者を弾圧した日本軍の部隊があった。「後備第19大隊」。 農民軍を朝鮮半島西南端の珍島(チンド) へ追いつめ、指導者数百人を銃などで処刑。さらし首にし、遺体は路上に放置したとされる。その部隊を構成した約2千の兵士は、四国4県から徴兵された貧しい小作人や人力車夫、職人たちだった。

 この事実は、最近になってようやく日本で知られるようになった。調査を進めたのは北海道大学文学部教授の井上勝生(59) だ。

 井上は四国の図書館から、19大隊の出征の背景や戦況を伝える新聞記事を見つけた。どうやって戦勝を収め、日々何人の農民軍を殺したか、預ける先のない子を殺してまで国のために出征した兵士の気持ちはどうだったのか−−。そこには、兵士が郷里に向けて書いた手紙などが掲載されていた。

 明治維新史が専門の井上がこの問題にかかわり始めたのは、95年7月。きっかけは、退官した北大文学部教授の研究室から、古新聞に包まれた遺骨6体が見つかったことだった。1体に「韓国東学党首魁(しゅかい)」と墨書きがあった。添付の文書には、処刑された農民戦争の首謀者の遺骨を1906年の珍島視察に際して「採集」した、とあった 。

 このことが新聞などを通じて報道され、死者の尊厳を踏みにじる日本人の行為に当時、韓国側から大きな反発が起きた。学内の調査委員に指名された井上は「遺骨が来たルートを調べ、丁重に返すことが最低限必要だ」と感じた。

 珍島に足を運び、北大前身の札幌農学校の卒業生も調べた。そして遺骨を持ち出したのは農学校の卒業生で、珍島の綿花栽培試験場を監督する統監府の日本人農業技手だったことを突き止めた。

 翌96年、井上は「石をぶつけられる覚悟」 で遺骨返還のため訪韓。北大側は真摯(しんし) に非礼をわびた。韓国の民間団体は「正しい相互認識と新たな日韓関係を築く契機に」 と前向きに受け入れてくれた。

 日韓の研究者が協力し合い、珍島での日本軍による農民軍弾圧について調査を始め、新事実を明らかにしていった。

 ソウルでは、日本軍の珍島侵入を示す後備第19大隊長の資料を発見。また朝鮮政府による要請という形をとり、農民軍殱滅(せんめつ) を命じた司令部の訓令も見つけた。「日本軍による東アジアで初の民衆虐殺」 が明らかになった。

 井上は研究者としてこう考えている。「なぜ韓国で今も対日批判の声が根強いのか。日本が与えた被害が何も調査もされず、知られていないままだからだ。逃げずに向き合う姿勢があれば、理解してもらえる」

 松山在住の歴史研究家で、県歴史教育者協議会委員長の古谷直康(70)は、井上が資料収集のため来県した03年春から、この問題について関心を持って見つめてきた。井上が見つけた記事を読むと、やりきれない思いに駆られるという。

「南予は幕末の農民一揆が盛んだった。貧しさに耐え、決起した思いは韓国の農民軍と同じだったはず。それが残虐な弾圧を加える立場になった。戦争の皮肉です」

 古谷は9月18日に井上を松山に招き、講演会を開く。「愛媛にとって不本意な歴史でも、21世紀のアジアにおける愛媛のあり方を考える上で、知らなくてはいけない事実だ」

 甲午農民戦争 1894(甲午) 年、腐敗した封建政治と外国侵略に抵抗し、朝鮮南部を中心に農民が蜂起した。鎮圧のため朝鮮が清に援軍を求めると、日本も出兵し、日清戦争が勃発(ぼっぱつ)。近代装備を整えた日本軍に農民軍は惨敗し、死者3万人が出たとされる。

 日本の支配の視点から「東学党の乱」 と呼ばれたが、民衆革命的な性格から「甲午農民戦争」「東学農民革命」 などとも呼ばれる。


考えさせられる記事でした。愛媛という県は幕末の際、農民が決起したが、それは「甲午農民戦争」で決起した朝鮮南部の農民たちと決起した思いは一緒だった。しかし、この朝鮮の農民の反乱への鎮圧への日本軍の動員で歴史の皮肉で加害者になってしまった。今から一世紀以上前の出来事だが、愛媛や北海道をはじめとする良識派の償いへの動きには賛同したい。また、皮肉なことだが、日本軍の国外初の民衆虐殺に動員されたのは四国の貧しい農民たちで、明治体制下の抑圧と貧困の中にあった被害者たちだった。この思いを同じとする決起した朝鮮半島の農民たちを虐殺したのだ。『処刑された農民戦争の首謀者の遺骨を1906年の珍島視察に際して「採集」した、とあった 』とあるように、初期の大日本帝国の日本人はすでに死者に対する尊厳など全くなく、平気で踏みにじることができたのである。このことが今後の朝鮮半島や満州、台湾の植民地支配、そしてアジア・太平洋戦争で占領した地域での日本軍占領支配でいかに発揮されたのか、もはや言うまでもないでしょう。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:52 | Comment(25) | TrackBack(8) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

サハリン先住民遺族 補償求め首相に要望書

過去のニュースより
旧日本軍徴兵のサハリン先住民遺族 補償求め首相に要望書 北海道新聞 2005年4月29日付け(キャッシュでも確認できず)
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20050429&j=0022&k=200504297297 より
 戦時中に徴兵、徴用され、戦後は「戦犯」として旧ソ連によって強制収容所に送られたとして、ロシア・サハリン州の先住少数民族の遺族が近く、補償を求める要望書を小泉純一郎首相に郵送する。

 支援団体の「ウィルタ協会」(網走市)の田中了代表が28日、道庁で記者会見し、明らかにした。

 要望書を出すのは、同州ポロナイスク(敷香)市に住む先住少数民族ニブヒ、ウイルタ、エベンキの6人で、いずれも親や親類が旧日本軍に徴兵されたり、日本の特務機関に徴用されたりしたとされる。

 戦後は旧ソ連の軍事法廷でスパイ罪などの判決を受け、シベリアで 強制労働に従事させられ、刑期終了後は故郷に帰れず、日本に退去させられ、見舞金などの戦後補償を受けずに亡くなったという。
要望書は「ロシアと日本の両大国の矛盾が、間にはさまった罪なき先住民を犠牲にした」と訴え、戦後補償のほか、遺族らによる墓参の実現などを求めている。


【国際】旧日本軍徴兵のサハリン先住民遺族 補償求め小泉首相に要望書
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1114779967/より

D・ゲンダーヌ
http://www.m-bros.com/goji-hamada/J-html/gh-j022.htmlより
 ダーヒンニィーニェ・ゲンダーヌという名前を日本語訳すると〈北の川のほとりに住む者〉という意味である。北方少数民族の呪者の家系に生まれたゲンダーヌは父ゴルゴロがそうであったように遊牧と狩りを生命の糧とする民族の末裔である。ウィルタという名前も、トナカイを引率しトナカイの為の豊かな地を探し求めて移動する民族という意味で、呪者はいわばトナカイの道先案内人ということであろう。少数民族に限らず多くの人々がそうであったように第二次大戦がゲンダーヌを含めてダーヒンニィーニェ一族の運命を大きく変えてしまった。ウィルタ族のほとんどはその頃樺太を中心に住んでいたが一部はロシアの奥地から南は北海道まで広く移動を繰りかえしていたという。第二次大戦。そしてポツダム宣言によってロシアによる北方領土の占領が決まった時ゲンダーヌ一族は北海道にとり残されることになってしまった。彼等の故郷は樺太というよりも北方全域の国境のない国である。たまたま北海道にきていたウィルタ族を日本軍は戦争の末期になり彼等まで兵士として徴兵し聖戦の名のもとに戦場へ送りだそうとしていた。「まったく、どうかしていると思わないですか、ハマダさん。ウィルタに天皇の為とか大君に、という考えがあると思っていたのでしょうかまったく」。まるで動物でも扱うように連れてこられた彼等の何人かは死に、生き残った者は土人として登録されたまま北海道にとり残されてしまった。海峡は遠くなりかつてその海峡の氷の上を自由に渡り歩いた昔日は帰ってこない。「ここ大曲という土地はネ。昔の樺太のオタスの森によく似ているんです。川が裏にあり唐松の林があり春には苔桃の芽があちこちに出てネ。でも―似ているけどここはチチハルでもないしシベリアでもない…」。ゲンダーヌは戦後十数年してから少数民族会議に出席するようになる。アイヌの友人にすすめられたからという。〈私達は第一に日本人ではない。第二に国をもっていない。国籍をもっていない。国籍をもたないという身分を返してくれ。日本国に国籍や市民権を返上したい。ウィルタはウィルタとして認めてくれ〉煎詰めればこのような主張である。奪われた国や国籍を返してくれ人権を返してくれという主張はさまざまな戦後処理の話の中ではよくきくことがあるが、国籍を返上したいという話はこの時私にとっては初めてだった。「ウィルタの言葉には平和という言葉がないのです」「もちろんその反対語である戦争という言葉もないのですが…」。言葉なり文字に平和という言葉がない民族というのを知ったのもこれが初めてである。ちなみにウィルタというのは彼等の正式名称で別称オロチョン。アイヌ語ではオローチともいうが、ゲンダーヌによればオロチョンという名称は日本人がアイヌ人からきいた言葉の蔑称だというのである。何故蔑称なのかは今もって解らないが、その語源を辿ってゆけばウィルタとアイヌの間に過去に何があったかも推理しなければならず、多分少々やっかいなことかもしれない。あるいは日本人に対する深層的嫌悪感が単にゲンダーヌをそうした感情にかりたてているのかもしれない。ともあれそれ以後私はオロチョンという呼び名をやめてウィルタということにした。


・ウィルタ協会 http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/

http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/kyokaitowa.html
 ウィルタ協会の前身は1975年7月に結成された「オロッコの人権と文化を守る会」で、翌年12月、現在の名称「ウィルタ協会」に改称しました。

 ウィルタとは、サハリン(樺太)にくらす少数民族の名称(自称)です。古くから隣接の民族であるアイヌの人々から「オロッコ」と呼ばれていました。当初、この民族名を会の名称として使用してきたのですが、1976年から彼らの自称「ウィルタ」を会の名称にいただいています。サハリンの民族名を冠せた私たちの組織が、なぜ日本に存在しているのでしょうか。それは彼らをめぐる彼らの「歴史」と、日本との関係に由来するものです。

 戦争が激しくなってきた昭和17年8月、陸軍特務機関から「召集令状」を受けたウィルタなどの日本領樺太にくらす少数民族の若者は、国境を接するソビエトの動きをキャッチするための軍事訓練や諜報活動に従事させられました。日本の敗戦後、ソビエトはこれら若者を戦争犯罪人として、多くをシベリアの刑務所へ送りました。シベリアで亡くなる者も少なくありませんでした。刑期を終えた人の中には、故郷のサハリンにとどまることなく日本への「引き揚げ」を希望した人もいます。
 ウイルタ協会の前身「オロッコの人権と文化を守る会」は、北海道に定住したウィルタ(オロッコ)の一人であるダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏(日本名・北川源太郎)の日本政府への「告発」をきっかけに誕生しました。ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏は、さまざまな困難や差別を乗り越えながら、周囲の人々の支援を受け自分たちの置かれてきた立場を日本政府に訴えることを始めました。それは日本政府に対する戦争責任の追求でした。

 ウイルタ協会は北方少数民族戦没者への補償を日本政府に求めるとともに、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏の夢を実現するため、さまざまなかたちで活動を展開してきました。資料館ジャッカ・ドフニの建設、戦没者慰霊碑の建立、そしてサハリンとの交流などが、それです。

サハリンだより
http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/sakhalin.html
サハリン少数民族遺族会代表 小泉総理に戦後補償等四項目を要請
(略)
【日本語訳全文】

  日本国総理大臣 小泉殿

     要請
  サハリン州ポロナイスク市(シスカ)に居住する先住民北方少数民族の親族から日本政府に送る要望

 1995年3月から10年間が過ぎました。
 政治弾圧でシベリアに連行され、8年から10年にかけて自由の剥奪をうけ、苦痛を味わい罪なくして死んだ北方少数民族ウィルタ、ニブヒ、エヴェンキの夫たち、兄姉、息子たちの代表者が日本政府に送った文章から10年の月日がすぎました。
 日本国は戦争のために、サハリンの先住民族を強制的に軍隊に動員させた責任をもっています。政治弾圧(懲罰)の犠牲者となったサハリンの先住民族は刑期を服役し終えた後にも生まれ故郷に帰ることも出来ず、日本国に退去させられ、そのため親族のきずなと家族関係が破壊されました。
1963年まではシスカ(敷香、ポロナイスク市)に住むニブヒ、ウィルタたちは無国籍である住民でした。そのため戦後に生まれた先住民族の子どもたちも苦痛を味わいました。
 だが日本国は、この残ったわれわれの問題から目をそむけました。それは国際法「人類に対する犯罪」に関わることです。二大国ロシアと日本の矛盾が、その両国の間に挟まった元からサハリンに住んでいた罪なき先住民族を犠牲にしてしまったのです。
 上記に従い--サハリン州ポロナイスク市先住少数民族ニブヒ、ウィルタ、エヴェンキは賠償を申し立てます。若し、日本政府がこの問題の解決に着手しない場合、われわれはモスクワ市の弁護士(議院)、国連その他の機関にこの文章(問題)を送ります。
 この問題がこの10年の間、検討されていなかったのは事実です。これは国際人権自由問題を蹂躙することでもあり、また1966年に成立した国際協定(公民・政治権)第14条をも守らないことです。この第14条こそ人々の人権を守り遵守されるべきことを保障しております。
 下記はサハリン州先住北方少数民族の要望文章で日本政府に提出しております。

1政治弾圧の犠牲者たちの賠償にこたえることを日本政府に要求します。
2両国に住む先住民族の親族たちがお互いに訪問できることに協力してください、1945年8月15日以前に生まれた人たち、
3両国に住む1945年8月15日以降に生まれた(2世)親族たちも訪問できることに協力して下さい(肉親の再会、墓参要請)
4両国の文化(少数民族)交流の協力を促進して下さい。


とりあえず、過去のニュースよりピックアップ。サハリンは旧日本領でしたが、ここでも先住民を徴兵し、戦争へ駆りだしていました。戦争が終わると日本人じゃないから日本政府はいまだに補償もしていません。しかし、戦中は樺太は日本の植民地でしたから、日本人としてサハリン先住民を徴兵しました。そしてソ連に捕まり、日本人と同じようにシベリアでの強制労働を課したのです。そういう事実が存在します。こういう戦後補償を一刻もはやく実現させなければなりません。これは大日本帝国の負の遺産を引き継いだ現在の日本政府の義務です。強制的に戦争のため軍隊に動員させておいて、後は知らん振りはないと思います。
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2006年03月03日

韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って―朝日新聞、関西、語り継ぐ戦争

韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って 2006年03月02日
http://www.asahi.com/kansai/kataritsugu/OSK200603020051.html
 ソウルからバスで1時間の広州(カンジュ)。小雪が舞う町はずれの山あいに「ナヌムの家」はあった。ナヌムとは「分かち合い」。日本軍に性暴力を受けた元慰安婦9人が助け合い、静かに暮らしていた。

     ◇

 「やっと平穏な生活を手に入れることができた」。李玉善(イ・オクソン)さん(78)はオンドルのついた8畳ほどの個室で編み物をしていた。「家」に来たのは6年前。戦後55年間、連行先の中国で暮らしていたという。

 「無理やり連れて行ったうえ、戦争が終わっても、ほったらかし」。編み物をやめ、語気を強めた。

 韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。

 「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。

 多い日は40〜50人が列を作った。ある時、階級の高い兵が入ってきた。避妊具を使おうとしないので拒むと、殴られて短刀で腕を刺された。

 戦争がいつ終わったのかは知らないという。ある日、日本兵が「ここは危ない。一緒に逃げよう」と山に連れ出した。だが、女性たちを山に残したまま去った。山を下り、知り合った北朝鮮出身の男性の後妻になった。子どもはできなかった。

 「もう一度、家族に会いたい」。夫が亡くなり00年、韓国に戻った。両親はすでに亡くなり、自分の死亡届も出されていた。生きていると認めてもらうのに2年近くかかった。

 「慰安婦を認めようとしない日本人は、私たちが死ぬのを待っているんじゃないか」。李さんの言葉は、取材する私の胸に突き刺さった。

     ◇

 李さんの隣の部屋で暮らす金君子(キム・グンジャ)さん(79)。「私は天涯孤独。この世に生きて、何も残すものがない」と、硬い表情で天井を見つめた。

 幼い時に両親が死んで養女に。17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。列車で連行されたのが旧ソ連国境近くの中国・琿春。慰安所だった。

 「ジュンコ」と呼ばれ、日本兵の相手をする毎日。「死にたい」。首をつったが、ひもがちぎれて未遂に終わった。そのアザを見つけた日本兵が殴りかかってきた。日本語で返事できないと短刀で足を刺された。

 ある日、銃声がやみ、飛行機の音も聞こえなくなった。日本兵が「お前ら好きにしろ」と言う。慰安婦たち7人で40日ほど、祖国を目指して歩き続けた。畑で大根を盗んで食べた。手をつないで中国国境の豆満江を渡った。一番端の女性の手が離れ、流された。誰も助ける力がなく、じっと見ていた。

 故郷に戻ったが養家には帰らず、友人宅に居候した。連行を知っていたはずなのに何もしてくれなかった巡査の養父に、不信感を持っていた。

 数日後、昔の恋人が訪ねてきた。すでに結婚していたが、「親のために結婚した。一緒に住まないか」と告げられた。部屋を借りて同居したが、3カ月後、恋人は周りから責められ自殺した。

 恋人の子を身ごもっていた。生まれた女の子は5カ月後に死んだ。働いたり寺で修行したりと、各地を転々。ナヌムの家にたどり着いたのは98年のことだという。

 「慰安婦を知らない人が増えた。日本だけでなく韓国でも……」。金さんの顔が一層悲しく見えた。

     ◇

 「行きましょ」。取材後、李さんに食事に誘われた。日本語だった。人生を変えた日本。本当は私の顔を見ることも、日本語を聞くことも嫌だろうと思っていただけに、ちょっと救われた気がした。だが、彼女の日本語は植民地支配の証しでもある。過酷な体験と今も続く偏見に、口を閉ざす元慰安婦もいる中、李さんと金さんは服をめくり上げて傷跡を見せてくれた。「歴史の事実を忘れてほしくないから」と語り続ける彼女たちは、今も日本の戦争と闘っている。そう感じた。(深松真司)


韓国の元慰安婦の方たち。韓国からも戦争中、多数の女性が日本軍の慰安婦としてだまされたり、あるいは銃剣を突きつけて強制的に連行していった。一応“慰安婦”とはいっているが、実態は日本軍の性奴隷であり、日本兵のために性を奉仕する人間ではなく、道具としてしか扱われなかった女性たちである。この記事で取り上げている李玉善さんは話を聞けば、当初慰安婦ではなく、労務者として連行されたようだ。中国東北部の延吉で、電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場の草刈や滑走路の掃除をさせられた。待遇は非常に悪く、抗議すると、慰安所送りになった。もちろん、酷い話である。有無を言わさず強制的に自分の運命を狂わされたのだから。その狂わした張本人である大日本帝国は今はないが、後を継いだ日本国政府はこういった戦争被害者に対して、戦争が終わったらほったらかしという酷い話だと思う。特に「慰安婦を認めない日本人は私たちが死ぬのを待っているんじゃないか」という言葉は胸に突き刺さるものがある。日本語をできるという彼女は人生を狂わされた大日本帝国の植民地支配の証を一生背負っていかなければならなかった。彼女の中で日本の戦争はまだ終わっていないのである。今生きている彼女らを含む大日本帝国被害者たちに日本政府からの一刻も早い補償と謝罪、そして加害事実の余すことのなく実態をすべて解明し、国民の教育や国家政策に反映して誠意をみせるということが日本政府に求められているのだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:19 | Comment(10) | TrackBack(43) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月01日

下等遊民さまの投稿より シンガポール郊外のチャンギー刑務所における欧州人収容所での虐待について―スミダ・ハルゾウ中佐の犯罪

日本軍の戦争犯罪の事例としてコリン・ウィルソン「殺人百科」が取り上げているスミダ・ハルゾウ中佐の犯罪を紹介したいと思います。

 「1942年、シンガポールを攻略した日本軍は、シンガポール郊外のチャンギー刑務所のなかに、欧州人の収容所を設けた。1943年春には、収容者は男3千名、女子供4百名に達した。1943年夏、シンガポールその他で頻発する日本軍に対する妨害行為の陰謀の拠点兵によって捜索され、主な容疑者が逮捕された。彼等は憲兵隊本部の地下牢に入れられ、残酷な拷問を受け自白を強要された。シンガポールの主教は、最初の日10時間も拷問されたうえ、監房へ投げこまれ、翌日も再びかつぎ上げられ、テーブルの上に仰むけに寝かされ、ロープで200回以上殴られた。それから監房へ戻され3日間意識不明だった。3週間以上も立てなかった。主教の足はひどく殴られたので、尻からくるぶしまでパルプのようになっていた。ちょうど牛肉のように見えた。スタンレー博士は、何日も電気テーブルやさまざまな拷器にかけられ、嘘の自白書に署名させられた。やがてベランダから飛びおり自殺をはかって失敗し、骨盤が砕け、両脚は麻痺状態になったが、それでも取調べは続けられた。英語の話せる医者が来て彼を診察したが、大したことはないといった。やがて博士は取調べを受け帰ってきたときには、チョッキだけしか着ていなかった。わきの下、内股、膝のうしろ、足指の間などに火傷をしていた。小便の代りに、トマト・ソースのような液体がしたたり落ちた。チョイ夫妻は、いっしょに拷問された。夫はひどく殴られ、水責めに合い、電気をかけられ、煙草で焼かれた。それから夫人は、切口の鋭い薪の上に膝まづかされ、その次は発電機から2本の導線を引いて15分間も電気をかけられた。ミドルトンは、身長6フィート2インチ、体重182ポンドという立派な体格だったが、たびたび拷問を受けるうち、体一面に潰瘍のような黒い大きな傷ができた。目をそむけたくなるほどやせ細り、まるで骸骨の上にうすいゴムのシートを張ったようで、皮膚の上から骨がはっきり分かった。ライオネル・グッドールは、肩甲骨を折られ、睾丸はロープで殴られたため、ものすごくふくれあがった。最後に頭を強く殴られて意識を失った。意識が回復しかけると、電気針で背中を突き刺されてひどく出血した。それでもしゃべらないと分かると、ヨードを胸や背中に注ぎかけた。拷問は夜も昼も続けられ、憲兵隊本部は、いつも訊問者のどなり声と収容者の悲鳴に満ちていた。夜の間に冷たくなった者がいても翌日の午後まで放置された。大勢詰めこんだ地下牢はひどい状態で、次々と死んでいった。食物も殆ど食べられないようなもので、水も便器の中のを使うよりしかたなかった。赤痢、脚気、かいせん、潰瘍、浮腫などがひろがった。男も女もいっしょに入れられ、用便の仕切りもなかった。それどころか、看視兵は、自然な生理現象だから、なるべく人前でおおっぴらにやれといった。月経期間の婦人にも全く考慮が払われなかった。こうして取調べが行なわれた結果、15人が殺されたのである。」(以上は沢登佳人「性倒錯の世界」からの孫引き)


本当に恐ろしいですね。日本軍のやることは人権も糞もない。ちなみに同じような日本軍による収容所における虐待は 『リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー』 リー・クアンユー著小牧利寿訳 日本経済新聞社日本軍占領時代の項でありました。こちらは欧州人捕虜・民間人抑留者ではなく、抗日の疑いをかけられて捕まったシンガポール人に対するものですが。のちほどブログで記事にしたいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:32 | Comment(8) | TrackBack(6) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大日本帝国は台湾で65万人のもの命を奪った!?

ネット版「台湾同胞抗日戦争記念館」25日公開
http://www.people.ne.jp/2005/10/25/jp20051025_54606.htmlより
台湾光復(解放)60周年を記念するネット上の「台湾同胞抗日戦争記念館」が25日、共産党青年団中央と中国社会科学院によって25日、正式に公開される。(http://twkz.china5000.cn

台湾の同胞による抗日闘争は、中華民族全体の抗日闘争において、重要な位置を占める。日本の侵略と占領の被害に遭った半世紀の間、台湾の同胞は絶えず抵抗を繰り返し、計65万人が壮烈な戦死を遂げ、国家主権を維持し領土を守るために、後世に残る貢献を果たした。

ネット記念館は、13項目からなる。各項目は、台湾同胞による抗日闘争の紹介、台湾解放の経緯、年代記、抗日闘争の英雄、記念活動、歴史の思い出、日本の植民地支配下での苦難、当時の写真、評論や研究、台湾の概況、「台湾独立」という恥ずべき行為、英雄烈士へのネット献花、閲覧者のコメントなど。豊富かつ詳細な文字資料や、歴史的に価値の高い写真と生き生きとした映像資料によって、台湾の同胞が日本の侵略に立ち向かった勇敢で英雄的な足取りと愛国者精神を、生き生きと再現する。(編集CS)

「人民網日本語版」 2005年10月25日


台湾では65万人もの人命が大日本帝国の植民地下で犠牲になったことがネット上の「台湾同胞抗日戦争記念館」http://twkz.china5000.cnにて証明されているもよう。

早い話が:65万人は中国の定説 金子秀敏(キャッシュでも確認できませんでした)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050929k0000e070070000c.htmlより
 あまり注目されなかったが、中国の胡錦濤(こきんとう)国家主席は、9月3日の演説で気になることを言っている。例の「抗日戦勝60周年記念」の演説だ。
 胡氏は「抗日戦争の主役が国民党軍、脇役が共産党軍」という新しい歴史解釈を述べ、さらに続けた。
 「日本が台湾を侵略占拠していた50年間、台湾同胞は絶えず反抗し、65万人が犠牲となった」
 65万人−−毎年1万2000人づつ台湾の人を殺した計算になるのだが。大江志乃夫著「日本植民地探訪」(新潮選書)は、初期の「台湾征服戦争」による台湾側の死者を1万7000人、その後の「匪賊討伐」などで1万1946人(死刑を含む)と推定している。また、先住民の反乱「霧社(むしゃ)事件」では、644人が死亡したという。
 だが、植民統治を通じた犠牲者の総数は見あたらない。まだ研究が十分に進んでいない。
 65万について、台湾の知人は「学校で習った記憶はない」という。台湾の公式数字ではなさそうだ。だが胡主席の公式発言だから、少なくとも中国では65万が定説となったに違いない。
 数字だけではない。「大陸は抗日戦争。台湾は抗日闘争。共に日本と戦った」という論理にも意味がある。
 かつて日本の「皇民」だった台湾の人々(本省人)は、一貫して植民統治と戦っていたというのだ。「抗日」史観で大陸と台湾は結びついているのだから、台湾独立はありえない。
 「高砂族の霊を返せ」とタイヤル族の民族衣装で靖国神社に乗り込んできた台湾の女性がいた。女優で立法委員(国会議員)の高金素梅(こうきんそばい)さんだ。(中略)
 日本の植民統治に謝罪を求める台湾の運動は、胡演説の歴史認識と裏表だ。
 素梅さんは、母は先住民族だが、父は安徽(あんき)省籍の漢民族で、心情的には中国に近いという。素梅さんはこれから北京の民族大学に留学する。中国の少数民族理論を仕入れて戻ってきたら、台湾でも65万説が広がるのだろうか。 (論説委員)
 
毎日新聞 2005年9月29日 13時12分


という記事が毎日新聞に掲載されていた。毎日新聞は良識的メディアの一つだと思っていたが、この記事には納得できない。金子秀敏論説委員は高金素梅氏の運動に対して、中共のプロパガンダ的な背後を求め、中国側と見解を同じにしているから、65万人にけちをつけたいと見える。ネット右翼が白髪三千丈の中共プロパガンダだとレッテルを貼り付けて否定するようなことを毎日新聞の記者がやっているのだ。大江志乃夫著「日本植民地探訪」(新潮選書)によれば初期の「台湾征伐戦争」では台湾側の死者を1万7000人と推定しているらしい。しかし、全体を通して研究をしておらず、日本の植民地における台湾人全体の死者はまだ明らかになっていないということだ。信憑性はどうかというと、必ずしも65万人が正しいとはかぎらない。南京事件と同様に。ただ、南京事件が厳密な歴史的数字の意味で虐殺の犠牲者30万人が完全に正確とはかぎらなくても、日本軍が捕虜や無辜の民間人を10万以上の単位で虐殺し、多くの民間人を暴行と強姦の嵐で何十万単位で傷つけたということは証明されている。そして暴行や強姦の被害者や負傷者・戦傷者・戦災犠牲者をすべて含めたら、30万人をはるかに凌ぐことも。これと同様に台湾では植民地期全体を通してみれば、台湾民衆の虐殺および強制労働、政治犯の強制収容・拷問・処刑などの犠牲者は数十万人に及ぶことは大日本帝国ならやりかねないということを歴史を勉強するものなら、気づくはず。しかも、すでに65万人が信憑性の高い資料であることを私は見つけている。

台湾日本綜合研究所長 許介鱗の論文だけども明治のころにあって、日本軍は日清戦争や台湾の初期の「台湾征服戦争」でも“東洋の大量殺戮鬼”だったことを示すものだ

日本「武士道」の謎を暴く                             
http://homepage3.nifty.com/aab/busido.htm より引用
 台北市文献委員会副主任委員・王国?編著『台湾抗日史』によると、「台湾が日本人の手に落ちて五十と一年になろうとしているが……わが同胞で虐殺に遭った総数は約40万人近く、焼かれた家屋は乙未年(1895年)内だけでも三千余に達し、婦女の淫虐、壮丁の奴役にいたっては、その精神上の損失はさらにはかりがたい[30]。」

[30] 王国?編著『台湾抗日史』(甲篇)(台北文献委員会、1981年)327頁

には約40万人という数字がでてくる。初期の「台湾征服戦争」のころだから、台湾植民地が比較的安定した以降にも弾圧が行われ警察による拷問や処刑、大戦期には強制連行・強制労働、徴兵も行われ、それらのすべての犠牲者を含めれば65万人という数字もおかしくないのである。すくなくとも何十万単位の虐殺を行ったのであり、65万人という数字がただしいとするならば、終戦時の台湾の人口が600万人ということを考えれば1割にあたる人間を大日本帝国は殺したのである。台湾の先住民の件だけど、台湾征服戦争の過程を考えれば多くは山地にあり、霧社事件による犠牲者の多くも先住民である。先住民が台湾の人口に埋める割合が少ないが、その原因は大日本帝国が植民地下において先住民の大部分を虐殺したからだと考えるのが自然である。私は高砂義勇軍の慰霊碑に対して原住民の多くが撤去に反対しているが理解できないと改めて思った。日本の右翼の金が慰霊碑の建築費に入っているのだ。そのような高砂義勇軍の慰霊碑は台湾先住民にとっては恨の象徴でしかないように思えるのだがどうだろうか?台湾における大日本帝国加害事実も余すところなく、解明されて、犠牲者遺族や被害者にたいして誠意のある補償や謝罪がいっこくもはやくおこなわれることを望む。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:13 | Comment(11) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海南島での強制労働および連行者虐殺について

紀州鉱山の真実を明らかにする会
http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/sikin.htmlより
海南島

海南島は中華人民共和国とベトナムの境、トンキン湾の東にあります。1939年2月、日本軍は海南島を攻撃し、次々と島の要所を占領していきました。海南島はアジア・太平洋地域に侵略をすすめる日本軍の前線基地とされ、また資源獲得をめざすという国策のもと、多数の日本企業が海南島に進出しました。
軍事施設の建設、鉱山労働、道路などの建設工事には海南島住民をはじめ、広州・潮州・上海の人たち、朝鮮、台湾の人たちなどが苛酷な労働を強いられました。日本軍は植民地朝鮮・台湾の刑務所に服役していた人を「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」として海南島に連行し、労働を強制しました。「朝鮮報国隊」とされた人たちは海南島各地の飛行場建設、石碌鉱山(日本窒素)、鉄道・土木工事(西松組)、田独鉱山(石原産業)、港湾工事などで働かされていました。日本の敗戦前後、日本軍はこの1000人にのぼる「朝鮮報国隊」の人々を、三亜市郊外の「朝鮮村」(南丁村)で虐殺しました。

「朝鮮村」

「朝鮮村」の名前は近くに暮らす黎族の住民が日本軍に殺された朝鮮人を弔う意味でつけたそうです。朝鮮人と一緒に道路建設作業を日本軍に強制された、「朝鮮村」近くに住む符亜輪さん(87)は、こう証言しています。「朝鮮人は竹で作ったかごを背負って土を運んだ。…道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人を二人ずつ木に吊るして殴った。…死ぬまで殴って、死んだあと2、3人ずつ穴に埋めた。…(朝鮮人は)みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった…」。これまでの調査で「朝鮮村」では、100体を越える遺骨と軍隊手帳、薬きょう、白いボタン、青い布切れ、針金、銃剣などが見つかっています。遺骨のなかには、頭蓋骨に撃ち抜かれたような穴のあいたもの、腕の骨が異常に変形したものなど、明らかに外的な力を加えられたものもあります。わたしたちは各地で聞かれた、「『朝鮮報国隊』は青い服を着、そのボタンは白い色だった」という証言などから、「朝鮮村」に埋められている遺骨は「朝鮮報国隊」の人たちであると考えています。


台湾からも強制連行されていたのですね。日本軍による酷い強制労働がおこなわれたのです。数々の遺骨が発見されていますが、その名前さえ明らかになっていません。犠牲者の方々が不憫でなりません。

民族時報 第846号(98.3.11)より
http://www.korea-htr.com/jp/841850/jp84603tt.htmlより
旧日本軍が朝鮮人連行者1000人を虐殺 

 日本帝国主義の植民地支配、侵略戦争の過程で行われた、旧日本軍による残虐な戦争犯罪を示す貴重な資料が最近相次いで見つかり、改めて日本の戦争犯罪の実態が浮き彫りになった。

 一つは、旧日本軍が当時、朝鮮人を中国の海南島に強制連行、強制徴用させ、そのうち約一千人を虐殺し、山のふもとに穴を掘って埋めたという事実が、海南省全国人民政治協商会議(政協)が発刊した資料によって初めて明らかになった(「朝鮮日報」三月二日付)。

 政協が発刊した日本帝国主義の侵略記録資料によれば、日本が無条件降伏した一九四五年八月十五日、海南島の崖県地域に取り残された日本軍部隊は同地域の朝鮮人徴用者約一千人を動員し、三亜市南丁村付近の山のふもとに穴を掘らせ、武器や軍需物資などを隠した。日本軍は作業に動員した朝鮮人に隠し場所の横にさらに穴を掘らせた後、銃弾を節約するため刀で無差別に惨殺、埋めたという。資料には、この場所が現在「南丁千人坑」と呼ばれていると記録されている。

 この資料は九五年、三亜市幹部や民間人のうち七十歳以上の老人約五十人の口述をもとに作成されたもので、当時虐殺された一千人はすべて朝鮮人徴用者だった、との三亜市政協が調査した状況調査票も収録されている。

 十九歳のときに四一年から四年間、海南島の鉄鉱山で強制労働を経験した地元の張達雄さん(七十六歳)は「約一千人の朝鮮人が採掘作業に強制動員され、脱出しようとしたものは処刑された」と、当時の状況を生々しく証言した。また、政協三亜市委員会が発行した「日軍侵略暴行実録」にも、南丁村の虐殺地域一帯が地元の人によって「朝鮮村」に改名されたと記録している。

 もう一つの貴重な資料は、朝鮮人強制連行が最も多かった一九四四年の都道府県別連行予定数を示した当時の閣議決定の添付資料である。民間団体の「朝鮮人強制連行真相調査団」のグループが国立公文書館で発見した。

 資料によると、連行先での労働の種類が四つに分類されている。「石炭山」が約十一万九千人、「金属山」が約三万九千人 、「土木建設」が約七万四千人、「工場その他」が約五万八千人となっており、全国で計二十九万人を連行する計画だったという。都道府県別の強制連行予定数は、北海道が約四万人で、福岡の約六万一千人、長崎の約一万八千人、福島の約一万四千人などが多い。

 調査団メンバーは「全都道府県で強制連行があったことがやっと確認されたといえる。炭坑などから土木建設へ連行先の変化も読み取れ、全容解明につなげたい」としている。 こうした歴史的事実を示す貴重な資料を前に、日本政府は過去に犯した戦争犯罪の実態を余すところなく解明し、応分の謝罪と補償を誠実に行うことが改めて求められている。


海南省全国人民政治協商会議(政協)が発刊した資料によってすでに証明されているようですね。日本軍は作業動員の朝鮮人をおそらく機密の隠避のために、穴を掘らせた上で無差別に虐殺して、埋めたという。これらの国家犯罪の実態を余すところなく解明したうえで、応分の謝罪と補償を誠実におきなうことが責任ある大人の国家になるためにも日本政府に求められているのだと思いますね。

HANboardより
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/5317.html
1.田独鉱山で

ほぼ60年前の1939年2月、日本陸海軍が奇襲攻撃をして海南島を占領し、軍政をしいた。その半年後、8月に石原産業は、海南島南部(現:三亜市郊外)の田独鉱山を独占し、翌年7月から鉄鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめた。

このころから、石原産業は、三重県の紀州鉱山で朝鮮人を働かせていた(『パトローネ』27、28、29、31号に紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする記事が掲載されています)。

田独鉱山では、海南島の民衆だけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人々が酷使された。

中国人民抗日戦争勝利50周年を紀念して政治協商会議三亜市委員会が編集し、1995年8月に発行した『三亜文史D日軍侵崖暴行実録』(「崖」は、海南島南部の現三亜市、楽東県の沿海地域を指す)には、日本軍と石原産業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれている。
(略)

2,侵略戦争と強制連行・強制労働

日本軍政下の海南島で、日本窒素は石碌鉄鉱山、三菱工業は那大錫鉱山と羊角嶺水晶鉱山、浅野セメントは抱坡嶺石灰山の資源の略奪を始めた。

日本の植民地とされた中国東北部では、1932年から多くの中国人が、鉱山、発電所などで強制労働させられていたが、海南島でも、日本軍・日本企業は、中国人・朝鮮人・台湾人…を強制労働させた。

それにもかかわらず、大蔵省管理局がだした『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島編)』には、「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦い、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐るべき熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかった程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生まれ変わった海南島が建設されたのである」と書かれている。

3,海南島の万人抗

万人抗は、日本支配下の鉱山で酷使され命を失わされた人々が重なって埋められている「墓地」あるいは大虐殺現場あるいは大処刑場であり、中国東北部の撫順炭坑、老頭溝炭坑、豊満ダム、大石橋マグネサイト鉱山、鶏西炭坑、鶴岡炭坑、北票炭坑、七道溝鉄鉱山、華北の大同炭坑、准南炭坑などにその跡が残されている。

海南島には、田独鉱山、石碌鉱山や八所港などに万人抗がある。

1958年に田独万人抗に「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が建てられた。石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事でも多くの人命が奪われた。八所港の万人抗には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた(「瓊」は海南島を意味する)。数万人がいのちを奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」が建てられた。

万人抗は、日本ではつくられなかった。中国各地の万人抗は、その地での強制労働の苛酷さを示している。

4.朝鮮村

田独鉱山は、三亜市東方の郊外にあるが、三亜市北方の郊外に、朝鮮村という名の黎族の村がある。そこで殺害され埋められた1000人以上といわれる朝鮮人を偲んで村人が、解放後に村名を変えたのだという。『日軍侵崖暴行実録』には、日本軍は朝鮮の「政治犯」1000人を現在の朝鮮村にあった収容所で殺害した、と書かれている。

わたしたちは、海南島に着いた翌日、政治協商会議三亜市委員会の蔡文恵氏に案内されて、朝鮮村を訪れた。黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細氏(83歳)から話を聞かせていただくこともできた。周亜細氏自身も日本兵によって左足に傷を負わされたという。

日本に戻ってから、わたしたちは、防衛研究図書館で、『海南警備府戦時日誌』(全30冊)をふくめ、数十冊の資料を点検したが、この事実の関係資料をみつけることができなかった。だが、橋正図書館では、いくつかの資料を探しだすことができた。その資料には、1943年から1944年にかけて、朝鮮から全獄中者の約1割の人びとが「南方派遣報国隊」の名で海南島に強制連行され、強制労働させられたという事実が示されていた(「南方派遣報国隊」は、海南島では「朝鮮報国隊」とよばれたという)。

さらにその後、わたしたちは韓国の記録保存所で、海南島に強制連行された獄中者に関する資料(名簿の一部など)を発見した。その名簿には、「治安維持法」違反の人も含まれていた。

7月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、朝鮮村の虐殺現場のわずかな一部分を「発掘」し、7人の遺骸に対面した。取材班は遺骸を埋めもどし、祭祀をおこなった。

KBSの取材班をつうじて、わたしたちは、「南方派遣報国隊」の隊員として海南島に強制連行され、虐待され、朝鮮人虐殺を目撃した人が、韓国慶尚南道の固城におられることを知った。この人によれば、いったん「京城刑務所」に集められてから海南島に強制連行された獄中者のなかには、マラリアなどで病死した人も多かったという。

8月31日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮のいのち」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。

50年あまりがすぎたいま、ようやく海南島に朝鮮人獄中者が強制連行され命を奪われたという事実が、日本と韓国で明るみにだされようとしている。

5,民衆の持久的な抵抗とたたかい

日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、しばしば民衆を虐殺した。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、婦女暴行、掠奪、軍隊性奴隷強要……)のすべてを、日本軍は、1939年2月以降、海南島でもおこなった。

抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。日本軍が海南島全域を占領・支配したことはなかった。1944年から、山岳部を中心に解放区が拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。

6,民衆のネットワークを

強制連行された朝鮮人が紀州鉱山で働かせていた時期に、海南島の田独鉱山でなにがおこなわれていたかは、これまで日本では隠されていた。

これから、田独鉄山やフィリピンのカランバヤンガン鉱山(ここでも石原産業は日本軍とともに資源と労働力と人命を奪っている)などでの強制労働の実態をその地域の民衆とともに、明らかにしていくなかで、強制連行・強制労働の現場であるアジア太平洋の各地と日本の各地をつなぐ民衆のきずなを強めていきたい。


心が痛む話で、言葉がでてきません。ほんとに。しかし、こんなに酷い大日本帝国の蛮行がメディアが発達した現在でも多くの人は知らないのではないでしょうか?海南島では現地の住民だけでなく、他の地域の中国人、台湾人、韓国人が連行されて、多く犠牲になっています。日本軍だけでなく侵略の尖兵として日本企業がたくさんの労働力と人命を奪い、血と肉と多くの苦しみを糧にして暴利を貪ったことも忘れてはいけないと思います。日本や中国本土、他のアジア・太平洋地域にも、日本軍とともに、日本企業が資源と労働力と人命を奪い苦しめた強制連行・強制労働現場がたくさん残されており、国家犯罪の実態を余すところなく解明することが大事です。また、戦争を知らない世代の戦後の加害責任をとる意味で、我々が育った日本という国の土壌にはにはかつての侵略戦争での多くの犠牲者の人命が埋まっていることを知り、日本政府に応分の謝罪と補償を誠意あるように被害者や犠牲者遺族にさせ、国民の総意として余すところなく加害事実を伝えていくことが必要なのではないでしょうか?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:02 | Comment(16) | TrackBack(2) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

『世界204ヶ国を旅して』の管理人の答え。

世界204ヶ国を旅して
http://tabisite.com/ というサイトの管理人に質問をぶつけてみました。


●質問
はじめまして。右翼討伐人といいます。参照先のURLに私の管理するブログのサイトを書き込んでおきました。メールはuyotoubatsunin@yahoo.co.jpです。よろしくお願いします。
私は大日本帝国の侵略・戦争加害について関心をもつ者です。世界中の多くの国・地域を旅しているということですが、特に韓国、北朝鮮、中華人民共和国、マーシャル諸島、ミクロネシア、パラオ、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東チモール、フィリピン、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ナウル共和国、キリバス共和国の国々、サイパンを含むマリアナ諸島、サハリン、千島列島、グアム、玉砕のあったアッツ島を含むアリューシャン列島、アンダマン・ニコバル諸島、の日本に植民地下されたり、占領されたり、戦場になったりした地域を旅行されていると思いますが、日本軍によって強制労働されたり、憲兵隊によって拷問されたり、従軍慰安婦にされた女性、虐殺・暴行・強姦などによる犠牲者遺族・被害者自身の話を聞いたことはありますでしょうか?また、大日本帝国および日本軍が行った残虐行為について旅行中見聞きしたことはあるのでしょうか?情報をお待ちしています。http://tabisite.com/kunijoho/timor.htmというページにて、東チモールおよび西チモール旅行中、日本時代を懐かしみ、よかったという人がいたということですが、日本軍による被害者には会わなかったのでしょうか?
http://peaceact.jca.apc.org/paml/5100/5119.htmlによれば、日本軍により食糧の供出や強制労働、そして従軍慰安婦にされたり、強姦されたりした被害者が多くいたようで、東チモールの人々にとって日本軍占領時代は地獄のような世界だったようですが、そのような話は聞かなかったのでしょうか?お手数ですがよろしくお願いします。


●管理人の解答
>日本軍によって強制労働されたり、憲兵隊によって拷問されたり、従軍慰安婦にされた女性、虐殺・暴行・強姦などによる犠牲者遺族・被害者自身の話を聞いたことはありますでしょうか?
ありません

>大日本帝国および日本軍が行った残虐行為について旅行中見聞きしたことはあるのでしょうか?
ありません

>日本軍による被害者には会わなかったのでしょうか?
会いませんでした。ただし、親族が被害者という人には韓国で会いました。

>日本軍占領時代は地獄のような世界だったようですが、そのような話は聞かなかったのでしょうか?
文献上で読んだことがあるだけ。

東チモール以外の太平洋諸国でも日本統治か時代が良かったという人ばかり。文献から予想していた事実とあまりに違うので、私自身非常にと惑いました。
もっとも旅行者ですから、好意を持った人が話し掛けてくるのだとも考えられますよ。

ご自分で訪れ、確かめることを切に希望します。
それも早急に! 生き証人がいるうちに…もう遅いかなぁ。
このような場で私が言える事はそれだけです。


管理人の方は文献を読んで勉強はされているようです。実際のところはギャップがあり、ほとんど被害者と呼べる人に出会わなかったようです。日本軍が行った残虐行為についても見聞きすることはなかったようです。戦後半世紀以上たったいま、風化が激しいのでしょうか?管理人さまはこうおっしゃっています。『もっとも旅行者ですから、好意を持った人が話し掛けてくるのだとも考えられますよ。』もしかしたら、日本軍によって酷い目にあわされて恨みを抱いている人は旅行者である日本人なんかにわざわざ話かけたりすることは考えられないでしょう。旅行者という立場ではなく、積極的に大日本帝国の侵略・戦争加害を反省する気持ちでもって、相当下調べして長期間掛けて、被害者の方で話を聞きたいという一心で行くということがないと実際のところ出会うのは難しいかもしれません。自分自身で歩いて、自分自身で確かめるしかないですね。しかし、お金と時間がございません・・・・(泣)
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 21:13 | Comment(22) | TrackBack(14) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『世界204ヶ国を旅して』というサイトの管理人に聞いてみる。

世界204ヶ国を旅して
http://tabisite.com/
というサイトを見つけました。ここで、大日本帝国の侵略・戦争加害情報をもっていないかどうかぶつけたいと考えています。

東チモール情報
http://tabisite.com/kunijoho/timor.htmというページにて
感想
 『大昔に外国人が地図上だけで引いた線にこだわって独立する意味があるのか非常に疑問。別国の占領時代が長く、文化が違うとの主張での独立だが、占領時代に影響を受けたのは港町だけ。内陸の開発は一切なされず、大半の地域の文化は東西チモールで同一である。ジャワ人の支配に抵抗するなら東西チモール共同してせめてテトゥン人が団結せねば意味がない。産業もなく、将来採掘されるであろう海底資源を当てにして独立してやっていけるのか。』などと独立前から批判的に思っていたこともあり、自分の中に訪問したという盛り上がりがありませんでした。入国前に発生した暴動も、やっぱりという感じだったのです。
 訪問しての感想は、「これではUN、特にオーストラリアの植民地。」。オーストラリアの巨大な基地は要塞のようです。先進国と同様な品物を並べるスーパーの客は外国人ばかり。レストランも同じ。ビーチでも車で遊びに来る外国人が我が物顔。UNの建物の前には英語での求人広告。……。
 うれしかった事を一つ。外国人がまず飲まないであろうヤシ酒を飲んでいて、日本語を戦時中に覚えたおじいさんに会いました。日本時代は良かったととても懐かしそうに話してくれ、ちょっとだけ幸せな気分に。西チモールでも同様な事がありました。たった3年間日本軍がいただけなのにね。


日本時代がよかったという証言が飛び出しているのです。にわかに信じられません。

たとえば、言うまでもなく、
[paml:05119] 賛同依頼:日本の東ティモールにおける戦争責任についての申し入れ
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13536399.htmlより
 日本軍は、村長やリウライ(伝統的な首長)に命じて、住民の乏しい作物や
家畜を徴用し、住民を軍用道路やバラック建設のために働かせました。駐屯地
には「慰安所」が開設され、脅迫によって集められた多くの女性が長期にわたっ
て性的暴行を受け続けました。占領の後半では、日本軍は制海・制空権を失い、
物資の補給が途絶したため、収奪のレベルは高まり、「慰安婦」も含め日本軍
に酷使される人々に食糧の自己調達を強いるような事態となりました。また、
日本軍は、連合軍兵士や連合軍を支持するポルトガル人を助けた住民を容赦せ
ず、彼らを捕え、拷問し、処刑に至る例も多々ありました。日本軍への協力を
拒んだ村長やリウライは討伐の対象になりました。あるリウライは女性を差し
出すことを拒否して処刑されました。一方日本軍に協力した者は、戦後ポルト
ガル政庁によって恣意的な報復を受け、アタウロ島の監獄に収容された多くの
人が、栄養失調と虐待により命を落としました。


ということで、東ティモールの人々は日本軍占領中想像を絶する迫害を受けたのです。書k量の調達、労働力の供出、労働力の酷使、そして性奴隷です。これらの証言に接することはなかったのでしょうか?
世界のほとんど各国を旅しているということは、日本軍が占領したアジア・太平洋地域のほとんどを旅したことになり、住民の対日感情や日本軍占領時代を知る人物などにであった可能性が高いと思います。その辺はどうなのでしょうか?質問してみたいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:07 | Comment(9) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

ミクロネシア、パラオ、マーシャル諸島および太平洋地域全般における大日本帝国加害事実

ミクロネシア、パラオ、マーシャル諸島および太平洋地域全般における大日本帝国加害事実について

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper51.htmより
(7)太平洋諸島
 太平洋諸島においては日米両軍の死闘がくりひろげられました。多くの島で日本軍は玉砕し、またガダルカナル島をはじめ多数の餓死者を出しました。たとえばギルバート諸島のタラワ、マキン鳥は日本軍「全員玉砕」の地として知られています。両島で日本人、朝鮮人約五、〇〇〇人(朝鮮人は飛行場建設のため強制連行された人々です)、米軍約一、〇〇〇人が戦死しました。
 ここで忘れられてはならないのは、これらの島々にはもとから住んでいる人々がいたということです。彼らは飛行場建設に動員され、荷かつぎをさせられました。ギルパートのある老人が知っていた日本語は、歌のほかに「シゴト、カカレ、ヤスメ」という言葉でした(小田実『世界が語りかける』)。家も樹もふきとぷ戦闘の中で、彼らにも当然冬多数の犠牲者が出たでしょう。しかしこのことは、日米両国民には、まったく目にはいらないかのようです。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
16 太平洋諸島 

 ミクロネシアの島々は戦前は南洋諸島と呼ばれ、日本の統治下におかれていた。これらの島々にも日本軍が配置されていた。島民はロームシャとして駆り立てられ、食糧を供出させられた。特に日本の戦況が悪化すると外部との連絡が途絶え、多くの日本兵が駐屯していたため食糧難に陥った。また米軍に通じているとして疑いをかけられ、殺された人も多い。これらの島々はかつてのスペイン統治の影響でカトリック教徒が多く、グアムやロタでは白人の神父がスパイ容疑で処刑されている。
 グアム島はアメリカ領だったので、地元のチャモロ人は日本に反感が強かった。一九四四年七月米軍が上陸する直前にメリーソン村で、米軍に通報したという理由で一六人が捕らえられ、手榴弾で殺された。さらに三〇人も同じようにして殺された。その一方、村にいた日本兵と在留邦人たちが村の男たちを監禁したうえで若い女性を一人ずつ連れ込み泊まらせた。その直後にメリーソン村の日本人は、地元民に荷物を担がせて避難を始めたが、その途中、地元民に襲われ一一人が殺される事件がおきた。
 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。
(略)
日本軍が駐留していた各地の島々で、敵に通じているという疑いや食糧を盗んだという理由で住民が拷問・処刑され、時には集団虐殺される事件がたくさん起こっていたと推測される。さらに米軍が上陸してきた場合には、激しい爆撃や艦砲射撃、地上戦により住民にも多くの犠牲が出た。サイパンやテニアンなどでは、降伏を許されず、追い詰められた在留邦人が絶壁から身を投げたり手榴弾で「自決」したことは有名だが、こうした太平洋の島々の人々に日本軍が与えた被害については、ほとんど忘れられたままである。


滝尾英二的こころ
http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/2005/11/より
 「パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルートに、1922年に日本政府によってつくられた「南洋庁」によって、日本植民地下のこれら4箇所の島々にハンセン病収容所がつくられたこと。その収容所に強制収容されたハンセン病患者は「‥‥由来島民は其の伝染性を信じないので当局は常に適当なる方策を講じ隔離治療を行う要あるを痛感し大正一五年(=1926年)サイパン島に癩療養所を設け、之に患者を収容して‥‥糧食等は夫々親族縁故者の負担とした‥‥」(『南洋群島要覧=南洋庁』より)。

 また、パラオの元挺身隊員であったヤノ・マリウスさんが1991年に日本のアジア・太平洋地域戦後補償国際フォーラムで証言されたなかで「(パラオでは)ハンセン病患者四名は銃殺、あるいは剣で刺し殺されました」と発言されています(国際フォーラム実行委員会編『戦後補償を考える』29ページ、東方出版)。このようなことが、ミクロネシア四島の各地であったのではないでしょうか。(『飛礫』47号・2005年7月発行の滝尾英二著「ミクロネシアのハンセン病政策」を参照)。


大日本帝国の植民地下におけるハンセン病強制隔離問題については厚生省が補償を行うという解決への一歩が見出せたが、太平洋地域におけるハンセン病隔離問題についてはまだ未解決である。ナウル共和国にしろ、パラオなどの南洋諸島にしろ、台湾や韓国における事例よりもさらに非道なものだった可能性が高いと思う。被害事実の解明と、日本政府一刻も早い、被害者本人や犠牲者遺族に対する補償に向けて、圧力をかけていかないといけないと思う。
太平洋の島々でも戦争被害
http://web.archive.org/web/20020821094546/www5.sdp.or.jp/central/shinpou/newsfiles98/6sensouhigai0812.htmlより
アジア太平洋戦後補償国際フォーラム
 第二次世界大戦での旧日本軍による残虐行為については、すでに中国をはじめ東南アジア各地で明らかにされているが、太平洋の島々やニューギニアにおいても、住民に対する虐殺や強姦、「慰安婦」などか烈な戦争被害があったことが、被害者らの証言で明らかになった。

 七月二十六日に東京で開かれた、アジア太平洋戦後補償国際フォーラム(戦後補償アジア太平洋被害者団体国際協議会主催)に参加したトラック諸島、マーシャル諸島、パプアニューギニアから来日した被害者や関係者が語ったもの。

 このなかで、マーシャル諸島のミリ・アトール出身のタリナ・レイトさん(七十二歳・女性)は、戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言。「私は兵士たちがした残虐行為を生きている限り決して忘れない。神様がいつかこの残虐な人びとに罰を下してくださるよう祈っている」と、訴えた。

 また、戦争中飢餓地獄といわれたニューギニアで、日本軍の炊事係として部隊に同行した体験をもつパプアニューギニアからきたブガ・グロ・ハウエバルさん(七十五歳・男性)は、日本兵十一|十二歳の少女を強姦した後、銃剣で殺害したことや、行軍途中の村々で、若い女性たちを性の奴隷とするため部隊に従軍させ、その途中で強姦した女性の乳房を切りとり、兵士たちの食料として揚げて食べたという、現地住民を対象とした組織的な人肉食が行なわれた事実について証言。

 また、同じくパプアニューギニアから来日した「日本軍による戦争被害に補償を求める会」代表のガブリエル・ラクさんは、これまでの現地での聞き取りなどの調査により、戦争中に住民七千七百四十八人が日本兵に殺害されたほか、食料不足を補う目的で二千三百八十八人が人肉の犠牲となり、また、一万六千百六十一人の女性が日本兵の性的奴隷として「慰安婦」にされたと報告した。

 フォーラムを主催した同協議会代表で、これまでアジアの戦争犠牲者の戦後補償問題に取り組んできた弁護士の高木健一さんは「これまで韓国や台湾、フィリピン、インドネシアやオランダについては、アジア女性基金など不十分ながら償いの事業がなされているが、なぜ太平洋地域についてはできないのか。この地域の人びとを、日本政府と日本人は軽んじてはならない」と発言、具体的な償いの実現に向けて今後も努力していく考えを強調。

 また、この日のフォーラムには、社民党戦後補償問題プロジェクトチーム事務局長の清水澄子参院議院が出席、「被害者に対して個人補償するのが政治。皆さんと力を合わせてやっていきたい」と激励。翌二十七日には、清水議員が窓口になって高木弁護士や来日した被害者とともに、外務省アジア局地域政策課と総理府外政審議室の担当者と交渉、「日本政府としてこの問題に誠実に真剣に取り組んでほしい」と要請した。


ミリ・アトール出身のタリナ・レイトさんについてぐぐってみましたが何も分かりませんでした。ともあれ、凄惨な蛮行が繰り広げられたようです。
>戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言
日本軍という存在はどこかの野蛮な軍閥か、蛮族の集団のようですね。

◇第一作 『日本軍歌思考』第二部
http://homepage3.nifty.com/alexcompany/novel_02.htmlより
 日曜の或るテレビ番組に出場のコメンテーターは、この現象を指して“歴史はくりかえす”と言ったが、気掛かりなのはその不況だけではなく、前述した昭和九年の世上をもいっしょくたに繰り返されたのでは困るのである。何となれば、昭和初期に見舞われた不況のそれから先の道筋は戦争であるからだ! 
 博識にあるコメンテーターの言をかり、それをそこまで二重写しにして気にかけるのは、杞憂というものであろうか… とりもなおさず、それは前述の「衆愚政治」なる言に過去の傷口がうずき、そこをひじくられそうにあるからだ。 
 腹立ちついでに、これも真実に違いあるまいと思われるので、付け加えておきたい。それは、これを書きかけ中に目にふれた極く最近の新聞記事で、読んでるうちに、日本人なら誰もが忸怩たるの思いをさせられる内容のものであった。

 それによれば、“南太平洋の声とゞかず”の見出しに始まるそこは、かって旧日本軍の占領下にあったところである。で、住民の強制移住や土地の強制接収等の被害をこうむった周辺三カ国(パプアニューギニア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)の民間人代表七人が過去の補償を求め、七月下旬に来日した。
 ミクロネシア・トラック諸島の代表は奪われた先祖代々の土地についての補償を、パプアニューギニアの代表は被害調査の最新データ(旧日本軍から被害を被った犠牲者、生存者、遺族合わせてその数九万五千余人。そのうち人肉食の被害が二千三百余人、強姦殺人が約六千五百人)を提示して、その補償を迫った。
 また、マーシャル諸島の元慰安婦であった代表は、自らの体験を何度も語り、現在フィリピンなどで進められている“アジア女性基金”の「償い事業」を南太平洋でも展開するよう求めるものであった。
 だが、むなしさがつのるとはこのことであろうか…。
 もとより、これの交渉の場としては、国会議員の仲介で政府との会合が実現し、各国の実態報告書が手渡されたのであるが、外務省、内閣外政審議室、アジア女性基金の反応はいちように鈍く、「新たな判断材料があれば…」(内閣外政審議室)「何らかの公的文書がないと」(外務省)といった具合で、引率の弁護士は「人肉食など日本軍が記録するはずがないじゃないか」と反論しても、前向きの答えはなかったという。
 さらに、マーシャル諸島の被害者組織代表から、「今も続く重大な被害」として残留不発弾の処理問題が訴えられ、それによれば、ミリ島の旧日本軍が連合国に敗れ撤退する際、千発以上の砲弾を放置したゝめ、危険で農地を耕すことができないという。
 それでも何の回答もないので、組織代表は手をあげて、「最後に言いたい」と次のように語り,記述はこれを以って締めくゝられている。
 「マーシャルでは三十一人の元慰安婦がいることがわかっている。遺族の中には、父親が日本人だったという人もいる。証拠を出せと言われても難しいが、証人ならいる。真実を知ってほしい」
 かくして、政府側の終始「公的史料がなければ補償しにくい」とする杓子定規な物言いの態度に代表は折れ、「戦争で荒れ果てた島に公的文書など元々なく生き証人の言葉を信じてもらえないのか」の言を残し、彼らは帰国したとある。

 これでは証拠を出せないのをいゝことに、それを出せと意地悪くされているのと同じようなものである。とかく、弱者は既存の施策から踏んだり蹴ったりの仕打ちを受けるが、これはそれの典型のように思えてならない。
 抑も、これのやりとりは、被害にあった国の人々がこちらに出向いて実情を訴えるのではなく、被害を与えた日本側が占領した各地へ出向いて実情を調査し、それによっては出来るかぎりの誠意を尽くすのが筋というもので、こゝに見られる何でもが証拠一点張りの対応には、情実のないじれったさが感じられ、日本人そのものが問われられているようで嘆かわしい…。


http://u-air.net/social-science/theses/kuri.pdfより
b. 経済活動
(略)
「従順だが未開であるため労働力としては使用
し得ない」と見なされていた島民に与えられた仕事は、日本人移住者がやりたがらない類
のものであった。


3. 国連信託統治領 アメリカ統治時代
 1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。南洋群島は、日本にとって重要な軍事拠点となり、パラオもまた戦火に巻き込まれていった。
1943年には、数十人の島民により「パラオ挺身隊」が組織されニューギニア戦線へ送られた。半数が戦死、行方不明となる。1944年9月に入ると、パラオもアメリカの本格的な攻撃を受けるようになり、ペリリユー島とアンガウル島は玉砕の島となった。1945年8月15日、日本の無条件降伏により太平洋戦争は終結し、第二次世界大戦もその幕を閉じた。


こだわらない強み −ミクロネシア連邦モエン島の現状に対する島民の意識−
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/harada.pdfより
 しかし1941年に太平洋戦争がはじまると事態は一変した。「海の生命線」と呼ばれ、戦略的拠点となったミクロネシアの島々には、非常に数多くの軍人や軍属が来島し、島民は土地を奪われ、軍作業や食糧増産に使役された。戦争は4年間続いた。島のお年寄りの方も戦争中は大変だったと話してくれた。 「私は戦争の時は兵隊さんと一緒に働いた。戦争がひどくなると兵隊さんは食料をくれないから多くの島民が水曜島へ引っ越したよ。パンの実やバナナ、ココナッツ、何もくれなかったから。昼間は勤労奉仕で軍隊で働いて、夜は防空壕掘ったり、畑仕事したり。働かなかったら罰でした。空襲があるときは寝られないし、たくさんの島民が日本兵と一緒の防空壕で死にました。」 「戦争の時は苦しかったよ。戦争中は食べ物はみんな軍隊のものになったし、家もとられて、島民は山の奥にいた。夜は寝られないし、昼は軍隊の仕事。戦争最中はトラックの人をぶん殴ったりもしていました。」 「軍隊で働きました。各部隊に分かれて兵隊さんのお手伝いとか、伝令をするとか、まるで兵隊さんのようにやったんです。敵が来たら僕らもみんな向かうからね、僕らも軍隊になっちゃう、そうでしょ。例えば敵陣島陸すれば僕らは日本人と働いているから向かうし敵も僕らをねらうでしょ。僕らは軍人と同じなんですよ。」


http://www.tkfd.or.jp/publication/reserch/2005-10.pdf p7より
 大東亜戦争が始まると島の人々も戦争に協力した。青年団は挺身隊に編成され、軍隊を支えた。1940 年、南洋群島大政翼賛会が結成されると、島民も参加し、日本本土と同じように宮城遥拝、君が代と愛国行進曲の合唱、国防献金、慰問袋作り、戦勝祈願の儀式、勤労奉仕をした。さらにパラオ調査隊、パラオ挺身隊、ポナペ決死隊としてニューギニア等の南方戦線で日本兵とともに戦った島民もいる。


高橋潤次さんの戦争体験
http://www.geocities.jp/haguma27/hiromi/sensoutaiken1/page02top.htmより
 北朝鮮による拉致闘題は許せないが、誓本人からみて許せないことは朝鮮人、中国人からみても許せないとおもいます。この近くでも久根鉱山、峰の沢鉱山など、天竜川流域の銅山やトンネル工事に、強制連行された朝鮮・中国人が労働につかわれ、かなりの犠牲者も出ているのですが、これらのことに補償らしい補償がまったくないのが現状です。
  わたしが戦争に反対する大きな理由は、爆撃で手をとられて前途まっくらになった、わたし自身が被害者という意識が強くあったことからです。戦後五年間くらいは占領軍により軍人恩給もストップされていた。講和条約成立後に恩給は再開したが、金はもらえても手は返してもらえない。こんなことは他の人にはぜったい経験させたくない、だから戦争反対と強くおもった。その被害者意識から出発して、転機となっこのは、1980年にベラウに行ったことです。
 べラウでは、日本の海軍軍艦のはなしが、現地の婦人から涙ながら訴えでられました。当時ベラウの人口、一万二、三千人のうち約半分の六千人が死んでいる。なくなった原因の多くは飢え死にです。
  そのもっとも大きな要因となったのは、ベラウ諸島の最南端、ペリリュー島という島に、一万二千人の日本の陸海軍が要塞を作ってたてこもっていた(*この軍隊は三十八名が残っただけで全滅した)ことです。宝の島といわれたぺリリュー島は、野菜、果物やコメまでつくり、ベラウ全島に供給していたところです。
  それに追い討ちをかげたのが、海軍の艦船の寄港でした。たとえば戦艦「大和」も、1944年2月にトラック島の米軍の空襲からのがれて、ベラウへ逃げこんできています。「大和」のほか五隻ぐらいの船がついていた。これらを全部あわせると、約五千人の人口です。これらに相当する人口が、水や生鮮食料品、ニワトリやブタの肉などもまきあげられたといいます。島の人々はアメリカの空襲を避けてジャングルへ逃げたけれど、ジヤングルのなかには食べるものは何もなかった。
  それをきいてショックだった。わたしらの船もそれをやってきたのです。
  マーシャル群島へ寄港したとき、ヤシの若芽をつんで食べていました。野菜がない状態でしたから、うまい、うまいと。ヤシは土地の人には重要な生活手段であり食料です。それを若芽のうちにつんでしまっていた。
  わたし自身は航海士で、艦の運行の仕事をしていました。大砲はおろか鉄砲一発撃ったことがなかったのに、れっきとした加害者だったのです。


核超大国のエゴに向き合う
アジアボランティアセンター(AVC)代表・平田 哲
http://www.shinshukyo.com/webup/back04/main04/2004.06.04.htmより
 日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝した米国のビキニ水爆実験から50年の3月1日、実験地のマーシャル諸島共和国の首都マジュロで(同国政府主催)の記念式典に参加した。式の模様や今なお核実験の後遺症に苦しむ島民の実情が、日本でも報道されたが、少し補足したい。
 マーシャル諸島は、侵略の歴史に塗りつぶされた人類史の恥部が凝縮されている。日本の施政権下にあった第二次大戦中は、旧日本軍がヤルート島やミリ環礁などで多くの島民を虐殺した。犠牲者の子孫の何人かから、私も直接その話を聞かされた。
 戦後は新たな支配者である米国の核実験で、多くの島民が土地を追われた。とくに象徴的なのは、被曝難民が米国の核補償金への依存を強いられて以来、島民全体の生活はゆがみ、自立への意欲にも水を差していることだ。日本のNGOの一つとして、この状況を改善する事業を進めるため、私は数年前から5回、同国を訪れたが、そのたびに力のない民衆を犠牲にして恥じない大国のエゴに、憤りがこみ上げる。


第3回 南海の楽園と被曝のトラウマ 05/10/31
教育ジャーナリスト 渡辺 幸重
http://kaze.shinshomap.info/report/gaikokujin/03.html
島よ、蘇れ——日本人としてできること
 私たちは、推し測ることができないほど深い傷が島民の社会にトラウマとなって存在していることを十分に認識しながら活動しなければならない、と感じている。フォトジャーナリストの島田興生さんは、著書『還らざる楽園/ビキニ被曝40年 核に蝕まれて』(小学館)の中で「被曝の後遺症は、単に島民たちの身体的障害だけにとどまらない。家族、村、島社会における生活共同体、環境や生態系、文化や伝統など、すべてにわたって破壊の爪あとを残している」と指摘している。
 同時に私たちは、南方系の底抜けの明るさを併せ持つことも必要だ。今回の報告会と前歯検査を通じて、帰島実現に一歩近づいた。このことについては、私たちは島民と一緒に心から喜び合うことができる。サヨナラパーティーで来年の現地調査と併行して若者が参加するサマーキャンプをやろうという話が出たとき、被曝経験を持つ女性から「自分たちも行こう」と元気な声が上がり、盛り上がった。被曝の後遺症や共同体社会が破壊されたことによる苦しさよりも、現在から未来に向かっての明るさをあっけらかんと表現し、顔をくしゃくしゃにしながら体全体で笑い合う彼女たちの姿に接すると、私たちもつい嬉しくなり、躊躇も恥ずかしさもなく抱き合ったりするのだった。
 太平洋の島々は、西洋の大航海時代から受難の歴史をたどってきた。太平洋戦争の爪あとは戦地となった島のあちこちに今でも残されている。マーシャル諸島の島々で、破壊された日本軍の軍事施設跡やいまだにヤシも生えない日本軍のコンクリート滑走路を見、日本軍によるマーシャル人や朝鮮人の虐殺や兵站を断たれた日本兵を含む人々の餓死などの話を聞いてきた島田さんは、島の生態系と人々の伝統的な生活が回復できるよう「せめて、島を昔の状態に戻すのが日本人としての最低の義務だと思う」と訴えている。


質問主意書情報
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/syuisyo/132/syuh/s132009.htmより

質問主意書


質問第九号

マーシャル諸島ミリ環礁における旧日本軍の武器撤去と復旧問題に関する質問主意書右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。
  
平成七年三月八日




竹 村 泰 子
  

       参議院議長 原  文 兵 衛 殿
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   マーシャル諸島ミリ環礁における旧日本軍の武器撤去と復旧問題に関する質問主意書

 一九九四年八月に東京で行われた「アジア・太平洋戦後補償国際フォーラム」に、マーシャル諸島共和国のミリ環礁出身の国会議員および島民の代表が来日し、同環礁で行われた旧日本軍による住民虐殺について証言するとともに、日本政府に対し、終戦に際しここに旧日本軍が放置した武器、弾薬などの撤去と復旧を訴えた。こうした活動はマーシャル諸島共和国議会によって支持されており、武器、弾薬、特に地雷などの撤去と復旧問題は、爆発の可能性が高く危険であるとして、一九九五年二月に開催された「アジア・太平洋国会議員連盟」の会議においても同共和国代表によって言及された。
 ミリ環礁は、連合軍の反攻作戦に対する前線基地として要塞化されたことは明らかであり、戦後こうした武器、弾薬が放置されているとすれば、住民の安全を脅かし、経済活動を阻害するものとして、見過ごすことができない問題であると考える。戦後五十年に当たり、戦後補償の一環として、以下のことを質問する。
 こうした旧日本軍の放置した軍事物資や施設に関し、住民から強い撤去と復旧要請もあり、これに対する人道上の対応として、まず早急に、実務的な実態調査の必要があると思われるが、政府はどう考えているか。中国に残した旧日本軍の化学兵器の撤去問題に関しては、すでに政府の調査団を派遣している事実もある。また、これに代わる対策として検討中のものがあれば、これを明らかにされたい。

  右質問する。


○まとめ
パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島において大日本帝国は委任統治領として植民地支配しましたが、特に戦争時は酷かったようです。多くの住民が日本軍によって虐殺されたり、孤立し補給がなくなったため、島の住民も日本軍と同じく飢餓に陥りました。従軍慰安婦や強姦、強制労働の被害者の傷は今も癒えてません。そして戦後日本軍が残していった砲弾や兵器類が問題となり、島民の生活を脅かしているのです。詳しいことはぐぐってもでてきませんでした。パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、サイパン、グアムを含むマリアナ諸島などの太平洋諸国・地域に大日本帝国が与えた被害について、メディアはおろかネット上からも多くが抹殺されてしまったようです。の今はミクロネシアなり、マーシャル諸島政府なりが韓国や中国のように日本に対して過去の侵略、戦争被害に対する謝罪や補償問題を提起する動きがないようなのですが、その辺どうなのでしょうか?日本人として情けなくなります。大人の国家、そして国際社会で真に認めてもらう国家になるためにも、日本政府にしかるべき責任をとらせるべきだと思います。歴史の闇にこれらの被害事実を葬って済まされる問題ではありません。いつになったら、この日本に正義が訪れるときがくるのでしょうか?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:36 | Comment(10) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グアム島における大日本帝国加害事実

グアムにおける大日本帝国加害事実について

● 次に消されるのはだれ? ● グアム先住民の旅、2004年春
http://prof.mt.tama.hosei.ac.jp/~otadashi/travel_prof9.htmlより
<日本の責任>
死を恐れず勇敢に、しかもなんだか不思議なユーモアをもって、アメリカの支配とたたかって独立を求めるチャモロの人々。見ていて気持ちいいし、いっしょにいて楽しい。しかし、チャモロの人々の苦しみについていくと、日本という国、日本の会社、日本人の責任ということを考えずにはいられない。
Hさんのくれたタダ券で2人の学生がパラセイリングに挑戦。レンタカーの都合もありみんなでその浜におしかけ、帰りを待つ。あたりは日本人観光客ばかり。レジャー・クラブのプライベート・ビーチだ。浜辺のホテルのプールを浜から隔てる壁の隅に、ちょっとした石碑のようなものがある。近づいて読めば、「ここは植民地化以前のチャモロ人の集落…、浜は墓場…、30数体の遺骨が発掘され、ここに眠る」とある。日本資本のホテルがひしめくタモン湾の大ホテル街のプライベート・ビーチは、すべてチャモロの先祖たちの墓だ。私の母がまず立ち上がり、私も反対運動をやったけど、すべて掘り返されて、ホテルになった。抗議を受けたホテルはいちおう埋葬しなおしたけど、どこに骨を捨てたかわからないホテルもたくさん。京都に行ったときに、日本人は、先祖を敬うりっぱな墓を作る民族だとわかった。それなのに、どうしてグアムでこんなことができるの?…そんなHさんの話を聞くと、あくまで透き通って美しい水に白い砂浜のビーチのホテル街にも近づきたくなくなる。
(略)
<戦争による損害賠償委員会>
Hさんがみせてくれた昨年12月の新聞。グアム政府が、第二次大戦による損害賠償委員会を立ち上げて、証言を集めている、とある。泣き崩れる女性の写真入り。子供だった彼女の目の前で、縛り上げられた母親は日本軍に銃剣で刺され、倒れたところをレイプされ、収容所で食料を盗んだ弟は殺されたという。…グアムに日本軍の「従軍慰安所」もあり、チャモロ人女性も犠牲になったことは我々も事前勉強会で知っていた。知り合いの女性の人権NGOの人からは、オランダやアジア各地の女性たちと呼応して名乗り出て、訴えて出る被害者が現れてこないかどうか、調べてきて、とも頼まれていた。…この女性の訴えは、Hさんにもショックだったという。日本軍のレイプによる被害は地元社会では周知の事実なのに、これまで自分からその被害を訴え出る人はいなかった、というのだ。
その委員会は、レイプや収容所での虐待、虐殺ばかりでなく、日本軍による土地や財産の没収についての証言も受け付けている。被害状況をまとめて、アメリカ政府に対して、戦後処理の妥当性を問い、改めて日本政府に対する損害賠償を検討したい、という。チャモロ人にしてみれば、自分たちの被害をろくに調査もせず、意見を聞くでもなく、アメリカ政府が勝手に日本政府と話をつけて賠償問題のけりをつけてしまっている、というわけだ。日本軍が奪った土地の問題は、それをそのまま使い続けるアメリカの責任に直結する。


● …ああ美しい、天皇陛下の… ● グアム先住民の旅、2004年秋
http://prof.mt.tama.hosei.ac.jp/~otadashi/travel_prof12.htmlより
<白地に赤く…>

   しろじにあかく、ひのまるそめて、
   ああうつくしい、てんのうへいかのくには

最後のことばが、天皇陛下の「国」だったか、「旗」だったか。彼自身もウラ覚えで、口を濁した。私の記憶もさだかでない。一列に並んで虐殺の洞窟に向かう丘の道を登りながら、はるかにグアム最南端の青い海を見下ろせる尾根に出た。とたんに、先頭に立つ元村長のじいさんが歌いだしたのだ。驚いて顔を見合わせるわたしたち。その直前にいっしょに昼食をとったときにも、突然に、流暢な日本語が断片的に飛び出す時があった。小学校の高学年の3年間、日本軍統治時代のグアムで叩きこまれたという日本語。私たちといっしょにいて、驚く私たちの反応を見るうちに、どんどんよみがえってくるらしい。山歩きのリズムは、この70を越えた老人の体の中から「日の丸」の歌のメロディまでよみがえらせたようだ。ぼくの小学校時代、音楽の教科書にのっていたこの「日の丸」の歌の歌詞には「天皇陛下」なんてことばはなかったけど。…

<おまえ、立て!>
すこし歩いて林に入り、その洞窟の前に着いた。洞窟はすでに埋められている。入り口の前には、小さな石碑があって、20名ばかりの犠牲者の名前が刻んである。そのとき、すでにアメリカ軍の艦船は、集結して、この山から見えるグアム南方の沖合いにまで迫っていた。日本軍は、もうひとつの洞窟で、先住民村のリーダー格のものたち20名ばかりを虐殺したあと、この洞窟では、さらに特に体格のいいものを選んで、殺した。元村長は、その話をしながら、突然、ぎろりと私たちをにらむと、「I will show you. Sit down please, here.(どんなだったか見せてあげよう。ここに座ってみて。)」と言って、Oさん、Rくん、それにわたしを含む同行の男性3人を石碑の側に並べてしゃがませた。そして、Rくんの前に立って、頭を指差すと、軍隊調の日本語で叫んだ。「おまえ、立て!」驚いたRくんがのそりと立ち上がると、こんどは、Oさんの前にいって、「おまえ、立て!」…こうして連れて行かれた、身長180センチ以上はある体格のいい、その先住民村の若者たちは、2度と帰ってこなかったという。
(略)

<3泊4日グアム・リゾート>
今年3月に、ゼミの学生諸君と先住民問題を中心とするグアム研修旅行をやったあと、日本の戦争被害証言を聞こうという趣旨のNGO「アジア・フォーラム」との間で、あれよあれよと話が展開。9月末には、3泊4日で、グアムを再訪することになった。12月に予定されている講演会のために、グアムから、日本軍による先住民虐殺の生存者を招待するための予備調査、というわけである。3月にお世話になった先住民運動の活動家Hさんに再び全面的にお世話になっての調査。…戦後生まれのHさんにとっても、戦争中のことを掘り起こすのは、なんとなく、荷が重い感じ。…しかし、過去のことをしっかり見据えて、グアムの先住民と日本の住民たちとの間の未来をつくっていきたい、という私たちの説得・協力要請に、Hさんは最大限の下準備をして答えてくれた。グアム先住民の墓をブルドーザーで壊してホテルを乱立させてしまった日本資本と観光客に対して、先住民の尊厳の立場から、果敢に墓地保存・乱開発反対運動にも取り組んできたHさん。いつもながらのエネルギッシュな仕事ぶりで、われわれを乗せてバンをすっとばし、こちらをのぞきこんでしゃべるので、同上の私たちは、生きた心地がしない。…

<チャモロ・ハーブの女性>
最も始めの時期にわれわれがリクエストしていたのは、昨年暮れの日本軍による被害証言委員会で、初めて明確な証言をして地元紙にも大きく取り上げられた女性。日本軍は、彼女の目前で母親をレイプして殺し、弟は収容所で食べ物を盗んだとして殴り殺された、という。Hさんは、ひょんなことで、チャモロの伝統的なハーブを採っていた彼女と話をしたという。…ずいぶん迷った末に探し出した彼女の家は、質素な木造平屋の小屋のようなもの。それでも、テレビもあれば冷蔵庫も。マリア像や、造花や、終日灯しつづけるという蝋燭、そんなおごそかな伝統的なチャモロ・クリスチャンの祭壇を中心とする部屋。奥のベッドルームから椅子をもってきて、近所のおばさんと合わせてみんなで座る。ドアのすぐそばの台所では、大きな鍋に、カゼ薬として調合したというチャモロの伝統的なハーブ茶。草やら木の枝、妙な果実などがぐつぐつ煮えている。ちょっとカゼ気味というHさんは、ペットボトルに入れてもらう。われわれにもおおきなカップにいっぱい。やはりカゼからかろうじて回復したばかりの私には、実においしく、何杯もおかわりを。…Hさんはチャモロ語で原料を聞いている。家伝のもので、症状に応じて、さまざまなものを混ぜるとか。

<ほんとうのことを知ってほしい>
そのことにすこし触れただけでも、すぐに涙いっぱいになってくる彼女に、Hさんはとても細やかな気遣いを見せる。手を握って、チャモロ語で話しかける。…かろうじて、彼女が証言する気になったいきさつを聞かせてもらう。…もう70歳を過ぎた彼女の親しい友人が亡くなった。ほんとうのことを知る人がどんどん死んでいってしまう。…悲しいこと、恥ずかしいこと、思いだしたくないことだと思って、ずっと黙ってきた。でも、ほんとうのことを知ってほしい。死ぬ前に言っておきたいと思った、と。

<ほんとうの歴史を知ってほしい>
もうひとりの女性の生存者は、今回訪問の本命の人。あの元村長が見た洞窟の虐殺と同じ頃の、別の集団虐殺の生き残り。ある洞窟では、女性ばかりが押し込められ、集団レイプされたうえで、殺された。私たちが合った女性は、その洞窟の近くで、男性が中心だった洞窟での虐殺の生き残りだった。…初日の家への訪問では、あいにく不在でからぶりに終り、会いたくないのではないかと心配していたHさん。こんどは、孫の誕生パーティーが終った頃に、会場になっていた海辺の公園へ。孫はどこかに遊びにいったのであろう。長髪の若い息子と椅子に座っていた彼女は、とても穏やかな笑顔のおばあさん。…ひとめでお互いに気に入ったらしいHさんと、しっかりほとんど英語で受け答えする。我々の訪問意図にしっかりとうなずき、歴史として、戦争のほんとうのことを子供たちに伝えたい、と言う。自分が虐殺の生き残りであることは、息子にも孫にも言わずに過ごしてきた。でも、孫に、「おばあちゃん、戦争にいったんでしょ? どうやって戦ったの?」なんて言われると、戦争のほんとうのことを伝えたいと思う、と。彼女の知り合いには、そのレイプ虐殺の生き残りのひともいるという。名乗り出なくても、村人には公然の秘密なのだ。…息子さんか、親戚をいっしょに招待すれば、可能性はあるかもね。でも、心臓が悪いといっていたから、すこし心配、とHさん。
(略)
<自然と歴史に向き合う>
次の日の朝はどしゃぶりの雨。飛行機出発までの数時間、ようやくおさまった雨雲の雲間を縫うように、レンタカーを飛ばして、ほんの10分あまり泳ぐために、北部の自然保護区内のビーチへ。3月に来たときにHさんに教えてもらった、地元民しか泳ぎにこない穴場。浜辺の椰子の木陰ですばやく着替えて、ゴーグルをつけ、サンゴ礁へ。…スペイン人がくる前は、人々はほんとうに真っ裸だった。男も女も、素っ裸で海を抱きしめ、魚をとった。こんな暖かくなまめいた海。…Hさんたちが展示した大聖堂のチャモロ民族博物館には、ほんの数年前に出されたという、ローマ法皇による過去の暴力的な宣教へのお詫びと反省の文があった。スペインのあとにきたアメリカ。そのあとにきた日本。そしてアメリカ。どれもとりかえしのつかないほどの爪あとを島の人々に残した。歴史は消せない。記憶は消せない。日の丸の、天皇陛下の歌はじいさんの頭から消せない。水爆の放射能は、何千年たっても消せない。…博物館には、体格のいい裸の男性に裸の人々がひざまずいている絵もあった。スペイン人が来る前のこの島も階級社会。天国なんかじゃない。…どんな歴史も自然も、おれたちでしっかり向き合って、これからのために生かしていくしかない。傷ついた人々と自然へのケアって、そういうことじゃないかしら。


【土生長穂、11月の一言】 グアムという戦場
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nhabu/kotoba0411.html より
 今年は、グアムから先住民チャモロの方を招いての証言集会です。グアムと言えば若い人々にはリゾートの島と言う印象しかないでしょうし、事実日本から年間100万もの人がグアムへリゾートで訪れるとのことです。しかし、太平洋戦争の時にはアメリカ領だったグアムを日本が攻撃して1944年まで2年半以上占領していました。44年8月アメリカ軍の反撃によって2万の日本軍がほぼ全滅(生存者千名余にすぎなかった)しました。その際追いつめられた日本軍はグアムの先住民チャモロの人々を洞窟に押し込めて虐殺するなどの被害を与えました。こうして、グアムを奪回したアメリカ軍はサイパンとグアムを日本空襲の基地として使用しました。東京大空襲も広島長崎への原爆投下もここから行われたのです。そして、グアムは今でも沖縄と同じように墓地の島なのです。 

   
グアム戦略記
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/guamfile/guamhistory.htmlより
 グアム奪還のために米軍は約7000名の死傷者を出した。日本軍の兵力は約20000名と言われているが、収容所に収容されたのは1250名余りであった。当時グアムには邦人約300名、現地住民約24000名がおり、彼らも戦闘に巻き込まれた。又木山の東、高原山に避難した邦人の婦女子たちは自殺を強要させられている。西海岸バンギ岬には、敗走中の日本兵に虐殺されたグアム島住民チャモロ人の慰霊碑が建てられている。犠牲者数は正確には把握されていない。
 1978年、米議会の決議によって、『第二次世界大戦の際に太平洋で作戦に参加した者の勇気と犠牲を讃え、またグアム島の素晴らしい自然環境と歴史的価値の産物を現在及び将来に渡り保存維持していくことを目的に』ガン岬をはじめとする米軍が上陸した海岸などは「太平洋戦争国立歴史公園(War in the Pacific National Historical Park )」として指定された。


この夜のしじまに:グアムの防空壕跡にて
http://nue.cocolog-nifty.com/sijima/2005/01/post_11.htmlより
グアムで、ラッテ・ストーン公園という公園を訪れた。ラッテ・ストーンと呼ばれるグアムに特徴的な石の柱の遺跡を移築したところだ。
ここには戦時中の防空壕の跡があり、アメリカの史跡として指定されている。おそらくは、防空壕があるから、ここを公園にして、ラッテ・ストーンを移築したという経緯ではないかと思われる。

防空壕の説明は、チャモロ語、英語、日本語の3つの言語で書かれているが、その内容がどうも食い違っている。日本語では、防空壕を「実際に掘ったのはチャモロ人の使役労働者」と書いてあるのに、英語では、チャモロ人、朝鮮人、沖縄人の強制労働者(forced labor)と書いてある。チャモロ語は判らないものの、チャモロ語版の説明の中にチャモロ人、朝鮮人、沖縄人と並べて書いてあることは確認できた。

つまり、日本語の説明では、わざわざ朝鮮人、沖縄人が働いていた(働かされていた)ことを削除しているわけだ。まず、この記述をどんな意図で日本語では削除したのか(日本語の説明文が一番短くなっており、記載する場所が足りなくて省略されているわけではない)、そこにどんな配慮があったのかが良く理解できない。事実ならば省略する必要は全くなさそうなものだが。

さらに、(1)朝鮮人の強制労働、(2)沖縄人の強制労働と書かれているものが、実態としてどのようなものだったのだろう。防空壕が作られたのは戦時中のことだが、そんななかで敢えて徴用された特別な"forced labor"だったのか、あるいは、他の地域出身の日本人も同様に働いたのか否か。直感的には日本本土での徴用による強制労働の話とは事情が多少なりとも違う気もしないではないが、実際に当時の朝鮮や沖縄から強制労働者が送り込まれていたのであれば、普通には視野に入りにくい戦中の歴史がここにあるということだろう。

ちなみに、チャモロ語でも防空壕はBoukungo'と言うらしい。少なくともチャモロ人が被害者であったことは間違いなかろう。


http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal9/react546.htmlより
グアムでも従軍慰安婦 国連人権委で近く報告−−朝鮮人連行調査団が確認
96.4.3 毎日新聞東京本紙夕刊 
米国領・グアムで地元女性が従軍慰安婦として売春を強制されていた事実を朝鮮人強制連行真相調査団(日本側団長・鈴木二郎都立大名誉教授)が確認し、当地で行われている国連人権委員会で非政府組織(NGO)として近く報告する。これまで朝鮮、オランダなどの慰安婦が大きな問題になっていたが、米国領内での慰安婦問題が国際社会で取り上げられるのは初めて。調査団は昨年から米国領内に存在したとされる慰安婦の実態調査を行っていたが、米国立公文書館のマイクロフィルムや日本政府の法務省に残されていた裁判資料から、日本軍にグアム島が占領された3カ月後1942年2月、グアムの日本人会幹部が地元女性2人を強制的に慰安婦にし性的虐待を強いていたとする裁判資料を発見した。法務省の資料では「現地の女性を慰安婦として日本軍にあっせんしていた」と記述されており、この日本人会幹部は、戦後、グアム戦争裁判で売春強制罪などに問われ15年間の強制労働の判決を受けていた。資料は同委員会のクマラスワミ特別報告官(スリランカ)も入手、「旧日本軍の行為は人道に対する罪であり、元従軍慰安婦に対する国家補償と加害者の処罰が必要だ」として2月に公表した特別報告書の基礎にもなっている。 同調査団は「グアムのケースは戦争犯罪として法的に処罰されており、従軍慰安婦問題の法的責任を日本政府が明確にしないのはおかしい」としている。


http://www.guam-shinbun.com/islandnews/newstop_past/878.html
戦後補償に
2,500万ドル
 
 グアム戦後補償再審委員会の報告書が発表され、1941年から1944年の日本占領時代のチャモロ人の被害に対し2,500万ドルを請求していることが明らかになった。

 85ページの報告書の作成は昨年米議会が戦争被害の再審査のための議会委員会を設置することを承認したことを受けて作成されたもので、この報告書に基づきグアムのボダリオ米下院代議士が委員会に法案作成を求めることになっている。

 報告書の要求の概要は、●日本統治時代に死亡した人の家族に2万5,000ドル支払う。この家族とは配偶者、子供、両親に限られ、優先順位もこの順序となる。●強姦や栄養失調、強制労働、避難命令などを含み個人的な障害・苦痛を受けた人に対しては1万2,000ドル支払う。●補償金によって基金を創設し、奨学金、医療施設その他のグアム住民のための施設のために使用する。●補償受給対象は1990年当時にまだ存命していた占領統治のチャモロ人生存者。体験者であっても1990年以前に死亡した人は対象とならない。

 報告書によれば占領期に死亡したチャモロ人口は1,000人。1990年度の人口統計に基づいた推算では、8,551人のチャモロが戦争を生き延びたということになる。今回の補償請求ではこれらのうち、1990年まで生存した人が対象となる。ただし島外に移住した人については1990年度統計に含まれていない。

 グアムでは戦後補償として1945年に「グアムの『勲功』に応えるための補償法」によってグアム住民から賠償請求がまとめられ、総額800万ドルが支払われている。しかしチャモロ人側は1948年の戦後補償法にもとづく財産の破壊と損失を対象にした支払いは行われていないとして長年、連邦政府に補償の見直しを迫っていた。今回の報告書は「グアム議会はチャモロへの補償のために1990年の米議会の行動に対し積極的に応じなかったことを後悔している」として、グアム議会の行動力のなさも含めて戦後補償問題がまだ未解決であることを強調している。


http://www.jca.apc.org/JWRC/center/library/jihyo46-1.htmより
グアムの戦後補償問題

荒井信一 

 2004年9月28日、アメリカ下院はグアム解放60周年記念決議(下院決議737号)を可決した。グアム島は、ミクロネシアにある米領の島で、太平洋最大と称される米軍の基地がおかれている。ハワイとならぶ南海の楽園として毎年多くの日本観光客が訪れるが、敗戦を知らずに潜伏していた横井庄一元陸軍軍曹が、28年ぶりに「恥ずかしながら」といって島のジャングルから姿を現したとき以外、この島が太平洋戦争の戦場であったことは、日本人の意識にあまりのぼらない。
 決議は、開戦と同時にグアムが日本軍の攻撃をうけ、1941年12月10日から44年7月21日まで日本軍に占領されていたことを想起する。そしてグアムの人々が「合衆国への一貫した忠誠のゆえに残忍な占領を経験し」「32ヶ月の占領中に強制労働、死の行進、抑留、障害および公開処刑をふくむ死を経験した」と明記している。決議が「グアムの人々」と呼んでいるのは、具体的には島の先住民、チャモロ人のことである。1940年当時、人口の90%以上を占めていたが、1990年には人口の43.3%となった。
 軍事基地と観光産業への依存により島の経済・社会が変容し、チャモロの生活文化が脅かされ、島の自然が取り上げられ汚染されているのが現状である。島民の自治権要求も次第にたかまった。決議は、戦時中の島民の合衆国への忠誠を強調するが、それは逆に島民と合衆国の紐帯がうすれつつあることへの警戒をしめすもののようにも思える。
 決議が、解放60年の記念の年に、あらためて日本軍による占領中の残虐行為を想起していることは重要である。日本との緊密な同盟関係にもかかわらず、アメリカ議会が日本軍の非人道行為を直視している証しである。またチャモロ人の受けた戦争被害が具体的に言及されていることにも注意すべきであろう。先住民の復権の動きと結びつくからである。
 戦後、アメリカ政府は占領中の損失財産と死傷者への補償を約束したが、実際に支払われたのは虐殺された人にたいする一人当たり200ドルの支払いだけだという。ようやく2002年になって議会はおもい腰をあげて下院に「グアム戦後補償審査委員会」を設け、32ヶ月に及ぶ占領中に日本軍がおこなった虐殺、暴行などの被害実態を調査することとした。04年の議会決議直前の6月、報告書が米政府と議会に提出された。「日本の占領はとくに残虐、圧政的かつ野蛮」だったと指摘、殺された人の遺族に一人当たり2万5千ドル、負傷者や強制労働被害者には一人当たり1万2千ドル、総額1億2500万ドルの補償支払いを勧告した。今回の下院決議はその内容を反映しているが、補償には言及していない。法案が近く議会に提出される予定といわれている。それはアメリカと先住民との和解の一歩となる。同時に日本がこの和解のプロセスにたいしどう関与してゆくかが問われる問題でもあろう。


以上グアムについての大日本帝国加害事実を追加しました。まとめてみると日本兵による集団強姦や女性の従軍慰安婦強制、強制労働、集団虐殺というまで、沖縄の事例とそっくりだと思います。近年、沖縄における日本軍の加害行為も問題視されていますが、グアムやほかの太平洋の島々でもそっくりでしょう。この小さな太平洋諸国における戦争被害については見落とされがちですね。沖縄とグアムとの類似点ですが、日本政府の戦争責任に対する動きと、同じ米軍基地を抱え米国の影響力が強く、米国に対する抵抗運動と今まで抑圧されて本土の思うがままになされてきたことに対する反発と民族自決権に対する民族的覚醒における民衆の動きと密接にリンクしていることが大きく類似していきます。

追記します 2006年2/16(日)
ファニータ・クルスさんの証言 1 -日本軍によるグアム先住民虐殺事件-。
http://blogs.yahoo.co.jp/asiaforum3tama/11599072.htmlより
私の名前はファニータ・クルスです。70歳です。母の名前はマリア・パンゲリナン・ナプティ・イグナシオです。父は1938年に亡くなりました。モンモン(グアムの首都ハガニャ近郊の集落)に住んでいました。8歳の時に初めて日本兵に会いました。飛行機がたくさん飛んできたのを覚えています。軍人や馬が私の農場に入ってきました。上空には飛行機が飛んでいました。あまりそのことを考えずに仕事をしていました。

次の日に、20人くらいの日本兵が馬に乗ってやってきました。私は馬を見たことがありませんでした。日本軍の兵士と馬が農場に入ってきたのです。一人の日本兵士が母に平手打ちをしました。日本語で何か言いました。母はチャモロ語で「それは食べ物です」と言いました。馬が畑の作物を食べてしまったのです。日本兵は馬のえさにするため、私たちの畑に入ってきたのです。隊長がやってきて、母をココナツの木にしばろうとしました。私は母をしばった布をほどこうとしました。別の兵隊が私を銃剣で刺そうとしました。私の足にその先が当たりました。隊長は母をしばってしまいました。馬に食料を与えた後、母の縄を解いて、そこに倒し、レイプしたのです。私と弟は母を助けようとしました。2時間ぐらいそのままでした。私と弟はそばにいるだけでした。母は何とか自分ではって家に入りました。母が「薬をとって」というので、薬を取ってきて貼り、体を洗いました。

その後2週間、母は寝ていました。薬をあげたりしていました。1ヶ月くらいして、体をうごかせて働けるようになりました。日本兵が鶏や豚を取っていってしまったので、食べるものがありません。魚を取ったりして食べていました。仕方がないので、ココナツで飢えをしのぐ状態でした。
2ヶ月後に再び日本兵がやってきて、服を洗濯するよう言われました。兵士に食べ物も渡しました。家の中をチェックするので隠すことはできません。


ファニータ・クルスさんの証言 2 -日本軍によるグアム先住民虐殺事件-
http://blogs.yahoo.co.jp/asiaforum3tama/11599930.html より
ある日、白人のアメリカ人のような人が家にやってきてバーガーグに来るように言いました。そこでは石を拾ったりしました。そこは飛行場を作るための土地でした。
また、マネンゴンの収容所に行くように言われました。私は10歳になっていました。沢山の人と一緒に歩きました。5時間ほど歩きました。日本兵に追い立てられて歩き続けました。日本兵に何度も平手打ちされてり、殴られたりする人も沢山いました。倒れると余計殴られました。立ち上がれないと殺されました。首を切り落とすのも見ました。悲しくて恐怖でいっぱいでした。その恐怖というのは、母に何をするかわからないという恐怖でした。私たちは休むことが許されませんでした。

到着したマネンゴンは鉄条網がはりめぐらされていました。人の手で作られた洞窟もありました。私たちの多くがここに押し込められました。逃げようとした人に向かっては銃で殺してしまいました。生き残った者は鉄条網で囲まれたところに収容されました。そこには食べ物がほとんどありませんでした。ある時どうして逃げたのかわかりませんが、母が外に行って小さな魚を取ってきました。私と弟に渡して「隠しておくように」と言いました。しかし兵士が来てしまいました。私は大丈夫でしたが、兵士は弟の口をこじ開け、舌を切り落としてしまいました。弟はそこで死んでしまいました。私はありったけの布で弟をくるみました。

アメリカ兵が(解放しに)来たとき、私は病気でした。日本兵の銃剣の破片が足に刺さっていたのです。体調が今でも良くありません。悪夢を見ます。

このことを私の子どもたちは知りません。娘たちは言います「日本人を嫌いにならなくたって・・・。いい人たちでしょう」と言いますが、私には難しいことです。

(2004年12月10日神宮前区民会館、12月11日立川女性センターアイムでの証言)
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ナウル共和国における大日本帝国加害事実

ナウル共和国における大日本帝国加害事実について

第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策より
http://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/17.pdf
第4 太平洋地域

日本は、1919(大正八)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12 月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。こうしたなか、1942(昭和17)年8 月25 日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。ナウル島にはナウル行政府が設置したハンセン病専門病院(Leper Station)があり、日本軍占領時、39 人の患者が入院していた。敗戦後の1948(昭和23)年、ナウルの行政官マーク・リッジウエィは、占領から1 年後、「日本軍は彼らを1 隻のボートに追い集め、そのボートは海に向かって曳航され、銃撃により破壊された。ひとりの生存者の痕跡もない」という衝撃的な証言をおこなった(NEWSITEMS, International Jou nal of Lepro y,Vol16,No.4,1948)。

さらに、1952(昭和27)年に発表されたレオナード・ウッド記念研究所のH・W・ウエイドとナウル政府医官ウラジミル・レドウスキーの共同研究も、次のように記している。

日本の占領はナウル島のハンセン病患者に激烈な変化をもたらした。1943 年6 月頃、隔離施設のすべての入院患者はどこか他の場所に移送するという口実のもとに穴の空いたボートに乗せられ、ランチに曳航されていった。たった3 人の者だけが見送ることを許された。これらの患者の運命についてはまったく不明である。しかし、彼らのうちひとりとて2 度と姿を見せることはなかった(H.W.Wade & Vladimir Ledowsky, The Leprosy Epidemic at Nauru; A Review with Date on The Status since 1937, International Journal of Leprosy,Vol.20,No.1,1952)。

1943(昭和18)年の夏、ナウル島のハンセン病患者は日本軍により虐殺されたことは疑い得ない。ナウルの事例は、占領地における隔離政策の帰結として記憶しておくべきであろう。


ナウル共和国におけるハンセン病患者の虐殺については、即急に被害事実を解明し、日本政府はただちに補償と謝罪を行うべきです

日本「アジア英語」学会ニューズレター第12 号Japanese Association for Asian Englishes
http://www1.linkclub.or.jp/~jafae/NL12.pdfより
ナウル共和国のその後   O.T(帝塚山学院大学)

 2000 年、在外研究の機会を得て1年間、豪ニューイングランド大学に行ってきた。国内外の著名な言語学者を迎えての言語学セミナーへの参加は私のような若手の研究者にとってはたいへん有益なものであった。しかし何と言っても時間がたっぷりある中での3度目となるナウル島へのフィールドワークはセミナー以上の興奮をおぼえた。
 目的は1940 年代に成立したと思われる中間言語としてのニホンゴの可能性を探ることとピジン英語との関連を調べることであった。お年寄りへの聞き取り調査をすすめながら数多くの資料が集まったが、戦後55 年を経た今日でもナウル人の記憶としてニホンゴが生き続けているのが不思議である。中でも「ミー ビョウキ」ということばにはたいへん興奮した。戦時中、日本軍は島内に3つの滑走路を作るために地元の人々を強制的に働かせた。風邪をひいていても怪我をしていても作業を休むことは許されなかった。それでもどうしても休みたくて、自分は病気だから動けないということを日本兵に伝えるために必死になっておぼえた表現である。「ミー」は既存のピジン英語からの借用であると考えられる。ナウル人にはピジン英語および英語の知識がすでにあった。したがってme やyou といった代名詞形が日本人との接触の初期の段階で頻繁に使われたとしても不思議ではない。これはフォリナートークに関する仮説としてネウストプニーが指摘したことと合致する。つまり、代名詞の特殊な使用に該当する。ナウル人は日本人が来島する前は中国人との間でピジン英語を使っていたし、中国人との容姿が似ている日本人と接触したときに、とっさにナウル人の口から出たとしても不思議ではない。
 一方、日本人の間では当時、英語が敵性語として位置付けられていたこともあってか、上記の代名詞形が使われた形跡がない。ニューギニア島では日本軍が土地の人から食糧を獲得するための手段としてニューギニアのピジン英語を獲得したという報告があるが、ナウル島ではそのようなことはなかったようである。さらに初期の接触段階で特徴的な命令調の表現が観察されない(例えば「ユー ゴー」とか「ユー カム」のような表現)。
 したがって、このニホンゴはピジン化したニホンゴと捉えるのではなく、個人的な差異が著しい段階である一種の中間言語と考えた方がよさそうではあるまいか。その他詳しくは追手門学院大学の『オーストラリア研究紀要』第26 号をご覧いただきたい。
「言語学者は優秀な歴史学者でなければならない」といったのは言語学者であるギリアン・サンコフである。たしかに、ある特定の時期において当該言語に何が起こったのかを知るには当時の歴史的・社会的背景を知らずには解決できないことが多々ある。そのようなことを思い知らされた1年であった。


PEACEBOAT-クルーズ-第32回 「地球一周の船旅」
4月25日 ▼バナバ島からきた人たちと交流▼
http://www.peaceboat.org/cruise/report/32nd/apr/0425/land_a.htmlより
4月25日 ▼バナバ島からきた人たちと交流▼
 フィジー共和国の北端に位置するランビ島には、そこからさらに1000km北に位置するバナバ島(現キリバス共和国領)を故郷とする「バナバ人」のコミュニティーがあるという。
1900年、イギリスの会社がバナバ島内でリン鉱石を発見、その利権に目を付ける。以来、イギリスによる採掘と土地の買い上げが始まり、島は破壊つくされてしまった。採掘のために強制移住させられたバナバの人々は、故郷を遠く離れたまま、60年近くを生きてきたのだ。このコースでは、首都スバに移り住んできたバナバ人たちのコミュニティを訪れ、「南太平洋の忘れられた人々」と呼ばれる彼らの話を聞き、文化交流をおこなった。

スパ市内にあるバナバ人コミュニティ集会所に到着すると、とびきりの笑顔とあったかい握手で迎えられた。私たちも「コナマウリ!(こんにちは)」と覚えたての言葉でごあいさつ。「このようにみなさんと交流の場を持てることを非常にうれしく思います」と代表のロンゴロンゴさんから愛嬌たっぷりの挨拶。集会所は一気に和やかなムードに包まれた。

コミュニティの「長老」カロロさん夫妻に、バナバ民族の歴史と現在をお話しいただいた。私たちが大きな衝撃を受けたのは、バナバ人が故郷を追われた歴史に日本が大きく関わっているという事実。

1942年、第二次世界大戦の最中、英軍の後がまとしてバナバ島に上陸した日本軍は、イギリスと同じくリン鉱石に目をつけ、採掘の邪魔となるバナバ人たちをコスラエ、ナウルといった周辺の島々へと強制移住させた。移住先では重労働が課され、罪も無い人に対する虐殺行為も行われていたという。戦後、日本軍に代わって「戻ってきた」イギリスが、リン鉱石の採掘を続けるため、さらに人々をランビ島へ移住させ、現在のバナバ人コミュニティができあがった。
実際にバナバ島からの強制移住を体験した「被害者」の1人であるカロロさんが、「今はみんな友達なのさ」と微笑んでくれた。


http://www.tabiken.com/history/doc/M/M207L100.HTM
●デ=ロバート

大洋州 ナウル共和国 AD1922 

 1922〜 ナウル共和国の政治家。ナウル中等学校を卒業後,オーストラリアに留学。ヴィクトリア州のギーロン工科学校を卒業し,1940年にナウルに帰って学校教員となった。太平洋戦争が始まり1942年(昭和17)8月にナウルが日本軍に占領されたのち,デ=ロバートは日本軍によってほかの多くのナウル人とともにトラック島に強制移住させられ同島の軍用滑走路建設の労働者とされた。1945年9月にアメリカ軍によって解放され,生き残ったナウル人とともに1946年1月31日にナウルに帰って教職に復帰したが,1947年にナウル問題局の連絡官となり1951年まで勤務。その後教職に戻ったが1956年にナウル地方財務評議会の首席酋長に選ばれ政治活動に入った。1960年からナウル独立のためオーストラリアと交渉,1962年〜1967年まで国連ナウル特別代表のアドバイザーをつとめた。1968年立法評議会議員に選ばれ,同年1月31日独立したナウル共和国初代大統領となり,1976年一時大統領職を離れたが,1978年再び大統領に復帰して今日に至っている。


消滅の危機、ナウル共和国のいま 小林 泉(こばやし いずみ)
http://www.jaipas.or.jp/124/124_3.htmより
日本とナウルの関係
 30年も前にナウルと関わりをもったのは、私の所属する太平洋諸島地域研究所(旧称日本ミクロネシア協会)の中に日本ナウル協会の事務局が置かれていたからだったが、そもそも、この協会の設立経緯はこうである。

 日本は、1942年から45年まで、豪、NZ、英の三国施政下にあった委任統治領ナウルを占領した。当時の島人口は2千人弱だったが、日本軍はそのうちの千数百人を疎開と称してトラック諸島に強制移住させ、海軍基地や関係農場の労働者に徴用したとする記録がある。このとき、日本人との様々な交流もあったようだが、飢餓や病気、戦火に巻き込まれたりして、戦後無事に帰島できたのは3分の2。この中にハンマー・デロバートという酋長家系の青年リーダがいた。そして、その青年デロバートが、独立したナウル共和国の初代大統領となった。

 ナウルの大統領が、トラック諸島で親交のあった南洋拓殖会社の旧社員たちを捜しているという話が日本側に伝わったのは、独立後間もない頃であった。その尋ね人の一人で、日本ミクロネシア協会の設立時に常務理事を務めた石川二郎氏は「大統領が私たちを捜していると聞いたときは、かなりビビりましたよ。戦後20数年たってはいるが、独立を機に何か戦争当時の責任を追及されるんじゃないかってね」と、そのときの心情を素直に語っていた。

 南洋拓殖株式会社、通称「南拓」とは、朝鮮半島の東洋拓殖会社と同様に、植民地の主として農業分野の開発を目的に設立された国策会社である。トラック諸島に強制移住させられたナウル人は、基地労働や農場で軍に供給する蔬菜類を作る仕事に従事させられていた。石川氏らは、恐る恐る東京で大統領に面会したが、顔を見るとすぐにその懸念は吹き飛んだ。デロバート氏は全身に懐かしさを漂わせ、彼らとの久しい再会を喜んだからである。そして、こう言った。「ナウルは独立し、私が大統領になりました。これからはどこの国とも自由に親交を結べます。私は貴方がたを通じて日本との友好関係を築きたい。昔のように仲良くやりましょう」。この言葉に感激した元南拓社員たちは、すぐさまかつての仲間たちに呼びかけて、大統領の歓迎会を開催。それから間もない1970年に、南洋拓殖のOBたちで組織する「南拓会」を母体にして、日本ナウル協会が設立されたのである。


日本軍によってトラック島に強制移住させられ、重労働に従事させられた被害者であるデロバート氏がナウル共和国の初代大統領だったようだが、この男は最低である。加害者であり、大日本帝国・日本軍の尖兵である南洋拓殖株式会社の連中に対して懐かしさを漂わせ、こともあろうに大日本帝国の加害の歴史を前に謝罪や補償などの歴史問題を抜きにして、日本との友好関係を築きたいなど最低な奴だと思った。多くの島民が強制移住させられて、3分の1が命を落とし、被害者や犠牲者遺族の悲しみや国民的感情もあるのに、それを抜きにして目の前の利益のために、日本に媚びる態度は許されるべきではない。それがたたってか、ナウル共和国は崩壊状態にあるのだろうと思う。アジア諸国の多くは、経済侵略援助という名目上の賠償だけで、自国民の日本に対する個人補償に対する権利までも国民総意によるプロセスを経ずに独断で決めてしまったのである。これのせいで今にいたる右翼勢力や反動政治家が牛耳る日本の現状があるんだろう。

retreatist ■[本]うんこでできた島
http://d.hatena.ne.jp/anhedonia/20050309より
[本]うんこでできた島
アホウドリの糞でできた国―ナウル共和国物語
作者: 古田靖, 寄藤文平
出版社/メーカー: アスペクト
発売日: 2004/12
メディア: 単行本

太平洋に浮かぶナウル共和国の数奇な運命

第二次世界大戦では、このナウル島を日本軍が占領して、1200人ものナウル島の住民をトラック島に送ってしまい、戦争が終わったときには、737人になっていたという。そんな悲劇を経験したりしている。

かなり悲惨なお話のだけれど、ナウル政府のやっていることはかなり滅茶苦茶。すっとぼけた挿し絵のせいもあってか、何処か可笑しくて笑いそうになってしまう。

ちなみに、ナウル共和国のこととはべつに、燐鉱石の枯渇は我が国の農業にとっても非常に重要な問題なのだ。


ナウル共和国の歴史
http://platform.or.tv/rs/nauru.htmlより
:::1798:::
イギリスの捕鯨船がナウル島を発見
:::1888:::
ナウル,ドイツ保護領に
:::1900:::
イギリスがリン鉱石を発見。ドイツから鉱業権を取得
:::1914:::
オーストラリア軍が占領
:::1920:::
国連委任統治領(オーストラリア・ニュージーランド・イギリスが施政)に
:::1942:::
日本軍が占領。この時,国民約1200人が労働力としてトラック島に強制移住させられる
:::1947:::
国連信託統治領(オーストラリア・ニュージーランド・イギリスが施政)に
:::1968/01:::
ナウル共和国として独立


以上まとめますと、ナウルのハンセン病患者の虐殺に加え、大日本帝国の加害行為はナウル島民に対する強制移住と移住先での強制労働・虐殺ということがいえると思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:32 | Comment(9) | TrackBack(196) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マーシャル諸島における朝鮮人軍属の反乱と、朝鮮人・島民の虐殺について

http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htmより
また、マーシャル諸島のミレー島では約1万人の朝鮮人軍属を飛行場建設工事に使役していました。
1944年1月頃、補給が絶たれて食糧が足りなくなったため、ミレー島の日本軍は朝鮮人軍属と共に周辺の小島に分散することになりました。
その中でのチェルボン島ではジャングルの中でネズミや蛇や魚を採集する毎日でしたが、ある日、食糧を採集に行った朝鮮人軍属2名を日本人軍属が密かに殺害し、その死体を喰い、さらに事情をしらない朝鮮人軍属に「鯨肉」と称して食べさせました。
被害者の二人が帰ってこないのでこの事実に気がついた朝鮮人軍属らは、自らも食人の犠牲になることを恐れ、クーデター計画を立てましたが事前に発覚し、恐れた日本軍は島を脱出して救援を求めました。
そして日本海軍陸戦隊約60名と、朝鮮人軍属及び地元の酋長が率いるマーシャル人の間で銃撃戦が起こりましたが、戦力の優劣は明らかでした。
日本軍は降伏して手を上げる朝鮮人軍属も射殺しました。結局、朝鮮人軍属約100名、チェルボン島に住むマーシャル人(女子供老人含む)全員が銃殺または斬殺されました。
(こうして現在に至るまでチェルボン島は無人島になっています。 戦後、マーシャル人は事実を調査し、日本政府に補償を求めましたが、日本政府は1969年の米国とのミクロシア協定で解決済みだとしています。)(*注31)


プレスリリース
http://www.ktv.co.jp/info/press/050815.htmlより
8月15日(月) 15:59〜16:54
終戦記念日特集
「飢餓戦線の果てに」〜南の島の60年目の証言〜
戦後60年ドキュメンタリー
「戦争の悲惨さ」、「人間とは」、「家族とは」、「国家とは」…
後世の人たちに戦争の記憶を風化させまい、日韓国交正常化40周年を節目に
未来志向の「日韓関係」を願いながら、後世の人たちにメッセージを託す

岡県在住の金丸利美さんは、元日本海軍軍人。韓国のソウルに住む李仁申(イインシン)さんは、元日本軍の韓国人軍属。二人はいずれも81歳。
60年以上前の太平洋戦争中、中部太平洋のマーシャル諸島にあるミレー島で米軍と戦った。日本の敗色が濃くなった1943年末ごろ、連日の米軍による猛攻撃で、「第2南海丸」が撃沈され、ミレー島への食料などの補給路が絶たれた。その日を境に、約5700人の日本軍人や韓国人軍属にとって、飢餓との戦いが始まった。極限状況と飢餓地獄の中、ミレー環礁のある島で韓国人軍属による反乱事件が起きた。日本軍の鎮圧隊によって、100人以上の韓国人軍属が殺された。李さんはその時、別の島にいて助かった。金丸さんは1970年代の前半から、度々ミレー島に眠る3100人余りの英霊たちのために、慰霊の旅をするようになった。そこで偶然、金丸さんたちは、遺骨の収集に来ていた李さんら元韓国人軍属に出会う。当然、険悪な雰囲気になった。あの反乱事件の鎮圧隊とは関係ないのに、金丸さんは李さんに辛く当たられる。それでも一緒に、慰霊の旅を続けているうちに、ミレー島で生死をともにした金丸さんと李さんたちは和解する。

あれから10年。
あの時、ミレー島で一緒だった元日本軍人や元韓国人軍属たちの中で、今も健在なのは、金丸さんと李さんだけになった。李さんたちが、日本政府を相手に裁判を起こした「戦後補償訴訟」は去年12月、最高裁判所で敗訴が確定した。現在、戦後補償については、韓国政府が「個人補償」を担う流れに変わりつつある。
戦後、日本と韓国でそれぞれ異なった人生を歩んできた「金丸さん」と「李さん」。お互いに「人生の黄昏」を迎えている。

実は、10年前、ミレー島で戦後初めて、日本軍人に出会った李さんは、金丸さんに「あの時の非礼」を詫びる手紙を出していたのだった。その時、二人の心に通じ合える何かがあったのかも。「戦後60年」を迎える現在、戦争体験者は少なくなりつつある。「戦後70年」を迎える10年後には、彼らのような人たちが、どれだけ生きているのだろうか?

番組では、金丸さんと李さんのそれぞれの戦後の人生を軸に描きながら、「戦争の悲惨さ」、「人間とは」、「家族とは」、「国家とは」などを浮き彫りにする。「戦争の記憶を風化させまい」、「日韓国交正常化40周年」を節目に、未来志向的な「日韓関係」を願いながら、後世の人たちにメッセージを託す。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。


酷い話です。許せませんよね。日本政府は米国とのミクロネシア協定で解決済みというのはどういう意味でしょうか?マーシャル諸島は米国の植民地ではありません。立派な独立国家です。マーシャル諸島政府はもっと強くでて、完全な被害事実解明と補償問題についてきっちりと話し会うべきです。この問題には強制連行されてきた朝鮮人軍属の補償問題にも絡んでおり、大人の国家としての責任を日本政府は果たすべきです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:28 | Comment(19) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月24日

太平洋諸国・地域(パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、サイパン・グアム、ナウル共和国など)における大日本帝国加害事実

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper51.htmより
(7)太平洋諸島
 太平洋諸島においては日米両軍の死闘がくりひろげられました。多くの島で日本軍は玉砕し、またガダルカナル島をはじめ多数の餓死者を出しました。たとえばギルバート諸島のタラワ、マキン鳥は日本軍「全員玉砕」の地として知られています。両島で日本人、朝鮮人約五、〇〇〇人(朝鮮人は飛行場建設のため強制連行された人々です)、米軍約一、〇〇〇人が戦死しました。
 ここで忘れられてはならないのは、これらの島々にはもとから住んでいる人々がいたということです。彼らは飛行場建設に動員され、荷かつぎをさせられました。ギルパートのある老人が知っていた日本語は、歌のほかに「シゴト、カカレ、ヤスメ」という言葉でした(小田実『世界が語りかける』)。家も樹もふきとぷ戦闘の中で、彼らにも当然冬多数の犠牲者が出たでしょう。しかしこのことは、日米両国民には、まったく目にはいらないかのようです。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
16 太平洋諸島 

 ミクロネシアの島々は戦前は南洋諸島と呼ばれ、日本の統治下におかれていた。これらの島々にも日本軍が配置されていた。島民はロームシャとして駆り立てられ、食糧を供出させられた。特に日本の戦況が悪化すると外部との連絡が途絶え、多くの日本兵が駐屯していたため食糧難に陥った。また米軍に通じているとして疑いをかけられ、殺された人も多い。これらの島々はかつてのスペイン統治の影響でカトリック教徒が多く、グアムやロタでは白人の神父がスパイ容疑で処刑されている。
 グアム島はアメリカ領だったので、地元のチャモロ人は日本に反感が強かった。一九四四年七月米軍が上陸する直前にメリーソン村で、米軍に通報したという理由で一六人が捕らえられ、手榴弾で殺された。さらに三〇人も同じようにして殺された。その一方、村にいた日本兵と在留邦人たちが村の男たちを監禁したうえで若い女性を一人ずつ連れ込み泊まらせた。その直後にメリーソン村の日本人は、地元民に荷物を担がせて避難を始めたが、その途中、地元民に襲われ一一人が殺される事件がおきた。
 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。
(略)
日本軍が駐留していた各地の島々で、敵に通じているという疑いや食糧を盗んだという理由で住民が拷問・処刑され、時には集団虐殺される事件がたくさん起こっていたと推測される。さらに米軍が上陸してきた場合には、激しい爆撃や艦砲射撃、地上戦により住民にも多くの犠牲が出た。サイパンやテニアンなどでは、降伏を許されず、追い詰められた在留邦人が絶壁から身を投げたり手榴弾で「自決」したことは有名だが、こうした太平洋の島々の人々に日本軍が与えた被害については、ほとんど忘れられたままである。


http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htmより
また、マーシャル諸島のミレー島では約1万人の朝鮮人軍属を飛行場建設工事に使役していました。
1944年1月頃、補給が絶たれて食糧が足りなくなったため、ミレー島の日本軍は朝鮮人軍属と共に周辺の小島に分散することになりました。
その中でのチェルボン島ではジャングルの中でネズミや蛇や魚を採集する毎日でしたが、ある日、食糧を採集に行った朝鮮人軍属2名を日本人軍属が密かに殺害し、その死体を喰い、さらに事情をしらない朝鮮人軍属に「鯨肉」と称して食べさせました。
被害者の二人が帰ってこないのでこの事実に気がついた朝鮮人軍属らは、自らも食人の犠牲になることを恐れ、クーデター計画を立てましたが事前に発覚し、恐れた日本軍は島を脱出して救援を求めました。
そして日本海軍陸戦隊約60名と、朝鮮人軍属及び地元の酋長が率いるマーシャル人の間で銃撃戦が起こりましたが、戦力の優劣は明らかでした。
日本軍は降伏して手を上げる朝鮮人軍属も射殺しました。結局、朝鮮人軍属約100名、チェルボン島に住むマーシャル人(女子供老人含む)全員が銃殺または斬殺されました。
(こうして現在に至るまでチェルボン島は無人島になっています。 戦後、マーシャル人は事実を調査し、日本政府に補償を求めましたが、日本政府は1969年の米国とのミクロシア協定で解決済みだとしています。)(*注31)


チェルボン島での朝鮮人やマーシャル人に対する大量殺戮。許せませんね。結局はうやむやにされてしまいましたが。それにても、米国とのミクロネシア協定で解決済みというのはどういう意味でしょうか?マーシャル諸島は米国の植民地ではありません。立派な独立国家です。マーシャル諸島政府はもっと強くでて、完全な被害事実解明と補償問題についてきっちりと話し会うべきです。

第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策より
http://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/17.pdf
第4 太平洋地域

日本は、1919(大正八)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12 月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。こうしたなか、1942(昭和17)年8 月25 日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。ナウル島にはナウル行政府が設置したハンセン病専門病院(Leper Station)があり、日本軍占領時、39 人の患者が入院していた。敗戦後の1948(昭和23)年、ナウルの行政官マーク・リッジウエィは、占領から1 年後、「日本軍は彼らを1 隻のボートに追い集め、そのボートは海に向かって曳航され、銃撃により破壊された。ひとりの生存者の痕跡もない」という衝撃的な証言をおこなった(NEWSITEMS, International Jou nal of Lepro y,Vol16,No.4,1948)。

さらに、1952(昭和27)年に発表されたレオナード・ウッド記念研究所のH・W・ウエイドとナウル政府医官ウラジミル・レドウスキーの共同研究も、次のように記している。

日本の占領はナウル島のハンセン病患者に激烈な変化をもたらした。1943 年6 月頃、隔離施設のすべての入院患者はどこか他の場所に移送するという口実のもとに穴の空いたボートに乗せられ、ランチに曳航されていった。たった3 人の者だけが見送ることを許された。これらの患者の運命についてはまったく不明である。しかし、彼らのうちひとりとて2 度と姿を見せることはなかった(H.W.Wade & Vladimir Ledowsky, The Leprosy Epidemic at Nauru; A Review with Date on The Status since 1937, International Journal of Leprosy,Vol.20,No.1,1952)。

1943(昭和18)年の夏、ナウル島のハンセン病患者は日本軍により虐殺されたことは疑い得ない。ナウルの事例は、占領地における隔離政策の帰結として記憶しておくべきであろう。


ナウル共和国におけるハンセン病患者の虐殺については、即急に被害事実を解明し、日本政府はただちに補償と謝罪を行うべきです。

滝尾英二的こころ
http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/2005/11/より
 「パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルートに、1922年に日本政府によってつくられた「南洋庁」によって、日本植民地下のこれら4箇所の島々にハンセン病収容所がつくられたこと。その収容所に強制収容されたハンセン病患者は「‥‥由来島民は其の伝染性を信じないので当局は常に適当なる方策を講じ隔離治療を行う要あるを痛感し大正一五年(=1926年)サイパン島に癩療養所を設け、之に患者を収容して‥‥糧食等は夫々親族縁故者の負担とした‥‥」(『南洋群島要覧=南洋庁』より)。

 また、パラオの元挺身隊員であったヤノ・マリウスさんが1991年に日本のアジア・太平洋地域戦後補償国際フォーラムで証言されたなかで「(パラオでは)ハンセン病患者四名は銃殺、あるいは剣で刺し殺されました」と発言されています(国際フォーラム実行委員会編『戦後補償を考える』29ページ、東方出版)。このようなことが、ミクロネシア四島の各地であったのではないでしょうか。(『飛礫』47号・2005年7月発行の滝尾英二著「ミクロネシアのハンセン病政策」を参照)。


大日本帝国の植民地下におけるハンセン病強制隔離問題については厚生省が補償を行うという解決への一歩が見出せたが、太平洋地域におけるハンセン病隔離問題についてはまだ未解決である。ナウル共和国にしろ、パラオなどの南洋諸島にしろ、台湾や韓国における事例よりもさらに非道なものだった可能性が高いと思う。被害事実の解明と、日本政府一刻も早い、被害者本人や犠牲者遺族に対する補償に向けて、圧力をかけていかないといけないと思う。

http://www.jca.apc.org/JWRC/center/library/jihyo46-1.htmより
グアムの戦後補償問題

荒井信一 

 2004年9月28日、アメリカ下院はグアム解放60周年記念決議(下院決議737号)を可決した。グアム島は、ミクロネシアにある米領の島で、太平洋最大と称される米軍の基地がおかれている。ハワイとならぶ南海の楽園として毎年多くの日本観光客が訪れるが、敗戦を知らずに潜伏していた横井庄一元陸軍軍曹が、28年ぶりに「恥ずかしながら」といって島のジャングルから姿を現したとき以外、この島が太平洋戦争の戦場であったことは、日本人の意識にあまりのぼらない。
 決議は、開戦と同時にグアムが日本軍の攻撃をうけ、1941年12月10日から44年7月21日まで日本軍に占領されていたことを想起する。そしてグアムの人々が「合衆国への一貫した忠誠のゆえに残忍な占領を経験し」「32ヶ月の占領中に強制労働、死の行進、抑留、障害および公開処刑をふくむ死を経験した」と明記している。決議が「グアムの人々」と呼んでいるのは、具体的には島の先住民、チャモロ人のことである。1940年当時、人口の90%以上を占めていたが、1990年には人口の43.3%となった。
 軍事基地と観光産業への依存により島の経済・社会が変容し、チャモロの生活文化が脅かされ、島の自然が取り上げられ汚染されているのが現状である。島民の自治権要求も次第にたかまった。決議は、戦時中の島民の合衆国への忠誠を強調するが、それは逆に島民と合衆国の紐帯がうすれつつあることへの警戒をしめすもののようにも思える。
 決議が、解放60年の記念の年に、あらためて日本軍による占領中の残虐行為を想起していることは重要である。日本との緊密な同盟関係にもかかわらず、アメリカ議会が日本軍の非人道行為を直視している証しである。またチャモロ人の受けた戦争被害が具体的に言及されていることにも注意すべきであろう。先住民の復権の動きと結びつくからである。
 戦後、アメリカ政府は占領中の損失財産と死傷者への補償を約束したが、実際に支払われたのは虐殺された人にたいする一人当たり200ドルの支払いだけだという。ようやく2002年になって議会はおもい腰をあげて下院に「グアム戦後補償審査委員会」を設け、32ヶ月に及ぶ占領中に日本軍がおこなった虐殺、暴行などの被害実態を調査することとした。04年の議会決議直前の6月、報告書が米政府と議会に提出された。「日本の占領はとくに残虐、圧政的かつ野蛮」だったと指摘、殺された人の遺族に一人当たり2万5千ドル、負傷者や強制労働被害者には一人当たり1万2千ドル、総額1億2500万ドルの補償支払いを勧告した。今回の下院決議はその内容を反映しているが、補償には言及していない。法案が近く議会に提出される予定といわれている。それはアメリカと先住民との和解の一歩となる。同時に日本がこの和解のプロセスにたいしどう関与してゆくかが問われる問題でもあろう。


グアムでは日本人の観光客が行くところであるが、熱帯の楽園というイメージが先行して、日本軍による加害が行われた事実に対して、ほとんど知らないのではないだろうか?日本人としてどのような罪の清算の仕方があるのか考えていかないといけない。

こだわらない強み −ミクロネシア連邦モエン島の現状に対する島民の意識−
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/harada.pdfより
 しかし1941年に太平洋戦争がはじまると事態は一変した。「海の生命線」と呼ばれ、戦略的拠点となったミクロネシアの島々には、非常に数多くの軍人や軍属が来島し、島民は土地を奪われ、軍作業や食糧増産に使役された。戦争は4年間続いた。島のお年寄りの方も戦争中は大変だったと話してくれた。 「私は戦争の時は兵隊さんと一緒に働いた。戦争がひどくなると兵隊さんは食料をくれないから多くの島民が水曜島へ引っ越したよ。パンの実やバナナ、ココナッツ、何もくれなかったから。昼間は勤労奉仕で軍隊で働いて、夜は防空壕掘ったり、畑仕事したり。働かなかったら罰でした。空襲があるときは寝られないし、たくさんの島民が日本兵と一緒の防空壕で死にました。」 「戦争の時は苦しかったよ。戦争中は食べ物はみんな軍隊のものになったし、家もとられて、島民は山の奥にいた。夜は寝られないし、昼は軍隊の仕事。戦争最中はトラックの人をぶん殴ったりもしていました。」 「軍隊で働きました。各部隊に分かれて兵隊さんのお手伝いとか、伝令をするとか、まるで兵隊さんのようにやったんです。敵が来たら僕らもみんな向かうからね、僕らも軍隊になっちゃう、そうでしょ。例えば敵陣島陸すれば僕らは日本人と働いているから向かうし敵も僕らをねらうでしょ。僕らは軍人と同じなんですよ。」


大日本帝国の無謀な侵略戦争に対して南洋諸島の島々は苦しめられて、犠牲を強いられました。

高橋潤次さんの戦争体験
http://www.geocities.jp/haguma27/hiromi/sensoutaiken1/page02top.htmより
 北朝鮮による拉致闘題は許せないが、誓本人からみて許せないことは朝鮮人、中国人からみても許せないとおもいます。この近くでも久根鉱山、峰の沢鉱山など、天竜川流域の銅山やトンネル工事に、強制連行された朝鮮・中国人が労働につかわれ、かなりの犠牲者も出ているのですが、これらのことに補償らしい補償がまったくないのが現状です。
  わたしが戦争に反対する大きな理由は、爆撃で手をとられて前途まっくらになった、わたし自身が被害者という意識が強くあったことからです。戦後五年間くらいは占領軍により軍人恩給もストップされていた。講和条約成立後に恩給は再開したが、金はもらえても手は返してもらえない。こんなことは他の人にはぜったい経験させたくない、だから戦争反対と強くおもった。その被害者意識から出発して、転機となっこのは、1980年にベラウに行ったことです。
 べラウでは、日本の海軍軍艦のはなしが、現地の婦人から涙ながら訴えでられました。当時ベラウの人口、一万二、三千人のうち約半分の六千人が死んでいる。なくなった原因の多くは飢え死にです。
  そのもっとも大きな要因となったのは、ベラウ諸島の最南端、ペリリュー島という島に、一万二千人の日本の陸海軍が要塞を作ってたてこもっていた(*この軍隊は三十八名が残っただけで全滅した)ことです。宝の島といわれたぺリリュー島は、野菜、果物やコメまでつくり、ベラウ全島に供給していたところです。
  それに追い討ちをかげたのが、海軍の艦船の寄港でした。たとえば戦艦「大和」も、1944年2月にトラック島の米軍の空襲からのがれて、ベラウへ逃げこんできています。「大和」のほか五隻ぐらいの船がついていた。これらを全部あわせると、約五千人の人口です。これらに相当する人口が、水や生鮮食料品、ニワトリやブタの肉などもまきあげられたといいます。島の人々はアメリカの空襲を避けてジャングルへ逃げたけれど、ジヤングルのなかには食べるものは何もなかった。
  それをきいてショックだった。わたしらの船もそれをやってきたのです。
  マーシャル群島へ寄港したとき、ヤシの若芽をつんで食べていました。野菜がない状態でしたから、うまい、うまいと。ヤシは土地の人には重要な生活手段であり食料です。それを若芽のうちにつんでしまっていた。
  わたし自身は航海士で、艦の運行の仕事をしていました。大砲はおろか鉄砲一発撃ったことがなかったのに、れっきとした加害者だったのです。


ベラウというのはパラオのこと。太平洋戦争中、パラオでは全島の人口の半分が飢餓の犠牲になりました。ペリリュー島に陸海軍が立て篭もったため、食糧の供給ができなかったからでした。

太平洋の島々でも戦争被害
http://web.archive.org/web/20020821094546/
www5.sdp.or.jp/central/shinpou/newsfiles98/6sensouhigai0812.html
より
アジア太平洋戦後補償国際フォーラム
 第二次世界大戦での旧日本軍による残虐行為については、すでに中国をはじめ東南アジア各地で明らかにされているが、太平洋の島々やニューギニアにおいても、住民に対する虐殺や強姦、「慰安婦」などか烈な戦争被害があったことが、被害者らの証言で明らかになった。

 七月二十六日に東京で開かれた、アジア太平洋戦後補償国際フォーラム(戦後補償アジア太平洋被害者団体国際協議会主催)に参加したトラック諸島、マーシャル諸島、パプアニューギニアから来日した被害者や関係者が語ったもの。

 このなかで、マーシャル諸島のミリ・アトール出身のタリナ・レイトさん(七十二歳・女性)は、戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言。「私は兵士たちがした残虐行為を生きている限り決して忘れない。神様がいつかこの残虐な人びとに罰を下してくださるよう祈っている」と、訴えた。

 また、戦争中飢餓地獄といわれたニューギニアで、日本軍の炊事係として部隊に同行した体験をもつパプアニューギニアからきたブガ・グロ・ハウエバルさん(七十五歳・男性)は、日本兵十一|十二歳の少女を強姦した後、銃剣で殺害したことや、行軍途中の村々で、若い女性たちを性の奴隷とするため部隊に従軍させ、その途中で強姦した女性の乳房を切りとり、兵士たちの食料として揚げて食べたという、現地住民を対象とした組織的な人肉食が行なわれた事実について証言。

 また、同じくパプアニューギニアから来日した「日本軍による戦争被害に補償を求める会」代表のガブリエル・ラクさんは、これまでの現地での聞き取りなどの調査により、戦争中に住民七千七百四十八人が日本兵に殺害されたほか、食料不足を補う目的で二千三百八十八人が人肉の犠牲となり、また、一万六千百六十一人の女性が日本兵の性的奴隷として「慰安婦」にされたと報告した。

 フォーラムを主催した同協議会代表で、これまでアジアの戦争犠牲者の戦後補償問題に取り組んできた弁護士の高木健一さんは「これまで韓国や台湾、フィリピン、インドネシアやオランダについては、アジア女性基金など不十分ながら償いの事業がなされているが、なぜ太平洋地域についてはできないのか。この地域の人びとを、日本政府と日本人は軽んじてはならない」と発言、具体的な償いの実現に向けて今後も努力していく考えを強調。

 また、この日のフォーラムには、社民党戦後補償問題プロジェクトチーム事務局長の清水澄子参院議院が出席、「被害者に対して個人補償するのが政治。皆さんと力を合わせてやっていきたい」と激励。翌二十七日には、清水議員が窓口になって高木弁護士や来日した被害者とともに、外務省アジア局地域政策課と総理府外政審議室の担当者と交渉、「日本政府としてこの問題に誠実に真剣に取り組んでほしい」と要請した。


ミリ・アトール出身のタリナ・レイトさんについてぐぐってみましたが何も分かりませんでした。ともあれ、凄惨な蛮行が繰り広げられたようです。
>戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言
日本軍という存在はどこかの野蛮な軍閥か、蛮族の集団のようですね。

◇第一作 『日本軍歌思考』第二部
http://homepage3.nifty.com/alexcompany/novel_02.htmlより
 日曜の或るテレビ番組に出場のコメンテーターは、この現象を指して“歴史はくりかえす”と言ったが、気掛かりなのはその不況だけではなく、前述した昭和九年の世上をもいっしょくたに繰り返されたのでは困るのである。何となれば、昭和初期に見舞われた不況のそれから先の道筋は戦争であるからだ! 
 博識にあるコメンテーターの言をかり、それをそこまで二重写しにして気にかけるのは、杞憂というものであろうか… とりもなおさず、それは前述の「衆愚政治」なる言に過去の傷口がうずき、そこをひじくられそうにあるからだ。 
 腹立ちついでに、これも真実に違いあるまいと思われるので、付け加えておきたい。それは、これを書きかけ中に目にふれた極く最近の新聞記事で、読んでるうちに、日本人なら誰もが忸怩たるの思いをさせられる内容のものであった。

 それによれば、“南太平洋の声とゞかず”の見出しに始まるそこは、かって旧日本軍の占領下にあったところである。で、住民の強制移住や土地の強制接収等の被害をこうむった周辺三カ国(パプアニューギニア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)の民間人代表七人が過去の補償を求め、七月下旬に来日した。
 ミクロネシア・トラック諸島の代表は奪われた先祖代々の土地についての補償を、パプアニューギニアの代表は被害調査の最新データ(旧日本軍から被害を被った犠牲者、生存者、遺族合わせてその数九万五千余人。そのうち人肉食の被害が二千三百余人、強姦殺人が約六千五百人)を提示して、その補償を迫った。
 また、マーシャル諸島の元慰安婦であった代表は、自らの体験を何度も語り、現在フィリピンなどで進められている“アジア女性基金”の「償い事業」を南太平洋でも展開するよう求めるものであった。
 だが、むなしさがつのるとはこのことであろうか…。
 もとより、これの交渉の場としては、国会議員の仲介で政府との会合が実現し、各国の実態報告書が手渡されたのであるが、外務省、内閣外政審議室、アジア女性基金の反応はいちように鈍く、「新たな判断材料があれば…」(内閣外政審議室)「何らかの公的文書がないと」(外務省)といった具合で、引率の弁護士は「人肉食など日本軍が記録するはずがないじゃないか」と反論しても、前向きの答えはなかったという。
 さらに、マーシャル諸島の被害者組織代表から、「今も続く重大な被害」として残留不発弾の処理問題が訴えられ、それによれば、ミリ島の旧日本軍が連合国に敗れ撤退する際、千発以上の砲弾を放置したゝめ、危険で農地を耕すことができないという。
 それでも何の回答もないので、組織代表は手をあげて、「最後に言いたい」と次のように語り,記述はこれを以って締めくゝられている。
 「マーシャルでは三十一人の元慰安婦がいることがわかっている。遺族の中には、父親が日本人だったという人もいる。証拠を出せと言われても難しいが、証人ならいる。真実を知ってほしい」
 かくして、政府側の終始「公的史料がなければ補償しにくい」とする杓子定規な物言いの態度に代表は折れ、「戦争で荒れ果てた島に公的文書など元々なく生き証人の言葉を信じてもらえないのか」の言を残し、彼らは帰国したとある。

 これでは証拠を出せないのをいゝことに、それを出せと意地悪くされているのと同じようなものである。とかく、弱者は既存の施策から踏んだり蹴ったりの仕打ちを受けるが、これはそれの典型のように思えてならない。
 抑も、これのやりとりは、被害にあった国の人々がこちらに出向いて実情を訴えるのではなく、被害を与えた日本側が占領した各地へ出向いて実情を調査し、それによっては出来るかぎりの誠意を尽くすのが筋というもので、こゝに見られる何でもが証拠一点張りの対応には、情実のないじれったさが感じられ、日本人そのものが問われられているようで嘆かわしい…。


みてて腹が立ってきます。マーシャル諸島やトラック諸島の被害者・住民、ついでにパプアニューギニアの被害者自身が、日本軍の人肉食・レイプなどの戦争加害、従軍慰安婦、戦時下の奪われた土地の補償、日本軍が残していった残留不発弾の処理を求めて、日本政府に訴えたが門前払いされたようです。詳しいことはぐぐっても載ってなかったですし、今はミクロネシアなり、マーシャル諸島政府なりが韓国や中国のように日本に対して過去の侵略、戦争被害に対する謝罪や補償問題を提起する動きがないようなのですが、その辺どうなのでしょうか?情報をこれだけ集めてみまして、日本人の1人として恥ずかしい思いです。いつになったらこの国に正義が訪れるのでしょうか?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:00 | Comment(9) | TrackBack(7) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月21日

関東軍の地下要塞における労働者の大量虐殺(過去のニュース記事より)

【日中】関東軍の地下要塞の全貌が明らかに。「建設に動員された中国人100万人が犠牲」[08/14]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1124025319/
日本の関東軍が第二次大戦当時に中ソ国境、中蒙国境地帯に極秘裡に建設した
大規模な地下要塞の全貌が明かされた。この要塞に駐屯する軍人たちのために
朝鮮人慰安婦も大挙動員されたことが明らかになった。

中国黒竜江省の抗日戦争史研究会所属の学者たちは14日、日本軍が1934年5月
から敗戦直前の1945年8月まで11年間にわたり吉林省琿春から内モンゴル自治区
ハイラルに至る国境地帯に計19ヶ所、4700kmにおよぶ要塞を建設したと、明らかに
した。地下に建設された地下要塞も総延長1700kmにおよぶ。<中略>

ハルビン市社会科学院の金成民(ジン・チョンミン)731研究所長は、「11年間の要塞建設
期間中に日本軍は320万人の中国人勤労者を動員し、このうち100万人余りが建設
過程や建設直後に死亡した」と語った。

相当数の勤労者たちは機密保持のため、工事終了時に提供された食事に混ぜられ
た毒薬や、予防注射という理由で注射された毒物で死んだ。一部は日本軍の殴打
で死亡して犬のエサになったり、「万人坑」のように1万人ほどが集団で生き埋めに
された場合もあると、学者たちは説明した。<後略>

▽ソース:京郷新聞(韓国語)<日 関東軍 地下要塞 極秘建設>
http://www.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=200508141826481&code=970204

【中国】日本軍『魔の要塞』の大型ドキュメンタリー…従軍慰安婦からも聞き取り調査[05/08]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1115524143/
日本の関東軍が第二次大戦中にソ連軍の侵攻を阻止するために満洲地方に建設した「魔の要塞」(魔域要塞)の実態が、中国テレビ放送局のドキュメンタリーを通じて公開される。中国黒竜江省ハルビン(哈爾濱)テレビ放送局は、来る8月15日の中日戦争戦勝60周年記念放映に合わせて、毎回15分の30回分の大型ドキュメンタリーである「魔の要塞」を製作中だと国営新華社通信が8日報道した。日本の敗戦後も公開を憚った「東洋版マジノ線」の正体がこのドキュメンタリーを通じて神秘のベールを脱ぐと、咸明哲監督は言った。

この要塞が建設されたのは1930年代の初め。満洲地方を占領した日本軍は、南は吉林省琿春、北は内蒙古ハイラル(海拉爾)に至る5千キロの長さの中露・中-蒙国境地帯の軍事的要衝地に14個の要塞を建設した。ソ連軍の満洲侵攻に備えた膨大な規模の要塞建設には、数百万人の韓国・中国・ロシアの労動者と戦争捕虜らが動員された。これらはの大部分が、軍事機密と保安維持名目で要塞建設後に殺害されたと伝えられる。

14の要塞の中の東寧要塞では、日本が降伏した8月15日以後にも日本軍とソ連軍の間に10数日以上熾烈な戦闘が起った。東寧戦闘は第二次大戦最後の戦闘と呼ばれる。咸明哲監督は、このドキュメンタリー製作のために要塞現場を悉皆踏査する一方、生存した当時の労動者、従軍慰安婦、歴史学者らを対象に幅広く資料を収集したと明らかにして、過去史を反省しない日本の侵略性を知らせなければならないという考えで製作に臨むようになったと語った。


ソース:連合ニュース(韓国語)を犇さんが翻訳
<ドキュメンタリーで公開される 日本軍 魔の要塞>
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20050508/030000000020050508114735K6.html

恐るべき大日本帝国の国家犯罪。百万人もの人間を殺しておいて、罪行を隠して平然としている日本政府にあきれてものが言えません。過去ニュースよりとりあげておきます。

虎頭要塞
大半の日本人が存在を知らない大要塞                小島悦行
http://kojima.boy.jp/page004_kotou.htmlより
 このウスリーのわずか数百メートルの川を越えて、1945(昭和20)年8月9日にソ連軍の攻撃が開始された。弾丸が飛び交い、空は硝煙に包まれ、炸裂する爆弾で虎頭街は大混乱となる。
 一時期は守備隊兵士八千から一万人いた備えも南方戦線に転出して、わずか1500名に激減していた。周辺の邦人、開拓団員の数百名も要塞内に避難した。
8月9日の開戦から15日の終戦になっても激しい戦闘は続いたが、近代装備のソ連軍には敵わず、次々に幾多の要塞、各陣地も玉砕した。連絡を絶たれて終戦を知らずに戦闘を続行、途中で白旗を掲げた邦人の使者が終戦の事実を告げにソ連軍より派遣されたが、終戦を信じず終戦を報せる使者を逆に切り捨ててソ連軍の怒りをかい、その後の攻撃で徹底的に破壊された。守備隊兵士の生き残りは50名ほどで民間人の生き残りは100名足らずで、ほとんど全滅に等しい悲惨な結末で終えた。
 激しい戦闘も8月26日で組織的な戦闘は幕を閉じた。8月15日が第二次世界大戦の最後の戦闘とすれば、ここ虎頭要塞の攻防は本当の第二次世界大戦最後の地といえよう。だが近くの牡丹江市のロシアの国境に面した東寧にも日本軍の要塞があり、ここも8月の終りまで闘い、最後の地として宣伝して譲らない。
  2001年5月オープンしたばかりの侵華日軍虎頭要塞博物館を鶏西市朱成富副市長、虎林市張志良副市長の両氏の案内で見学する。米津和幸先生と私の二人が、思いもかけず日本人の見学者の第一号の栄誉を頂いた。第二号は父をこの虎頭の戦闘で亡くし、追悼に虎頭に行かれた遺児の北海道の諸冶京子さんが朝日新聞に「父に会いに虎頭に行く」と題した投稿文で判明し、諸冶さんに連絡して確認できた。
  館内の一階は日本軍、ロシア軍の砲弾や軍装品が展示されている。虎頭鎮政府の文化担当者から「日本人から見られていかがでしょうか?」と問われたが、兵役の経験のない私から見れば十分であった。日本軍の軍装品は、米津和幸先生の友人の岐阜市辻田文雄氏がすでに寄贈した本物だ。辻田氏は戦争考古学家として、中国各地の日本軍の遺跡の発掘に活躍中の人だが、不治の満州病を医者の米津先生に感染されたとか、本稿にも貴重なご指摘をいただいている。
 開拓団農家の内部が復元してあった。「日本の満州の写真集などから検証して、足りないものを贈りましょう」と、第一号の奇縁で約束をする。
 二階は抗日戦線およびロシア軍の勇士の戦闘の模様を中心として、中国人民の愛国教育として主に展示してある。。ひときは目につくのは、要塞構築に狩出された中国人労働者の作業図であり、要塞の完成後は秘密保持のために殺害されたのが真相のようだ。
(略)
  思えば他国で日本だけの国益を理由に、他国の人々を酷使して要塞は構築された。中国、日本、ロシアの尊い三カ国の犠牲の骸である。中国と友好、慰霊、戦争の無意味さを訴え、平和への努力を日本人が一番努力をしないと申し訳ないと痛感した。
 虎頭要塞の全貌を巡れば数日はかかる。生き残りの日本人兵士の一人岡崎哲夫氏がが、虎頭要塞跡を世界戦争遺産に提案されたと聞いた。日本人として万里の長城の見学も必要だ、ぜひ、一度は虎頭要塞の見学もお薦めしたい。


機密保持のため、建設後中国人労働者を殺害したことが分かると思う。このような加害事実が日本人の間でほとんど知られていないのが残念だ。南京大虐殺ばかりにとらわれてはいけないと思う。南京大虐殺の30万人を上回る虐殺が第二次大戦当時の中ソ国境、中蒙国境地帯の関東軍の地下要塞で行われたという事実を知って、痛感し、平和のための努力を日本人1人1人に求められているのだと思います。日本軍『魔の要塞』のドキュメンタリーはもう製作されて、中国や韓国で放送されたのでしょうか?その辺詳しい方はご連絡ください。日本でもぜひ放送すべきだと考えています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:01 | Comment(21) | TrackBack(104) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

Wikipediaにみる右翼の「高砂義勇軍ほとんど志願説」の破綻

高砂義勇隊の記念碑撤去のお知らせ
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13440456.htmlの追記という形で書こうと思いましたが、やめて一つのエントリーという形で書きます。

Wikipediaに記事がありました。
高砂義勇隊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8Aより
高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は太平洋戦争末期、台湾原住民が戦闘員としてフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。正規には軍属であり兵士ではないが、実際上は戦闘に参加し、戦死者の割合が正規軍よりも多かったといわれている。しかし、戦後、生存者も遺族も一切恩給や補償を全く得られず、また台湾国内においても、日本国内においても、全く目も向けられず、冷たい対応をされていた。1974年末にインドネシアのモロタイ島で発見された台湾人日本兵、中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)も台湾先住民アミ族出身の義勇隊員であり、彼の確認が、世間で「高砂義勇軍」が話題に上った最初のきっかけとなった。


軍属だけども、実際のところは、正規軍よりも戦死者の割合が高く、苦しんだというわけ。戦後は一切の恩給や保証を全く得られずに、歴史の闇に葬り去られようとしていたと。

正規軍ではないため、現在高砂義勇軍についての詳しい資料は残っていないので、明らかではないのだが、推測では約7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したと考えられている。参加者のほとんどが志願であると宣伝されたため、皇民化教育の成果として謳われたが、実際は多くの生存者及び遺族からの証言では、日本に支配され、反抗できない雰囲気の中で、自らの意思に反して参加させられたという証言が最も多かった。唯一、高砂義勇軍の遺族と自称する「烏来地区タイヤル族酋長」の周麗梅さん(日本名秋野愛子、民族名リムイ・アベオ)が日本の一部右翼団体から資金提供を受け、「高砂義勇軍戦没英霊記念碑」を建てて、高砂義勇軍がすべて皆自らの意思で志願して、天皇のために戦死した英霊であると主張している。


ここにも日本の右翼の関与がみられる。2chの右翼は強制ではなく、志願だといっていたが、植民地のもと、反抗できない雰囲気のもと、生存者や遺族からの証言では自分の意思に反して参加させられた、つまり強制であることが多いということ。日本の右翼勢力から資金提供を受けた周麗梅という奴が、日本の右翼勢力の走狗となって、「高砂義勇軍戦没者英霊記念碑」なるものを建てたということ。

実際、台湾国内の一般的な意見としては、一部日本軍に協力的な者を除き、殆どが事実上は自らの意思に反し、または日本国内の「赤紙」を受けて、徴兵されたような心境で戦地に赴いたになっている。自ら志願して、協力する人も当然一部いたものの、平和を愛する台湾原住民が事実上日本によって徴兵されれば、当然仕方なく随従するが、それを「殆ど志願して戦地に赴いた」と唱える説は、多くの身近な生存者や遺族の証言からしても、信頼性を欠けるというのは台湾国内の一般的な見方である。


右翼の説は完膚なきままに否定されましたと。

戦後、未払いの軍事郵便貯金の払い戻し(確定債務問題)、戦死者の靖国神社からの分祀などを巡って生存者や遺族の一部は裁判等で係争を続けていたが、2005年9月30日の大阪高裁の判決で敗訴が確定した。この裁判では、旁論ではあるものの、小泉純一郎総理の靖国参拝が憲法違反であると示している。その他福岡地裁など、日本各地でこのような裁判が起こされているが、一部の日本国内の論客はこれをすべて「中国共産党の陰謀と策略である」と、遺族を侮辱する傾向も見られる。


でたね。また「中国共産党の陰謀と策略」。好きだね。純粋に高砂義勇隊で日本軍に尽くした際、未払いの軍事郵便貯金の払い戻しを求めたり、大日本帝国の侵略を正当化し、加害者である軍国主義指導者とともに祀られることが嫌だから、分祀してくれというのは何が悪いんだろうね。

(略)台湾では先祖を自宅で祭る文化があり、自宅で先祖を祭らない者は「不孝者」として、コミュニティ、世間体から変な目を向けられる文化がある。このような背景の下で、台湾原住民及びその他台湾出身の旧日本軍遺族の強い意思で、靖国神社からの分祀(台湾へ先祖の魂を呼び戻すための「迎霊招魂」儀式)を望んでいるのに、靖国神社が断固として台湾の遺族の意思、そして台湾の文化を無視した点については、台湾の主要メディアは殆ど高金素梅ら及び遺族に対して同情を示し、また日本政府及び靖国神社の強硬な対応を批判した。


台湾では高金素梅氏の運動は大きな同情を受けており、高砂義勇隊の撤去を阻止しようと日本の右翼勢力と台湾の親日反動勢力が頑張っているが、結局のところ、台湾の世論の強い意思のもと撤去される可能性が高いということだ。

高砂義勇軍の遺族と自称する「烏来地区タイヤル族酋長」の周麗梅(日本名秋野愛子、民族名リムイ・アベオ)が日本の一部右翼団体から資金提供を受け、「高砂義勇軍戦没英霊記念碑」を建てて、高砂義勇軍がすべて皆自らの意思で志願して、天皇のために戦死した英霊であると主張している。現在記念碑は長男の邱克平(民族名Makai‧rimui)、甥の簡福源(民族名Tari‧watan)が管理しているが、慰霊碑の敷地を提供していた台北郊外にある観光会社が、新型肺炎 (SARS) 流行による日本人観光客激減で倒産してしまい、慰霊碑は撤去されそうになったといわれている。この事態に対し一部の右翼団体及び日本の2ちゃんねるユーザーを中心とする有志が、義援金を拠出し、慰霊碑は移転させて存続する事になった。その結果、2005年8月には日本側の支援の動きに呼応して建立委員会(代表烏来郷元郷長(町長)簡福源氏)ができ、社団法人「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の設立準備を進める一方、台北県から県有地の提供を受けることで交渉がまとまった。


これが本質だろうね。わが2chのネット右翼たちは洗脳されて、運動に加担させられているが、この運動の背後にある右翼の闇勢力の背景には日本会議などが絡んでいるに違いないね。
少なくとも右翼の「高砂義勇軍ほとんど志願説」は否定されましたとさ。以上
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 10:35 | Comment(10) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月17日

キリバス共和国における大日本帝国加害事実

いま、なぜ、世界史か
http://home.att.ne.jp/wave/natsu/ryo/sekaisijo.htmより
97年の8月,新聞に「バナバ民族舞踏団」が来日したという小さな記事が載っているのを読んで,ぎょっとし,またまた私の世界像の補修をせまられた。
バナバ民族は,現在のナウル共和国とキリバス共和国の中間にある,周囲約60キロのバナバ島で,長く自給自足の生活をしてきた。

ここで,太平洋の地図を開いて,ナウル共和国とキリバス共和国を確認してみよう。
高校用の世界地図なら,バナバ島がのっているだろう。フィジーのランビ(またはラビ島)は,のってない。

大平洋戦争がはじまって間もない1942年,約500人の日本軍がリン鉱石を狙って上陸。自転車やカヌ一などを奪い,敵を防ぐ高圧電線の人体実験で少なくとも数十人を殺害した

その後,数百キロ離れた三つの島へ強制移住させられた。戦後はイギリスが,バナバ島から2000キロ南のランビ島(フィジー)に移住させた。
いまも民族のほとんどの約8000人が故郷に戻ることができないままである。
この夏,東京の市民グループの招きで民族舞踏団が来日した。
歌劇には旧日本軍の戦闘機に銃撃されて逃げまどったり,目隠しされて銃殺される場面もある。
“撃て”という日本語がそのままのこっているというのだ(『朝日新聞』97.8.7夕刊と,たまたま旅先の富山県の宿で読んだ『北日本新聞』97.8.21)。


キリバス共和国を日本軍は侵略したということはご存知ですか?
http://www.foejapan.org/pacific/countries/kiribati.htmlより
1606年 スペイン人キロス、ブタリタリ島(ギルバート諸島)を発見。
1892年 英国、ギルバート諸島、次いでエリス諸島を保護領と宣言。
1916年 英国、ギルバート、エリス諸島を併合、植民地とする。
1939年 英及び米国、カントン島及びエンダベリ島(フェニックス諸島)を共同統治。
1941年 日本軍、バナバ、タラワ、マキンを占領。
1979年 7月12日 独立。


日本軍はリン鉱石等を狙って、キリバス共和国のバナバ島を侵略。敵を防ぐ高圧電線の実験で数十人を殺害しました。歌劇の残すところによれば、旧日本軍の戦闘機によって機銃掃射されて島民が虐殺されたり、目隠しされて殺されるということがあったと言います。私は知りませんでしたし、ネットサイト上でもこれ以上情報が見つかりませんでしたが、私たち日本人が知らない蛮行はまだまだアジア・太平洋地域には存在するということです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:53 | Comment(8) | TrackBack(6) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このカテゴリーの紹介、戦後賠償の血塗られた汚点―日本工営社長 久保田豊

このカテゴリーは私がネットサーフィンをして、大日本帝国の侵略や戦争被害等に関する事実を見つけてアップします。

キティ総研の
●NHKビデオ全12巻
   「戦後50年その時日本は第1巻 アジアがみつめた「奇跡の大国」」
                                  1996
http://square.umin.ac.jp/kitty/nhksengo50-1.htmlより
●NHKビデオ全12巻
   「戦後50年その時日本は第1巻 アジアがみつめた「奇跡の大国」」
                                  1996

    日本の経済力によるアジア進出の背景をさまざまな資料で検証する。フィ
    リピン、インドネシア、中国、大韓民国、タイなどへの戦後賠償と経済進
    出の光と影を関係者の証言を交えて立体的な構成で描き出す。
    
    なつかしいフィリピン国家が上院でうたわれていた。マラカニアン宮殿、
    日本軍統治下でのフィリピン大統領だったホセ・ラウレルが日比賠償交渉
    の担当。8億ドルで決着。アジア全体で6000億円強の賠償
    
    日本工営社長 久保田豊 賠償によって南ベトナムに経済援助をそれは防共
    ベトナム中部の高原に拡がるダニム・ダム、総発電量16万キロワット
    (1964年)1957年の久保田の提案 賠償はかたちが残りかつ経済的効果が
    あがるものがよい久保田豊は戦前植民地の朝鮮に強大なダムを建設した技
    術者。そのとき満州国官僚であった岸信介と親交をむすび、岸の信頼を得
    た。久保田=ゴ・ディン・ジェム会談で賠償協定以前に建設決定。1957年岸
    南ベトナム訪問。南ベトナムだけに賠償金を支払う。賠償金の140億円のう
    ち7割をダニムダムの建設へ。設計日本工営、三菱、東芝、鹿島、間などの
    企業。現在はダニム発電所は国際協力事業団が再び見ている。日本工営の
    当時の技術者神田氏が担当。この30年間でベトナム、ミャンマー、インド
    ネシア、韓国でダムを造ってきた。
    
    日本軍の米の強制供出による北ベトナムでの大量飢饉、餓死という事実。タ
    イビン省では人口の40パーセントが飢饉で死亡。被害者個人には賠償を支
    払っていない日本。
    
    その後久保田豊は賠償で東南アジア各地にダムを造っていった。
    
    スカルノは日本の賠償で経済の自立をめざした。スカルノ=岸会談。インド
    ネシアから日本への賠償留学生。賠償プロジェクト サリナデパート、ホ
    テルインドネシア、独立記念塔 コミッションを日本企業(商社)から大
    統領に支払っていた。賠償をめぐっての汚職?岸首相と商社とスカルノ大
    統領の東京での密談汚職は日本でもインドネシアでもコミッションという
    かたちであった。日本の商社マンは賠償プロジェクトをあさり、価格の水
    増しをするようインドネシア側にすすめた。商社(東日貿易)が歌手根本
    七保子(デヴィ・スカルノ)を紹介。1959年スカルノ夫人に。賠償をきっ
    かけにしての東南アジアへの企業進出。日本は資源と市場を手に入れた。
    軽んぜられる個人補償。
    
    石油危機に対処するためアジアの資源を確保した。1974年1月の田中角栄タ
    イ訪問。学生たちによるはげしい反日運動。「札ビラで人の頬をたたくよ
    うな行為、何から何まで売り込む、タイが乗っ取られるのではないか。」
    年間2億ドルを超える対日貿易赤字でタイは苦しんでいた。大学生の全国組
    織・タイ全国学生センター、これまでの日本の進出は2回、軍事的進出、経
    済進出。1月10日田中氏はタイ首相官邸で学生たちのリーダーと会見。タイ
    全国学生センターの当時のソンバット書記長が代表で質問。1月14日ジャカ
    ルタに到着。反日暴動15日にピーク、日本大使館に投石、日の丸が引きず
    りおろされる。焼かれたり川に投げ込まれた車が200台以上。軍隊も出動。
    11名死亡。逮捕者775名。田中首相は大統領宮殿から一歩もでられずヘリコ
    プターで空港まで脱出。インドネシア大学学生評議会。スハルトの開発か
    学生の民主化か。焼き討ちされたトヨタ・アストラ・モーター(華僑との
    合弁)完成車の輸入禁止。1977年国産車「キジャン」完成。今ではインド
    ネシアの国民車といわれる。工場で指導的な役割を果たしたのは日本への
    賠償留学生


日本ってむちゃくちゃなことを戦後でもアジア諸国に対してやらかしたのですね。戦後賠償といわれる経済侵略の実態がまとまっていると思って紹介しました。アジア諸国との賠償協定が締結されましたが、当時のアジア諸国は開発独裁で、被害国であるアジア側も当時の日本政府も、大日本帝国や日本軍による犠牲者遺族や被害者個人のことは頭の片隅にすらなかったのです。しかし、アジアが民主化しつつあるいま、
アジア各地で従軍性奴隷被害者、ロウムシャ・ヘイホといった犠牲者遺族や被害者たちが預貯金や被害を受けた苦痛に対する慰謝料を求めて、日本政府に対して立ち上がっています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:13 | Comment(10) | TrackBack(110) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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