リー・クアンユー回顧録でも取り上げたので、改めて南京大虐殺 と シンガポール華僑粛清事件という日本軍により都市で行われた大虐殺について自分なりに、自分の調べた今までの知識でもって考えてみることにしました。
★まず、南京大虐殺の概要
1937年8月13日、日本軍は上海を攻撃。第二次上海事変が始まる。7月7日に華北、北京郊外の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、このときから華中、上海に戦線を拡大した。これが8月13日の上海事変から12月13日の南京占領にいたる華中における日本の侵略戦争の始まりである。上海を制圧後、松本石根上海派遣軍を中軸とし、に第16師団(中嶋今朝吾中将)、南に第10軍(柳川平助中将)を加えて三方面から南京への進軍した。南京事件というのは、南京に日本軍が入り、制圧後2〜3ヶ月の間に引き起こされた多数の捕虜、敗残兵、便衣兵 および一般市民を不法に虐殺したものである。それと南京事件という言い方が使われる。虐殺以上に酷いのは幼児、児童から老婆にいたるまでの婦女に対する強姦および強姦殺人、日本兵の見境のない略奪、放火であり、それをすべて含めて事件全体を論じたい場合、南京事件という。特に婦女に対する強姦は言葉には言い表せないほど酷かったため、海外では南京虐殺の変わりに、南京強姦がよく用いられる。
★シンガポール華僑粛清事件の概要
アジア・太平洋戦争開戦の1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃するとともに、マレー半島北部の東海岸であるコタバル、タイ南部のソンクラ、パタニに上陸。日本軍は快進撃を続け、マレー半島を縦断南下し、シンガポールを目指した。1942年2月15日イギリス軍が日本軍の第25軍司令官山下奉文に降伏し、マレー戦は終結し、シンガポールの制圧は完了した。占領後の19日に、シンガポール在住の18以上50歳までの華僑に指定場所に集め、21〜23日に集中して虐殺された。虐殺は3月末まで行われた。シンガポール大検証とも呼ばれている。
★南京大虐殺とシンガポール華僑粛清事件の比較
☆犠牲者数について
・南京大虐殺http://www31.ocn.ne.jp/~hinode_kogei/DATA.html#nanking_atrocitiesによれば、日本軍資料だけでも8万〜13万人に達する。私の見解でいえば、最低20万人以上ということは確かである。紅卍字会や崇善堂による15万5337体もの埋葬記録が存在する。さらに揚子江等に捨てられた遺体を含めれば20万人以上になると推定されている。 中国側の主張は30万人であるが、虐殺者だけではなく、強姦されて殺害された婦女、戦闘に巻き込まれた犠牲者を含めて南京事件を論じなければならない。1937年の南京占領で終わったわけではなく、日本の占領は(1940年3月に南京を首都として汪兆銘傀儡政権が発足するが)1945年8月15日までの日本の敗戦まで続くのである。日本軍の南京占領統治全期間を含めた犠牲者という視点も考えなければならない。憲兵隊の横暴や強制労働による犠牲、食糧難や酷いインフレによる物不足・食糧不足から来る市民の餓死や病死など、45年8月15日までの日本兵による婦女の強姦殺人数という観点から考えれば犠牲者30万人という数字は過少であるくらいだと思う。
・シンガポール華僑粛清事件
日本側資料:5000人(河村参郎少将の日記、俘虜関係調査中央委員会の第四班の報告書)、ネットサイトを見れば6000人という数字も存在する。
同盟通信記者、菱刈隆文の陳述書:約2万5000人
シンガポール政府:4〜5万人
華僑商工会議所:5〜10万人(リー・クアンユー回顧録)
まとめると、5000〜10万人。日本側の資料の5000人が最小値となるだろう。ただし、いずれも決定的なものではなく、調査が待たれるというところ。典型的な華僑粛清事件だけではなく、憲兵隊による市民への不当逮捕や拷問、処刑は8月15日の敗戦までに日常的にに行われており、日本軍のシンガポール統治の全期間の犠牲者ということで考えれば、最大値の10万人という数字も過大ではないと思う。
☆虐殺の実行方法や過程の残虐性
・南京大虐殺
虐殺手段はきわめて残虐。たとえば、縄で両手を縛って河に投棄して水に溺れさせる、薪を積んで生きたまま焼く、建物に捕虜や難民を押し込めて手榴弾を置き油を流して火を放ち焦熱地獄の中で悶死させる、針金や縄で避難民や捕虜を数珠つなぎにして縛り機銃を浴びせる、一気に捕虜を縛り上げて数珠つなぎにし、銃剣で刺し殺し、足蹴りして揚子江に突き落としたetc。
・シンガポール華僑粛清事件
選び出された粛清対象者は、後ろ手に縛られ、バスやトラックで人気のない山地や砂浜に運ばれ、適当な場所へ強制的に歩かして、その後機関銃で虐殺。日本兵は死を確かめるために、死体を蹴ったり、銃剣で突き刺したりして一つ一つ確かめた。
☆(虐殺を実行する)日本軍部隊の規律の比較
大虐殺というそのもの以上に酷かったのは、日本兵らによる強姦、略奪、放火などの不軍規だった。捕虜や敗残兵、便衣兵や婦女子幼児を含む一般市民・避難民の虐殺と平行して、日本兵のなすがままの非行が繰り広げられた。日本兵の蛮行は南京市内に突入という同時に行われた。市内や周辺部で戦闘が続いている状態でもおかまいなしだった。日本兵は市内へ入ると市民の住宅,商店、学校や官庁・役所などの公共機関のあらゆる場所を襲撃し、略奪が行われた。その略奪の過程で市民が抵抗すれば殺害し、欲しいがままに略奪した。倉庫や工場の財産、金銀財貨、文化財や骨董品、避難民の食糧や 病院の医薬品や布団、農民の家畜に至るまで奪われなかったものが一つもなかった。そして、日本兵たちは市街のいたるところに放火をしはじめた。日本兵は略奪した家屋や建物に火を放った。市民や避難民を押し込めて、火と放ち建物もろとも焼いたこともあった。多くの南京の家屋が焼け、全市の半分近くがほとんど灰尽に帰したという。何よりも、目を覆いたくなるのは婦女への強姦である。日本兵は婦女を見つけたり遭遇すると同時に、獣欲を剥き出しにし、欲しいがままに集団で婦女に襲いかかった。そして強姦し、輪姦した。場合によっては、部隊単位で協力して陣地、兵舎や建物に拉致・監禁の上、集団レイプや輪姦に及ぶことも多々あった。幼児・児童から老婆にいたるまで強姦され、占領から3ヶ月後には南京にもはや非処女はになかった。強姦につぐ、強姦、強姦、強姦で日夜問わず行われた。強姦した婦女を口封じのため銃剣で下腹部を突き刺し殺害するという強姦殺人行為も頻発した。強姦したのちに、殺害する場合、幼児や児童、妊婦であれ、容赦はなかった。殺害を免れても、日本兵に見つかるたびに何度も女性は強姦された。強姦を行う日本兵は理性の欠片もない獣兵であった。頻度の軽減こそ、あれ日本兵の婦女強姦に関しては放火や略奪、殺人、虐殺行為が止み、治安が回復した後も続き、ついに敗戦の45年8月15日まで止むことはなかった。便衣兵狩りと称する兵士・捕虜・市民への無差別殺戮、一般市民や避難民への集団あるいは個々での殺傷、放火、略奪、強姦および強姦殺人と日本軍の残虐行為には枚挙に暇がない。その規模の大きさ、被害人数・犠牲者数の多さ、持続期間の長さ、殺人手段の残虐さにおいて、人類史上、例のないものであった。では、シンガポールではどうだったのか?
シンガポールでは南京と様相が違うようである。確かに南京での日本軍の軍規は地に落ちた。しかし、シンガポールでは陥落前後に大規模な日本兵による強姦、略奪、強姦は報告されていない。というのも、南京の経験があったためで、シンガポールを攻略した第25軍は戦闘部隊を市内へは入れなかったことが判明している。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper36.htm
.「大検証」
次に占領後の華僑粛清の問題について少しお話したいと思います。この問題については、こう言うとシンガポールの方に怒られるかもしれませんが、残念ながらきちんとした研究はなされていません。あまりに分からないことが多すぎるのですが、いくつか重要な資料がイギリスに残っています。たまたまそれを見る機会がありましたので、それを基にお話したいと思います。
2月15日にイギリス軍が降伏します。その時、日本軍は戦闘部隊を市内に入れませんでした。南京での経験があったからだろうと思いますが、戦闘部隊をそのまま市内に入れますと、略奪・強姦などさまざまな悪事をしでかすので、第25軍は戦闘部隊を市内に入れなかったわけです。憲兵隊だけ入れて、治安の維持をさせました。
南京の経験があり、日本軍は日本兵の不祥事にはかなり神経を尖らせていたようだ。とはいえ、リー・クアンユー氏は通りで通行人から所有物を取り上げたり、公式の捜査や捜査と装って、個人の住宅に押し入り略奪した日本兵を目撃している。ただし、南京で行われたことに比べれば、マシだと思う。虐殺の場合も、南京と異なり、大っぴらな日本兵の婦女への強姦、略奪、放火などの行為は付随しなかったと思われる。
シンガポールでは占領期間中も含めて、強姦事件の発生が頻繁には見られなかったというのが、意外だった(
リー・クアンユー回顧録)。ただし、そうではないという情報も多々あるようだ。たとえば、陳素珍さん(65歳)は、「とにかく日本兵はこわかった」、理由は「家に来て娘をみつけると強姦するから」という証言(日本軍政下のアジア、小林英夫著 p214)が存在する。とはいえ、それでも少なくとも37年で南京とは違うようだ。シンガポールの人々は南京で行った無差別に強姦や略奪を行うことを最も恐れていた。しかし、日本兵が見境のない強姦や市内への略奪、放火を行うという37年の南京のような事態には至らなかったということはは確かだと思う。リー・クアンユー氏は頻繁には強姦は起こらなかったというし、一方で婦女への強姦は頻繁に行われ、家に押し入って女性を連れ去るようなことがよくあったという情報もある。このことについてはまだまだ研究していかなければならないと思う。
☆虐殺対象者について
南京大虐殺では捕虜、敗残兵、便衣兵、そして、幼児、婦女子、老人を含む市民・避難民・農民のすべてが対象だった。軍人だろうと捕虜であろうとインテリだろうと、乞食だろうと、女子供幼児であろうと便衣兵狩りと称して無差別に見境なく虐殺が行われた。
一方シンガポールでの華僑粛清事件については犠牲者のほとんどは華僑であり、マレー人やインド人はほとんど被害を蒙らなかった。華僑のなかでも、屈強な青年男性やインテリ層が中心。女子供も含まれているという情報もある。華僑を一方的に抗日分子だと決めつけ、極めて綿密に計画的にかつ、秩序立って行われた。南京大虐殺とはこの点大きく異なり、ナチスのユダヤ人ホロコーストときわめて近いところがあるのではないかと思う。
☆進軍中の軍規
・上海から南京まで進軍する日本軍の軍規
南京占領以前の上海や南京への進軍路(揚子江沿い)で捕虜や市民への虐殺・略奪や婦女子への強姦を続けていたのである。南京への進軍中、村落を見つけ次第焼き払った。侵攻する先々で食料を奪い、抵抗する農民たちを虐殺した。特に婦女への強姦が酷く、幼児も老婆も見境なしであった。日本兵は進軍する先々で女性を見ると、まるでケダモノが異性を見つけたときのように、獣欲をむき出しにして襲いかかった。相手がどんな年寄りでも幼女や少女であっても、お構いなしで、群れを成して襲いかかって、性欲を発散させた。言うことを聞かないものは、銃剣で陰部や腹部を一突きにして殺害した。まさに、「殺つくす、焼きつくす、(食料も女も)奪いつくす」三光作戦が上海から南京までの進軍中展開されたのである。12月の南京占領でピークに達し、3ヶ月にわたって激しく継続された。言語に絶する阿鼻叫喚の地獄絵図が上海から南京占領後の3ヶ月まで繰り広げられたのである。南京市内および上海を含む周辺部では日本兵による婦女子への強姦は頻度の減少こそあれ、45年8月の敗戦まで止むことなく続けられた。日本軍が15年戦争の期間中、南京大虐殺(上海から南京までの進軍路を含む)というのが、いかに突出して人類史上例がないほどのものであったか、理解していただいたと思う。
・マレー進軍中の日本軍の軍規
こちらは南京とはずいぶんと様相が違うようである。いろいろ調べてみたが、上海で日本兵による強姦や略奪が多発したという情報があるのに対し、たとえば、日本軍が上陸したコタバルで、日本兵が強姦や略奪をやりまくったということは聞いたことないし、ネットサイトでもそうした情報はなかった。
例えば、
マレー半島における日本軍慰安所について
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper09より
・・・マレー進攻作戦中の日本軍の規律は厳しかったと言われており、私がこれまで現地でおこなった聞き取りなどから判断して、確かに中国戦線とはかなり違うという印象を持っている。たとえば一つの例をあげると、日本軍の1 こ中隊が駐屯していたネグリセンビラン州のクアラクラワンでは、日本兵による女性に対するトラブルはまったくなかったと地元の年輩者が語っている。
マレー半島の日本軍慰安所
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper08.htmでも、ネグリセンビラン州のクアラピワでは女性を追い掛け回すような好色な日本兵がいたが、強姦事件はなかったことが関係者の証言で明らかになっている。
林博史氏が言うことだから間違いはないだろう。クアラクラワンやクアラピアの両都市では日本兵による強姦行為はなかった。リンク先を見てもらえばわかるが、一方で略奪行為が行われたという情報や、
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.htmlではアエル・ヒッタムという町で、日本兵により数名の婦人が強姦されたところを陳観鵬氏は目撃している。
http://www31.ocn.ne.jp/~hinode_kogei/antigo83.htmlより、林博史氏のサイトでは紹介されていなかったが、
マレー半島でも強姦が相次いだようで、これは当時の日本の貴族院でも戦地強姦罪の審議の中で採りあげられている。
という情報もあるようだ。ただ、中国戦線での「殺しつくす、焼きつくす、奪いつくす」の強姦・略奪、放火、殺戮のオンパレードと比較すれば、マレー進攻作戦中に限っていうなら格段に日本軍の軍規は格段に改善していることは確かだと思う。それと、マレー戦線やシンガポールで、中国戦線や南京のような事態にならなかったのは、日本軍が慰安所を早期に設けたことが要因か、あるいは、日本軍が厳しい引き締めを行ったのが要因なのかの研究がなされていないのは、残念だ。ノモンハン事件の愚行をガダルカナルやニューギニア、インパール作戦で何度も繰り返すように、日本軍は学習しない軍隊と言われている。ただし、マレー戦線では中国戦線や南京での反省や教訓を汲み取り、(中国戦線や南京と比べて)軍規を格段に改善させた。シンガポールでは歩兵部隊を市内に入れるのを避けるという配慮まで取っている。日本軍が学習したほぼ唯一の事例だと思う。日本軍にそこまでさせた中国戦線や南京の酷さが推測される。とはいえ、学習もそこまでで、極端な精神主義や補給・兵站の軽視、食糧や物資の現地調達主義、アジア民衆の蔑視、人命軽視の体質の根本は変わらなかった。
★まとめ
南京大虐殺 と シンガポール華僑粛清事件を比べて見ました。同じ都市部で行われた非道な日本軍による残虐事件ですが、このように比較すればかなり異質なものだと思いました。ただし、ともに日本軍の糾弾されるべき戦争犯罪であり、日本軍に内在する体質が問題であったのである。結論として、南京大虐殺もシンガポールの華僑粛清事件も、細部は大きく異なるが、血に狂った鬼の軍隊として、ナチスや悪魔も真っ青の身の毛のよだつ所業をやってのける同一の日本軍的体質によるものだと断言できます。