2010年05月04日

"蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相 池谷薫著 新潮社"を読みました

たまたまBook offに立ち寄ったとき見かけたて買ったものですが、"蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相 池谷薫著 新潮社"を読了しました。
GW中に読んでいました。いろいろ出かけることもあり、ようやく書いてエントリーします。
著者が制作の指揮をとった"蟻の兵隊"という映画はまだ見ていませんが。

本書を読み終わった感じを一言で言うなら「がっかり」というところでしょうか。

中国初「慰安婦」被害調査 敗戦後も慰安婦制度持続
http://j.people.com.cn/2007/07/03/jp20070703_73134.html
  中国初の「慰安婦」被害事実調査報告が2日、公表された。旧日本軍が廟宇を慰安所として接収した事実や、山西省では少なくとも日本敗戦後の1947年まで慰安所が存続していた事実が明らかになった。「京華時報」が伝えた。
 中国元「慰安婦」被害事実調査委員会は昨年9月に調査に着手、今年3月に第1次調査を終えた。同委員会は、現在も山西省の4県に16人、海南省のある県に1人の生存者がいることを確認した。17人の被害者は旧日本軍の手で兵営内、あるいは兵営付近の建物に連行され、性的な蹂躙を受け続けた。最年少は当時12歳、最年長は21歳だった。
  調査によると、旧日本軍は民間の会館、民家、仮設建築などに慰安所を設置し、雲南省騰沖県では廟宇まで接収。日本の敗戦後もなお、中国に残留した日本軍が従軍「慰安婦」制度を維持していたことも明らかとなった。1945年の日本投降後、一部の残留日本軍は閻錫山の国民党軍地方部隊に編入されたが、独立編成を維持。このうち「保安第6大隊」は、山西省太原に慰安所を設置したことを、残留日本兵に日本語で告知していた。この調査結果は、日本軍が設立した、女性を迫害対象とする「慰安婦」制度が、少なくとも1947年以降まで一貫して続いていたことを実証するものである。

  調査に参加した康健弁護士は「これは慰安婦の被害事実を系統的に調査した国内初の調査。第1次調査の報告は3回に分けて発表される。今後はさらに大規模な調査がある」と述べた。(編集NA)

 「人民網日本語版」2007年7月3日
という記事では中国側の調査により、日本軍の慰安婦制度が少なくとも山西省において存続していたことが分かっています。敗戦で大日本帝国・日本軍の加害が終わったわけではないのです。

本書を含めて、山西省の残留日本軍の経緯を話します。
戦中より北支那派遣軍第一軍と親日派とされる閻錫山の間で、"対伯工作"という名で接触・工作が続けられた。日本軍側では中央の国民党軍や八路軍と違い、戦意の乏しい山西軍の帰順を狙ったものだった。
昭和17年5月、当時の第一軍司令官岩松義雄中将はあわよくば閻錫山を華北一帯の親日政権のトップに据え、思いのままに操ろうと交渉を持ちかけた。しかもその条件が破格のもので、日本軍が支配する地区に閻錫山の山西軍の兵営を準備し、兵器や金まで用意するというものだったという。交渉こそ実らなかったが、閻錫山と第一軍の関係を緊密にし、戦後の組織的な山西省における日本軍残留の下地となったというわけです。

本書においては、山西省に残留させられた将兵たちは被害者で、残留を画策した閻錫山および閻錫山に擦り寄って、日本軍の残留計画の思惑に載ったが第一軍の幹部が悪いだけということしかみえてきません。戦中はもちろん、戦後も通して、日本軍の蛮行や加害に晒された中国の民衆の視点は非常に少ないです。もちろん、残留させられて敗戦後も戦わされ、帰国後も国から酷い仕打ちを受けた残留兵士たちには深く同情をしますが。

本書の戦中の日本軍の加害を記述したものは大変短いものです。
p28より抜粋します。
国共合作の結果、日本軍が戦う相手は重慶に総司令部を置く国民政府軍だったが、蒋介石の国民党は兵力を温存して持久戦に持ち込もうという戦略をとっていた。そのため、実質的に日本軍と闘っていたのは、ほとんどの場合が八路軍だった。
八路軍は徹底したゲリラ戦法で日本軍と対峙した。毛沢東の唱える「遊撃戦論」なるものが実践されたのだ。
(略)
 こうして攻め込むと忽然と姿を消してしまう八路軍だったが、時には大規模な兵団を組織し巧みな戦術で大反撃してくることがあった。
 なかでも昭和15年8月20日にはじまった「百団大戦」では、約100個団、40万人を動員して一斉蜂起した。これによる日本軍の戦死者は約2万人にのぼり、合計470キロに及び鉄道が寸断され、1500キロの道路と200を超える橋が破壊された。
 大損害を蒙った日本軍は、すぐに報復の手段に打ってでた。治安を回復するために第一軍がとった行動は徹底していた。八路軍が支配する地域に入ると、兵士でなくとも疑わしき者は殺し、食糧を奪い、女を犯して、家を焼いた。これが悪名高い「三光作戦」である。三光とは、「殺光」(殺し尽くす)、「略光」(奪い尽くす)、「焼光」(焼き尽くす)を指す。日本軍はこれを「塵滅作戦」と呼んだ。
 思うに、日中戦争はベトナム戦争のようなものだったのではないか。ゲリラ戦を仕掛けてくる敵はどこにいるのか分からない。正面きっての戦闘はあまりないのだが、ある日、行軍の最中にパーンと音がしたかと思うと戦友の1人が死んでいく。
 見えない恐怖に、いつ終わるやも知れない持久戦のいらだちが重なり、兵士たちは激しく消耗していった。ましてや、満期除隊となるはずが自動的に兵役を延長させられた古年兵が多く、長い軍隊生活のなかでいつの間にか人間の理性は剥脱されていった。
といった具合です。戦中の日本軍の加害に触れた部分はかなり少ない記述です。ゲリラ戦と長い軍隊生活で兵士たちの理性が剥脱されていった部分はあるのは確かでしょうが、それ以上に日本軍では生きた朝鮮人や中国人の農民や捕虜らを使って、銃剣で刺し殺す「刺突訓練」が行われ、日頃から新兵の頃から人間としての感情や理性を奪う軍隊教育が行われてきたです。ベトナム戦争を例に出しているが、ベトナム戦争に限らず、アフガンやイラクにおける米軍においても、他の如何なる戦争の事例においても、戦争犯罪はなかったわけではないが、当時の日中戦争における"日本兵"ほど病んで、残虐と野蛮の極地に達した兵士たちはいませんでした。

p36においても、大日本帝国・日本軍の加害についての記述があります。山西省残留の被害者である奥村和一氏の記述がある。
 1945年(昭和20年)8月15日。この日の早朝、第一軍独立混成第三旅団陸軍兵長の奥村和一は、八路軍に対する討伐作戦のため寧武の大隊本部を出発した。空は晴れていたものの、いつものように黄砂が視界をさえぎり、昼なお暗い行軍だった。
 ふと上を見上げると、おそらく農民のものであろう中国人の首が電線に点々と吊るされていた。八路軍に鉄道を爆破された腹いせに、日本軍あたりが農民にスパイの嫌疑をかけて処刑したものだ。
「見せしめか・・・」
 凄惨な光景だ、もはや奥村に何の感受も沸き起こらなかった。討伐に出るたびに見かけるため慣れてしまったからである。入営してから10ヶ月、すでに奥村は、人間を一個の物体としてみなして処理する”一人前”の兵士になっていた。
 歩きながら奥村は、半年前に行われた訓練のことを思い出していた。うしろ手に縛られた中国人を銃剣で刺し殺す。上官たちはこれを「肝試し」と呼んでいた。最前線の戦場で躊躇なく敵を殺せるように、中国戦線の日本軍は初年兵の仕上げとして新兵たちにこうした訓練を命じていた。
 最初はあばら骨に当たるばかりでうまくいかなかったのだが、何度目かの時にスーッと心臓に入っていった。
「ああ、俺にも人殺しはできるんだ。これで一人前の兵士になれた」
 今年(2007年)83歳になる奥村は、かつての記憶をこう語った。
という具合です。日本兵たちはこうして人殺しを躊躇なく殺人マシーンに育っていくことが分かる本書の記述でした。戦中の日本軍の加害につながる記述は本書においてはたったのこれだけです。
戦後も山西省の日本軍は閻錫山の山西軍の一部(第一軍では"特務団"、閻錫山の側では当初"鉄道修理工作部隊")として(実態は命令系統も含めて日本軍のまま残っていた)、山西省に駐屯し、八路軍と闘い、戦後も戦争を続行した。
残留日本軍の団長の早坂元大尉の記述が本書にあるが、奥村氏のいた独立第三旅団において、こともあろうに敗戦した次の年、昭和21年2月に、兵団内において戦技武技競技会というのを行っていたのである。山西省において、日本軍は上から下まで命令を下達させる厳格な規律が守られていた。
人民日報の中国側の調査において、山西省において戦後も日本軍の慰安婦制度が戦中のそのままに存続したというのは頷ける話です。

敗戦後も中国では日本軍は戦争を続行した。というのも、国共内戦が勃発し、国民党軍、八路軍、どちらの側の軍隊が敗戦後の日本軍(傀儡軍を含む)の武装解除を行うかが問題となった。国際的な慣習では、降伏部隊の武装解除は、そのとき対峙していた部隊によって行われるが、そうなると日本軍を武装解除するのは戦線の大部分で戦っていた八路軍ということになります。蒋介石の国民党中央軍は奥地に逃げ込んでいた。八路軍よりも先に日本軍を武装解除しようとしても間に合わないので、敗戦後の日本軍に対して、「日本軍は、わが軍が指定した部隊が到着するまで武器をもって治安にあたれ、共匪が攻めてきたら撃退しろ。もし、占領区の一箇所でも共匪に取られたら、日本軍の責任で奪回しろ」という通達を出したのです。
さらには戦後の陸軍司令部の混乱などがあり、「一切の武力行使を停止すべき」という命令が支那派遣軍の緊急措置としての自衛行動を例外として認めたことがあり、拡大解釈されていって、中共軍(八路軍)に対して「断乎鷹懲すべし」という戦争中の積極的な命令となって前線の部隊に伝えられたのです。そうして、厚生省援護局が昭和39年3月1日付で作成した資料「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」によれば、昭和20年8月15日の敗戦以降においても、満州を除く中国全土で戦死した日本軍将兵の数は5万人にも達しているという。
それ以上に皆様に想像していただきたいのは、八路軍との戦いにおいて住民が巻き込まれたのはもちろん、日本軍兵士たちの女性への強姦や住民の虐殺といった加害が将兵が5万人死ぬ戦後の戦争においても各地において行われたということです。

本書のp131に
 8月、大原近郊の彭村に駐屯する第三団に出撃命令が下された。目的は、共産党軍が大原東南部の奉陽県一帯に集積している小麦などの食糧の略奪だった。忻県、大同の攻防戦で残留日本軍の戦闘能力を再確認した閻錫山は、敵の攻撃をも待つばかりではなく、こちらからも打ってでることにしたのである。この作戦には第一団、第四団も参加し、全体の指揮は岩田清一参謀が執ることになった。
(中略)
 どこから襲ってくるかわからない緊張感に耐えながら、各団は食糧強奪の任務を果たすため部落の掃討を続けた。
とあります。本書には淡々としか書かれていませんが、その食糧強奪のための部落の掃討中、その残留日本軍の部隊が部落の住民の虐殺や女性への強姦などの犯罪を犯したことは容易に想像できます。残留日本軍は国民党軍(山西軍)の一部隊として行動していますが、この戦後の食糧強奪の作戦時においても、命令系統を含めてそのまま残っており、戦中の中国戦線時の日本軍の冷酷残忍な体質をそのまま受け継いでいることは明白でしょう。"戦後"における国共内戦時の日本軍の加害という側面もそっくり抜け落ちています。

最後に山西省残留日本軍問題について話そうと思います。山西省に残留し、生き残り、中国での服役を終えて残留日本兵らは帰国するのですが、そこに待っていたのは国からの酷い仕打ちでした。映画でも主役として出演されている奥村氏も昭和29年に帰国されているのですが、終戦の翌年の昭和21年3月15日に「現地除隊」として、軍籍抹消になっていました。その間(戦後の内戦で残留日本兵として戦闘していた時期も、中国側の捕虜となって抑留された期間)の軍人恩給は支給されません。それだけではなく、中共帰りとして公安の刑事にマークされて、ろくに就職先も見つけることが出来ないという有様でした。シベリアの抑留者は、日本に帰国するまでの軍籍を認められたのに対して、あまりにも酷い扱いだと私は思います。国はこの問題を取り上げるために国会に設置された委員会の場でも裁判においても、"個人の意思"で残留したものであるという意見を曲げませんでした。
 真相はそうではなく、北支那派遣軍第一軍の澄田司令官が"戦犯"訴追を免れるために、自らの部下である将兵らを閻錫山に売ったのがその事実です。祖国復興、天皇制護持と戦犯を救うという名分までも加えられた軍命が下され、結果として2600人もの兵士が山西省に残留し、4年間も八路軍との戦闘を継続するのです。
 澄田司令官は戦犯を免れるために閻錫山と密約を交わし、残留を画策したこと。残留を命令しておきながら、国共内戦の形成が不利になると、自ら閻錫山の援助を得て、早々と帰国すると言うあるまじき狡いさ、あくどさといい、さらに残留問題の委員会の場で、軍民全員の帰還の方針を徹底したかの真逆の嘘を平然と語る厚顔無恥さには声もでません。日本社会の無責任、嘘、偽り、二枚舌、不正・腐敗に塗れた体質も戦中から戦後、現代と一貫して続いているのだろうなと改めて思います。
 この地点においては、閻錫山と戦犯容疑を逃れるために閻錫山の残留の画策にのった澄田軍司令官ら、第一軍の幹部が悪いという印象しか受けず不十分ですが、本書においてはほんの少しですが、山西省残留の問題はもっと根が深いものだということが言及されています。
 ポツダム宣言に違反する第一軍の山西省残留の動きを、敗戦翌年 21年の3月までに日本政府(第一復員省)に伝えられて、日本政府が知っていることを本書の118〜120頁に記述されています。著者は、単に第一軍の山西省残留が単に第一軍首脳の戦犯逃れといったレベルを超え、「反共」の旗印のもと、大本営や日本政府、占領国アメリカの連合国軍総司令部(GHQ)の一部了解の元に進められたのではないかと著者は言及していますが、本書ではその辺まで深く書かれていません。
 残留させられて戦わされた将兵らにも同情しますが、それ以上に残留したことにより、国共の内戦が長引き、それにより多くの中国の人々が巻き込まれ犠牲になったこと。さらには、日本軍部隊が残留したことにより、慰安所が継続され、そこでもさらに戦後も少なくとも2年間(日中戦争期を含めて10年間)も多くの女性たちに対する監禁レイプが続いたこと。戦中の東洋鬼子の鬼畜体質の残留日本軍部隊が4年間も戦争を継続して行っていく中で、住民への虐殺や加害、そして女性への性暴力といった中国民衆に対する加害が行われ、その被害や犠牲のことを考えると胸が痛くなります。残留日本兵らが戦中に犯した罪、さらには全く触れられていない戦後、国共内戦で山西軍のもと戦争を継続する中で犯した罪についてももっと本書の中で記述されるべきでした。

 この山西省残留問題ひとつをとっても、加害歴史の根が深いことが改めて感じさせられました。敗戦以後も継続しており、薬害エイズや派遣問題のように、日本という国家や社会、大企業などが"人間"をモノのように"使い捨て"にする体質が続いている通り、大日本帝国が終わっても、その大日本帝国の残滓やそれより受け継がれた体質が引き起こす、数々の加害の連鎖はまだ終わっていないのです。こういった加害の連鎖を終わらせ、大日本帝国の残滓を駆逐するためにも、一刻も早い、良識派が一致団結した加害歴史の清算が求められるのだと思います。
何度もいうように、今ある日本社会の問題の根源には、大日本帝国の加害の歴史を断ち切れず、戦後も一貫して継続してきた事実があります。今ある日本社会の諸問題を解決する方法はただひとつ、過去の加害の歴史の徹底した清算しかありません。このことは何度も強調しておきます。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 16:56 | Comment(6) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月02日

南京事件、笠原十九司著 岩波新書 南京事件について

お正月でようやく休めるかとおもったら、読み終わった感想ですが、1つに素晴らしいですね。南京事件という人類史上最大の惨事を歴史的に、または学問的に深く考察され、まとめられた本だと思います。
南京事件といっても、いまだに否定する自民党のアホ右翼連中のような醜い物体の出現が絶えません。戦後直後、焦土となった日本で悲惨な酷く窮乏を強いられた敗戦体験から戦争被害者という感情が強く形成されていたのでしょう。戦時中は厳しい報道管制や言論統制によって知らされることは当然ありませんでしたが、戦後も似たような報道官製および戦後の敗戦体験も合わさって、無意識にそういう過去の汚点の事実に目をむけて直視することを避けていたのです。戦後直ぐに米ソ冷戦が始まり、連合国にとっても大日本帝国の戦争犯罪を追及し続けることに労力を避けなかったのと、冷戦の中で自らの陣営に日本をひきつけておくことも重要視されたこともあり、多数の戦争犯罪の事実が日本国民の前に明かされることはなかったのである。
少し脱線したが、本書は多数の一次資料を用いてあり、中国側の資料はもちろん、旧日本軍側の資料や元日本兵に至るまで幅広く取り入れてあります。
 日中戦争の歴史は1937年7月7日に盧溝橋事件が起こります。1937年8月13日には第二次上海事変が起こります。その2日後に日本軍が南京を宣戦布告なく爆撃します。皮肉なことに、その8月15日というのは日本の敗戦記念日と重なってしまうのですね。
 その爆撃というのは卑劣なもので軍人と市民に多数の死傷者を出しました。その爆撃は交戦法に違反したもので、宣戦布告もしていない中国の首都南京を爆撃したのは戦時国際法「開戦に関する条約」に違反。また非戦闘員を死傷させたこと、および非武装地域へ爆弾投下を行ったことは同法の「陸戦の法規慣例に関する条約」に違反。このような卑劣な国際法に違反した南京の爆撃が南京事件の前史となし、南京市民の受難の幕開けであったのである。
 海軍航空隊による渡洋爆撃と称する爆撃は頻度を増して南京へ続けられ、中国の大中小都市各地にまで及んだ。日中戦争における侵略は日本陸軍に目を向けられがちだが、1937年の時点では、参謀本部では上海の占領に限定し、内陸に侵攻しないように必要以上の拡大を避けようとしていたのに対し、海軍は中国の各地を爆撃したように、陸軍に先立って中国の屈服と敗北を目的とする日中全面戦争に乗り出していたという風な事実は意外だった。その後、第二次上海事変は上海派遣軍と中国軍の精鋭部隊らとの激しい戦闘が行われ、1937年第10軍の杭州湾上陸、第16師団の白茆口上陸によりようやく決着をみる。その後上海戦の消耗や疲弊を癒す暇なく南京へ侵攻し、あの忌まわしい南京事件を引き起こしていくのである。
 本書では海軍と異なり陸軍は拡大派と不拡大派に分かれて抗争していたこと。拡大派の中心には参謀本部第一作戦課長武田章大佐と不拡大派の中心には同部第一作戦部長石原莞爾少将にはいた。当然後者が前者を駆逐していくのであるが、武田氏よりも石原氏のほうが軍人としての階級も地位も上である。階級も地位も上である上官が不拡大論を主張しているならば、通例ならば自分の拡大論を改めるか引っ込めるべきだったが、武田氏は拡大論を主張し不拡大派の石原氏を押し切ったのである。陸軍内部には下克上というのが一種のブームとなっていた。石原氏が中央の命令を無視して満州事変を主導し、成功を収め、作戦部長という地位を得るに至ったが、自らの行為によって助長した下克上に直面するという皮肉である。
 南京事件というのは本書を読んで想像を絶するものだったといわざる負えない。原因としては

・「支那鷹懲」という根本にある精神
「支那鷹懲」というスローガンは軍部によって、日中戦争の目的として掲げられたが、これほど勝手に解釈される不明確な戦争目的はなく、政府、軍中央、果ては現地軍指揮官らによって勝手に解釈され、日中戦争の目的は絶えず拡大し、不拡大の枠を守ることを困難にした。参謀本部の統制にしたがわず、上海派遣軍が独断専行で南京攻略戦を開始したことを国民やマスメディアが支持する上で大きな役割を果たした。南京やその進軍過程などにおける残虐行為における役割として、
 

この残敵掃蕩、つまり敗残兵として残っている者を皆殺しにするという戦法は、敗残兵が一般民衆の間に逃れえた場合は、民間人を巻き添えにして殺害することになった。日本政府・軍部が日中全面戦争の口実にした「支那鷹懲」という思想そのものが、天皇の軍隊=皇軍に対して屈服してその配下にくだらないものは、武力で征伐し、討ち懲らしめるというものであった。それは中国民衆が生きて生活する場所に侵入し、彼らの生活を破壊しておきながら、日本軍に敵対したり、あるいは協力しない民衆を見て、さらに抗日的と疑うだけで「鷹懲」してしまうまでになった。(本書p96より)

という風に、「支那鷹懲」というスローガンが南京事件をはじめとする日中戦争における日本軍が中国の民衆に対する残虐行為を行って行く中で果たした役割は大きい。
・南京攻略戦は当初は予定していなかったこと
南京攻略戦は参謀本部の作戦計画にもともとなかったため、南京を陥落させた後の次に移すべき明確な作戦が陸軍中央にはなかったのである。国民政府と停戦・和平を目指す勢力、国民政府を屈服させて傀儡政府で変えようとする勢力、拡大派と不拡大派の対立があり、意思統一がなされていなかったことが数々の無策とそれにより引き起こされた南京事件の原因のひとつである。

・予期されていなかった日中全面戦争と戦争の長期化、それに伴う兵員の急速な水脹れと将兵の訓練・教育不良
日中全面戦争が長期化し、陸軍中央は抵抗が激しくここまで手こずるとは考えていなかった。急遽、予備役兵を召集し臨時の特設師団を編成するに至ったのだが、当然軍隊の装備も将兵の教育・訓練も不十分なままのにわか作りの部隊だったのである。住民への略奪、暴行、強姦などに至る軍規頽廃が著しく、日本軍の匪賊化が進んだ要因の1つである。

・後方支援部隊(兵站部隊)がなく、「現地調達」をあてにした進軍だったこと
中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦だから、上海派遣軍だけの場合、上海周辺だけ載狭い想定していたものだから、各兵站部は当然貧弱だった。しかも、上海というより狭い範囲でさえ、食糧・軍需品を供給する兵站機関が混乱していて、住民から略奪し、暴行に及んでいたのである。上海を占領してまもなく独断で始めたものだから、兵站部隊を整備する時間もない。なおさら、南京攻略戦における前線部隊は現地調達を余儀なくされる。

・上海戦に続く南京攻略戦に連戦への憤怒と憤りが中国軍民への敵愾心となって現れたこと
1937年11月の中旬には上海全域を制圧した。兵士たちの多くは予備役兵・後備役兵で、妻子を残した出征であったのだが、上海戦が終われば帰還できると思いきや、そのまま南京攻略戦に駆り立てられ、兵士たちの中に大きな不満や憤りが生まれたのに違いない。それが逆に中国軍民に対する敵愾心の形で現れ爆発したのである。特に中沢三夫大佐率いる第16師団が特に酷かった。第10軍に属し、華北から転戦させられてきたのだが、華北でも戦い犠牲を強いられ、転戦の負担にもかかわらず、途中から投入された上海戦では継子扱いさせられ、物資ばかり兵要地誌さえもまもとに与えられず行き当たり式に戦闘を命じられた挙句、こきおろしされて、さらに南京進軍へ駆り立てられたというのがその理由である。
・各部隊を挑発し、南京一番乗りに向けて競争させ、煽り立てたこと
拡大派の武藤参謀副長は参謀本部の統制に反する形で南京攻略戦を独断専行で進めたので、一刻も早く南京急進撃を成功させる必要があった。進撃が停滞した場合は、南京攻略が反対している不拡大派の幹部に前進停止を命じられる可能性があったためである。手段は疲労した上海派遣軍を挑発し、第10軍と「南京一番乗り」を争わせることだった。上海派遣軍と第10軍の競争になるわけだが、当然それぞれの軍は指揮下の各前線部隊に「南京一番乗り」を煽ったのである。ただでさえ、兵站が崩壊しているのだが、それを強行軍でやるわけである。ほとんどが現地の調達になり、略奪に伴う強姦や暴行などが増えるのも必然だった。「南京一番乗り競争」進軍に伴う被害として波状進撃に伴う被害も深刻だった。前線部隊が各師団の先頭部隊や主力部隊、後続部隊にバラバラ(波状)に進軍していったのだが、さらに遅れて補充員部隊の波状進軍があったのである。上海での日本軍の損害が甚大であったため、各部隊とも多数の補充を必要とした。このためつぎつぎと補充員部隊がのちに各前線部隊へ送られていくことになるのだが、本体の指揮に入るまでは臨時のために、明確な指揮系統はなく軍紀もなきに等しかった。中国人をかってに徴用し、勝手に食糧の略奪を繰り返しながら、任意集団として南京へ向かった。前線部隊よりも指揮系統がなかった分、軍紀が弛緩し、残虐行為の数々は前線部隊よりも上回ったのである。

・中支那方面軍司令部が配下の全軍を統括統制する機関を備えていなかったこと
大本営は1937年12月1日、南京攻略の独断専行を正式承認し、戦闘序列が正式に下命され、上海派遣軍と第10軍よりなる中支那方面軍司令部が正式に発足するが、指揮下の全軍を統括する兵站機関をもたない正規のものではないことにはかわりなかったのである。南京攻略戦の作戦指揮だけをして、軍隊の食糧・軍需品の補給、将兵の軍紀風紀の取り締まりも、傷病兵の救助・治療も、上海派遣軍・第10軍および各師団の責任に任せるという、無責任なものだった。中支那方面軍司令部が指揮下の全軍を統括・統制する機関と権力を一切備えていなかったことが、南京とその攻略における残虐事件の数々を発生させる要因のひとつとなったのである。上海攻略戦の時点で軍紀頽廃が著しかったので、なおのことである。

・上海、杭州湾より続く、仲間の犠牲とそれに比例する中国人に対する復讐心と敵愾心
上海、机州湾から戦闘と殺戮を繰り返してきた日本軍の将兵は、仲間の犠牲が増えるに比例して中国人に対する復讐心、敵愾心が高まっていた。残虐行為にも慣れ、民衆に危害を加えることも躊躇しなくなっていたのである。南京陥落後の捕虜虐殺では「戦友のかたき」「憎い敵」という激しい敵愾感情というのも背景に存在する。中国の民衆からすれば殺人鬼ならぬ「日本鬼子」「東洋鬼」以外のなにものでもない。

・農村部の心理的性犯罪行為を行いやすい環境
農村部では、村落が孤立し、人家も分散している上、土塀や石垣で囲まれて農家の家構えが密室状態になっていたこと、あるいは婦女子が山野や田畑に逃げ隠れているところを発見された場合、街中や往来と異なり心理的に性犯罪行為をやりやすかったこともあって、農村部では凌辱された上殺害される強姦殺害が多かった。もちろん、街中や往来でも多数の強姦及び強姦殺害は行われた。無数の女性が性の恥辱と生命の剥奪という二重の犠牲を強いられたのである。
・強姦行為などの兵士の犯罪を取り締まる憲兵がいなかったこと
これはよく言われていることである。強姦や略奪、殺戮、放火、暴行などを禁止する注意事項というのは下達されてあったが、それを取り締まる憲兵がほとんどいなかった。南京入場式直前の1937年12月17日の段階でたったの17人に過ぎなかった。

・残虐行為の放任・黙認
注意事項が下達されてあるし、それ以前に陸軍刑法でも、ハーグ陸戦条約においても禁止されていることだが、無理難題の南京攻略において、将兵の憤怒や反発のガス抜き、はけ口、あるいは慰労という形で略奪および殺戮、強姦といった行為を部隊や上官が放任・黙認しているのである。上海から南京攻略の過程でも、軍の上官らは兵士たちの性的暴行を「兵の元気をつくるに必要」という理由で黙認する傾向があった。南京陥落後は、多くの部隊が南京城内に進駐するなかで、勝利者、征服者の「特権」という形で略奪や殺戮、強姦などの不法行為に走るのを黙認・放任されたのである。
・南京陥落後、兵を城内に駐屯させたこと
軍紀弛緩の上、戦場の狂気をもった兵隊が市内に放てば、悲惨な不祥事が起こるのは当たり前である。
・入城式の挙行とそれに伴う掃蕩作戦による犠牲
中支那方面軍が陸軍中央の統制を無視して強行したのだが、ついには大元帥の昭和天皇から直々に「御言葉」を下されるまでに至ったのである。掃蕩の関係上、12月20日以後を申し入れていたのにも関わらず、17日に強行した。もちろん、入城式は式場はもちろおん、城内、城外であっても敗残兵や便衣兵によるゲリラ活動があれば皇軍の威厳を損ねることになる。その上、上海派遣軍の朝香宮鳩彦王中将は皇族であり、天応の軍隊の象徴である皇族の司令官に万が一のことがあれば天下の一大事である。17日に入場式を挙行するため、南京城区ではなく近郊農村にまで及んで過酷な「残敵大掃蕩作戦」が展開されて、虐殺される軍民の犠牲を一層大きくしたのである。

・敗残兵狩りのため、難民収容所や民家の隅々まで捜索に入ったこと
当然民家の奥に隠れている婦女子と日本兵が接する機会が増える。押し入った部屋の奥に隠れていた婦女子を発見し、強姦し、輪姦に及ぶことになった。

以上が原因として挙げられるところである。
他にも書きたいところがあるが、触れる時間はなく省略しておく。
南京事件は大量虐殺もそうだが、強姦が大日本帝国の加害歴史、いや人類が誕生して以来歴史上これほどまでに行われたことはないだろう。ヴァーリントン氏らをはじめ安全区国際委員会らの外国人らが彼女らを救うために健闘した。

 酒に酔っ払って、凶暴化した兵士が強姦や殺傷をおこなう場合が多く、彼らの残虐行為を止めにいくには、命の危険がともなった。安全区国際委員たちは一人でも二役も三役もこなしながら、日本兵と「たたかい」を続けた。日本軍の入場式前後から激増した強姦事件が、1日千件以上も発生し、最初の1週間で8000人以上の女性が犠牲にされるなかで、彼らは婦女陵辱にたいする闘いに大変な時間をついやした。
 被害の大きさを考えればイタチごっこの観もあるが、通報され救助を求められた現場を駆けつけて、強姦行為を阻止すること、強姦により傷害を負った女性を病院に運び治療させること。そしてもっとも多かったのは、強姦された女性を早く病院へ連れて行き、妊娠しないように膣の洗浄をさせること、などであった。夜は夜で婦女の難民の近くで警備しながら寝る必要があった。(本書p198〜199)


といった具合である。他にも書きたいところがあるが、時間がないのでやめておく。南京事件の記事を書く中で思ったのは、中国政府が発表する犠牲者30万人も過少ではないかと思えてくる。南京周辺の近郊の農村や街でも残虐行為は繰り返されており、そうした犠牲も含めれば30万人ではすまない。改めて思ったのは先の戦争における女性の被害の大きさである。1938年3月28日の傀儡政府である中華民国維新政府が成立してからは治安がほぼ回復し、一応の終結をみるが、日本軍の慰安所が設置されて おり、おそらく終戦の8月15日に至るまで女性の犠牲は続いたのであろう。
 今回南京事件について本格的に記事にするのは初めてであり、右翼を討伐し、歴史修正主義に反対するブログとして南京事件をテーマに出来た記事をかけてのは幸いである。忙しい中でもっと大日本帝国の加害歴史を勉強し、そういうテーマに取り組んでいきたい所存です。末永く応援していただけると幸いです。

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2008年01月03日

もの食う人びと 辺見庸著 共同通信社にみる日帝悪 part2従軍慰安婦被害者 金福善、李容洙、文玉珠さんについて

もの食う人びと 辺見庸著 共同通信社には、辺見庸氏が従軍慰安婦被害者、金福善、李容洙、文玉珠の3氏を訪ね、インタビューしました。そのことが本書に載っています。本書p311〜329の"あの日あの記憶を殺しに"より取り上げて紹介したいと思います。大変長くなりますので、続きを読む 以後をクリックしてお読みください。続きを読む
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もの食う人びと 辺見庸著 共同通信社にみる日帝悪part1 ちょっとした本書の感想とミンダナオ島における残留日本兵における人肉食の話 

あけましておめでとうございます。今年の第一歩として、書籍に見る日帝悪シリーズを久々にエントリーしたいと思います。
 もの食う人びと 辺見庸著 共同通信社を読みました。この本は1994年に出版されたもので、12〜13年前の本である。この本に書かれている日帝悪の部分を抜き出したいと思います。共通通信の記者である辺見氏が世界各地を旅をして、出会った人と、その人々が何を食べていたか、というのを取材執筆し、ルポタージュという形でまとめた記録である。ただし、グルメ本ではなく、生きるためには、万人共通なのが食、食そのものに付随するさまざまなドラマがあることを思い知らされた著作だった。多くの国を訪れ、食を通して現代世界の皮肉な現実を伝えている。
 著者はバングラディシュのダッカの駅前広場の屋台で知らず知らずに、残飯を口にしたりしている。骨付きカルビを喰おうとした瞬間、現地の人から止められた。肉に他人の歯型があることに気づき、思わず皿を放り出す。その皿を奪い取り、残った残飯の骨付き肉にわき目も振らず噛み付く少年。少数の富めるものは、本書にはそれを"残飯リサイクル"と書いてあるが、大量に輸入しては喰い残す日本の現状を考えさせてくれた。
 ミャンマーの軍事政権が西部のイスラム教住民へ迫害をはじめ、多数の難民がバングラディッシュに流入するということがあった。当初、周辺部の村人は同じイスラム教徒ということもあって、毛布や食料を持ち寄るなどして親切にしたという。国際赤十字などが本格的に食糧援助を開始したら少し気配が変わった。配給された食糧が同程度以上のものだということが村人は知ると、急によそよそしくしたのだ。難民たちは配給された食糧では何もできない。食糧を調理するためには、薪(燃料)がいるのだ。妬みを抱く住民はわかっていない。薪は治安上の理由で配給はされていないので、配給された食糧を物資を売って手に入れる。薪だけではなく、さらにちゃんとした料理(本書では魚のカレー煮としている)を食べたいために、その材料を仕入れなければならない。しかも村人の言い値で買わないといけないという事情もあり、配給された食糧はどんどんと減っていくのである。実際には恨まれるほどは食っていないし、ミャンマーに戻るに戻れない。食糧を減らしたくないために、せめて薪だけは自分たちで調達しようと山の木を折る。はげ山もできる。村人たちに言わせれば、"働かずに食糧をもらっているだけでなく、山の木を折っては、根っこまで引き抜いて燃料として持っていく"ということになる。お互いの事情が真に理解できず、感情は行き違い、食料に絡む妬みが恨みへと変わっているという皮肉な現状があった。良かれと思って国際社会が行った慈善援助が、時に大きな問題をもたらすことになるのであろう。生きるために誰もが欠かすことができない"食"だけに、それが生み出す問題も多いということなのだろう。
 チェルノブイリの移住禁止地帯の故郷に疎開先から余儀なく戻ってくる老人たち・・彼らは、放射能で汚染された森のキノコや魚、リンゴを食う。外国からの援助が来ても食べずに、一生懸命何とか縁をつなぎとめるために、疎開先の孫に送ったりしているというという話、村の小学校で586人の生徒のうち289人が両親か片親をエイズで亡くしているという、ウガンダでのエイズの話など、他にも私が考えさせられることがたくさんあった。飽食の日本の中で、普段"食"というのをあまり日常の中で考えることはないかもしれません。
 前置きが長くなりましたが、本書にみる大日本帝国の加害事実を取り上げていきます。
ミンダナオ島の食の悲劇(p43〜53)より、ミンダナオ島の残留日本兵による人肉食事件を取り上げます。フィリピン・ミンダナオ島カガヤンデオロ市から南東に約90キロのキタンラド山中に、著者ととある老人はいた。その老人はアルハンドロ・サレといい、農民。第二次世界大戦でアメリカからシルバー・スター勲章を贈られたこともある元フィリピン軍大尉であった。著者はその老人に、残留日本兵が1947年まで潜んでいた現場まで案内してくれるように頼んだという。

私は三度も転んだ。老人は一度しか転ばなかった。抗日ゲリラ戦当時の山歩きと退役後の農作業で足腰が鍛えられている。 
 夫人はタフなこの老人を時々おどけて「タイソン」と呼ぶのだという。マイク・タイソンのタイソンだ。私がこけるたびに、"タイソン"は、ほっほっほと笑う。 
 泥だらけの私をしりめに、老人が野の草を引き抜きはじめた。 
 アザミみたいな花をつけた草。ドゥヤンドゥヤンというのだそうだ。「連中(残留日本兵)はこの草とあの肉をいっしょに煮とったよ」 言いながらドゥヤンドゥヤンの花をむしっている。泥道に、血のように鮮やかな朱色の点が散らばった。
(p44)
老人といってもものすごく鍛えられているようである。体のほうがしっかりしているということは、頭の記憶のほうもしっかりしているということだろう。あの肉というのは、後にでてくる人肉のことである。
 途中に掘っ立て小屋があった。
 「ここからも農民が連れていかれた」 老人がつぐやく。 
 ふもとのインタバス村まで私を乗せ、そのまま同行してきたトラック運転手が「行き先は皆連中の鍋のなかだよ」と冗談でなく言った。
(p45)
具体的に日本軍による被害の証言がでてきた。アジア・太平洋の占領地の各地、住民虐殺や強姦、性奴隷制度だけではなく、日本兵による人肉食もあったのである。特にフィリピンやニューギニアの例は有名だが、日本兵が現地住民を狩って、食っていたという人肉食の蛮行はもはや公然の事実である。しかし、そのことは最もタブーとされ、強姦や慰安婦制度以上に日本社会では伏せられている。
 老人がぽつぽつと語りはじめた。 
 この山一帯に潜んでいた旧日本軍第14方面軍所属揚陸隊の高官(すでに死去)の子息が、74年ごこからわざわざ老人を訪ねてきたので、この小屋まで案内したという。
 「あの話」をしたかどうか、私は聞いた。
 「しないさ。子供にするわけがない」老人は顔色も変えず、答えた。
(p45)
なぜ、訪ねにきた旧日本軍戦没者の子息に対して、日本兵の人肉食について話さなかったのだろうか。日本社会の反動、侵略戦争・戦争犯罪否認否定論が後を絶たない理由の一つが分かった気がする。海外に慰霊にでかけた戦没者の子息がこういった加害の話を持ち帰ってこないからである。現地の人にこういう話をされても、無意識に自分の心の奥底に封じ込めてしまうというケースもあるだろう。あるいは、慰霊事業が現地の収入源になっている事情もあるのかもしれない。
 フィリピン人の同僚が私の会社にいるが、なかなか過去の戦争のことについてしつこく聞いても話してもらえなかった。粘って粘って、祖母が日本兵にレイプされた経験をもつことや日本軍の元で働いていたお爺さんが捕らえて拷問して殺した抗日ゲリラの死体を切り裂いて食ったのを目撃したという戦慄の日本兵の人肉食の話をようやく聞きだすことができた。したがって、現地の人がわざわざ遠くから訪ねてきてくれたご子息を気遣って、こういう加害、とりわけ日本兵に身内や住民が食われたなどという話をしないということも多いのではないかと思う。私はこの点、サレ老人を批判するし、こういう配慮は最も無用のものだと思う。まあ、話を戻して続けると
 掘っ立て小屋から先の密林地帯には、この揚陸隊員30数名の投降(47年2月)以来、日本人はだれも入っていないという。登るのがかなり難しい。
 老人が「それでも行くか?」と問うた。
 事件から46年。現場を見たところでどうにかなるわけでない。が、見たかった。
 濡れぞうきんのようになった体を引きずって、どこにも道筋のない勾配を登った。木のとげで腕を擦りむいた。ヤマビルが張りついている。やぶ蚊にも刺されどおしだった。
 「ゴーゴーゴー」と老人は私に気合をかけた。
 「謎なんだな」
 老人が立ち立ちどまって独りごちた。
 残留兵たちが栄養失調状態にあったのは事実だろう。が、46,7年当時、山 には野豚も猿もいた。山を少し下れたガビ(里芋)も生えていた。
 残留兵たちには銃も弾薬もあった。タンパク質がほしかったら動物だけを撃てばよかったのではないか。動物がだめなら、栄養豊富なガビだけでも相当生きられるのに。あれを、しかも数十人も食ってしまうなんて・・・。
 それがいまでもどうしても謎だというのだ。
 戦争とそれに伴う極限状況が人類最大のタブーを破らせた。
 私は疲れた顔でそう考えていた。同時に、この一般論はどんな戦争犯罪にも当てはまっているけれども、老人の言う謎への正確な答えにはなっていない気がした。
 「投稿してきた時、彼らはけっこういい体つきをしとったな」
 老人は続け、ほっほっとまた笑った。攻めるでも皮肉でもない声音である。ただ、なにごともあきれるほど陽気に話す人なのだ。
(p45〜47)
残留日本兵たちが人肉を食った理由である。食糧もなにもない極限の状態だったら、起こりえることである。アンデス山中の墜落事故で、乗客たちが人肉食をして生き残ったというエピソードは有名である。人間が人間を食うという状況は極限のものだろうが、そもそもこのフィリピン残留兵による人肉食のケースには当てはまらない。食糧があったのである。タンパク質が欲しいのであれば人肉でなくても、その辺の動物を捕らえて食べればいいのである。動物が無理でも、ガビというフィリピンの粘り気のある芋もあったのだ。
著者の言うとおり、戦争とそれに伴う極限状態により引き起こされたという一般論だけでは、この残留日本兵による人肉食を説明するのには不十分である。なぜならば、大日本帝国・日本軍、天皇ファシスト体制の軍隊がもちうる特有の暴力的教育システムによるものである。日本軍将兵の没個性化、残虐性、人格・人間性の荒廃が極限にまで進み、敵兵も捕虜も非戦闘員、女も子供も幼児も見境なく殺し、犯す殺人マシーンと化した。そして、惨めなその成れの果てが住民を見境なく撃って狩って人肉を貪り食う残留日本兵である。侵略戦争を遂行し、大日本帝国天皇ファシスト制度の日本軍の比類なき軍隊暴力システムが生み出した必然である。
 1500mほど登り、うっそうとした樹海に入ったところで、著者は疲労のためへたりこんでしまうのだが、そのとき老人は叫んだ。
「あそこだ!」 老人の太い指が、谷を隔て4,50メートルほど先の尾根を指している。
 だが、なにも見えない。原生林のあいだの、丈の高い草しか見えない。近づこうにも、急な崖でとても行けそうにない。回りこむにはふたたび樹海を抜けなければならない。
 フィリピン兵の攻撃を逃れ、潜むのには格好の場所だったのだろう。そこは、しかし、人が存在するにはあまりにも厳しく、5分もたたずむだけで孤絶感で震えがくるほどの空間だた。
 敗戦を知らず、あるいは信じようとしなかった者たちに生じた心の乱れが、ここまで苦労して登ってきて、はじめて少しなぞれる気がした。胸が締めつけられた。
 あの尾根に残留日本兵の小屋が5つあったという。
 47年のはじめに老人の率いる兵が急襲した時、野の草とともに調理されたその肉が、鍋と飯盒に入っていたのだ・・・・。暗い樹海に老人の声がやけに大きく響いた。
 マニラで読んだフィリピン公文書館所蔵の戦争犯罪裁判(49年)の英文記録を私は思い出していた。揚陸隊兵士のうち十数人の供述がいま、うめき声になって聞こえてくる。
 「私は食べました」
 「私も食べました」
 私だったら、どうしたか。食べずにいられたか。
 この仮定はばかげているだろうか。思いにふけっている時、老人は沈黙を破った。
 「私もあれを食べてしまったのだよ」
 わが耳を疑い、私は「え?」と問うた。
 「私も食べてしまったのだよ」 目の前の陽気な老人が、人を食べたことあると告げている。しかも、馬肉でも食べたと言うように、さらりと、こともなげに。
(p47〜48)
著者はさらに、奥地に進み、残留日本兵の潜んでいた場所にたどりつく。私は日本人が人肉を食う蛮族だとは思わない。残留日本兵らも元は普通の百姓だったり、学生だったり、家族を持つ父だったのだろう。だが、大日本帝国は揚陸隊兵士たちを見境なく殺し人肉を食う蛮族に変えたのだ。改めて大日本帝国という存在に激しい怒りを覚えた。
 揚陸隊兵士が潜んでいた現場を指して、なぜ食べたのかを、サレ老人は語りはじめた。
 1947年はじめの残留日本兵掃討作戦の最中だった。
 未明の急襲で、現場は暗かった。日本兵は逃走した。
 小屋近くの鍋にまだなま温かい料理があった。サレは当時20代の食い盛りだったし、朝食をとらずに出発したので空腹だった。
 鍋の肉を5切れむさぼり食べた。
 「まだ若い犬のシチュー」だと思った。ちょっぴり塩辛かった。
 日光が射してから、耳、指の形で人だとわかった。木の下に人の頭部もあった。
「胃のなかのものを吐こうとしたんだ。だが手遅れだったな」
 老人はカトリック教徒である。すぐ神父に告白した。まちがって食べたのだから、罪にはならない、と言われたという。
 その「偶然の食」についてのこだわりを、私はいかつい表情に探ろうとした。が、深く隠されているのか、なにも見いだせなかった。ただ、通常はのぞけないある領域をこの人は見てしまっていると思った。
 私は日本兵を何人殺したことがあるか、老人に問うた。
 ぶっきらぼうにサレ老人は答えた。
 「7人さ」
 私たちは無口になって山を下った。
(p48〜49)
偶然にしろ、人肉を食べてしまったサレ老人には酷な体験だったと思う。著者と話した時は平然と人肉を食べたことを言い、若い犬の味だったというが、当時としては寿命の縮む思いをしたのであろう。まさか、残っていた鍋の肉が人肉だったとは思いもしなかったであろう。著者は山を降りたふもとのインタバス村での被害者の証言を聞くことになります。
 ふもとのインタバス村にたどりついたら、村人が6,7人、私を取り囲み、キタンラド山になぜ登ったか問うてきた。
 私はわけを話した。残留日本兵の「食」に少し触れた。
 その時に村人が示した反応を、どのように形容すればいいのだろう。疲労の果てに夢を見ているのかと私は思った。
 村人たちは口々に言ったのだ。
「母も妹も食われてしまいました」
「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」
「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」
「食われた」。この受け身の動詞が、私のメモ帳にたちまち10個も並んだ。
 村人たちは泣き叫んでいない。声を荒げてもいない。押し殺した静かな声だった。なのにメモ帳が「食われた」という激しい言葉で黒く埋まっているのが不思議だった。老人は、戸惑う私を無言でじっと見つめていた。
 49年の戦争犯罪裁判(マニラ)の証言者でもある農民のカルメリノ・マハヤオが、村人の声をまとめた。46年から47年はじめにかけて、この村とその周辺だけで38人が残留日本兵に殺され、その多くが食べられた。頭部など残骸や食事現場の目撃証言で事実は明白になっている。しかし、日本側は一度として調査団を派遣してきたことはない。
 マハヤオは最後に言った。
「でも、忘れないでくださいよ。きちんと伝えてください」
 じつは、事件の概要は92年秋、共同通信マニラ支局により報じられている。しかし、47年以降の残留日本兵の尋問当時から、現代史ではきわめてまれな兵士による「組織的食人行為」として、連合軍司法関係者を仰天させたこの事件の全貌は、日本ではほとんど明らかにされていない。
 なぜだろう、と私は思う。
 事実を秘匿する力がどこかで動いたのだろうか。そうだとしたら、この事件がとても説明がつかないほど深く「食のタブー」を犯していることへの、名状しがたい嫌悪が下地になっていたのではないか。
 戦争を背景にした一つの過誤として、もう忘れたほうがいい。そんな意識もどこかで働いたかもしれない。だが、私のすぐ目の前には、肉親が「食われた」ことを昨日のことのように語る遺族たちがいる。「食った」歴史すら知らず、あるいはひたすら忘れたがっている日本との気の遠くなるような距離。私はひたすら沈黙するしかなかった。
(p50〜51)
文字を通して語られる「食われた」という被害証言。大日本帝国・日本軍の侵略と戦争犯罪を追及する側の私にはズサリと心に突き刺さってくる。フィリピン公文書館所蔵の戦争犯罪裁判記録および、戦争裁判での証言者カルメリノ・マハヤオ氏の調査によって、インタバス村で起きた残留日本兵による人肉食があったことはもはや疑いようがないだろう。この出来事は厳密には戦中ではなく、戦後起こったことであるが、日本兵たちをこのような蛮族に仕立て上げた日本政府に責任があることは明白である。
 しかし、日本政府は一度として調査団を派遣してこない。事実を隠匿する力が働いたのは明白であろう。南京事件をはじめ、身近な中国での戦争犯罪でさえ、本多勝一氏の"中国の旅"のルポが始まった(南京事件から34年後の)1971年まではほとんど明らかにされていなかったのだから。
当然、過去の戦争犯罪・残虐行為について隠避する力は人肉食に限らず、ことさら閉鎖的な日本社会だからこそ強く働くのである。明らかになったらなったらで、臭いものには蓋、責任の所在を曖昧にしたり、転化したり、すり替えたり、あるいは戦争犯罪の事実そのものを否定するような反動的な力が何処からともなく湯水のようにわいてくるのだ。
私はその力の排除に忙しい。戦争犯罪はもとより、東南アジアの占領は侵略だった、朝鮮半島は植民地支配であるという風な簡単な事実にまで、その力は働くのだから。それが日本兵による現地住民への人肉食という食のタブーも合わさることになれば尚更のことである。過去の侵略・戦争犯罪をめぐる問題はものすごく根が深い。フィリピンのインタバス村での残留日本兵による人肉食事件にとどまらない。日本軍に被害を受けたことを話す昨日のように語る被害者や遺族、加害の歴史すら知らず、ひたすら忘れたがる日本との気の遠くなる距離を埋めなければ、アジア・太平洋戦争は真に終戦を迎えることはできないのである。
 サレ老人と私はインタバス村をあとにした。
 道すがら老人は、彼が中心となり遺族らを対象にほぼ半世紀前の事件の聞き取り調査をはじめたことを明かした。日本政府になんらかの補償を求めたいというのだ。
「(元残留日本兵の)個々人については、もう恨んでないのだよ。みんな、いい人たちだ」
 水溜りを巧みによけながら、老人は話した。 老人は残留将兵30数人の投稿に立ち会っている。そのうち10人がマニラの法廷で死刑、4人が無期懲役を言い渡されたが、恩赦で刑は執行されず、死去した隊長を除く全員が帰国したという。その後、キリスト教徒になった人、ミンダナオの村に薬品を送ってきた人、現地入りして村民に謝罪していった人もいる。
 補償要求といっても、人知れず悩み抜いているだろうその人たちには迷惑をかけたくない、と老人は言った。 老人は帰国した彼ら元残留将兵と文通していた。元将校が、日本に語学研修に行った老人の娘の身元保証人になったこともあるという。
(p52〜53)
サレ老人は補償を求めるべく、運動を起こそうとしていたのである。今現在でも調査や補償を求める運動が続けられているかどうかは分からないが、日本は即急に彼らの求める補償に応じなければならないのはいうまでもあるまい。残留日本兵も元は普通の人間だったのである。薬品を村に送ったり、村の人に謝罪をした人、語学研修を言ったサレ老人の娘の身元保証人になったりと、人間性を取り戻し、過去の自分自身の罪を償おうと必死に生きようとする元残留日本兵の人たちがいた。それと対照的に過去の戦争犯罪の事実と何も向き合おうとしない日本政府と日本社会。過去清算を果たし、日本軍が侵略し、被害を与えた国・地域の人々と真の和解が達成される日が来るでしょうか。著者は慰安婦被害者にも取材をしており、Part2ではそれを取り上げたいと思います。Part2へ続く
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 14:44 | Comment(11) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月07日

インドネシア 多民族国家の模索 岩波新書 小川忠著にみるインドネシアと日本

 私が忙しい合間をぬって、少しずつ、書き上げてきました。。書籍などにみる日帝悪シリーズを新年明けまして、ここにアップします。「インドネシア 多民族国家の模索」岩波新書 小川忠著という本です。1993年に出版されたもので、内容はかなり古いです。当時のインドネシアにおける日本に対する認識(日本軍占領時代に対する歴史認識)を知るには、もってこいだと思います。著者は1989年4月から93年1月まで、国際交流基金ジャカルタ日本文化センターの駐在員として、インドネシア共和国のジャカルタに滞在。「ジャカルタ通信」という個人通信を帰任の月まで執筆し続けました。この本はその「ジャカルタ通信」をもとに加筆、修正して描かれたものです。
  インドネシアは2億近い人口、そして、多数の民族と、何よりも世界最多のイスラム教徒を有してます。著者が生活する中で、多民族社会の現状、多数の民族を束ねるための言語の成り立ち、長期間のスハルト政権が転機を迎えると同時に高まり始めた民族と宗教意識、芸術や文化交流、日本との関係など多様な分野を著者が生活し、肌身で感じたことを紹介してくれています。前置きはここまでにしておいて、本書の詳しい内容については触れません。

 本書第三章の『日本を見る目』より、1989年から93年にかけて、日本軍による侵略とその記憶について引用・抜粋し、インドネシア人が日本軍占領時代をどのようにとらえているかを見ていきたいと思います。長いので、続きを読む 以下をクリックして下さい。
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posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:22 | Comment(19) | TrackBack(193) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月20日

リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part4 決死して本気で悔い改め謝罪しない国 と まとめ

いよいよ最後のエントリーです。いかがでしたでしょうか。本書の下巻にも、日本軍の占領のことについて書かれています。このエントリーの引用はすべて下巻の第31章 日本の奇跡(p430〜447)からです。主に過去の歴史への日本政府の態度を批判していま。そういうところを下巻の第31章より抜粋したいと思います。日本人が過去に被害を与えた地域の信頼を取り戻し、国際人になるためにはどうしたらいいのでしょうか。そのようなヒントが書かれています。
 

●リー・クアンユーの日本人のイメージの変換、
下巻、p430

  日本人に関する私のイメージは過去60年の間に何度か変化している。第二次世界大戦前、私の知っていた日本人は丁寧で礼儀正しい販売員であり歯科医師だった。彼らはきれい好きで、規律のあるコミュニティーを仲間内で作って生活していた。そのため1942年2月、旧日本軍がシンガポール占領後に行った残虐行為はまったく予想外のことだった。その時の日本人は信じられないほど残虐で、例外を除けば、軍部の蛮行に無感覚になっていたとしか思えない。我々は3年半の間貧窮と恐怖の中での生活を余儀なくされた。東南アジアの日本軍占領地域では数百万人が命を落とした。戦争捕虜も、英国、オランダ、インド、オーストラリアの多くの兵士たちが過酷な労働で衰弱し、死んでいった。
 45年8月15日、まったく予期せぬ形で日本の天応の命により日本軍が降伏した。日本人は、我々の支配者や主人の立場から今度は良心的で勤勉な模範的戦争捕虜に変貌した。新たな自分の役割として真面目に街を掃き清め、シンガポールから去っていった。
 60年代に入り、良質の日本の電気製品がシンガポールに流入し始めた。70年代までに日本人は再び我が国で活発な活動を始めていた。日本人は、繊維、石油化学、電子機器、テレビ、テープレコーダー、カメラなどの製品の生産技術に加え、近代的な経営・マーケティング手法を取り入れて、目を見張るような工業大国になっていた。だが、経済的に強くなるにつれて、日本人は再び不遜になっていった。

著者の間で、日本人のイメージの変換である。日本人の二面性をことごとく示しているのではないだろうか。日本人は限りなく良心的で模範的な紳士になれるし、限りなく悪魔や鬼、獣のごとく残虐非道に振舞える。  
 

●決して本気で悔い改め謝罪しない国、それは日本だ
p430〜431

 私や同世代のシンガポール人にとって、日本が残した最も深く強烈な印象は占領中の恐怖である。その記憶は生涯消すことができないものだ。戦後になって、国務大臣、外交官、実業家、学者、ジャーナリストなど様々な分野の多くの日本人を知った。彼らはいずれも立派な教育を受けた、教養のある、人間味豊かな人たちだった。占領中の苦しみからくる恐れと憎しみのためだろうか、戦後の焼け野原で日本人が飢えに苦しんだことを書物で読んだとき私の心の中には他人の不幸を喜ぶ気持ちがあった。その感情がいや応なしの尊崇の念に変わったのは、彼らが敗戦の焼け野原の中で、克己心と組織の力で国の再建に立ち上がったのを見たときだ。日本人は巧みにマッカーサーの軍事占領方針をすり抜け、かつて強い日本を作り上げた国家の特質を維持していた。戦犯は一部死刑になったが、多くはほどなく復権した。民主主義者として選挙に選ばれた大臣になった者もいれば、勤勉な閣僚として国家再建に貢献した者もいる。だが、この人々が作った日本は、平和的で非軍事的ではあるが、決して本気で悔い改め謝罪しない国である。
 戦後、私が初めて日本人と向き合ったのは、日本占領時の42年に起こった血も凍るような虐殺事件の処理交渉においてだった。62年2月、島の東部地区のシグラブで、建設工事で地面を掘り返したときに偶然に集団埋葬された人骨が発見された。集団埋葬の場所は40ヵ所に上る。旧日本軍のシンガポール占領後、憲兵隊が中国人の若者を一斉検挙し5万ー10万人を殺戮した20年前の記憶を甦らせた。まだ戦争の傷跡があちこちに残っていた。

シンガポールの人々にとって、日本軍が残した遺産は肉親をなくした悲しみと想像を絶する恐怖である。日本は見事戦後復興を遂げたが、戦争犯罪者を罰せず大臣にまでしたとんでもない平和国家だった。本気で悔い改めない国ができあがったのである。戦後になると、シンガポールでは日本軍の蛮行がどんどんと明らかになってくる。日本軍の恐怖が消えるのと反比例するかのように、肉親をなくしたり被害にあったシンガポールの被害者たちの怒りが強くなり、それに押されて、リー・クアンユー氏は虐殺事件の補償交渉へと向かうのである。
下巻、p432〜より
 池田勇人首相との会談で私が取り上げたのは"血の負債"、すなわち戦時中の日本軍によるシンガポール人虐殺に対する償いの要求だった。池田はシンガポールで起こったことに対して「心からの遺憾の意」を表明したが、謝罪はなかった。首相は日本国民が「故人の精神に対してなされた不当な行為」を償いたいと述べ、過去の行為が両国の友好関係の発展を阻害しないことを願うといった。だが、補償問題の結論は保留となった。首相も側近たちも実に丁寧で、なんとかこの問題を解決しようとしていたが、被害を受けた他国から補償要求が殺到することを恐れ先例を作るのをためらっているように見えた。両国がこの問題を解決したのはシンガポール独立後の66年10月で、5000万ドルの補償金は円借款と無償供与が半々だった。私は一刻も早く両国間にいい関係を作り上げ、日本の企業家たちにシンガポールへ投資してほしかった。

著者は池田勇人首相との会談で、虐殺事件を取り上げた。少し著者であるリー・クアンユー氏には失望した。ほかのアジア・太平洋諸国のように目先の経済利益や発展のために、補償を円借款と無償供与で済ませたのは納得はいかない。この時は謝罪ではなく、遺憾の意止まりである。シンガポールの被害者たちには納得できなかったのだろう。俗に言う賠償という名を借りた経済侵略であった。経済力に物を言わせ、戦後のアジアの被害国の指導者を懐柔し、はした金の無償援助と円借款で自らの過去の問題に幕引きを図ろうとしたのである。まさに、本気で過去を悔い改めない醜い国、それが日本だ!!!  
 

●なかなか謝罪しない日本の首相−なぜ日本は謝罪を拒むのか
下巻の第31章日本の奇跡で、日本との首脳外交についていろいろと書いている。著者の首相在任中、1962年の池田勇人から90年の宮沢喜一まで多くの日本の首相と出会った。日本の首相から直接謝罪の言葉を聞くことはなかった。
下巻、p443〜

 日本は経済大国として先進国首相会議の正式メンバーとなり、世界の主要国として果たすべき役割を模索し続けてきた。とりわけ深刻なのは指導者たちの過去の戦争に対する残虐行為に対する姿勢だった。西ドイツの政治指導者は明確に戦争犯罪を認めて謝罪し、犠牲者に賠償を支払い、若い世代に戦争犯罪の歴史を教えて再発を防ぐ努力を行ったが、日本の指導者はどうだろう?多くはいまだ曖昧な態度で言を左右にしている。天皇への配慮に加えて、国民を困惑させたくない気持ちや先祖を侮辱したくない思いがあるのだろう。理由のいかんを問わず、歴代の自民党政権は日本の過去と向き合うことはなかった。
という風に自民党政権の過去の歴史に対する態度を批判しているのだ。海部首相あたりから、歴史問題に対する態度が変化してきたことも事実であろう。海部首相はシンガポールでの演説で初めて正面きって戦争問題について触れた。「アジア太平洋地域の多くの人々に耐え難い苦難と悲しみを与えた過去の日本の行為に対して心からの悔恨の意」を表し、「悲劇的な結果をもたらしたそれらの行為を、二度と繰り返さないことを日本国民は固く決意している」と述べた。もう少しで謝罪となるものだった。次の宮沢喜一首相は、施政方針演説で「深い反省と遺憾の意」を表したが、まだ謝罪ではなかった。次に、宮沢は93年6月に野党が提出した内閣不信任決議案で一部の自民党議員の造反で可決し、内閣総辞職に追い込まれた。そして、総選挙の結果、細川護熙内閣が誕生した。ようやく、細川首相は曖昧な言い方とはいえ、大戦時の日本の侵略事実を認め、引き起こされた被害について謝罪したのである。正式なものではないにしろ、日本が謝罪したのは非自民政権になってからで、実に戦後48年の月日が経っていたのである。
 翌94年の日本社会党の村山富市首相はさらに日本の謝罪を進展させた。村山首相は、ASEAN諸国歴訪時に各国首相に対して直接謝罪をおこなったのである。95年8月15日には、戦後50年目の終戦記念日の首相演説で、再び深い悔恨と心からの謝罪の気持ちを表明するにいたったのである。それだけではない旧日本軍のシンガポール占領時に殺された人々の慰霊碑に花輪を捧げたのである。シンガポール政府が求めていたわけではない。革命的な進展といえよう。細川氏と村山氏の非自民首相の謝罪は、それまでの日本政府の頑なまでの謝罪を拒む強行姿勢を変えた。自民党自身は謝罪はしなかったが、自民党も謝罪した村山連立政権の一員だったというところが大きかったのではないか。しかし、次の自民党の橋本龍太郎政権はだめであった。日本の謝罪姿勢が交代することになった。
下巻446〜447より
 96年に首相就任した自民党の橋本龍太郎はその年の7月、自分の誕生日に個人の資格で靖国神社を非公式参拝した。戦没者の霊に敬意を表したが、その中には東条英機首相ほか戦争犯罪で絞首刑にされた者たちが含まれている。このどっちつかずの態度は大きな問題である。ドイツ人と違って日本人は精神の浄化ができておらず、自分たちのシステムから毒を取り去ってない。若い世代にみずから犯した悪行を教えていない。その一方で、橋本首相は97年8月の終戦記念日の演説で深い遺憾の意を表し、同9月の北京訪問中には深甚なる悔恨を表明している。とはいえ橋本は謝罪をしていない。
 日本人はなぜ過ちを認め、それを謝罪し、前進することに消極的なのか私には理解できない。謝らない理由があるにちがいない。謝罪とは悪いことをしたと認めることである。遺憾の意や悔恨の思いを表すことは彼らの現在の主観的な感情を示しているにほかならない。日本人の一部は南京大虐殺を否定する。朝鮮半島やフィリピン、オランダなどの女性が連行され、従軍慰安婦として働かされたことも、旧満州(現在の中国東北部)で中国、朝鮮半島、ロシアなどの囚人を生きたまま残酷な生物の実験台にしたことも認めようとしない。いずれのケースも、反駁できない証拠を見せられてから、しぶしぶ認めただけである。このような態度は日本の将来の意図に疑念を抱かせるもととなる。
 現在の日本人の態度は将来の行為を示唆するものである。もし過去を恥じる気持ちがあれば、将来、同じ過ちを繰り返す可能性は少ない。戦犯として処刑された東条英機の遺書を思い出す。彼はその中で、日本軍が負けたのは
敵の軍勢が優勢だったからだと書いた。この言葉をどう位置づけるべきなのだろう。日本の能力を過小評価してはいけない。日本人は石油などの重要な天然資源を絶たれ、輸出市場から閉め出され、国家としての生計の手段を奪われ、脅迫感を覚えれば、再び42年から45年のときのように獰猛に戦うだろうと私は思う。
 日本とアジアにとってどのような未来が待ち受けているにせよ、日本人はまずこの謝罪問題に決着をつけるべきである。アジアと日本は共に前進しなければならない。そのためにも、より大きな信頼と信用が必要とされている。

私も日本がどうして過去の罪行を認め、謝罪し、被害者に補償して、前進することについて極めて消極的なのか理解できない。ひとつでも過去の過ちの事実を認め、そして被害者に補償することによって、被害を受けた国からさらに加害事実や、そして被害者からの補償要求が殺到してくるのを恐れ、そういった先例をつりたくないというのだろうか?だとしたらとんだお門違いをしている。どんどんと過去の被害国から大日本帝国・日本軍の加害事実をでてきてどんどん事実が明らかになったらいい、被害者や犠牲者遺族からの補償要求が殺到したらいい。個々の加害事実に対して、被害者や犠牲者遺族からの補償に応じて、そして謝罪をして解決することに、前進することで我が国は一人前の国際社会から認められる国になる。それを行うだけの立派な国力があるはずだ。そんなことを戸惑ってたら"いつまでも過去を悔い改めない醜い国"で終わるだろう。私はそんなことは御免だね。  

●まとめ
これまでのエントリーです。
リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/22521867.html
リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part2 華僑粛清事件、シンガポールにおける慰安所など
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/22525349.html
リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part3 日本人の心の中に潜む獣、残虐だった日本人
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/22559435.html
 最後のまとめとなりますが、この本に書かれている大日本帝国・日本軍の加害事実と日本の歴史認識に関わる問題について抜き出してまとめているうちに、日本人という存在について改めて考えてみました。日本人はなかなか謝罪のしない往生際の悪い国民である。リー・クアンユー氏がさんざん批判する通りのことだ。謝罪しないことで新たなる日本の再侵略の疑念をアジア諸国の人々は抱いている。過去の大日本帝国の犯した罪は多過ぎた。数だけではない、その残虐性、被害者や犠牲者数の多さ、残虐行為が行われた地域の広大さ、殺戮・拷問手段の残虐性において、人類史上例を見ないほどだった。従軍性奴隷制度に代表される性暴力と南京大虐殺、731部隊による生体実験・細菌戦、中国大陸や数々の占領地で行われた住民虐殺行為が、当時の日本人の悪魔の行いの主たるものだ。ナチス・ドイツが強制収容所で実施したユダヤ人絶滅計画以上の人類史上例を見ない残虐かつ非道な虐殺行為であった。当時の日本人は血に狂った野獣だったことは私自身正直なところ信じられないが、人類の歴史に消すことのできない汚点を残した悪魔の行いの数々は疑いようがないのだと思う。
 リー・クアンユー氏は、日本人のことを「日本人には完璧を求める習性があり、生け花であれ日本刀作りであれ、そして戦争であれ、何事でも極限まで行ってしまう」(本書、下巻p444)と評している。ある意味当たっていると思う。日本には世界一と誇れるものがたくさんあるはずだ。特に科学技術の分野はすごいと思う。しかし、誇れない、恥ずべきものがある。大日本帝国の加害歴史も"世界一"であるからだ。大日本帝国の植民地に関していえば、植民地統治の非人道性、独立運動弾圧の凄惨さについては"世界一"といえる。アジア・太平洋戦争において、大日本帝国・日本軍が中国大陸・東南アジア・太平洋諸島の占領地や戦地の民衆が蒙った被害の大きさは、"世界一"だったといえる。日本人、特に集団、そして軍隊意識が働けば極限にまで残虐・残忍になれるのである。日本人は過去の日本軍の悪魔の如き戦争犯罪の数々を通して深く考えなければなりません。戦争から61年がたち、大日本帝国の加害の歴史ははるか昔の過去の出来事だと勘違いしている人々が多いですが、決してそうではありません。加害の歴史や大日本帝国・日本軍の植民地時代、占領時代の苦しみは被害にあった国々、シンガポールなり、中国なり、そして韓国なり、その他のアジア・太平洋諸国なりで、お爺さんやお婆さんの世代から子々孫々に世代を超えて伝えられているのです。決して風化することはありません。61年以上前の昔、大日本帝国時代の日本人はアジアの人々にとって紛れも泣く加害者であったのです。そのことを我々日本人は忘却すべきではないと思います。以上でこのエントリーを終わります。

posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 11:05 | Comment(31) | TrackBack(3) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月19日

リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part3 日本人の心の中に潜む獣、残虐だった日本人

このエントリーに書いてあることは我々日本人にとっては耳が痛いところが多いのではないだろうか。過去の日本人の恥部に目を背けたい気持ちはわかる。すべて、事実であるから、過去の蛮行を受け入れてシンガポールや近隣諸国に与えた加害について考えて欲しいと思う。当時の日本人は心に潜む獣の心を遺憾なく発揮し、現在では考えられない信じられないほど残虐だったのである。引用はすべて上巻からである。
 

●憲兵隊の恐怖
 著者は「組合」の仕事をやめた後、日本軍報道部に就職した。そこでの仕事は、連合軍側の報道機関が流す英語のニュースに目を通し、オペレーターが傍受したのを解読するというものであった。働いている報道部があるビルの一階には、憲兵隊の出先があったという。著者は、最新の情報を耳にし、日に日に日本が戦況が悪くなるのを耳にしている。インパール作戦が失敗し、日本軍が敗走しはじめたこと、日本軍は撤退しながらも激しく英軍に対し、執拗に抵抗していることを緊急連絡を読んで知った。英軍がマレー半島に南下し、また、日本軍が最後の一兵にまで抵抗するとなると、英軍のシンガポール奪還作戦は壮烈な市街戦にとなることを予想し、状況が平穏なうちにシンガポールを出ようと考えた。そこで、もっとも安全な場所に引っ越そうと考えた。日本軍報道部に辞職願を提出したのだが、憲兵隊に日本が不利になっているという情報を漏らした容疑をかけられ、尾行されることになった。

p50〜51

・・・・憲兵隊が私を捕まえに来たのではないかと想像したときの恐怖は筆舌に尽くし難い。多くの人と同じように、私も憲兵隊が加える拷問のことを聞いていたからだ。彼らは、漢字で「憲兵」と赤字で書いた白い腕章を巻いていた。憲兵隊は日本政府の上官でさえ手を出せない逮捕、尋問の権限を持っていた。憲兵隊司令部はスタンフォード・ロードにあるYMCAビルディングにあり、支部がオクスレイ・ライズ、スミス・ストリート、サウス・ブリッジ・ロードの中央警察署にあった。近所の人々の耳には苦痛のあまりのうめき声や恐怖感を与えるための音が聞こえる、との話が伝わり、恐怖は人々の口から口へと広まった。これは現地の人を怯えさせるための計画的な手法だった。シンガポールの人々を従順にすれば統制がしやすくなるためだった。

なるほどだと思う。恐怖を広めるというのは、人々を従順で統制をしやすくするためには一番いい方法だと思う。日本兵の狂気といいシンガポールの人々は肌身で感じていたのだと思う。  

●捕虜の苦しみ
p55〜56より

 ・・占領開始から10ヵ月の間は、少数の日本兵が監視する中、英国やオーストラリアの捕虜労働者が市内に入ってくる姿をよく見かけた。捕虜たちは普通、物資を倉庫からトラックに移し替えるなどの労役をしていたが、時々、食べ物を求めてコーヒー・ショップにこっそり入り込んできた。店の主人や普通の主婦がパンや缶詰などの食品やお金を彼らに渡していたものだ。華人は英国兵などの捕虜に大きな同情を寄せていたのである。ところが捕虜は次第に痩せ細り、健康状態が悪くなってきたように見えた。半ズボンとシャツの制服もぼろぼろになっていた。42年の終わりになると捕虜の姿は次第に見えなくなり、一年後にはめっきり見かけなくなった。
シンガポールの連合軍捕虜がタイ、インドネシア、日本など他のところへ送られたと思っていた。44年末から45年初め、捕虜が再びシンガポールに姿を見せたときには、骨格が外からわかるほど骨と皮の姿になっていた。ビルマ鉄道で建設徴用され猿股しかつけておらず、尻の骨が見える兵士もいた。捕虜たちの腕と足は傷だらけだった。彼らが味わった苦しみは、世界のどこで起きた戦争の捕虜のそれを越えるものだったと思う。

日本兵によりひどい目に合わされたのは、シンガポールの市民だけではない。日本軍占領前に駐屯していた英国やオーストラリアの兵士たちである。市民は同情を寄せて、食品やお金を彼らに合わしていた。虐げられる姿が自分たちと重なったのもあるだろうし、日本軍への憎しみと英国植民地時代への懐古の念がそうさせたのである。  
 

●シンガポールの大半の市民に降りかかった災いを足場にして、日本軍軍政時代に財をなした成金たち
p55〜56

 目先が利いてこの機会を利用しようという人たちもいた。日本軍に取り入って役に立とうとしたのである。彼らは労働者や物資、情報、女性、酒、上等な食物などを供給して金を稼いだ。最も恩恵に浴したのが建設請負業者だった。
 中でも最も恵まれた事業に成功したのはグレート・ワールド、ニュー・ワールドといった遊園地で賭博場を解説する利権を得たショウ・ブラザーズのような人たちだ。1年、2年または3年後に英国g日本を追い出すために戻ってくるときに予想される大量破壊と死に直面していたシンガポールの人たちにとり、賭博は麻酔薬であったのである。人々は運を試しに金を賭けて賭博場に出入りし、またそれを眺めて時間つぶしをする者もあった。人々がこのような賭博場で使った時間や失った金は驚くべき額だったと思う。みずからの存在自体の先行きが見えない中で、人々はこうした賭け事を喜んだのだ。生活そのものが運を賭けたゲームだったのである。
 しかし、どれだけ金を儲けたところで、肝心なのはそれを品物や海峡ドルに交換してその価値を維持することだった。穀物やその他の食料はかさばるので、貯蔵したり取り扱うのは大変だった。人々が一番求めていたのは、英国の復帰後も価値が変わらず、小さくて隠しやすいものだった。だから44年以来、バナナ札が毎日増刷されて出回る中で英国の海峡ドルの闇市レートは急上昇した。最も望ましい財産は貴金属類だった。それらを扱うため、ブローカーは純金や24カラット、18カラットなどで色合いがよく欠陥のないダイヤモンドの鑑定方法、ルビー、サファイア、アクアマリン、猫目石や準宝石の見分け方などを身につけなければならなかった。
 不動産に手を出す大胆な富裕層もいた。しかし、価格は金や海峡ドルほどには上がらなかった。所有権の移転には弁護士による譲渡証書と登記所での手続きが必要だったが、英国が戻ってきた際に、契約が成立するか否かの可能性は半々という事情があった。建物の場合は爆撃を受け、崩壊する可能性も考えなければならなかった。実際には、英国軍による侵攻作戦はなく、譲渡証書は無効にならず建物は破壊されなかった。ドイツが負け、日本の降伏が間違いなくなった占領末期には、ジョウニーウォーカーの12本入りケースを日本のバナナ札で売った金額で、ビクトリア・ストリートの店舗住宅を一戸買うことができたのである。こうした売買をうまくやった人たちは戦後いち早く金持ちになった。

日本軍占領下で多くの者が苦境にあえいでいる中で、それを踏み台にして儲けた財を成した成金たちがいる。これも大東亜共栄圏の歪んだ一側面である。  


●リー・クアンユーにとっての日本軍占領3年半−シンガポールの厳しい秩序と刑罰の起源

p53〜54

 日本占領の3年半は私の人生にとり最も大切な時期だった。私は、人間とその社会、行動の動機、衝動などについて生々しくその実態をかいま見ることができた。政府というものへの評価や、革命的変化をもたらす道具としての権力に対する理解などは、この日本占領期の経験がなければおそらく得られなかったと思う。ひとつの社会システムが手荒い占領軍の前に一瞬にして崩壊するのを私は目の当たりにした。日本軍はシンガポールに全面的な服従を求め、大半の市民はそれに従った。人々は日本軍を嫌っていたものの、日本軍が自分たちを押さえ込む力を持っていることを心得ており、迎合していたのである。こうした事態に素早く対応できなかったり不快感を持った人や、新しい支配者を受け入れなかった人はひどい目にあった。彼らは新しい世の中のすみに押しやられ、生活は停滞するか傾いて、社会的地位も失った。新しい情勢に即応し、日本軍に役立つことを通じてこの機会を利用した人は財をなした。シンガポールの大半の人々に降りかかった災いを足場にしてのことだった。
 日本軍政は恐怖心を広めることでシンガポールの人々を統制した。日本軍は、気高く振舞おうとの姿勢はまったく見せなかった。罰則は厳しく犯罪はごくまれにしか起きなかった。生活物資の窮乏が一段と進み人々が半ば飢餓状態に落ち込んだ44年後半でも、シンガポールの犯罪発生率は驚くほど低い水準を保っていたのである。人々は夜でも部屋の正面のドアを開け放しておくことができた。それぞれの家庭には家長、10軒の家庭ごとにその長がいて、日暮れから夜明けまで自分たちの地域を夜警することになっていた。しかし実際には地域の住民は警棒を持っていただけで、報告すべき犯罪行為は起きなかったのである。日本軍が科す刑罰が重すぎたからだった。私は刑罰では犯罪は減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じない。これは戦前のシンガポールではなく、日本の占領下とその後の経験で得た信念である。

p56〜57
 私は日本の占領時代から、どこの大学が教えるよりも多くのことを学んだ。私は毛沢東の「政権は銃口より生まれる」との言葉を知らなかった。しかし、日本軍の冷酷さ、銃、剣付き鉄砲、それにテロと拷問を目の当たりにして、だれが権限を持ち、何が忠誠心を含め人々の行動を変えることができるかという議論はすでに私は結論を出していた。日本軍はシンガポール人に対し単に従順になるだけでなく、長期的観点から日本の支配に順応するよう求めていらのである。シンガポール人が自分たちの子供を言葉、習慣や価値などの日本の新体制に適応できる人間に教育するように仕向けたのである。

著者にとって、日本軍占領時代とはいかなるものであったのだろうか?非常につらい体験であったが、多くのことを学び、今後の人生や思想に与えた影響は非常に大きいものがあると思う。中でも一番は、犯罪に対する刑罰の考え方であろう。日本軍の課す刑罰が厳しすぎたので、犯罪発生率が極めて低かったという。シンガポールの社会は極端なインフレ、物資不足、飢餓状態、社会秩序崩壊という酷い困窮状態だった。治安が悪化し、犯罪が蔓延していて当たり前の状態であった。それでも犯罪が発生しなかったというのは、日本軍の罰則がいかに過酷なものであったかを示すという。著者は、刑罰では犯罪を減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じないとまで言い切っている。ただし、私は著者の見方には疑問をもっている。たとえば、死刑の問題につながってくる。私は実は死刑の廃止論者である。死刑廃止反対派の論点のひとつとして、死刑を廃止すれば犯罪が増えるという。死刑を含めて、厳罰によって犯罪を抑止できると考えるものも多いが、私は極めて懐疑的だ。たとえば、日本軍占領下のペナン島をあげてみる。シンガポールと軍政そのものはさほど変わらないはずである。陸軍報道班員として東南アジアに派遣された石川達三がいる。『約束された世界』(1967年)のなかでペナンの軍政について書き残している。  
 
日本軍はこの街を占領して以来、銀行を閉鎖し商店を閉鎖した。金融は停止し消費経済は流通交換がとまってしまった。市民は貧富の区別なく、食糧に窮していた。闇の商売はあったかも知れない。しかし通貨も物資も流れなかった。富裕な者は日本人に物品を売って現金を手に入れなくてはならなかった。[中略]売るものを持たない貧民は、泥棒するよりほかに生きる手段がなかったのだ。[中略]それは軍政の拙劣さにほかならなかった。(日本軍政下のアジア ―「大東亜共栄圏」と軍票― 小林英夫著 岩波新書 p118からの孫引き)

石川氏は、ペナンでの思い出として、日本軍が占領した後この島が経済的に停滞し、人々が食えなくなり泥棒が増えたと嘆いたのである。銀行や商店が閉鎖し、金融は停止、消費経済は流通交換がとまり、市民は食糧に窮したというのは、シンガポールのそれと酷似する。シンガポールでは人々はどんなに生活に困ろうとも泥棒をほとんどしなかったが、ペナンの場合では泥棒が増えている。まるっきり逆である。どうしてこのような違いがでたのか分からないが、厳罰主義が必ずしも有効ではないことを示しているのではないだろうか。著者の日本軍の厳罰主義が正しいという妄信には私は反対である。
彼にとって、紛れもなく日本軍の占領時代の経験が大切な遺産だったのである。著者が反英国に傾き、マラヤの独立を考えるようになったのは、日本軍占領時代を経験した後だったからだ。ケンブリッジ大学に戦後留学するが、英国人のその場限りの気質を見抜き、植民地の戸雪的な発展には関心がないことに気づいた。著者にとっても、シンガポールの人々にとっても日本軍占領から生まれた人間的な変化は大きかったと思う。ただし、それは日本軍が意図せずとも戦後生じた"怪我の功名"というべきで、そのことによって日本軍の侵略や戦争犯罪が許されたり、免罪・相殺されるものではない。  

●日本軍も精神までを破壊することはできない。
p57〜

 もしもっと時間があれば、我々が自然の成り行きの一部として日本人を新しい支配者として受け入れたかもしれない。倫理や正義とは無関係なことだった。彼らは勝利者だった。彼らが一番上にいて命令権を握っていた。シンガポール人は彼らの神を敬い文化を称賛し、行動様式を真似なければならなかった。しかし、必ずしもそれはうまくいかなかった。朝鮮半島では日本人が統治しようとしたときから強い抵抗にあった。古い伝統文化を持ち、自分たちの歴史に強い自負を持ち、外からの抑圧者に対抗する強い気構えのある朝鮮民族の本能と習慣を、抑圧しようとしたからである。日本軍は朝鮮半島で多くの人を殺したけれども、その精神までも破壊することはできなかった。
 
大日本帝国というのは、植民地や占領地の住民にでさえ、天皇の従順な下僕として服従することを強制した。それはシンガポールでも朝鮮民族に対しても同じだった。大日本帝国・日本軍の無慈悲をもってしても、多くの人々を殺しても、その精神までを破壊することはできなかったのである。  
 

●裁かれなかった日本軍の蛮行
p57〜58

 8月15日の日本の降伏から9月下旬に英国が新たな統治を確立するまでの権力空白期間に、抗日グループは自分たちが法律となり、日本への情報提供者、拷問者、その他の日本への協力者にリンチ、虐殺、拷問、殴打を加えた。私はビクトリア・ストリートとチャイナ・ビルディングにあった私の家の周辺で白昼ドタバタと人が駆け回る音をいまだに忘れることができない。日本への協力者が殴られ、ナイフで突き刺された悲鳴が聞こえた。しかし多くの対日協力者は戦争の最終局面でマラヤの田舎やシンガポールの南のリアウ諸島へと逃げおおせた。
 だが、シンガポールが解放されても悪い者には罰を、正しい者には褒賞をというような人々が望んでいたような事態にはならなかったのである。過去の問題を完全に清算できることなどなかったのだ。公正な裁判には書類と綿密な調査が必要である。しかし、犯罪人を告発するのにあらゆる情報を集めるのは不可能である。日本人でもシンガポール人でも、そうしたことが多過ぎた。法律が適用されたのはごくわずかで、多くは逃れてしまった。
 裁判は行われたものの、日本人の主要戦争犯罪人は処罰の対象にならなかった。ソック・チンの大量虐殺を命令した辻大佐は行方不明となった。マレーの虎といわれた山下大将は、ソック・チンの計画を承認した人物だったが、その後満州へ移動、さらにフィリピンへと移った。45年9月、山下大将はマッカーサー元帥率いる連合軍に降伏し、マニラでの裁判で絞首刑となった。しかし、その判決理由は常軌を逸したフィリピンの都市での作戦についての責任であって、シンガポールで数万人もの罪のない人を虐殺した作戦を承認した責任からではなかったのである。

残念ながら、日本軍占領時代における犯罪者は、対日協力者(シンガポール人)にしろ、日本軍兵士・将校にしろ、それ相応の罰を受けたのはごく一部である。些細なことを含まれば数え切れないほどの暴虐行為が行われたのである。何よりも、山下奉文、辻政信という主要戦争犯罪人が処罰されなかったのは、後世にとっても大きな汚点であろう。被害者や犠牲者、肉親を失った者にとってやりきれない思いであろう。山下奉文はマニラの市民虐殺や陸海軍部隊が立てこもった激しい市街戦の惨状の責任をとって、アメリカの戦犯裁判で絞首刑に処せられた。仕方がない部分があるかもしれないが、辻政信の件については納得できないものがある。辻政信に関しては、シンガポールの華僑虐殺だけではなく、マラヤで行われた華僑虐殺に関わっており、その他複数の容疑がある。戦犯容疑者の中でも、特に極悪人である。日本人は、こういう人物に全面的な支持を与え、独立回復後の52年11月の石川県の総選挙でトップ当選、59年の参議院全国区で第三位で当選させている。61年に参議院議員のとき、ラオスを訪れたが、宿舎を出たきり行方不明となった。私個人としては、神により天罰が下されたのだと信じたいね。  
 

●シンガポールの人々が受けた恐るべき拷問(日本人に潜む獣の性格)
p58〜60より

 私の友人を含む何百人ものシンガポール人が憲兵隊に拘禁され拷問を受けた。一方で260人の日本人戦争犯罪人がシンガポールで裁判にかけられたが、有罪になったり死刑になったのは100人ほどだった。その犠牲者の1人が63年から80年まで政府の閣僚を務めたリム・キムサンである。彼は44年の恐ろしい経験を次のように私に語ってくれた。
「私はオクスレイ・ライズで2回拘禁された。最初は44年1月で2週間、2回目は2月で一月以上だった。ノース・ブリッジにある私の店に来たある中国人の若者が、私のことを共産主義者のためといって、彼に金を渡した人物だと証言したのである。私は資本家だから親共産主義というのはおかしい、と説明したものの日本兵に縄で縛られ、蹴られるなどの手ひどい扱いを受けた。顔に水をかけられ意識を取り戻したが、気がつくと私は15フィートと10フィート四方の部屋に入れられていた。男女30人ほどが一緒で、部屋の角にトイレがあった。頭上に貯水器があるしゃがみ式だった。その水を便器から集めてきた。これが、飲んだり顔を洗ったりする水だった。病気になれば神のみぞが知るところへ連れていかれた。私は女性が生理で血を流すのを見て胸が悪くなった。
 我々は灯油の缶に入った古い野菜入りのお粥をあてがわれた。とても胃に入っていかず、口にするたびに吐きそうになった。ガチョウにエサを与えるようだった。我々はあぐらをかかされ、その場所を動くことは許されなかった。場所を変わるには日本軍に雇われ、冷酷になるように仕込まれたシンガポール人青年看守の許可を得なければならなかった。
 ある日、足を骨折したインド人老人が連れ込まれてきた。座ることができず俯せの姿勢で足を引きずってしか動けなかった。制裁のため、若い華人看守が投げた棒を老人に取りに行かせた。気の毒にもそれは老人が疲れ果てほとんど苦痛で意識を失うまで続けられた。
 拘禁されていた中に若くてがっしりとした青年がいた。年は17歳か18歳だった。彼は任務から逃亡して捕まった看守だった。その夜、憲兵隊が彼を裸にして縛り上げ天井から吊した。後ろ手に縛られロープは足がほんの少し
地面につく程度に梁につないである。時がたつにつれ、肩にかかる重みを楽にするため彼がつま先を地面につけようとするのが見えた。憲兵隊は水も食べ物も与えず一晩中彼をそのまま放っておいた。彼は思いきり日本軍を強い言葉でののしっていたが、翌朝、憲兵隊がむちを使って彼の背中を打ち始めると、それは泣き声とうめき声に変わった。それは一時間以上も続き、泣き声とうめき声はだんだん小さくなり最後にそれは止まった。彼は死んだけれども我々全員の前でつるされたままにしてあった。看守と我々への警告だったのだ。
 ある時は、1人の男の口からホースで水をそそぎこまれた。彼の胃が水でいっぱいになると、拷問者はその上で跳んだり座ったりした。彼は吐いて気を失った。毎朝、我々は重い靴音が独房に向かってくるのが聞こえると震え上がったものだ。それは尋問と拷問が始まる予兆であり、戻ってこない人もあった。我々は台湾人の職員が間をとりなしてくれることで救われた。私は刑務所内外で、日本人の真の姿を見た。親切さとお辞儀は薄いうわべでその下には獣が潜んでいると思った。連合軍の勝利でアジアは救われたのだ」
 日本人のこのような獣のような性格は46年3月18日から始まったダブルテンス裁判における、コリン・スレーマン中佐の厳しい話に要約できよう。
「この裁判全体は2つの単語で要約できる。口にできないほどの恐怖、である」
 しかし、戦争が終わって50年もたつのに、歴代の自民党政権政府は、そして主要政党の主だった指導者、学界、そして大半のメディアはこの悪魔の行いについては語ろうとしない。ドイツと違い、彼らは世代が過ぎていくことでこのような行いが忘れられ、彼らの行為の記述が埃をかぶった記録の中に埋もれ去られてしまうことを願っている。もし、これらの過去を隣人に対して認めないならば、人々はこうした恐怖が繰り返されることもありえると恐れるしかない。日本がようやく無条件で謝罪をしたのは、92年に非自民党政権の細川護熙首相が政権を握ったときがはじめてである。

戦慄すべき拷問である。のちに政府の閣僚を勤めるようになった、リム・キムサン氏が憲兵隊の戦慄すべき拷問を語っている。ここで拷問に従事している日本兵や憲兵たちはすでに人間ではないのであろう。その鬼のような拷問マシーンと化した日本人たちがシンガポールの人たちにした悪魔の行いは同盟国であったナチスでさえ、戦慄するであろう。第二次世界大戦時、日本人は人類史上最も愚かで、残虐非道な獣のような人種であったことを知るべきだと思う。日本人の下には、獣が潜んでいるということをリム・キムサン氏は感じたようだ。もちろん、内側には獣が潜んでいるのは日本人だけではなく、人類皆そうだと思う(人間が潜んでいる獣を発揮させた残虐事例は戦後も枚挙に遑がない)。ただし、内側に潜む獣を引き出すことにおいて、大日本帝国・日本軍の右にでるものは、過去においても、そして現在においてもいないと思う。そのことの事実を日本人一人ひとりは歴史教育によって知って反省すべき義務がある。過去に起こしたあの残虐行為の数々を認め、誠意のある謝罪と補償を行うことによって、二度と過ちと恐怖が繰り返されないことを保障し、シンガポールの人々、そして世界の人々の納得を得なければならない。ところがようやく、日本がようやく無条件で謝罪をしたのは1993年(本書の92年は間違い)細川護熙首相のときである。戦後48年たってからの話である。まだまだ、その道は険しいといわざるを得ない。  
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リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part2 華僑粛清事件、シンガポールにおける慰安所など

part1の続き
part2では、シンガポールで最大規模の戦争犯罪である華僑粛清事件と従軍慰安婦問題、日本兵の非人間性、著者の祖父の悲劇、日本軍占領下のシンガポール庶民の生活というわけで、本書より引用していく。このエントリーの引用箇所もすべて上巻からである。
●華僑粛清事件
シンガポールで日本軍が行った蛮行の中で最大規模なのが、華僑粛清である。著者もあわや犠牲者となるところであった。本書より抜き出して生きたいと思う。
p38〜39より

 日本兵が我が家から立ち去ってまもなく、華人はすべて尋問を受けるためブサール通りの華人登録センターに集合するよう日本軍から命令が来た。近所の人が家族と一緒に出向くのを見て、私も行ったほうが賢明だと思った。家にいて憲兵隊に捕まると必ず罰があるからだ。私はテオンクーと集合場所に向かった。人力車の運転手寮にあるテオンクーの部屋は鉄条網で囲まれた境界線の中にあった。数万人の華人家族が小さな一区画に押し込められていた。すべてのチェック・ポイントでは憲兵隊が見張っていた。憲兵隊の周りには何人かの現地の人々や台湾人がいた。私は記憶していないが、彼らの多くが顔が分からないよう頭巾をかぶっていたとの話を聞いている。
 テオンクーの部屋に一泊した後、私は思いきってチェック・ポイントから出ようとしたが、憲兵隊は外出を許可しなかったばかりか、中に集められていた華人青年グループに加わるよう指示したのである。本能的に危険を感じた私は番兵に荷物を取りに部屋に戻る許可を求めるとそれは許可され、私はテオンクーの部屋で一日半を過ごした。それからもう一度同じチェック・ポイントから出ようとすると、理由ははっきりしないけれども許可が出たのである。私は左の上腕とシャツの前部に消えないインクを使ったゴムのスタンプが押された。漢字で「審査済み」のマークがあれば、私が当局のお墨付きをもらった証明だった。私はテオンクーと家まで歩いて帰った。私は本当に胸をなでおろした。
 人間の命や生死に関わる決定がこんなにきまぐれに安易になされるとは、私にはとても理解できることではない。私はマレー半島作戦を計画した辻政信大佐による反逆者一掃作戦からかろうじて逃れたのである。辻大佐は南方日本軍司令官である山下知之大将から中国大陸での抗日戦争へ資金協力したり、日本製品ボイコット運動に参加した華人を処罰する了解を得ていたのである。
 辻大佐にはもうひとつの任務があった。シンガポールの地域指導者が日本軍に抵抗するため組織した1000人以上の在外華人志願者の組織であるダルフォース対策である。ダルフォースは英国の諜報機関であるマラヤ特別諜報部のジョン・ダレイ大佐の指揮下で、あらゆる社会的立場の人、蒋介石の国民党や英国に釈放されたマラヤ共産党員などで構成されていた。武装した志願兵はオーストラリア部隊の側面に配置され日本軍と激しく戦った。多くが戦死したが日本側も同じだった。ダルフォースは伝説、そして勇気と同義語になっていた。
 2月18日。日本軍は18歳から50歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため5ヵ所の検査書に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。
 後にわかったことだが、私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられていた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され22日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、40、50台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛のよだつ話を伝えた。
 日本も2月18日から22日までに6000人の華人青年を殺害したことを認めている。戦後、華人商工会議所がシグラブ、プンゴル、チャンギで大量の墓地を発見した。商工会議所の推定によれば大量殺害の被害者は5万人から10万人に達した。
 理屈のうえでは、天皇の軍隊はこのような行為を法と秩序の回復、反日抵抗運動を封じ込めるための処置だったと正当化できるかもしれない。しかし、これは完全な報復処置だった。戦闘の最中に起きたことではなく、シンガポールがすでに降伏したあと起こったことである。この後も地方部、とりわけ東部でも反逆者一掃作戦が展開され、数百人の華人が犠牲になった。全員が若い不屈の男たちだった。

(まず、人名の間違いを指摘しておく。南方日本軍司令官である山下知之大将としているが、山下奉文の間違い。華僑粛清事件当時、階級は中将である。)
著者は間一髪のところで難を逃れたのである。しかし、それも大変いい加減で理由はわからないが、部屋に戻る許可がでて、「審査済み」のマークをもらい、お墨付きももらって助かったわけである。しかし、著者は自分が助かったことについても批判している。なぜならば、人間の命や生死に関わることだからだ。その重大な決定が気まぐれに安易になされたとことについて批判している。日本軍側の言い分では、抗日分子がゲリラ戦を開始する準備が地下で進めており、掠奪も酷く軍の作戦を妨げている。したがって、軍政を実施する上で、脅威になるため抗日分子を一掃するというのがこの華僑粛清の目的であった。21日から23日までの日に集中して虐殺が行われた。トラックで砂浜や郊外等に運ばれ射殺された。大量の中国人を短期間で選別しなければならなかったために、その方法はきわめてずさんなものだった。大量殺戮はいかなる論理でも正当化できるものではないのである。
 後、虐殺人数について述べておく。当時の日本軍資料がないなどして確定できないところが多い。歩兵第9旅団長であり、シンガポール警備司令官に任ぜられ、山下軍司令官より華僑粛清の掃蕩作戦の命を受けた河村参郎少将の日記では「処分人数約5000人なり」と記されている。その5000人というのは、2月23日までの厳重処分(虐殺)された数。、戦後、東京で陸軍大臣のもとに作られた俘虜関係調査中央委員会の第四班(第25軍参謀だった杉田一次を責任者)がまとめた報告書では「三月末迄に厳重処断を受けたるもの約5000名なり」となっている。河村日記が根拠だと考えられている。もうひとつは約2万5000人という数字で、戦犯裁判における同盟通信社の記者で第25軍のマレー作戦に従軍し、2月16日にシンガポールに入った菱刈隆文の陳述書がその根拠。その陳述書より該当部分を抜粋すれば、「杉田大佐は私に5万人の中国人が殺されることになっていると話しました。これらの中国人は抗日分子、特に共産主義者とゲリラ活動の疑いのある者たちからなっている。・・・・・後に杉田大佐は私に、5万人全部を殺すことは不可能だとわかったけれでおおよそ半分は処置したと話しました。・・・・・・・私はこの虐殺について林少佐に話しました。彼もまた私に、5万人を殺す計画だったが、約半分を殺したときに虐殺をやめるようにとの命令が出されましたと言いました。」、したがって、5万人の約半分ということで2万5000人である。ただし、この証言の裏づけはとれていない。現在シンガポールでは4〜5万人が虐殺されたという説が有力であること。(裁かれた戦争犯罪、イギリスの対日戦犯裁判 岩波書店 林博史著のp209〜214を参考)。本書の「日本政府が6000人の華人青年を殺害したことを認めた」という部分についてはわからない。日本側の公文書(河村日記、俘虜関係調査中央委員会)は5000人と記しており、6000人ではない。本書により華人商工会議所によれば、5〜10万人であること。さまざまな数字がでてきたが、いずれの数字も決定的な裏づけがあるわけではない。ただし、シンガポール人が犠牲になったのは、初期の華僑粛清事件だけではなく、憲兵隊などによる市民の逮捕・拷問は3年半の日本軍政全時期を通して、行われており、泰麺鉄道建設による労務者狩りもあり、日本軍政全時期を通した犠牲者ということで考えれば、10万人という数字も過大なものではないと思う。

●リー・クアンユーが見た慰安所−シンガポールは南京にはならなかった
p40〜より

 降伏から2週間後、私は日本軍がケアンズ・ロードにあるタウン・ハウスの周辺に木の堀を立てたと聞いた。西ヨーロッパ人がシンガポールを離れたあと空き家となっていたもので、中産階級よりも上のクラスが保有していた邸宅街だった。私が自転車で通り過ぎると、堀の外側には蛇がくねるように並んだ日本兵の列が見えた。近所の人から、中には戦闘の前後に兵士にサービスするため従軍してきた日本と韓国の女性たちがいると聞いた。100人から200人の男たちが自分の番を待つため並んでいる光景は壮観だった。私はその日女性を見かけなかったが、近所の人によると告知板には中国語で「慰安所」と書いてあった。このような慰安所は中国ではすでに設けられていた。ついにシンガポールまで来たわけである。慰安所は少なくともその他に4ヵ所あった。私は自転車に乗って回り、タンジュン・カントン・ロードには最大の施設があったことを覚えている。20軒から30軒の邸宅が木の堀で取り囲まれていた。
 これを見て私は、日本軍はこのような問題に対して実用的、かつ現実的な処理の仕方をすると思った。英国軍とはまったく違うのである。私はフォート・カニング駐留の英国兵士を狙うウォタールー・ストリート周辺の売春婦たちを記憶している。日本軍の司令部は男性の性的要求を考慮して、手当をしているのだ。この結果レイプはそれほど頻繁には起きなかった。日本軍占領後の2週間、シンガポールの人々は日本軍が手荒なことをすると怯えていた。レイプは起きたけれども大半は郊外のことで、37年に南京で起きたようなことはなかった。これらの慰安所の存在でその説明がつくと思う。私は当時、日本軍が韓国人、中国人、フィリピン人を誘拐して中国や東南アジアの前線での兵士の要求を満たしていたとは知らなかった。彼らは将校用にオランダ人女性にもサービスさせていた。

一番意外だった部分である。著者は慰安所の存在を肯定しているとは思わない。シンガポールでも日本兵による強姦は起きた。しかし、慰安所があったため、強姦はそれほど頻繁ではなく発生件数も少なかっただろうと。100〜200人もの日本兵の列というのはすごいものがある。

水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 従軍慰安婦、日本軍以外の捕虜など対する記述、現地住民などへの加害part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13479992.htmlによれば、水木しげる氏が、慰安所に並ぶ日本兵を目撃している。まるで、変態性欲剥き出しの好色なセックスアニマルではないか。過酷で非人間的な日本軍軍隊生活が兵士を非人間の野獣にしてしまったのであろう。中国戦線では、慰安所の開設は有効ではなく、慰安所設置後も日本兵の婦女への暴行、強姦などの鬼畜の振る舞いはやまなかったという。ただし、シンガポールでは違ったようだ。慰安所の設置で強姦が減った事例というべきだろう。少なくとも慰安所の外にいた女性の多くは日本兵の性暴力がから免れた。シンガポールの人々にとって、慰安所に長蛇の列をなす日本兵を見るのは「壮観」ですらあっただろう。慰安所の中にいた女性にとっては溜まったものではない。日本軍の慰安所政策について、著者は「実用的、かつ現実的な処理の仕方をすると思った」と感想を述べているが、ただし、著者は当時、そこにいた女性たちの多くが、「強制的に連れて来られた人たち」だとは思っていないようだ。後で知ったらしい。慰安所についての言及箇所は少なく、あまり著者は嫌悪感を抱いてはいないようである。私は日本軍の慰安所政策は女性の人権を踏みにじり、弄ぶ非道な戦争犯罪だと思っている。強姦事件の減少の有無にかかわらず、女性を兵士の性欲処理のための道具として扱い、逃げ出せない慰安所で日夜輪姦させるということが倫理的に許されていいはずはないのである。

●リー・クアンユーがみた日本兵の非人間性、日本への原爆投下の肯定
p40〜41より

 私のような日本兵を目のあたりにした世代は、戦闘では死まで覚悟する非人間的な態度を忘れることができない。彼らは死を恐れていなかった。敵を震え上がらせた彼らは、進軍するに当たってほとんど何も要しなかった。コメと醤油と干物を入れた小さな容器を構えていただけである。占領期間を通じて見慣れた光景といえば、野外での剣付き銃の訓練だった。兵士が麻袋の模擬敵兵を刺すときの雄叫びは血が固まるほどぞっとするものだった。もし英国が反攻しマレー半島からシンガポールへと南下していれば、大変な惨状になっただろう。
 私は日本兵を近くで見て戦争精神で敵にえば世界でも最強の部類に入ると思った。彼らは敵に対してジンギスカンと同じくらい過酷さを見せつけた。ジンギスカンとその大軍もこれ以上に無慈悲になれなかったろう。私は、広島と長崎の原爆投下が必要だったとする点では疑問を持っていない。原爆がなければ数十万人のマラヤやシンガポールの人々、そして数百万人の日本人も死んだだろう。
 どうして日本人はそのような戦闘的な兵士になったのだろう。日本人はそれを武士道と呼ぶ。侍の倫理であり、日本の精神である。私はそれを天皇崇拝の組織的教宣行為であり、すべてを支配できるという選民としての民族優越感だと考えている。日本人が天皇のために戦闘で死ぬことは天に昇り神になることであり、灰は東京の靖国神社に奉られるのである。

著者は、原爆投下を完全に肯定している。私にとっては、もちろん原爆投下に賛同するものではない。ただし、死を恐れずに突撃する血の気の多い鬼のような日本兵を目の前にしたのだから無理はないと思う。広島、長崎への原爆投下がなければ、日本軍は全滅するまで抵抗しつづけ、結果的により多くの日本人とマララやシンガポールの人々が死に絶えると考えていた。そのことの意味を深く日本人は考えなければならない。

●日本軍が行った"中世の罰則"
p41〜42より

 私が外出するときは市内にでかけた。私は家から2マイル歩いて学校の中古教科書を販売しているプラス・バザー・ロードの書店へ出かけた。途中、私はキャセイ・シネマの正面入り口近くに群集が集まっているのを見かけた。この映画館はかつて日本人をばかにした喜劇映画を見たところである。群衆に混じって私は華人の首が柱の上の板に置いてあるのを見た。そこの横には中国語で何かが書いてある。私は中国語が読めなかったが、だれかが「こんな目に遭わないための警告だ」と言った。この男は略奪行為に走り、打ち首にされた。軍令に従わない人間はこの華人男性と同じ方法で処分される、とある。私は日本人の恐ろしさを感じたけれども、同時に『ライフ』に載ればどんなに素晴らしい写真になるだろうかとも思った。アメリカの週刊雑誌社なら、シンガポールの最も近代的なビルディングとその前で行われた中世の罰則との対比をくっきり物語るこの写真に相当の金を払うだろうと思った。もっとも、カメラマンも多分、首をはねられた略奪者と同じ運命で終わるかもしれない。

たかが盗みで、打ち首にする通りにさらし首にするという、まさに"中世の刑罰"。日本軍の進歩は実際は中世どまりなのかな。断じて日本軍は近代軍ではない。ただし、著者の「同時に『ライフ』に載ればどんなに素晴らしい写真になるだろうか」、「アメリカの週刊雑誌社なら、シンガポールの最も近代的なビルディングとその前で行われた中世の罰則との対比をくっきり物語るこの写真に相当の金を払うだろうと思った」という感想は頂けないと思う。もし、私が人のさらし首なり、死体を見た場合、まず気が動転するであろう。数分の思考の空白があった後、110をして警察を呼ぶという行動を取る。間違っても、写真を撮って「フライデー」に売りつけようなどとは考えない。

●リー・クアンユーの祖父の悲劇
p43〜より

 私の祖父のリー・ホンレンは7月に病気の症状が悪化し、私が日本語学校を卒業した3週間後に他界した。その前、私は祖父が養女と住んでいたプラス・バサー・ロードを何度も訪ねた。祖父に会うのは本当につらかった。彼の病気が重いためだけではなく、祖父がよりどころにしていた世界、つまり英国と英国にまつわるすべてが崩壊してしまったからだ。英国の海軍、船長、規律、優越性などが見慣れない顔をした日本人によって粉砕されてしまったからだ。彼はなぜ風采の上がらない人間が背筋のしっかり伸びた英国将校をうち破ることができたのかどうしても理解できなかった。日本がどうやって英国が誇る軍艦プリンス・オブ・ウェールズとレパレスを撃沈し、英国艦隊を粉砕したのか、英空軍機を撃墜し、11万の兵力でシンガポールを2週間で包囲し13万人の英国軍を捕虜にできたのか。彼が昏睡状態になるにつれ私は、祖父は戦争が起きる前に死んでいればよかったのに、と思わざるをえなかった。

著者の祖父は悲劇だったと思う。なぜ、野蛮な日本軍が英国軍をあっさりと打ち破ることができたのか。それは簡単な話である。本書は日本軍の快進撃を美化しすぎだと思うが、シンガポールを含め、短期間に広大な地域を占領し、欧米勢力を駆逐することができたのか。いろんな理由があるが、一番決定的なのは、この時期の英米の目がナチス・ドイツの打倒に向けられており、アジア方面ではなかった。ナチス・ドイツの打倒に見通しがついたあとにするという方針だったのであり、対日対策は後出に回ったためである。ヨーロッパ戦線に優先的に必要な資材・兵器・人員が回された。こうした理由から、またたくまに英軍を破り、シンガポールを短期間で陥落させた大きな理由である。それでも野蛮で血塗られた獣の集団が、紳士の英国を打ち破ったことは多くのシンガポールの人々にとって衝撃的だったのに違いはない。

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リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社 上巻・下巻 に見る日帝悪 part1

リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポールストーリー 小林利寿訳 日本経済新聞社を読みました(ずいぶん前の話ですが)。本書は上下巻に分かれており、上巻はリー・クアンユーの正午から、マレーシアから分離独立しシンガポールがひとつの独立国家になる1965年8月9日までの42年間、下巻は独立から現代までを描いている。そこに書かれていたことは、まさにシンガポールの歴史そのもので、リー・クアンユーという一人の政治家の成長を通して、シンガポールの発展過程が描かれている。シンガポールのおかれた国際情勢を知る上でいい教科書だと思います。シンガポールは、大英帝国は世界をまたぐ海洋国家の中継貿易港を起源とする人工国家であった。国家の発展を考える場合、シンガポールは多くの民族・人種が混じり合ったカオスのような国家である。そんな国家を引っ張ってきたリー・クアンユー氏は尊敬に値すると思う。英国植民地下で英国流の価値観を身につけ、英国留学時代に独立闘争に目覚め、帰国後は弁護士活動を通じて、社会の実態を知り、政治の世界に入ってからは共産主義勢力に、党運営の方法、政治の駆け引き、国民の統率手法などを学んでいる。長々とした脱線はここまでにしておいて、本題の日帝悪に入ろうと思う。リー・クアンユー氏は幼少のころ、悲惨な日本軍占領時代を過ごした。
シンガポールには、鞭打ちの刑がある。些細な違反でも厳しい刑罰が課されるのである。シンガポールの刑罰は非常に厳しいが、そのルーツがリー・クアンユー氏が幼少のころの日本軍占領時代にあることはご存知であろうか。そういうことを含めて、この本に書かれている日本軍の蛮行に関わる部分を抜き出していきたいと思います。日本軍の侵略については、本書の上巻の第3章 日本の侵略より(P27〜60)に書かれています。(このエントリーはすべて上巻より引用)


●日本軍侵攻前夜

リー・クアンユー氏(以下著者とする)は、ケンリッジ上級試験で最優秀の成績を収めた者に授与されるアンダーソン奨学金を受け、シンガポールのラッフルズ・カレッジに入学しました。学園生活を送っていましたが、1941年12月8日の早朝4時に寄宿舎で眠っているとき、鈍い爆発音で目を覚まします。そのときが、著者にとっての、アジア・太平洋戦争の始まりでしょう。学校の授業は停止されて、著者は医療補助隊に志願します。日本軍は英国の防衛ラインをやすやすと突破し、シンガポールの対岸であるジョホールまで迫ってきました。日本軍は昼となく、夜となくシンガポールを爆撃していたという。著者の父にも退避命令が出され、日本軍と対峙することになったオーストラリア兵は怯えていた。

p30〜31より引用する。

 こんな暗い時期ではあったが、私は医療補助隊が非番のときに何回か映画を見に行った。数時間、映画を見ることで暗い先行きを忘れることができたのである。一月下旬のある日、私はキャセイ・シネマで喜劇を見ていた。ある場面でひとつの爆弾が小さな音とともに遠くに落ちた。不発弾である。不発弾を開くと「日本製」の印が出てきた。私はおかしな気がした。過去2ヶ月の間、シンガポールは日本軍の圧倒的な空襲と砲撃を経験したのである。それなのに私が見ている映画は、日本人はがに股で、まっすぐに砲撃したり、嵐に耐えうる船は建造できず、製造できるのは性能の悪い兵器だけ、と日本人をばかにしたものだった。不幸なことに事実はその反対だった。12月8日以来、日本軍は勇気、力、そして英国軍に対してめざましい軍事的能力を証明してみせたのである。後に戦時中の首相だったウィンストン・チャーチルはシンガポールの陥落についてこう書いた。「英国史上、最悪の災難であり最大の陥落だった」。
 2月10日には英国軍が撤退したときに、軍隊がカレッジを接取した。その2日後には医療補助隊も解散した。最初、私はノーフォーク・ロードに住んでいたが砲撃が近づくにつれテロック・クラウに住む家族に合流した。その後の数日間、遠くで聞こえていたライフルの音が次第に多くなり近づいてきた。重火器や砲撃、爆撃音は聞こえなかった。好奇心から私は友達、漁師の子供たちとともにいつも一緒に遊んでいる集落につながる裏門から出ていった。20ヤードほど歩いて、私は英国軍の緑と茶色い制服とは違う焦げ茶色の制服姿の人間に会った。ゲートルを巻き、親指とその他の指が分かれたゴム底の靴を履いている。滑りやすい土地ではそのほうが土をつかみやすいと知ったのは後のことだった。しかも首の後ろに布垂れが下がった帽子をかぶっている。風変わりで小柄で長い剣先のついた銃を持っている。彼らは決して忘れることのできない異様なにおいを放っていた。マレー半島の北部のコタ・バルからシンガポールまでジャングルやプランテーションの道を2ヶ月間、体を洗うことなく戦闘してきた兵士たちのにおいだった。
 彼らがだれか気がつくまで数秒もかからなかった。日本兵だ。私は真っ青になった。彼らは敵の捜索中だった。私が日本兵の敵兵でないことは間違いない。日本兵は私を無視して行ってしまった。私はすぐに家に飛んで帰ると、家族にいま見てきたことを話して聞かせた。自分たちを守るためにどれほど意味があるか知らなかったが、我々は家の窓や戸を全部閉めきった。中国での37年の残虐行為のあと、レイプと略奪は日本軍があおった恐怖の中で
最も恐れられていたことである。しかし、その日の昼間と夜は何も起こらなかった。英軍は市街中心部まで急速に撤退し、戦闘で大きな抵抗を示さなかった。

この文より、イギリス側は日本軍の力をかなり見くびっていたことを示している。皮肉にもあっさりと日本軍の力を前に敗退し、白人神話はことごとく打ち崩れることになるのである。その後、著者は日本兵を目撃する。風呂にも入っていない、なんともいえない異様な姿に、シンガポールの人々は恐怖するであろう。南京・上海の中国戦線おける残虐行為はすでにシンガポールの人々に知れ渡っており、レイプや略奪の恐怖に苛まされたという。日本兵の異様な姿がいっそうその恐怖を煽り立てたことは間違いない。ただし、南京と異なりシンガポールでは陥落前後に日本兵の強姦などによる大きな不祥事はなかった。シンガポールを攻略した第25軍は南京のような日本兵による略奪や強姦などの不祥事が起こることを恐れて、陥落直後に市街地に戦闘部隊を入れないという措置を講じたりしたからだ。南京での経験があったからこそ、南京のような悲劇が免れたといえる。
p31〜32より
 翌2月15日。この日は中国人のお祭りの中で最大の春節である。いつもなら新しい服を着て、昔ながらの菓子や食べ物を食べて祝う日である。それが今年は中国人が1918年にシンガポールに移住を始めて以来、最も暗い春節となった。市街の北部や周辺地区では戦闘の音が聞こえた。砲撃の音も遠くに聞こえた。テロック・タラウでは何も起きていなかったが、日本軍はもう市街地に入り込んできたのである。
 夜になって銃声が聞こえなくなった。まもなく、英国軍が降伏したとのニュースが広まった。翌日、市街地から戻った友人によると、すでに略奪が始まっているらしい。英国人をはじめヨーロッパ人の邸宅で、彼らが雇っていた運転手や庭師が略奪をしているという。我々一家も不安になった。長期間をしのぐために食糧や生活必需品が貯蔵してあるノーフォーク・ロード28番地はどうなっているのだろう。母の了解を得て、私は庭師のテオンクーを連れてテロック・クラウから8マイルほどのノーフォークへと歩いて戻った。ちょうど2時間かかった。途中でマレー人たちが大きな家から家具や道具類を運びだしているのが見えた。華人の略奪者は倉庫にあるかさばらなくて値打ちの高いものを狙っていた。我々の家から二軒向こうの荒れ果てた平屋は20人ほどのジャワ海から来たボヤニーズの家族たちに占拠されていた。男たちの仕事は運転手だった。しかし、彼らはまだ我々のところまではやってこなかった。敵性収容所に集合して空き家となった西ヨーロッパが持つ大きい家のほうが、より上等なものが手に入るからだ。頃合いをみて私は家に戻った。
 私がノーフォークから2時間ほどかけてテロック・クラウに戻る途中、法と秩序が仮死状態になったシンガポールを目撃した。英国軍は降伏した。中国人やインド人警察幹部やマレー人警官の姿はどこかへ見えなくなった。日本軍から英国軍の組織員と思われることを恐れたのである。市内では依然、日本兵の姿は見えなかった。
 しかし、いつもとは違い多くの人々は法律に従った。しかしこれまでのボスがいなくなったことで機会に乗じ倉庫や百貨店、英国人所有の商店から略奪するつわものもいた。この略奪行為は日本軍が秩序を回復するまで数日間にわたり続いたが、日本軍は略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点にみせしめにしたので終結した。日本軍は人々の心に恐怖心を植えつけたのである。

 シンガポールは機能不全に陥り、無法地帯となり略奪が行われた。それは、権力の空白期間にあるとき、よくあることである。英国人などヨーロッパ人の邸宅が略奪され、英国統治機構が崩壊したことはひとつの時代を終わりを象徴する出来事であろう。さらにいえば、シンガポールの人々を苦しめ、過酷な日本軍占領時代の始まりを意味していた。シンガポールの人々を恐怖に陥れることになる。略奪が広範囲に行われており、秩序回復のために日本軍がとった手段は、略奪者の集団を捕らえるのではなく、問答無用で射殺し、首をはねて主要な橋や交差点に見せしめにすることであった。シンガポールの人々は、さっそく無慈悲な武装集団である日本軍を目の前に恐怖に慄くことになるのであった。のちに、著者に"中世の罰則"と評される光景である。  

●日本軍の略奪行為
p32〜より

 日本軍も略奪行為を働いた。日本の支配が始まった最初の数日間は、通りで万年筆や腕時計を持っていた人は日本兵にすぐに取り上げられた。兵士たちは公式の捜査で、あるいはそう装って家に押し入り、個人的に着服できるものを奪っていった。日本兵は高級な自転車を取り上げたが、数週間でそれは止まった。日本兵のシンガポール滞在時間は短く、より広大な領地を獲得するためにジャワ島やその他の島々へ向かい、自転車は持っていけなかったのである。

略奪者を問答無用で射殺し、首をはねて見せしめにしているくせに、自分たちは支配者として横暴を振る舞い、容赦なく市民から略奪しているのだ。どうしようもない軍隊である。  

●英国が敗北した意味
p33〜35より

 ・・・・・・ラッフルズが1819年にシンガポールを東インド会社の貿易拠点として開発して以来、アジア人より白人のほうが優れているという白人の優越性が問われたことはなかったのだ。なぜそうなったのか私は知らないが、少なくとも私が学校に入るころには、英国人は最大のボスであり、他の白人たちもボスだった。大きい人もいたし小さい人もいたが、いずれにしろ白人が我々のボスだった。白人の数はそれほど多くなく8000人ぐらいだった。白人はいい暮らしをし、アジア人とは違う離れた場所に住んでいた。政府の役人は高級住宅街の大きな住宅に自動車や召使い付きで住んでいたし、
食物は肉や牛乳がたっぷりで一クラス上だった。英国人は3年ごとに3ヶ月から6ヶ月の間、シンガポールの熱帯気候で消耗した体をいやすため英国に一時帰国した。子供たちも教育のため帰国した。子供たちも現地人とは一クラス違う生活をしていたのだ。
 ラッフルズ・カレッジの教師は全員が白人だった。物理と化学で最も優秀な成績を収めた2人の現地人卒業者が実験助手として登用されていたが給料は少なく、このポストを得るのにもロンドン外国理学士の学位を取得しなければならなかった。(略)
 我々には白人に対する恨みなどの問題はまったくなかった。政府や社会における英国人の優越的な地位は単なる世の中の事実だったにすぎない。英国人は結局のところ世界で最も偉大な人たちだったのである。彼らは史上最大の帝國を築き上げ、領土は4つの海と5つの大陸にまたがっていた。我々はこれを学校で歴史の授業で学んだ。英国人はシンガポールを統治するために定期的に交代する数百人の兵士を配備するだけで十分だった。最も目立ったのは市の中心部に近いフォート・カニングに駐屯していた兵士たちである。シンガポールなど海峡居留区とマレー各州に住む6,700万人のアジア人を支配するのにも、全部合わせて2000人ほどの兵士もいなかったのだ。
 英国はマレー人を守るため必要とされているとマラヤで自分たちの立場を正当化してきた。英国がいないと、マレー人はもっとよく働く華人などの移住者にやられてしまうからだった。多くの中国人、インド人が労働力として連れてこられた。マレー人は商業や農園経済が必要とするゴム液採取、道路や橋の建設などの仕事、また、社員や会計担当、店員などとして働くことになじまなかったからである。
 ごく限られた数であったけれども、白人のボスと社会的に交流することが許されたアジア人もいた。彼らは総督の補佐機関や立法機関の非公式メンバーに任命された。白い手袋を着け、最高の正装をした夫人とともに総督公邸のガーデン・パーティ、時には晩餐会に出席し総督夫妻に恭しく挨拶するアジア人有力者がよく新聞の写真に登場したものである。ナイト(侯爵)の称号を得た人もあった。そこまでいかなくても多くの現地人は仕事を長く勤め上げ、白人から栄誉を与えられることを願っていた。彼らは白人高官にひいきにされるのと引き換えに白人より格下の地位を受け入れた。これらアジア人は自分たちが他のアジア人よりも一段格上の人間だと思っていたのである。一方で、英国人であろうと他のヨーロッパ人やアメリカ人であろうと、行動に誤りがあると見なされた白人は即刻、シンガポールから追い出された。白人の優越性に疑問が生じることがあってはならず、そうした白人は白人社会全体の品位を汚すと考えられたからだ。
 私は両親や祖父から英国の優越性を前提とした社会を自然のこととして受け入れるような教育を受けて育った。私の記憶では、言葉であろうと行動であろうと、白人の優越性に疑問を差しはさんだ現地人はいない。英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、毅然と闘う人はいなかった。一方で私は中国でしか教育を受けていない華人たちが、実は英国植民地支配の内側には組み込まれず、その枠外にいたことも知らなかった。中国から派遣された教師も白人の優越性を受け入れていなかった。大英帝国の美徳や使命を受け入れるように教育を受けていなければ、吹き込まれていなかったからである。私は戦争が終わってからこうした華人の実態を深く知ることになる。
 以上、述べてきたことが、13万の英国兵、インド兵、オーストラリア兵を向こうに回し、日本が11万の兵力を動員して攻撃し獲得したマラヤとシンガポールの実情だった。人々が驚き、動転し、それに愚かさが入り交じった70日間で、シンガポールの英国植民地社会は、英国人が優秀だという虚構とともに吹き飛んだのである。アジア人は砲撃が始まるとうろたえると思われていたが、実際には冷静で犠牲を受け入れ死んでいった。これとは対照的に日本軍の爆撃や砲撃が始まると、まっさきにテーブルの下に潜り込んだのは白人のボスたちだった。41年12月16日、暗闇の中、アジア人を見捨ててペナン島からシンガポールへ脱出したのは白人公務員や民間人だった。英国軍は壊せるものは何でも破壊して退却していった。英国人は病院、公共建物をはじめ重要な施設は無人のまま放置したのだった。火事を消す消防士もいなければ水道を管理する役人もいない。責任がある立場の白人はみんな逃げた。自分たちだけは無事に逃げようとあわてふためく白人を見て、アジア人たちは白人が利己主義で臆病なことを見てとったのである。このような話の多くは明らかに誇張されておりバランスはとれていなかったとしても、事柄の本質はその中にあった。アジア人は白人のリーダーシップに期待していたけれど、白人にはその期待に応える力はなかったのだ。

シンガポールの人々にとって、英国とは何だったのだろうか。間違いなく、アジアの人々の上に君臨していたのは、英国人であったのである。英国人をはじめとする白人と現地の人々との差別も間違いなく存在した。ただし、リー・クアンユー氏が言うように、現地の人々は白人の優越性に疑問を挟むことはなく、ごく自然に受け入れていたのである。大日本帝国の植民地の朝鮮や台湾では、日本人が優越民族として君臨し、天皇の名の下に、植民地の人々を力でもって踏みにじっていたのである。フランスのインドシナ、オランダのインドネシアにしても、大日本帝国の植民地ほどではないが、白人による力による抑圧があり、独立運動が存在した。英国は非常にソフトであり、植民地統治機構の枠外でうまく調和させて厳然たる白人優越社会をつくってきたのであろう。英国を打ち破り、快進撃を続ける日本軍によって、その白人優越社会は破られることになる。
p35より
 白人は生まれながらに優秀であるという優秀神話をうち立てることに成功したので、多くのアジア人は英国人に刃向かうことなど現実的ではないと思い込んでいた。しかし、アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話をうち砕いてしまったのである。ところが日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本の占領の3年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。
 同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と自分は違うと考えていたのである。

●新たな支配者の横暴
英国を打ち破って、シンガポールの人々の世界観を根底から覆した日本軍。しかし、新たに君臨した征服者は、英国よりもはるかに残虐で、アジアの人々を蔑み、当時の日本人にとって、中国人やインド人、マレー人は野良犬や虫けらと、少しも違う存在でもなかったわけである。結局、著者をはじめシンガポール人は幻滅することになる。
p36〜
 私が日本兵と初めて接触したのは、カンポン・ジャワ・ロードに住む母の妹の家に行く途中だった。ブキット・ティマ運河にかかるレッド・ブリッジを渡ろうとすると、たもとに歩哨が行ったり来たりしていた。周りに4,5人の日本兵が座っていた。分遣隊の隊員だったのだろう。私はオーストラリア兵が捨てた広い緑の帽子をかぶっていた。暑い日差しをよけるために拾ったものである。
 私はできるだけ目立たないように日本兵の脇を通り過ぎようとすると、1人の兵士が「これこれ」と言いながら私に手招きをした。近づくと、その兵士はいきなり剣付き銃の先でその帽子をはねのけ、平手打ちをし私に跪くよう仕草をしてみせた。私が起き上がると日本兵は私が来た道を戻るように指図した。それでも私の場合は軽くすんだほうである。新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間も座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。
 ある日の午後、ノーフォーク・ロードの自宅のベランダに座っていると一人の日本人兵士が人力車夫に金を支払っているところが見えた。日本兵は少し多く払ってほしいと抗議する運転手の右腕をねじり、柔道技で空へ投げ上げられてしまったのだ。人力車夫は顔から真っ逆さまに落ちた。しばらくして人力車夫は起き上がったが人力車のそばでよろよろとふらついていた。あまりの仕打ちに私はショックを受けた。
 翌日、私はレッド・ブリッジで別の教訓を学ぶことになる。新たに徴発された車が青い旗をつけて走っていた。この手の旗といえば黄色は大将、赤は少将から大佐クラス、そして青は中佐から大尉クラスで一番下だ。ところが歩哨兵が持ち場で敬礼に立つのが遅かった。車は通りすぎたが、運転手がブレーキをかけ逆進した。将校が車から降りると歩哨兵に近づくなりきつく平手打ちを3回かました。右腕をつかむと、人力車夫にしたのと同じように歩哨兵を投げ飛ばした。私は今度は、それほど驚かなかった。粗暴なやりかたは日本の軍隊組織が持つシステムのひとつであり、ささいな違反行為に対する制裁を通じて日本兵の身に染み込んでいくと理解し始めたのである。

日本軍から暴力やリンチをとってしまったら何も残らないほど、日本軍には暴力体質が染み付いている。日本軍は暴力が支配する異常な軍隊である。軍隊に入ってまだ間もない初年兵が、下士官や上等兵から訳の分からぬ言掛りをつけられてビンタをくらわされるという。それを私的制裁という。軍帽の被り方が悪い、やれ動作が鈍い、返事の仕方が悪い、敬礼をしなかった、敬礼が遅れたなどといって、殴る、蹴る、平手打ちをする、炎天下の中で何時間も座らせるような制裁を階級もしくは年功序列が上の者が下の者に対し行う。それが順々と繰り返されて続いていく。日本軍の場合は、日本軍の規則を外部の人に対しても強制する。この場合、シンガポールの住民である。日本軍の規則や日本人の礼儀など、シンガポールの人々は知るわけもない。それを強制されるシンガポールの人々はたまったものではない。何回もいうように、日本軍というのは、兵士にはもちろん、枠外の占領地の市民にさえも、がんじがらめの規則と厳しい罰則と、そして服従の強制を強いるとんでもない軍隊であるというのがわかってもらえたと思います。
p36〜37
 その日の夜、日本軍下士官が数人の兵士とともに我が家にやってきた。家をひとわたり見回して私とテオンターしかいないことがわかると、彼らは我が家を一時、宿泊することを決めたようだ。これが私の悪夢の始まりだった。私はプレス・バサー・ロードにあった日本人歯科医院で治療を受けていたことがある。医者と看護婦は完璧なまでにきちんと清潔にしていた。ミドル・ロードにある日本人の安売り10セントショップの日本人店員も男性、女性とも同様に清潔だった。私は衣類を洗濯せず、風呂にも入っていない日本兵が放つ吐き気がするにおいには我慢できなかった。彼らは室内や敷地を歩き回った。彼らは食糧を探しており、私の母が蓄えた予備食料を見つけ、食べたいものは食べてしまった。私は言葉が違う日本兵とは話すことができなかった。彼らは仕草や指図で自分たちの要求を伝えた。私が日本兵の要求を理解できずにいると、怒鳴られ何度も平手打ちを食らった。彼らは理解し難い人間だった。ひげも剃らず、髪もとかさず、聞くに耐えない攻撃的な口ぶりだった。私は心の底から恐怖にさいなまれ、夜も何度も目が覚めたりした。地獄のような3日間の後に彼らは立ち去った。
 日本兵が私の家を仮の宿泊にしている間の2月17日から2日間、連合軍兵士は重い足取りで家の前を通りレッド・ブリッジを渡って収容施設のあるチャンギへと連行されていった。ベランダに座って彼らを見つめていた私の心は鉛のように重かった。多くの兵隊たちはいともたやすく、そして決定的に打ち負かされたことで、途方にくれた表情をしていた。降伏した兵士の姿は哀しい。

 シンガポール陥落当時といえば、職業軍人ではない限り、徴兵されてからそれほど期間はたっていないはずである。日本軍の暴力漬けの過酷な軍隊生活というのが、人間性を壊すのかというのを示している。当時の日本兵は風呂も入っていない、垢だらけの服装で、吐き気をする匂いを放ちながら、人様の家に土足で上がりこみ、口汚く罵倒し、誰彼なしに殴り、片っ端から食糧をあさり、およそ気品のかけらもない凶暴で下品な人種であった。これほどまでに人間性を崩壊させて、非人間性を叩き込んだ日本軍という存在を憎く思う。  
part2では、占領後行われた華僑粛清事件の様相と著者が見た慰安所、日本軍の非人間性、著者の祖父の悲劇、日本軍占領下のシンガポールの庶民の生活の様相について書く。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:26 | Comment(10) | TrackBack(44) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月09日

もっと知りたい ミャンマー 綾部恒雄・石井米雄編 第2版 弘文堂

ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書を取り上げました。
以下そのエントリーです。
ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書 part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17514322.html
ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書 part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/18183714.html

「もっと知りたい ミャンマー 綾部恒雄・石井米雄編 第2版 弘文堂」からビルマにおける日本軍とはどういうものであったかというのを見ていきたいと思います。本書はミャンマー(ビルマ)の歴史、風土と地理、民族や言語、宗教、芸術や文学、社会・政治・経済、何よりも日本との関係について最新の知見に基づいて広く書かれています。歴史認識にかかわる部分を抜き出していきたいと思います。なお、でてくるビルマ人の人名については、「ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書」での表記と異なるところがありますが、可能な限り本書に忠実な形で書きます。
 まずは、改めてビルマの日本軍侵略の経緯から説明をはじめたいと思います。日本軍(南方軍下の第15軍)は1942年1月に、ビルマ独立義勇軍(BIA)を引き連れてビルマに侵攻しました。しかし、対立はこのころより始まっており、第15軍は軍事占領を第一の目的とし、独立の実現を唯一無二の目標とするBIAのビルマ将兵、そして両者の中間に入って板ばさみとなった南機関(30人志士およびBIA将兵らの育成にあたった軍事機関)が三つ巴になる形であった。一方、一般民衆はこうした対立を知るすべはなくBIAの進軍を歓迎しました。日本軍は軍事占領が目的ではなく、独立支援の目的でやってきたのだと最初は理解されました(東條首相がビルマを近い将来「独立」させることを公言した)。BIAには多くの若者が身を投じて、約半年で1万人まで膨れ上がりました。日本軍は英領ビルマ政庁と植民地軍をインドまで追いやると、ビルマ人ナショナリストの思いを無視し、第15軍の意向が反映する形で軍政を実施しました。タキン党員らが各地に作った臨時行政府を解体、BIAを大幅に縮小しビルマ防衛軍(BDA)とし、さらに南機関をも解散させた。タキンたちや多くのビルマ人を日本に失望させることになった。日本軍は若すぎて過激すぎるとの理解からタキン党員を遠ざけて、年長のGCBA(全ビルマ団体総評議会)系の民族主義者で反英言動のため投獄されていたバ・モオを起用しました。1943年8月1日に、日本はビルマを大東亜共栄圏の一員として「独立」を認めました。バ・モオが首相兼任で就任して、16名の閣僚のなかにはアウン・サン(国防相)、タキン・ヌ(外相)ら6名のタキン党(我らのビルマ協会)のメンバーも加わる形となりました。しかしこの「独立」も名目的であり、日本軍は秘密協定に基づいてそのままビルマに駐留したのみならず、軍事上の一切の自由を有してビルマ政府を傀儡として自由に操りました。失望したタキンたちはアウン・サンのいる国防相を中心に地下組織をつくって団結し、すでに活動していた同じタキン党系のビルマ共産党と人民革命党と密接に連絡をとって反抗の機会を窺うことになりました。もはや日本という存在は完全に打倒すべき敵に変わっていったことが読み取れます。
本書の日本との関係 5 抗日蜂起 p272〜274より抜粋します。

 日本が嫌われた理由は単に中身のない「独立」のためばかりではない。憲兵隊による残虐な拷問、一部兵士によるビンタなどの粗暴行為、農村における婦女暴行や家畜徴発、日を追うごとに悪化する経済状態(43年の「独立」の段階で占領初期と比べ物価はほぼ10倍に上昇)、そして泰緬鉄道建設工事に象徴される事実上の強制労働なども大きく影響していた。裸足で入るべきパゴダの境内に靴のままあがったり、人前で裸を見せることを極端に嫌うビルマ人の民族性を無視して平気で彼らの前で裸になり水浴びしたり、従軍慰安婦を連れて来て各地に慰安所を開いたりしたことも、人々の対日イメージを悪化させ、彼らをますます反日に追いやった(一方でビルマ人と個人的に交流を深め、良い関係を築いた日本兵も多かったことは覚えておくべきだろう)。
 タキン達は抗日準備をおしすすめ、日本軍がインパール作戦で大敗を喫して作戦を中止した直後の1944年8月、地下組織のビルマ共産党と人民革命党が国軍と一緒になる形で「反ファシスト人民自由連盟」(パサパラ)を結成した。代表には共産党のタキン・ソウとタキン・タン・トゥンおよび国軍のアウン・サンが就いた。共産党はすでに42年からテイン・ペイらをインドに送って連合軍との連絡を取らせていた。その成果もあって45年1月からはインドで訓練を受けたビルマ人青年数十名が、また同年3月からは英国の特殊作戦局(SOE)の下にある136部隊からジェッドバラ隊と呼ばれる特殊小隊が、それぞれビルマにパラシュートで夜間に降下し、パサパラの地方細胞の一部を支援した。この間、共産党を国軍は密かに一部の農村で農民らに抗日教育やゲリラ教育を施した。国軍内においても日本人教官が反抗してくる連合軍との戦いを想定してゲリラ戦教育を行い、皮肉なことであるがビルマ人将兵はそれを抗日闘争において生かすことになった。
 1945年3月27日、パサパラは国軍と農民義勇兵を核にして一斉に抗日蜂起する。ゲリラ戦を通じて数千名の日本軍将兵に打撃を与え、各地に進出してきた連合軍と協力して、彼らのビルマ奪還作戦の進展を早めた。タキン達はこの抗日蜂起の事実を最大限に利用して、独立後、英国との独立交渉に強い姿勢で臨んだ。また、この一斉蜂起とは関係のない形でカチンやカレンなど少数民族が早期から連合軍の武器援助を元に日本軍と戦っていたことも忘れてはならない。彼らも日本占領期に非常な苦痛を味わっていた。
というわけです。ビルマ軍政で二度にわたり、ビルマを裏切り続けたことがわかります。最初はビルマを全面的に制圧したとたんに、ビルマ防衛義勇軍(BIA)の規模を大幅に縮小して、BDAにして、タキン党有志らが各地につくった臨時行政府を解体した上で、直接軍政を実施したことがあげられます。43年にビルマの「独立」を認めたのですが、名目上だけであり、実際は大日本帝国の植民地であり日本軍が好き勝手にやっていたということが2回目です。それだけではなく、憲兵隊によるビルマ市民への拷問、日本兵による粗暴な振る舞い、徴発と婦女暴行、強制労働、経済状態の悪化、ビルマ人の民族性や現地習俗に対する日本兵の理解欠如、各地に慰安婦を連れて慰安所を開設したことなどによって、ビルマ民衆の反発を招いたことが何よりもの一番大きな要因であることが抜粋部分から読み取れると思います。なお、引用文には、個人的に交流を深め、よい関係を築いた日本兵も多かったと書かれています。ビルマには以下のような日本兵たちもいたことを忘れてはいけないでしょう。
ある日本軍兵士の慰霊碑 by 深水 正幸
http://www.yangonow.com/jpn/magazine/essay/fukamizu/essay01.html
続いて、日本軍のビルマ占領についての歴史的評価について書かれていました。。
 なお、日本のビルマ占領に関する歴史的評価に触れておくと、いまだに一部の人々が主張する日本軍がビルマに入って英国を追放したからビルマの独立は達成された(もしくは早まった)という解釈は、あまりに一面的であると言わざるをえない。英国は1939年11月に、時期は曖昧にしつつも戦後のビル名の自治領化を明言しており、日本軍が侵入して来なくても大戦後の主権回復への道のりは確定していた。この事実を軽視してはならない。日本軍の占領がビルマの歴史にもたらした最大の変化は、年長のGCBA系ナショナリストから若いタキン党系ナショナリストへの世代交代を一気に進めたということ(ただしこれはタキン達の自力成長による面が強く日本軍が意図的に進めたことではない)、および「ビルマ国軍」という、独立後のビルマ政治に善きにつけ悪しきにつけ中心的な役割を担う武装集団の元を誕生させたということの2点に尽きる。ただこの国軍の元を作ったということについても、南機関を除く日本軍が同軍を常に冷たく扱い二流の軍隊とみなしてきた事実があるので、あまり日本としては自慢できる話ではない。
著者の書いているとおりです。まあ、もっとも日本軍の占領が結果的にビルマの歴史にもたらしたのはあの悪魔の武装集団ビルマ国軍とネー・ウィンという独裁者であり、ビルマの国軍の元を作ったということも自慢できるものではなく、むしろ現在もビルマの人々を苦しめていることをもって謝罪しなければならないことなのだと私は考えます。
 続いて独立ビルマにとっての日本を考えたいと思います。こちらの方は抜粋を避けて、前にも触れてあることなので簡単に振り返って以降と思います。1948年1月4日、ビルマは英国から完全独立します。日本は1952年ヤンゴンに総領事館を開設しました。ビルマはサンフランシスコ平和条約には加わりませんでした。そこで54年に日本とビルマは別個に日緬平和条約を結んで正式な外交関係を樹立するとともに、同時に賠償協定にも調印されることになり、翌年には東南アジアで最初の日本の戦争賠償が開始されることになります。ビルマが低額であったにもかかわらず早期に日本の賠償を受け入れた理由は、当時のウー・ヌ政権が進めていたピィードーター(福祉国家づくり)計画が財政難から頓挫し、早急に外国からの援助が必要だと考えたからであります。しかし、その賠償は大きな問題性をはらんでいました。
 1965年までに日本の賠償は計2億ドルが履行されました。ビルマの電力事情を改善させるためとしてバルーチャワン・ダムの建設というのがあった。しかし日本がこのダム建設を決めた本音は、日本の輸出の呼び水になるからというものであり、ビルマに対する加害の償いの意識や社会基盤整備を真剣に考慮して決められたものではなかったのです。62年からは四大工業化プロジェクト(軽車両、重車両、農機具、電気機器)の推進もはじまったが、これもビルマの工業の自立にはつながらず、日本企業の利益を優先するものであったのです。
 1965年には賠償が終わったが、ビルマより後に賠償協定が結ばれたインドネシアやフィリピンに比べてビルマへの賠償額が少なすぎたために、その差を埋めることを目的とした準賠償(経済技術協力協定)が始まりました。これは77年に終わりました。バルーチャワン・ダムへの追加資金供与と、四大工業化プロジェクトへの無償資金供与が中心でした。その間にビルマに対する政府開発援助(ODA)が始まり、68年からは有償資金援助(円借款)が、75年からは無償資金協力(グラント)が開始されました。これらの援助の結果は、その工業化プロジェクトで生産された車両や農機具・電気製品が人々の生活に多少役立ったという点を除けば、結果的に代金の回収リスクのない安定的な部品販売を続けた特定の日本企業の利益を確保させるだけにとどまったそうです。
 日本のODA供与額(有償資金協力、無償資金協力、技術協力の総計)が5117億円余りにのぼり、89年までの通算でビルマは日本のODA供与額が7番目に多い国だったそうです。ビルマ側が受け取った二国間援助の総額に占める割合でも圧倒的にトップであったそうです。なぜ、ここまで経済的にも政治的にも重要でないのにかかわらず、ビルマに多額の援助をしてきたのか?本書のp277〜278より抜粋します。
 日本が経済的にも政治的にもそれほど重要ではないビルマに、これほど多額の援助を供与してきた理由はいったい何であろうか。それは対ビルマ外交やODAに関わった関係者のうちビルマにとりわけ深い思い入れを有する人々が共通して語る「日本とビルマの特別な関係」という大儀名分であったと思われる。これは、日本が「30人志士」を中心とする若きナショナリストを教育して国軍を誕生させ育てたのだから、そこから登場したネー・ウィンら国軍の政権が目指す新しいビルマづくりを暖かく支援すべきである、という理解を意味していた(ただし必ずしも公式の文書で明確に表明されたものではない)。こうした「理解」が一面的であることは前節において記したとおりであるが、一方で、「国軍中心史観」を有するビルマ政権側にも日本のこうした「理解」を最大限に利用しながら援助を引き出してきた事実がある。ネー・ウィンは長い間日本の歴代大使との面会を優先させてきたし、また日本の外相や議員が来ると、ビルマ政府の要人が戦争時の占領支配と独立闘争をからめて好意的に語って喜ばすという、他のアジア諸国では考えられないようなことを平気でやってのけた。よって日本の対ビルマODAの巨額さは両国の「誤解と下心の合作」といえなくもない。

というわけです。ビルマという国が好きな右翼どもは結構いるが、結局ビルマの軍事政権に利用されているだけであり、むしろ現在のビルマ軍事政権の人権侵害に加担する屑野郎という感じか。まず、日本国民一人一人の意識はビルマは日本軍の占領に由来する親日的な国だという神話の意識を根底から葬りさるべきだろう。
ファシスト・ジャパン
http://www.sankei.co.jp/asia/hello/myanmar/fascist/01.htmより
「日本はわが国ミャンマーの恩人で、日本の助けによりミャンマーも独立できました。そして今、日本の経済力により助けられるチャンスがこのシドニーでもあるのです。」

 数年後、オーストラリアはシドニーに住むようになったある日、私は同地のミャンマー人移民団体の日本語教室開校式に来賓として招かれた。以上は団体の会長さんの祝辞である。何故シドニーで日本語講座なのかと思ったら、ミャンマー人の中には日本食レストランや日系ホテルで働く者が少なからずいて、その方が他の民族系の職場よりも賃金が多少いいのだそうだ。しかもたいてい日本人上司や日本人のお客は英語が達者ではないので、少しでも日本語がわかると有利だとのこと。この講座はシドニー大学で日本語を専攻したミャンマー出身者を講師に迎え、日本語の基礎と簡単な店員言葉を教えるものだった。
 日本のイメージはファシスト・ジャパンばかりではない。経済大国日本の姿もまた広く知られている。でも、会長さんがここまで日本を誉めるのは、ミャンマーから見た先進国、日本に対する気遣いもあるのだろう。ミャンマー独立をめぐり対日感情は信頼から失望、バラ色から灰色に変わったが、会長さんの言葉は日本への賛辞の常套句のようなもので、よくミャンマー人がこの話を引用し、しかも前半で話をやめてしまう。
 ミャンマーのある農村に日本人ビジネスマンを案内した時もそうだった。年配の村の要人たちが「独立の恩人、日本」の賛辞を口をして彼を歓待した。彼は彼で「ミャンマーは親日的なんだなあ。」とご機嫌だった。合間にその要人たちが私に言った。
あの方はミャンマーのことをご存知ないからね。あんた、ミャンマー語がわかるなら、ミャンマーで起こったこともわかるね。戦争中はこの村も大変だったんだよ。日本兵に乱暴された女の人たちもいたよ。」
 それにしても、既存の外国のイメージというものは個人の体験によって大きく変わることがある
という風に、親日だと思い込み、ミャンマー(ビルマ)の独立は日本軍のおかげで果たされたと勘違いし、自慰史観に溺れるやからがいることが跡を絶たないのが嘆かわしい次第だ。かつて、ビルマの大地で、日本軍は婦女子を暴行し、住民を強制連行し、家畜の徴発、憲兵隊の拷問など苛烈に振舞ったこと。ミャンマー(ビルマ)の歴史の中で、日本は"ファシスト"でしかなく、日本軍によるビルマの人々への暴虐はビルマの歴史の中に深く刻み込まれていることを知らないのであろうか?大日本帝国・日本軍がビルマをはじめ、アジアの地で何をしてきたのかということを日本人は認識すべきである。特に戦争体験者を含め、ビルマの人々を苦しめた侵略戦争に対する反省の視点がまったく欠如しているとは嘆かわしい限りだ。現在の軍事政権下では、軍事政権の誕生の歴史やカレン族などの少数民族の問題なども多く、日本軍の戦争犯罪や残虐行為を追及する動きは生まれる可能性は低いだろう。まず、日本人一人一人ができることといえば、ビルマにおける侵略と加害、裏切りの日本軍の卑劣な過去の歴史を認識することです。それの基本認識の上で、相手の文化を知ろうとし、日本軍の落とし子であるミャンマー軍事政権下のビルマの窒息するような状況を知った上で、ビルマと日本の市民間のレベルの交流をつなげていくことが現在日本人にできるビルマに対する償い方なのではないでしょうか。ともあれ、ビルマの人たちが軍事政権から解放されて、平和で、明るい生活ができるように祈りたいと思います。そして、ほかのアジア諸国で犯したような数々の残虐行為や従軍慰安婦などの過去の日本軍の加害や戦争犯罪について、ビルマ人の日本軍被害者たちが声をあげることができるような環境になることを祈っています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 21:15 | Comment(7) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月21日

ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書 part2

ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書 part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17514322.htmlの続きです。
本書のなかで日本の過去(大日本帝国・日本軍)と係わり合いの深い部分を取り上げていこうと思います。ビルマと日本の関係でいえば、最初の接点となったのは、日本軍の情報機関とビルマ独立派との接触があげられます。ビルマ独立義勇軍を結成させて、日本軍とともにビルマに侵攻させました。しかし、ビルマを占領した日本軍は直接軍政を敷いて、ビルマ独立義勇軍を解散させて反発を受けます。ビルマへ日本軍が解放するために来たのではなく、大東亜共栄圏に組み込んで、イギリスに変わる植民地主義者としてビルマを支配するために侵略するためにビルマにやってきたのでした。そして、過酷な支配と相俟ってビルマ民衆の反発を招き、1945年3月にインドからビルマに進撃してきた連合軍に呼応する形で、子飼いのビルマ国軍と抗日グループにより、日本軍は攻撃されました。5月にはビルマ国軍自身の手でラングーンを取り戻すことができました。しかし、ビルマと日本の関係は日本の敗戦によって途切れたわけではありません。ビルマは実質的に今も日本軍の占領下にある状態だと言っても過言でありません。なぜならば、何度もいうように、ビルマ国軍の前身は、日本軍に軍事訓練を受けたタキン・アウンサン(アウンサンスーチーの父。後に将軍)を筆頭にした独立運動を担った若者たちの「30人志士」に由来するからです。アウンサン亡き独立後のビルマ国軍は30人志士の一人であるネウィンがトップに君臨します。当時のメンバーには日本軍が開設した士官養成機関で学んだり、戦時中日本に留学した人たちが登用されました。したがって、ビルマ国軍には日本軍のカラーがよく残りました。そのビルマ国軍が現在もビルマ(ミャンマー)の政権に居座り続けているわけです。そんなわけで、本書より重要で日本と関わりあう部分を抜き出していきたいと思います。
 

●イギリスの分割統治支配とビルマにおける日本軍政について
p24〜p26より

分割統治の残したもの
 イギリスは、はじめビルマを英領インドの一州としてインド総督の統治のもとに置いた。その後、1937年になってインドから分離、ビルマ総督が支配する体制になった。
 しかし、シャン、カチン、チンなど少数民族が多い山岳地帯に関しては、フロンティア・エリア(辺境地帯)として、平原部のように直轄支配地域とせず、藩王、土侯などの封建的な権力者を残し、彼らを通じてその地域を間接的に支配した。いわゆる「分割統治」である。
 このイギリスの植民地支配は、のちにさまざまな問題を生む種をまいた。ビルマ平原部と辺境地域の統治形態が異なるため、住民のあいだの一体感は薄く、独立運動においても、独立後にも両者が協力体制をとることは、たいへんむずかしかった。
 また、山岳地帯では宣教師の布教活動によってキリスト教徒となる人が多かった。
 イギリス人からすれば、頑固に仏教からの改宗を拒むビルマ人(族)よりは、キリスト教徒となり西洋文明に理解を示す者のほうが警戒しなくてすみ、使いやすい。キリスト教徒となった少数民族出身者らはイギリス植民地統治の役人として、あるいは植民地軍の兵士として働き口を得るようになる。彼らは平原部のビルマ人からは「イギリスの犬」のように見なされ、英領インドから労働者としてやって来たインド系住民同様、嫌われものとなった。
 なお、インド人労働者とビルマ人労働者の大きな衝突は、1930年、38年に起こっている。
 1930年代になると、イギリス植民地政府に対する農民や労働者、それに大学生らの抵抗は、組織だったものになってきた。1930〜32年にかけてのターヤワディ農民反乱(指導者の名前をとってサヤー・サン反乱ともいう。ターヤワディは下ビルマの地名)、1936年のラングーン大学学生ストライキ(このとき学生連盟が結成され、アウンサンが書記長となる)、中部油田地帯の石油労働者のストライキに端を発し、学生や民族主義的な政治団体などが加わって全国的な反英闘争が広がったビルマ暦1300年(西暦1938〜39年)国民運動などが、つぎつぎと起こった。
 これらは、ビルマの教科書では独立運動のさきがけとなった愛国心の発露として大きく取り上げられている。
 しかし、一方では、独立後のビルマ連邦を悩ませる少数民族の反政府反乱の原因のひとつが、この時期に芽生えている。衝突事件であれ、労働争議であれ、暴動であれ、取り締まるのは警察であり、植民地軍である。立ち上がったビルマ人大衆に時には銃を向けざるを得なかった警察や軍には、多くの少数民族の人たちがいた。鎮圧の対象となったビルマ人(族)にとっておもしろいはずはなない。
 この逆のことは、日本軍の支配時代に起こっている。日本軍の協力によって誕生したビルマ独立義勇軍(BIA)は、日本軍政下でイラワジ・デルタ地帯を中心とする下ビルマ一帯で、しばしばカレン住民と衝突事件を起こした。BIAは、カレン人は親英派であり、逃げ出したイギリス軍とこっそり連絡をとっている、武器を隠し持っている、などと嫌疑をかけ、日本軍と協力して、カレンの村を焼き討ちしたり、おもだった者を殺害したりした。

ビルマにおける民族対立に日本軍が関わっていた。イギリスはカレン人などの少数民族を警察官や軍に採用し、カレン人などに多数派のビルマ人(族)を抑えさせる製作をとった。逆に日本軍はビルマ人(族)を使った統治を行い、それでカレン族が抑圧される。イギリス植民地下でビルマ人が味わった抑圧よりも、カレン人が日本軍占領中に味わった抑圧ははるかに過酷であり、日本軍もカレン人を抗日的だと見ていて、日本軍とビルマ人の両方から激しい弾圧を受ける結果となった。戦後、ビルマ人を中心とした政府で独立した段階で、カレン人がビルマ連邦に非協力的であり、直後から一部のグループが「分離独立」、あるいは「大幅な自治権獲得」をかかげて反政府武装闘争を開始することになった原因は、イギリス植民地時代の分割統治と日本軍占領時代に起因するのである。とりわけ後者の要因が大きいのではないのだろうか。日本軍の侵略は人的や物的な加害の側面にとどまらず、こういった現在まで続く民族対立にも深く関わっていることにも理解し、大日本帝国・日本軍の加害の一側面として理解しておくべきだと思います。このことは、マレーシアにおけるマレー系と華人系の対立にもいえることです。

 

●ビルマ国軍に引き継がれた日本軍的体質
 軍事政権下のビルマ(ミャンマー)では軍事政権のとんでもない施策に庶民は苦しんでいます。いずれも日本軍に起因するものです。
@強制立ち退きの問題
軍事政権になる前からあったが、軍事政権以後はヤンゴンのような都会で頻繁に見られるようになったということである。道路の拡張やホテルあるいはオフィスビルなどの建設にあたって、建設予定地に住んでいたり、商売を営んでいる人を有無を言わさず退去させるのである。土地は国有であるから、いわゆる補償金は支払われない。移転先の候補地は政府によって一応用意されるが、そこに済む権利を得るためには住民のほうが権利金を支払わなければならないという。新しい家も自分の金で建てないといけない。金を工面することはもちろん、時間も労力もかかるし、木材、セメント、レンガなどの建設資材は簡単には手に入らない。軍や政府の有力者にコネがあればいいが、一般庶民にとっては面倒ですごく負担が強いられるものである。しかも移転先も悪条件であり、バスなどの通勤手段が整備されていない、水道がない、道路が未舗装で雨季にはぬかるみになってしまうという悪条件であるということ。そんな目に多くのビルマの国民が苦しんでいるのです。

A勤労奉仕
 ビルマ語ではロウアーペー=労働力提供というらしい。これも国家発展のためとの大義名分のもと、軍事政権がさかんに活用している労働力確保・大衆動員の手段です。国連人権委員会の委託をうけて毎年ビルマの人権状況を現地調査して、国連に報告している横田洋三東京大学教授がいます。1994年にビルマへの調査旅行で、勤労奉仕の現場を訪れています。本書p122〜123より引用します。

 1994年の調査旅行で横田教授は、アンダマン海に沿って細長くのびるビルマ南部のモン州からタニンダイー管区にまで足を伸ばした。ミャンマー政府が鉄道新線(モン州イエからタニンダイー管区ダウェーまでおよそ130キロメートル)を建設している現場を視察し、強制労働の事実があるかどうかをたしかめるのが目的である。
 はたして現場には、狩りだされたと見える労働者がたくさんいた。機械類が少ないビルマでは人海戦術で工事を進めるから人夫の数は多い。しかし、政府関係者が横田教授にした説明は、ほとんどは農民であるこれらの人々は、国の発展に寄与したいと気持ちから自発的に勤労奉仕をしている、というものだった。ボランティアであるというわけである。
 しかし、口コミで伝えられる話は違う。政府は、上から下への行政チャンネルを通じて、近郷近在の住民たちに鉄道建設奉賛金というべき寄付金を割り当てる。ダウェーあたりでは一戸あたり3000チャットが課せられた例がある。
 割り当てられた金が払えない所帯は、かわりに建設現場で一ヶ月勤労奉仕をするものを一名出さなければならない。炎天下に黙々とつるはしをふるい、モッコをかついで働く人夫の多くは、こうしてお国に奉仕せざるを得ないのである。

Bポーター狩り
 ポーター狩りとは、軍が住民を実戦部隊の荷物運びとして強制的に連行することであり、ビルマ語でポータースエと言います。強制立ち退きや強制労働は我慢し強く耐え忍べば命の危険はないですが、ポーターに連れていかれると無事に帰れる保証はないという。p124〜125より引用します。
 ポーター狩りは偏狭に近いシャン州、カレン州、モン州などの少数民族の人びとの村落で、しばしば起こる。ビルマ国軍部隊がカレンなどの少数民族武装組織と戦っている地域に近いからである。老齢で体が不自由なものを除いて、村の住民全部、男も女も連れていかれるケースもある。
 銃口のまえでは、まさか拒否はできない。拒否しようとした村人がその場で殺されたり、村人の態度に怒った兵士に火をつけられ、村全部が焼かれてしまったという村もある。
 狩り出された人たちは作戦行動をする部隊に同行し、前線に出る。賃金は払われず、いつ解放されるかはわからない。食事はきわめてまずしいものしか与えられない。弾薬・食料など荷物運びが主な仕事となる。しかし、地雷原を先頭で歩かされることもある。殺気だった兵士たちから暴行を受けることも多い。女性は夜に「慰安婦」をつとめさせられることがあるという。
 ポーターに仕立てられた人のなかには、さすがに逃げ出す人も少なくない。兵士の目をかすめて逃亡し、ジャングルのなかをさまよったあげく、運のいい人たちは少数民族組織に保護されたり、あるいは国境を越えたタイ側の難民キャンプに命からがらたどりつく。

著者はさらにいいます。立ち退きも、勤労奉仕という名の強制労働も、ポーター狩りもビルマの国民にとってはめずらしいものではないと。軍事政権になってから降りかかったのではなく、ビルマ式社会主義時代、そして日本軍の占領時代に遡ります。日本軍の占領時代に、日本軍が始めたことで、現在のビルマ軍の体質がそれを受け継いでいるということです。日本軍の占領時代がいまだにビルマの地では続いているということです。

 

★次はビルマの民衆は日本軍をどのように見ているのかということについて触れたいと思います。
 バングラデシュにとの国境に近いビルマ連邦ラカイン州マウンドーでの話しである。この僻地マウンドーで活躍している日本人に著者は接触している。東京の渋谷に本部を置く、民間国際交流団体BAJ(ブリッジ・エーシア・ジャパン)のメンバーの方々です。
 BAJはこの血で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を手伝っているという。帰還難民定住促進事業の一環として、自動車や船外機つきボートの整備・修理をおこなうとともに、その技術を帰還難民をふくむ地域住民たちに教える訓練コースを開設しているという。1991年から92年にビルマから国境のナフ河を超えてバングラデシュ側へ25万人に及ぶ難民が流出したという。難民大量発生の理由は、勤労奉仕の強制やポーター狩りといったビルマ軍事政権の圧迫がありました。また民主化運動組織へのしらみつぶしの弾圧もあげられます。その後、バングラデシュ、ミャンマー両政府が難民のビルマ送還に合意し、UNHCRの協力のもとビルマへ帰ることになったという。日本人スタッフがこの地で日本軍について聞くことになる。このことを著者は又聞きしている。p163〜164より抜粋

 これまでのところは、住民からあたたかくむかえられて、仕事ははかどっていると話す新石正弘BAJ事務局長は、びっくりさせられた体験をつぎのようにつけ加えた。
「現地に行ってから気がついたのですが、こんな田舎にも第二次世界大戦中、日本軍が駐屯していたんですね。私たちはそれ以来はじめての日本人というわけです。驚いたことに、住民たちはこういっています。まず民間人がやって来た、つぎに来るのは日本の軍隊だよって」

●日本軍の記憶
ラカイン州の僻地まで日本軍が来たのは事実です。日本軍部隊が来る以前に、「からゆきさん」と呼ばれる女性と彼女らを相手に商売する写真屋や小間物屋などの行商の日本人たちもやってきたとされる。マウンドーの人たちの記憶に残っている民間の日本人については、確かめるすべはないが、軍隊のほうははっきりしているという。p164〜165より抜粋します。
 マウンドーは日本軍の兵要地誌にはモンドーとして登場する。当時の英領植民地ビルマの西端にあたるラカイン地方(当時の言い方はアラカン)は、いったんビルマ全土から追い出された英印軍が印度で態勢をたてなおし、反攻してくるであろう最前線として重要視された。ラカイン州のすぐ北にあるチン州をこえてインド侵攻をめざした日本軍のインパール作戦においても、マウンドー周辺の防衛は大きな要素であった。
 じっさいにマウンドーあたりでは、英印軍と日本軍のあいだで何度も激しい戦闘がくりかえされた。この地の人たちは、村の寺院などを日本軍司令部として使われたり、食料として米や家畜などを召し上げられたり、あるいは部隊に同行し補助的な業務をする兵補や人夫、通訳として徴用されたりしているはずである。
 日本軍の戦記は、現地の人たちにまで言及していないが、たとえば現在のラカイン州の州都シットゥエー(当時の名はアキャプ)は、加藤隼戦闘隊で有名な「軍神」加藤建夫中佐が戦死した場所として記憶されている。
 ラカイン州に限らずビルマ全土は、日本軍に占領支配された。1942年の侵攻から日本軍の敗北する1945年までは、いまでも「日本時代(ジャパン・キッ)」としてビルマの歴史教科書に記載されている。日本時代は、ファシスト日本の軍人たちが勝手気ままにふるまい、ビルマ人たちを兵補や労務者として強制的に連行して酷使し、多くの人命を奪ったばかりか、石油などの天然資源や農産物はおろか、にわとりや豚などの家畜や役牛にいたるまで徴発され、略奪された時期であった、と記されている。
 ちなみに、戦時中に日本軍が補給ルートとして建設したタイのバンポンからビルマのタンビューザヤに至る泰緬鉄道の建設工事だけで、ビルマ人労務者(チュエ・ダッ=汗の兵隊)17万8000人がかりだされ、そのうち8万人が帰ってこなかった(死亡または行方不明と推定)とされる。
 この「ファシスト日本」の支配からビルマ国民を救ったのが、はじめは日本軍と協力したアウンサン将軍の率いるビルマ国軍であったと、歴史書は書く。じっさいにはビルマ共産党をはじめとする地下抵抗グループが、ビルマ各地に網の目を張って勢力を伸ばし、そのうえで英印軍をはじめとする連合軍のビルマ反攻の勢いが明らかになってきた時点で、ビルマ国軍が参加して日本軍への反乱が実現した。1945年3月27日のことである。
 なおラカイン地方では、ラカイン人指導者たちを中止とした反日地下運動が、ビルマのほかの地域よりも先行して組織されて民衆のあいだにひろがり、1945年3月27日の国軍一斉決起の日に先立って、反日民衆決起が起こっている。

教科書においても、人々に残る記憶においても、日本軍はビルマ国民に犠牲を強いた「ファシスト」そのものであることがわかってもらえたと思います。

●日本のビルマに対する歪んだ見方/関係
 本書のp167〜169に書かれていることをまとめながら、話したいと思います。日本軍のビルマに対する加害は、もちろん加害の程度の差はあっても、略奪、暴行、虐殺といった中国やほかのアジア地域で行ったことと同質のものであります。しかし、日本とビルマは当初から友好関係を保ち、最初に日本が平和・賠償協定を結んだ国は、ビルマ連邦(当時の首相はウー・ヌ)でした。激戦となったほかのアジア・太平洋地域とはちがって、ビルマ政府は厚生省派遣の大規模な遺骨収集団を何度もこころよく受け入れているという。
 ヤンゴンには、敗戦直後に建てられた「大東亜戦争陣没英霊の碑」があるタームエ日本人墓地と、日本政府が建立したチャムドー平和墓苑があって、「ビルマ戦跡巡礼ツアー」などの戦争経験者の団体客が訪れる場所となっています。このほかにも、ビルマ各地には、日本軍各部隊の生存者たちが戦死した戦友を偲んで建てた供養等や慰霊碑のたぐいが数多くあるという。こうしたことと、ビルマ戦線体験者の多くが敗走の際に米や塩をもらうなどビルマの人々に助けられた経験を合わせて、ビルマ政府は教科書で当時の日本軍のことを悪く書いているにも関わらず、彼らが本当はビルマ人は親日的なのだと妄想を抱く大きな要因になっているにいます。このようにしてすっかりビルマ好きなった哀れな元日本兵のお爺さんたちを、さらに「ビルメロ」(ビルマのことになるとメロメロになる)に仕立てているという。
 1947年7月に、独立を目前にしてアウンサンが暗殺されたあとはネウィンが軍部をまとめました。1962年以後、名実ともに国のトップとなったネウィンは、その後の1988年の民主化闘争の時期まで、革命評議会議長、首相、大統領、あるいはビルマ社会主義計画党(BSPP)議長として、ビルマに君臨したのである。この間、ネウィンは軍を退役しているが、政治・経済のあらゆる分野で軍人が支配する体制には変わりなかったといいます。
 このネウィン時代に、日本政府はビルマと友好な関係をもち、ビルマへの開発援助(ODA)はこの時期に飛躍的に伸びました。援助は賠償によって設立された工業化プロジェクト、すなわち「四プロ」といわれるバス・トラック、乗用車、農機具、家庭電器の各国営工場をはじめ、発電、鉄道、灌漑、通信など、いわゆるインフラ整備をめざすものた多かったという。1980年代前半には、ODAは頂点に達し、円借款や商品借款を中心とする有償資金援助協力が年間300〜450億円、学校などの教育施設、病院等の医療施設や放送局などへの無償資金協力が年間70〜100億円というレベルにまで達したという。
 この間、ネウィンはなんども公式、非公式に日本を訪問したという。彼自身は当時、数多くいた旧日本士官学校出身のビルマ政府閣僚などと同様、日本に媚びて援助を引き出すということはせず、むしろ、援助したければどうぞしてください、という語り口で通したと言われています。
 のちに破綻することになったビルマ式社会主義建設が一時期、「清く、まずしく、美しく」と評されたことがあるという。1988年に「軍は国民に銃口を向ける」と発言して憎しみを買った卑劣な独裁者ネウィンも日本では軍人あがりの清潔な政治家と見られていました。
 ビルマ戦線を経験した旧将兵など多くの日本人は、ネウィンは軍人として出世する機会を与えてくれた日本軍に恩義を感じ続けていたと思っていました。「30人志士」に加わるまでは、ただの大学中退の郵便局員で、独立をめざす運動家であったものの、アウンサンなどと比べて全く無名の存在でした。1982年2月にはネウィン大統領は、「30人志士」の時代に世話になった旧南機関関係者7人に、ビルマ独立に貢献したとして「アウンサンの旗」という勲章を贈っているといいます。こうしたところにも日本とビルマの歪んだ関係が見えてくるのではないでしょうか。

●人びとの心のなかの日本軍
p170〜171より抜粋

 「キンペイタイン(憲兵隊)」という言葉は、いまもビルマ国語辞典にのっている。
 「日本人がふろに入るように」というフレーズもある。これは「すっきりと」とか「一点のくもりもなく」といった副詞として使われる。戦争中、人前でもすっ裸になってふろに入る日本兵の姿にビルマの人たちは驚いた。ビルマでは水浴びするとき、男でも下半身を見せないようにするのがふつうである。下着もなにもつけない日本兵のこの姿が、「すっきりと」という意味の副詞を誕生させた。
 教科書で学ぶ歴史の一章「ファシスト日本と侵略と支配」に加えて、こうした口づての日本軍の記憶が、歳月の経過をかいくぐって、いまもビルマの人びとのあいだに残っている。
 軍人にすり寄ることをよしとしない知識人たちのあいだには、「日本軍がビルマに残した最悪のものはビルマ国軍だよ」という言い方がある。この見方は、1988年以降さらに真実味を帯びてきた。
 ビルマ国軍は、日本軍によって訓練された「30人志士」が、日本軍に協力して結成したビルマ独立義勇軍(BIA)が母体となっている。戦時中に日本軍がビルマにおいた幹部候補生学校で教育を受けたり、あるいは日本に派遣されて士官学校に学んだ人材も少なくない。ネウィン時代には、彼らの多くが政府の閣僚や軍の幹部として活躍した。
 「愛国行進曲」、「歩兵の本領」といった日本の軍歌は歌詞をビルマ語に変えてビルマの軍歌としていまも歌われている。
 1988年の民衆決起によって、ネウィンは公職からは引退した。いまはその"ネウィン子飼い"の将軍たちが国家法秩序回復評議会(SLORC)に拠って、国を統治している。ネウィン自身の発言力がいまもあるかどうかはともかく、SLORCの支配はネウィン時代と変わらないと国民は感じている。
 生活の苦しさはいわずもがな、国の崩壊を防ぐためとの理由で、総選挙の結果を無視して居座りつづける軍事政権、言論や政治活動への厳しい制限、人権を無視した強制立ち退き、勤労奉仕やポーター狩りといった国民への有無を言わさぬ負担の押しつけ・・・・・。これら典型的な軍人支配のやり方は、ネウィン時代そのままである。

  今回のエントリーでははただ単に日本軍の蛮行だけを取り上げたのではなく、現在のビルマにおける軍事政権の人権弾圧の部分も日本軍占領時代の延長線部分だと考え、ふんだんに取り上げました。はるか半世紀以上前の日本軍のやり方とビルマ(現在のミャンマー)におけるビルマ国軍のやり方はその残虐性、非人道性において類似点が多くあるというのはわかってもらえたと思います。日本軍はビルマの大地に日本軍の申し子を産み落として、現在もそれがビルマの人々を踏みにじっているというやるせない現実があります。このことは韓国やインドネシアにおいても見られました。しかし、韓国やインドネシアについては民主化し、民主化するとともに旧体制の悪事追及とともに、従軍慰安婦や強制連行/労働といった日本軍/大日本帝国占領時代に行われたわが国の国家蛮行に対する市民の追及の声が大きく花開いたのです。戦争体験者が年々少なくなってますが、ビルマの大日本帝国被害者および犠牲者遺族自身が日本を訪れて、日本政府に補償を訴えたり、市民団体と会合をもったりなどということが行われていません。日本の戦後補償の市民運動の未開地というべきです。ビルマにおいても、戦争体験者が生きているうちにビルマ民衆の解放が一刻も早く実現し、日本の過去の侵略・戦争加害追及への声が花開くことを願いたいと思います。

posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:48 | Comment(9) | TrackBack(14) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月15日

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part4―総括とまとめ

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part3―戦犯裁判に関する問題点
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17518766.html
裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17242931.html
裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/16966486.html
がこれまでのエントリーです。

●植民地民衆への犯罪を裁いたイギリス裁判への総括
 イギリスがおこなった対日戦犯裁判は、捕虜に対する犯罪以上に植民地の民衆に対する犯罪を裁いた。帝国主義国であったから植民地民衆の被害を十分に取り上げなかったという議論は成り立たない。むしろ帝国主義国として大英帝国の再建を狙うがゆえにアジア民衆への犯罪を裁き、威信を回復しようとしたのである。
 オランダの裁判も植民地再建と関係しているが、インドネシア独立運動に協力した行為も戦犯として裁こうとしたことに見られるように民衆に対して抑圧的であったように見受けられるのだ。しかしイギリスの場合は抗日運動に貢献した中国系住民の支持を得ようとした。特に各地の民族運動と接した東南アジア司令部やその傘下のメンバーにその傾向が強く、それが戦犯裁判の内容にも反映したのである。その点でオランダと対照的だったのだ。
 アメリカの戦犯裁判の場合、アメリカは植民地が少なく、しかもフィリピンは戦後まもなく独立し、フィリピンでの戦争犯罪はフィリピンが裁いたためにアメリカがおこなったBC級裁判で裁いたのは自国の捕虜などへの残虐行為が中心だった。この点でアメリカとイギリスのケースは対照的である。
 イギリスがそのような対応を見せた大きな理由の一つは、マラヤでの日本軍の中国人に対する残虐行為や占領の実態があまりにひどかったからであり、それへの人々の強い怒りがあったからであった。香港などほかの地域でも同じような状況があった。抗日活動のなかで政治的影響力を強めつつあった中国系住民を新たな植民地支配の基盤に組み込むためにはかれらの意向を汲み取らざるをえなかったのである。そのことはイギリスの戦犯裁判のあり方を決定したベースにあった。日本が侵略戦争とその中での個々の具体的な戦争犯罪を通して占領地の人々に与えた被害の大きさと深刻さ、その苦難のなかで、それらの人々の意思を無視しては支配を維持することができないほどに政治的な自覚と成長を遂げたこと、そのことが宗主国に戦犯裁判をおこなわせたことを見なければならない。
 「勝者の裁き」という理解の仕方は戦犯裁判の一つの側面としてはその通りだが、それだけで戦犯裁判を評価することは、アジアの民衆の主体的成長とその役割を無視した議論でしかない。それはアジアを解放したのだというようなアジアの民衆を見下した議論(つまりアジア民衆には自分たちで独立を勝ち取る力はないという議論)と同じレベルの日本人の傲慢さの表れでしかない。

●イギリスの対日戦犯裁判がアジア民衆の被害を中心に取り上げた理由
@イギリスはマラヤを中心とした東南アジアに大英帝国を再建しようとして戻ってきた。戦犯裁判はイギリスの威信を回復する重要な機会ととらえられていた。
A東南アジア司令部ならびに現地の抗日勢力と接触していた136部隊は、かれらの協力を得るために積極的にかれらの要求に応えようとしていた。そうした姿勢は本国よりも積極的だった。
B日本に対する戦犯裁判は、基本政策は本国で決めたが、具体的な実施は東南アジア司令部に任せられた。そしてまず、現地で戦争犯罪の捜査にあたったのが136部隊であり、当然そこでパイプのあった抗日ゲリラの関わりで情報が集められた。
C特にシンガポール、マラヤでは、日本軍による虐殺についての調査(遺骨の発掘、行方不明者の追跡、犠牲者の確認など)が中国人によっておこなわれ、かれらの協力によって裁判が準備されていった。戦犯を処罰せよとのかれらの要求はきわめて強く、そうした民衆の要求を無視することはできなかったのである。
 このような状況のもとで、抗日勢力との関係のために日本軍によって残虐行為を受けたケースをはじめ住民の被害に関わるケースが裁判にかけられることになったのである。

●戦犯裁判後の東南アジア各地域(マラヤおよびビルマのその後の経過)
 イギリスは1946年4月にマラヤ連合を発足させたが、マレー人の猛反対を受けてそれを取り下げ、48年2月にマラヤ連邦として再発足した。マレー人の要求を反映して、スルタンの権限を残し、中国人の権利はマレー人に比べて制限されたままだったのである。マレー人の民族主義的な自覚の高まりはイギリスの予想外のことであり、他方そうしたなかでイギリスへの反発を強めたマラヤ共産党は48年2月武装闘争の方針を打ち出してテロ活動を開始した。逸れに対してイギリス当局は6月「非常事態」を宣言し弾圧に乗り出した。ここから長年にわたる内戦状態が始まり、「非常事態」が解除されたのはマラヤ独立3年後の1960年のことであり、マラヤ共産党のゲリラ活動が公式に終了したのは1989年のことだった。
 マラヤ連合の頓挫からマラヤ連邦への転換、「非常事態」の始まりという流れのなかで、戦中から戦後にかけてのイギリス軍と中国人の関係は変質した。中国人を植民地支配に組み込む戦略は修正を余儀なくされ、改めてマレー人を基盤にした支配へと修正せざるをえなくなったのだ。日本軍の残虐行為による被害者となった中国人に共産党とそのゲリラへの協力者・支持者が多かったことも、そうした戦争犯罪を裁く意思を失わせることになり、中国人に対する戦争犯罪を裁くことの政治的意味はなくなっていった。マレー人は中国人が主な犠牲者であった日本軍の戦争犯罪を裁く意思はまったくなかった。このようにマレー人の政治的成長とマラヤ共産党の急進化に挟撃されて、マラヤでの戦犯裁判をおこなっていく条件は掘り崩されていった。マラヤでの裁判が終わったのが1948年1月、シンガポールでは3月だが、「非常事態」への突入により戦犯裁判がおこなわれる条件はなくなっていったのである。

 ビルマについて。イギリスはすでに1939年11月、ビルマに将来、自治領としての地位を与えることを約束していた。ヨーロッパで戦争が始まった直後だった。オーストラリアやカナダなどが自治領であり、実質的には独立に等しかったのである。戦後のイギリスの対ビルマ政策はこのラインに戻ることであり、マラヤとは違って再植民地化ではなく、自治領化を進めることによって大英帝国の構成員に組み入れようとする政策だったのである。ただし、イギリスは1920年に発足した「ビルマ人団体総評議会」系の穏健なエリートを自治付与の受け皿と考えており、タキン党を基盤とした急進的な民族運動とその指導者アウン・サンを評価していたマウントバッテンとは違っていたのである。結局独立運動の主導権を握ったのはアウン・サンであり、自治領の地位では納得得ず、1948年1月に英連邦にに残らずに完全独立した。日本軍の占領のもとで力を蓄えたビルマの民族運動は再占領のときから東南アジア司令部にとっては問題の種だが、独立への流れを止めることはできなかった。この独立によってビルマでの戦犯裁判は打ち切られたのであった。
 ビルマ独立の中心を担ったビルマ人は日本軍に協力するなかで独立への力を蓄えながら、連合軍の反攻に呼応してイギリス軍ともに日本軍をビルマから追い出し、そのうえでイギリスの復帰をも拒み独立を勝ち取った。2つの帝国主義国を相互に利用しながら独立を得るという機知に富んだ闘いを行ったのである。
 しかし、そうした戦略の中で、日本軍の戦争犯罪にビルマ人自らが荷担することがあった。カレン人やカチン人など日本軍に抵抗した人々への残虐行為はその例であった。このことは独立したビルマ政府が日本軍の戦争犯罪を自分たちで裁こうとしなかった理由の一つとして挙げられるのである。と同時に日本軍占領下の民族対立がその後のビルマの内戦につながる要因になったことも見逃せない。こうした状況のもとではビルマ自らが日本軍の戦争犯罪を裁くということにはならなかった。 
 イギリスには大英帝国の再建―それは地域によって直轄植民地化から自治領化までバリエーションがあるが―にあたって植民地住民の戦争被害をとりあげ、その加害者を裁くことによって威信を回復しようとした。戦犯裁判は日本軍の残虐行為の対象となった住民の協力なしにできなかったのである。しかし帝国主義国が戦犯裁判を行うというあり方自体が、植民地民衆の民族的自覚の高まりと独立への闘いのなかで、限界を露呈していったのである。また植民地民衆もその内部での利害対立は単純ではなく、また日本とイギリスという2つの帝国主義国家との闘いのなかで抵抗と協力の二面を使い分けざるを得なかったという状況もあり、日本軍の戦争犯罪を裁くということがアジア民衆の共通の利害にならないという複雑な状況があった。
 いずれにせよ、大英帝国の再建をねらったイギリスの意図は民族運動の高まりによってはかなく消えた。マラヤではマレー人たちはマラヤ連合構想を許さずに譲歩を勝ち取っていった。その運動のなかで後のマレーシアを担う政治的基盤が形成されていった。ビルマはイギリスの復帰を許さず、自治領化も拒否して完全独立を勝ち取った。
 イギリスに関する限り、一方では日本軍の戦争犯罪を裁く戦犯裁判を推し進めながら、他方では帝国主義国家であるイギリスによる戦犯裁判を制約し、遂には中途半端なままに終わらせることになってしまったことは、こうした東南アジア情勢と密接に関連しているといえる。帝国主義国家が自らの植民地支配を不問に伏したまま、植民地民衆を代弁して戦犯裁判を行おうとしたことの中にイギリスによる対日戦犯裁判の最大の矛盾があったのである。イギリスの対日戦犯裁判の最大の問題は「勝者の裁き」「報復裁判」であるということではなく、イギリスが大英帝国の再建を狙おうとして戦後も帝国主義国家であることを捨てきれなかったゆえに中途半端に終わったことである。 

●まとめ(本書に書いてあることを中心に)
 本書はイギリスによる対日戦犯裁判を戦中から戦後の東南アジアをめぐる政治状況のなかで、とりわけ日本、イギリスと現地の民衆の三者の交錯のなかで考え、戦犯裁判の問題点についても多く書かれている。
 しかし、戦犯裁判には大きな意義があったのである。戦犯裁判から現在に至るまで普遍的な規範が作られてきたことを考えなければならない。特に第一次世界大戦以降の戦争違法化への世界の努力のなかで、こうした戦犯裁判のもった積極的な意味をみる必要があるのだ。特に第一次世界大戦以降の戦争違法化への世界の努力のなかで、こうした戦犯裁判のもった積極的な意味を一人一人が考えるべきである。
 2000万人を超えるアジアの人々の命を奪い、それをはるかに上回る人々にさまざまな被害を与えた日本の侵略戦争とそのなかでおこなわわれた数々の戦争犯罪について、もしそれらを裁かなかったとすれば、そのこと自体が人類の平和への努力を大幅に逆行させることになるのである。問題が多かったとはいえ、そうした戦争犯罪を裁こうとし一部でも裁いたことは、戦争違法化への努力の実践であり、その後の平和への努力のステップになったことは積極的に評価してもいいのではないのだろうか。1946年に開催された第一回国連総会が「ニュルンベルク裁判所条例によって認められた国際法の諸原則」を確認する決議を全会一致で採択し、その後、ジェノサイド条約(1948年)、ジュネーブ諸条約(1949年)、ジュネーブ条約への2つの追加議定書(1977年)、戦争犯罪および人道に対する罪に対する時効不適用条約(1968年)などとなって結実した。ベトナム戦争をめぐってアメリカやその同盟国の戦争犯罪を市民の手で裁いた国際戦争犯罪法廷(ラッセル法廷1967年)や、湾岸戦争でのアメリカの戦争犯罪を告発するラムゼー・クラークの運動など市民の平和運動にも戦後の一連の戦犯裁判は重要な手がかりとなっている。
 戦犯裁判という方式は、1993年に国連安保理が旧ユーゴ国際刑事裁判所を、翌年にはルワンダのための国際裁判所の設置を決定し、再び注目されるようになったのである。冷戦が終結したことにより、人道に対する罪を含む戦争犯罪を国際社会の手によって防ぎ、責任者を裁こうとする動きが始まった。
 戦犯裁判が国際政治のなかで、特に戦争という力関係が露骨に表れる状況のなかでおこなわれたことによりその理念や建前と乖離することになった。「勝者の裁き」という批判派その側面を示しているが、だからといって戦犯裁判をパワーポリティックスの倫理に流し込んで否定してしまっていいわけではない。そうすることが戦犯裁判を真剣に考えてこなかっただけではなく、実際に起こっている人道に対する罪を含む国際的な戦争犯罪をどのように止め、犯罪者を処分するのかという問題に真剣に取り組んでこなかったことにつながっているのではないだろうか。国際社会において侵略戦争や何らかの戦争犯罪を犯した国家あるいは集団、個人を取り締まり、裁くシステムが必要であるし、それが一部の大国によって左右されず国際社会による民主主義的コントロールが可能なものにする必要がある。このことは国連民主的な改革の問題とも関連してくる。戦犯裁判が大国などの恣意によって左右されていることをもってそれ自体を否定するのではなく、国際社会における民主主義的なコントロールによって普遍的な規範に則ったものにすることが求められているのではないだろうか。
 軍事大国である米国と手を握り、その横暴に追随することによって多くの人々の犠牲のうえに自らの安全と繁栄を確保しようとするのが現在の日本の姿だ。
 日本の平和主義を真に再生するために戦犯裁判て提起された問題にもう一度正面から取り組む必要がある。そのことは人々の手によって、国民国家を相対化し社会を自律的に創造するという民主主義の再生にもつながってくるう。戦争犯罪と戦争責任の問題ならびにそれを裁こうとした戦犯裁判が提起した課題は、いまだに解決されていない問題であり、一人一人の市民がこの問題を自らの課題として引き受け、取り組む中でこそ、日本の平和主義と民主主義の再生と創造が可能になってくるのである。
 また、日本が犯した侵略戦争と戦争犯罪、その戦争責任の問題は人類の普遍的な財産としなければならない。国際社会における民主主義と平和の実現を通じて自らのみではなく人類の共生を実現しようとするとき、戦争犯罪の発生を許さないためには―未然に防止する努力はもちろんであるが、起きた場合の犯罪の制止、責任者の逮捕・処罰まで含めて―戦犯裁判の経験の総括を避けては通れないテーマでもある。

●自分自身のまとめ(この本を読んでの感想)
日本軍がアジア各地で犯した戦争犯罪のすさまじさ、多さ、ひろがり等々、に驚かされました。日本の侵略戦争の被害にあいながらも歴史の闇に埋もれている人々も大勢います。戦犯裁判問題の何よりの問題点は、日本人自身の手で裁かなかったことだと思います。戦犯裁判の議論では、「勝者の裁きだった」「報復裁判だ」でありだから、戦勝国による戦犯裁判は東京裁判やBC級戦犯裁判は不当だという論理があげられます。右翼側が得にこのように主張しています。百歩譲って認めたとしましょう。しかし、他にどういう代案があるのでしょうか?日本軍による残虐行為や戦争犯罪によって、犠牲になった人々、傷ついた者、家を失った者、家族を失った者、性暴力を受けた者などの苦痛、痛み、怒り、非業な死を遂げた者の無数の心からの叫びにどのように答えればいいのでしょうか?連合軍による戦犯裁判を否定するならば、日本人の手で主要な軍国主義指導者や幹部、戦争犯罪者を裁きなおすべきだったのです。むしろ、そうするべきだった。そうする機会を日本人および日本国家に与えてくれなかったこと。そして、サンフランシスコ平和条約締結後の正式な独立後にドイツのように何が何でも断固たる平和主義国家として歩むべく、大日本帝国体制およびそこで行われた国民および国外の民衆の人々に対する人権侵害および抑圧、加害、侵略戦争と戦争犯罪について自ら裁こうとする良識的な自由や民主主義、人権、人道的な道徳・倫理意識を日本政府および日本国民一人ひとりに連合国が与えてくれなかったことを何よりも恨みます。それはともかくとして、何よりも日本の侵略戦争で犠牲になった多くの人々のことを考えなければなりません。日本人自身による裁きが実現しない以上、戦犯裁判には幾点の問題点が存在するにしても、日本軍の残虐行為を裁いたということ自体に意義があるのと考えるべきなのです。もちろん、それでも日本軍の残虐行為や戦争犯罪の一部でしかないでしょうが、敗戦後に戦犯裁判が行われず、全く軍国主義指導者や戦争犯罪人が裁かることがなかったら、残虐行為および戦争犯罪の被害をや犠牲者の人々はそれこそ報われないと思います。
 もちろん、戦犯裁判で裁かれた人の中には、冤罪や過度に責任を問われて処刑された人々もいます。そうした人々は侵略戦争や戦争犯罪の糾弾や戦犯裁判自体の意義を考えることとは別に彼らの名誉は回復させられなければならないのは当然です。
 自らの戦争責任の問題を考えないどころか戦争犯罪の事実を否定しようとする動きでさえ今の日本には存在します。一人握りの戦犯に責任を押し付けて、私たちは逃げているのです。一人握りの者たちに押し付けられた戦争責任をあらためて日本国民の課題として受け止め、大日本帝国および日本軍の犠牲になった人々の悲痛の叫びや思いに答えるためにも、過去を清算し、正しい歴史認識を持って、アジア・太平洋地域への真の友好と、平和主義国家としての日本を回復し、断固たるものとして確立させなければならないとの思いを新たに抱きました。以上です。

posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:37 | Comment(23) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月08日

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part3―戦犯裁判に関する問題点

●戦犯裁判に対する議論における問題点
BC級戦犯裁判に関して、指摘される問題点のなかで、以下のようなものがある。
・拘留中の暴行虐待
(裁判そのものとして)
・人違いにより有罪にされたこと・通訳の不適切さ
・検察側の証言が一方的に採用され不十分な証拠で有罪にされたこと。
・弁護の十分な機会を与えられなかったこと
・上官の命令に従っただけの者が裁かれたこと。
・末端の実行者が厳しく裁かれたのに対して上層部が免罪されたこと
などのさまざまな批判がある。全体としてBC級戦犯には問題が多かったことは日本では共通認識になっているが、問題を議論をどのような方向に発展させるかであった。

「私達は再軍備の引き換え切符ではない」(『世界』1952年10月号、加藤哲太郎『私は貝になりたい』所収)として、アジアに対する侵略の事実を見つめ、朝鮮戦争への加担と再軍備を拒否しようとする戦犯の手記集も出版された。その後、日本がおこなった侵略や残虐行為、さらにはアジアへの責任を突き詰めて考えようとする議論があった。上官の命令に対する絶対不服従という問題に関わって国家への忠誠の絶対化を批判し、人権や平和の観点から国家を相対化しようとする議論、戦犯に責任を押し付けることなく民衆の戦争責任を問いただそうとする議論、捕虜収容所の監視員として動員された朝鮮人や台湾人が戦犯として裁かれたことから、アジア・太平洋戦争以前の植民地支配を含めてこの種の問題を見直そうとする議論などさまざまな形で戦争責任の問題を正面から受け止めようとする営みが行われた。
 しかし、その一方でBC級戦犯の手記がつぎつぎと出された1950年代前半と、日米安保体制のもとで再軍備が進められ、日本が朝鮮戦争で米軍に加担していた時期であり。そこでは戦犯裁判がいかに不当で不公平なひどい裁判であり、戦犯容疑者がいかにひどい虐待を受けたのか、戦犯にされた者の家族がいかに苦しんでいるのかということのみ声高に語られた。その後も戦犯裁判を批判することによって、日本が侵略戦争をおこない数多くの戦争犯罪をおこなったことを帳消しにしようとする議論は跡を絶たなかったという問題点があり、このことが現在の日本に及ぼしている影響ははかり知れないものがある。


●戦犯容疑者への虐待の問題
 裁判そのものではないが、拘留中の日本人戦犯容疑者が未決中から判決後もイギリス軍をはじめ連合軍兵士からしばしばひどい暴行を受けたことであった。 こうした暴行は戦犯容疑で逮捕された人々に自らのあるいは日本軍の行為について振り返り反省する機会を奪っただけでなく、逆にイギリス軍を含めて連合軍に対する反発を生み、さらには戦犯裁判自体に対する反発を生み出す大きな原因になったのである。裁判をおこなう側が非人道的な暴行を繰り返していたのだから、その裁判を公正な裁判として受け入れよと求めることは無理なのであった。概して中華人民共和国による裁判を除いて、連合国の戦犯裁判によって裁かれた元戦犯の間には、裁判自体への強い反発ばかりが残り、日本軍が行ったことへの反省はほとんど聞かれないという状況が生み出されてしまったのである。
 暴行や虐待の問題のほかは、食糧の問題とヨーロッパ人囚人に比べて差別待遇を受けているという問題があった。ヨーロッパ人と差別しているという問題については、他のアジア人収容者と同等の扱いをしており、日本人戦犯の中には、アジア人と同じように扱われるのはいやがるような発言が見られたという(名誉白人、大和民族優越思想がまだ残っていることを示している)。食糧の問題については、戦後、特にマラヤ、シンガポールでの食糧不足が深刻であり、東南アジア司令部や軍政当局の最大の悩みの種の一つが住民のための食糧確保だったのである。降伏した日本兵をレンパン島に集めて自活させたのも、日本兵のための食糧を確保することが難しかったことが一つの理由だった。当然戦犯容疑者への食糧は後回しにされた。しかし、敗戦までは占領者として食糧を保障されていた日本兵から見れば虐待と映ったことは推測できる。イギリス軍の再占領の初期においては食糧事情の確保など困難な状況にあったことは否定できないものの、警備兵らによる暴行をはじめこの問題が戦犯裁判について日本人の意識に与えた影響ははかりしれないものがある。


●服役中の戦犯の意識の問題
 戦犯容疑者への虐待の問題と被るが、服役中の日本人戦犯の意識に関して私個人としては怒りがある。もちろん、拘留中の日本人戦犯への虐待は許せるものではないが、自分たちがやってきた残虐行為の被害者および犠牲者に関する視点はなく、反省の態度がほどんど見られないことである。ともかく本書のp168〜169より引用する。 

 服役中の戦犯の意識について考えるうえで興味深い資料がある。それは「日本人の検閲レポート」と題された一連の報告書である。これはシンガポールとマラヤの刑務所で服役中の日本人戦犯とその家族友人との手紙を検閲し、それらの内容を分析したものである(FO371の各年)。1948年以来、3ヶ月に一度この報告が作られているが、戦犯からの手紙のなかで自らの過ちを認めた手紙は「第5回日本人の検閲レポート」(1949年12月31日付、FO371/84036)になって初めて出てくる。報告書の作成者は「拘留されてから4年たって、数百人の戦犯のなかで過ちを認めたものは一人しかいない」とアウトラムロード刑務所に収容されている戦犯から家族への手紙を紹介している。その手紙には「私が戻ったとき、おまえが私の過去の過ちを許し忘れてくれることを望んでいる。私はあのようなことは二度と繰り返さない、そしてまったく新しい生活を始めることを誓う」と書かれていた。この戦犯は捕虜虐待の罪で服役していた朝鮮人だった。
 第8回のレポート(1950年10月31日付、FO371/84035)には別の1人の手紙が紹介されている。その戦犯は5〜6人のイギリス軍捕虜の処刑を上官に命令され、命令に反対して抗議したが却下され処刑を指揮したために10年の判決を受けて服役していた。命令を下した上官は死刑になっていた。彼は「私はいま自分が人道に反する恐ろしい行為を犯したことに気がついている。私は10年の禁固刑に服役することによって上官の命令に従った私の弱さの償いをしたいと思っている」と書いている。
 しかしこうした例はまれにしかない例外であり、「かれらの家族に自分たちの罪を認める者はほとんどおらず、むしろ他人の罪の犠牲にされたとか、スケープゴートにされたと主張している」のが普通だったと分析されている。
 獄中の戦犯から家族への手紙の分析であるということを考慮しても、日本軍の行為への反省を抜きに戦犯裁判への不満ばかりが噴出していることは大きな問題であった。反省できない日本人戦犯にも問題があるが、かれらに反省の契機を与えないような、あるいはむしろ反省の契 機を失わせるような戦犯裁判(拘留中の虐待を含めて)のあり方に問題があったのである。
 このケースでは加害者側がイギリス側で被害者が日本人であるが、加害者側が暴行について軽く見ているのに対して、暴行を受けた日本人の側ではその恐怖感、反発が非常に強く両者の受け取り方の落差の大きい。逆もいえて、戦犯裁判における被害者(日本軍の残虐行為の対象)の証言と日本人の被告を比べたときにまったく同じことが言える。被害者がひどい虐待暴行を受けたと証言しているのに対して、被告はただビンタをしただけだと証言するだけのケースが多い。もちろん、裁判の場では被害者の証言をそのまま認めてしまうと自分の命が危なくなるので、自分の行為を軽く言うのはごく普通のことであるが、それでも両者のギャップは大きいのである。日本軍の加害行為については被害者が大袈裟に言っているのだと否定しながら、イギリス軍から受けた虐待については声高に叫ぶのは、自分本位の一方的なわがままと言われても仕方がない。
 イギリス軍をはじめ連合軍による日本人戦犯容疑者に対する暴行虐待が、日本人戦犯裁判に対する認識を著しくゆがめることになった。中華人民共和国の日本人戦犯容疑者に対する人道的な扱いが、かれらの反省を促し、日本人の戦争犯罪認識を深めるうえで大きな影響を与えたことに比べ、対照的であったのである。しかし日本側は監獄での日本人戦犯への暴行を語るとき、日本軍によってそれよりはるかにひどい拷問虐待を受け、あるいは拷問によって殺された多数のアジアの人々の被害に思いを致すべきであったのである。それを抜きにした戦犯裁判批判が日本の戦争責任の免罪につながったのは当然だった。  

●朝鮮・台湾人戦犯問題
 イギリス裁判で裁かれた朝鮮人は確認できたかぎりでは49人、うち泰緬鉄道関係では16人であった。すべて捕虜収容所のガードであり、シンガポールで裁判にかけられている。全体で無罪は2人(判決不確認を含め3人)だけで、死刑判決11人(うち泰緬鉄道7人)、死刑確認4人(同2人)である。
 朝鮮人戦犯は捕虜を人道的に扱わなければならないという戦時国際法などまったく教えられることなく(これは一般の日本兵も同じであるが)捕虜収容所のガードにされた。そして日常的に捕虜と接し、当時の日本軍では当たり前だったビンタなどの制裁を暴行という意識なしに捕虜に対しておこなった。そのために捕虜から怨みをかい、同時に顔や名前を覚えられる立場にあった。陸海軍あわせて兵長以下の兵で起訴された者が全部で68人に対して、兵以下の地位にあった朝鮮人ガードが49人も起訴されていることは極めて多い。
 一方で死刑判決の多くが減刑されていることも注目される。死刑判決11人中1人はアリバイを認められて判決が不確認になり、ほかに6人が減刑されている。これはかなり高い割合であった。一般の兵の場合、死刑判決8人中減刑は2人のみであった。
 ただ10年以上の刑を受けた者は31人と被告数の63%を占め、地位に比して刑が重いことは否定できない。兵の被告の人数、判決と比較して、兵以下の存在であった朝鮮人ガードは相当に重い処罰を受けていた。ただ、朝鮮人ガードの扱いはイギリスの裁判ではその地位の低さが考慮されている。
 朝鮮人で死刑判決が執行された4人のケースを見ると、いずれも具体的な暴行虐待により死に至らしめたことが立証されたとして死刑判決が確認されている。少なくとも上官の命令に従っておこなった行為ではなく、個々の残虐な行為が裁かれたケースが多いといえる。
 朝鮮人ガードが戦犯になった背景には、食糧や医薬品もろくにないなかで、鉄道建設のために病人まで狩り出し過酷な労働をさせた日本軍の上層部に責任があるのはもちろん、捕虜と日常的に接する役目を朝鮮人にさせ、ビンタは当然のこととして教育してきた日本軍の体質がある。朝鮮人がガードの役割をさせられたのは日本の植民地支配が引き起こした結果であった。朝鮮人ガードは日本人軍属および初年兵よりも地位がはるかに低く、過酷な扱いを受けた(日本人兵士でさえ、初年兵となればすさまじい扱いを受ける。朝鮮人兵士たちはそれをはるかにしのぐ虐待を受けたのである)。日本軍内部で酷い暴力を受けて苦しんでいたが故に、朝鮮人兵士たちが自分たちよりもさらに弱い立場にある捕虜に対して酷い虐待や暴力を向けることになったと考えられる。また差別される存在であるがゆえに、日本軍への忠誠を日本人以上に示すことによって差別から逃れようとする志向は、なおさら捕虜に対し厳しくあたることにつながり、恨みをかうことになったのである。であるから「日本の戦争責任の肩代わりさせられた」という理解は妥当である。ただし、著者によれば必ずしも上官の命令を忠実に実行したとはいえない起訴事実があり、それだけでは解消できない個人の責任が残ることはいがめない。
 台湾人の戦犯のケースでは、イギリス裁判で裁かれた台湾人は23人(1人は2度裁かれているので、実数は22人)、無罪判決0(判決不確認が1人)、死刑判決6人(確認5人)となっている。多くが日本軍の通訳だった。憲兵が逮捕した民間人を取り調べる際に通訳として立会い、その際に暴行を加えたとする容疑が多い。したがって起訴された容疑の被害者は、台湾での捕虜虐待致死のケースを除いて民間人であり、具体的な虐待や虐待致死で起訴されている。取り調べに立ち会っているから、当然、顔などを覚えられていることが多い。
 朝鮮人や台湾人の戦犯のケースにしろ、アジア・太平洋戦争以前の侵略の植民地支配の問題に絡んでくると思う。日本軍の最末端に彼らはいたが、同時に捕虜監視員や通訳などとして捕虜に接することがほかの日本兵の誰よりも多かったことにくる悲劇である。非人道的な捕虜に対する政策を実行したり、そして、何よりも一連の残虐行為を生み出す元となった自国の国民や兵士の命さえも粗末にするそうした非人間的な日本軍の体質を生み出した大日本帝国の指導者たちが何よりも負わなければならなかった責任であると思う。この問題に対するそれらの責任関係を曖昧にしたままの「決着」は許されるものではない。捕虜に対する虐待にしと、何よりも最末端の朝鮮人や台湾人の軍人・軍属が多く裁かれたことに対して、責任の所在を明確にし、償いは果たされなければならないのは言うまでもない。


●インド人捕虜のケース
 被害者がインド人捕虜のケースが判決が破棄されたケースの中で最も多いのである。判決破棄のケース25人中、インド人捕虜のケースは12人を占めていた。被害者がインド人捕虜のケースは12件38人があるが、そのなかの12人の有罪判決(死刑3、終身刑1、有期刑8)が破棄されたのである。インド人捕虜であるとしたが、実は捕虜であるかが問題であったのだ。弁護側はインド人はもとは英軍兵士であったが、降伏後、自らの意思で日本軍の一員になったのだから捕虜ではないと主張した。日本軍の内部問題(たとえば、日本軍が同じ日本兵や日本人民間人を処刑した場合、植民地の住民や連合国籍である民間人や捕虜を虐待したり殺害したりしたケースではないので、戦犯裁判の対象からは外れる)であって、戦犯裁判の管轄外であるというものだった。しかし、1946年10月まではその弁護側の主張を退けた。しかし、それが変ったのはそれ以降であり、1946年10月28日シンガポールの裁判でサラワクにおいて5人のインド人捕虜を殺害したとして3人が裁かれ、3人とも有期刑の判決が下された。その後、11月30日、12月2日、47年1月30日に同じようにインド人捕虜殺害のケースの判決が出され、死刑を含む9人が有罪となったのだった。
 犠牲になったインド人は捕虜になってからインド国民軍に入らずに労働部隊としてボルネオやニューブリテンに送られた者たちであったが、戦争末期になり日本軍の形勢が不利になると日本軍から逃亡や抵抗をはかったので、彼らを殺害したのであった。捕虜とみなし、国際法を適用するか迷った事例だった。最終的にはインド人は当時日本軍法の下にあって、被告らはその法に基づいて行動したので被告の行動は戦争犯罪ではないとして最終的にはその4件の有罪判決は破棄されたのである。私はもっともこれには甚だ疑問である。

マレーの人々も日本軍の下で苦しみました。日本兵に路上で逮捕され、「死の鉄道」のためタイに送られた人もいました。ちょっとでも悪いことをすれば、容赦なく罰せられ、日本兵に殴られたり、首をはねられたりしました。日本軍はインド人にインドを支配しているイギリスと戦うために、インド国民軍に加わるように要求しました。しかし、多くのインド兵士(主にシーク人)とガーク人は、インド国民軍に加わることを拒否しました。拒否したために、殺された人もいました。インド人も「死の鉄道」から免れることはできませんでした。  
観光コースではない マレーシア シンガポール 陸培春著 高文研(シンガポールの教科書に書かれた大虐殺の項目)p70
多くのマラヤにいたインド人がインド国民軍に加わるように強制されたのである。インド人捕虜が日本軍に加わった場合でも自発的ではなく、強制されたケースが大部分だと考えられる。そういうことにも気づかず、日本の弁護側の主張を盲目的に採用する形で、多くのインド人捕虜に対する残虐行為の判決を破棄されて、この件を不問にすることで終わったのは納得のいかないものがある。

●憲兵が被告のケースにおいて下士官や通訳などの下級の者たちが集中して死刑判決を受けたケース
 日本軍が組織的に戦争犯罪をおこなった場合、たとえばシンガポール華僑虐殺やマラヤでの組織的な住民虐殺のような場合、戦犯として追及されるのはその行為の命令者あるいは中心的な実行者に限られていることが多い。このケースは被害者の数の多さに比べて、被告の数が少なく、当然死刑になる数が少ないが特徴である。
 上官が裁かれず、下級将兵や通訳などが集中して起訴されているケースとして、虐待あるいは虐待致死、殺害で起訴されているケースが多い。これらの場合、多くは被害者が1人あるいは少人数である。たとえば憲兵が住民を捕まえて取調べ中に拷問をおこない、その結果死なせてしまったケースは虐待致死にあたる。こうしたケースの場合、あくまで容疑者として捕まえた住民から自白させたり、容疑を認めさせることが目的であって、虐待を加えることではない、まして殺害することでもない。認定された事実が虐待だけの場合、特別なケースを除いて禁固刑ですむからまだいい。しかし、殺してしまった場合には死刑になることが多いのである。
 こうしたケースの場合、憲兵の上官は逮捕した者に吐かせろと命令し、殺すまで拷問を加えることを黙認していたとしても、殺せとか殺してもよいということは明示的には言わないのが普通だろう。拷問についても、あくまでの吐かせるのが目的であって、吐かせる手段として拷問を使えとは言わない。実際に取り調べにあたり拷問をおこなった憲兵の下士官たちが拷問で殺してしまった場合、上官の命令に従っただけという弁解は通用しない。虐待致死と言う行為は命令によるものではなく、取調べをおこなった被告本人の判断による行為、あるいは過失とみなされてしまう。拷問をおこなった者は、生き残った被害者から顔や時には名前を覚えられ、戦犯容疑者として指名手配されやすいが、上官と拷問をおこなった下士官や兵の間でおこなわれたやりとりは日本側の当事者以外には誰もわからない。だから上官が知らなかったといえば、それを覆す証拠や証言を得ることは命令文書でも残ってない限りほとんど不可能である。だからこうした住民の虐待致死のケースで、多くの場合、直接拷問をおこなった者(多くが憲兵の下士官や通訳)が裁かれ死刑判決を受けたのであった。
 ちなみにイギリス裁判(イギリス裁判だけではないかもしれないが)の全体のなかで憲兵の比重はきわめて大きい。被告918人中355人(39%)、死刑判決281人中112人(40%)、死刑確認222人中94人(42%)、となっている。特に准士官・下士官クラスでは氏傾斜の圧倒的多数が憲兵であった。かれらが逮捕の取調べのなかで中心的役割を果たしていたことが、この数字に反映している。そしてそれらのケースでは被害者の圧倒的多数が地元の住民たちであったのだ。 

●上記以外の現場の実行者側に責任が押し付けられ、日本軍上層部が裁かれなかったケース
大規模な戦争犯罪において、カラゴン事件や泰麺鉄道などのケースのように、実際には現場の実行者・責任者ばかりに責任が押し付けられ、軍上層部が裁かれなかったケースがある。泰緬鉄道を例に説明したい。泰緬鉄道というのは、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415キロ(ほと東京〜大垣間)に及ぶ日本軍がビルマへの陸上輸送の目的のために建設した鉄道である。1942年6月に大本営から建設が命令され、12月に公式に着工、翌年10月に完成した。この建設のために日本軍は約6万1800人の連合軍捕虜と約20万人のアジア人労働者を動員した。しかし、ジャングル、山岳地帯、雨季などの厳しい自然環境に加え、過酷な強制労働、食糧・医薬品の欠乏、劣悪な宿舎などのために多くの犠牲者を出した。捕虜の死亡者は約1万2300人、アジア人労働者の死亡者はイギリスの推定では約7万4000人、日本側の推定でも約4万2000人にのぼっている。そのために「死の鉄道」と呼ばれた。日本軍の捕虜虐待のケースにおいて、この泰緬鉄道はとりわけ残虐なケースとして扱われた。その後の鉄道の維持・管理のため捕虜が引き続き使用された。
 イギリス裁判で泰緬鉄道関係の被告は24件67(実数66)人であった。67人の被告中無罪になったのはわずか2人だけ(判決不確認を含めても3人)、死刑判決26人うち死刑確認17人も出している。南方軍野戦鉄道司令官であった中将(10年の刑)を筆頭に、鉄道建設時のタイ俘虜収容所長(少将、死刑)などが裁かれた。死刑になった者は2人の患者輸送隊関係者を除いてすべて捕虜収容所関係者であった。鉄道建設にあたり直接捕虜を過酷な労働につかせていたのは鉄道隊であったが、鉄道隊から死刑になった者はいなかったのである。イギリス裁判で鉄道隊関係者で下された最も重い刑は終身刑(大尉)にとどまり、鉄道隊の最高責任者でも10年の刑にすんだのである。逆に鉄道隊からの強い要求により捕虜を労働に駆り立てた捕虜収容所の関係者が被告ならびに死刑の多数を占めてたのである。
 ところで対照的に鉄道建設を計画命令した大本営や南方軍からは1人も起訴されなかった。1943年12月未完成の予定だったのを、大本営が同年2月になって4ヶ月期間を短縮して8月末完成を命令した。そのために病人を含めて無理やり捕虜たちに労働を強制させ、雨季に入ったこともあわせて多大な犠牲を出す大きな原因となったのである。食糧や医薬品の欠乏なども捕虜収容所の責任というよりは計画・命令した軍上層部の責任である。これら上層部が裁かれなかったことは問題であった。
 たとえば、最も奥地で建設にあたり、約7000人の捕虜のうち3000人あまりが死亡するという捕虜グループのなかでも多くの犠牲を出したFフォースの裁判があった。この裁判では収容所と鉄道隊から7人が起訴され4人に死刑判決が下されたのである。しかし、死刑判決が出された4人については、大量の捕虜の死を引き起こしたという残虐行為に被告が関わったということは証明されておらず、Fフォースの高い死亡率を招いた主要な要因がこれらの被告らの責任の範囲外の要因であることが明らかであるとし、4人とも死刑から終身刑または15年に減刑されたという事例があった。もちろん、その捕虜の高い死亡率を招いた要因が現場の被告らの責任の範囲外ということは、泰緬鉄道の敷設を命令し、ずさんな建設計画を立てた上層部にあるのは言うまでもない。しかも、実際の裁判でFフォースの深刻な被害を生み出した要因は現場の裁量を超えていることを認めたのであるが、そうした状況を生み出した日本軍上層部を裁こうとしなかったのである。泰麺鉄道の裁判は現場に責任を押し付け、日本軍上層部を裁かなかった裁判の代表例であり、裁かれた現場の者からしたらやりきれないのではないだろうか。


●イギリス対日戦犯裁判「勝者の裁き」として理解されていることへの反論
 イギリス対日戦犯裁判は「勝者の裁き」「報復裁判」として単純に理解することはできない。本書に載っている例として戦犯裁判の公正な検察官がいたことが触れられている。

 第1(サイムロード)抑留所の所長を含むスタッフ5人が被告のケースをあげてみる。シンガポールには日本軍の民間抑留所がおかれ、イギリス人など連合国民が抑留されていた。この第1(サイムロード)抑留所の所長を含むスタッフ5人が1942年2月15日から45年8月15日までの間、収容されていたイギリス、オーストラリア、オランダ、カナダ、アメリカの市民を虐待し、その結果1人のイギリス市民を死亡させ、他の抑留者に身体的苦痛を与えたとして起訴された。判決では死亡させたことは認定されず「虐待」のみが認定されたが、死刑3人、終身刑(所長)と7年が各1人というきわめて重い刑が下された。しかし、この裁判の検察官が軍当局に判決が妥当ではない手紙でと訴えるという事例があった。たとえば終身刑を受けた所長については、抑留所長として全般的な責任は明らかだが、積極的に害悪をもたらすような人物ではなく、弱い性格であり、部下をほとんどコントロールできず、むしろ影響力のある邪悪な部下(被告の1人)に従属していた。それゆえ終身刑は重過ぎるとして訴えた。死刑判決を受けた1人については死刑に値するような証拠はないとして刑について再考すべきだとして判決の不当性を訴えていたり、また7年の判決を受けた1人については、抑留者を蹴るなどのことはしてないが、いい振る舞いをしていたこともなく、7年というのは5人に対する判決の中でも最も納得できないということを主張していた。このケースは裁判終了後に検察官が判決が重すぎるといって直訴する手紙を書いたと記録に残っている唯一の例である。ただし、イギリス軍の戦犯裁判では検察の求刑というのが存在しないから、検察が予想した以上に重い刑になることがあった。そのため、このケースだけではなく、検察官が減刑を働きかけることがあった。また、このケースの場合、検察官からだけではなく被害者たちからも減刑の訴えが出された。泰緬鉄道のキャンプとも比較され、この抑留所での虐待や状況は特に酷いものではなく、泰緬鉄道を扱った裁判との判決が比較された。こうしたことで、所長は10年を超えない刑に、死刑の3人は10年または8年を超えない刑に、7年の者は一年に減刑された。
さらにクアラルプールのプドゥ刑務所のケースも存在する。1944年4月から45年8月までの期間、所長と副所長だったそれぞれ2人ずつと他に1人の計5人が起訴された。その期間に収容された市民を虐待し、うち約640人を死亡させたという容疑であった。被告の1人は裁判官の検察官であったことがわかり無罪になった。以前の所長と副所長は死刑判決が下されていたが、検察の最終陳述が彼らを救ったのだ。もちろん、前半期の所長については厳しく責任を追及したが、提出された証拠からみて後半期の所長が収容者の苦痛を和らげるために最善を尽くしたことを認めた。被告が関わったとされる具体的な虐待に関する2人の検察側証人の証言内容を検討し、その内容がともに間違いをおかしているとして退けた。そして被告が収容者に対する殴打をなくそうと真摯な努力をおこなったこと、全体として戦争の法規と慣習に沿ったものであって、検察は被告が無罪であるという弁護側の申し出を認めた。弁護側の主張も受けとめ、検察側(自分たち)の証人の問題点を分析し、被告は無罪であると結論づけた最終陳述は法の前で公正さを貫こうとしている法務官の良心を示したものだった。しかし、判決では被告に10年の刑が下された。検察側の陳述を考慮に入れつつも所長としての責任はあると考え、無罪ではなく減刑となった。戦犯裁判の検察側にこうした検察官がいたということである。また、同時にこれらのことは、戦犯容疑者がすべて日本軍占領中横暴に振舞っていたわけではなく、獣ではなく人間の心をもった日本人戦犯の人たちが実在したということも示している。それと日本側の弁護士の回想のなかには、こうした公正な姿勢のイギリスの裁判官や検察官がでており、岩川隆氏は著書のなかで「英国人の人道を尊ぶ心」という見出しでそうした例を紹介しているという。
 裁判全体を見ても判決が出された被告915人中105人(11.5%)が無罪判決を受けている。確認の際の判決放棄を含めると130人(14.2%)にもなった。戦犯裁判が最初から有罪にするという結論の決まった「報復劇」や「勝者の裁き」だとするような議論は実態からかけ離れているのである。またそのような議論は真に日本軍の戦争犯罪の犠牲になった多くの人々を無視したものであり、道義的に許されるものでもあるまい。

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2006年05月07日

ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書 part1

 ビルマ「発展」のなかの人びと 田辺寿夫著 岩波新書を読みました。
 著者の田辺寿夫氏はビルマ情報ネットワークというページで ビルマ人のスキップというエッセイを掲載されています。ビルマの軍事政権をはじめとしたビルマの抱える深刻な問題に取り組んでおられます。ビルマは大変不幸な経緯の国です。ビルマは現在ミャンマーと呼ばれており、軍事政権の国です。仏教国として有名で、竹山道雄原作の小説や映画の『ビルマの竪琴』として有名です。第二次世界大戦で、日本軍が侵略し、インパール作戦で多くの将兵が命を落とし土地として記憶されていることでしょう。

 日本軍のビルマに対する侵略に関する話題に触れる前に、ビルマ国軍が権力を掌握し、現在のミャンマー軍事政権に至る経緯を振り返ってみたいと思います。英国のビルマ植民地支配のきっかけですが、コンバイン朝ビルマ(1752〜1885年)とイギリスはベンガル地方をめぐってのことです。英国側にベンガル地方の割譲を要求し、第一次英緬戦争が起こります。その後、3次にわたる戦争を経て、ビルマ全土がイギリス植民地となりました。イギリスの植民地時代にはビルマ人によるさまざまな抵抗活動が繰り広げられ、1937年にはイギリス連邦内の自治領としての地位を勝ち取るなどさまざまな出来事があった。1940年にアウンサンが国外へ脱出し、1942年にアウンサンがビルマ独立義勇軍を率いて、日本軍に先導されてビルマに戻ってきました。これが、ビルマと日本との関係の始まりです。また、現在ビルマを支配する国軍の起点でもある。反映独立闘争を戦っていた反英組織タキン党の青年活動家たちを中核に、1941年12月にタイのバンコクでビルマ独立義勇軍(BIA)が結成された。中国との戦争の膠着状態を打開するために、ビルマの反英独立運動組織に日本軍部が接触してきました。日本軍は四川省重慶にあった連合国の蒋介石政府支援ルートである「ビルマ・ルート」の閉鎖を狙っていた。ビルマを騒乱状態にもちこめば輸送路の閉鎖につながると考え、反英独立運動組織と接触して支援をもちかけました。こうした状況を背景に、ビルマ独立運動組織と日本軍部は一時的な協力関係を結び、日本軍の情報機関である南機関(機関長、鈴木敬司陸軍大佐)はビルマから、独立運動の青年活動家たちを日本へ連れてきた。およそ30人ほどの人数が集まって海南島や台湾で日本軍による軍事訓練が行われました。その30人のことをビルマでは「30人志士」と言います。彼らが1941年12月にバンコクにてビルマ独立義勇軍(BIA)を結成し、1942年1月にはビルマへ侵攻する日本軍とともに母国へと進軍を果たしました。
 日本軍の協力で誕生したBIAは日本軍部隊とともにビルマに入り、英国植民地勢力の掃討に協力した。ビルマ全土を平定した段階でも、日本軍はビルマ独立を許容せず、戦争遂行を最大の目的とする軍政を敷いて居座ったのです。

 ビルマ軍(BIAの名称は、幾度と変更された)は、アウンサン将軍の指揮のもと、日本軍政に協力するポーズをとりながら、地下活動を続けている共産党などの反ファシズム組織と連絡を取り、独立達成の時期と手段をうかがいました。
 1943年8月、東条内閣はビルマに「独立」を与えたが、「独立」とは名ばかりであくまでも「大東亜共栄圏」を構成する日本の従属国としてのものでした。裏切られた反発から、反日・反ファシズム勢力の組織化が加速し、独立後与党になる反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)が結成されました。連合軍のビルマ侵攻、インパール作戦の失敗などで日本軍の敗勢が明らかになった1945年3月、AFPFLは一斉蜂起し、ビルマ国軍はビルマ各地で日本軍部隊を次々に攻撃し、追い詰めていきました。そして日本の敗戦とともに復帰したイギリスによって、ビルマは植民地支配を再び受けることになりましたが、自前の軍隊をもち、日本軍の掃討に成功したことで自身を持ったビルマ国民はAFPFL(総裁はアウンサン)のもとに一致結集・団結しました。1948年1月4日、ビルマ連邦はイギリス連邦にも加わらない独立国家として独立を果たしました。しかし、アウンサン自身はその直前、47年7月19日に政敵の手によって暗殺されてしまいました。

 独立したビルマ連邦は、アウンサンのあとを継いでAFPFL総裁となったウー・ヌを首相とする議会制民主主義体制をとりました。アウンサンは独立前に、イギリスとの交渉との一方、分割統治をとってきたイギリス植民地支配のもとで、独立に対して利害が一致しなかった諸民族の意見をまとめ、ビルマ連邦としての独立をめざすために奔走してきたのです。またAFPFL内の共産党や社会党をはじめとする各政党組織間の意見の調整にもあたっていました。しかし、独立後にはそういう事情があって、各民族間の思惑の違いや与党AFPFL内の抗争などから問題が噴出してきました。また、各組織の間をまとめてきたアウンサンの不在が問題をさらに大きくしました。 まず、カレン民族の一部が、中央政府のやり方を不満として大幅な民族自治を要求する反政府武装闘争を開始し、カチンやシャンなどの民族団体がこれに続きました。AFPFLの一部で一員である共産党も、政策の違いから地下にもぐって武装反乱に入りました。さらに中国革命の影響で、中国国民党軍も生き残りを図って戦闘行為を繰り返し、国中が騒然とした状態になりました。こうして、独立後のビルマ連邦は内戦に陥った。中央政府は植民地支配の悪しき遺産を乗り越えて、戦争による国土の疲弊から立ち上がって、新しい国づくりをめざそうとした矢先のことです。1950年代のはじめには「ラングーン政府」と揶揄されるほど、その統治の範囲が狭まりました。それでも1950年代半ばに連邦崩壊の危機を脱することができたのは、反乱諸勢力が国民大衆の支持を受けているとはいえず、各組織の間に共同戦線が結成されていなかったこともあるが、一番大きかったのはビルマ国軍の活躍でした。反乱を完全に制圧はでなかったが、反乱組織の根拠地をカチン州、シャン州やカレン州の辺境地域まで追いやりました。このときのビルマ国軍の最高指揮官は日本軍の下で軍事訓練を受けた「30人志士」の一員ネウィンであり、BIA時代からの子飼いの部下らが幕僚として国軍の中枢を固めていました この内戦の危機をしのいだビルマ国軍は新たな自信をもつことになりました。また、国を守ったのは自分たちであり、自分たちがいなければこの国は成り立っていかないとの自負をも得ました。イギリス植民地時代からの独立闘争、抗日蜂起の経験に加え、独立後の内戦を経て国家の住石であると自覚を持ったビルマ国軍は政治に積極的にどんどんと加担していくことになりました。もちろん、ビルマ国軍に言わせれば、介入ではなく、自らの義務を果たしただけにすぎないとしているとのこと。1958年から59年にかけておよそ一年間、ビルマ国軍は国政の混乱を理由に政権を暫定的な選挙管理内閣(首相、ネウィン参謀総長兼国防相)として政権を担うことになりました。総選挙の結果、ウー・ヌが首相とする議会制に戻りました。しかし、その後、1962年3月、ネウィン大将は国政の混乱を理由に軍部を率いてクーデターを決行、ウー・ヌ首相を拘束して政権を奪いました。議会制民主主主義では連邦を維持できないとして、将校団による革命評議会(議長、ネウィン大将)を結成しました。その後、ネウィンのもとビルマ社会主義計画党(BSPP)が62年7月に結成され、64年にはビルマの全政党が解散され、軍と一体化したBSPPによる一党支配体制が確立した。さらに74年には、社会主義的な憲法が採用され、ビルマ社会主義の時代が26年間にわたり続くことになる。
 しかし、それがほころびを見せたのが1888年のことです。88年3月にラングーン(現ヤンゴン)工科大学の学生と地域の有力者の息子との喫茶店における喧嘩がおこり、大学側は地域の有力者に媚びて学生側に不利な措置をとったため、反発を強めた学生らが大学側に対して抗議運動を起こしました。それに対して過敏に反応した当局側は警察を動員して弾圧を加え多数の死傷者が出ました。これが3月事件です。これを境に学生らをはじめ、ビルマの民衆の抗議運動が激化し、ネウィン党議長が辞任するとともに、社会主義憲法の破棄とBSPPの解党にまで追い込んだ。しかし、ビルマ国軍は政権を手放そうとしませんでした。1988年9月18日に、国軍はクーデターを起こして実力で政権を掌握。軍はデモを続ける学生や市民らに向けて発砲、流血の惨事となった。民主化運動は容赦なく鎮圧され、逮捕を免れた学生らは国境地帯に入り、新たな抵抗の拠点を築こうと試みました。国軍はソオマウン大将(参謀総長兼国防相)を議長とする国家法秩序回復評議会(SLORC)を結成して、軍政を開始しました。SLORC政権は複数政党制を認め、経済も社会主義体制を放棄し、市場経済化や外資導入に向けて積極的な姿勢をとる一方、BSPP時代と変わらない手法で、言論・市絵時活動を厳しく制限し、反対するものに対しては「国家の安寧秩序を乱す者」として容赦なく弾圧しました。
 民主化運動の背景には86年のフィリピンにおけるマルコス体制の崩壊や87年の韓国における民主化宣言があり、民主化が世界の潮流にかなっていることを学生らが見抜いていたことでした。BSPP時代の経済の停滞と国民の生活が窮乏する一方で、国軍将校らが特権的生活を享受していました。こうした現象が国民のネウィン独裁体制に対する憎しみを募らせていきましたが、ラングーン工科大学で起きた3月事件を期に爆発したのだと考えられます。今もなお、ビルマ国軍は政権に居座ったままです。
 著者はそんな不幸な国ビルマと30年にわたり関わってきました。そんなビルマの人びとの生の肉声を紹介し、政治や経済、社会の状況を紹介し、在日ビルマ人の暮らしを紹介しています。 
 part2では、ビルマでの日本軍の侵略の歴史問題を現在の軍事政権の問題も絡めて具体的に扱っていきたいと思います。しばらくお待ちください。
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2006年05月01日

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part2

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/16966486.htmlの続きです。次は『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』をテキストとして、イギリス戦犯裁判の基本的事項をまとめたいと思います。

●なぜ本書はイギリスの対日戦犯裁判に絞っているのか?
 イギリスの対日戦犯裁判を取り上げたのは、イギリスが日本軍の戦争犯罪を考える上で大変重要だからである。日本の戦後処理においてはアメリカが主要な役割を果たした。しかし、日本が戦った地域でいうと、アメリカは戦前フィリピンとグアムを領有していたが、フィリピンでの戦争犯罪についてはフィリピンの独立によりフィリピンの手で行われたのである。そのためアメリカがおこなったBC級戦犯では捕虜に対する残虐行為が多数を占めていた。しかしイギリスは、シンガポール、マラヤ、北ボルネオ、香港などの多数の植民地を領有していた。そこでは多数の住民が日本軍の残虐行為の犠牲になっている。植民地民衆の戦争被害にどう対処するのかという問題はアメリカよりもはるかに大きな問題としてイギリスに突きつけられたのである。つまり日本軍によるアジア民衆に対する加害行為と宗主国イギリスの対応という三者の交錯のなかで戦犯裁判は行われた。日本がおこなったアジア太平洋戦争は、日本ーアジアー西欧の三者のなかで歴史的評価がなされる必要がある。その戦争が日本によるアジアへの侵略戦争であったことは明らかである。だが、その侵略戦争が持った意味とその帰結は世界史的な視野のなかで論ぜられる必要がある。本書で日本の戦争犯罪に対するイギリスの戦犯裁判を取り上げることの意義はそうした点にあるのである。

★イギリスの対日戦犯裁判の概要

●東南アジア地域におけるBC級戦犯裁判
 対日戦犯裁判を実際におこなったのは、連合国東南アジア司令部(最高司令官ルイス・マウントバッテン海軍大将)である。この司令部は1943年10月にデリーで編成され、44年4月にセイロンのカンディに移った。主力はイギリス軍であるが、アメリカ、中国、フランス、オランダの各軍の代表も司令部に加わっていた(アメリカ軍は45年11月末に引き上げ、46年11月に司令部は解消した)
 マウントバッテン海軍大将は非常にリベラルである。ビクトリア女王の曾孫にあたる海軍軍人であり、終戦時点で45歳だった。東南アジア司令部最高司令官の後、1947年2月インド総督に任命され、インド独立の最終盤の南極に対処した。
 この東南アジア司令部の下に東南アジア連合地上軍司令部がおかれた。日本降伏後、地上軍司令部の下にマラヤ、ビルマ、インドシナ、オランダ領東インドにそれぞれ軍司令部がおかれた。香港だけは東南アジア司令部の下ではなくイギリス軍参謀長の下に香港軍司令部がおかれた。
 東南アジア司令部の担当地域は、ビルマ、タイ、マラヤ、シンガポール、スマトラであったが、ポツダム会談の際にジャワを含むオランダ領東インド(インドネシア)、フランス領インドシナがマッカーサーの司令部から担当を連合軍、実質的にはイギリス軍が担当した。

●戦犯裁判に関わる組織(東南アジア連合地上軍司令部の戦犯裁判に関わる組織)
 東南アジア連合地上軍司令部の高級副官補佐官のもとに戦争犯罪調整部War Crimes Co-ordinating Sectionと戦争犯罪登録部 War Crimes Registryが、副法務長のもとに戦争犯罪法律部 War Crimes Legal Sectionが設けられた。
 戦争犯罪調整部の任務は、連合地上軍の各司令部や他国軍連絡部との調整、捜査チームの配置、各司令部に配属した戦争犯罪連絡将校の指揮、裁判地への証人や被告の移動の調整、容疑者の逮捕の手配、などであった。
 戦争犯罪登録部は戦争犯罪に関するすべての情報の受理、登録、照合、事件を作成し戦争犯罪法律部に送付すること、指名手配者や拘禁している容疑者の名簿の作成、証拠収集、戦争犯罪連絡将校や捜査チームへの指示であった。
 戦争犯罪法律部は「一見証拠確かな」事件があるとして戦争犯罪登録部から受理した情報に基づいて手続きを進めることである。
 各機関から集められた戦争犯罪に関する情報は戦争犯罪登録部に集められ、ここでケースごとにまとめられたレポートが戦争犯罪法律部に送られ、ここで必要な調査を加えて訴追の準備をおこなう、という順に手続きが進められた
 連合地上軍司令部に直属する各部隊の司令官は、戦犯の特定、逮捕、拘留、戦争犯罪の捜査などに責任を持ち、4つの司令部(マラヤ、ビルマ、蘭印、タイ)には戦争犯罪連絡将校(大佐)を配属し、補佐させた。
 戦争犯罪の捜査については、136部隊のEグループと各部隊の情報部がおこなっていたが、1945年12月5日に戦争犯罪捜査チームを編成して捜査にあたらせた。
 東京にはイギリス外交代表部に付随して軽戦争犯罪連絡部が設けられた。

●東南アジア司令部による具体化・裁判開始にむけての基本政策
 東南アジア連合地上軍司令部がその管轄地域における戦争犯罪の情報の収集と裁判準備の責任を持ち、東南アジア司令部の戦争犯罪課がそれを引き継ぐ。米仏蘭豪(可能ならば中華民国)も戦争犯罪課に各代表部をおいて、地上軍司令部は戦争犯罪捜査チームを編成し、それぞれの地域で必要に応じて多国間で編成する。すべての連合国はみずからの法令に基づいて戦犯を裁く裁判所を設置する権利を持っている。裁判の準備ができたとき、戦争犯罪課の関係国の代表がどの国が裁判をおこなうのか決めるというものだった。
 一般的に重大な犯罪のみを戦争犯罪として裁判にかけ、些細なケースは取り上げない。複雑なまたは重要なケースはシンガポールやラングーン、サイゴンのような場所で集中して裁き、誰を裁判にかけるかは戦争犯罪課が決定する。もし戦争犯罪課が裁判にかけないと決定した場合、その事件に関係する国に任せられる。
 敵に協力して連合国民に犯罪を犯した、日本国籍ではない公務員または市民(いわゆる対日協力者)は関係国の機関あるいは民間の裁判所によって裁かれ、戦争犯罪人としては裁かれない。
 これが裁判開始に向けての基本政策であった。

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2006年04月24日

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part1

 この本は右翼や数々の日本側の誤解などによってゆがめられた戦犯裁判に関する認識を改めるものです。細かに調べあげられて書かれた戦犯裁判に関する完成度の高い著作だと思います。著者である林博史氏が一年間ロンドンに海外留学しまして、イギリスの国立公文書館、戦争博物館、インド省図書館、アメリカ国立公文書館などで資料を集め、集めたコピーを読みながら、足りない部分を公文書館で探すと言う地道な作業を縫い合わせて完成させた労作です。ほぼ全面的に公開されているイギリスの対日戦犯裁判に関する資料を手がかりにしてイギリスの対日戦争犯罪裁判の全体像を描き、日本軍兵士が裁かれた戦犯裁判の経過とその歴史的特質を、英国・日本・東南アジアの戦中・戦後の文脈のなかで解明し、戦犯裁判に関する研究水準を飛躍的に高めることに貢献しました。
 私は本書を参考に戦犯裁判やその問題点をわかり易く、皆様にご理解いただけるように努力してまとめていきたいと思います。まず戦犯裁判についての基本的な事項を本書を参考に記述します。イギリスの対日戦犯裁判についてはpart2以降で
 

●戦争犯罪という考えが生み出された背景
 19世紀の帝国主義の時代と第一次世界大戦という殺戮戦の経験を経て、それへの反省から人類は戦争をなくそうとし、あるいは植民地体制を批判し、あるいは人権の伸長を図ろうと努力してきた。しかし、残念ながら第二次世界大戦という史上まれに見る大殺戮戦を阻むことはできなかった。冷戦のもとで、冷戦終結後も世界各地で戦争は絶えなかった。
 戦争を防ぎ、あるいは戦争が起きても、その中で残虐さを減らそうとする努力が戦争犯罪や戦争責任という考えを生み出された。戦争犯罪は犯罪であるがゆえに裁き、裁くことは新たな戦争や戦争犯罪を防止することにつながるはずだった。戦争犯罪裁判は第一次世界大戦後にもおこなわれるが、本格的に大規模におこなわれたのは第二次世界大戦後、連合国によってであった。そこで行われた戦犯裁判とはどのようなものだったのか、それを検討することはあらためて20世紀を見直すうえで重要なテーマの一つである。 
 

●戦犯裁判とは
 大きく分けて、第一に、平和に対する罪(A級戦争犯罪)を含む戦争犯罪を裁いた
ニュルンベルク裁判と東京裁判(極東国際軍事裁判)、第二に、通常の戦争犯罪(B級戦争犯罪)と人道に対する罪(C級戦争犯罪)を裁いたBC級戦犯裁判がある。A級裁判は国家や軍、あるいはナチスの指導者がおもに裁かれ、ニュルンベルク裁判では連合国4ヶ国(英国、フランス、米国、ソ連)、東京裁判では11ヶ国(アメリカ、英国、ソ連、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリア、ニュージランド、カナダ、インド、フィリピン)から裁判官がでる国際裁判である。他方、BC級戦犯については、9ヶ国(アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス、フィリピン、中華民国、中華人民共和国、ソ連)がそれぞれ別個に裁判を行った。ただし、A級とBC級という区分の仕方はアメリカ式の呼び方であり、たとえばイギリスは主要戦争犯罪(あるいは重い戦争犯罪)Major War Crimesと軽戦争犯罪Minor War Crimesという分け方をしており、厳密にはイギリスの裁判にはC級犯罪に当たるものはない。各国統一されてはいないが、通常はBC級戦犯裁判として一括している。
東京裁判での被告が28人に対し、BC級戦犯裁判では5700人に上ってのぼり、死刑判決も前者が7人に対し後者は984人にのぼっている(ただし、後者の場合、後に減刑されたケースも多い/ソ連や中華人民共和国による戦犯裁判における被告は数に含まれていない)

●BC級戦犯裁判を取り扱って検討することの重要性と意義
 BC級戦争犯罪は具体的な個々の戦争犯罪である。住民虐殺や捕虜虐待などの戦争犯罪がなぜ、どのようにして犯されたのかという問題はそれを犯した
システムやそれを実行した個人のあり方を問うものである。命令に従って戦争犯罪を実行した者の責任をめぐっては、軍隊と市民社会の関係にとどまらず組織と個人の関係がどうあるべきかという問題につながっていく。国家や企業とそのなかの個人との関係がどうあるべきかという問題につながっていく。国家や企業から不法行為の実行を指示された。あるいはそのことを知った公務員あるいは社員が上司の指示だとしてそのまま不法行為を実行するのか、それとも実行を拒否しあるいは不法行為をやめさせるためにそれを市民に公表するのかということは、民主主義社会における個人のあり方としてきわめて重要な問題を投げかけている。組織の中の個人の人権の尊重、不当な命令に対する異議申し立ての権利、組織の不法行為をチェックするシステムの導入などの戦争犯罪の経験から汲み取るべき経験がたくさんあり、現時あの企業や国家などの組織の問題を扱う上でBC級戦犯裁判を振り返ることは非常に重要である。 

●BC級戦犯裁判について不十分な議論や研究が行われてこなかったことに対する問題
 一部の人たちを除いて、もBC級戦犯裁判(戦争犯罪)が提起する問題について真剣に考えようとしてこなかった。戦争犯罪の経験を過去のものとすることによって(それを批判するか、無批判に忘れ去ろうとするかの違いはあるが)、戦後日本の平和主義が形成されてきたのである。今まで確立してきた日本国憲法9条の理念の根底にある戦争観の問題点として戦争だからそうなってしまったのだ、戦争が悪いのだ、だから戦争を否定意しなければならないというように、戦争自体にすべてを押し付け、そこからストレートに戦争否定に導く論理になっていることである。極端にいえば、大日本帝国がおこなったことを侵略戦争だと認めず、戦争だから誰もがやっているのだといって個々の戦争犯罪を否定する右翼・保守的史観と戦争絶対否定の理念は両立しえた。日本の将兵の多くが無謀な作戦によって餓死させられたことも戦争一般のせいにされる。そのためにそうした作戦を行った者たちの責任やそれを許したシステムへの批判はなおざりにされる。戦争犯罪を戦争一般のせいにすることによって、侵略戦争をおこない、無数の戦争犯罪を犯した大日本帝国のシステムや指導者の責任が免罪される。このこと自体に大きな戦後体制の問題点がある。こうした国家システムやそこでの個人(指導者も民衆も含めて)のあり方を問うことなく、すべてを戦争が悪いのだとする、思考停止のうえに戦後の「平和国家日本」が作られてきたのである。この間、アジア諸国の戦争犯罪の被害者からの戦後補償の訴えは、こうした戦後日本のあり方を根本から批判するものだとして受け止められるだろう。戦争犯罪・戦争責任の課題と正面から取り組まなかったために、こうした問題を引きずり、現在の右翼勢力の勃興、および世界に友がいない国家として孤立した歪んだ日本が存在する。 
 戦争否定の理念をかかげる憲法9条を支持することと自衛隊や日米安保を支持することが共に両立して存在しているが現在の日本の姿である。戦争を否定しながらも、もし日本が攻められたらどうするかという問いに対して、攻撃されたら戦争だから何かをされるかもしれない、だからそらないためには自衛力(軍隊)が必要だという論理に簡単になってしまった。しかも、そこでつくられる軍隊のあり方については全く無関心であった。自衛隊とい名前を使うことによって、軍隊の問題点が解消されたかのような議論さえも存在する。戦争犯罪の経験を踏まえていれば当然、兵士の人権の尊重、戦争犯罪を防止する軍隊内のシステムの導入など人権と民主主義の観点からのコントロールが検討されるべきなのに対して、そうした議論はまったくおこなわれてこなかったのである。さらには革新の側が自衛隊内の民主主義や人権を議論することが自衛隊を認めることにつながるという理由から、そうした議論を意識的に避けてきたということがあるにしても、結局は現実に存在する巨大な軍隊=自衛隊は、いくつかの外枠の規制(海外派兵の禁止や徴兵制禁止など)を除いて放置されてきたのである。日米安保体制やそのもとで日本に駐留する米軍については完全に野放しになっている。
 理念としては戦争否定を認めながら、現実としての軍隊を無条件で肯定するあるいは容認してしまうというのが戦後平和主義の問題点である。現実としての軍隊を無条件で肯定・容認してしまうことで、理念としての戦争否定は瓦解している。戦後の平和主義をもう一度根底から立て直すには、こいれまでなおざりにされてきた、大日本帝国・日本軍がおこなった戦争犯罪・戦争責任の問題に立ち向かい、人権と民主主義の観点から戦争絶対否定の理念に向かって現実を条件づけていく営みが必要となるのである。
 つまり、大日本帝国・日本軍が行った侵略戦争・戦争犯罪の問題に立ち向かい、取り組んでいく上で、日本軍が人類史上存在した軍隊・武装組織として暴力性・非人道性の点において他よりも抜きん出ている実態があるにしても、軍隊一般がもつ一般社会とは異質の暴力性・非人道性を抱えた存在であることを踏まえ真摯に理解し、平和主義の理念である戦争・軍隊否定の論理を効果的に体系づけていく必要があるだろう。軍隊という存在自体が暴力の体系であり、他者を暴力で屈服させ、あるいは抹殺することを目的とした武装組織である。一般の社会では1人を殺せば殺人犯だが軍隊では多数を殺せば英雄になるということに見られるように、軍隊は社会の論理とはやはり異質の存在であるわけだ。。日本軍性奴隷制度をめぐる議論のなかで、日本軍のあり方が生み出した性暴力のシステムであることを前提にしても、軍隊という組織そのものがもつ性暴力性も指摘されている。軍隊によるレイプなどの性暴力などは軍隊自体のもつ性格によって
動機づけられているのである。各々の軍隊によってその程度は多様であり、軍「慰安婦」制度を持っていた日本軍と連合軍を同一視することはできないし、各国の軍隊間には大きな違いがあり、その違いを生み出した背景には、軍隊内の兵士の人権などの軍隊のシステム、社会の人権や民主主義の水準などが関わっている現状があるにしても、軍隊そのものあるいは戦争そのものを否定しようとすることには大きな意義があるのである。そうしたことから、戦争と軍隊そのものを否定した日本国憲法の精神は積極的な意義をもつ。その理念に構築し、完璧なものにできる無数の重要な経験が、BC級戦争犯罪とその戦争犯罪裁判には含まれいる。 

★注釈
FO:(イギリス)外務省 Foreign Officeの未公刊資料
WO:陸軍省 War Officeの未公刊資料
アメリカ国立公文書館
RG153:陸軍法務長部資料
RG331:連合軍東南アジア司令部資料

 
part2へと続く
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:20 | Comment(25) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月02日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 中国編ー主として南京大虐殺について と まとめ

 主として1988年8月に南京大虐殺50周年を記念して、著者が「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の一員として現地を訪ねたときの記録より、南京大虐殺とその証言の事項を中心に抜粋したい。

p155
 8月13日。中華民航機で九州から東中国海を横切ると、赤黒い大きな河口が見えてきた。長江(揚子江)である。この河口デルタ地帯に広がる街が上海である。
(略)

 1937年8月13日、日本軍は上海を攻撃。第二次上海事変の始まりである。7月7日に華北、北京郊外の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、このときから華中、上海に戦線を拡大した。これが8月13日の上海事変から12月13日の南京占領にいたる華中における侵略戦争の始まりであった。松本石根上海派遣軍を中軸として、北に第16師団(中嶋今朝吾中将)、南に第10軍(柳川平助中将)を加えて三方面から南京攻略戦を展開する。


p158
 5時10分の南京行きの列車に乗り込む。
 列車から見る景色はほとんど水田で、日本の農村の雰囲気である。灌漑もよく発達しており、溜め池が広範に点在していた。池は養殖場になっている。50年前、この鉄道沿線の豊かな村落を日本軍が奪い、食糧を略奪し、家々を焼き払い、住民を虐殺しながら上海から南京まで進軍したのである。当時、中央公論者から派遣された従軍小説家、石川達三はこの進軍を『生きている兵隊』で活写している。


ゆうの小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.htmlより
●石川達三
 石川達三氏は、南京陥落後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。

 氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。
(略)

「読売新聞」昭和21年5月9日
(見出し) 裁かれる残虐『南京事件』
(略)

 "生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた

南京における日本軍は進撃途中を含めて血なまぐさい残虐行為を行っていたのですね。昭和21年というところから信憑性が極めて高いことが分かります。

p159〜161
南京をガイドしてくれたのは南京大学の高興祖(歴史系副教授)である。さっそく、高先生の案内で南京駅の西方約4キロの下関(中山埠頭)に向かう。下関には「中山埠頭偶難同胞記念碑」が建てられていた。「侵華日軍南京大屠殺遺址」と掘られた碑には、つぎのようなことが書かれている。
 1937年12月16日の晩、日本軍が当時南京の国際安全区という難民収容地区に避難していた難民のうち「中国兵」にあたるとして約5000人を捕まえ縛ったうえで、ここに連れてきて射殺し、長江に放り込んだ。12月18日には難民のうち青年たち約4000人を捕まえ射殺。その後も近くの麦畑に住む約900人を虐殺し、ここでの犠牲者は総計1万人余に達する。
 私は、この碑文にある南京「大屠殺」という文字が目に焼きついた。中国では「南京大虐殺」ではなく「南京大屠殺」と呼ばれているのである。この碑の建立は1985年8月で、その他の南京大虐殺の碑も最近建てられたものが多い。1982年の教科書問題以来、「南京大虐殺」は「まぼろし」であったという日本側の心ない歴史解釈に対する中国政府、国民の意思表示であると思われる。
 中山埠頭近くの長江沿いに和記洋行会社跡がある。ここは元イギリス人経営のハム会社で、現在も南京肉類連合加工廠として業務を続けている。和記洋行には当時数千人の難民が隠れていたが、日本軍の捜索と検束によって、青年を中心に3000人が虐殺されたという。当時難民が隠れていた6階建ての食肉用冷蔵庫を見た。イギリス人の経営であるから保護されるのではないかという期待から、ここに逃げ込んだのであろう。しかし、日本軍にとって国際難民区すら無視する状況では、ここも安全ではありえなかったのである。
 和記洋行の近くの長江河岸の煤炭港に行った。ここも本多勝一著『中国の旅』で有名な虐殺跡地である。碑文には1937年12月17日に武装解除された中国兵と民衆3000人が煤炭港に集められて虐殺され、おびただしい死体が長江に浮かび、また付近の民家に押し入った日本軍が、放火して住民を焼き殺したと書かれていた。ここでの生存者が1人おり、そのときの虐殺の状況がこのように後世に記録されたという。
 さらに、長江一帯で最大といわれる虐殺のあった草圭峡に行った。ここは長江と幕府山に挟まれた狭い地域で、12月13日の南京占領後、捕虜など中国人5万7000人を集め、17日に集団虐殺を行った。数が多いので銃弾で間に合わず、銃剣で刺殺し、そのうえで重傷者も含めて焼却し、長江に流したと言う。
 帰りぎわ、南京の景勝地玄武湖にまわった。湖の真ん中に覧勝桜という展望台があり、そこからは東に美しい紫金山を望むことができる。南京は北西に長江、東に紫金山、南に雨花台があり、川と山に囲まれた盆地上の天然要塞であることがわかる。そこに城門を張りめぐらせて敵の侵略を防いだのである。しかし、この地形はいったん攻め込まれてしまえば住民にとって逃げ道を断たれてしまう袋小路となる。南京大虐殺の発生する一因であった。

酷いことをずいぶんしました。これだけでは終わりません。それと最後に南京の地形は天然要塞であり、攻められにくい地形だということですが、逆にいえば、一端攻め込まれて制圧されると住民にとっては逃げ道を断たれ袋小路になるということです。南京大虐殺否定派の論法のうち、日本軍による南京侵攻当時、市民の多くは脱出して20万人しかいなかったから、30万人虐殺は不可能だといったものがあります。しかし、日中戦争前に100万人以上だった人口が簡単に20万人以下になるわけはありません。周辺からも難民や兵士らが流入しています。逃げられにくい地形ですからなおさらです。南京大虐殺は否定できない事実ということです。

p161〜162
 8月15日。51年前の同日、近衛内閣によって「暴支膺懲」(悪い中国を懲らしめる)声明が出され、日中全面戦争への実質的な宣戦布告が行われた。朝早く、漢中門に立ち寄った。(略)ここ漢中門を経て南京大虐殺記念館(「侵華日軍南京大屠殺同胞記念館」)を訪れた。(略)
 正面には「遇難者 VICTIMS 遭難者 300000」という碑文が彫られ、犠牲者が30万人に達することを表している。庭の一角に建てられている遭難同胞遺骨陳列室には、江東門あたりから発掘した遺骨が並べられ、無数の骸骨の眼窩がこちらをにらんでいる。
 転じは写真が中心で、最初に「日軍殺焼淫掠暴行」と大きく掲げてある。殺し、焼き、奪うという三光作戦の実態が再現され、捕虜の首を軍刀で切り落とすところ、見せしめにさらし首にしたところ、婦人を強姦したところ、大量の子供の死体が並べられているところなど、日本軍の残虐さがつぎからつぎへと展示される。また、日本軍の機関銃、銃剣、日本刀が虐殺の証拠品として陳列されていた。
 日本で論争になっている犠牲者数について、ここでは1946年の南京戦犯軍事法廷の南京虐殺に関する判決に基づき、12月15日から12月末までの各地の概数を合わせて約20万人という数字を出している。当時の主要慈善団体が南京で遺体を埋葬した数字を根拠として、紅卍会(赤十字)4万3123人、崇善堂11万2266人、合計15万5389人を掲げている。これは埋葬のあめ、確実に数えあげられた遺体数である。このほか、長江に流された無数の死者、焼き殺された無数の死者など数えられない犠牲者を加えると、虐殺総数は30万人にもなると中国側は推定している。

これは1988年8月に著者が訪れたときのことであり、今は展示はどうなっているのかは分からない。およそ開館3年目にあたるとのこと。
南京大虐殺についてはおもに陥落時についての日本軍の組織的な虐殺、また日本兵の数々の奇行・姦淫によって犠牲に至らしめられた中国人などによって20〜30万人に達するとされる。それだけではなく、日本軍の砲爆撃、中国軍との戦闘の巻き添えによる戦災犠牲者を考えなければならない。そして、何とか一連の虐殺行為・日本兵の暴虐・戦闘行為によって死ななかったものの重症を負った負傷者のことを考えなければならない。それと南京大虐殺によって南京の占領は終わったわけではなく、日本の敗戦の1945年8月15日まで南京における日本軍の占領は続いた。その間の7年間、憲兵隊による暴虐や食糧不足、労務者徴発、従軍慰安婦としての女性の連行、日本兵による淫乱などの過酷な統治が繰り広げられたことを考えれば、総合的な犠牲者は30万人をはるかに越えるのではないかと考えることもできるのである。

●南京大虐殺の証言 p163〜166
私は2人の生存者から当時の状況をお聞きしました。最初は、今回はじめて証言に立つ孫漢皐さんである。
「私は虎山で要塞の工事をしていました。12月13日に日本軍が来たので、それを壊して四散しました。茶館まで逃げましたが、すでに岡本部隊が着ており、そこで捕らえられました。日本軍に『軍人か、良民か』と聞かれました。『良民』とは百姓のことだというので、私は『大工だ』と答えました。『椅子を作ることはできるか』と聞かれたので、すぐに椅子を作り、それで殺されませんでした。私は炊事の手伝いをさせられていましたが、その後、日本軍は安徽省に移動したので、解散されました。
 田舎に帰ろうと思って、晩の5時ごろ和記洋行に通りかかると、ちょうど日本軍が避難民を逮捕しているところで、そこでまた捕まってしまいました。夜8時ごろ、おびただしい人々と一緒に縛られて連行され、機関銃を浴びせられました。たくさんの人が亡くなりました。私はいちばん最初に機関銃の音を聞いて人の陰に隠れました。激しい雨が急に降りだし、日本軍は銃撃をやめて帰りました。
 10時ごろになると、静まりかえっていることを知り、逃げ出そうと思い出しました。両手が縛られていたので、長時間かけて爪と歯で切りました。太い縄でした。このとき、私の三本の前歯はすべて抜けました。近くの家のドアを叩くと、『鬼か人間か』と言われました。私の姿はおびただしい返り血を浴び、血だらけで前歯もなかったから、人間とは思えなかったのでしょう。そこは紅卍会のドイツ人のところでした。そのときノックの音がしました。『だれか中国人が来ていないか』と日本軍が探しに来たのです。そのドイツ人は『いない』と言ってくれました。ドイツ人はそのとき日本軍に殴られました」
 孫さんの話は淡々として感情を激することもなく、淀みなく続けられた。何度もわたる危機をくぐり抜けたことは奇跡としたいいようがなかった。
 つぎは、紅卍会の管開福さんの証言である。
「私は南京大虐殺の前から紅卍会に所属していました。1937年12月13日から日本軍は大虐殺を始めました。翌年1月に南京に入ると、街の至るところに死体が転がっていました。死体収容は難民区(国際安全区)から始めました。そこには市の6分の1に当たる数十万の難民が集まっていました。難民区には本当は軍は入れないのですが、日本軍は入り、検束して殺しました。男も女も殺しました。ここで最初の死体埋葬を行い、3月まで難民区で仕事をしました。
 つぎに、街のなかをトラックでまわりました。しかし、日本軍に銃を撃たれるので、紅卍会ということが日本軍にわかるように手帳を作りました。それでもトラックが止まらないうちに銃撃されるので、今度は日本領事館のなかのお坊さんを連れていき、トラックの上で手の鈴を鳴らしてもらいました。漢中門では3日間で1000人の死体を収容して、ガソリンで焼きました。あるときは共同墓地に7000体を埋葬しました。
 太平門は商店街でしたが、100人ほどを捕まえて針金でつがぎ、一商店に閉じ込め焼き殺すところを見ました。また、中山門の外側と内側で数百人の手を針金で縛り、木の上に吊るし上げているのを見ました。
 1938年8月までこの仕事を続けました。メインストリートでの死体埋葬は終わりましたが、横丁にはまだ残っていました。犬や猫がしだいに死体を食べはじめるようになりました。死体はとくに煤炭港など長江下関あたりが多かったようです。日本軍が東方面から攻めたため、西の長江に追い詰められた中国兵と人民は逃げ道を失ったのです。
 大虐殺のとき、難民区の人は外でなにが起きているのか知りませんでした。生活用品がないので探しに外に出かけていきます。紅卍会の腕章をつけていく人もいましたが、見つかりしだい殺されました。とくに洋装の人が殺されました。百姓ではなく兵隊と思われたのです」
 管さんの話も静かな口調で淡々と話された。

これらは貴重な証言です。アイリス・チャン氏の「レイプ オブ ナンキン」に描かれた日本軍によって引き起こされた悲惨な惨劇も嘘ではないことが明らかだと思います。南京大虐殺の前より紅卍会に所属していた方の貴重な証言もありました。虐殺中も日本軍によって殺される危険を冒しながら、賢明に遺体の処理と埋葬に奔走している紅卍会の姿がありました。本当に酷いです。フィリピンでも地方の村落および戦争末期に同様の酷い日本軍の凶行がありました。南京大虐殺否定派ども右翼反動歴史歪曲主義者はこれらの証言を読んで自身の1人の人間として最低で、人類としての普遍的な絶対道徳倫理に反する思想を改めて悔いるべきである。
●高興祖先生の話p166〜167
日本の第10軍(柳川平助中将)、第6師団(熊本)、第114師団(宇都宮)は中華門からはじめて南京城内に入り、激しい戦闘が行われた。中山門は上海派遣軍の第16師団(京都)が攻略したところで、12月13日には、この門の上で日の丸を掲げている日本兵の姿が南京陥落の報道写真として日本へ流された。中山門にいたるまで、中国国民党政府軍の頑強な抵抗にあった第16師団は、南京の中心的な治安部隊として城内の粛清に当たった。12月17日に上海派遣軍と第10軍が南京入城式を行い、中山門から市内を行軍した。高先生によると、城壁の上の堀に多数の捕虜となった中国兵を並べ、銃殺したという。
 この夜、高先生を囲む会がホテルの一室でもたれた。高先生はすでに60歳で、この8月で南京大学を定年退官するという。
 この会では、私たちの質問に高先生が答えるというかたちで進められた。おもな質問は、@南京大虐殺の20〜30万人の数の根拠について、A現在の生存者の掘り起こしについて、B中国における日本の侵略戦争に関する教育について、などであった。
 これに対して、高先生はつぎのように答えた。
@30万人の根拠は、南京戦犯軍事法廷判決の結果(約20万人)と、処理された遺体のうち、長江に流れたり焼かれたりしたり、その他不明の者を含めると30万人に達する。中国では日中戦争の中国側犠牲者は軍民あわせて2000万人であり、そのうち死者は900万人であると推定している。
A証言者の掘り起こしについては、1984年から本格的に取り組み、生存者1700人を調べ、104人の証言を記録した。1982年教科書問題が起きてから研究が進み、水準が高くなった。個人的には南京大虐殺の原因となったのは日本の教育の問題であり、戦前の天皇制教育と民族差別教育の問題があると思う。
B中国では、アヘン戦争以来の西欧列強の侵略から日本の侵略まで系統的に教えている。1985年に建てられた南京の大虐殺記念館もその一環で、3年間にすでに100万人が見学している。とくに、南京大虐殺を教える目的は、生命の尊さと平和のたいせつさと同時に、中国が侵略された原因が「国が遅れていることにある」ことを認識させ、そのため現在「4つの現代化」(1979年の改革・開放政策の開始において中国共産党は農業、工業、国防、科学技術の4つの現代化を提唱した)が必要なことを学ばせている。
 高先生の話は淡々としていたが、長年の研究に裏づけられたものであり、とくに戦前日本の教育の民族差別の指摘に共感を覚えた。
 
私も戦前の日本の教育のあり方は問題であったと思う。まず、天皇制教育では御真影を教育現場に配置し、教育勅語を発布し、天皇崇拝を植えつけようとする教育が行われた。天皇制と国家への忠誠心を訴え、国家のために死ぬことを讃え、国や上(上司)の決めたことならいかなる非道なことでも遂行しなければならないというような教育を国民1人1人に叩き込み、軍隊ではさらにそれが鍛えられた。人間の尊厳を傷つけ、命を奪ったり、人々の生命を無慈悲に奪うことに対してなんとも思わない、国家・組織の命令に絶対服従するロボット国民を作り上げていったのである。それに加え民族差別教育である。民族差別ばかりではない、大和民族優越思想教育も施していった。日本人はアジア地域は西欧列強に支配されており、いち早く産業革命を成功させ、上り詰めた大和民族の指導をあてにしているに違いないという夢想を抱き、やがて、それは大和民族が他の有色人種の頂点に立ち、教え導く義務があるというとんでもない妄想に発展していった。それがアジア民衆は優秀な大和民族に無条件でひれ伏し、大和民族の国家・大日本帝国は大東亜共栄圏を建設し、アジアを指導し、統治する盟主になることは当然ということにつながっていった。当然、それが天皇制教育と合わさって、今日の悲劇を生んだというわけである。

p194〜195より
 1992年10月、昭和天皇が実現できなかった訪中を現天皇は日中国交回復20周年を記念して行い、はじめてさきの大戦について、「中国国民に対し多大な苦難を与えた。これは私の深く悲しみとするところ」と、中国に公式に謝罪した。

もちろん、すばらしいことである。昭和天皇が訪中できなかったのは言うまでもない。ただし、現天皇が戦争に対する反省の念をもって訪中されたことはまことにすばらしいと思う。
 
 南京大虐殺については、1990念12月に旧東ドイツ国立中央公文書館で1938年1月付のドイツ大使館南京分館の書記官の南京大虐殺報告書が発見された。それには「身の毛もよだつドキュメント。(ヒットラー)総統もぜひ見てほしい」と述べられていた。また、1994年9月、アメリカ公文書館は在米大使館宛の日本外務省公電史料を発表した。そえによると、1938年1月の時点で「30万人以上が虐殺」と日本側が打電していたことが明らかになった(「朝日新聞」同年9月11日付)。これは当時の外務省が事実を確認したものではなく、外国人記者などの記述をそのまま打電したものと思われるが、「30万人」という風評をすでに日本側が知っていたことを示すものであった。現在も虐殺人数は不明であり、40万人説から数千人説まであるが、通説では「軍民合わせて20万人を下らない」(洞豊雄氏)といわれる。

ヨーロッパ戦線では一番残虐だったのはナチス・ドイツでした。ナチス・ドイツの幹部でさえ、日本軍の蛮行は身の毛のよだつものだったそうです。後、在米大使館への日本側の公電でも日本側が「30万人」という風評があることを確認しており、中国側の「30万人」は信憑性の高いものだと考えられる。
南京大虐殺について私のまとめたものについて

@中国側の南京大虐殺数30万人を否定する証拠は存在しない。
A南京否定派が使う人口20万人はあくまで安全区内のものであり、その他の周辺地域や市街地域が存在し、周辺からの難民や中国兵の数も計算に入れていないため不適当
B紅卍字会や崇善堂による15万5337体もの埋葬記録が存在する。さらに揚子江等に捨てられた遺体を含めれば20万体以上によるとされている。
ただし、その15万5337体が100%重複等がなく、すべて直接の虐殺によるものだったか、正確だったかは今となっては検証しようとない。ただし、南京で20万人以上とされる。
人々が日帝軍国主義の侵略野心によって犠牲になったというのは確かである。
C中国の侵攻自体が国際法違反だったものである。
D中国の南京大虐殺30万人は実際には虐殺者に加え、戦死者・その他による死、場合によっては
負傷者等もを加えたものである可能性がある。
E中国人は日本軍によって1000万人〜3500万人もの死者を実際には日本軍によって1000万人〜3500万人を日本軍によって虐殺されたという表現をするが、これは日帝の侵略主義に対する怒りと過去を悔い改め、自らの過去を向き合おうとしない日本へ対する怒りの表現である。
東京裁判では中国政府が20万人虐殺された、今では30万人虐殺されたとしているが、実際にはすべて虐殺によるものではないにしろ、南京では人口の大半が消されるほどの大惨事が日本軍によって引き起こされたものであり、中国民衆の感情を考慮にいれたものである。

「満州国」の731部隊については、1990年代にはいるころから急速に関心が高まった。1989年7月に新宿区の旧陸軍軍医学校跡から100体以上の人骨が発見されて細菌戦争のための人体実験犠牲者ではないかといわれた。区で独自の鑑定を行ったが、日本樹陰とは異質な骨まで含まれ、鋸で開頭手術をした跡などが見つかったが、731部隊との関係は疑問のままである。1993年8月には、防衛庁防衛研究所図書館で旧陸軍の細菌戦実施の業務日誌が発見され、1940年10月に湖南省にペスト菌を爆撃機でまいたという。
 また、旧日本軍が中国に残した化学兵器の処理が現在問題となっている。敗戦時、ソ連の進入を前にして日本軍は、大量のイペリット、ホスゲン、青酸ガスなどの化学兵器を「満州国」の吉林省を中心に黒龍江省、遼寧省、河北省などの土中に埋めて逃亡をはかったのである。1995年のうちに批准される化学兵器禁止条約により、日本は化学兵器を遺棄した責任として、10年以内にその処理が義務づけられる。現在、中国国内には処理されていないままの化学砲弾200万発、毒性化学剤100トン、放置された化学兵器の直接の犠牲者が2000人にのぼるという。これらの毒ガス兵器は日中全面戦争が始まった1937年から敗戦の1945年までに、日本軍は華北を中心に2091回使い、中国人死傷者は民間人を含め8万人におよぶと中国側はいう。
 強制連行では、1995年6月に秋田県の花岡銅山で働かされていた中国人の生存者、遺族11人が鹿島建設を相手に東京地裁に賠償請求を起こした。これは中国からの最初の提訴となる。
 また中国でも従軍慰安婦が1995年8月に日本政府に謝罪と賠償を求めてはじめて提訴する。この元慰安婦は山西省の4人で10代半ばで日本軍に拉致、監禁されたという。従軍慰安婦の中国人提訴は韓国人、フィリピン人、オランダ人に続いて4番目となった。これに対し、政府は1995年6月に「女性のためのアジア平和基金」を設け、慰安婦基金として10億円の民間募金をつのり、1人当たり数百万円を贈ることを計画しているという。

この本が出版されたのは1995年7月であり、それまでの一連の日本の中国における戦争責任をめぐる動きの部分を引用してみました。2006年現在とは違ってくるところもあるかもしれません。

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 フィリピン編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14807634.html
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 タイ・マレー半島北部
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14755894.html
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.html
の関連エントリーをよろしくお願いします。
私が取り上げなかった部分は本書を参考にしてください。

●まとめ
 この本が出版されたのは1995年にあたり、このころはアジア・太平洋戦争が終結して50年目になっていた。今は60年と半世紀以上立っているが、今もアジア各地では戦争の傷跡は癒えず、戦後補償の要求が燃えさかり続けている。今の日本でも右翼勢力、歴史反動主義者と良識派が争い侵略戦争や植民地支配の評価をめぐって迷走を続けている有様である。日本における「過去の克服」の問題は終わっていない。 ドイツと日本の比較でいえば、第二次世界大戦への国家賠償額が日本は1億円で、ドイツの7兆円と比べても大きな開きがある。戦後補償の内容も、ドイツ政府はナチス犠牲者であるユダヤ人への直接補償のみならず、ベンツ・クルップなどナチス下の大企業もユダヤ人の強制労働に対して補償を実施している。また1993年、ドイツはナチスのソ連侵攻にともなうロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人に対する残虐行為に対して、その生存者や遺族に10億マルク(約800億円)を支払うことを決定した。第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカも、1988年に戦時下の日系人の強制収容所立ち退きに対してひとり2万ドルの支払いを決定した。1995年オーストリアでは、ユダヤ人を中心とするナチス犠牲者の約3万人に対して約45億ドルの支払いを決定した。これを比較したとき日本の場合はどうであろうか。現在アジア諸国から戦後補償要求という形で突きつけられている。連合国は日本にたいして戦争賠償請求を放棄した。アジア諸国に対しては賠償を行ったが、不十分であり、経済援助としてダムや港湾施設、工場プラントとして現物給付されたものが多い。日本政府の個人補償はいうまでもなく、日本企業の個人補償もほとんど進んでいないのが実情である。アジア諸国民がいらだつのは当然のことである。
さらにこのような侵略戦争の評価に関しての混乱と戦後補償の立ち遅れは、根本的には日本国民の歴史認識の問題性にあるち思われる。アジア太平洋戦争の任期においては、戦死、空襲、耐乏生活、原爆などの日本国民の戦争被害の悲劇から二度と戦争を繰り返すまい、戦争に巻き込まれないと決意し、戦後の平和憲法にストレートにつながる歴史認識がこれまで主流であった。この一面は別に悪くはないが、日本がアジア民衆に何をしたのかということ。南京大虐殺、中国、東南アジアでの住民虐殺、強制連行、アジア各地の女性を軍隊性奴隷にした国家的強制売春システムなど、アジア各地で今も消し去ることのできない惨禍として語り継がれているアジア民衆への日本の加害行為認識がきわめて弱いといわざる負えない。ひとことでいえば、日本人は戦争の被害者意識が強く、アジアへの加害責任の認識が弱いことである。日本国民の先の戦争に対する被害者意識の強さが右翼および歴史修正主義を生み出す土壌をつくり、米国やソ連にはめられた被害者でありわが国は悪くないだとか、アジアを解放したなどの妄言が生まれてくる。そうしたことが「アジア侵略」や「戦後補償」の国民的合意あできない大きな要因でもある。アジアの真の仲間入りを果たすためには、アジアに対して戦争責任のケリをつけ、謝罪しなければならない。アジアとの交流が深まった今、アジア各国と従来のような政府レベルではなく、アジアの人々個人個人と直接交流しなければならないし、個人レベルでの理解が欠かせない時代にますます入ってくると思う。そのためには民衆レベルでの日本の戦争責任、個人レベルでの戦後補償が問題とならざるをえないからだ。アジアにおける日本の戦争責任の自覚と複雑な民族問題の解決の大切さ、かけがいのない1人1人の人権擁護の大切さについて1人1人が理解すべきだと思います。
(おわりにかえてー戦争責任と戦後50年の項p250〜258を参考にして編集)

改めて思ったのが、日本軍が先の戦争でアジア・太平洋地域(特に中国、フィリピン、マレー半島の華人たち)に行った悲惨な加害事実である。アジア・太平洋戦争では中国や東南アジアを侵略し、地域で補完的に機能していた、アジア・太平洋地域のの経済を自活経済で破壊し、人々の生活を窮乏と窮状のどん底に落とし込んだこと。何よりも侵略した各地域(特に中国、フィリピン、マレー半島の華人たちに)で語るに耐えないほどの非人道的な残虐行為を行った。古代史から平成16年の現在に至るまで凶悪さ、悪逆非道さ、そして最も人命軽視ことにおいて、日本軍・大日本帝国に勝るものはないということを認識すべきだ。今も続く、大日本帝国の戦争加害・侵略犠牲者遺族や被害者の日本への反発は、日本政府、政治家の日本の戦争加害・侵略についての反省なき軽率な言動がもたらしたものでもある。現代でも日本はアジア各地の環境を破壊し、日本人のアジア各地での行動や日本企業の公害輸出、労働の劣悪さ、排他性において反発されることが多々ある。それは私たちは日本による侵略戦争の実態をしり、謙虚に反省すると同時に、アジアの人々の心を理解できていないからである。そして、何よりもアジア人を含むほかの有色人種の方々を見下し、先進国の名誉白人気取りでいてアジア民衆と対等な視点で立つことができないでいる。それは戦前・戦中に植えつけられた大和民族優越思想などが抜け切っていないからだ。アジア人と対等に立つためには、過去の日本がアジア太平洋地域を侵略し、現地の人々に苦痛を与えこと、そして戦争責任を自覚し、過去を反省・贖罪するということから始まる。過去日本がやったことを申し訳なく思う気持ちを日本の市民1人1人が自覚できたら、日本政府や日本企業の大戦中の残虐行為や強制労働の問題に対して法的責任をきちんと取らせる。会社・法人、政府、官僚組織を含め日本全体が過去の侵略・戦争への反省を自覚するに至り、アジア・アフリカなどを含む発展途上地域の人々の生活を踏みにじるような日本企業やODAの問題を解決し、国益や官益、企業の利益・利潤よりも発展途上地域の人々の生活を考えた政策・援助・投資をすることにも繋がっていく。これが日本人が国際社会に出て活躍するための道でもあり、日本の未来のあり方と不可分の今日的課題である。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:28 | Comment(18) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 フィリピン 編

1989年の夏の「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の準備で、同実行委員会の上杉聡氏ともに著者が3月にフィリピンを訪ねたときの記録の章より、日帝悪事実を抜粋する。
p85〜87
 1989年3月26日。私は成田から発ち、マニラで「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の事務局長、上杉聡さんと待ち合わせることにしていた。飛行機の席に隣り合わせたのは22,3歳ぐらいのフィリピン女性である。彼女は去年から「のりちゃん」という名前を使って、横浜のスナックで働いている。1年ぶり1週間ほどフィリピンに帰るのだという。その隣には、近くマニラのエルミタにカラオケ・スナックを開店するという福岡県のIさんがいた。
 3人の話題は、のりちゃんの日本における労働条件がいかに悪いかということをめぐってであった。のりちゃんは、マニラのカレッジを出たあと、日本に出稼ぎに来ている。彼女は朝から昼まで品川区の大井町にある日本語学校に通い、夜6時から12時までスナックで働くという。
 彼女によれば、「給料は安くて月10万円程度であり、フィリピン人の友だち2人とアパートを借りて下宿代に2万円、さらに食事代、日本語学校の授業料を加えると手元に残る金はいくらにもならない」そうである。
 
 こんな話をしていると、Iさんが割って入る。「そんなことを言ってはいけない。われわれスナックを経営する立場からは、きみたちをフィリピンから呼ぶために、かなりのお金を使っているのだ。日本への旅行の支度、パスポートに飛行機代、宿泊代など、すべてきみらのためにかけているのだ。日本に来れるだけでもありがたいと思わなければならない」と言う。
 Iさんは福岡で小動物の販売店を経営しており、ここ10年ほど犬や猫を求めてフィリピンに来ているうちに、その儲けでスナック経営を始めるようになった。マニラに現地妻をもっているという。ところで、彼は10年フィリピンで仕事をしているにもかかわらず、フィリピン語はいうまでもなく、英語をまったく話せない。出入国カードの書き方もわからないので、かわりに私に書いてくれと言うほどである。のちちゃんは、「私たちは日本語を覚えなければならないが、日本人はフィリピンで日本語ですむのです」といった。
(略)

・・・・・マニラの繁華街であるエルミタ・マビニ通りの日本人相手のスナックやバーでは現地の女性が日本語を話し、経営者は日本語で商売ができる。マニラはアメリカにかわって日本の植民地支配国となったかのようである。
 のちちゃんとIさんの会話の中に、いまの日本とフィリピンの関係が反映されているような気がした。じゃぱゆきさん、マニラの日本人スナック、現地妻、英語を話せない日本人、これらの言葉が現在の日本の関係の一面を象徴している。

フィリピン人女性が日本に来るときは、日本語をマスターしなければならない。日本語学校にも通わなければならない。日本のスナックへ出稼ぎにいくのはいいが生活費や雑費等で消えてしまう。スナックの経営者Iの傲慢さにも腹が立った。賃金の割には労働がきついし、思っていたほど稼げなかったフィリピン女性の"のりちゃん"が不満を言うのは当たり前だと思う。「日本に来れるだけでもありがたいと思わなければならない」と傲慢なことを言う。フィリピンという国を発展途上だ、自分は優秀な先進国の人間である日本人だと言って見下しているのだろう。フィリピンがスペイン、アメリカの植民地支配を受け、そして日本軍がフィリピンに侵略し、過酷な圧政を敷いてたくさんのフィリピン人が死んだという歴史的事実を踏まえているのだろうか?日本人は気楽である。戦後もアジアで傲慢に振舞っている。フィリピン語も英語も話せないでフィリピンに行き来して、現地妻を持てて商売もできて、やり放題だ。いい気なものだ。生意気なこういう日本人に分からせるためにも、大日本帝国の戦争加害問題カードというのを使って、自分たちがフィリピンにどんな酷いことをしたかというのを分からせないといけない。

p87
 午後11時にマニラ空港に到着した。
(略)
 
 私たちの宿泊先はNCCPという教会の宿泊施設がある。NCCPはカトリック、プロテスタントを超えたクリスチャンの社会運動の拠点となっている。ちなみに、上杉さんはカトリックの信者である。このように、現在フィリピンを含めてアジアの問題に真剣に関心を寄せている人々にクリスチャンが多いことに気づかされる。

たしかにその通りである。日本の戦争責任問題などのアジアの関心事項に取り組んでいる方にはクリスチャンが多い。

●戦時下の親日勢力p88〜91
 3月27日。日本軍占領下のフィリピン史の専門家で現地在住の寺見元恵さんに同行してもらい、聞き取り調査を向かった。
 フィリピンでは20世紀初頭スペインにかわり、アメリカが植民地宗主国となる。その後にアギナルドを指導者とする反米独立運動が展開されるが弾圧された。1933年にはベニグノ・ラチスを指導者として結成されたサクダル党が反米独立運動の中心となった。サクダルは、アメリカ支配に対抗するために、日本から資金、武器などの援助を期待し、日本の右翼内田良平、小池四郎などと結びついていた。
 最初に紹介されたヘラネリア牧師は1929年生まれで、現在マニラ在住である。ヘラネリアさんの父親はサクダルの有力メンバーであり、戦前ラグナ集のカプヤオ周辺で500人の農民を組織し、反米独立運動と反地主闘争を展開。大地主の車を止めて、武器、金品を奪うゲリラ闘争を行ったという。サクダル党は中部ルソン、南部タガログ諸州の貧農を基礎にしていた。
 サクダル党は1935年6万5000人の蜂起によって弾圧されるが、その結果、アメリカの支持のもとにフィリピン独立準備政府としてケソンを初代大統領とするフィリピン・コモンウェルス政府が成立する。この蜂起のとき、ヘラネリアさん両親は逮捕、37年にも再逮捕され、以後軟禁状態におかれたという。
 1941年12月8日、日本軍のフィリピン侵攻が始まり、42年1月2日マニラ陥落、5月6日コレヒドール陥落によって米軍は降伏した。1943年10月14日、ホセ・P・ラウレルを大統領とする日本の傀儡政府、フィリピン共和国が成立する。サクダルの残党は反米独立のため日本軍に協力した。党首ラモスはサクダル党から新たにガナップ党を組織して、日本軍によるフィリピン地主階級の一掃を期待した。日本軍はこの民衆の要求を逆手にとり、傀儡政権下にフィリピン愛国連盟(マカピリ)を組織して、サクダルメンバーを日本の手足として利用した。しかし、日本軍が地主階級を一掃したわけではなかった。
 日本軍の占領下でサクダルの残党であったヘラネリアさんの父は、日本軍に動員され労務者として協力したという。アメリカ軍が1944年10月21日、レイテ島とルソン島のバタンガスに上陸すると、彼は日本軍から一緒に逃げるように誘われた。このため、戦後、彼は日本軍協力者として糾弾され、抗日ゲリラに家族全員みせしめの拷問を受けた。しかし、ゲリラの1人が母と親しかったので殺されずにすんだという。
 1945年当時16歳になったばかりだったヘラネリア牧師の話は、両親に関することに終始した。ただ、日本について、つぎのように話してくれたのが印象的であった。
「日本軍が占領下においてフィリピンの反日ゲリラを殺すのは当然である。日本のもとで戦後独立したほうがよかった。戦後、自分らの評価が低くアメリカ中心の勝者の歴史となったことは不満である。私はいまも親日である」
 そして、戦時下のサクダルの旗と日本軍によって発行された住民証明所を見せてくれた。住民証の文面には、つぎのように記されていた。
「本証明書ノ所持者ハ『ガナップ』党員サクダル党員タルヲ証シ、党員ハ皇軍ニ協力スルト共ニ比島新建設ト東亜建設ニ忠実ナルヲ誓フ」
 日本軍はフィリピン侵略のなかで、フィリピン民衆の反米ナショナリズム=反植民地意識を巧みに利用した。サクダルはその道具であった。そのため、フィリピン人は内部抗争をするようになり、相互に殺し合うなどの悲惨な経験を経なければならなかった。

ここでも日本軍の戦争を賛美する洗脳親日派がいます。ただし、その背景には複雑な影が隠れていることは確かです。一部の反米ナショナリズムを持つフィリピン人が日本軍に懐柔・利用されて、手先として使われ、フィリピン人同士で殺し合うことになったことは以外にも知られてません。

http://web.archive.org/web/20040422060131/http://www.h4.dion.ne.jp/~ftc/travel/9810/9810_k8.htmlより
「日本兵にもいい奴がいっぱいいた。」
 抗日派だったフィリピンの老人にそういわれるのは私は2度目でした。
 アメリカ軍と日本軍の戦闘で、丸裸に焼き払われたまま再生していない森林もいくつもあります。住民は親日派と抗日派に分かれて、闘ったり、密告しあったり、強制労働もあったし、ゲリラつぶしのための大虐殺もあった。
 でも私は、日本軍がフィリピンにきていたことすらろくに知らないで育っています。


互いの憎しみを乗り越えようとする対話
http://blog.livedoor.jp/soliton_xyz/archives/50003808.htmlより
1942年1月、アメリカの植民地だったフィリピンに侵攻した日本は、独立を約束してフィリピン人に協力を求めたが、過酷な軍政は住民の怨恨を招き、抗日ゲリラ運動は激化した。
このため、日本は1943年に形式的にフィリピンを独立させたが、退却していたアメリカ軍が攻勢に転じると、フィリピン自治政府軍が統合されていたアメリカ極東軍指揮下のUSAFFEゲリラをはじめとする抗日ゲリラはアメリカ軍と協力して日本軍と戦った。

1944年10月、アメリカ軍がレイテ島に再上陸すると、同年12月、抗日ゲリラの掃討に苦戦していた日本軍は、義勇軍・フィリピン愛国同志会「マカピリ」を創設した。
日本語教育や軍事訓練を受けたマカピリの兵士たちは、山岳地帯に追い込まれた日本軍が降伏するまで行動を共にした。

「マカピリ」は、タガログ語で「国を愛する者たち」を意味するが、戦後のフィリピンでは「裏切り者」を指す言葉として今も使われているという。
マカピリの兵士約5,000人のほとんどは貧しい農民だったが、戦後、フィリピン政府による国民特別裁判で反逆者・対日協力者として裁かれた約5,500人のうち半分以上はマカピリの兵士たちだった。
日本の占領に協力した政治エリートたちに適用された大赦も、元マカピリには適用されず、中には10年以上の実刑を受けた者もいるという。


日本とアメリカの戦いは、ゲリラとマカピリというフィリピン人同士の戦いになりました。
この歴史はフィリピン人の在り方を考えるための重要な課題です。


と語るフィリピン国立歴史研究所のオーガスト・デビアーナ氏は、元マカピリの兵士の証言を歴史の記録として残そうと聞き取り調査を行っている。

農民や欧米的教育を受けた中産階級で組織されたUSAFFEゲリラは、退役軍人として扱われ年金も支給されているが、その多くは日本軍やマカピリによって肉親や友人を殺された体験を持っている。

私たちの教育は、英語でアメリカのものです。だから、気持ちは自然とアメリカに近くなります。
日本人に味方できないのは当然でしょう。
マカピリはいつも日本人と一緒で、籠で顔を隠して指差します。密告されたらお終いでした。

と語るアウレリオ・バト氏は、電気技師の父を持ち比較的裕福な家庭に育った。フィリピン政府から受け取る年金は、毎月5,000ペソ(約1万円)である。

ガブリエル・ビアト氏は、バト氏の戦友だが、80人いた部隊で生き残ったのは、彼ら2人だけだった。
日本軍によるゲリラの掃討作戦で犠牲になった住民は10万人を超えており、戦後の国民特別裁判の記録によれば、ゲリラやその容疑者に対してマカピリも拷問や虐殺を行い、生きたまま突き刺し焼き殺した例もあったという。

スペインやアメリカから侵略された時の話を両親から聞いていました。
私たちの小さな土地は、アメリカ人と金持ちに奪われました。

日本人を見てマカピリに入りました。日本人は私たちと同じ肌の色でした。
なぜ、日本人を愛さず、アメリカ人を愛せたのでしょう?
アメリカ人は、私たちから土地を奪っていきました。

と元マカピリの一人が言うと、バト氏は家族を殺された思いをぶつけた。

叔父は、この町の警察署長だった。
ある日、叔父が日本人に連れていかれた。連れていったのは日本人とフィリピン人だった。3日後、叔父は殺された。
それは心に深く刻まれた。だから私はゲリラになったのだ。

NewsでNonfixな日々というブログより引用させていきました。ちょっと泣けてきました。一番悪いのは、フィリピン人同士を殺し合いにさせるように自身の支配に利用した日本軍です。しかし、そのフィリピン人同士の親日派・抗日派に分かれた殺し合いにはアメリカやスペインの植民地支配の背景もあったということです。アメリカやスペインの植民地支配で土地を奪われ、貧しい生活でどうしようもなくなった貧農たちが活路を見出すために日本軍に積極的に協力しようとしました。もちろん、日本軍は彼らの要求に答えるわけはありません。ただ、利用されただけでした。ヘラネリアさんの事例は単純に親日派であるから駄目だというわけにはいかないようです。大日本帝国と米国帝国主義の覇権争いの場の一つがフィリピンの土地だったのですが、一番犠牲になったのはフィリピンの民衆です。日本軍によってたくさんのフィリピン人が虐殺されました。それだけではなく、同じフィリピン人が日本軍に密告したり、場合によってはフィリピン人自らが同じフィリピン人を殺したというのです。同胞に殺されたフィリピン人犠牲者やあるいは同じフィリピン人を戦争中密告したり、あるいは自ら手を下して殺した加害者としての傷をもつフィリピン人も多いはずです。日本は過去に自ら生んだこのような惨劇に対して白を切り通すつもりなんでしょうか?

●マニラ虐殺p91〜92
・・・私たちはマニラ市内のコラソン・ノブレさんのお宅にうかがった。ノブレさんはスペイン系の血をひく、いかにもヨーロッパ的な美しい顔立ちであり、元女優であったことをうなずける。1945年2月、米軍によってマニラを放棄せざるをえなくなった日本軍は、マニラ市内の各所で住民虐殺を行い、犠牲者は1万人以上におよんだという。戦後、山下奉文司令官を代表被告とするマニラの戦犯裁判ではじめて明らかになった事件である。ノブレさんはマニラ住民虐殺事件の生き残りの1人である。
 日本軍は、ノブレさんを含む付近の住民を証明書を交付するためと称して病院に集めた。住民と病院の医者、看護婦合わせて120人を中庭に集めたが、無差別に銃撃、刺殺を繰り返し、ほとんどを殺戮したという。彼女も顔など数ヶ所を刺され、重症を負ったが、奇跡的に助かった。生存者はわずか8人であった。
 彼女の証言のなかで衝撃的だったのは、日本軍による幼児虐殺の目撃である。日本兵が赤ちゃんを上に放り投げて、落ちてくるところを銃剣で刺し殺したという。彼女はそのことを淡々と話してくれた。マレーシアの幼児虐殺を乗せた三省堂の英語の教科書が文部省検定不合格になったことがあるが、彼女の証言はフィリピンでも日本軍が幼児虐殺を行っていたのではないかとうかがわせるものであった。
 もうひとつ気になったのは、彼女が「日本兵よりもっと悪いのは朝鮮兵である」と繰り返したことである。虐殺に直接手を下したのは朝鮮人であり、残虐行為をしたのは朝鮮人が多かったというのである。日本軍が民族的差別下の朝鮮兵士を虐殺の尖兵として使ったということもじゅうぶん推測される。実際に戦後、BC級戦犯裁判で処刑になった人々に朝鮮人、台湾人が多かった。

マニラでも45年2月、戦況が悪化し、マニラを放棄せざる負えない事態に日本軍は追い込まれたが、組織的な虐殺が行われた。よく南京大虐殺やマラヤの華人虐殺において、日本兵が赤ちゃんを上に放り投げて、落ちてくるところを突き刺して殺すという残酷な幼児殺害の話がでてくるが、これが事実だと確かめられた。もうひとつはやはり気になったのは、残虐行為に手を下したのは朝鮮人兵士が多かったというノブレさんからの指摘である。

キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html より
 現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その后も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。

こういう言説を出すと、すぐに朝鮮人差別主義者たる右翼が飛びつきそうだ。しかし、朝鮮人兵士に罪はない。朝鮮兵は日本軍の中では最下位層に位置し、上司である日本兵に強要された場合どうしようもないし、あるい日本軍の被差別植民地人である朝鮮兵に対する扱いや虐めが苛酷であり、(日本人兵士でさえ初年兵に対する扱いはすさまじい)、どうしようもない鬱憤がそういったさらに下位の日本軍占領地民衆への残虐性として現れたのかもしれない。

●日本軍政下の親日派内部の分裂p93〜94
 3月28日。ケソン市からマイクロバスをチャーターして、ラグナ州のカプヤオに向かった。カプヤオで合流した寺見さんの案内でサクダル党の生き証人であるヘラミス・アデアさんに会った。アデアさんはマニラ周辺で有力なサクダル党のリーダーであった。
「サクダルではアメリカから即時完全独立を求めて闘争しました。日本軍がマニラに入ってくると、われわれに協力を求めてきました。大東亜共栄圏は賛成でした。日本の意図が、白人の植民地をなくすことだったからです。1943年ごろ1年間、仲間70人と日本軍に同行してリサール州のシェラマドレー山脈のマッキンレー要塞に行きました。そこで、日本軍のトレーニングを受けました。われわれはおもに日本軍のためのフィリピン労務者の監督を行いました。このため仲間の多くがフクバラハップに殺されました」
 このようにアデアさんは、サンダルと日本軍の協力関係を証言しあた。このなかに出てくるフクバラハップとは、1942年に中部ルソンの水田地帯の農民を基盤に成立する抗日人民軍であり、1930年代の共産党、社会党系の農民運動を背景にしてきた。目標は日本軍追放と地主打倒である。フクバラハップは日本軍支配下で急速に勢力を伸ばし、44年末には中部から南カタログ地方に正規軍、予備軍2万人、50万人の民衆を解放区支配下においた
「その後、サクダルは内部対立が激しくなりました。私は、日本軍は私たちの目的を理解していない、戦争中は静かにしていようと思いました。このなかでフクバラハップの首領が私に連絡役を派遣し、サクダルとの連携を申し込んできました。私は行きませんでした。行けば殺されると思ったからです」
 アデアさんの話は思いもかけず、フクバラハップとサクダルの統一への動きの証言となった。私ははじめてこのような動きがあったことを知って驚いた。サクダル内部の動揺を示すものとして非常に興味深いものであった。この背後には、サクダルの目標であった地主打倒の課題を日本軍に期待したが、裏切られていったという現実があった。
 そして、最後にアデアさんはこのように言った。「いまでもフクバラハップから一緒にやろうと言ってきている」と。現在のフクバラハップとは新人民軍(NPA)のことであろう。新人民軍とは、1969年に結成されたフィリピン共産党の武装組織である。毛沢東路線により農村を拠点に活動している。
 アデアさんは戦後1950年にフクバラハップに協力したとしてフィリピン国軍に逮捕されている。アデアさんの戦後は、米軍によって戦犯としてモンテンルパの刑務所に送られたことから始まり、親日反米であったがゆえに終始「裏切り者」の汚名を背負って歩かなければならなかった、いばらの道であった。

日本軍占領時代の親日派組織サクダル内部でも対立が激しくなりました。アデアさんは「日本の意図が、白人の植民地をなくすことだったからです」と言ってますが、それは間違いです。たとえば、仏印ではナチスの同盟であり、フランス南部を支配していたビシー政権と協力関係を結び、共同統治を行いました。白人の植民地をベトナム、カンボジア、ラオスでは残しています。1945年5月までの仏印武力処理までは形式的にはフランス(ビシー政権)の植民地でした。ただ、それ以外(フィリピンやインドネシアなどを含めて)についてはそれが正しいといえばそうではなく、白人の植民地はなくしましたが、白人の変わりに大和民族(日本人)の植民地になりました。日本の意図は、白人の変わりに日本がアジアを植民地にして支配することだったのです。
もう一つは日本軍占領下における地主の扱いですが、
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/rk1993.htmlより
当時,フクバラハップは一定の地域で警察・行政権さえ確立,抗日収穫闘争を展開して,農民の生計は改善,地主・小作の力関係には大きな変化が生じつつあった。それゆえ,中部ルソン地方では,支配の維持を望む地主層と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したのである。
とあり、地域によっては、農民を搾取する地主と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したとあり、積極的かどうかは分からないが、協力的関係に近いものがあった模様。サクダルは親日で、フクバラハップとはイデオロギーこそ違うが、貧農の権利を獲得し、搾取する地主階層を一掃するという共通目標を抱えていた。とはいえ、抗日ゲリラの躍進に悩まされる日本軍は地主階層と対決するわけにはいかず、農村部における抗日ゲリラの勢力の増大を防ぐために、懐柔して利用しないわけにはいかなくなったというわけ。そうした中でサクダルは日本軍のフィリピン民衆に対する虐待の事実と相まって離反する動きがでてきたと考えられる。

●リパの大虐殺 p95〜100
 3月29日。リパの朝は早い。今日は1945年2月26日の5000人とも2万人ともいわれるリパ大虐殺の現場を石田<石田甚太郎>さんの案内で訪ねる。街から数分のところに日本軍の憲兵隊司令部の建物が残っていた。元リパの資産家のものを日本軍が接収したという。この家の庭に日本軍が掘った防空壕が残されている。この建物のすぐ先に、フランシスコ・カッペリオさんが住んでおられた。彼の案内でリパ大虐殺の現場に向かった。
 1945年2月、リンガエン湾と同時にバタンガスから再上陸した米軍は日本軍を追い詰めてマニラを解放し、南タガログ地方の日本軍をほぼ掃蕩しつつあった。戦況悪化の混乱のなかで、日本軍はすべての住民がゲリラの見方であるとして疑心暗鬼になり、リパの住民の皆殺しをはかった。
 リパ大虐殺の責任者は南タガログ地方のバダンガス、ラグナ、ケソン州の各部隊約1万2000人を率いた通称「藤兵団」司令官、歩兵第17連隊本部長、藤重正従大佐である。当時の様子については、友清高志著『狂気―ルソン住民虐殺の真相』に詳しく書かれている。当時、兵士であった友清氏は、このときの藤重の発言を記録している。
「ゲリラが、いかに我軍に危害を加えているか、諸士の報告で明瞭である。このゲリラを徹底的に粛清すべき時がきた!住民でゲリラに協力する者あらば、そいつもゲリラと見做せ。責任は一切この藤重が負う。対米決戦はそれからである」「思い切りやってしまえ。後世の人間が世界戦史をひもといた時、全員が鳥肌立つような大虐殺をやってみせろ」
 こうして藤兵団は粛清命令を発する。リパの近くのアニアラ、アンチポロ村のゲリラを粛清するため、16歳から60歳の男全員をリパの小学校に連れてきて全員虐殺することを命じたのである。この村には米軍兵器が大量に搬入され、日本軍襲撃が準備されているという不確かな密告が行われた結果である。
 2月26日未明から日本軍はリパ市長、警察署長を軟禁し、リパ市内の住民を男女の別なく試し切りにしていた。日本軍に協力するガナップ党(サクダルの後身)の宣撫班がアニオラ、アンチポロ村へ行って、「本日以降リパ市近郊の通行を規制する。住民には通行証を交付するから16歳から60歳の男は全員リパの小学校に集合すること」と伝えた。2つの村から約800人の住民がやってきた。
 ここから通行証を渡すために、住民を10人ずつに分けて、外の雑木林の前まで日本兵が連れていくことにした。日本兵は途中で「爆音」だと叫び、米軍の空襲を避けるためと称して、近くの掘っ建て小屋に住民を追い込んだ。そこで待ち構えていた日本兵が住民をいっきに縛りあげて数珠つなぎにし、建物裏の雑木林のなかに連れていった。雑木林の側面は17メートルの切り立った崖をなっていた。住民は次々に銃剣で刺し殺され、足蹴にされた死体は崖から下の渓谷に投げ落とされた。日本兵はゲリラの処刑は当然だとして800人の住民を交替で殺戮しつづけた。朝7時から夜6時まで11時間におよぶ虐殺であった。
 案内役のカッペリオさんは70歳を越えた小柄なやさしそうな老人である。しかし、最初に住民が集合した場所は小学校ではなく、当時神学校だった。(略)。また、雑木林のなかにあったこの土地の持ち主を、日本軍は口封じのために未明に殺戮したという。カッペリオさんは言う。
「私は手を縛られて数珠つなぎにされましたが、道路から雑木林のなかに連れていかれたとき、これはおかしいと感じました。私は手を動かしてなんとか縄をふりほどきました。近くの人に一緒に逃げようと言いましたが、逃げるとかえって危ない、と拒否されました。私は雑木林のなかを下りながら、全員が右に曲がったとき、いっきに渓谷のほうに下った。そして、日本兵の銃撃のなかを思い切って渓谷へ飛び込みました。まっさかさまに20メートルほど転がり落ちましたが、運よく下が草で助かりました。それから渓谷の反対側によじ登り、日本軍の追跡を振り切りました。私はしばらくして日本兵に対する怒りからゲリラになろうと思い、ゲリラを探しましたが、ついに見つけることができませんでした。そのため仕方なく家に戻り、ボロ(フィリピンの山刀)を磨いて、今度来たら日本軍をやっつけようと決心しました」
(略) 死体はそのまま戦後まで残され、付近一帯には死臭が漂い、衛生問題にもなったので、米軍がブルドーザーで処理したという。また、付近の住民の言い伝えで、このあたり一帯には死者の叫び声が夜な夜な聞こえるという。怨念の地である。
 カッペリオさんにお礼を言ってリパ中心部に戻った。つぎに、石田さんはデメトリオ・アントニオさんを紹介してくれた。アントニオさんの首のうなじの中央には、包丁で切り裂いたような鋭い刀傷が深々と残っていた。刀傷はこれまで何人かに見せてもらったが、これほどむごいものははじめてである。よく首が落ちなかったものだと驚くような傷で、正視に耐えない。
 アントニオさんは、いまリパに住んでいるが、1945年2月、バタンガス州のサンカルロスでこの傷を負った。日本軍は村民を集めて刺したのち、井戸のなかに投げ込んだ。幸い井戸は空であり、しかもアントニオさんは最後に放り込まれたので、かろうじて這い上がることができた。他の人は、みな死んだという。しかし、1人生きのびたことを親日組織マカピリ(フィリピン愛国連盟)が密告した。そのため、彼は翌日から日本軍に追われる身となったという。アントニオさんは次のように言う。
「戦争は終わった。私は自分の戦争体験を忘れようとしている。しかし、妻はいまでも日本人を許せないと言っている」
 アントニオさんの聞き取りを通りに面した家の前で続けていると、街の人々がまた物めずらしげに集まってきた。なかの1人が私にも傷跡があると言ってシャツを脱ぐと、背中に5、6ヶ所の銃剣の傷跡があった。

すざまじい惨劇です。人間といい、組織・集団といい追い詰められると何でも疑心暗鬼になり、ついには精神を病み、人殺しなどなんとも思えない皆殺しまでとことん進むポルポト的な発想に至ってしまうのであろう。対米決戦のため、ゲリラを粛清するために関係のない多くの人々が虐殺された。しかし、こうなる前に降伏すべきだった。勝ち目がないというのはもはや分かるはず。日本軍はそれでも"敗北"という2文字はなく、住民を1人残らず皆殺しにしてでも突き進む異常で凶暴な軍隊である。敵や抗日ゲリラに協力しているとか、すべての住民がゲリラの見方であるとか、そういった妄想を含めて検証せずに男女こどもも含めて皆殺しにしてしまうことを当然と考える日本軍の体質があった。その体質とこのような追い詰められた日本軍にとっての窮状が合わさってこのような惨劇に至ったのであろう。ガナップ党やマカピリという組織も一連の虐殺に加担していたことが読み取れる。今回は日本軍のフィリピン民衆虐殺の側面だけではなく、一方でそれに協力して洗脳されて狂信的に日本軍に協力するフィリピン人親日派の姿がそこにはあり、考えさせられるものがある。

●日本企業の公害汚染等の現在における日本の問題p102
 3月30日。マニラ市内からバターン半島行きのバスに乗り込む。驚くのは小学生くらいの小さい子が物売りをしていることである。
(略)

 半島南部マリベレスは、1970年ごろまでは美しい農村であった。70年代を通してのマルコス時代に輸出加工区として急速に工場団地が建設され、外国企業が誘致された。日本からも多くの企業が進出した。従来の漁民は労働力として工場に吸収され、漁場は工場排水のために汚染され、漁業は衰退した。漁民は労働者に流れていったが、厳しい労働条件のために80年代に激しい労働争議が頻発した。このため外国企業のいくつかは現在も操業を停止しているという。バターンの全人口の35万6000人のうち、工場労働者は現在17パーセントに達している。
(略)

 半島全域の漁民は、とくに日本との関係で困難を抱えている。日本の大資本によるトロール漁法の底引きによって根こそぎ魚を捕られ、バターンの中小漁民は生活に困っている。本来、200カイリ規制のため日本漁船はフィリピン近海に入れないのだが、なぜか自由にフィリピン沿岸で操業している。漁民の非難は日本漁船に集まっている。

著者がこのときフィリピンに旅行したのは16年ほど前になるのだが、日本企業や日本漁船の横暴はすごかったようだ。戦後もフィリピンの人たちに迷惑をかけたのである。最も冒頭のスナックの出稼ぎフィリピン人の問題であり、日本企業や日本漁船の問題は何回も言うように戦前に身についたアジア人の視点で物を考えられず、日本人本位で物事を考えて、アジアの人々を見下す見方を変えていないということに尽きる。フィリピンでわが国がいかに酷い蛮行を行ったか知り、フィリピンに対して償いの念をもって接していれば、フィリピンの大地や民衆に対する横暴な態度は慎むことができるはずだ。

●バターン死の行進p106〜107
 午後3時、マリベレスにジプニーで出発することにした。「バターン死の行進」の出発点はひとつは半島最南端のマリベレスであり、もうひとつは西海岸のバガックである。
 1941年12月、アメリカ軍は日本軍が上陸するとマニラを捨て、バターン半島に立てこもって持久戦にもちこもうとした。しかし、1942年4月9日アメリカ軍は降伏する。この結果、バターンで捕虜になった兵士は、フィリピン軍6万4000人、アメリカ軍1万2000人という膨大な人数である。彼らはここから、パンパンガ州のサンヘルナンドまで陸路112キロを歩かされることになった。サルヘルナルドからは鉄路でタルラック州で送られ、さらに徒歩で約16キロの地点が捕虜収容所のあるオドンネルである。最終目的地オドンネルに着いたときには、5万9000人になったいた。この間、1万7000人(うちアメリカ兵1200人)が死亡したことになる。5ヶ月にわたる持久戦で体力を消耗したうえ、マラリアにかかった捕虜も多かった。日本軍はろくな食糧、水の用意もなく、100キロ以上も歩かせたから犠牲者が出たのは当然であった。これが「バターン死の行進」である。結局、収容後3ヶ月後に医薬品や食糧不足のため、約3万人(うちアメリカ兵1500人)が死亡した。「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けてきた日本兵の考えから容易に捕虜を虐待して、簡単に打ち殺すようなこともやったのである。

バターン死の行進といえば、糞女笹幸恵である。

【文春】「バターン死の行進」記事、「マルコポーロ」を廃刊に追い込んだユダヤ人団体が抗議
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1137204832/
【ロサンゼルス=古沢由紀子】
日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。

記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。
ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。
「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。

行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。

同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。

同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm

Apes! Not Monkeys!
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060309235131/index.htmlより
『文藝春秋』05年12月号の「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事もまた、結局は「「祖父母・曾祖父母の罪」を暴くなという欲望の発露でしかない。なにしろ、その骨子は
・人間は100キロ程度を4日間で歩いただけでは死なない
・元捕虜の証言は鵜呑みにできない(だけど日本軍の戦史は信用できる?)
・一番悪いのは兵士たちをマラリアなどに罹患させたアメリカ軍だ

結局はとんでもない馬鹿女がいたもんである。バターン死の行進は悲惨なものだった。バターンの死の行進と同等以上に悲惨だったのが、オドンネルの捕虜収容所での惨状だった。「バターン死の行進」を歩き乗り切ったとしても兵士たちの苦しみは終わったわけではなかった。結果的には7万6000人のアメリカ・フィリピン軍兵士のうち4万7000人もの兵士たちがなくなった。ただし、そのうちアメリカ兵は2700人であり、残りの4万4000人ほどはフィリピン人であった。日本と米国の戦争であり、日本とフィリピンとの戦争ではない。結局アジア人という弱者がこの戦争で一番犠牲になっている。

●ユサッフェ・ゲリラの証言p110〜
 3月31日。この朝、牧師さんに2人の戦争体験者を紹介してもらった。一人は、ディオニシオ・プラスさん、もう1人は、メリコール・モレノさんである。
 プラスさんは1922年バターン州サマール生まれの66歳。元フィリピン厚生省の高官で、ユサッフェとして日本軍と戦い、その後ゲリラとして活躍したという経歴の持ち主である。彼の戦争体験はつぎのようであった。
「1941年3月に高校を卒業すると、3ヶ月の軍事訓練のうち、12月に徴兵されました。19歳でした。アメリカはオレンジ作戦によってバターン半島に兵力を集中したので、私は42年1月バランガへ配属になりました。日本軍はその北アブカイに前線基地を築きました。われわれはしだいに南に追い詰められていき、2月にはもう食糧難になり、それから162日間、水のみの生活が続きました。栄養失調でマラリア、伝染病にかかる兵士が増えました。私は無線(無線はなかった)担当で、日本軍と自分の情報を司令部に連絡していました。3月には兵士はついに最南端マリベレスに追い込まれ、兵士の食糧は枯渇し、木の実を食べ、死体の浮いた泥水さえ飲みました。4月3日に爆撃で股にケガをし、8日の朝、日本軍の戦車の音を聞いて、壊れた銃を捨てて逃げました。4月9日の降伏に従って、マリベレスで投降し、死の行進に参加しました」
「4月10日、死の行進が始まると私はその夜、仲間2人と一緒に逃げました。オリオンから小舟で故郷のサマールへ行きました。家族はサマール山のほうへ逃げたあとで会えませんでした。ここで村の女性が日本兵にたくさん強姦されたことを聞きました。女たちはそのため泥を顔に塗り、汚い格好をしていました。私はマラリアが悪化しており、パンパンガ州へ行って5月まで養生しました。その後、体力を回復してからゲリラとなり、ピラーからアブカイ山中で活動しました。日本兵は村に来ては、家探しをしたあと、かならず銃撃していました」
 プラスさんは、死の行進を一日で逃げ出し、その後、ユサッフェ・ゲリラになったのである。
 もう1人のモレノさんは、1925年バターン州オリオン生まれの63歳。1945年に15歳だったから直接的な戦闘体験はないが、オリオンという激しい戦闘地帯に少年時代を過ごした。
「オリオンの小学校では、日本軍の爆撃のためにたくさんの死傷者が出ました。水田で働いている人が爆弾に直撃され、粉々に吹き飛んだのを見ました。また、日本軍が侵攻してくると、多くの女性が強姦されました。赤ん坊は上に放り投げて、銃剣で殺しました。日本軍は教会に人を集め、ゲリラ狩りのために検問し、名前がゲリラに似ていれば、すぐ殺されました。たとえば、マチューとマティのような場合です。こうして、オリオンでは1000人以上の人々が殺されました。
 村の食糧事情は極度に悪く、砂糖、魚はおろか、米もなく(日本軍の略奪のため)。サツマイモの葉、カテオの葉、バナナの芯も食べました。42年から44年の前半にかけて空襲が続き、電気、ランプをつけられず、防空壕によく入りました。日本兵はゲリラを探しており、村の人は赤ん坊を泣かせないよう口を押さえました。見つかると、ゲリラを知っているかと拷問しました」
 ゲリラとみなされると、日本軍は連行してただちに処刑したという。
「サマールのカラギヤン村では100人の民間人が連行され、殺されました。いまでも一ヶ所から白骨がたくさん掘り出されます。また、オリオンのブクタン村では30人の男の首を日本兵が切り落としたが、そのなかの1人は首を切り落とされたまま、恐怖と衝撃のため胴体だけで3メートルほど走りました」
 日本兵の赤ん坊串刺しの話は、マレーシアでもよく聞かれたが伝聞が多く実際の証言者を探すのは困難であった。しかし、モレノさんの話では4回ほど実際の現場を見たという。日本兵は度胸だめしと「訓練」のため、中国を含めアジア各地でこのような残虐行為を平気で行っていたようである。
(略)

 4月1日。ロスバニオスにフェリ・オレリエさんを訪ねる。1945年3月5日、オレリエ家に押し入ったに日本兵は、彼女の母親と弟、妹の計5人を殺した。
「家にいた家族では私だけが生き残りました。日本兵が去ってから、5日間私は眠れませんでした。その後も傷口をそのままに放置していたため化膿してしまい、手術で皮膚移植しなければなりませんでした。その後も傷口をそんままに放置していたために化膿してしまい、手術で皮膚移植しなければなりませんでした。いまでも、寒い日にはそのときの傷口が痛みます」
 当時24歳であった彼女が一生独身で暮らすことになったのは、もしかしたら、このときの傷が原因ではなかろうかと、私は考えた。
「私たちが2階に上げられる前に、2人の若い娘が選ばれ、別の場所に連れられていかれました。その後、動物のような悲鳴が聞こえました。きっと強姦されて、そのあと殺されたのだと思います」
 オレリエさんは、戦後のマニラにおける戦犯裁判に出席して証言している。
「山下奉文将軍が被告席にいるのを見ましたが、彼は虐殺の証拠写真をけっして見ようとしませんでした。ただ、頭を下げたままでした」と法廷の様子を語った。

ユサッフェ・ゲリラとは連合軍西南太平洋司令部の指揮下に属するゲリラのこと。ようは米軍のゲリラ戦部隊のようなもの。
それにしても、おぞましい蛮行でした。まさに人間とは思えません。日本兵は東洋鬼だったのでしょう。女性は平気で強姦して殺害する。人の首を平気で跳ねる。ゲリラだと決めつけたら、ろくに調べもせず殺害する。名前だけでゲリラだと決めつけて殺す。平気で赤ん坊を銃剣で串刺しにする。これでもフィリピンにおける日本軍の蛮行についてしらを切るつもりでしょうか?この世で存在するありとあらゆる武装組織(正規軍、ゲリラ・反政府軍を問わない)の中で人命軽視、残虐非道さにおいて日本軍に敵う組織はないと断言できます。ちなみに元ユサッフェ・ゲリラの兵士と米国の間にも補償問題らしきものがある。ディオシオ・プラスさんはユサッフェの戦いはアメリカと日本の戦争であり、フィリピンの戦いではないと言う。フィリピン解放のための戦いではなく、結局はアメリカのための利益のための戦争だと言う。アメリカ兵の給料は49ペソであり、フィリピン人は18ペソに過ぎなかったと言う。フィリピン人ゲリラの補償は死傷者については行われたが、生きている者に対しては行われなかったと言う。アメリカもフィリピン政府も補償を考えて欲しいと言う。いろいろ複雑であり、考えさせられるものがある。このことは朝鮮人軍人・軍属などと日本政府の間でも問題になっている。

p114〜115
 4月2日。朝ジプニーでサンチャゴ要塞に行った。ここは、スペイン植民地時代からの要塞で、アメリカ統治時代は司令部がおかれ、日本占領時代は憲兵隊本部がおかれていた。また、スペイン時代から政治犯や捕虜の収容所として利用された。いま憲兵隊本部跡に建物はないが、ただ地下室が残っているようであった。この地下室は、日本軍が敵のゲリラとかスパイとみなしたものを収容し、拷問を行った場所である。
(略)

 サンチャゴ要塞を出て、マニラ大聖堂の横を通り、インストラムロスというスペイン時代の要塞都市の跡に入る。ここは1945年も空襲でほとんどが破壊されたが、唯一奇跡的に残ったのが、サン・オーガスチン教会。1571年に建てられたフィリピン最古の石造教会である。
(略)

 教会ホールのなかに白い四角い台のりっぱなモニュメントがおかれている。この説明文によると、第二次世界大戦のマニラ占領末期に日本軍によって殺された141人の墓であるという。さっそく、教会の警備員にこのことを尋ねてみた。すると、1945年2月、この教会の中庭に住民が集められて、いっせいに銃撃されて殺されたのだという。米軍がマニラにふたたび入るのは2月3日であるから、敗走する日本軍によるフィリピン民衆の虐殺がここでも起きたということであろうか。調べてみると、マニラの軍事法廷で裁かれた山下奉文起訴状にサン・オーガスチン教会の虐殺(インストラムス内600人)と記載されていた。

日本はつくづくフィリピンで虐殺をやりまくったのだなと。敗走中だというがとっとと敗北を認めて、虐殺などせず降伏すればよかったのだが、どうして虐殺という凶行に及んでしまうのであろうか。

p116〜117
 4月3日。朝9時すぎにケソン市にあるフィリピン大学の元教授アルセニオ・マニュエルさんを訪ねた。マニュエルさんが保管している日本軍の占領当時の宣伝ビラを見せてもらった。本人は1000万ドルで売りたいというのだ。とても個人で手を出せるものではない。
 そのいくつかをここで紹介してみよう。たとえば、「アングロ・アメリカン粉砕! 新生フィリピン建設!」(Crush Angro-American! Build up Philippines!)、「アジアは我が幸せな家族」(ASIA-OUR HAPPY HOME)は5月27日の海軍記念日のもの。アジアの各国旗を持った馬上の人々が円を描き、大東亜共栄圏の民族協和をうたっている。また、アイウエオという片仮名を描いた、「アジアノコトバニッポンゴ」は、日本語教育の宣伝。「アメリカ 日本の赤十字船を爆撃」はアメリカの非人道的行為を非難したもの。大東亜戦略地図(表題は THE WAR OF THE GREAT EAST ASIA)では、アジアから南太平洋全域を、占領地域、親日国家、海軍の戦闘地域、爆撃地域の4つの地域に区別し、色分けしている。
 すべてがカラー印刷でみごとな出来ばえである。イラスト、漫画、写真を駆使して「大東亜共栄圏」をフィリピンの人々の意識に植えつけようとしたのだろう。それまでのアメリカ支配を逆手にとって反米親日を訴えようとする日本軍の意図は明白である。

どんな宣伝ビラか見てみたい。必至になって、アジア民衆をひきつけようとしたのだろう。大層な美辞麗句な言葉ばかり並べて、アジア地域の光ニッポンを訴えているが、実態は共産主義国家のアジビラのようなものだ。フィリピンだけではなく、マレーシア、インドネシアなどでも行われただろうが、実態は欧米にかわり、大日本帝国がアジアの盟主になって君臨しようとしたというだけのこと。しかし、それらの地域を引っ張っていくだけの国力・経済力・政策力はなく、経済政策の失敗・失策や軍票乱発による悪性インフレ・経済崩壊、労働者の強制連行、従軍慰安婦、日本兵の奇行や強姦、暴行、殺戮の横行、ゲリラ刈りと称する一般民衆の無差別虐殺、戦況の悪化によりますます苛酷化する圧政によってアジア人の反発が強まっていった。ただ、一部に懐柔に成功したりした層や前の統治国の悪政からくる狂信的親日派(対日協力)層(フィリピンでいえば、マカピリ、サクダルなど)の出現により、同じアジア占領地域内でも被支配民衆同士の対立の部分も生まれた。

p119〜120
 1992年4月は「バターン死の行進」から50年で、フィリピン、日本、アメリカ、オーストラリアのキリスト教徒200人が出発点マリベレスに集合してオンドネルキャンプまで150キロの平和行進を行った。
 日本軍による住民虐殺の地、バタンガス州リパでは、1992年2月にフィリピン在住16年の三木睦彦氏の努力によって「謝罪の慰霊碑」が建てられた。これは東京、横浜、大阪の市民の援助金によるもので、フィリピンと日本との戦争責任をめぐる心の交流は着実に進んでいる。
 また、1995年2月にはルソン島北部のカガヤン州沖でプラチナ金塊が発見され、旧日本軍の隠し資金としていわゆる山下(奉文)財宝だと報じられた。すぐに単なる金塊であることが明らかになったが、現在もフィリピンでは日本軍の残した戦争の傷跡は生きている。
 1994年8月には村山首相はフィリピンを訪問し、ラモス大統領と会談し、「過去の歴史を直視し軍事大国にならない」と発言し、フィリピンの従軍慰安婦問題についても言及し、戦後50年を期して途上国援助(ODA)による女性の職業訓練センター設置を約束した。すでにフィリピンでは日本軍の慰安婦にされた200人が名乗りをあげて補償を要求しているが、職業センター建設では補償にならないとして不満が高まっている。また、現在、約2000人いるといわれるフィリピン残留孤児の問題、すなわち敗戦後の混乱で両親と離ればなれになった日本人移民の子どもたちに、肉親さがしと国籍回復の問題が起きている。さらに、フィリピンから日本人男性とフィリピン人女性のあいだに生まれた子供の問題、日本にいるフィリピン女性労働者の問題への保護、援助が日本政府に要請されている。

日本軍がアジア・太平洋戦争中に残した問題が今もほとんど解決を見ず山積している。もちろん、戦後の日本企業や日本人、日本がフィリピンに対して引き起こした問題も多い。しかし、良識派である日本人もいっぱいいる。すでに日本の戦争責任をめぐるフィリピンとの心の交流は進んでいる。しかし、そう簡単に日本軍の占領支配の残酷さや戦争の爪痕は簡単に消えるものではない。フィリピンに対して、日本はたった3年ほどの支配をしただけだが、アメリカやスペインの数百年の植民地支配をはるかに凌ぐ残虐な統治を行った。フィリピン人同士でも殺し合わせることをした。もはや過去には戻れないし、行ってしまったことは取り返しはつかないが、やってしまったことに対する償いはきちんと行うべきである。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:28 | Comment(19) | TrackBack(14) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月22日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 タイ・マレー半島北部

ようやく忙しい合間をぬって書き上げてようやく完成。
著者が1989年に高嶋伸欣氏の「東南アジアを考える旅」に参加し、タイ・マレー半島北部を旅行したときの記録の章から日帝悪情報を抜粋していくことにする。
p45
第二次世界大戦の日本とタイとの関係については、日本人のなかに歴史意識としてほとんど痕跡をとどめていないように思われる。実際、映画「戦場に架ける橋」で有名になった泰緬鉄道を別とすれば、太平洋戦争における日本軍の最初の攻撃地点が真珠湾ではなく、マレー半島のコタバル(マレーシア)とソンクラ(タイ)であること、また日本軍上陸の際、タイ軍と日本軍のあいだで抗戦が行われ、タイ側に多数の死傷者が出たことなどは、ほとんど忘れさられてきたように思える。

タイを侵略したという事実を日本人の多くは知らないでしょう。中国や韓国、他の東南アジア諸国だけではなく、日本の加害と侵略の歴史問題はタイと日本の間にも存在するものです。

●死の鉄路、泰緬鉄道p45〜48
 1989年8月8日。午後9時、タイのバンコック郊外のドン・ムアン空港に到着した。空港からバンコック市内までは車で40分ぐらいである。タイは王様の国であり、バンコック市内は、ちょうど8月12日が王妃の誕生日だというので、イルミネーションの飾り付けがきれいであった。
(略)

 8月9日。朝7時に小型バスで市内のホテルを出発し、泰緬鉄道に向かう。途中、ブラピンクラオ橋ではじめてチャオプラヤ川(メコン川)を渡った。川幅200メートル以上ある大河が茶色の帯を引いてゆったりと流れている。全長650キロのタイ第一の大河である。この川下のすぐ近くに王宮がある。
(略)

 タイ最古の仏塔のあるナコンパトムを過ぎ、9時40分に日本軍が泰緬鉄道建設の起点としたノンプラドックに到着した。(略)
 1942年7月、日本軍はこの地点から泰緬鉄道の建設に着手した。ビルマに対する陸上補給路の確保と、タイ―ビルマ間の交易交通路を開拓するためであった。また、ビルマ経由の援蒋ルートを遮断し、インパール作戦(インド侵攻作戦)を成功させる意図もあった。
 タイのノンプラドックからビルマのタンビュサヤットまで全長415キロ、40の橋梁をもつ泰緬鉄道が完成するのは翌43年10月。わずか1年3ヶ月の突貫工事である。この間、連合軍捕虜と東南アジア諸国から強制連行したアジア人労務者は、日本軍の虐待とマラリアとコレラ、飢えと疲労などによって多数の犠牲者を出した。いわゆる「死の鉄路」と呼ばれ、連合軍捕虜はイギリス、オランダ、オーストラリア兵7万3502人、アジア人の強制労働はマレー、インドネシア、タイなどから労務者約30万人以上が動員されたといわれる。連合国の発表によると捕虜の死亡は2万4490人であり、アジア人労務者の死亡者数は不明であるが、半数以上は故国に帰っていない。推計で10万人以上が犠牲になり、「枕木一本、人一人」と言われた。
 列車は10時40分にカンチャナブリに到着した。ここが有名な映画「戦場に架ける橋」の舞台である。カンチャナブリの収容所に捕虜と労務者をおき、クワイ川の鉄橋を架ける難工事が行われた。カンチャナブリ駅から10分ほどでクワイ川である。鉄橋のたもとにはクワイ川鉄橋駅が新たに造られていた。観光客の名所となっているのである。鉄橋を列車で越えるため、多くの観光客が乗車する。イギリス人とオーストラリア人が多いようである。

泰緬鉄道は華人の大虐殺の次に大日本帝国の東南アジアで行った国家犯罪の中で最大のものであろう。しかし、時間がたつともにこういう残虐行為のスポットも観光名所となるのであろう。イギリス人とオーストラリア人が多いというが、日本人は来ないのであろうか?日本人こそ来て、見て犠牲になったアジアの労務者や連合軍捕虜への償いの気持ちや侵略戦争への反省を新たにするスポットであるというのに、残念である。

p49
バンコックを出て5時間、312キロの泰緬鉄道の旅であった。ナントクから先は現在廃線となっている。ここからビルマ国境のスリーパゴタ峠まで170キロあるという。
 最近、この泰緬鉄道の廃線区間を復旧して、SLを走らせ観光路線として復活させようという計画が起きたという。しかし、日本の資金援助によるタイ政府の復旧計画に対し、オーストラリア退役軍人会や、オランダの旧捕虜たちが反対の火の手を上げた。日本は鉄道建設の犠牲者に対して補償すべきであって、泰緬鉄道の復旧は「アウシュビッツの遊園地化」であると抗議したのである。歴史のなかの泰緬鉄道は、いまだ風化していない。
 このあたりの泰緬鉄道沿線には、マレー半島やインドネシアから鉄道建設のために強制連行された多数の労務者が、戦後も帰国できずに生活している。「満州」の中国残留孤児だけが問題なのではない。日本人の「残留」だけではなく、日本軍によるアジア人の「残留」の後始末も日本政府は迫られているのである。

>泰緬鉄道の復旧は「アウシュビッツの遊園地化」である
これはその通りだね。まして日本の資金が入ったとすれば。もちろん、日本政府が真の謝罪と反省の精神を元に、この負の遺産を後世に残し、生涯反省し、二度と過ちを起こさない良識的な決意をもとに復旧を行うのであれば、話は別になってくると思うけど。まあ、復旧の資金に使うのであれば、まずは犠牲者遺族や被害者自身に補償してからである。
もう一つの問題はアジア人「残留」問題である。中国や満州における日本人残留問題だけではない。前にアジア人労務者の総数は30万人以上であり、半数以上が故国に帰っていないこと、そして、死亡者総数は推計で10万人以上とされていることが分かっている。これから考えれば、最低5万人以上の「残留」アジア人が故国に帰れずに、元の家族とも再会できずに現地で生活しているということになる。大日本帝国はそれだけのことの国家犯罪を行った。後始末を今すぐにでも始めるべきだ。過去に行った蛮行のけじめをつけずにうやむやに終わらそうとすることは世界の良識が許さないであろう。

p50〜51

 3時間半にカンチャナブリに戻った。今度は歩いてクワイ川鉄橋(メクロン橋)を渡った。鉄路の真ん中に木道がつけられていて、鉄道の上を歩いて渡ることができる。(略)
 橋のたもとには、1945年2月に行われたアメリカ軍鉄橋爆撃のときの不発弾や、SL、ガソリン・カーが展示してあった。1946年製のSLは問題外としても、ガソリン・カーのほうは、明らかに日本軍がしようしたと思われるものであった。軍用トラックを改造して、タイヤのかわりに動輪をつけて、トロッコのような3つの鉄製荷台を引っ張るものであった。このトロッコに捕虜、労務者を乗せて移動し、また軍用物資を運んだのであろう。
 このバソリン・カーの奥に永瀬隆氏の建立になるクワイ川平和学院がある。永瀬氏は、みずから泰緬鉄道建設のときカンチャナブリ憲兵隊に勤務していたが、終戦処理に際し、死亡した連合軍捕虜の墓地捜索隊の通訳として駆り出された経験をもつ。自己の戦争責任を痛感した永瀬氏は、その後生涯をかけて泰緬鉄道関係者への償いの活動を行った。そのひとつの到達点がこの寺院である。また、永瀬氏は1976年に旧泰緬鉄道関係者の日本側有志と旧連合軍側の有志70名によるクワイ川鉄橋上での再会を計画し、戦後31年ぶりに和解と平和への誓いを実行している。
 クワイ川鉄橋から歩いて10分のところに、戦前日本軍によって建てられた慰霊碑がある。碑文には次のように記されている。「泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各国労務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ 恭シク其ノ霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鉄道隊」
 文中の日本軍鉄道隊は、タイの鉄道九連隊、ビルマの鉄道五連隊から成り、泰緬鉄道に従事した。南方各国労務者は、クワイ川たもとの説明文によると、インド人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人、中国人、タイ人などである。

膨大な捕虜やアジア人労務者の犠牲のために、日本軍鉄道隊がしかも"戦前"にあってこの種の慰霊碑を立てた。50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 マレー半島南部編で紹介した元近衛歩兵第五連隊の連中よりはマシだと思う。日本軍鉄道隊も1万2000人ほど動員され、1000人近くがなくなったとされるが、捕虜や労務者の痛みが分かる人が鉄道隊の中にいたからかもしれない。

p52
 戦後のいわゆる東京裁判では、泰緬鉄道およびタイ俘虜収容所関係はシンガポール法廷だけで24件におよび、泰緬鉄道全体で有罪の先刻を受けた人111人、死刑は32人にのぼった。しかし、この事件の裁判は、俘虜の虐待、虐待致死についてのみであり、アジア人労務者の虐待に対する裁判は行われなかった。この裁判が欧米連合国のためのものであり、アジア人が軽視されていたことを示していた。
(略)

 日本軍の慰霊碑から歩いて5分ほどのところに連合軍共同墓地がある。墓地の正面に高さ5メートルほどの白い十字架の塔が建てられている。泰緬鉄道の犠牲になったイギリス人、インド人、オランダ人、オーストラリア人、アメリカ人など旧日本軍俘虜6982人がここに眠る。とくにイギリス連邦軍として参加したインド人が多いのに驚いた。植民地兵士が真っ先に犠牲になったということであろうか。
 ひとつひとつの墓に氏名、所属部隊、死亡年月日、年齢とともに、死者を悼む哀惜の碑文が添えられている。日本の墓碑との違いである。それをひとつひとつ読んでいると胸に込みあげてくるものがある。
 年齢を見ると、ほとんどが20代前半の青年である。青年の碑文からは、父や母の息子への愛情が切々と伝わってくる。また、私と同じ年代の死者の碑文からは、妻や子供たちの父親での哀惜の情が伝わってくる。死亡年月日は1943年6月から10月の雨季が多いようだ。タイ・ビルマ国境は世界最多雨地域で、一度豪雨があると川の水位が30メートル上がるという。日本軍侵略以前のイギリスもさすがに鉄道敷設をあきらめたという風土である。ところが、日本軍は突貫工事による鉄道敷設を強行した。膨大な犠牲者を生んだのも当然である。

日本軍の人命軽視ぶりには呆れてものがいえない。イギリスでさえ、鉄道の敷設を諦めたところを突貫工事によって強行した。もちろん、ろくな工作機械などなかっただろう。ほとんど人海戦術で行ったため膨大な死者がでた。戦犯裁判では捕虜の虐待、虐待致死に関してのみ裁かれた。しかし、著者が言うように、かならずしもアジア人の被害や犠牲を軽視していたわけではない。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper47.htmより
 これまでBC級戦犯裁判においては主に捕虜に対する犯罪が裁かれたと言われてきた。つまり裁いた国は帝国主義国であり、植民地民衆のことよりも自国の捕虜などへの犯罪を重視し、報復として裁判をおこなったという理解だった。しかしそうだろうか。イギリスの裁判で、誰に対する犯罪が裁かれたのかを裁判記録から作成したのが表3である。これを見るとはっきりすることは、起訴された被告の六〇%はアジア系民間人に対する犯罪で裁かれている。捕虜と民間人の両方が被害者のケース七一人のうち六五人はアジア系民間人である。これらをあわせると起訴された被告の約三分の二はアジア系民間人に対する犯罪が問われたことになる。一方、捕虜に対する犯罪で裁かれたのは二五%にすぎない。

 さらに死刑判決の六七%は民間人のケースであり、捕虜のケース二三%の三倍にのぼっている。死刑確認では民間人のケースが七二%とさらに高くなっている。

 裁判記録に基づいて言えることは、イギリス裁判においては裁かれた事件の多数が地元のアジア系住民に対する犯罪であったということである。

 なぜそうなったのかについては拙著『裁かれた戦争犯罪』で詳述したのでそちらを参照していただきたいが、かんたんに言えば、イギリスは大英帝国を再建するうえで現地住民の支持が必要だった。戦犯裁判は住民への加害者を裁き、イギリスが彼らの保護者であることを示す絶好の機会として考えられた。また加害者を処罰せよという住民の要求は強く、住民の協力によって戦犯裁判がおこなわれた。戦犯裁判の背景にあるのは、日本軍の占領と残虐行為のひどさであり、それへの民衆の怒りだった。だから住民の支持を得るためには加害者を裁くことが不可欠だった。そうした意味でイギリスの戦犯裁判は日本軍の被害をうけた民衆の力が重要な推進力であったといえる。したがって「勝者の裁き」という見方は―その側面があることは否定しないが―アジア民衆の被害と彼らの要求を見ない、一面的な議論であろう。

しかし連合軍、アジア人労務者ともに多地域・多国籍に渡っていたことが泰緬鉄道におけるアジア人労務者の虐待を裁けなかった原因となったではないだろうか。しかし、それならば日本人の手で裁かないといけないが、それも今になってはできないが、事実関係を余すことなく解明するとともに犠牲になったアジア人労務者1人1人に補償をして償わないといけないと思う。

p53〜54
 連合軍共同墓地からバスで5分ほどのところに、1977年に建てられた戦争記念博物館がある。博物館といっても、寺の境内に粗末な竹の小屋が建てられているだけだが、これは当時の収容所を模したもので、小屋そのものが歴史的展示となっている。この記念館の入り口に、日本でも紹介されて有名になった言葉、「FORGIVE BUT NOT FORGET」と掲げられている。物忘れのひどい日本人にとっては厳しい戒めと思わなければならない。
 博物館=小屋のなかには、泰緬鉄道を描いたイギリス兵レオ・ローリングスのイラストの模写が展示されていた。イラストの原作者ローリングスは23歳でシンガポール守備隊として派遣されたが、マラヤ北部から日本軍の戦線南下に対する絶望的戦いを経験して、ついにシンガポールで捕虜になる。しかし、戦争中、彼の絵画の能力を認めたヒース将軍は、将来日本軍の戦争犯罪が起きた場合、完全な証拠となるようにスケッチを命じたという。それ以来、彼は泰緬鉄道建設の現場を詳細に描いていった。絵の具がなくなると粘土や植物の汁をかわりに使用し、鉛筆は自分の髪の毛で作った。画用紙も最初はすこしあったが、その後は手に入るどんな紙にも描いたという。
 その絵は、ほとんどタイのジャングルのなかの捕虜収容所で、病身であったときに描かれ、完成した絵は、古いストーブのパイプで自作した容器に入れられ、彼の寝床の下の地下に埋められて隠された。日本軍に見つかれば即座にスパイとして処刑になったはずである。彼のこの行為は奇跡的に見つからず、日本軍の敗戦によって、その絵画はすべてイギリスに持ち帰ることができた。現在、その多くは英国戦争博物館に展示さえているという。ローリングスの絵は、痩せこけた捕虜、死の病に冒された兵士、過酷な建設現場、ガソリン・カーによる資材と労働力の輸送など、泰緬鉄道建設の生々しい情景を描いており、見る人を圧倒する。
 博物館にはその他、連合軍兵士の服装、キャンプの再現、記録写真などが展示されている。当時の泰緬鉄道を知るうえでは格好の場所であろう。

、「FORGIVE BUT NOT FORGET」という言葉はすばらしい言葉です。「許す、しかし忘れない」。韓国も中国も他のアジア諸国の人々も、「FORGIVE BUT NOT FORGET」の精神を日本人に対して皆もっているからこそ、今の日本が中国、韓国、他のアジア諸国とも交易も外交も交流も成り立っているのです。レオ・ローリングスさんは偉大な仕事をしたと思います。日本軍の戦慄すべき戦争犯罪を描こうと努力しました。実際に私自身その絵を見てみたいと思います。

●戦後の日本人・日本企業の問題と日本軍のタイ侵略事実
p55
 長い一日を終え、バンコックに戻る。夜の街に出かけてみた。シーロム通りを東に向かい、買い物客でにぎわうパッポン通りに行った。(略)このパッポン通りのすぐ近くに、タイニヤ通りがある。バンコックの歌舞伎町といわれるところである。この通りを歩くと、「クラブ愛」とか「琴」など、日本語がたくさん目に飛び込んでくる。日本人相手の歓楽街である。それらしい女たちがたむろしており、日本人観光客、ビジネスマンを誘っていた。ゴーゴー・バーをのぞくと半裸の女性が踊っていた。東南アジアは50年前は日本軍によって、現在は日本企業と売春日本人に席巻されているかのようである。


p58〜59
タイの最大の繁華街であるサイアム・スクエアへ向かった。インターコンチネンタル・ホテルの前にあるショッピングセンターである。サイアム・スクエアから500メートルほどのところに日系のタイ大丸とそごうタイがある。とくにタイ大丸は、1972年の「日本貨過剰」に反発したタイ反日デモの主目標となったところである。
 72年の反日デモで一時止まった日系企業の進出は、1973年の240社から急速に増加し、現在500社を超えるという。家電製品、電線、食品加工、おもちゃ、軽工業品の進出がめだつ。この原因が、月平均約4400パーツというタイの低賃金にあることはいうまでもない。日本の7分の1から8分の1である。現在バンコックの至る所に見られる建設ラッシュは、日本資本を中心とした外資の導入をテコとして、シンガポール、香港などアジアNIESに追いつこうとするタイ工業化の現実を感じさせる。タイは確実に日本を軸とする資本主義的経済圏に入り込んでいるようだ。しかし、これがさきのバンコックにおける売春や公害、交通渋滞、200万人におよぶ失業者など深刻な都市問題の激化を招いている。

現代にもタイにおける日本企業の経済侵略の問題がある。今から15年ほど前の話だろうが、今でも相当ひどいことをタイの日本人や日本企業は行っているはずである。経済的恩恵をもたらすならいいが、それ以外の負の要素が大きい。結局日本企業の利益のためにアジアの民衆のことを考えない傍若無人な日本資本の横暴がアジア地域の反発を招いている。過去の敗戦から何も学んでいないようだ。また、日本人男性によるタイ人女性の売春も過去のことにタイ人に彷彿とさせるだろう。

p59〜62
 8月11日。バンコックから夜行寝台急行に乗り、タイ湾沿いにマレー半島を南下した。・・・・・・・・・・朝9時にバンコックから830キロ南のナコン・シ・タマラートに到着した。ここは日本軍の上陸地点である。
 日本軍は、アジア・太平洋戦争開戦の1941年12月8日、徳島歩兵第143連隊、宇野支隊、総勢6895人がナコン・シ・タマラートのほか、プラチャップキリカン、チュンポン、スラタニに上陸し、タイ領土通過後ビルマに向かった。また、山下奉文大将指揮下の第五師団は、さらに南のタイ領内のソンクラ、パタニに上陸し、マレー半島を横断し西岸を南下して英領マラヤへ進撃し、シンガポールを攻略するに至った。タイ領土への日本軍上陸はマレー半島を最短距離で横断するためのやむをえない軍事上の必要からであった。このときも、真珠湾攻撃と同じで、タイ政府には事前に知らされていなかった。この原因には、前日の12月17日に、駐タイ日本大使が日本軍のタイ領内通過を認めるように首相官邸を訪れたとき、ピブン首相が姿をくらましたということがあった。結局、日本軍はタイ政府の了承なく、強引にタイ領内に侵入したのである。このため、当時のタイ軍は、日本軍を不当な侵略者として勇敢に交戦した。わかっているだけで、290人、推計では約400人が戦死したという。ピブン首相が姿を現したのは、戦闘が起きてから数時間後の12月8日の午前6時であり、その後ようやく停戦協定が成立した。
 日本軍はタイ湾からバクパーン川を上陸用舟艇でさかのぼって、ナコン・シ・タマラート空港近くを進攻した。タイ軍はここで日本軍を迎え撃って、戦死者72人を出した。その記念碑が現在のタイ陸軍第四管区司令部の前に建てられた。完全武装のタイ兵士が銃剣を構えて、突撃姿勢をとっている姿である。いまでも毎年12月8日には、ここで遺族、関係者約600人が集まって盛大な供養をするという。
 タイという国は、東南アジアにおいて唯一植民地化を免れただけであって、したたかである。さきに述べたように、一時日本軍から姿をくらましたピブン首相だが、開戦になるとすぐに日本軍とタイ・日本攻守同盟を結び、42年1月に英米に宣戦布告した。日本はタイを同盟国として引きつけるために、英領マラヤのケランタン、ケダ、プリスト、トレンガヌの4州を与えた。43年の12月に、タイは東条内閣が主催した大東亜会議にも招かれている。
 しかし、43年暮れからタイは連合国軍の空襲にさらされ、44年7月に日本がサイパンで玉砕すると、タイはすかさず武断派のピブン内閣にかわって、文治派のアパイウォン内閣を成立させる。45年8月16日、日本軍敗戦の翌日であるが、同内閣は42年1月の英米への宣戦布告は国民の総意を代表していなかったとして世界外交史上前例のない無効宣言を行った。同時に、日本から割譲された英領の返還を決議した。大戦後はひたすら連合国軍への恭順を誓ったのである。この結果、46年1月にタイ憲政史上初の自由な選挙が行われて、戦後もタイの独立は保障された。

2003年証言集会 日本軍はタイとの中立条約を破って侵攻した。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/setomasao2003.htmlより
高島先生の講演 瀬戸正夫さんの証言
 高嶋伸欣琉球大学教授は、日本が日タイ不可侵条約を破ったことは、日本の外交史上の大問題であること、(従って)外務省ではそのことはアンタッチャブルになっていること、日本は、いつも日ソ不可侵条約を取りざたするが、日本がタイに対して行ったこの条約違反には全く触れてこなかった、何の軍事行動もなかったかのように外務省の記録などにも記載している、この問題は、天皇の責任問題でもあることを指摘されました。
 さらに、日本では全く知られていない日本のタイ侵攻について、タイでは瀬戸さんの父親をモデルにしたと思われる映画がありすでに公開されていること、日本でも公開さたこと(題名は「少年義勇兵」で、集会当日は、予告編版を上映しました)、タイ側から、もしこの問題を指摘された場合、日本人だけが知らないということになりかねないことなどなどが指摘されました。

アジア・ウェーブ 瀬戸正夫さんへのインタビュー
http://www.asiawave.co.jp/seto/seto1.htmより
 バンコクの場合はそんなに問題はありませんでしたけど、南タイの方は日本軍が上陸してきて、タイ軍との間に戦闘があってたいへんなことになったわけです。上陸と同時に日本軍が家の大事なものはみんなかっさらっていっちゃうし、きれいな女の人は強姦されるし、反対すれば殺されちゃうし……。そういう被害にあった人や、それを見てきた人たちはいまはみんな七十代、八十代になっています。その人たちはいまだに毎年十二月八日の午前中、上陸した地点で、慰霊祭をやってるわけですよ。両親がもう亡くなっているところもあるでしょうけど、それがいまだに忘れられない。毎年やってるんです。そういうものは、民族の痛みとして忘れられないわけですよ。日本の人に、他人の痛みを自分の痛みとして感じることをしてほしいわけですよ。

日本は中立条約を破って、不法にタイ領内に進駐したわけです。許せないですし、タイ政府も日本政府の戦争責任問題として訴えるべきです。タイ南部では戦闘のほか、日本兵による非行も行われたのですね。大日本帝国って本当に最低ですね。それにしてもタイという国はしたたかでした。下手したら、日本軍に占領されて傀儡政府になるか、軍政・併合という形で独立が失われる可能性もあったのですが、見事な政略・策略で乗り切りました。おそらく他のアジア諸国よりも侵略・加害問題は小さいかもしれませんが、中立条約違反、タイ南部における進駐時の日本兵による非行、泰緬鉄道のタイ人労務者犠牲者・被害者の問題について、きちんと問題視して、日本政府を責めて謝罪と補償を勝ち取ってほしいです。

p63〜65
 8月12日。ハジャイ駅に向かった。7時19分初のマレーシアのパターワース行きの国際列車に乗るためである。ハジャイから1時間ほどして国境の町、パダンベサールに着いた。ここで、タイからマレーシアへの出入国検査が行われる。列車内で税関の検査が行われ、駅で出入国の手続きが行われた。子の間、約1時間半列車は停車した。
(略)

 バターワースから長大な橋を渡って対岸のペナン島に渡った。(略)
 8月13日、ペナン・ヒルの麓にある「ペナン島華僑交戦殉難機工羅難同胞記念碑」を見に行った。1946年7月7日に華僑籌販会によって建立されたものである。
「天にはびこるほどの大悪行が盧溝橋で起こってから、侵略の殺伐な風が、ペナンにも迫ってきた。日本軍が海を渡って、まずペナンをおとしいれるや、ただちに粛清命令を出し、厳しい弾圧を加えた。多くの人が誣いられて、あいともに獄に捕らわれた。焚書坑儒の惨劇がこの地に再現され、骨や屍が野ざらしにされた。神も叫び、鬼も哭かんばかりであった」と刻まれていた。
 ペナン島は41年12月19日にイギリス軍から日本軍の手に陥ちた。イギリス軍は日本軍の3回の爆撃後、戦わずしてすでに退却していた。このあと、日本軍の占領下で中国軍に協力したということで、華人の粛清が行われたわけである。このペナン島の記念碑の前で、毎年1月11日に約300人が集まって追悼会を行っているという。

ペナンの華人にとっては、「ペナン島華僑交戦殉難機工羅難同胞記念碑」に「神も叫び、鬼も哭かんばかりであった」と刻まれているように、鬼さえも驚愕するくらいに日本軍は残虐非道だったということ。生存者の話を聞きたいがこの著書には残念ながら載っていない。
ちなみにペナンには洗脳親日派のマレー系マレーシア人がいるらしい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page046.html
イスマイル・ビン・ラザク氏 1927年マレーシア ペナン生まれ 78歳荷役会社を元経営 現在もペナン在中 一女の父
日本語タイ語を理解する イスラム教徒マレー人である。


イスマイル
 ― 当時私は15歳でした。ペナンにはイギリス軍がいましたがある日、日本軍の飛行機が偵察に来て、その後20機が爆弾を落としていった。これはイギリス軍の基地だけ攻撃した。その様子を目の前にして、見て私たちマレー人は感動しました。私たちはイギリス人に蔑まれ虐められていたのですから。お前らはバカだ、人間じゃあないと。ほんとうに日本軍に感謝しました。

イスマイル
 ― まったくありません。日本軍は私たちに学校教育をうけさせてくれた。日本軍の先生がマレー語で教えてくれました。仕事もできるようになり、給料もちゃんと払ってくれた。イギリスがいたときとは全然違います。イギリスは私たちに教育や仕事をやらせなかった。日本人はマレーをマレー人に任せるようにしたのです。その時のマレーと日本の約束は「お互いに協力していこう」ということでした。マレーは良くなったのです。中国人はジャングルに逃げたままでした。

イスマイル
 ― DAITOUASENSOUは感謝しています。DAINIPPONが来なければ今のマレーシアはなかったでしょう。最大の感謝の気持ちは変わりません。

右翼サイトに乗っていた洗脳親日派マレー人の妄言録。しかもペナン在住。酷いものだ。ちなみに懐柔されたマレー人とは言え、大部分は日本軍占領時代に対して反発している。しかし、韓国のキムワンスプのようなとんでもない親日派は生まれてもおかしくはない。しかし、大日本帝国の行った戦争を美化する日本の右派はとんでもない、大日本帝国・日本軍のやった戦争を美化する現地の反動アジア人はさらに質が悪いと思う。この辺の問題も真剣に考えないといけない。また、マレーシア人自身で、マレー系イスマイルなり、
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.htmlで触れたp19〜20
にでてくる親日派華人系マレーシア人張日昇とともに、マレーシアの良識派自身の手で始末されることを私は望んでいる。マレーシア人自身の問題だが、日本の右翼勢力と同じスタンスをもつ親日派(というか親日帝・大東亜プロパガンダ狂信者)なるものをそのままにしておくのはマレーシアの国益のためにもならないであろう。

p69〜71
 8月15日。アジア・太平洋戦争の敗戦記念日である。この日を期して、日本軍が開戦と同時に上陸したコタバルで、マレーシアの人々が日本軍の犠牲になった人々を追悼し平和を祈念するための集会が開かれた。朝10時に集会が行われるコタバル郊外の抗戦烈士記念碑の前に人々が集まった。この碑のすぐ近くに10人の烈士の墓があった。墓碑には「ケランタン華僑籌販祖国難民委員会職員殉難烈士史略」が記されていた。
 1937年の日中全面戦争の勃発は、マラヤ在住の華人に強い衝撃を与えた。抗日救国の気運が盛り上がり、マラヤ全土にある中華総商会を中心に国民党への献金運動が行われた。その後1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の1時間前にコタバルに上陸した。このとき、コタバルの献金運動を行った華人の中心的な人物、おもにコタバル町の籌販会の人々が日本軍に捕らえられ虐殺されたのである。記念碑はその慰霊のためのものである。
 墓碑の前に集まっていると、50歳ぐらいのひとりの華人が私たちに向かって話しはじめた。林武輝さんである。ここで眠る「烈士」林槐郷の息子であるという。「私の父と母は日本軍に殺された。父はそのとき32歳、私はまだ3歳であった。きみたちが来るのが遅かった。日本政府はわれわれの犠牲に対し補償してほしい」と涙ながら語り、神に山下奉文と書いた。コタバルに上陸した第五師団の司令官名である。いまだに日本軍人への怒りの記憶は薄れていない。東南アジア全域における華人の受難は、知れば知るほどすさまじいものがある。しかし、その事実について、日本政府の認識は薄く、日本人のなかで知っている人もまだ少ない。
 集会は11時から始まった。(略)参加者はコタバル華人48人と高嶋伸欣氏を代表とする日本側17人である。
 記念碑は八段の石畳の上に、九段の白い石造りの塔が建ち、その上に三段の石が重ねられている。これには理由があるという。最初の八段は1937年の盧溝橋事件から45年の日本の敗北までの8年、つぎの九段と三段は日本軍が41年12月にマレー半島に侵略してから日本の敗北までの9ヶ月と3年を表しているという。日本の中国侵略とマレー半島侵略の月日の重さを語っているのだ。
 集会を終えて、私たちはコタバル市内に戻った。昼食を集会に参加した中華総商会の華人の人々と一緒にとった。私の隣は黄崇鋭さん、小学校の先生で現在は退職している。日本軍が侵略してきたときは10歳の小学生であった。
 黄さんの話では、42年の占領から小学校では日本語とマレー語が教えられた。その後はタイ語に変ったという。さきに述べたように、日本軍は43年8月にタイ国にケランタン、トレガヌ、ケダ、プリルスの4州を割譲している。このため、ここテランタン州コタバルでは、マレー語教育からタイ語教育に変ったのであろう。もちろん、それまでの公用語であった英吾は適性語として禁止となった。日本語の教育も徹底しており、いまでも黄さんは「君が代」を歌える。小学校では、毎日のように、日本兵からビンタをもらったという。

マレーの華人は日中戦争とコタバル上陸をはじめとするマレー半島侵略を同等の重みを置いて位置づけているということが分かった。すでに1937年に盧溝橋事件が起こり、日中全面戦争が起きた際、マレー半島の華人たちは祖国を助けるために献金活動を行い、戦争に参加したという。ところが、マレー半島にも日本軍は侵略してきた。日本軍は鬼よりも残虐で、華人たちを容赦なく粛清・虐殺した。歴史の重みというのが分かる気がする。日本政府はまだ補償も誠意のある謝罪も行っていない。本当に恥だな。わが国の政府は。

p71〜72
 昼食後に日本軍が上陸したコタバルの海岸に行った。上陸地点は、コタバルから10キロ北にあるチンタ・ベラヒ海岸である。(略)
 日本軍(第18師団=牟田口廉也師団長の一部、佗美支隊)は、海岸一帯とここに河口をもつパーマト川やケランタン川などのクリークに、上陸用舟艇を乗り入れた。海岸の近くには、当時のイギリスの空軍があり、日本軍は開戦と同時にマレーの制空権を奪おうとした。
(略)
上陸日時は、日本時間で1941年12月8日の午前2時15分。真珠湾攻撃で「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)と打電したのが同午前3時23分であるから、コタバル上陸のほうが一時間ほど早い。アジア・太平洋戦争は真珠湾で始まったのではなく、マレー半島で始まった。この事実は象徴的である。太平洋戦争を、真珠湾攻撃に始まり原爆で終わる日米決戦として理解する常識に対し、アジア・太平洋戦争はマレー半島上陸に始める東南アジアの領土と資源を略奪するためのアジア侵略が本質であることを教えているからである。最近の歴史学会で従来の「太平洋戦争」という呼び方を改めて、「アジア・太平洋戦争」と呼ぼうとする提唱は理にかなっているのである。

なるほど、これからは私はアジア・太平洋戦争と呼ばせてもらいます。

p73〜75
8月16日。今日はコタバルからふたたびマレーシア中央山地を縦断して、東海岸から西海岸へ抜ける。行き先はイポーである。
(略)

 8月17日。イポーの北西84キロのタイピンへ向かう。かつてのペラク州の州都して栄えた街で、マレーシア最古の錫鉱山がある。ここにあるレーク・ガーデンはマレーシア有数の美しい公園として知られる。
(略)

 タイピンの町では、陸国祥氏が待ってくれた。この町は錫鉱山の町だけに、植民地時代に中国から大量の労働者が導入された。その後、華人は錫鉱山の経営にものりだし、この町にも巨万の富を築いた人が多い。陸氏は現在、ゴム園と油ヤシの農園を経営している。
 陸氏は最初に、タイピンにある連合軍墓地を案内してくれた。
(略)

 陸氏はつぎに、華僑同胞の殉難碑に案内してくれた。レーク・ガーデンからすこし入ったところである。草木の生い茂るなかに隠れるように、ひっそりと碑が建っていた。幅10メートル、高さ5メートルのりっぱな碑である。中央の墓碑名の両側に、「精神不死」と「活気長存」の文字が刻まれていた。
 このタンピンを中心とするペラク州は、錫鉱山の関係で華人が多く、日中全面戦争以来抗日意識が強い地域であった。日本の憲兵は、不審な華人を見つけると、ろくな取り調べもせずに抗日分子として拷問、虐殺したという。
「土饅頭息づき蛍群れ飛ぶそこだけの闇」
 これは当時の日本兵が詠んだ歌である。土饅頭とは、日本軍によって虐殺された華人の死体を埋めた跡である。銃剣で胸を突き刺して殺し、そのまま土をかぶせて埋めたため、土饅頭がグワオーグワオーと呻き声を立てながら息づいている様子を表しているという。

おぞましい光景です。銃弾を節約するために、銃剣で突き刺して虐殺していったわけですが、鬼も真っ青な日本兵の所業。私の先祖の姿だと思うと恐ろしいです。

p76
 私たちは、陸氏と昼食をタイピンの町でとってから、ふたたび高速道路でイポーの町に戻った。イポーは、クアラルプール、ペナンに次ぐ、マレーシア第三の都市である。人口30万で、世界最大の鉱脈といわれるキンタ渓谷の錫鉱山がある。マレーシアは現在でも世界の錫の4分の1を産出している世界最大の錫生産国である。イポー周辺には、さまざまな錫の露天掘りが見られる。このため、植民地支配からここはイギリスのマラヤ支配の拠点であった。マレー半島の鉄道や道路は錫産地と海港とを結んで敷設されている。錫は溶接の材料として使われ、工業生産には不可欠である。さまざまなメッキの材料として、また缶詰からトタン屋根の材料、食器など錫の用途は広い。
 イギリスは植民地支配の重要物資として錫生産の拠点をペラク州から隣のセランゴール州においた。中国から労働者をここに送り込んで採掘に当たらせ、同時にインドで栽培したアヘンを中国人労働者に売った。19世紀末のイギリス海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)の国庫収入の半分がアヘン収入であったという。アヘンの犠牲はアヘン戦争で有名な中国本土だけではない。マラヤの華人はイギリスから錫鉱山の労働力と同時に、アヘンの吸引者として二重に搾取されていたわけである。
 また、先進国の軍需物資として注目され、日本軍が南方進出の理由としたのがマレーシアの錫とゴム、インドネシアの石油などの資源獲得であった。イギリス植民地時代から日本軍の東南アジア侵略まで、マレーの錫は世界史を動かした。

華人たちはイギリス植民地時代、日本軍占領時代を通して搾取され苦しめられ続けたのですね。錫やゴムなどの資源に目をつけられ、大日本帝国に侵略されたのです。帝国主義勢力のエゴですよね。ただそのエゴに巻き込まれて、一番の被害者になるのは結局は被支配者のアジア民衆です。

●マレーシアにおける日本の公害輸出
p68〜69
 マレーシア中央山地は熱帯雨林で、バスからも原生林のなかでまっすぐ伸びるラワンの木が見えかくれする。ラワン材を積んだトラックが軍用道路の最大の利用者になっている。マレーシアからインドネシアにかけての東南アジア一帯には、アマゾンと並ぶ世界有数の熱帯雨林が広がっている。熱帯雨林は世界の気候の調節弁であり、地球規模での生態系にとって重要であることが指摘されるようにつれ、伐採による減少が問題化されてきた。
 日本は東南アジアにおける木材の最大輸入国である。現在、マレー半島はほぼ伐採しつくして木材伐採の中心は、東マレーシアのサバ、サクワラ州に移っている。88年現在、サバ州の原木輸出は約800億円で、外貨収入の70パーセントは日本向けである。しかも、サバ州の税収入の70%が、木材関連産業からであるという。現在、マレーシアは開発と環境保護の矛盾のなかにあるわけだが、その大きな責任の一端を日本が負っているわけである。

東南アジアの熱帯雨林の減少に日本には大きな責任がある。17〜18年ほど前の事実である。バブルも終焉に迎えているころだが、発展途上国の環境などなりふり構わぬ建造物や住宅の乱立が続いていたのである。

p77〜80
 つぎに、イボー市の南9キロにあるプキメラ村に向かった。いまこの村では、日本の企業進出の一側面として、公害輸出の問題が深刻化していた。すなわち、日本企業のアジア・レアアース社(ARF)の放射性廃棄物をめぐって住民運動が起きていた。
 ARE社は、1982年にマレーシアで設立され、35パーセントを出資している日系企業である。この企業が、モザナイト鉱石から希土(レアアース)を精製し、日本側がテレビの赤色発光体の材料やカメラ、コンピューターなどの部品、触媒として、エレクトロニクス産業に供給する。モアナイトの9割はマレーシア産であり、レアアースの10割が日本に輸出される。
 この精製過程で、放射能を含んだ廃棄物が生まれるのである。廃棄物は放射性物質トリウムを14パーセント含んでいる。マレーシア政府は、トリウムを将来の原子力発電所燃料に使うことを考えて、その貯蔵を同社に命じていた。(略)
 最初住民はそのことを知らず、工場の放射性廃棄物の近くで子供たちは遊び、廃棄物を肥料として畑にまいたという。1983年にAREは放射性廃棄物の専用投機場をイポーの南131キロのパパンに建設しはじめた。しかし、コンクリートにひびが入り侵食が始まったため、住民は反放射性廃棄物委員会を組織した。結局、国際原子力機関の勧告もあって、パパンでの建設は中止された。その後AREは、放射性廃棄物をドラム缶に詰めて工場内に野積みにした。84年12月23日に300人の住民が生産中止、工場移転を求めてデモを行った。「三菱製品ボイコット」の動きも出てきた。日本にこのデモを最初に報じたのは、85年1月15日の「朝日新聞」である。
 この反対運動の高まりのなかで、地元の環境保護団体「地球の友」は、埼玉大学の市川定夫教授を招いて放射線レベルを測定した。結果は投棄地は9000ミリレムと基準(自然放射線量11)を大幅に上回った。市川教授は、「投棄場内は驚くべき高濃度だ。住宅地もいますぐ危険とはいえないが、長期的にこの状態が続くと、ガンのおそれがある」と述べている。
 85年2月の住民側の訴えで、10月に裁判所が工場の操業停止の仮処分を出した。しかし、87年2月にはマレーシア原子力委員会が暫定操業の許可を出している。そこで、住民側は同年5月に1万2000人のデモを敢行した。マレーシア史上はじめて、多国籍企業に対する反対運動を展開したのである。これに驚いた政府は、国内治安法(ISA)で反対運動の中心人物であった反放射能委員会のヒュー・ユン・タ委員長を逮捕した。
 私たちが訪れたときも、工場の外にドラム缶やプラスチックバッグに入れられていた廃棄物が野積みされていた。雨が降れば、工場の横を流れる小川に垂れ流しになる危険がある。工場の廃棄物貯蔵所の前には「放射能あり」と札が掛けられ、「安全はわれわれの関心」という標語には、なにかブラックユーモアさえ感じた。
 反放射能委員会のヒュー委員長に会った。彼はこれまでの経過を簡単に述べて最後に一言だけ、「我々の唯一の要求は工場を閉鎖することです」と断言した。
 彼は小柄で40歳ぐらい、つねに住民運動の先頭に立った闘士である。みずから警官隊の催涙ガスと闘い、2年前に国内治安法によって逮捕投獄2ヶ月を経験し、現在も外国人と接触を制限するために、英吾の使用を禁じられているという。ブキメラ村では、一部の報道で日系企業による「公害輸出」といわれたように、放射能汚染での健康被害もささやかれている。
 マレーシアと日系企業の関係は、ちょうど1960年代の水俣病を思い起こさせる。日本の大企業は1970年代前半の国内の反公害闘争、四大公害裁判のなかで厳しい公害規制に直面することによって、問題のある生産部門は海外に移すようになった。しかも、このレアアースを供給するエレクトロニクス産業は、1980年代の日本企業を支える主力産業である。80年代の日本の経済大国化が、このようなアジアの犠牲によって成し遂げられているとしたら、私たちの生活の「豊かさ」とはいったい何であるのだろう。
 マレーシア政府にも問題がある。マハティール首脳は「東方政策」として、日本に学べと、日本資本の導入による急速な工業化政策をとっている。このため、日本資本の公害問題にきわめて甘い。しかも、国内治安法によって労働運動、住民運動を封じ込め、経済成長政策を実現しようとしている。アジアにおける「開発独裁」路線である。アジア民衆の犠牲で、ふたたび日本企業がアジアに進出するとしたら残念なことである。しかも、マレーシアの場合、プミプトラ政策による、多くの犠牲者は非マレー人である。実際に、ブキメラ村の住民はほとんどが中国系住民=華人である。資本進出と公害問題にも、この国の複雑な民族対立が絡んでいるようである。
 現在の日本は、アジアに対する戦争責任を曖昧にしたうえ、現在の責任も問われなければならない事態にいたっている。すなわち、過去と現在の二重の責任に直面している。過去の戦争の認識と補償問題、そして現在のブキメラ村の日本企業のアジア進出やバンコックの日本人の売春観光、アジアの人々と日本の人々の相互理解にはまだまだ深い断層があるように思われた。


ブキメラ問題のリンクを2つほど
http://homepage1.nifty.com/nbach/are_houmon.htm
http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/slide/dat08.htm

現在も問題が続いているようです。アジア・太平洋戦争において、日本は償いきれないほどの罪悪を重ねました。しかし、現在においても日本は自国の「豊かさ」のために、アジア民衆を犠牲にしているのである。戦後も日本企業や一部の日本人はアジアの大地に対して暴力的な行いを続けているのである。アジア・太平洋戦争の一連の侵略・戦争責任を曖昧にして終わらしてしまった事が大きい。ドイツでナチス・ドイツがユダヤ人や近隣諸国に被害と苦痛を与えたことを徹底的に教わっているが、日本人で知るものは少ない。アジア地域を侵略したことを教わらずに、"名誉白人"思想というほかの有色人種を蔑視し、アジアやアフリカといった地域を後進・未開だと決め付けて見下す思想が戦前以来戦後にも引き継がれていることが大きいということ。過去の侵略・戦争加害問題と現在の公害輸出や日本人の売春問題などはその点繋がっている。日本人一人ひとりがたとえばマレーシアで行った日本軍の悲惨な虐殺の事実を余すところなく知り、逆の立場で感じる歴史教育を行うことで、過去の戦争犯罪に対する償いの心をもたせることで、過去及び現在にいたる日本の問題を解決することができると思う。

p81
 泰緬鉄道の工事にマレー半島、インドネシアから動員された25万人から30万人におよぶというアジア人労務補償請求は、1986年マレーシアの生還者、遺族など288人から日本大使館に出された。しかし、日本政府はいまだにマレーシア政府との賠償協定ですべて解決済みだと言っていっさい応じていない。また、1995年1月にイギリス、オーストラリアなどの連合国の元兵士2万人は、日本政府に対し泰緬鉄道などの強制労働の賠償請求総額480億円を要求する訴訟を起こした。
 

泰緬鉄道の強制労働問題も日本政府は一向に応じていません。条約で解決されたといいますが、冷戦の問題もあり、過酷な賠償の要求に日本全体が耐えられないとの判断から賠償の請求は見送られました。マレーシア政府についてはルック・イースト政策を取っており、日本の協力を得るために賠償協定を虐殺されたりした華人たちの同意を得ることなしに勝手に決めて結んでしまった。日韓基本条約の締結と同じ問題を抱えています。十分な先進国となったのですから、日本政府は過去の自国の行った罪行の後始末を道義的にきちんと納得の得られるようにするべきです。つまり補償をして、事実を余さず国民に教育して、日本人が未来に向かって真の国際人として歩めるようにすべきです。それが日本政府のこれからの責務です。

p82
 1989年の11月に40年間、マレーシアとタイ国境地帯でゲリラ活動を続けていたマラヤ共産党はタイ軍とのあいだで投降の交渉が終わった。同年10月のベルリンの壁崩壊に始まり、1991年ソ連の解体に終わる社会主義体制の世界史的崩壊のひとつとしてマラヤ共産党の終焉があった。そのなかで戦時下、マレーで日系企業、日南製鉄に勤務していたが、終戦以来マラヤ独立のためにマラヤ共産党に加わりゲリラ活動を続けていた2人のン本陣、田中清明氏と橋本恵之氏が46年ぶりの1990年1月に日本に帰国した。「日本兵はマラヤの独立のために何もしなかった。日本の軍にできなかったことをしようと思った」と話す。終戦時はこのようにしてマラヤ共産党に加わった日本人は約100人いたという。

最後にほっとした話題を。インドネシア独立のために戦った日本兵がいました。マラヤでも同様です。戦時下にあっても良識的な方がいると思うとほっとします。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:36 | Comment(12) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月19日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編

●初めに
『50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて』森武麿著 集英社というのを読みました。
この本は著者がマレー半島南部、タイ・マレー半島北部、フィリピン、韓国、中国、アメリカ(ハワイ、西海岸)を歩き回った際、聞き取りを中心に編集した、アジア・太平洋戦争の傷跡を歩く歴史紀行本のようなものです。このうち、日帝悪事実とそれと現代に通じる日本の問題の部分を抜粋していこうと思います。@マレー半島南部(華人虐殺)、Aタイ・マレー半島北部(タイへの日帝侵略の事実、泰緬鉄道、華人虐殺)、Bフィリピン(日本軍占領時親日派の問題、フィリピンにおける数々の虐殺、バターン死の行進)、C中国(主として南京大虐殺)について扱っていきます。

 マレーシアについて。1941年12月8日にアジア・太平洋戦争の開戦と同時に日本軍が最初に攻撃した地域であった。真珠湾攻撃の一時間前であり、マレー半島の東海岸でタイ国境、コタバルに上陸し、翌年1月11日にマラヤ連邦の首都クアラルンプールを占領し、以後3年半にわたる過酷な日本占領統治がはじまったのである。これは著者が高嶋伸欣氏の主宰する「東南アジアで考える会」が行った1988年3月マレー半島南部の旅に参加したときの記録の章から日帝悪情報を抜粋していくことにします。

●日本軍占領時代の軍票p11〜13 
 1988年3月28日。午前10時30分、成田を出発して、7時間後にマレーシアのクラアルンプール空港に到着した。(略)通訳兼ガイドとして中国系マレーシア人、饒金華さんが出迎えてくれた。(略)
 最初の宿泊は、クラアルンプール中心街のチャイナタウンにあるマンダリン・ホテル。夜はチャイナ・タウンの露店を歩きまわることになった。(略)。チャイナタウンからの帰りに、近くの華人経営の酒屋に寄り、地元の酒、ウーチャービー(五加皮酒)を買った。酒屋の主人は、私が日本から来たと知ると、アジア・太平洋戦争の際、マレーシアを含む南方地域で日本軍が使用した軍票をくれた。バナナの描かれた10ドルの紙幣と1セント紙幣で、バナナ紙幣といわれた。日本軍の敗走後、ただの紙きれとなった軍票の補償を、日本政府がいまだに行っていないことへの批判として彼の行為を受け止めた。軍票を見たのはこのときがはじめてであったが、その後も、旅の先々で何度か同じ体験をすることになった。このように広範にマレーシア市民にばらまかれていたことを知って驚いた。この現在無価値となった軍票が、戦時下、日本軍によるアジアの日常物資略奪の手段であった。

 常々大日本帝国という国はとんでもない国だと思います。アジア民衆の受けた被害は戦闘行為の巻き添え、虐殺、強制労働などの人的被害および物的被害に留まらず、軍票というのをばらまいて経済的にも略奪していたのです。大日本帝国後の日本政府はそれらのことに対して、何も補償をしていません。つくづく情けなく嫌な国です。

●華僑殉難記念碑p14〜16
・・・・・クアラルンプール近郊の広東義山を訪れた。広東の華人を中心とした100年の歴史をもつ墓地である。その墓地の一角に「中華民国男女僑胞受難墓」という墓碑が建っていた。また、この殉難費の近くにセランゴール華僑抗戦殉難記念碑も建てられていた。これは、クラアルンプール周辺の抗日運動で日本軍によって殺された華人の慰霊碑であった。
 ここでたまたま、墓石職人の龍金氏と出会った。52歳の彼は、5,6歳のころ日本軍の華人虐殺を見たという。彼の話では、クアラルンプールの刑務所から日本軍が夕方100人ぐらいの華人を連れてきて穴を掘らせ、銃剣で突き殺し、そのなかに埋めた。まだ、現場はそのままで、骨は掘り起こされていないという。できれば、掘り起こして墓に骨を移してほしいと希望した。さきの記念碑はこのような人たちのために建てられた。
 1941年12月8日のマレー半島への日本軍侵入から日本軍政支配のなかで、とくに中国系住民に対しては「抗日分子」「ゲリラ」として、厳しい処罰が行われた。当時は蒋介石国民党によつ重慶政府の身分証明書をもっているだけで嫌疑を受け、敵対分子として処分されることが多かった。さきの龍金証言のように、日本軍が銃剣で刺殺していたのは銃弾を節約するためであり、ゲリラと認定すると、すぐさま処刑した。このような例はマレー半島全域で見られたようだ。南京大虐殺のように、中国本土における日本軍の虐殺については知られているが、東南アジア全域で起こった中国系住民受難の歴史―華僑粛正―については、私たちは、まだその実態を知らないのではなかろうか。


●日本軍による華人大虐殺・パリティンギー村の悲劇 p19〜20
・・・・クアラルンプールからバスで1時間ほどで隣のネグリセンビラン州セレンバンに到着した。ここから日本軍の虐殺のあったクアラピラーまで30分。待っていたのは、現地の証言者と新聞社であった。彼らと一緒に村はずれの「港尾村荘蒙難華族同胞記念碑」にお参りした。その前で、戦時下日本軍の虐殺からかろうじて生き残った蕭文虎氏の証言を聞くことができた。蕭文虎氏は1942年3月16日の出来事を話してくれた。「クアラピラーからすこし山に入ったパリティンギー村に日本軍が現れました。米やその他の食べ物を配給してくれるというので、村人は全員集合したのです。私はそのとき7歳で、父に連れてこられ一緒に行きました」と彼は話しはじめた。彼の両親は教師であった。
「日本の軍人はジャングルへ全員連れていきました。そこで全員を銃剣で刺し殺したのえす。父と母、弟、妹が殺されるのを見ました。母はそのとき妊娠中で、おなかに子供がいたのです。そのおなかを銃剣が突き抜けるのを見ました。腸が飛び出し、鮮血の海のなかで、自分も銃剣の傷を負ったのです。しかし、傷が浅かったために、命に別状はありませんでした。夜になると兵士は全員死んだか確かめに来ました。自分は息をひそめて隠れ、その後、逃げました。みると村は焼き払われていました」と、ここまで蕭氏はいっきに述べて、私たちにそのときに受けた傷跡を見せてくれた。背中から横腹まで5ヶ所の銃剣の傷跡がいまも残っていた。そして、最後に彼は、「私は決して忘れない」と涙を流した。

惨たらしい話です。パリティンギー村における犠牲者は現地では1000人にも達し、女性が半分、子供が450人ほどであり、ほとんどが女子供だったということになる。食糧配給は大人から子供まで人頭割りで配られるため、村人全員が集合した結果、事件に巻き込まれたのだった。虐殺の理由は、この村が抗日分子の拠点であるらしいという不確かな情報からだった。しかし、当時この村には抗日分子は存在していなかったし、仮に存在していても多数の子供や女性を含め罪もない人たちを皆殺しにする理由はならないことは言うまでもありません。しかし、著者はもう一方の"親日派"の立場の人の話を聞いています。p21より

 この場には、もう1人の張日昇氏という証言者がいた。彼は蕭氏の証言とは異なる立場から話をしてくれた。日本軍から交付された「良民証」を持ってきており、それを私たちに見せながら、「自分は日本軍に協力した義勇隊長である」と、懐かしさといささかの誇りをもって言明した。当時の日本軍の上司とは、いまも手紙のやりとりをしているという。これも当時の日本軍政の一端であることはまちがいない。村民全員を敵にまわして植民地統治はできないので、一部住民を懐柔して軍政のエージェントに利用したのである。

この張日昇という男はどうかしてるなと思った。自分が対日協力者として同胞の虐殺に加担したというのに罪の呵責を一片も感じていないとは。
p22
 さらに、実際の虐殺の現場であった華人の村、パリティンギーに行ってみた。虐殺の結果、この村は消滅しており、現在ではマレー人の農家が住み着いていた。当時、この村にはゴム園、木材、錫工場の華人労働者、農民が集まっていたという。
 ここでは林瑞徳氏が証言してくれた。彼は当時14歳であった。
「日本軍は70〜80人が村に来ました。そのうち、台湾人の軍属が10人ほどいました。台湾兵は先に案内役として村に入り、村人に『ツァウ』(走)と声をかけました。このあたりの華人は広東系のために、この言葉を『酒』(チュウ)を求められたと思って街へ買いに行きました。ところが、この言葉は台湾語では『逃げろ』という意味でした。
 台湾兵はこれから日本軍の虐殺が行われることを知って、華人同胞が殺されないように警告したのです。しかし結局、言葉を誤解したため、酒を買って戻ってきた人々はみな殺されてしまったのです」
 この話は、日本軍、日本軍の通訳として虐殺の道案内をした台湾兵、そして広東系華人の民族的矛盾の複雑さを示している。
「大人、子供を問わず無差別な殺戮が行われ、とくに赤ん坊は上に投げて銃剣で刺し殺した」という。体が小さい赤ん坊を確実に殺す方法であった。親を殺された赤ん坊は将来ゲリラになる可能性があるからとして有無を言わず殺したのである。度重なる証言で重苦しい気持ちになりながら、一村全滅したパリティンギーをあとにした。

大日本帝国の植民地であった台湾人も徴兵されて軍属として、徴兵されていました。抑圧されていた台湾人軍属の方は弱者の痛みが分かり、台湾で日本軍がいかに酷いことをしていたかというのを知っていたので、虐殺からマレー半島の華人を守るために日本兵に分からないようにして伝えようとしました。中国語が分かるので道案内として動員されていましたが、マレー半島の華人の使う中国語と台湾人の使う中国語では言語的に大きな断絶があり、悲劇を生むことになったのです。ところで、銃剣で赤ん坊を串刺しにするという日本兵の残虐な殺し方ですが、フィリピンでもでてきます。将来ゲリラになるからと行って有無を言わさずに、残虐行為を行うことができるように、有望な日本の若者を日本軍は殺人マシーンに作り変えてしまったのです。酷い話です。
p23〜24
スンガイルイ村では1942年7月31日、368人の村民が全員虐殺された。その一ヶ月後に残った人々によって慰霊碑が建てられたが、その碑も村全滅のためにジャングルの中に埋もれてしまった。慰霊碑が掘り起こされたのは、日本の文部省検定で「侵略」が「進出」に書き換えられたことによって、アジア諸国の激しい反発をもたらした1982年の教科書問題がきっかけであった。日本軍の侵略の証拠として発掘されたのである。
 慰霊碑にお参りしたのち、現地歓迎集会があるという知知(テイテイ)へ急いだ。時刻はすでに予定を大幅に遅れ、4時半をまわっていた。知知に入ると、町の人全員がわれわれのバスを取り巻くようにして歓迎してくれた。「通報」「南洋商報」などの現地の新聞記者が待つ町の集会場に行った。(略) 知知での日本軍による虐殺はすさまじく、このあたりの死者としては最大の1474人と現地では記録されている。1942年3月18日、日本軍はこの町を襲い、農民、錫鉱夫、商人の住む平和な200戸の町を一瞬にして修羅場と変えてしまった。老若男女問わず、皆殺しにしたのである。
 集会では、はじめに現地の代表者から挨拶があった。そのなかで、タイ―ビルマを結ぶ死の鉄道といわれた泰緬鉄道の建設に、労務者として強制動員させられた6人の生き残りの人が紹介された。この町から228人の労務者が駆り出され、3年8ヶ月のあいだ給料もなくただ働きさせられたという。
 今日の旅行を主催した高嶋伸欣氏によると、2年前に来たときは、町中がしーんと静まりかええり、「日本人がなぜ来るのか」という敵意がみなぎっていたという。いまだ、死の泰緬鉄道と大虐殺の張本人、日本人への悪感情はけっして消え去っていない。今回の歓迎ぶりは、日本へこの虐殺と労務動員の事実を伝え、「補償」を考えてほしいとの要請があるからだ。
 たとえば、虐殺時のことについて証言した蕭月嬌氏は、泣きながら虐殺のむごさを訴え、「この町を何度も訪ねるだけではなく、実際に学校の寄付などの将来の子孫に残るような実のあることもしてほしい」と注文をつけた。たんなる「物見」高さでこられては困るのであり、日本人は実質的な償いを果たすべきではないかということである。その歓迎集会を終えたのはもう6時近かった。

酷い話です。どれだけ酷いことをマレーシア人(特に華人の方々)に対してやってきたか認識すべきです。1988年からもう17年ほど経つんでしょうけど、いまだに反日感情は消えたいないいのではないでしょうか?しかし、今をもっても補償も謝罪も加害事実の認定も日本政府によって行われていません。嘆かわしいことです。

p25
 朝7時30分、ホテルを出発してマラッカに向かった。(略)
 マラッカへの途中、もうひとつの虐殺の村、文丁(マンテイン)を訪れた。1942年2月6日、日本軍はここのゴム農園を襲い、200人あまりを殺したという。虐殺のきっかけは、村人の袋叩きにあった泥棒が、恨みに思って日本軍に「あの村は抗日の村である」という嘘の告げ口をしたことによる。
 そのときの生き残りの証言者、葉雲氏に連れられて、虐殺現場のゴム園跡を訪ねた。日本軍が来たとき、村の人は人口の調査に来たのだと思い、鳥料理などのご馳走を出したという。夜8時ごろに、近くの広福成園、万福利園などのゴム農園の労働者、農民を園単位に数十人ずつ集め、日本軍は殺戮を重ねていった。万福利園には1929年と刻まれた家屋の礎石が残るだけで、まったく廃墟と化していた。葉氏はここが虐殺の現場であると指さした。
「日本兵は6,7人でやってきました。銃剣で首を突き、死体は古井戸に投げ込みました。自分は恐ろしくて、うまく逃げ出しましたが、2,3日はここに戻れませんでした」
 葉氏は村に戻って遺体を片づけ、ドラム缶2本に骨を集めた。それを教科書問題が起きたあと1984年に掘り起こしたという。虐殺現場の生々しい傷跡を見ながら話を聞いていると、30度を越える熱帯であるのに、なにか背筋が寒くなるような気がした。


もちろん、逆恨みして抗日の村だと告げ口した泥棒も悪い。このケースを考えるにあたり、個人的な私怨を晴らすのに、日本軍を利用したケースも中には存在したのかもしれない。先の張日昇というように、同胞の虐殺に加担しながら罪の呵責も感じないような人物がいるように。でも一番悪いのは日本軍であり、本来なら泥棒を捕まえて処罰するのが占領軍のやる仕事だ。泥棒の言うことを真に受けて、極端な虐殺行動に走ってしまう日本軍はどうかした世界一いかれた軍隊である。まあ、日本軍の占領下の初期にあっても、物資の徴発により経済が窮乏し、生活の困窮のために泥棒に走った、結果的に日本軍占領の被害者かもしれないが。それと村人たちは日本軍を歓迎して、鳥料理などのご馳走を用意したようだが、それを見ても抗日分子であるという疑いに疑問を抱かなかったのだろうか?たった、6〜7人の兵士たちは刺し殺している際、躊躇しなかったのだろうか?何の良心の呵責も感じなかったのだろうか?これだけでも当時の日本軍というのは恐ろしいものがある。
p27
昼食後、2時40分にマラッカの慰霊碑の前に到着した。蒋介石の筆なる「忠貞足式」という碑が目に入った。そこには1983年4月の「馬六甲華人抗日義士記念碑」の説明が記されていた。建立時期からすると、これも教科書問題の影響なのであろう。行く先々で、日本の教科書問題がアジアに与えた衝撃の大きさにあらためて驚かされた。この記念碑の後ろ一帯が「中国の丘」として華人墓地になっている。丘の麓には1406年、中国の鄭和提督の来訪を記念して、チェン・フー・テン寺が建てられた。

1982年、24年ほど前にあたって、私も生まれていないころだが、反動的政策がアジアに対して与えた影響はものすごいものがあったのだろうな。

p29〜32
 4月1日。8時すぎにホテルを出発した。バスは目的地、ジョホール・バルに向かった。
(略)

 バスは昼にアエル・ヒッタムに到着した。ここはマラッカからジョホール・バスへの中継地点である。食堂とおみやげ屋が立ち並び、チャイナ・タウンのような雑踏と活気にあふれている。ここにもジョホール州の華人慰霊碑が建っている。碑には「第二次世界大戦柔佛州華僑殉難列士公墓」と記されていた。ここで地元の人々の予想もしない歓迎を受けた。20〜30人の人が私たちを待っていた。
 ここでも1人の証言者が登場する。余金鑑氏である。27歳のときにムアールのゴム園に住んでいたという。
「1941年12月の日本軍のマレー侵攻以来、私のゴム園には戦火を逃れた難民が入っていました。インド人、中国人、イギリス人など、さまざまな人がいました。1942年3月、夕方4時ごろ日本軍が20人ほどでゴム園を調べに来たのです。そのとき、ゴムの薫製室の天井裏に難民のおいていった銃を隠していたのを見つけられてしまいました。このため、抗日分子と思われ殺戮が始まったのです。最初兄が銃剣で刺し殺され、つぎにおじいさんが殺され、従兄弟も殺されました。自分は隙をついて逃げました。後から銃で撃たれましたが、かすり傷ですみました。真夜中の2時まで走りつづけて、マラッカの親戚の家まで逃げたのです。日本軍が敗北するまで3年8ヶ月隠れていました」
 余氏もまた泣きながら話した。彼は、日本のマレーシアに対する戦後補償の少なさについて不満を訴えながら、「当時は天皇の命令であった。いまの日本とは関係ないが、現在の日本人は本当の歴史を知らない。マレーシアのこの事実を日本に伝えてください」と述べた。
 また、アエル・ヒッタムでは、1942年3月17日の清明祭のとき、日本軍の支配のもとに「平和」が戻ったとして町で宴会が行われた。そこで、町の人々は「天皇万歳」を唱和させられた。宴会のあと軍は町の有力者を連れていったが、それっきり彼らが待ちに戻ることはなかった。殺されたにちがいないという。たしかに当時、日本軍支配への抵抗の核となる有力者や教師などの知識層は真っ先に粛清の対象とされた。さらに、陳観鵬氏は、数名の婦人が強姦されるところを見たと証言し、それを避けるために、当時、若い女性は男の姿をしていた、と話した。
 現在、アエル・ヒッタムでは、この記念碑を中心として戦争記念館を建てるように州当局に働きかけている。


アエル・ヒッタムという町でもおぞましい蛮行が繰り広げられていたのです。抗日分子だと決め付ければ日本軍は容赦なく虐殺するようです。それと日本軍は支配にあたり、町の有力者や知識人を粛清するという独裁・圧政政権の典型的なことをやっていたようです。それと強姦を恐れて、女性は男装をしていたという情報ですが、フィリピンでも同様なことがありました。

48...フィリピン報告1
http://www.fluidlab.naoe.t.u-tokyo.ac.jp/heritage/ykondo/daily/daily48.htmlより
「私を入れて3人のフィリピン人女性が、7人の日本兵に連れて行かれたんだよ。その3人の中で一番年上の女の人は、さらに森の中に連れ込まれてレイプされたのよ」

 通りをゆっくりと歩いていた一人の老女に、ここバタアン半島で日本軍との間に何があったのか覚えていることを話してくれないか、と頼んだところ、老女は何もためらうこともなく淡々と話しだした。

「私はそのときまだ小さかったからレイプはされなかったけれど、服を上までまくられたんだ。50歳ほどの女性がレイプされるのも私は見た。隣人だったから見えてしまったのさ」
「それは1941〜42年頃、日本兵たちがフィリピンに入ってきたばかりのころのことだったと思うよ。町にはたくさんの日本兵がいた」
(略)

 老女は自分の体験を話しつづけた。
「多くの女性がアブカイ(バタアン半島内の町)で日本兵にレイプされたりしたんだよ。だから私たちは顔に炭を塗ってあたかもマラリアであるかのように装った。日本兵に連れて行かれないためにね。
 またある時期、私は家族とともに山の中に隠れたこともあったよ。そのおかげで収容所には入らないで済んだの。でも家族で山中からアブカイの町に降りていったときに、町で父が日本兵に捕まった。それでそのまま行方不明になってしまった。その後私たちは他のフィリピン人から、父が殺されたということを聞いたの。それが私の覚えている戦争体験だよ」

フィリピンでは男装ではなく、マラリアにかかったふりをして日本兵の強姦(性暴力)の魔の手を逃れようとしたようだ。日本軍占領下の現地の女性は日本兵の性暴力の魔の手から逃れようと疾駆八苦していたようである。ただし、マレーシア・シンガポールでは日本兵による女性とのトラブルはなかった・少なかったという情報もあり、フィリピンや中国戦線のようにレイプ魔ばかりではなく部隊や地域区分、民族間(華人系とマレー系)によって差があるかもしれない。

p32〜33
 バスはジョホール・バルに午後4時40分に到着した。(略)・・・・華人慰霊碑へ参拝した。碑名は「華僑殉難諸先烈公墓」と記されていた。ここには2000人におよぶ華人の戦争犠牲者が祀られている。その碑文のなかに、「1941年12月8日以来」の「日寇南進」という言葉を見つけた。当時のマレー半島の人々にとって、「倭寇」や「元寇」を連想させる略奪的海賊、侵略者という意味の「日寇」という言葉が、日本軍の姿だったのだろうか。
 慰霊碑の黙祷が終わって、バスは市内に入り、ジョホール州庁舎の下に止まった。日本軍の銃痕が残されていた。イギリス軍と日本軍の戦闘の跡である。さらに、その近くに憲兵隊本部のあった建物が残されており、その前のサッカー場が華人虐殺の死体を埋めた場所であるという。

日本軍の存在はマレーシアを含む東南アジアの人々にとって、まさに「元寇」の姿を彷彿とさせる「日寇」だったに違いない。

p33〜35
 4月2日。朝8時すぎに、マレーシアとシンガポール間のジョホール海峡をまたぐ1038メートルの橋をバスで渡って、いよいよシンガポールへの入国である。
(略)

・・・。午後、市内中心部近くにあるセントサ島にロープウェーで渡った。ロープウェー駅の近くに戦争博物館がある。
 1942年2月15日、日本軍司令官山下奉文大将は連合軍パーシバル将軍に「YES・OR・NO」と連合軍の無条件降伏を迫った。この場面とともに、敗戦時の板垣征四郎対象が行った日本軍降伏文書の調印の様子が蝋人形で表現されている。日本軍のマレー半島、コタバル上陸から各局面ごとに映画が上映されていた。とくに、「YES・OR・NO」のシーンと原爆の投下によって日本が敗北するシーンにひきつけられた。原爆はアジアの民衆にとって、戦争を終わらせる福音であったのだろうか。

>原爆はアジアの民衆にとって、戦争を終わらせる福音であったのだろうか。
その通りとしか言いようがない。もちろん、アメリカの原爆投下を正当化するつもりはない。トルーマンによれば、アジア民衆や米兵の犠牲を少なくするという考えよりは、なんとしても原爆を投下して全世界に影響力を見せ付けて、戦後の世界秩序を米国有利に牛耳るためと、原爆を都市への投下を実行することによって各方面の影響力をみる壮大な実験目的だったからだ。しかし、日本軍占領下の当時のアジア民衆は圧制と経済苦境に苦しんでいたおり、彼らにとって原爆投下が戦争の終結を遂げる祝福されるべき福音であったことは残念ながら疑う余地はあるまい。

p35〜36
 夕食前のひと時を街の本屋さんでつぶすことにした。書店に行く途中、2階建てバスの多さに驚いた。これもイギリス統治時代の影響であろうか。書店には日本の侵略を克明に記述したシンガポールの中学校の歴史教科書『現代シンガポールの社会経済史』が並んでいた。日本に関する事項が80ページにおよび、占領期の日本軍残虐行為も詳しい。日本の中高生がほとんど知らないことである。

今から25〜6年前の教科書問題が叫ばれていたころだが、いかに反発を招いたかどうかわかる。当時としてはより日本軍の残虐行為を知っている人がたくさんいたし、それだけ反発が大きかったのだろう。

●血債の塔p36〜37
 4月3日。朝9時、シンガポールの名物であるマリーナ湾に面するマーライオン近くにある血債の塔に行った。(略)
 血債の塔とは華僑粛正事件の慰霊碑である。シンガポール占領直後の1942年2月21日から25日にかけて、日本軍はシンガポール在住の12歳から60歳の華僑を集め粛清した。華僑義勇軍、共産党員、抗日団体員、重慶政府協力者が対象である。実際の検問はかなり杜撰なものであった。こうして日本側の発表では6000人、華僑側では4万人といわれる人々が「抗日分子」として虐殺された。日本軍は、後ろ手に縛った華人を艀に乗せてセントサ島の沖まで連れていき、機銃掃射を浴びせて虐殺した。艀は遺体とともに海に沈み、傷を受けたものも手を後ろに縛られているため海面下に没したという。さらに、海岸や山間の低地に連れていかれ銃殺されたもも多かった。
 血債の塔の台座には「日本占領時期死難人民記念碑1942―1945」と記されている。その実態は、敗戦後にシンガポールでイギリスを中心とした連合国によって開かれた戦犯裁判で明らかにされた。1961年からあいつぐ遺骨の発見によって中華総商会を中心に慰霊碑建立の気運が盛りあがり、1965年のシンガポール国独立の運動と連係しながら対日賠償要求運動に発展していった。その結果、1966年日本政府も重い腰を上げ、ようやく5000万円の無償援助を支払うことになったのである。碑が建てられたのが1967年であることから、慰霊と賠償を結びつけて「血債」の塔と呼ばれている。

日本軍は酷いことを行いました。

日本がアジアにしてきたこと
http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/trip/95singapore/BF_SINGA.html/BF_SINGA23.htmlより
抗日義勇軍の生き残り幹部の話
「戦争の記憶は消えない。なぜなら、山下のやったこと、虐殺を忘れるわけにはいかないからだ。市民をやったんだ。兵隊を、でないんだ。しかも中国人を、中国人だけをやったんだ。インド人やマレー人にはしなかった。中国人のなかでも、若い連中ばかりをだ。全部で5万人になるだろう。年とった世代は、このことを絶対忘れない。これを知らない若い世代が、ふえてはきたが、過去のことといってはおれない。」

(略)

「いま、日本とシンガポールの関係はいい。あの戦争はすでに歴史の出来事になった。とはいっても、虐殺を忘れるわけにはいかない、絶対に。」

華人・華僑(中国人)だけを徹底的にやったそうである。マレー半島でも華人系とその他では日本軍政の扱い方に大きな差があったそうである。その点でシンガポールやマレー半島で行われた華人・華僑大虐殺はナチス・ドイツのユダヤ人ホロコーストに類似するものだといえよう。

p38
 シンガポールの日本人墓地を訪ねると、南方軍総司令官寺内寿一元帥の墓のほか、敗戦後チャンギー刑務所で戦犯として処刑された135人の慰霊碑および戦後死亡した作業隊(*)の慰霊碑や陸海軍軍人軍属の碑がある。処刑されたなかには、日本軍人、軍属として徴兵、動員された朝鮮人、台湾人(アジア全域で49人処刑)が含まれている。
 マレー半島からシンガポール侵攻に活躍した近衛歩兵第五連隊慰霊碑の後ろに、1987年10月11日付で真新しい碑文が建てられている。かつての戦友たちによって、碑文にはつぎのように記されていた。
「大東亜戦争勃発により南部仏印タイを経て南下 山下兵団に属し銀輪部隊としてマレーシンガポール攻略戦に参加 昭和17年2月15日遂にシンガポール要塞島は陥落せり」
 戦時中の文章かとも錯覚させるようなーシア、シンガポール攻略戦賛美であるかのような碑文が、シンガポールにいま建てられていることに驚きを禁じえない。ここには侵略戦争への反省とマレー半島民衆にいかに迷惑をかけたかの反省はない。40年たっても日本人の歴史認識は変わらなかったのであろうか。

40年どころか、60年どころたっても歴史認識が変わらないどころか、今もって悪化しているという実感がある。右翼勢力の台頭がそれだ。たとえば、侵略戦争の反省やマレー半島民衆に迷惑をかけたことを省みず、歴史反動の碑を建てた元近衛歩兵第五連隊連中のような爺どもがいるから、今の絶望的な日本がある。中帰連の方々のような侵略戦争を反省し、自身がアジアの民衆に加害したことを自覚して反省するように考えることはできなかったのだろうか?非常に嘆かわしい次第だ。

(*)作業隊・・・・1945年8月の敗戦後、日本軍兵士の中には武装解除され作業隊としてマレー半島に残され強制労働を課されたものがいたらしい。現地で帰国を待つ中で、戦時下の体力消耗とその後の過労、高温多湿の環境に耐え切れず多くの人が病気で亡くなったのである。20歳代の下級兵士が多かったという。シベリア抑留の"南方版"というべきかな。もちろん、マレー半島の民衆の上に加害者として君臨して痛めつけたから、戦後逆の立場に立って重労働を課されて苦しめられて当然だとは言うつもりはない。兵士とはいえ、国家の命令で有無を言わされずに連れてこられた被害者であっただろう。しかし、先の元近衛歩兵第五連隊連中のように1987年という戦後40年たってから来て日帝を美化し、侵略戦争とマレー半島民衆への加害の反省の欠片もない碑文を建てたような爺連中は許すことはできない。彼らとてこれまでの教科書問題の流れ、シンガポールにおける血債の塔などや華人の被害者の声を見聞きすれば、仮に自分がアジア民衆を痛めつけたり殺害したりした経験(こと)がなくても、日本軍がアジア民衆を虐げていて、日本兵である自分も加害国家・軍隊の一員であったという自覚が当時なくても、否応なく分かるはずだ。

●マハティールとクアン・ユー p41〜42
 マレー半島での日本軍の残虐行為などの歴史の掘り起こしはこれ以降急速に進み、現在マレー半島では30以上の虐殺慰霊碑が建てられている。高嶋氏は1993年にはクアラルンプール近郊のスンガイルイ村で記念碑を墓園として保存整備する運動を起こしている。こららマレー半島の虐殺の責任は第五師団で、広島を中心とする部隊であった。原爆の被害者であった広島の民衆がアジアの民衆に対して加害者であったことは衝撃的である。シンガポールの戦争博物館で原爆をみずからの解放の要因であるかのようにとらえる屈折した真理が読み取れるようだ。被支配者が支配者に、被害者が加害者になることは征服戦争や民族的対立のなかではしばしば起きることであった。
 アジアでは日本の戦争責任の追及と戦後補償の要求の高まりのなかで、1991年4月海部首相はマレーシア、シンガポールなど東南アジアを歴訪し、「日本が過去において、とくにアジア地域において耐えがたい苦痛を与えたことに深い自覚と反省の念」を表明し、1994年8月には村山首相も同様の謝罪を行った。同時に、土井たか子衆議院議長は歴代首相が一度も訪れたことのない日本軍虐殺の跡、シンガポール血債の塔を訪れて反省をこめて献花した。
 マハティール首相は、村山首相との会談のなかで、「過去」を「謝りつづけるのは理解できない」として「未来志向」に切りかえることを提唱して、EUやNAFTA(北米自由貿易協定)に対抗する地域経済圏構想としてEAEC(東アジア経済会議)への日本の参加協力を要請した。・・・(略)・・・。過去の歴史より現在の経済が大切だというわけだ。
 これに対してシンガポールのリー・クアン・ユー(1990年11月に首相を辞任し上級相に就任)は、「形式的な謝罪が問題ではない。需要なのは前回の戦争に対する基本的な態度です。歴史家の発見した事実を公表することです。事実は逃げ出せません」として戦争中の日本人を「組織的な残虐性を信奉する異なる人々」と断罪した(『朝日新聞』1994年12月31日)。リー・クアン・ユーはこの違いを、当時、自分が若い中国人であり、マハティールが若いマレー人であって、戦争中の苦しみ方が違っていると指摘している。たしかに、日本軍はマレー半島で中国人とマレー人を差別して分断したのである。

>マレー半島で中国人とマレー人を差別して分断したのである
確かにその通りである。
http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/singapole01.html
日本占領時期に犠牲となった約5万人の、慰霊塔である。
この塔の存在を知る日本人は少ない。
私は世話になったタクシーの運転手に「華僑粛清」の話を切り出した。運転手は、「戦争だからしかたないよ。日本もイギリスもアメリカも同じだよ。一番ひどいのは、今のアメリカだよ。何の抵抗もしないイラクに攻め込んでね、テロが起こるのは当たり前だよ。いやいや、一番のテロリストがアメリカ自身だよね。 わたしの祖父はマレー人でね、華僑のような目には遭わなかったんだ。ただ、日本軍の空襲は受けたんだよ。
 戦争だから仕方ないけどね、日本が犯したひとつの大きな間違いは、やっぱり中国人の大量殺人だよ」

マレー人どころか、パリティンギー村の事例で紹介したように、義勇隊として日本軍に協力した挙句に何の罪の呵責を現在も感じていない洗脳親日派張日昇という男がいるように同じ華人(中国人)内でも特定の層を懐柔して利用していた事実がある。
ところで、この著者の記述に少しだけ付け足したいことがある。マハティール氏は良識派である。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper16.htmより
 ルック・イースト政策をとり日本に学ぼうといっているマレーシア のマハティ−ル首相も、教科書問題について「(日本が)多くの人を殺し、多くの残虐行為について責任があるということを、日本人は理解しなくなる」ときびしく批判しているのはそのあらわれだ(『朝 日新聞』一九八二年八月二七日)。


半月城通信No.31より
http://www.han.org/a/half-moon/hm031.html#No.229
・・・・マハティール首相が登場するので、これに関連して同首相の発言を紹介します。日本では、同首相が日本の戦争責任を免罪していると誤解している人が多いようですが、これはすこしニュアンスが違うようです。
  同首相の発言を報道記事から拾ってみます。かって、マハティール首相は村山元首相に下記のように語りました(読売新聞、95.5.9)。

 「50年前のことに(日本が)謝り続けることは理解できない。過去は教訓とすべきだが、将来に向かって歩むべきだ。50年前のことを言えば、100年前、200年前のことも問題になり、結局は植民地宗主国に対する補償問題になりかねない」(94年8月)

  このように、同首相は「過去は教訓として、将来に向かって歩むべきだ」というところに力点を置いて発言しました。ここから日本の政治家に対する注文を述べています。そのことを、河野洋平元官房長官は思いで話として次のように記しました。

 「戦争から半世紀近くたち、冷戦も終わり、日本のアジア外交はこれまで以上に重要な段階に入っていた。日本の国際的地位は非常に高くなったが、一方でドイツのシュミット前首相やマレーシアのマハティール首相からは、もっとアジアの国々から理解されるように努力すべきだとの指摘があった」(朝日新聞、97.3.31)

  マハティール首相のこうした発言をつなげると次のようになるのではないでしょうか。
「日本は過去の戦争について、単なる謝罪の繰り返しに終始せず、これを教訓にアジアの人々からもっと理解されるよう努力し、将来に向かって歩むべきである」


少し著者の記述は誤解されると思う。マハティール氏本人が日本軍から悪いことをされた経験について聞いたことはないが、日本軍がアジアに対してやった悪行を免罪しているのではない。もちろん「未来志向」を訴えたのは事実でしょうが、>村山首相との会談のなかで、「過去」を「謝りつづけるのは理解できない」 の部分は少々違うと思う。単に謝り続けるだけではなく、もっと過去を教訓としてアジアの人々に理解されるように将来へ向けて行動するようにという感じか。それでも中国や韓国、シンガポールのリー・クアン・ユー氏に比べたら、相当弱い気がする。マハティール氏は過去に人類史上例がないほど凄惨な残虐行為をマレー半島で行ったのにも関わらず、半ば過去を抜きにして日本を見習えてと『ルックス・イースト』政策を打ち出したのは私個人としては納得できないですが。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:57 | Comment(12) | TrackBack(5) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月11日

ソ連が満州に侵攻した夏 半藤一利著 文藝春秋

『ソ連が満州を侵攻した夏』 半藤一利著を読み終わりました。
 なかなかの大作でした。大日本帝国の侵略そのものを問題にするというよりは、関東軍に着目の悲劇を生んだ無知蒙昧、無策、優柔不断といったとてつもない欠如を取り上げた本でした。満州国という巨大な植民地をもったがゆえに、不分相応な巨大な軍隊を編制しなければならず、それが政治というものを変節させて、幾多の悲劇を生む元となったのでした。また、この本では、"満州国"という今は亡き傀儡国家を中心に、満州事変以後の日本軍部の動き、ソ連との関わり、戦争中あるいは戦争末期での降伏問題、ソ連の対日参戦をめぐっての米英ソの各連合国の複雑怪奇ともいえる国際政治の駆け引きを知る上ですばらしいテキストだと思う。大日本帝国の加害という点ではないけど、国際感覚の欠如、無責任主義そして楽観主義など、体たらくには呆れるべきでした。
 スターリンが対日参戦(満州侵攻)を急いだのは、原爆投下で日本が早めに降伏することに焦ったからだ。米ソ冷戦の取引における「満州」の重要さ。ヤルタ、ポツダムの連合国首脳会談、ソ連を仲介とする和平工作、ドイツの敗北、ソ連軍の極東への大移動…その「夏」に向かって、怒濤のように展開した一九四五年の国際情勢が活写されている。日本がソ連が参戦する前に降伏すれば、アジア戦線での分け前を失ってしまう。日本が対米戦で戦力を喪失し、抵抗不能の熟した柿のような段階になってから、参戦する。トドメを刺す名優の役割を演じ、労せず、2分なり3分なりの分け前を取ることという計画が破産になってしまうからだ。それよりも許せないのが、これらの悲劇を生む原因となった大日本帝国首脳部の無能さ、荒廃ぶりだったのである。大日本帝国なり、日本軍部、陸軍そして関東軍というものが国民を守らなかったというのはこの本を読んでさらに痛感した。
 まず、帝国日本のソ連に対する姿勢は、「信用していないけれども、信用している」
とでも形容したくなる異常なものだった。朝鮮半島、中国、アジア・太平洋地域の人々を蔑視し、上から大和民族が頂点という形で見下していた。太平洋戦争がはじまれば鬼畜米英となった。ところが、ソ連・ロシアに関しては奇妙なほど心を傾斜させ、親近感させ抱いていた。その原因にはノモンハン事件があった。当時満州では国境をへだて日ソ両軍が相対することで、国境線が不明確のため、あるいは武力偵察のために越境事件が数々おきたという。そのうち最大のものがノモンハン事件であり、日本軍はほぼ一個師団消失という手痛い打撃を受けたという。ノモンハン事件ではソ連軍の砲兵、戦車、飛行機などの兵器の近代さと優秀さ。しかもそれら火力の緊密な協同攻撃のすさまじさに日本軍は圧倒された。あらゆる点で帝政ロシア軍とは違い、近代化し強力な軍となっていた。そうしたことと日中戦争という泥沼の戦いに足をとられていた日本陸軍は恐怖を抱いた。そのような強敵であればあるほど、正面衝突は避けたいという戦略意識が働いた。陸軍のみならず海軍、政治家そして知識層にまでノモンハン事件以後、奇妙なほどソ連への心の傾斜をみせてきたことをこの本では「ノモンハン症候群」と名づけていた。日ソ中立条約は不可侵条約ではない。ただし、「両国の領土の保全および不可侵を尊重する」の条文がある。また「締結国の一方が、1また2以上の第三国より軍事行動の対象になる場合、他方の締結国はその紛争の全期間中、中立を守る」という条文もあり、これの意味するところは独ソ戦が起これば日本は中立を守り、一方日米戦開戦となってもソ連は中立を守るということを意味する。事実上、日米衝突、独ソ衝突の状況下においては不可侵条約と同義なものだと考えてもいい。日ソ中立条約を結んだ背景には、ドイツとソ連も独ソ不可侵条約を結んでおり、ドイツ・イタリアとの三国同盟を結合させることで日独伊ソの四国協商ができる。海軍は当初反対していたが、ドイツの外相が日本を訪問し、ノモンハン事件で悪化した日ソ関係を戻すためドイツが仲介すると約束した。こうして日独伊三国同盟が成立する運びとなった。米英と対決する日本の立場を飛躍的高めると考えた。また、南進論という石油確保のために東南アジアを侵略・占領して、アジアの盟主になろうという八紘一宇論的指向が強く、ソ連と提携することで米英と安心して正面衝突できると考えたのだ。しかし、ドイツはソ連に侵攻し、三国同盟締結時の目標である日独伊ソの4カ国が提携して米英にあたるという夢は果かなく消えた。ヒトラーは西部戦線への電撃作戦後のアメリカの対独政策の急激な硬化に驚き、ソ連と提携することを考え、独ソ不可侵条約を結んだが、その構想が効果をあげないのをみるとあっさりと独ソ戦への道へ戻ったのであった。ドイツがソ連に侵攻することで、約束を破ったドイツと手を切り三国同盟から脱退、中立化して世界戦争から脱出できるチャンスが日本に訪れることになる。しかし、そうは考えなかった。ドイツの勝利を信じ、その後に来る新しい世界地図を妄想したからであった。日本は帝国主義国家であり野望を捨てきれなかったのだ。中立条約を結んだ直後であることを忘れて、陸軍も外務省も対ソ戦の発動に大きく動いた。その辺の変わり身の早さには呆れるものがあった。先制攻撃を考えるなど、条約としての絶対的価値を認めていない。右翼勢力は中立条約を破って、ソ連が侵攻したと非難するが、日本だってドイツが侵攻した直後、「バスに乗り遅れるな」と言ってソ連を叩くことを考えていたのだった。人の事をいえるものではない。ただし、実現はしなかった。ノモンハン事件の記憶が残っており、ソ連に対して及び腰であった。「極東ソ連軍の戦力半減」というのが対ソ連攻撃の条件であった。もちろん、ソ連は極東方面から兵力を抽出したものの、日本側の策略を見抜きただちに新兵力でソ満国境をかためた為、対ソ攻撃の条件が実現せず、日中戦争を続けていることと、7月下旬の南仏印(ベトナム)進駐にたいするアメリカの対日石油禁輸というのが重なり陸軍は対ソ攻撃を取りやめざる負えなかった。このことをソ連のスパイのリヒアルト・ゾルゲは見抜き、スターリンに対し「どうやら日本はドイツの勝利をあてにしている。その目途がついたらソ連を攻撃するつもりらしい。しかし、他力本願ということは、本気でソ連と戦う意思のないことを告白しているにすぎぬ」という情報を送った。ただし、ソ連に対してはあれだけ及び腰だったのに対し、ほとんど躊躇することなく12月8日真珠湾を奇襲攻撃、そしてマレー半島のコタバルに上陸し、対米英戦争に踏み切ったのであった。
その後、中央が関東軍に「対ソ静謐保持を厳命した。また、対外的にはニ正面作戦をするわけにはいかないので、「対ソ戦不参加」を改めて国家方針として決定するとともに、「ソ連と米英との間にくさびを打ちこむ」ことを外交方針として決めた。もちろん、ソ連侵攻に備えて国境を防備し、場合によっては反撃とれるような体制だけは整えていくことにした。しかし、ミッドウェイ開戦を境に次第に日本軍が非勢になってくる。そして、ソロモン諸島のガダルカナル島で昭和18年(1943)2月に撤退に追い込まれる。それ以後、日本軍は敗退を続けた。戦況が悪化しはじめた際、陸軍中央は関東軍作戦課長以下の全作戦の参謀を入れ替えた。理由は、南方戦局の切迫に伴い関東軍から兵力を抽出するためだ。戦局の悪化を喰いとめるために大量の兵力の補充が必要だったが、国内にはほとんど余裕がなかった。そこでほぼ無傷で、対ソ防衛に備えて精錬された満州から兵員や物資を戦局の悪化のため、転用しようと考えたわけである。「満州国」防衛のために貼り付けられた関東軍部隊は南方の苦戦の前に、順次引き抜かれていった。12個師団(25万人)が満州からひきぬかれて、フィリピン、台湾、沖縄、中部太平洋の島々へと運ばれた。そして、引き抜かれた兵力の穴埋めのために「満州」居留民の中から、在郷軍人や徴兵適齢者は根こそぎ徴兵された。屈強の青年層はもちろん、一家の大黒柱といえる父親までが。このことがのちに満州の国境付近の開拓団や居留民に悲劇をもたらすことになる。関東軍は兵力の空洞化という厳しい状況に直面して満州国におけるあらゆる作戦計画をこういった状況の中、あらゆる計画推進を中止した。しかし、民間人(とくに開拓農民)を国境線から引き下げるように、との命令はださなかった。そればかりか、満州の居留民に知らされることなく行われた。理由は国境付近はもちろんのこと、その他の地域の居留民に知らせることで、軍隊の保護がなくなるならばと大量の日本人が後方へ動き出すことが予想され、すべての秘匿行動が水泡に帰すからだという。もちろん、分からないではないが関東軍に満腔の信頼を傾け、まだ満州は安全な楽土であると信じきっていた開拓団の人たちを含め、一般の邦人たちは哀れである。満州移民を推進したのは関東軍そのものであった。しかも治安の悪いソ満国境付近まで入り込み、満州の先住民(中国人や韓国人)が拓いた土地に入植し、現地住民を追い払ったり圧迫したりして、恨まれてまでして開拓団がどんどん入植していったのは関東軍を信頼していればこそであった。それが夢まぼろしのようにはかなくなっている現実を、かれらはついに知らされることはなかったのだ。
 19年7月中旬ころの、参謀本部作戦部長の真田穰一郎少将の日記に,「満州大部ヲ放棄シ、初動ヨリ主力ハ南満ノ要線ニ於テ防衛スルハ己ムナシ。『ソ』ノ積極的企図ヲ諜知セバ、中・北満兵力ノ主力ヲ南満ニ後退セシメ、主要軍需品ノ残部ヲ後退ス」という記述がある。参謀本部ははやばやと満州の土地の大部分を放棄していることが読みとれる。さらにいえば、兵力の転用を決めた際、陸軍中央は関東軍を見捨てたのであった。関東軍が在留邦人を見捨てて、守らなかったと非難されているが、関東軍そのものも南洋作戦と本土決戦のために陸軍中央に見捨てられた存在だったのだ。ただし、関東軍の腐敗ぶりを非難せずにはいられない。関東軍からぞくぞくと精鋭兵団が引き抜かれ、満州には、いまや広大な原野と長い国境線を守りぬけるだけの戦力がなくなっていた。にも関わらず、日ソ中立条約によりかかり、いぜんとして「王道楽土」の逸楽をむさぼっていた。中国大陸からのB29空襲が前後3回あったからと、重要機関や軍需工場をソ連に近い北方へ移そうとしていた。さらには軍の幹部や、満鉄や満州国の要人たちは、家族を絨毯爆撃の下の日本本土においておくのは危険だからと、わざわざ満州へ呼びよせたりもしていたのである。関東軍に1945年5月13日に対ソ作戦準備を命じられた。もちろん、陸軍中央は大いにソ連に対して及び腰であったが、満州防衛と居留邦人の命と安全を守るはずの関東軍は2ヶ月近くも立ってようやく関東軍は作戦計画を策定したのであった。このことは太平洋の島々、沖縄、フィリピンで玉砕戦闘が続けられているときに、満州は別天地であり、戦争とは無縁だと高を括っていたのであった。また、その作戦計画はずさんなものでソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦にもちこむ、という戦術だった。それゆえに関東軍総司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。そして主力は戦いつつ後退し、全満の4分の3を放棄し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する、というものであった。しかし、はじめから満州の土地の大部分を放棄することが前提となっており、満州各地に散在する満州開拓団の人たちのことなど視野に入っていないし、さらに最後に集結して徹底抗戦の中心となるべき陣地など、その日までまったく造くろうとなどしていなかったのである。にも関わらず、8月2日、関東軍報道部長は新京放送局のマイクを通して豪語している。「関東軍は磐石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生業に励むがよろしい・・・」 と。国境開拓団を含む邦人を騙したのである。
もちろん、関東軍だけをこのことで責めるわけにもいかず、政府はずっとソ連に対して和平を依頼し続けていた。
小磯国昭内閣のときより和平斡旋について続けられ、1945年ソ連に提供する代償を想定している。工藤美知尋著『日ソ中立条約の研究』によれば、もうすでにこのとき、「日本は・・・ソビエト連邦の仲介で全般的和平が実現するなら、ソビエト連邦の要求をすべて受け入れる」と、最高戦争指導会議がきめていたという。戦時下の日本人は政府も軍部であっても「鬼畜米英」と叫びつつ、永遠の宿敵と目していたソ連にべったりと傾斜していくのである。天皇の側近内大臣木戸幸一が知人に語った言葉があった。「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義者ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」 さらに木戸は条件が不真面目なものでなければ、ソ連が共産主義者の入閣を要求してきた場合、認めるともいっていた。また、終戦の年4月に鈴木内閣が成立するが、そのとき参謀本部は「今後採ルベキ対ソ施策ニ関スル意見」を起案した。それはそれは「ソ連に対し大譲歩をして、対ソ戦を回避し、さらにソ連をわが方に誘引せんとする」目的をもつものであった。5月8日にはドイツが無条件降伏、そして、日本軍の沖縄防衛戦も敗北が決定的となった。もはや手遅れであろうと、可能性皆無であろうと、ソ連の対日参戦防止にはあらゆる方途を講ずる必要ありと、陸軍中央は躍起になる。これに海軍中央も同調したのであった。さらに海軍は独断でソ連の参戦防止ばかりか軍需物資、とくに石油を買い入れようとすら考えていた。ソ連大使館に軍務局第二課長を派遣し、残っている軍艦の全部ソ連の飛行機を、燃料つきで交換しようと申しこんでいた。しかし、ソ連大使館に何度足を運ぼうが、ウォトカを振舞われるだけであった。当時の日本の指導者たちはやけくそになっていたのだろう。その対ソ哀願的国策に対し、東郷茂徳外相は1人反対した。東郷外相はノモンハン事件当時のソ連大使であり、ソ連のことをよく知っていた。東郷外相は反対したものの、押し切られ、「連合国との一般的な講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼む」という国策方針を決定されてしまった。ソ連への和平仲介を依頼するのにあたり、ソ連は大きい代償を要求してくるのに違いないという結論に至った。そこで、和平仲介へのソ連への代償として、。(1)南樺太の返還(2)北洋漁業権の解消(3)津軽海峡の開放(4)北満における諸鉄道の譲渡(5)内蒙におけるソ連の勢力範囲の認定(6)旅順、大連の租借を覚悟する必要あるべく、場合によっては千島北半を譲渡するのもやむを得ざるべし。また南満州は中立地帯とする・・ということが決定された。しかし、ソ連との交渉は何の進展も見せなかった。1945年7月26日のポツダム会談でポツダム宣言という日本政府に降伏を呼びかける勧告を出したが、日本政府は黙殺した。なぜなら、宣言にスターリンの名がないので、ソ連仲介による和平に最後の望みを抱いたのであった。あえてソ連が中立を守り、会談の席で署名しなかったのは子守唄であやされているからだということは知らなかった。宣言にスターリンの名がないことに注目し、ソ連仲介による和平に最後の、そのまた最後の望みを抱く。追い詰められて、国体護持の一点を守るべく交渉に夢をつなぎ、国際情勢の動きに注意を払う暇もなかったのだ。そういう努力も空しく、ソ連は8月9日午前0時に満州への侵攻を開始する。しかし、これまでの流れの中で気付くことがある。満州というのは日露戦争で「10万の戦死者、20億円の国費」をかけて、手に入れた日本帝国の植民地であった。満鉄副総裁の松岡洋右が「満蒙は日本の生命線である」といい、親米派の吉田茂までが、同じ頃『対満政策私見』にて「日露戦争において20億円の国費を費やし、10万同胞の血をもってロシアの勢力を払いのけた"満州"は、まさしく日本の生命線、これを他に譲るわけにはいかぬ」と書いた。米国は「ハル・ノート」が突きつけたのは実質的に満州を含む日本の海外植民地の放棄であった。満州などを失うこと(日露戦争以前の状態に戻る)は我慢にならないからであった。しかし、このどうしようもない窮地に及んで宿敵ソ連の対日参戦防止のために満州を含むすべてを見捨てたのであった。和平の終局の条件は国体の護持だけであった。対米英戦争前の日本の指導者が当時の日本の国力を把握し、米国の潜在的能力を知っていたら米国に戦争を挑むのがどれだけ無謀か分かるはずだった。日本帝国の指導者はとことん無能だった。ハルノートを飲んで対米英戦争を回避していれば、300万人の日本国民や2000万人といわれるアジア民衆の犠牲を避けることができただろう。幾多の悲劇を繰り返さなくてもすんだ。ソ連への和平交渉への代償で決めた条件はハル・ノートを呑んだ時以上のものを放棄している。大戦下で日本国民、満州の開拓民の悲劇はそういった日本帝国指導者の見識のなさと、アジア・太平洋地域支配願望の強欲さの上に招いた悲劇だったといえる。過ちはこれだけではなく、1944年の7月のサイパンの陥落をもって、絶対国防圏がなくなり、勝ち目がないというのは軍部も身をもって確認していた。ソ連に無意味に願望を抱かず、ソ連に和平依頼の時呑む覚悟を決めていた条件でもって条件付き降伏をはっきりと意思表明していれば、その後の本土空襲、沖縄決戦、2つの原爆投下、各地の玉砕戦、そして満州の悲劇はなくてすんだのである。また日中戦争による中国民衆の犠牲も、アジア・太平洋地域の民衆の犠牲も、日本兵・日本国民自身の犠牲もより少なくて済んだはずである。避けられるはずだった幾多の犠牲、悲劇、悲しみ、憎悪を考えると私としては怒りを感じずにはいられない。

ところで話を満州に戻したい。関東軍も満州国もソ連への和平交渉の代償のため捨てられたということをこれまでに書いた。関東軍が捨てられたというが関東軍司令部が犯した数々の罪行を糾弾しないわけにもいかないのである。関東軍が満州防衛を担い、そして、満州にいる邦人の命を預かる軍隊として、ソ連に対して中央と同様に甘い考えを抱き、ソ連は当分参戦してこないと現実逃避していており許せないと思った。もっと糾弾されてしかるべきは関東軍がソ連侵攻の直後何をしたかという点にある。それは守るべきはずの開拓民や居留民を置き去りにして逃げたということにある。その狂態の一部を本書から抜き出したい。p205〜206より

 この新京の居留民の避難輸送にかんして、消し去ることのできない歴史的汚点を残したことは知られている。その経緯をていねいに書くには厖大な紙数を要するから、要点だけにとどめるが、軍官の要人会議できめられたはじめの輸送順序は、たしかに民・官・軍の家族の順であったようである。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められている。
 実は、そこに問題が残った。会議決定は正午少し前であり、そのことが新京にいる邦人の一軒一軒に知らされるためには多くの時間がかかる。それとこのときになっても新京を離れたがらぬ人も多かったであろうし、また避難準備が手早くゆかない人もあったであろう。そこで、軍人の家族は緊急行動になれているし、緊急集合が容易であるから、これをさきに動かして誘い水にしようとした。軍の責任者はのちになってそう弁解する。
 ところが、事実は第一列車が小雨降るなかを出発したのは遅れに遅れて11日の午後1時40分なのである。避難民集合の不手際のためではなくて、列車編制と輸送ダイヤを組むのに時間がかかったからである。目的地は平壌。となれば近道は新京から四平街―奉天―木渓湖―安東―平壌であるが、このコースは満州南部の複廓陣地築城のための軍需物資集結に使っていた。そこでやむなく新京―吉林―梅河口―通化―平壌へのコースをとることになった。ダイヤの組み直しで時間がかかったのもやむをえない。そうであるから、時間はたっぷりとあった。一般市民に決定をくまなくゆきわたらせることもできたのではないか。
 さらにいえば、軍人家族には、午後5時に忠霊塔広場に集合、の非常命令が早く伝えられている。これは当初予定の第一列車出発のわずか一時間前。輸送順序で軍人家族が最後であるというなら、動かない市民を動かすための誘い水としても、あまりにも早すぎる呼集ではあるまいか。
 そして会議できまった避難順序がいつの間にか逆になるにつれて、こんどは軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立った。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追いはらわれるようになった。
 こうして11日の正午ごろまでに18列車が新京駅を離れた。避難できたものは新京在住約14万人のうちの約3万8000人。内訳は軍関係家族2万310余人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6700人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民である。
 11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入りホームにあるふぇ、怒号、叫び声そして泣き声が入りまじって異様な熱気にあたり一帯が包まれた。かれらは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の優先に対する不満と怨みの声をあげたのである。
こうした軍部とその家族、満鉄社員とその家族が、特権を利し列車を私した、という非難と責任追及の声は現在でも大きく叫ばれている。たいていは少しは理のある弁解や言い訳もないではないが、およそ耳をかす人はなく、通用しないといっていい。悲劇の体験記のほとんどすべてにおいて、その事実が告発されている。「牡丹江市では、軍の家族の引揚げにしげきされて、こんどは満鉄がお手のものの列車を仕立てて家族の引揚げをはじめた」とあり、「私たちが午後4時東寧駅に着いたとき、避難列車はとっくにでてしまったと聞かされた。・・・奇妙なことに私たちが『もう列車はでない』といわれて東寧駅を離れたあと、午後7時30分、第二次の避難列車が東寧駅を出発した。これには東寧の野戦鉄道司令官をはじめ軍人とその家族など約1000名が載った。・・・・午後11時30分、さらには第三次の避難列車が発車した。この列車には東寧県庁や県職員約50人をはじめ、軍人、その家族、満鉄社員の残り全員・・・」とあるなど、列挙に遑がない。書いているとその卑劣さには反吐がでそうとなる。

もちろん、新京から避難民を逃がそうと計画されたのは、関東軍総司令部が中央の命令どおりに南部の通化に移動するためと、数日後に大空襲や新京防衛線が予想されるので、居留民婦女子を急いで避難させて、満州国皇帝と満州国政府を通化に移すためという。ようは退却行動であるが、決められたはずの退却順序が守られず、関東軍は自分たちの家族だけを特権を利用して避難させた。ものすごく卑劣な行為である。卑劣さはこれだけでは留まらなかった。p212〜213より引用
 ソ連侵攻の予期せぬ大混乱のさなか、関東軍総司令部だけではない、軍の指導者・参謀たちの情けない卑劣そのものの行動を語るエピソードがほかにもある。
 満州国中が大混乱にあったとき、「関東軍の上級将校が家庭ともども列車を仕立てて、大連へ向かうという情報を予備士官学校の候補生がんできました。軍人たる者が何事かッ、学徒出身の私どもは怒りました。守備隊の武器庫から重機関銃を持ち出しまして通過駅の大石橋のプラットフォームの両端に一基ずつ据えました。果たして情報通りでした」とは、柏原健三氏(大阪教育大学教授)の語る終戦秘話である。読売新聞大阪社会部編『戦争8』「ああシベリア」に載っている。
 結果はどうなったか。下級将校たちの厳しい検問に、列車から金ピカの参謀肩章を吊った佐官クラスの士官たちが降りてきた。「惨めな居留民や開拓民を見捨てて逃げるとは何事か」と詰め寄る学徒出身将校たちを前に、参謀たちは平然として言いはなった。
「本官らは身を賭して本土防衛の任に赴くものである。それを何だ、貴様らの行為は抗命罪だぞ」
 この一言に、残念ながら、下級将校たちの一斉射撃の決断は突如として萎えてしまったという。もちろん、本土防衛に赴くなどはペテンもいいところである。列車内には参謀たちの妻子がいた。それで決戦場への急行もないものである。しかし、まだ命令系統と階級秩序は生きている。敗軍であればあるほど、軍紀は守らなければならないのである。「それにしても、なにゆえに女子供連れでありますか」ぐらいの、皮肉の一言も浴びせることも忘れて、空しく列車の立ち去るのを見送ってしまったことに、柏原氏はいまも地団太を踏んでいるという。 
 参謀たちの正体ならびにその後は不明である。ちなみに柏原氏たちはシベリアへその後送られている。氏が帰国したのは昭和24年のことである。

人間としての最低のあるまじき行為であろうと思う。そればかりではない。100万人ともいわれる一般の在留邦人については何ら確たる避難措置をとらずに見捨てたが、関東軍傘下の作戦に関係のない部隊については8月9日のソ連侵攻の当日という早業で後方に移している。その部隊は関東軍軍楽隊、関東軍化学部、防疫給水隊、毒ガス研究部隊、軍馬防疫廠などであり、特に防疫給水隊すなわち生物兵器作戦用の731部隊にいたっては、職員の婦女子・子供などの家族に至るまで一刻も早く日本本土へ避難させる措置を取った。その中でも細菌学の学士をもったたった53名の医官たちのためだけに軍用機を用意し直路、日本へ帰還させている。ほかの職員もその家族に至るまで避難において直通特急まで手配されている。この待遇の差は何なんだと思う。ほんとにどこまでも腐った連中である。腹立たしい。いち早く満州の大部分を見捨てて後退作戦を取った関東軍は橋や道路を破壊し、後から逃げてくる老人や婦女子たちの進路と速度を妨害した。その老人や婦女子たちはソ連軍に追いつかれたり、怒りに駆られた満州の原住民たちに囲まれてどんな目にあったかは言うまでもない。ちなみに著書によれば、ドイツでの"満州"の事例も紹介されている。p214〜215より
 ヒトラー自決後、敗亡のドイツの総指揮をまかされた海軍元帥デーニッツの回想録『10年と20日間』を想起せざるをえない。すでにドイツの敗北を予見していたかれは、海軍総司令官の権限で、降伏の4ヶ月前から水上艦艇の全部を、東部ドイツからの難民や将兵を西部に移送するため投入していた。ソ連軍の蹂躙から守るためである。こうして東部から西部へ運んだドイツ人同胞は200万人を超えている。
 敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また被占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行である。ヨーロッパの戦史をみると、いかにそのことが必至に守られていたかがわかる。日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識すら無知であった。
 だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体維持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、非難してくる非戦闘員の処置をどうするか。この切実な質問にたいし陸軍中央の参謀はいったという。
「やむをえん、轢き殺して前進せよ」
そうした帝国陸軍の本質が、満州の曠野において、生き残った引揚者に「国家も関東軍もわれわれ一般民を見棄てた。私たちは流民なのだった。棄民なのであった。ソ連軍の飽くなき掠奪と凌辱、現地民の襲来、内戦の弾下の希望亡き日々」(村岡俊子氏)とつらい叫びをあげさせるもといをつくったのである。そして、こうした国家と軍の無知蒙昧そして無策が、スターリン元帥の思う壺だったのである。

大日本帝国は国家としての最低限の義務すら果たさなかった。ドイツの場合は海軍元帥デーニッツが敗北を予想して、東方からドイツ同胞を救出しようとした。もちろん、中央に反対し、満州居留邦人の命を救おうと努力した将兵・幹部もいないわけではなかったが、全体としてこの本に登場する将兵・幹部指導者連中の身勝手さには怒り心頭です。ところで著者は大日本帝国の軍隊を国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であり、国体維持軍であると言っている。ある一面では正解だ。戦争終結までに時間がかかったのも、満州に居留する邦人をあっさりと見捨てたのも大日本帝国指導部の中には「天皇制を守る」しか頭になかった。しかし、何のためにその天皇制を守ろうとしたのか、国体護持にこだわろうとしたのか?それは軍部や政治指導者、財閥、軍需複合体などの既得権益・利権体制温存にあったのである。それは旨い汁を失いたくなかったからだ。半藤一利氏は当時の日本の軍隊を、"天皇の軍隊"と評している。しかし、もっと突き詰めていけばもはや"天皇の軍隊"ですらなく、自らの野望のために多くの国民を犠牲にし、多くの中国人・韓国人、アジア・太平洋諸国の民衆の血を啜る軍事指導者・財閥・官僚役人などの利権吸血マフィアどもの手先となる傭兵組織でしかなかったと私は思う。その人間性の欠如、脳内の荒廃ぶりは現在の日本の官僚や政治制度にも受け継がれている。私たち日本国民はいかなる政府に生命や自分たちの暮らしを預けているのか問わねばなるまい。ソ連の侵攻後5日もたった8月14日にようやくポツダム宣言を受諾を決定し、その翌日の15日昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが正式に日本国民に知らされた。しかし、8月15日で第二次世界大戦が終結したわけではなかった。大日本帝国の指導者の間抜け・無知ぶりがここでも発揮された。国際法上でいえば、連合国にとって降伏意思の表明にすぎないし、法的拘束力はなかった。国際法上の正式の「降伏」を完了させるにはすべての降伏条件をみたす降伏文書に正式に調印しなくてはならなかったのだ。そういう国際法の知識すら軍事・政治の指導者たちは知らなかったのだ。正式の降伏はミズーリでの降伏文書調印の9月2日にまで待たなければいけなかったのである。停戦しようにもできない日本軍の各部隊との衝突は続き、満州ではいたずらに死傷者が増えていった。国際法無視のほかにも問題点があり、天皇の聖断を前にしても陸海軍軍人は血気盛んであり、降伏命令を誰が書くかをめぐって争いが繰り広げられていたようである。戦争終結の「聖断」は政治上の決定であって、統帥命令ではなかった。正式の停戦命令がこない間は、和戦の選択は現地軍の権限にでてくる。大本営が陸海軍全部隊に対し停戦命令を発したのがやっと16日の午後4時になってのことだった。14日の降伏決定から2日間の空白ができて、このことが各方面の前線部隊に無駄な犠牲をさらに強いることになった。しかもその停戦命令の中には「止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ゲズ」という文言が含まれており、自衛戦闘を許すあたりにも不徹底甚だしいものがある。満州では他の地域よりもさらに停戦が遅れた。アメリカが連合国の代表であり、連合国最高司令官はマッカーサーであると信じこんでしまったのである。実はそうではなく、ソ連はそれを認めてはいなかった。それゆえに、マッカーサーに停戦の正式通告をなそうとそれに関係なく、満州ではソ連軍の進軍が続いていた。米ソは日本の無知と無力の舞台裏で、日本占領後の占領地域の区分をめぐり熾烈な冷戦を続けていた。8月14日の天皇降伏声明は、無条件降伏の一般的声明にすぎず、日本軍に対し戦闘中止命令はでておらず、まだ抵抗を続けている。戦闘行為を中止し武器を捨てることを命令し、かつこの命令が実行されたときに初めて日本軍は降伏したものと認めることができる。したがって、日本軍の実質的降伏は存在しないので、ソ連軍は進撃をやめなかった。ソ連軍はたたみかけ、既に組織の体をなしていない関東軍を粉砕した。一方開拓団にとってはまさに悲劇そのものであり、屈強の青年や一家の主である父親がいない満州に散った子供、婦女子らを対象にした絶え間のない強姦と暴行、掠奪が続いた。ソ連軍は数々の軍人・将校らを捕らえていった。ポツダム宣言受諾後の満州においても戦闘は終結せず、悲劇はミズーリでの降伏文書調印の9月2日の翌日3日まで続いたのであった。ソ連や日本の文献も検索され、精度の高い著作だと思われる。
 しかし、満州中心なのはいいが、居留邦人以外の満州にいた中国人や朝鮮人の苦痛や彼らが何を体験し、何を思ったか、その引用や文献がほとんど紹介されていないのが残念だ。ただ、満州へ日本人が移民する際、もともと住んでいた朝鮮人や中国人から土地を取り上げたということについてのみ若干書かれていた。明治末から対満移民政策がとられ、、多くの日本人が海を越えて渡満した。農家の次男、三男の土地なき農民たちから挫折した人々(失恋から左翼運動まで)がこれにつづいたこと。満州の広大な土地は地の果てまでも開拓可能の一大沃野ではなく、3分の1が森林や沼沢や山岳であった。必然的に、すでに中国人や朝鮮人たちが開拓し、住み着いていた農地を日本人が強権的に奪うことが多くなったこと。昭和11年(1936)に、広田弘毅内閣が国策として決定した20ヶ年100万戸移民計画によって、この傾向はいっそう強くなったこと。既耕地をふくむ農地の強制買収によって、次々と開拓村が新設され和20年の敗戦までの移民数は30万人を超えたが、現地の中国人そして朝鮮人に与えた苦痛はなみなみならぬものがあったこと。対ソ戦に備えて、国境地帯8000キロに関東軍の予備軍として青少年義勇軍を配備させており、終戦の年8月までにその総数が8万6500人が超え、先住民をおしのけて、大地に住みついた。そこから日本および日本人に対するどす黒い怨嗟や憎悪が生まれたということも。当然8月15日も暮れてその夜、新京では満州国禁衛隊が叛乱を起こしたこと。これをきっかけ満州国軍の脱走、叛乱がつづき、日本軍との間に交戦が早くもはじまった。さらに満人の暴動も計画されて、漢字新聞は翌日の朝刊の一面に「東洋鬼を皆殺しにしろ!」の大見出しが載ったこと。「王道楽土」も「五族協和」も、日本人中心の虚偽にみちた作文でしかなかったことが当然明らかになったと。ただし、淡々としており、それ以上には詳しく著者は書かなかったようだ。開拓団の悲劇には目を覆うものがあった。もちろん、満州にいた当時の日本人は都市部の住民はもちろん、辺境の居留民や開拓団ですら「優越民族」として君臨し、現地人の土地を奪い、圧迫し苦しめた加害者であるという一面をもっていることは認めなくてはならない。それは"泣く子も黙る"関東軍の威力を背景にしてのことであった。関東軍はしかし、ある時満州の一般邦人たちを見捨ててしまう。時に辺境の居留民や開拓団の人々は急転直下して、今日まで続く被害者として追いやられてしまったのである。そんな彼らをソ連軍が急追してくる、さらには現地人が報復の意味を含めて匪賊のごとく襲撃してくる。根こそぎ動員によって、屈強のものがいないことを知れば、親しんできた満州の友人や使用人たちも加わって暴動化して、現地人がかたまって日本人の難民たちに一度に襲いかかったのであった。子供や婦女子ばかりであった。どんな凄惨な地獄絵図が繰り広げられたのであろうか?想えば胸が痛くなるばかりである。考えてみれば、開拓民や居留民の多くも最初から被害者だったのかもしれない。「王道楽土」「五族協和」などの国策プロパガンダを信じ、豊かな楽園の生活を夢見て貧困の中骨を埋める覚悟で海を渡り、移住してきた人たちが大半であろう。多くは加害者として満州の地に君臨するために来たのではない。その証拠に私も旧満州の在留日本人が書いたいくつかの出版されている手記を手にとって読んでいたが、異民族にまじりともに汗水たらして働いたり、土地や家屋を奪われたりして苦境に喘ぐ満州の人間を使用人に雇ったり家族に迎えるなりして救った日本人も多くいたことは確かである。逆に現地の人々のすべてが敗戦時に、開拓民や居留民に敵対行動をとったわけではなく、使用人として雇われ、「主人」である日本人と最後まで運命をともにした人もいたし、危険を冒して匿ってくれたりした現地人もいた。日本人の子供を保護してわが子のように育ててくれた人もいた。こういう草の根の助け合い/友情の部分にも視点を当てることで新たな日中友好の架け橋にもなるのではないだろうか。こういう可能性も満州にはたくさん残されていると感じた。まだまだ「満州」の問題は未解決である。天皇、軍人、政治家、外交官、ジャーナリズムの戦争責任の問題はまだまだ追及していかなければならない。また、今後誰かがまた次の“ソ連が満州に侵攻した夏”を書いてくれることを期待したい。今度は居留民の悲劇を強調するのではなく、満州にいてその影で痛めつけられた中国人の視点で、日本人ではなく中国人の手で書かれることを期待したい。在中朝鮮人の視点でもいい。次なる大作がでてくることを個人的には望みたい。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:47 | Comment(4) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 従軍慰安婦、日本軍以外の捕虜など対する記述、現地住民などへの加害part2

part1の続き

★従軍慰安婦についての記述について抜き出してみる。従軍慰安婦についてははっきり触れられている2ヶ所。彼女らは日本軍によって半ば強制的に連れてこられ、酷い兵隊の性欲処理の家畜として従軍させられた。ちなみに水木しげる氏は行列のため、慰安所を利用をあきらめたらしく、慰安所を利用していない。かといって、強姦もしていない。当時としてはめずらしいケースにあたるのではないだろうか。水木しげる氏自身穏やかな性格であり、好奇心旺盛な青年で現地の文化をしったり、風景を描いて、暴力が嫌いな童心の冒険者として振舞っていたのではないでしょうか。part1の記述からも伺えます。

p26より
 
 上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか103兵站病院もあり従軍慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜とか祭日にお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。
 彼女たちは徴用されて無理やりつれてこられて、兵隊と同じ待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。


(日々の軍隊生活を送っているうちに、水木しげる氏らは前線へ行くように命令される。)
p62〜63より

 
 寝ようとしていると、曹長が「遺書を書け」という。とにかく、なんでも書けばいいだろうと思ったものの"遺書"ということになると、カンタンなものではない。
 (略)
 ココボは夜になると、不気味な鳥が鳴くから、よけい遺書のフンイキが出た。
 それ"認識票"と称する、金属でできた番号の入ったものをもらう。これは金属だから"ニクタイ"がくさってもくさらないというわけだ。死んでも人の骨を墓にうめる時、身元がわかった方がいいだろうと思い、首にかけることにした。
 そのあくる日、ピー屋(従軍慰安婦)に行っていいという命令が出た。早速行ってみると、なんと長い行列ではないか。これはなにかの間違いではにかと観察すると、行列は小さい小屋まで連なっている。そういう小屋が6つばかりあり、いずれも、50人位並んでいる。
 やる方も必死だが、こうなるとやられる女の側は下手すると死ぬのではないかと思った。
50人もいるとすると、終りは何時になるかも分からない。2、3時間まったが行列の人数は少しもへらない。初年兵2、3人で行ったが、あまりの行列にやめようということになり、近くの土人部落に行った。
 あくる日、前線行きについての訓示があった。乗船の順番などだったが、かんじんのどこにゆくのかは、言われなかった。


引用しましたが、水木しげる氏も慰安婦らは強制的に徴用されて連れて来られているというのを認識しています。沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」という呼び名がついていました。
Wikipedia 従軍慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6より
当時の文献によると、慰安婦のほかに「酌婦」「(慰安所)従業婦」「(慰安所)稼業婦」「醜業婦」などという呼び名も存在し、また現地の軍人は慰安婦のことを「ピー」という蔑称で呼んでいたと言われている。また、海軍では特要員の名目で戦地に送られたとも言われている。

らしいです。ピーって、なんか馬鹿にした言い方ですね。いかにも兵隊の性欲処理用家畜として女性が扱われていたかわかります。
後半のp62〜63ではさらに悲惨な慰安婦の実態がわかります。性奴隷といっても過言ではありません。兵隊たちは列をなして群がり、日夜慰安婦たちはセックスをさせられました。2、3時間かけても列は減らないし、もしかしたら24時間レイプされ続けたのかもしれません。水木しげるのラバウル戦記では、少なくともラバウルでは日常的に日本兵が慰安所に通っていたわけではないようですが、前線へ行かされるとなると慰安所へ行ってもいいという許可がでるようです。前線へ兵隊が行くたびに女性たちはセックス地獄に陥ります。もちろん、戦況が悪化するにつれて、前線へ部隊が行かされる頻度が増えるのは普通ですから、戦況が悪化するにつれて彼女たちはさらに過酷になったのでしょう。後、慰安所へいってもいいという許可が出たさい、コンドームが配られた気配はないですし、衛生もずさんだったのでしょう。慰安所へ行ってもいいという命令がでたという事実そのものが軍部隊が慰安所を保有し、まさにただの売春婦ではなく、”従軍”だったと示すものであります。

★日本兵以外で(連れてこられ)強制労働させられて人々がいた事を示す記述
p25より

 
船をおりると大発(上陸用舟艇)がまっており、みな乗船したが、最後の上陸の時は水の中におりた。
「あーっ、ここがラバウルか」というと、「ここはココボというところだ」という。
 こういう変化のある時は、初年兵はなぐられない。なにかにヒマになるとやられる。毎日なぐられていると、安心の時間が分かる。
 里美は、「ここは墓場だ」と悲観的なセリフをはく。椰子林といい入道雲といい、すべてのものがめずらしい。
 海岸で老インド兵がぼんやり海をながめていた。聞くと、ビルマの方から使役として連れてこられたらしい。
いつまでも水平線をみていた。 
 考えてみればインド兵こそいい迷惑だ。英国にかり出されて戦争にゆき、日本の捕虜になってラバウルまで連れてこられるなんて、と思った。


ほんとインド兵についてはいい迷惑ですね。

p37より

 
朝5時に起きて、移動が始まった。海岸から山の中へ入るのだ。途中インドネシアの捕虜たちがいた。
 日本軍がジャワ島に上陸した時、オランダ軍といっしょにいたというので、連れてこられただろう。飛行場の整備などをさせられていたようだ。 
 飛行場を使えないように、毎週爆撃機の編隊がやってきて爆弾を落として穴をあけるから、穴をうめないと、飛行機は飛ぶことも着陸することもできない。
 もっとも、その時日本軍の飛行機はほとんどいなかったが、いつでも飛んできたら使えるように穴をうめるのが、彼らの仕事らしい。
 毎日穴をうめていたようだが、終戦の時まで日本の飛行機は一機もこなかった。
 なにも悪いことしてないようなインドネシア人を連れてきてコキ使うというのは、やはりなんだか気の毒みたいだった。
 ぼくのゆくところはトーマというところだということが途中で分かった。トーマというところはいいところだったが、配属された中隊はガダルカナルから転戦してきた中隊で、普通の中隊の半分位しかいなかった。


著者はインドネシアの捕虜だというが、オランダ軍にインドネシア人はいたのだろうか?もしかしたら、ロウムシャ、あるいはヘイホとしてインドネシアから強制連行された一般人(ジャワの貧しい農民)だった可能性もあるのでは。
余談ですが、>普通の中隊の半分位しかいなかった
ガダルカナルがいかに悲惨だったかどうかがわかります。この中隊では半分しか生き残れなかったようですね。ちなみにこの兵隊での著者ら初年兵の虐待事実はpart1のp38〜39、p40〜41、p41〜42、p46〜47の部分に引用されています。

p133
 
 海軍はソルジャーボーイと称して20人近くの土人を雇って雑用させている。風呂をわかしたり掃除したり、あるいは食糧集めに使っているかもしれない。


p134
 時々、飛行機が夕方やってきて、近くに急にエンジンを静かにし、低空でなにかを落としているようだった。多分近くにいる敵の特殊部隊への補給だろう。(あとになって気づいた。)
 それから2,3週間すぎた頃、海軍で使っていたソルジャーボーイが全員消えたというのだ。即ち、彼らの宿舎に行ってみても、もぬけの空だというのだ。
 海軍の人と協議したが、夕方でもあり、対策は明日にして、今夜はこのまま寝ることになった。


ソルジャーボーイとして現地の人を労働させていたという事実がラバウル戦記にも書かれていました。ただし、連合軍は巧妙であり、使っていた現地人労働者が連合軍のスパイだったりしていたようだ。このことがのちに、フィバラップという抗日ゲリラが割拠していたフィリピンのように、ラバウルを含むニューブリテン島でも現地民衆に対して凄惨な虐殺行動が行われたかもしれない。

★現地人に対するを含む日本軍加害事実・・・あまりでてこないのだが。

p68における『ラバウル戦記その2 前線での生活』の説明文において

 
 ここからズンゲンでの生活が始まる。
 上陸の夜は野宿だった。とにかくばかに静かなところだった。
 あくる日、兵長のいう天国説を信じてあたりをさがしたが、パパイヤの木は一本もなかった。ただゆけどもゆけども名前の分からない木がたくさん生えており、道はなかった。
 この場所は、オーストラリア戦史の第一項をかざる場所であったらしい。2.3年前日本海軍が上陸し、オーストラリア軍約一個大隊(500人?)が、ラバウルからズンゲンに逃れた。半分の兵隊は船で引き揚げ、半分はズンゲンに残って、船をまっていたらしい。しかし、日本軍の発見するところとなり、全員この場所で殺されたらしい。
 ぼくは、偶然、山の上で100人以上の遺骨を発見した。しかしその時我々はなにも知らなかった。毎日めずらしいところを見せてもらうので、不安な中にも面白かった。やはり"若さ"のせいだろう。


ズンゲンに残されたオーストラリア軍250人ほどが日本海軍によって虐殺されました。敵兵とはいえ戦争犯罪です。日本海軍の残虐な体質が浮き彫りになっています。戦後のBC級戦犯で裁かれたかどうかはわかりません。ぐぐってもはっきりとしたことは分かりませんでした。

p86〜87(水木しげる氏は食糧調達に行かされる)

 
 誰がみつけてきたのか、ウルグット河に面して、城の堀の石垣のように丸太をはりめぐらしたところに土人の畑があった。
 要するに野ブタとかそういうものに畑が食い荒らされない天然の要塞みたいな畑だ。丸太橋を渡ってゆくと広い面積の土人の畑だ。大木を焼いて畑にしたところだ。
 なんでもあった。ぼくは2年ばかり食べたことのないトマトがあったので、夢中で食べた。
 とにかく野菜だけでカマス(トンゴロス)に20袋以上もってかえった。かなりな大泥棒だ。おそらく土人たちは、あとでおどろいているに違いない。
 そのかわり、その日からタロ芋の煮たものとか、キュウリのつけものなぞでおかずが
グーンとよくなった。
 毎日重労働でマラリヤ患者もたくさんいたから、栄養をつけてもらわんと、敵がくる前にそれこそ全滅してしまう。
 土人の畑の野菜とりよりも、休日にやるわけだから休みがないわけだ。とにかく敵がくるから陣地構築が優先するわけだ。


ほとんど唯一の現地住民に対する加害事実というべきところ。水木しげる氏は大泥棒であることは認識しているのですが『おそらく土人たちは、あとでおどろいているに違いない。』
という風に対して罪悪感をもっておらず、むしろ自分自身の部隊の食事事情が改善されてよろこんだという風に見えます。しかし、現地住民にとっては死活問題です。気候的にも、また、近代化を受けていない未開の原住民であることを考えても、こいれだけ大量に食糧を盗まれては死活問題です。略奪を行ったときの部隊はpart1で引用したp73以降の"鬼軍曹"の部隊であり、日常的に略奪を行う暇などなかったのでよかったものです。他の部隊も同様であり、陸軍はもともと現地民衆のことを考えて、外から補給するという発想がほとんどなく、また物理的にも各部隊への食料品輸送手段もなかったため、現地自活でした。現地自活すなわち、強制徴発、あるいは略奪という行為そのものです。現地人の反発を招かないわけはありません。この項ではしばらく現地人との交流はでてこなかったのですが、おそらく反日感情も相当あったに違いありません。ところで海軍の場合はp88〜89より引用すれば、

 
 海軍というと、別の国の人みたいで、大事にされ、むこうもめずらしがっていろいろなものをくれたりした。
 正月にはブタをとってこいという命令が出て、10人ばかりで出かけたが、どこにブタがいるのかも分からなかった。
 海軍の話によると「野生のブタを捕るのは大変だ。まるで猪みたいになってるから、よく手足をかまれた土人もいる」という話で、正月用のブタどころではなかった。
 海軍の人は気の毒がり、海軍の飼っている一番大きなブタをやる、というのだ。早速大きなブタを出してノドを切ってかついでかえることになったが、ブタがノドを切られる時「キイキイ」大きな声を出すのだ。そして死んだブタの重かったこと、4人でかつぐのはとても大変だった。
 ここのブタは、ブタというより猪に近い感じだった。
 海軍はバカに親切で、食事をしてゆけという。陸軍と違って、どうしたわけかごちそうだった。人員も陸軍の20分の1位、即ち2、30人で乾パンなぞたくさんもっていた。
 なんでこんなに食糧が豊富なのですかときくと、「いやァ、時々遭難した船があるので主に大発ですけど。人はおらず、品物だけあるもんですから、運ぶんです」といったぐあい。

という風に陸軍と違い食糧事情はたいへん豊かでした。みると遭難した船から食糧を調達しているようである。大発というのは陸軍の輸送船である。陸軍は海軍と仲が悪く、海軍の力を借りないために自力で海上輸送船をつくっていましたが、出来が悪く、うまくいってなかったのだろう。大日本帝国軍の欠陥がこういうところにも現れている。

p237の『おわりに』に現地住民を加害しただろうという記述がでてくる。

23年ぶりにラバウルを訪ねたらしい。トペトロとトペトロの義弟トマリルにあう。彼らはラバウルの日本軍時代に著者が知り合った“土人”である。引用すると、

 それから度々訪れることになるのだが、ぼくはトペトロのところへ一週間もとまったことがある。
 その時、家の中は足のふみ場もないほど若い者が寝ていて、よく小便にゆくとき、顔だとか胸をふんづけたりしたものだ。
 その時は「なんてノンキだろう」と思っていたが、今から考えるとトペトロの深い配慮だった。
 即ち、電気もないまっ暗なところだから、1人拉致されたって分からないところだ。それに、日本軍にいじめられたり、肉親を殺されたりしたのもいるから「昔の日本兵がやってきた」といえば、良からぬ考えをおこす土人だっている。
 そういう事を配慮して、若い者を一ダースばかりぼくのまわりに寝かしたのだ。


最後になって、日本軍によっていじめられたり、肉親を殺されたりした人もきちんとラバウルにはいるということが分かりました。しかし、日本軍によっていじめられたというのは古参兵が初年兵にした以上のことを雇った現地人にしたのでしょうか。肉親を殺されたといっても日本軍が略奪し、中国やフィリピンの村々や町々でしたことを程度は小さいかもしれませんが、やったのでしょう。以上でこのエントリーを終わり。
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水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 日本軍内部の暴力性part1

『水木しげるのラバウル戦記』 水木しげる著 筑摩書房を読みました。水木しげる氏は漫画家でゲゲゲの鬼太郎、そして妖怪作家で有名です。読んだ感想ですががっくりしました。戦記といってますが、ほとんど戦闘といえる描写はなかった。捕虜になったインド兵やインドネシア人が連れてこられたことも書かれているが、日本軍の彼らに対する非人道性を描写するものはほとんどない。それか本人の興味どおりに美しい景色や“土人部落"と呼ばれる現地住民のところへ行っての彼らとの交流が描かれていたりする。日本軍が現地住民を強制労働させるとか、虐殺・虐待するとかいった加害的記述はほぼ皆無である。というわけで大日本帝国の加害性を描くという点では私にはがっくりといったところ。ただし、日本の軍隊の異常性が描かれている。古参兵による初年兵に対するすごい虐待というものが描写されていた。(著者自身、当時、ラバウルへは日本から兵員の補給が来なかったため、永久の初年兵になってしまい、扱かれっぱなしだったという恨みめいた話になっているが。)古参兵たちも初年兵のころはすごい虐待を受けていたに違いないのだが、彼らが古参兵になった時点で自分がやられたことを軍隊に入ってきたばかりの初年兵にやり返すのである。こうして日本軍内部の暴力性が蓄積される過程が分かる気がする。ただ、中国大陸の事例と違って、ラバウル戦線では現地住民に対する暴力という形では現れなかったようだが。後は、従軍慰安婦に対する描写もあった。それらについて本書より抜き出していきたい。

まず、日本軍隊の内部的暴力性について、抜き出してみる。
ラバウル戦記 その一出発 p6〜9より

 
船の中は、なんと人間の船室が三段になっている。即ち豚か山羊を輸送する仕掛けになっているのだ。「我々の船室はもっと奥だろう」と思っていると、その三段のブタ輸送に似たそれが我々のネグラときいて、一同おどろいたが、アフリカからアメリカにおくられた奴隷船よりはましだろうと思った。
 というのは、足をのばせば寝られるのだ。なんというありがたいことだと思っていると、出港。「おいみんな、最後の内地だぞ、よくみておけ」という軍曹どのの半ばやけ気味のセリフを聞いて外に出てみると、夕方だった。 (略)
 これでいよいよ永久に内地とはお別れかもしれないと、海をながめていると、「みんな船室に集まれ」という声。
 酒の配給である。運んだり、分けたりするのはすべて初年兵の仕事、なにかの手違いでヘマをすると、すぐにビンタがビビンのビンとくる。(略)
 船は5日、6日すると、なんとパラオに着いた。水も緑もきれいだ。
 半日ばかりたって上陸ということになった。「なんだパラオか、ラバウルじゃなかったのか」とひとりごとをいうと、「初年兵のくせに、知ったふうなことぬかすなーっ」と意味もなく、ビンタが左右にサクレツする。
「古兵殿、御注意ありがとうございます」そう思わなければいけないのだ。古兵の御命令は天皇陛下の御命令と同じなのだという、分かったような分からんような規則みたいなものがあるのだ。
 小舟でコロールというところに上陸、南方のきれいな島々(パラオのあたりは特に小島が多い)をながめていると「その兵隊なにやってるんだ!!」という、景色と似つかわしくない怒声に、はっと我にかえると、みな上陸して、残るは 我一人。特に「軍人勅諭」の暗唱を命ぜられ、あげくのはては、ビンタさくれつ(ありがとうございます。)
 上陸したものの、手配がうまく行っていないらしく、6時間もぼんやりさせられた。(略)
やがて船がきて「コロールから本島にゆく」という。「なんだ本島があったか」と、だまされた気になって歩き出すと、島にしてはバカに大きく、コロールほどきれいでもない。ただの南の島という感じ。


p10より

 
一分隊というと約10人いたが、その中には初年兵は5人いた。その5人で、古兵殿の食事の用意から食器洗い、下手すると褌の洗濯まで命ぜられる。
 古兵殿は、カミサマみたいなもので、終日家の中で談笑にふけっている。ぼくたちは、寝床の用意までやらされた上、おそいとか、下手だとか、難くせつけられて、毎日小言を頂戴し、運が悪いとなぐられる。
 ある日、食器洗いに行ってかえったら、他の初年兵は体操をやらされている。ぼくは、途中だからゆかなくてもいいだろうと解釈して、じっとしていた。
 古兵の一人から「初年兵は、みんな集まって体操してるんだから、おめえもゆかないとまずいぞ」といわれたが、ぼくは無視した。ゆけばよかったのだが、ゆくのが大儀だったのだ。
 すると、分隊長が帰ってきて、ぼくだけが3分間ビンタをくらわされた。即ち「なまいきな初年兵」だというわけだ。


p20(船上にて)より

 
不思議に思って、ながめていると、「空襲だーっ」という。空襲の時は"完全軍装"をして集まれということだったから、あわてて船底から鉄砲をもって甲板へ出ると、「銃を空にむけろ」という。
「空にむけて何を撃つんですか」といったのがいけなかった。ビビビビ――ンとビンタ。即ち、小銃で敵機を撃ち落とすという"軍人精神"が欠けているというのだ。


p28〜29 (ラバウルでの生活)

 とにかく、毎日のように夜になるとネズミが出た。ねぼけて手をやるとおどろくほど群がっている。
 どうしたわけか、毎日が日曜日だった。要するに命令がこないのだ。
 初年兵は"めし上げ"と称する、桶にめしをもらい、それを飯盒に分配し、古兵どのに食べて頂くという作業や、荷物運びなどというものはあったが、古兵殿は一日中寝ていて、初年兵のあげ足をとるのだ。
 帽子のかぶり方が悪いとか、歩き方がだらしがないとか、バカにうるさい。
 中には(他の分隊だが)整列させて、お互いになぐらせるようなこともしていた。
 朝は起床5時、しなくてもいい体操をさせられて、めし上げ。ある時などは、意地の悪い古兵どのが初年兵になりすまして一人おり、談笑しながら歩いていると、態度がだらしないというご注意。
 ご注意だけならいいのだが「きをつけ」をしてお互いになぐり合うという、バカな真似をさせられ、なぐり方が軽いと、やりなおしを命ぜられるから、罪もない同年兵をビンビンなぐならねばいかん。
 古兵側は、非常にいいことをしているという意識があるから、悪びれる様子もない。軍隊では畳と初年兵はなぐるほど良くなるという明治時代からの金言がはばをきかしているのだ。
「あんた、こんな地の果てのようなところへきて、ビンタゲームでもないでしょう」と言いたかったが、だまっていた。
 そんなことを言えば、おそらく古兵は語りあっておしかけ、半殺しの目にあっただろう。
 古兵になぐられて「ありがとうございました」というのもこっけいな話だ。


p38〜39

トーマというところはいいところだったが、配属された中隊はガダルカナルから転戦してきた中隊で、普通の中隊の半分位しかいなかった。
トーマはいいところであっても、景色のいいところにいると爆撃されるということもあって、中隊は見晴らしの悪いところにいた。即ち、山の中腹みたいなところだった。
 そこで、毎日穴をほるのが仕事だった。2年後、即ち終戦後(日本人は敗戦後といわないところがおもしろい)ぼくは一時期トーマにいたが、中隊がいたところとぜんぜんちがう場所でとてもいいところだった。(略)
 ぼくが配属された中隊は、平田部隊の一中隊なのだが、バカに厳しい中隊だった。どうしたわけか、初年兵の寝るところだけ屋根がないのだ。
 雨が降った場合、どうなるかという心配よりも、寝る場所の心配で大変だった。即ち、どうにか横になれる空間を確保するのに必死だった。
 ビッシリだから、となりの兵隊と体がふれる。夜中に便所にいって帰ってくると、もうぼくの空間はない。ビッシリだから、ほんのちょっと誰かが自由な空間を主張すると、他の人の分がないのだ。こんなひどい話はない。寝るところがないのだ。
仕方がないから、つぎの兵隊が便所にゆくまでしゃがんで待つ。
 そして、毎日やたらに穴を掘るのだ。それを陣地構築と称していた。全山を要塞にして戦うというのが、方面軍の命令らしいのだ。それにしても、ひどい"初年兵いじめ"だった。上の方の連中は"練成"していると思っているから平気だった。


p40〜41より

 
銃にサビがついていると、天皇陛下からいただいた銃を粗末にしたといって、半殺しの目にあうから、一日のわずかな時間をさいて掃除しておかなくてはならない。
 夜になると、古兵どのたちが、昔の牢名主みたいに上座に並んで、ガダルカナルでの武勇伝に始まって、でかい声で講義が始まる。
 おそるべき恐怖政治だったから、古兵どのとの空間が、なんと2メートルもあいているのだ。従って初年兵の空間がなくなってしまうのだ。
 もう少し空間に体が入るようにすればいいのだが、誰もこわがって、古兵との空間を生めない。おそらく、なにかに言いがかりをつけていじめられるだろう。
 とにかく"武勇"を尊ぶ中隊だったから、人間を寝かす空間については配慮が及ばなかったのだろう。
夜は"地獄"だった。
 朝の5時、即ち点呼は6時だから点呼前の出来事だった。「キャーッ」という狂ったような声に目がさめると、みんなおきてワラ人形のようなものに向かって銃剣の練習である。
 これは、点呼前に"間稽古"と称し自発的に"武勇"をためす、あるいは練習するものらしい。"武勇"を尊ぶ、この中隊独特のものかもしれない。
 これに参加しないと、古兵どのの機嫌をそこねるというので、兵隊はあわてふためいて参加した。
 恐らく近藤勇の試衛館道場みたいなものであろう。新撰組というのは、外敵を殺した数よりも内部の隊士を殺した方が多かった。どうも"新撰組"に似た中隊だった。要するに、上の方の連中は、強い兵隊を作ろうとしていたわけだ。


ラバウル戦記その2 前線での生活 p73より

 
古兵たちは、あくびなんかして人間らしい動作だったが、初年兵はうつむいて銃なんか手入れしたふりをしていないといけなかった。のんびり足をのばしていると、「動作がでかい!!」と一喝されるからだ。古兵は談笑したり、将棋をさしたりしていた。


p74〜75
 
雨が少しやむと、なんと古兵たちが狂ったように動き出した。陣地構築である。彼らは手なれているらしく、バカに素早くうまい。ぼくは要領が悪くて、しかられ通しだった。
   (略)
 初年兵は普通の作業が終わっても、いろいろ雑用をさせられたから、休むひまがない。
 その最たるものが"めし上げ"で、遠くまでめし上げにゆき、桶から飯盒に分配する。(略)
 めし上げの時、大きな炊事用のしゃもじで3発なぐられた。即ち、めし桶を充分に洗っていないというのだ。(略)


p76

 
陣地は平地に作るかと思っていたら、なんと本命は山だということだった。
 毎日、山に登っては、穴を掘るのだ。しかもなまけられない。ぼくは要注意人物だったらしく、ちょっと腰をぬかしただけで古兵たちにののしられるのだ。
 それをよいことに、日頃からなぐりたがっている上等兵が、「メガネはずせ」とくる。そして、なにも悪いことをしたおぼえがないのに、ビンタ十発!! (略)
 それが毎日なのだからたいてい敵よりもこの古兵にやられてしまう。むしろ敵の方がアッサリしていていい感じだと、初年兵同士で話し合ったものだ。初年兵はすべて"ノイローゼ"気味だった。


p77〜78
 
どうにか兵舎もたち、毎日の重労働がつづいた。
 軍隊では日曜日は休みのはずだったが、どういうわけか古兵たちは休まない。どうも木内軍曹という鬼軍曹がいけないらしい。日曜日に、食糧とりとか兵舎の修理をさせるのだ。他の隊は日曜日は休んでいた。
 小林は鬼軍曹の分隊だった。小林は、古兵たちに囲まれて、苦しかったらしく、夜になると外に出て煙草を吸うくせがあった。月の夜はきれいだし、空の星もよくみえた。
 ある夜、なんとなくやかましいので外をみると、小林が古兵たちになぐられていた。外で煙草を吸って、それが敵にみられたらどうするのかというのが、小林のなぐられた理由のようだった。
 そういうことで、小林はだんだんと青ざめてゆき、やせておどおどし出した。もともと体も小さく、丈夫な方ではなかったから、こんな山奥で作業するのは、ちょっとムリなのだ。
 普通に材木をかつげないとか、点呼の時ヒザががくがくふるえていたといったようなことがみなにいじめられる理由のようだったが、軍隊で体が弱いほど、哀れなことはない。


 p81
 
鬼軍曹は、家を建てることに興味があったらしく、今までの兵舎は雨もりもしないのに、新しい兵舎を思いつき、日曜日にやるために、大切な休日がなくなってしまった。みな一日中、休みなしで働かされた。


以上これだけを引用しましたが、まず目につくのがビンタである。p28〜29では初年兵はなぐればなぐるほどよくなるという金言があり、まずそのような暴力が横行するもととなっていること。古参兵の権力が強く、初年兵にとっては天皇陛下の命令であり絶対服従である。人殺しを命じられたら、自分の良心に逆らっても実行しなければならない。異常ないじめの横行、そして初年兵はみなノイローゼになり、その初年兵が上等兵になることには、また初年兵に対して同じことをやり返す暴力の堂々巡りが起きてくるのである。暴力は推奨されており、暴力を振るった古参兵は悪びれる様子はなく、むしろ、いいことをしたと自我自尊しており、初年兵はそれを"ありがとうございます"と感謝しなければならない。こんな非道な世界は日本軍だけである。他には兵隊の健康や体力、気持ちを考えない鬼軍曹がいて、強制労働を日夜やらされる。日本軍の中では小アウシュビッツという内部的暴力システムが築かれていた。現代でも過労死が問題視されるが、労働者を酷使し、労働者の権利や健康、個人自身の事情を考えない横暴な企業体質が旧日本軍的な暴力性を受け継いでいることにみられる。日帝残滓の掃討であり、こういう日本軍の体質批判を通じて、日本の制度的改革も行っていくべきだと考える。
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2006年02月14日

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part10

part9の続き。カリンボンで敗戦を確かめた木村氏はホームシックに陥る。自己への信頼が木っ端微塵に打ち砕かれて、大日本帝国が占めていた空虚な空間に落下すると同時に、ホームシックに落ち込んでいくのであった。木村氏はこの空虚さは故郷に戻らない限り癒されることはないと感じていた。しかし、第一に金がないし、仮にあったとしても、横浜もしくは神戸行きの船に乗りこむことはできなかった。そんなことをすれば、スパイ容疑で逮捕されるからだ。敗戦国のスパイとはいえ、スパイである。ダンザンとツェレンツォーも共犯として捕まるかもしれない。その後、木村氏はその後新聞社に就職。木村氏は大日本帝国のスパイであり、敗戦後は”祖国を失ったスパイ”となった。その後、チベット人の民族主義者とも交流し、英国情報部のために働く。東チベット探査行やチベットの反政府活動・改革活動家にも従事することになり、この本の本質の部分でもある。しかし、この部分は日帝悪とは本質的に関係ないので省略する。エピローグのほうで木村氏が母国である日本の現状にふれ、彼の「戦後責任」に言及する部分がある。p340より

 
最後に母国である日本の現状についてふれよう。1930年代と現在の日本青年をひき比べてみると、これほど世代間のギャップのある年代は見当たるまい。内モンゴルを発つ直前、私は髪と爪を同封の上両親に別れの手紙を送った。お国のために自らを犠牲にできることを自分はうれしく思う、ここまで育ててきてくれたことに感謝し、その恩に報いることができなかったことをお詫び申し上げる。だが自分は決して金やロマンチックな夢を追い求めてこの任務に出るのではないという文句で手紙はしめくくられていた。物にあふれた快楽主義の今日の社会では、このような手紙が書かれることは決してないだろう。
 ある意味でそれはそれなりによかったのだろう。私たちは自分自身を純粋で高貴な存在とみなしていたが,所詮偽りの大ゲームの中のひとつの駒にすぎなかったのだ。日本の軍部や政府は「大東亜共栄圏」の薔薇色の夢を描いて見せていたが、結局のところ私たちは悪しき他民族征服計画に携わっていたにすぎないことを、私は苦い後悔の念をもって思い出す。当初戦争の残虐さを気づいていたものはほとんどいなかったが、最後まで真実に気づかなかったからといってなんの弁解にもならない。この戦争の最大の悲劇は、日本が敗北したことではなく、我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティを見つけられぬままここまできてしまったことだ。
 

 木村氏自身が大東亜戦争の走狗となって、侵略に加担し、アジアの民衆を苦しめたことを後悔している。アジアを侵略すべきではなく、占領地で自分を含む日本人がとってきた行動はアジアを反日運動に駆り立てて苦しめただけであり、最後までそれに気づかなかったことを反省しているのである。しかし、木村氏がさらに言及するのは我々日本人の戦争後のあり方kつまり「戦後」に対する反省も語っているのであった。確かに木村氏のように自分自身を薔薇色に描き、アジア解放の使命に燃え、理想主義に浸っていた人はたくさんいたであろう。しかし、それも木村氏の言うように『偽りの大ゲームの中のひとつの駒』にすぎなかったわけだし、知らず知らずに他民族征服計画に加担していただけだったというのもその通りである。『我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティを見つけられぬままここまできてしまったことだ』というのもまさにこの通りである。

p341より

 
私たちが学んだ明らかな教訓は、日本人は負けずぎらいだということだ。そのために―決して過去の行為を悔いたからではなく―日本人は戦争と軍部にかかわる一切のことを社会から抹殺しようとした。もちろんそれは大成功した。あまりにもうまくいったので日本の古来の民族的アイデンティティさえ除かれてしまったほどであった。
 私たちはもっとも安易な道を選んだ。米国人がいうところの民主主義を唯々諾々として受けいれ、米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである。日本が世界から羨まれるような繁栄を達成したことは事実である。にもかかわらず我々が世界の大半から好かれず感謝されないならば、責めを負うべきは我々自身である。今日、日本企業は、他人の感情にまったく配慮することなく、自分たちの利益のためだけに過去我々があれほどの苦しみを与えた国々に考えもなく進出し、怒りにであって当惑している。こんなことが起きるのも、我々が引き起こした戦争について反省することなく、民族的アイデンティティを欠いてしまっているからだと私は思う。アジアの人々が我々を見る目と、我々が自分を見る目には大きなギャップがある。それというのも日本人はすでに自分がなにものだかわからなくなっているからだ。このままほうっておけば過去にも味わった孤立状態に再び追い込まれるに違いない。

 なるほどと思う。さすがに木村氏は生の占領地の人々と生に接し、波乱万丈の人生を送ってきたことがある。もちろん、軍部という組織・制度を取り除いたことは正解だった。しかし、戦争と軍部に関わることを何もかしこも日本人は抹殺してしまった。それは間違いである。軍部や戦争の暴力性・非道性・冷酷性、占領地の民衆に対する加害体験や事実、戦争の悲惨さ、苦しかった戦争の生の体験・記憶などの数々が日本の侵略や戦争から得られたはず。このような戦後の教訓や学習に活かせるものまで抹殺してしまったのである。軍部という存在が消えただけで、政治家・官僚役人組織は何も変わっていない。憲法9条改正が進み、米国従属も増し、軍部が果たした役割を新たに誕生した自衛隊と米軍が担おうとしていて、また亡国の危機を歩もうとしているのだ。

p342〜343より
 
大学で教えていることもあって、私は若い世代を観察できる絶好の立場にいる。学期の初めに、学生たちのクラブが新入会員勧誘のため、キャンパスに出店をするのだあ、それを見れば若い世代の混乱ぶりがはっきりわかるというものだ。キャンパスに何百というポスターが貼りだされるが、そこに書かれた英語はほとんど必ずどこかに間違いがある。たとえ間違いがあってもまったく問題ではないのだ、外国人学生を除けば英語のポスターを(その英語が正しかろうとなかろうと)読める学生などいないのだから。これを見れば一般的な日本人がわざわざ苦労して外国語の正しい用法など覚える気がないことがよくわかる。視覚的に「いかした」ポスターでありさえすればいいのだ。これは我が大学のキャンパスだけではなく、日本社会全体にあまねくみられる問題である。そしてこの問題の伝えているメッセージは、「日本語ではものたりない。他の言語にも好奇心をそそられるが、真剣に考慮するほどのものではない」であるように思われる。
 私がみるところ、今日の日本のもっとも憂慮すべき風潮は、発展途上国での日本人の行動である。日本人は欧米諸国へ行くと借りてきた猫のようにおとなしいが、アフリカや東南アジアでは態度ががらりと変わる。日本人はアジアの高度の精神文明にはまったく理解を示さず、そのことは1930年代とまったく変わっていない。ときおり才能と思いやりのある教師や農業労働者、学者(私が若かりし頃、善隣協会にいたような)が出たとしても、当時と同じく彼らの貢献はほとんど理解されない。その昔、軍事征服だけが意義あることとみなされていたように、今日では経済征服だけが大切なのだ。


前半では大学キャンパスで、クラブの勧誘ポスターに書かれた英語の例を持ち出している。日本人は外来語を取り入れたり、日本語だけでは満足せず、英語などをまぜてポスターや看板、パンフレットをつくるのは好きなのである。しかし、使われた他の言語の文法が間違っていようといまいと関係ない、そこに他の言語が使用されいたり、その文があることが重要でカッコイイというものである。日本の過去の帝国主義に喩えるなら、日本本土だけでは物足りないから、他のアジア・太平洋において植民地がほしく、好奇心がそそられるが、そこの原住民の意思や文化、事情を真剣に考慮するほどのものではないということ。
後半の部分では、明治維新以後、アジア蔑視の価値観が出来上がり、現在も続いていることを示す。戦前も戦後も欧米びいきである。第二次世界大戦中は別で鬼畜米英であり、白人さえも蔑視し、大和民族至上思考であったが、敗戦後、米国によって占領されると、戦争期間中のみ持ちえた欧米人に対する敵対・蔑視思想は米国によって排除されてしまった。欧米人に対しては猫のように大人しくなり、欧米偏重が続いている。外国人といえば、欧米人をあげるし、映画・ドラマ、文化、CMにまで及んでおり、無意識のうちにステレオタイプの理想、憧れのイメージを欧米の白人たちに抱いているのだ。それは大日本帝国時代にもいえて、戦争期間中、欧米諸国と対立した時期を除けば、この種の欧米人偏重思想をもっていた。しかし、アジアやアフリカなどの有色人種やその地域に対しては、明治維新以後、一貫して蔑視・優越思想をもっている。なぜならば、植民地にならなかっただけでなく、産業革命を成功させ、他の地域煮植民地をもって、帝国主義陣営に参加した唯一の民族が日本人だったからである。しかし、その帝国主義が破綻した後も、後述の「戦後」責任を振り返ることがなかったために、この種のアジア・アフリカ蔑視思想を受け継いでしまった。確かに産業や技術の面では日本は近代化によりほかのアジア諸国よりも高度になった部分があるし、現在もそうである。アジアは植民地下されていたが、それ以前には多くの文明や文化があったし、植民地化された後も抑圧されながらも高度な精神文明を発達させてきたのである。たとえば、字が書けない、読めない文盲の未開の民族と、現代の都市に住み、読み書きもできて現代の技術社会を享受する文明人とどっちが優秀かという問題につながる。しかし、私は後者の文明人のほうが、前者の未開人よりも優秀だとは思わない。人は人であり、さまざまな個性をもっており、人に優劣をつけるのは間違いである。いろいろと脱線したが、日本人はこの種の蔑視思想を持ち続けている。「戦後」責任を振り返らなかったために、日本は今もアジアを侵略し続けている。ただ、侵略といってもかつての日本軍がやったのではなく、今は企業や財界が主体である。しかし、そのつけはいつか来ると思う。私は右翼が嫌いであり、今も大日本帝国の悪行や侵略・戦争責任を追及し続けているが、日本や日本人に今後同じ轍を踏んでほしくないからだ。しかし、木村氏のいう「戦後」責任、大日本帝国の行った侵略・戦争加害に対する責任を果たし、清算しないと、いつかまた、失敗し過去に味わった孤立・無縁、そして敗北が訪れるでしょう。

 というわけで長くなりましたが、このエントリーを終わります。一つだけ参考になったページを。

木村肥佐生論
http://homepage3.nifty.com/dabohaze/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪シリーズを書き上げるために、き坊の棲みかさんところのモンゴル・ノート(その3) 木村肥佐生論を参考にさせて頂きました。この種のテーマに興味のある方は一読ください。

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13208784.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13210164.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part3
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13211549.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part4
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13226122.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part5
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13235043.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part6
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13238032.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part7
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13241409.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part8
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13251888.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part9
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13257734.html
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part9

part8の続き。ツァイダム盆地より木村氏一行は出発した。木村氏自身熱病にかかり、新疆ウイグル情勢悪化により難しい決断を迫られたのだろう。長い旅の末、ラサへ到着した。到着したころには、戦争は終わった。日本の諜報員としてモンゴル人ダワ・サンボーとなり、内モンゴルの「蒙彊政権」下から出発し、ダンザン夫妻とともにチベットのラサについたのが2年後の1945年9月のことだったから。日本軍は全面降伏したということだった。著者はその状況を信じられず、日本人だと気づいたバーリン・ジンパ氏に導かれ、現地の状況を知るべく、ラサの蒙蔵委員会に向かった。そこでp192より抜粋する。

 
私たちは蒙蔵委員会へ向かった。応対に出た、眼鏡をかけ、にやけた感じの中国人の尊大な話しぶりを私は決して忘れることができないだろう。中国人が上機嫌で話をしてくれる間、バーリン・ジンバが通訳にあたってくれたが、述べられた事実を和らげることはできなかった。「そのとおり。日本は負けたのだ。無条件降伏でね。今では国民軍が日本全土を占領している。これから奴らは我々の支配下に入る。奴らは支配されるとはどんなものだか身をもって学ぶのさ。もちろん米国軍も何個隊か日本に入っているそうだが・・・・」。激情に駆られてなにか口走り、自分の正体を暴露する前に、バーリン・ジンパに磯かされるまま私はその場を去った。

当然激情にかられるだろう。モンゴル人から生の日本批判が聞けるほどいかにモンゴル僧に"偽装"していたとはいえ、信じていた国が敗れて、しかも無条件降伏で国民党軍が全土を占領していると聞かされれば。蒙蔵委員会を訪れた後、さらに正確に情報を知るべく英国代表部にも訪れた。英国代表部のチベット系シッキム人もさしたる情報はもっていなかったが、「日本はたしかに無条件降伏しました」と告げた。さらには状況ははっきりしないが、都市ひとつを一発で完全に破壊できるだけの新型爆弾の話もそこで耳にすることになる。p192〜193より

 
バーリン・ジンバの慰めの声もほとんど耳に入らず、戻るべき国すら失ったのではないかという疑念が頭の中を堂々巡りしていた。子供の頃から「皇軍は退却することを知らず」とたたきこまれてきた私である。植民地支配にいかに失策があろうと、個々の高級官僚がいかに貪欲な表情を見せようと、われら一兵卒は天皇の地にひとりの敵兵も足を踏み入れさせてはならないと堅く信じ込んでいたのだ。意気消沈しながらも私はただちに次の計画を練った。インドならここから3週間の旅程だ。最悪の場合、つまりこれまで耳にしたことがすべて真実であったとしても、まっすぐビルマをめざせばよいと思った。ビルマならまだ日本軍の占領下にあるはずだから。


この段階では木村氏自身、日本が敗戦したことを受け入れ切れていないのである。まだ期待を捨てきれないでいる。それくらい大日本帝国に対する忠誠心が高く、すごい愛国青年だったことが分かる。
ところで、インド行きの計画のため、お金を工面しなければならなくなった。バーリン・ジンパと木村氏の間で日本軍につながる重要な部分を抜粋しておきたい。p145〜196より

「ナムジル・ダーラマのことを聞いたことはあるかね?」
「東スニット旗チャガン・オボ廟(スム)出の人物かい」
「そうだ。彼は日本側と相当深く関わっていた人物でね。ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者を探しだす計画だったらしい。あなたがた日本人は、政治的目的のためにいつも宗教を利用するんだからたちが悪い。中でもこの計画は最も巧妙なものだった。ジェプツンダンパの転生者を探しだせたなら、内モンゴルから多大な支援を得ることができただろうし、逆に外モンゴル政府にはつきることのない問題を生じさせることだろうな」
 私もその計画のことは耳にしていたが、その結果がどうなったかまでは知らなかった。ジェプツンダンパは言ってみればモンゴルのダライ・ラマであり、一菩薩の化身である。チベットのダライ・ラマと同じく、モンゴルのジェプツンダンパは宗教的・政治的な指導者である。1921年に社会主義政権がモンゴルに成立すると、ジェプツンダンパが反対運動の要になる怖れがあると素早くみてとり、次代の転生者の捜索を禁止した。ダライ・ラマ13世が共産主義と名のつくものをまったく信用しなくなったのも、外モンゴルのこの政策があったからである。。そかしそれ以外の外モンゴルの宗教政策はきわめて穏当なものであった。少なくとも、1930年代に反乱が発生することを期待して日本軍が密かにモンゴルの僧院に武器を運びこむまではである。この一件が露見すると、一斉に宗教弾圧の嵐が吹き荒れ、外モンゴルの僧院の大半は閉鎖の憂き目にあった。それと同時に大量の難民が南方に流出した。難民の指導者の中でも最も重きをなしていたデロワ活仏(ゲゲン)に出会ったことがあった。日本側がモンゴル最高位の活仏の転生者の探索のためにチベットに送り込もうとしていた人物がこのデロワ活仏(ゲゲン)であったのである。バーリン・ジンパが会ってみるようにすすめたナムジル・ダーラマはデロワとともにチベットへ向かった人物だった。私はバージン・リンパにその後2人に何が起こったのかを訪ねた。
「日本軍はこの使命のためにふんだんに金を支給してくれたそうだ。デロワは自分の宗教上の使命さえ達成できれば、金の出どころは問わないという態度でね。日本人はやってきてもいずれは去っていく。だが仏法の光だけは永遠だというわけさ。2人は海路カルカッタに渡り、ダージリン経由でラサ入りするはずだった。ところが内モンゴルの国民党のスパイが重慶に通牒し、情報がそのまま英国に流れたため、デロワ活仏は香港で足止めをくらった。香港に船が停泊中、英国側がデロワを拘留してそのまま国民党に引き渡したそうだ。国民党は活仏を重慶に軟禁しているが、弟子をとるのは自由なため、いまじゃモンゴルとチベット全土にまたがる一大情報網を作りあげているとか。国民党の監視下にあっても、張家口からラサに至るまで何が起こっているのか一番よく把握しているのは彼だという噂だね」
「デロワが重慶で拘留されているのに、ナムジルはラサで何をやっているのかね」
バージン・リンパは笑った。「デロワの部下がラサで何をやっているかだって?とにかく用立てられた大半のお金とともにナムジルは香港で見逃され、せっかくのラサ詣でをあきらめる手はないというので、ナムジルはそのまま旅をつづけることにした。いまじゃここラサで日本軍の金をもとでに、金貸しをやっている。金貸しらしく抜け目はないが、好人物らしく、非道なことはしないそうだ。いってみれば何もかもデロワのためにやっているわけだしな。あれだけの金を託されているのに生活だってごく質素だ。別に金を増やそうという気はないようだ。あんな金貸し商売をやって指の間から金がこぼれおちていかないだけでも誉めてしかるべきだろう」・・・・・・


この部分では、日本軍がダライ・ラマと同じモンゴル人の宗教的・政治的な指導者を利用しようとしていたことが明らかとなる。外モンゴル侵略のためにまず、日本軍は密かに僧院に武器を運び込み、過激な外モンゴル社会主義政権の弾圧を引き起こしたこと。難民が大量に発生し、熾烈な弾圧を続ける社会主義政権からのモンゴル民衆の解放と外モンゴル侵略の言い分ができる。また、外モンゴル政府を困らせるために、難民の指導者の中で、最も重きをなしたデロワ活仏というのをチベットへ送り込み、ジェブツンダンパの転生者を探し出そうとする。外モンゴル社会主義政権を揺さぶることにつながるし、転生者の発見の功績を日本軍が握り、モンゴル人の支持を得て、モンゴル侵略の偉大な大義名分ができるというわけである。まあ、国民党スパイの通牒により失敗し、日本軍の金は金貸し業に使われているのだが。失敗して幸いである。徳王の例を出すまでもなく、転生者ジェプツンダンパを一時的にモンゴル人の皇帝として利用したのち、実権を日本人が奪い、操り人形となり、統治機構が完成すれば、日本の侵略遂行のためにモンゴル人は奴隷化されるのだから、失敗してよかったと思う次第である。

 インド仏跡巡礼を強く希望しているダンザン夫妻とともに、木村氏はラサ見物もそこそこに、初めてのヒマラヤ越えをしてインドに出る。インドのカリンボンを訪れた。ラサのモンゴル人仲間から紹介されていた外モンゴルのダルマ氏を探しにいった。ダルマ氏の家に到着した。ダルマの家には、グル・ダルマという名のブリヤート・モンゴル人の僧侶が同居していた。腰を下ろして、木村氏が内モンゴル東スニット旗であると自己紹介すると、たちまちグル・ダルマに祖国の解放を祝されることになる。その会話部分を抜粋する。p202より

 
私が内モンゴル東スニット旗出身であると自己紹介すると、たちまちグル・ダルマに祖国の解放を祝された。「安心しなされ。戦争は終わりましたぞ。盗人どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ」
「戦争は本当に終わったのですか?」私は懸念の色をあらわにしないように尋ねた。「ラサでは噂でしかわからなくて」「日本人はみな故郷に送りかえされとります。これから日本は外国の統治下に入るとか」。ごく実際的な口調だったが、ラサの中国人官吏から満足げに聞かされた時よりもショックだった。かつて日本人が占領地の人間を扱った時と同様の扱いを、今度は日本人が受けるはめになるのだろうか。
「どこでそんな話を聞いたのです?」
「インドは近代国家ですからな、世界各地の出来事を知る手段はたくさんありますわい。新聞もあれば、ラジオもある。映画だってありますぞ。映画に行ったことは?」
「ありません」と私は嘘をついた。
「ならば、今晩一緒に見に行こうじゃありませんか。映画の前にニュース・フィルムを流すんです。それを見れば、日本人がどんな顔をしているか分かるというもの」

 木村氏はそうとうショックを受けたようである。これ以上何もしたくないというので宿に帰った。晩方、グル・ダルマが木村氏をフットボール場近くの映画館に連れていった。そこでニュース映画をみて、敗戦の事実を直視することになる。p203〜204

映画へ行くのは張家口以来初めてのことである。ニュース映画が始まった時、闇が私の外見を覆い隠してくれることを感謝せずにいられなかった。
 映し出されたのは廃墟だった。英語のナレーションはほとんどわからなかったが、展開されるシーンをみればいわんとすることは明らかである。最初に映しだされたのは完全に焼き野原になった東京を航空撮影したものである。形を留めているのは皇居だけだ。かつて大東亜共栄圏政策を誇らしげに傲慢にぶちあげた東条英機首相は自殺未遂、米軍のMPの傍らにあってひときわみすぼらしく、萎縮して見える。それに続く場面では、日本兵が日本兵としてはありえざる行為を行っていた。自ら武器を敵軍に渡して投降していたのである。その時どっという歓声が映画館に侵入してきた。「グルカ兵がビルマから帰還してきだんですよ」とグル・ダルマが私の耳に囁いた。「ビルマの戦闘を戦いぬいたのはほとんどがグルカ兵ですからな」
 ニュース映画のなかでも最悪だったのは、焼け野原になった都市の貧困さであった。ボロを着た人々が必死になって廃墟の中を行きぬこうとしている。日本が誇る新しい工業文明はどこへ行ってしまったのだ?植民地による領土拡張の成果として「日本人全員にもう一杯のご飯」が約束されていたはずなのに、あれはどうなっていまったのか?私とてその謳い文句を信じてモンゴルに脚を踏み入れたというのに。
 目には苦い涙が浮かび、混みあった映画館に息苦しさを覚えたが、中座のための口実をもうけるエネルギーさえ残っていなかった。幕はおりた。噂話かプロパガンダか悩む必要ももうない。続いて長編映画が上演される間、私は茫然として座っていた。スクリーン上では、着飾った米国の男女が恋の駆け引きを行っていたが、私の目には別のシーンが映じていた。張家口でリキシャひきの苦力(クーリー)を打倒する日本軍士官。道端で中国人を侮辱する日本の交易会社の雇い人。日本軍が中国の農村で何をしたのか、私は知りすぎるほど知っていた。中国軍が逆に日本を占領したのが本当なら、日本への復讐もそれ相応のすさまじいものになるだろう。

こんときに木村氏の戦後がはじまった。この映像をみて日本が完全なる敗北を遂げたというのを認めざる負えなくなるのである。木村氏が「恥辱と苦悩」の中で考えたことが木村氏の半生をしめしている。自分がこれまで気づくことのなかった日本軍や日本人のアジア民衆に対する蛮行、そして、アジア・太平洋地域の多くを武力によって占領して支配し、徹底的に搾取してきたこと、そして中国軍が逆に日本を占領したのが事実なら、それ相応のすざまじい報復をされている光景が木村氏の頭の中で広がっていたに違いない。
 噂にはこれまで聞いていたことだが、これほどはっきりと敗戦の事実を告げられては心の整理がつけられなかったようである。カリンボンの通りをあてもなくさまよい。恥辱、ぶつけようのない怒り、心の中にぽっかりと穴があいたように病んだ状態になっていた。木村氏は宿に戻った。そのときから引用する。p205〜206より

その晩はろくに寝つくことができず、翌朝は早く起き出した。そのまま町の後にある丘に登って大岩を見つけ、ひがな一日じっと腰を下ろしていた。何かを考えるどころか、恥辱と苦悩の波がひたひたと押しよせてくるのを感じるのみ。それからの一週間というもの、私は毎日のようにこの岩のところに来ていた。目の前には深い峡谷があり、峡谷の向こうは隆起してシッキムの麓になっている。その彼方には、カンチェンジュンガの雪を冠した峨々たる山容があった。周囲には、ヒンドゥ教や仏教寺院が散在する小さな町がひろがっている。キリスト教の教会やヨーロッパ製の絵本にあるような石のコッテージも見えた。そんな光景も私にとっては何の意味ももたなかった。かくも平和で静寂にみちた場所がインドの片隅にあるとは。祖国日本が敗北を喫し、破壊され、苦しみをなめている最中だというのに、どうして自分はこんなところに安穏としていられるのだ?
 日本人は命令とあれば盲目的に、考えもなくそれに従うことで有名だが、モンゴルへ行く前の私は、自分はそんな同国人とは違うと自負していた。だが今ではそんな自負心も何の役にも立たなかった。いやもっと始末に悪い。私はこの敗戦の恥辱を前もって予期してしかるべきだったからだ。「大東亜共栄圏」の幻想は私たちの足元に崩れ落ち、その実態を曝け出した。1930年代に内モンゴルの蒙政会会議に出席した内モンゴル人の言葉がおのずと脳裏に甦った。「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけて日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海の中に叩きだすだろうよ」。彼は正しかったのだろう。占領地の人間と友情を結んだ日本人もないではなかったが、一般論を言えばあれほど過酷な統治を強いた相手から忠誠を期待できるはずもなかった。
 人間が自分の存在感を少しでも味わうためには、ひとつの集団に属する必要があると言われる。あれこれ言っても私の人生は全治全能の天皇陛下の保護のもと、日本という国家に属しているという仮定のもとに成り立ってきたのだ。それを自己欺瞞と呼びたいなら、呼ぶがいい。いずれにせよ、すべては終わった。心のなかにぼっかりとあいた穴を埋めるものはなにもない。モンゴル人のふりをしてみても所詮私は偽モンゴル人にすぎない。モンゴル人が第一に忠誠を誓うのは宗教であって国家ではない。


長い葛藤の末、一定の帰結に達したことが読み取れる。「蒙政会会議」に出席した男の日本批判はpart8の部分で触れている。大日本帝国によって木村氏も洗脳されていた。一般の日本人よりは草の根の民衆の声を聞き、良心をもっているはずだが、ここまで敗戦の事実を突きつけられ、ショックを受けないと気づかないものなんかなと思ったりする。木村氏は天皇制国家が崩壊したことを知り、帝国主義も天皇そのものも自分が世界に出て行く根拠にはなりえなかったことをようやく悟ったのだ。ものすごく哲学的だが、このことは敗戦のとき、日本人ならみんな心に問いかけなければならないことなのだろう。国家と集団とは何なのか・・・?
part9は終わりとし、続きはラストのpart10で
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2006年02月13日

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part8

part7の続き。part8では西北行きに出発し、各地で大日本帝国の悪行を耳にすることになる。このことを中心に扱いたい。
 木村氏とダンザン夫妻の3人はモンゴル僧に偽装し、青海省のクンブム僧院をめざして出発した。クンブム僧院はチベットとモンゴルの文化的国境に位置する大僧院である。ただし、そこへ到着するためには前途に待ち受ける内モンゴルと寧夏省の国境を突破しなければならなかった。厳重に監視された国境を渡り、国民党、外モンゴル、イスラーム軍が巡回する砂漠の中におりていかなければならない。イスラーム軍は蒋介石の中央政府に形ばかり従属していたが、独立精神にとんでおり、国民党の傅作義は日本軍と戦うことよりも多くの時間を費やしている。またカザフ人やチベット人の盗賊のことも考慮に入れておくほか、この国境地帯にはありとあらゆるスパイがいるため、実際のところだれも信用できるわけがないのである。出発して12月15日、荒れ狂う雪嵐の中、大日本帝国の最前線、山峡のハンガイヌージにあると特務機関に到着した。特務機関長に面会するために、部屋に通された。p57より引用する。

 
案内された部屋には、吉沢特務機関長と、砂原、吉永両氏がストーブを囲んでいた。内モンゴルのこんな僻地で日本人に会うのはなつかしい限りである。そして日本人に会うのもおそらくこれが最後になるだろう。
 これまでは名目上にしろ、日本軍の支配地域に身をおいていたが、これからはまったく状況が変わってくる。3人は薄暗いランプのもとに地図を広げて、寧夏省境の中国軍と外モンゴル軍の配置状況を説明してくれた。日本勢力は寧夏省境までだ。その南側は傅作義中央軍、西側は馬鴻逵イスラム軍、北側は外モンゴル軍が固めていて、国境警備兵が絶えず巡回している。彼らに共通点があるとすれば、こぞって日本人を憎んでいることだ。もしここで捕らえられれば、彼らも容赦しまい。

 国民党の中央軍、イスラム軍、外モンゴル軍はお互い仲は当然よくはないが、共通していることは日本人を憎んでいることである。それは当然である。大日本帝国がこの地にいることはおかしいし、大陸でのおぞましい蛮行を考えれば、3つの軍の兵士の中に日本軍によって身内を殺されたりして恨んでいる人がたくさんいて反日感情に燃えているのは当然の帰結である。
 著者らは巡礼僧に変装したのは、どこでも自由に行けるからである。特務の3人は用心するようにいい、外モンゴル国境近くまで北上して安全な迂回ルートをとるようにすすめてくれたそうだ。特務機関を出発し、長城路にそって西に進み、ハナンに到着。木村氏はその翌日旧友のドルジ老と会う予定であった。寧夏省境の警備状況を偵察のため、約3ヶ月前から派遣されていて、完全に信頼している数少ない人間の一人であったそうだ。ドルジ老と会うと2人だけになると、特務機関が以前与えてくれた情報と彼の収集した情報を把握し、境界を越える方法を話し合ったそうである。ある晩、この問題について頭を悩ましているところに、木村氏らが漢方薬(西洋薬をそれらしくみせかけたもの)の術を心得ていることを聞きつけたドンゴという老人が訪ねてきた。息子が苦しんでいるので助けてほしいというのだ。木村氏らは断るわけにもいかず、「水神の怒りをかっている」と老人に告げた。「水神を祭りなさい。さらに息子のお茶にこの粉末薬を混ぜれば、水神の怒りを鎮めることになろう」と行って、鍋ズミで色をつけた粉末の西洋薬を老人に渡した。ここでその老人は占いに感謝し、世間話をはじめる。ここで日本人の悪行を耳にすることになるのだ。p61より引用

 
老人は私の占いに感謝したが、草原に住んでいる者特有の気楽さで世間話をはじめた。彼は一生を寧夏省境で遊牧して過ごし、すべての公道、間道を知っているという。彼は中国人と日本人の、特に後者の到来を嘆いた。日本人のことを耳にするまえは、生活は平和だったし、放牧も楽だった。今では法をふりかざす連中が、私的なことや、宗教や商売にあれこれ口出しするので、どこへ行くにも夜間にこっそり抜けるか、無人地帯を抜けていくしなければならない。


この老人にとって招かれざる客として中国人と日本人をあげているが、日本人のほうがはるかに最悪だったようだ。日本人よりも前に当然中国人はやってきたが、日本人のことを耳にするまでは生活は平和だった。しかし、今では法をふりかざす官憲の横暴がすごく、どこへ行くにも何もするにも苦労するようになったというわけだ。

一応木村氏一行はこの老人に省境を超えるための道案内を頼んだ。数時間のうち、薄暗いうちに出発した。ここでもドンゴ老人は話をする。日帝悪に関するものなので抜粋する。p63〜64より、

ドンゴ老人の話によると、この無人の地が日本軍勢力の最前線で、ここからは中国軍の斥侯の数が日本軍のそれをまさっているのだそうである。「他の軍よりも中国軍のほうがましですわい。少なくともやつらは怠慢で非能率ですからな」とドンゴ老人は唾をはいた。「日本人はどうして自分の国にとどまろうとしないんですかねえ?日本がどこにあるのかしらんが、わしらをそっとしておいてほしいもんだ」


ドンゴ老人の言葉がよくわかる。「日本人はどうして自分の国にとどまろうとしないんですかねえ?日本がどこにあるのかしらんが、わしらをそっとしておいてほしいもんだ」・・・・・韓国であれ、他の中国大陸であれ、東南アジアであれ、占領地に住む人々全員が思う言葉であろう。やがて木村氏は省境を越え、クンブム僧院へ到着する。クンブム僧院での出来事は日帝悪と関係がないので省略する。クンブム僧院には10日余り滞在し、その後ツァイダム盆地に向かった。ツァイダム盆地のジェーン旗というところへ到着した。新彊ウイグルへわたる機会を
伺うが、クンブム僧院で新彊ウイグルの情勢が極めて危険なことを知らされている。蒋介石政府を援助する物資がトラックで運ばれているが、魅力的でカザフ族たちに襲撃される。しかし、その後蒋介石政府の報復はなまやさしいものではなく、カザフ討伐のために大軍を派遣する。そのため、避難民がチベット方面へなだれ込んできた。ツァイダム盆地はカザフ族のたえまない進入になやまされた。実に残虐で家畜をとるだけでは気が済まず、まるで殺すという行為を楽しんでいるらしい。ツァイダム盆地のチャガン・ガオスでイスラム軍から嫌疑がかかった。故郷内モンゴルへ送還される途中の巡礼者の一団から男3人、女1人が護衛数名を負傷させて逃走中であると連絡が入ったようだった。そうした嫌疑によって足止めを食らってしまう。平凡な日々が続く。そのツァイダム盆地滞在中、木村氏はある男から内モンゴルにおける日本支配を非難する声を聞くことになる。その男は、1934年に百霊廟で開かれた「蒙政会会議」に出席したある旗代表の従者として内モンゴルに数年間行っていて、日本占領下の内モンゴルの様子を見てきたという。p151〜153より引用

 
ちょうどその頃、胃病の治療を求めてやったきた男が内モンゴルでの日本人の行動を非難する演説を一席ぶったことも、私の気分をさらに重苦しいものにした。
 「日本人があんたの故郷寧夏になだれこまなくて、あんた幸運だったね」。彼は1934年に百霊廟で開かれた蒙政会会議に出席したある旗の代表者として、内モンゴルに行ったことがあり、日本占領下の内モンゴルを数年にわたってつぶさに見てきたという。「徳王は立派なお方だ。だが中国人と日本人に敵対できるほどモンゴル人の数は多くない。いずれかと同盟を結ぶ必要がある。徳王や各旗の王様たちは、中国にかけてみることにした。しかしほとんどのモンゴル人は中国人を信用していない。そのうち中国軍が弱体化しはじめると、徳王は頼るべき相手を日本に乗り換えた。日本軍を利用して中国人を追い出し、それがすんだら今度は日本人を追い出せばいいという目論みだったのさ。ところがどっこい、やつらは抜け目がなかった。徳王より一枚上手だったのさ。今じゃ徳王は日本軍の手中にあってていのいい操り人形だ。自治政府と称するものの実権を握っているのは日本人だ。やつらはずるがしこい貪欲な民族だよ。あんたがもっと東から来たんだったら、巡礼に出るのも一苦労だったはずだ。なにせゲルの外に足を踏みだすのでさえ、許可証がいるくらいなんだからな」。
 自身の体験からも内モンゴルにはそこらじゅうに、外モンゴル、国民党、共産党のスパイ等がいることはわかっている。だから日本軍が行動の制限を強いる理由もわかる。だが日本軍の占領地から遠ざかれば遠ざかるほど、いったいなんの権利があって私たち日本人はそんな場所にいるのだろうといぶからずにはいられなかった。「日本人が富み太っていく一方で、モンゴル人は貧しくなるばかりだ」と私の患者は話し続けた。「奴らに念頭があるのは、わしらモンゴル人から、肉や皮、木材、馬を絞りとることだけさ。奴らの軍隊に必要な品々を手に入れるために、わしらモンゴル人を奴隷にするつもりなんだ」
 彼の話を聞いているうちに、長いこと思い出しもしなかったある情景が不意に脳裡に浮かび上がった。初めて日本から北京へ行く途中、私は朝鮮と満州の国境を越えた。朝鮮人の若い税関吏が私のスーツをあけながら、名前と目的地を質問した。10代特有の、世界はおれが救うという思いあがりにとりつかれていた私は、モンゴル独立のために闘っているモンゴル人たちを手助けしにいく途中だと答えた。生まれてこのかた日本の統治下で生きてきたに違いない税関吏はそれに対して一言も答えず、当時の私には理解できなかった、だが忘れようのない奇妙なまなざしを私の投げかけた。あれから数年たった今、私はようやくそれが何を意味していたのか理解しはじめたのである。
 訪問者の冗舌はまだ終わっていなかった。「あんな愚かな民族がどうしてわれわれを支配できるのか疑問だね。だが、そう遠くない日に、奴らも足元をすくわれて愕然とするだろうさ。今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海のなかに叩きだすだろうよ」。その晩、私はいつものように炉の西側に横たわったものの寝つけず、ツェレンツォーの乱れがちな呼吸を聞きつつ、過去4年間の生活をふりかえってみた。興亜義塾、実験農場、西北行の計画、そして旅。こうしたことをすべてただ自分のために行ってきたのではないかという疑問が拭いきれなかった。

 
 木村氏はこうして生の声に接することになる。完璧といっていいほどモンゴル僧に偽装して、諜報員として活動する著者は裏側から大日本帝国占領の実情を耳にするのである。生の声を何の警戒心もなくしゃべるくらい木村氏の”偽装”は完璧だったのだ。このようにして、大日本帝国批判を占領地の虐げられた民衆からの生の声を聞くことができた日本人はほとんどいなかったのではないだろうか。有色人種の国として植民地化を免れたばかりではなく、産業革命も成功させ、後発でありながら帝国主義の道を歩んだ日本人であるが、有色人種の中で最も愚かな民族に成り果てたということに当時の日本人は誰一人として気づいていない。戦争を経験した世代ももちろん、現代の若い世代も、明治維新から敗戦にかけてまでの富国強兵帝国主義時代、最も愚かな人種であったということを知らないし、知ろうとしない。まことに嘆かわしいと思う。モンゴル人の批判を聞きながら、木村氏はふと何年も前の満州に渡るための朝鮮半島での旅行の出来事をふと思い出す。こうした批判を聞くことで当時モンゴルを救うと妄言を吐いたときの朝鮮半島での税関吏の表情が日本の植民地の非道性を示す静かなサインであったと気づくのである。日本の侵略責任についても木村氏は敗戦後感じていることをpart9で触れることになると思う。木村氏一行は新疆ウイグル行きをあきらめチベットをめざすことになる。
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part7

part7ではいよいよ『チベット偽装の十年』の本題へ入っていくことにする。ここでも日帝悪につながる記述がある。その前に前置きをしておく。
 木村氏は農場で過ごすも、西方への憧れをいだいていた。あるとき、張家国に休暇旅行に出かけ、彼の上司にあたる善隣協会理事の中沢達吉氏と昼食にでかけた。仕事のことだけでなく、21歳も間近にせまり、兵隊にとられる可能性について話すためだ。高級和食レストランの2階の畳部屋で日本大使館調査室長の次木一氏に出会う。次木氏はモンゴルにおける特務活動の統括者であり、2.26事件のつわものであった。戦争の初期段階にあって、連戦連勝を重ねて全盛期にあった時期であった。日本軍が広範囲に侵略の手を広げようとしていたことを示す記述をp42〜43より抜粋する。

 
昼食後、私の存在は多かれ少なかれ忘れ去られたようだった。当時の私はたったの20歳、二日酔いの辮髪の若者にすぎず、畳の上で日本酒を飲みながら、自分には雲の上の人とも思える実力者2人の高度な会話を耳にしているだけで十分幸せであった。当時の次木氏は仕事に忙殺されていた。戦争の初期段階は日本軍は予想以上の勝利を重ねており、情報活動は時代からとり残されていた。今では日本軍は外モンゴルや中国の西部、はてはチベットにまで興味を示すようになっていた。フフホト(厚和)では研究センターとともに「新疆回教作戦」が動きだし、地元の特務員を募って、キャラバン隊のルートぞいに送り込んでいた。一方ビルマでも「チベット作戦」があわただしく開始されていた。噂によるとダライ・ラマ13世の篤い信頼をかちえたこともある青木文教(今や半分伝説の人となりつつあった)がこの作戦に協力したという。

 外モンゴル、チベット、新疆にまで日本軍は目をつけていたのである。
一応、このときの話題は日本が秘密戦争で見事な一撃を加えたことに終始したようである。この時期、日本はベンガル人の独立闘士スババ・チャンドラ・ボースの協力をとりつけることに成功し、さらにインドから英国を駆逐するためにマレーシア、シンガポール、香港、ビルマで捕虜になったインド人兵士を組織して「インド国民軍」を編成しつつあるという。次木氏は自ら関わる作戦にこれに匹敵するような成功がないことを嘆いていたようだ。
 その後、木村氏はフフホト(厚和)で徴兵検査を受ける。その結果は甲ではなく、第一乙に分類された。木村氏にとっては最悪な状況で、誰一人望んでいない種羊の無為に育てながら待機させられる可能性が高いからだ。ところが著者は少々ついていたようである。p45より

 
私の生活ぶりを知った面接官は感銘を受けたようだった。どうやらこの期間に面接した徴収兵の中でみこみがありそうな者は草原に住む私だけだったようで、面接官は私がまことに有益な仕事をしており、兵士になるより効果的に国に奉仕しているとの言葉をもたらした。もちろん私は自分の労働の成果のたどる悲しい運命など口にしなかった。だが仮に面接官がそのことを知っていても、同時期に面接したものとは対照的にスパルタ式生活をおくっていることを認めてくれたに違いない。今から考えると、1943年1月に「第一乙、公平の八番なれど入営におよばず」という秘密の電報をもらったのもこの面接官の影の力があったからではないか。私は欣喜雀躍し、西北行に再度志願した。

 木村氏の言語および異民族と交わる才能は尋常だはなかったようだ。草原に住んで、日々モンゴル語と触れ合い、スパルタ式の厳しい生活に耐えて、特務員(スパイ)の任務に耐えうる人物は面接官の受け持つ中では木村氏ただひとりだったのである。
 1943年9月に張家口に呼び出されることになる。次木氏の上司にあたる安木偉久太氏と木村氏は話をした。一年以内に帰還すると言う条件と日本大使館に雇われる形で西北行きを許可された。その後、著者らは準備をはじめることになる。ところで、また当時の日本の腐敗を示す記述があるのだが、p49より引用
 後になるまで知らなかったのだが、その間に大使館の役人のあるものが私服を肥やすためにこの西北行を利用しようとたくらみ、ためには旅はさらに危険なものになっていた。彼らは道ぞいにもっと現地の特務員を送り込んでおいたほうがいいと主張し、特務員の訓練と維持費の口実で金を引き出し、その大半を着服したのであった。こうした不運な「特務員」たちはろくな準備もなしに送り込まれ、少なくともそのうちひとりは国境地帯の日本の特務機関の役人に捕まり、私を待ちうけていることが認められるまで拷問を受けるはめになった。

 この記述も当時の大日本帝国というものが骨の髄まで腐敗していたのである。現在でも外交機密費の問題や外交官による莫大な公費のプールなどが行われているが、現在の日本政府は大日本帝国時代と体質は変わっていなと思う。
 いよいよ木村氏は西北行きへ出発することになる。メンバーはダンザンハイロブことダンザンとその妻ツェレンツォー(ダンザン夫妻)と木村氏である。ダンザン夫妻が身のまわりをできるように実験農場にたちよったり、最後の支持を仰ぐために次木氏を待ったことで数週間足止めをくった。次木氏の指示は、道筋に派遣してある現場の特務員を利用して機会をのがさず報告書を送れ、であった。一旦新疆ウイグルに着いたら、「隠れスパイ」(スリーパー)として現地を収集して、日本軍が威風堂々と到着するというのを待つというもの。そのことは大日本帝国が明確に新疆ウイグル侵略を狙っていることを示すものである。最終的に出発できたのは1943年の10月末のこと。しかしこの頃太平洋のガダルカナルでは大敗北していたのだ。とりあえず、国境を突破し、寧夏省に入り、青海省のクンブム僧院を木村氏らはめざすことになった。
 ところで若干西北行きを補足しておけば、木村氏には2つの目的があって、ひとつはモンゴル民族や西北地方へのあこがれというべき知的要求、もう一つは、戦時下の青年として、西北援蒋ルートを探るという国家的忠誠心に基づくものである。(注:南方援蒋ルートはビルマを日本軍が占領したこと、もうひとつはチベット政府が中立政策をとったため、チベット経由のルートが開けなかったことにより事実上消滅した。蒋援ルートは新疆ウイグル(西北地区)を通ってのソ連ルートのみである。また西北地方は共産党根拠地の延安があり、そういった意味でも日本軍にとって戦略的に重要であると思われる)。後者についてはチベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part2http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13210164.htmlで示したとおり、ばりばりの愛国青年であり、そういうあこがれがあっても国家的忠誠心を忘れることがなかったのである。とりあえずpart7を終了し、続きはpart8で
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part6

part5の続きです。ここでは張家口(カルガン)という町の様子を紹介します。張家口という町は日本の傀儡、蒙古連合自治政府(蒙古連盟自治政府)の行政府が置かれたところです。実験農場の草原に身を置く木村氏でも一年の2度の休暇のために、街にくりだすわけです。その様子を紹介したいと思います。
p38〜40より引用

 
いくら、草原での生活を享受し、鉄道の通る町よりも草原に身をおくことを誇りに思っていても、1年に2度めぐってくる休暇ほど心ときめくものはなかった。この時ばかりはシラミのたかったモンゴル服を脱ぎ捨て、貨車に乗って2日の張家口の町にくりだす。張家口は来るたびに拡張し、洗練されていくように見えた。舗装した道路、ガラスのはまった建物、走りまわる自動車―これらはすべて驚異であり、適応するまでに数日はかかった。中国人、イスラーム教徒、日本人であふれかえった通りをみればめまいがした。モンゴル人は数少なく、みぐるしくも場違いな存在にみえた。
 ここにはまた清廉な畳の香りが郷愁を誘う日本宿もあった。日本の着物をきた女性が深々と頭を下げて私を母国語で迎えてくれる。こちらはまるで高貴な人物になった気分である。なにはともあれまず長風呂を楽しみ、何層にも重なった垢とすすをこそげおとす。それからパリッとした清潔な服に着替えて、夜の町でのお楽しみにくりだすのであった。
 こうして夜の町にくりだしてみれば、何故張家口が日本人居住者にこれほど人気があるのかわかろうというもの。歓楽街には若い男が望むすべての欲望と幻想が存在していた。特別な一画をめいざしながら、私は自分が愛唱するトルグート・モンゴル人の民謡の英雄ミンガンになった気分だった。
 
朝焼けの空を金に色どる。
   曙に似た火のような美しさ
 人妻が人目見ると
   帯がひとりでに腰から落ちる
 娘が一目見ると
   胸のボタンがはじける、という
 よちよち歩く婆さんでも
   そんな婆さんでも笑いながらつけ足す
 「おや、お前さんはどうして
   私の娘のころに来なかったんだい」

 魅力の点では伝説の英雄に劣るかもしれないが、私のポケットには6ヶ月分の給料ではちきれんばかりになっており、相手は日本人、中国人、朝鮮人の玄人とよりどりみどりであった(モンゴル人だけはいなかった。土地もそうだがモンゴル人にとって性を売買するなど考えられないことだった)。日本人のある者は、草原からやってきた辮髪に髭姿の私たちに幾分の疑いのまなこをむけたのだが、こうした女の子たちはいつでも私たちを歓迎してくれた。日本人の売春婦は、実家の借金を背負い満州やモンゴルで大金を手にしようとやったきたしたたかなプロだった。
 女の子の好みは単純だった。ポケットで金が膨らんでいさえすれば、客の髪の長さなど問題ではない。私も長生きできるとは思っていなかったから、金を貯めることに興味はなかった。こうした放蕩生活を一ヶ月も続けると、そろそろ草原が懐かしくなってくる。私が本来属するべきは草原だったからだ。
 母国語を同じくする女と臥床を共にするのもくつろげたが、話ができることが最優先というわけでなく、私は専ら中国の娼館を愛好していた(朝鮮の女はあえて避けた。誘拐されたり、だまされたり、強制されて売春婦をやっているものが多かったからだ)。客はまず阿片をすすめられ(これはいつも辞退した)、次に名前を読み上げられるとともに女の子が登場する。そこで客の方もじっくり敵娼(あいかた)を選べるというものだった。日本の娼館では敵娼を写真から選ばなければならない。
 私がなにがしの愛着を抱き、定期的に訪れていた唯一の女性は中国人だった。真冬のある晩、橋のうえで泥酔して寝込んでいる私を見つけて家につれ帰ってくれた女である。おそらく私が凍死せずにすんだのは彼女のおかげにちがいない。後に彼女が金持ちの老人によって苦界から救い出され、結婚したと聞いた時はほっとしたものである。


長く引用しましたが、気になるところを3点だけ。一応娼館という言葉がでてきている。慰安所については残念ながら見当たらない。「(朝鮮の女はあえて避けた。誘拐されたり、だまされたり、強制されて売春婦をやっているものが多かったからだ)」という記述がある。朝鮮では従軍慰安婦として女性たちが強制的に連れ出され、各地の慰安所に送られ、日本兵の性奴隷として扱き使われたとしたとして有名である。こういった普通の娼館の業界でも強制連行が多発していたことが示す。もう一つは「(モンゴル人だけはいなかった。土地もそうだがモンゴル人にとって性を売買するなど考えられないことだった)」の部分で、モンゴル人の土地に性売春産業を持ち込んで、彼らの土地を不浄なものにした大日本帝国の罪は非常に重いものがあると考える。つづいてはアヘンで「客はまず阿片をすすめられ(これはいつも辞退した)、」と著者はさらりと流しているが、内モンゴルの傀儡政府というのは阿片の生産・供給地域として有名。また、内モンゴルにおける売春業界と阿片との密接に癒着していたことを示すものである。阿片の元締めは日本軍、特務機関、自治政府であったことを考ればさまざまな闇の関係が明らかになるかもしれない。
一ヶ月くらい前になるが

旧満州国の中央銀、アヘン専売制へ資金 公文書館に資料
朝日新聞 2006年1月4日付け(リンク切れ、キャッシュ等で確認してください)
http://www.asahi.com/national/update/0104/OSK200601030009.html
 
日本が戦前、中国東北部につくった旧満州国で実施されたアヘンの専売制度をめぐり、同国の中央銀行だった「満州中央銀行」が、生産や販売に資金を提供するなど制度確立に重要な役割を果たしていたことが明らかになった。愛知県立大の倉橋正直教授(中国近現代史)が、中国・吉林省の公文書館にあたる「档案館(とうあんかん)」が保存していた同銀行の内部文書を入手した。同国は建国当初からアヘンを歳入の柱の一つとしており、背後にあった当時の日本のアヘン戦略の全体像を解明する手がかりになる可能性もある。

 満州国のアヘン専売は建国された1932年度に始まった。今回見つかったのは、同銀行が保管していた33年度(同国年号で大同2年度)の「阿片専売特別会計」の一部や、アヘンの原料となるケシの栽培農家に同銀行が費用を貸し出していたことを示す36年(同康徳3年)の資料など計約260ページ。档案館には敗戦時に散逸を免れた同銀行の内部文書が約5万点収蔵されており、その中に残されていた。

 「阿片専売特別会計」は、アヘンの集荷や原料からの製品化を受け持つ専売公署と同銀行との資金のやりとりの記録。首都の新京(現・吉林省長春市)にある公署以外に、国内に計10カ所あった専売支署が各地の同銀行分行や支行と個別に資金を収受していた状況が記されている。

 専売制度発足直後で軌道に乗っていなかったためか、「鴉片(アヘン)作業費 減額 六八四二九七六・一二」などと、年度末に収入見込みの減額を赤い数字で記入した文書が多かった。一方で、「違法阿片」を押収してその分を繰り入れたことによる収入増を「臨時密生産鴉片収納費 新規 三六八四五」と黒字で記して報告した文書もあった。

 各専売支署は地域ごとの販売権を政府指定の卸売人に独占させ、アヘンを流通させていた。35年7月30日付の「阿片収売人並ニ卸売人ノ保証金利息支払ニ関スル件」とした専売公署の通知は、卸売人から預かった保証金の利子を同銀行から各卸売人に支払うよう求めていた。

 1912年のハーグアヘン条約などでアヘンの輸出は国際法違反とされていたが、日本は国内で生産したアヘンを、アヘン戦争以降も多数の中毒患者のいた中国大陸に大量に流通させた。満州国でのアヘン専売は、同国を日本の傀儡(かいらい)政権とみなした国際連盟から厳しい非難を浴びたが、制度自体は敗戦まで継続した。


というニュースが朝日新聞にあった。満州国や蒙古連合自治政府、他の日本の親日傀儡政府にとって、阿片専売制度というんは主要な資金源となった。汚職役人や日本軍の特務機関、日本の当時の商社がハイエナのように群がり、中国大陸の民衆を阿片漬けにして生活を破壊し、貪っていたのである。中国で大日本帝国が阿片で巨利を得て、各々の自治政府の運営や軍隊の資金源になっていたことはあまり知られていない。しかし、公然化することができない重大な国家犯罪であるが、敗戦後徹底的に書類や証拠を消滅させることによって、東京裁判ではあまり追及することができなかったのだろう。私はあまり詳しい知識があるわけではないわけなので、ここまでにしておくが、こんなところでもさらりとこういう大日本帝国の闇が浮かび上がってくるのである。part7に続く。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 18:05 | Comment(4) | TrackBack(42) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part5

part4の続きです。さっそくですがp35〜36を引用します。

 
農場での季節が過ぎ行くうち、私は過酷な環境で生きぬくべく苦労しているモンゴル人の利権と、彼らからできるだけ多くの馬や肉や羊毛をとりあげようとする日本軍の利権が、根本的に相反するものであることに遅ればせながら気づきはじめた。日本人の中にもまっとうな人間はいた。日露戦争からこのかたモンゴルに住み、モンゴル人のことを心底考えている者もいないではなかったが、実際の政策にかかわり、施行するのはそういった人間ではなく、政策決定権は軍部の手に握られていた。役人もほとんどの場合自らの懐を肥やすことに夢中であっ。
 とはいえ役得の多い満州や中国に派遣されるのと違って、モンゴルに送られるのは懲罰の意味合いも強かった。ここは2.26事件に連座して処分をうけた若い兵士や文官が大勢いたが、ものわかりのよい行政官になる気はなさそうだった。相反する利益の狭間で引き裂かれ、無慈悲な日本の軍部が自分と等しく感じられるようになった民を搾取するのを2年間にわたって目にし続けた結果、私の理論は風にはためく礼とう旗よろしくボロボロになり混乱し切っていた。いまだ「祖国を救う」ことを・む一方で、モンゴル人の友人の子持ちもよくわかった。自分たちにはとても容認できない、不合理なまでの頭数の馬を税金として日本の役人に要求されるとモンゴル人が嘆くのは、単なる苦情ではなく、死活問題にかかわるからなのだ。

木村氏は大日本帝国の内モンゴル植民地支配に対して疑問をもちはじめるのです。無慈悲に民を搾取する日本軍。占領地の民(遊牧民)と現場で接して深く交流する立場にあった木村氏の心はその民と軍部の間で揺れ動いているのです。しかし、こうまであっても国家への忠誠は変わっていません。木村氏と長坂氏は実験農場に査定のため訪れた調査官に対して嫌がらせをします。何よりもモンゴルの遊牧民の生活を守るためです。その調査官というのは誰からなく威張りたがり、予想しうる最悪の連中で、臭い「土着民」と生活をともにしている人物に対しては特に優越感を抱く輩でした。家畜に去勢をほどこす時期だったため、不運な家畜がうしなったものをつまみとして出したり、乗ってきたトラックに細工し、乗りにくい逆V字型のモンゴル鞍で馬に乗せて全速力で失踪させたり、集団去勢の現場を見学させたりして、調査官に対していろいろ悪戯をやったりしたということが書いてあった。木村氏らの現場の日本人の興味深い抵抗のエピソードである。そしてp37〜38の記述に続く。
 
 
大人気ない悪戯であったが、なんら大勢に賊響を及ぼすことはできなかった。はるか草原に住んでいながら、「モンゴル独立」闘争がたぶんに道化芝居であり、日本が民族運動の指導者徳王(デムチュクドンロブ)の後押しをするのも自らのもくろみがあるからだと実感するの、こんな人物にあったときだった。
 徳王はチンギス・ハーンの31代目の子孫であり、伝統に連なる貴族の最高位であり、西スニット旗の支配者であった。民族運動といっても中国・外モンゴル・日本で教育を受けた急進的な若いインテリと、それぞれ意見が異なるモンゴル人王侯(彼らのあるものは、北京に住み、保守的かつ貪欲、愚かでさえあった)の間で根深い分裂があった。もう少し時間があれば、徳王も「自治区」を作り上げることができたかもしれない。しかし、搾取をもくろんでいた日本軍にしてみれば独立運動の分裂は理想的といえた。私が興亜義塾で学んでいた頃、徳王の首都は厚和(フフホト)にあり、軍隊――といっても忠誠心のはなはだ怪しげなもと山賊が大部分―――がその地に駐屯していた。徳王の政府(蒙古連盟自治政府)といっても、日本人の吹くメロディに合わせて踊りつづけることによって存在を許されている傀儡政府で、しばらくするうちに
重要なポストはすべて日本人に乗っ取られていた。
 ここでモンゴル人に対して情深い態度を見せておけばよかったものを、日本はせっかくの機会をどぶに捨てつつあるようだった。モンゴル人は中国が農民を草原地帯に移住させるのを、放牧地が破壊され、遊牧民の生存が脅かされるのを、なすすべもなく見守ってきた。だからモンゴル人にしてみれば中国のくびきをふり捨てることを・むもっともな理由があったのだ。ここで日本人が貪欲さをむきだしにすることなく善意をもって行動したならば、全世界から称賛を受ける可能性があっただろうに。


これが内モンゴルの植民地支配の実態である。蒙古連盟自治政府とはいっても、日本人の手中で踊り続けていて、実態は日本の植民地であり、重要なポストはすべて日本人によって乗っ取られていた。満州国と同じである。トップだけ蒙古連盟自治政府では徳王、満州国では清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ込んで忠実な操り人形としたわけである。「ここで日本人が貪欲さをむきだしにすることなく善意をもって行動したならば、全世界から称賛を受ける可能性があっただろうに。」という部分は著者の皮肉というべきである。そんなことは大日本帝国の歴史をみれば不可能なのだ。侵略と膨張、天皇体制と暴力性、帝国主義としての程度の悪さを内在させて常に45年の敗戦で敗れるまで成長させてきた歴史をもつ。大日本帝国は膨大なアジア・太平洋地域、中国大陸を占領下に治めるにいたったが、感謝された例は皆無に等しい。そればかりか、各々の侵略現場で残してきた傷は今になっても新たな日本軍の蛮行事例の発見や従軍慰安婦・731部隊・強制連行・労働訴訟などとなって沸いてくるのである。それだけのことをしたのだから、反省しろと右翼勢力には言いたい。
part5へ続く
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 17:14 | Comment(2) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part4

 part3の続きです。
木村氏は実務を行いながらも勉強を続ける時間がたっぷりありました。たまたま訪れる巡回獣医を除けば、日本人は興亜義塾の同期生・長坂芳治氏ひとりだけでした。ただし、どちらかが休暇に出ているか、実験農場の離れた場所で去勢や交配の監督をしなければならなかったので日本語で会話する機会がなく、いやでもモンゴル語が上達するほどでした。農場には、馬、ラクダ、牛、羊の群を管理する遊牧民の6家族が住んでいました。しかし、その誰もが過酷な運命にあい、家畜の数が少なすぎて税金が納まられなかった人々ばかりで、旗の事務所は農場にいる木村氏らにその人らを押し付けたのでした。木村氏は無用とされた土地と人々を受け入れ、2つを組み合わせて生産隊をつくりだし、動物を管理していました。
 実験農場で日々を送る中、事件が発生します。p31〜32より引用

 
そうした人々とはべつの経緯をたどってこの農場に現われた男もいた。彼は後に私のモンゴル人の親友の一人となり、後の旅の道連れになった。男の名はダンザンハイロブ、縮めてダンザンといった。彼は一種の政治犯としてこの農場に抑留されていたのである。これは善隣協会が軍部と鋭く対立した事件のひとつであった。
 ダンザンは包頭の北にあるバダゲル(五当召)・スム(スムとはモンゴル語で僧院、廟のこと)という大廟の僧侶だったが、親孝行の彼は母親のたっての願いをかなえるために僧院を離れてラサへ巡礼へ出た。何年かの旅の後、2人は廟に戻ってきたが、すでにひどく老いていた彼の母は新たな願いを抱き始めていた。故郷東モンゴルに戻って死にたいというのである。孝行息子は母親と連れ立って再び旅に出た。自分は馬に、母親を自分の引く荷車に乗せて。しかし道中彼は日本の特務機関に外モンゴルのスパイの容疑をかけられ、逮捕されてしまったのである。
 たまたまダンザンの子供時代の親友であり、西スニット旗のすぎ北にある僧院に住んでいたドルジが、親友の苦況をききつけて善隣協会のスタッフに泣きついた。ドルジはラサ近郊のデプン僧院で12年間学んだ経験をもつ老僧で、語学学習のために僧院に派遣された若い労働者と親しい仲になってから、善隣協会のスタッフにはよく知られた存在になっていた。彼の訴えは暖かく受理され、善隣協会は石頭の軍部をだだめすかし、時には議論をふっかけて、ダンザンの身柄を保証してなんとか実験農場にひきとることに成功した。長坂氏と私が農場にやってきた時には彼はすでにここにいた。


 実験農場は蒙古善隣協会が管理していました。善隣協会と軍部が対立することになるという記述はp16〜17で見受けられました。引用しますと

 
張家口は万里の長城ぞいの、ほとんど木の影のない荒涼たる峡谷の中にあり、砂塵混じりの風が常に吹きつけている。初めて見たときは、僻地のうち寂しい駐屯地という印象だったた、ここに住む日本人がこの町を気に入っていると知ったときには驚いたものである。その後、4年間にわたってこの町は私の都会生活の基盤となってくれた。半年おきの休暇もこの町で過ごした。私たちの訓練の任にあたる「蒙古善隣協会」の本部もここにあった。善隣協会は、表向きは民間機関で(ただし、興亜院から財政補助を受けていた)、鉄道ぞいに多くの学校や病院を、また北方、内モンゴルの草原にもいくつもの実験農場を経営していた。
 ある意味で善隣協会は後の平和部隊やUSAIDのような米国の団体と比較することもできるだろう。会員の多くは私のように若く、多少ロマンチックで、少なくとも最初のうちは、信じられないほど純真で理想に燃えており、満州やモンゴルなどにたむろする普通の若い民間人とは大違いだった。この地にある青年の多くはできるだけ手っ取りばやく大金をこしらえ、その大部分を歓楽街につぎこむことに熱中していた。学校や病院を設置したのも、日本のイメージ改善以外のなにものでもなかったが、協会に勤務するものの大半は地元の人々と深い絆を培い、結果として軍部と対立することになった。


p16の段階では「結果として軍部と対立することになった」という意味深長な語句の背景は示されていませんでしたが、p31〜32の引用をみれればみえてくると思います。善隣協会とはいっても軍部の機関である興亜院から財政補助を受けており、実質は民間団体ではなく、蒙古における日本の侵略に加担した機関であるわけです。"善隣"とはついているものの、ちっとも善隣ではなく、遊牧民などを利用して、無駄な羊などの動物をつくって、軍需物資を生産し、侵略遂行努力のために尽くす大日本帝国と一体となった組織だと思います。学校や病院を設置したといっても、大日本帝国に対する住民の支持を取り付け、結果的に効率よく日本軍の戦争に動員する軍部の宣撫上の目的の一部分を担ったにすぎません。しかし、日本軍の侵略遂行のための組織である善隣協会とはいえ、軍部と対立する結果となったのは、軍部が石頭すぎて、要求が過大だったということと、もう一方で住民と草の根で交流し、深い絆をもつにいたった人々がいっぱいいたこと、生の占領地民衆の声に接することで軍隊組織や当時の一般の日本人には養いにくかった良心・良識をもてたことにほかならないと私は考えます。

p32にはまた大日本帝国が外モンゴル侵略の目的をもっていたことを示す記述が現われます。
 
さほど 遠くない外モンゴル避難民部落も新たな友人を作るのに適していた。日本人はこうした外モンゴルからの避難民に対してきわめてよくしてやっていた。彼らの故郷を侵略する計画をもっていた軍部は、彼らを協力者として用いるつもりだったのである。軍部はまたモンゴル人民共和国によって禁じられたモンゴルの最高位の活仏ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者捜索計画に資金を提供していた。この地域で働いていたおり、私はよく生粋の外モンゴル方言を楽しむためにこうした部落に馬を走らせたものだ。


続いてpart4に移りたいと思います。part4では農場での日々を過ごすうちに、モンゴル人の利権と日本軍の利権が合わないことにうすうす気づいてきます。日本軍の内モンゴルでの侵略ぶりの一端がだんだんと明らかになってきます。
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part3

著者は瀋陽で国境を越え、列車を乗り継ぎ、北京で同期生と合流した後、張家口を経てフフホト(厚和)に到着。興亜義塾の第二期生となりました。蒙古善隣協会が著者らの教育を受け持ち、そして教室で訓練を受けます。フフホト滞在中、言語だけでなくモンゴルの歴史と経済の基本も軍部の望むままに学習させられました。ところでp18〜19に興味深い日帝悪につながる記述があるので紹介します。
 
モンゴルの遊牧民がどこへでも好きな場所に彷徨っていける自由な民と考えるのは完全に間違っていると知ったのはこの時のことである。17世紀、満州人は清王朝を建設し、遊牧民を盟(チョールガン)、「旗(ホンヨー)」「佐(ソム)」に編成しなおした。遊牧民が自由に移動できる地域を規定するのは「旗」であり、この旗が遊牧民にとっての一種の国家となっている。この制度を導入したのは満州人(彼らも遊牧民である)で、中国のどの王朝にとっても頭痛の種だった、そして一度は中国を征服して王朝をうちたてたモンゴル人のエネルギーを封じ込め、抑制することに成功したのであった。
 またモンゴル人の居住地域がいかに広大かということもわかりはじめた。東は満州から西はヴォルガまで、北はシベリアのブリヤート・モンゴル人の住む土地から内外モンゴルを通って中国の万里長城まで。これらの地域と人々の大半は1921年に外モンゴル、つまりモンゴル人民共和国の中に組み込まれていた。この国を共産主義の圧政から解放するのが我々に課せられた義務の一部であると教わっていた。1930年代後半、外モンゴルで反宗教キャンペーンがおき、大部分の僧院が閉鎖され、難民の流出が起きた事実がしきりと強調された。また、日本側は外モンゴルからの避難民のために草原にセンターを設立し、故郷に戻れるよう協力すると約束していた。ただし、1930年代、外モンゴルの僧院の多くが日本から送られてきた武器であふれかえっており、それが宗教弾圧を招いたことは私たち生徒のあずかりしらぬところであった。

 日本軍がモンゴルで内乱を起こすように、僧院に対して武器を送り工作したということがかかれています。外モンゴルの共産政権に宗教弾圧を引き起こさせ、それを口実に外モンゴルを侵略しようと伺っていたことがとれます。
 話を戻しますが、教室だけでの訓練には限界があり、6ヶ月後実地訓練として、チャガントロガイ・ホラルというチベット式の寺におかれ、モンゴル語の訓練を受けます。少年僧やその地域の子供たちを相手に著者はモンゴル語を学んでいきます。木村氏は単なる日常会話だけでなく、こみいった討論や遊牧民が語る物語までも理解できるようにまでなってきました。しかし、語学研修も戦時経済の犠牲になりました。1942年4月のことです。真珠湾攻撃も終わり、連合国とも交戦状態に入っていました。研修期間が中止になり、内モンゴルの西スニット旗と東スニット旗のザリン廟付属の実験農場に任用されることになります。(旗というのはモンゴルの行政単位)。
 実験農場と実験農場の役割、および著者がでくわした失敗の部分を抜粋してみます。
p28〜30より
「実験農場」という言葉からは、現代風の建物に白衣の技術者が歩き回っているという光景が彷彿させられるが、実際のところ、本部は3つのユルトといくつかのモンゴル式のテントがあるにすぎなかった。外見からは他の遊牧民の幕営地と何らかわりなく、2人の若い日本人労働者のために特にしつらえられた近代設備は皆無だった。
 この農場が他の幕営地と実際に異なっている点は2つしかなかった。一つは私たちが掘った井戸である。両旗は善隣協会に土地をわけ与えることには同意したが、私たちをひやかすつもりだったか、タムチン・タル、「地獄平原」と呼ばれる水もない場所をよこしたのである。さほど深くないところに地下水があるのがわかったが、井戸の壁を支える材料がみつからず、せっかく掘っても砂混じりの土壌が穴を埋めてしまう。私たちは柳の枝を編んで作った大きなむしろを筒状にして、掘った穴に埋め込むことでこの問題を解決した。遊牧民にはこうした井戸はもの珍しいらしく、喉のかわいた家畜をつれた遊牧民が群をなして私たちのもとを訪れるようになった。自分たちが何を企てているのか彼らに知っておいてもらいたかったからである。
 実験農場のもう一つの際立った特徴は、新種の羊であった。実際のところモンゴル羊の改良が私たちの真の仕事だったのだ。鉄道ぞいの学校や病院は目に見える形で地元民に利益を還元したといえるが、こうした実験農場は、まったく異なる目的で始められた。第二次世界大戦開始以前からオーストラリアと米国は日本への家畜類輸出禁止措置をとったため、日本は肉、羊毛、皮といった必需品を欠くようになっていた。そこでこのモンゴル羊の「改良」も、専ら日本の戦争努力のために肉と羊毛を配給しようという試みだったからである。
 私たちは満州方面から手に入れたオーストラリア産の種牡〔メリノー種〕の羊を用いて品種改良を行なっていた。3代目の混血種は在来種よりずっと強く大きく、実際に成人を乗せることもできるほどであった。また羊毛もずっと上質で細かくなった。一代目の混血種の牡ともとの種牡を交配させれば外見上はオーストラリア種とほどんど変わらない種羊ができる。私たちの主要な仕事はこの雑種の種牡をできるだけ多く生産し、おもだった遊牧民にわけ与えることであった。私たちの当初の予定では遊牧民はこの種牡をつかって自分たちの持っている羊を品種改良し、その羊毛を大蒙公司に売却するはずであった。
 これは簡単きわまる計画に思われ、確かに私たちの実験は遊牧民の間に多大な興味を呼び起こした。ところが私たちがつくりあげた交配種の一頭を誇らしげに遊牧民にわけ与えるまではいいのだが、哀れなその羊はせっかくの能力を示す機会を与えられず、あっという間に殺され、食われてしまう。遊牧民たちは誰一人として自分たちの羊の群れにこの突然変異の羊の血が混ざることを望まないようだった。この計画の立案者が考えに入れていなかったのは尻尾だった。モンゴル在来種の羊は外見こそ奇妙だが、タフな生きものである。その際立った特徴のひとつは、平らな尻尾である。これがモンゴル人の大好物、最も美味な部分なのである。遊牧民にしてみれば、この美味たる尻尾のない羊など、瘤のないラクダ、ひづめのない馬も同然である。私たちの種牡は犬のような尻尾をしているといわれた。そんな羊を自分たちの群れに放すぐらいなら、単なる食肉とみなしたほうが安全というものである。おまけにその肉もモンゴル在来種より多少劣っているとみなされていた。


せっかく改良した品種を受け入れられず、食べられてしまったというところですが、典型的に当時の日本人の責任者というものは軍部といい、その一実験農場といい典型的なアホということが分かります。この計画の立案者は遊牧民というものが分かっておらず、どんな羊でも羊に変わりないとしか頭になかったのでしょう。大日本帝国は戦争遂行努力のために、内モンゴルまで侵略し、そこに暮らす遊牧民まで動員し、彼らの生活を踏みにじろうとしました。とりあえず、今日のところはここまで。
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part2

 当時の愛国青年というのはどのようなものだったか、『チベット偽装の十年』より木村氏自身の事例より見ていきたいと思います。

前掲書p13〜14より引用

 
強い国が弱い国を併合し、なおかつ何の責めも受けないのが普通であった時代のことである。こうした行為はよこしまな不道徳な行為であるとか、世界が植民地時代から移り変わりつつあるなどと考える日本人はほとんどいなかった。私自身、日本が世界を――――少なくともアジアを救済しているという誇りを抱きつつ大きくなった。日本が満州を占領したのは私が9歳の時、そして中国を侵略したのは14歳の時だった。学校では国家の政策を批判したり、疑問を呈したりすることはもちろん、それについて考えをめぐらせることも奨励されず、天皇の錦の御旗のもと、我が国の聖なる使命と戦闘の華々しい成果だけがたたきこまれた。冒険心に富んだ無邪気で理想主義者の少年にしてみれば、未来は前途洋々であった。
 帝国主義と軍国主義が蔓延した30年代の日本を背景に理想主義をもちだすのは奇妙に思えるかもしれないが、同じ年代のヨーロッパ諸国の青年たちが「文明化の使命」をかかげてアジアやアフリカも植民地に出かけていったことを考えればさほど奇妙とはいえまい。当時は何かを提供できると考えることはよい口実になったのだ。日本はアジアで唯一植民地化を逃れた国であっただけでなく、明治の大変革期に産業革命を成功させた国でもあった。ならばアジアの他の地域を教え導き、日本と同じような発展をおしすすめさせることによって、西洋帝国主義の悪に対抗できるのではないか?西洋諸国によって踏みにじられた東洋諸国が日本の指導力と励ましをあてにする――これほど自然なことはないのではないか?明治時代、農民の反乱がしばしば起き、政府から酷い弾圧を受けていたことは都合よく忘れ去られ、田舎で農民が貧困にあえぎ、右翼が跳粱していたことは顧みられることはなかった。
九州出身の人間は孫文を積極的に援助することで辛亥革命の初期段階に重要な役割を果たしていた。そんな話を耳にしながら成長した私は、普通の少年なら軍服を身にまとって天皇陛下のために出征したいと願うところを、無私無欲で中国の日本化に協力の手をさしのべた革命家たちと競うことを夢見た。当時の私は愛国主義も理想主義も一枚のコインの裏表にすぎないとは思いもせず、自由と尊厳を取り戻すために闘っている中国を援けることが、結果的には日本のさらなる栄光をもたらすという考えになんら矛盾を感じなかった。


 お前らアジア諸国は遅れて非近代的だから、大和民族が頂点にたって他の黄色人種を指導してやるとでも考えているのでしょうか?あまりにも尊大的で同じアジアの民衆の立場だったら腹が立ちますね。
>西洋諸国によって踏みにじられた東洋諸国が日本の指導力と励ましをあてにする
ふざけんじゃないと。大日本帝国の朝鮮半島侵略、満州侵略、大東亜共栄圏と名のつく大日本英国覇権搾取体制の背景にはこの種の優越感やアジア蔑視感があったことは間違いありません。

p16〜17より引用
 
なにはともあれ、私の夢想は当時の日本の新聞が大々的に書き立てていた新たな闘いにひきよせられていた。内モンゴルの人々が中国の圧政からのがれて独立したがっており、日本が私欲抜きでモンゴルに援助を与えているという(少なくとも私はそう教えられた)。ここに自分が積極的に果たすべき役割があるはずだと私は頭から信じ込んだ。興亜院は軍部のアジア政策と対立する文民の動きを封じこめる目的で設立された。私設の外務省とでもいうべき存在だったが、私は興亜院の政策を詳しく調べてみる必要があるなどとは考えもしなかった。
 私は申請し、4人の志願者とともに採用された。北京にすぐさま出頭し、報告せよと命じられた。これまでそれほど仲がよかったわけではない父がわざわざ下関まで見送ってくれた。下関からはフェリーで朝鮮半島の南岸、釜山に渡る。朝鮮半島を北上した旅のことはほとんど記憶に残っていない。将来を思うあまり、心を現在にたゆたわせるゆとりなどなかった。この不幸な国でわが国がいかなる政策をとっているか、列車の窓の外の光景からうかがい知ることはできなかった。日本名で呼ばれて返事をしなかった学校の生徒たちが殴られ、射殺されていることも、徹底した経済搾取のことも何一つ知らず、また幸いにととでもいうべきか、反日武装ゲリラがいることにさえまったく気づかなかった。実際の話、これほど広大な土地が日本の統治下にあり、自分が今そこを旅していることに感銘さえ受けていたのだ


多くの当時の日本人は当時の朝鮮人などの被植民地・占領民衆の生の悲惨な心の叫びに気づいていなかったのでしょう。それほど、当時の大日本帝国は日本人自身を愛国主義で洗脳していました。
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part1

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子編とわけでこの本は私的にはチベットやネパール、ラダック、シッキム等に旅行して、チベットマニアである在日コリアンの友人からちょっと薦められたもので、チベット問題には関心がなかったし、あまり読む気もしなかったが、驚くべきことにこの著書は大日本帝国が新疆ウイグル、チベット、外モンゴルまで侵略の手を伸ばそうとしており、実にダーティで侵略現場およびその覇権主義において、英米やナチスのそれとひけをとらないくらい程度の悪いものかを示すものである。この本は決して大きくはないと思うが、扱う歴史が大きく、チベット史、モンゴル史、イスラーム史、その時代背景、スパイ・特務員の裏の事象を扱うため、私には網羅することはできない。ここでは日帝悪、つまり大日本帝国の罪行や加害・侵略現場・事項について中心に扱いたいと考えます。
 この本について簡単にいえば、日本軍の特務員として、モンゴル僧になりすまし、新疆省に潜入しようとしたスパイの話です。
 木村肥佐生氏の経歴については省略。陸軍、海軍、航空士官学校へと若者を誘う当時のプロパガンダに心が動いていた純粋な愛国青年だったおうです。海軍経理学校の入学試験も受けました。興亜院支援のもと、中国行きの若者をつのる新聞広告を目にして、若者らしいアジア本土への熱い思いのもと受験しました。合格し、下関から釜山へフェリーで渡り、鉄道で朝鮮半島を抜け、北京を経て張家口へいきます。綏遠(厚和 フフホト)の興亜義塾の第2期生になりました。1940年4月のことです。
ところで興亜院というのは
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2003_11/bookreview_imura.pdf'
興亜院は,日中戦争下日本の対中国政策を実施するために1938年12月に設立され,42年11月大東亜省に吸収されるまでの4年足らずの間存在した機関である。興亜院は日本が支配した中国占領地の行政を統括した機関であり,占領政策立案のために数多くの調査員や技術者を動員して調査を行い,調査報告書を編纂刊行した。

ということらしいです。
本書のp16より引用すれば
 
なにはともあれ、私の夢想は当時の日本の新聞が大々的に書き立てていた新たな闘いにひきよせられていた。内モンゴルの人々が中国の圧政からのがれて独立したがっており、日本が私欲抜きでモンゴルに援助を与えているという(少なくとも私はそう教えられた)。ここに自分が積極的に果たすべき役割があるはずだと私は頭から信じ込んだ。興亜院は軍部のアジア政策と対立する文民の動きを封じこめる目的で設立された。私設の外務省とでもいうべき存在だったが、私は興亜院の政策を詳しく調べてみる必要があるなどとは考えもしなかった。

というわけで、いずれにしろ、興亜院という機関を設けるなど、軍部は大陸侵略やる気満々だったことが分かります。とりあえず、前置きはここまでにしておいて具体的に大日本帝国の悪行の事実について本書より抜粋していきたいです。
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2006年02月12日

『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著 明石書店にみる日帝悪および山西省残留日本兵についてpart3

肝心の山西省残留日本兵については、本書にこういう記述がある。
V 私とチャーズ P168〜171より 引用

 
平成5年の朝日新聞の記事の見出しに「中国残留は軍の命令」とありました。防衛庁で発見された資料によれば、旧日本軍首脳部の命令により敗戦後も武装解除されず、日本兵はそのまま1946年の4月まで中国共産党軍を相手に戦わされたということです。軍は「兵士たちは植林作業を指導するのが目的」 「本人の希望による留用者」というウソの書類を作っていました。「中国残留は軍の命令だった」との事実の確認を求めている旧日本軍兵士に対し、日本国は軍命令はなかったと判断しているそうです。
 戦争末期の日本の軍隊は、末端まで命令が届くような組織も機能も失っていたのですから、
「軍首脳の命令」などなかったという旧満州国にいた元軍人もいます。しかし、山西省では太原に帰還した閻錫山が、その後も現地日本軍と合作して共産党軍の進出をくいとめるために戦うという事態が起こったということは『中国の歴史』第9巻に書かれています。同じく平成5年に、横浜の市民が開いた「南京大虐殺」についてのフォーラムでは、元日本軍関係者がこれを裏づける証言をしていました。つまり徹底的な教育で天皇への忠義をたたき込まれた聖戦主義者たちは、どうしても戦いに終止符を打つことができなかったので、山西省で兵士たちの武装を解除させなかったとのことです。驚くべきことに、その人は「南京虐殺で多くの南京市民を殺した上に、戦後4年間中国に残留し、今度は国民党と日本軍とのあいだで秘密協定を結んで、共産党と戦いつづけた」と勇気をもって告白していました。
 戦後いちはやく市民を大陸に置きざりにして本国に逃げ帰った軍人幹部たち。一方であたかも本人の希望だったかのように書類が作られ、強制留用の上、戦後も戦いつづけねばならなかった兵士たち。「満州国」というまぼろしの国を支えた日本軍は、きちんと軍隊を解散させる処置を取らなかったために、戦後も中国の人びとを苦しめつづけたのです。

残留孤児の問題のほかに、中国には山西省において残留日本兵の問題があった。インドネシアの独立戦争で戦った元日本兵のように自発的なものではなく、国家の命令による強制的なものだったようです。戦時中はもちろん、彼らは中国民衆に対して罪行を犯し続けましたが、戦後も国共内戦に従軍し、加害行為を続けなければならなかったのです。軍の幹部は逃げ帰りましたが、末端の兵士たちは強制留用させられ、罪を重ねなければならなかったのでした。ここにもゆがんだ大日本帝国の構図が見えてくると思います。
 ちなみに山西省残留日本兵のニュースで過去にはこういうものもありました。

終戦後「軍命」で中国残留 最高裁 軍人恩給を認めず
神戸新聞 2005/12/17 (リンク切れ、キャッシュ等で確認してください)
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00045468sg200601171000.shtml
 
太平洋戦争終戦後、中国北部の山西省で、軍命を受けて在留邦人の帰国支援のための残留部隊を組織、抑留生活を送ったとして、元日本兵が国に軍人恩給を求めていた訴訟で、最高裁第二小法廷(津野修裁判長)は十六日までに、元日本兵らの上告を受理せず、原告敗訴の二審東京高裁判決が確定した。

 裁判では、原告側が当時の命令文書などを提出し「軍命による残留」を主張。これに対し、被告の国は、厚生省引揚援護局(当時)が終戦後にまとめた資料から、「原告らは志願して残った。恩給の支払いは認められない」とした。

 津野裁判長は上告不受理の決定理由について、「原告側の主張は事実誤認か、または単なる法令違反を主張するもので、上告の規定に該当しない」とした。

 二〇〇一年、元日本兵ら十三人が国を相手取り残留中の恩給を求めて提訴。一審東京地裁、二審東京高裁とも、元日本兵らの訴えを退けた。

 原告らはこの日、東京都内で集会を開き、「的外れの判決だ」と批判。石原純孝さん(80)=兵庫県美方郡香美町=は「われわれは確かに軍の命令で残留部隊の特務団に組み込まれた。原告団も次々亡くなり、今では四人になってしまった。亡くなった方のことを思うと申し訳ない気持ちだ」と語った。

 「全国山西省在留者団体協議会」の藤田博会長(80)=芦屋市親王塚町=は「司法では勝てると信じていたのに」と話した。

 一方、総務省人事・恩給局は「妥当な判決。残留兵の問題については、当時の厚生省で適切に処理されたものと考えている」とコメントした。(横田良平)


酷い話です。これも戦後補償の矛盾の一つです。大日本帝国は朝鮮人や中国人、他のアジアの民衆だけではなく、満州開拓移民をはじめ、日本人ですら、たくさん捨石にして遺棄してきたとんでもない国です。そもそも、『軍命』で残留したと被告が主張しているのに、帰還しなかったため、脱走兵扱いで、恩給が受けられないと国は見なしているのだろうか?とんでもない話である。軍人恩給とは何のためにあるのか考えていただきたい。純粋に国による自国の戦争被害者に対する補償という観点で行うべきだ。軍人とはいえ、国の命令で残留させられ、戦後も戦争をさせられた被害者である。こういう一つ一つの歪みの修正を怠ってきたからこそ、今の絶望的な日本があるのではないでしょうか?

山西省残留日本兵については右翼のサイトしかヒットしなかった。
山西残留の日本兵問題1
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_1.htm
山西残留の日本兵問題2
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_2.htm
中国山西残留の日本兵問題
http://www.tetsusenkai.net/official/e-mail/120917/godzillaswife/

とりあえず、参考に。詳細を知っている方がいらしゃったら、こちらまで投稿していただけるとありがたいです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 12:06 | Comment(11) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月11日

『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著 明石書店にみる日帝悪および山西省残留日本兵についてpart2

本書より興味深い記述を抜粋していきます。
T「満州」崩壊とチャーズへの道
5 八路軍が長春を一時占拠 P41より

 
八路軍が長春を占領していたのは、一ヵ月ほどでした。ボロを身にまとった八路軍の軍規は厳しく、略奪、婦女子への暴行の類はまったく行いませんでした。軍規の一つに、大衆の物は針一本、糸一筋も奪ってはならないとありましたが、戦犯への追及に関しては非常に厳しかったといわれます。このとき人民裁判で処刑された日本人も多く、中国人でも資産を持った者は摘発されました。


八路軍がいかに民衆に愛されいたかわかります。この原動力が八路軍および中国共産党の抗日戦争の草の根での原動力を支えて、日本の敗戦および国共内戦を破って中華人民共和国を建国することができたのです。

U知られざるチャーズの悲劇、
5 三反運動と私 P147〜149より

 私は中国の太々になて青空市場のなかで商いをしていた日本人のことを思い出す。この人は南の方にいて、ずっと日本の軍閥が中国を侵略していた頃に田舎にいたのだそうである。どんなことでそこへ流れ込んだのか知らないけれど、中国人と一緒に暮らしていたらしい。この人の話によると、小さい村にもときおり、日本軍から追われた狙撃兵が逃げ込むことがある。このとき、八路の人であると「パーお帰り」とか「兄さんお帰り」とかいうそうである。勢い込んで追いかけて来た日本兵は、兵隊が逃げ込んだはずだと家探しをするが、逃げて来た兵隊はその家族の一員としてすわっているので、どうしてもわからない。しかたなく出て行く。夜になるとその兵隊は感謝しながら、つぎの機会を約束して出て行くというのである。
 こうして民兵の名にふさわしく、兵隊が民衆に溶け込んだそうである。民衆は八路を信じ、
この兵隊のためにはどんな苦労も惜しまない。軍も民衆のために畑を耕し、道をつくり、戦いの合間には鉄砲を鍬に持ちかえて一生懸命働くのである。
 ここが八路軍の強いところであるという。八路軍は決して無理をしない。もし兵力の損害が多いとわかるとどこまでも退却する。敵はいい気になって追い込み、ついに深追いをしすぎて失敗するのである。
 中国人は国民党が来ると皆恐れて門を閉ざす。必ずといっていいくらい略奪が行われるという。しかし八路にはそれがない。事実、長春に八路が入ったときもいろいろのものを我が家に借りに来たけど、撤退するときは必ずこれらを返し、なにがしろのお礼をくれたことを思い出した。
 赤大根という表現は面白い。我々はなるほど赤大根だが、どうせ日民青の青年たちだって我々をなかまで赤くさせようと思っているわけではない。ただあまり資本主義的、ファシズム的にならないよう教えるだけである。


八路軍の軍規のよさは世界有数であることは知られているところ。軍規が粗暴であり、凶暴な日本軍兵士が日中戦争に勝つなど無理な話というわけだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 15:34 | Comment(6) | TrackBack(79) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著 明石書店にみる日帝悪および山西省残留日本兵についてpart1

良識派による市民的ニュース総合研究スレ7
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1123352639/にて投稿したものの焼きまわしとなるのですが、とりあえず、エントリーしておきます。

まず、チャーズというものの説明から。ネット右翼によって中国共産党のせいにされているのですが、実際のところはそうではありません。中国共産党の責任もありますが、実際のところは篭城作戦をとった国民党軍の責任も大きいのです。
『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著という本は餓死・離散の危機にさらされた日本人家族から中華人民共和国成立、帰国するまでを描いた物語であり、大地の子をはじめ、ここの種の悲劇を描いた書籍であれば、数多く出ています。もちろん、日本の民間人、しかもか弱き女性や子供とはいっても満州や中国の大地を侵略し、多くのか弱き中国や満州の民を踏みにじり、上に立って搾取し、苦しめたという事実を変えることはできませんし、受け入れなければなりません。しかし、日本の敗戦によってて中国の大地に取り残された日本人婦女や子供たちも哀れで悲惨な犠牲者であることには変わりありません。チャーズの説明をしたいと思います。

まず、チャーズというのはその真空地帯のことを意味します。チャーズというのは長春(日帝が満州国をつくったときの首都・新京)に存在しました。時代背景でいえば、国共内戦の終盤ぐらいで、共産党の人民解放軍は各地を制圧し、国民党軍は長春、吉林、瀋陽、営口、錦州などの都市に追い詰められていました。1948年から戦線が膠着状態に入り、長春では小競り合い程度の遊撃戦が続くような状態にありました国民党軍は兵士が捕虜になったり、共産党軍へ走るものが多く、だんだんと双方の兵力が拮抗してきました。
人民解放軍は長春を完全に包囲し、市民は市外へでていくことはできなくなりました。人民解放軍は長春での戦いでは一挙に攻めるという手段はとらず、周辺の農民を教育しながら、じわじわと長春を締め上げるために食糧封鎖という戦術をとりました。そんな中で起こった悲劇です。戦う意味を失いつつも、国民党軍は降伏せず、共産党軍の攻撃から自らを守るために長春市のまわりに塹壕を掘り、鉄条網を築き、言い換えれば長春は鉄条網の環の中にあったというわけです。長春市を脱出する経路が5箇所もあったのに、絶たれ、市の南の洪煕街の一箇所だけになった。国民党軍も食糧がなくなり、市民から取り立てるようになりました。厳しい食糧難のなか、市民は生き残りをかけて、長春から脱出を試みました。国民党軍にとっては、
長春市民が脱出してくれるほうが窮乏生活を耐え凌ぐには都合がよかったわけです。そんなわけで一度脱出した人が戻ることを認めませんでした。戻ろうとして関門の見えるところまで近づくと射殺されました。逆に共産党側は市民が出てくれば食糧封鎖の効果が減るのであまりでてきてほしくはありません。そこで両陣営のあいだに、多くの人々が立ち往生しました。
洪煕街という通りの先1キロばかりの「チャーズ」と言う地帯は「真空地帯」とも呼ばれ、生きる手段がまったくない地獄の場所というわけです。チャーズといわれる地獄地帯の出現は中国共産党の責任かと言われる問題があります。もちろん、中国共産党の責任もあります。もちろん、戦争には勝ったが、兵糧攻めにして、飢餓で殲滅させるという戦術は非人道的すぎます。しかしです。本書には書いてあるが、そういう非難を向けられて毛沢東は食糧封鎖を命じたのは自分ではないと断言した。(第三次国内革命戦争概況)。当時毛沢東は当時「長春を包囲してもよいが人民を痛めつけてはならぬ」と命じていたそうです。ところが林彪が長春における兵糧攻めの戦法を決定しました。 当時、東北部の解放軍を指揮した人物である。文化大革命では毛沢東への裏切り者とされ、飛行機で逃げるところを墜落し、(あるいは撃墜され)、死亡したとされています。というわけで、共産党への右翼の非難はあたらないというわけです。さらに言えば、餓死させる戦術を長引かせたのは、国民党軍にも大いに責任があります。国民党が勝ち目がないと明らかになっても降伏しなかったからです。しかもさらに本書ではアメリカについての責任も言及しています。もちろん、その希望を与えた一因にアメリカの援助があり、アメリカが国民党軍のために物資を運び込むという援助をしたからです。国民党とアメリカとは切り離せないものがあります。アメリカは中国の共産化を避けるために、国民党を援助していました。この本ではソ連にも批判の矛先を向けています。ソ連は終戦間際に満州に侵攻しました。 東北抗日軍が関東軍に追い詰められ、ソ連で再編された共産党軍が含まれていました。中ソ合同軍は長春に無血入場、各都市への進出を果たしました。ソ連は旧満州にあった中国の東北部を中国共産党側に引き渡して引き上げるのが当然でした。しかし、毛沢東や中国共産党、中国民衆の知らないところで密約が成立していました。ソ連の満州における利権や戦後における利益を補償するために密約がありました。ヤルタ協定です。ちなみにヤルタ協定は米・英・ソで、当事国の中国が入っていませんでした。大国の論理で密約が成立していました。ソ連が中国のアメリカの非共産化政策を阻止せず、共産党に日本軍の武器を渡したぐらいで、各都市から撤退するように命じた上で広大な満州の大地のほうは国民党側に渡しましたというのです。 このことを本書では厳しく書かれていました。小さい本ですが、戦後の中国・満州情勢をめぐる中でいろいろ勉強になりました。
チャーズというのはあまり聞きませんが、大日本帝国から解放された満州にあっても、このような悲惨な悲劇が起こったということを頭の片隅において置いてください。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 15:32 | Comment(4) | TrackBack(92) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ワイルドスワン ユン・チアン著 土屋京子訳 講談社にみる日帝悪part1

第3章「満州よいとこ、よいお国」 ―日本占領下の暮らし(1938年〜1949年) p74〜より引用

 
学校教育、とりわけ歴史と修身は、日本人によってきびしく統制されていた。学校では、中国語ではなく日本語が公用語だった。小学4年生以上になると、すべての授業が日本語でおこなわれ、先生もほとんど日本人だった。


つまり満州国は独立国家ではなく、大日本帝国の植民地・占領地にすぎなかったというわけだ。朝鮮半島や台湾と同じように日本人同化政策を推し進めたというわけ。

p74〜75より引用
1939年9月11日、母が小学校2年生のとき、満州国皇帝溥儀と皇后が錦州を公式訪問することになった。母は、皇帝夫妻が到着したときに皇后に花束を渡す役に選ばれた。(略)。溥儀と皇后が姿をあらわすと、ブラスバンドが満州国国家を演奏した。全員、直立不動の姿勢をとった。母は進み出て、大きな花束のバランスをとりながら、腰をかがめてお辞儀をした。(略)。
 母はたしかに出来のよい生徒であったが、皇后に花束を渡す大役に抜擢された理由は、成績だけではない。夏先生にならって、国籍の欄にいつも「満州」と記入していたからだ。満州は満人の独立国家ということになっていた。溥儀は、日本人にとってまことに都合のよい存在だった。ほとんどの満人が、自分たちを支配している人物―かりに彼らがそのようなことに興味を示したとしての話だが―は満州皇帝だといわれれば納得したからである。夏先生も、みずからを満州皇帝の忠実な臣民と考えていた。祖母も同じだった。中国ではむかしから、夫の言うことすべてに賛同するのが妻の愛情表現とされていたから、祖母も当然、それを踏襲した。祖母は夏先生が大好きだったから、ほんの少しでも先生と考えが違うのがいやだったのだ。
 学校では、私たちの母国は満州国です、と教わった。満州国のとなりに中国人の共和国がふたつあり、ひとつは蒋介石が率いる敵対国、もう一つは汪精衛(中国の一部を支配していた日本の傀儡政権)を首班とする友好国である、とも教わった。しかし、満州も含めた中国全体がひとつの国であると教わらなかった。


いかに満州皇帝溥儀と満州国自体が日本にとって都合のいい存在であるかわかります。大日本帝国ファシストの統治自体が巧妙で、長年の内乱と皇帝統治の歴史によってつくりだされた中国人自身の思考形態を逆手にとって、都合のいいような奴隷につくりあげていこうとしたかが、これだけの引用でもわかるでしょう。

とりあえず、このエントリーではこのようにして、日帝悪の記述が含まれる書籍を中心に取り上げて、大日本帝国がいかに醜い存在であったかというのを皆様に知らしめていきたいと考えています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 14:29 | Comment(6) | TrackBack(93) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このカテゴリーの紹介

このカテゴリーでは日帝悪情報をメインに扱っていきます。日帝悪というのは、過去の日本の体制、大日本帝国・天皇ファシスト体制が日本国民および韓国や中国、アジア民衆に与えたあらゆる加害事項についてです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 13:44 | Comment(7) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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