http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/17514322.htmlの続きです。
本書のなかで日本の過去(大日本帝国・日本軍)と係わり合いの深い部分を取り上げていこうと思います。ビルマと日本の関係でいえば、最初の接点となったのは、日本軍の情報機関とビルマ独立派との接触があげられます。ビルマ独立義勇軍を結成させて、日本軍とともにビルマに侵攻させました。しかし、ビルマを占領した日本軍は直接軍政を敷いて、ビルマ独立義勇軍を解散させて反発を受けます。ビルマへ日本軍が解放するために来たのではなく、大東亜共栄圏に組み込んで、イギリスに変わる植民地主義者としてビルマを支配するために侵略するためにビルマにやってきたのでした。そして、過酷な支配と相俟ってビルマ民衆の反発を招き、1945年3月にインドからビルマに進撃してきた連合軍に呼応する形で、子飼いのビルマ国軍と抗日グループにより、日本軍は攻撃されました。5月にはビルマ国軍自身の手でラングーンを取り戻すことができました。しかし、ビルマと日本の関係は日本の敗戦によって途切れたわけではありません。ビルマは実質的に今も日本軍の占領下にある状態だと言っても過言でありません。なぜならば、何度もいうように、ビルマ国軍の前身は、日本軍に軍事訓練を受けたタキン・アウンサン(アウンサンスーチーの父。後に将軍)を筆頭にした独立運動を担った若者たちの「30人志士」に由来するからです。アウンサン亡き独立後のビルマ国軍は30人志士の一人であるネウィンがトップに君臨します。当時のメンバーには日本軍が開設した士官養成機関で学んだり、戦時中日本に留学した人たちが登用されました。したがって、ビルマ国軍には日本軍のカラーがよく残りました。そのビルマ国軍が現在もビルマ(ミャンマー)の政権に居座り続けているわけです。そんなわけで、本書より重要で日本と関わりあう部分を抜き出していきたいと思います。
●イギリスの分割統治支配とビルマにおける日本軍政について
p24〜p26より
分割統治の残したもの
イギリスは、はじめビルマを英領インドの一州としてインド総督の統治のもとに置いた。その後、1937年になってインドから分離、ビルマ総督が支配する体制になった。
しかし、シャン、カチン、チンなど少数民族が多い山岳地帯に関しては、フロンティア・エリア(辺境地帯)として、平原部のように直轄支配地域とせず、藩王、土侯などの封建的な権力者を残し、彼らを通じてその地域を間接的に支配した。いわゆる「分割統治」である。
このイギリスの植民地支配は、のちにさまざまな問題を生む種をまいた。ビルマ平原部と辺境地域の統治形態が異なるため、住民のあいだの一体感は薄く、独立運動においても、独立後にも両者が協力体制をとることは、たいへんむずかしかった。
また、山岳地帯では宣教師の布教活動によってキリスト教徒となる人が多かった。
イギリス人からすれば、頑固に仏教からの改宗を拒むビルマ人(族)よりは、キリスト教徒となり西洋文明に理解を示す者のほうが警戒しなくてすみ、使いやすい。キリスト教徒となった少数民族出身者らはイギリス植民地統治の役人として、あるいは植民地軍の兵士として働き口を得るようになる。彼らは平原部のビルマ人からは「イギリスの犬」のように見なされ、英領インドから労働者としてやって来たインド系住民同様、嫌われものとなった。
なお、インド人労働者とビルマ人労働者の大きな衝突は、1930年、38年に起こっている。
1930年代になると、イギリス植民地政府に対する農民や労働者、それに大学生らの抵抗は、組織だったものになってきた。1930〜32年にかけてのターヤワディ農民反乱(指導者の名前をとってサヤー・サン反乱ともいう。ターヤワディは下ビルマの地名)、1936年のラングーン大学学生ストライキ(このとき学生連盟が結成され、アウンサンが書記長となる)、中部油田地帯の石油労働者のストライキに端を発し、学生や民族主義的な政治団体などが加わって全国的な反英闘争が広がったビルマ暦1300年(西暦1938〜39年)国民運動などが、つぎつぎと起こった。
これらは、ビルマの教科書では独立運動のさきがけとなった愛国心の発露として大きく取り上げられている。
しかし、一方では、独立後のビルマ連邦を悩ませる少数民族の反政府反乱の原因のひとつが、この時期に芽生えている。衝突事件であれ、労働争議であれ、暴動であれ、取り締まるのは警察であり、植民地軍である。立ち上がったビルマ人大衆に時には銃を向けざるを得なかった警察や軍には、多くの少数民族の人たちがいた。鎮圧の対象となったビルマ人(族)にとっておもしろいはずはなない。
この逆のことは、日本軍の支配時代に起こっている。日本軍の協力によって誕生したビルマ独立義勇軍(BIA)は、日本軍政下でイラワジ・デルタ地帯を中心とする下ビルマ一帯で、しばしばカレン住民と衝突事件を起こした。BIAは、カレン人は親英派であり、逃げ出したイギリス軍とこっそり連絡をとっている、武器を隠し持っている、などと嫌疑をかけ、日本軍と協力して、カレンの村を焼き討ちしたり、おもだった者を殺害したりした。
ビルマにおける民族対立に日本軍が関わっていた。イギリスはカレン人などの少数民族を警察官や軍に採用し、カレン人などに多数派のビルマ人(族)を抑えさせる製作をとった。逆に日本軍はビルマ人(族)を使った統治を行い、それでカレン族が抑圧される。イギリス植民地下でビルマ人が味わった抑圧よりも、カレン人が日本軍占領中に味わった抑圧ははるかに過酷であり、日本軍もカレン人を抗日的だと見ていて、日本軍とビルマ人の両方から激しい弾圧を受ける結果となった。戦後、ビルマ人を中心とした政府で独立した段階で、カレン人がビルマ連邦に非協力的であり、直後から一部のグループが「分離独立」、あるいは「大幅な自治権獲得」をかかげて反政府武装闘争を開始することになった原因は、イギリス植民地時代の分割統治と日本軍占領時代に起因するのである。とりわけ後者の要因が大きいのではないのだろうか。日本軍の侵略は人的や物的な加害の側面にとどまらず、こういった現在まで続く民族対立にも深く関わっていることにも理解し、大日本帝国・日本軍の加害の一側面として理解しておくべきだと思います。このことは、マレーシアにおけるマレー系と華人系の対立にもいえることです。
●ビルマ国軍に引き継がれた日本軍的体質
軍事政権下のビルマ(ミャンマー)では軍事政権のとんでもない施策に庶民は苦しんでいます。いずれも日本軍に起因するものです。
@強制立ち退きの問題
軍事政権になる前からあったが、軍事政権以後はヤンゴンのような都会で頻繁に見られるようになったということである。道路の拡張やホテルあるいはオフィスビルなどの建設にあたって、建設予定地に住んでいたり、商売を営んでいる人を有無を言わさず退去させるのである。土地は国有であるから、いわゆる補償金は支払われない。移転先の候補地は政府によって一応用意されるが、そこに済む権利を得るためには住民のほうが権利金を支払わなければならないという。新しい家も自分の金で建てないといけない。金を工面することはもちろん、時間も労力もかかるし、木材、セメント、レンガなどの建設資材は簡単には手に入らない。軍や政府の有力者にコネがあればいいが、一般庶民にとっては面倒ですごく負担が強いられるものである。しかも移転先も悪条件であり、バスなどの通勤手段が整備されていない、水道がない、道路が未舗装で雨季にはぬかるみになってしまうという悪条件であるということ。そんな目に多くのビルマの国民が苦しんでいるのです。
A勤労奉仕
ビルマ語ではロウアーペー=労働力提供というらしい。これも国家発展のためとの大義名分のもと、軍事政権がさかんに活用している労働力確保・大衆動員の手段です。国連人権委員会の委託をうけて毎年ビルマの人権状況を現地調査して、国連に報告している横田洋三東京大学教授がいます。1994年にビルマへの調査旅行で、勤労奉仕の現場を訪れています。本書p122〜123より引用します。
1994年の調査旅行で横田教授は、アンダマン海に沿って細長くのびるビルマ南部のモン州からタニンダイー管区にまで足を伸ばした。ミャンマー政府が鉄道新線(モン州イエからタニンダイー管区ダウェーまでおよそ130キロメートル)を建設している現場を視察し、強制労働の事実があるかどうかをたしかめるのが目的である。
はたして現場には、狩りだされたと見える労働者がたくさんいた。機械類が少ないビルマでは人海戦術で工事を進めるから人夫の数は多い。しかし、政府関係者が横田教授にした説明は、ほとんどは農民であるこれらの人々は、国の発展に寄与したいと気持ちから自発的に勤労奉仕をしている、というものだった。ボランティアであるというわけである。
しかし、口コミで伝えられる話は違う。政府は、上から下への行政チャンネルを通じて、近郷近在の住民たちに鉄道建設奉賛金というべき寄付金を割り当てる。ダウェーあたりでは一戸あたり3000チャットが課せられた例がある。
割り当てられた金が払えない所帯は、かわりに建設現場で一ヶ月勤労奉仕をするものを一名出さなければならない。炎天下に黙々とつるはしをふるい、モッコをかついで働く人夫の多くは、こうしてお国に奉仕せざるを得ないのである。
Bポーター狩り
ポーター狩りとは、軍が住民を実戦部隊の荷物運びとして強制的に連行することであり、ビルマ語でポータースエと言います。強制立ち退きや強制労働は我慢し強く耐え忍べば命の危険はないですが、ポーターに連れていかれると無事に帰れる保証はないという。p124〜125より引用します。
ポーター狩りは偏狭に近いシャン州、カレン州、モン州などの少数民族の人びとの村落で、しばしば起こる。ビルマ国軍部隊がカレンなどの少数民族武装組織と戦っている地域に近いからである。老齢で体が不自由なものを除いて、村の住民全部、男も女も連れていかれるケースもある。
銃口のまえでは、まさか拒否はできない。拒否しようとした村人がその場で殺されたり、村人の態度に怒った兵士に火をつけられ、村全部が焼かれてしまったという村もある。
狩り出された人たちは作戦行動をする部隊に同行し、前線に出る。賃金は払われず、いつ解放されるかはわからない。食事はきわめてまずしいものしか与えられない。弾薬・食料など荷物運びが主な仕事となる。しかし、地雷原を先頭で歩かされることもある。殺気だった兵士たちから暴行を受けることも多い。女性は夜に「慰安婦」をつとめさせられることがあるという。
ポーターに仕立てられた人のなかには、さすがに逃げ出す人も少なくない。兵士の目をかすめて逃亡し、ジャングルのなかをさまよったあげく、運のいい人たちは少数民族組織に保護されたり、あるいは国境を越えたタイ側の難民キャンプに命からがらたどりつく。
著者はさらにいいます。立ち退きも、勤労奉仕という名の強制労働も、ポーター狩りもビルマの国民にとってはめずらしいものではないと。軍事政権になってから降りかかったのではなく、ビルマ式社会主義時代、そして日本軍の占領時代に遡ります。日本軍の占領時代に、日本軍が始めたことで、現在のビルマ軍の体質がそれを受け継いでいるということです。日本軍の占領時代がいまだにビルマの地では続いているということです。
★次はビルマの民衆は日本軍をどのように見ているのかということについて触れたいと思います。
バングラデシュにとの国境に近いビルマ連邦ラカイン州マウンドーでの話しである。この僻地マウンドーで活躍している日本人に著者は接触している。東京の渋谷に本部を置く、民間国際交流団体BAJ(ブリッジ・エーシア・ジャパン)のメンバーの方々です。
BAJはこの血で国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を手伝っているという。帰還難民定住促進事業の一環として、自動車や船外機つきボートの整備・修理をおこなうとともに、その技術を帰還難民をふくむ地域住民たちに教える訓練コースを開設しているという。1991年から92年にビルマから国境のナフ河を超えてバングラデシュ側へ25万人に及ぶ難民が流出したという。難民大量発生の理由は、勤労奉仕の強制やポーター狩りといったビルマ軍事政権の圧迫がありました。また民主化運動組織へのしらみつぶしの弾圧もあげられます。その後、バングラデシュ、ミャンマー両政府が難民のビルマ送還に合意し、UNHCRの協力のもとビルマへ帰ることになったという。日本人スタッフがこの地で日本軍について聞くことになる。このことを著者は又聞きしている。p163〜164より抜粋
これまでのところは、住民からあたたかくむかえられて、仕事ははかどっていると話す新石正弘BAJ事務局長は、びっくりさせられた体験をつぎのようにつけ加えた。
「現地に行ってから気がついたのですが、こんな田舎にも第二次世界大戦中、日本軍が駐屯していたんですね。私たちはそれ以来はじめての日本人というわけです。驚いたことに、住民たちはこういっています。まず民間人がやって来た、つぎに来るのは日本の軍隊だよって」
●日本軍の記憶
ラカイン州の僻地まで日本軍が来たのは事実です。日本軍部隊が来る以前に、「からゆきさん」と呼ばれる女性と彼女らを相手に商売する写真屋や小間物屋などの行商の日本人たちもやってきたとされる。マウンドーの人たちの記憶に残っている民間の日本人については、確かめるすべはないが、軍隊のほうははっきりしているという。p164〜165より抜粋します。
マウンドーは日本軍の兵要地誌にはモンドーとして登場する。当時の英領植民地ビルマの西端にあたるラカイン地方(当時の言い方はアラカン)は、いったんビルマ全土から追い出された英印軍が印度で態勢をたてなおし、反攻してくるであろう最前線として重要視された。ラカイン州のすぐ北にあるチン州をこえてインド侵攻をめざした日本軍のインパール作戦においても、マウンドー周辺の防衛は大きな要素であった。
じっさいにマウンドーあたりでは、英印軍と日本軍のあいだで何度も激しい戦闘がくりかえされた。この地の人たちは、村の寺院などを日本軍司令部として使われたり、食料として米や家畜などを召し上げられたり、あるいは部隊に同行し補助的な業務をする兵補や人夫、通訳として徴用されたりしているはずである。
日本軍の戦記は、現地の人たちにまで言及していないが、たとえば現在のラカイン州の州都シットゥエー(当時の名はアキャプ)は、加藤隼戦闘隊で有名な「軍神」加藤建夫中佐が戦死した場所として記憶されている。
ラカイン州に限らずビルマ全土は、日本軍に占領支配された。1942年の侵攻から日本軍の敗北する1945年までは、いまでも「日本時代(ジャパン・キッ)」としてビルマの歴史教科書に記載されている。日本時代は、ファシスト日本の軍人たちが勝手気ままにふるまい、ビルマ人たちを兵補や労務者として強制的に連行して酷使し、多くの人命を奪ったばかりか、石油などの天然資源や農産物はおろか、にわとりや豚などの家畜や役牛にいたるまで徴発され、略奪された時期であった、と記されている。
ちなみに、戦時中に日本軍が補給ルートとして建設したタイのバンポンからビルマのタンビューザヤに至る泰緬鉄道の建設工事だけで、ビルマ人労務者(チュエ・ダッ=汗の兵隊)17万8000人がかりだされ、そのうち8万人が帰ってこなかった(死亡または行方不明と推定)とされる。
この「ファシスト日本」の支配からビルマ国民を救ったのが、はじめは日本軍と協力したアウンサン将軍の率いるビルマ国軍であったと、歴史書は書く。じっさいにはビルマ共産党をはじめとする地下抵抗グループが、ビルマ各地に網の目を張って勢力を伸ばし、そのうえで英印軍をはじめとする連合軍のビルマ反攻の勢いが明らかになってきた時点で、ビルマ国軍が参加して日本軍への反乱が実現した。1945年3月27日のことである。
なおラカイン地方では、ラカイン人指導者たちを中止とした反日地下運動が、ビルマのほかの地域よりも先行して組織されて民衆のあいだにひろがり、1945年3月27日の国軍一斉決起の日に先立って、反日民衆決起が起こっている。
教科書においても、人々に残る記憶においても、日本軍はビルマ国民に犠牲を強いた「ファシスト」そのものであることがわかってもらえたと思います。
●日本のビルマに対する歪んだ見方/関係
本書のp167〜169に書かれていることをまとめながら、話したいと思います。日本軍のビルマに対する加害は、もちろん加害の程度の差はあっても、略奪、暴行、虐殺といった中国やほかのアジア地域で行ったことと同質のものであります。しかし、日本とビルマは当初から友好関係を保ち、最初に日本が平和・賠償協定を結んだ国は、ビルマ連邦(当時の首相はウー・ヌ)でした。激戦となったほかのアジア・太平洋地域とはちがって、ビルマ政府は厚生省派遣の大規模な遺骨収集団を何度もこころよく受け入れているという。
ヤンゴンには、敗戦直後に建てられた「大東亜戦争陣没英霊の碑」があるタームエ日本人墓地と、日本政府が建立したチャムドー平和墓苑があって、「ビルマ戦跡巡礼ツアー」などの戦争経験者の団体客が訪れる場所となっています。このほかにも、ビルマ各地には、日本軍各部隊の生存者たちが戦死した戦友を偲んで建てた供養等や慰霊碑のたぐいが数多くあるという。こうしたことと、ビルマ戦線体験者の多くが敗走の際に米や塩をもらうなどビルマの人々に助けられた経験を合わせて、ビルマ政府は教科書で当時の日本軍のことを悪く書いているにも関わらず、彼らが本当はビルマ人は親日的なのだと妄想を抱く大きな要因になっているにいます。このようにしてすっかりビルマ好きなった哀れな元日本兵のお爺さんたちを、さらに「ビルメロ」(ビルマのことになるとメロメロになる)に仕立てているという。
1947年7月に、独立を目前にしてアウンサンが暗殺されたあとはネウィンが軍部をまとめました。1962年以後、名実ともに国のトップとなったネウィンは、その後の1988年の民主化闘争の時期まで、革命評議会議長、首相、大統領、あるいはビルマ社会主義計画党(BSPP)議長として、ビルマに君臨したのである。この間、ネウィンは軍を退役しているが、政治・経済のあらゆる分野で軍人が支配する体制には変わりなかったといいます。
このネウィン時代に、日本政府はビルマと友好な関係をもち、ビルマへの開発援助(ODA)はこの時期に飛躍的に伸びました。援助は賠償によって設立された工業化プロジェクト、すなわち「四プロ」といわれるバス・トラック、乗用車、農機具、家庭電器の各国営工場をはじめ、発電、鉄道、灌漑、通信など、いわゆるインフラ整備をめざすものた多かったという。1980年代前半には、ODAは頂点に達し、円借款や商品借款を中心とする有償資金援助協力が年間300〜450億円、学校などの教育施設、病院等の医療施設や放送局などへの無償資金協力が年間70〜100億円というレベルにまで達したという。
この間、ネウィンはなんども公式、非公式に日本を訪問したという。彼自身は当時、数多くいた旧日本士官学校出身のビルマ政府閣僚などと同様、日本に媚びて援助を引き出すということはせず、むしろ、援助したければどうぞしてください、という語り口で通したと言われています。
のちに破綻することになったビルマ式社会主義建設が一時期、「清く、まずしく、美しく」と評されたことがあるという。1988年に「軍は国民に銃口を向ける」と発言して憎しみを買った卑劣な独裁者ネウィンも日本では軍人あがりの清潔な政治家と見られていました。
ビルマ戦線を経験した旧将兵など多くの日本人は、ネウィンは軍人として出世する機会を与えてくれた日本軍に恩義を感じ続けていたと思っていました。「30人志士」に加わるまでは、ただの大学中退の郵便局員で、独立をめざす運動家であったものの、アウンサンなどと比べて全く無名の存在でした。1982年2月にはネウィン大統領は、「30人志士」の時代に世話になった旧南機関関係者7人に、ビルマ独立に貢献したとして「アウンサンの旗」という勲章を贈っているといいます。こうしたところにも日本とビルマの歪んだ関係が見えてくるのではないでしょうか。
●人びとの心のなかの日本軍
p170〜171より抜粋
「キンペイタイン(憲兵隊)」という言葉は、いまもビルマ国語辞典にのっている。
「日本人がふろに入るように」というフレーズもある。これは「すっきりと」とか「一点のくもりもなく」といった副詞として使われる。戦争中、人前でもすっ裸になってふろに入る日本兵の姿にビルマの人たちは驚いた。ビルマでは水浴びするとき、男でも下半身を見せないようにするのがふつうである。下着もなにもつけない日本兵のこの姿が、「すっきりと」という意味の副詞を誕生させた。
教科書で学ぶ歴史の一章「ファシスト日本と侵略と支配」に加えて、こうした口づての日本軍の記憶が、歳月の経過をかいくぐって、いまもビルマの人びとのあいだに残っている。
軍人にすり寄ることをよしとしない知識人たちのあいだには、「日本軍がビルマに残した最悪のものはビルマ国軍だよ」という言い方がある。この見方は、1988年以降さらに真実味を帯びてきた。
ビルマ国軍は、日本軍によって訓練された「30人志士」が、日本軍に協力して結成したビルマ独立義勇軍(BIA)が母体となっている。戦時中に日本軍がビルマにおいた幹部候補生学校で教育を受けたり、あるいは日本に派遣されて士官学校に学んだ人材も少なくない。ネウィン時代には、彼らの多くが政府の閣僚や軍の幹部として活躍した。
「愛国行進曲」、「歩兵の本領」といった日本の軍歌は歌詞をビルマ語に変えてビルマの軍歌としていまも歌われている。
1988年の民衆決起によって、ネウィンは公職からは引退した。いまはその"ネウィン子飼い"の将軍たちが国家法秩序回復評議会(SLORC)に拠って、国を統治している。ネウィン自身の発言力がいまもあるかどうかはともかく、SLORCの支配はネウィン時代と変わらないと国民は感じている。
生活の苦しさはいわずもがな、国の崩壊を防ぐためとの理由で、総選挙の結果を無視して居座りつづける軍事政権、言論や政治活動への厳しい制限、人権を無視した強制立ち退き、勤労奉仕やポーター狩りといった国民への有無を言わさぬ負担の押しつけ・・・・・。これら典型的な軍人支配のやり方は、ネウィン時代そのままである。
今回のエントリーでははただ単に日本軍の蛮行だけを取り上げたのではなく、現在のビルマにおける軍事政権の人権弾圧の部分も日本軍占領時代の延長線部分だと考え、ふんだんに取り上げました。はるか半世紀以上前の日本軍のやり方とビルマ(現在のミャンマー)におけるビルマ国軍のやり方はその残虐性、非人道性において類似点が多くあるというのはわかってもらえたと思います。日本軍はビルマの大地に日本軍の申し子を産み落として、現在もそれがビルマの人々を踏みにじっているというやるせない現実があります。このことは韓国やインドネシアにおいても見られました。しかし、韓国やインドネシアについては民主化し、民主化するとともに旧体制の悪事追及とともに、従軍慰安婦や強制連行/労働といった日本軍/大日本帝国占領時代に行われたわが国の国家蛮行に対する市民の追及の声が大きく花開いたのです。戦争体験者が年々少なくなってますが、ビルマの大日本帝国被害者および犠牲者遺族自身が日本を訪れて、日本政府に補償を訴えたり、市民団体と会合をもったりなどということが行われていません。日本の戦後補償の市民運動の未開地というべきです。ビルマにおいても、戦争体験者が生きているうちにビルマ民衆の解放が一刻も早く実現し、日本の過去の侵略・戦争加害追及への声が花開くことを願いたいと思います。




15.目も潰しておいた。大嫌いなチョッパリを見なくて済むんだからコイツは幸福だろう。
アイギャアアアアアアアアアアアア!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ジュウゥ!
∩ ∧:;'';:'.;≡ ∩_∩
( ・∀・<;;);゚ 0;━⊂(・∀・ )ほーらもうチョッパリを見なくてもいいんでちゅよー。
( ⊃ ;@;;;;@;;∴ミヽ )良かったでちゅね-右翼討伐人
│ │ 〉#";,,,@ )) │ │ │
∩ (_)((@ 彡 (_)(_)
@ ⊂::・;:;∵バタバタ!!::・:,⊃ :∴:;@⊃
;;;∴ ⊂;:;∴:;::,,:⊃
ネトウヨのクズども!
ビジョン、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議、韓国と中東の関係、韓日関係について
意見を述べた。カタールの衛星テレビ、アルジャジーラとのインタビューで明らかにした。
潘長官はインタビューで、韓国政府は国連の援助で作られ、国際社会が韓国の自由の
守護を支え、朝鮮戦争後の復興においては国連の援助に相当な借りがあると述べた。
出馬の理由については、国連での勤務を通じ外交官として身に着けたサービス能力と
経験を生かし、国連に恩返しするためだと説明した。
また、国連は加盟国共通の関心事と意志を実行に移す中枢的な機関になるべきと強調し、
事務総長に当選すればこうした考えに基づき優先順位をつける考えを示した。
イラクに駐留している韓国部隊に関する質問には、「イラクの迅速な平和政策と復興支援に
向けた国際社会の努力に参加し、国連加盟国として国連決議案を通じた国際社会の
要請に応えるのが派兵の趣旨」と説明した。
韓国と中東の関係については、大家族制度や客へのもてなし、高齢者への敬いなど、
双方に様々な共通点があると指摘した。また、政治や経済など包括的な分野で相互理解を
深めるため、韓国・中東協力フォーラムが2003年から毎年開催されていることも紹介した。
北朝鮮の核を巡る6カ国協議に関しては、膠着(こうちゃく)状態に陥っている理由を説明した
うえで、状況を安定的に管理しながら協議の再開や実質的な進展に向けた努力を協議
参加国と進めていく方針を示した。
また、在韓米軍について、この50年間にわたり朝鮮半島での戦争抑止、北東アジア地域の
安定と平和維持の役割を遂行してきたと評価した。
韓日関係にも触れ、日本の指導者らによる靖国神社の参拝強行、日本政府の歴史教科書
歪曲(わいきょく)や独島に対する不当な領有権主張などで韓日関係が冷え込んでいると
指摘した。日本が歴史問題を正しく認識することで韓日関係の改善に乗り出すことを促した。
ソース:YONHAP NEWS
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060524-00000035-yonh-int
【日韓】日韓外相会談、カタールで今日開催〜「潘長官、日本に正しい歴史認識を促す」[05/23]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1148346349/
氏ね
国連の私物化
ただし、伝わって来るのは「何が何でも日本が悪い!とにかく悪なんだ!」このメッセージだけは色濃く全文からにじみ出て来ている。
仮に旧軍が悪かったとしても、現在のミャンマー軍事政権と重ねるのは無理が有る。なぜなら、最初こそ日本の側に立っていたが、大東亜戦争末期になると彼らは”日本に対して反旗を翻して居る”のだから。これは明らかに「民族自決の原則に則って行動した」事の証だ。
討伐人さんの考えだと、丸で日本が[今でも]ミャンマー側を指導しているかのように記事を書いている様に見える。幾ら何でもそりゃミャンマーの国と国民を馬鹿にしているってもんだ!
では、これにて。
検察は卞良均(ピョン・ヤンギュン)前大統領府政策室長が東国大学理事長だった英培(ヨンベ)師(本名:イム・ヨンテク)
の建てたフンドク寺(蔚山広域市蔚州郡)に国民の税金(特別交付金)を支援するよう、行政自治部に不正に指示していたことを確認した。
また、鄭允在(チヨソ・ユンジェ)元儀典担当秘書官は大統領府在職中、釜山の建設業者キム・サンジン氏から
2000万ウォン(約250万円)を受け取っていた疑い(あっせん収賄)などで逮捕状が請求されている。自分の兄に工事の下請けを
させるよう依頼したこと(弁護士法違反)も逮捕内容に含まれている。
卞前室長の事件は悪質極まりない。卞前室長は担当の金容益(キム・ヨンイク)大統領秘書室社会政策首席秘書官ではなく、
特別交付金担当行政官に支援を直接指示したことが確認されている。そしてこの行政官は首席秘書官に報告せず、
行政自治部に支援を要求した。フンドク寺が伝統ある寺でもなく、特別交付金の支援を受ける条件に達していないにもかかわらず
押し切ったのだ。
大統領も担当首席秘書官も知らないまま、税金を個人の利害関係に使用したも同然だ。大統領・秘書室長に続き
大統領府のナンバー3である政策室長が、大統領のすぐ下で国政をほしいままにしていたのだ。「盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は数日前、
内部チェックの際にこうした事実が確認されたとの報告を受けたが、何も言葉が出なかった」と関係者は言う。
鄭元秘書官にかけられた容疑も大統領府にはショックだった。大統領府は鄭元秘書官が公訴時効の過ぎた
政治資金2000万ウォンのほかに、秘書官在職中にさらに数千万ウォンを受け取っていたとの報道が出ても、
これを信じようとはしない様子だった。だが、検察がこのことを逮捕状請求内容に盛り込むと、「呆然自失」といった様子だった。
盧大統領はかつて、こうしたことが起きたら「側近不正だと言ってもいい」と述べたことがある。
鄭元秘書官は20日に令状実質審査(逮捕状申請前の審査手続き)を受けるが、検察は令状交付に自信を持っている。
大統領府は本当に弁明の余地がない状況に追い込まれていることを認めている。ある関係者は「苦痛だ」と語った。
今や大統領が国民に謝罪するのは時間の問題となった。
こうした状況について、中央大学行政学科のシム・ジュンソプ教授は「今、大統領府で起きている状況は、道徳性を強調しながら
それを検証するシステムを整えられなかった現政権の限界を示すもの」と批判している。
朝鮮日報
http://www.chosunonline.com/article/20070920000067
☆ チン 〃 ∧_∧ /癡所膿の 右 翼 討 伐 人 チ ャ ソ
ヽ ___\(\・∀・)<2 チ ヤ ソ ネ ル で他人の メ ア ド晒した謝罪まだー ?
\_/⊂ ⊂_)_ \____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
|  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:| |
| H A N 板人 .|/
数万円もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようとした癖に自からHAN板でバラして罵倒嘲笑を浴びた。
他人のメ ア ドを本人の許可無くHAN板で晒し、スレ住人にたしなめられたが開き直って削除依頼もせず逃走した。
2TIYANNELUの理系板で日本軍悪口雑言板スレ立てをして沈着冷静、頭脳明晰な住人の罵倒嘲笑を浴びた。
2TIYANNELUの海旅板で日本の加害情報求む等と馬鹿なスレ立てをして総スカンを喰らった挙げ句スレストされた。
HAN板で(さば)を(こい)と読んで無知文盲がばれて祭りになった。
理系大学の学生でありながら本を買ったのがたった二冊だけだと平然とほざいてHAN板でスレ住人にあきれられた。
南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記のHAN板住人に全く歯が立たず泣き言を吐いて逃走した。
HAN板で意気揚々とソースに「半月城通信」を引用して大爆笑になった。
自分の専門分野について質問された時に錬金術の如き化学反応式を並べて文系住人さえ絶句させた。
鬼女板と恐れられる既婚女性板にカキコして百戦錬磨一騎当千の鬼女板住人に粉砕されて逆上、「お前らなんて一生結婚出来ないぞ!!」と
既婚女性板住人が化石するしかない捨て台詞を吐いて逃走した。
就職の面接で担当者が一文字姓だった為、勝手に在日朝鮮人と決めつけ、得意満面でこの自慰ブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた。
民団の掲示版に日本の悪口を書いて賛同を求めたが逆に門前払いを喰らって唖然とする程の癡所ぶりをオチされて侮蔑と嘲笑を浴びた。