パプアニューギニアの太平洋戦争のあらまし、1942年1月〜1945年8月
http://web.archive.org/web/20030228112020/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/jproject.htmlより
真珠湾攻撃からマレー侵攻と、破竹の勢いの日本軍の波はパプアニューギニアのニューブリテン島北端の町ラバウルにも押し寄せました。ラバウルは当時オーストラリアの委任統治のための行政府が置かれていた町で、天然の良港に恵まれ、南太平洋の重要な戦略地点でもありました。1942年1月23日、堀井冨太郎少将に率いられた南海支隊は、このラバウルのオーストラリア守備隊をわずか数時間で撃破して占領します。
日本軍はラバウルに引き続き、ビスマルク諸島やソロモン諸島の島々、ニューギニア本島の北岸の主要な町々を次々に占領していったのです。日本軍の目的は、アメリカとオーストラリアの包囲ラインを分断し、ミクロネシアのトラック島にあった南西太平洋最大の日本軍の軍事基地の防御を確実にすることでした。
しかし、日本軍の勝利は長続きしませんでした。1942年半ばから本格化した連合軍の反抗に遭い、一気に守勢に転じたのです。ニューギニア本島では、東端のミルンベイへの上陸軍は撃退され、ココダ道を通ってポートモレスビーを攻略する作戦は中止され、その後は、悲惨な敗退行に終始しました。アメリカ軍とオーストラリア軍を主力とする連合軍は、ソロモン諸島から巻き返しを始め、その後ニューギニア本島北岸のモロベからセッピクにかけて日本軍を掃討すると同時に、ニューブリテン島のマーカス岬、ブーゲンビル島のトロキナ、アドミラルティ諸島等に次々に上陸しました。
豊富な物資に支えられた連合軍と十分な補給線のなかった日本軍との戦いの行く末は、すぐに明らかになりました。連合軍は、やがて制空権、制海権をほぼ完全に手中に治め、これに対して日本軍は有効な反撃をする戦力がなかったからです。その後、日本軍はラバウルに要塞基地を建設し、その他のわずかな地域を占領し続けたのですが、戦域の大部分は連合軍の制圧下におちました。
1945年8月の戦争終結までの日本軍の損失は凄まじく、約6万人が戦闘で戦死し、11万人が飢えとマラリアなどの病気で死んだ、といわれています。これに対してオーストラリア軍の戦死者数は14500名と、記録されています。
現在でも、戦闘の名残りを示す戦闘機や大砲の残骸は至る所に見られますが、これらの残骸以上に、直接戦場となったパプアニューギニアの人々にとって、この戦争の記憶は消しがたく、今でも世代から世代へと語り継がれています。
プロジェクトについて
http://web.archive.org/web/20030228112020/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/jproject.htmlより
パプアニューギニア人は日本のことをよく知っていますが、日本人は彼らのことをほとんど知りません。現在、パプアニューギニアでは日本製品があふれ、日本商社が進出し、日本からのODA(政府開発援助)プロジェクトが進行し、海外青年協力隊員が至るところに派遣され、パプアニューギニア人は日本という国を物と人からじかに観察できるのですが、日本人とってパプアニューギニアは遠い南の未開の国というイメージぐらいしかないようです。このギャップは、太平洋戦争観にもよく表れます。
パプアニューギニア人の記憶は鮮烈です。日本軍の記憶は世代から世代へと語り継がれています。親切な日本兵の記憶も、残忍な日本兵の記憶も同じように語り継がれているのですが、どちらも辛い時代の記憶として残っています。中には今でも、日本軍から教わったというを歌ってくれる日本語の歌を歌う老人もいれば、片言の軍隊調の日本を話す老人もいます。しかし、日本兵がスパイ容疑にかけた村人を公開処刑に科して日本刀で斬首する光景を、身振り手ぶりで再現し、その時の恐怖心を懸命に訴える老人もいます。
実際、パプアニューギニア人の受けた被害は壮絶です。 直接戦闘に巻き込まれて死傷した人も少なくないのですが、それよりも日本軍と連合軍によって徴用された数万の成年男性に起因する被害が大きいといわれます。主要な働き手を失った彼らの村では食料生産が低下し、残された婦女子の栄養状態が悪くなり、そのため栄養不足や病気等で死亡する者が増加したというこです。労働者徴用が自給自足で成り立っていた村の生産システムを多く破壊したのでした。それは、戦後5年あまりに渡って人口が減少し続けるという甚大な被害に如実に表れています。
一方、戦後の日本人は、パプアニューギニアは悲惨な戦線であったことを知る人はいることはいても、パプアニューギニア人が受けた壮絶な被害を知っている日本人は少ないようです。日本人が語る戦争とは、あまりにも悲惨すぎた戦いということに力点が置かれ、その陰で苦しんだ現地の人々のことはほとんど眼中にありません。そして一般的には、現地住民に対して加害者であったという認識は薄いようです。
この戦争観のギャップが、両国間の国民レベルでの相互理解の形成を妨げているのは明らかです。戦後、平和憲法を制定した日本が、未だにアジア・太平洋地域の一員として、この地域の人々にすんなりと受け入れられない原因の一例がここにもみられます。日本人が知っている太平洋戦争とパプアニューギニア人の知っている太平洋戦争とは、あまりにも違うものなのです。このギャップを乗り越えないかぎり日本とパプアニューギニア、しいては日本とアジア・太平洋諸国との間には真の友好関係は生まれません。
このプロジェクトは、このギャップと埋めるため、まず、戦争の実態を知ることから始めます。そして、そこから日本とパプアニューギニアの人々が、互いにどのように戦争を認識しているかを分析していきます。そうすることによって初めて、公正で対等な日本人とパプアニューギニア人の関係を作るための土台が出来るとわれわれプロジェクトメンバーは考えます。また、このプロジェクトによって、より包括的な歴史観の構築に貢献したいと思っています。
大日本帝国および日本軍が太平洋地域を侵略したことはご存知でしょうか。特にパプアニューギニア地域のいかに日本軍が悲惨な目にあったかはよく語られるところです。しかし、そこに住んでいた原住民が受けた壮絶な被害について語ることがほとんどないのが現状です。このエントリーではパプアニューギニアにおける大日本帝国・日本軍の加害事実を取り上げていき対と思います。
日本軍占領下のラバウル--「記録」と「記憶」からの考察--
立教大学アジア地域研究所
岩本洋光
http://web.archive.org/web/20030219082908/members.jcom.home.ne.jp/pwpng/2001symposiumpaper/iwamotorabauru.htm より
日本軍は太平洋戦争開戦直後の1942年1月から終戦までラバウルを占領した。終戦時にはラバウルとその南の町ココポを中心とする周辺の村々に約10万人の日本軍将兵、軍属と数千人の朝鮮人、インドネシア人、インド人労務者がいた。この地域の現地住民の人口は約2万人であるから、その5倍近い日本人が駐留したことになる。またラバウル周辺地域の戦闘はパプアニューギニアの他の地域と比べて大きく異なる。これは連合軍がガダルカナル島やニューギニア本島での戦闘で多大な犠牲を払った経験から、ラバウルへの上陸を回避し、空襲によって日本軍の戦力を無力化する作戦を採ったため、ラバウルの日本軍は連合軍と直接戦闘をすることがなかったからである。一方、日本軍は連合軍の上陸に備えてラバウルを要塞化し、総全長約300キロに及ぶトンネルを掘り、約2500ヘクタールの農場を開墾して自給自足体制を整えるなどして決戦に備えていた。[1] そのためラバウルは同一地域に約4年間にわたり日本将兵が駐留し、現地住民の統治を組織的に実行できた地域であり、その結果として日本将兵と現地住民との接触が多くあった。このことは日本軍占領に関する「記録」と「記憶」が比較的多く存在させることとなり、日本軍占領の実態についての考察を可能にしている。本報告では便宜上、「記録」の定義を主として日本軍・連合軍の公文書資料、公刊戦史およびラバウルでの戦争体験者によって書かれた戦記とし、「記憶」は文字化されたものも含めて聞き取り調査によって得られた証言およびラバウルでの戦争体験者によって書かれた回想記などに定める。
ラバウルについては、『水木しげるのラバウル戦記』を読んだことがある。ニューギニアでは悲惨な戦場となったが、ラバウルは異なるようだ。水木しげる氏の戦争体験では、ラバウルにおける日本軍の現地住民への虐待および加害についてほとんど語られていなかった。このアーカイブより実態はどうだったのか見ていこうと思う。
1.現地住民(パプアニューギニア人)の記憶a. 村人の証言
(略)
同じ頃、ラバウル市街に近いバーイ(Baai)村に住んでいたDanks Tomilaによると、上陸した日本軍は村人に危害を加えることもなく、村人と一緒にラバウルの町で略奪行為を行ったという。しかし、日本兵の態度は数ヶ月後から変化し始め、村人の大切な財産である椰子の木を勝手に切り、村は日本軍のものであると宣言しし村人を追い、その結果、村人は村を離れてジャングルで新しい畑を作らなければならなかった。また、日本軍は村人を労働者として徴集し、陣地構築や畑で農作業をさせ、作業中は食事は一日に一食だけで多くの村人は飢えと栄養失調から来る病気に悩まされた。村人の中には日本軍の畑から作物を盗む者もいたが、見つかった者は他の村人の前でむち打ちや斬首など厳しく処罰されたという。[3]
村人の中には日本軍に協力する者もあった。特に、戦前現地住民の間では蔑視されていた混血の人々(中国人やドイツ人などと現地住民との混血人)やマレー人が日本軍に協力し、中には「憲兵ボーイ」とよばれた憲兵隊の現地隊員となる者もいた。中国人と現地住民の混血人であるJoseph Tokankanも憲兵ボーイとなった一人である。自ら進んで憲兵ボーイになったかどうかは明らかにしなかったが、日本軍は陣地構築や訓練など非常によく働き、また非常に規律が厳しい軍隊で、もし連合軍が上陸しても日本軍は負けることはなかったという。
日本軍の態度は上陸時には解放軍みたいな形で穏健なものだったが、占領数ヶ月ごろ経つと態度が横暴になり、貪欲な侵略者としての姿に変貌していく、ほかの東南アジア地域と同様の経過をとったようである。日本軍はほかのアジア・太平洋地域でやったように財産の略奪やひどい強制労働を住民たちに課して、苦しめたようである。反対に日本軍に熱心に協力した対日協力者も多くいたようです。その強制労働の実態は
日本軍の占領下での生活で多くの村人が体験したのが強制労働だった。日本軍は民政部を通じて村ごとに労働者の割り当て人数を決め、道路、飛行場、地下壕、農作業などに肉体労働に多数の村人を駆り立てた。この約4年間続いた日本軍による強制労働は村人にとって非常に苦しいものだったと、Jacob Timeleは語る。
「日本軍は村人を捕まえて畑で働かせました。またトベラの飛行場やあちこちの村や町で働かせました。とてもつらい労働でした。本当につらい労働でした。私たちは日本軍の働き方を見てとても驚きました。朝8時に仕事が始まってから、村の男たちはただただ腰をかがめたり伸ばしたりして黙々と作業をしなければなりませんでした。日本兵が日本語で『切れ、切れ』と言っていました。日本兵は男たちを長い一列に並ばせて、ブッシュ・ナイフを渡しました。そして、ボスが『カカレ!』とかけ声をかけると、村人は腰をかがめてただひたすらに草を刈るのです。休むことも一服することなくただひたすら働くだけです。10時になって、『ヤスメ!』の号令がかかって始めて休むことができるのです。この時、その日始めてのたばこを吸ったり用を足したりしました。そしてこの後すぐに、また『カカレ!』の号令がかかり、働き始めるのです。4時に『ヤスメ!』の号令がかかるとその日の仕事は終わりです。『ヤスメ』とは休憩の意味だとわかりました。昼には、日本兵は日本語で『オーケー、ボーイ、カム!メシ、メシ!』と言いました。『メシ、メシ!』というのは『食べよう』という意味だと知りました。日本兵は食事を支給しました。米だけでしたが、私たちは食べました。それが昼休みです。そして1時から4時まで働きました。それが一日の労働です。本当に重い労働でした。」[5]
またTimeleによると日本軍は村人に日本軍への忠誠を強制し、従わない者は制裁を受けたという。
「これは日本軍が出した重要な知らせでした。日本軍は私たちに次のように言うことを強制しました。『ジャパン、ナンバーワン。アメリカ、オーストラリア、ナンバーテン。』こんな風にして私たちは日本軍の規則を覚えました。このように言わない者は、顔を平手で殴られました。」
さらにTimeleは村人が戦争の終結を知ったのは、日本軍がこの日本への忠誠を止めるようにいいに来た時だったと語る。
ラバウルでも酷い軍政が敷かれていました。特に強制労働は酷いものでした。日本軍はわけのわからない規則をつくって、ラバウルの原住民に押し付けました。まさに恐怖の圧政が敷かれていたわけです。一方で
だが、村によっては過酷な体験をあまりしなかった村もある。医務隊だけが駐屯していたココポ地区にあるクナクナイ(Kunakunai)村の村人は、常に日本軍から医療を受け、子供たちは軍医や衛生兵から日本の歌を教わるのを楽しんだという。[6] 同じような日本軍についての肯定的な証言は、当時父が牧師だったTo Kilalaの証言にもみられる。[7] それによると、日本軍は宣撫工作の一環として学校を開き、そこでは村の子供たちに簡単な日本語の読み書き、歌、数の数え方などが教えられ、年長で優秀な子供には軍事教練を施し、銃の使い方などを教えたという。また、To Kilalaの村に駐留していた日本軍は村人と仲良くなり、村人に食料など色々な物を与えたと回想している。同じような証言は自ら憲兵隊のスパイとなったと語るArap Tibakからも得られる。Tibakは日本軍憲兵と一緒に食事をしたり酒を飲んだりし、日本軍はいい軍隊だったと語る。
という風に過酷な体験を押し付けられず、親日的な村も存在したようです。たとえば、ウルルン滞在記で取り上げられていたようです。
ウルルン滞在記で取り上げられるのはいいですが、そのほかの多くのラバウルの地域で行われた過酷な日本軍の支配の実態や加害、この地域を侵略したことについて、触れずに一部の例外的なものを取り上げて、多くの日本国民を誤解させるような番組をつくったテレビ局の罪は重いと思います。こうして、アジア・太平洋諸国の民衆と日本人の歴史認識のギャップが深まり、いつまでも友のいない日本であり続けてきたのです。
このアーカイブでは、水木しげる氏のラバウル体験も取り上げている。
d. 兵の回想・証言
民政部の他にもラバウルに駐留した陸・海軍部隊の回想記や証言から占領の様子をうかがうことができる。
ラバウル西方のズンゲンでの戦闘で負傷しラバウルに帰還した陸軍二等兵だった現在漫画家の水木しげるは、ラバウルの丘陵地帯のトマという村の村人との交流を『水木しげるのラバウル戦記』(1994)、『トペトロとの50年』(1995)、『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』(1995)の中で描いている。そこには村人と水木との友情の発展の様子がユーモラスに書かれ、親切な村人のイメージが醸し出されている。しかし、これは水木個人と彼の部隊が駐留したトマの村人との関係であって、日本軍とラバウル現地住民との関係全体を示すものではないことを水木氏自身が筆者とのインタビューで明確に述べている。[17] 水木によると村人が日本兵に協力するようになったのは、最初に日本軍がラバウルの「大酋長」を3人殺したからであり、また終戦時村人が日本軍に対して敵対行為を表さなかったのは、10万の兵隊を恐れていたからであって日本軍が戦中「善政」を行ったためではないという。また、村人が親切にしたのは水木の部隊の中では水木だけで、他の日本兵は追い払らわれていたという。これは他の日本兵は村人を一段下の人間として扱っていたからであり、水木氏が仲良くなれたのは片腕を失っていた水木に村人が同情してくれたからだという。
『水木しげるのラバウル戦記』については
水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 日本軍内部の暴力性part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13473427.html
水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 従軍慰安婦、日本軍以外の捕虜など対する記述、現地住民などへの加害part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13479992.html
で触れました。私が水木しげる氏の体験を見る限りは、ラバウルの原住民と日本軍との関係は穏やかなように見えましたが、実際は違うようです。原住民が水木しげる氏の所属した日本軍部隊に協力するようになったのは、
ラバウル戦記では触れられていないものの、酋長らを殺して原住民に恐怖を植えつけたからでした。終戦時においても、原住民が表立った敵対行為に走らなかったのも、日本軍の「善政」ではなく、10万の兵隊を恐れていたからであったといいます。地もとの住民と交流をもてたのは水木氏一人だけといいます。水木しげる氏にはその辺の事情をもっと、書いてほしかったと思いました。
a. 諜報活動記録
戦中のオーストラリア軍の諜報活動に日本軍のラバウル占領について報告したものがある。まず開戦当初の報告で日本軍が現地占領部隊に出した現地住民への待遇についての命令書の英訳があり、これによると、まず現地住民に日本軍の権威、日本軍が現地住民を保護することなどを理解させ、日本軍に敬意を払い、協力させること、現地住民への住居への立ち入りや現地女性に近づくことを禁じている。[20] また、村長を丁重に待遇し、労働者の供給に便宜を図らせるよう命令している。また別の報告では、白人の威厳を失墜させるために日本軍は現地住民の前で白人捕虜に肉体労働をいること、ラバウルの現地住民がニューギニア本島の戦線へ労働者として連れ去られたこと、日本軍に協力的な現地住民が現地女性を強姦していること、現地住民の中には進んで日本軍の憲兵に協力し憲兵ボーイとして従軍していることなどが報告されている。[21] この他には日本軍から脱走した現地人労働者の証言もあり、慰安所の存在やラバウル在住のマレー人と混血人は例外なく日本軍を歓迎した事が報告されている。
c. 戦争犯罪記録
戦後ラバウルで開廷されたオーストラリア軍による戦争犯罪裁判記録には、日本軍による連合軍捕虜、スパイ容疑をかけられたラバウル在住のオーストラリア人・中国人と現地住民の処刑・拷問などについての記録が多数ある。これら裁判記録に収められている関係者の証言の中に、日本軍の占領の様子を伝えるものがある。まず、憲兵隊員として日本軍に従軍した現地住民の証言があり、日本軍の規定を犯した現地住民に体罰を与えるのがこの隊員の役目であったとある。[24] また裁判に証言者として出廷した民政部員の証言から、スパイ容疑の現地オーストラリア人や軍律に違反した現地住民に対して処刑が行われたことや、日本軍が現地住民のために学校を開いたことなどがうかがえる。[25]
d. 戦争被害調査記録
連合軍の空襲によって焼け野原となったラバウルの戦争被害は、シドニーのオーストラリア公文書館が所有する戦争補償委員会が記録した膨大な数のファイルに人的、物的被害が詳細に記録されている。このファイルから連合軍による空襲によってラバウル市街にあった建物や住居のほとんどが灰となったことが確認できる。[26]
この他、戦後オーストラリア行政府のパトロール官によって行われた戦争被害調査報告が、Patrol Reportsという報告書の中に記録されている。この報告書は、現地の言葉や習慣に精通した戦前から現地に勤務していたパトロール官による現地調査に基づくもので、信頼性が高い。報告書は、日本軍と連合軍の被害にあった死傷者の名前、損害を受けた家屋、家畜、農作物、物品、およびそれらに対する補償額などを記している。Patrol Reportsには日本軍の占領下にあったラバウル周辺地域の被害報告があり、それによるとラバウル南方のココポ地区の報告では、日本軍が畑を荒らし椰子の木を伐採したこと、家畜が殺されたこと、日本軍に殺された現地住民の名前などが村ごとに詳細に報告されている。[27] またラバウルの後背地バイニン地区での報告で、通常の被害報告の他、主にニューギニア本島のアイタペ・セピック地区出身で日本軍の憲兵隊に従軍した現地憲兵ボーイによる戦中の現地女性への乱暴、また戦後の村人に対する虐殺行為などが報告されている。[28]
ラバウルの日本軍の加害事実一つをとっても非常に複雑であり、積極的に日本軍憲兵隊の犬となって憲兵ボーイとして振舞った現地の対日協力者たちが存在したりした事実もわかりました。日本人、現地住民、現地白人の記憶、日本軍・連合軍の双方の公文書・記録からさまざまなイメージがでてくると思います。総合すると、やはり加害のイメージについては中国やフィリピン戦線に比べれば程度は軽いかもしれませんが、他地域と変わらない日本軍の非人道的体質による同質の残虐行為がラバウルの地でも例外なく行われていたことを示すものであります。
「原生林を守るパプアニューギニアのウボル村からのお願い」
http://members.aol.com/tkyseihei/tsnews05.htmより
パプアニューギニアのニューブリテン島の中央に原生林を守っているウボル村があります。背後の数十万ヘクタールの森は太古からの生きとし生けるもので満ち満ちています。その森からの水は神秘の色をたたえて人々の生命を養いつづけています。ウボル村はすばらしい熱帯雨林の楽園です。
1942年、日本軍はラバウルを占領した後、このウボル村の浜辺にもやってきました。日本軍は洞窟に隠れては村人をおどしていました。日本軍にとってやっかいものだったのがウボル村に赴任していたウィリアム・クーヘン神父でした。彼はドイツからの宣教師でしたが、日本軍はすでに他の海岸沿いの村々で何人かの神父、あるいは教会の指導者の住民を殺してきました。
1943年の2月のある夕方、日本軍は誰もついてくるなと住民に命じ、神父だけを村はずれに連れ出しました。そして海岸で銃殺し、首を銃剣で跳ね遺体は土の上に放置されたのです。日本軍は住民に、遺体にふれてはならぬ。ふれたらおまえ達も処刑するぞとおどしました。神父の遺体は海岸の捨て置かれ、波がさらっていったのか、ワニに食べられたのか、その後住民は知ることもできませんでした。
住民は後に神父が殺された場所に小さな記念碑を建てました。その碑は薄汚れたままひっそりと、今も同じ場所にたっています。ちょうど修道院のシスター達の診療所前の海岸です。
そのまわりには蝶々の好きな花や樹が沢山あり、昼間はニューブリテン島独自のトリバネアゲハが舞い、夜には海岸にまで溢れる伏流水の流れの中で蛍が乱舞しています。
殉教して行った神父の生命が今もそこで人々に恵みをもたらしつづけているかのようです。
いつか皆さまをそのカトリックのウボル村、原生林の恵みに溢れるウボル村にお連れできたらと思っています。関心のある方は清水靖子までお問いあわせください。
ニューズレター「太平洋の森から」第23号(2005年6月発行)から
1 「パプアニューギニア、原生林を守る村人のメッセージ」集会報告
http://www6.ocn.ne.jp/~png/newsletter23.htmより
2004年11月〜12月、「森を守る会」では、パプアニューギニア、ニューブリテン島のクランプン村より、若きリーダーのパトリック・カウプン氏を招き、各地で「原生林を守る村人のメッセージ」と題した集会を開催しました。
以下、パトリック氏のメッセージの抜粋をご紹介いたします。(略)
今日のようなお話をする機会をいただいて、クランプン村を代表してお伝えしたいことがあります。
日本の企業であるコスモ石油は、事実と反する広告を行いました。クランプン村の本当の姿は何なのか、クランプン村の暮らしと原生林はどのようなものなのか、コスモ石油は焼畑が原生林の破壊の大きな要因であるとして、稲作を推進していると言っていますが、私たちの伝統的な焼畑は原生林を破壊する要因ではありません。
パプアニューギニアの森の70%は商業伐採で失われています。パプアの人々がタロイモやヤムイモをつくる伝統的な焼畑のための伐採は、10%以下です。コスモ石油は、クランプン村が自然災害と食糧事情の悪化と、貧困に苦しんでいるような前提で広告を作っていますが、クランプン村は自然災害にも、食糧事情の悪化にも、貧困にも陥っていません。自然災害や食糧事情の悪化、貧困化に苦しんでいるのは、商業伐採で原生林を奪われた村々なのです。
コスモ石油は、「『生きるために森を焼く人たちに、森を守ろうという声は届かない』・・」という広告で、広大な焼畑の写真を使用し、あたかもパプアニューギニアの焼畑であるかのような誤解を生み出したが、その写真はアマゾンとアメリカの写真であったのです。 また、米づくりは、家族によっては、家計支出の一部を押さえることに役だった面もあったかも知れないが、貧困を救うということにはなりません。なぜなら、私たちは貧困なんていう状態に陥ったことがないのです。
私たちクランプン村は、コスモ石油が私たちの森の問題に口出しするずっと以前から、生命がけで森を守ってきたのです。コスモ石油が本当に森を守りたいと言うのならば、原生林を守っているクランプン村の人々とともに、商業伐採に反対して立ち上がるべきだと思います。
私たちは、二度、日本に侵略されました。最初は第二次大戦で日本軍が来たことです。私たちの隣村ムー村で、日本兵は人々に薬を与えようとしたそうですが、実際には集団虐殺を行いました。第二の侵略は、日本の企業による森林伐採です。
日本の皆さんにお願いしたいのは、私たちの生命そのものである森林を伐採から守るために力を貸してほしい、ということです。私たち、パプアニューギニアの原生林を伐り続けている商業伐採に反対してください。私たちの原生林からの丸太を日本で合板にして建材に使用することも止めてください。私は、森を守るためにあらゆる努力を惜しみません。未来の世代とすべての生命に、貴重な原生林を手渡すために、どうぞ私たちと共に立ち上がり、原生林を守る活動に協力してください。」
今日の日本と東南アジア
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
日本軍が占領していたニューギニア島北側のティブンケ村では、住民がオーストラリア軍に通じているとみなした日本軍が住民を集め、その中の男たちを銃剣や軍刀でさらに機関銃で殺していった。現在九九人の犠牲者の名前が確認されている。さらに日本軍は、親日派の他の村の男たちにティブンケ村の女性たち約六〇人を集団で強姦させた。何人かの少年は初めは男たちと一緒に紐でつながれたが幸い釈放され、彼らが虐殺の目撃者となった。
ティンブンケ事件の詳細については
『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修、文藝春秋社p181〜182より引用します。
ティンブンケ事件(ニューギニア)
1944年7月、東部ニューギニア(オーストラリア委任統治領)のティンブンケ村で、約100人の村民が日本軍に集団虐殺された事件。この事件には、原住民間の部族抗争もからんでいて、今も謎の部分が残っている。
ティンブンケはセピック河中流に位置するが、1942年末、北側の要点ウエワクを占領した日本軍は、この地域一帯に軍政を施行した。第41師団の歩兵第239連隊は、浜政一大尉の指揮する一個中隊(約150人)をコログ村に駐屯させ、約100キロ下流のティンブンケに一部を分派していた。
44年7月、反撃に転じた米豪連合軍がティンブンケを爆撃したが、村民が通謀していると疑った浜大尉は、コログ村民もひきつれてティンブンケに報復攻撃を加えた。村民たちは村の中心部に集められ、縛り上げられたのち、日本兵は軍刀、銃剣と機関銃で、コログ村民は斧、弓、ナイフでティンブンケ村民を殺害した。
犠牲者は男99人、女1人とされ、別に数十人の女はレイプされたのちコログ村に拉致されているが、子どもたちは処刑を免れた。コログ村民が積極的にこの虐殺に加わったのは、以前からつづいていた部族同士の対立抗争に起因したといわれる。
終戦後、浜大尉は犯行を認め、豪州軍のラバウル法廷で死刑を宣告されたが、コログ村村長マンバーの嘆願により減刑され、代わりに逮捕されたマンバーは獄中で死亡した。
1994年来日したこの地域の首長ラクは、日本軍による虐殺、レイプ、人肉食などの戦争犯罪に対する補償を要求したが、日本政府はサンフランシスコ平和条約で解決ずみだとして応じなかった。(秦郁彦)
《参考文献》
「浜政一手記」(『丸』1972年3月号)
清水靖子『森と魚と激戦地』(北斗出版 1997)
この事件では、日本軍だけではなく、現地住民同士の部族抗争という点で日本軍の残虐行為に現地の住民が関わっていることにも注目です。部族抗争が前からあったようで、悲惨な惨状となりました。同質の事件についてはほかにもあります。
http://72.14.203.104/search?q=cache:MdaiU8jG9OsJ:www2u.biglobe.ne.jp/~NKK/zinmin_1994/08/moririronhantai.htm+%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%A0%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AB%96&hl=en&ct=clnk&cd=1より
「太平洋戦争中にニュ−ギニアで大虐殺 遺族らが日本国首相に対し謝罪を申し入れ」という見出しで次のような記事がでております。
「太平洋戦争中、ニュ−ギニア島南部のトンボンチョ村で日本軍による大虐殺があったとして遺族らが来日、八月十日、村山首相あてに日本政府への謝罪と補償を申し入れた。来日したのはこの村の遺族、被害者代表のカビド−ル・マキさん(六十六才)、ピ−タ−・カンボラさん(六十七才)であります。ピ−タ−・カンボラさんの証言によると、旧日本軍は昭和十九年七月、村人がスパイ活動をしたという理由で村の男性九十九人を銃剣などで殺し、さらに隣村の男性たちに対し、この村の女性たちにたいする集団強姦をさせた」。
この事件は八月十三日、十四日の両日、新宿でひらかれている集会で報告されているはずであります。
トンボンチョ村虐殺事件というべきでしょうか。ここでも現地住民も日本軍の虐殺行為に加担していることが伺えます。この事件についてはネット上には詳細が見つかりませんでした。
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/remember.nsf/pages/NT00005182?openDocumentより
1943年、オーストラリア人とニューギニア人の将兵から成る連合軍情報局(AIB)斥候隊は、情報収集と島におけるオーストラリアの存在感の回復、及び撃墜された航空兵の救出任務のため、ニューブリテン島に派遣された。現地民らは往々にして、これら斥候隊を支援した廉で報復を受けた。例えば1943年の終わりごろ、日本軍は、AIBの斥候隊が支援を受けていたナカナイ地区(Nakanai area)での支配力を回復しようと努め、そのために村の関係者数人を拷問して処刑し、他の事例では住民は殺害されるか殴打され、または強姦された。オーストラリア軍は友好的な住民をゲリラとして訓練し、1944年2月から3月にかけて、ゲリラたちはわずか二名の戦死を出す間に、二百八十六名もの日本兵を殺害した。ゲリラたちが、日本軍に協力したラバウルの近くの村人に対する報復をしようとした事で、部族間の抗争もまた勃発した。
日本軍占領期間中に、住民らが分かれてどちらか一方の側についた事から、ワイド湾地区で部族間の抗争が発生した。ラバウルに最も近いところにいた部族は、そろって日本側につく傾向が強かった。1944年5月、オーストラリア人に訓練された八十名のゲリラが、日本兵十四名と日本軍についたニューギニア人十四名を殺害し、このようにしてゲリラ戦は以後数ヶ月間続いた。日本軍はワイド湾後背地における警戒を厳にし、連合軍に加担した疑いのある住民を処罰した。報復を恐れるAIBは、住民らに、より離れた地域へ移り住むよう説得した。この活動は同時に、日本軍にとっての潜在的労働力を殺ぐ事にもなった。
パプアニューギニアの歴史
http://www.meigaku.ac.jp/kokusai/png/19.htmlより
第二次世界大戦、日本軍の進出第二次世界大戦(この場合は1941年以降の太平洋戦争)では、メラネシア地域の多くが戦場となり、日本軍の侵攻とそれに対する連合国軍との戦闘により、多くの地域が激戦場となりました。特に激しい戦場とされて被害を受けたのは、現在のソロモン諸島とパプアニューギニアにあたる地域でした。
真珠湾攻撃後、マレー半島侵攻に続いて、日本軍はニューブリテン島の町ラバウルに押し寄せました。ラバウルは、当時オーストラリアがパプア地域とニューギニア地域を統治するために行政府を置いていた町でした。1942年1月、日本陸軍の南海支隊(ココダの戦いで米豪軍と死闘を演じて敗退した部隊)がオーストラリア守備隊を撃破してラバウルを占領しました。ラバウルはこの後、南太平洋地域における日本陸海軍の重要な拠点とされました。ラバウルを失ったオーストラリア軍は、ポートモレスビーを強化して日本軍に対抗しようとしました。ここでの戦闘については、別稿「太平洋戦争について」で記述します。
戦争中のニューギニア現地住民の態度は各地で異なっており、一様なものではありませんでした。日本軍に協力した地域もあれば、連合国軍に協力した地域もあったのです。そして、住民は基本的には日本軍を支持していたわけでも、連合国軍を支持していたわけでもありませんでした。その地域にやってきたのが日本軍であればそれに従わなければならなく、連合国軍であればそれに従うの他なかったのです。場合によっては、日本軍と連合国軍との戦闘に巻き込まれ、村人たちもまた対立せざるを得なくなっていく例もありました。日本軍と現地住民との間に友好関係が成立した例もあれば、対立から現地住民に殺害された日本兵もありました。
今回、我々は、戦争の犠牲になった人たちの地を訪れるのです。日本がかつてパプアニューギニアを侵略した事実を忘れるわけにも、大国同志の戦争が、その間に立たされた小国の運命を狂わせてしまった事実から目をそむけるわけにもいきません。国際間の友好が真にどこにあるべきなのかを感じることができる旅となることを祈ります。
ニューギニアにおいて連合軍と日本軍の熾烈な戦闘が行われました。しかし、連合軍と日本軍の綱引きは現地住民の協力や支持の奪い合いという側面を持っていました。この地域に支配圏を双方が確立するためには、その地に住む住民の支持および協力が必要でした。そのようにして、戦争に現地住民が巻き込まれていったのです。そうした中で、日本軍についた住民もいれば、連合軍についた住民もいます。部族抗争の側面も絡んで、住民同士の殺し合いという側面もありました。パプアニューギニアにおける日本軍の加害行為の地域の特徴として、部族対立が密接に絡んで住民同士が根本から対立していたところがほかのアジア・太平洋地域とは大きく異なる点かもしれません。日本軍の侵略によって、パプアニューギニア人が多く犠牲になり、壮絶な苦痛を味あわせた事実について目を背けてはならないと思います。
太平洋の島々でも戦争被害
http://web.archive.org/web/20020821094546/www5.sdp.or.jp/central/shinpou/newsfiles98/6sensouhigai0812.htmlより
アジア太平洋戦後補償国際フォーラム
第二次世界大戦での旧日本軍による残虐行為については、すでに中国をはじめ東南アジア各地で明らかにされているが、太平洋の島々やニューギニアにおいても、住民に対する虐殺や強姦、「慰安婦」などか烈な戦争被害があったことが、被害者らの証言で明らかになった。(略)
また、戦争中飢餓地獄といわれたニューギニアで、日本軍の炊事係として部隊に同行した体験をもつパプアニューギニアからきたブガ・グロ・ハウエバルさん(七十五歳・男性)は、日本兵十一|十二歳の少女を強姦した後、銃剣で殺害したことや、行軍途中の村々で、若い女性たちを性の奴隷とするため部隊に従軍させ、その途中で強姦した女性の乳房を切りとり、兵士たちの食料として揚げて食べたという、現地住民を対象とした組織的な人肉食が行なわれた事実について証言。 また、同じくパプアニューギニアから来日した「日本軍による戦争被害に補償を求める会」代表のガブリエル・ラクさんは、これまでの現地での聞き取りなどの調査により、戦争中に住民七千七百四十八人が日本兵に殺害されたほか、食料不足を補う目的で二千三百八十八人が人肉の犠牲となり、また、一万六千百六十一人の女性が日本兵の性的奴隷として「慰安婦」にされたと報告した。
◇第一作 『日本軍歌思考』第二部
http://homepage3.nifty.com/alexcompany/novel_02.htmlより
それによれば、“南太平洋の声とゞかず”の見出しに始まるそこは、かって旧日本軍の占領下にあったところである。で、住民の強制移住や土地の強制接収等の被害をこうむった周辺三カ国(パプアニューギニア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)の民間人代表七人が過去の補償を求め、七月下旬に来日した。
ミクロネシア・トラック諸島の代表は奪われた先祖代々の土地についての補償を、パプアニューギニアの代表は被害調査の最新データ(旧日本軍から被害を被った犠牲者、生存者、遺族合わせてその数九万五千余人。そのうち人肉食の被害が二千三百余人、強姦殺人が約六千五百人)を提示して、その補償を迫った。(略)
もとより、これの交渉の場としては、国会議員の仲介で政府との会合が実現し、各国の実態報告書が手渡されたのであるが、外務省、内閣外政審議室、アジア女性基金の反応はいちように鈍く、「新たな判断材料があれば…」(内閣外政審議室)「何らかの公的文書がないと」(外務省)といった具合で、引率の弁護士は「人肉食など日本軍が記録するはずがないじゃないか」と反論しても、前向きの答えはなかったという。
強姦・性器切断・乳房切除 「パプアニューギニア/ゆきゆきて神軍」の悪夢
http://www.across.or.jp/necizen/essay/e1997/guntai.htmlより
パプアニューギニアって所は、インドネシアのほうにある所で(じつは、ぼくもよくは知らないけど、とにかく世界地図の下のほう)、タイヘイヨー戦争の時、激戦地だった所。
え? 祖父が死んだ所? でも、お戦地(オセンチ)になっちゃいけないよ。
ラバウルとか、ガダルカナルという地名を、どこかで耳にしたことありませんか。あそこがパプアニューギニアなわけ。
そこではねー。日本兵が、たいへんな残虐をした・・・・ということを、ようやく、被害者や遺族の方々が語りはじめたらしいのです。(「週刊朝日」10月17日号)
いわく、「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日本兵が、わたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をバラバラに切断され、皮をはがれ、肉片として軒先に吊るされ、飯盒でゆでられました」
いわく、「日本兵にブタをもってこなければ母親をころすと脅かされたので、ブタを工面してもっていくと、日本兵は母親をレイプしてから殺しました。それも胸だけをカットして、ゆでて食べるとう方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」
壮絶! ただ無言!
●日本軍による被害別登録者数 殺害 3497人
強姦のあと殺害 5164人
乳房切除で死亡 19人
刀で性器をえぐられ死亡 8人
性奴隷・慰安婦 12718人
人肉食の犠牲 1817人
化学兵器による死傷 1867人
拷問 28人
強制労働 9112人
医療関係の労働提供 135人
現地憲兵隊への徴用 2658人
兵隊として徴用 1904人
荷役労働の提供 25885人
ニューギニアで旧日本兵が行った残虐
http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.htmlより
太平洋戦争中、日本兵の90%以上が亡くなり、飢餓地獄といわれたニューギニア。だが、現地の人たちの多数が犠牲になったこと、まったくといっていいほど知られてこなかった。戦後半世紀以上たって、被害者本人や遺族が語り始めた戦争被害の記憶は、信じられないほど悲惨だった。「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」
バラス・ブカヒンさん(70代半ば・男性)は一点を見つめ、悲痛な面持ちで語った。足元には母親がゆでられたという黒い飯ごうが置かれている。彼の周りを数十人の村民が囲み、聞き入っていた。
バラスさんが証言したのは、東部パプアニューギニアのセピック川流域のマラハオ村での集会だった。パプアの山間部の人たちは、半世紀前までカレンダーを気にしない暮らしをしていたため、正確な日付はわからないが、彼の母親が悲惨な死を遂げたのは、戦況などから1944年から45年にかけてだろう。
「家族が日本兵に切り殺されて飯ごうでゆでられ、あげくに食べられた」という証言は、バラスさんだけではなく複数の人から聞かされた。
42年3月以降、東部パプアニューギニアは日本兵とアメリカ・オーストラリア連合軍の戦場となった。日本軍は制海空権を失い、食料補給路を断たれて孤立。44年8月の「アイタぺの決戦」の敗退から1年後の敗戦まで、日本軍はトリセリ山系とプリンス・アレキサンダー山系の南側の山間部に立てこもり、食料を自給しながらの戦いを強いられた。東部ニューギニアに上陸した日本軍16万人中、帰還したのは1万人ほど。兵の消耗率は約94%にのぼった。日本軍によるパプアの人々の悲劇の大半は、この1年間に起こったという。(略)
清水さんは今年5月、日本軍による虐殺と人肉食についての被害者側パプアニューギニア人の証言を採録した「海と魚と激戦区」を出版した。
記者が訪ねた村々では30〜70人の村人が集まり、証言者は人々の輪の真ん中に座り、証言する。現地の標準語ビジン語の証言をラク氏が英語に通訳し、それを記録した。最初に訪れたのは北部の小都市ウエワクから車で約5時間のクンジギニ村だった。
戦争中20代後半だったマンピー・ワサさん(男性)は妹とともに、伏し目がちに、こう語った。
「その日の午後、長男は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を見に行くと、日本兵はみんな寝ていました。台所ではナベが火に掛けてあったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」
二人は兄が煮られていたという教会の広場で、この証言をした。
ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)が、
「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」
と語った。
「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。何ヶ月かわからないけど、長い間でした」
というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。証言する彼女に寄り添う夫は日本軍のケンペイ(憲兵)として働かされ、暴行を受けたという。
だが、ある村ではレイプされたという女性が証言する段階になって、「村人に囲まれては話せない」と証言を辞退する場面もあった。
訪ねた村の中には親日的な村もあった。日本軍の表彰状や腕章を見せ、思い出をうれしそうに語る人たちもいた。短期間だが村で簡単な学校を開き、文字や農漁業技術などを教えた日本兵もいたという。このギャップには信じられないものがある。
つい最近まで、パプアニューギニア人が、日本兵による人肉食の被害について公に語る機会はなかったと言っていい。悲惨な体験が語られるようになったのは、ラク氏らが94年、「日本軍による戦争被害に補償を求める会」を結成してからだ。
ラク氏は94年、日本のボランティア団体や研究者、弁護士らによって開催された「戦後補償国際フォーラム」に参加するため来日。日本軍の命令でパプア人約100人が虐殺されたティンブンケ事件(45年5月ごろ)を証言した。ラク氏の母親が事件に関連したレイプの被害者だった。
「この時、アジア各地の犠牲者のグループと交流し、いろいろと学びました。自分だけでなく、たくさんの被害者がいる東部パプアニューギニア全体の被害を調査してみようと思ったんです。勧告の元従軍慰安婦の人たちの存在に勇気づけられた」(ラク氏)
ラク氏はパプア第二の町レイ在住の地元有力者。日本から帰国すると、さっそく運動を開始した。昨年、地元のラジオと新聞で、日本に補償を要求するために、戦争被害を「補償を求める会」に登録するよう呼びかけたのをきっかけに、登録者が激増した。自宅を事務所にして約100人のボランティアを動員し、各地での聞き取り調査と被害登録を続けている。
「身内が悲惨な出来事にあった人は、何年たってもその記憶に苦しめられる。夜は悪夢に、昼もふとした瞬間に記憶が蘇るんです。それが原因で精神的な問題を抱え、早死にする人もいる。わたしの母がそうでした」(ラク氏)
補償には政府間の交渉が必要?すでに被害登録は約6万5000人にのぼるという。ちなみに現在のパプアの人口は390万人。登録者は約60人に1人になる(登録者はニューギニア島東部だけではなくラバウルなど周辺の島々を合わせた数)。
最も多いのは「武器や食料の運搬に駆り出された」約2万6000人だが、人肉食犠牲者1817人、胸を切断され死亡した女性19人、性器を蛮刀でえぐられて殺された女性8人、強姦されて殺害された女性5164人など、とても信じられないような数字が並ぶ。
はたして、この被害の実態が被害者側の証言だけで証明できるのだろうか。おもにオーストラリアとアメリカの資料をもとにニューギニア戦線での日本軍の人肉食を検証した著作「知られざる戦争犯罪」のある田中利幸メルボルン大学教員は、
「東京裁判でオーストラリア側が日本軍の人肉食を戦争犯罪として明示したのに、審理からは抜け落ちた。オーストラリアでは、食べられたと見られる自国兵の死体について約100のリポートが出ている。だが、戦闘中なので目撃証言が乏しく、裁判は難しかったようだ。これらの史料に、わずかだが現地の人たちの人肉食被害が出てくる。現地の人たちについては集落のなかでの出来事なので、むしろ目撃者は多かったのでは」
と指摘する。(略)
ラク氏らが今年8月、パプアの日本大使館に被害実態の文書を提出したが、「日本政府に伝えると言ったきり、その後返事はない」という。
ラク氏は、こう訴える。
「あの戦争はパプア人の戦争ではない。日本とオーストラリアの戦争だ。これまでパプア人の正式な犠牲者数も出されてなく、犠牲者に対してパプア政府も何もしてくれなかった。深刻な体験を下人も語る場所がなかった。でも、いま被害者たちが語り始めている。日本人は、この深刻な犠牲を知って、どうこたえるか、われわれは待っている」
ただひたすらにおぞましいとしかいえません。1994年ごろに首長であるガブルエル・ラクー氏を中心に日本政府に絶句するほどの壮絶な蛮行に対する補償を求めて、来日しました。被害者総数は6万人、あるいは9万人ともいいます。日本軍による強姦や従軍慰安婦、特に人肉食の被害についてはその被害のあまりに驚かされるばかりです。
05 台湾高砂義勇隊は「日本人」だったのか 台湾 国立政治大学教授 傅阜ニ
http://www.japanresearch.org.tw/japan/history-05.htmより
高砂義勇隊は「捜査隊」「工作隊」「猛虎挺身隊」など100人ほどの独立部隊とされて、撤退を続ける日軍を援護して、米豪軍地に潜入して奇襲をかけ、遊撃戦を展開し、敵陣地撃破をなし、一方では食糧以下全て現地調達となるので現地人の宣撫工作も兼ねた。昭和18年9月には優勢なる米豪連合軍は「蛙飛び作戦」を開始した。日本からの一切の輸送は止断えた。昭和19年2月、ラバウル基地は壊滅し、13万が戦死した。第7回高砂義勇隊800人は昭和19年初戦地に着いた。ブヌン族加藤直一は島々を阿転々としてから最後にニューギニアに送られ、飢餓地獄を味わされた(30)。林えいだい『証言高砂義勇隊』の訪問記録は、白豚(白人)、紅豚(黄色人種)、黒豚(現地人)、メンチ(日本人)などの人肉を食べるしかない日本兵の置かれた悲惨さを証言している。昭和20年10月大本営は「捷一号作戦」のフィリピン決戦に賭けたが、レイテ沖海戦では海軍神風特攻隊が発動した。昭和18年11月に編成された高砂義勇隊500人のうち第一中隊140人は、薫空挺隊としてレイテ戦に出動して一人の帰還者もなく消え去った。
人肉食については、奥崎謙三氏の「ゆきゆきて神軍」が有名です。日本兵たちは飢えの窮乏の中で白人を白豚、黄色人種(おそらく連れてこれれたインド人や中国人、朝鮮人など)を黄豚、現地人を黒豚、同僚の日本兵をメンチと呼んで食べていました。飢えて死に行く人間に論理感など当然ないでしょう。現地の人々から略奪し、死にかけた仲間のポケットを探り、白骨化した遺体から靴や服などを剥いで、何よりも敵味方の別なく殺していって人肉を喰らう者が続出したのは当然でしょう。ただし、週刊朝日の記事を見る限りそれだけではなさそうです。同様の日本兵の人肉食はフィリピンのミンダナオ島で起こったようです。
EXIT2005
國貞陽一の[脱・出・系]コラムマガジン
http://blog.livedoor.jp/planet_knsd/archives/50061729.htmlより
●テレメンタリー2005
9/17(土)夜9:00〜9:30、18(日)午後1:30〜2:00
「つぐない〜人肉を食った元日本兵の戦後」
今年2月、ひとりの老医師が亡くなった。相野田啓86歳。戦争中フィリピン、ミンダナオ島で犯した罪を背負って戦後を生きてきた。その罪とは「生き延びるために現地の人を殺し、人肉を喰った」ことだった。人の命を救う医者が、人の命を食ったのである。このおぞましい過去を償うため、彼はフィリピンで無料の医療活動を10年以上続けた。だが罪を犯したその村にはいけなかった。しかし自分の死期を感じ、遂にその村へ贖罪に行く決心をする。涙ながらに謝罪する彼の姿に、険しかった村人たちの表情が少し和らぐ。死の直前、彼は妻に「戦争を語り継いでほしい」という遺書を残した。1993年から12年間、極限の戦場から生還した軍医の償いの日々を取材した全記録である。戦争を始めるのは常に国家だが、戦争の責任や痛みを背負うのは個人であることを、ひとりの元軍医の苦悩を通じて静かに訴える。テレビ朝日制作。 (朝日ニュースターの番組紹介より)
ミンダナオ島の残留日本兵の人肉食については、辺見庸が『もの食う人びと』で現地取材をし、書いている。また、小説では大岡昇平が『野火』で、武田泰淳が『ひかりごけ』でこのテーマを扱い、原一男監督の映画『ゆきゆきて、神軍』でも、今は亡き奥崎謙三がニューギニアでの人肉食を執拗なまでに追及していた。補給路を断たれた日本兵は、アジア各地で人肉を食ってきたのである。
『つぐない〜人肉を食った元日本兵の戦後』が興味深かったのは、一人の元軍医が自らの人肉食の体験を生涯過ちとして悔い、戦後フィリピンで医療奉仕を続けながら、死ぬ直前にミンダナオ島についに足を踏み入れ、その村で謝罪をするまでが描かれていることだ。現地では、村の長老たちとの間で「和解の儀式」が執り行われるのだが(戦争を表す赤い布の両端を持ち、これを断ち、さらに平和を表す白い布の両端を持ち、これを断つ。両者は白い布を分かち持つことで、和解をする。これはその土地の部族間の古いしきたりであるという)、その前に「俺たちの家族はお前たちに食われた。俺もお前を食いたいぐらいだ」という言葉を投げかけられたりする。相野田氏は泣きながら村人と抱き合って和解し、同僚から託された幾許かの謝罪金を渡し、その数ヵ月後に日本で息をひきとる。
日本兵は侵略した各地域で、略奪し、虐殺し、強姦し、そして現地の人々を襲い、野蛮な肉食獣のごとく人肉を喰ったのである。そのような事実がある。この種の蛮行は大日本帝国・日本軍のみ存在したシステムや体質が存在したのには違いないのである。大日本帝国および日本軍は国際法をとことん無視した。自由や民主主義、人権、国際法などの価値を一切否定し、戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」とあるように、自国の兵士には捕虜になることは何よりも恥ずべきこととして叩きこまれたのである。天皇のために命を捧げることを最高の名誉と考える思想が徹底的に国民に叩きこまれた。日本軍ではさらに、人間的な感情を捨てるように殺人マシーンとなるべく兵士を教育したのである。下士官兵の間では上級者によるビンタ、暴行は日常的におこなわれ、
非合理な暴力に耐えることが求められた。新兵は捕虜やスパイ容疑などで捕らえた現地人を銃剣で刺し殺す儀式が行われた。このようにして、日本兵は非人間化されていった。ニューギニアにおいて何千人もの日本兵による人肉食が発生したのは、非人間化され、人権や道徳、生命の尊厳に対する一切の感情を捨て去った結果である。現地人を家畜や道具として見ていたため、彼らの人肉がうまいとわかった結果、次々に日本軍部隊の間に伝播していって、次々に非人道の人肉食が行われる結果となった。日本兵同士の人肉食や窮乏に陥った上で捕虜や現地住民(の遺体、あるいは殺して)食ってしまったという話ではなく、週刊朝日の記事によれば、戦時下にあったとはいえ、村での平静時における悲惨な出来事であることは衝撃的でした。。レイプした上で、殴り殺し、体をバラバラに切断して、皮をはがれ、肉片として軒先に吊るして、飯ごうでゆでるという残虐性はもちろん、計画性が伺えるいうもので、まさに絶句です。強姦や性奴隷・慰安婦の被害者が2万人以上いるというのは驚きだが、これまでの情報によれば、日本兵によるものだけではなく、憲兵隊として雇われた現地人の「憲兵ボーイ」や日本軍によって煽られた現地住民同士の部族抗争によって生じた被害も含まれる可能性もある。
ともあれ、パプアニューギニアの地で11万人もの日本兵が犠牲になり、パプアニューギニア人もそれ以上の壮絶な苦痛を味わったのです。東京裁判やBC級戦犯裁判では人肉食を含むこうした蛮行の多くを裁かなかったのである。日本軍指導者たちの連合軍捕虜や何よりもパプアニューギニアの原住民らの被害者に対する責任がうやむやにされることになった。
こうした蛮行を行った日本兵たちも国際法を教えられることなく、そして天皇に命を捧げ、非人間的な殺人マシーンになるように育てられ、何よりも断固忠誠を誓ってきた天皇体制に無謀な作戦でジャングルに置き去りにされ、飢餓に追いやり、人肉食などの非人道的極まりない行為に走らせ、その多くが餓死することになった犠牲者であったのである。そのような大日本帝国による日本兵・日本国民に対する加害事実と呼べる重大な事項を国民一人ひとりが共通の認識の認識として獲得する機会を失わせてしまったのである。パプアニューギニアにおける大日本帝国・日本軍の侵略と加害事実についてはあまり知られていないが、それを知ることを通して、わが国の過ちおよび罪行を理解し、未来へ向けたアジア・太平洋地域との真の友好関係が構築できるのではないでしょうか。それとガブリエル・ラク氏が「日本人は、この深刻な犠牲を知って、どうこたえるか、われわれは待っている」と訴えています。日本人はいまだに答えていません。ネット上からも抹殺されていますが、改めてこのブログで訴えたいと思います。これだけのおぞましい日本軍による加害の事実が存在するのに、被害者の訴えを無視するのは、人類の普遍的な道徳に反すると思います。日本政府の徹底的な無視および心無い右翼の激しい攻撃によって、これらの加害の事実が葬り去られようとしていますが、そんなことを許してはなりません。被害者らを絶望させたことに対する戦後世代や日本政府の罪を清算し、真の平和や人道を貫き、アジア・太平洋地域の日本への信頼を取り戻すためにも真の真相究明や謝罪や補償に向けて、ラク氏らパプアニューギニアの被害者らが声を大々的にあげられるように良識派の皆様はお力をお貸しください。




㈰ 学校の授業そっちのけで、“独自に集めた資料による平和教育”ばかりで親から
不満が続出。
㈪ アメリカ人とのハーフの生徒に「アメリカは悪」と罵倒し、生徒はショックで登
校拒否→転校。
㈫ その生徒の親からクレームが来ると、その親の悪口を書いたビラを校内にばら撒
く。
㈬ そのビラの件で名誉毀損で訴えられるが、どーゆーわけか増田は「事実無根の捏
造だ」と抵抗。
㈭ 増田は敗訴するが、何故か「勝訴した」と言いふらし、反省ゼロ。
㈮ ホームページやブログで、学校や父兄の悪口を書きなぐる。
㈯ 学校から「何でも他人のせいにする性格を直しなさい」と指導されるが、「思想
修正される」と騒ぐ。
㉀ 学校側の処分に不服で、キレた増田は「人権蹂躙だ」と訴えるが、やはりと言う
か敗訴。
㈷ 都議から「なんなんだアイツは?」と言われ、キレた増田は名誉毀損で訴えるが
敗訴。
㉂ ノムヒョンへ手紙を書く。「私は良心的日本人ですが極右勢力に包囲されていま
す。助けて、大統領!」
㉃ さすがに共産党も、奇行を繰り返す増田にドン引きし、赤旗紙面にて絶縁宣言。
日教組系の弁護士も「無理」と、さじを投げる。
㈺ 増田、やっと解雇。退職金は貰えたらしいが。
何故か韓国のテレビに出演、解雇の理由を「極右の陰謀」と語る。
㈾ 韓国のテレビで「ノムヒョンを尊敬する」と語る。
㈴ 韓国で講演。「日本人は歴史歪曲どころか偽造してるんです!」
〈警視庁不当強制捜索〉 朝鮮外務省代弁人が非難談話、平壌宣言違反 朝鮮への主
権侵害
日本当局は23日、警視庁公安部の主導のもとに在日本朝鮮大阪府商工会と、
同胞が経営する店と自宅など6カ所に対する強制捜索を行うなど総聯弾圧に
国家権力を投入した。
それだけでなく、日本当局はすでに総聯中央本部と東京都本部の会館、
朝鮮出版会館に対する固定資産税の減免措置を撤回し、差押え処分を下
したのに続き「現行法の厳格な適用」という美名のもと、全国の総聯の関連
施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置を完全に廃止しようとする
など、総聯を切り崩すための財政圧力をいっそう強めている。
われわれは、総聯と在日朝鮮公民に対する殺伐とした弾圧騒動を傍観できない。
元々、日本政府は歴史的見地から見ても当然、総聯の活動を保障し、
在日朝鮮人の生活を保護すべき法的、道徳的責任を負っている。
にもかかわらず、「法治国家」である日本が解決済みの「拉致問題」を意図
的に総聯と結びつけながら国家権力まで発動して総聯と在日朝鮮公民に
対する暴挙を断行し、われわれに「圧力」を加えようとするのは卑劣で笑止
千万なことだ。
総聯は同胞の諸般の民主的民族権利を擁護する朝鮮民主主義人民
共和国の合法的な海外公民団体であり、朝・日両国に国交のない現状で
日本人民との友好を図る外交代表部の役割を担当し遂行している。
このような尊厳ある総聯と在日朝鮮公民に対する弾圧は、朝・日平壌宣言
に対する違反であり、朝鮮に対する主権侵害行為である。
時の顎で地獄の矢となりて 暗黒の死肉を抉らん
時の果つる宿命の崖にて 汝、愛を囁く末路
黒き星の陰我が巡りて 鮮血の魂をその手に委ねん
爪、即ち真実 歯、即ち依然
二条の彩り無き虹の橋 漆黒の天界に架かる時
的無き狩人の悲哀 千尋の奥底に消え去らん
韓国人窃盗団による犯行の疑いが強いことが分かった。
日韓警察当局の情報交換で浮上した。
壁を破る事件は「爆窃団」と呼ばれる中国系窃盗団により、平成四年ごろ多発。
今回も中国人グループが活動を再開したとみられていたが、警視庁など警察当局は、
韓国人グループの新「爆窃団」が日本で暗躍しているとの見方を強めている。
韓国でのITバブルの崩壊による不景気や取り締まりの強化から、日本が狙われているようだ。
ビルの外壁に穴を開けて店内に侵入、ショーケースや
金庫にある腕時計や指輪を根こそぎ奪う手口の事件は昨年四月以降、
都内で有楽町や上野で相次いだほか、広島市や兵庫県姫路市、岡山市、福岡市など全国の貴金属店で起きた。
今年も有楽町で一月に未遂事件があったほか、福島県郡山市の貴金属店や神奈川県相模原市の量販店、
川崎市のデパートなどで発生。手口から警察当局が同一犯の疑いがあるとみている「壁破り」は、
全国で十五件以上、被害額は五億円を超える。
警視庁は昨年、有楽町の近接する貴金属店で被害が立て続けに出たことから、
平成四年ごろに続発した爆窃団が“復活”したとみて、
警察庁などを通じて中国や香港など周辺の警察当局に窃盗団の入国がないか照会を進めたところ、
韓国で同一手口の事件が三年前から多発していたことが、韓国警察当局からの情報で判明。
同一手口の窃盗団のメンバーが過去、日韓を往復していた事実や、
入国時期が日本での被害と一部一致していることも分かった。
また今年一月、有楽町で起きた事件で現場に残された足跡は、
広島市や姫路市の現場で昨年、採取された足跡と類似していたが、
有楽町の翌日、銀座の宝石店のガラス戸が壊され、
指輪など百五十点が盗まれる全く手口の異なる事件で現場の足跡が有楽町と一致。
一連の壁の穴開けでも、油圧ジャッキのほかドリルを使ったケースや換気扇を狙うなど、
油圧ジャッキを多用していた香港の爆窃団と比べて手口に統一性がない。
こうしたことから警視庁などは、新しい「爆窃団」は取り締まり強化などで
日本に「市場」を移した韓国人グループの疑いがあるとみている。
韓国では、ここ数年の景気低迷や富裕層のカード所有が徹底し、
多額の現金を持ち歩かなくなっているため、窃盗団は犯行がしにくくなっているという。
密入国によるすり団の日本への流入も多いが、韓国の警察筋は、
「日本人は警戒心が薄く、一回の犯行で稼げる額が大きいため、標的にされている」と指摘している。
◇
【用語解説】爆窃団
貴金属店に壁を破って侵入し、宝飾品を根こそぎ盗み出す大胆な手口からその名前が付いた外国人窃盗グループ。
昭和60年代から平成10年ごろにかけて中国・香港から来日したグループを中心に全国で被害が発生。
特に昭和62年と平成4年に続発し、中国系窃盗団の代名詞ともなったが、警察の摘発で沈静化していた。
油圧ジャッキでビルの外壁を破るのが典型的な侵入方法で、犯行ごとに出入国を繰り返すヒットアンドアウエーも特徴。
(産経新聞) - 5月15日2時53分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060515-00000001-san-soci
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「私は、ここにいる。」(by,涼宮ハルヒシリーズ)
だから、死なない。事故・事件・病気にでも遭わない限りな!どうかな?厨房の一人よ?
では、これにて。
いて話し合う場面が出てくる。キムチの味を問う記者の質問に外国人は「はい、よく食べ
ます。韓国のキムチはとてもおいしいです。日本のキムチは比較にもならないですね」と
記述されている。韓国の代表食であるキムチの優秀性を紹介することは良いが、日本の
キムチを見下すことは、他文化を無視すると同時に他文化に対する偏見を助長しやすい。
小学校社会と道徳の教科書にはこのような単一民族主義と自民族中心主義的記載が明らか
に現われる。六年生1学期の社会教科書で「一つに団結した同胞」の部分は「私たちの同胞
は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗、百済、新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」
と始まる。これは当たり前の内容のようだが、単一民族主義の理念が盛られている。
私たちの同胞が最初の国、古朝鮮を建てたという話は古朝鮮成立以前にすでに同じ血統を
受け継いだ我が民族が存在した、という意味に解釈できる。朴チョルヒ京仁教育大教授は
「教科書では‘古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか、調
べててみよう」と記し、旧石器、新石器、青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古
朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている。」と
指摘した。
朴教授は今春、学術誌「教育社会学研究」に発表した「多文化教育の観点に基づく初等社
会・道徳教科書内容に対する批判的考察」という論文でこのような事例を紹介した。
(中略=関連スレと内容重複)
民族の優秀性を強調するために他民族を貶める事例もある。「一民族は強靭な所がありま
す。中国歴代王朝、日本など周辺の国々がしつこく侵略を試みましたが、結局はすべて失
敗してしまいました....(中略)例えば韓半島に韓民族ではなく日本や他の民族がいたらす
ぐに亡びたはずです。」(四年生2学期、道徳教科書89ページ)これは韓民族を優越に描くた
めに他民族を侮辱した代表的な事例だと言える。
朴教授は「文化に対する態度が幼児期に形成されるほど、幼児期に文化に対する正しい観
点を確立すること重要だ。多元化、世界化の流れに照らしてみる時、単一民族主義と自民
族中心主義を基礎にした教科書の記載は再考されなければならない。」と強調した。
ソース:empasニュース/京郷新聞(韓国語)初等教科書、高麗の時‘23万帰化’言及もしない
http://news.empas.com/show.tsp/cp_kh/20070821n11817/?kw=%C0%CF%BA%BB%20%3Cb%3E%26%3C%2Fb%3E
関連スレ:
【韓国】小学校の教科書、自民族の優秀性を過度に強調。特に「日本人は文化的に劣等」
と一貫して記述 [08/21]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1187774895/
☆ チン 〃 ∧_∧ /癡所の右翼討伐人チャソ
ヽ ___\(\・∀・)<2チ ヤ ソ ネ ルで他人のメ ア ド晒した謝罪まだー ?
\_/⊂ ⊂_)_ \____________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
|  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:| |
| H A N 板人 .|/
数万円もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようとした癖に自からHAN板でバラして罵倒嘲笑を浴びた。
他人のメ ア ドを本人の許可無くHAN板で晒し、スレ住人にたしなめられたが開き直って削除依頼もせず逃走した。
2TIYANNELUの理系板で日本軍悪口雑言板スレ立てをして沈着冷静、頭脳明晰な住人の罵倒嘲笑を浴びた。
2TIYANNELUの海旅板で日本の加害情報求む等と馬鹿なスレ立てをして総スカンを喰らった挙げ句スレストされた。
HAN板で(さば)を(こい)と読んで無知文盲がばれて祭りになった。
理系大学の学生でありながら本を買ったのがたった二冊だけだと平然とほざいてHAN板でスレ住人にあきれられた。
南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記のHAN板住人に全く歯が立たず泣き言を吐いて逃走した。
HAN板で意気揚々とソースに「半月城通信」を引用して大爆笑になった。
自分の専門分野について質問された時に錬金術の如き化学反応式を並べて文系住人さえ絶句させた。
鬼女板と恐れられる既婚女性板にカキコして百戦錬磨一騎当千の鬼女板住人に粉砕されて逆上、「お前らなんて一生結婚出来ないぞ!!」と
既婚女性板住人が化石するしかない捨て台詞を吐いて逃走した。
就職の面接で担当者が一文字姓だった為、勝手に在日朝鮮人と決めつけ、得意満面でこの自慰ブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた。
民団の掲示版に日本の悪口を書いて賛同を求めたが逆に門前払いを喰らって唖然とする程の癡所ぶりをオチされて侮蔑と嘲笑を浴びた。
やれやれ、碌に考えない人は困るなぁ・・・・。
戦犯裁判で「人肉食等の件」が裁かれなかったのは、多分「裏が取れない言いっぱなし証言だった」からじゃないかと私は思うけどね?
まぁ、"高度な政治的判断"って奴もあったかもしれないが、これは推測な。
仮にも裁判なんだから、幾ら戦勝国主催のだとは言え、証言の裏取り位するだろ?後で自分達が叩かれない様に。
ここいら辺りが解んないのは、自虐史観やサヨク的思考に汚染されてるって事だな。
お涙頂戴の真に迫る体験者なる者が語る証言を聞かされ、そのショックで思考停止してりゃ世話はない。
「証言は物語化する」。
この言葉は至言だな。全く。何と言われようとも、他の人達が全て証言を信じようとも、私は突っ込みを入れ続けるだろう。なぜなら、
「私は懐疑主義者だから」。
では、これにて。
チンマチクタビレタ〜 ♪
♪
♪ ☆チン .☆ ジャーン!マチクタビレタ〜!
☆ チン 〃 ∧_∧ ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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チン \_/⊂ つ ‖ 2 tiィヤんネル゙で他人サマのメァド サラシたシャザイまだー?
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大学院をでても全く使い物にならず担当教授のお情けで研究室の派尻をやってかろうじて糊口を繋いだ
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自分の風呂具でもまんまと縦読みにひっかかって物笑いを受けた.
自分の風呂具の管理も満足にできず毎年12月31日に皆様の投稿をお待ちしています等という
うましかエントリを何時までも削除出来ず莫迦をさーら下.
土地来るって自分の風呂具で自作時絵んを始めたが文体を帰る事も出来ない蜘獲悪苦れの為一発でばれた.
遂に他人の鏝を方って自分まnせえを始めたがそのことを厳しく球団されたとたんぴたりと辞めて失笑をかった.
他人様を糞コテ呼ばわりした癖に自分の意見をいわず他のブログやHPをリンクするだけで相手を論破したと思い込む位の
tisyouさ加減を糾弾され何も反論せずオナアアにいエントリを立て続けるtいえオく列振りをまたもya証明した
「類は友を呼ぶ」、「癡處齲と付き合うと癡處齲が伝染る」、という真理を鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人と同じく他人
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鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人を凌ぐちぃえぇおくうぅれなのが「なめてます」コメント及び
「高潔にして偉大なる俺様のsenzuriブログに都合の悪い事をカキコした奴はIPアドレス、サーらしてやんよ!!」コメントで判明した(w