2006年05月08日

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part3―戦犯裁判に関する問題点

●戦犯裁判に対する議論における問題点
BC級戦犯裁判に関して、指摘される問題点のなかで、以下のようなものがある。
・拘留中の暴行虐待
(裁判そのものとして)
・人違いにより有罪にされたこと・通訳の不適切さ
・検察側の証言が一方的に採用され不十分な証拠で有罪にされたこと。
・弁護の十分な機会を与えられなかったこと
・上官の命令に従っただけの者が裁かれたこと。
・末端の実行者が厳しく裁かれたのに対して上層部が免罪されたこと
などのさまざまな批判がある。全体としてBC級戦犯には問題が多かったことは日本では共通認識になっているが、問題を議論をどのような方向に発展させるかであった。

「私達は再軍備の引き換え切符ではない」(『世界』1952年10月号、加藤哲太郎『私は貝になりたい』所収)として、アジアに対する侵略の事実を見つめ、朝鮮戦争への加担と再軍備を拒否しようとする戦犯の手記集も出版された。その後、日本がおこなった侵略や残虐行為、さらにはアジアへの責任を突き詰めて考えようとする議論があった。上官の命令に対する絶対不服従という問題に関わって国家への忠誠の絶対化を批判し、人権や平和の観点から国家を相対化しようとする議論、戦犯に責任を押し付けることなく民衆の戦争責任を問いただそうとする議論、捕虜収容所の監視員として動員された朝鮮人や台湾人が戦犯として裁かれたことから、アジア・太平洋戦争以前の植民地支配を含めてこの種の問題を見直そうとする議論などさまざまな形で戦争責任の問題を正面から受け止めようとする営みが行われた。
 しかし、その一方でBC級戦犯の手記がつぎつぎと出された1950年代前半と、日米安保体制のもとで再軍備が進められ、日本が朝鮮戦争で米軍に加担していた時期であり。そこでは戦犯裁判がいかに不当で不公平なひどい裁判であり、戦犯容疑者がいかにひどい虐待を受けたのか、戦犯にされた者の家族がいかに苦しんでいるのかということのみ声高に語られた。その後も戦犯裁判を批判することによって、日本が侵略戦争をおこない数多くの戦争犯罪をおこなったことを帳消しにしようとする議論は跡を絶たなかったという問題点があり、このことが現在の日本に及ぼしている影響ははかり知れないものがある。


●戦犯容疑者への虐待の問題
 裁判そのものではないが、拘留中の日本人戦犯容疑者が未決中から判決後もイギリス軍をはじめ連合軍兵士からしばしばひどい暴行を受けたことであった。 こうした暴行は戦犯容疑で逮捕された人々に自らのあるいは日本軍の行為について振り返り反省する機会を奪っただけでなく、逆にイギリス軍を含めて連合軍に対する反発を生み、さらには戦犯裁判自体に対する反発を生み出す大きな原因になったのである。裁判をおこなう側が非人道的な暴行を繰り返していたのだから、その裁判を公正な裁判として受け入れよと求めることは無理なのであった。概して中華人民共和国による裁判を除いて、連合国の戦犯裁判によって裁かれた元戦犯の間には、裁判自体への強い反発ばかりが残り、日本軍が行ったことへの反省はほとんど聞かれないという状況が生み出されてしまったのである。
 暴行や虐待の問題のほかは、食糧の問題とヨーロッパ人囚人に比べて差別待遇を受けているという問題があった。ヨーロッパ人と差別しているという問題については、他のアジア人収容者と同等の扱いをしており、日本人戦犯の中には、アジア人と同じように扱われるのはいやがるような発言が見られたという(名誉白人、大和民族優越思想がまだ残っていることを示している)。食糧の問題については、戦後、特にマラヤ、シンガポールでの食糧不足が深刻であり、東南アジア司令部や軍政当局の最大の悩みの種の一つが住民のための食糧確保だったのである。降伏した日本兵をレンパン島に集めて自活させたのも、日本兵のための食糧を確保することが難しかったことが一つの理由だった。当然戦犯容疑者への食糧は後回しにされた。しかし、敗戦までは占領者として食糧を保障されていた日本兵から見れば虐待と映ったことは推測できる。イギリス軍の再占領の初期においては食糧事情の確保など困難な状況にあったことは否定できないものの、警備兵らによる暴行をはじめこの問題が戦犯裁判について日本人の意識に与えた影響ははかりしれないものがある。


●服役中の戦犯の意識の問題
 戦犯容疑者への虐待の問題と被るが、服役中の日本人戦犯の意識に関して私個人としては怒りがある。もちろん、拘留中の日本人戦犯への虐待は許せるものではないが、自分たちがやってきた残虐行為の被害者および犠牲者に関する視点はなく、反省の態度がほどんど見られないことである。ともかく本書のp168〜169より引用する。 

 服役中の戦犯の意識について考えるうえで興味深い資料がある。それは「日本人の検閲レポート」と題された一連の報告書である。これはシンガポールとマラヤの刑務所で服役中の日本人戦犯とその家族友人との手紙を検閲し、それらの内容を分析したものである(FO371の各年)。1948年以来、3ヶ月に一度この報告が作られているが、戦犯からの手紙のなかで自らの過ちを認めた手紙は「第5回日本人の検閲レポート」(1949年12月31日付、FO371/84036)になって初めて出てくる。報告書の作成者は「拘留されてから4年たって、数百人の戦犯のなかで過ちを認めたものは一人しかいない」とアウトラムロード刑務所に収容されている戦犯から家族への手紙を紹介している。その手紙には「私が戻ったとき、おまえが私の過去の過ちを許し忘れてくれることを望んでいる。私はあのようなことは二度と繰り返さない、そしてまったく新しい生活を始めることを誓う」と書かれていた。この戦犯は捕虜虐待の罪で服役していた朝鮮人だった。
 第8回のレポート(1950年10月31日付、FO371/84035)には別の1人の手紙が紹介されている。その戦犯は5〜6人のイギリス軍捕虜の処刑を上官に命令され、命令に反対して抗議したが却下され処刑を指揮したために10年の判決を受けて服役していた。命令を下した上官は死刑になっていた。彼は「私はいま自分が人道に反する恐ろしい行為を犯したことに気がついている。私は10年の禁固刑に服役することによって上官の命令に従った私の弱さの償いをしたいと思っている」と書いている。
 しかしこうした例はまれにしかない例外であり、「かれらの家族に自分たちの罪を認める者はほとんどおらず、むしろ他人の罪の犠牲にされたとか、スケープゴートにされたと主張している」のが普通だったと分析されている。
 獄中の戦犯から家族への手紙の分析であるということを考慮しても、日本軍の行為への反省を抜きに戦犯裁判への不満ばかりが噴出していることは大きな問題であった。反省できない日本人戦犯にも問題があるが、かれらに反省の契機を与えないような、あるいはむしろ反省の契 機を失わせるような戦犯裁判(拘留中の虐待を含めて)のあり方に問題があったのである。
 このケースでは加害者側がイギリス側で被害者が日本人であるが、加害者側が暴行について軽く見ているのに対して、暴行を受けた日本人の側ではその恐怖感、反発が非常に強く両者の受け取り方の落差の大きい。逆もいえて、戦犯裁判における被害者(日本軍の残虐行為の対象)の証言と日本人の被告を比べたときにまったく同じことが言える。被害者がひどい虐待暴行を受けたと証言しているのに対して、被告はただビンタをしただけだと証言するだけのケースが多い。もちろん、裁判の場では被害者の証言をそのまま認めてしまうと自分の命が危なくなるので、自分の行為を軽く言うのはごく普通のことであるが、それでも両者のギャップは大きいのである。日本軍の加害行為については被害者が大袈裟に言っているのだと否定しながら、イギリス軍から受けた虐待については声高に叫ぶのは、自分本位の一方的なわがままと言われても仕方がない。
 イギリス軍をはじめ連合軍による日本人戦犯容疑者に対する暴行虐待が、日本人戦犯裁判に対する認識を著しくゆがめることになった。中華人民共和国の日本人戦犯容疑者に対する人道的な扱いが、かれらの反省を促し、日本人の戦争犯罪認識を深めるうえで大きな影響を与えたことに比べ、対照的であったのである。しかし日本側は監獄での日本人戦犯への暴行を語るとき、日本軍によってそれよりはるかにひどい拷問虐待を受け、あるいは拷問によって殺された多数のアジアの人々の被害に思いを致すべきであったのである。それを抜きにした戦犯裁判批判が日本の戦争責任の免罪につながったのは当然だった。  

●朝鮮・台湾人戦犯問題
 イギリス裁判で裁かれた朝鮮人は確認できたかぎりでは49人、うち泰緬鉄道関係では16人であった。すべて捕虜収容所のガードであり、シンガポールで裁判にかけられている。全体で無罪は2人(判決不確認を含め3人)だけで、死刑判決11人(うち泰緬鉄道7人)、死刑確認4人(同2人)である。
 朝鮮人戦犯は捕虜を人道的に扱わなければならないという戦時国際法などまったく教えられることなく(これは一般の日本兵も同じであるが)捕虜収容所のガードにされた。そして日常的に捕虜と接し、当時の日本軍では当たり前だったビンタなどの制裁を暴行という意識なしに捕虜に対しておこなった。そのために捕虜から怨みをかい、同時に顔や名前を覚えられる立場にあった。陸海軍あわせて兵長以下の兵で起訴された者が全部で68人に対して、兵以下の地位にあった朝鮮人ガードが49人も起訴されていることは極めて多い。
 一方で死刑判決の多くが減刑されていることも注目される。死刑判決11人中1人はアリバイを認められて判決が不確認になり、ほかに6人が減刑されている。これはかなり高い割合であった。一般の兵の場合、死刑判決8人中減刑は2人のみであった。
 ただ10年以上の刑を受けた者は31人と被告数の63%を占め、地位に比して刑が重いことは否定できない。兵の被告の人数、判決と比較して、兵以下の存在であった朝鮮人ガードは相当に重い処罰を受けていた。ただ、朝鮮人ガードの扱いはイギリスの裁判ではその地位の低さが考慮されている。
 朝鮮人で死刑判決が執行された4人のケースを見ると、いずれも具体的な暴行虐待により死に至らしめたことが立証されたとして死刑判決が確認されている。少なくとも上官の命令に従っておこなった行為ではなく、個々の残虐な行為が裁かれたケースが多いといえる。
 朝鮮人ガードが戦犯になった背景には、食糧や医薬品もろくにないなかで、鉄道建設のために病人まで狩り出し過酷な労働をさせた日本軍の上層部に責任があるのはもちろん、捕虜と日常的に接する役目を朝鮮人にさせ、ビンタは当然のこととして教育してきた日本軍の体質がある。朝鮮人がガードの役割をさせられたのは日本の植民地支配が引き起こした結果であった。朝鮮人ガードは日本人軍属および初年兵よりも地位がはるかに低く、過酷な扱いを受けた(日本人兵士でさえ、初年兵となればすさまじい扱いを受ける。朝鮮人兵士たちはそれをはるかにしのぐ虐待を受けたのである)。日本軍内部で酷い暴力を受けて苦しんでいたが故に、朝鮮人兵士たちが自分たちよりもさらに弱い立場にある捕虜に対して酷い虐待や暴力を向けることになったと考えられる。また差別される存在であるがゆえに、日本軍への忠誠を日本人以上に示すことによって差別から逃れようとする志向は、なおさら捕虜に対し厳しくあたることにつながり、恨みをかうことになったのである。であるから「日本の戦争責任の肩代わりさせられた」という理解は妥当である。ただし、著者によれば必ずしも上官の命令を忠実に実行したとはいえない起訴事実があり、それだけでは解消できない個人の責任が残ることはいがめない。
 台湾人の戦犯のケースでは、イギリス裁判で裁かれた台湾人は23人(1人は2度裁かれているので、実数は22人)、無罪判決0(判決不確認が1人)、死刑判決6人(確認5人)となっている。多くが日本軍の通訳だった。憲兵が逮捕した民間人を取り調べる際に通訳として立会い、その際に暴行を加えたとする容疑が多い。したがって起訴された容疑の被害者は、台湾での捕虜虐待致死のケースを除いて民間人であり、具体的な虐待や虐待致死で起訴されている。取り調べに立ち会っているから、当然、顔などを覚えられていることが多い。
 朝鮮人や台湾人の戦犯のケースにしろ、アジア・太平洋戦争以前の侵略の植民地支配の問題に絡んでくると思う。日本軍の最末端に彼らはいたが、同時に捕虜監視員や通訳などとして捕虜に接することがほかの日本兵の誰よりも多かったことにくる悲劇である。非人道的な捕虜に対する政策を実行したり、そして、何よりも一連の残虐行為を生み出す元となった自国の国民や兵士の命さえも粗末にするそうした非人間的な日本軍の体質を生み出した大日本帝国の指導者たちが何よりも負わなければならなかった責任であると思う。この問題に対するそれらの責任関係を曖昧にしたままの「決着」は許されるものではない。捕虜に対する虐待にしと、何よりも最末端の朝鮮人や台湾人の軍人・軍属が多く裁かれたことに対して、責任の所在を明確にし、償いは果たされなければならないのは言うまでもない。


●インド人捕虜のケース
 被害者がインド人捕虜のケースが判決が破棄されたケースの中で最も多いのである。判決破棄のケース25人中、インド人捕虜のケースは12人を占めていた。被害者がインド人捕虜のケースは12件38人があるが、そのなかの12人の有罪判決(死刑3、終身刑1、有期刑8)が破棄されたのである。インド人捕虜であるとしたが、実は捕虜であるかが問題であったのだ。弁護側はインド人はもとは英軍兵士であったが、降伏後、自らの意思で日本軍の一員になったのだから捕虜ではないと主張した。日本軍の内部問題(たとえば、日本軍が同じ日本兵や日本人民間人を処刑した場合、植民地の住民や連合国籍である民間人や捕虜を虐待したり殺害したりしたケースではないので、戦犯裁判の対象からは外れる)であって、戦犯裁判の管轄外であるというものだった。しかし、1946年10月まではその弁護側の主張を退けた。しかし、それが変ったのはそれ以降であり、1946年10月28日シンガポールの裁判でサラワクにおいて5人のインド人捕虜を殺害したとして3人が裁かれ、3人とも有期刑の判決が下された。その後、11月30日、12月2日、47年1月30日に同じようにインド人捕虜殺害のケースの判決が出され、死刑を含む9人が有罪となったのだった。
 犠牲になったインド人は捕虜になってからインド国民軍に入らずに労働部隊としてボルネオやニューブリテンに送られた者たちであったが、戦争末期になり日本軍の形勢が不利になると日本軍から逃亡や抵抗をはかったので、彼らを殺害したのであった。捕虜とみなし、国際法を適用するか迷った事例だった。最終的にはインド人は当時日本軍法の下にあって、被告らはその法に基づいて行動したので被告の行動は戦争犯罪ではないとして最終的にはその4件の有罪判決は破棄されたのである。私はもっともこれには甚だ疑問である。

マレーの人々も日本軍の下で苦しみました。日本兵に路上で逮捕され、「死の鉄道」のためタイに送られた人もいました。ちょっとでも悪いことをすれば、容赦なく罰せられ、日本兵に殴られたり、首をはねられたりしました。日本軍はインド人にインドを支配しているイギリスと戦うために、インド国民軍に加わるように要求しました。しかし、多くのインド兵士(主にシーク人)とガーク人は、インド国民軍に加わることを拒否しました。拒否したために、殺された人もいました。インド人も「死の鉄道」から免れることはできませんでした。  
観光コースではない マレーシア シンガポール 陸培春著 高文研(シンガポールの教科書に書かれた大虐殺の項目)p70
多くのマラヤにいたインド人がインド国民軍に加わるように強制されたのである。インド人捕虜が日本軍に加わった場合でも自発的ではなく、強制されたケースが大部分だと考えられる。そういうことにも気づかず、日本の弁護側の主張を盲目的に採用する形で、多くのインド人捕虜に対する残虐行為の判決を破棄されて、この件を不問にすることで終わったのは納得のいかないものがある。

●憲兵が被告のケースにおいて下士官や通訳などの下級の者たちが集中して死刑判決を受けたケース
 日本軍が組織的に戦争犯罪をおこなった場合、たとえばシンガポール華僑虐殺やマラヤでの組織的な住民虐殺のような場合、戦犯として追及されるのはその行為の命令者あるいは中心的な実行者に限られていることが多い。このケースは被害者の数の多さに比べて、被告の数が少なく、当然死刑になる数が少ないが特徴である。
 上官が裁かれず、下級将兵や通訳などが集中して起訴されているケースとして、虐待あるいは虐待致死、殺害で起訴されているケースが多い。これらの場合、多くは被害者が1人あるいは少人数である。たとえば憲兵が住民を捕まえて取調べ中に拷問をおこない、その結果死なせてしまったケースは虐待致死にあたる。こうしたケースの場合、あくまで容疑者として捕まえた住民から自白させたり、容疑を認めさせることが目的であって、虐待を加えることではない、まして殺害することでもない。認定された事実が虐待だけの場合、特別なケースを除いて禁固刑ですむからまだいい。しかし、殺してしまった場合には死刑になることが多いのである。
 こうしたケースの場合、憲兵の上官は逮捕した者に吐かせろと命令し、殺すまで拷問を加えることを黙認していたとしても、殺せとか殺してもよいということは明示的には言わないのが普通だろう。拷問についても、あくまでの吐かせるのが目的であって、吐かせる手段として拷問を使えとは言わない。実際に取り調べにあたり拷問をおこなった憲兵の下士官たちが拷問で殺してしまった場合、上官の命令に従っただけという弁解は通用しない。虐待致死と言う行為は命令によるものではなく、取調べをおこなった被告本人の判断による行為、あるいは過失とみなされてしまう。拷問をおこなった者は、生き残った被害者から顔や時には名前を覚えられ、戦犯容疑者として指名手配されやすいが、上官と拷問をおこなった下士官や兵の間でおこなわれたやりとりは日本側の当事者以外には誰もわからない。だから上官が知らなかったといえば、それを覆す証拠や証言を得ることは命令文書でも残ってない限りほとんど不可能である。だからこうした住民の虐待致死のケースで、多くの場合、直接拷問をおこなった者(多くが憲兵の下士官や通訳)が裁かれ死刑判決を受けたのであった。
 ちなみにイギリス裁判(イギリス裁判だけではないかもしれないが)の全体のなかで憲兵の比重はきわめて大きい。被告918人中355人(39%)、死刑判決281人中112人(40%)、死刑確認222人中94人(42%)、となっている。特に准士官・下士官クラスでは氏傾斜の圧倒的多数が憲兵であった。かれらが逮捕の取調べのなかで中心的役割を果たしていたことが、この数字に反映している。そしてそれらのケースでは被害者の圧倒的多数が地元の住民たちであったのだ。 

●上記以外の現場の実行者側に責任が押し付けられ、日本軍上層部が裁かれなかったケース
大規模な戦争犯罪において、カラゴン事件や泰麺鉄道などのケースのように、実際には現場の実行者・責任者ばかりに責任が押し付けられ、軍上層部が裁かれなかったケースがある。泰緬鉄道を例に説明したい。泰緬鉄道というのは、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415キロ(ほと東京〜大垣間)に及ぶ日本軍がビルマへの陸上輸送の目的のために建設した鉄道である。1942年6月に大本営から建設が命令され、12月に公式に着工、翌年10月に完成した。この建設のために日本軍は約6万1800人の連合軍捕虜と約20万人のアジア人労働者を動員した。しかし、ジャングル、山岳地帯、雨季などの厳しい自然環境に加え、過酷な強制労働、食糧・医薬品の欠乏、劣悪な宿舎などのために多くの犠牲者を出した。捕虜の死亡者は約1万2300人、アジア人労働者の死亡者はイギリスの推定では約7万4000人、日本側の推定でも約4万2000人にのぼっている。そのために「死の鉄道」と呼ばれた。日本軍の捕虜虐待のケースにおいて、この泰緬鉄道はとりわけ残虐なケースとして扱われた。その後の鉄道の維持・管理のため捕虜が引き続き使用された。
 イギリス裁判で泰緬鉄道関係の被告は24件67(実数66)人であった。67人の被告中無罪になったのはわずか2人だけ(判決不確認を含めても3人)、死刑判決26人うち死刑確認17人も出している。南方軍野戦鉄道司令官であった中将(10年の刑)を筆頭に、鉄道建設時のタイ俘虜収容所長(少将、死刑)などが裁かれた。死刑になった者は2人の患者輸送隊関係者を除いてすべて捕虜収容所関係者であった。鉄道建設にあたり直接捕虜を過酷な労働につかせていたのは鉄道隊であったが、鉄道隊から死刑になった者はいなかったのである。イギリス裁判で鉄道隊関係者で下された最も重い刑は終身刑(大尉)にとどまり、鉄道隊の最高責任者でも10年の刑にすんだのである。逆に鉄道隊からの強い要求により捕虜を労働に駆り立てた捕虜収容所の関係者が被告ならびに死刑の多数を占めてたのである。
 ところで対照的に鉄道建設を計画命令した大本営や南方軍からは1人も起訴されなかった。1943年12月未完成の予定だったのを、大本営が同年2月になって4ヶ月期間を短縮して8月末完成を命令した。そのために病人を含めて無理やり捕虜たちに労働を強制させ、雨季に入ったこともあわせて多大な犠牲を出す大きな原因となったのである。食糧や医薬品の欠乏なども捕虜収容所の責任というよりは計画・命令した軍上層部の責任である。これら上層部が裁かれなかったことは問題であった。
 たとえば、最も奥地で建設にあたり、約7000人の捕虜のうち3000人あまりが死亡するという捕虜グループのなかでも多くの犠牲を出したFフォースの裁判があった。この裁判では収容所と鉄道隊から7人が起訴され4人に死刑判決が下されたのである。しかし、死刑判決が出された4人については、大量の捕虜の死を引き起こしたという残虐行為に被告が関わったということは証明されておらず、Fフォースの高い死亡率を招いた主要な要因がこれらの被告らの責任の範囲外の要因であることが明らかであるとし、4人とも死刑から終身刑または15年に減刑されたという事例があった。もちろん、その捕虜の高い死亡率を招いた要因が現場の被告らの責任の範囲外ということは、泰緬鉄道の敷設を命令し、ずさんな建設計画を立てた上層部にあるのは言うまでもない。しかも、実際の裁判でFフォースの深刻な被害を生み出した要因は現場の裁量を超えていることを認めたのであるが、そうした状況を生み出した日本軍上層部を裁こうとしなかったのである。泰麺鉄道の裁判は現場に責任を押し付け、日本軍上層部を裁かなかった裁判の代表例であり、裁かれた現場の者からしたらやりきれないのではないだろうか。


●イギリス対日戦犯裁判「勝者の裁き」として理解されていることへの反論
 イギリス対日戦犯裁判は「勝者の裁き」「報復裁判」として単純に理解することはできない。本書に載っている例として戦犯裁判の公正な検察官がいたことが触れられている。

 第1(サイムロード)抑留所の所長を含むスタッフ5人が被告のケースをあげてみる。シンガポールには日本軍の民間抑留所がおかれ、イギリス人など連合国民が抑留されていた。この第1(サイムロード)抑留所の所長を含むスタッフ5人が1942年2月15日から45年8月15日までの間、収容されていたイギリス、オーストラリア、オランダ、カナダ、アメリカの市民を虐待し、その結果1人のイギリス市民を死亡させ、他の抑留者に身体的苦痛を与えたとして起訴された。判決では死亡させたことは認定されず「虐待」のみが認定されたが、死刑3人、終身刑(所長)と7年が各1人というきわめて重い刑が下された。しかし、この裁判の検察官が軍当局に判決が妥当ではない手紙でと訴えるという事例があった。たとえば終身刑を受けた所長については、抑留所長として全般的な責任は明らかだが、積極的に害悪をもたらすような人物ではなく、弱い性格であり、部下をほとんどコントロールできず、むしろ影響力のある邪悪な部下(被告の1人)に従属していた。それゆえ終身刑は重過ぎるとして訴えた。死刑判決を受けた1人については死刑に値するような証拠はないとして刑について再考すべきだとして判決の不当性を訴えていたり、また7年の判決を受けた1人については、抑留者を蹴るなどのことはしてないが、いい振る舞いをしていたこともなく、7年というのは5人に対する判決の中でも最も納得できないということを主張していた。このケースは裁判終了後に検察官が判決が重すぎるといって直訴する手紙を書いたと記録に残っている唯一の例である。ただし、イギリス軍の戦犯裁判では検察の求刑というのが存在しないから、検察が予想した以上に重い刑になることがあった。そのため、このケースだけではなく、検察官が減刑を働きかけることがあった。また、このケースの場合、検察官からだけではなく被害者たちからも減刑の訴えが出された。泰緬鉄道のキャンプとも比較され、この抑留所での虐待や状況は特に酷いものではなく、泰緬鉄道を扱った裁判との判決が比較された。こうしたことで、所長は10年を超えない刑に、死刑の3人は10年または8年を超えない刑に、7年の者は一年に減刑された。
さらにクアラルプールのプドゥ刑務所のケースも存在する。1944年4月から45年8月までの期間、所長と副所長だったそれぞれ2人ずつと他に1人の計5人が起訴された。その期間に収容された市民を虐待し、うち約640人を死亡させたという容疑であった。被告の1人は裁判官の検察官であったことがわかり無罪になった。以前の所長と副所長は死刑判決が下されていたが、検察の最終陳述が彼らを救ったのだ。もちろん、前半期の所長については厳しく責任を追及したが、提出された証拠からみて後半期の所長が収容者の苦痛を和らげるために最善を尽くしたことを認めた。被告が関わったとされる具体的な虐待に関する2人の検察側証人の証言内容を検討し、その内容がともに間違いをおかしているとして退けた。そして被告が収容者に対する殴打をなくそうと真摯な努力をおこなったこと、全体として戦争の法規と慣習に沿ったものであって、検察は被告が無罪であるという弁護側の申し出を認めた。弁護側の主張も受けとめ、検察側(自分たち)の証人の問題点を分析し、被告は無罪であると結論づけた最終陳述は法の前で公正さを貫こうとしている法務官の良心を示したものだった。しかし、判決では被告に10年の刑が下された。検察側の陳述を考慮に入れつつも所長としての責任はあると考え、無罪ではなく減刑となった。戦犯裁判の検察側にこうした検察官がいたということである。また、同時にこれらのことは、戦犯容疑者がすべて日本軍占領中横暴に振舞っていたわけではなく、獣ではなく人間の心をもった日本人戦犯の人たちが実在したということも示している。それと日本側の弁護士の回想のなかには、こうした公正な姿勢のイギリスの裁判官や検察官がでており、岩川隆氏は著書のなかで「英国人の人道を尊ぶ心」という見出しでそうした例を紹介しているという。
 裁判全体を見ても判決が出された被告915人中105人(11.5%)が無罪判決を受けている。確認の際の判決放棄を含めると130人(14.2%)にもなった。戦犯裁判が最初から有罪にするという結論の決まった「報復劇」や「勝者の裁き」だとするような議論は実態からかけ離れているのである。またそのような議論は真に日本軍の戦争犯罪の犠牲になった多くの人々を無視したものであり、道義的に許されるものでもあるまい。

●イギリスの対日戦犯裁判では裁かれたケースはごく一部であり、大部分の日本軍の犯した戦争犯罪は裁かれずに終わったという問題
☆実はイギリスの対日戦犯裁判では裁かれたケースはごく一部である。
まず、山下奉文元第25軍司令官のケースをあげておく。もちろん、フィリピンでアメリカの軍事裁判所で自身の傘下の部隊が起こしたマニラでの残虐行為の責任を問われて死刑判決が下された。シンガポールを攻略した時の第25軍の司令官であり、シンガポールでの華人虐殺にも責任のある立場である。シンガポールの中国人たちはフィリピンから山下奉文元第25軍司令官を連れてきて裁判にかけるように要求して、イギリス当局も米国に取り合うなどして、努力したがそれは適わなかった。
☆もう一つは辻政信元第25軍参謀であり、シンガポールおよびマレー半島各地の虐殺に関わり、ビルマで捕虜を殺して食べた事件など重要な事件にも関わっておりイギリスが威信をかけて捕まえようとしたが、逮捕できず裁判にかけることはできなかったのである。その辻政信はイギリスはすでに日本に帰国していることを察知していたがどうにもならなかった。辻政信を逮捕できなかった背景には米国の影があったという話もある。
☆太平洋諸島のケースがある。イギリスは太平洋の島々にも植民地をもっていた。そこでは多くの住民が日本軍の残虐行為の犠牲になったのである。しかし、裁判にかけることは適わなかった。タラワ島の日本軍がアメリカ軍との戦闘で全滅していたことや、イギリス軍にとっては遠方で捜査が進まなかったことなどから結局あきらめざるを得なかったのである。
part2で触れたが、スエズ丸事件もあった。スエズ丸がアメリカ軍の潜水艦によって誤って撃沈されたが、救命ボートによって一部の捕虜は助かった。偶然にも日本軍の掃海艇は彼らの救命ボートに遭遇した。当然日本軍の掃海艇は彼らを救助する義務が存在する。しかし、それを怠り、そればかりか機関銃で皆殺しにした事件であった。被告として3人が特定されて、1人を逮捕していたが、裁判の遅滞のために取り上げようとしてもすでに4年がたっていて、結局ドロップせざる終えなかったケースの一つである。
☆スタッフの不足から来る戦犯容疑者の起訴取り下げと釈放の問題である。裁判の進行にとって、問題となったのは最初から最後までスタッフの不足であった。裁判の準備段階での捜査員や法的資格のあるスタッフにとどまらず、裁判官、通訳、弁護士などの問題もあった。 特に法廷の通訳の場合、通常の通訳よりもはるかに高い能力が要求される。そうした要求に応えられる通訳は裁判が開始された1946年2月初めの時点で12人が必要なのにわずか4人しかいなかったのだ。1946年5月17日の東南アジア司令部での会議での報告によると、逮捕された容疑者は8900人で、うち裁判にかけられたものは175人となっている。戦犯裁判の進行は想像以上に遅かった。進行の遅さの大きな要因の一つは弁護士と通訳の問題であった。そうした問題のために、刑期が一年未満になりそうな軽微な犯罪容疑のものは随時釈放されていって罪に問われることはなかった。
★裁かれなかった戦争犯罪でイギリスの対日戦犯裁判においてもっとも規模が大きく、組織的であり悪質なものとして日本軍性暴力がある。裁かれなかった戦争犯罪の中でもっとも悔やまれるケースであろう。イギリスは「強姦」と「強制売春のための婦女子の誘拐」は戦争犯罪として考えていた。オランダ裁判では蘭印におけるオランダ人女性に対する「慰安婦」強制連行事件が戦争犯罪として裁かれている。こうした「強制売春」の捜査は当初、東南アジア司令部によっておこなわれ、捜査記録にはジャワのマランやマゲランなどで日本軍慰安所にオランダ人だけでなくユーラシアンや地元女性が慰安婦にさせられていたという情報がいくつか含まれていた(WO 325/28,38)。
 イギリスの戦犯裁判では、さまざまな残虐行為の一例として強姦が挙げられているが、日本軍による「慰安婦」制度あるいは強姦などの性暴力について単独の独立した容疑として起訴された事例はない。
 前者の事例として、泰緬鉄道建設に関わった患者輸送隊の隊長(少佐)以下12人のケースが存在する。容疑は地元住民やその妻、家族を虐待し肉体的苦痛を与え多くを死なせたこと、数人を故意に殺害したこと、捕虜を虐待したことの3点である。判決では隊長の少佐と兵長の2人が死刑になっている。この兵長については19歳ぐらいのインド人女性を家から引きずり出して強姦した上でロウムシャたちにも強姦させたこと、タバコを売りにきたビルマ人少女を強姦したことが取り上げられている。兵で死刑になったのは被告1人だけであるが、彼に死刑判決を出された大きな理由の一つがこうしたいくつかの強姦事件だったのである。容疑では「虐待」とされているが、その中にはこうした強姦事件が含まれている。本書ではビルマにおける日本軍の性暴力が記述されているが、これは別項でのちに取り上げたいと考えている。
イギリス人女性が慰安婦にさせられていた可能性について取り上げたい。
p278〜280より

 ところでイギリス人女性が日本軍慰安婦にされていたということを示す資料は今のところわかっていない。しかしアメリカ軍の資料のなかにイギリス人あるいはオーストラリア人が日本軍の「慰安婦」にさせられていたことを示唆する資料がある(RG 153/Box 1391)。1943年4月23日ペナンで日本軍に捕らえられ、45年9月2日まで捕虜であったと記されているレスリー・リロイ・バーカーの証言である。その証言は次のようなものである。
「1943年10月22日の夜、シンガポールでミッド・モハマッドという名のインド兵がイギリスかオーストラリア軍の看護婦が海軍のキャンプの側を流れる川沿いをさまよっているのを見た。彼女は三回銃剣で刺され一回撃たれていた。そのインド兵は英語がわからなかったので彼女を私のところへ連れてきた。彼女は私たちに、売春婦にさせられたが逃げてきたと話した。5人の日本の海軍兵が彼女を見つけ、先に述べたような扱いをおこなった。日本兵の1人はアトクダという名前で、海軍の下士官ぐらいの階級だった。その看護婦の名前はアンネ・メイだった。私は彼女が3日後に、すなわち1943年10月25日に息を引き取るまで一緒にいた。彼女が死ぬと、インド兵の1人がキャンプのなかの彼らが作った防空壕のなかに彼女を埋葬した。彼女は5フィート6センチくらいの背の高さで黒い髪をしていた。彼女の容態がよくなかったため、降伏前にシンガポールのイギリスの病院で働いていたこと以外は、彼女の部隊も自宅の住所も聞き出すことはできなかった。」
 
 当時の証言者の状況など詳しいことがわからないのでこの証言だけで判断はできないが、もし事実であるとすれば、イギリス軍の下で働いていたイギリス人かオーストラリア人の看護婦が日本軍の慰安婦にさせられていたことを示す証言である。イギリス軍が戦争犯罪捜査のなかでこの問題を調べようとしていたのかどうかはわからない。
 スマトラ島のパレンバン郊外で抑留されていたオーストラリア人従軍看護婦たちが日本軍の慰安婦にされそうになった事件が知られているが(田中利幸『知られざる戦争犯罪』174ー180頁)、その際にイギリス女性が慰安婦「募集」の斡旋をしており、イギリス人民間抑留者も多数いたことからイギリス女性が日本軍慰安婦にさせられたケースは十分にありえることである。
 いずれにせよ日本軍性暴力について、イギリス軍の戦犯裁判ではほとんど裁かれることなく終わった。性暴力は裁かれなかった戦争犯罪の典型的なものだったと言えるだろう。

 イギリス人女性も慰安婦にさせられていた可能性が大きいのだ。136部隊などが民間人抑留者からの調査を丹念に行っているが、なぜこのケースがイギリス側の捜査網から引っかかることがなかったのか理解はできない。やはり、その裏にはアメリカ(マッカーサー)が絡んでいる可能性が本書で示されている。
★著者が自分の目でイギリス軍の捜査記録を確認したが、捜査がされながらも起訴にまでいかなかったケースがたくさんあるという。1946年3月9日時点で裁判にかけられて判決を下される人数は推定で最大限3200人と見積もられていた。この数は捜査がかなり進んでいるか、あるいは可能であり、かつ犯人の逮捕の見通しもあるものであろうだから、そのレベルにいたらないケースをあわせると膨大なものになるのだろう。裁判にかけられたものはわずか305件919人にすぎなかった。日本軍による膨大な戦争犯罪はそのほとんどが裁かれることなく終わったのである。その理由としてスタッフの不足による裁判の進行の遅さはもちろん、期間の短さもあげられる。シンガポールにおいて最初の裁判が開廷したのが1946年1月21日であり、48年12月が香港での裁判が最後であり、おおよそ2年ほどの期間しかなかった。 イギリス軍が裁判を担当した地域は、シンガポール、マラヤ、北ボルネオ、ビルマ、香港などであり、これらの地域での日本軍占領下の犠牲者数は、正確な数字はないが数十万人にのぼるだろう。傷ついた者、家を失った者、家族を失った者、性暴力を受けた者など日本がおこなった侵略戦争によって被害を被った人々はそれをはるかに上回ることはまちがいないと思われる。もちろん、圧倒的多数の残虐行為が裁かれなかったのである。イギリス軍の戦犯裁判についてはきちんと議論しなければならないが、そうした人々の思いを致すことなしには戦犯裁判を論ずることはできないはずである。  

●戦犯裁判とその後(戦犯の釈放および復帰)および日本政府の平和に反する試みと意識の問題
 戦犯裁判の終了と並行して、1949年1月陸軍大臣のもとに「戦争犯罪の刑の見直し第二委員会(極東)」No.2 War Crimes Review of Sentences Board (Far East)が同種の犯罪に対する刑の統一をはかるという目的で設けられた。なお第1委員会も同時に設置されたドイツを扱った。刑の統一が目的だが、刑を重くすることはできないのんで、実質的に減刑を検討することが目的だった。この委員会では裁判記録や戦犯の服役態度などの資料を集めて検討され、第一委員会は1949年に8月に勧告を出した。第二委員会は9月30日時点で刑期の残っている441人のケースを検討し、57人の減刑を勧告した。この勧告を陸軍大臣は承認し1949年11月18日極東地上軍司令部に対して通達し、この通達で同時に刑務所長の裁量で「善行 good conduct」と認めた者については刑の3分の1を減刑してもよいと指示された。この指示に基づき極東地上軍司令部は1950年1月23日香港、マラヤ、シンガポール、北ボルネオ、ビルまで服役中の計57人について減刑と、それ以外に刑務所長の裁量で3分の1減刑ができる旨を通達された。減刑の程度は人によって異なるが、15年が5年と大幅に減刑されているケースがあった。この時点では終身刑の者についての扱いは検討中だったが、陸軍省が義務賞の同意を得て終身刑は21年とみなしその3分の1を減刑することを決めたのである。こうした措置はドイツの戦犯に対する措置と同じであった。
 イギリスによって裁かれた戦犯は現地の刑務所で服役していたが、かれらを日本に送還するという問題があった。中国国民党政府による裁判の服役者は国民党の敗北を前に1949年2月、日本に送還されていた。イギリス政府は戦犯の送還を検討し、49年12月15日にマッカーサーに打診しその同意を得たのである。そこでイギリス政府は植民地政府やすでに独立したビルマ、オーストラリアなどと調整を図った。大きな問題として送還費用の問題があったが、日本政府に負担させるのは無理だとして、送り出す政府が負担することで原則的な合意を得た。1951年1月18日イギリス外務省はGHQと具体的な送還方法と日本での収容について協議するように東京のイギリス外交部に指示した。この時点で送還が予定されている服役者は343人以下だった。
 なお日本ではGHQが1950年3月に定めた「戦争犯罪人に対する恩典付与」(連合国軍最高司令官回章第5号)により仮出所などの恩典を与える手続きをとった。平和条約発効までに892人が仮出所を認められたのである。
平和条約の発効後は、刑の執行は日本政府があたることになった。平和条約が発効し、日本が独立を回復した1952年4月28日現在、スガモ刑務所に収容されていた戦犯は米英仏蘭豪中の6ヶ国による者とA級戦犯を合わせた927人だった(うちイギリス関係116人)。他にフィリピンとオーストラリアからその後送還された219人を含めた1146人が日本政府に引き継がれた。
 連合国の占領中はGHQが仮出所などを決定していたのだが、独立回復後はGHQがなくなり、裁判をおこなった国の承認が必要になった。日本政府での刑の執行は法務府矯正局が所管し、赦免、刑の軽減、仮出所などに関する勧告は法務府の外局の中央更生保護委員会がおこなうことになった(52年9月に法するのか検討がおこなわれた。労働党政権では恩赦に反対の雰囲気が強かったが務府は法務省になり、中央更生保護委員会は廃止され中央更生保護審査会になった)。
 中央更生保護審査会は1952年8月8日に関係国にBC級戦犯の全面赦免を勧告するなどA級戦犯を含めた戦犯の減刑や釈放に力を入れた。衆参両院でも52年6月に戦犯の釈放等に関する決議をあげ、民間でも戦犯釈放運動が起きた。
日本政府は52年8月各国にBC級戦犯の全面赦免を申し入れ、とりわけイギリスに対してはその申し入れをしたのみならず、11月6日にはA級戦犯の釈放についても打診している。
 イギリスでは戦犯裁判の扱いは陸軍省だったが、1952年7月に、国際的な観点から外務省の担当に移されていた。イギリス外務省ではどのように対処、51年10月に保守党に政権がかわってから恩赦に好意的になりはじめた。
 1952年12月初めに恩赦の扱いの手続きについて定め、日本政府に対して、イギリス政府は全般的な恩赦はおこなわないが、個々の人の恩赦の勧告については見当すると前向きな回答をした。
 仮出所については個々人ごとに中央更生保護審査会から仮出所の勧告が出されたが、イギリスには当時仮出所の制度がなかったので平和条約発効1年たってもイギリスによる仮出所の許可はでなかったのである。
 中央更生保護審査会の勧告について、きわめて問題が多い。本書でp286〜287よりシンガポール粛清裁判で終身刑になった大西覚のケースについて引用する。

大西に関しては1952年11月7日付で中央更生保護審査会の「仮出所勧告に関する決定書」が出され、この英訳とともに関係資料が付けられてイギリス政府に提出されている。この決定書は「評議の結果同人の仮出所の許可を英国に対し勧告することが相当である旨決定する」というものである。  
「仮出所を相当とする理由(酌量される事情)」の第一に「本人は、(中略)当時跳梁甚だしかった華僑の抗日ゲリラ分子の掃蕩に当り、遂に140名を検挙したが、その責任を問われて戦犯とされた者である。裁判においては、五千人を殺害したなど出鱈目な証言があったが、かかる事実はなく、本人は単に上司からの作戦命令を遵奉して検挙の任に当たっただけで、処刑した者はない。(中略)本件憲兵関係者に対する報復裁判と認められるといわれている。此等の事情により本人の情状は十分酌量せらるべきである」と記されている。理由の第二以下は、服役中の成績が優良であることや家族が困難にあることなどが記されている。この第一の理由は日本軍側が出した五千人という数字も「出鱈目」だと一蹴し、「報復裁判」と裁判自体を否定しようとするものだった。政府機関によって戦争犯罪の事実そのものを消し去ろうとする議論が積み重ねられていったのである。


こうした連合国の好意に乗りかかる形で戦争犯罪の事実そのものを消し去ろうとする反動的な日本政府の申し立てが行われたが、イギリス外務省では「多くの場合、勧告の理由は刑の軽減を認めるにはきわめて不適切である」と問題にしていたが、日本政府にどのような申し入れをしたのか分からないという。
もう一つ、政府機関によって戦争犯罪の事実そのものを消し去ろうとする中で起きた問題がある。仮出所とは別の一時出所という制度がありました。平和条約に反する改定を行い、アメリカの反発すら招いた事実がある。p287〜289より引用

 
 仮出所とは別に一時出所の制度があった。これは父母、配偶者、子の死亡あるいは危篤のときなど限定された時のみ審査会の許可を得て、5日以内(目的地への往復日数を除く)の一時出所が可能であった。ところが1952年12月日本の国会はこの法律を改正し、「その他特別の事情があるとき」という緩やかな許可条件を追加し、かつ期間を15日に延ばした。さらに15日延長にしたので最大30日まで可能になった(「平和条約第11条による刑の執行及び赦免に関する法律の一部を改正する法律」、翌年1月22日公布、即日執行)。この改正により日本政府の裁量によって仮出所が可能になったので、アメリカは公布前の1月12日に日本政府に対して、この改正が平和条約第11条に矛盾すると批判した*(以下、FO 371/105438,105440,105441, FO 262/2085より)。
* 平和条約第11条はつぎのようになっている。「日本国は、極東軍事裁判所および日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国内で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本の勧告の基く場合の外、行使することができない。(以下略)」  

 このアメリカの動きをうけてイギリス外務省も1953年1月28日東京の大使館に対して、この法改正が平和条約第11条に反するという見解を日本外務省に伝えるように指示した。さらに2月8日には日本の外務大臣に直接、イギリス政府の意思を伝えた。日本政府は2月25日にアメリカ政府に文章で、平和条約の条項を誠実に実行するのが日本政府の確立された政策であると回答した。その際に口頭で「5日間を超える一時出所はアメリカ大使館への照会なしには認めない」と付け加えた。イギリス政府に対しては28日にアメリカ政府への回答のコピー紙を手渡しして説明をおこなった。
 こうした日本政府の対応をうけて3月3日駐日アメリカ大使の呼びかけにより、イギリス、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージランド、パキスタン、カナダの代表が集まって議論がおこなわれた。ここでアメリカは日本政府の回答は望みうる最善の回答だという見解で、イギリスもこれに同意した。日本が独立回復の早々に平和条約の精神に反することをおこなったためにアメリカもさすがに強い姿勢に出た。そのためにとりあえずは日本政府は低姿勢に出て、事態を収拾した事件だった。しかし中央更正保護審査会の仮出所勧告の内容とあわせて、日本政府には平和条約を誠実に実施するつもりはないことがはっきりと表れた出来事だった。


そのような日本政府の体質は今も受け継がれているのだろう。戦前の大日本帝国体制といまだに決別できていないことは明らかである。戦後日本あり方の問題点が大いに現れた事件である。


●戦犯服役者の終焉と戦犯釈放後の日本政府および日本人自身が戦争犯罪や戦争責任の問題に取り組まなかったことへの問題

 個別の恩赦の検討以外に、1953年5月イギリス外務省は、刑の3分の2の執行を終えた者で「善行」と認めた者を(3分の1の減刑)という方針とともに、刑期の計算を戦犯容疑者として逮捕された日からとすることも決定し、日本政府に通告された。
 一方の個々のケースの審査の場合には次の5点が考慮の基準とされた。
@誤審だったかもしれないことを示す新しい証拠
A同様の犯罪を犯した戦犯の間での刑の不公平
B犯罪を犯したときの年齢と階級に照らして、また上官の命令の下で行動していたのかどうか、という点からの刑の重さ
C現在の年齢、健康、家族の状況
D政治的考慮。釈放あるいは拘留の継続が、イギリス、各植民地、英連邦諸国、日本、ビルマのような当該戦犯によって市民が被害を受けた他の国々の世論に与える影響

 その後、イギリス政府は少しずつ減刑による刑期満了=釈放を認めていった。スガモ刑務所で服役中のイギリス関係の戦犯は、1952年4月8日の116人(米英仏蘭豪の合計823人)から、56年4月14日には14人(同383人)になった。
 この間、戦犯裁判をおこなったほかの連合国についてみると、中華民国(台湾政府)は日華平和条約の発効にともない1952年8月戦犯91人全員を釈放、フィリピンは53年12月末に、フランスは54年4月までに全員釈放した。アメリカとオーストラリアまでが10年間服役した者は釈放するという寛大な政策を取るようになっており、このままではイギリスが孤立し日英関係を損なうという判断から、10年たった者は釈放するとことが提起された。一度は意見が分かれて保留になったものの、7月28日の閣議で了承された。10年という考え方は、終身刑を15年とみなし、それを3分の1減刑して10年にするという論理から出されたものだった。これにより58年9月までに全員が釈放されることになった。1957年1月1日2人に減刑釈放をおこない、イギリス関係の戦犯服役者は治療のための仮釈放中の2人を除いてすべていなくなった。そして58年2月6日仮釈放中の者も完全に釈放することが閣議で決定された。これが戦犯裁判に関わる最後の決定だった。スガモ刑務所から最後の戦犯がいなくなるのは1958年5月で、アメリカ関係の仮釈放中の者も減刑により釈放され、すべての戦犯がいなくなるのは同年12月29日のことであった。それはまさに日米安保交渉始まっているときだった。
 その間の経過のなかで、イギリスは戦犯釈放運動の広がりに神経をとがらせていて、厳しい態度を取ると日本政府や国民から反発を受けるのではないかということを恐れた。シンガポールとマラヤでは1995年5月と7月にそれぞれ総選挙がおこなわれ、独立は時間の問題となり、マラヤ連邦は57年8月に独立した。そうしたなかで旧植民地の民衆に対する戦争犯罪にこだわるよりも日本との関係を重視するようになった。そのことがイギリス政府が、戦犯釈放運動の前にずるずると後退していった大きな要因の一つであるとされる。閣僚を含む政治指導者たちが、戦犯が獄中に閉じ込められていることが政府の反共ならびに自衛改定 のための努力を妨げていると繰り返し訴えていたことは、アメリカ国務省を通してイギリス政府にも伝わっていた。冷戦の中で日本を自らの陣営に引き付けておくことと戦犯釈放問題は密接につながっているのである。
 この戦犯釈放の問題について述べると、起訴され有罪となった戦犯だけに侵略戦争あるいはそのなかでの戦争犯罪の責任を押し付けることは大きな問題があった。戦犯釈放はかれらだけが負わされていた責任を日本政府あるいは日本国民全体で引き受ける機会にすべきだったのである。侵略戦争をおこない、あるいは各地で戦争犯罪をおこなったシステムとその構造、そのなかで個人の責任を徹底して洗い出し、占領軍の戦後改革によってはできなかった、日本人自らの手による平和的民主改革をおこなうべきであったのである。その中で明らかに誤審や冤罪であったケースは名誉回復の手段が講ぜられるべきだったし、反対に重要な犯罪者は日本人の手によっても何らかの措置がとられるべきだったのである。戦犯裁判を批判しながら、「償いは済んでいる」と片づけてしまうのは結局のところ、無実の罪で有罪にされた誤審や冤罪のケースを放置し、裁かれた戦犯のみに責任を押し付けてしまう結果になるのである。
 しかし、実際には戦犯への恩赦を求める中央更正保護審査会の論理に見られるように、戦争犯罪を弁護し、あるいはその事実そのものを否定しようとする動きが支配的だったのである。戦犯の釈放問題を含めて戦犯に対する日本政府、日本国民の対応自体が改めて問い直されなければならないのである。このことが今日にいたるまで日本のアジアとの関係を不安定にさせ「友人のない日本」と言われる状況を招いているのである。

posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:26 | Comment(11) | TrackBack(7) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なにがいいたいんだ?ちえおくれ(w
Posted by at 2006年05月08日 00:39
『「友人のない日本」と言われる状況』確かに深刻な問題です。どこの国に行っても、日本人というだけで相手にされないのが現状です。それも日本人の多くが自覚していない。最近になってようやく海外旅行者数が減少するようになってようやく少し自覚してきたのかな、という感じですね。
Posted by 模造紙 at 2006年05月08日 13:50
>どこの国に行っても、日本人というだけで相手にされないのが現状です。

本当に海外に行ってみたことがありますか? 私は諸事情でネパールに行ったことがありますが、「日本人」という見た目だけで、金持ちだと判断するのか浮浪児がよって来たり、行商人に捕まったり… ガイドは浮浪児には何も与えるなと言いますが、何とも…。少なくとも貧民層が住む国では「日本人」というだけで相手にされないと言うことはないのではないでしょうか? 
いくら昔に日本がひどいことをしたんだと声高に日本国内で叫んだところで、当事国では教育すら受けられずにいる子供たちが大勢いるのですから、「日本の蛮行」を知るはずもなく、その被害を受けた国の国民の多くが日本を恨んでいるという状況は起こり難いよう思います。無論、このような発言をするとすぐに「日本軍を美化している」という批判があると思いますが、私は当事国で国際法(遡及法でない)に背いた日本人がいることは重々承知しています。無論冤罪の可能性は実際に日本人の手で再審を行っていないので何ともいえませんが。
Posted by a2 at 2006年05月08日 20:20
我が民族は優秀→日常と日本が突きつける現実→日帝秀吉が奪った
 
→でも世界的に見ると豊かなウリナラ→日本の悪い点を喜んでいるうちに大変な事に・・

→いや、日本でもこういう所は見習うべきだ!

→ウリナラでは事情が違うから根本的な解決が望まれる→我が民族は優秀(ループ)

我が民族は優秀→日常と日本が突きつける現実→日帝秀吉が奪った
 
→でも世界的に見ると豊かなウリナラ→日本の悪い点を喜んでいるうちに大変な事に・・

→いや、日本でもこういう所は見習うべきだ!

→ウリナラでは事情が違うから根本的な解決が望まれる→我が民族は優秀(ループ)

我が民族は優秀→日常と日本が突きつける現実→日帝秀吉が奪った
 
→でも世界的に見ると豊かなウリナラ→日本の悪い点を喜んでいるうちに大変な事に・・

→いや、日本でもこういう所は見習うべきだ!

→ウリナラでは事情が違うから根本的な解決が望まれる→我が民族は優秀(ループ)
Posted by at 2007年08月22日 21:25
(´・ω・`)ちなみに

サヨとTIYOSOが、「日本は拉致を解決したければ、
制裁なんか止めて、もっと北朝鮮を支援しろ」と
必死に主張するが・・・

(´・ω・`)でも、崔成竜をサンプルに見てみよう。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=87564&servcode=500§code=50
0

【崔成竜とは、こんな人】

 一応、韓国の拉致被害者会の代表を務めていて、
 日本の協力で活動していたのにも関わらず・・・
  ↓
 韓国政府統一部に「次の南北赤十字会談で
 韓国だけ解決する予定だから」と丸め込まれ、
 日本を裏切って北朝鮮サイドへ寝返る。
  ↓
 で、「日本は拉致被害を政治問題にするなnida!」
 「日本の拉致被害家族会は右翼の手先nida!」と、
 すっかり北のスポークスマン気取り。
  ↓
 調子にのって、わざわざ韓国警察を指揮して
 特定失踪者調査会のイベントを妨害したり、
 もう反日でノリノリ。
  ↓
 3月の時点では「もうウリたちの家族は帰ってくるから
 日本の右翼は邪魔すんなnida。ウェーハハハ!」と
 勝ち誇っていたのだが・・・
  ↓
 でも、4月の南北赤十字会談で、崔成竜が北朝鮮から
 貰った回答は「生死確認不可能」の紙一枚。
  ↓
 やっと韓国政府と北朝鮮に騙されていたことに気付き、
 ショックで滞在先で動けなくなるような騒ぎを起こす。
  ↓
 そして韓国政府は、そんな北朝鮮に支援ガッポリ。
  ↓
 で、昨日の南北列車試運転では、デモ隊を連れて
 乱入、そして乱闘。
  ↓
 しかし、かつて自分が北朝鮮の工作のために協力した
 韓国警察によって制圧され、追い出される。
  ↓
 崔成竜、悔し泣き。

(´・ω・`) 崔成竜のエンディングを見てもわかるように、
       親北勢力に迎合しても拉致解決は無理!
       ・・・ということ。
【崔成竜ものがたり:あらすじ】

家族を北朝鮮に拉致され、拉北被害者の会の代表を務める。脱北者も援護。
 ↓
だが、親北政権のせいで、途方にくれる日々。
 ↓
そこへ、日本政府と日本の拉致被害者家族会が、救いの手を差し伸べる。
 ↓
<丶TДT> 「感激nida!まさか日本人が助けてくれるとは!恨などもう無いnida
!」
 ↓
こうして日本と活動を共にするようになった崔成竜だが・・・
 ↓
北朝鮮&韓国政府「日本を妨害するなら、次の再会行事で便宜を図ってやるnida!」
 ↓
崔成竜、寝返る。
 ↓
<丶`∀´>「ウェーハッハッ!日本のウヨクは黙れnida!」
 ↓
拉致被害者の集会をドタキャンしたり。
 ↓
日本政府の北朝鮮制裁を批判する声明を出したり。
 ↓
韓国警察に協力して、埒外者の活動を妨害したり、恩を仇で返しまくりんぐ。
 ↓
<丶`∀´>「次の再会行事ではuriは特別扱いnida!日本は邪魔すんなnida!」
 ↓
(´・ω・`)「ま、崔さんが自分で選んだ道ならしょうがないよねぇ・・・」
 ↓
そして迎えた再会行事、しかし崔成竜が貰った返事は「消息不明」の紙1枚。
 ↓
なごやかムードで南北列車試運転行事が行われる。
 ↓
そこへ、崔成竜が率いるデモ隊が乱入!
 ↓
<#`田´>「ノムヒヨソー!将軍様ー!話が違うnidaー!全員帰国させろnidaー!」
 ↓
韓国警察を相手に乱闘する崔成竜だが、制圧されて追い出される。
 ↓
<丶TДT> 「アボジー!あなたの息子はここnidaー!」
 ↓
その後、崔成竜の姿を見た者は、誰もいない 

【2007年3月:風船メッセージの巻】

短波ラジオ「しおかぜ」で有名な特定失踪者問題調査会・荒木代表が、
韓国の脱北者支援組織の協力で、北朝鮮に向けてメッセージ付きの
風船を飛ばす計画を立てる。
 ↓
そして、いよいよ風船を飛ばす当日・・・
 ↓
突如、崔成竜が韓国警察を連れて乱入!
 ↓
<丶`∀´> 「ウェーハッハ!崔成竜、参上!」
 ↓
先頭に立ってイベントを妨害する崔成竜、風船計画は失敗に終わった・・・。
 ↓
<丶`∀´> 「ウェーハッハ!右翼どもめ、いい気味nida!」
 ↓
後日、崔成竜が勝ち誇ってコメント。
 ↓
<丶`∀´> 「南北赤十字会談で、韓国軍捕虜と拉致被害の問題は
全て解決する予定nida!再会行事まで、右翼は余計なことすんなnida!」
 ↓
そして迎えた、再会行事・・・。
 ↓
<丶`∀´> 「アボジー!uriは頑張って反日工作やったnida!やっと会えるnidaー
!」
 ↓
だが、崔成竜を待っていたのは、>>1の“冷徹な現実”であった・・・。  お し
ま い
\___ ______________________________/
      V
     ∧_∧
    ( ´・ω・`)    ∧_∧
    /     \   (´Д` )  なーんだ、同情する価値ゼロじゃんよ。
.__| |    .| |_ /      ヽ
||\..∧_∧    (⌒\|__./ ./
||.  (  ´Д)     \_____ノ|   ∧_∧
  /   ヽ           \  (Д`  ) もろ典型的なチヨソだ
な。
  |     ヽ            \/     ヽ
     因果応報じゃね?

崔成竜【拉致問題】 日本団体の北へのビラまき実現できず…風船にビラを詰め 
[04/10]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1176192848/l50
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=86377&servcode=400§code=40
0
Posted by at 2007年09月30日 02:18
 今晩は。a2さん。懐疑主義者です。
>>私は当事国で国際法(遡及法でない)に背いた日本人がいることは重々承知しています。
 確かにそうなんですよね。戦時下だからと、混乱に乗じて悪事を働く者はいつの、どの国家にも、集団にもいましたし、今、この瞬間にもどこかで何らかの国際法違反行為は起こっているでしょう。
特定の国家ー例えば日本ーの軍に所属する将兵の一部が何らかの戦争犯罪を犯したとしても、それを理由にその軍隊全体を同一視するのは一種の差別主義です。これは何も戦争犯罪に限った事では有りません。平時の報道においても、ある特定の集団・組織などのメンバーが何か違法行為をすると、その集団・組織等が全て悪であるかの様な言い方をする。これをするのはスキャンダルジャーリズムに多いが、一般のマスゴミもそれに近い事はやっている。
それは全て"旧日本軍は全部悪なんだ!"と言う自虐史観的思考から発するものです。
これからの脱却には、[ある特定の集団・組織等の所属メンバーが悪事を為したとしてもその組織などが全て悪とは言えない]とあらゆる機会に折にふれて言うしかありません。 では、これにて。  
Posted by 懐疑主義者 at 2007年10月02日 18:27
 2日に開催される第2回南北首脳会談に関し、韓国の新聞は同日、
今回の首脳会談は、象徴な意味以上の結果が出せるだろうと報じた。
一方、保守系の新聞は、北朝鮮政府の核開発計画に対し圧力をかける
べきだと主張している。
  
 韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン、Roh Moo-Hyun)大統領は同日、厳重な
警備が敷かれた軍事境界線を徒歩で越え、北側に入り、首都平壌
(Pyongyang)で金正日(キム・ジョンイル、Kim Jong-Il)総書記の出迎え
を受けた。約50年前に朝鮮半島が南北に分断されて以来、両国の首脳
会談はわずか2回しか開催されていない。

 韓国の最大紙、朝鮮日報(Chosun Ilbo)は、金総書記に対して、
核開発計画を中止することは北朝鮮が「存続し、経済を復興する唯一の道」
だと伝えるよう、盧大統領に求めた。さらに、両国が核問題に言及すること
なく平和宣言を発表することは、「真の平和をもたらさない宣言で、国際社会
の軽蔑(けいべつ)の的だ」と報じた。また、盧大統領に対し、北朝鮮側と内容
のない取引をしないよう焦ってはいけないとしている。

 英字紙コリア・タイムス(Korea Times)は、「60年にわたる朝鮮半島の
分断と対立の歴史は、1回の首脳会談で解決できるものではない」とし、
楽観的になりすぎないよう注意を促した。

 盧大統領の太陽政策を支持しているハンギョレ(Hankyoreh)新聞は、
盧大統領に対し、朝鮮半島の安定を優先させることを求めた。

 東亜日報(DONG-A ILBO)は、北朝鮮による核開発計画を「朝鮮戦争
の停戦以来最大の危機」と述べ、「北朝鮮が核開発計画を放棄すること
なく、韓国の援助を引き出すような策を弄する事態になれば、金総書記は
自ら崩壊を招くことになるだろう」としている。

ソース(AFP BB News) http://feeds.afpbb.com/afpbbnews?m=46679
Posted by at 2007年10月03日 00:18
    ||
  ∧||∧
  ( ・∀・) <韓国はアジアの昇り竜だねw
  (∪ ∪
  ∪∪

韓国経済、あちらこちらから警告のシグナル
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=020000&biid=2007032355578
政府・家計・企業のトリプル赤字で韓国経済「火の車」
http://www.chosunonline.com/article/20070122000039
国の財政10兆8000億ウォン、3年連続の赤字
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=85756&servcode=300&sectcode=300
韓国銀行、今年の赤字を1兆2千億ウォンと予想
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=2007022200410088
韓銀は世界唯一の「赤字中央銀行」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/02/23/20070223000045.html
韓国の対日貿易赤字が過去最大を記録
http://www.data-max.co.jp/2007/03/_1_119.html
経常収支黒字、韓国だけが下降線
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=85706&servcode=300&sectcode=300
国民1人の借金1400万ウォン上回る
ttp://japanese.joins.com/article/article.php?aid=88755&servcode=300§code=300
家計の借金:韓国、史上最大規模の約72兆円
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2007/03/07/20070307000037.html
韓国の家計は火の車、10世帯中3世帯が赤字
http://www.chosunonline.com/article/20070213000039
韓国のサムスン電子、営業益27%減・1&#8212;3月期
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070413AT2M1301513042007.html
Posted by at 2007年10月03日 14:03
       ☆ チン            
 ☆ チン  〃 ∧_∧   /癡所の右翼討伐人チャソ
  ヽ ___\(\・∀・)<2チ ヤ ソ ネ ルで他人のメ ア ド晒した謝罪まだー ?
      \_/⊂ ⊂_)_ \____________
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
   |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|  |
   | H A N 板人  .|/
数万円もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようとした癖に自からHAN板でバラして罵倒嘲笑を浴びた。

他人のメ ア ドを本人の許可無くHAN板で晒し、スレ住人にたしなめられたが開き直って削除依頼もせず逃走した。

2TIYANNELUの理系板で日本軍悪口雑言板スレ立てをして沈着冷静、頭脳明晰な住人の罵倒嘲笑を浴びた。

2TIYANNELUの海旅板で日本の加害情報求む等と馬鹿なスレ立てをして総スカンを喰らった挙げ句スレストされた。

HAN板で(さば)を(こい)と読んで無知文盲がばれて祭りになった。

理系大学の学生でありながら本を買ったのがたった二冊だけだと平然とほざいてHAN板でスレ住人にあきれられた。

南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記のHAN板住人に全く歯が立たず泣き言を吐いて逃走した。

HAN板で意気揚々とソースに「半月城通信」を引用して大爆笑になった。

自分の専門分野について質問された時に錬金術の如き化学反応式を並べて文系住人さえ絶句させた。

鬼女板と恐れられる既婚女性板にカキコして百戦錬磨一騎当千の鬼女板住人に粉砕されて逆上、「お前らなんて一生結婚出来ないぞ!!」と
既婚女性板住人が化石するしかない捨て台詞を吐いて逃走した。

就職の面接で担当者が一文字姓だった為、勝手に在日朝鮮人と決めつけ、得意満面でこの自慰ブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた。

民団の掲示版に日本の悪口を書いて賛同を求めたが逆に門前払いを喰らって唖然とする程の癡所ぶりをオチされて侮蔑と嘲笑を浴びた。
Posted by at 2007年10月17日 20:02
中国・重慶で反日感情再び「君が代」かき消す大ブーイング

サンケイスポーツ

 東アジア選手権・男子(17日、中国・重慶)重慶のオリンピックスポーツセンターに日本国旗が入場した瞬間、観客席の一部からブーイングや口笛が起こった。君が代斉唱の際にはその音量がアップ。中には日本選手に向けて中指を立て、挑発する観客もいた。

 北朝鮮が先制すると、観客だけでなく中国の報道陣も一斉に立ち上がって拍手を送った。後半20分、日本の交代時には悪態をつき、その3分後、北朝鮮の交代の際には拍手を送る。

 日本人サポーターが陣取る観客席は、その人数を上回る50人以上の警備員が配備された。ごく少数のサポーターが太鼓をたたきながら「ニッポン、ニッポン」と声援を送ると、中国人観客が「バカ」「中国、中国」などと言い返す一幕も。

 4年前のアジア杯で、日本代表に激しいブーイングを浴びせた地元ファンは何も変わっていなかった。中国で試合経験のある日本選手は「前も似たような感じだった」。岡田監督も「アウェーでは普通」と意に介さないが、「中国とやる時はこんなものではすまない」とも。20日の日中戦に向けて、重慶がきな臭くなってきた。
中国・重慶で反日感情再び「君が代」かき消す大ブーイング

サンケイスポーツ

 東アジア選手権・男子(17日、中国・重慶)重慶のオリンピックスポーツセンターに日本国旗が入場した瞬間、観客席の一部からブーイングや口笛が起こった。君が代斉唱の際にはその音量がアップ。中には日本選手に向けて中指を立て、挑発する観客もいた。

 北朝鮮が先制すると、観客だけでなく中国の報道陣も一斉に立ち上がって拍手を送った。後半20分、日本の交代時には悪態をつき、その3分後、北朝鮮の交代の際には拍手を送る。

 日本人サポーターが陣取る観客席は、その人数を上回る50人以上の警備員が配備された。ごく少数のサポーターが太鼓をたたきながら「ニッポン、ニッポン」と声援を送ると、中国人観客が「バカ」「中国、中国」などと言い返す一幕も。

 4年前のアジア杯で、日本代表に激しいブーイングを浴びせた地元ファンは何も変わっていなかった。中国で試合経験のある日本選手は「前も似たような感じだった」。岡田監督も「アウェーでは普通」と意に介さないが、「中国とやる時はこんなものではすまない」とも。20日の日中戦に向けて、重慶がきな臭くなってきた。
Posted by ごみくずちやんころ at 2008年02月19日 09:50
☆チン マチクタビレタ〜 ♪
    ♪  ☆チン    .☆  ジャーン!マチクタビレタ〜!       
☆ チン   〃  ∧_∧  ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          ヽ  ___\(・∀・ #) /\_/<癡處齲の右翼討伐塵ちゃん♪
        チン    \_/⊂    つ    ‖2 tiィヤんネルで他人サマのメァドサラシタシャ-ザイまだー?
           / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|     ‖    
        |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |   /|\
        |             |/

数万もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようと思った癖にテメエから h an 版で暴らして売渡(罵倒) 物笑いを受けた.

h an 版で 他人のめえアドを本人の許可なくサラシしてスレ住人に糾弾されたが開き直ってさあくうじょおお依頼もしないで逃走した.

2 チィヤァんネルの理科版で旧日本軍の悪口雑言をカキコして沈着冷情, 頭脳明細な住人の(売渡(罵倒)) 物笑いを受けた.

2 チィヤァんネルは海外旅行版で日本の加害情報要求するなどあほらしいスレ縦をして総スカンを喰らい速攻でスレストになった.

h an 版で(sあbあ)を(kおい)と読んで余りの鞭悶妄がばれて祭りになった.

理科大学の学生ながら本を買ったことが2冊だけとほざいて h an 版でスレ住人を唖然とさせた

南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記の h an 版住人に全然適う道理がなくて泣き言を残して逃走した.

h an 版で得意気にソースに詐欺師の 「半月城通信」を引用して半月城のイ ンチ キさを知悉している住人の大爆笑を誘った.

自分の専門分野に間して質問受けた時に錬金術ーみたいな化学反応式を曝して文科住人さえ絶句させた.

鬼女版と恐ろしがられる既婚女性版におぅなにぃカキコをして百戦練磨、一騎当千の鬼女版住人に粉砕されて狼狽逆上
「お前たちは一生結婚することができない!!」と既婚女性版住人が化石するしかない捨てせりふを吐いて逃走した.

就職の面接で担当者が一文字性だったから在日朝鮮人と決めつけて得意満面でこのsenzuriブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた.

大学院をでても全く使い物にならず担当教授のお情けで研究室の派尻をやってかろうじて糊口を繋いだ

どこの版でも全く相手にされず遂に民団の掲示板に日本の悪口を書いて賛同を要求したが反対に門前払いを喰らって唖然とするほどの怒唖補さ加減をオチしていたh an 版住人の bubetuと物笑いを受けた.

自分の風呂具でもまんまと縦読みにひっかかって物笑いを受けた.

自分の風呂具の管理も満足にできず毎年12月31日に皆様の投稿をお待ちしています等といううましかエントリを何時までも削除出来ず莫迦をさーらシタ

土地来るって自分の風呂具で自作時絵んを始めたが文体を帰る事も出来ない蜘獲悪苦れの為一発でばれた.

遂に他人の鏝を方って自分まnせえを始めたがそのことを厳しく球団されたとたんぴたりと辞めて失笑をかった

他人様を糞コテ呼ばわりした癖に自分の意見をいわず他のブログやHPをリンクするだけで相手を論破したと思い込む位のtisyouさ加減を糾弾され何も反論せずオナアアにいエントリを立て続けるtいえオく列振りをまたもya証明した

「類は友を呼ぶ」、「癡處齲と付き合うと癡處齲が伝染る」、という真理を鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人と同じく他人のめえアドを本人の許可なくサラシしてをやらかしている事で実証した

鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人を凌ぐちぃえぇおくうぅれなのが「なめてます」コメント及び「高潔にして偉大なる俺様のsenzuriブログに都合の悪い事をカキコした奴はIPアドレス、サーらしてやんよ!!」コメントで判明した(w
Posted by at 2008年02月25日 10:24
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