2006年05月01日

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part2

裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/16966486.htmlの続きです。次は『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』をテキストとして、イギリス戦犯裁判の基本的事項をまとめたいと思います。

●なぜ本書はイギリスの対日戦犯裁判に絞っているのか?
 イギリスの対日戦犯裁判を取り上げたのは、イギリスが日本軍の戦争犯罪を考える上で大変重要だからである。日本の戦後処理においてはアメリカが主要な役割を果たした。しかし、日本が戦った地域でいうと、アメリカは戦前フィリピンとグアムを領有していたが、フィリピンでの戦争犯罪についてはフィリピンの独立によりフィリピンの手で行われたのである。そのためアメリカがおこなったBC級戦犯では捕虜に対する残虐行為が多数を占めていた。しかしイギリスは、シンガポール、マラヤ、北ボルネオ、香港などの多数の植民地を領有していた。そこでは多数の住民が日本軍の残虐行為の犠牲になっている。植民地民衆の戦争被害にどう対処するのかという問題はアメリカよりもはるかに大きな問題としてイギリスに突きつけられたのである。つまり日本軍によるアジア民衆に対する加害行為と宗主国イギリスの対応という三者の交錯のなかで戦犯裁判は行われた。日本がおこなったアジア太平洋戦争は、日本ーアジアー西欧の三者のなかで歴史的評価がなされる必要がある。その戦争が日本によるアジアへの侵略戦争であったことは明らかである。だが、その侵略戦争が持った意味とその帰結は世界史的な視野のなかで論ぜられる必要がある。本書で日本の戦争犯罪に対するイギリスの戦犯裁判を取り上げることの意義はそうした点にあるのである。

★イギリスの対日戦犯裁判の概要

●東南アジア地域におけるBC級戦犯裁判
 対日戦犯裁判を実際におこなったのは、連合国東南アジア司令部(最高司令官ルイス・マウントバッテン海軍大将)である。この司令部は1943年10月にデリーで編成され、44年4月にセイロンのカンディに移った。主力はイギリス軍であるが、アメリカ、中国、フランス、オランダの各軍の代表も司令部に加わっていた(アメリカ軍は45年11月末に引き上げ、46年11月に司令部は解消した)
 マウントバッテン海軍大将は非常にリベラルである。ビクトリア女王の曾孫にあたる海軍軍人であり、終戦時点で45歳だった。東南アジア司令部最高司令官の後、1947年2月インド総督に任命され、インド独立の最終盤の南極に対処した。
 この東南アジア司令部の下に東南アジア連合地上軍司令部がおかれた。日本降伏後、地上軍司令部の下にマラヤ、ビルマ、インドシナ、オランダ領東インドにそれぞれ軍司令部がおかれた。香港だけは東南アジア司令部の下ではなくイギリス軍参謀長の下に香港軍司令部がおかれた。
 東南アジア司令部の担当地域は、ビルマ、タイ、マラヤ、シンガポール、スマトラであったが、ポツダム会談の際にジャワを含むオランダ領東インド(インドネシア)、フランス領インドシナがマッカーサーの司令部から担当を連合軍、実質的にはイギリス軍が担当した。

●戦犯裁判に関わる組織(東南アジア連合地上軍司令部の戦犯裁判に関わる組織)
 東南アジア連合地上軍司令部の高級副官補佐官のもとに戦争犯罪調整部War Crimes Co-ordinating Sectionと戦争犯罪登録部 War Crimes Registryが、副法務長のもとに戦争犯罪法律部 War Crimes Legal Sectionが設けられた。
 戦争犯罪調整部の任務は、連合地上軍の各司令部や他国軍連絡部との調整、捜査チームの配置、各司令部に配属した戦争犯罪連絡将校の指揮、裁判地への証人や被告の移動の調整、容疑者の逮捕の手配、などであった。
 戦争犯罪登録部は戦争犯罪に関するすべての情報の受理、登録、照合、事件を作成し戦争犯罪法律部に送付すること、指名手配者や拘禁している容疑者の名簿の作成、証拠収集、戦争犯罪連絡将校や捜査チームへの指示であった。
 戦争犯罪法律部は「一見証拠確かな」事件があるとして戦争犯罪登録部から受理した情報に基づいて手続きを進めることである。
 各機関から集められた戦争犯罪に関する情報は戦争犯罪登録部に集められ、ここでケースごとにまとめられたレポートが戦争犯罪法律部に送られ、ここで必要な調査を加えて訴追の準備をおこなう、という順に手続きが進められた
 連合地上軍司令部に直属する各部隊の司令官は、戦犯の特定、逮捕、拘留、戦争犯罪の捜査などに責任を持ち、4つの司令部(マラヤ、ビルマ、蘭印、タイ)には戦争犯罪連絡将校(大佐)を配属し、補佐させた。
 戦争犯罪の捜査については、136部隊のEグループと各部隊の情報部がおこなっていたが、1945年12月5日に戦争犯罪捜査チームを編成して捜査にあたらせた。
 東京にはイギリス外交代表部に付随して軽戦争犯罪連絡部が設けられた。

●東南アジア司令部による具体化・裁判開始にむけての基本政策
 東南アジア連合地上軍司令部がその管轄地域における戦争犯罪の情報の収集と裁判準備の責任を持ち、東南アジア司令部の戦争犯罪課がそれを引き継ぐ。米仏蘭豪(可能ならば中華民国)も戦争犯罪課に各代表部をおいて、地上軍司令部は戦争犯罪捜査チームを編成し、それぞれの地域で必要に応じて多国間で編成する。すべての連合国はみずからの法令に基づいて戦犯を裁く裁判所を設置する権利を持っている。裁判の準備ができたとき、戦争犯罪課の関係国の代表がどの国が裁判をおこなうのか決めるというものだった。
 一般的に重大な犯罪のみを戦争犯罪として裁判にかけ、些細なケースは取り上げない。複雑なまたは重要なケースはシンガポールやラングーン、サイゴンのような場所で集中して裁き、誰を裁判にかけるかは戦争犯罪課が決定する。もし戦争犯罪課が裁判にかけないと決定した場合、その事件に関係する国に任せられる。
 敵に協力して連合国民に犯罪を犯した、日本国籍ではない公務員または市民(いわゆる対日協力者)は関係国の機関あるいは民間の裁判所によって裁かれ、戦争犯罪人としては裁かれない。
 これが裁判開始に向けての基本政策であった。

 ●対日戦犯裁判に向けての容疑者の選抜と逮捕
 イギリスの植民地だった地域にイギリス軍が復帰したが、まず最初に戦争犯罪の捜査にあたったのは136部隊のEグループと各地のイギリス軍の情報機関だった。解放された捕虜にはQフォームという形式の供述書を書かせて情報を集めた。また地上軍指揮下の各軍司令官に戦犯容疑者の逮捕を命じた。集めた情報は東南アジア司令部の情報部に設置された登録センターに集められて照合されたのである。
 Eグループ内の中国人将校がアジア系市民への戦争犯罪と対日協力者について捜査を開始した。新聞などを通じて関係者の届け出とともに市民からの情報提供を呼びかけたが、日本軍、特に憲兵に対する恐怖がまだ残っていたので、市民からの情報提供は当初はなかなか進まなかった。
 イギリス軍の日本軍への降伏に立会い、捕虜になった連合軍将兵らが泰緬鉄道で日本軍の強制労働の犠牲になって倒れていったのを自ら経験した元捕虜のワイルド大佐が日本軍の戦争犯罪追及の中心人物になったが、1946年9月25日、日本からシンガポールへの帰途の途中飛行機事故に合い死亡したという事故があった。イギリス軍にとって戦争犯罪に関する貴重な資料を失い、優秀な人材であるワイルド大佐が死亡するというハプニングもこのときに生じている。
  戦犯裁判を行うためには容疑者を特定して逮捕しなければならない。タイ移されることになった。フィリピンを除く東南アジア全域という広大な地域のバンコクでは、解放された捕虜たちの前で捕虜収容所関係の日本人のパレードがおこなわれ、45人がピックアップされたほか、各地で戦犯容疑者の捜索・逮捕がおこなわれたのである。連合軍はマラヤにいた日本軍に対してマレー半島南部のジョホール州クルアンに集結を命じ、そこでスクリーニングをおこなってからリオウ諸島に送り出した。
@日本兵をクルアン東方のキャンプで受け入れる。
A検査所で規定以上の衣類や装備を取り上げ、集結キャンプに移す。
B尋問所で東南アジア翻訳尋問センターのスタッフによって一人一人尋問をおこなう。名前、階級、所属部隊とその種類、マラヤ到着日、特別な訓練を受けたことがあるかどうか、憲兵や光機関などの機関、捕虜収容所と民間抑留所、対日協力者、諜報訓練学校、戦後の反連合軍計画について知っていることがあるかどうかなど尋問
C尋問結果より日本兵をブラック、グレイ、ホワイトの3つのグループにわける。憲兵、機関、情報機関、捕虜収容所と民間抑留所のガードとスタッフ、捕虜行政関係者などすでに名前がわかり手配されている者などをブラックとして選別し、戦犯容疑者として拘留。グレイ・グループはグレイ・キャンプでさらに尋問し、ブラックかホワイトに分ける。ホワイト・グループは鉄道でシンガポールのケッペル港に送り、そこからリオウ諸島に送る。
以上の手順で戦犯容疑者の選別が行われた。特定の犯罪の容疑者だけではなく、憲兵や捕虜収容所関係者など一定のカテゴリーのメンバーはまとめて拘留し捜査する方法がとられた。なお、東南アジア司令部のもとには、日本将兵62万9389人、日本人民間人9万3270人、朝鮮人・台湾人9895人、計73万2554人がいたそうである。
 容疑者として拘留した者はすべて写真をとり、肩より上の部分を、側面と真正面から、姓名・別名・あだ名・階級・撮影地・撮影年月日・捕虜番号を書いた板をあご1フィートにあてて撮影された。この写真が被告の特定に活用され、特に戦争犯罪を申し立てた元捕虜がイギリスに帰国していた場合、この写真で被告を特定した。1941年1月18日時点で写真をとるべき容疑者は1万5000人と報告されている。

●イギリスの対日戦犯裁判の手続き
@連合地上軍司令官から権限を委任された各軍司令官(マラヤではマラヤ軍司令官)が召集官として裁判を召集する。
A被告には事前に起訴状、証拠摘録、証拠物件の写しが手渡される。
B被告が罪状認否をおこない、被告の申し立てが「有罪」の場合は事実調べはおこなわずに判決の手続きに入る。ただし、普通は「無罪」を申し立てて裁判が進行する。
C検察が冒頭陳述をおこなってから検察側の証人の尋問がおこなわれ、あるいは検察側の証拠が提出される。検察の立証が終わった時点で容疑についての「一応の証拠」が出すことが出来なかったと判断した場合は、弁護側は無罪を申し立てることができる。その申し立てを裁判所が認めるとその容疑が却下され「無罪」となり、裁判が終了する。
D検察の立証後は弁護側の反論に入る。被告は自ら証言することができるが、宣誓して反対尋問を受けなければならない。宣誓なしの証言の場合は反対尋問を受けなくても良いが、証言の価値が下がる。
D両者の立証が終わり、検察と弁護の双方から最終陳述がおこなわれる。日本の裁判形式とは大きく異なる点があり、検察は有罪であることを主張するが、求刑を行う権利はないという点だ。刑の重さは裁判官の判断にすべて委ねられる。それともうひとつは上告や控訴というシステムも存在しないこと。
E(最終陳述が終わると、)裁判所による「事実認定」がおこなわれる。容疑事実について「有罪」か「無罪」か、時には一部の容疑を除いて、あるいは容疑内容を一部修正して有罪という場合もある。
F無罪になった場合は裁判官から確認を受ける必要はなく、これで判決が確定する。有罪になった場合、刑についての審議に入り、弁護側は被告の年齢、経歴、人柄、残留家族の状況などを理由にして寛大な刑を訴えるのが普通であった。そのうえで刑の言い渡しがおこなわれた。イギリスの戦犯裁判では死刑(絞首刑と銃殺刑)、終身または有期の禁固刑、没収、罰金の4種類が認められていた。なお死刑判決は裁判官が3人の場合は全員一致、それ以上の場合は3分の2が必要であった。有罪判決が出された場合、被告は48時間以内に確認官に対して嘆願書提出の意思を申し出、14日以内に嘆願書を提出することができる。
G判決の確定後、裁判に関わるすべての記録(起訴状、速記録、証拠書類、嘆願書など)は連合地上軍司令部の副法務長(ディビス准将)のもとに送られた。
Hディビスが送られてきた記録を検討して、判決通り確認するか、減刑するかあるいは判決を破棄するというアドバイスを行う。また減刑するかは確認官の判断という言い方のアドバイスもある。
I裁判記録にこのアドバイス文書をつけて確認官(マラヤの場合、マラヤ軍司令官、すなわち召集官と同じ)のもとに送られ、実際にはその司令部の法務官によって検討されて確認官の名前で刑の確認がおこなわれる。形の確認において、不確認(無罪と同じ)あるいは減刑をおこなうことはできるが、刑を重くすることはできない。
J確認を受けた後、その結果が公布される。死刑判決が確認された場合は、確認官は死刑執行令状を被告を拘留している刑務所長宛に出して、令状受領後24時間以内に死刑を執行するように命令し、刑務所長は執行日時、場所などを記した報告をおこなう。以上で裁判の手続きは完了する。判決から死刑執行まで早くても一ヶ月、通常はもっと日数がかかった。

●戦犯裁判の開始
 1946年1月21日、シンガポールにおいて最初の裁判が開廷した。シンガポール最初の裁判では後沢定一大尉以下10人が起訴され、容疑は3件あり、インド人捕虜の虐待、虐待致死、処刑に関する容疑(容疑内容については省略)だった。裁判は11日かかり、2月1日死刑一人(中尉)、2年から12年の禁固刑7人、無罪2人の判決が下された。後沢大尉は部下の中尉の言いなりになっていたと見なされて12年の刑ですんだ。
 シンガポール第二の裁判は2月5日に2つが同時に始まり、ひとつは2人の憲兵と通訳1人の計3人の被告であり、シンガポールの中国系市民2人を拘留中に殴打、拷問あるいは虐待をおこない、うち1人を死なせた虐待致死の容疑であり、判決では容疑の「致死」は認められず、通訳は無罪、2人の憲兵は6年と3年の禁固刑になった。もうひとつは泰緬鉄道に関わる捕虜収容所での捕虜の殴打、虐待ならびに虐待致死が問われ、捕虜収容所長以下6人が起訴され、死刑2人(副官と下士官)、終身刑2人、8年1人(所長)、1日1人の刑となった。
 マレー半島のクアラルンプールで1月30日に裁判が二件同時に始まった。一件は1945年9月12日、総合病院の倉庫から米を盗み出した一市民を逮捕し、被告(軍曹)がその場で裁判にかけることなく刺し殺したという容疑。もう一つは44年4月28日ごろクアラルンプール北方のクアラクブで7人の中国系住民を捕らえて家の中に入れ、被告(伍長)の命令により6人を刺し殺し(1人は逃走)、家に火をつけて燃やしたという事件だった。(判決と内容については省略)。
 ビルマのラングーンでの最初の裁判は3月22日に始まり、これはカラゴン村で600人以上の村民を殺害するなど住民に対する残虐行為が問われたものだった。
 香港での最初の裁判は3月28日に始まり、ゲリラに攻撃された報復にランタウ島の村を襲い、45年8月18日から26日にかけて多数の住民を捕らえて拷問し、うち9人を処刑した事件。中隊長以下15人が起訴され、3人の死刑を含め12人が有罪となった。
 北ボルネオでの裁判はもっとも遅く、4月8日にラブアンで始まったが、ミリ憲兵隊の指揮下の3人の憲兵が3人(インド人2人と中国人1人)の首を切って殺害したという事件であった。被告3人には死刑、終身刑、5年の判決が下された。
 各地で紹介した最初の裁判をみると、捕虜が被害者であった泰緬鉄道の一件を除くとインド人捕虜のケースが一件、残りはいずれも地元住民が被害者になったケースだった。

●住民からの情報収集の促進
 日本軍の住民に対する残虐行為は当初から捜査の対象になっていた。しかし敗戦当初は日本軍、とりわけ憲兵に対する恐怖が大いにあり、そうした事情から地元住民は日本人に対する証言をすることを嫌がった。日本人戦犯、特に憲兵の実際の処刑を住民の目に確かめさせることは、その恐怖を取り除くことになると、シンガポールでは公開処刑をすべきだという意見もあったが、公開処揃については「つねに身の毛のよだつものであり、シンガポールでは認めるつもりはない」とした。
 地元住民からの日本軍の戦争犯罪に対する情報提供が少ないことが問題であった。一つは憲兵などへの恐怖が残っており、しかもかれらが裁かれるかどうかはっきりしない状況で報復を恐れていたということがあった。さらにいえば対日協力者の逮捕、裁判がおこなわれており、警察官や公務員の場合、日本軍の残虐行為を証言するとその場に立ち会った自らの責任が追及される心配があった。
 さらに中国人とマレー人の関係の悪化が背景にあった。中国人主体のマラヤ人民抗日軍が日本軍に協力したマレー人らを人民裁判にかけて処刑するなどの報復をおこなった。各地で衝突が激化し、こうした中では中国人が戦争中の被害を届け出て証言する状況にはなりにくかったと考えられる。
 イギリス軍政当局は日本軍による銃殺、刺殺、暴行、強姦、拷問、虐待、窃盗、不当な監禁、囚人への食糧・多・医療の不足のような犯罪について知っていることがあれば、知らせるようにと訴えた。
 一般的に情報を求めただけではなく、具体的なケースでの情報も求めた。たとえば、1942年の後半期にクアラルンプールのジャパ通りとプドゥ通りでさらし首が陳列された事件について、これらの殺された者たちについて情報を求める新聞記事(Malayan Daily News,1946.3.20)が出されたりした。
 住民からの証言を集めることと関連するのは、日本軍占領下で警察官や公務員として日本軍政に協力した者の扱いだった。かれらは対日協力者として裁かれることを恐れていた。しかしかれらは日本軍の残虐行為を見聞きしている機会も多く、日本人戦犯を裁くうえで貴重な検察側の証人にもなり得た。
 地位の低い公務員は対日協力者として見なさないという方針により、かれらも安心して証言することができるようになった。このことが捜査の進展につながったのである。

●対日協力者の扱い
 戦争犯罪とは違うが、関連するものとして連合国籍で日本軍に協力したものをどう扱うのかという問題、すなわち対日協力者の問題がある。
 対日協力者について最初に示された方針は、9月13日東南アジア司令部が地上軍司令部に出した文書「敵に協力したマラヤの裏切り者の裁判と処罰に関する政策」である。ただこの政策は本国政府の承認をまだ受けていないので仮の政策として指示された。
 この文書では最初に「一般方針」として「日本軍占領中のマラヤ住民の敵との協力は、ほとんど例外なしに、自己利益あるいは日本の戦争努力への忠誠を動機とするものではなく、恐怖と全般的な経済的収奪による窮乏によるものであった」などの理由をあげ、「イギリス政府は、マラヤにおける敵への協力者は寛大と寛容な観点に基づいて扱われるのが一般的に妥当である」と寛大な方針をとることを打ち出した。この方針にしたがって「犯罪行為、殺戮、残虐行為、裏切りのように英国民あるいは連合国民に対して特に重大な犯罪の責任のある地位にあった者は懲罰が求められるが、下位の地位にあって単に命令に従ったか、他の例に従っただけの者は寛大な扱いがなされる」と述べている。具体的には、重大な性格の特定の容疑が立証された者を除くと、責任のある地位にあったか首謀者であった者だけを裁判にかけるということだった。その場合、一部の軍法に従うものを除いて民間当局に引き渡すものとされた。
 また陸軍省からは10月1日「変節者と売国奴の扱いについてのメモ」が出された。この対象は極東(ビルマを除く)の英国国民と英保護領民である。「一般原則」として第一に次の者は訴追されるとしている。つまり、戦争中、敵のためにプロパガンダを目だっておこなった者、捕虜であったかどうかにかかわりなく敵の作戦を助けあるいは連合国の目的にダメージを与える活動を自発的におこなった者、集団的に日本国籍を強いられた者を除いて戦争中、敵の国籍取得を申請し獲得した者をあげている。第二に「まだ残っている親日感情をできるだけ早く一掃すること、温情のうえに関係地域が大英帝国内の地位を取り戻せるような条件を促進することがイギリス政府の目的である」と述べている。そのために過去に日本軍に雇われたが行政能力があってわれわれが依拠しなければならない者の忠誠を奨励することになるならば、敵への協力者は寛大に扱うべきであるとしている。第三に重大な特定の容疑が立証された者のほかには首謀者か責任のある地位にいた者だけに訴追は限定されるとしている。
 要するに一度日本軍に占領された領土を再び大英帝国の領土として取り戻すことが最大の目的であり、その観点から対日協力者への政策が決められたのである。そして特定の残虐行為に関わった者を除いて、対日協力者に寛容な姿勢をとったのである。
 しかしビルマについては例外だったようである。ビルマに関しては早くから対日協力者の裁判が始まっていた。著者が確認したかぎりでは、すでに1944年1月にビルマ北部のチンドウィンにおいて、敵国を援助した罪で40歳のビルマ人に対する死刑判決が下され、翌月ビルマ軍政長官によって確認されているのが最も早い対日協力者に対する死刑判決であった。同年9月には西海岸のアキャプで、同じ容疑でインド人の死刑判決が確認されている。日本軍のためにスパイを働いた者、村のリーダーとして日本軍に協力した者、義勇軍のリーダーとして中国人捕虜や英スパイの疑いをかけたインド人を処刑した者、イギリス軍を歓迎したカチン人の村を日本軍とともに襲った者などが死刑に処せられた。ビルマ軍政長官はこのカチン人の村を襲撃した件で死刑を確認した3人について、「もしこれらの判決が確認されないならば、イギリス軍政はそうした悪事の仇をかえすことができなかったといってカチン人のなかからかなりの政治的反響があるだろう」と報告している。ただこうした対日協力者の厳しい措置はその後、マウントバッテンのアウン・サンら民族主義者への好意的な姿勢もあって、寛容な措置へと変化していったと考えられた。
 マラヤでもイギリス軍が戻ってくると直ちに対日協力者の捜査逮捕が始まった。シンガポールを除くマラヤについては1946年2月にはほぼ捜査を完了した。こららのケースは45年11月に設置された特別裁判所で扱われた。46年4月までに逮捕あるいは容疑を受けた者は計1532人であるが、多くは釈放され、裁判で有罪判決を受けたのはわずか26人、うち死刑4人、禁固刑19人、罰金3人ときわめて少なかったそうである。
 対日協力者の扱いのケースのなかにインド国民軍関係者の扱いがあったが、インド国民軍のメンバーの裁判はインドの軍事裁判所に任せられた。インド国民軍以外のインド人対日協力者については、問題があり、マラヤの民衆はインド人移民者の裏切りに怒っていたので特定の残虐行為に関わったものではない対日協力者も裁こうとしたが、マラヤに駐在していたインド政庁の代表が反対した。インド人の対日協力者を裁こうとすることに反発するインドの感情は強く、南インドでマラヤ向けのタミル人労働者の募集に反対するキャンペーンが起こるかもしれないと警告した。インド政庁やインド省からの強い反対を受けて、裁判延期が指示され、インド側の考えに歩調を合わせることになった。
 タイ人の対日協力者の扱いに関しても問題があったが、最終的にタイ政府に任されることになった。
 以上が対日協力者の概要であるが、それに関する資料が75年間非公開の扱いになっており、全体像がまだわからないのであり、対日協力者の問題は残された課題の一つである。

●イギリスの対日戦犯裁判の概要
 裁判がおこなわれたのは20ヶ所。シンガポール、マラヤがクアラルンプールなど14ヶ所、ビルマがラングーンとメイミョウの2ヶ所、北ボルネオがラブアンとゼッセルトン(現コナキタバル)の2ヶ所、それに香港であった。マラヤでは犯罪地で裁判をおこなう方針がとられたので各地で裁判がおこなわれた。
 マラヤ、ビルマ、北ボルネオの裁判では原則としてその現地での犯罪を裁いたが、香港では中国、台湾、日本、公海のケースを扱った。シンガポールでは泰緬鉄道やタイのケース、アンダマン・ニコバル諸島、インドネシア、インドシナ、ニューブリテン島などの太平洋の島々、公海などの各地のケースが裁かれた。捕虜が犠牲者になったケースが香港とシンガポールで集中して裁かれた。
 裁判記録より確認できる被告の数は919人(うち1人は判決不明)である。ただし、別の容疑により、あるいは裁判のやり直しにより二度起訴された者が34人(憲兵24、他の陸軍2、海軍4)、3度起訴された者が1人(憲兵)いるので、被告の実数は883人である。
 容疑の一部およびすべてが認定されて有罪とされたのは918人中810人であ。判決内容は死刑281人(うち確認222人)、終身刑53人、有期刑(25年から1日まで)476人、無罪105人、起訴取り下げ3人となっている。有罪判決を受けたなかで減揃された者と判決が破棄された者を合わせると119人(14.7%)にのぼっている。

●イギリス軍は誰に対する戦争犯罪を裁いたのか
 まず裁かれた場所についてみると、シンガポールとマラヤをあわせた広い意味でのマラヤが全体の約3分の1近くを占めている。ビルマが132件、泰緬鉄道を含めてタイが104件とマラヤに次ぐ多さになっている。ビルマの沖合いの初頭であるインド領アンダマン諸島とニコバル諸島も100件と多い。
 アンダマン諸島とニコバル諸島が多いのは、犯罪が1944年から45年にかけての戦争末期に集中していること、犯罪に関わった日本軍が終戦時点でそのまま島に残っており、イギリス軍が進駐してきて容疑者をまとめて逮捕することができたことなどが理由である。
 次に起訴状に記載された被害者の種別をみれば、民間人のケースが550人と60%を占めている。これは民間人といってもアジア系民間人のケースであった。また「捕虜+民間人」のケース71人のうちアジア系民間人65人を締めている。これらを合わせて考えると、起訴された被告の67%、ほぼ3分の2は、アジア系民間人に対する犯罪が問われた。一方捕虜が被害者のケースと捕虜と民間人がともに被害者のケースやインド人捕虜のケースをあわせても、アジア系民間人のケースには遠く及ばなかった。死刑判決281人中、188人(67%)がアジア系民間人のケースであり、捕虜のケースの66人(23%)の3倍にのぼっている。死刑確認ではアジア系民間人のケースが72%とさらにその割合が高くなる。
 イギリスがおこなった戦犯裁判で裁かれた事件の多数は、地元のアジア系住民に対する犯罪であった。捕虜のケースをまとめて扱ったシンガポールと香港を除くマラヤ、ビルマ、北ボルネオではほとんどすべてアジア系民間人に対する犯罪が裁かれている。
 これまでの研究ではBC級裁判での捕虜関係のケースの多さが強調されてきた。そして中国とフィリピン以外の国によるBC級裁判について、主要起訴理由は連合国軍隊ないし市民に対する殺人、暴行であって、それよりもはるかに多いはずの現地民衆に対する被害はあまり取り上げられていない。あるいは英国の戦犯裁判が自分たちの同胞(英人)に対する戦争犯罪についてはきわめて苛酷で厳しい判決でのぞんだが、インド人や中国人にたいする戦争犯罪についてはかなり寛容だったという風な議論がなされていた。
 これまでの議論の中では、日本と同じ帝国主義国である米英仏蘭などの裁判は、捕虜となった自国の兵士たちの被害を主に取り上げ、植民地民衆の被害をあまり取り上げなかったというイメージが強い。しかし、イギリスがおこなった裁判をみる限り、そうした議論やイメージは明らかに訂正されなければならないのである。
●戦犯裁判における減刑
 占領者として優位にあるときに地元住民に対してどういう態度で臨むのかで決定的な瞬間に命を助けられることがあった。日本人ではなく、地元住民による減刑の嘆願の場合は一定程度考慮に入れられた。

●裁判の終了
 香港を除いて各地の裁判は1948年3月までに終了した。しかしこれで裁判に向けての捜査が打ち切られたわけではなかった。
 シンガポールの華僑粛清は一応裁判で裁かれたが、その事件の重要人物である辻政信(元第25軍参謀)は逃亡していて裁くことができなかった。辻はシンガポールだけではなくマレー半島各地での虐殺やビルマで捕虜を殺して食べた事件など重要な事件にも関わっており、イギリスとしてはその威信にかけて辻を見つけて裁判にかける必要があった。48年になって辻が日本に潜んでいることを突き止めたが、しかし、このケースを取り上げるには膨大な量の仕事になり、現在のスタッフではどうしようもないとして、辻のケースをどうするかについてイギリス陸軍省の軍法務長にアドバイスを求めたが、人員は補強できないと伝えてきたのである。このため、辻を逮捕できず、裁判にかけることはできなかった。
 極東委員会は1949年2月24日、国際軍事裁判はもうおこなわないことを決定し、さらに4月7日BC級戦争犯罪についての捜査を6月末までに、裁判はもし可能であれば9月30日までに完了させることを極東委員会構成国の各政府に勧告した。イギリスもこの決定に賛成した。イギリスの姿勢はイギリスが状況をリードする、あるいは突出することを避け、他の主要な連合国と協調することが一貫して基調となっていたのである。
 タイムリミットが切られたことによって、裁判にかけられていない重要な事件をどうするかが問題になってきたのが、イギリスの最後の裁判は48年12月に終了した香港での裁判であり、その後は開かれることはなかった。
 残されたケースの一つとして太平洋のギルバート・エリス諸島での虐殺事件があった。これらの地域ではタラワ島で22人のヨーロッパ人が処刑された事件、オーシャン島で約150人の島民とハンセン病患者が殺害された事件、クゼイエ島で強制労働と虐待によって多数の島民に死者を出した事件の3つのケースがあがっており、特に最初のタラワ島のケースの捜査が進められていた。しかし、太平洋の島の事件の捜査が進まず、ようやく1949年2月に東京軽戦争犯罪連絡部から詳しい捜査報告がイギリス極東地上軍司令部に送られ、極東地上軍司令部は裁判にかけるかどうかをロンドンに問い合わせたが(49年4月14日)、陸軍省は6月10日、集められた証拠が裁判に必要な水準に達していないことなどを指摘してドロップするように指示した。
 この事件は植民地省が当初から「大英帝国の威信を維持するための機会だとして、日本人の責任者を裁判にかけることを切望」(47年6月6日付、軽戦争犯罪連絡部から地上軍司令部へ)していたケースだったが、タラワ島の日本軍がアメリカ軍との戦闘で全滅していたことや、イギリス軍にとっては遠方で捜査が進まなかったことなどから結局ドロップせざるを得なくなったのである。
 もう一つはスエズ丸事件であった。1943年11月29日連合軍捕虜(イギリス兵415人、オランダ兵133人)を載せていたスエズ丸がアメリカ軍の潜水艦によって撃沈された。一部の捕虜(50人から300人の間と推定)は救命ボートなどで助かったが、日本軍の掃海艇から機関銃などで皆殺しにされた事件だった。
 この事件はアメリカ軍も捜査していた。被告として3人を確認し(逮捕済みは1人のみ)、極東地上軍はかれらを東京で裁判にかけることを提案した。この問題を検討した陸軍省では、裁判にかけるとしても戦争が終わってから4年以上もたっていると批判を受けるだろうし、他にも同じようにひどいケースがあり、それらを裁判にかけるとすると裁判がいつ終わるかわからない。反対にドロップすると犠牲者の遺族から責任者を裁判にかけないのかという疑問がでて、いずれにしても批判を受けるだろうと分析したうえで、極東委員会の決定を尊重してドロップすることを決めた。翌日、この方針を外務省も支持し、このケースのドロップが決まった。それは同時にイギリスによる対日戦犯裁判を完全に終わらせるということを意味した。
 アメリカ軍が横浜でおこなっていた戦犯裁判はちょうど1949年10月19日に終了しており、このことがイギリスの打ち切り決定に決定的影響を与えたのである(10月21日付陸軍省から外務省への手紙)。ここにイギリスの戦犯裁判は捜査を含めてすべて終了したことになる。

●戦犯裁判終了後・戦犯の帰還および復帰に関して
のちに提起される問題とともにpart3において別に詳しく触れることにする。

●136部隊とは
 イギリス軍とマラヤの中国人とをつなぐ重要な位置にいた特別作戦部隊が136部隊である。まず、イギリス軍における特別作戦部隊とは敵軍の占領地域でのサボタージュや破壊活動、宣伝活動などを組織・調整する機関である。1940年7月に戦時内閣によって設置が承認され、戦時経済相のもとに設けられた。主な活動地域は、フランス、ユーゴスラビア、ギリシア、イタリアなどナチス・ドイツの占領地域が多く、約30の国・地域で活動し、最大時の1944年夏には約1万人の男性と3200人の女性スタッフを擁し、うち約5000人がエージェントとして任務に従事ないし待機中であったと推定されている。
 特別作戦部隊の対日戦に関わる活動としては、開戦時にオリエンタル・ミッションの活動がある。オリエンタル・ミッションは1941年5月にシンガポールに到着し活動を開始した。ミッションの計画では、日本軍がマレー半島に侵攻してきた際に、日本軍の占領地域に後方残置パーティを送り込んで後方攪乱をおこなうというものだった。しかしイギリス軍のパーシバル軍司令官はこの計画に反発し、計画はなかなか進まなかったが、シンガポールに101特別訓練所を設けてマラヤ在住のヨーロッパ人やマレー人、中国人らをリクルートしてそこで後方活動の訓練をおこなった。準備の遅れと日本軍の進攻の速さのために十分な態勢を整えられなかったが、シンガポールの陥落までに計8つの後方残置パーティをマレー半島の中部から南部にかけて送り込んだ。そのうち第一のパーティがチャップマン率いるパーティで、このパーティはクアラルンプールの北方で鉄道の爆破などの破壊工作をおこなった。ただそれらのパーティは、いったんシンガポールに立てこもったイギリス軍が反撃するのに合わせて後方攪乱をおこなう計画だったので、シンガポールのイギリス軍が降伏してしまうと活動の目的を失った。そのために破壊活動を中止し、マラヤからの脱出をはかった。しかし各パーティのメンバーは日本軍の追跡により殺されたり逮捕された者、マラヤから脱出した者、そのまま残って抗日ゲリラと連絡をとりジャングルの中で生き残った者などさまざまだった。うまく脱出できた者の中にはインドで136部隊に加わった者もおり、また抗日ゲリラの下に残った者たちは、1943年以降、マレー半島に潜入してくる136部隊と合流することになる。
 オリエンタル・ミッションの果たした役割でもう一つ大きなことがあった。日本との開戦後、イギリス軍とマラヤ共産党のあいだで協力関係が成立し、共産党が選んだ青年を101特別訓練所で訓練し、マレー半島に送り込んだことである。それは合計4グループ、165人にのぼり、かれらが後のマラヤ人民抗日軍の中核となった。
 136部隊の出発点はアジア太平洋戦争前にインドに送られたインド・ミッションであった。当初は特別作戦部隊(極東グループ)と呼ばれ、司令部はインドのメールートにおかれた(HS 1/228)。1943年10月にデリーに連合軍東南アジア司令部が設けられるとその指揮下に入り、44年3月、136部隊と呼ばれるようになった。
 136部隊の活動範囲はビルマ、タイ、フランス領インドシナ、マラヤ、スマトラ、アンダマン、中国に及んだ。1945年7月時点でそれらの地域で活動している人員は、イギリス軍の将校その他が184人、アジア系のスタッフが318人、フランス人114人、オランダ人3人、計619人(うちマラヤ187人)であり、114の通信ステーションが開設された。  
 136部隊とマラヤ現地の接触の最初は1943年5月25日のことであった。グスタフI作戦により、ディビス大佐を指揮官とするグループが潜水艦でマレー半島北部のペラ州の西海岸沖まで潜航し、ボートで上陸した。ゲリラと接触することができず、約1ヶ月後に引き上げたが、一緒にいった中国人のエージェントを残していった。そして8月初めに、同じようにしてマレー半島(グスタフV作戦)に上陸し、マラヤ人民抗日軍と接触した。12月30日から31日にかけてマラヤ共産党の指導者と会談をおこなった。当面は人々を抗日側に確保しておくことや、労働者のトラブルを助長したり、海運や海軍造船所に対するサボタージュを行うにとどまった。将来の共同の行動を準備することも合意された。マラヤ共産党に対する援助について話し合われ、英側は武器弾薬と医薬品については効果的な共同作戦のために最大限援助すること、軍事訓練についてはインドで待機している中国人のインストラクターを派遣するなどの協力を回答した。両者は連合軍がマラヤに反攻してきた時の協力とそのためのイギリス軍のマラヤ人民抗日軍への支援を約束したのである。この会談まで、この会談以後も136部隊によって数々の作戦が実行されていったのである。

●136部隊によるマラヤ抗日勢力への支援/マラヤ抗日勢力の状況
 すでに述べられているように、136部隊はシンガポールに101特別訓練所を設け、そこで後方活動のため訓練を行った。シンガポールの101特別訓練所でマラヤ共産党の青年たちらがリクルートされ訓練を受けた。訓練を受けたマラヤ共産党の青年たちは4つのグループに分けてマレー半島の中部から南部に送り込まれた。それらが中核となって第一から第四までの独立隊が編制された。北部で独自に活動していたゲリラ組織がパハン州にあったマラヤ共産党軍事委員会と連絡がとれ、第五から第八独立隊までが組織された。マラヤでは他に国民党系の中国人らによる華僑抗日軍、マレー人が中心の抗日組織ワタニアなどもあったが、組織人員やマラヤ全土に広がる組織網などからみて、人民抗日軍は他を圧倒しており、かれらの多くは中国人であったのである。
 1945年2月から、航空機によりマラヤ上空からパラシュートで降下するという方法で、136部隊のスタッフや武器弾薬などの支援物資がつぎつぎと送り込まれるようになった。潜水艦を使って運んでいたが、潜水艦不足という要因だけではなく、人口が多く日本軍の緊密な監視下におかれている海岸に上陸しゲリラのいる兵陵部まで行くのは危険が多く困難であり、多くの物資を送ることは不可能であるという判断があったのだ。抗日軍に連絡将校ととみに物資を供給し、通信ステーションを設け、ゲリラの訓練をおこなうことなどが構想された。これ以後、さまざまな名前が付けられた作戦によって、マラヤ各地の抗日軍への連絡将校などのスタッフの投下、武器弾薬、医薬品、食糧などの投下による援助がおこなわれた。その中には人民抗日軍への支援作戦だけでなく、マレー人抗日組織ワタニアとの連絡支援の作戦(ビーコン作戦)なども含まれている。ワタニアの組織人員は終戦直前で244人、うち武装している者は173人と報告されている。一方、人民抗日軍は武装した実戦力は3000人、国民党系ゲリラは500人を超えないと報告されている。
 1945年7月17日時点でマラヤに送り込まれていたスタッフは、イギリス軍将校54人、下士官以下30人、グルカ兵48人、マレー人18人、中国人37人、計187人だった。通信ステーションは31個所が稼動していた。45年1月から6月末までに136部隊がマラヤ戦線に供与したのは、小火器(ライフル、短機関銃など)1904丁(ビルマ、フランス領インドシナ、タイを含めた全体では2万5036)、手榴弾4608発(同5万7743)、軽機関銃・対戦車砲・迫撃砲が89(1280)、火薬0.85ショート・トン(27.2)、通信装備・食糧その他48.5ショート・トン(654.3)、合計で76.5ショート・トン(1149.1)となっている。
 全体としては戦場になったビルマへの供給が826.8ショート・トンと7割強を占めるが、マラヤ人民抗日軍にとっては少なくない数と見られ、しかもその6ヶ月の機関中にゲリラによる日本軍の死者はわずか22人と報告されている。つまりこれらの供給された武器はイギリス軍のマラヤ進攻に備えて温存されていたのである。
 武器弾薬を供給したことは、その後1948年からのマラヤ共産党の武力闘争(マラヤ緊急事態)にとっても重要な問題であるが、ここでの関心事は136部隊とマラヤ共産党・人民抗日軍との政治的な協力関係である。イギリス軍はマラヤに関する情報をこれらの組織を通じて入手することができた。日本軍による中国人に対する残虐行為は、戦争中からこうしたチャンネルを通してイギリス軍に届いていた。たとえば、ナグリセンビラン州のイロンロンの大虐殺についてチャップマンはすでに抗日ゲリラから知らされていた。136部隊は1945年11月15日をもって活動を終えた。このようにして、136部隊はマラヤ共産党をはじめ、戦中から抗日組織と幅広い接触をもっていたが、このことが戦犯裁判の捜査に活かされることになる。

●136部隊と戦犯捜査
 日本軍の敗戦後、戦争犯罪の捜査にあたったのが136部隊である。各地の抗日ゲリラのもとに136部隊の連絡将校が送り込まれたが、その残された作戦報告書のなかに「残虐行為ならびに戦争犯罪」についての捜査報告も含まれていた。ただし、著者によれば国立公文書館に残されている報告書にはその捜査報告の部分がほとんど欠けており、戦争犯罪に関する部分は別の関係部署に送られたために残っていないからであった。136部隊と関わり合いの深いケースのうちとりわけ残虐なケースを引用しておく。憲兵軍曹が1943年11月に1人の女性とその7歳になる娘を虐待し、43年10月から45年の7月にまでの間に住民を虐待したという2つの容疑で起訴されたケースであり、136部隊と関の深いケースの一つである。p200〜202より引用

 イポー郊外のパパンに住んでいたそのユーラシアンの女性は抗日ゲリラに協力していた疑いで、イポーの中央警察署に連行され拷問を受けた。その女性の供述書によると彼女が受けた拷問の種類は、水攻め、指の間に針を刺す、熱した鉄棒を足や背中に押し付ける、平手打ちや拳固を顔に浴びせる、鞭がさけるまで殴る、ひどく痛く腫れ上がるまで腕や足を締め付ける。膝の窪みに鞭の丸い先を押し付けひねる、尋問中くりかえしブーツで蹴る、一本足だけで釣り下げられるなどであった。それにとどまらず情報を吐かせるために彼女の娘を使った。7歳の娘は10から12フィート(3メートル余り)の高さで木から吊るされ、その下で火が燃やされた。その前でその女性は柱にくくりつけられて鞭で打たれた。結局、彼女は何も吐くことなく、別の将校の命令で娘は降ろされた。
 被告は当初起訴事実を否認していたが、途中から容疑を認めた。だが彼の行為は上官の同意のもとでおこなわれ、上官も事実を十分に知っていたとして情状酌量を訴えた。ところが証言に呼ばれた上官はこの被告の訴えに反して、被告のおこなったことについて知らなかったと被告の主張を否定してしまった。最後の望みが自らの上官によって断たれることになった。
(略)
 
 少女を火の上から吊るし、その母親から情報を得ようとしたことは特に残虐な行為と見なされ、虐待の容疑だけだったにもかかわらず死刑が確定した。
 拷問を受けた女性は医師夫婦であり、ペラ州のマラヤ人民抗日軍の負傷したゲリラを治療したり、さまざまな支援活動をおこなっていた。そのために日本軍憲兵隊に逮捕され拷問を受け、その後、裁判にかけられて夫は15年、婦人は終身刑の判決を受けて終戦まで投獄されていた。終戦後、2人が解放されたとき、人民抗日軍のペラ州司令部の代表と136部隊の将校がすぐに見舞いに訪ね、かれらの治療と将来のために最善を尽くすと約束した。またイギリス軍の情報将校が憲兵の残虐行為について2人から証言を聞いて記録した。この裁判のときには、抗日軍の元兵士で作る抗日軍退役同志会や136部隊の将校らも多数が傍聴した(新加坡中華総商会『和平的代価』121―226頁)。
 この女性は拷問とその後の獄中生活のために健康を損なっていたために裁判には出廷できず、宣誓供述書だけが提出された。その後、イギリス政府の援助によりイギリスで治療をうけていたが、拷問による後遺症のために身体が麻痺して歩けなくなり、さらに砕かれたあごから敗血症を起こして1949年に死亡した。彼女が生前に記した体験記には抗日軍との関係やすさまじい拷問の様子が生々しく描かれている。なお木に吊るされながらも「私は大丈夫だから心配しないで」と叫んで、逆に母親を励ました少女は戦後、英総督からその勇気をたたえる手紙を送られている(Sybil Kathigasu, No Dram of Mercy)。
 この裁判は1946年2月18日に始まった初期のものであり、抗日軍にとって恩人に対する残虐行為が裁かれたケースだった。それゆえ抗日軍とともに行動していた136部隊が真っ先に取り上げたのだろう。

女性に対してこれだけ酷い拷問をし、自白させるために女性の娘まで使うという残虐性を発揮できる日本軍の体質には驚かされる。  

●民衆からの処罰要求
本書のp203〜206より引用

 終戦直後から中国人社会を中心に日本軍によって連行されたまま行方不明になっている人々の調査が開始された。各地でその人たちが殺されたと見られる現場の発掘がおこなわれ、遺骨が掘り出され埋葬された。
 シンガポールでは星華籌販会によって「華僑損失調査」がおこなわれた。1946年1月におこなわれた報告によるとそれまでに確認された数は、シンガポール市区の被害者は2493人、市街が1795人、計4288人とされている。ペナンでは死者700人(46年3月時点)、ジョホール州ジョホールバル地区で死者3099人(46年2月)、同州ムアで280人(46年1月)などが確認されている。  
 * この項で注記のないものはいずれも許雲樵主編・蔡史君編修『新馬華人抗日史料』からのものである。ほかにも南洋華僑籌販祖国難民総会編『大戦与南僑』も参照

1945年から翌年にかけてマラヤの各地でこのような調査がおこなわれ、それらの経過は新聞で報道されて、日本軍の残虐行為がつぎつぎと明らかにされていった。各地での調査の記録は46年から47年にかけて出版され、また掘り起こされた遺骨を埋葬した墓と記念碑が建設されていった。47年1月に南洋華僑籌販祖国難民総会が出した『大戦与南僑』はマラヤ各地での日本軍の残虐行為を集大成した報告書だった。こうした活動は同時にそうした残虐行為の責任者を戦犯裁判にかけて処罰せよという要求でもあった。
 1946年1月23日に開催されたシンガポールの軍政諮問会議ではシンガポールでの華僑虐殺事件が取り上げられた。会議のメンバーであるチェン・スー・ランは「人々が何度も私の所へ来て要求するので」と前置きして発言した。チェンは、日本軍に連れ去られて行方不明の154人のデーターを示して、シンガポールを含めマラヤ全体で、強制労働による死者や女性の死者を除いても、ひかえめに見積もっても10万人の男が犠牲になったと述べ、「罪もない市民を虐殺した途方もない犯罪の実行者を処罰しないままにほっておくのか」と追及した。これに対して軍政当局は可能な限り情報を収集していることを説明した。
 さらにチェンはすでにフィリピンでのアメリカの軍事裁判所で死刑判決が下された山下奉文元第25軍司令官について取り上げ、マニラでの裁判の山下の弁護側は、山下が着任したときには混乱状態で、通信手段に乏しく部下に命令を出すことができなかったと部下に責任を転嫁しようとしたが、「同じ弁解はマラヤではできない」とし、山下をシンガポールに連れてきて裁判にかけるべきでると主張した。軍政当局はその要求を軍当局に伝えると約束した(WO 203/5283)。
 こうした動きを背景にしてシンガポールではシンガポール華僑集体鳴冤会(英語名を直訳すると「日本軍によって虐殺されたシンガポール中国人犠牲者のためのアピール委員会」)が1946年6月2日に約1000人を集めて結成された。会は日本軍に連行され殺害されたと見られる行方不明の人々の調査、遺骨の収集と記念碑の建立、責任者の処罰、犠牲者の家族の救援、5000万ドルの強制献金の返還などを求めた。こうした組織はマラヤ各地にも作られた。
(略)
 こうしたマラヤの中国人たちの運動だけではなく中国国民党政府もマラヤの中国人たちの被害の問題に関心を寄せていた。
 1945年11月19日には、中国政府の国家軍事委員会から重慶のイギリス軍事使節団を通して、シンガポールで少なくとも10万人が行方不明になっていることやマラヤ各地で虐殺があったことを取り上げ、山下奉文にもそれらの責任があり、東南アジア司令部で捜査をしてほしいと依頼してきた(23日に東南アジア司令部に伝達、WO 203/5595)。中国政府は戦争中にシンガポールやマラヤから脱出してきた中国人を通じてそうした情報を得ていたし、またそいれらはイギリスにも伝えられていた(CO 980/64)。
 シンガポールとクアラルンプールの領事館は中国人の被害調査を行い、鳴冤会の結成総会には五伯勝る総領事が出席し共同で努力することを約束している。その他、シンガポール華僑粛清事件の判決について被害者の意向をふまえてシンガポール総督に対して極刑を求めたり、強制献金させられた5000万ドルの返還を日本に要求するようにイギリス当局に求めるなど中国人の被害者の運動をバックアップした。こうした中国国民党政府の後押しがあったことも無視できない(原不ニ夫「戦後マラヤ華僑と中国」192-193貞)


シンガポールとマラヤでの戦犯裁判の背景には、日本軍の残虐行為の被害にあった中国人たちのこうした自発的な運動が背景にあったのである。中国政府もマラヤ華僑の被害は、中国本土で日本軍が行った残虐行為と重なるものであり関心を寄せていたのである。イギリスの戦犯裁判はイギリスだけの行為ではなく、日本軍によって深刻な被害を蒙った民衆との共同作業としての性格をもっているのである。  

●非常にリベラルなマウントバッテン
 連合軍東南アジア司令部最高司令官であるマウントバッテンは非常にリベラルであった。ビルマやマラヤの抗日運動や民族運動、その背後にある民族主義の高まりを身近に感じていたマウントバッテンは旧体制の復活はもはや不可能であることを見抜いていた。そうした民族運動―それがラディカルなものであっても―を抑圧するのではなく、うまくつきあわなければならないと考えていた。彼はリベラルな姿勢で臨み、ビルマについて戦争中からアウン・サンら民族主義者を評価して、かれらを危険視する本国政府とは異なった対応を示し、このことが1946年中頃からイギリスがアウン・サンらを独立の受け皿として認め、独立に向けた交渉をおこなう条件をつくった。インドシナやインドネシアに関してもマウントバッテンは、民族運動に抑圧的なフランスやオランダに批判的だったのである。このことがすでに述べたようにそれらの地域でマウントバッテンの名で裁判をおこなうことを嫌った一つの理由だった。クリストファー・ソーンも述べているように「(民族主義の要求に対して積極的に対応する必要があるということについて)現地のマウントバッテンやその一部のスタッフたちの態度、さらに特別作戦部隊フォース136の代表者たちの態度は(イギリス政府より)いっそう急進的であった」(『米英にとっての太平洋戦争』下、455-456頁。ルイ・アレン『ビルマ 遠い戦場』下、136部隊の項、207頁も以下参照)
 もちろんマウントバッテンが植民地の速やかな独立を認めたとはいえず、大英帝国の再建をめざしていたといえるが、少なくとも民族運動とうまく折り合った形の新しい関係が必要であると考えていたのは間違いはない。「(マウントバッテンは)この地域に来つつあるものを十分に予感して新しい状況に適応しようとしたある種のイギリスのリベラルな伝統の例証である」という後のシンガポール首相リー・クアンユーの言葉はそのことを示している。
 付け加えれば、後の1951年イランの石油国有化の動きに対して、それを阻止するためにイギリス政府内で軍事力行使の声が高まったとき、海軍本部委員だったマウントバッテンは国有化を受け入れてイランと交渉することを主張した。さらに1956年エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化の動きに対して、イギリスがフランスとともに謀略を使ってスエズ運河占領を狙ったスエズ戦争の際に海軍軍令部長の地位にあったマウントバッテンは、国連決議を受け入れて徹底をするように主張した。民族主義運動を力で押さえつけるのではなく、うまく折り合いを付けようとする彼の姿勢は、東南アジア司令部での東南アジア民族運動とのかかわりの中で身に付けたものだと考えられる。(ただし、東南アジア司令部内でマウントバッテンの考え方への批判が多くあった。)

posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:32 | Comment(25) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
少し長くなりすぎましたね。内容的にはずいぶんためになると思いますので、がんばって読んでみてください。
Posted by 右翼討伐人 at 2006年05月01日 00:46
ちえおくれしんでくれ
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Posted by at 2006年05月01日 11:24
要約してくれないかな
長過ぎてとても読む気になれないし、時間ももったいない
それと、改行も必要だと思うよ
Posted by at 2006年05月01日 11:37
「韓国ではいまだに性や人種差別」米人権報告書

【ワシントン8日聯合】
米国は8日に発表した年次人権報告書で、韓国政府は概して人権を尊重して
いるが、女性の社会的差別、家庭暴力や強姦、児童虐待、人身売買、障害者
差別、マイノリティ差別などの人権問題があると指摘した。

報告書では、韓国で国際結婚のカップル数が昨年は全体の10%に達し増加
傾向にあるにもかかわらず、血統主義の原則のため外国人の帰化手続きが
容易ではないなど、マイノリティに対する差別があると記している。女性勤労者
の給与水準が男性の63%にとどまり、50歳以上の高齢者が就労する機会は
若者層の33.7%に過ぎないなど、性と年齢による差別も問題だとした。

また、違法な性売買が広範囲にわたっており、中国や東南アジアへの売春ツ
アーも盛んだと批判している。韓国では人身売買を禁じているが、「人身売買
の発生地でもあり中間帰着地と終着地も兼ねている」と表現、韓国人女性が
カナダやメキシコを経由し米国に売られたり、西側国や日本などに渡っている
と述べた。

約8000人のエイズ患者に対する社会的差別や、最低賃金を根拠に都市勤
労者の基礎的生活レベルの低さにも触れている。

政治的基本権や人権問題に対しては特に問題提起しなかったが、「当局が
共産主義や北朝鮮寄りとみなされる思想の表現を制限できる」国家保安法の
存在を指摘し、国会で廃止や大幅改正などを審議していると記した。

一方、北朝鮮の人権については「依然として極度に劣悪な状態」と述べた。
「世界で組織的な人権じゅうりん国となる傾向がある」国として、ミャンマー、
イラン、ジンバブエ、キューバ、ベラルーシと並んで挙げられた。北朝鮮では
体系的に抑圧的な政権が住民の生活のほぼすべての面で統制しているとし、
昨年12月に北朝鮮内で活動する非政府組織(NGO)の活動の大幅縮小を
要求したことで、一層孤立しようとしていると指摘した。

ソース:聯合ニュース
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=712006030900200
Posted by at 2006年05月01日 14:47
名無しさん :2005/11/01(火) 19:40:13 ID:fKlT2bIN
個人的な付き合いだが、韓国から移民してきた人を知っている。一人は
奥さんも韓国人だが生活の基盤は完全にアメリカで、現地の人々とも上手くやっている。
しかし、こちらに来た当初は偏見や習慣の違いに相当苦労したらしく、そのためか僕が困った時も
同じアジア系という意識もあってとても親切にしてくれた。生活面では現地化しても祖国の誇りは
失わず、その態度はかえって立派に思えた。
同じく韓国ソウル出身のもう一人は韓国系アメリカ人の奥さんをもらい、現地に溶け込んでいる。
しかし、僕がソウルの話を振るとあまり良い顔をしない。
「僕はもうアメリカ人なんだ。」と自身に言い聞かせるようにつぶやいたのが
印象的だった。


↑パクリ   ↓元 注=時間

93 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2005/11/01(火) 16:37:13 ID:3NFlTCqb0
個人的な付き合いだが、ベトナムから移民してきた人を知っている。一人は
奥さんもベトナム人だが生活の基盤は完全にフランスで、現地の人々とも上手くやっている。
しかし、こちらに来た当初は偏見や習慣の違いに相当苦労したらしく、そのためか僕が困った時も
同じアジア系という意識もあってとても親切にしてくれた。生活面では現地化しても祖国の誇りは
失わず、その態度はかえって立派に思えた。
同じくベトナム系のもう一人はフランス人の奥さんをもらい、現地に溶け込んでいる。
しかし、僕がベトナムの話を振るとあまり良い顔をしない。
「僕はもうフランス人なんだ。」と自身に言い聞かせるようにつぶやいたのが
印象的だった。




すげえホロン部ってほんとにいたんだ・・・
Posted by at 2006年05月01日 22:50
少し気になったのですが、確か朝鮮人BC級戦犯の多くも上記の旧英領の法廷で裁かれているのですが、このことに関して管理人様はどのようにお考えなのでしょう?
本題とは関係ないので無理に返信していただく必要はないかと思いますが、是非ご意見をお聞かせください。
Posted by at 2006年05月01日 23:13
日本軍で一番残虐だったのは朝鮮人だった…

日本軍で一番残虐だったのは朝鮮人だった…

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日本軍で一番残虐だったのは朝鮮人だった…

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日本軍で一番残虐だったのは朝鮮人だった…

日本軍で一番残虐だったのは朝鮮人だった…
Posted by at 2006年05月02日 00:31
●韓国軍が犯した、ベトナム戦争のおぞましい記録(ハングル本もあり)
・女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで
 軍靴で踏み潰す.
・住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、
 あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.
・住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も
 生存者も全部燃やす.
・子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.
・住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.
ttp://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
Posted by at 2006年05月02日 00:32

韓国の言っていることが正しいのではないか?
韓国を非難している日本こそ稚拙で幼稚な国家だと思う。
日本は戦争によって韓国の方々を苦しめ奴隷とした過去がある。
これは世界に住む同じ人間と思えない程の苦痛を与えた事実です。
平和を世界は望んでいるのに日本は軍国主義を復活させようとしている。
日本と韓国の歴史問題は日本側による改竄により酷い状態だと思う。
日本の人はすごく可哀相だと思う。悲しい過去の事をしっかり謝罪し
日本と韓国国民みんなで手を取り合って真の平和社会になってほしい。
Posted by at 2006年05月02日 00:45

ワールドカップ応援Tシャツに、日本が一番恐ろしがる安重根義士を描いた「韓日ワール
ドカップ応援服」が登場した。

ワールドカップ・コンパニオンは日本が一番恐ろしがる安重根義士の肖像を赤い生地に刻
み、その下に「もう一度テ〜ハミングッ(大〜韓民国)、ドイツでは決〜勝まで」という
掛け声を印刷した「ハングルレッドデビルスTシャツ」を5月1日から1枚当たり700
0ウォン台で販売すると27日明らかにした。

ワールド・カップコンパニオンは、最近ネチズンたちがインターネット署名運動までして
「ワールドカップ応援服衣装ハングル化」を主張したのに共感、安重根義士を含めた金九
(キム・グ)、金左鎮(キム・ジャジン)、尹奉吉(ユ・ボンギル)、徐載弼(ソ・ジェ
ピル)博士ら独立闘士105人の魂を盛った肖像画(シオン・ペフィクォン画伯作品)の
中から安重根義士の肖像を修正、補って刻んだという。(中略)

この話に接した済州市朴ソラ教師(27)は「5月5日の子供の日のプレゼント用に学生
たちに分けてやろうと捜していたが、目にとまるのが皆英語が書かれていてあきらめよう
と思った。偶然にネイバーブログに立ち寄ってこのようなハングル応援服を発見、300
枚を注文した」と言った。「ハングルのデザインが英語よりもよかった。どういう理由で
国籍と関係ない英文で応援をしようと思うのかが分からない」と反感を示した。(中略)

あるネチズンは「独島領有権問題で自尊心がいたんでいるので、安重根義士が刻まれたハ
ングルTシャツを見たら急に力が湧いた。会社も安重根義士応援Tシャツで統一するだろ
う」と言ってファイティンを叫んだ。

ソース:Daum News(韓国語)<抗日精神盛った‘ハングル ワールドカップ応援服’登場>
http://photo.media.daum.net/gallery/net/200604/28/gonews/v12538442.html
写真:http://photo-media.hanmail.net/200604/28/gonews/20060428152404.673.0.jpg

関連スレ:
【竹島問題】‘独島はわれらの領土’をワールドカップ応援歌に、ネチズン提案[04/28]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1146234404/
【韓国】『対馬も韓国領土』〜独・ワールドカップ応援Tシャツ[04/26]
Posted by at 2006年05月02日 00:46


        / ̄ (  ◎)⌒\      高句麗人はな、ヲマエ等チよンとは無関係だ馬鹿野郎!!!!!!!!!
   __    /  _|     |   |
   ヽヽ   /  /  \    |   |           ,,,,,,,iiiiillllll!!!!!!!lllllliiiii,,,,,,,
    \\|  |____|   .|   |           .,llll゙゙゙゙゙        ゙゙゙゙゙lllll,
     \/  \       |   |           .|!!!!,,,,,,,,       ,,,,,,,,,!!!!|
     | ヽ_「\      |   |、         |  ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙ .|
     |    \ \――、. |   | ヽ         .|     .゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙     |
     |   / \ "-、,  `|  |  ヽ       |               |
  _/   /    "-, "' (_  ヽ  ヽ      .|               |
/    __ノ      "'m__`\ヽ_,,,, ヽ      |               |
`ー― ̄          ヽ、__`/ー_,,,, ゙゙゙゙!!!!!!!lllllllliii|               |
                    \゙゙゙゙゙゙゙!!!!!lllllllliiiii|               |
                      \   ヽ   |    怒りのハンマー|
                       ヽ   \  |               |
                        |     \.|               |
         .....a.........             `ヽ、,,_ノ|           |
                              ゙゙!!!,,,,,,,,       ,,,,,,,,,!!!゙゙
                                   ゙゙゙゙!!!!llllliiiiiiiiiilllll!!!!゙゙゙゙
                                /.// ・l|∵ ヽ\  <アイゴー!!
Posted by at 2006年05月02日 00:48
朝鮮の歴史書によると、佐渡は朝鮮人が住んでいたそうですけど、だからといって朝鮮領土と言わないですよね。独島、対馬、佐渡の違いを知りたいです。
Posted by 超海物語 at 2006年05月02日 23:21
右翼 コピペ荒らし
左翼 妄言荒らし
Posted by at 2006年05月02日 23:36
|  |
|  |_∧
|  |#`Д´> >>ちよそ
|  |⊂ノ              ともだちでいてね。
|  |∧∧          ∧∧
|_| 中\        / 台\      ∧_∧ うん。
|共|`ハ´)        ( *゚ー゚ )     (・ω・` )  
| ̄|⊂ノ          ( つ旦O     O旦⊂ )
|  | ノ          と_)_)      (__(__ ̄)

|  |
| ‖               ノ米ノ -__   
|| ∧∧  ガッ        (゚∈゚#)  ─_____ ___ 
|/支∧从ノ      (ミ_ (⌒\ヽ _ ___      
(ハ´(< (≡ ̄ ̄ ̄ ̄三\⌒ノ ノ )           
|(つ (つ Wつ  ̄ ̄\  ⌒彡)   ノ  =_       
| \_)\フ フ     \,___,ノノ            ∧∧
|  |  )          / /             /台 \      ∧_∧
|  |            / ノ      ___    (゚ー゚* )     (・ω・` )
|  |            /ノ _─ (´⌒(´        ( つ旦O     O旦⊂ )
|  |           ミ/= (´⌒(´⌒;         と_)_)      (__(__ ̄)
Posted by at 2006年05月03日 16:08
韓国政府の李鍾●(夾の人を百)統一相は3日、近く韓国訪問が予定されている拉致日本人の
横田めぐみさんの父、横田滋さんとの面談の可能性について「会う必要性はない。
 (要請があっても)会う考えはない」と語った。
これはソウルで行われたマスコミ団体との討論会の際、日本人記者の質問に答えたもので、
李統一相は「問題の切迫性は理解するが、横田氏の訪韓の意味がよく分からない」と述べ、
さらにこれまで金正日総書記が日本人拉致を認めたことなど北朝鮮の対応につい
て「日本は過小評価している」と日本を批判した。
李統一相は学者出身で盧武鉉大統領の側近として国家安全保障会議(NSC)事務次長を務めた後、
副首相格の統一相に就任した。対北融和派として知られ、先月、南北閣僚級会談で北朝鮮を訪問してきたばかりだ。

http://www.sankei.co.jp/news/060503/kok098.htm
Posted by at 2006年05月03日 20:48
1.朝鮮人は長い間中国の属国として低い身分にあったため、低い身分の者や
 貧困者、弱者、ひいては身障者などへの虐待を「下の者が下に見られるのは
 仕方のないこと、上の者が下の者を見下すのは当然のこと」と考える民族的
 傾向が定着していた。屈辱を「当然」と考えなければ精神的に乗り越えられない
 ほど、千年の隷属というのは長かった。
2.朝鮮は虐げられる者の反動として、より低い者を虐げる「貴族社会」が
 長く続いた。そのため、家系が悪ければ努力はほとんど無意味だった。
 貴族が裕福なのも、奴隷が貧しいのも、生まれた家に決定された。
3.やがて低い身分にある者が「自分の先祖は名門だった」と思いたくなり、
 いつしか「偽の家系図を買う」または「家系図を書き換える」ことで
 底辺で虐げられる身分から一発逆転を果たすことが流行してしまった。
4.その結果、皆が「限られた同じ名門(両班という)の名前」になり、
 形の上では皆が同じ名門の家系出身の者ということになった。
 逆に底辺(白丁という)の出身者は歴史の闇へと消えていった。
 現在、どの韓国人に聞いても「私は由緒ある両班の出身だ!」と
 答える。今はもう白丁の子孫であってもその自覚すらなくなっている。
ここで朝鮮人の民族特性をまとめ直すと、
まず、『誰よりも“過去や先祖”を誇りたがる民族』であるということ。
民族の成り立ち上、醜い過去に対するコンプレックスが強いのである。
そして『努力せずに嘘や小細工で勝ち組になれることに味をしめた民族』
であるということ。過去の歴史を書き換えることで名門になることが
できた国の人々なのである。
このような性質を持つ彼らには、朝鮮民族の歴史はあまりにも惨めすぎた。
つまり痛々しすぎて自分たちの過去を振り返るのが苦痛なのである。
それゆえ、独立した後に“民族意識を高めるための愛国教育”として、
 『我が国は5000年間一度も他国に支配されたことの無い独立国である』
という“偽りの栄光の歴史”をあたかも真実のように国民に教え込むことに
したのである。 これが韓国の愛国教育の成り立ちである。
Posted by at 2006年05月03日 21:03
相変わらず糞ネット右翼どもは必死ですね。

>少し気になったのですが、確か朝鮮人BC級戦犯の多くも上記の旧英領の法廷で裁かれているのですが、このことに関して管理人様はどのようにお考えなのでしょう?
本題とは関係ないので無理に返信していただく必要はないかと思いますが、是非ご意見をお聞かせください。

お答えします。もちろん、英国の裁判だけではないですが、たくさんの朝鮮人戦犯が裁かれました。もちろん、その背景には日本の植民地支配があり、多くの朝鮮人が戦争に動員され、戦後日本政府がとるべきだった責任を朝鮮人らに押し付けられたという背景があります。詳しくはpart3で朝鮮・台湾人戦犯問題にも触れたいと思いますので、お待ちください。ただいま編集中です。
Posted by 右翼討伐人 at 2006年05月04日 00:47
防犯・防諜普及会

北朝鮮による侵略に備えましょう。

日本政府の動議により、北朝鮮非難の安保理決議1695号が可決しました。これに対し北朝鮮は強く受け入れを拒否しています。国際社会から孤立した北朝鮮にとって今後の進展は厳しいものとなり、局面の打開を目指して一気に軍事的行動に出てくる可能性が高くなります。国民の皆さんは、進んで国防に協力しましょう。特に開戦に備えてスパイ活動やテロ活動を強化しますので、周囲に工作員や、北朝鮮に協力しそうな人物がいないか気をつけましょう。また反政府的な言動をするグループなどが防衛行動を妨害するかもしれませんので積極的に情報を政府機関に通報しましょう。
(以下、あて先明記のこと。)
内閣情報調査室
http://www.iijnet.or.jp/cao/cas/jp/goiken.html
公安調査庁
psia@moj.go.jp
自衛隊情報本部
kouhou1@joint.info-jda.go.jp
自衛隊中央情報保全隊
gsopao@jgsdf.info-jda.go.jp
警察庁警備部公安課
http://www.npa.go.jp/goiken/index.htm
入国管理局
http://www.immi-moj.go.jp/cgi-bin/datainput.cgi
政府機関への総合窓口
http://www.e-gov.go.jp/policy/servlet/Propose
Posted by 防犯・防諜普及会 at 2006年08月08日 18:48
【韓国】韓国の歴史教科書の内容が事実なら1億ウォン差し上げます[08/07]
(画像)
http://imgnews.naver.com/image/022/2006/08/07/kuk.jpg

ある歴史団体が破格の褒賞金を掲げて話題になっている。『小・中・高校歴史教科書を正す運動』を
している真の歴史文化研究会( www.coreahistory.or.kr )は最近、一部の日刊紙の広告とホームページを
通じ、「現在の歴史教科書に載せられている内容の中身は、日帝により歪曲された内容がそのまま
反映されたものが多い」とし、「歪曲された教科書の内容を事実だと完璧に立証できる人がいれば
賞金として1億ウォンを差し上げます」と明らかにした。

この団体は歴史学者キム・ジョンソ博士(中央大教授)の主張を元に、現在小・中・高校の歴史教科書の
一部の内容が歪曲されていると主張している。主要内容は、■我が民族が世界で最初の国家である
神市を建立し、弘益人間は檀君の建国理捻ではなく神市の建国理捻だ。■檀君朝鮮は神話ではなく
実在した歴史で、1908年の間中国・北京地域から満洲と沿海州、韓半島に至る8000里領土の大帝国で、
中国を支配していた。■箕子朝鮮は事大主義者達の想像の中がけに存在する国家で、衛氏(衛満)
朝鮮に滅亡させられた準王の朝鮮は箕子朝鮮ではなく孤竹国を受け継いだ国家で、その領域は
中国の河北省東部地域にあったなどである。

キム博士は、『神市・檀君朝鮮史研究』と『檀君朝鮮領土研究』、『韓市郡の実際の位置研究』などの
内容を裏付ける論文を発表して来た。

広告を巡りネチズンの間で論議が起きている。ポータルメディアDuamの『アゴラ』を通じてあるネチズンは、
「1億ウォンを出すくらいだから、教科書の内容がはっきり間違いだという確信があるというだけの事」とし、
「このような驚くべき研究結果が出されたら、政府が検証作業をしなければいけない」と教科書改訂を
促すネチズンの署名運動を提案した。

だが一部ネチズン達は、「単なるいち歴史団体の主張なだけ」としながら「興奮せずに冷静に判断
しなければならない」と指摘した。

ソース:NAVER/世界日報(韓国語)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=022&article_id=0000176353

Posted by 韓国の歴史教科書の内容が事実なら1億ウォン差し上げます at 2006年08月08日 22:10
キム博士は、『神市・檀君朝鮮史研究』と『檀君朝鮮領土研究』、『韓市郡の実際の位置研究』などの
内容を裏付ける論文を発表して来た。

広告を巡りネチズンの間で論議が起きている。ポータルメディアDuamの『アゴラ』を通じてあるネチズンは、
「1億ウォンを出すくらいだから、教科書の内容がはっきり間違いだという確信があるというだけの事」とし、
「このような驚くべき研究結果が出されたら、政府が検証作業をしなければいけない」と教科書改訂を
促すネチズンの署名運動を提案した。

だが一部ネチズン達は、「単なるいち歴史団体の主張なだけ」としながら「興奮せずに冷静に判断
しなければならない」と指摘した。

ソース:NAVER/世界日報(韓国語)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=022&article_id=0000176353

Posted by 韓国の歴史教科書の内容が事実なら1億ウォン差し上げます at 2006年08月08日 22:11
【韓国】韓国の歴史教科書の内容が事実なら1億ウォン差し上げます[08/07]
(画像)
http://imgnews.naver.com/image/022/2006/08/07/kuk.jpg

ある歴史団体が破格の褒賞金を掲げて話題になっている。『小・中・高校歴史教科書を正す運動』を
している真の歴史文化研究会( www.coreahistory.or.kr )は最近、一部の日刊紙の広告とホームページを
通じ、「現在の歴史教科書に載せられている内容の中身は、日帝により歪曲された内容がそのまま
反映されたものが多い」とし、「歪曲された教科書の内容を事実だと完璧に立証できる人がいれば
賞金として1億ウォンを差し上げます」と明らかにした。

この団体は歴史学者キム・ジョンソ博士(中央大教授)の主張を元に、現在小・中・高校の歴史教科書の
一部の内容が歪曲されていると主張している。主要内容は、■我が民族が世界で最初の国家である
神市を建立し、弘益人間は檀君の建国理捻ではなく神市の建国理捻だ。■檀君朝鮮は神話ではなく
実在した歴史で、1908年の間中国・北京地域から満洲と沿海州、韓半島に至る8000里領土の大帝国で、
中国を支配していた。■箕子朝鮮は事大主義者達の想像の中がけに存在する国家で、衛氏(衛満)
朝鮮に滅亡させられた準王の朝鮮は箕子朝鮮ではなく孤竹国を受け継いだ国家で、その領域は
中国の河北省東部地域にあったなどである。

Posted by 韓国の歴史教科書の内容が事実なら1億ウォン差し上げます at 2006年08月08日 22:11
■[社説]日本戦闘艦の仁川入港を糾弾する

日本の戦闘艦が解放後初めて、今月12日に仁川港に入港したことは、大事件だ。
日本の自尊心だとされ軍国主義の象徴である旭日旗を堂々と翻して仁川港に入
港した練習艦「かしま」など3隻には、実習将校180人を含め計750人の自衛隊員
が乗り組んでいるという。

最近日本が周辺諸国の反対にもかかわらず靖国神社参拝を強行し、教科書改訂
を通じた歴史歪曲、独島領有権主張など軍国主義化を試みている時点で、韓国の
海軍と日本の自衛隊が相互交流と友好増進を図るという発想は、大いに心配だ。
これは日本の軍事大国化志向を認める体たらくとなるおそれもあり、はなはだ遺憾
と言わざるを得ない。

今回の日本戦闘艦の仁川港入港は、仁川海域防衛司令部の招請によるもので、
両国間の友好増進などを目的に4泊5日の日程で板門店見学や国立顕忠院(訳
注:戦死者などを祀った墓地)参拝、青瓦台見学など多様な行事を行うとのことだ。
続いて今年12月には、我が国の海軍艦隊が実習訓練のため東京港に入港する
予定だ。

このような発想がどんな理由でなされたのか、その背景は正確に知られていない。
しかし日本の政治家らの過去に関する発言が、謝罪と反省どころか妄言の水準を
脱することができない状況で、韓日間の軍事交流を行なうということは、日本の軍
国主義を事実上幇助する歴史的過ちであると指摘しなければならない。

特に、仁川海洋警察署長など一部要人らが日本軍艦入港を歓迎するレセプション
を開き、祝いの杯を傾けたという事実は、不適切な行動として指弾を受けて当然だ。

「仁川民主言論市民連帯」や「平和と参加へ進む仁川連帯」など市民社会団体は
13日、日本自衛隊側が用意した艦上行事に興をそえた要人らは市民の前で謝罪
せよと要求し、軍事大国の野心を現わしている日本艦隊の入港を糾弾した。

仁川は、1882年に日本によって強制開港させられ、36年間の日帝強占につなが
った辛い過去を持っている。日本の戦闘艦はすべての行事計画を取り消して仁川
港を去るよう、国民の名において表明する。

▽ソース:仁川日報(韓国語)
http://news.itimes.co.kr/Default.aspx?id=view&classCode=A13&seq=297123

▽関連スレ:
【フォト】日本の海上自衛隊艦艇、仁川港に入港[09/12]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1189604248/l50


アホかこいつら… ??????????
キチガイが書いてるな 米軍はどうなんだ?w
もろ、中にアメリカ国旗はためかせてるだろw
馬鹿じゃねーのかw 海上自衛隊が旭日旗使用してたの今まで気づかなかったのか?
Posted by at 2007年09月14日 02:39
       ☆ チン            
 ☆ チン  〃 ∧_∧   /癡所の右翼討伐人チャソ
  ヽ ___\(\・∀・)<2チ ヤ ソ ネ ルで他人のメ ア ド晒した謝罪まだー ?
      \_/⊂ ⊂_)_ \____________
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
   |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|  |
   | H A N 板人  .|/
数万円もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようとした癖に自からHAN板でバラして罵倒嘲笑を浴びた。

他人のメ ア ドを本人の許可無くHAN板で晒し、スレ住人にたしなめられたが開き直って削除依頼もせず逃走した。

2TIYANNELUの理系板で日本軍悪口雑言板スレ立てをして沈着冷静、頭脳明晰な住人の罵倒嘲笑を浴びた。

2TIYANNELUの海旅板で日本の加害情報求む等と馬鹿なスレ立てをして総スカンを喰らった挙げ句スレストされた。

HAN板で(さば)を(こい)と読んで無知文盲がばれて祭りになった。

理系大学の学生でありながら本を買ったのがたった二冊だけだと平然とほざいてHAN板でスレ住人にあきれられた。

南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記のHAN板住人に全く歯が立たず泣き言を吐いて逃走した。

HAN板で意気揚々とソースに「半月城通信」を引用して大爆笑になった。

自分の専門分野について質問された時に錬金術の如き化学反応式を並べて文系住人さえ絶句させた。

鬼女板と恐れられる既婚女性板にカキコして百戦錬磨一騎当千の鬼女板住人に粉砕されて逆上、「お前らなんて一生結婚出来ないぞ!!」と
既婚女性板住人が化石するしかない捨て台詞を吐いて逃走した。

就職の面接で担当者が一文字姓だった為、勝手に在日朝鮮人と決めつけ、得意満面でこの自慰ブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた。

民団の掲示版に日本の悪口を書いて賛同を求めたが逆に門前払いを喰らって唖然とする程の癡所ぶりをオチされて侮蔑と嘲笑を浴びた。
Posted by at 2007年10月17日 17:22
チン☆チン☆
       チンマチクタビレタ〜 ♪
           ♪
    ♪          ☆チン    .☆  ジャーン!マチクタビレタ〜!
        ☆ チン   〃  ∧_∧  ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
          ヽ  ___\(・∀・ #) /\_/ <癡處齲の右翼討伐塵ちゃん♪
        チン    \_/⊂    つ    ‖  2 tiィヤんネル゙で他人サマのメァド サラシたシャザイまだー?
           / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|     ‖    
        |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |   /|\
        |             |/

数万もする研究室の実験器具を壊した事を隠蔽しようと思った癖にテメエから h an 版で暴らして売渡(罵倒) 物笑いを受けた.
h an 版で 他人のめえアドを本人の許可なくサラシしてスレ住人に糾弾されたが開き直ってさあくうじょおお依頼もしないで逃走した.
2 チィヤァんネルの理科版で旧日本軍の悪口雑言をカキコして沈着冷情, 頭脳明細な住人の(売渡(罵倒)) 物笑いを受けた.
2 チィヤァんネルは海外旅行版で日本の加害情報要求するなどあほらしいスレ縦をして総スカンを喰らい速攻でスレストになった.
h an 版で(sあbあ)を(kおい)と読んで余りの鞭悶妄がばれて祭りになった.
理科大学の学生ながら本を買ったことが2冊だけとほざいて h an 版でスレ住人を唖然とさせた
南京大虐殺問題で妄言ほざいたが博覧強記の h an 版住人に全然適う道理がなくて泣き言を残して逃走した.
h an 版で得意気にソースに詐欺師の 「半月城通信」を引用して半月城のインチキさを知悉している住人の大爆笑を誘った.
自分の専門分野に間して質問受けた時に錬金術ーみたいな化学反応式を曝して文科住人さえ絶句させた.
鬼女版と恐ろしがられる既婚女性版におぅなにぃカキコをして百戦練磨、一騎当千の鬼女版住人に粉砕されて狼狽逆上
「お前たちは一生結婚することができない!!」と既婚女性版住人が化石するしかない捨てせりふを吐いて逃走した.
就職の面接で担当者が一文字性だったから在日朝鮮人と決めつけて得意満面でこのsenzuriブログの如き電波左翼妄言を吐いて見事に落ちた.
大学院をでても全く使い物にならず担当教授のお情けで研究室の派尻をやってかろうじて糊口を繋いだ
どこの版でも全く相手にされず遂に民団の掲示板に日本の悪口を書いて賛同を要求したが反対に門前払いを喰らって唖然とするほどの
怒唖補さ加減をオチしていたh an 版住人の bubetuと物笑いを受けた.
自分の風呂具でもまんまと縦読みにひっかかって物笑いを受けた.
自分の風呂具の管理も満足にできず毎年12月31日に皆様の投稿をお待ちしています等という
うましかエントリを何時までも削除出来ず莫迦をさーら下.
土地来るって自分の風呂具で自作時絵んを始めたが文体を帰る事も出来ない蜘獲悪苦れの為一発でばれた.
遂に他人の鏝を方って自分まnせえを始めたがそのことを厳しく球団されたとたんぴたりと辞めて失笑をかった.
他人様を糞コテ呼ばわりした癖に自分の意見をいわず他のブログやHPをリンクするだけで相手を論破したと思い込む位の
tisyouさ加減を糾弾され何も反論せずオナアアにいエントリを立て続けるtいえオく列振りをまたもya証明した
「類は友を呼ぶ」、「癡處齲と付き合うと癡處齲が伝染る」、という真理を鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人と同じく他人
のめえアドを本人の許可なくサラシしてをやらかしている事で実証した。
鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人を凌ぐちぃえぇおくうぅれなのが「なめてます」コメント及び
「高潔にして偉大なる俺様のsenzuriブログに都合の悪い事をカキコした奴はIPアドレス、サーらしてやんよ!!」コメントで判明した(w
Posted by 「類は友を呼ぶ」、「癡處齲と付き合うと癡處齲が伝染る」、という真理を鷹嘴(不条理日記)が癡處齲討伐人と同じく他人 at 2008年02月24日 14:52
日本人を差別させろnida!!

日本人を迫害させろnida!!!!

ウrいたちを優遇しろnida!!

ウrいたちの犯罪は無罪にしろnida!!

ウrいたちの気が向くまま日本女を犯させろnida!!

お前ら日本人の財産をウrいたちが使うのは権利、盗みじゃないnida!!!!!!!!!!

汚いtyoツパrいを殺しても第二次世界大戦のtyoツパrいの悪事に比べれば無罪に等しいし、むしろ韓国人の怒りを理解し謝罪すべきnida!!


それをさせないお前らtyoツパrいは冷たいnida!!




バカtyoそ共1匹残らず死んでくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!
Posted by ちよんのげんじつ at 2008年09月08日 02:41
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