2006年03月22日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 タイ・マレー半島北部

ようやく忙しい合間をぬって書き上げてようやく完成。
著者が1989年に高嶋伸欣氏の「東南アジアを考える旅」に参加し、タイ・マレー半島北部を旅行したときの記録の章から日帝悪情報を抜粋していくことにする。
p45
第二次世界大戦の日本とタイとの関係については、日本人のなかに歴史意識としてほとんど痕跡をとどめていないように思われる。実際、映画「戦場に架ける橋」で有名になった泰緬鉄道を別とすれば、太平洋戦争における日本軍の最初の攻撃地点が真珠湾ではなく、マレー半島のコタバル(マレーシア)とソンクラ(タイ)であること、また日本軍上陸の際、タイ軍と日本軍のあいだで抗戦が行われ、タイ側に多数の死傷者が出たことなどは、ほとんど忘れさられてきたように思える。

タイを侵略したという事実を日本人の多くは知らないでしょう。中国や韓国、他の東南アジア諸国だけではなく、日本の加害と侵略の歴史問題はタイと日本の間にも存在するものです。

●死の鉄路、泰緬鉄道p45〜48
 1989年8月8日。午後9時、タイのバンコック郊外のドン・ムアン空港に到着した。空港からバンコック市内までは車で40分ぐらいである。タイは王様の国であり、バンコック市内は、ちょうど8月12日が王妃の誕生日だというので、イルミネーションの飾り付けがきれいであった。
(略)

 8月9日。朝7時に小型バスで市内のホテルを出発し、泰緬鉄道に向かう。途中、ブラピンクラオ橋ではじめてチャオプラヤ川(メコン川)を渡った。川幅200メートル以上ある大河が茶色の帯を引いてゆったりと流れている。全長650キロのタイ第一の大河である。この川下のすぐ近くに王宮がある。
(略)

 タイ最古の仏塔のあるナコンパトムを過ぎ、9時40分に日本軍が泰緬鉄道建設の起点としたノンプラドックに到着した。(略)
 1942年7月、日本軍はこの地点から泰緬鉄道の建設に着手した。ビルマに対する陸上補給路の確保と、タイ―ビルマ間の交易交通路を開拓するためであった。また、ビルマ経由の援蒋ルートを遮断し、インパール作戦(インド侵攻作戦)を成功させる意図もあった。
 タイのノンプラドックからビルマのタンビュサヤットまで全長415キロ、40の橋梁をもつ泰緬鉄道が完成するのは翌43年10月。わずか1年3ヶ月の突貫工事である。この間、連合軍捕虜と東南アジア諸国から強制連行したアジア人労務者は、日本軍の虐待とマラリアとコレラ、飢えと疲労などによって多数の犠牲者を出した。いわゆる「死の鉄路」と呼ばれ、連合軍捕虜はイギリス、オランダ、オーストラリア兵7万3502人、アジア人の強制労働はマレー、インドネシア、タイなどから労務者約30万人以上が動員されたといわれる。連合国の発表によると捕虜の死亡は2万4490人であり、アジア人労務者の死亡者数は不明であるが、半数以上は故国に帰っていない。推計で10万人以上が犠牲になり、「枕木一本、人一人」と言われた。
 列車は10時40分にカンチャナブリに到着した。ここが有名な映画「戦場に架ける橋」の舞台である。カンチャナブリの収容所に捕虜と労務者をおき、クワイ川の鉄橋を架ける難工事が行われた。カンチャナブリ駅から10分ほどでクワイ川である。鉄橋のたもとにはクワイ川鉄橋駅が新たに造られていた。観光客の名所となっているのである。鉄橋を列車で越えるため、多くの観光客が乗車する。イギリス人とオーストラリア人が多いようである。

泰緬鉄道は華人の大虐殺の次に大日本帝国の東南アジアで行った国家犯罪の中で最大のものであろう。しかし、時間がたつともにこういう残虐行為のスポットも観光名所となるのであろう。イギリス人とオーストラリア人が多いというが、日本人は来ないのであろうか?日本人こそ来て、見て犠牲になったアジアの労務者や連合軍捕虜への償いの気持ちや侵略戦争への反省を新たにするスポットであるというのに、残念である。

p49
バンコックを出て5時間、312キロの泰緬鉄道の旅であった。ナントクから先は現在廃線となっている。ここからビルマ国境のスリーパゴタ峠まで170キロあるという。
 最近、この泰緬鉄道の廃線区間を復旧して、SLを走らせ観光路線として復活させようという計画が起きたという。しかし、日本の資金援助によるタイ政府の復旧計画に対し、オーストラリア退役軍人会や、オランダの旧捕虜たちが反対の火の手を上げた。日本は鉄道建設の犠牲者に対して補償すべきであって、泰緬鉄道の復旧は「アウシュビッツの遊園地化」であると抗議したのである。歴史のなかの泰緬鉄道は、いまだ風化していない。
 このあたりの泰緬鉄道沿線には、マレー半島やインドネシアから鉄道建設のために強制連行された多数の労務者が、戦後も帰国できずに生活している。「満州」の中国残留孤児だけが問題なのではない。日本人の「残留」だけではなく、日本軍によるアジア人の「残留」の後始末も日本政府は迫られているのである。

>泰緬鉄道の復旧は「アウシュビッツの遊園地化」である
これはその通りだね。まして日本の資金が入ったとすれば。もちろん、日本政府が真の謝罪と反省の精神を元に、この負の遺産を後世に残し、生涯反省し、二度と過ちを起こさない良識的な決意をもとに復旧を行うのであれば、話は別になってくると思うけど。まあ、復旧の資金に使うのであれば、まずは犠牲者遺族や被害者自身に補償してからである。
もう一つの問題はアジア人「残留」問題である。中国や満州における日本人残留問題だけではない。前にアジア人労務者の総数は30万人以上であり、半数以上が故国に帰っていないこと、そして、死亡者総数は推計で10万人以上とされていることが分かっている。これから考えれば、最低5万人以上の「残留」アジア人が故国に帰れずに、元の家族とも再会できずに現地で生活しているということになる。大日本帝国はそれだけのことの国家犯罪を行った。後始末を今すぐにでも始めるべきだ。過去に行った蛮行のけじめをつけずにうやむやに終わらそうとすることは世界の良識が許さないであろう。

p50〜51

 3時間半にカンチャナブリに戻った。今度は歩いてクワイ川鉄橋(メクロン橋)を渡った。鉄路の真ん中に木道がつけられていて、鉄道の上を歩いて渡ることができる。(略)
 橋のたもとには、1945年2月に行われたアメリカ軍鉄橋爆撃のときの不発弾や、SL、ガソリン・カーが展示してあった。1946年製のSLは問題外としても、ガソリン・カーのほうは、明らかに日本軍がしようしたと思われるものであった。軍用トラックを改造して、タイヤのかわりに動輪をつけて、トロッコのような3つの鉄製荷台を引っ張るものであった。このトロッコに捕虜、労務者を乗せて移動し、また軍用物資を運んだのであろう。
 このバソリン・カーの奥に永瀬隆氏の建立になるクワイ川平和学院がある。永瀬氏は、みずから泰緬鉄道建設のときカンチャナブリ憲兵隊に勤務していたが、終戦処理に際し、死亡した連合軍捕虜の墓地捜索隊の通訳として駆り出された経験をもつ。自己の戦争責任を痛感した永瀬氏は、その後生涯をかけて泰緬鉄道関係者への償いの活動を行った。そのひとつの到達点がこの寺院である。また、永瀬氏は1976年に旧泰緬鉄道関係者の日本側有志と旧連合軍側の有志70名によるクワイ川鉄橋上での再会を計画し、戦後31年ぶりに和解と平和への誓いを実行している。
 クワイ川鉄橋から歩いて10分のところに、戦前日本軍によって建てられた慰霊碑がある。碑文には次のように記されている。「泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各国労務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ 恭シク其ノ霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鉄道隊」
 文中の日本軍鉄道隊は、タイの鉄道九連隊、ビルマの鉄道五連隊から成り、泰緬鉄道に従事した。南方各国労務者は、クワイ川たもとの説明文によると、インド人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人、中国人、タイ人などである。

膨大な捕虜やアジア人労務者の犠牲のために、日本軍鉄道隊がしかも"戦前"にあってこの種の慰霊碑を立てた。50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 マレー半島南部編で紹介した元近衛歩兵第五連隊の連中よりはマシだと思う。日本軍鉄道隊も1万2000人ほど動員され、1000人近くがなくなったとされるが、捕虜や労務者の痛みが分かる人が鉄道隊の中にいたからかもしれない。

p52
 戦後のいわゆる東京裁判では、泰緬鉄道およびタイ俘虜収容所関係はシンガポール法廷だけで24件におよび、泰緬鉄道全体で有罪の先刻を受けた人111人、死刑は32人にのぼった。しかし、この事件の裁判は、俘虜の虐待、虐待致死についてのみであり、アジア人労務者の虐待に対する裁判は行われなかった。この裁判が欧米連合国のためのものであり、アジア人が軽視されていたことを示していた。
(略)

 日本軍の慰霊碑から歩いて5分ほどのところに連合軍共同墓地がある。墓地の正面に高さ5メートルほどの白い十字架の塔が建てられている。泰緬鉄道の犠牲になったイギリス人、インド人、オランダ人、オーストラリア人、アメリカ人など旧日本軍俘虜6982人がここに眠る。とくにイギリス連邦軍として参加したインド人が多いのに驚いた。植民地兵士が真っ先に犠牲になったということであろうか。
 ひとつひとつの墓に氏名、所属部隊、死亡年月日、年齢とともに、死者を悼む哀惜の碑文が添えられている。日本の墓碑との違いである。それをひとつひとつ読んでいると胸に込みあげてくるものがある。
 年齢を見ると、ほとんどが20代前半の青年である。青年の碑文からは、父や母の息子への愛情が切々と伝わってくる。また、私と同じ年代の死者の碑文からは、妻や子供たちの父親での哀惜の情が伝わってくる。死亡年月日は1943年6月から10月の雨季が多いようだ。タイ・ビルマ国境は世界最多雨地域で、一度豪雨があると川の水位が30メートル上がるという。日本軍侵略以前のイギリスもさすがに鉄道敷設をあきらめたという風土である。ところが、日本軍は突貫工事による鉄道敷設を強行した。膨大な犠牲者を生んだのも当然である。

日本軍の人命軽視ぶりには呆れてものがいえない。イギリスでさえ、鉄道の敷設を諦めたところを突貫工事によって強行した。もちろん、ろくな工作機械などなかっただろう。ほとんど人海戦術で行ったため膨大な死者がでた。戦犯裁判では捕虜の虐待、虐待致死に関してのみ裁かれた。しかし、著者が言うように、かならずしもアジア人の被害や犠牲を軽視していたわけではない。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper47.htmより
 これまでBC級戦犯裁判においては主に捕虜に対する犯罪が裁かれたと言われてきた。つまり裁いた国は帝国主義国であり、植民地民衆のことよりも自国の捕虜などへの犯罪を重視し、報復として裁判をおこなったという理解だった。しかしそうだろうか。イギリスの裁判で、誰に対する犯罪が裁かれたのかを裁判記録から作成したのが表3である。これを見るとはっきりすることは、起訴された被告の六〇%はアジア系民間人に対する犯罪で裁かれている。捕虜と民間人の両方が被害者のケース七一人のうち六五人はアジア系民間人である。これらをあわせると起訴された被告の約三分の二はアジア系民間人に対する犯罪が問われたことになる。一方、捕虜に対する犯罪で裁かれたのは二五%にすぎない。

 さらに死刑判決の六七%は民間人のケースであり、捕虜のケース二三%の三倍にのぼっている。死刑確認では民間人のケースが七二%とさらに高くなっている。

 裁判記録に基づいて言えることは、イギリス裁判においては裁かれた事件の多数が地元のアジア系住民に対する犯罪であったということである。

 なぜそうなったのかについては拙著『裁かれた戦争犯罪』で詳述したのでそちらを参照していただきたいが、かんたんに言えば、イギリスは大英帝国を再建するうえで現地住民の支持が必要だった。戦犯裁判は住民への加害者を裁き、イギリスが彼らの保護者であることを示す絶好の機会として考えられた。また加害者を処罰せよという住民の要求は強く、住民の協力によって戦犯裁判がおこなわれた。戦犯裁判の背景にあるのは、日本軍の占領と残虐行為のひどさであり、それへの民衆の怒りだった。だから住民の支持を得るためには加害者を裁くことが不可欠だった。そうした意味でイギリスの戦犯裁判は日本軍の被害をうけた民衆の力が重要な推進力であったといえる。したがって「勝者の裁き」という見方は―その側面があることは否定しないが―アジア民衆の被害と彼らの要求を見ない、一面的な議論であろう。

しかし連合軍、アジア人労務者ともに多地域・多国籍に渡っていたことが泰緬鉄道におけるアジア人労務者の虐待を裁けなかった原因となったではないだろうか。しかし、それならば日本人の手で裁かないといけないが、それも今になってはできないが、事実関係を余すことなく解明するとともに犠牲になったアジア人労務者1人1人に補償をして償わないといけないと思う。

p53〜54
 連合軍共同墓地からバスで5分ほどのところに、1977年に建てられた戦争記念博物館がある。博物館といっても、寺の境内に粗末な竹の小屋が建てられているだけだが、これは当時の収容所を模したもので、小屋そのものが歴史的展示となっている。この記念館の入り口に、日本でも紹介されて有名になった言葉、「FORGIVE BUT NOT FORGET」と掲げられている。物忘れのひどい日本人にとっては厳しい戒めと思わなければならない。
 博物館=小屋のなかには、泰緬鉄道を描いたイギリス兵レオ・ローリングスのイラストの模写が展示されていた。イラストの原作者ローリングスは23歳でシンガポール守備隊として派遣されたが、マラヤ北部から日本軍の戦線南下に対する絶望的戦いを経験して、ついにシンガポールで捕虜になる。しかし、戦争中、彼の絵画の能力を認めたヒース将軍は、将来日本軍の戦争犯罪が起きた場合、完全な証拠となるようにスケッチを命じたという。それ以来、彼は泰緬鉄道建設の現場を詳細に描いていった。絵の具がなくなると粘土や植物の汁をかわりに使用し、鉛筆は自分の髪の毛で作った。画用紙も最初はすこしあったが、その後は手に入るどんな紙にも描いたという。
 その絵は、ほとんどタイのジャングルのなかの捕虜収容所で、病身であったときに描かれ、完成した絵は、古いストーブのパイプで自作した容器に入れられ、彼の寝床の下の地下に埋められて隠された。日本軍に見つかれば即座にスパイとして処刑になったはずである。彼のこの行為は奇跡的に見つからず、日本軍の敗戦によって、その絵画はすべてイギリスに持ち帰ることができた。現在、その多くは英国戦争博物館に展示さえているという。ローリングスの絵は、痩せこけた捕虜、死の病に冒された兵士、過酷な建設現場、ガソリン・カーによる資材と労働力の輸送など、泰緬鉄道建設の生々しい情景を描いており、見る人を圧倒する。
 博物館にはその他、連合軍兵士の服装、キャンプの再現、記録写真などが展示されている。当時の泰緬鉄道を知るうえでは格好の場所であろう。

、「FORGIVE BUT NOT FORGET」という言葉はすばらしい言葉です。「許す、しかし忘れない」。韓国も中国も他のアジア諸国の人々も、「FORGIVE BUT NOT FORGET」の精神を日本人に対して皆もっているからこそ、今の日本が中国、韓国、他のアジア諸国とも交易も外交も交流も成り立っているのです。レオ・ローリングスさんは偉大な仕事をしたと思います。日本軍の戦慄すべき戦争犯罪を描こうと努力しました。実際に私自身その絵を見てみたいと思います。

●戦後の日本人・日本企業の問題と日本軍のタイ侵略事実
p55
 長い一日を終え、バンコックに戻る。夜の街に出かけてみた。シーロム通りを東に向かい、買い物客でにぎわうパッポン通りに行った。(略)このパッポン通りのすぐ近くに、タイニヤ通りがある。バンコックの歌舞伎町といわれるところである。この通りを歩くと、「クラブ愛」とか「琴」など、日本語がたくさん目に飛び込んでくる。日本人相手の歓楽街である。それらしい女たちがたむろしており、日本人観光客、ビジネスマンを誘っていた。ゴーゴー・バーをのぞくと半裸の女性が踊っていた。東南アジアは50年前は日本軍によって、現在は日本企業と売春日本人に席巻されているかのようである。


p58〜59
タイの最大の繁華街であるサイアム・スクエアへ向かった。インターコンチネンタル・ホテルの前にあるショッピングセンターである。サイアム・スクエアから500メートルほどのところに日系のタイ大丸とそごうタイがある。とくにタイ大丸は、1972年の「日本貨過剰」に反発したタイ反日デモの主目標となったところである。
 72年の反日デモで一時止まった日系企業の進出は、1973年の240社から急速に増加し、現在500社を超えるという。家電製品、電線、食品加工、おもちゃ、軽工業品の進出がめだつ。この原因が、月平均約4400パーツというタイの低賃金にあることはいうまでもない。日本の7分の1から8分の1である。現在バンコックの至る所に見られる建設ラッシュは、日本資本を中心とした外資の導入をテコとして、シンガポール、香港などアジアNIESに追いつこうとするタイ工業化の現実を感じさせる。タイは確実に日本を軸とする資本主義的経済圏に入り込んでいるようだ。しかし、これがさきのバンコックにおける売春や公害、交通渋滞、200万人におよぶ失業者など深刻な都市問題の激化を招いている。

現代にもタイにおける日本企業の経済侵略の問題がある。今から15年ほど前の話だろうが、今でも相当ひどいことをタイの日本人や日本企業は行っているはずである。経済的恩恵をもたらすならいいが、それ以外の負の要素が大きい。結局日本企業の利益のためにアジアの民衆のことを考えない傍若無人な日本資本の横暴がアジア地域の反発を招いている。過去の敗戦から何も学んでいないようだ。また、日本人男性によるタイ人女性の売春も過去のことにタイ人に彷彿とさせるだろう。

p59〜62
 8月11日。バンコックから夜行寝台急行に乗り、タイ湾沿いにマレー半島を南下した。・・・・・・・・・・朝9時にバンコックから830キロ南のナコン・シ・タマラートに到着した。ここは日本軍の上陸地点である。
 日本軍は、アジア・太平洋戦争開戦の1941年12月8日、徳島歩兵第143連隊、宇野支隊、総勢6895人がナコン・シ・タマラートのほか、プラチャップキリカン、チュンポン、スラタニに上陸し、タイ領土通過後ビルマに向かった。また、山下奉文大将指揮下の第五師団は、さらに南のタイ領内のソンクラ、パタニに上陸し、マレー半島を横断し西岸を南下して英領マラヤへ進撃し、シンガポールを攻略するに至った。タイ領土への日本軍上陸はマレー半島を最短距離で横断するためのやむをえない軍事上の必要からであった。このときも、真珠湾攻撃と同じで、タイ政府には事前に知らされていなかった。この原因には、前日の12月17日に、駐タイ日本大使が日本軍のタイ領内通過を認めるように首相官邸を訪れたとき、ピブン首相が姿をくらましたということがあった。結局、日本軍はタイ政府の了承なく、強引にタイ領内に侵入したのである。このため、当時のタイ軍は、日本軍を不当な侵略者として勇敢に交戦した。わかっているだけで、290人、推計では約400人が戦死したという。ピブン首相が姿を現したのは、戦闘が起きてから数時間後の12月8日の午前6時であり、その後ようやく停戦協定が成立した。
 日本軍はタイ湾からバクパーン川を上陸用舟艇でさかのぼって、ナコン・シ・タマラート空港近くを進攻した。タイ軍はここで日本軍を迎え撃って、戦死者72人を出した。その記念碑が現在のタイ陸軍第四管区司令部の前に建てられた。完全武装のタイ兵士が銃剣を構えて、突撃姿勢をとっている姿である。いまでも毎年12月8日には、ここで遺族、関係者約600人が集まって盛大な供養をするという。
 タイという国は、東南アジアにおいて唯一植民地化を免れただけであって、したたかである。さきに述べたように、一時日本軍から姿をくらましたピブン首相だが、開戦になるとすぐに日本軍とタイ・日本攻守同盟を結び、42年1月に英米に宣戦布告した。日本はタイを同盟国として引きつけるために、英領マラヤのケランタン、ケダ、プリスト、トレンガヌの4州を与えた。43年の12月に、タイは東条内閣が主催した大東亜会議にも招かれている。
 しかし、43年暮れからタイは連合国軍の空襲にさらされ、44年7月に日本がサイパンで玉砕すると、タイはすかさず武断派のピブン内閣にかわって、文治派のアパイウォン内閣を成立させる。45年8月16日、日本軍敗戦の翌日であるが、同内閣は42年1月の英米への宣戦布告は国民の総意を代表していなかったとして世界外交史上前例のない無効宣言を行った。同時に、日本から割譲された英領の返還を決議した。大戦後はひたすら連合国軍への恭順を誓ったのである。この結果、46年1月にタイ憲政史上初の自由な選挙が行われて、戦後もタイの独立は保障された。

2003年証言集会 日本軍はタイとの中立条約を破って侵攻した。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/setomasao2003.htmlより
高島先生の講演 瀬戸正夫さんの証言
 高嶋伸欣琉球大学教授は、日本が日タイ不可侵条約を破ったことは、日本の外交史上の大問題であること、(従って)外務省ではそのことはアンタッチャブルになっていること、日本は、いつも日ソ不可侵条約を取りざたするが、日本がタイに対して行ったこの条約違反には全く触れてこなかった、何の軍事行動もなかったかのように外務省の記録などにも記載している、この問題は、天皇の責任問題でもあることを指摘されました。
 さらに、日本では全く知られていない日本のタイ侵攻について、タイでは瀬戸さんの父親をモデルにしたと思われる映画がありすでに公開されていること、日本でも公開さたこと(題名は「少年義勇兵」で、集会当日は、予告編版を上映しました)、タイ側から、もしこの問題を指摘された場合、日本人だけが知らないということになりかねないことなどなどが指摘されました。

アジア・ウェーブ 瀬戸正夫さんへのインタビュー
http://www.asiawave.co.jp/seto/seto1.htmより
 バンコクの場合はそんなに問題はありませんでしたけど、南タイの方は日本軍が上陸してきて、タイ軍との間に戦闘があってたいへんなことになったわけです。上陸と同時に日本軍が家の大事なものはみんなかっさらっていっちゃうし、きれいな女の人は強姦されるし、反対すれば殺されちゃうし……。そういう被害にあった人や、それを見てきた人たちはいまはみんな七十代、八十代になっています。その人たちはいまだに毎年十二月八日の午前中、上陸した地点で、慰霊祭をやってるわけですよ。両親がもう亡くなっているところもあるでしょうけど、それがいまだに忘れられない。毎年やってるんです。そういうものは、民族の痛みとして忘れられないわけですよ。日本の人に、他人の痛みを自分の痛みとして感じることをしてほしいわけですよ。

日本は中立条約を破って、不法にタイ領内に進駐したわけです。許せないですし、タイ政府も日本政府の戦争責任問題として訴えるべきです。タイ南部では戦闘のほか、日本兵による非行も行われたのですね。大日本帝国って本当に最低ですね。それにしてもタイという国はしたたかでした。下手したら、日本軍に占領されて傀儡政府になるか、軍政・併合という形で独立が失われる可能性もあったのですが、見事な政略・策略で乗り切りました。おそらく他のアジア諸国よりも侵略・加害問題は小さいかもしれませんが、中立条約違反、タイ南部における進駐時の日本兵による非行、泰緬鉄道のタイ人労務者犠牲者・被害者の問題について、きちんと問題視して、日本政府を責めて謝罪と補償を勝ち取ってほしいです。

p63〜65
 8月12日。ハジャイ駅に向かった。7時19分初のマレーシアのパターワース行きの国際列車に乗るためである。ハジャイから1時間ほどして国境の町、パダンベサールに着いた。ここで、タイからマレーシアへの出入国検査が行われる。列車内で税関の検査が行われ、駅で出入国の手続きが行われた。子の間、約1時間半列車は停車した。
(略)

 バターワースから長大な橋を渡って対岸のペナン島に渡った。(略)
 8月13日、ペナン・ヒルの麓にある「ペナン島華僑交戦殉難機工羅難同胞記念碑」を見に行った。1946年7月7日に華僑籌販会によって建立されたものである。
「天にはびこるほどの大悪行が盧溝橋で起こってから、侵略の殺伐な風が、ペナンにも迫ってきた。日本軍が海を渡って、まずペナンをおとしいれるや、ただちに粛清命令を出し、厳しい弾圧を加えた。多くの人が誣いられて、あいともに獄に捕らわれた。焚書坑儒の惨劇がこの地に再現され、骨や屍が野ざらしにされた。神も叫び、鬼も哭かんばかりであった」と刻まれていた。
 ペナン島は41年12月19日にイギリス軍から日本軍の手に陥ちた。イギリス軍は日本軍の3回の爆撃後、戦わずしてすでに退却していた。このあと、日本軍の占領下で中国軍に協力したということで、華人の粛清が行われたわけである。このペナン島の記念碑の前で、毎年1月11日に約300人が集まって追悼会を行っているという。

ペナンの華人にとっては、「ペナン島華僑交戦殉難機工羅難同胞記念碑」に「神も叫び、鬼も哭かんばかりであった」と刻まれているように、鬼さえも驚愕するくらいに日本軍は残虐非道だったということ。生存者の話を聞きたいがこの著書には残念ながら載っていない。
ちなみにペナンには洗脳親日派のマレー系マレーシア人がいるらしい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page046.html
イスマイル・ビン・ラザク氏 1927年マレーシア ペナン生まれ 78歳荷役会社を元経営 現在もペナン在中 一女の父
日本語タイ語を理解する イスラム教徒マレー人である。


イスマイル
 ― 当時私は15歳でした。ペナンにはイギリス軍がいましたがある日、日本軍の飛行機が偵察に来て、その後20機が爆弾を落としていった。これはイギリス軍の基地だけ攻撃した。その様子を目の前にして、見て私たちマレー人は感動しました。私たちはイギリス人に蔑まれ虐められていたのですから。お前らはバカだ、人間じゃあないと。ほんとうに日本軍に感謝しました。

イスマイル
 ― まったくありません。日本軍は私たちに学校教育をうけさせてくれた。日本軍の先生がマレー語で教えてくれました。仕事もできるようになり、給料もちゃんと払ってくれた。イギリスがいたときとは全然違います。イギリスは私たちに教育や仕事をやらせなかった。日本人はマレーをマレー人に任せるようにしたのです。その時のマレーと日本の約束は「お互いに協力していこう」ということでした。マレーは良くなったのです。中国人はジャングルに逃げたままでした。

イスマイル
 ― DAITOUASENSOUは感謝しています。DAINIPPONが来なければ今のマレーシアはなかったでしょう。最大の感謝の気持ちは変わりません。

右翼サイトに乗っていた洗脳親日派マレー人の妄言録。しかもペナン在住。酷いものだ。ちなみに懐柔されたマレー人とは言え、大部分は日本軍占領時代に対して反発している。しかし、韓国のキムワンスプのようなとんでもない親日派は生まれてもおかしくはない。しかし、大日本帝国の行った戦争を美化する日本の右派はとんでもない、大日本帝国・日本軍のやった戦争を美化する現地の反動アジア人はさらに質が悪いと思う。この辺の問題も真剣に考えないといけない。また、マレーシア人自身で、マレー系イスマイルなり、
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.htmlで触れたp19〜20
にでてくる親日派華人系マレーシア人張日昇とともに、マレーシアの良識派自身の手で始末されることを私は望んでいる。マレーシア人自身の問題だが、日本の右翼勢力と同じスタンスをもつ親日派(というか親日帝・大東亜プロパガンダ狂信者)なるものをそのままにしておくのはマレーシアの国益のためにもならないであろう。

p69〜71
 8月15日。アジア・太平洋戦争の敗戦記念日である。この日を期して、日本軍が開戦と同時に上陸したコタバルで、マレーシアの人々が日本軍の犠牲になった人々を追悼し平和を祈念するための集会が開かれた。朝10時に集会が行われるコタバル郊外の抗戦烈士記念碑の前に人々が集まった。この碑のすぐ近くに10人の烈士の墓があった。墓碑には「ケランタン華僑籌販祖国難民委員会職員殉難烈士史略」が記されていた。
 1937年の日中全面戦争の勃発は、マラヤ在住の華人に強い衝撃を与えた。抗日救国の気運が盛り上がり、マラヤ全土にある中華総商会を中心に国民党への献金運動が行われた。その後1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の1時間前にコタバルに上陸した。このとき、コタバルの献金運動を行った華人の中心的な人物、おもにコタバル町の籌販会の人々が日本軍に捕らえられ虐殺されたのである。記念碑はその慰霊のためのものである。
 墓碑の前に集まっていると、50歳ぐらいのひとりの華人が私たちに向かって話しはじめた。林武輝さんである。ここで眠る「烈士」林槐郷の息子であるという。「私の父と母は日本軍に殺された。父はそのとき32歳、私はまだ3歳であった。きみたちが来るのが遅かった。日本政府はわれわれの犠牲に対し補償してほしい」と涙ながら語り、神に山下奉文と書いた。コタバルに上陸した第五師団の司令官名である。いまだに日本軍人への怒りの記憶は薄れていない。東南アジア全域における華人の受難は、知れば知るほどすさまじいものがある。しかし、その事実について、日本政府の認識は薄く、日本人のなかで知っている人もまだ少ない。
 集会は11時から始まった。(略)参加者はコタバル華人48人と高嶋伸欣氏を代表とする日本側17人である。
 記念碑は八段の石畳の上に、九段の白い石造りの塔が建ち、その上に三段の石が重ねられている。これには理由があるという。最初の八段は1937年の盧溝橋事件から45年の日本の敗北までの8年、つぎの九段と三段は日本軍が41年12月にマレー半島に侵略してから日本の敗北までの9ヶ月と3年を表しているという。日本の中国侵略とマレー半島侵略の月日の重さを語っているのだ。
 集会を終えて、私たちはコタバル市内に戻った。昼食を集会に参加した中華総商会の華人の人々と一緒にとった。私の隣は黄崇鋭さん、小学校の先生で現在は退職している。日本軍が侵略してきたときは10歳の小学生であった。
 黄さんの話では、42年の占領から小学校では日本語とマレー語が教えられた。その後はタイ語に変ったという。さきに述べたように、日本軍は43年8月にタイ国にケランタン、トレガヌ、ケダ、プリルスの4州を割譲している。このため、ここテランタン州コタバルでは、マレー語教育からタイ語教育に変ったのであろう。もちろん、それまでの公用語であった英吾は適性語として禁止となった。日本語の教育も徹底しており、いまでも黄さんは「君が代」を歌える。小学校では、毎日のように、日本兵からビンタをもらったという。

マレーの華人は日中戦争とコタバル上陸をはじめとするマレー半島侵略を同等の重みを置いて位置づけているということが分かった。すでに1937年に盧溝橋事件が起こり、日中全面戦争が起きた際、マレー半島の華人たちは祖国を助けるために献金活動を行い、戦争に参加したという。ところが、マレー半島にも日本軍は侵略してきた。日本軍は鬼よりも残虐で、華人たちを容赦なく粛清・虐殺した。歴史の重みというのが分かる気がする。日本政府はまだ補償も誠意のある謝罪も行っていない。本当に恥だな。わが国の政府は。

p71〜72
 昼食後に日本軍が上陸したコタバルの海岸に行った。上陸地点は、コタバルから10キロ北にあるチンタ・ベラヒ海岸である。(略)
 日本軍(第18師団=牟田口廉也師団長の一部、佗美支隊)は、海岸一帯とここに河口をもつパーマト川やケランタン川などのクリークに、上陸用舟艇を乗り入れた。海岸の近くには、当時のイギリスの空軍があり、日本軍は開戦と同時にマレーの制空権を奪おうとした。
(略)
上陸日時は、日本時間で1941年12月8日の午前2時15分。真珠湾攻撃で「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)と打電したのが同午前3時23分であるから、コタバル上陸のほうが一時間ほど早い。アジア・太平洋戦争は真珠湾で始まったのではなく、マレー半島で始まった。この事実は象徴的である。太平洋戦争を、真珠湾攻撃に始まり原爆で終わる日米決戦として理解する常識に対し、アジア・太平洋戦争はマレー半島上陸に始める東南アジアの領土と資源を略奪するためのアジア侵略が本質であることを教えているからである。最近の歴史学会で従来の「太平洋戦争」という呼び方を改めて、「アジア・太平洋戦争」と呼ぼうとする提唱は理にかなっているのである。

なるほど、これからは私はアジア・太平洋戦争と呼ばせてもらいます。

p73〜75
8月16日。今日はコタバルからふたたびマレーシア中央山地を縦断して、東海岸から西海岸へ抜ける。行き先はイポーである。
(略)

 8月17日。イポーの北西84キロのタイピンへ向かう。かつてのペラク州の州都して栄えた街で、マレーシア最古の錫鉱山がある。ここにあるレーク・ガーデンはマレーシア有数の美しい公園として知られる。
(略)

 タイピンの町では、陸国祥氏が待ってくれた。この町は錫鉱山の町だけに、植民地時代に中国から大量の労働者が導入された。その後、華人は錫鉱山の経営にものりだし、この町にも巨万の富を築いた人が多い。陸氏は現在、ゴム園と油ヤシの農園を経営している。
 陸氏は最初に、タイピンにある連合軍墓地を案内してくれた。
(略)

 陸氏はつぎに、華僑同胞の殉難碑に案内してくれた。レーク・ガーデンからすこし入ったところである。草木の生い茂るなかに隠れるように、ひっそりと碑が建っていた。幅10メートル、高さ5メートルのりっぱな碑である。中央の墓碑名の両側に、「精神不死」と「活気長存」の文字が刻まれていた。
 このタンピンを中心とするペラク州は、錫鉱山の関係で華人が多く、日中全面戦争以来抗日意識が強い地域であった。日本の憲兵は、不審な華人を見つけると、ろくな取り調べもせずに抗日分子として拷問、虐殺したという。
「土饅頭息づき蛍群れ飛ぶそこだけの闇」
 これは当時の日本兵が詠んだ歌である。土饅頭とは、日本軍によって虐殺された華人の死体を埋めた跡である。銃剣で胸を突き刺して殺し、そのまま土をかぶせて埋めたため、土饅頭がグワオーグワオーと呻き声を立てながら息づいている様子を表しているという。

おぞましい光景です。銃弾を節約するために、銃剣で突き刺して虐殺していったわけですが、鬼も真っ青な日本兵の所業。私の先祖の姿だと思うと恐ろしいです。

p76
 私たちは、陸氏と昼食をタイピンの町でとってから、ふたたび高速道路でイポーの町に戻った。イポーは、クアラルプール、ペナンに次ぐ、マレーシア第三の都市である。人口30万で、世界最大の鉱脈といわれるキンタ渓谷の錫鉱山がある。マレーシアは現在でも世界の錫の4分の1を産出している世界最大の錫生産国である。イポー周辺には、さまざまな錫の露天掘りが見られる。このため、植民地支配からここはイギリスのマラヤ支配の拠点であった。マレー半島の鉄道や道路は錫産地と海港とを結んで敷設されている。錫は溶接の材料として使われ、工業生産には不可欠である。さまざまなメッキの材料として、また缶詰からトタン屋根の材料、食器など錫の用途は広い。
 イギリスは植民地支配の重要物資として錫生産の拠点をペラク州から隣のセランゴール州においた。中国から労働者をここに送り込んで採掘に当たらせ、同時にインドで栽培したアヘンを中国人労働者に売った。19世紀末のイギリス海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)の国庫収入の半分がアヘン収入であったという。アヘンの犠牲はアヘン戦争で有名な中国本土だけではない。マラヤの華人はイギリスから錫鉱山の労働力と同時に、アヘンの吸引者として二重に搾取されていたわけである。
 また、先進国の軍需物資として注目され、日本軍が南方進出の理由としたのがマレーシアの錫とゴム、インドネシアの石油などの資源獲得であった。イギリス植民地時代から日本軍の東南アジア侵略まで、マレーの錫は世界史を動かした。

華人たちはイギリス植民地時代、日本軍占領時代を通して搾取され苦しめられ続けたのですね。錫やゴムなどの資源に目をつけられ、大日本帝国に侵略されたのです。帝国主義勢力のエゴですよね。ただそのエゴに巻き込まれて、一番の被害者になるのは結局は被支配者のアジア民衆です。

●マレーシアにおける日本の公害輸出
p68〜69
 マレーシア中央山地は熱帯雨林で、バスからも原生林のなかでまっすぐ伸びるラワンの木が見えかくれする。ラワン材を積んだトラックが軍用道路の最大の利用者になっている。マレーシアからインドネシアにかけての東南アジア一帯には、アマゾンと並ぶ世界有数の熱帯雨林が広がっている。熱帯雨林は世界の気候の調節弁であり、地球規模での生態系にとって重要であることが指摘されるようにつれ、伐採による減少が問題化されてきた。
 日本は東南アジアにおける木材の最大輸入国である。現在、マレー半島はほぼ伐採しつくして木材伐採の中心は、東マレーシアのサバ、サクワラ州に移っている。88年現在、サバ州の原木輸出は約800億円で、外貨収入の70パーセントは日本向けである。しかも、サバ州の税収入の70%が、木材関連産業からであるという。現在、マレーシアは開発と環境保護の矛盾のなかにあるわけだが、その大きな責任の一端を日本が負っているわけである。

東南アジアの熱帯雨林の減少に日本には大きな責任がある。17〜18年ほど前の事実である。バブルも終焉に迎えているころだが、発展途上国の環境などなりふり構わぬ建造物や住宅の乱立が続いていたのである。

p77〜80
 つぎに、イボー市の南9キロにあるプキメラ村に向かった。いまこの村では、日本の企業進出の一側面として、公害輸出の問題が深刻化していた。すなわち、日本企業のアジア・レアアース社(ARF)の放射性廃棄物をめぐって住民運動が起きていた。
 ARE社は、1982年にマレーシアで設立され、35パーセントを出資している日系企業である。この企業が、モザナイト鉱石から希土(レアアース)を精製し、日本側がテレビの赤色発光体の材料やカメラ、コンピューターなどの部品、触媒として、エレクトロニクス産業に供給する。モアナイトの9割はマレーシア産であり、レアアースの10割が日本に輸出される。
 この精製過程で、放射能を含んだ廃棄物が生まれるのである。廃棄物は放射性物質トリウムを14パーセント含んでいる。マレーシア政府は、トリウムを将来の原子力発電所燃料に使うことを考えて、その貯蔵を同社に命じていた。(略)
 最初住民はそのことを知らず、工場の放射性廃棄物の近くで子供たちは遊び、廃棄物を肥料として畑にまいたという。1983年にAREは放射性廃棄物の専用投機場をイポーの南131キロのパパンに建設しはじめた。しかし、コンクリートにひびが入り侵食が始まったため、住民は反放射性廃棄物委員会を組織した。結局、国際原子力機関の勧告もあって、パパンでの建設は中止された。その後AREは、放射性廃棄物をドラム缶に詰めて工場内に野積みにした。84年12月23日に300人の住民が生産中止、工場移転を求めてデモを行った。「三菱製品ボイコット」の動きも出てきた。日本にこのデモを最初に報じたのは、85年1月15日の「朝日新聞」である。
 この反対運動の高まりのなかで、地元の環境保護団体「地球の友」は、埼玉大学の市川定夫教授を招いて放射線レベルを測定した。結果は投棄地は9000ミリレムと基準(自然放射線量11)を大幅に上回った。市川教授は、「投棄場内は驚くべき高濃度だ。住宅地もいますぐ危険とはいえないが、長期的にこの状態が続くと、ガンのおそれがある」と述べている。
 85年2月の住民側の訴えで、10月に裁判所が工場の操業停止の仮処分を出した。しかし、87年2月にはマレーシア原子力委員会が暫定操業の許可を出している。そこで、住民側は同年5月に1万2000人のデモを敢行した。マレーシア史上はじめて、多国籍企業に対する反対運動を展開したのである。これに驚いた政府は、国内治安法(ISA)で反対運動の中心人物であった反放射能委員会のヒュー・ユン・タ委員長を逮捕した。
 私たちが訪れたときも、工場の外にドラム缶やプラスチックバッグに入れられていた廃棄物が野積みされていた。雨が降れば、工場の横を流れる小川に垂れ流しになる危険がある。工場の廃棄物貯蔵所の前には「放射能あり」と札が掛けられ、「安全はわれわれの関心」という標語には、なにかブラックユーモアさえ感じた。
 反放射能委員会のヒュー委員長に会った。彼はこれまでの経過を簡単に述べて最後に一言だけ、「我々の唯一の要求は工場を閉鎖することです」と断言した。
 彼は小柄で40歳ぐらい、つねに住民運動の先頭に立った闘士である。みずから警官隊の催涙ガスと闘い、2年前に国内治安法によって逮捕投獄2ヶ月を経験し、現在も外国人と接触を制限するために、英吾の使用を禁じられているという。ブキメラ村では、一部の報道で日系企業による「公害輸出」といわれたように、放射能汚染での健康被害もささやかれている。
 マレーシアと日系企業の関係は、ちょうど1960年代の水俣病を思い起こさせる。日本の大企業は1970年代前半の国内の反公害闘争、四大公害裁判のなかで厳しい公害規制に直面することによって、問題のある生産部門は海外に移すようになった。しかも、このレアアースを供給するエレクトロニクス産業は、1980年代の日本企業を支える主力産業である。80年代の日本の経済大国化が、このようなアジアの犠牲によって成し遂げられているとしたら、私たちの生活の「豊かさ」とはいったい何であるのだろう。
 マレーシア政府にも問題がある。マハティール首脳は「東方政策」として、日本に学べと、日本資本の導入による急速な工業化政策をとっている。このため、日本資本の公害問題にきわめて甘い。しかも、国内治安法によって労働運動、住民運動を封じ込め、経済成長政策を実現しようとしている。アジアにおける「開発独裁」路線である。アジア民衆の犠牲で、ふたたび日本企業がアジアに進出するとしたら残念なことである。しかも、マレーシアの場合、プミプトラ政策による、多くの犠牲者は非マレー人である。実際に、ブキメラ村の住民はほとんどが中国系住民=華人である。資本進出と公害問題にも、この国の複雑な民族対立が絡んでいるようである。
 現在の日本は、アジアに対する戦争責任を曖昧にしたうえ、現在の責任も問われなければならない事態にいたっている。すなわち、過去と現在の二重の責任に直面している。過去の戦争の認識と補償問題、そして現在のブキメラ村の日本企業のアジア進出やバンコックの日本人の売春観光、アジアの人々と日本の人々の相互理解にはまだまだ深い断層があるように思われた。


ブキメラ問題のリンクを2つほど
http://homepage1.nifty.com/nbach/are_houmon.htm
http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/slide/dat08.htm

現在も問題が続いているようです。アジア・太平洋戦争において、日本は償いきれないほどの罪悪を重ねました。しかし、現在においても日本は自国の「豊かさ」のために、アジア民衆を犠牲にしているのである。戦後も日本企業や一部の日本人はアジアの大地に対して暴力的な行いを続けているのである。アジア・太平洋戦争の一連の侵略・戦争責任を曖昧にして終わらしてしまった事が大きい。ドイツでナチス・ドイツがユダヤ人や近隣諸国に被害と苦痛を与えたことを徹底的に教わっているが、日本人で知るものは少ない。アジア地域を侵略したことを教わらずに、"名誉白人"思想というほかの有色人種を蔑視し、アジアやアフリカといった地域を後進・未開だと決め付けて見下す思想が戦前以来戦後にも引き継がれていることが大きいということ。過去の侵略・戦争加害問題と現在の公害輸出や日本人の売春問題などはその点繋がっている。日本人一人ひとりがたとえばマレーシアで行った日本軍の悲惨な虐殺の事実を余すところなく知り、逆の立場で感じる歴史教育を行うことで、過去の戦争犯罪に対する償いの心をもたせることで、過去及び現在にいたる日本の問題を解決することができると思う。

p81
 泰緬鉄道の工事にマレー半島、インドネシアから動員された25万人から30万人におよぶというアジア人労務補償請求は、1986年マレーシアの生還者、遺族など288人から日本大使館に出された。しかし、日本政府はいまだにマレーシア政府との賠償協定ですべて解決済みだと言っていっさい応じていない。また、1995年1月にイギリス、オーストラリアなどの連合国の元兵士2万人は、日本政府に対し泰緬鉄道などの強制労働の賠償請求総額480億円を要求する訴訟を起こした。
 

泰緬鉄道の強制労働問題も日本政府は一向に応じていません。条約で解決されたといいますが、冷戦の問題もあり、過酷な賠償の要求に日本全体が耐えられないとの判断から賠償の請求は見送られました。マレーシア政府についてはルック・イースト政策を取っており、日本の協力を得るために賠償協定を虐殺されたりした華人たちの同意を得ることなしに勝手に決めて結んでしまった。日韓基本条約の締結と同じ問題を抱えています。十分な先進国となったのですから、日本政府は過去の自国の行った罪行の後始末を道義的にきちんと納得の得られるようにするべきです。つまり補償をして、事実を余さず国民に教育して、日本人が未来に向かって真の国際人として歩めるようにすべきです。それが日本政府のこれからの責務です。

p82
 1989年の11月に40年間、マレーシアとタイ国境地帯でゲリラ活動を続けていたマラヤ共産党はタイ軍とのあいだで投降の交渉が終わった。同年10月のベルリンの壁崩壊に始まり、1991年ソ連の解体に終わる社会主義体制の世界史的崩壊のひとつとしてマラヤ共産党の終焉があった。そのなかで戦時下、マレーで日系企業、日南製鉄に勤務していたが、終戦以来マラヤ独立のためにマラヤ共産党に加わりゲリラ活動を続けていた2人のン本陣、田中清明氏と橋本恵之氏が46年ぶりの1990年1月に日本に帰国した。「日本兵はマラヤの独立のために何もしなかった。日本の軍にできなかったことをしようと思った」と話す。終戦時はこのようにしてマラヤ共産党に加わった日本人は約100人いたという。

最後にほっとした話題を。インドネシア独立のために戦った日本兵がいました。マラヤでも同様です。戦時下にあっても良識的な方がいると思うとほっとします。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:36 | Comment(12) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あなたは本気で右翼を討伐したいと考えているのですか?

>また、マレーシア人自身で、マレー系イスマイルなり、
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.htmlで触れたp19〜20
にでてくる親日派華人系マレーシア人張日昇とともに、マレーシアの良識派自身の手で始末されることを私は望んでいる。

『始末されることを望んでいる』ですか?www。本気でそんなことを書くこと自体恐ろしいですね。右翼だって、『日本人(右翼)の手で日本のサヨクを始末しなければならない』などとブログなり掲示板なりで書くことは普通はないでしょう。それに『洗脳親日派』というのは何ですか。あなたがあげたイスマイル氏なり、張日昇氏に対する侮辱でしょう。それに両方も呼び捨てだし。日本の右翼だけではなく、そのような親日的な考えをもつアジアの人も憎いということですか?なぜ、彼らが親日であり、日本軍に信奉を抱く背景を考えたことがありますか。日本軍が来る前はイギリスが支配していました。イギリスの支配うんうんとか頭にないんでしょう。ただ単に日本が憎いだけでしょう。そんなのが良識派を名乗ること自体私にとっては侵害ですね。
Posted by A at 2006年03月22日 12:35
自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

Posted by at 2006年03月22日 22:43
Aさまへコメントありがとうございます。『始末されることを望んでいる』と書いたのは別に、本当に始末(殺される)されることを望んでいるという意味で書いたわけではありません。ただ、一応このページでは張日昇とイスマイルという反動親日派マレーシア人を乗せています。マレー半島では日本軍によって多数の華人・華僑が虐殺されました。張日昇というのは義勇軍の一員で対日協力者でした、当時懐柔されていたマレー系のイスマイルにしろ、大日本帝国・日本軍に信奉あるいは日本軍がマレーシアで行った罪行を認識せずに日本軍政を賛美するということは右翼であっても、あるいは反動親日派マレーシア人であっても許せない、憎いという気持ちをもつことは当然です。そのような気持ちを表す表現です。もちろん、イギリスの支配をほめられたものではないかもしれませんが、日本軍のやったことを比べるのは間違いです。大日本帝国は後発の帝国主義国家ですが、とりわけアジア・太平洋戦争期に各地域・諸国に与えた犠牲および加害の規模・残虐さにおいては、古代史から平成の現在に至るまでおこなわれたいかなる戦争・内戦・侵略も敵いませんでした。イギリスの植民地と比較するのが間違いなほど、日本軍がマレーシアの民衆に与えた戦争加害というのが甚大であったかというのが理解できると思います。
Posted by 右翼討伐人 at 2006年03月23日 00:32
しかたない。ここではマルチコピペにも反論してやる。

>自分と意見の違う人の人格批判をするような人が良識派を名乗れるような世の中はおかしい

私は人格批判はしていませんが。もちろん、右翼勢力に対しては徹底的に批判します。私は意見の違いには寛容です。ただし、右翼の大日本帝国の加害歴史における意見については到底賛同できません。なぜならば、大日本帝国の植民地における熾烈な抵抗で死んだ人々や一連の侵略・戦争加害における犠牲者・被害者の尊厳を傷つけ、過ちの歴史を美化する世界の良識・道徳・人道的な論理・倫理に反するからです。たとえば、「小学校に入って、女子児童を暴行します」「米国大使館あるいは中国大使館を爆破します」というような犯罪予告をした人や犯罪願望をもつ人がいたとして、意見が違うからといって擁護できますか?誰も擁護はできないでしょう。もしこれらのことを行った人がいれば、誰も彼の人格をかばうことはありませんし、彼のすべてを非難するでしょう。それと右翼に対することは同じことなのです。
Posted by 右翼討伐人 at 2006年03月23日 00:40
あなたの意見に賛同します。
少し古い資料ですが、泰面鉄道でのアジア人労働者の犠牲者についてはほとんど報道されておらず、ここに示されたのはすばらしいことです。
西洋人に対しては、私自身の考えでは第二次世界大戦は、日帝と欧米列強の戦いということに対しておいては悪党対悪党の戦いという認識ですので、余り同情はしません。
どっちもどっちというところでしょう。
ただ、それで犠牲になったアジア人民に対しては償いようのない事をしてしまったという認識です。
これからもこのブログ続けて下さい。
ご健闘をお祈りします。
Posted by T at 2006年03月23日 01:20
↑自作自演バレバレ

>たとえば、「小学校に入って、女子児童を暴行します」「米国大使館あるいは中国大使館を爆破します」というような犯罪予告をした人や犯罪願望をもつ人がいたとして、意見が違うからといって擁護できますか?

何を言っているのだ? このズレまくりは何だ?
右翼が実際に犯罪予告をした人ではない。
たとえにもならない詭弁だ。

歴史を一方的な固定概念で見ることの危険性は、
右翼に対するお前の懸念と同じように、多くの人がお前に対しても持っているのだ。
よく考えたほうがいい。
Posted by at 2006年03月23日 08:31
不思議なのは日本だけを批難してイギリスを批難していないところ。
Posted by ゆー at 2006年03月23日 12:58
 こんにちは。ゆーさん。懐疑主義者と言います。
確かにそうですね。日本統治期と英国統治期を比較するのは当然だ。アジア民衆の立場に立つと言うなら、「支配された側からの視点」で見る事になり、それは日英両支配の相対的な比較に他ならない。
 森氏の言い分は偏向していると言える。
植民地化された地域の人々の立場を言うなら、日本軍を通じて間接的にイギリス等の国に仕返しをした。とも言えてしまうのだ。そう考えると親日派のマレー人が出てきてもおかしくは無い。
 途上国の人々はしたたかだ。長い植民地時代を生き抜いて、曲がりなりにも民族伝統文化を残して来れたのは、そうした能力を密かに、だが着実に育てて来たからだ。いわば民族としてのサバイヴ能力を高める必死の猛訓練期間だった訳。ここいら辺りは日本戦後民主主義の温室中でしか生きられない"自称・市民派"には解らない。反米を言えば何をやっても許される。と思いこんでる連中もそうだ。親米派の言論を事実上圧殺している形になっているのに気ずかないのを見ても、それは分かるってもんだ。
 "市民"・"良識派"等と言う人々は情緒/感情フィルターを通してしか歴史を見られない。
 続きは次コメントへ。
Posted by 懐疑主義者 at 2007年07月22日 15:02
 さて、続きです。
彼/彼女達がそのフィルターを外す事は多分、無いだろうし、すでに顔面と一体化していて外せまい。
 従って、これらの人々が発信する情報等は可能な限り「都市伝説」ー事実に限り無く近い怪しい話ーとして解釈すべきだ。
 "偏向言いっぱなしボム"をまともに受けると、こっちの身が持たないからな。
  では、これにて。
Posted by 懐疑主義者 at 2007年07月22日 15:17
わたしの知り合いの韓国人が、「いまオリンピックで使われている五輪旗はもともと韓国で
使われていたもので、あの五輪の意味するところがとても素晴らしいので、公式に使われる
ところとなったんだ。」とのたまうのです。
で、この話を知っている韓国人はたくさんいるというので私は素直に信じ、「へぇ〜」と返事を
しておいたのですが、帰って検索してみたら・・・。

>近代オリンピックの象徴でもある五輪のマーク(オリンピック・シンボル)は、クーベルタン男爵
>が考案し、世界5大陸(ヨーロッパ・アジア・アフリカ・オセアニア・アメリカ)と五つの自然現象
>(火・水・木の緑・土の黒・砂の黄色)とスポーツの5大鉄則(情熱・水分・体力・技術・栄養)を、
>原色5色(および単色でも可)と5つの重なり合う輪で表現したものである。5つの重なり合う輪は
>また、平和への発展を願ったものである。なおこの五輪マークは、1914年にIOCの創設20周年
>記念式典で披露され、1920年のアントワープ大会から使用されているが、木綿で作られた
>五輪旗は一度盗まれ、1992年のバルセロナ夏季大会から合成樹脂の五輪旗が使われている。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

しかも、1914年に記念式典で披露されてるのに・・・。韓国って日帝時代・・・。
こんなことを信じている韓国人が、多数いると思うと・・・

毎日楽しくてしかたがありません(w
いやー、チyosoて本当に救いようの無い池沼生物なんですね(w

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ /  \
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ /  \
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ /  \
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \ /  \
Posted by いやー、チyosoて本当に救いようの無い池沼生物なんですね(w at 2008年08月13日 23:14
なんと無益な駄文笑
Posted by あおい at 2013年10月27日 17:15
「マラヤ共産党に加わりゲリラ活動を続けていた2人の日本人、田中清明氏と橋本恵之氏」は泰緬鉄道の土木技師としてタイ側の工事を仕切っており、多くの連合軍捕虜を残虐なかたちで殺した、と昨年亡くなられたArthur Lane氏が告発しています。ご参考まで。

イギリス人元捕虜アーサー・レイン氏との対話(徳留絹枝)
http://www.us-japandialogueonpows.org/Lane-J.htm

「1970年から1992年の間、私は、タナカと ハシモトという二人の戦争犯罪人のエンジニア(私は彼らが悪質な方法で数人の男を殺したのを目撃していました)を探すため、何度もシンガポールとタイに戻りました。戦争が終わった時、二人ともマレイシアに逃亡し、そこでマラヤの英国支配を転覆させようとしていた共産軍に加わりました。私は、自分の計画を進めるために、イギリスに私立探偵社を設立しました。

1990年、ついに私は、タイに潜んでいた二人を見つけました。私はタイに行き、英国大使館に私の告訴を提出しました。残念なことに、大使館の誰かが日本大使館にその情報を流し、彼らはタイ政府から訴追免責を手に入れたのです。二人とも日本に英雄として帰国しましたが、そのことは、自分が不運にも出会った戦争犯罪人に関する真実を暴露することを、私に誓わせたのです。」
Posted by さんき at 2016年01月20日 18:33
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。