でも、供述♪
でも、公開したよ♪
*このエントリは、ブログペットの「右翼討伐犬」が書きました。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
安倍普三にNo!AbENDキャンペーンを始めました。安倍ファシストドブネズミが首相になったら、日本は終わり。今からでも遅くないから草の根の良識派の力で断固安倍ファシスト政権を阻止しよう!!!
江戸時代には中国領と規定されており、過去には中国側も実効支配しいたという事実も文献にはある。明は倭寇の襲来に備えて尖閣諸島も海上防衛の区域に加えている。
尖閣諸島を日本に加えた経緯は日清戦争の講和条約の一年前で、日清戦争に勝利しかけていた時期であり、その上、未公表で閣議決定において尖閣諸島を日本領土に組み込んだが、私とかに言わせればまさに窃盗、盗人の所業。
それに沖縄だって、元は日本のものではない。1945年に敗戦し、ポツダム宣言を受諾した段階で1945年に琉球国として独立するべき地域だったのだ。
1872年に廃藩置県が行われたが、その翌年武力により琉球王国を廃し、琉球藩を設置させた。台湾に流れついた宮古島の島民が現地住民に虐殺される事件を口実に、台湾に出兵し、あたかも琉球が日本領土であるかのような既成事実をつくる工作を行った。その後またも武力をもって琉球藩を廃し、沖縄県を設置し完全に統治権を奪い、琉球処分がひとまず完成する(清国はこれをまだ完全には認めず、宗主国の立場を捨てておらず、琉球処分は完全には完結していない)。その後も日本の強圧な同化政策や強引な琉球処分に反発が強く、密かに清に亡命して、嘆願するなどの動きが頻発した。もともと琉球王国は清国への帰属が強く、清国年号を使用していた事実等があるわけだ。
これらも、日清戦争の日本側の勝利をもってして、琉球の帰属が決着し、琉球処分が完結する。
こういう事実からも、日清戦争で得た領土として台湾と琉球、尖閣諸島は同列に位置づけられるわけだ。
日本が1945年8月に飲んだポツダム宣言には、侵略により強奪した領土の返還・放棄が求められている。現に台湾、朝鮮半島、遼東半島、樺太、南洋諸島、中国やアジア太平洋各地の占領地域といった、植民地、委任統治領、占領地を放棄した。その中に尖閣諸島や琉球が含まれてしかるべきだ。尖閣諸島や琉球が現時点で日本が支配しているものの、アメリカの占領政策の結果としてであって、過去の歴史清算の過程の一貫として、その沖縄戦を含む戦争被害や植民地支配、アメリカ軍基地を押し付けたことを含む戦後の実行支配の謝罪や補償を含めて、琉球国としての独立、尖閣諸島の領有権の放棄が行われるべきだと私は考えます。
インドネシアに在住であれば、インドネシアで日本軍がこの地でどんな惨禍、惨劇、残虐を繰り広げ、蹂躙し、住民を奈落のどん底へ引き落とし地獄絵図を繰り広げられたか、インドネシアの学校へ行ってもう一度歴史教育を受けるべきだと思います。極少かもしれませんが、老人ホームなんかあれば、インドネシアの老人に日本軍占領時代の日本兵や日本人がどのように振舞っていたか歴史教育を受けてみることをお奨めしますね。
尖閣諸島といった領土問題を含めて日本周辺の過去の"大日本帝国の加害酷史"を正しく勉強し、正しい歴史認識を身につけて頂けるよう、ネットウヨクの皆さんにはお願いしたいです。
尖閣諸島周辺の日本領海を中国漁船が侵犯した問題に絡み、香港の有力誌・亜州週刊(10月3日号)は、巻頭のコラムで、尖閣諸島(中国名、魚釣島)問題の発端は米国が施政権を勝手に譲ったのが原因だとして、中国は沖縄の主権を主張せよとの自社の意見を掲載した。
中国では、有力紙、環球時報が9月、沖縄はもともと日本の領土でないとする記事を掲載するなど、中国が主権を主張できるかのような強硬論が相次いで出現している。香港誌もこうした主張に追随したものといえそうだ。
亜州週刊によると、尖閣諸島は歴史資料から中国の領土であることは疑問の余地がないが、米国が第2次大戦後の圧倒的な力を背景に沖縄とともに日本に管轄権を移した。尖閣諸島の主権を争うなら、沖縄の主権の帰属についても合わせて議論すべきだという。
同誌は「これらの島が戦後、米国と日本が勝手に主権を授受したという事実を世界に知らる必要がある。併せて米国に対し、沖縄の管轄権と主権を中国に返還するよう要求しなければならない。そうしてこそ歴史の正義に適う」と主張した。(編集担当:中岡秀雄)
日本側の主張する「既成事実の積み重ね」に対し、琉球がどのように抗してきたか。1879年の処分官来琉による首里城での廃藩置県布達、首里城の明け渡しを命じたことなどもある。琉球士族の一部が清国に救援を求めている。この点を含め、さらなる研究の深化を求めたい。
日本の植民地時代にマーシャル諸島に強制動員された朝鮮人たちの被害調査の結果が明らかになり、注目を集めている。韓国の複数メディアは「朝鮮人たちが日本軍による『人肉食用事件』に集団抵抗し、無差別に虐殺されたことが政府の調査で初めて確認された」と伝えた。
韓国の「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者支援委員会」のオ・ビョンジュ委員長が5日、3年間の調査を経て「ミリ環礁朝鮮人抵抗事件と日本軍の弾圧真相調査報告書」を公開した。
報告書によると、太平洋戦争末期の1942年に約1000人の朝鮮人がマーシャル諸島に強制動員された。1944年の6月から米軍の攻撃による食糧不足の中、朝鮮人120人が監視目的で派遣された日本軍7人を殺害した事件が起きた。報告書では、朝鮮人たちが日本軍に抵抗したのは「日本軍が朝鮮人を殺害し、その肉を食べていたのが原因だ」と主張。
事件発覚後、日本軍は100人あまりの朝鮮人を虐殺した。生存者の証言によると、当時日本軍が飢餓に苦しんでいる朝鮮人たちに「鯨肉」を食べさせたが、数日後に近所の無人島で肉が残酷にえぐられた朝鮮人たちの死体が発見されたという。
研究委員のゾ・グォン氏は、「抵抗事件の発端になった『日本軍の人肉食用事件』は実質的な証拠はないが、状況資料と証言を元に事実だと判断できる」と説明。「日本軍の人肉食用事件」は、日本軍が飢餓状況と米軍に対する恐怖、戦争ストレスが重なって犯した蛮行だとの見方を示した。
同件について、韓国のネットユーザーらは「本当に衝撃的だ。言葉が出てこない」「過去の歴史は許すものの、忘れてはならない」「心底から許せない国があるならばそれが日本だ」などの反応を見せている。(編集担当:永井武)
【新華網 北京】韓国政府は5日、第二次世界大戦中に日本軍によって太平洋のマーシャル諸島に強制動員された朝鮮人が、人肉を食べさせられていたことに反抗し日本軍に虐殺されたとの調査報告を発表した。
韓国の対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会が2006年から調査を開始し、同報告書をまとめた。
報告によれば、日本軍は1942年、飛行場など軍事施設を建設するという名目で、朝鮮人労働者800〜1000人をマーシャル諸島のミリ環礁に強制動員した。ミリ環礁は人口の増加と、米軍による孤立化作戦により、44年以降は食糧不足の状態が続いた。
生存者の証言によると、日本軍人が45年初頭にクジラの肉を朝鮮労働者に与えるようになった。しかし、朝鮮人に行方不明者が続出していることに気づいた一部の労働者が捜索後、肉をえぐり取られた朝鮮人の死体を発見した。そのため、人肉をクジラの肉といつわって与えられているのではないかと疑うようになったという。
報告によると、1945年2月28日、約120人の朝鮮人が日本人によって殺害され、その翌日にさらに約100人が銃殺された。生き残った数十人がその後、日本軍の虐殺行為を明かした。報告はこの虐殺について、朝鮮人労働者が食人行為に反抗したことが原因だとまとめている。
(編集翻訳 松尾亜美)
このように、人肉食というのは、日本軍が占領していたアジア・太平洋地域の各地で存在していました。現地の人の畑や農園を奪うわ、人肉を食べるわで、傍若無人のやりたい放題をやっていたのです。その根本の原因を突き詰めれば、将兵たちをそのようなあらゆる良心や感情うを奪い非人間的な殺人マシーンと仕立て上げ、無知、無計画、無謀な侵略戦争を遂行し、飢餓・餓死地獄へと追い立て追い詰めた大本営および天皇を含む大日本帝国ファシスト体制にあるわけです。しかし、どういう理由があれ、現地で日本軍の将兵という立場で、現地の人や強制動員された朝鮮人を殺害し、その人肉を食べて上、反抗した朝鮮人や現地の人を殺害したり、虐殺したということには変わりありません。昭和19(1944)年7月、制空権・制海権を完璧に失ったニューギニア島の日本軍。ホランジア(現ジャヤプラ)、ワクデ島、サルミそしてビアク島、ヌンホル島へ飛び石上陸で日本軍を玉砕に追い込む連合軍。ヌンホル島への敵軍上陸を機に、マノクワリ(Manokwari)に司令部を置く第2軍(豊嶋房太郎中将)は、在マノクワリの兵力のおよそ半数を南部のイドレ(Idore)へ転進させた。その数約1万2千名。
第2軍参謀長の藤塚止戈夫(ふじつかしかお)中将発案とされる、このイドレ転進は、結果的に"飢餓地獄"への無意味・無慈悲な敗退行軍となった。一週間で到達できるとされた距離。しかし、実際には2〜5ヶ月を要した。木の根を齧り、泥水を飲んだ将兵。戦わずして、1万数千もの将兵が草生す屍と化した。
連合軍が"緑の地獄"と称した、深いジャングルと熱帯病が"敵"の行軍。次々と斃れる将兵。一方、藤塚中将は、持病の痔の手術を理由に、同地からセレベス経由ジャワ島へ、当時の状況下では"破格の"航空機を使っての脱出。残された将兵は、藤塚中将を恨みに恨んだと言われている。(略)転進途中、隊長の藤井啓太郎中尉らは、敵軍の海上からの銃撃を受け戦死。さらに、小隊長の藤田福太郎少尉も地元住民から攻撃を受け、自活していた農園で戦傷死。165名中、戦後祖国へ復員できた者は僅か10名。転進途中、“喰うか喰われるか”の“人喰”が、日本兵と異人種間で頻発した。人肉食の真相に迫る赤裸々な証言。
イドレ到着以前、数ヶ月間を過ごした、地元住民から奪った農園で自活生活を送っていた頃、第14師団海上輸送隊(元独立工兵第22連隊)第1中隊(芝崎中尉)所属の小田切重徳伍長と仲矢辰巳兵長が、農園直下の浜辺に到達。川上軍曹は、この両名を農園での共生に誘った。現在山梨県甲斐市に暮らす小田切さん(89歳)は、その著『白骨街道 死の転進』の中で、この邂逅を生に導いた幸運と記している。
この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。