たまたまBook offに立ち寄ったとき見かけたて買ったものですが、"蟻の兵隊 日本兵2600人 山西省残留の真相 池谷薫著 新潮社"を読了しました。
GW中に読んでいました。いろいろ出かけることもあり、ようやく書いてエントリーします。
著者が制作の指揮をとった"蟻の兵隊"という映画はまだ見ていませんが。
本書を読み終わった感じを一言で言うなら「がっかり」というところでしょうか。
中国初「慰安婦」被害調査 敗戦後も慰安婦制度持続
http://j.people.com.cn/2007/07/03/jp20070703_73134.html 中国初の「慰安婦」被害事実調査報告が2日、公表された。旧日本軍が廟宇を慰安所として接収した事実や、山西省では少なくとも日本敗戦後の1947年まで慰安所が存続していた事実が明らかになった。「京華時報」が伝えた。
中国元「慰安婦」被害事実調査委員会は昨年9月に調査に着手、今年3月に第1次調査を終えた。同委員会は、現在も山西省の4県に16人、海南省のある県に1人の生存者がいることを確認した。17人の被害者は旧日本軍の手で兵営内、あるいは兵営付近の建物に連行され、性的な蹂躙を受け続けた。最年少は当時12歳、最年長は21歳だった。
調査によると、旧日本軍は民間の会館、民家、仮設建築などに慰安所を設置し、雲南省騰沖県では廟宇まで接収。日本の敗戦後もなお、中国に残留した日本軍が従軍「慰安婦」制度を維持していたことも明らかとなった。1945年の日本投降後、一部の残留日本軍は閻錫山の国民党軍地方部隊に編入されたが、独立編成を維持。このうち「保安第6大隊」は、山西省太原に慰安所を設置したことを、残留日本兵に日本語で告知していた。この調査結果は、日本軍が設立した、女性を迫害対象とする「慰安婦」制度が、少なくとも1947年以降まで一貫して続いていたことを実証するものである。
調査に参加した康健弁護士は「これは慰安婦の被害事実を系統的に調査した国内初の調査。第1次調査の報告は3回に分けて発表される。今後はさらに大規模な調査がある」と述べた。(編集NA)
「人民網日本語版」2007年7月3日
という記事では中国側の調査により、日本軍の慰安婦制度が少なくとも山西省において存続していたことが分かっています。敗戦で大日本帝国・日本軍の加害が終わったわけではないのです。
本書を含めて、山西省の残留日本軍の経緯を話します。
戦中より北支那派遣軍第一軍と親日派とされる閻錫山の間で、"対伯工作"という名で接触・工作が続けられた。日本軍側では中央の国民党軍や八路軍と違い、戦意の乏しい山西軍の帰順を狙ったものだった。
昭和17年5月、当時の第一軍司令官岩松義雄中将はあわよくば閻錫山を華北一帯の親日政権のトップに据え、思いのままに操ろうと交渉を持ちかけた。しかもその条件が破格のもので、日本軍が支配する地区に閻錫山の山西軍の兵営を準備し、兵器や金まで用意するというものだったという。交渉こそ実らなかったが、閻錫山と第一軍の関係を緊密にし、戦後の組織的な山西省における日本軍残留の下地となったというわけです。
本書においては、山西省に残留させられた将兵たちは被害者で、残留を画策した閻錫山および閻錫山に擦り寄って、日本軍の残留計画の思惑に載ったが第一軍の幹部が悪いだけということしかみえてきません。戦中はもちろん、戦後も通して、日本軍の蛮行や加害に晒された中国の民衆の視点は非常に少ないです。もちろん、残留させられて敗戦後も戦わされ、帰国後も国から酷い仕打ちを受けた残留兵士たちには深く同情をしますが。
本書の戦中の日本軍の加害を記述したものは大変短いものです。
p28より抜粋します。
国共合作の結果、日本軍が戦う相手は重慶に総司令部を置く国民政府軍だったが、蒋介石の国民党は兵力を温存して持久戦に持ち込もうという戦略をとっていた。そのため、実質的に日本軍と闘っていたのは、ほとんどの場合が八路軍だった。
八路軍は徹底したゲリラ戦法で日本軍と対峙した。毛沢東の唱える「遊撃戦論」なるものが実践されたのだ。
(略)
こうして攻め込むと忽然と姿を消してしまう八路軍だったが、時には大規模な兵団を組織し巧みな戦術で大反撃してくることがあった。
なかでも昭和15年8月20日にはじまった「百団大戦」では、約100個団、40万人を動員して一斉蜂起した。これによる日本軍の戦死者は約2万人にのぼり、合計470キロに及び鉄道が寸断され、1500キロの道路と200を超える橋が破壊された。
大損害を蒙った日本軍は、すぐに報復の手段に打ってでた。治安を回復するために第一軍がとった行動は徹底していた。八路軍が支配する地域に入ると、兵士でなくとも疑わしき者は殺し、食糧を奪い、女を犯して、家を焼いた。これが悪名高い「三光作戦」である。三光とは、「殺光」(殺し尽くす)、「略光」(奪い尽くす)、「焼光」(焼き尽くす)を指す。日本軍はこれを「塵滅作戦」と呼んだ。
思うに、日中戦争はベトナム戦争のようなものだったのではないか。ゲリラ戦を仕掛けてくる敵はどこにいるのか分からない。正面きっての戦闘はあまりないのだが、ある日、行軍の最中にパーンと音がしたかと思うと戦友の1人が死んでいく。
見えない恐怖に、いつ終わるやも知れない持久戦のいらだちが重なり、兵士たちは激しく消耗していった。ましてや、満期除隊となるはずが自動的に兵役を延長させられた古年兵が多く、長い軍隊生活のなかでいつの間にか人間の理性は剥脱されていった。
といった具合です。戦中の日本軍の加害に触れた部分はかなり少ない記述です。ゲリラ戦と長い軍隊生活で兵士たちの理性が剥脱されていった部分はあるのは確かでしょうが、それ以上に日本軍では生きた朝鮮人や中国人の農民や捕虜らを使って、銃剣で刺し殺す「刺突訓練」が行われ、日頃から新兵の頃から人間としての感情や理性を奪う軍隊教育が行われてきたです。ベトナム戦争を例に出しているが、ベトナム戦争に限らず、アフガンやイラクにおける米軍においても、他の如何なる戦争の事例においても、戦争犯罪はなかったわけではないが、当時の日中戦争における"日本兵"ほど病んで、残虐と野蛮の極地に達した兵士たちはいませんでした。
p36においても、大日本帝国・日本軍の加害についての記述があります。山西省残留の被害者である奥村和一氏の記述がある。
1945年(昭和20年)8月15日。この日の早朝、第一軍独立混成第三旅団陸軍兵長の奥村和一は、八路軍に対する討伐作戦のため寧武の大隊本部を出発した。空は晴れていたものの、いつものように黄砂が視界をさえぎり、昼なお暗い行軍だった。
ふと上を見上げると、おそらく農民のものであろう中国人の首が電線に点々と吊るされていた。八路軍に鉄道を爆破された腹いせに、日本軍あたりが農民にスパイの嫌疑をかけて処刑したものだ。
「見せしめか・・・」
凄惨な光景だ、もはや奥村に何の感受も沸き起こらなかった。討伐に出るたびに見かけるため慣れてしまったからである。入営してから10ヶ月、すでに奥村は、人間を一個の物体としてみなして処理する”一人前”の兵士になっていた。
歩きながら奥村は、半年前に行われた訓練のことを思い出していた。うしろ手に縛られた中国人を銃剣で刺し殺す。上官たちはこれを「肝試し」と呼んでいた。最前線の戦場で躊躇なく敵を殺せるように、中国戦線の日本軍は初年兵の仕上げとして新兵たちにこうした訓練を命じていた。
最初はあばら骨に当たるばかりでうまくいかなかったのだが、何度目かの時にスーッと心臓に入っていった。
「ああ、俺にも人殺しはできるんだ。これで一人前の兵士になれた」
今年(2007年)83歳になる奥村は、かつての記憶をこう語った。
という具合です。日本兵たちはこうして人殺しを躊躇なく殺人マシーンに育っていくことが分かる本書の記述でした。戦中の日本軍の加害につながる記述は本書においてはたったのこれだけです。
戦後も山西省の日本軍は閻錫山の山西軍の一部(第一軍では"特務団"、閻錫山の側では当初"鉄道修理工作部隊")として(実態は命令系統も含めて日本軍のまま残っていた)、山西省に駐屯し、八路軍と闘い、戦後も戦争を続行した。
残留日本軍の団長の早坂元大尉の記述が本書にあるが、奥村氏のいた独立第三旅団において、こともあろうに敗戦した次の年、昭和21年2月に、兵団内において戦技武技競技会というのを行っていたのである。山西省において、日本軍は上から下まで命令を下達させる厳格な規律が守られていた。
人民日報の中国側の調査において、山西省において戦後も日本軍の慰安婦制度が戦中のそのままに存続したというのは頷ける話です。
敗戦後も中国では日本軍は戦争を続行した。というのも、国共内戦が勃発し、国民党軍、八路軍、どちらの側の軍隊が敗戦後の日本軍(傀儡軍を含む)の武装解除を行うかが問題となった。国際的な慣習では、降伏部隊の武装解除は、そのとき対峙していた部隊によって行われるが、そうなると日本軍を武装解除するのは戦線の大部分で戦っていた八路軍ということになります。蒋介石の国民党中央軍は奥地に逃げ込んでいた。八路軍よりも先に日本軍を武装解除しようとしても間に合わないので、敗戦後の日本軍に対して、「日本軍は、わが軍が指定した部隊が到着するまで武器をもって治安にあたれ、共匪が攻めてきたら撃退しろ。もし、占領区の一箇所でも共匪に取られたら、日本軍の責任で奪回しろ」という通達を出したのです。
さらには戦後の陸軍司令部の混乱などがあり、「一切の武力行使を停止すべき」という命令が支那派遣軍の緊急措置としての自衛行動を例外として認めたことがあり、拡大解釈されていって、中共軍(八路軍)に対して「断乎鷹懲すべし」という戦争中の積極的な命令となって前線の部隊に伝えられたのです。そうして、厚生省援護局が昭和39年3月1日付で作成した資料「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」によれば、昭和20年8月15日の敗戦以降においても、満州を除く中国全土で戦死した日本軍将兵の数は5万人にも達しているという。
それ以上に皆様に想像していただきたいのは、八路軍との戦いにおいて住民が巻き込まれたのはもちろん、日本軍兵士たちの女性への強姦や住民の虐殺といった加害が将兵が5万人死ぬ戦後の戦争においても各地において行われたということです。
本書のp131に
8月、大原近郊の彭村に駐屯する第三団に出撃命令が下された。目的は、共産党軍が大原東南部の奉陽県一帯に集積している小麦などの食糧の略奪だった。忻県、大同の攻防戦で残留日本軍の戦闘能力を再確認した閻錫山は、敵の攻撃をも待つばかりではなく、こちらからも打ってでることにしたのである。この作戦には第一団、第四団も参加し、全体の指揮は岩田清一参謀が執ることになった。
(中略)
どこから襲ってくるかわからない緊張感に耐えながら、各団は食糧強奪の任務を果たすため部落の掃討を続けた。
とあります。本書には淡々としか書かれていませんが、その食糧強奪のための部落の掃討中、その残留日本軍の部隊が部落の住民の虐殺や女性への強姦などの犯罪を犯したことは容易に想像できます。残留日本軍は国民党軍(山西軍)の一部隊として行動していますが、この戦後の食糧強奪の作戦時においても、命令系統を含めてそのまま残っており、戦中の中国戦線時の日本軍の冷酷残忍な体質をそのまま受け継いでいることは明白でしょう。"戦後"における国共内戦時の日本軍の加害という側面もそっくり抜け落ちています。
最後に山西省残留日本軍問題について話そうと思います。山西省に残留し、生き残り、中国での服役を終えて残留日本兵らは帰国するのですが、そこに待っていたのは国からの酷い仕打ちでした。映画でも主役として出演されている奥村氏も昭和29年に帰国されているのですが、終戦の翌年の昭和21年3月15日に「現地除隊」として、軍籍抹消になっていました。その間(戦後の内戦で残留日本兵として戦闘していた時期も、中国側の捕虜となって抑留された期間)の軍人恩給は支給されません。それだけではなく、中共帰りとして公安の刑事にマークされて、ろくに就職先も見つけることが出来ないという有様でした。シベリアの抑留者は、日本に帰国するまでの軍籍を認められたのに対して、あまりにも酷い扱いだと私は思います。国はこの問題を取り上げるために国会に設置された委員会の場でも裁判においても、"個人の意思"で残留したものであるという意見を曲げませんでした。
真相はそうではなく、北支那派遣軍第一軍の澄田司令官が"戦犯"訴追を免れるために、自らの部下である将兵らを閻錫山に売ったのがその事実です。祖国復興、天皇制護持と戦犯を救うという名分までも加えられた軍命が下され、結果として2600人もの兵士が山西省に残留し、4年間も八路軍との戦闘を継続するのです。
澄田司令官は戦犯を免れるために閻錫山と密約を交わし、残留を画策したこと。残留を命令しておきながら、国共内戦の形成が不利になると、自ら閻錫山の援助を得て、早々と帰国すると言うあるまじき狡いさ、あくどさといい、さらに残留問題の委員会の場で、軍民全員の帰還の方針を徹底したかの真逆の嘘を平然と語る厚顔無恥さには声もでません。日本社会の無責任、嘘、偽り、二枚舌、不正・腐敗に塗れた体質も戦中から戦後、現代と一貫して続いているのだろうなと改めて思います。
この地点においては、閻錫山と戦犯容疑を逃れるために閻錫山の残留の画策にのった澄田軍司令官ら、第一軍の幹部が悪いという印象しか受けず不十分ですが、本書においてはほんの少しですが、山西省残留の問題はもっと根が深いものだということが言及されています。
ポツダム宣言に違反する第一軍の山西省残留の動きを、敗戦翌年 21年の3月までに日本政府(第一復員省)に伝えられて、日本政府が知っていることを本書の118〜120頁に記述されています。著者は、単に第一軍の山西省残留が単に第一軍首脳の戦犯逃れといったレベルを超え、「反共」の旗印のもと、大本営や日本政府、占領国アメリカの連合国軍総司令部(GHQ)の一部了解の元に進められたのではないかと著者は言及していますが、本書ではその辺まで深く書かれていません。
残留させられて戦わされた将兵らにも同情しますが、それ以上に残留したことにより、国共の内戦が長引き、それにより多くの中国の人々が巻き込まれ犠牲になったこと。さらには、日本軍部隊が残留したことにより、慰安所が継続され、そこでもさらに戦後も少なくとも2年間(日中戦争期を含めて10年間)も多くの女性たちに対する監禁レイプが続いたこと。戦中の東洋鬼子の鬼畜体質の残留日本軍部隊が4年間も戦争を継続して行っていく中で、住民への虐殺や加害、そして女性への性暴力といった中国民衆に対する加害が行われ、その被害や犠牲のことを考えると胸が痛くなります。残留日本兵らが戦中に犯した罪、さらには全く触れられていない戦後、国共内戦で山西軍のもと戦争を継続する中で犯した罪についてももっと本書の中で記述されるべきでした。
この山西省残留問題ひとつをとっても、加害歴史の根が深いことが改めて感じさせられました。敗戦以後も継続しており、薬害エイズや派遣問題のように、日本という国家や社会、大企業などが"人間"をモノのように"使い捨て"にする体質が続いている通り、大日本帝国が終わっても、その大日本帝国の残滓やそれより受け継がれた体質が引き起こす、数々の加害の連鎖はまだ終わっていないのです。こういった加害の連鎖を終わらせ、大日本帝国の残滓を駆逐するためにも、一刻も早い、良識派が一致団結した加害歴史の清算が求められるのだと思います。
何度もいうように、今ある日本社会の問題の根源には、大日本帝国の加害の歴史を断ち切れず、戦後も一貫して継続してきた事実があります。今ある日本社会の諸問題を解決する方法はただひとつ、過去の加害の歴史の徹底した清算しかありません。このことは何度も強調しておきます。