2008年08月17日

便衣兵について答えてやるよ

これから年明まで記事を書けない可能性があるので(なるべく書けるように努力はするが)、この機会に一つの課題を終わらせようと思う。糞懐疑主義者答えてやるよ。
●南京における便衣兵
南京における便衣兵の話だが、調べてみたが、捕虜の殺害は便衣兵のせいだとか、便衣兵のために日本軍に多くの戦死者が出たという話は右翼の南京大虐殺という事実を否定したいがための妄想にすぎない。第一に南京で便衣兵による攻撃で日本軍が困らされたというソースがないのだ。

「便衣兵の処刑」という勘違いについて
http://www10.ocn.ne.jp/~war/beni.htmという 鷹嘴氏のサイトが参考になるだろう。今ちょくちょく読んでいる「南京事件、笠原十九司著、岩波新書」も参考に交えて少しだけ。便衣兵というのは、民間人の平服を着用して、単独あたは小グループでゲリラ的な戦闘活動を行うものののことで、民兵や義勇隊の部類もこれに属したという。上海戦では市民や学生も参加し、確認されているが、南京についてはそうした組織が存在したというソースはない。南京で日本軍が便衣兵だと勝手にみなして虐殺対象にしたのは、戦闘意欲を失って武器と軍服を脱ぎしてて市内へ逃げ込んだ敗残兵で、便衣兵ではない。便衣兵ばかりか、敗残兵かどうか軍籍をもつかどうかの区別の基準さえなく、青年と認められるものは虐殺していったのである。明らかに捕虜として捉えられたものも含めて、手首足首縛られて拘束された状態で揚子江の川岸か市内の空き地などに連行して、機関銃射撃か手りゅう弾で大量処刑しているのだから便衣兵も糞もへったくれもないことが懐疑主義者たる糞右翼にも分かるだろう。

●日本軍の便衣兵戦術
おまけですが日本軍が便衣兵戦術を行っていたという事実もあわせて載せておきたいと思います。
思考錯誤の画像資料掲示板より画像を含めて拝借させていただきます。
[40]日本側の武装市民
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=40;id=imgbord#40



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市民の武装抵抗=ゲリラ=国際法違反 → いくらでも殺していいのだ

という主張をする人がよくいますが、これこそ平和ボケ。

ハーグ陸戦規約は市民の武装抵抗を全面的に禁じているわけではありません。

国際法の議論はさておき、日中戦争当時は日本人も「市民の武装抵抗」をしていたという記録写真を紹介しておきます。
1937年7月、日中戦争(支那事変)開戦当時の写真です。

装備は1924年型モーゼル小銃とチェコ機銃のようです。


[18]日本軍の便衣行為
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=18;id=imgbord#18


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元トピ消滅につき転載

実は昨年、画像による日中戦争検証シリーズを、某theBBSに連続投稿していたのですが、元トピが事故で消滅してしまいました。
前記した「軍装なんて例外だらけだ」ということの裏付けとして、それなりに面白いテーマもありましたので、この場を借りて、再録を試みて見たいと思います。


【日本軍の便衣行為】

[15]ja2047 04/08/12 17:55
掲示板で熊猫さんがたびたび引き合いに出す「日本軍の便衣斥候」です。
もちろん、撮影当時は「不許可」扱いで掲載禁止でした。
(毎日新聞社 一億人の昭和史10 「不許可写真史」P49)

[48]ja2047 04/08/19 20:18 IXOO5KPU38J
便衣斥候の別の例、画面中央左の帽子の男がそれです。

「図説日中戦争」(河出書房新社)P8に、1933年の熱河作戦の写真として掲載されています。



「日本史なんて怖くない」民主化政策1
http://www.melma.com/backnumber_10441_267426/
 

一方、西原村に残り、周辺に潜んでいた女性や高齢者も、米軍から襲撃されるという事態が起きる。なぜ戦闘員でない一般住民にまで米軍の銃撃が及んだのか。「西原地区における戦闘実施要領」という日本軍の作戦文書が、昨年アメリカで発見された。これは、激戦が続く西原村で米軍が入手し、直ちに翻訳したものである。そこには、日本軍の斬り込み攻撃が詳細に記されていた。沖縄での日本兵の住民偽装作戦を知っていた米軍。そのことが、米軍の女性を含む住民への攻撃を誘発した可能性が高まる。

続いて裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店のp176に日本軍が住民に偽装して攻撃を仕掛けた(便衣兵攻撃)を行ったために、インド部隊が多数のマレー人の男女を殺してしまったケースがあることが触れられている。
引用すると

 イギリスの東南アジアの拠点シンガポールでの敗北は、イギリス軍のみならずイギリスの植民地統治のあり方への批判を招いた。あとえば、海峡植民地、マラヤ連邦州、マラヤ非連邦州とばらばらであったために日本軍に対して有効な対応ができなかったという統治形態えの批判、イギリス当局のスタッフの資質の問題、住民からの積極的な協力を引き出せなかった統治の問題などが取り上げられた。特にマレー人が「第5列」として日本軍にさえ協力したことはイギリスの統治が根無し草だったのではないかという批判を受けた(WO203/4036,CO968/15/1,CO968/84/5など参照)。この第5列に関する批判については植民地省も納得せず、軍の不十分な訓練と低いモラルが敗因であるにに軍はそのことを理解せずに責任転嫁している。特に遅くマラヤに着いた部隊は、マレー人、インド人、中国人、日本人の区別もつかず、すべてを敵とみなしがちだったと反論した(CO273/671/9)。
 実際に日本軍が住民に変装して奇襲をかけてきたことがあり、その数日後にあるインド部隊が多数のマレー男女を日本軍と間違えて殺してしまったケースがあることが報告されている(マラヤ計画班の作成した「マレー戦における第5列の活動」44年8月、WO203/4036)。

林博史氏の著書には日本軍が便衣兵攻撃を仕掛けてきた場所は書かれていないが、この場合間違いなくビルマである。中国戦線や沖縄戦、ビルマでも日本軍が住民偽装の便衣兵戦術をとっていたことが明らかになっている。ただし、直接日本軍の住民への加害というのに繋がるものではないため、林博史氏も深くは追求されなかったようである。日本軍への住民の加害に繋がらないかという話だが、とんでもない話で、便衣兵戦術を取ることで無関係な人々がどれほど被害を蒙るのかという住民の立場を試みなかったからこそ便衣兵戦術を行えたといえる。占領地の若い女性を集めてはレイプし、抗日であるという妄想で、あるいはなんとなく人をやりたかったからという理不尽な理由でたくさんの住民を殺戮してきた。非人間性の頂点を極めた人類史上例のない軍隊が日本軍である。日本軍が展開していたフィリピンやニューギニアなどでも便衣兵戦術がなかったのかどうかという研究はまだないようでまだ手がつ蹴られていない分野の一つであろう。そもそもこれも大日本帝国・日本軍の性暴力制度や住民の大量殺戮といった戦争犯罪の数々に比べればずっと些細な問題であるから困る。
明日からまた忙しくなり、しばらく更新できないと思います。でも、なるべく毎日とは言いませんが、月1回は更新して記事を書くように努力したいと思います。以上

インドネシア:マルク州西南東マルク県セラル島リンガット村における日本軍

インドネシア文化宮さんのところで読めます。
マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.html
 マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html
マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html
マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html
マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.html
マルク州タニンバル紀行(4) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (4)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_6.html
マルク州タニンバル紀行(3) Ke Tanimbar, MTB. Maluk (3)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_5.html
マルク州タニンバル紀行(2) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (2)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_4.html
マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html
タニンバル島謎の石階段(Tangga Batu, Tanimbar, MTB, Maluk)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_5.html
タニンバル島謎の石船No.2(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.2
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_4.html
タニンバル島謎の石船(Kapal Batu, Tanimbar MTB) No.1
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200805/article_3.html
戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.html

一見、夢溢れるバカンスの南の島という感じもしないではないですが、とてつもない悲劇の歴史の傷跡を背負う島なのです。右翼連中は都合の悪いことをみない機能的文盲連中ばかりなので、それらの中から日本軍の占領や日本の戦争・戦後責任に関するところを中心に抜粋していきたいと思います。

戦後が来ない西南東マルク県。占領の傷跡は誰が癒してくれるのか?
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200708/article_6.htmlより
終戦記念日の前日(2007.8.14)、マルク州西南東マルク県のセラル島のレミャン海岸に立った。ここは、日本軍が連合軍と対峙した、正真正銘、“最前線”だった。南の方角にはオーストラリアのダーウィンが位置する。レミャン海岸に夜間上陸した日本部隊は、陸路、東海岸に面するリンガット村に進駐した。リンガット村で、“戦後”が訪れていないことを実感した。陸地、海岸、そして海中に投棄された多量の弾薬と兵器。「村は破壊され、連合軍の爆撃で約200名の村人が死亡した。そして村のおよそ50名の若い女性が慰安婦として強制的に性の奴隷となった」と、現村長のユスフ・サンボヌさん。
これが悲劇の概要です。未だに戦後が訪れていない日本軍の被害にあった地域がたくさんあるという事実を理解すべきですね。

リンガット村のユスフ村長。「私たちに戦後は未だ来ていない。戦後賠償ができないことは分かっている。しかし、日本軍の最前線として、強制的に協力させられた村のことを少しでも思い出して欲しい」
被害を受けた側の人間が「日本は戦後賠償できないということができないということは分かっている」という現実、胸が張り裂けるほど痛いです。
マルク州タニンバル紀行(1) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (1)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_3.html
悲劇の舞台である西南東マルク県のあらましについて書かれています。地理的なことからアラブ人に支配されていたところから香料を求めてヨーロッパ勢力がやってくるまでの概要など、そして東ティモールとオーストラリアと関係を結んで経済を引き立てようとするような計画のことまで書かれています。で、日本軍に関するところは

タニンバル諸島は、かつて太平洋戦争の時代、日本軍にとって、連合国と対峙する“最前線”と位置づけられていた。このため、今日のMTB県の主要な島に、その地元住民数並びに農水産能力とは不釣り合いな規模の日本兵が駐屯した。また、日本軍の“最前線”はそのまま連合国軍の“最前線”をも意味し、その結果、海上・航空能力で優った連合国軍の攻撃を受け、多数の地元住民もその犠牲者となった歴史がある。疑心暗鬼が軍と住民双方に生まれやすい緊張感に包まれた最前線。この結果、後述するが、日本軍による地元住民の大規模虐殺事件もMTB県の一角であるババル(Babar)島で起きている。
の部分です。
マルク州タニンバル紀行(5) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (5)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_7.htmlより

セラル(Selaru)島は日本軍の最前線だった。リンガット(Lingat)村にたくさんの日本兵がいた。もちろんタニンバル諸島の各地にも駐屯していたがね。終戦後、日本軍の弾薬や機材は全て海に捨てられた。まだ、それらは海の中に残っている。一方で、当時最新のトラックなどは陸上に残していった。日本軍兵士による虐待は、それは酷いものだった。多くの女性が慰安婦にさせられた」---マルク州MTB(西南東マルク・Maluk Tenggara Barat)県の現県知事で、セラル島出身のビット・テマール(Bitto S Temmar)さんが語る。
「当時、私の父はセラル島のナムタブン(Namtabun)村の村長だったが、日本軍から村の若い女性をサムラキ(Saumlaki)へ送れと。そこで、父はお婆さんを送ったんだね。そしたら、怒った日本兵は、父の指の間に鉄棒を挟んで縛り上げたそうだ。父の世代は、私たち次の世代にそれらの話を伝え、そしてトラウマは引き継がれた。なんでも日本は戦後賠償をしたそうだが、それらの賠償金はすべてジャカルタへ行ってしまった。地方には何も来なかった。是非、日本政府に伝えてほしい。私たちは何も謝罪を要求するつもりは毛頭ない。私たちが言いたいのは、突然やってきて、突然去っていった中で起きた事に関して、少なくとも戦後に関心を払ってくれても良かったのではないかということです。言い換えれば、社会のリハビリに対する可能な援助をしてくれないか、ということです。ここは“忘れられた島々(Forgotten Islands)”とも言われる地域ですが、“忘れられない出来事”があるのです」と。
また、戦争の賠償金や謝罪は要求しないと被害地域の住民に言わせている。戦後のことだけにでも関心を払ってくれと。私からすれば悲しいですね。ここの文で重要なのが、やはり慰安婦(性奴隷)の徴収に日本軍が関与していて、村の有力者に若い女性を慰安所に送れと強制していたところ。軍の関与がなかったとか、軍の強制はなく自発的なものだったと嘘の上塗りとセカンドレイプを続ける右翼勢力はとっとと死ねって。
インドネシアが独立して60数年。電気が入っていないばかりか、灯油の入手にも苦労するセラル島。小学校を卒業すると、村に残る以外に選択肢のない現状。テマール県知事は言う。「お金のことは二の次の問題です。まずは、思い、関心を持って欲しいということです。私が知っている限り、戦後、旧日本兵がセラル島を再訪したことはありません。私は、その昔セラル島に居ざるを得なかった、そうした旧日本兵たちが、あるいはその子孫たちがやってきて、今の世代と友好を築き上げて欲しいと願っています。援助ではなくても、旧日本兵の孫の世代が、この島に投資をしてくれないだろうか。例えば、電気の問題でいえば、太陽光発電などの技術を持ってきてくれると大変嬉しい。あるいは、貧しい家庭の子供たちに奨学金を出してくれるとか、あるいは優秀な生徒を日本へ留学させてくれてもいい。終戦時、他の地域では、恨みから日本軍が攻撃を受けたこともありますが、この県の中で、セラル島やその他の島々にいた日本兵は、皆無事に祖国へ帰ることができました。そればかりか、実の兄は、日本兵に養子縁組される直前まで親密な間柄だった。時代が残虐性をもたらしたが、一時期とはいえ、日本人と地元民との間に、うまくは表現できないが、普通では考えられない友好や友情があったことも事実です」

サムラキ市内で、日本軍支配時代を知る少なくない人々から「セラル島は、今の県知事もそこの出身であることからも分かるが、勤勉で高いディシプリンを持った住民が多い。それは、日本軍が残したものであることは間違いない」との話を聞いた。連合軍と対峙する、正真正銘の“最前線”であったセラル島。サムラキから40馬力のエンジン2基装備のボートで出発。ヌス・タブン(Nus Tabun)島とマトゥクス(Matkus)島の間を抜けて、アンワール・マス(Angwar Mas)島を右手の見ながら約2時間。セラル島の中央付近のくびれ部分の北岸にある白浜(レミャン海岸)に到着。そこで、オジェック(オートバイタクシー)が来るのを待つ。浜の沖合、そして陸上の到る所に、日本軍が投棄した弾薬や機材が眠っているという。
多大な苦痛を与えたのにも関わらず、誰一人やってこない無事に祖国に帰れた元日本兵。過去の侵略・加害について無関心で、そういう小さな島一つの過去の出来事すら関心を向けようとしない日本政府。十分に戦争犯罪を裁ききれず、戦争責任の精算ができないまま大日本帝国の残滓が温存されたままの日本社会、大変腹立たしいものです。
レミャン海岸から十数メートルの場所には未だに旧日本軍が投棄した弾薬や機材が眠る。ここは、掘り返された跡。地元民によれば、アンボンで宗教抗争が激しかった頃、手製爆弾を作るための材料として、この場に埋まっていた弾薬などが持ち去られたという。連合国との戦いの最前線に蓄積された日本軍の弾薬が、半世紀以上も経て活用されようと誰が想像できよう。レミャン海岸のずっと東に位置するナムタブン村では、2003年、沖合から打ち上げられた旧日本軍投棄の迫撃砲弾のような形をしたものを、魚料理の焚火の脚として使用し、爆発、二人の村人が亡くなった。いまだに“大東亜戦争”の遺物が村人を苦しめている
戦後不当に投機された日本軍の兵器類が今尚住民の前に現れては傷つけるという点で、中国で問題になっている日本軍の遺棄化学兵器の問題に似ていますね。マーシャル諸島のほうでもそういう事例があり、戦後補償裁判で取り上げられています。日本軍が占領時代に行った加害ばかりに目を向けることは大切ですが、不当に投機された兵器類が現れて現代も住民を傷つけているという現在に現れた加害にも目を向けていかなければなりません。

マルク州タニンバル紀行(6) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (6)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_8.html
セラル(Selaru)島のリンガット(Lingat)村。かつて日本軍の最前線部隊が駐留していた村だ。2007年8月時点での人口は453世帯で2,003名(女性1,017名&男性986名)。ユスフ・サンボヌ(Yusuf Sambonu)村長(36歳)が語る。
「日本軍の進駐で、この村は戦争の犠牲となった。遠い北からやってきた日本兵が、南のオーストラリアと対峙するために、ここを戦場に変えてしまった。島にはまったく関係のないよその国の問題なのに、村人は巻き込まれてしまった。連合軍の爆撃でたくさんの家屋が破壊され、焼かれた。日本兵による拷問で死んだ村人もいたが、少なくとも200名近くの村人が連合軍の爆撃に巻き込まれて亡くなった。村の墓を見てください。一目瞭然です。それから、村の若い女性たちが性暴力の犠牲者となった。その数は約50名。日本軍によって強制的に性の奉仕をさせられたのです」
リンガット村ではあの“先の不幸な大戦”が終わっていないような錯覚にとらわれる。到る所に“戦争”が残っている。日本から赤道を越え、5千キロ以上もの長旅をして運ばれてきた、日本軍の武器・装備が残骸となって視線に飛び込む。
「繰り返して言いますが、私たちは罪のない犠牲者です。人間としての威信を傷つけられた女性たち。そして意味のない軍票で強制労働に従事した男たち。傷はいまだに癒えていません。どうか、傷を癒してくれませんか。どのようにしたら傷が癒えて、私たち村人に、本当の戦後が来るのか、考えてもらいたいのです」とユスフ村長。
村長の悲痛の叫びが聞こえてくる。勝手にやってきて、最前線に関係のない村を巻き込んだ日本軍。て村の若い女性たちを集め、弄び、性奴隷にした罪や強制労働や拷問で村人を苦しめたこと、連合軍の爆撃に巻き込んで罪は許されるもんではない。その傷は今もなお癒えていない。このような悲痛な小さな村の叫びが右翼や日本政府に届く日は来るだろうか。
村では、旧日本軍が残した武器・装備などを一か所に集め『戦争博物館』を建設する計画を持っている。付近の珊瑚礁の海底や砂浜の地中に投棄された装備なども回収したい考えだが、多量の弾薬や武器も一緒に捨てられているため、その回収は困難だ。「戦後、一人として日本人がこの村に来たことはない。ただし、日本兵の血を引く村人はいますがね(笑)。日本軍にとって最前線だったこの地に戦争博物館ができ、そこで平和の尊さを感じることは大切なことだと思います。日本の方で、建設に協力してくれる人はいないでしょうか?」とユスフ村長。、
 取材中、乳飲み子を抱いた30代の女性が近づいてきた。「まだ生きているけれども、私の母エマは終戦間じかに、日本兵の“サノ”とアディテナお婆ちゃんとの間に生まれたの。だから私はサノの孫ね」と。
戦後、この島に来たのはこの記事の筆者一人だけだった。こういう小さい大日本帝国・日本軍の占領被害の現場にももっと着目して事実を掘り起こしていかないといけないと思います。

マルク州タニンバル紀行(7) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (7)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_9.html
日本軍によって“最前線”基地が築かれたため、連合国軍の爆撃で200名もの村人を失ったリンガット村(ユスフ村長談)。サンゴが作り出した真っ白な砂浜。そしてコバルトブルーの海。光景はまさに“南の楽園”のような、この美しい小島に、島の人口と比べて不相応な数の日本兵が駐留した。“日本軍支配時代”の残像がまだまだ生き続けているリンガット村。60数年前から時が止まってしまったかのような空気が流れている。日本の軍歌を昨日習ったかのように、見事な節で歌い上げる古老たち。一時期の駐留とはいえ、村の歴史は日本軍無しには語れない。家々の庭に置かれた旧日本軍の赤錆びた鉄の塊は、黙して語らないが、村人の心の髄に、あの大戦の記憶が刻み込まれている。あの戦争は未だ終わっていない、と言うユスフ村長の言葉には、入村儀式を経ることもなく、いわんや招待状も無しに突然村に進駐し、悲劇だけをもたらして、そして潮が引くように去って行った“日本”に対する積年の思いがある。

「2,003名のリンガット村を代表して“日本”にお願いしたいことがあります。まず第一に、家々の周囲用のレンガの柵を造るための援助は期待できないでしょうか。レンガとセメントの提供を受ければ、作業は村人が行います。次に、日本軍が残した物を集めた戦争博物館の建設に協力できないかということです。博物館と言っても、簡易なもので十分です。第三に、村の伝統・慣習ハウス(Rumah Adat Desa)を建ててくれないかということ。そして、第四に、およそ10kmの長さの海岸線の浸食を防止するために、何か防止装置のようなものを考えてくれないか。最後に、電気ですが、この村にも島の東端のアダウト(Adaut)から電線はきていますが、ほとんど機能していません。可能ならば2万ワット規模の発電機もしくは太陽光発電装置の援助はしていただけないでしょうか。あれやこれやお願いが多いのですが、私たちが戦後を迎えられるよう、そして村人があの戦争から真に癒されるように、是非とも願いを聞いて欲しいのです」---ユスフ村長からのメッセージだ。
悲しいながら要求が随分と小さめで、太陽光発電といったインフラ設備なのの未来のことが中心だ。ただし、その小さな要求すら耳を傾けようとしない日本政府。ただし、その要求だと日本の商社や外務省の喰いものにされるだけだと思う。過去の謝罪及び補償、並びに調査団の派遣や加害の全体像を明らかにし未来永劫に子孫代々に教育することを日本政府に誓わせるなどもっと過去を取り上げた大きい要求でなければならない。それが大日本帝国の残滓に病んだ日本社会に対する薬にもなる。そう考えると非常に残念でならない。

 マルク州タニンバル紀行(8) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (8)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200806/article_10.html
 日本軍が進駐した時8〜16歳だった今日のリンガット村の長老たちは、いまだ鮮明に当時のことを記憶している。以下は、彼らの証言。(注:但し、記憶内容は人によって異なり、必ずしも正確とは言えない部分もある。文中に引用した年月日や数値は、大多数が同意した発言内容と理解いただきたい)。

 まず、日本軍は1942年3月に、一大隊規模で、セラル島の北岸のレミャン海岸に夜間上陸した。そしてリンガット村を始め各村へ移動。リンガット村では教会を本部として使用した。(海軍か陸軍かは記憶が曖昧だが)ナカムラ部隊は、自転車、戦車、トラックなどの四輪車を持ち込んだ。
 リンガット村西方の滑走路は1942年に建設を開始、その年、日本軍機が飛んできた。建設には村人が強制労働で駆り出された。日本軍は直ちに学校を作り、日本語や君が代などの歌を教えた。村は、連合国軍の爆撃を何度か受け、200〜300名の村人が亡くなった。日本軍の軍医も、その爆撃で死んだ。彼の墓は今でも残っていると思う。
敗戦後、日本軍は1945年9月頃、島を去った。武器類は、この近辺で地中に埋めたり、焼いたりした。弾薬の多くは海中へ投棄した。レミャン海岸の海中と浜の地中には、たくさんの自転車、戦車、そして銃、迫撃弾、100kg爆弾などが捨てられた。リンガット村東方の北海岸の村ナムタブンでは、2003年、日本軍が残した、そういった弾薬類とは知らずに、迫撃砲弾のようなものを、村人が魚を焼くための焚火の脚として使用し、それが爆発して二人死んでしまった。
何年か前に、地中から日本軍が埋めていった鉄製の箱が見つかった。その中には、(日本語だから)読めないドキュメントが詰まっていた。しかし、ほとんど腐っていたため、保管せずに捨ててしまった。
リンガット村に駐留していた部隊は:「ニシハラ部隊」そして「ナカムラ部隊」だった。二人の部隊長以外で、まだ記憶している日本兵の氏名は:「ヒロハタ」、「サイキ」、「コタケ」、「ミソベ」、「イレシド(イシド?)」、「スギタ」、「オイダ」、「イケダ」、「サノ」など『上智アジア学』第10号(1992年)に掲載された「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」(村井吉敬)によれば、第5師団(別名:鯉師団、司令部はケイ島のトゥアル)の歩兵第42聯隊(司令部タニンバル、リンガット?)の隊長は「西原修三大佐(43.7〜44.3.1)→吉川章大佐(44.3.1〜)」とある。現住民が言うところの「ニシハラ部隊」とはこの「西原修三大佐」指揮下の部隊と思われる。
以上、リンガット村へ日本軍が来たいきさつのまとめという感じですね。この記事には実際の占領時代経験者からインタビューをされています。その中から2人ほど抜粋

ウルバヌス・ランコラタットゥ(Urbanus Rangkoratat)さん(73歳)
@「日本軍が来た時はまだ子供だったから、日本軍が開校したSR(Sekolah Rakyat・国民学校)に3年通った。私の日本人の友人はタラダだった。私は何も仕事というようなものはしなかった。だって“kodomo(子供)”だったから。いつもいつも、タラダと遊んでばかりいた。SRの教師はインドネシアだった。歌は日本兵から習ったけれども」---と言うや、ガスパルさん同様に一気に歌い上げた。
見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甌無欠揺るぎなき わが日本の誇りなれ
『愛国行進曲』だ。「私は日本兵士が好きだった。なぜなら生活は悪くなかったし。。。」「しかし、父親は連合軍の空爆で死んだ。空爆ではこの村で300人近くが死んだ」
A「日本軍がいたために村人が失った財産を弁償してほしい」
ルカス・ララットマセ(Lukas Raratmasse)さん(75歳)
@「いわゆる苦力(クーリー)みたいな手伝いをした。主に魚獲りをした。でもある日、魚を隠したと誤解され、日本兵から叩かれたこともある。実際はそうじゃなくて日本兵のために保管していたのに」
A「村人が失った財産分の賠償金を支払ってもらいたい」
村長は日本政府に補償は求めないといいつつも、村人は失った財産の補償を求めているのです。その村の補償や謝罪の要求有無以前に、日本社会は補償だけではなく、謝罪にも被害の調査などの過去の清算に取り組む義務があるのです。セラル島のリンガット村のような小さなところを含めて、大日本帝国・日本軍が被害を与えた地域の隅々まで。現にそれだけのことをしても、未来永劫謝罪を続けても償いきれないほどのことをしたのだから。リンガット村をはじめとする広大な大東亜共栄圏の隅々に至るまで徹底的に血と屍のキリングフィールドの大地に変えていったのである。その蛮行は人類が地球上に誕生して以来、歴史上例のないものだったのだから。
さておいて、大日本帝国・日本軍の占領地域の戦争体験者の証言・オーラルヒストリーを集めることは即急に進めなければならない課題である。歴史上例のない大日本帝国という最厄(災厄)を未来永劫伝えていくために必要な作業である。私個人としては女性、とりわけ性暴力被害者のインタビューも聞きたかったところ。性奴隷以外に一個大隊もの日本軍が駐屯していたリンガット村で強姦事件はなかったのかとか、セラル島の他の村はどうか、他の島々はと気になるところである。一つ分かったことがある。やはり慰安婦の徴収に軍の関与があり、村長らに若い女性を集めさせて性奴隷にしていたという事実。当時の村長も女性たちを性暴力の被害者と捉えており、自発的に応募したとか、村人が集めて商売として自発的に女性を集めたとか嘘を上塗りを続ける奴はいい加減にしろと言いたい。

マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.htmlのババル島事件の話でも裏付けられていることである。
農産物やヤギなどの家畜といった食糧とともに、各村に対して兵士の性奉仕のための女性を供出するように割り当てている事実が明らかになっており、複数の地域にまたがていることも明らかになったのだから、嘘の上塗りは許しません。リンガット村のような小さなところを含めて隅々まで大日本帝国・日本軍の加害の事実が明らかにされ、謝罪や補償を含む過去精算が被害にあったすべての地域の隅々に至るまで、米粒一つ足りの穴を残さないほど徹底的に行われることを望みます。以上
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バハル島事件の追記

バハル島事件で新しい資料を発見しました。ババル島事件というのは、1944年の大戦末期におきた日本軍による大規模な住民虐殺です。

ババル島虐殺事件
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/22899657.html
ですが、真実はもっと凄惨で理不尽なものだったとのこと。虐殺人数も700人どころではなく、1000人近くにまで及んだこと、『世界戦争犯罪事典』秦 郁彦, 佐瀬 昌盛, 常石 敬一監修のババル島事件の項には、煙草や食糧の不当な代価による供出強制や現地習俗に対する日本軍の理解不足による暴行などが原因だとされていますが、エンプラワス村での事件の発端となったのは日本軍が未婚の女性や若妻を性奴隷として差し出すように要求したことで、村人たちは村の女性たちの尊厳と威信にかけて戦いを挑んだのです。
インドネシア文化宮さんの
 マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9)
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200807/article_1.htmlのババル島事件の調査を行っているMTB県副知事のバルナバス・オルノ(Drs. Barnabas Orno)さんのインタビューを抜粋
『実を言うと、エンプラワスという名前の村があることは知っていたが、事件についてはまったく知らなかった。そして知らなかったから、本を書こうとも思っていなかった。少なくとも、1990年に今の妻とつきあい始める時までは。(エンプラワス村の)彼女の家で、当時はまだ義理の父候補で今は義父となった彼女のお父さんから、エンプラワス村で起きた日本軍による虐殺の悲劇に関して話を聞いた。義父は、その話をする時、幾度も言葉に詰まった。思い出して涙を抑えきれなかったからだ。なぜなら義父は実の兄弟や、両親そしてその他の村人たち全員が目の前で一斉掃射されたのだから』

『私は義父に尋ねた。1970年代、牧師が地元紙にエンプラワス村で虐殺された村人の数はおよそ700人と話したが、その通りか、と。義父は答えた。「700人程度ではない。なぜなら当時、エンプラワス村の人口は1,000人以上だったが、虐殺の後には100人も生き残っていなかった」と。私は時間をかけて、何度も、義父に知っていることを話すように仕向けた。全てのトラウマを吐き出して下さい、私はいつか事件について本を書きたいから、と頼みました。そして義父は最終的には全てを話してくれました。一方で、私は、事件について知っている他の村人たちから聞き取りを始めました。私の実の父の話も含めて。当時父はまだ子供だったけれど、人から聞いていた』

『父の話によれば、エンプラワス村のティウィ川で虐殺がまさに行われるという時、ワクパパピ村長など、近辺のすべての村長が招待された。そして(日本軍は)この中に兄弟など縁者はいるか?と村長らに尋ね、指名された者は自由の身になり、その他の者は虐殺された』

『1991年、私と妻は結婚した。私は公務員になって、マルク州政府の社会局に入った。まだババルに住んでいた頃、エンプラワスの村人は“日本軍の残り” という言い方があった。残りなんていう表現は間違いだ。彼らは日本軍に抵抗した立派な独立闘争貢献者であり、このインドネシア共和国から占領者を追い払おうとした英雄行為を国は認めなければいけない』

『1996年に独立記念日の催しの一つとして、ケイ諸島のトゥアルでババル島出身家族会が催された。そこで、アイデアが出た。旧日本軍による虐殺事件に関してセミナーをババル島で開こうと。目的は、賠償云々を言う前に、占領者に抵抗した崇高な島民がいた史実を、インドネシアの中央政府が知らなければならない、という観点だった。インドネシアの独立闘争の中で、南東マルク県(注:後にババル島は西南東マルク県に入る)にあっても、ババル島のエンプラワスの貢献などのように、マルク人も、ババル人も貢献したんだという史実を表面化させようと。そこでセミナーのための委員会ができ、私は事務局長になった。そしてババル島でセミナーが実施され、そのセミナーの結果は中央政府に届けた。その時の願いは、賠償問題よりも、まずは政府が、占領者を追い出そうとした抵抗運動に正しい評価を与えるということだった。そして、もしも可能ならば、中央政府が、彼らババルの犠牲者に対する補償に関して、地元に代わって努力してくれないか、と。そのセミナーの場では、毎年10月に、事件を記憶するための慰霊の日を定めることも合意した』

『エンプラワスの村人が日本軍に抵抗した理由は、それは余りにも理不尽な課税と、それから人間の尊厳に関わる酷い要求の二つだった。大東亜戦争の中、日本軍は現地で食料を調達。軍票で支払うこともあったが、支払わないこともあった。それを村人は“税”と捉えていた。農産物を始めヤギ、豚などの食料供出を、各村々に割り当てていた。日本軍は、さらに、まだ未婚の女性や美人の若妻をイアンフ(慰安婦)にしようとした。村々から集められた女性たちは(注:陸軍部隊の本部があった)ワクパパピで選別された。さらにエンプラワス村に義務付けられた納税の一つはタバコだった。エンプラワスはババル島で最高の品質のタバコ産地だった』

『悲劇の始まりはというと、シノハラ(注:極秘報告書によれば、シノハラとは海軍錦隊の嘱託だった篠原と思われる。シノハラがエンプラワス村にやってきたのは1944年10月27日とされる)はイタリアと言う名のスパイらと共に、慰安婦候補探しとタバコの調達の二つの用事で村にやってきた。村人は税のことは分っていた。供出物資の事は承諾していた。プロテスタントの牧師の家にやってきたシノハラは、村長らを呼び、そこで、要求を突きつけた。元々はこれぐらいと言っていたのに、今後はこれぐらい増加でタバコを供出せよと、酷い増量を求めた。村人は納得できない。さらにシノハラは娘と美人の人妻を出せとも要求した。イアンフ候補を急いでセレクションしろと』

『しかし、牧師や村長らは、それらの要求は呑めないと答えた。死んでも受け入れられないと。物資ならいいが女性は認めるわけにはいかない。タバコはいいが女性は人としての尊厳・威信から無理だと。それでトラブルになった。結果、シノハラとスパイらは村人に殺された。村人は予想した。シノハラらが帰らなければ、必ずや日本軍は報復してくるだろうと。これでは安全ではない。三日後ぐらいには日本軍が攻撃してくるだろうと。そこで、日本軍に抵抗しなければ、となった』

『当時の教会のデータによれば、当時エンプラワスは3つの集落で一村を形成、ババル島で一番大きな村だった。エンプラワス村長は近辺の村々に呼びかけて、一緒に日本軍へ抵抗しようと訴えた。尊厳と威信を守るため、日本軍と闘おうと。トゥトゥアワン村は同意。そしてマヌウェリ村も同調。アナルトゥール村も賛同。しかしココアリ村まで行った際、そこには日本軍のポストがあり、村人の計画は日本軍の知るところとなった。そこで、日本軍の襲撃前に、村人は山へと逃げた。エンプラワス村の家々はすべて焼かれてしまった』

『後日、日本軍は、使者を山へ送ったり、森の中に書いたものを貼り、村人に対して日本軍はもう怒ってはいない、和解したいから下山しなさいと呼びかけた。山にこもった村人たちは、夜のみ動き回り、食べ物を探し、苦しい生活を余儀なくされた。飢えで死んだ子供たちもいた。やがて日本軍の呼びかけを信じた村人の多くが下山を決めた。その時、日本軍は、これは和平なんだから、鋭利なものは持ってくるなと命令した。しかし100人ぐらいは山から下りなかった。和平はエンプラワス村近くのティウィ(Tiwi)川で行うと日本軍は言った。二陣に分かれて村人は山から下りてきた』

『下山した村人を日本軍は三つのグループに分けた。最初のグループは、抵抗などの虞のない男たち、女性そして子供ら。二つ目のグループは抵抗勢力になりそうな屈強な男たちで、彼らは後ろ手に縛られた。第三のグループは、長老や慰安婦候補の若い女性たち。日本軍はまず二番目のグループを最初に殺した。義父は当時7歳でそのグループにいたが遺体の陰で生き延びた。日本軍はまず強い男たちのグループを抹殺し、それから次のグループの番と考えていたようだが、最初のグループが殺されたことから、残りの村人が騒ぎ出し、その瞬間から誰彼問わず射殺を始めた』

『奇麗な水のティウィ川は血の川に変わった。子供らは上に放りあげられ、銃剣で刺された。助けてという悲鳴が響いた。義父は両親、兄弟が目の前で殺されるのを見た。死んでいようが死んでいなかろうが、川に投げ込まれた。妊婦の腹は銃剣で裂かれ、中の赤子まで刺された。義父の記憶によれば、初めの頃は20人ぐらいがまだ川の中で息をしていたとか。引き上げる前に、スパイ(注:日本軍に就いたインドネシア人)らは、死んだかどうかの確認をし、まだ息をしている者は、銃剣で息の根を止めた。やがて満足した日本軍はワクパパピへ帰って行った』

『私は、エンプラワス村で虐殺された人数は、700人程度ではないと断言する。いわんや日本軍が報告したような400人とう数値はまったく事実とかけ離れている。1,000人近くの数になる。私はそれら犠牲者の名簿を持っている。さらに慰安婦にされた女性たちの数やその設置場所に関するデータもすべて分っている。私は、すでに書き上げた内容をいつでも出版できる立場にいる。一方、賠償云々について私は発言する立場にはない。史実にどう向き合おうとするのか。そのことを日本に問いたい』
以上抜粋です。これがババル島事件の概要ですね。日本軍はアジア・太平洋の占領地各地でこの種の住民虐殺や戦争犯罪を犯してきたわけですが、矮小化されていて、実際のところはさらにで悲惨で筆舌に尽くしがたいものだったりするわけです。補償はもちろんのこと、調査団を即急に派遣して、アジア・太平洋の占領地で日本軍によって行われたあらゆる事象についてすべてを明らかにして、子孫代々若い世代にこの侵略加害の歴史を伝え向き合う義務があるわけです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 15:14 | Comment(9) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アヘン王、巨利の足跡 新資料、旧日本軍の販売原案も

アヘン王、巨利の足跡 新資料、旧日本軍の販売原案も
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK200808160057.html
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK200808160057_01.html
http://www.asahi.com/national/update/0816/OSK200808160057_02.html
 日中戦争中、中国占領地でアヘン流通にかかわり「アヘン王」と呼ばれた里見甫(はじめ)(1896〜1965)が、アヘンの取扱高などを自ら記した資料や、旧日本軍がアヘン販売の原案を作っていたことを示す資料が日本と中国で相次いで見つかった。取扱高は現在の物価で年560億円にのぼり、旧日本軍がアヘン流通で巨利を得ていたことがうかがえる。
 日本側の資料は「華中宏済善堂内容概記」で、国立国会図書館にある元大蔵官僚・毛里英於菟(もうり・ひでおと)の旧所蔵文書に含まれていた。
 この文書には、里見の中国名「李鳴」が記され、付属する文書に里見の署名がある。毛里は戦時総動員体制を推進した「革新官僚」の一員で、里見の友人だった。内容から42年後半の作成とみられる。
 文書によると、日本軍の上海占領とともに三井物産が中東からアヘンの輸入を開始。アヘン流通のため、日本が対中国政策のために置いた「興亜院」の主導で、「中華民国維新政府」内に部局が置かれ、民間の営業機関として宏済善堂が上海に設立された。
 維新政府は38年3月に成立した日本の傀儡(かいらい)政権だった。
 文書では、里見が宏済善堂の理事長になっている。取引の主流は中東からの輸入品と、日本軍が内モンゴルに設立させた蒙疆(もうきょう)政権の支配地域からのアヘンで、41年度の取扱高は3億元(当時の日本で約1億5500万円、現在の物価で約560億円に相当)だったという。
 また、在庫として、満州国産モルヒネ999キロ、台湾専売局製コカイン277キロが記録されている。計630万元に該当し、「市中相場に換算せば約倍額に販売可能」としている。
 里見は戦後、極東国際軍事裁判法廷に提出した宣誓口述書で、自分は宏済善堂の副董事(副理事)で、董事長は「空席」と供述。幹部の顔ぶれや経理の詳細には触れず、アヘン以外のヘロインやモルヒネは扱わなかったと主張していた。
 中国側の資料は、愛知県立大学の倉橋正直教授(中国近現代史)が南京の中国第二歴史トウ案(トウは木へんに當)館で発見した。
 極秘印がある「中支阿片麻薬制度ニ関スル参考資料」と題する文書などで、この文書は38年10月1日付で軍特務部が作成していた。
 文書によると、蒋介石政権はアヘンの取り扱いを厳禁していたが、旧日本軍の特務部は中毒患者の救済を名目に許可制とする布告文案を作り、維新政府に示していた。
 文書は、浙江、江蘇、安徽の3省の占領地域で人口を2495万7千人とし、うち3%がアヘン中毒と推定。台湾や旧満州国の実績から、維新政府の税収を3173万元(当時の日本で2322万円、現在の物価で約111億円に相当)と見込んだ。
 当時、駆逐艦の建造予算が1隻676万円だった。
 付属する文書には、軍特務部から任務を引き継いだ日本政府の組織と維新政府が交わした覚書の内容も記され、アヘン収入の扱いについて、維新政府側と軍特務部の間で協議することなどが明記されている。
 倉橋教授は、資料について「表向きは中毒患者の救済を掲げながら、軍部が傀儡政権に膨大な利潤が上がるアヘンの流通制度を導入させた実態がうかがわれる」と話している。(永井靖二)
     ◇
 〈里見甫〉 中国の日本語新聞の記者などを経て、32年12月、旧満州国の首都新京(現・長春市)で「満州国通信社(国通)」を設立。日中戦争が始まると陸軍特務部の依頼でアヘン流通を支配したとされ、「アヘン王」の異名をとった。敗戦後は戦犯訴追を免れ、政治・経済の表舞台に現れることなく死去した。
◆秘密主義者の詳細示す資料
 〈里見甫の伝記「阿片王 満州の夜と霧」を書いたノンフィクション作家佐野眞一さんの話〉 里見は極端な秘密主義者だった。「右手がしていることは左手に教えるな」という言葉を生涯の行動規範とし、直属の部下にすら仕事の全容を教えなかった。その里見が、アヘン取引について自ら記した文書が見つかったのは初めてではないか。日本軍の主導でアヘン専売制が敷かれた経緯や、「宏済善堂」の業務などが詳細に述べられ、極めて貴重な内容だ。
大日本帝国・日本軍の侵略・加害事実を取り上げた記事をさっそくですが発見。小さいですが、まだまだこういう資料の発見が続き、大日本帝国・日本軍の国家犯罪の歴史的事実が明らかにされていく現在進行形の状態にあるわけです。性暴力や性奴隷から、強制連行・強制労働、大虐殺・暴行、毒ガス、731部隊、人体実験やら犯した犯罪の数、その質やその規模・量ともに、人類史上例のないものであり、枚挙に暇がない。占領地の女性はもちろん、理不尽な物資の徴発や課税、略奪で、人命も人間としての尊厳も魂もなにもかも奪っていった。その上、占領地に阿片等の大量の麻薬を流し、薬漬けにしてこれでもかというほど布切れ一つ残さぬほどこれでもかこれでもかというほど収奪した歴史的事実があるわけです。
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「日中に信頼関係を」平和考える劇

「日中に信頼関係を」平和考える劇
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000000808160001
「終戦の日」の15日に、旧日本軍兵士の織田文雄さん(88)=三田市=の回想をもとに上演された「桜の物語」は、日中友好を目指して神戸市を拠点に活動する東方文化芸術団の代表で、20年前に来日した元京劇女優の田偉(でん・い)さん(56)が脚本を書き、演出も担当した。田さんは「日本は私の第2のふるさと。中国と日本がお互いに信頼し尊敬しあえる関係になってほしい」と上演の意図を話した。

 2人は07年3月に知人の紹介で出会った。織田さんは中国湖南省で終戦を迎え、田さんは同省出身だったことから、互いに戦争の悲惨さなどを語り合った。織田さんは田さんの手を握って「すみません、私は中国に悪いことをしました」と謝ったという。
 織田さんらは戦況が厳しくなると農民から食糧の略奪を繰り返したという。敗戦で捕虜となったが、ひどい仕打ちをしたはずの中国人は優しく受け入れてくれた。織田さんは何かお返しをしたいと考え、戦友から賛同者を募って桜の苗木400本を現地に寄贈したという。
 田さんは月に1度くらいのペースで織田さんに会い、湖南省での経験を聞いたり、日中友好について話し合ったりしてきた。織田さんが罪を認める潔さに引かれたという。田さんの舞台を見にくるようになった織田さんを「日本のお父さん」のように感じるようになった。「この人のことをみんなに知ってほしい」と昨秋、織田さんを主人公にして1週間ほどでミュージカルの脚本を書き上げたという。
 神戸市中央区楠町4丁目の神戸文化ホールで上演したミュージカルでは中国人8人を含む約50人が舞台に立ち、観客に戦争の理不尽さや平和の尊さなどを訴えた。最後に舞台に立った織田さんは「私は湖南省の人々の心の広さに驚いた。彼らのおかげで無事に日本に帰ることができた」とあいさつした。
 家族で見に来た神戸市東灘区の倉田千尋さん(29)は「子どもと戦争について話をする良い機会になりました。近いようで遠く感じていた中国に親しみを感じました」と話した。

こういうのもいいのでは。きちんと罪を認めて、謝罪するのはいいこと。こういう草の根の交流の場というのも大切だと思います。今年もこういう友好すらぶち壊そうと懸命になっている国会議員の皆さんを含む15万2000匹ほどの蝗がいるようですが、とっとと天に召されてください。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:29 | Comment(42) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朝日・毎日・産経の8月15日、先の大戦社説を検証

朝日・毎日・産経の3社の8月15日の社説の比較

●朝日新聞
終戦から63回目の夏―「嫌日」と「嫌中」を越えて
http://www.asahi.com/paper/editorial20080815.html

 北京五輪第3日の10日、柔道会場に日の丸が揚がり、君が代が流れた。日本人金メダル第1号、内柴正人選手の表彰式だ。  中国人の観衆はどう反応するだろうか。一抹の不安を覚えながら、テレビの中継画面に見入った人もいたに違いない。観衆の多くは起立し、メダリストたちの健闘に拍手を送った。
 だが、わずか4年前にはこんなこともあった。中国で開催されたサッカーのアジア杯。日本代表の試合では観衆の大半が相手チームの応援に回り、ブーイングが浴びせられた。中国との対戦となった決勝では、試合後、日本選手団のバスは群衆に囲まれた。
■生々しい傷跡の体験
 3年前に中国各地で起きた激しい反日デモの嵐も、まだ記憶に新しい。
 そんな嫌日感情がまたいつか噴き出すことはないのか。五輪で繰り広げられる熱戦を楽しみつつも、そんな不安がなかなかぬぐえない。
 中国の人々の嫌日感情が戦争の記憶に根ざしているのは言うまでもない。
 万里の長城に近い河北省張家口。都内で勤務する看護師の三瓶久美子さん(29)が青年海外協力隊員として派遣され、この街の病院で働き始めたのは3年前の冬だった。日中戦争時代、この街は戦略的要衝として日本軍に占領され、その支配は8年間に及んだ。
 「日本人がここに何をしに来た」。自己紹介を終えるやいなや、病室のベッドに横たわっていた老人たちからあがった怒声を、三瓶さんは今でもはっきり覚えている。
 「日本軍の兵隊がおれに何をしたか知っているか」。ある老人はそう言って右手と右足に残る刀傷を見せた。「日本兵は赤ん坊を刀で突き刺し、女たちに手を出したんだ」
 いくつもの病室で、老人たちから向けられた怒りに満ちた視線。戦争のことを知識としては学んできたつもりだった。だが、その心の傷の深さは想像をはるかに超えるものだった。
 それでも日々の仕事をしつつ、老人たちから当時の話を聞き続けた。次第に彼らの表情が和らいできた。2年後に帰国する際、老人たちが心底別れを惜しんでくれたように思えたという。
■抽象化する戦争の記憶
 戦争についての直接の記憶を持つ世代は、どんどん減りつつある。代わって中国社会の中心を担うのは、彼らの子や孫、ひ孫である。そうした世代の嫌日とは何なのか。
 3年前、東京大学と北京大学の学生が「京論壇」と名づけた討論フォーラムを立ち上げた。反日デモの激しさをまのあたりにした双方の学生たちが「日中関係をどうすればいいのか、本音で語り合おう」と呼びかけ合った。
 「日本人はよく軍部の独走などといった逃げ口上を用いるが、われわれから見れば日本は日本、別物ではない」「戦前と戦後の日本の体制は連続しているのではないか」「日本企業は質の悪い製品を中国に輸出している」
 過去2回の討論会で、中国人学生からこうした発言が出たという。昨年の討論に参加した山形宏之さん(25)は、中国側には思いこみや誤解も少なくないと痛感した。しかし、決して単純な嫌日一色ではないことを知ったのも大きな収穫だったと話す。
 かつての軍国主義を恨むと話す学生が、戦後日本の経済発展に対する羨望(せん・ぼう)を語る。靖国神社について批判的な意見が多い中で、戦争で亡くなった肉親を思う遺族の感情には理解を示す学生もいた。
 戦後世代、とりわけ若者たちにとって戦争の記憶とは、多くがメディアや教育などを通じてもたらされる。それだけに抽象的で、時として現実離れした理解をうんでしまう面も免れない。その時その時の政治的要請を反映しやすくもなる。
 中国の5大学の学生を対象にした06年度の世論調査では、「日本を主導する政治思潮」を聞く質問に対し、53%が軍国主義と答えた。自由主義は18%、平和主義は9%しかなかった。
■若い世代の取り組み
 日本社会の嫌中感情にも、似た側面があるのかもしれない。中国の現実よりも、思いこみや毒入りギョーザのような「事件」に影響されやすいのは事実だろう。大国化する中国への反感と閉塞(へい・そく)感から抜け出せない日本自身へのいら立ち。嫌中と嫌日は今の日中関係を映して、合わせ鏡のように共鳴しあっているのかもしれない。
 互いの「嫌」感情を、どう乗り越えるか。今秋の「京論壇」第3回会合の準備に走り回る北京大学の張一さん(19)は「自分たちが学校で受けた教育や家庭での影響などをお互いがさらけ出し合ってはどうか。無理をして歩み寄るよりも、なぜ歩み寄れないのかを知ることが大事だと思う」と語る。
 認識がどこでずれていくのかを探り、柔軟な心で双方の「違い」に向き合っていく。回り道のようだが、それが結局、信頼と友情を手にするための王道なのだろう。時代とともに、そうした違いの中身も急速に変化していくとなれば、なおさらだ。
 中国と日本との間ではこれからもさまざまな摩擦があろう。だが、嫌日と嫌中がぶつかり合うのは不毛である。
 終戦から63回目の夏。五輪が象徴する中国の台頭は、日中関係にも新たな発想を迫っている。若い世代の取り組みにそのひとつの芽を見る。
●毎日新聞
社説:追悼のあり方 静かに議論を続けたい
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20080816k0000m070152000c.html
 63回目の終戦記念日を迎えた15日、福田康夫首相は当初から表明していた通り、靖国神社を参拝しなかった。かねて毎日新聞は首相の靖国参拝に反対してきた。当然の対応であると評価したい。  一昨年は小泉純一郎元首相が参拝に踏み切り、騒然とした一日となった。安倍晋三前首相は昨年、参拝を見送ったものの「参拝するかしないか明言しない」と言い続け、あいまいさを残した。
 これに対し、福田首相は就任前から参拝しないと明言してきた。この結果、靖国問題は政治の表舞台から消えたように見える。
 だが、実情はどうか。この日は現職閣僚の太田誠一農相、保岡興治法相、野田聖子消費者行政担当相のほか、小泉、安倍両氏も参拝した。福田首相だから参拝しなかったのであり、靖国問題は依然、決着していないと見るべきである。
 靖国神社にはA級戦犯が合祀(ごうし)されている。問題の本質は、やはりここにあろう。
 中国人監督によるドキュメンタリー映画「靖国」が今春、「反日的だ」との批判を受け、上映を取りやめる映画館が相次ぎ、さまざまな論議を呼んだのは記憶に新しい。一方で、昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を抱いていたことも近年、明らかになった。
 一部の若い政治家の中には、先の大戦を正当化、美化するかのような風潮が出てきているのも事実だ。しかし、あの無謀な戦争に突き進んだ戦争指導者たちがまつられていることに違和感をおぼえる国民は決して少なくないはずだ。
 では、わだかまりなく戦死者を追悼するためにはどうするか。
 小泉元首相の参拝を契機にA級戦犯の分祀論や靖国神社の非宗教法人化、新たな国立追悼施設建設案などが浮上したが、政界では今、こうした議論はほとんどされていない。
 河野洋平衆院議長が、この日の全国戦没者追悼式で無宗教の追悼施設建設を検討するよう求めたのは、この状況は好ましくないと考えたからだろう。小泉時代の喧騒(けんそう)は終わった。むしろ、静かに追悼のあり方を議論する好機だと考えたい。
 安倍前首相の参拝見送り後、日中関係は改善に向かっているが、中国製ギョーザ問題など新たな難題も出てきている。北京五輪での応援ぶりを見ると中国側の反日感情は根強く、日本国内にも反中、嫌中意識があるように見える。韓国との関係も竹島(韓国名・独島)問題などをめぐり、再びぎくしゃくしている。
 歴史認識をめぐる溝はなお深いということだ。その中心に靖国問題があるという状況も変わっていない。日本はまず、偏狭なナショナリズムに陥ることなく、アジア各国とさらなる関係改善に努めていく必要がある。ここでも大切なのは静かに議論することだ。
●産経新聞
【主張】8月15日 日米の絆を確かめたい
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080815/plc0808150313002-n1.htm
■将来を誤らせぬ鎮魂の日に  63回目の終戦の日を迎えた。日本列島はあの日と同じ蝉(せみ)しぐれの中で「鎮魂」の色に染まる。
 だが一方で今、日本人の関心の多くは、隣国・中国で開催中の北京五輪に向けられている。日本選手の活躍にだけではない。中国の国力を誇示することを最大の目的にしたような五輪のあり方そのものに対してでもある。
 その開会式には日本や米国、ロシアをはじめ80を超える国の首脳が出席した。五輪史上異例の多さである。その中には、チベットの人権問題を理由に欠席を表明していたフランスのサルコジ大統領の姿もあった。
 ≪「大国」見せつける五輪≫
 中国による外交戦術の成果という面もある。だがそれよりも、経済発展や軍拡によるこの国の強大化を、世界中が良くも悪くも無視できなくなってきたことの表れといっていいだろう。
 「帝国」復活を思わすような中国の台頭は、日米安保条約による米国との同盟を軸に、安全と繁栄を保ってきた日本の国家戦略を根本的に揺さぶる要素にもなってきた。それだけに、北京五輪の最中に終戦の日を迎えたことは、日本の戦後と将来を考える上で大きな意味を持っているといえる。
 米国のブッシュ政権は、北朝鮮の核申告と引き換えに11日にも可能だった同国へのテロ支援国家指定解除を延期した。だがこれは、指定を拉致問題解決のカードとして期待してきた日本にとって気休めにしかならない。
 米国世論が中国に傾斜していくのは避けられそうにない。米国が東アジアの安全保障の枠組みで、日米同盟より6カ国など多国間の交渉に重点を置いていこうという流れを止めるのは容易ではないとみられるからだ。
 しかし日米同盟を軽視し、これを無力化させようとしているのは米国だけではない。
 インド洋で日本の海上自衛隊が行っている米国などの艦船への補給活動は今年になって約3カ月も中断した。国会の衆参ねじれでテロ特措法の成立が大幅に遅れたためである。
 新たな法律が必要な補給継続をめぐっては、野党に加え公明党も反対するなど極めて難しい状況だ。補給はアフガニスタンでのテロとの戦いを進めるためのものだ。これでは、米国内に「日本は助けを求めるだけで助けにはこない」と、日米同盟への疑念が生じても仕方あるまい。
 ≪日英同盟の廃棄に学ぶ≫
 今、日本国内にも「国連中心主義」を唱える民主党の小沢一郎代表をはじめ、日米同盟より多国間の協調を重視する声が急速に強まっている。こうした状況は、かつて日英同盟が廃棄されたときと似ていると言わざるをえない。
 明治35年(1902年)に結ばれた日英同盟は、日露戦争での日本の勝利に貢献し、国際社会での日本の安定した地位を確保させた。しかし大正10年(1921年)のワシントン会議で、新たに日米英仏4カ国条約を結び、同盟は廃棄された。
 中国への進出をうかがう日本への反発から、日英間に亀裂を入れようとする米国や中国の外交戦略に乗せられたためだった。日本国内にも「新外交」として同盟より多国間の協調を求める空気が強まっていた背景もあった。
 4カ国条約は太平洋地域における国際協調をうたっていたが、同盟とは異なり、何ら日本の安全を保障するものではなかった。唯一の同盟をなくした日本は国際的孤立を深め、先の大戦での破滅の道をたどることになる。
 今、日米同盟に代わり、価値観の異なる中国や、領土問題などで日本に敵対姿勢を強める韓国などと、多国間の枠組みを選ぶとなれば、日本はまた、孤立の道を歩むことになるだろう。
 むろん外交は、相手国があってのものだ。米国の「変心」に備えて「自立性」を強めることも大切である。
 だが、その前にやるべきは、補給の継続などにより「同盟の成果」を示し、日米の絆(きずな)を確かめることだ。中国や北朝鮮などによる同盟への揺さぶりや、これを弱体化させる動きは封じていかなければならない。
 国の将来を誤らせないような設計図を描かなければならない。それこそ、300万人にも上った先の大戦の戦没者たちの霊を慰めることになるのである。
8月16日の記事ですが、靖国関係なので
【主張】終戦の日と靖国 福田首相はなぜ参拝せぬ
http://sankei.jp.msn.com/life/education/080816/edc0808160333001-n1.htm
 終戦の日の8月15日、東京・九段の靖国神社には、今年も多くの国民が参拝に訪れた。だが、福田康夫首相の姿はなかった。予想されたこととはいえ、残念である。  福田首相は昨年9月の自民党総裁選時から、靖国参拝問題で「友達(中国、韓国など)が嫌がることはしない」と述べ、今年8月15日に向けても「私の過去の行動を見てほしい」と参拝しない意向を示した。
 福田首相は中国製ギョーザ問題でも、中国で中毒事件が起きたことを洞爺湖サミット中に知らされながら、中国への配慮から、それを1カ月も隠していた。
 隣国への配慮も結構だが、肝心の国民のことをどう考えているのか。国を代表するリーダーなら、まず、国民のことを考えて行動してもらわなければ困る。
 靖国神社には、幕末以降の国に殉じた246万余柱の霊がまつられ、うち213万余柱は先の大戦の死者だ。それだけ終戦の日の参拝の意義は大きい。とりわけ、首相以下の閣僚による靖国参拝は、国を守るという観点からも、重要な意義を持っている。
 この日、靖国神社に参拝した閣僚は保岡興治法相、太田誠一農水相、野田聖子消費者行政担当相の3人にとどまった。福田首相が率先して参拝していれば、以前のように、多くの閣僚がそろって参拝したであろう。
 一方、日本武道館での全国戦没者追悼式で、河野洋平衆院議長は「政府が特定の宗教によらない、すべての人が思いを一にして追悼できる施設の設置について、真剣に検討を進めることが強く求められている」と述べ、無宗教の国立戦没者追悼施設の建設が望ましいとの考えを表明した。
 この構想は、福田首相が小泉内閣の官房長官だったときに発足した懇談会で浮上し、多数意見として報告されたものだ。しかし、国民の間から「戦没者慰霊の中心施設である靖国神社を形骸(けいがい)化するものだ」といった強い反対意見が出され、棚上げされていた。
 それをあえて、戦没者追悼の場で持ち出すべきことだろうか。衆院議長の見識を疑う。
 この日の靖国神社は、戦没者遺族にまじって、親子連れや若い学生、カップルらの姿がさらに目立っていた。靖国参拝が、遺族から子や孫の世代へと確実に受け継がれていることをうかがわせた。この参拝風景を定着させたい。
3社でそろったわけですが。私の基準からすれば、朝日や毎日も不合格です。まだまだ、大日本帝国・日本軍の侵略加害歴史に対する認識は甘いですね。あえて、3社の中で選べば、朝日新聞が唯一具体的に都内で勤務する看護師の三瓶久美子さんが中国の老人から聞いた日本軍の加害事実に触れ、後は戦争を知らない世代が増えていく中で、日中の若い世代が不毛な嫌日・嫌中のぶつかり合いを乗り越え、対話を通して相互理解を深めていこうという具合に結んでいるのでいて3社の中では一番いい出来です。合格点はあげられないけど。
毎日新聞の場合、靖国神社が追悼施設というのは論外だが、過去の加害歴史をなおざりにしたまま、一方的に別の追悼施設をつくる議論をする資格はあるのか、国家による慰霊追悼そのものが許されるかどうかの議論に踏み込んでない。不合格。参考記事:8.15 集会とデモ●小泉は靖国に行くな!国家による「慰霊・追悼」反対!のお知らせ。で論外は産経である。プロパガンダ丸出しで、反中プロパガンダに加えて、日英同盟を持ち出して、日米同盟を是としてあたかも日本を米国と心中させたいばかりの主張ですね。「国の将来を誤らせないような設計図を描くことが、300万人にも上った先の大戦の戦没者たちの霊を慰めることになるとか」書いているのですが、産経の"国の将来を誤らせる設計図"だと、先の大戦の戦没者たちに加えられる霊が増えて、先の大戦の戦没者を慰めるばかりか悲しみのどん底に落としますね。
で一番許せないのが8月16日の主張。とっとと産経死ねよ。日本人を全員、日帝奴隷の気持ち悪い靖国蝗にしたいばかりの社説ですね。産経は屑で、こういう右翼新聞は大日本帝国・日本軍の犠牲者の魂や尊厳を傷つけた罪で発禁処分が相応しいようです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:23 | Comment(24) | TrackBack(0) | 大日本帝国・侵略戦争・戦争責任関係ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

靖国参拝:15万2000人祈りささげる

靖国参拝:15万2000人祈りささげる
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080816k0000m040066000c.html
 63回目の終戦記念日を迎えた15日、東京・九段の靖国神社では、昨年より1万3000人少ない15万2000人(神社発表)が戦没者へ祈りをささげた。  石原慎太郎都知事の参拝を見守っていた足立区の菊池四郎さん(78)は少年飛行兵の生き残り。「戦争は大反対だが、国へ若い命をささげた人に誠を尽くすのは人として当然」と話す。Tシャツにサンダルの渋谷区の女性(19)は、好きなアイドルの出演した映画で靖国を知り、「一度来てみたかった」。周りの参拝者の様子をまね、手を合わせていた。
 13年前から旧日本軍の軍装で参拝する栃木県の男性(81)は境内の雰囲気の変化を感じた。小泉純一郎元首相の参拝が問題になった2年前までは参拝者から拍手を受けることが多かった。だがこの日は無言でカメラ付き携帯電話を向ける人に十重二十重に囲まれ、参拝に一苦労。「珍しがってくれるのはいいが、あのころの熱気はなくなったねえ」【林哲平】
15万2000って、全く気色悪い。先の大戦のことを"侵略ではなくアジアの解放だった"と嘯く戦争賛美のプロパガンダ施設へ恥ずかしげもなく参拝する蝗が15万2000匹もいるのか。大変腹立たしいし、戦前の体制を懐かしみ、時計の針を逆に回し、過去の天皇軍国主義ファシスト体制へ戻したい連中が15万2000匹も蠢いている事実に腹立たしくて仕方ないよ!!!
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:26 | Comment(20) | TrackBack(1) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

8月15日は大日本帝国ファシズム体制解放記念日、63年前に存在した大東亜共栄圏というキリングフィールド

お久しぶりです。公私ともに多忙で、忙しくGW以来更新できなくてすいませんでした。とはいっても本当に忙しい。でもせめてこの日だけでも更新しようと思い頑張ります。世の中は北京オリンピック真っ最中で、特に大日本帝国・日本軍の加害歴史清算の動きに大きな進展はありませんでした。悲しい限りです。日本において何よりも優先しなければならない課題が大日本帝国・日本軍の加害歴史清算であり、日本の社会、政治、国家体制のあらゆる部分に悪性腫瘍のように巣くう大日本帝国の残滓の排除です。
それどころか、どんどんと後退しているように感じました。北京オリンピックを少しだけ見る機会がありましたが、日本選手団の行進や観客席で翻る大日本帝国の侵略戦争で犠牲になった人々の血で染まった日の丸。まさに虫唾が走ります。北京オリンピックで中国に来ているどれほどの日本人が過去に日本軍がこの地で幾多の酸鼻を極めた残虐行為・蹂躙を行ってきたことを認識しているのか、果ては日本軍がこの地で中国と戦争を行った歴史の事実すら知らないで呑気にスポーツ観戦しに観光気分で来ているのではないかと思えて腹立たしくなって仕方がない。オリンピックには韓国や台湾、フィリピン、他の東南アジア諸国など大日本帝国・日本軍の侵略の餌食になった国々も参加しているのだ。
仕事の関係でフィリピンから帰還経験がある方など戦争体験者と話をする機会があったのだが、改めて過去の大日本帝国の罪の数々を認識させられた。人類が地球に生まれて文明を築き上げて以来、天災・自然災害、飢餓・飢饉、疫病、戦争、民族浄化、独裁政治による弾圧・残虐統治、流血等の数々が人類に降りかかってきましたが、大日本帝国・日本軍が盧溝橋事件より始まる侵略戦争において北京オリンピックで日本人がたくさん訪れている中国や他のアジア・太平洋地域に対して行った残虐とその結果起きた悲劇・流血・惨禍にかなうものは現在に至るまで存在しません。その広島・長崎における原爆投下の惨劇もかつて中国や他のアジア太平洋地域に行ったこととその被害に比べれば、1億分の1にも満たない取るに足らないものです。
大日本帝国・日本軍がアジア・太平洋地域を侵略し、占領し、その占領下で行われた数々の弾圧・圧政・流血、婦女子への強姦所での集団レイプなどの性暴力の数々、それらを総称してなんといったらいいかと迷いましたが、"大東亜共栄圏というキリングフィールド"という呼び名が相応しいでしょう。現に多くの殺戮が行われていました。日本国内においては、朝鮮人や中国人などが強制的に連れてこられ、炭鉱や鉱山、製鉄所や工場、鉄道・道路で働かされた。ナチスの強制収容所が天国と思えるくらいに過酷なもので、日本国内においても数々の収容所群島が存在したのです。まさに、大東亜共栄圏という名のキリングフィールド。北京オリンピックを見に行く日本人もお茶の間で観戦している人たちが大日本帝国・日本軍が西はビルマ、アンダマン・ニコバル諸島、南はラバウル、ソロモン諸島、東はギルバート諸島や北はアッツやキスカ島にまでいたる広大な地域を占領し、そしてそれらの地域で殺戮の修羅場に変えて、大東亜共栄圏という広大なキリングフィールドをつくりあげたという悔いても悔いても悔い切れない過去の事実を認識しているのだろうか。そのことを考えつつ、今の現状に胸が締めつけられて苦しい思いです。衆議院選が近いようですが、民主党をはじめとする野党内の良識派が勝って、過去の清算の動きが停滞した苦く苦しい現実に終止符を打ってくれることを願わずにいられません。これが8月15日に感じた私の思いです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:32 | Comment(39) | TrackBack(2) | 日々の雑感ならびに考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月04日

お知らせしないです(BlogPet)

右翼討伐犬は、お知らせしないです。
だけど、きょう右翼討伐犬は即位しなかったよ。

*このエントリは、ブログペットの「右翼討伐犬」が書きました。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 07:34 | Comment(7) | TrackBack(0) | BlogPet用 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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