まず、各国の教科書に日本軍の占領時代がどう書かれているのかみてみよう。
マレーシア、ミャンマー、フィリピン、インドネシアの教科書の日本
http://web.hpt.jp/ficus/newpage25-INNDONESIA.htmマレーシアの「歴史の中のマレーシア」より。
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日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まる
で自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座
を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。
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ブルネイの「ブルネイの歴史」より。
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一九三八年、日本は「東亜新秩序」を宣言した。それは、日本が蒋介石政府
を打ち倒し、中国を手中に収めるためのものであった。また新秩序は、東アジ
アにおけるすべての西洋列強を排除することも目的とした。日本のスローガン
は「アジアのためのアジア」であった。
―――――――――――――――――中略――――――――――――――――
日本陸軍は、その後すぐ、その新秩序を宣伝し始めた。その新秩序は、日本
陸軍の宣伝が乱暴かつ横暴だったために、ブルネイの人々の歓迎を受けなかっ
た。クアラ・ベイトの住民は油田の労働にかり出され、村人は穀物の生産を強
いられた。彼らはまた、日本の軍事規律を無視したもの達に対して行われた大
量処刑を目の前で見せられた。
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ミャンマーの「ビルマ史」より
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「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファ
シスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権
力を見せ付けたのは、日本軍のキンペイタイン(憲兵隊)である。憲兵隊が管
轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も
口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問さ
れ、さらには虐殺されたのである。
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タイの「歴史学 タイ2」
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タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。
タイ人グループの中には、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対する
ものもあった。
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フィリピンの「フィリピンの歴史と政治」
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東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フ
ィリピン人全体で一一一万人千九三十八人が戦死した。このなかには、戦場や
日本の捕虜収容所で死亡した兵士たち、また日本軍によって虐殺された市民(
男性・女性・子供たち)が含まれている。
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インドネシアの「社会科学分野・歴史科第五分冊」
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当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族に
歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれ
るだろうと期待した。
どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、
日本がやってきてまもなく、次のような宣伝を展開したからである。
―日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネ
シア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
―日本が「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、並外れた苦
痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころかインドネシア民衆を圧迫し、
摂取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超え
る、非人道的なものだった。資源とインドネシア民衆の労働力は、日本の戦争
のために搾り取られた。
もちろん、大日本帝国・日本軍の侵略や加害事実に当てる分量や表現の違いはあっても、日本軍の占領を侵略と捉え、憲兵隊などによって残虐な支配がされたとしている記述は各国同じである。どの国も日本軍による占領が前宗主国(インドネシアならオランダ、マレーならイギリス、フィリピンならアメリカ)以上に残酷で、より多大な苦痛を蒙ったとしている。
アジアの教科書に書かれた日本の戦争
<東南アジア編>
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/war/textbooks/asianwar/
をさらに見てほしいと思う。
http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00323/classes/history/topics/war/textbooks/asianwar/indonesia1.htmlより抜粋
その実態はおづであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代()のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシアの民衆の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。
農地造成のための場当たり的な森林伐採は、結局のところ、食料増産にはつながらず、それどころか逆に収穫は減少した。思慮を欠いた森林伐採は、土地の浸食と洪水の原因となった。浸食は土地の肥沃度を低下させ、灌漑に不可欠な水源をかれさせた。洪水は、稲作を破壊した。
そのほかにも、農業生産を減少させた原因があった。
ーー優れた農業技術を欠いたまま、農業が続けられていた。日本は、その国内で実施していたような、近代的農法の指導をしたことがなかった。
ーー日本軍政府は、軍隊の消費のために家畜を大量に殺した。その結果、家畜の数が次第に減少していった。しかし、農民たちには、田を耕すために、家畜が必要だった。
ーー民衆は、各自の庭でヒマを栽培することを義務づけられた。その収穫は日本軍政府に引き渡さねばならなかった。これは、オランダ東インド政府時代の強制栽培とどこが違うだろうか。結果的に、耕地は減少し、農民には田で働く時間が不足してきた。
ーー多くの民衆が無理やりロームシャ()(強制労働者)にされた。こうして、田を耕作する労働力が、しだいに減少していった。
農業生産はすでに減少していたが、民衆は依然として収穫の80パーセントを、日本軍政府に引き渡すよう強制された。
この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた。飢餓の危機がいたるところで発生した。栄養失調で腹ばかりがふくれた。多くの人びとが死んでいった。道端や店先など方々で死体が目撃された。
一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地時代には、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシア国内で加工することは、まだできなかった。
その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、綿やシュロの繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことができない民衆もまたいたのである。
もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人びとだった。彼らは田舎の出身で、多くは文字が読めなかった。もし教育のある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。
そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕が、いまでも残っている。カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのは、その一つだ。
ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林で働かされた。それどころか、例えばマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、国外で労働させられた人びともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だった。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その仕事だった。それとともにロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。かららが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼らの健康は、配慮されなかった、衣服は満足に配給されなかった。彼らは食糧を与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカ()の粉の粥だった。それも1日1回であり、量もきわめて限られたものであった。
その結果、何千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることがなかった。彼らは、働かされていた森林で世を去ったのだ。
この事実を目にして、多くの青年たちが村々から姿を消した。彼らは、ロームシャにされることを恐れて逃げたのだ。もちろん、これは地方の農業に悪い影響をもたらさざるをえなかった。その結果は、どのようなものだったのか、いうまでもないだろう。
おのずと理解できただろう。日本軍占領がいかにインドネシア人を苦しめ、蹂躙したのかを。インドネシアは日本軍のアジア解放論で最もよく持ち出される国だが、とんでもないことがわかる。インドネシア人は日本軍によって最も協力させられたあげく、食料を供出されて餓死し、ロウムシャとしてヘイホとして扱き使われて捨てられ殺された(虐殺といっても過言ではない)のである。
教科書だけではわからないので、実際にインドネシアに滞在したブログやサイト管理人の文を参考にします。
刺龍堂ブログ
http://shiryudoh.blog.ocn.ne.jp/ron/2006/01/style_of_asian__3.htmlより
スマトラの人々は非常に親切でした。どこに行ってもご馳走してくれるし、気にかけてくれる。そんなインドネシア人と日本人の僕という間柄でしたが、過去に国同士では、暗い歴史があります。
ガライ・シアノッというインドネシアのグランドキャニオンと言われるところでは、巨大な防空壕があるのですが、そこは旧日本軍がインドネシア人達に強制労働させ、作らせたところと言います。動けなくなった人間は、刀で切捨て、大勢の人が崖から投げ捨てられたと言います。(略奪)他の島々でも日本軍による虐殺があったという話はごろごろあります。肉親が食われたという話も耳にしました。
しかし現在、日本ではそのような虐殺はなかったという事を訴えています。
これが真実かどうかは分かりません。
ただ僕にはこんなインドネシア人達がよく言う言葉が印象的でした。
オランダ統治の300年間よりも、日本の3年間の圧制の方がきつかった。
教科書のみならず、オランダ統治の300年間よりも、日本軍占領の3年間の残虐の方がきつかったと、草の根の民衆の間で世代を越えて語りつがれていることがわかりましたね。余談ですが、肉親が食われたという話ですが、日本兵による人肉食がインドネシアでも行われていました。ニューギニアにおける人肉食(ゆきゆきて神軍がその代表例)、そしてミンダナオ島をはじめとするフィリピンにおける残留日本兵による人肉食(もの食う人びと)があります。世界中で人肉を食う狂気を見せた蝗軍の実態でしょうね。
ガルーダの翼に乗せて 第8章
http://www.keicho.com/indonesia/garuda8.htmlより
インドネシアは日本軍の占領下に入る前に、数百年にわたってオランダの植民地であった。しかし、オランダの支配には誇りを持って懐かしみ、オランダ語を使う老人達もいる反面、日本軍の侵攻に対しては、思い出したくない悪夢という印象が強いという。この違いはどこから来るのだろうか。当時の日本軍が、相当残酷なことをしたと思わざるを得ない。また現在でも、インドネシアでは欧米人は尊敬されるが、日本人は尊敬されないというのを聞いたことがある。欧米人は仕事を離れても、インドネシア人に無償で教育を施したり、文化を教えてくれたりするそうであるが、日本人は単に打算的で、仕事以外は全く閉鎖的で現地に溶け込もうともしないという。現地の人たちの最大の不満は、インドネシアに進出している日本の企業に就職しても、日本人ではないという理由だけで給料も安く、いくら優秀な人材でも高いポストに就けないことだという。これでは、現地の人たちに顰蹙を買うだけである。こんなことをしているから、未だに日本は何をしでかすか分からないと、アジア諸国に根強く残る日本軍国主義復活への不安感を拭い去ることができない。莫大な円借款のために日本に遠慮をしている彼らの気持ちが分からないようでは、真の友人となるべきアジアとの精神的な距離を縮めることなどできない。
これがインドネシアの人々の本音でしょうね。オランダ時代を懐かしむ人はいる一方、日本軍時代は残虐な悪夢というのが実態でしょう。オランダへの独立戦争という側面もありましたから、終戦直後は、オランダからも独立したいというのが終戦直後のインドネシア人の気持ちかもしれません。その当時のインドネシア人が老人となり、昔のことに思い出し、日本軍とオランダを比べると、オランダの時代は良きものがあったと懐旧の思いに浸るのです。共産主義から解放され、民主化した後の東欧やロシアの人々に、当時は共産主義からの解放を訴え、闘ったはずが、不況や治安の荒廃を目にするあたり、昔の共産主義時代に誇りと懐かしさを感じるという気持ちと同質のものでしょう。オランダ時代にはそういう回顧の情の気持ちがでてくる一方、日本軍占領時代に関しては、直接の残虐行為の被害者にならなくても、ひたすら残虐で苦しかった思い出したくない思いが残るのですね。オランダ時代より比べ物にならないほど残虐だった日本軍時代という答えが皆様の頭の中ににでたはずです。
パパバリ・三浦襄と南方楽土の夢
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura.htmlより、バリ島における日本軍占領時代とはいかなるものか見ていきたいと思います。
日本軍占領下のバリ島に偉人がいました。三浦襄という方です。右翼が喜びそうな話ですが、絶対にそうではありません。彼の話は大日本帝国・日本軍の支配の蛮行、非人道性、残虐性を物語るものです。
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura2.htmlから
そして翌日の9月7日、日本によってインドネシアの独立が許容されるはずだった日の明け方に、島の人たちに日本軍が占領した3年間を詫びる遺書を残し、拳銃で自決した。「この戦争でわが祖国日本の勝利を念ずるためとはいえ、愛するバリ島の皆様に心ならずとも真実を歪めて伝え、日本の国策を押しつけ、無理な協力をさせたことにお詫びする」としたためていた。そして、捕虜となる日本人が無事故国へ帰還するまでの支援を依頼していた。日本人が無抵抗で屈従したのは天皇の諭によるものだから、彼等の尊厳を尊重して欲しいとも懇願した。
この戦争を機会に植民地支配をはね除けて、アジアの国々は独立を果たした。日本が意図した「八紘一宇」と「大東亜共栄」の構想は、西欧列強支配の肩代りでしか無かったが、この三浦襄のように同じアジアの友として真の幸せを願い、独立を支援した数多くの日本人がアジアの各地で汗と血を流したことを銘記したい。どうか永久の友情のために、語り継いで欲しい。そして日本人がアジアの一員であることを、忘れないためにも語り継いで行きたい。
明確に大日本帝国・日本軍によるアジア解放論を打ち砕いていますね。日本軍の政策を押し付け、無理に協力させたことをお詫びしている。彼も大日本帝国・日本軍の支配に参加した加害者であるが、その最後は悲惨だった。バリ島民と大日本帝国・日本軍の相反する意識の狭間で非常に苦しんでいると思う。
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura11.htmlより
進駐した日本軍は大規模な収容所を作りオランダ人ら敵性国民を収容し朝鮮人と台湾人の軍属に管理させましたが、戦乱で生じた難民や孤児への対策はまったく手を着けませんでした。駐軍の軍属としてバリに戻った三浦襄はまっさき孤児院作りに着手し、琉球人漁夫の妻たちを寮母として雇い入れ自分たちの子どもと孤児たちの面倒を見させました。孤児院の運営費用は私費で賄い、のちに軍の民生部から資金援助の申し出があっても、自主性が損なわれる恐れからその申し出を断わったようです。
なんと、人道の精神に溢れる人なんだろうか。本当にそんな日本人があの時代にいたのかと信じがたい気持ちだ。 日本軍将兵が進駐していることで、毎日牛と豚が数十頭づつ食用に供されていました。そのうちにバリ島内全ての農耕用水牛まで食べ尽くしてしまう恐れが予想されたので、そのような事態が起こらないようにと食肉缶詰の備蓄が計画されました。軍からの要請ということにして事業を進め易くして、台湾を主とした東南アジア各地から牛と豚を輸入して缶詰に加工しました。皮革製品を開発し獣毛がブラシとなり骨で日用品の柄を作るなどして、捨てる部分を出さず完全利用して家内工業を育成しました。この事業は「三浦商会」という名称で自身は社長に就任しましたが、軍との渉外役に徹して運営の全てをバリ人に任せました。前出のブジャ氏と共に軍の民政部の特別顧問に就く前から、民政官の役割を果たし民政の安定に尽くしました。軍の民政官には望めない事柄にまできめ細かく対応し民衆の福祉の充実に尽力したので、バリの老若男女全てから「パパ・バリ」という愛称で呼ばれていました。"バリのお父さん"という意味合いよりも、ローマ法皇が「パパ」と呼ばれているような意味合いで"聖者"のように敬愛されました。
日本軍はアジア・太平洋の膨大な地域を占領するに至ったが、各地に日本軍の進駐を維持するためには物資、とりわけ食糧が必要である。膨大な数の兵員を食わせないといけない。本土から食糧を輸送するのではなく、現地自活を絶対方針とした。現地自活とは、各地にいる部隊はその土地で食糧を調達しろということである。もちろん、ラバウルなどの一部では耕作したりとか、初期には物々交換や現金調達などの乱暴な手法を使わない場合もあったが、しかし、大半は徴発と略奪によるものである。バリ島でも牛と豚などの家畜を現地の人々に食用として供出されていました。日本兵は現地の食糧事情などお構いなしに、食料を奪う。やがては、食糧は食い尽くされ、農業用の水牛までも取り尽くされ、バリ島民に大規模な飢餓が襲うことは確実でしょう。日本軍が進駐したアジア・太平洋のほとんどは食糧不足でベトナムのように大規模な飢餓が生じた場合もありました。まさに、自力で調達せず、現地民から強制的に収奪し、餓死者がでようと、農業生産が破綻しようとお構いなしに、籾まで供出させ、ひたすら食い尽くす蝗軍なのである。バリ島のような小さい島なら、なおさらのことでしょう。三浦氏は予想されうる最悪の事態を食い止めたのである。それでも
http://www.hcn.zaq.ne.jp/rukisan/Diary2003.htm その実家に泊めてもらった時のこと。彼のおじいさんに僕が日本人だというと日本軍が占領していた頃の話をしてくれた。軍の食料の徴収が厳しくて食べる物が無くなってとても辛かったという話しを聞きながら果実の女王といわれるドリアンをご馳走になった。それまでうかつにも日本軍がバリ島の歴史に登場するとは思ってもいなかった。高原とはいえ熱帯の夜の空気は甘くねっとりとした香りをまとわせ、ドリアンの濃厚な味と舌触りと良い勝負をしていた
のように、バリ島に日本軍の食料の徴収と飢えの話が出てくるあたり、いかに過酷だったということを示す。三浦氏がいたバリ島でさえ、こうなのだから、ほかの地域、特に日本軍に進駐された小さい島・離島なんかの悲惨さは想像をはるかに絶するものであろう。 バリ島民の生活はそれなりに豊かで信仰心は強く、島内に乞食と売春婦はいませんでした。にもかかわらず慰安婦を要求することがあり、バリ舞踊の踊り子たちをそれに代えようとしました。それに対してバリの宗教と文化を説明して、踊り子は神に仕える巫女のようなものであり仏に仕える尼僧のようなものであると納得させました。そして、是非と言うなら還俗させなければならないし、それには日数がかかるからと諦めさせました。不幸にして将校宿舎の下働きとして雇い入れると騙され、被害にあった女性を孤児院の寮母として"居場所"を与えました。
日本軍は人権も人道も人間性も一切欠いたどこまでも卑劣な組織であることを思い知らされる。
一切欠いたどこまでも卑劣な組織であることを思い知らされる。
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part6
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13238032.htmlでは、もともと性を売買する習慣のない土地に不浄な売春を持ち込んだりしている。バリ島でも同様のこと。日本軍はバリ島でも売春婦がいない、信仰心が強い土地柄でも慰安婦、いや性奴隷として女性を狩ろうとしていたのです。日本軍のいるところ、日本兵の去ったところ処女なしと言われています。慰安婦、性奴隷として幼い少女を含む多くの女性を連行し、陵辱の限りを尽くしました。規律もきわめて粗暴で慰安所外の女性もレイプされたのです。だから処女なしです。世界の軍隊のなかでもずばぬけて好色な日本軍にとって、女は肉便器以外のなにものでもないのです。アジア・太平洋地域の日本軍が進駐した地域で、性奴隷にされたり、強姦されたりした女性は数知れません。バリ島でも現地の信仰心や宗教や文化を無視して、性奴隷としての女性の供出を強制したのです。日本軍は女性の中でもとりわけ、非売春婦・処女、特に幼い少女や美人が大好きでしょう。売春婦がいない貞操を大切にするバリ島の土地柄は駐屯した日本軍にとって好みの女を収集する環境としては抜群でしょうね。最初にバリ舞踊の踊り子に目をつけ、彼女らを日本軍専属の性奴隷に変えようとしたのです。三浦氏は日本軍を説得して、あきらめさせようとしました。あきらめたかのように見えましたが、将校宿舎の下働きにするとバリの女性を騙し、性奴隷として奉仕させていたのです。多くのバリ女性が日本兵によって、性奴隷を強制されて、強姦・輪姦されました。多くの被害者がバリ島にもいたことでしょう。日本軍は本当に許しがたい犯罪集団です。そういう系譜を受け継いでいる連中に対してますます怒りが沸いてきます。
http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/miura12.htmlより
語り継がれた有名な事件として、スパイの嫌疑をかけられ銃殺刑にもなりそうな小学校の先生を機転をきかせて救ったことがありました。無実の罪で罰せられる人たちをたくさん救ったことはありましたが、機転のきかせかたが絶妙だったのでしょう。それは、平穏な生活を続けている日々であっても、夜間は外出禁止で特別な許可証を持たないものは逮捕されて処罰を受けました。
子どもの病状が悪化して医者を呼びに行きたくても夜間外出許可証を持たない教員の父親が、友人の警察官からその許可証を借りて医師を呼びに街へ出た際に起こった出来事でした。運悪く陸軍の巡察隊に出会ってしまい尋問をうけました。警察官になりすますことはできたのですが、私用外出に「公用証」を持っていたことで不審に思われ、分屯地内の司令部に連行されてしまいました。警官で無くて教員であることがばれて、スパイであろうということになりました。
バリ人の間で評判の悪い日本人のことを「ニップ」またはバリ語で「ゆでたまご」の意味の言葉で呼んでいました。なぜ「ゆでたまご」と呼んだかは、日本兵は場所を選ばず何処ででもドラム缶風呂に入っていたので、水浴の習慣しかないバリ人たちには奇妙なことと思えたようです。またバリ人はバリ・ヒンドゥの宗教的習慣から、中国の「風水」に似たこだわりがあったのです。一方的な尋問を受けてついこの言葉を口にしてしまい、新任の若い将校を怒らせてしまったのです。
先任の特幹准尉は悪意の無いことを知っていたので仲裁にでましたが、大学出のエリート少尉のプライドが事態をこじらせてしまったようなのです。急を知らされ駆けつけた三浦襄は、病気の子どもの医者呼びであってスパイでないことを説明して納得をして貰いました。しかし、引っ込みがつかなくなったエリート少尉は一度判決した銃殺刑を撤回出来ません。事態は膠着し、夜は明けて来て一番鳥が鳴き始めました。
エリート少尉の体面に傷がつかないよう配慮すれば解決できると考えた三浦襄は、日本人に馴染みのある「大岡裁き」や「相撲の痛み分け」の例を出し、江戸時代の昔から死罪を避ける方便として「遠島流罪」と「処払い」があることを思い出して貰いました。そのことから事態は急転して、銃殺刑が"閉居謹慎"刑に変更されました。デンパサール市内から「処払い」となり、郷里へ「遠島流罪」となったのです。殆ど無罪放免と変わらない処置であったことに気付かれることを心配するむきもありましたが、その人たちに「英語は解ってもバリ語は解らないから心配ない。バレるころには他の任地へ転属だろう。暫く辛抱してデンパサールが静かになったら、もとの教員生活に戻れば良い。」と涼しい顔をして言ったとのことです。バリと日本の双方の事情に詳しくて、バリ人のために尽力してくれたのですから、なによりも心強かったことと思います。
平穏な日々(日本軍占領地の人々にとってはどこも平穏ではないのだが)でも、夜間外出禁止令が敷かれていました。バリ島だけでなく、どこの日本軍占領地でもそうでしょう。とてつもなく不自由な生活をバリ島民は強いられていたわけです。日本軍の恐怖とあわせて、息が詰まる地獄のような日々だったでしょう。とんだ事件が起こります。夜間に子供の病状が悪化して、医者を呼びにいきたいがために、友人の警官からその許可書を借りて町へ外出したときにおきた出来事でした。途中、陸軍の巡察隊に出会い、捕まって尋問を受けてしまいます。やがて、警察官でないことをばれて、スパイ容疑で逮捕という筋書きです。ところで、バリ島の人々は日本兵のことを"ニップ"という蔑称を持って呼んでいました。バリ島だけではなく、占領されたアジア・太平洋各地に日本兵に対する蔑称は多くあります。それだけ、日本兵は横暴で、現地の人々の憎しみを買っていたということでしょう。一方的な尋問のなかで、この蔑称を日本兵に対して使ってしまい、若いエリート将校を怒らせてしまったのです。三浦氏が知らせを聞いて駆けつけ、子供の医者呼びであり、スパイではないと誤解は解けたのですが、若いエリートの少尉は一度出した銃殺刑を自身のプライドのために、撤回しません。日本軍というのはとても体面にこだわります。エリートであればなおさらです。自分自身の体面のほうが一人の人間の命よりも大切だというのでしょうか?そういうのは日本軍では当たり前で、インパールやガダルカナルのような多くの日本兵を餓死に追いやったという悲惨な失敗を招いたのも、人間の命より自分ひとりの体面が大切だという日本軍上層部のエリートに一因があることは間違いありません。
バリ島の三浦氏は機転を利かせ、銃殺刑から一人の人間を救いました。日本軍の体制側に協力する日本人(日本兵を含む)として極めて珍しい偉人でしょう。ちなみに、ほかのケースとして横小路喜代美中尉という、マレー半島のイロンロン村で憲兵隊から住民を守ろうとした人物もいた。そういう人もいたことが確かだが、当時の日本人といえば、日本兵以外の現地在住の日本人を含めて、鬼の形相で、時に薄ら笑みを浮かべながら、没人間的で残酷非道な禽獣(多くの当時のアジアの人々からはそう見えた)として絶対的支配者として君臨し、すき放題殴る、蹴るの暴力振るうは、女性を連れ去り強姦するは、住居に押し入り略奪するはで好き放題苦しめてきたのである。
日本の戦争指導者たちにとって「八紘一宇」と「大東亜共栄」のスローガンは、侵略と植民地化の鎧を隠す衣でしか無かったわけですが、それを信じた日本人は少なくなくアジアの各地でその夢の実現のために血と汗を流しました。アジアの国々の人たちと手を握り互いに協力し合って共に豊かな生活を実現させようとしたのです。アジアの国々が植民地支配をはね除けて、それぞれの自国が独立を果たし自由を獲得することが「共栄」に繋がると信じていました。しかし、独立を支援するための戦争でもあったはずが、いつの間にか傀儡政権を擁立して第二、第三の満州国を作ろうとしていたのです。しかも、夢が破れただけでは済まされず、国家総動員法で侵略戦争の遂行に協力しなければならなくなってしまったのです。心ならずも日本人であるが故にアジアの友を裏切らねばならなかったのは死んでしまいたくなるほど辛かっただろうと思います。
日本がインドネシアの独立を許容するはずだった昭和20年9月7日に自決したのは、生涯をかけた夢の実現を完成目前に打ち砕かれた悔しさ、信じてくれていた人たちを裏切らねばならない情況に追い込まれた悔しさ、バリ人の幸福とそれに繋がるインドネシアの独立を願う気持ちに偽りのなかったことの証としてのことだったのでしょう。戦争指導者たちへの激しい憤りとは別に、捕虜となって抑留された日本人たちも戦争犠牲者だったわけですから、無事祖国へ帰還できるよう引き上げ船に乗るまでの安全をお願いしたのだろうと思います。さらに驚くばかりの徹底ぶりは、自決するについて室内を汚さぬよう中庭のアタップハウス(ヤシ葺きの東屋のような小屋)を選び、粗末な棺をいつの間にか準備して中庭ぞいのヒサシの下に置かれてありました。(三浦襄は個人の資産は所有せず、住居もブジャ氏宅に"居候"していた。義父と息子のような関係になっていて、子どもたちは日本のおじいちゃんと慕っていたそうです。)そしてさらに驚かされたのは、街はずれの住民墓地の中のひときわ目印になる老樹のかたわらに棺のはいるだけの墓穴が掘らせてあったことです。
三浦氏のことを思うと、日本はアジアを解放したなどと自慰史観に走り、オナニーして大日本帝国の美化に走り歴史を美化する右翼勢力に対する憎悪がさらに沸いてきます。こういう偉大な先人の業績すらも葬りさろうとしているのは、右翼そのものです。
三浦襄氏ら現地を愛して、また日本をも愛した真のすばらしい愛国者を第二、第三の満州国を築き、自身の侵略の野望に利用した大日本帝国と、一部をもってして、大日本帝国・日本軍の加害事実を亡き者とし、歴史を捏造に邁進する右翼と何が違うのでしょうか。本質は同じです。大悪魔国、大日本帝国の穢れた精神を受け継ぐのは右翼であり、右翼を倒さない限り、三浦氏ら当時存在した偉大な人物の慰霊は済んだことにはならないでしょう。右翼に対する憎悪がさらに沸いてきました。右翼とこれからも全力で戦い、この悪しき日本の右翼という物体をこの世から消し去るまで頑張っていきます。以上