主として1988年8月に南京大虐殺50周年を記念して、著者が「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の一員として現地を訪ねたときの記録より、南京大虐殺とその証言の事項を中心に抜粋したい。
p155
8月13日。中華民航機で九州から東中国海を横切ると、赤黒い大きな河口が見えてきた。長江(揚子江)である。この河口デルタ地帯に広がる街が上海である。
(略)
1937年8月13日、日本軍は上海を攻撃。第二次上海事変の始まりである。7月7日に華北、北京郊外の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、このときから華中、上海に戦線を拡大した。これが8月13日の上海事変から12月13日の南京占領にいたる華中における侵略戦争の始まりであった。松本石根上海派遣軍を中軸として、北に第16師団(中嶋今朝吾中将)、南に第10軍(柳川平助中将)を加えて三方面から南京攻略戦を展開する。
p158
5時10分の南京行きの列車に乗り込む。
列車から見る景色はほとんど水田で、日本の農村の雰囲気である。灌漑もよく発達しており、溜め池が広範に点在していた。池は養殖場になっている。50年前、この鉄道沿線の豊かな村落を日本軍が奪い、食糧を略奪し、家々を焼き払い、住民を虐殺しながら上海から南京まで進軍したのである。当時、中央公論者から派遣された従軍小説家、石川達三はこの進軍を『生きている兵隊』で活写している。
ゆうの小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/bunkajin.htmlより
●石川達三
石川達三氏は、南京陥落後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。
氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。
(略)
「読売新聞」昭和21年5月9日
(見出し) 裁かれる残虐『南京事件』
(略)
"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた
南京における日本軍は進撃途中を含めて血なまぐさい残虐行為を行っていたのですね。昭和21年というところから信憑性が極めて高いことが分かります。
p159〜161
南京をガイドしてくれたのは南京大学の高興祖(歴史系副教授)である。さっそく、高先生の案内で南京駅の西方約4キロの下関(中山埠頭)に向かう。下関には「中山埠頭偶難同胞記念碑」が建てられていた。「侵華日軍南京大屠殺遺址」と掘られた碑には、つぎのようなことが書かれている。
1937年12月16日の晩、日本軍が当時南京の国際安全区という難民収容地区に避難していた難民のうち「中国兵」にあたるとして約5000人を捕まえ縛ったうえで、ここに連れてきて射殺し、長江に放り込んだ。12月18日には難民のうち青年たち約4000人を捕まえ射殺。その後も近くの麦畑に住む約900人を虐殺し、ここでの犠牲者は総計1万人余に達する。
私は、この碑文にある南京「大屠殺」という文字が目に焼きついた。中国では「南京大虐殺」ではなく「南京大屠殺」と呼ばれているのである。この碑の建立は1985年8月で、その他の南京大虐殺の碑も最近建てられたものが多い。1982年の教科書問題以来、「南京大虐殺」は「まぼろし」であったという日本側の心ない歴史解釈に対する中国政府、国民の意思表示であると思われる。
中山埠頭近くの長江沿いに和記洋行会社跡がある。ここは元イギリス人経営のハム会社で、現在も南京肉類連合加工廠として業務を続けている。和記洋行には当時数千人の難民が隠れていたが、日本軍の捜索と検束によって、青年を中心に3000人が虐殺されたという。当時難民が隠れていた6階建ての食肉用冷蔵庫を見た。イギリス人の経営であるから保護されるのではないかという期待から、ここに逃げ込んだのであろう。しかし、日本軍にとって国際難民区すら無視する状況では、ここも安全ではありえなかったのである。
和記洋行の近くの長江河岸の煤炭港に行った。ここも本多勝一著『中国の旅』で有名な虐殺跡地である。碑文には1937年12月17日に武装解除された中国兵と民衆3000人が煤炭港に集められて虐殺され、おびただしい死体が長江に浮かび、また付近の民家に押し入った日本軍が、放火して住民を焼き殺したと書かれていた。ここでの生存者が1人おり、そのときの虐殺の状況がこのように後世に記録されたという。
さらに、長江一帯で最大といわれる虐殺のあった草圭峡に行った。ここは長江と幕府山に挟まれた狭い地域で、12月13日の南京占領後、捕虜など中国人5万7000人を集め、17日に集団虐殺を行った。数が多いので銃弾で間に合わず、銃剣で刺殺し、そのうえで重傷者も含めて焼却し、長江に流したと言う。
帰りぎわ、南京の景勝地玄武湖にまわった。湖の真ん中に覧勝桜という展望台があり、そこからは東に美しい紫金山を望むことができる。南京は北西に長江、東に紫金山、南に雨花台があり、川と山に囲まれた盆地上の天然要塞であることがわかる。そこに城門を張りめぐらせて敵の侵略を防いだのである。しかし、この地形はいったん攻め込まれてしまえば住民にとって逃げ道を断たれてしまう袋小路となる。南京大虐殺の発生する一因であった。
酷いことをずいぶんしました。これだけでは終わりません。それと最後に南京の地形は天然要塞であり、攻められにくい地形だということですが、逆にいえば、一端攻め込まれて制圧されると住民にとっては逃げ道を断たれ袋小路になるということです。南京大虐殺否定派の論法のうち、日本軍による南京侵攻当時、市民の多くは脱出して20万人しかいなかったから、30万人虐殺は不可能だといったものがあります。しかし、日中戦争前に100万人以上だった人口が簡単に20万人以下になるわけはありません。周辺からも難民や兵士らが流入しています。逃げられにくい地形ですからなおさらです。南京大虐殺は否定できない事実ということです。
p161〜162
8月15日。51年前の同日、近衛内閣によって「暴支膺懲」(悪い中国を懲らしめる)声明が出され、日中全面戦争への実質的な宣戦布告が行われた。朝早く、漢中門に立ち寄った。(略)ここ漢中門を経て南京大虐殺記念館(「侵華日軍南京大屠殺同胞記念館」)を訪れた。(略)
正面には「遇難者 VICTIMS 遭難者 300000」という碑文が彫られ、犠牲者が30万人に達することを表している。庭の一角に建てられている遭難同胞遺骨陳列室には、江東門あたりから発掘した遺骨が並べられ、無数の骸骨の眼窩がこちらをにらんでいる。
転じは写真が中心で、最初に「日軍殺焼淫掠暴行」と大きく掲げてある。殺し、焼き、奪うという三光作戦の実態が再現され、捕虜の首を軍刀で切り落とすところ、見せしめにさらし首にしたところ、婦人を強姦したところ、大量の子供の死体が並べられているところなど、日本軍の残虐さがつぎからつぎへと展示される。また、日本軍の機関銃、銃剣、日本刀が虐殺の証拠品として陳列されていた。
日本で論争になっている犠牲者数について、ここでは1946年の南京戦犯軍事法廷の南京虐殺に関する判決に基づき、12月15日から12月末までの各地の概数を合わせて約20万人という数字を出している。当時の主要慈善団体が南京で遺体を埋葬した数字を根拠として、紅卍会(赤十字)4万3123人、崇善堂11万2266人、合計15万5389人を掲げている。これは埋葬のあめ、確実に数えあげられた遺体数である。このほか、長江に流された無数の死者、焼き殺された無数の死者など数えられない犠牲者を加えると、虐殺総数は30万人にもなると中国側は推定している。
これは1988年8月に著者が訪れたときのことであり、今は展示はどうなっているのかは分からない。およそ開館3年目にあたるとのこと。
南京大虐殺についてはおもに陥落時についての日本軍の組織的な虐殺、また日本兵の数々の奇行・姦淫によって犠牲に至らしめられた中国人などによって20〜30万人に達するとされる。それだけではなく、日本軍の砲爆撃、中国軍との戦闘の巻き添えによる戦災犠牲者を考えなければならない。そして、何とか一連の虐殺行為・日本兵の暴虐・戦闘行為によって死ななかったものの重症を負った負傷者のことを考えなければならない。それと南京大虐殺によって南京の占領は終わったわけではなく、日本の敗戦の1945年8月15日まで南京における日本軍の占領は続いた。その間の7年間、憲兵隊による暴虐や食糧不足、労務者徴発、従軍慰安婦としての女性の連行、日本兵による淫乱などの過酷な統治が繰り広げられたことを考えれば、総合的な犠牲者は30万人をはるかに越えるのではないかと考えることもできるのである。
●南京大虐殺の証言 p163〜166
私は2人の生存者から当時の状況をお聞きしました。最初は、今回はじめて証言に立つ孫漢皐さんである。
「私は虎山で要塞の工事をしていました。12月13日に日本軍が来たので、それを壊して四散しました。茶館まで逃げましたが、すでに岡本部隊が着ており、そこで捕らえられました。日本軍に『軍人か、良民か』と聞かれました。『良民』とは百姓のことだというので、私は『大工だ』と答えました。『椅子を作ることはできるか』と聞かれたので、すぐに椅子を作り、それで殺されませんでした。私は炊事の手伝いをさせられていましたが、その後、日本軍は安徽省に移動したので、解散されました。
田舎に帰ろうと思って、晩の5時ごろ和記洋行に通りかかると、ちょうど日本軍が避難民を逮捕しているところで、そこでまた捕まってしまいました。夜8時ごろ、おびただしい人々と一緒に縛られて連行され、機関銃を浴びせられました。たくさんの人が亡くなりました。私はいちばん最初に機関銃の音を聞いて人の陰に隠れました。激しい雨が急に降りだし、日本軍は銃撃をやめて帰りました。
10時ごろになると、静まりかえっていることを知り、逃げ出そうと思い出しました。両手が縛られていたので、長時間かけて爪と歯で切りました。太い縄でした。このとき、私の三本の前歯はすべて抜けました。近くの家のドアを叩くと、『鬼か人間か』と言われました。私の姿はおびただしい返り血を浴び、血だらけで前歯もなかったから、人間とは思えなかったのでしょう。そこは紅卍会のドイツ人のところでした。そのときノックの音がしました。『だれか中国人が来ていないか』と日本軍が探しに来たのです。そのドイツ人は『いない』と言ってくれました。ドイツ人はそのとき日本軍に殴られました」
孫さんの話は淡々として感情を激することもなく、淀みなく続けられた。何度もわたる危機をくぐり抜けたことは奇跡としたいいようがなかった。
つぎは、紅卍会の管開福さんの証言である。
「私は南京大虐殺の前から紅卍会に所属していました。1937年12月13日から日本軍は大虐殺を始めました。翌年1月に南京に入ると、街の至るところに死体が転がっていました。死体収容は難民区(国際安全区)から始めました。そこには市の6分の1に当たる数十万の難民が集まっていました。難民区には本当は軍は入れないのですが、日本軍は入り、検束して殺しました。男も女も殺しました。ここで最初の死体埋葬を行い、3月まで難民区で仕事をしました。
つぎに、街のなかをトラックでまわりました。しかし、日本軍に銃を撃たれるので、紅卍会ということが日本軍にわかるように手帳を作りました。それでもトラックが止まらないうちに銃撃されるので、今度は日本領事館のなかのお坊さんを連れていき、トラックの上で手の鈴を鳴らしてもらいました。漢中門では3日間で1000人の死体を収容して、ガソリンで焼きました。あるときは共同墓地に7000体を埋葬しました。
太平門は商店街でしたが、100人ほどを捕まえて針金でつがぎ、一商店に閉じ込め焼き殺すところを見ました。また、中山門の外側と内側で数百人の手を針金で縛り、木の上に吊るし上げているのを見ました。
1938年8月までこの仕事を続けました。メインストリートでの死体埋葬は終わりましたが、横丁にはまだ残っていました。犬や猫がしだいに死体を食べはじめるようになりました。死体はとくに煤炭港など長江下関あたりが多かったようです。日本軍が東方面から攻めたため、西の長江に追い詰められた中国兵と人民は逃げ道を失ったのです。
大虐殺のとき、難民区の人は外でなにが起きているのか知りませんでした。生活用品がないので探しに外に出かけていきます。紅卍会の腕章をつけていく人もいましたが、見つかりしだい殺されました。とくに洋装の人が殺されました。百姓ではなく兵隊と思われたのです」
管さんの話も静かな口調で淡々と話された。
これらは貴重な証言です。アイリス・チャン氏の「レイプ オブ ナンキン」に描かれた日本軍によって引き起こされた悲惨な惨劇も嘘ではないことが明らかだと思います。南京大虐殺の前より紅卍会に所属していた方の貴重な証言もありました。虐殺中も日本軍によって殺される危険を冒しながら、賢明に遺体の処理と埋葬に奔走している紅卍会の姿がありました。本当に酷いです。フィリピンでも地方の村落および戦争末期に同様の酷い日本軍の凶行がありました。南京大虐殺否定派ども右翼反動歴史歪曲主義者はこれらの証言を読んで自身の1人の人間として最低で、人類としての普遍的な絶対道徳倫理に反する思想を改めて悔いるべきである。
●高興祖先生の話p166〜167
日本の第10軍(柳川平助中将)、第6師団(熊本)、第114師団(宇都宮)は中華門からはじめて南京城内に入り、激しい戦闘が行われた。中山門は上海派遣軍の第16師団(京都)が攻略したところで、12月13日には、この門の上で日の丸を掲げている日本兵の姿が南京陥落の報道写真として日本へ流された。中山門にいたるまで、中国国民党政府軍の頑強な抵抗にあった第16師団は、南京の中心的な治安部隊として城内の粛清に当たった。12月17日に上海派遣軍と第10軍が南京入城式を行い、中山門から市内を行軍した。高先生によると、城壁の上の堀に多数の捕虜となった中国兵を並べ、銃殺したという。
この夜、高先生を囲む会がホテルの一室でもたれた。高先生はすでに60歳で、この8月で南京大学を定年退官するという。
この会では、私たちの質問に高先生が答えるというかたちで進められた。おもな質問は、@南京大虐殺の20〜30万人の数の根拠について、A現在の生存者の掘り起こしについて、B中国における日本の侵略戦争に関する教育について、などであった。
これに対して、高先生はつぎのように答えた。
@30万人の根拠は、南京戦犯軍事法廷判決の結果(約20万人)と、処理された遺体のうち、長江に流れたり焼かれたりしたり、その他不明の者を含めると30万人に達する。中国では日中戦争の中国側犠牲者は軍民あわせて2000万人であり、そのうち死者は900万人であると推定している。
A証言者の掘り起こしについては、1984年から本格的に取り組み、生存者1700人を調べ、104人の証言を記録した。1982年教科書問題が起きてから研究が進み、水準が高くなった。個人的には南京大虐殺の原因となったのは日本の教育の問題であり、戦前の天皇制教育と民族差別教育の問題があると思う。
B中国では、アヘン戦争以来の西欧列強の侵略から日本の侵略まで系統的に教えている。1985年に建てられた南京の大虐殺記念館もその一環で、3年間にすでに100万人が見学している。とくに、南京大虐殺を教える目的は、生命の尊さと平和のたいせつさと同時に、中国が侵略された原因が「国が遅れていることにある」ことを認識させ、そのため現在「4つの現代化」(1979年の改革・開放政策の開始において中国共産党は農業、工業、国防、科学技術の4つの現代化を提唱した)が必要なことを学ばせている。
高先生の話は淡々としていたが、長年の研究に裏づけられたものであり、とくに戦前日本の教育の民族差別の指摘に共感を覚えた。
私も戦前の日本の教育のあり方は問題であったと思う。まず、天皇制教育では御真影を教育現場に配置し、教育勅語を発布し、天皇崇拝を植えつけようとする教育が行われた。天皇制と国家への忠誠心を訴え、国家のために死ぬことを讃え、国や上(上司)の決めたことならいかなる非道なことでも遂行しなければならないというような教育を国民1人1人に叩き込み、軍隊ではさらにそれが鍛えられた。人間の尊厳を傷つけ、命を奪ったり、人々の生命を無慈悲に奪うことに対してなんとも思わない、国家・組織の命令に絶対服従するロボット国民を作り上げていったのである。それに加え民族差別教育である。民族差別ばかりではない、大和民族優越思想教育も施していった。日本人はアジア地域は西欧列強に支配されており、いち早く産業革命を成功させ、上り詰めた大和民族の指導をあてにしているに違いないという夢想を抱き、やがて、それは大和民族が他の有色人種の頂点に立ち、教え導く義務があるというとんでもない妄想に発展していった。それがアジア民衆は優秀な大和民族に無条件でひれ伏し、大和民族の国家・大日本帝国は大東亜共栄圏を建設し、アジアを指導し、統治する盟主になることは当然ということにつながっていった。当然、それが天皇制教育と合わさって、今日の悲劇を生んだというわけである。
p194〜195より
1992年10月、昭和天皇が実現できなかった訪中を現天皇は日中国交回復20周年を記念して行い、はじめてさきの大戦について、「中国国民に対し多大な苦難を与えた。これは私の深く悲しみとするところ」と、中国に公式に謝罪した。
もちろん、すばらしいことである。昭和天皇が訪中できなかったのは言うまでもない。ただし、現天皇が戦争に対する反省の念をもって訪中されたことはまことにすばらしいと思う。
南京大虐殺については、1990念12月に旧東ドイツ国立中央公文書館で1938年1月付のドイツ大使館南京分館の書記官の南京大虐殺報告書が発見された。それには「身の毛もよだつドキュメント。(ヒットラー)総統もぜひ見てほしい」と述べられていた。また、1994年9月、アメリカ公文書館は在米大使館宛の日本外務省公電史料を発表した。そえによると、1938年1月の時点で「30万人以上が虐殺」と日本側が打電していたことが明らかになった(「朝日新聞」同年9月11日付)。これは当時の外務省が事実を確認したものではなく、外国人記者などの記述をそのまま打電したものと思われるが、「30万人」という風評をすでに日本側が知っていたことを示すものであった。現在も虐殺人数は不明であり、40万人説から数千人説まであるが、通説では「軍民合わせて20万人を下らない」(洞豊雄氏)といわれる。
ヨーロッパ戦線では一番残虐だったのはナチス・ドイツでした。ナチス・ドイツの幹部でさえ、日本軍の蛮行は身の毛のよだつものだったそうです。後、在米大使館への日本側の公電でも日本側が「30万人」という風評があることを確認しており、中国側の「30万人」は信憑性の高いものだと考えられる。
南京大虐殺について私のまとめたものについて
@中国側の南京大虐殺数30万人を否定する証拠は存在しない。
A南京否定派が使う人口20万人はあくまで安全区内のものであり、その他の周辺地域や市街地域が存在し、周辺からの難民や中国兵の数も計算に入れていないため不適当
B紅卍字会や崇善堂による15万5337体もの埋葬記録が存在する。さらに揚子江等に捨てられた遺体を含めれば20万体以上によるとされている。
ただし、その15万5337体が100%重複等がなく、すべて直接の虐殺によるものだったか、正確だったかは今となっては検証しようとない。ただし、南京で20万人以上とされる。
人々が日帝軍国主義の侵略野心によって犠牲になったというのは確かである。
C中国の侵攻自体が国際法違反だったものである。
D中国の南京大虐殺30万人は実際には虐殺者に加え、戦死者・その他による死、場合によっては
負傷者等もを加えたものである可能性がある。
E中国人は日本軍によって1000万人〜3500万人もの死者を実際には日本軍によって1000万人〜3500万人を日本軍によって虐殺されたという表現をするが、これは日帝の侵略主義に対する怒りと過去を悔い改め、自らの過去を向き合おうとしない日本へ対する怒りの表現である。
東京裁判では中国政府が20万人虐殺された、今では30万人虐殺されたとしているが、実際にはすべて虐殺によるものではないにしろ、南京では人口の大半が消されるほどの大惨事が日本軍によって引き起こされたものであり、中国民衆の感情を考慮にいれたものである。
「満州国」の731部隊については、1990年代にはいるころから急速に関心が高まった。1989年7月に新宿区の旧陸軍軍医学校跡から100体以上の人骨が発見されて細菌戦争のための人体実験犠牲者ではないかといわれた。区で独自の鑑定を行ったが、日本樹陰とは異質な骨まで含まれ、鋸で開頭手術をした跡などが見つかったが、731部隊との関係は疑問のままである。1993年8月には、防衛庁防衛研究所図書館で旧陸軍の細菌戦実施の業務日誌が発見され、1940年10月に湖南省にペスト菌を爆撃機でまいたという。
また、旧日本軍が中国に残した化学兵器の処理が現在問題となっている。敗戦時、ソ連の進入を前にして日本軍は、大量のイペリット、ホスゲン、青酸ガスなどの化学兵器を「満州国」の吉林省を中心に黒龍江省、遼寧省、河北省などの土中に埋めて逃亡をはかったのである。1995年のうちに批准される化学兵器禁止条約により、日本は化学兵器を遺棄した責任として、10年以内にその処理が義務づけられる。現在、中国国内には処理されていないままの化学砲弾200万発、毒性化学剤100トン、放置された化学兵器の直接の犠牲者が2000人にのぼるという。これらの毒ガス兵器は日中全面戦争が始まった1937年から敗戦の1945年までに、日本軍は華北を中心に2091回使い、中国人死傷者は民間人を含め8万人におよぶと中国側はいう。
強制連行では、1995年6月に秋田県の花岡銅山で働かされていた中国人の生存者、遺族11人が鹿島建設を相手に東京地裁に賠償請求を起こした。これは中国からの最初の提訴となる。
また中国でも従軍慰安婦が1995年8月に日本政府に謝罪と賠償を求めてはじめて提訴する。この元慰安婦は山西省の4人で10代半ばで日本軍に拉致、監禁されたという。従軍慰安婦の中国人提訴は韓国人、フィリピン人、オランダ人に続いて4番目となった。これに対し、政府は1995年6月に「女性のためのアジア平和基金」を設け、慰安婦基金として10億円の民間募金をつのり、1人当たり数百万円を贈ることを計画しているという。
この本が出版されたのは1995年7月であり、それまでの一連の日本の中国における戦争責任をめぐる動きの部分を引用してみました。2006年現在とは違ってくるところもあるかもしれません。
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 フィリピン編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14807634.html50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 タイ・マレー半島北部
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14755894.html50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.htmlの関連エントリーをよろしくお願いします。
私が取り上げなかった部分は本書を参考にしてください。
●まとめ
この本が出版されたのは1995年にあたり、このころはアジア・太平洋戦争が終結して50年目になっていた。今は60年と半世紀以上立っているが、今もアジア各地では戦争の傷跡は癒えず、戦後補償の要求が燃えさかり続けている。今の日本でも右翼勢力、歴史反動主義者と良識派が争い侵略戦争や植民地支配の評価をめぐって迷走を続けている有様である。日本における「過去の克服」の問題は終わっていない。 ドイツと日本の比較でいえば、第二次世界大戦への国家賠償額が日本は1億円で、ドイツの7兆円と比べても大きな開きがある。戦後補償の内容も、ドイツ政府はナチス犠牲者であるユダヤ人への直接補償のみならず、ベンツ・クルップなどナチス下の大企業もユダヤ人の強制労働に対して補償を実施している。また1993年、ドイツはナチスのソ連侵攻にともなうロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人に対する残虐行為に対して、その生存者や遺族に10億マルク(約800億円)を支払うことを決定した。第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカも、1988年に戦時下の日系人の強制収容所立ち退きに対してひとり2万ドルの支払いを決定した。1995年オーストリアでは、ユダヤ人を中心とするナチス犠牲者の約3万人に対して約45億ドルの支払いを決定した。これを比較したとき日本の場合はどうであろうか。現在アジア諸国から戦後補償要求という形で突きつけられている。連合国は日本にたいして戦争賠償請求を放棄した。アジア諸国に対しては賠償を行ったが、不十分であり、経済援助としてダムや港湾施設、工場プラントとして現物給付されたものが多い。日本政府の個人補償はいうまでもなく、日本企業の個人補償もほとんど進んでいないのが実情である。アジア諸国民がいらだつのは当然のことである。
さらにこのような侵略戦争の評価に関しての混乱と戦後補償の立ち遅れは、根本的には日本国民の歴史認識の問題性にあるち思われる。アジア太平洋戦争の任期においては、戦死、空襲、耐乏生活、原爆などの日本国民の戦争被害の悲劇から二度と戦争を繰り返すまい、戦争に巻き込まれないと決意し、戦後の平和憲法にストレートにつながる歴史認識がこれまで主流であった。この一面は別に悪くはないが、日本がアジア民衆に何をしたのかということ。南京大虐殺、中国、東南アジアでの住民虐殺、強制連行、アジア各地の女性を軍隊性奴隷にした国家的強制売春システムなど、アジア各地で今も消し去ることのできない惨禍として語り継がれているアジア民衆への日本の加害行為認識がきわめて弱いといわざる負えない。ひとことでいえば、日本人は戦争の被害者意識が強く、アジアへの加害責任の認識が弱いことである。日本国民の先の戦争に対する被害者意識の強さが右翼および歴史修正主義を生み出す土壌をつくり、米国やソ連にはめられた被害者でありわが国は悪くないだとか、アジアを解放したなどの妄言が生まれてくる。そうしたことが「アジア侵略」や「戦後補償」の国民的合意あできない大きな要因でもある。アジアの真の仲間入りを果たすためには、アジアに対して戦争責任のケリをつけ、謝罪しなければならない。アジアとの交流が深まった今、アジア各国と従来のような政府レベルではなく、アジアの人々個人個人と直接交流しなければならないし、個人レベルでの理解が欠かせない時代にますます入ってくると思う。そのためには民衆レベルでの日本の戦争責任、個人レベルでの戦後補償が問題とならざるをえないからだ。アジアにおける日本の戦争責任の自覚と複雑な民族問題の解決の大切さ、かけがいのない1人1人の人権擁護の大切さについて1人1人が理解すべきだと思います。
(おわりにかえてー戦争責任と戦後50年の項p250〜258を参考にして編集)
改めて思ったのが、日本軍が先の戦争でアジア・太平洋地域(特に中国、フィリピン、マレー半島の華人たち)に行った悲惨な加害事実である。アジア・太平洋戦争では中国や東南アジアを侵略し、地域で補完的に機能していた、アジア・太平洋地域のの経済を自活経済で破壊し、人々の生活を窮乏と窮状のどん底に落とし込んだこと。何よりも侵略した各地域(特に中国、フィリピン、マレー半島の華人たちに)で語るに耐えないほどの非人道的な残虐行為を行った。古代史から平成16年の現在に至るまで凶悪さ、悪逆非道さ、そして最も人命軽視ことにおいて、日本軍・大日本帝国に勝るものはないということを認識すべきだ。今も続く、大日本帝国の戦争加害・侵略犠牲者遺族や被害者の日本への反発は、日本政府、政治家の日本の戦争加害・侵略についての反省なき軽率な言動がもたらしたものでもある。現代でも日本はアジア各地の環境を破壊し、日本人のアジア各地での行動や日本企業の公害輸出、労働の劣悪さ、排他性において反発されることが多々ある。それは私たちは日本による侵略戦争の実態をしり、謙虚に反省すると同時に、アジアの人々の心を理解できていないからである。そして、何よりもアジア人を含むほかの有色人種の方々を見下し、先進国の名誉白人気取りでいてアジア民衆と対等な視点で立つことができないでいる。それは戦前・戦中に植えつけられた大和民族優越思想などが抜け切っていないからだ。アジア人と対等に立つためには、過去の日本がアジア太平洋地域を侵略し、現地の人々に苦痛を与えこと、そして戦争責任を自覚し、過去を反省・贖罪するということから始まる。過去日本がやったことを申し訳なく思う気持ちを日本の市民1人1人が自覚できたら、日本政府や日本企業の大戦中の残虐行為や強制労働の問題に対して法的責任をきちんと取らせる。会社・法人、政府、官僚組織を含め日本全体が過去の侵略・戦争への反省を自覚するに至り、アジア・アフリカなどを含む発展途上地域の人々の生活を踏みにじるような日本企業やODAの問題を解決し、国益や官益、企業の利益・利潤よりも発展途上地域の人々の生活を考えた政策・援助・投資をすることにも繋がっていく。これが日本人が国際社会に出て活躍するための道でもあり、日本の未来のあり方と不可分の今日的課題である。