2006年03月26日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 フィリピン 編

1989年の夏の「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の準備で、同実行委員会の上杉聡氏ともに著者が3月にフィリピンを訪ねたときの記録の章より、日帝悪事実を抜粋する。
p85〜87
 1989年3月26日。私は成田から発ち、マニラで「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の事務局長、上杉聡さんと待ち合わせることにしていた。飛行機の席に隣り合わせたのは22,3歳ぐらいのフィリピン女性である。彼女は去年から「のりちゃん」という名前を使って、横浜のスナックで働いている。1年ぶり1週間ほどフィリピンに帰るのだという。その隣には、近くマニラのエルミタにカラオケ・スナックを開店するという福岡県のIさんがいた。
 3人の話題は、のりちゃんの日本における労働条件がいかに悪いかということをめぐってであった。のりちゃんは、マニラのカレッジを出たあと、日本に出稼ぎに来ている。彼女は朝から昼まで品川区の大井町にある日本語学校に通い、夜6時から12時までスナックで働くという。
 彼女によれば、「給料は安くて月10万円程度であり、フィリピン人の友だち2人とアパートを借りて下宿代に2万円、さらに食事代、日本語学校の授業料を加えると手元に残る金はいくらにもならない」そうである。
 
 こんな話をしていると、Iさんが割って入る。「そんなことを言ってはいけない。われわれスナックを経営する立場からは、きみたちをフィリピンから呼ぶために、かなりのお金を使っているのだ。日本への旅行の支度、パスポートに飛行機代、宿泊代など、すべてきみらのためにかけているのだ。日本に来れるだけでもありがたいと思わなければならない」と言う。
 Iさんは福岡で小動物の販売店を経営しており、ここ10年ほど犬や猫を求めてフィリピンに来ているうちに、その儲けでスナック経営を始めるようになった。マニラに現地妻をもっているという。ところで、彼は10年フィリピンで仕事をしているにもかかわらず、フィリピン語はいうまでもなく、英語をまったく話せない。出入国カードの書き方もわからないので、かわりに私に書いてくれと言うほどである。のちちゃんは、「私たちは日本語を覚えなければならないが、日本人はフィリピンで日本語ですむのです」といった。
(略)

・・・・・マニラの繁華街であるエルミタ・マビニ通りの日本人相手のスナックやバーでは現地の女性が日本語を話し、経営者は日本語で商売ができる。マニラはアメリカにかわって日本の植民地支配国となったかのようである。
 のちちゃんとIさんの会話の中に、いまの日本とフィリピンの関係が反映されているような気がした。じゃぱゆきさん、マニラの日本人スナック、現地妻、英語を話せない日本人、これらの言葉が現在の日本の関係の一面を象徴している。

フィリピン人女性が日本に来るときは、日本語をマスターしなければならない。日本語学校にも通わなければならない。日本のスナックへ出稼ぎにいくのはいいが生活費や雑費等で消えてしまう。スナックの経営者Iの傲慢さにも腹が立った。賃金の割には労働がきついし、思っていたほど稼げなかったフィリピン女性の"のりちゃん"が不満を言うのは当たり前だと思う。「日本に来れるだけでもありがたいと思わなければならない」と傲慢なことを言う。フィリピンという国を発展途上だ、自分は優秀な先進国の人間である日本人だと言って見下しているのだろう。フィリピンがスペイン、アメリカの植民地支配を受け、そして日本軍がフィリピンに侵略し、過酷な圧政を敷いてたくさんのフィリピン人が死んだという歴史的事実を踏まえているのだろうか?日本人は気楽である。戦後もアジアで傲慢に振舞っている。フィリピン語も英語も話せないでフィリピンに行き来して、現地妻を持てて商売もできて、やり放題だ。いい気なものだ。生意気なこういう日本人に分からせるためにも、大日本帝国の戦争加害問題カードというのを使って、自分たちがフィリピンにどんな酷いことをしたかというのを分からせないといけない。

p87
 午後11時にマニラ空港に到着した。
(略)
 
 私たちの宿泊先はNCCPという教会の宿泊施設がある。NCCPはカトリック、プロテスタントを超えたクリスチャンの社会運動の拠点となっている。ちなみに、上杉さんはカトリックの信者である。このように、現在フィリピンを含めてアジアの問題に真剣に関心を寄せている人々にクリスチャンが多いことに気づかされる。

たしかにその通りである。日本の戦争責任問題などのアジアの関心事項に取り組んでいる方にはクリスチャンが多い。

●戦時下の親日勢力p88〜91
 3月27日。日本軍占領下のフィリピン史の専門家で現地在住の寺見元恵さんに同行してもらい、聞き取り調査を向かった。
 フィリピンでは20世紀初頭スペインにかわり、アメリカが植民地宗主国となる。その後にアギナルドを指導者とする反米独立運動が展開されるが弾圧された。1933年にはベニグノ・ラチスを指導者として結成されたサクダル党が反米独立運動の中心となった。サクダルは、アメリカ支配に対抗するために、日本から資金、武器などの援助を期待し、日本の右翼内田良平、小池四郎などと結びついていた。
 最初に紹介されたヘラネリア牧師は1929年生まれで、現在マニラ在住である。ヘラネリアさんの父親はサクダルの有力メンバーであり、戦前ラグナ集のカプヤオ周辺で500人の農民を組織し、反米独立運動と反地主闘争を展開。大地主の車を止めて、武器、金品を奪うゲリラ闘争を行ったという。サクダル党は中部ルソン、南部タガログ諸州の貧農を基礎にしていた。
 サクダル党は1935年6万5000人の蜂起によって弾圧されるが、その結果、アメリカの支持のもとにフィリピン独立準備政府としてケソンを初代大統領とするフィリピン・コモンウェルス政府が成立する。この蜂起のとき、ヘラネリアさん両親は逮捕、37年にも再逮捕され、以後軟禁状態におかれたという。
 1941年12月8日、日本軍のフィリピン侵攻が始まり、42年1月2日マニラ陥落、5月6日コレヒドール陥落によって米軍は降伏した。1943年10月14日、ホセ・P・ラウレルを大統領とする日本の傀儡政府、フィリピン共和国が成立する。サクダルの残党は反米独立のため日本軍に協力した。党首ラモスはサクダル党から新たにガナップ党を組織して、日本軍によるフィリピン地主階級の一掃を期待した。日本軍はこの民衆の要求を逆手にとり、傀儡政権下にフィリピン愛国連盟(マカピリ)を組織して、サクダルメンバーを日本の手足として利用した。しかし、日本軍が地主階級を一掃したわけではなかった。
 日本軍の占領下でサクダルの残党であったヘラネリアさんの父は、日本軍に動員され労務者として協力したという。アメリカ軍が1944年10月21日、レイテ島とルソン島のバタンガスに上陸すると、彼は日本軍から一緒に逃げるように誘われた。このため、戦後、彼は日本軍協力者として糾弾され、抗日ゲリラに家族全員みせしめの拷問を受けた。しかし、ゲリラの1人が母と親しかったので殺されずにすんだという。
 1945年当時16歳になったばかりだったヘラネリア牧師の話は、両親に関することに終始した。ただ、日本について、つぎのように話してくれたのが印象的であった。
「日本軍が占領下においてフィリピンの反日ゲリラを殺すのは当然である。日本のもとで戦後独立したほうがよかった。戦後、自分らの評価が低くアメリカ中心の勝者の歴史となったことは不満である。私はいまも親日である」
 そして、戦時下のサクダルの旗と日本軍によって発行された住民証明所を見せてくれた。住民証の文面には、つぎのように記されていた。
「本証明書ノ所持者ハ『ガナップ』党員サクダル党員タルヲ証シ、党員ハ皇軍ニ協力スルト共ニ比島新建設ト東亜建設ニ忠実ナルヲ誓フ」
 日本軍はフィリピン侵略のなかで、フィリピン民衆の反米ナショナリズム=反植民地意識を巧みに利用した。サクダルはその道具であった。そのため、フィリピン人は内部抗争をするようになり、相互に殺し合うなどの悲惨な経験を経なければならなかった。

ここでも日本軍の戦争を賛美する洗脳親日派がいます。ただし、その背景には複雑な影が隠れていることは確かです。一部の反米ナショナリズムを持つフィリピン人が日本軍に懐柔・利用されて、手先として使われ、フィリピン人同士で殺し合うことになったことは以外にも知られてません。

http://web.archive.org/web/20040422060131/http://www.h4.dion.ne.jp/~ftc/travel/9810/9810_k8.htmlより
「日本兵にもいい奴がいっぱいいた。」
 抗日派だったフィリピンの老人にそういわれるのは私は2度目でした。
 アメリカ軍と日本軍の戦闘で、丸裸に焼き払われたまま再生していない森林もいくつもあります。住民は親日派と抗日派に分かれて、闘ったり、密告しあったり、強制労働もあったし、ゲリラつぶしのための大虐殺もあった。
 でも私は、日本軍がフィリピンにきていたことすらろくに知らないで育っています。


互いの憎しみを乗り越えようとする対話
http://blog.livedoor.jp/soliton_xyz/archives/50003808.htmlより
1942年1月、アメリカの植民地だったフィリピンに侵攻した日本は、独立を約束してフィリピン人に協力を求めたが、過酷な軍政は住民の怨恨を招き、抗日ゲリラ運動は激化した。
このため、日本は1943年に形式的にフィリピンを独立させたが、退却していたアメリカ軍が攻勢に転じると、フィリピン自治政府軍が統合されていたアメリカ極東軍指揮下のUSAFFEゲリラをはじめとする抗日ゲリラはアメリカ軍と協力して日本軍と戦った。

1944年10月、アメリカ軍がレイテ島に再上陸すると、同年12月、抗日ゲリラの掃討に苦戦していた日本軍は、義勇軍・フィリピン愛国同志会「マカピリ」を創設した。
日本語教育や軍事訓練を受けたマカピリの兵士たちは、山岳地帯に追い込まれた日本軍が降伏するまで行動を共にした。

「マカピリ」は、タガログ語で「国を愛する者たち」を意味するが、戦後のフィリピンでは「裏切り者」を指す言葉として今も使われているという。
マカピリの兵士約5,000人のほとんどは貧しい農民だったが、戦後、フィリピン政府による国民特別裁判で反逆者・対日協力者として裁かれた約5,500人のうち半分以上はマカピリの兵士たちだった。
日本の占領に協力した政治エリートたちに適用された大赦も、元マカピリには適用されず、中には10年以上の実刑を受けた者もいるという。


日本とアメリカの戦いは、ゲリラとマカピリというフィリピン人同士の戦いになりました。
この歴史はフィリピン人の在り方を考えるための重要な課題です。


と語るフィリピン国立歴史研究所のオーガスト・デビアーナ氏は、元マカピリの兵士の証言を歴史の記録として残そうと聞き取り調査を行っている。

農民や欧米的教育を受けた中産階級で組織されたUSAFFEゲリラは、退役軍人として扱われ年金も支給されているが、その多くは日本軍やマカピリによって肉親や友人を殺された体験を持っている。

私たちの教育は、英語でアメリカのものです。だから、気持ちは自然とアメリカに近くなります。
日本人に味方できないのは当然でしょう。
マカピリはいつも日本人と一緒で、籠で顔を隠して指差します。密告されたらお終いでした。

と語るアウレリオ・バト氏は、電気技師の父を持ち比較的裕福な家庭に育った。フィリピン政府から受け取る年金は、毎月5,000ペソ(約1万円)である。

ガブリエル・ビアト氏は、バト氏の戦友だが、80人いた部隊で生き残ったのは、彼ら2人だけだった。
日本軍によるゲリラの掃討作戦で犠牲になった住民は10万人を超えており、戦後の国民特別裁判の記録によれば、ゲリラやその容疑者に対してマカピリも拷問や虐殺を行い、生きたまま突き刺し焼き殺した例もあったという。

スペインやアメリカから侵略された時の話を両親から聞いていました。
私たちの小さな土地は、アメリカ人と金持ちに奪われました。

日本人を見てマカピリに入りました。日本人は私たちと同じ肌の色でした。
なぜ、日本人を愛さず、アメリカ人を愛せたのでしょう?
アメリカ人は、私たちから土地を奪っていきました。

と元マカピリの一人が言うと、バト氏は家族を殺された思いをぶつけた。

叔父は、この町の警察署長だった。
ある日、叔父が日本人に連れていかれた。連れていったのは日本人とフィリピン人だった。3日後、叔父は殺された。
それは心に深く刻まれた。だから私はゲリラになったのだ。

NewsでNonfixな日々というブログより引用させていきました。ちょっと泣けてきました。一番悪いのは、フィリピン人同士を殺し合いにさせるように自身の支配に利用した日本軍です。しかし、そのフィリピン人同士の親日派・抗日派に分かれた殺し合いにはアメリカやスペインの植民地支配の背景もあったということです。アメリカやスペインの植民地支配で土地を奪われ、貧しい生活でどうしようもなくなった貧農たちが活路を見出すために日本軍に積極的に協力しようとしました。もちろん、日本軍は彼らの要求に答えるわけはありません。ただ、利用されただけでした。ヘラネリアさんの事例は単純に親日派であるから駄目だというわけにはいかないようです。大日本帝国と米国帝国主義の覇権争いの場の一つがフィリピンの土地だったのですが、一番犠牲になったのはフィリピンの民衆です。日本軍によってたくさんのフィリピン人が虐殺されました。それだけではなく、同じフィリピン人が日本軍に密告したり、場合によってはフィリピン人自らが同じフィリピン人を殺したというのです。同胞に殺されたフィリピン人犠牲者やあるいは同じフィリピン人を戦争中密告したり、あるいは自ら手を下して殺した加害者としての傷をもつフィリピン人も多いはずです。日本は過去に自ら生んだこのような惨劇に対して白を切り通すつもりなんでしょうか?

●マニラ虐殺p91〜92
・・・私たちはマニラ市内のコラソン・ノブレさんのお宅にうかがった。ノブレさんはスペイン系の血をひく、いかにもヨーロッパ的な美しい顔立ちであり、元女優であったことをうなずける。1945年2月、米軍によってマニラを放棄せざるをえなくなった日本軍は、マニラ市内の各所で住民虐殺を行い、犠牲者は1万人以上におよんだという。戦後、山下奉文司令官を代表被告とするマニラの戦犯裁判ではじめて明らかになった事件である。ノブレさんはマニラ住民虐殺事件の生き残りの1人である。
 日本軍は、ノブレさんを含む付近の住民を証明書を交付するためと称して病院に集めた。住民と病院の医者、看護婦合わせて120人を中庭に集めたが、無差別に銃撃、刺殺を繰り返し、ほとんどを殺戮したという。彼女も顔など数ヶ所を刺され、重症を負ったが、奇跡的に助かった。生存者はわずか8人であった。
 彼女の証言のなかで衝撃的だったのは、日本軍による幼児虐殺の目撃である。日本兵が赤ちゃんを上に放り投げて、落ちてくるところを銃剣で刺し殺したという。彼女はそのことを淡々と話してくれた。マレーシアの幼児虐殺を乗せた三省堂の英語の教科書が文部省検定不合格になったことがあるが、彼女の証言はフィリピンでも日本軍が幼児虐殺を行っていたのではないかとうかがわせるものであった。
 もうひとつ気になったのは、彼女が「日本兵よりもっと悪いのは朝鮮兵である」と繰り返したことである。虐殺に直接手を下したのは朝鮮人であり、残虐行為をしたのは朝鮮人が多かったというのである。日本軍が民族的差別下の朝鮮兵士を虐殺の尖兵として使ったということもじゅうぶん推測される。実際に戦後、BC級戦犯裁判で処刑になった人々に朝鮮人、台湾人が多かった。

マニラでも45年2月、戦況が悪化し、マニラを放棄せざる負えない事態に日本軍は追い込まれたが、組織的な虐殺が行われた。よく南京大虐殺やマラヤの華人虐殺において、日本兵が赤ちゃんを上に放り投げて、落ちてくるところを突き刺して殺すという残酷な幼児殺害の話がでてくるが、これが事実だと確かめられた。もうひとつはやはり気になったのは、残虐行為に手を下したのは朝鮮人兵士が多かったというノブレさんからの指摘である。

キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html より
 現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その后も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。

こういう言説を出すと、すぐに朝鮮人差別主義者たる右翼が飛びつきそうだ。しかし、朝鮮人兵士に罪はない。朝鮮兵は日本軍の中では最下位層に位置し、上司である日本兵に強要された場合どうしようもないし、あるい日本軍の被差別植民地人である朝鮮兵に対する扱いや虐めが苛酷であり、(日本人兵士でさえ初年兵に対する扱いはすさまじい)、どうしようもない鬱憤がそういったさらに下位の日本軍占領地民衆への残虐性として現れたのかもしれない。

●日本軍政下の親日派内部の分裂p93〜94
 3月28日。ケソン市からマイクロバスをチャーターして、ラグナ州のカプヤオに向かった。カプヤオで合流した寺見さんの案内でサクダル党の生き証人であるヘラミス・アデアさんに会った。アデアさんはマニラ周辺で有力なサクダル党のリーダーであった。
「サクダルではアメリカから即時完全独立を求めて闘争しました。日本軍がマニラに入ってくると、われわれに協力を求めてきました。大東亜共栄圏は賛成でした。日本の意図が、白人の植民地をなくすことだったからです。1943年ごろ1年間、仲間70人と日本軍に同行してリサール州のシェラマドレー山脈のマッキンレー要塞に行きました。そこで、日本軍のトレーニングを受けました。われわれはおもに日本軍のためのフィリピン労務者の監督を行いました。このため仲間の多くがフクバラハップに殺されました」
 このようにアデアさんは、サンダルと日本軍の協力関係を証言しあた。このなかに出てくるフクバラハップとは、1942年に中部ルソンの水田地帯の農民を基盤に成立する抗日人民軍であり、1930年代の共産党、社会党系の農民運動を背景にしてきた。目標は日本軍追放と地主打倒である。フクバラハップは日本軍支配下で急速に勢力を伸ばし、44年末には中部から南カタログ地方に正規軍、予備軍2万人、50万人の民衆を解放区支配下においた
「その後、サクダルは内部対立が激しくなりました。私は、日本軍は私たちの目的を理解していない、戦争中は静かにしていようと思いました。このなかでフクバラハップの首領が私に連絡役を派遣し、サクダルとの連携を申し込んできました。私は行きませんでした。行けば殺されると思ったからです」
 アデアさんの話は思いもかけず、フクバラハップとサクダルの統一への動きの証言となった。私ははじめてこのような動きがあったことを知って驚いた。サクダル内部の動揺を示すものとして非常に興味深いものであった。この背後には、サクダルの目標であった地主打倒の課題を日本軍に期待したが、裏切られていったという現実があった。
 そして、最後にアデアさんはこのように言った。「いまでもフクバラハップから一緒にやろうと言ってきている」と。現在のフクバラハップとは新人民軍(NPA)のことであろう。新人民軍とは、1969年に結成されたフィリピン共産党の武装組織である。毛沢東路線により農村を拠点に活動している。
 アデアさんは戦後1950年にフクバラハップに協力したとしてフィリピン国軍に逮捕されている。アデアさんの戦後は、米軍によって戦犯としてモンテンルパの刑務所に送られたことから始まり、親日反米であったがゆえに終始「裏切り者」の汚名を背負って歩かなければならなかった、いばらの道であった。

日本軍占領時代の親日派組織サクダル内部でも対立が激しくなりました。アデアさんは「日本の意図が、白人の植民地をなくすことだったからです」と言ってますが、それは間違いです。たとえば、仏印ではナチスの同盟であり、フランス南部を支配していたビシー政権と協力関係を結び、共同統治を行いました。白人の植民地をベトナム、カンボジア、ラオスでは残しています。1945年5月までの仏印武力処理までは形式的にはフランス(ビシー政権)の植民地でした。ただ、それ以外(フィリピンやインドネシアなどを含めて)についてはそれが正しいといえばそうではなく、白人の植民地はなくしましたが、白人の変わりに大和民族(日本人)の植民地になりました。日本の意図は、白人の変わりに日本がアジアを植民地にして支配することだったのです。
もう一つは日本軍占領下における地主の扱いですが、
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/rk1993.htmlより
当時,フクバラハップは一定の地域で警察・行政権さえ確立,抗日収穫闘争を展開して,農民の生計は改善,地主・小作の力関係には大きな変化が生じつつあった。それゆえ,中部ルソン地方では,支配の維持を望む地主層と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したのである。
とあり、地域によっては、農民を搾取する地主と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したとあり、積極的かどうかは分からないが、協力的関係に近いものがあった模様。サクダルは親日で、フクバラハップとはイデオロギーこそ違うが、貧農の権利を獲得し、搾取する地主階層を一掃するという共通目標を抱えていた。とはいえ、抗日ゲリラの躍進に悩まされる日本軍は地主階層と対決するわけにはいかず、農村部における抗日ゲリラの勢力の増大を防ぐために、懐柔して利用しないわけにはいかなくなったというわけ。そうした中でサクダルは日本軍のフィリピン民衆に対する虐待の事実と相まって離反する動きがでてきたと考えられる。

●リパの大虐殺 p95〜100
 3月29日。リパの朝は早い。今日は1945年2月26日の5000人とも2万人ともいわれるリパ大虐殺の現場を石田<石田甚太郎>さんの案内で訪ねる。街から数分のところに日本軍の憲兵隊司令部の建物が残っていた。元リパの資産家のものを日本軍が接収したという。この家の庭に日本軍が掘った防空壕が残されている。この建物のすぐ先に、フランシスコ・カッペリオさんが住んでおられた。彼の案内でリパ大虐殺の現場に向かった。
 1945年2月、リンガエン湾と同時にバタンガスから再上陸した米軍は日本軍を追い詰めてマニラを解放し、南タガログ地方の日本軍をほぼ掃蕩しつつあった。戦況悪化の混乱のなかで、日本軍はすべての住民がゲリラの見方であるとして疑心暗鬼になり、リパの住民の皆殺しをはかった。
 リパ大虐殺の責任者は南タガログ地方のバダンガス、ラグナ、ケソン州の各部隊約1万2000人を率いた通称「藤兵団」司令官、歩兵第17連隊本部長、藤重正従大佐である。当時の様子については、友清高志著『狂気―ルソン住民虐殺の真相』に詳しく書かれている。当時、兵士であった友清氏は、このときの藤重の発言を記録している。
「ゲリラが、いかに我軍に危害を加えているか、諸士の報告で明瞭である。このゲリラを徹底的に粛清すべき時がきた!住民でゲリラに協力する者あらば、そいつもゲリラと見做せ。責任は一切この藤重が負う。対米決戦はそれからである」「思い切りやってしまえ。後世の人間が世界戦史をひもといた時、全員が鳥肌立つような大虐殺をやってみせろ」
 こうして藤兵団は粛清命令を発する。リパの近くのアニアラ、アンチポロ村のゲリラを粛清するため、16歳から60歳の男全員をリパの小学校に連れてきて全員虐殺することを命じたのである。この村には米軍兵器が大量に搬入され、日本軍襲撃が準備されているという不確かな密告が行われた結果である。
 2月26日未明から日本軍はリパ市長、警察署長を軟禁し、リパ市内の住民を男女の別なく試し切りにしていた。日本軍に協力するガナップ党(サクダルの後身)の宣撫班がアニオラ、アンチポロ村へ行って、「本日以降リパ市近郊の通行を規制する。住民には通行証を交付するから16歳から60歳の男は全員リパの小学校に集合すること」と伝えた。2つの村から約800人の住民がやってきた。
 ここから通行証を渡すために、住民を10人ずつに分けて、外の雑木林の前まで日本兵が連れていくことにした。日本兵は途中で「爆音」だと叫び、米軍の空襲を避けるためと称して、近くの掘っ建て小屋に住民を追い込んだ。そこで待ち構えていた日本兵が住民をいっきに縛りあげて数珠つなぎにし、建物裏の雑木林のなかに連れていった。雑木林の側面は17メートルの切り立った崖をなっていた。住民は次々に銃剣で刺し殺され、足蹴にされた死体は崖から下の渓谷に投げ落とされた。日本兵はゲリラの処刑は当然だとして800人の住民を交替で殺戮しつづけた。朝7時から夜6時まで11時間におよぶ虐殺であった。
 案内役のカッペリオさんは70歳を越えた小柄なやさしそうな老人である。しかし、最初に住民が集合した場所は小学校ではなく、当時神学校だった。(略)。また、雑木林のなかにあったこの土地の持ち主を、日本軍は口封じのために未明に殺戮したという。カッペリオさんは言う。
「私は手を縛られて数珠つなぎにされましたが、道路から雑木林のなかに連れていかれたとき、これはおかしいと感じました。私は手を動かしてなんとか縄をふりほどきました。近くの人に一緒に逃げようと言いましたが、逃げるとかえって危ない、と拒否されました。私は雑木林のなかを下りながら、全員が右に曲がったとき、いっきに渓谷のほうに下った。そして、日本兵の銃撃のなかを思い切って渓谷へ飛び込みました。まっさかさまに20メートルほど転がり落ちましたが、運よく下が草で助かりました。それから渓谷の反対側によじ登り、日本軍の追跡を振り切りました。私はしばらくして日本兵に対する怒りからゲリラになろうと思い、ゲリラを探しましたが、ついに見つけることができませんでした。そのため仕方なく家に戻り、ボロ(フィリピンの山刀)を磨いて、今度来たら日本軍をやっつけようと決心しました」
(略) 死体はそのまま戦後まで残され、付近一帯には死臭が漂い、衛生問題にもなったので、米軍がブルドーザーで処理したという。また、付近の住民の言い伝えで、このあたり一帯には死者の叫び声が夜な夜な聞こえるという。怨念の地である。
 カッペリオさんにお礼を言ってリパ中心部に戻った。つぎに、石田さんはデメトリオ・アントニオさんを紹介してくれた。アントニオさんの首のうなじの中央には、包丁で切り裂いたような鋭い刀傷が深々と残っていた。刀傷はこれまで何人かに見せてもらったが、これほどむごいものははじめてである。よく首が落ちなかったものだと驚くような傷で、正視に耐えない。
 アントニオさんは、いまリパに住んでいるが、1945年2月、バタンガス州のサンカルロスでこの傷を負った。日本軍は村民を集めて刺したのち、井戸のなかに投げ込んだ。幸い井戸は空であり、しかもアントニオさんは最後に放り込まれたので、かろうじて這い上がることができた。他の人は、みな死んだという。しかし、1人生きのびたことを親日組織マカピリ(フィリピン愛国連盟)が密告した。そのため、彼は翌日から日本軍に追われる身となったという。アントニオさんは次のように言う。
「戦争は終わった。私は自分の戦争体験を忘れようとしている。しかし、妻はいまでも日本人を許せないと言っている」
 アントニオさんの聞き取りを通りに面した家の前で続けていると、街の人々がまた物めずらしげに集まってきた。なかの1人が私にも傷跡があると言ってシャツを脱ぐと、背中に5、6ヶ所の銃剣の傷跡があった。

すざまじい惨劇です。人間といい、組織・集団といい追い詰められると何でも疑心暗鬼になり、ついには精神を病み、人殺しなどなんとも思えない皆殺しまでとことん進むポルポト的な発想に至ってしまうのであろう。対米決戦のため、ゲリラを粛清するために関係のない多くの人々が虐殺された。しかし、こうなる前に降伏すべきだった。勝ち目がないというのはもはや分かるはず。日本軍はそれでも"敗北"という2文字はなく、住民を1人残らず皆殺しにしてでも突き進む異常で凶暴な軍隊である。敵や抗日ゲリラに協力しているとか、すべての住民がゲリラの見方であるとか、そういった妄想を含めて検証せずに男女こどもも含めて皆殺しにしてしまうことを当然と考える日本軍の体質があった。その体質とこのような追い詰められた日本軍にとっての窮状が合わさってこのような惨劇に至ったのであろう。ガナップ党やマカピリという組織も一連の虐殺に加担していたことが読み取れる。今回は日本軍のフィリピン民衆虐殺の側面だけではなく、一方でそれに協力して洗脳されて狂信的に日本軍に協力するフィリピン人親日派の姿がそこにはあり、考えさせられるものがある。

●日本企業の公害汚染等の現在における日本の問題p102
 3月30日。マニラ市内からバターン半島行きのバスに乗り込む。驚くのは小学生くらいの小さい子が物売りをしていることである。
(略)

 半島南部マリベレスは、1970年ごろまでは美しい農村であった。70年代を通してのマルコス時代に輸出加工区として急速に工場団地が建設され、外国企業が誘致された。日本からも多くの企業が進出した。従来の漁民は労働力として工場に吸収され、漁場は工場排水のために汚染され、漁業は衰退した。漁民は労働者に流れていったが、厳しい労働条件のために80年代に激しい労働争議が頻発した。このため外国企業のいくつかは現在も操業を停止しているという。バターンの全人口の35万6000人のうち、工場労働者は現在17パーセントに達している。
(略)

 半島全域の漁民は、とくに日本との関係で困難を抱えている。日本の大資本によるトロール漁法の底引きによって根こそぎ魚を捕られ、バターンの中小漁民は生活に困っている。本来、200カイリ規制のため日本漁船はフィリピン近海に入れないのだが、なぜか自由にフィリピン沿岸で操業している。漁民の非難は日本漁船に集まっている。

著者がこのときフィリピンに旅行したのは16年ほど前になるのだが、日本企業や日本漁船の横暴はすごかったようだ。戦後もフィリピンの人たちに迷惑をかけたのである。最も冒頭のスナックの出稼ぎフィリピン人の問題であり、日本企業や日本漁船の問題は何回も言うように戦前に身についたアジア人の視点で物を考えられず、日本人本位で物事を考えて、アジアの人々を見下す見方を変えていないということに尽きる。フィリピンでわが国がいかに酷い蛮行を行ったか知り、フィリピンに対して償いの念をもって接していれば、フィリピンの大地や民衆に対する横暴な態度は慎むことができるはずだ。

●バターン死の行進p106〜107
 午後3時、マリベレスにジプニーで出発することにした。「バターン死の行進」の出発点はひとつは半島最南端のマリベレスであり、もうひとつは西海岸のバガックである。
 1941年12月、アメリカ軍は日本軍が上陸するとマニラを捨て、バターン半島に立てこもって持久戦にもちこもうとした。しかし、1942年4月9日アメリカ軍は降伏する。この結果、バターンで捕虜になった兵士は、フィリピン軍6万4000人、アメリカ軍1万2000人という膨大な人数である。彼らはここから、パンパンガ州のサンヘルナンドまで陸路112キロを歩かされることになった。サルヘルナルドからは鉄路でタルラック州で送られ、さらに徒歩で約16キロの地点が捕虜収容所のあるオドンネルである。最終目的地オドンネルに着いたときには、5万9000人になったいた。この間、1万7000人(うちアメリカ兵1200人)が死亡したことになる。5ヶ月にわたる持久戦で体力を消耗したうえ、マラリアにかかった捕虜も多かった。日本軍はろくな食糧、水の用意もなく、100キロ以上も歩かせたから犠牲者が出たのは当然であった。これが「バターン死の行進」である。結局、収容後3ヶ月後に医薬品や食糧不足のため、約3万人(うちアメリカ兵1500人)が死亡した。「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けてきた日本兵の考えから容易に捕虜を虐待して、簡単に打ち殺すようなこともやったのである。

バターン死の行進といえば、糞女笹幸恵である。

【文春】「バターン死の行進」記事、「マルコポーロ」を廃刊に追い込んだユダヤ人団体が抗議
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1137204832/
【ロサンゼルス=古沢由紀子】
日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。

記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。
ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。
「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。

行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。

同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。

同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm

Apes! Not Monkeys!
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060309235131/index.htmlより
『文藝春秋』05年12月号の「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事もまた、結局は「「祖父母・曾祖父母の罪」を暴くなという欲望の発露でしかない。なにしろ、その骨子は
・人間は100キロ程度を4日間で歩いただけでは死なない
・元捕虜の証言は鵜呑みにできない(だけど日本軍の戦史は信用できる?)
・一番悪いのは兵士たちをマラリアなどに罹患させたアメリカ軍だ

結局はとんでもない馬鹿女がいたもんである。バターン死の行進は悲惨なものだった。バターンの死の行進と同等以上に悲惨だったのが、オドンネルの捕虜収容所での惨状だった。「バターン死の行進」を歩き乗り切ったとしても兵士たちの苦しみは終わったわけではなかった。結果的には7万6000人のアメリカ・フィリピン軍兵士のうち4万7000人もの兵士たちがなくなった。ただし、そのうちアメリカ兵は2700人であり、残りの4万4000人ほどはフィリピン人であった。日本と米国の戦争であり、日本とフィリピンとの戦争ではない。結局アジア人という弱者がこの戦争で一番犠牲になっている。

●ユサッフェ・ゲリラの証言p110〜
 3月31日。この朝、牧師さんに2人の戦争体験者を紹介してもらった。一人は、ディオニシオ・プラスさん、もう1人は、メリコール・モレノさんである。
 プラスさんは1922年バターン州サマール生まれの66歳。元フィリピン厚生省の高官で、ユサッフェとして日本軍と戦い、その後ゲリラとして活躍したという経歴の持ち主である。彼の戦争体験はつぎのようであった。
「1941年3月に高校を卒業すると、3ヶ月の軍事訓練のうち、12月に徴兵されました。19歳でした。アメリカはオレンジ作戦によってバターン半島に兵力を集中したので、私は42年1月バランガへ配属になりました。日本軍はその北アブカイに前線基地を築きました。われわれはしだいに南に追い詰められていき、2月にはもう食糧難になり、それから162日間、水のみの生活が続きました。栄養失調でマラリア、伝染病にかかる兵士が増えました。私は無線(無線はなかった)担当で、日本軍と自分の情報を司令部に連絡していました。3月には兵士はついに最南端マリベレスに追い込まれ、兵士の食糧は枯渇し、木の実を食べ、死体の浮いた泥水さえ飲みました。4月3日に爆撃で股にケガをし、8日の朝、日本軍の戦車の音を聞いて、壊れた銃を捨てて逃げました。4月9日の降伏に従って、マリベレスで投降し、死の行進に参加しました」
「4月10日、死の行進が始まると私はその夜、仲間2人と一緒に逃げました。オリオンから小舟で故郷のサマールへ行きました。家族はサマール山のほうへ逃げたあとで会えませんでした。ここで村の女性が日本兵にたくさん強姦されたことを聞きました。女たちはそのため泥を顔に塗り、汚い格好をしていました。私はマラリアが悪化しており、パンパンガ州へ行って5月まで養生しました。その後、体力を回復してからゲリラとなり、ピラーからアブカイ山中で活動しました。日本兵は村に来ては、家探しをしたあと、かならず銃撃していました」
 プラスさんは、死の行進を一日で逃げ出し、その後、ユサッフェ・ゲリラになったのである。
 もう1人のモレノさんは、1925年バターン州オリオン生まれの63歳。1945年に15歳だったから直接的な戦闘体験はないが、オリオンという激しい戦闘地帯に少年時代を過ごした。
「オリオンの小学校では、日本軍の爆撃のためにたくさんの死傷者が出ました。水田で働いている人が爆弾に直撃され、粉々に吹き飛んだのを見ました。また、日本軍が侵攻してくると、多くの女性が強姦されました。赤ん坊は上に放り投げて、銃剣で殺しました。日本軍は教会に人を集め、ゲリラ狩りのために検問し、名前がゲリラに似ていれば、すぐ殺されました。たとえば、マチューとマティのような場合です。こうして、オリオンでは1000人以上の人々が殺されました。
 村の食糧事情は極度に悪く、砂糖、魚はおろか、米もなく(日本軍の略奪のため)。サツマイモの葉、カテオの葉、バナナの芯も食べました。42年から44年の前半にかけて空襲が続き、電気、ランプをつけられず、防空壕によく入りました。日本兵はゲリラを探しており、村の人は赤ん坊を泣かせないよう口を押さえました。見つかると、ゲリラを知っているかと拷問しました」
 ゲリラとみなされると、日本軍は連行してただちに処刑したという。
「サマールのカラギヤン村では100人の民間人が連行され、殺されました。いまでも一ヶ所から白骨がたくさん掘り出されます。また、オリオンのブクタン村では30人の男の首を日本兵が切り落としたが、そのなかの1人は首を切り落とされたまま、恐怖と衝撃のため胴体だけで3メートルほど走りました」
 日本兵の赤ん坊串刺しの話は、マレーシアでもよく聞かれたが伝聞が多く実際の証言者を探すのは困難であった。しかし、モレノさんの話では4回ほど実際の現場を見たという。日本兵は度胸だめしと「訓練」のため、中国を含めアジア各地でこのような残虐行為を平気で行っていたようである。
(略)

 4月1日。ロスバニオスにフェリ・オレリエさんを訪ねる。1945年3月5日、オレリエ家に押し入ったに日本兵は、彼女の母親と弟、妹の計5人を殺した。
「家にいた家族では私だけが生き残りました。日本兵が去ってから、5日間私は眠れませんでした。その後も傷口をそのままに放置していたため化膿してしまい、手術で皮膚移植しなければなりませんでした。その後も傷口をそんままに放置していたために化膿してしまい、手術で皮膚移植しなければなりませんでした。いまでも、寒い日にはそのときの傷口が痛みます」
 当時24歳であった彼女が一生独身で暮らすことになったのは、もしかしたら、このときの傷が原因ではなかろうかと、私は考えた。
「私たちが2階に上げられる前に、2人の若い娘が選ばれ、別の場所に連れられていかれました。その後、動物のような悲鳴が聞こえました。きっと強姦されて、そのあと殺されたのだと思います」
 オレリエさんは、戦後のマニラにおける戦犯裁判に出席して証言している。
「山下奉文将軍が被告席にいるのを見ましたが、彼は虐殺の証拠写真をけっして見ようとしませんでした。ただ、頭を下げたままでした」と法廷の様子を語った。

ユサッフェ・ゲリラとは連合軍西南太平洋司令部の指揮下に属するゲリラのこと。ようは米軍のゲリラ戦部隊のようなもの。
それにしても、おぞましい蛮行でした。まさに人間とは思えません。日本兵は東洋鬼だったのでしょう。女性は平気で強姦して殺害する。人の首を平気で跳ねる。ゲリラだと決めつけたら、ろくに調べもせず殺害する。名前だけでゲリラだと決めつけて殺す。平気で赤ん坊を銃剣で串刺しにする。これでもフィリピンにおける日本軍の蛮行についてしらを切るつもりでしょうか?この世で存在するありとあらゆる武装組織(正規軍、ゲリラ・反政府軍を問わない)の中で人命軽視、残虐非道さにおいて日本軍に敵う組織はないと断言できます。ちなみに元ユサッフェ・ゲリラの兵士と米国の間にも補償問題らしきものがある。ディオシオ・プラスさんはユサッフェの戦いはアメリカと日本の戦争であり、フィリピンの戦いではないと言う。フィリピン解放のための戦いではなく、結局はアメリカのための利益のための戦争だと言う。アメリカ兵の給料は49ペソであり、フィリピン人は18ペソに過ぎなかったと言う。フィリピン人ゲリラの補償は死傷者については行われたが、生きている者に対しては行われなかったと言う。アメリカもフィリピン政府も補償を考えて欲しいと言う。いろいろ複雑であり、考えさせられるものがある。このことは朝鮮人軍人・軍属などと日本政府の間でも問題になっている。

p114〜115
 4月2日。朝ジプニーでサンチャゴ要塞に行った。ここは、スペイン植民地時代からの要塞で、アメリカ統治時代は司令部がおかれ、日本占領時代は憲兵隊本部がおかれていた。また、スペイン時代から政治犯や捕虜の収容所として利用された。いま憲兵隊本部跡に建物はないが、ただ地下室が残っているようであった。この地下室は、日本軍が敵のゲリラとかスパイとみなしたものを収容し、拷問を行った場所である。
(略)

 サンチャゴ要塞を出て、マニラ大聖堂の横を通り、インストラムロスというスペイン時代の要塞都市の跡に入る。ここは1945年も空襲でほとんどが破壊されたが、唯一奇跡的に残ったのが、サン・オーガスチン教会。1571年に建てられたフィリピン最古の石造教会である。
(略)

 教会ホールのなかに白い四角い台のりっぱなモニュメントがおかれている。この説明文によると、第二次世界大戦のマニラ占領末期に日本軍によって殺された141人の墓であるという。さっそく、教会の警備員にこのことを尋ねてみた。すると、1945年2月、この教会の中庭に住民が集められて、いっせいに銃撃されて殺されたのだという。米軍がマニラにふたたび入るのは2月3日であるから、敗走する日本軍によるフィリピン民衆の虐殺がここでも起きたということであろうか。調べてみると、マニラの軍事法廷で裁かれた山下奉文起訴状にサン・オーガスチン教会の虐殺(インストラムス内600人)と記載されていた。

日本はつくづくフィリピンで虐殺をやりまくったのだなと。敗走中だというがとっとと敗北を認めて、虐殺などせず降伏すればよかったのだが、どうして虐殺という凶行に及んでしまうのであろうか。

p116〜117
 4月3日。朝9時すぎにケソン市にあるフィリピン大学の元教授アルセニオ・マニュエルさんを訪ねた。マニュエルさんが保管している日本軍の占領当時の宣伝ビラを見せてもらった。本人は1000万ドルで売りたいというのだ。とても個人で手を出せるものではない。
 そのいくつかをここで紹介してみよう。たとえば、「アングロ・アメリカン粉砕! 新生フィリピン建設!」(Crush Angro-American! Build up Philippines!)、「アジアは我が幸せな家族」(ASIA-OUR HAPPY HOME)は5月27日の海軍記念日のもの。アジアの各国旗を持った馬上の人々が円を描き、大東亜共栄圏の民族協和をうたっている。また、アイウエオという片仮名を描いた、「アジアノコトバニッポンゴ」は、日本語教育の宣伝。「アメリカ 日本の赤十字船を爆撃」はアメリカの非人道的行為を非難したもの。大東亜戦略地図(表題は THE WAR OF THE GREAT EAST ASIA)では、アジアから南太平洋全域を、占領地域、親日国家、海軍の戦闘地域、爆撃地域の4つの地域に区別し、色分けしている。
 すべてがカラー印刷でみごとな出来ばえである。イラスト、漫画、写真を駆使して「大東亜共栄圏」をフィリピンの人々の意識に植えつけようとしたのだろう。それまでのアメリカ支配を逆手にとって反米親日を訴えようとする日本軍の意図は明白である。

どんな宣伝ビラか見てみたい。必至になって、アジア民衆をひきつけようとしたのだろう。大層な美辞麗句な言葉ばかり並べて、アジア地域の光ニッポンを訴えているが、実態は共産主義国家のアジビラのようなものだ。フィリピンだけではなく、マレーシア、インドネシアなどでも行われただろうが、実態は欧米にかわり、大日本帝国がアジアの盟主になって君臨しようとしたというだけのこと。しかし、それらの地域を引っ張っていくだけの国力・経済力・政策力はなく、経済政策の失敗・失策や軍票乱発による悪性インフレ・経済崩壊、労働者の強制連行、従軍慰安婦、日本兵の奇行や強姦、暴行、殺戮の横行、ゲリラ刈りと称する一般民衆の無差別虐殺、戦況の悪化によりますます苛酷化する圧政によってアジア人の反発が強まっていった。ただ、一部に懐柔に成功したりした層や前の統治国の悪政からくる狂信的親日派(対日協力)層(フィリピンでいえば、マカピリ、サクダルなど)の出現により、同じアジア占領地域内でも被支配民衆同士の対立の部分も生まれた。

p119〜120
 1992年4月は「バターン死の行進」から50年で、フィリピン、日本、アメリカ、オーストラリアのキリスト教徒200人が出発点マリベレスに集合してオンドネルキャンプまで150キロの平和行進を行った。
 日本軍による住民虐殺の地、バタンガス州リパでは、1992年2月にフィリピン在住16年の三木睦彦氏の努力によって「謝罪の慰霊碑」が建てられた。これは東京、横浜、大阪の市民の援助金によるもので、フィリピンと日本との戦争責任をめぐる心の交流は着実に進んでいる。
 また、1995年2月にはルソン島北部のカガヤン州沖でプラチナ金塊が発見され、旧日本軍の隠し資金としていわゆる山下(奉文)財宝だと報じられた。すぐに単なる金塊であることが明らかになったが、現在もフィリピンでは日本軍の残した戦争の傷跡は生きている。
 1994年8月には村山首相はフィリピンを訪問し、ラモス大統領と会談し、「過去の歴史を直視し軍事大国にならない」と発言し、フィリピンの従軍慰安婦問題についても言及し、戦後50年を期して途上国援助(ODA)による女性の職業訓練センター設置を約束した。すでにフィリピンでは日本軍の慰安婦にされた200人が名乗りをあげて補償を要求しているが、職業センター建設では補償にならないとして不満が高まっている。また、現在、約2000人いるといわれるフィリピン残留孤児の問題、すなわち敗戦後の混乱で両親と離ればなれになった日本人移民の子どもたちに、肉親さがしと国籍回復の問題が起きている。さらに、フィリピンから日本人男性とフィリピン人女性のあいだに生まれた子供の問題、日本にいるフィリピン女性労働者の問題への保護、援助が日本政府に要請されている。

日本軍がアジア・太平洋戦争中に残した問題が今もほとんど解決を見ず山積している。もちろん、戦後の日本企業や日本人、日本がフィリピンに対して引き起こした問題も多い。しかし、良識派である日本人もいっぱいいる。すでに日本の戦争責任をめぐるフィリピンとの心の交流は進んでいる。しかし、そう簡単に日本軍の占領支配の残酷さや戦争の爪痕は簡単に消えるものではない。フィリピンに対して、日本はたった3年ほどの支配をしただけだが、アメリカやスペインの数百年の植民地支配をはるかに凌ぐ残虐な統治を行った。フィリピン人同士でも殺し合わせることをした。もはや過去には戻れないし、行ってしまったことは取り返しはつかないが、やってしまったことに対する償いはきちんと行うべきである。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:28 | Comment(19) | TrackBack(14) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

従軍慰安婦関連について

少しだけ、従軍慰安婦関連の右翼による記述を調べてみた。以下のようなものがあった。
時事ブログ「グースの勿忘草」
http://sky.ap.teacup.com/deep/13.htmlより
 ちなみに日本国の主権が及ばない占領地、特に南方方面は日本兵による、強姦や強制売春などの被害も若干あったようです。しかしこれは「国策」として日本軍が行ったわけではありませんので、戦時中に強姦を実行した者は(罪が発覚すれば)日本軍の軍法会議で処罰されています。また、戦後のBC級裁判でも強姦や強制売春の罪は裁かれています。また、講和条約で賠償も終わっています。


http://sky.ap.teacup.com/deep/151.htmlより
※強制連行の例と言えば、いわゆる「スマラン事件」というものが知られています。インドネシアで「オランダ人女性を強制売春に動員」したという事件ですが、これは現地軍人の暴走であり、慰安所は短期間で閉鎖されています。関係者は戦後のBC級裁判で処罰されています。

日本ちゃちゃちゃ倶楽部
http://web.archive.org/web/20050305221648/www.nc4.gr.jp/y-watch/jp.comfortwomen1.htmlより
ところで、日本軍によって女性が拉致されたという目撃がないと私たちは言いました。しかし、一部の日本軍の部隊がインドネシアや中国の村長を脅していたのを聞いたポルトガル人と日本軍の軍医がいます。軍医によれば、一部の村長たちは、村に駐屯している現地の日本軍の一部の部隊に村娘を差し出し、一部の日本軍部隊がその村娘を強制的に慰安婦にしたというものです。

これらは、「軍慰安所従業婦等徴募の件」を逸脱し、破った一部の日本軍部隊の例です。当時、日本政府の方針は、「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」が基本となっていました。

という風に一部の右翼は一応決まりを逸脱して、一部の部隊・兵士個人なりが慰安婦を強制的に拉致し、強制売春させた可能性を認めています。多くの右翼はその可能性ですら、認めてません。ただし、日本軍は全体として厳正であり、規則をつくり守っていたことを強調しています。果たしてそうなのでしょうか?まずは従軍慰安婦問題の経緯について考えてみたいと思います。従軍慰安婦関連の経緯でいえば、陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」という文書が一つの争点になってくるでしょう。

日本軍の慰安所政策について
永井 和
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/guniansyo.htmlが参考になると思います。
本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付−以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。

まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス2)

この論文よりまとめれば、右翼らはこの通牒をもって、内地で誘拐まがいの行為をする業者がいるから取り締まり、軍の威信を保つ。強制連行をさせないように業者を軍が管理する軍のよい意味での「関与」であるという。
一方こういう見方に反論する良識派はにこの文書をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとし、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを見抜いている。良識派は軍による募集業者の選定と募集・徴集活動の統制が行われていたことを重視し、それが守られなかった場合はその責任を論じる方向へ行くのに対し、右翼側は慰安所に軍の関与を認めるが、その関与とは悪質業者の「強制連行」「強制徴収」を不法行為を取り締まることだとし、一部の不法行為があったとしても個々の業者、軍の下部機関、一部の将兵が悪いのであり、政府や軍の責任は一切ないという。とにかく、日本軍や当時の大日本帝国の性善説を妄信しているのが右翼である。

U.陸軍慰安所の創設
前記史料5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長宛の1938年1月20日付回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらに、この長崎県からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)の写しも収録されている。

この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に在上海の軍と領事館が深く関与したことを示す公文書にほかならない。以下に引用するのはその全文である。

 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス

(中略)

昭和十二年十二月二十一日

                在上海日本総領事館警察署13)
冒頭に、「之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ」とあるように、この文書から、1937年の12月中旬に上海の総領事館(総領事は岡本季正)と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれ、その結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定されたこと、さらにその運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。

ここで言及されている陸軍武官室とは、正式には在中華民国大使館付陸軍武官とそのスタッフを意味する。その長は原田熊吉少将であり、1938年2月には中支特務部と改称された。軍事面での渉外事項や特殊な政治工作を担当する陸軍の出先機関であり、上海戦がはじまってからは、上海派遣軍や中支那方面軍の隷下にある陸軍特務機関として第三国の出先機関や軍部との交渉、親日派中国人に対する政治工作、さらに上海で活動する日本の政府機関や民間団体との交渉・調整窓口の役割をはたした。

軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、今までの慰安所研究により明らかにされており、今では史実として広く受け入れられている。その意味では、定説の再確認にとどまるのだが、この在上海総領事館警察署の依頼状は、慰安所の設置を命じた軍の指令文書そのものではないとしても、政府機関と軍すなわち在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊によって慰安所の設置とその運営法が決定されたことを直接的に示す公文書として他に先例がなく、その点で重要な意義を有する。


吉見および藤井忠俊の研究14)によれば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関する既存史料には次のようなものがある。(これ以外にも、慰安所を利用した兵士の日記・回想があるが略す)。

飯沼守上海派遣軍参謀長の日記15)
1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」
上村利通上海派遣軍参謀副長の日記16)
1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」
山崎正男第十軍参謀の日記17)
1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」
在上海総領事館警察の報告書18)
1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目。
常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告19)
1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」
元陸軍軍医麻生徹男の手記によれば、1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた20)。
また、1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した21)。
今回さらに、

在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付)
が新たに加わったわけである。

これらを総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に慰安所開設の指示が出されたと考えて、まずまちがいない。


もう決着はついているだろう。確かに先の文書はもちろん建前としては悪質業者の不法行為を取り締まっているが、根本的な点は軍の慰安所の設置は軍の指示・命令であり、国家の政策であった。日本軍が上海を攻略し、南京へ進軍する中で、現地で掠奪・暴行、とりわけ強姦をやりまくったのである。それを防止するために軍隊は慰安所を設置するように公式に指示したのである。また、将兵への性病の拡大の防止というのもあった。
コメント欄ではこんなことを言うやつがいた。私が右翼ではないと信じてきた人であるが、
ロシア、韓国の軍隊は、慰安所を設置することすらできず、敵対国の民間人を強姦したことは、強姦によって生まれてきた多くの子供たちという完全なる証拠があります。

民間人が巻き込まれる戦争は、戦争の中でももっとも忌避しなければなりませんが、日本にも問題がありましたが、戦時中には多くの国が同じ問題を持っています。 日本のみを責めるのではなく、戦時下の一般常識として兵員の性欲・精神状態を考察してください。 また、慰安所を批難するのであれば代替案を提示してください。 慰安所を設けない軍隊は、強姦をするという歴史的事実に目をむけ、日本の姿勢を客観的に評価してください。

問題は慰安所を設置して、日本軍の強姦や暴行などの犯罪や軍規が回復したのかという問題である。
http://www.nextftp.com/tarari/daikanin.htmによれば、
◆第十六師団歩兵第三十三連隊第三大隊 井戸直次郎
(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるの見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじゃ。もう無茶苦茶じゃ。(略)
街の中でも女が隠れ取る所を良く知っとるわ。若いもんも、お婆あも、みんなやった。それからばれたらまずいから、殺すんじゃ。南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、物は取りたい放題じゃ、と言われておった。「七十くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と自慢しよる奴もおった。(略)慰安所作っても強姦は減らんわ。(『南京戦』pp275)

■南京■終始、暴力的な形の強姦が主流であった。性欲望を持続的に満たすために拉致・監禁をおこなって強姦の常習、性奴隷化を伴うことがあった。この帰結として慰安所が開設されたが、自発的売春行為者とは性格を異にし、日本軍による管理売春であり、組織的な強姦であった。その頃から中国人女性の間にも自発的売春行為に応じる女性が出現しているが、記事は少ない。また、慰安所ができても強姦は減らなかった。これは破壊的、嗜虐的性行為が癖になってしまったからである。

と言う風に、慰安所をつくっても強姦防止にはつながらなかったのである。(これに関しては例外があるかもしれない。ちなみにリー・クアンユーの回顧録によれば、シンガポールでは郊外で日本兵による強姦があったのみで、南京のような事態にはならなかった。この理由として日本軍の慰安所をあげている。)私にはむしろ、慰安所をつくったことによってむしろ強姦が拡大したとの見方ができる。慰安所があることでより日本兵は日常的に性欲が満たされる。ただ、作戦中など慰安所が利用できない場合、常に性行為に溺れていたことが多かったため、期間が空くと耐え切れず、現地民衆への強姦へ及んでしまうのである。
先のコメントで慰安所を設置しなかった軍隊は強姦に及んだというが納得はできない。韓国軍(おそらくベトナムでの)やソ連軍のみを持ち出している。慰安所を設けなかった軍隊は歴史的に強姦するという論理に賛同できない。日本兵が軍規の乱れ・崩壊、そして数々の残虐行為、強姦の多発は日本軍の根本的な体質から来るもの。もちろん、他国の軍隊でもそういった問題はなくはないが、特に中国大陸やフィリピンにおける日本軍の事例は他国の軍隊と比較するのが間違っている。
ソ連軍についてはhttp://www.nextftp.com/tarari/daikanin.htm
ソ連兵の強姦は4月25日から5月3日に集中していた。占領から数日後に強姦を禁止する明確な指令が出され、将校は兵に強姦を中止するよう命令した。ソ連警察は強姦の被害届けを出すよう布告をした。また、所管将校は強姦犯罪者多数を即刻射殺した。赤軍指導部は無規律な兵員を帰還させる措置を執った。
とあり、一週間の期間で明確な訓示によってぴたりと止んだ。慰安所を設置した結果ではない、命令を徹底したからだ。ちなみに日本軍の軍法では強姦罪は2年ほどの懲役にしかならなかった。ソ連軍は射殺という厳罰をもって、兵士の狂乱を止めさせた。もちろん、射殺せよとはいわないが、徹底した訓示や事前教育により問題はある程度防止できるはずなのだ。あと、ソ連軍の軍規が悪かったのは、ドイツ戦の熾烈な戦いのあと、兵力の補充に囚人兵を多用したことにある。ちなみに英国軍や米国軍(日本本土、沖縄を除く)はどうだろうか?たとえばビルマやマラヤ、シンガポール、フィリピンの日本軍からの奪還時に英軍および米軍の強姦が多発したということはない。それになによりも
http://www10.ocn.ne.jp/~war/rape.htmより
(ちなみに日本軍も、中国では盗賊さえも強姦はしないと認識していたかに思える見解を出していました。1932年7月、関東軍参謀部は次のように述べていたそうです。

「支那人は面子を重んじ、外見上婦人を大切にするが、強姦は総ての悪徳暴虐行為の中、其最悪なるものとして非常に重大なる社会問題として居る。(匪賊や盗賊も)虚言、瞞着、掠奪、強盗等は平気でやるが、強姦だけは滅多にやらぬ」(関東軍参謀部宣伝参考「漢民族の特質」―――吉見義明「従軍慰安婦」P-23より)

中国の盗賊でさえも強姦はしなかったのである。強姦ばかりして、その兵の強姦を抑えるための発想として慰安所設置することしか思いつかなかった日本軍は盗賊集団以下の組織であったのだろう。別に強姦対策として別に慰安所を設置しなくても、たとえば憲兵を増員するとか、厳格に強姦防止などに向けて兵士への教育を徹底するとか、兵の不用意な駐屯地からの外出を制限するとか、軍隊などの兵士の人権などの軍隊のシステムを改善し、風通しをよくしたりするなどさまざまな方法があるだろう。このような意見には到底賛同できない。後、コメント欄に数々の右翼のコメントを頂いたが、は強姦防止対策や性病対策等のため慰安所を設置したというが、集落のほとんどなかったガダルカナルなどの太平洋上の小島や玉砕の悲惨な戦場の前線にあり、一般の市民との関わりがない場所においても慰安婦がいたことの説明はなかった。一般的に将兵の強姦防止、性病病死であったのだが、士気の維持、そして日本兵全般にとって性奉仕の快楽が日常的に味わえることが辞められなくなって、大部分の部隊や地域に慰安所があったことの理由であろう。私自身、勉強不足などで、右翼側のいう倫理にすべて反論することはできないが、日本軍・大日本帝国性善説にしがみつく右翼どもにはやはり疑問を感じざる負えない。この従軍慰安婦の問題を含めて、これからのどんどんエントリーを書いていくつもりである。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:26 | Comment(15) | TrackBack(0) | 日々の雑感ならびに考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本国家機密、インターネットから流出…防衛庁軍事資料など

2日前の記事ですが、たまにはこんな話題も

日本国家機密、インターネットから流出…防衛庁軍事資料など
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=74005&servcode=200§code=200
海上自衛隊の暗号や護衛艦運用資料を含む軍事機密、空港保安区域出入りの際に必要なパスワード、警察、検察の被疑者尋問調書、原子力発電所の機密資料、証券取引所のシステム開発資料等々…。

最近インターネットを通じて流出された日本政府の秘密資料リストだ。特定放送番組に出演した有名芸能人たちの身元情報や刑務所受刑者たちの資料も流れている。

流出の主犯はファイル交換プログラム「ウィニー」に寄生するコンピューターウイルスであるといわれる。ウィニーは「ソリバダ」や「ナップスター」のようにネチズン同士ファイルを交換することができるプログラムだ。

2002年、東京大学大学院助手が開発したこのプログラムは、著作権侵害問題で2004年から配布が中断されているが、現在、日本で100万人以上が利用している。情報流出被害がこれほどまでに大きくなったことは、ウイルスに感染されたコンピューターのハードディスクの内容が丸ごとウィニー接続者に公開される特性による。

正常な場合にはウィニーユーザーが指定するファイルだけ公開されるように設計されてはいるが、ウイルスがセキュリティ網を崩したのだ。このような「暴露機能」を持つウイルスは現在70の変種まであるものとみられている。このため私用コンピューターを使う人々によって、政府や企業の秘密資料が大量露出しているのだ。

ウィニー被害が拡散し、日本政府と企業体は超非常事態だ。外務省、総務省、警察庁など政府機関は私用コンピューターの搬入を原則的に禁止した。最も被害が大きかった防衛庁は緊急予算40億円を投入し、職員たちに配る業務用コンピューター7万台を発注した。「事務室のコンピューターは性能が落ち、仕方なく個人用コンピューターを業務で使う」と理由による。

官公署と企業はウィニープログラムがインストールされた共用コンピューターを見つけて削除するのに追われている。コンピューターセキュリティ業社もウイルス退治プログラムを配布し始めた。

それにもかかわらず被害が続き、安倍晋三官房長官が先週、記者会見で「ウィニーを使わないでください」と訴えるまでになった。しかしウィニー自体は不法ではないため、強制的に禁止する方法はない。流出された情報を受け取ったユーザーも法的処罰は不可能だ。ただ「ウィニー」の開発者は2004年、著作権侵害幇助の疑いで起訴され、裁判で係争中だ。

Winnyというのはファイル交換ソフトの一つで、基となる中央サーバーをもたず、多数のコンピューターをネットワークでつなぎ、そのネットワーク間でファイルの共有を行う。一番問題になっているのはウィルスによる情報の流出である。一端情報が流出すると、キャッシュとして残るためにユーザーのすべてのPCからデーターを削除しないかぎりWinnyネットワーク上のデーターは削除できない。つまり事実上流出データーの削除は不可能ということらしい。最近のウイルスは恐ろしく、デスクトップ上のデーターはもちろん、電子メールデーター、各作業途中(Word、Excel、文書作成などの編集、チャットやデーターのコピー)のスクリーンショット、作業の履歴、パスワードなどを書いたメモなどを感染者に気づかない間に流出させるという。もちろん、Winnyというのはものすごく便利だから、何十万人というユーザーがいるのだろうが、便利さの影には恐ろしいリスクがあるということだろうか。ちなみに最近のウイルスでいえば、Winnyのようなファイル互換ソフトを一切使用していなくても、感染したPC内のデーターを勝手にネット上に流出させてしまうものもでてきているとのこと。私はワクチンソフトとしてNorton AntiVirusを使用しているが、最新版に更新するのを忙しい中で滞りがちである。私は今の別にPC内に流出して困るようなデーターは入れてないし、ネットショッピングなどもやらないのだが、仕事するようになれば考えないといけない。私はめんどくさがりやでもあるから、いちいち最新版のワクチンを更新し続けるという作業自体好きではない。一番いいのは、PCを複数持つということだろう。遊び用と業務用、機密用などにもわけて、流出しては困るデーターの入ったPCは一切のネットワークから断つという風な方法が一番いいかもしれない。ところでこの記事で気になったのは、役所や企業で働く人間のモラルの問題である。防衛庁・自衛隊はもちろん、警察、刑務所、裁判所、郵便局、原子力発電所、各自治体、個人情報を扱う銀行やYahooなどの企業でもある。特にたとえば、運転免許証のデーターや銀行や郵便局の口座内容・パスワードなどが流出したらたまらない。そのような職場で働く人間が職場の機密・重大情報・個人情報などを扱うPCでWinnyを使用していたり、自宅のWinnyを組み込んだ私物のPCに情報を持ち帰って、ずさんな情報管理に問題点がある。その問題点をさらに突き止めれば、個人のモラルである。重要な情報を取り扱っているという職業倫理があるなら、勝手に私物のPCに持ち帰ったりなどしない。それに職場のPCにWinnyソフトがあるということ自体もおかしい。どんないかなる職業にしろ、Winnyというソフトは必要ないからだ。たとえば、警察からWinnyを介してウイルスによる捜査情報が流出したというが、一警察官もしくは警察職員が職場のPCを私用していたことを示している。その漏れた情報によってもし誰かが、被害が蒙るとかということが頭にない。この国は腐っている。今回のWinnyの問題というのは人災ともいえるのではないだろうか。

文春側代理人は姿見せず 浅野教授の「セクハラ」名誉毀損裁判口頭弁論始まる

4日前のニュースですが

文春側代理人は姿見せず 浅野教授の「セクハラ」名誉毀損裁判口頭弁論始まる
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200603222317363
【京都22日=三木眞】「週刊文春」の事実無根の記事によって名誉を毀損されたとして、同志社大学の浅野健一教授が発行元の株式会社文藝春秋(東京都千代田区)に対して損害賠償などを求めた訴訟の第1回口頭弁論が22日、京都地裁(中村哲裁判長)で開かれた。 
 
 文春は昨年11月24日号で《「人権擁護派」浅野健一同志社大教授 「学内セクハラ」を被害者が告発!》との大見出しの記事を掲載。浅野氏は虚偽記事だとして、同社と文春の鈴木洋嗣編集長及び石垣篤志・名村さえ両記者の計4者に、1億1000万円(1000万円は弁護士費用)の損害賠償と、同誌に謝罪広告と新聞広告欄に謝罪文を掲載するよう求めている。 
 
 この日の口頭弁論では、原告側は浅野氏と若松芳也・堀和幸・小原健司各弁護士が出席したものの、文春側は代理人の喜田村洋一、林陽子、藤原家康の各弁護士が全員欠席した。 
 
 中村裁判長は被告代理人が欠席したため、被告側が事前に提出していた答弁書を読み上げたことにするという「陳述擬制」扱いとし、被告側に対し、次回の口頭弁論までに抗弁書を出すよう求めた。この後、第二回の口頭弁論を5月10日と決めただけで閉廷した。 
 
 答弁書(3月22日付)は、原告が文春記事によって損害を受けたことに対して「いずれも不知ないし争う」としている。また「記事には公共性・公益性がある」「記事の内容は真実。少なくとも真実と信じるについて相当の理由を有していた」と主張している。 
 
 原告代理人の3弁護士は支援者に対して、「今回出た被告側の答弁書はジャブ程度。4月末ごろまでに文春側の抗弁書が出るので、それに対する反論など本格的な論戦は第3回口頭弁論がある6、7月ごろからになるだろう。多くの方々からアドバイスをいただきたい」と述べた。 
 
 民事裁判の場合、第一回期日は裁判所と原告だけで決めるため、欠席は認められる。しかし浅野氏は、「私に関することが大学内の委員会で審理されている事実に『公共性、公益性』があると主張する大出版社の代理人3人が全く姿を見せないというのは極めて無責任だと思う。社会的責任を感じないのかと考える」と語った。 
 
 浅野氏の裁判を支援する市民、学生ら20数人が傍聴し、208号法廷はほぼ満席となった。鹿砦社社長の松岡利康氏=名誉毀損刑事事件で公判中=も傍聴に駆けつけ、日刊ベリタの取材に対して「奇しくも私と浅野教授両方が裁判闘争を抱えることになったが、表現の自由という点で、共闘していきたい。浅野教授には是非とも頑張っていただきたい」と語った。 
 
 ある同志社大学の学生は「浅野教授の潔白を信じている。精一杯応援したい」とコメントした。また、平和運動をしている市民は「メディアは政権政党より大きな権力を持っているとさえ思える状況で、報道の自由とは何のためにあるかを本訴訟で浮き彫りにしてほしいと願っている」と述べた。 
 
 被告側が出した答弁書によると、文春側の代理人は、東京千代田区にあるミネルバ法律事務所所属の喜田村、林両弁護士らであることが分かった。喜田村氏は自由人権協会系の“リベラル”な弁護士で、『報道被害者と報道の自由』(白水社、1999年)の著者として知られている。このほか、従軍慰安婦問題を取り上げたNHK・ETV特集番組をめぐってバウネットジャパンがNHKなどを訴えた裁判(東京高裁で審理中)で、NHK代理人を務めている。 
 
 またNHKが月刊「現代」(講談社)を訴えたジャカルタ特派員やらせ爆弾漁訴訟でもNHK代理人だったほか、浅野氏が最初に取り上げた文春のロス疑惑報道で報道被害を受けた三浦和義さんの刑事、民事の弁護人を弘中惇一郎弁護士らとともに務めていた。 

週刊文春はろくに取材などしていなかったのだな。同志社大学教授浅野健一氏を咎めるために、出した捏造記事というところかもしれないね。さてと、文藝春秋社という右翼出版社は数々の名誉毀損記事、また、右翼的妄言出版物・記事をだしてきたが、これらの悪行に天罰が下されることになるだろう。浅野健一教授の勝利を信じています。

2006年03月24日

mumurブルドグ、アジアの真実および右翼サイトにおける慰安婦記述の妄言を斬る

【朝日新聞vsNHK問題】つらい目にあった慰安婦の証言を疑ってはならない
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50426914.htmlより
>「つらい経験をされた方の言葉について疑うのはあり得ないと思っている」と声を詰まらせた。

ある事実の主張について「信憑性に疑問がある」と言われたら、その疑問を解消すべく証拠を提示すべきなのであって、「被害者が言ってるのだから疑ってはいけない」という反論は0点です。

逆に言うと、従軍慰安婦を未だに主張してる人間というのは、「かわいそうだから」という根拠しかないということが明らかになっちゃいました。

mumurはNHKの永田君に聞きたいのだが、同志社大学の浅野健一センセーのセクハラは事実だと思いますか?
というか、聞くまでもなく、彼の主張に従うと自動的に事実だということになっちゃうわけだが。

mumurの馬鹿さには呆れてものがいえん。第一点は従軍慰安婦(日本軍性奴隷)被害者と浅野健一教授のセクハラ疑惑の問題と比べること自体が可笑しい。週刊文春が同志社大学の浅野健一教授のセクハラ疑惑を記事にしたというが、そもそも週刊文春自体の信憑性は傷物だ。週刊文春は名誉毀損で訴えられまくっているし、きちんと取材しているかどうかも怪しい。まず、第一に浅野健一教授にセクハラされた被害者自体の存在自体が怪しいのだ。しかし、従軍慰安婦被害者は実名を明かし、所在もはっきりして、数々の出版物、テレビ、公衆の前の演説等で証言していて、週刊文春の記事のような゛A゛という匿名の存在ではなくて、この地球上に存在するのが明らかだろうが。
第二点は従軍慰安婦被害者が証拠を出せといっても、実際のところは不可能に近い。証拠があったとしても日本政府なり、海外の米国や英国、オランダなど東京裁判やBC級戦犯裁判で原告になった連合国が保管しているだろう。未公開の資料も多く、慰安婦被害者自身が動いてもどうしようもないからだ。そもそも証拠となる文書は敗戦時の混乱で紛失したか、組織的に日本政府、日本軍の手で焼却されたものもたくさんある。日本政府という巨大な組織を相手にして、とてつもない労力を掛けて、自分の名誉と尊厳を回復するために戦わないといけない。必死の思いで名乗り出た彼女たちの気持ちがてめえに理解できないのか!?といいたい。別に日本軍性暴力の被害者に限らず、レイプされた女性が告訴等に路み切ることがどれだけ大変かわかっていない。実際のところはレイプされた女性が妊娠や身体的傷害を乗り越えられても、自分の意に反した性行為を強制されたされたということで自己否定に陥り、自傷行為や自殺未遂を繰り返したり男性恐怖症状に日夜悩まされることが多い。あまりの苦痛からその記憶を忘れようとします。レイプについてはまだまだ被害者に落ち度があるという見られがちであったり、レイプ被害者であることで周りから白い目で見られたり罵られたりするような社会の中で、その恥辱の事実を周りに知られたくないという中で隠そうとする被害者が多い。わざわざ70〜90という年齢になって人生の終盤も向かえ、余命幾ばくもない彼女にとって日本兵にレイプされ続けた恥辱の汚名を自ら偽って被ることにいったい何のメリットがあるのだろうか?金銭目的?名乗りでた従軍慰安婦被害者の方は実際には家庭もなく家もなく、もはや失うもののないほど何もなくなってしまった人たちが多いのだ。人生の終盤近くになり、このまま黙って死んでしまっていいのか、こんな辛い人生を送ったのは誰のせいか、『大日本帝国』のせいだ、あの国は国家犯罪である軍隊強制売春システムを隠蔽しようとしている、加害の歴史を美化しようとする歴史教科書がある、憎い、このような自分の体験した加害の事実をこの世の闇に葬りさることは日本国民のためにもならないなどと、名乗りでることを決意したことでしょう。私は他の大日本帝国侵略・戦争被害者もそうなんですが、とりわけ従軍慰安婦被害者が名乗りでて、日本政府に謝罪と補償を求めていく行為をこそ、評価に値すると思います。そんな勇気ある彼女たちを、「従軍慰安婦は強制ではなかった」「証拠を出せ、でないと出鱈目だ」と言うこと自体、正にセカンドレイプあることが気づかないほどすさんでいるのだろうか?

とあるコメント欄より
従軍慰安婦問題を仕掛けたのは日本人
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/ianhu.html
「従軍慰安婦」問題(下)〜仕掛けられた情報戦争〜
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.htmlというものがあった。証拠はなかった。従軍慰安婦は日本人が作り出し、最初に仕掛けたものだとしている。しかし、本当にそうだったのだろうか?実はそうではない。

インドネシアにおける慰安婦調査報告
倉沢愛子
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p089_105.pdfによれば、1959年4月3日付けのインドネシアの新聞(Mestika紙)には日本からの賠償支払いについての記事があって、日本からの賠償を本当に受け取る権利があるのは、日本の兵士たちの横暴の犠牲者になった人々であるとして、「聖戦を戦う手伝いのための売春婦として連れていかれた少女たち」のことに触れているそうだ。つまりインドネシアでも問題にされているようだ。ちなみに、提示された両サイトには戦時中あるいは終戦直後、北ビルマのミチナ慰安所で収容された慰安婦から聴取したアメリカ軍の記録というのが題材にされているが、
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/slave.htmlより
 管理される側の慰安婦は、どんな状況の下に暮らしていたのか。

 連合国軍がビルマで捕虜にした経営者、朝鮮人慰安婦に尋問してまとめた報告(四四年)では、一カ月三百―千五百円の稼ぎを得て、五〇―六〇%は経営者の取り分だった。「都会では買い物も許された」という。
 一方で、慰安婦たちが厳しい条件、監視の下に置かれたことを示す文書もある。東京裁判に提出された証拠資料の中に、ボルネオ島の慰安所状況について、オランダ軍が作成した報告書があった。
 「日本人と以前から関係のあった婦人たちは、鉄条網の張りめぐらされたこれらの性慰安所に強制収容されました。彼女らは特別な許可を得た場合に限り、街に出ることができたのでした。慰安所をやめる許可は守備隊司令からもらわねばなりませんでした」(四六年七月)

ボルネオ島の慰安婦状況は悲惨だったようである。一部の状況のよかった慰安所の事例のみを証拠として持ち出して、慰安婦というのはこんなに待遇がよかったんだよという証拠として提示する右翼どもの浅はかさには呆れてものがいえない。

雲南ビルマ最前線における慰安婦、死者は語る
http://www.awf.or.jp/program/pdf/p061_088.pdf によれば玉砕の現場にまで慰安婦がいたという。日本軍はありとあらゆる地域・部隊に慰安所が設置されて慰安婦を送り込んでいた。玉砕の悲惨な戦場の超最前線にすら慰安婦が多数いて、玉砕からなんとか生き残った慰安婦女性たちが米軍の捕虜にされているという。本当に信じられない国だ。おそらく日本軍の部隊・進駐した地域のおそらく9割5分、ほとんどの地域に慰安婦がいて慰安所が存在したのだろう。まさにセックスアニマルぶりであり、ここまで巨大でそして悪質な軍隊強制売春システムを構築していた軍隊は古代から現在に至るまで存在しない。連合国の人間のなかににこのような巨大な軍隊強制売春システムを戦争犯罪として立件し、問題にしようとしていたことも明らかとなっている。
ちなみに多くの連合国、とりわけイギリスは強姦や女性を暴力的に拉致した場合には戦争犯罪であると認識していたがが、日本軍の慰安所制度(軍隊強制売春システム)そのものを戦争犯罪、性犯罪として考える観点はなかった。なぜならば、シンガポールやマラヤに多数のイギリス軍将兵がやってきたが、イギリス軍の中でも性病が広がったためだ。売春宿よりは、カフェやキャバレーが娼婦との接触の場になっており、強制的な性病検査を復活させようということをおこなった。詳しくは述べないが、管理売春システムはイギリス軍にも存在したのである。もちろん、日本軍との違いは、性病拡大を防止するほかに、地元女性に対する強姦の頻発という別の理由があることであり、軍自らが詐欺や暴力的な方法で女性集めをおこなうなどイギリス軍との違いははるかに大きかった。しかし、将兵のために性病管理の発想ではイギリス軍と日本軍も共通性があったというわけである。ところで、日本軍の強制売春システムを問題にしたという連合国の人間がいたという件だが、『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判 林博史著 岩波書店』より引用したい。p277〜278より
 ところで戦争犯罪の捜査員のなかには日本軍の慰安婦制度を戦争犯罪と考えていた者がいないわけではなかった。イギリスではないが英連邦の一員であるオーストラリアの戦争犯罪捜査員に加わり東京で活動していたニュージランド人ジェイムズ・ゴッドウィン大尉はその1人だった*。
* James Mackay,Betrayal in High Places.この本はゴッドウィンが残した日記や捜査資料を基に彼の捜査員としての活動を記した本である。ゴッドウィンは1950年に捜査員をやめてマラヤ、ボルネオなどでイギリスの植民地の行政官を勤めた人物である。

 日本軍の捕虜になった経験を持ち日本語ができた彼は1947年8月より捜査員としての活動を始めた。彼はGHQの上層部より捜査を止められたケースとして天皇や731部隊のケースと並んで慰安婦問題があったという。「約25万人の女性が、公式に設置された数え切れないほどの慰安所(売春所)で、好色な日本帝国陸軍の欲求に(無報酬)で奉仕する売春を強要されていたといううわさ、いや証拠があった。これらの深刻な問題はわれわれのあいだで議論された。しかしアメリカの民主主義の建前にとって奇妙なことに、捜査に対する包括的な検閲と禁止が課せられた。私は自問している。一体なにが起きているのか。」(ibid.,p.177)
 ゴッドウィンは日本軍が占領したすべての地域で日本軍の「性奴隷産業」(ibid.,p.220)がおこなわれていたことを知っていた。そしてその捜査を抑えているのはマッカーサーとG2のウイロビーだと推測している。彼はいくつかの戦争犯罪を政治的な判断で裁かないという、「選択された正義」(ibid.,p.162)に強く反発していた。
 このことは連合軍の戦争犯罪捜査員のなかに日本軍の慰安婦制度を戦争犯罪と考えていた人たちがいたこと、GHQすなわち米軍が慰安婦制度自体の捜査を抑えていたことを示している。

というわけで、慰安婦制度そのものが、連合国内にすでに問題視する人がいました。それを米国の都合で731部隊、天皇の戦争責任の問題とともに葬ったわけです。すでに証拠自体はありますし、従軍慰安婦制度は何ら問題がないし、慰安婦の扱いは人道的でほめられるものだったと妄言を吐く、mumurをはじめ、
従軍慰安婦問題を仕掛けたのは日本人
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/ianhu.html
「従軍慰安婦」問題(下)〜仕掛けられた情報戦争〜
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog107.htmlの両サイトをつくった人のお頭が問題になってくるでしょうね。証拠もなく、大日本帝国・日本軍のおこなったことは正しく、善行であり、何ら問題がなく責められるものではなく、むしろほめられるものだったとしているほうがよっぽど問題です。それが従軍慰安婦問題にもいえるわけです。戦犯裁判の時点で戦争犯罪にあがっていたほど悪質であり、非人道的な国家犯罪であったことは明白であり、証拠もなく、従軍慰安婦制度は問題なく、慰安婦被害者の発言はでたらめだとしている右翼の粕どもはほんとどうしようもない。私はとっとと頭を自発的に更正させてほしいのだが、最悪の場合、ドイツでナチスを美化したり、ホロコーストを否定するような言動が犯罪なように、日本でもそういう法律をつくって、歴史を歪曲する右翼どもを刑務所に収容して隔離して自身の罪深きセカンドレイプ思想を体でもって償ってほしいものだ。

ちょっと追記です。
・米国で行われた従軍慰安婦訴訟時の日本の主張とは 〜日本政府は歴史問題の真実追及に着手すべき〜
http://ameblo.jp/lancer1/entry-10010360896.html
アジアの真実というブログでも取り上げられていました。他のブログでも取り上げられているでしょう。ちなみに突っ込みどころは
日本の公式問題見解として認めてしまっているのが問題だと言っている。果たしてそうのか、すでにBC級戦犯裁判がおこなわれていた段階ですでに連合国の中に問題にする人間がいたということを知っているだろうか?女性を強制的に拉致して慰安婦として慰安所で働かされていたこと、ほとんどの地域・部隊で慰安婦に性奉仕させており、しかも超最前線である玉砕の現場にいたということ。それらの事実が日本軍の強制売春システムがすでに悪質であり人道上の人権侵害の極まりない戦争犯罪であることを示しているのだ。
正しくない、もしくは不確かな歴史見解を政府が保持してしまっていることが中韓との外交問題を引き起こす最大の原因にもなっているのです。

従軍慰安婦に関する問題は正しくない、不確かな歴史見解であるといえる。むしろ反対の意味で。日本の公式見解でさえ、従軍性奴隷制度が戦争犯罪であるという歴史的事実の前にはむしろ弱いくらいであるからだ。
 いつまでも逃げていては何も解決はしません。難しく長い道のりにはなるかもしれませんが、そろそろ日本は従軍慰安婦、強制連行、南京事件といった問題に対し、本格的に真実を追及することを始めたらどうでしょうか。それが長い目で見れば、中国や韓国との外交を正常な状態に修正することにもなるはずです。

めずらしく私と意見が一致した。いつまでも逃げていては解決しないのはその通り。ただし、本格的に真実を追及したら困るのは日本政府であり、何よりも右翼勢力である。真実といっても東京裁判やBC級戦犯裁判で原告をつとめた連合国の資料も参考にするといいだろう。想像以上の加害事実の大きさに目が飛び出すだろう。日本人の歴史認識、特に右翼の歴史認識の態度が改心するいい機会かもしれない。もちろん、長い目でみなくてもすぐにやって、事実を調査して公表すれば、日本の過去の悲惨な侵略・戦争加害事実が明らかになるし、突きつけられた戦争責任の前には改めて中国や韓国に謝罪し、歴史教科書などの国民の教育現場に還元することが求められるだろう。したがって中国や韓国との外交を正常な状態に戻すことができるわけだ。

2006年03月23日

東中野修道氏を名誉毀損で提訴。応援を

[AML 6404] 東中野修道氏を名誉毀損で提訴します/南京への道・史実を守る会 より転載
熊谷伸一郎@南京への道・史実を守る会です。
 重複投稿、すいません。転載・転送歓迎です。

 南京大虐殺という史実を否定したい人々の集まりである
南京「学会」の会長である東中野修道氏(亜細亜大学教授)
を、このたび、名誉毀損で提訴する運びとなりましたので、
ここに公表し、皆さんにご支援を呼びかけます。

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 夏淑琴さん。1929年、南京生まれ。
 夏さんの家族を惨劇を襲ったのは、1937年12月13日、
日本軍によって南京が攻略された、その日でした。

 激しく扉を叩く音に夏さんの父親たちが扉を開けると、そこ
には日本兵たちが立っていました。銃剣の先につけられた
「日の丸」を、夏さんは覚えています。日本兵は父親と隣家の
男性を射殺し、中に入ってきました。夏さんは言います。

「父たちが殺されたのを見て、本当に怖くなりました。日本兵た
ちは私の母と末の妹が隠れている避難壕に行き、まず赤ん坊
の妹を地面に叩きつけて殺してしまいました。私たちは家の
奥の部屋に隠れました。この後、私の母は日本兵に強姦され
て殺されたのです。一緒に隠れていた隣家の奥さんと子ども
もそこで殺されました」

 姉妹4人で布団のなかに隠れた夏淑琴さんのもとにも、
ついに日本兵はやってきました。まず、孫たちをかばう
祖父母が射殺されました。日本兵たちが上の姉二人を
強姦しようとしたので、夏さんが叫び声をあげると、日本兵は
すぐさま夏さんを銃剣で刺しました。その傷跡は今も夏さんの
体に残っています。気を失った夏さんが、4歳の妹の泣き声で
目覚めて部屋の中を見ると、祖父母の死骸と、下半身を裸に
されて死んでいる二人の姉の姿が目に入りました。

 重傷を負った夏さんの姿と夏さんの家族の遺体が、話を
聞いて駆けつけたジョン・マギー牧師によってフィルムに収め
られています。

 孤児となった夏さんは、その後も大変な苦労を強いられます。
「家族のことを思い出しては泣き、悲しみに満ちた人生だった」、
夏さんはそう言います。しかし、最近になって夏さんの心境に
変化がありました。

 1994年、夏さんは初めて日本を訪れます。

「私はそこで、日本の友好的な人々から心からの歓迎を受け
たのです。多くの日本人が私の受けた被害に関心を持ち、
私の話す体験に耳を傾けてくれました。私は暖かい気持ちに
なりました。日本人が悪いのではなく、軍国主義が悪かった
のだということが、日本に行って本当によくわかりました。
日本の人たちはみんな優しく、いい人たちばかりでした」

 しかし、このとき、夏さんにとって思いもかけなかった出来
事が起こります。東中野修道という日本人の「学者」が、夏さ
んの体験を否定し、残されている各種資料のさまつな疑問点
を針小棒大に取り上げ、夏さんを「ニセ被害者」であるかの
ように描いたのです。たとえば東中野は、夏さんが実際に
殺されかけているにもかかわらず、「目撃者は消されるのが
常であるにもかかわらず、なぜか二人は、見逃された」こと
や、逆に「傷を負った身で、14日間も生き永らえることが
できた」ことを「なぜなのか」などと疑問として挙げています。
夏さんは言います。

「これほどひどい被害を受けた私に対して、さらに東中野は
傷つけようというのです」

 怒りに耐えかねた夏淑琴さんは、すでに南京の裁判所に
東中野修道を名誉毀損で提訴しておりましたが、このたび
日本での裁判を決意し、日本の戦後補償弁護団の支援を
得て、東京地裁に東中野修道を名誉毀損で提訴することと
しました。

 南京大虐殺事件をめぐっては、被害者の李秀英さんを
ニセ証言者呼ばわりした「評論家」に対する名誉毀損訴訟が
昨年、最高裁において勝訴が確定している他、「南京事件・
百人斬り競争裁判」も地裁で完全勝利しています(今年5月
24日に高裁判決予定)。

 南京への道・史実を守る会は、李秀英裁判と「百人斬り
競争」裁判の二つの勝利の上に立ち、夏淑琴さんの被害
回復・勝訴判決のために全力をあげて取り組みます。

 夏さんへの「二度目の加害」は絶対に許さない。その被害
を回復することは、今の日本に生きる私たちの最低限の
責務であると確信します。

 夏淑琴さんと「史実を守る会」へ、皆さまの絶大なご支援を!

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◎本会へ入会して裁判を支えてください!(年会費一口1000円)
▼下記必要事項を記して honda_sien-owner@egroups.co.jp あるい
はFAX 020-4624-2381 までお送りください。折り返し資料類や振
込用紙をお送りします。

▼カンパも大歓迎!
 郵便振込:00190−7−355873
 加入者名:南京への道・史実を守る会


良識派の皆様は応援しよう。そのような夏淑琴さんという女性の被害者をニセ証言者呼ばわりした東中野修道氏への提訴を積極的に後押ししましょう。南京大虐殺という史実を否定する右翼歴史修正主義者の1人が東中野修道です。被害者を根拠もなくニセ証言者呼ばわりして、今も残る被害者の心の傷にさらに広げ苦しめるような歴史修正主義者によるセカンド・レイプ行為にはきちんとした罰を与えなければなりません。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 21:00 | Comment(12) | TrackBack(6) | 大日本帝国侵略・戦争被害諸国民衆による市民連帯結成を | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月22日

とりあえず、今日の雑感

右翼サイトをとりあえず収集(よい子は見てはいけません)
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/15249530.htmlをようやく完成させました。改めて、反動サイトの多さに驚かされました。徐々に集めていたのですが、忙しい中で追いつきません。もちろん、その後どんどんとアップしていこうと思います。

それと、右翼の荒らしどもが来ています。パブロフの犬のごとく、同じマルチコピペで私のブログを荒らします。どうにかしてほしい。私はとりあえず、マルチコピペについては削除させてもらいます。また、削除しても書き込まれるから、専用の荒らしコメント欄を設けておきましたので、そこで好きなだけマルチコピペをしてください。

それと、ハン板からでしょうか

特にこういうAA(アスキーアート)

☆ チン  〃 ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ヽ ___\(\・∀・)<2ちゃんねるでXXXXXXXXまだー
      \_/⊂ ⊂_)_ \____________
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
   |  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|  |
   | ハソ板人      .|/

とことん、よそのブログにきてまで粘着するね。私も右翼に対しては粘着していたし、私の性格では右翼に対して憎しみを抱かずにはいられないからね。右翼という生物は人間としての最低限の心すらあるかどうか怪しいものだ。大日本帝国の侵略・戦争被害者・犠牲者の尊厳を傷つけるような非常な野蛮な獣と同じ地球上で生きていると考えると腹立たしい。

たとえば
インドネシアにおける日本軍強制売春(性奴隷)システムについて
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/15171919.htmlで紹介されたインドネシアの日本軍性奴隷被害者であるマルディエムさんについてどう思う?彼女は初潮前の13歳に日本軍によって騙されて性奴隷にされて、酷使されたあげく補償もなく捨てられた。戦後も悪夢にうなされ、周囲からも苦しみを理解されず、対日協力者のように見られ迫害されてきた。そのような彼女を前にしても右翼は平気で「慰安婦問題などなかった」とアジテーションを繰り返すことができる平気なやつら。それが右翼というもの。そのような右翼どもがこの世に存在すると思うだけで腹立たしい。とりあえず、私は右翼がすべて死に絶えて、日本社会の新生を果たすその日まで『右翼討伐人』をやめるつもりはないということだけは言っておく。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:58 | Comment(67) | TrackBack(3) | 日々の雑感ならびに考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋

「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋  2006年03月22日12時52分
http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY200603220146.html
 長崎市の外郭団体・長崎平和推進協会(推進協)が証言活動をする被爆者に「政治的発言」の自粛を求め、波紋が広がっている。関係者は「言論の自由の侵害だ」と方針撤回を求めるが、推進協は拒んだままだ。

 1枚の文書が発端だった。タイトルは「より良い『被爆体験講話』を行うために」。推進協が1月20日、継承部会に所属する被爆者29人を集めた総会で手渡した。

 「意見が分かれる政治的問題についての発言は慎んでいただきたい」と記し、具体例として(1)天皇の戦争責任(2)憲法(9条等)の改正(3)イラクへの自衛隊派遣(4)有事法制(5)原子力発電(6)歴史教育・靖国神社(7)環境・人権など他領域の問題(8)一般に不確定な内容の発言(劣化ウラン弾問題など)の順で示している。

 危機感を抱いた被爆者らがつくった「被爆体験の継承を考える市民の会」は今月13日、推進協に方針の撤回を求めた。

 代表の舟越耿一(ふなこえ・こういち)長崎大教授(60)は「原爆は戦争という時代の中で落とされた。いま日本は戦争への準備を始め、核戦争の脅威も迫る。『政治』を抜きに語れない」。8項目を選んだ理由も不透明だと指摘する。

 推進協によると、以前から被爆者の証言について「話が聞きにくい」「主張が偏っている」という声が、学校などから寄せられていた。丸田徹事務局長(60)は「このままでは話を聞いてもらえなくなるし、中立性を保つことが必要だと考えた。文書は撤回しない」と話す。

 推進協は83年、原水爆禁止運動の分裂をきっかけに官民一体の幅広い組織を目指して生まれた。政治的に意見が違っても、核兵器の廃絶と平和の実現という「最大公約数」で団結しよう。今回の要請はその方針の再確認が狙いだったという。

 だが、推進協の設立に深くかかわった前長崎市長の本島等さん(84)は「一つの価値観への忠誠を強いて戦争へと突き進んだかつての道が現れた」と危機感を示す。

 88年12月に市議会で「(昭和)天皇の戦争責任はあると思う」と発言。90年1月、右翼団体のメンバーに市庁舎前で銃撃されて胸に重傷を負った。「民主主義は少数の意見も尊重し、議論を交わせること。社会全体が言論の自由を軽視するようになるのは心細く、寂しい」

この国は全体主義国家ですか?言論の自由がおかされようとしえいる。意見が分かれる政治問題こそ、被爆と言う辛い戦争体験を経験した人々が大いに発言すべきだと思います。彼らの悲惨な体験に基づく発言・意見が政治、経済、文化などにおいて生かされることが多々あると思います。一つの価値観だけへの信奉が大日本帝国が戦争へ突き進んだように、大きな破滅と苦しみと悲しみをもたらしたように、この被爆者の「政治的発言」を規制しようとする反動的試みに対して抗議しなければならない。このようなことは断じて許すことはできません。長崎平和推進協会の理事や会長なり、長崎県知事の責任問題にまで発展させなければならない重大な問題です。長崎県に抗議メールを送ろうと思います。以上
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:52 | Comment(20) | TrackBack(0) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

右翼サイトをとりあえず収集(よい子は見てはいけません)

●同じseesaaブログ
酔夢ing Voice
http://nishimura-voice.seesaa.net/
ADON-K@戯れ言 (右翼の中でもここの管理人はとりわけ病気です)
http://adon-k.seesaa.net/
日本史から見た最新ニュース(外国人からじゃなくて、右翼の凝り固まった視点からニュースを分析するの間違いじゃないのか)
http://wanokokoro.seesaa.net/
涼風庵(皇室の伝統を守る、麻生閣下を次期総理に!)(キモスギ)
http://ryou1kanou.seesaa.net/
中南海ノ黄昏
http://ihasa.seesaa.net/
武士道の哀しみ (本人は保守だとしているが、読めば宗教右翼まるわかり)
http://iwata910.seesaa.net/
日本列島 本日も左翼の風が吹く(所詮自分の都合の悪いものは左翼にしか見えんのでしょう。)
http://tamezou.seesaa.net/
特定アジアニュース(2ちゃんねる右翼のブログ、で特定アジアって何ですか?)
http://specificasia.seesaa.net/

●gooブログ
今日の覚書、集めてみました
http://blog.goo.ne.jp/kitaryunosuke/

●livedoorブログ
アジアの真実(ちっともアジアの真実じゃないし、ボケ)
http://blog.livedoor.jp/lancer1/
http://ameblo.jp/lancer1/
mumurブルログ(私が一度叩きました)
http://blog.livedoor.jp/mumur/
極右評論 (極右を自認しているだけあって、超排外主義者)
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/
侍蟻 SamuraiAri(外国人排斥主義者のブログ。こんなネオナチみたいな奴が日本にいると思うと嘆かわしいね)
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/

●Hatena系
Dr.マッコイの非論理的な世界
http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/
●Yahooブログ
松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOG
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba
たまには(タイトルは短いが、超歴史修正主義者のブログ。『平和な世の中をつくるため』と書いてあるが、だったら、過去の日本の侵略・加害の歴史を反省しろってんだ)
http://blogs.yahoo.co.jp/nyan_nanaha/
憂国列記(おそらく小物のブログ右翼だろうけど、私に関するブログ記事を探していてひっかかった一つなのでここに載せておく)
http://blogs.yahoo.co.jp/sakusikahosokawa
●その他
ぼやきくっきり(これも一度叩きました)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri/
Let's Blow! 毒吐き@てっく
http://tech.sub.jp/
コリアン・ザ・サード(反動親日派在日韓国人三世(自称かもしれないが)のブログ)
http://koreanthe3rd.jp/
Irregular Expression
http://www.wafu.ne.jp/~gori/mt/
East Asia News Watch
http://k-mokuson.at.webry.info/
フィオリーナの以心伝心
http://fiorina.blog24.fc2.com/
時事ブログ「グースの勿忘草」(南京大虐殺否定論者の罪深き者グースのブログ)
http://sky.ap.teacup.com/deep/165.html
●サイト
クンユアム旧日本軍博物館(これはとてつもなく悪質。一応博物館を名乗っているが、先の大日本帝国の侵略戦争を美化する反動右翼組織だ!!)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/index.html
酒たまねぎやホームページ(飲み屋の店長のサイト?日本酒を扱っているらしいが、大日本帝国の侵略の歴史を美化し、否定するものに伝統的なお酒を扱う権利なんてあるのかね?お酒が腐りそうだ)
http://www.tamanegiya.com/

とりあえず、少しだけ収集しました。一部一言コメントも加えました。順次アップしていきます。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:26 | Comment(30) | TrackBack(11) | 右翼・歴史修正主義者サイト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 タイ・マレー半島北部

ようやく忙しい合間をぬって書き上げてようやく完成。
著者が1989年に高嶋伸欣氏の「東南アジアを考える旅」に参加し、タイ・マレー半島北部を旅行したときの記録の章から日帝悪情報を抜粋していくことにする。
p45
第二次世界大戦の日本とタイとの関係については、日本人のなかに歴史意識としてほとんど痕跡をとどめていないように思われる。実際、映画「戦場に架ける橋」で有名になった泰緬鉄道を別とすれば、太平洋戦争における日本軍の最初の攻撃地点が真珠湾ではなく、マレー半島のコタバル(マレーシア)とソンクラ(タイ)であること、また日本軍上陸の際、タイ軍と日本軍のあいだで抗戦が行われ、タイ側に多数の死傷者が出たことなどは、ほとんど忘れさられてきたように思える。

タイを侵略したという事実を日本人の多くは知らないでしょう。中国や韓国、他の東南アジア諸国だけではなく、日本の加害と侵略の歴史問題はタイと日本の間にも存在するものです。

●死の鉄路、泰緬鉄道p45〜48
 1989年8月8日。午後9時、タイのバンコック郊外のドン・ムアン空港に到着した。空港からバンコック市内までは車で40分ぐらいである。タイは王様の国であり、バンコック市内は、ちょうど8月12日が王妃の誕生日だというので、イルミネーションの飾り付けがきれいであった。
(略)

 8月9日。朝7時に小型バスで市内のホテルを出発し、泰緬鉄道に向かう。途中、ブラピンクラオ橋ではじめてチャオプラヤ川(メコン川)を渡った。川幅200メートル以上ある大河が茶色の帯を引いてゆったりと流れている。全長650キロのタイ第一の大河である。この川下のすぐ近くに王宮がある。
(略)

 タイ最古の仏塔のあるナコンパトムを過ぎ、9時40分に日本軍が泰緬鉄道建設の起点としたノンプラドックに到着した。(略)
 1942年7月、日本軍はこの地点から泰緬鉄道の建設に着手した。ビルマに対する陸上補給路の確保と、タイ―ビルマ間の交易交通路を開拓するためであった。また、ビルマ経由の援蒋ルートを遮断し、インパール作戦(インド侵攻作戦)を成功させる意図もあった。
 タイのノンプラドックからビルマのタンビュサヤットまで全長415キロ、40の橋梁をもつ泰緬鉄道が完成するのは翌43年10月。わずか1年3ヶ月の突貫工事である。この間、連合軍捕虜と東南アジア諸国から強制連行したアジア人労務者は、日本軍の虐待とマラリアとコレラ、飢えと疲労などによって多数の犠牲者を出した。いわゆる「死の鉄路」と呼ばれ、連合軍捕虜はイギリス、オランダ、オーストラリア兵7万3502人、アジア人の強制労働はマレー、インドネシア、タイなどから労務者約30万人以上が動員されたといわれる。連合国の発表によると捕虜の死亡は2万4490人であり、アジア人労務者の死亡者数は不明であるが、半数以上は故国に帰っていない。推計で10万人以上が犠牲になり、「枕木一本、人一人」と言われた。
 列車は10時40分にカンチャナブリに到着した。ここが有名な映画「戦場に架ける橋」の舞台である。カンチャナブリの収容所に捕虜と労務者をおき、クワイ川の鉄橋を架ける難工事が行われた。カンチャナブリ駅から10分ほどでクワイ川である。鉄橋のたもとにはクワイ川鉄橋駅が新たに造られていた。観光客の名所となっているのである。鉄橋を列車で越えるため、多くの観光客が乗車する。イギリス人とオーストラリア人が多いようである。

泰緬鉄道は華人の大虐殺の次に大日本帝国の東南アジアで行った国家犯罪の中で最大のものであろう。しかし、時間がたつともにこういう残虐行為のスポットも観光名所となるのであろう。イギリス人とオーストラリア人が多いというが、日本人は来ないのであろうか?日本人こそ来て、見て犠牲になったアジアの労務者や連合軍捕虜への償いの気持ちや侵略戦争への反省を新たにするスポットであるというのに、残念である。

p49
バンコックを出て5時間、312キロの泰緬鉄道の旅であった。ナントクから先は現在廃線となっている。ここからビルマ国境のスリーパゴタ峠まで170キロあるという。
 最近、この泰緬鉄道の廃線区間を復旧して、SLを走らせ観光路線として復活させようという計画が起きたという。しかし、日本の資金援助によるタイ政府の復旧計画に対し、オーストラリア退役軍人会や、オランダの旧捕虜たちが反対の火の手を上げた。日本は鉄道建設の犠牲者に対して補償すべきであって、泰緬鉄道の復旧は「アウシュビッツの遊園地化」であると抗議したのである。歴史のなかの泰緬鉄道は、いまだ風化していない。
 このあたりの泰緬鉄道沿線には、マレー半島やインドネシアから鉄道建設のために強制連行された多数の労務者が、戦後も帰国できずに生活している。「満州」の中国残留孤児だけが問題なのではない。日本人の「残留」だけではなく、日本軍によるアジア人の「残留」の後始末も日本政府は迫られているのである。

>泰緬鉄道の復旧は「アウシュビッツの遊園地化」である
これはその通りだね。まして日本の資金が入ったとすれば。もちろん、日本政府が真の謝罪と反省の精神を元に、この負の遺産を後世に残し、生涯反省し、二度と過ちを起こさない良識的な決意をもとに復旧を行うのであれば、話は別になってくると思うけど。まあ、復旧の資金に使うのであれば、まずは犠牲者遺族や被害者自身に補償してからである。
もう一つの問題はアジア人「残留」問題である。中国や満州における日本人残留問題だけではない。前にアジア人労務者の総数は30万人以上であり、半数以上が故国に帰っていないこと、そして、死亡者総数は推計で10万人以上とされていることが分かっている。これから考えれば、最低5万人以上の「残留」アジア人が故国に帰れずに、元の家族とも再会できずに現地で生活しているということになる。大日本帝国はそれだけのことの国家犯罪を行った。後始末を今すぐにでも始めるべきだ。過去に行った蛮行のけじめをつけずにうやむやに終わらそうとすることは世界の良識が許さないであろう。

p50〜51

 3時間半にカンチャナブリに戻った。今度は歩いてクワイ川鉄橋(メクロン橋)を渡った。鉄路の真ん中に木道がつけられていて、鉄道の上を歩いて渡ることができる。(略)
 橋のたもとには、1945年2月に行われたアメリカ軍鉄橋爆撃のときの不発弾や、SL、ガソリン・カーが展示してあった。1946年製のSLは問題外としても、ガソリン・カーのほうは、明らかに日本軍がしようしたと思われるものであった。軍用トラックを改造して、タイヤのかわりに動輪をつけて、トロッコのような3つの鉄製荷台を引っ張るものであった。このトロッコに捕虜、労務者を乗せて移動し、また軍用物資を運んだのであろう。
 このバソリン・カーの奥に永瀬隆氏の建立になるクワイ川平和学院がある。永瀬氏は、みずから泰緬鉄道建設のときカンチャナブリ憲兵隊に勤務していたが、終戦処理に際し、死亡した連合軍捕虜の墓地捜索隊の通訳として駆り出された経験をもつ。自己の戦争責任を痛感した永瀬氏は、その後生涯をかけて泰緬鉄道関係者への償いの活動を行った。そのひとつの到達点がこの寺院である。また、永瀬氏は1976年に旧泰緬鉄道関係者の日本側有志と旧連合軍側の有志70名によるクワイ川鉄橋上での再会を計画し、戦後31年ぶりに和解と平和への誓いを実行している。
 クワイ川鉄橋から歩いて10分のところに、戦前日本軍によって建てられた慰霊碑がある。碑文には次のように記されている。「泰緬旬連接鉄道建設間不幸病ヲ得テ斃レタル南方各国労務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ 恭シク其ノ霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鉄道隊」
 文中の日本軍鉄道隊は、タイの鉄道九連隊、ビルマの鉄道五連隊から成り、泰緬鉄道に従事した。南方各国労務者は、クワイ川たもとの説明文によると、インド人、ビルマ人、マレーシア人、インドネシア人、中国人、タイ人などである。

膨大な捕虜やアジア人労務者の犠牲のために、日本軍鉄道隊がしかも"戦前"にあってこの種の慰霊碑を立てた。50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 マレー半島南部編で紹介した元近衛歩兵第五連隊の連中よりはマシだと思う。日本軍鉄道隊も1万2000人ほど動員され、1000人近くがなくなったとされるが、捕虜や労務者の痛みが分かる人が鉄道隊の中にいたからかもしれない。

p52
 戦後のいわゆる東京裁判では、泰緬鉄道およびタイ俘虜収容所関係はシンガポール法廷だけで24件におよび、泰緬鉄道全体で有罪の先刻を受けた人111人、死刑は32人にのぼった。しかし、この事件の裁判は、俘虜の虐待、虐待致死についてのみであり、アジア人労務者の虐待に対する裁判は行われなかった。この裁判が欧米連合国のためのものであり、アジア人が軽視されていたことを示していた。
(略)

 日本軍の慰霊碑から歩いて5分ほどのところに連合軍共同墓地がある。墓地の正面に高さ5メートルほどの白い十字架の塔が建てられている。泰緬鉄道の犠牲になったイギリス人、インド人、オランダ人、オーストラリア人、アメリカ人など旧日本軍俘虜6982人がここに眠る。とくにイギリス連邦軍として参加したインド人が多いのに驚いた。植民地兵士が真っ先に犠牲になったということであろうか。
 ひとつひとつの墓に氏名、所属部隊、死亡年月日、年齢とともに、死者を悼む哀惜の碑文が添えられている。日本の墓碑との違いである。それをひとつひとつ読んでいると胸に込みあげてくるものがある。
 年齢を見ると、ほとんどが20代前半の青年である。青年の碑文からは、父や母の息子への愛情が切々と伝わってくる。また、私と同じ年代の死者の碑文からは、妻や子供たちの父親での哀惜の情が伝わってくる。死亡年月日は1943年6月から10月の雨季が多いようだ。タイ・ビルマ国境は世界最多雨地域で、一度豪雨があると川の水位が30メートル上がるという。日本軍侵略以前のイギリスもさすがに鉄道敷設をあきらめたという風土である。ところが、日本軍は突貫工事による鉄道敷設を強行した。膨大な犠牲者を生んだのも当然である。

日本軍の人命軽視ぶりには呆れてものがいえない。イギリスでさえ、鉄道の敷設を諦めたところを突貫工事によって強行した。もちろん、ろくな工作機械などなかっただろう。ほとんど人海戦術で行ったため膨大な死者がでた。戦犯裁判では捕虜の虐待、虐待致死に関してのみ裁かれた。しかし、著者が言うように、かならずしもアジア人の被害や犠牲を軽視していたわけではない。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper47.htmより
 これまでBC級戦犯裁判においては主に捕虜に対する犯罪が裁かれたと言われてきた。つまり裁いた国は帝国主義国であり、植民地民衆のことよりも自国の捕虜などへの犯罪を重視し、報復として裁判をおこなったという理解だった。しかしそうだろうか。イギリスの裁判で、誰に対する犯罪が裁かれたのかを裁判記録から作成したのが表3である。これを見るとはっきりすることは、起訴された被告の六〇%はアジア系民間人に対する犯罪で裁かれている。捕虜と民間人の両方が被害者のケース七一人のうち六五人はアジア系民間人である。これらをあわせると起訴された被告の約三分の二はアジア系民間人に対する犯罪が問われたことになる。一方、捕虜に対する犯罪で裁かれたのは二五%にすぎない。

 さらに死刑判決の六七%は民間人のケースであり、捕虜のケース二三%の三倍にのぼっている。死刑確認では民間人のケースが七二%とさらに高くなっている。

 裁判記録に基づいて言えることは、イギリス裁判においては裁かれた事件の多数が地元のアジア系住民に対する犯罪であったということである。

 なぜそうなったのかについては拙著『裁かれた戦争犯罪』で詳述したのでそちらを参照していただきたいが、かんたんに言えば、イギリスは大英帝国を再建するうえで現地住民の支持が必要だった。戦犯裁判は住民への加害者を裁き、イギリスが彼らの保護者であることを示す絶好の機会として考えられた。また加害者を処罰せよという住民の要求は強く、住民の協力によって戦犯裁判がおこなわれた。戦犯裁判の背景にあるのは、日本軍の占領と残虐行為のひどさであり、それへの民衆の怒りだった。だから住民の支持を得るためには加害者を裁くことが不可欠だった。そうした意味でイギリスの戦犯裁判は日本軍の被害をうけた民衆の力が重要な推進力であったといえる。したがって「勝者の裁き」という見方は―その側面があることは否定しないが―アジア民衆の被害と彼らの要求を見ない、一面的な議論であろう。

しかし連合軍、アジア人労務者ともに多地域・多国籍に渡っていたことが泰緬鉄道におけるアジア人労務者の虐待を裁けなかった原因となったではないだろうか。しかし、それならば日本人の手で裁かないといけないが、それも今になってはできないが、事実関係を余すことなく解明するとともに犠牲になったアジア人労務者1人1人に補償をして償わないといけないと思う。

p53〜54
 連合軍共同墓地からバスで5分ほどのところに、1977年に建てられた戦争記念博物館がある。博物館といっても、寺の境内に粗末な竹の小屋が建てられているだけだが、これは当時の収容所を模したもので、小屋そのものが歴史的展示となっている。この記念館の入り口に、日本でも紹介されて有名になった言葉、「FORGIVE BUT NOT FORGET」と掲げられている。物忘れのひどい日本人にとっては厳しい戒めと思わなければならない。
 博物館=小屋のなかには、泰緬鉄道を描いたイギリス兵レオ・ローリングスのイラストの模写が展示されていた。イラストの原作者ローリングスは23歳でシンガポール守備隊として派遣されたが、マラヤ北部から日本軍の戦線南下に対する絶望的戦いを経験して、ついにシンガポールで捕虜になる。しかし、戦争中、彼の絵画の能力を認めたヒース将軍は、将来日本軍の戦争犯罪が起きた場合、完全な証拠となるようにスケッチを命じたという。それ以来、彼は泰緬鉄道建設の現場を詳細に描いていった。絵の具がなくなると粘土や植物の汁をかわりに使用し、鉛筆は自分の髪の毛で作った。画用紙も最初はすこしあったが、その後は手に入るどんな紙にも描いたという。
 その絵は、ほとんどタイのジャングルのなかの捕虜収容所で、病身であったときに描かれ、完成した絵は、古いストーブのパイプで自作した容器に入れられ、彼の寝床の下の地下に埋められて隠された。日本軍に見つかれば即座にスパイとして処刑になったはずである。彼のこの行為は奇跡的に見つからず、日本軍の敗戦によって、その絵画はすべてイギリスに持ち帰ることができた。現在、その多くは英国戦争博物館に展示さえているという。ローリングスの絵は、痩せこけた捕虜、死の病に冒された兵士、過酷な建設現場、ガソリン・カーによる資材と労働力の輸送など、泰緬鉄道建設の生々しい情景を描いており、見る人を圧倒する。
 博物館にはその他、連合軍兵士の服装、キャンプの再現、記録写真などが展示されている。当時の泰緬鉄道を知るうえでは格好の場所であろう。

、「FORGIVE BUT NOT FORGET」という言葉はすばらしい言葉です。「許す、しかし忘れない」。韓国も中国も他のアジア諸国の人々も、「FORGIVE BUT NOT FORGET」の精神を日本人に対して皆もっているからこそ、今の日本が中国、韓国、他のアジア諸国とも交易も外交も交流も成り立っているのです。レオ・ローリングスさんは偉大な仕事をしたと思います。日本軍の戦慄すべき戦争犯罪を描こうと努力しました。実際に私自身その絵を見てみたいと思います。

●戦後の日本人・日本企業の問題と日本軍のタイ侵略事実
p55
 長い一日を終え、バンコックに戻る。夜の街に出かけてみた。シーロム通りを東に向かい、買い物客でにぎわうパッポン通りに行った。(略)このパッポン通りのすぐ近くに、タイニヤ通りがある。バンコックの歌舞伎町といわれるところである。この通りを歩くと、「クラブ愛」とか「琴」など、日本語がたくさん目に飛び込んでくる。日本人相手の歓楽街である。それらしい女たちがたむろしており、日本人観光客、ビジネスマンを誘っていた。ゴーゴー・バーをのぞくと半裸の女性が踊っていた。東南アジアは50年前は日本軍によって、現在は日本企業と売春日本人に席巻されているかのようである。


p58〜59
タイの最大の繁華街であるサイアム・スクエアへ向かった。インターコンチネンタル・ホテルの前にあるショッピングセンターである。サイアム・スクエアから500メートルほどのところに日系のタイ大丸とそごうタイがある。とくにタイ大丸は、1972年の「日本貨過剰」に反発したタイ反日デモの主目標となったところである。
 72年の反日デモで一時止まった日系企業の進出は、1973年の240社から急速に増加し、現在500社を超えるという。家電製品、電線、食品加工、おもちゃ、軽工業品の進出がめだつ。この原因が、月平均約4400パーツというタイの低賃金にあることはいうまでもない。日本の7分の1から8分の1である。現在バンコックの至る所に見られる建設ラッシュは、日本資本を中心とした外資の導入をテコとして、シンガポール、香港などアジアNIESに追いつこうとするタイ工業化の現実を感じさせる。タイは確実に日本を軸とする資本主義的経済圏に入り込んでいるようだ。しかし、これがさきのバンコックにおける売春や公害、交通渋滞、200万人におよぶ失業者など深刻な都市問題の激化を招いている。

現代にもタイにおける日本企業の経済侵略の問題がある。今から15年ほど前の話だろうが、今でも相当ひどいことをタイの日本人や日本企業は行っているはずである。経済的恩恵をもたらすならいいが、それ以外の負の要素が大きい。結局日本企業の利益のためにアジアの民衆のことを考えない傍若無人な日本資本の横暴がアジア地域の反発を招いている。過去の敗戦から何も学んでいないようだ。また、日本人男性によるタイ人女性の売春も過去のことにタイ人に彷彿とさせるだろう。

p59〜62
 8月11日。バンコックから夜行寝台急行に乗り、タイ湾沿いにマレー半島を南下した。・・・・・・・・・・朝9時にバンコックから830キロ南のナコン・シ・タマラートに到着した。ここは日本軍の上陸地点である。
 日本軍は、アジア・太平洋戦争開戦の1941年12月8日、徳島歩兵第143連隊、宇野支隊、総勢6895人がナコン・シ・タマラートのほか、プラチャップキリカン、チュンポン、スラタニに上陸し、タイ領土通過後ビルマに向かった。また、山下奉文大将指揮下の第五師団は、さらに南のタイ領内のソンクラ、パタニに上陸し、マレー半島を横断し西岸を南下して英領マラヤへ進撃し、シンガポールを攻略するに至った。タイ領土への日本軍上陸はマレー半島を最短距離で横断するためのやむをえない軍事上の必要からであった。このときも、真珠湾攻撃と同じで、タイ政府には事前に知らされていなかった。この原因には、前日の12月17日に、駐タイ日本大使が日本軍のタイ領内通過を認めるように首相官邸を訪れたとき、ピブン首相が姿をくらましたということがあった。結局、日本軍はタイ政府の了承なく、強引にタイ領内に侵入したのである。このため、当時のタイ軍は、日本軍を不当な侵略者として勇敢に交戦した。わかっているだけで、290人、推計では約400人が戦死したという。ピブン首相が姿を現したのは、戦闘が起きてから数時間後の12月8日の午前6時であり、その後ようやく停戦協定が成立した。
 日本軍はタイ湾からバクパーン川を上陸用舟艇でさかのぼって、ナコン・シ・タマラート空港近くを進攻した。タイ軍はここで日本軍を迎え撃って、戦死者72人を出した。その記念碑が現在のタイ陸軍第四管区司令部の前に建てられた。完全武装のタイ兵士が銃剣を構えて、突撃姿勢をとっている姿である。いまでも毎年12月8日には、ここで遺族、関係者約600人が集まって盛大な供養をするという。
 タイという国は、東南アジアにおいて唯一植民地化を免れただけであって、したたかである。さきに述べたように、一時日本軍から姿をくらましたピブン首相だが、開戦になるとすぐに日本軍とタイ・日本攻守同盟を結び、42年1月に英米に宣戦布告した。日本はタイを同盟国として引きつけるために、英領マラヤのケランタン、ケダ、プリスト、トレンガヌの4州を与えた。43年の12月に、タイは東条内閣が主催した大東亜会議にも招かれている。
 しかし、43年暮れからタイは連合国軍の空襲にさらされ、44年7月に日本がサイパンで玉砕すると、タイはすかさず武断派のピブン内閣にかわって、文治派のアパイウォン内閣を成立させる。45年8月16日、日本軍敗戦の翌日であるが、同内閣は42年1月の英米への宣戦布告は国民の総意を代表していなかったとして世界外交史上前例のない無効宣言を行った。同時に、日本から割譲された英領の返還を決議した。大戦後はひたすら連合国軍への恭順を誓ったのである。この結果、46年1月にタイ憲政史上初の自由な選挙が行われて、戦後もタイの独立は保障された。

2003年証言集会 日本軍はタイとの中立条約を破って侵攻した。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/setomasao2003.htmlより
高島先生の講演 瀬戸正夫さんの証言
 高嶋伸欣琉球大学教授は、日本が日タイ不可侵条約を破ったことは、日本の外交史上の大問題であること、(従って)外務省ではそのことはアンタッチャブルになっていること、日本は、いつも日ソ不可侵条約を取りざたするが、日本がタイに対して行ったこの条約違反には全く触れてこなかった、何の軍事行動もなかったかのように外務省の記録などにも記載している、この問題は、天皇の責任問題でもあることを指摘されました。
 さらに、日本では全く知られていない日本のタイ侵攻について、タイでは瀬戸さんの父親をモデルにしたと思われる映画がありすでに公開されていること、日本でも公開さたこと(題名は「少年義勇兵」で、集会当日は、予告編版を上映しました)、タイ側から、もしこの問題を指摘された場合、日本人だけが知らないということになりかねないことなどなどが指摘されました。

アジア・ウェーブ 瀬戸正夫さんへのインタビュー
http://www.asiawave.co.jp/seto/seto1.htmより
 バンコクの場合はそんなに問題はありませんでしたけど、南タイの方は日本軍が上陸してきて、タイ軍との間に戦闘があってたいへんなことになったわけです。上陸と同時に日本軍が家の大事なものはみんなかっさらっていっちゃうし、きれいな女の人は強姦されるし、反対すれば殺されちゃうし……。そういう被害にあった人や、それを見てきた人たちはいまはみんな七十代、八十代になっています。その人たちはいまだに毎年十二月八日の午前中、上陸した地点で、慰霊祭をやってるわけですよ。両親がもう亡くなっているところもあるでしょうけど、それがいまだに忘れられない。毎年やってるんです。そういうものは、民族の痛みとして忘れられないわけですよ。日本の人に、他人の痛みを自分の痛みとして感じることをしてほしいわけですよ。

日本は中立条約を破って、不法にタイ領内に進駐したわけです。許せないですし、タイ政府も日本政府の戦争責任問題として訴えるべきです。タイ南部では戦闘のほか、日本兵による非行も行われたのですね。大日本帝国って本当に最低ですね。それにしてもタイという国はしたたかでした。下手したら、日本軍に占領されて傀儡政府になるか、軍政・併合という形で独立が失われる可能性もあったのですが、見事な政略・策略で乗り切りました。おそらく他のアジア諸国よりも侵略・加害問題は小さいかもしれませんが、中立条約違反、タイ南部における進駐時の日本兵による非行、泰緬鉄道のタイ人労務者犠牲者・被害者の問題について、きちんと問題視して、日本政府を責めて謝罪と補償を勝ち取ってほしいです。

p63〜65
 8月12日。ハジャイ駅に向かった。7時19分初のマレーシアのパターワース行きの国際列車に乗るためである。ハジャイから1時間ほどして国境の町、パダンベサールに着いた。ここで、タイからマレーシアへの出入国検査が行われる。列車内で税関の検査が行われ、駅で出入国の手続きが行われた。子の間、約1時間半列車は停車した。
(略)

 バターワースから長大な橋を渡って対岸のペナン島に渡った。(略)
 8月13日、ペナン・ヒルの麓にある「ペナン島華僑交戦殉難機工羅難同胞記念碑」を見に行った。1946年7月7日に華僑籌販会によって建立されたものである。
「天にはびこるほどの大悪行が盧溝橋で起こってから、侵略の殺伐な風が、ペナンにも迫ってきた。日本軍が海を渡って、まずペナンをおとしいれるや、ただちに粛清命令を出し、厳しい弾圧を加えた。多くの人が誣いられて、あいともに獄に捕らわれた。焚書坑儒の惨劇がこの地に再現され、骨や屍が野ざらしにされた。神も叫び、鬼も哭かんばかりであった」と刻まれていた。
 ペナン島は41年12月19日にイギリス軍から日本軍の手に陥ちた。イギリス軍は日本軍の3回の爆撃後、戦わずしてすでに退却していた。このあと、日本軍の占領下で中国軍に協力したということで、華人の粛清が行われたわけである。このペナン島の記念碑の前で、毎年1月11日に約300人が集まって追悼会を行っているという。

ペナンの華人にとっては、「ペナン島華僑交戦殉難機工羅難同胞記念碑」に「神も叫び、鬼も哭かんばかりであった」と刻まれているように、鬼さえも驚愕するくらいに日本軍は残虐非道だったということ。生存者の話を聞きたいがこの著書には残念ながら載っていない。
ちなみにペナンには洗脳親日派のマレー系マレーシア人がいるらしい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page046.html
イスマイル・ビン・ラザク氏 1927年マレーシア ペナン生まれ 78歳荷役会社を元経営 現在もペナン在中 一女の父
日本語タイ語を理解する イスラム教徒マレー人である。


イスマイル
 ― 当時私は15歳でした。ペナンにはイギリス軍がいましたがある日、日本軍の飛行機が偵察に来て、その後20機が爆弾を落としていった。これはイギリス軍の基地だけ攻撃した。その様子を目の前にして、見て私たちマレー人は感動しました。私たちはイギリス人に蔑まれ虐められていたのですから。お前らはバカだ、人間じゃあないと。ほんとうに日本軍に感謝しました。

イスマイル
 ― まったくありません。日本軍は私たちに学校教育をうけさせてくれた。日本軍の先生がマレー語で教えてくれました。仕事もできるようになり、給料もちゃんと払ってくれた。イギリスがいたときとは全然違います。イギリスは私たちに教育や仕事をやらせなかった。日本人はマレーをマレー人に任せるようにしたのです。その時のマレーと日本の約束は「お互いに協力していこう」ということでした。マレーは良くなったのです。中国人はジャングルに逃げたままでした。

イスマイル
 ― DAITOUASENSOUは感謝しています。DAINIPPONが来なければ今のマレーシアはなかったでしょう。最大の感謝の気持ちは変わりません。

右翼サイトに乗っていた洗脳親日派マレー人の妄言録。しかもペナン在住。酷いものだ。ちなみに懐柔されたマレー人とは言え、大部分は日本軍占領時代に対して反発している。しかし、韓国のキムワンスプのようなとんでもない親日派は生まれてもおかしくはない。しかし、大日本帝国の行った戦争を美化する日本の右派はとんでもない、大日本帝国・日本軍のやった戦争を美化する現地の反動アジア人はさらに質が悪いと思う。この辺の問題も真剣に考えないといけない。また、マレーシア人自身で、マレー系イスマイルなり、
50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14680267.htmlで触れたp19〜20
にでてくる親日派華人系マレーシア人張日昇とともに、マレーシアの良識派自身の手で始末されることを私は望んでいる。マレーシア人自身の問題だが、日本の右翼勢力と同じスタンスをもつ親日派(というか親日帝・大東亜プロパガンダ狂信者)なるものをそのままにしておくのはマレーシアの国益のためにもならないであろう。

p69〜71
 8月15日。アジア・太平洋戦争の敗戦記念日である。この日を期して、日本軍が開戦と同時に上陸したコタバルで、マレーシアの人々が日本軍の犠牲になった人々を追悼し平和を祈念するための集会が開かれた。朝10時に集会が行われるコタバル郊外の抗戦烈士記念碑の前に人々が集まった。この碑のすぐ近くに10人の烈士の墓があった。墓碑には「ケランタン華僑籌販祖国難民委員会職員殉難烈士史略」が記されていた。
 1937年の日中全面戦争の勃発は、マラヤ在住の華人に強い衝撃を与えた。抗日救国の気運が盛り上がり、マラヤ全土にある中華総商会を中心に国民党への献金運動が行われた。その後1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の1時間前にコタバルに上陸した。このとき、コタバルの献金運動を行った華人の中心的な人物、おもにコタバル町の籌販会の人々が日本軍に捕らえられ虐殺されたのである。記念碑はその慰霊のためのものである。
 墓碑の前に集まっていると、50歳ぐらいのひとりの華人が私たちに向かって話しはじめた。林武輝さんである。ここで眠る「烈士」林槐郷の息子であるという。「私の父と母は日本軍に殺された。父はそのとき32歳、私はまだ3歳であった。きみたちが来るのが遅かった。日本政府はわれわれの犠牲に対し補償してほしい」と涙ながら語り、神に山下奉文と書いた。コタバルに上陸した第五師団の司令官名である。いまだに日本軍人への怒りの記憶は薄れていない。東南アジア全域における華人の受難は、知れば知るほどすさまじいものがある。しかし、その事実について、日本政府の認識は薄く、日本人のなかで知っている人もまだ少ない。
 集会は11時から始まった。(略)参加者はコタバル華人48人と高嶋伸欣氏を代表とする日本側17人である。
 記念碑は八段の石畳の上に、九段の白い石造りの塔が建ち、その上に三段の石が重ねられている。これには理由があるという。最初の八段は1937年の盧溝橋事件から45年の日本の敗北までの8年、つぎの九段と三段は日本軍が41年12月にマレー半島に侵略してから日本の敗北までの9ヶ月と3年を表しているという。日本の中国侵略とマレー半島侵略の月日の重さを語っているのだ。
 集会を終えて、私たちはコタバル市内に戻った。昼食を集会に参加した中華総商会の華人の人々と一緒にとった。私の隣は黄崇鋭さん、小学校の先生で現在は退職している。日本軍が侵略してきたときは10歳の小学生であった。
 黄さんの話では、42年の占領から小学校では日本語とマレー語が教えられた。その後はタイ語に変ったという。さきに述べたように、日本軍は43年8月にタイ国にケランタン、トレガヌ、ケダ、プリルスの4州を割譲している。このため、ここテランタン州コタバルでは、マレー語教育からタイ語教育に変ったのであろう。もちろん、それまでの公用語であった英吾は適性語として禁止となった。日本語の教育も徹底しており、いまでも黄さんは「君が代」を歌える。小学校では、毎日のように、日本兵からビンタをもらったという。

マレーの華人は日中戦争とコタバル上陸をはじめとするマレー半島侵略を同等の重みを置いて位置づけているということが分かった。すでに1937年に盧溝橋事件が起こり、日中全面戦争が起きた際、マレー半島の華人たちは祖国を助けるために献金活動を行い、戦争に参加したという。ところが、マレー半島にも日本軍は侵略してきた。日本軍は鬼よりも残虐で、華人たちを容赦なく粛清・虐殺した。歴史の重みというのが分かる気がする。日本政府はまだ補償も誠意のある謝罪も行っていない。本当に恥だな。わが国の政府は。

p71〜72
 昼食後に日本軍が上陸したコタバルの海岸に行った。上陸地点は、コタバルから10キロ北にあるチンタ・ベラヒ海岸である。(略)
 日本軍(第18師団=牟田口廉也師団長の一部、佗美支隊)は、海岸一帯とここに河口をもつパーマト川やケランタン川などのクリークに、上陸用舟艇を乗り入れた。海岸の近くには、当時のイギリスの空軍があり、日本軍は開戦と同時にマレーの制空権を奪おうとした。
(略)
上陸日時は、日本時間で1941年12月8日の午前2時15分。真珠湾攻撃で「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)と打電したのが同午前3時23分であるから、コタバル上陸のほうが一時間ほど早い。アジア・太平洋戦争は真珠湾で始まったのではなく、マレー半島で始まった。この事実は象徴的である。太平洋戦争を、真珠湾攻撃に始まり原爆で終わる日米決戦として理解する常識に対し、アジア・太平洋戦争はマレー半島上陸に始める東南アジアの領土と資源を略奪するためのアジア侵略が本質であることを教えているからである。最近の歴史学会で従来の「太平洋戦争」という呼び方を改めて、「アジア・太平洋戦争」と呼ぼうとする提唱は理にかなっているのである。

なるほど、これからは私はアジア・太平洋戦争と呼ばせてもらいます。

p73〜75
8月16日。今日はコタバルからふたたびマレーシア中央山地を縦断して、東海岸から西海岸へ抜ける。行き先はイポーである。
(略)

 8月17日。イポーの北西84キロのタイピンへ向かう。かつてのペラク州の州都して栄えた街で、マレーシア最古の錫鉱山がある。ここにあるレーク・ガーデンはマレーシア有数の美しい公園として知られる。
(略)

 タイピンの町では、陸国祥氏が待ってくれた。この町は錫鉱山の町だけに、植民地時代に中国から大量の労働者が導入された。その後、華人は錫鉱山の経営にものりだし、この町にも巨万の富を築いた人が多い。陸氏は現在、ゴム園と油ヤシの農園を経営している。
 陸氏は最初に、タイピンにある連合軍墓地を案内してくれた。
(略)

 陸氏はつぎに、華僑同胞の殉難碑に案内してくれた。レーク・ガーデンからすこし入ったところである。草木の生い茂るなかに隠れるように、ひっそりと碑が建っていた。幅10メートル、高さ5メートルのりっぱな碑である。中央の墓碑名の両側に、「精神不死」と「活気長存」の文字が刻まれていた。
 このタンピンを中心とするペラク州は、錫鉱山の関係で華人が多く、日中全面戦争以来抗日意識が強い地域であった。日本の憲兵は、不審な華人を見つけると、ろくな取り調べもせずに抗日分子として拷問、虐殺したという。
「土饅頭息づき蛍群れ飛ぶそこだけの闇」
 これは当時の日本兵が詠んだ歌である。土饅頭とは、日本軍によって虐殺された華人の死体を埋めた跡である。銃剣で胸を突き刺して殺し、そのまま土をかぶせて埋めたため、土饅頭がグワオーグワオーと呻き声を立てながら息づいている様子を表しているという。

おぞましい光景です。銃弾を節約するために、銃剣で突き刺して虐殺していったわけですが、鬼も真っ青な日本兵の所業。私の先祖の姿だと思うと恐ろしいです。

p76
 私たちは、陸氏と昼食をタイピンの町でとってから、ふたたび高速道路でイポーの町に戻った。イポーは、クアラルプール、ペナンに次ぐ、マレーシア第三の都市である。人口30万で、世界最大の鉱脈といわれるキンタ渓谷の錫鉱山がある。マレーシアは現在でも世界の錫の4分の1を産出している世界最大の錫生産国である。イポー周辺には、さまざまな錫の露天掘りが見られる。このため、植民地支配からここはイギリスのマラヤ支配の拠点であった。マレー半島の鉄道や道路は錫産地と海港とを結んで敷設されている。錫は溶接の材料として使われ、工業生産には不可欠である。さまざまなメッキの材料として、また缶詰からトタン屋根の材料、食器など錫の用途は広い。
 イギリスは植民地支配の重要物資として錫生産の拠点をペラク州から隣のセランゴール州においた。中国から労働者をここに送り込んで採掘に当たらせ、同時にインドで栽培したアヘンを中国人労働者に売った。19世紀末のイギリス海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)の国庫収入の半分がアヘン収入であったという。アヘンの犠牲はアヘン戦争で有名な中国本土だけではない。マラヤの華人はイギリスから錫鉱山の労働力と同時に、アヘンの吸引者として二重に搾取されていたわけである。
 また、先進国の軍需物資として注目され、日本軍が南方進出の理由としたのがマレーシアの錫とゴム、インドネシアの石油などの資源獲得であった。イギリス植民地時代から日本軍の東南アジア侵略まで、マレーの錫は世界史を動かした。

華人たちはイギリス植民地時代、日本軍占領時代を通して搾取され苦しめられ続けたのですね。錫やゴムなどの資源に目をつけられ、大日本帝国に侵略されたのです。帝国主義勢力のエゴですよね。ただそのエゴに巻き込まれて、一番の被害者になるのは結局は被支配者のアジア民衆です。

●マレーシアにおける日本の公害輸出
p68〜69
 マレーシア中央山地は熱帯雨林で、バスからも原生林のなかでまっすぐ伸びるラワンの木が見えかくれする。ラワン材を積んだトラックが軍用道路の最大の利用者になっている。マレーシアからインドネシアにかけての東南アジア一帯には、アマゾンと並ぶ世界有数の熱帯雨林が広がっている。熱帯雨林は世界の気候の調節弁であり、地球規模での生態系にとって重要であることが指摘されるようにつれ、伐採による減少が問題化されてきた。
 日本は東南アジアにおける木材の最大輸入国である。現在、マレー半島はほぼ伐採しつくして木材伐採の中心は、東マレーシアのサバ、サクワラ州に移っている。88年現在、サバ州の原木輸出は約800億円で、外貨収入の70パーセントは日本向けである。しかも、サバ州の税収入の70%が、木材関連産業からであるという。現在、マレーシアは開発と環境保護の矛盾のなかにあるわけだが、その大きな責任の一端を日本が負っているわけである。

東南アジアの熱帯雨林の減少に日本には大きな責任がある。17〜18年ほど前の事実である。バブルも終焉に迎えているころだが、発展途上国の環境などなりふり構わぬ建造物や住宅の乱立が続いていたのである。

p77〜80
 つぎに、イボー市の南9キロにあるプキメラ村に向かった。いまこの村では、日本の企業進出の一側面として、公害輸出の問題が深刻化していた。すなわち、日本企業のアジア・レアアース社(ARF)の放射性廃棄物をめぐって住民運動が起きていた。
 ARE社は、1982年にマレーシアで設立され、35パーセントを出資している日系企業である。この企業が、モザナイト鉱石から希土(レアアース)を精製し、日本側がテレビの赤色発光体の材料やカメラ、コンピューターなどの部品、触媒として、エレクトロニクス産業に供給する。モアナイトの9割はマレーシア産であり、レアアースの10割が日本に輸出される。
 この精製過程で、放射能を含んだ廃棄物が生まれるのである。廃棄物は放射性物質トリウムを14パーセント含んでいる。マレーシア政府は、トリウムを将来の原子力発電所燃料に使うことを考えて、その貯蔵を同社に命じていた。(略)
 最初住民はそのことを知らず、工場の放射性廃棄物の近くで子供たちは遊び、廃棄物を肥料として畑にまいたという。1983年にAREは放射性廃棄物の専用投機場をイポーの南131キロのパパンに建設しはじめた。しかし、コンクリートにひびが入り侵食が始まったため、住民は反放射性廃棄物委員会を組織した。結局、国際原子力機関の勧告もあって、パパンでの建設は中止された。その後AREは、放射性廃棄物をドラム缶に詰めて工場内に野積みにした。84年12月23日に300人の住民が生産中止、工場移転を求めてデモを行った。「三菱製品ボイコット」の動きも出てきた。日本にこのデモを最初に報じたのは、85年1月15日の「朝日新聞」である。
 この反対運動の高まりのなかで、地元の環境保護団体「地球の友」は、埼玉大学の市川定夫教授を招いて放射線レベルを測定した。結果は投棄地は9000ミリレムと基準(自然放射線量11)を大幅に上回った。市川教授は、「投棄場内は驚くべき高濃度だ。住宅地もいますぐ危険とはいえないが、長期的にこの状態が続くと、ガンのおそれがある」と述べている。
 85年2月の住民側の訴えで、10月に裁判所が工場の操業停止の仮処分を出した。しかし、87年2月にはマレーシア原子力委員会が暫定操業の許可を出している。そこで、住民側は同年5月に1万2000人のデモを敢行した。マレーシア史上はじめて、多国籍企業に対する反対運動を展開したのである。これに驚いた政府は、国内治安法(ISA)で反対運動の中心人物であった反放射能委員会のヒュー・ユン・タ委員長を逮捕した。
 私たちが訪れたときも、工場の外にドラム缶やプラスチックバッグに入れられていた廃棄物が野積みされていた。雨が降れば、工場の横を流れる小川に垂れ流しになる危険がある。工場の廃棄物貯蔵所の前には「放射能あり」と札が掛けられ、「安全はわれわれの関心」という標語には、なにかブラックユーモアさえ感じた。
 反放射能委員会のヒュー委員長に会った。彼はこれまでの経過を簡単に述べて最後に一言だけ、「我々の唯一の要求は工場を閉鎖することです」と断言した。
 彼は小柄で40歳ぐらい、つねに住民運動の先頭に立った闘士である。みずから警官隊の催涙ガスと闘い、2年前に国内治安法によって逮捕投獄2ヶ月を経験し、現在も外国人と接触を制限するために、英吾の使用を禁じられているという。ブキメラ村では、一部の報道で日系企業による「公害輸出」といわれたように、放射能汚染での健康被害もささやかれている。
 マレーシアと日系企業の関係は、ちょうど1960年代の水俣病を思い起こさせる。日本の大企業は1970年代前半の国内の反公害闘争、四大公害裁判のなかで厳しい公害規制に直面することによって、問題のある生産部門は海外に移すようになった。しかも、このレアアースを供給するエレクトロニクス産業は、1980年代の日本企業を支える主力産業である。80年代の日本の経済大国化が、このようなアジアの犠牲によって成し遂げられているとしたら、私たちの生活の「豊かさ」とはいったい何であるのだろう。
 マレーシア政府にも問題がある。マハティール首脳は「東方政策」として、日本に学べと、日本資本の導入による急速な工業化政策をとっている。このため、日本資本の公害問題にきわめて甘い。しかも、国内治安法によって労働運動、住民運動を封じ込め、経済成長政策を実現しようとしている。アジアにおける「開発独裁」路線である。アジア民衆の犠牲で、ふたたび日本企業がアジアに進出するとしたら残念なことである。しかも、マレーシアの場合、プミプトラ政策による、多くの犠牲者は非マレー人である。実際に、ブキメラ村の住民はほとんどが中国系住民=華人である。資本進出と公害問題にも、この国の複雑な民族対立が絡んでいるようである。
 現在の日本は、アジアに対する戦争責任を曖昧にしたうえ、現在の責任も問われなければならない事態にいたっている。すなわち、過去と現在の二重の責任に直面している。過去の戦争の認識と補償問題、そして現在のブキメラ村の日本企業のアジア進出やバンコックの日本人の売春観光、アジアの人々と日本の人々の相互理解にはまだまだ深い断層があるように思われた。


ブキメラ問題のリンクを2つほど
http://homepage1.nifty.com/nbach/are_houmon.htm
http://japan.nonukesasiaforum.org/japanese/slide/dat08.htm

現在も問題が続いているようです。アジア・太平洋戦争において、日本は償いきれないほどの罪悪を重ねました。しかし、現在においても日本は自国の「豊かさ」のために、アジア民衆を犠牲にしているのである。戦後も日本企業や一部の日本人はアジアの大地に対して暴力的な行いを続けているのである。アジア・太平洋戦争の一連の侵略・戦争責任を曖昧にして終わらしてしまった事が大きい。ドイツでナチス・ドイツがユダヤ人や近隣諸国に被害と苦痛を与えたことを徹底的に教わっているが、日本人で知るものは少ない。アジア地域を侵略したことを教わらずに、"名誉白人"思想というほかの有色人種を蔑視し、アジアやアフリカといった地域を後進・未開だと決め付けて見下す思想が戦前以来戦後にも引き継がれていることが大きいということ。過去の侵略・戦争加害問題と現在の公害輸出や日本人の売春問題などはその点繋がっている。日本人一人ひとりがたとえばマレーシアで行った日本軍の悲惨な虐殺の事実を余すところなく知り、逆の立場で感じる歴史教育を行うことで、過去の戦争犯罪に対する償いの心をもたせることで、過去及び現在にいたる日本の問題を解決することができると思う。

p81
 泰緬鉄道の工事にマレー半島、インドネシアから動員された25万人から30万人におよぶというアジア人労務補償請求は、1986年マレーシアの生還者、遺族など288人から日本大使館に出された。しかし、日本政府はいまだにマレーシア政府との賠償協定ですべて解決済みだと言っていっさい応じていない。また、1995年1月にイギリス、オーストラリアなどの連合国の元兵士2万人は、日本政府に対し泰緬鉄道などの強制労働の賠償請求総額480億円を要求する訴訟を起こした。
 

泰緬鉄道の強制労働問題も日本政府は一向に応じていません。条約で解決されたといいますが、冷戦の問題もあり、過酷な賠償の要求に日本全体が耐えられないとの判断から賠償の請求は見送られました。マレーシア政府についてはルック・イースト政策を取っており、日本の協力を得るために賠償協定を虐殺されたりした華人たちの同意を得ることなしに勝手に決めて結んでしまった。日韓基本条約の締結と同じ問題を抱えています。十分な先進国となったのですから、日本政府は過去の自国の行った罪行の後始末を道義的にきちんと納得の得られるようにするべきです。つまり補償をして、事実を余さず国民に教育して、日本人が未来に向かって真の国際人として歩めるようにすべきです。それが日本政府のこれからの責務です。

p82
 1989年の11月に40年間、マレーシアとタイ国境地帯でゲリラ活動を続けていたマラヤ共産党はタイ軍とのあいだで投降の交渉が終わった。同年10月のベルリンの壁崩壊に始まり、1991年ソ連の解体に終わる社会主義体制の世界史的崩壊のひとつとしてマラヤ共産党の終焉があった。そのなかで戦時下、マレーで日系企業、日南製鉄に勤務していたが、終戦以来マラヤ独立のためにマラヤ共産党に加わりゲリラ活動を続けていた2人のン本陣、田中清明氏と橋本恵之氏が46年ぶりの1990年1月に日本に帰国した。「日本兵はマラヤの独立のために何もしなかった。日本の軍にできなかったことをしようと思った」と話す。終戦時はこのようにしてマラヤ共産党に加わった日本人は約100人いたという。

最後にほっとした話題を。インドネシア独立のために戦った日本兵がいました。マラヤでも同様です。戦時下にあっても良識的な方がいると思うとほっとします。
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右翼の荒らしどもに対する私の思うところ

私は忙しいから、コメント欄までなかなか管理する余裕はない。コメントについては申し訳ないが、返事もなしに放置されることも多々あるかもしれない。コメントの管理ができないことをいいことに右翼どもの荒らしが来られたらたまらないと思っている。私は右翼どもが最も嫌う日本人の1人だと思っている。ただ、右翼とは言え、少なくとも荒らしではなく比較的丁寧なコメントなら一切削除なく残していきたいと考えているし、コメントを返せるなら返せるように心がけるつもりだ。右翼どもももうちょっと良識をもってくれといいたいが、日帝被害者・犠牲者の苦しみが分からない人間の最低限の心すらもっているか怪しい糞右翼どもに通じるかどうかは分からないが(泣)
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:32 | Comment(26) | TrackBack(0) | 日々の雑感ならびに考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

インドネシアにおける日本軍強制売春(性奴隷)システムについて

ネットサイト上におけるインドネシアにおける従軍慰安婦についてまとめてみました。

インドネシアで子供に教える日本軍の性犯罪
http://www.ipsnews.net/jp/n02/09.htmlより
(1月30日)
リチェル・ダルシン著
【ジャカルタIPS】
第二次世界大戦中の占領日本軍による性犯罪の実態が、まもなくインドネシアの学校で子供たちに教えられるようになる。遅すぎた歴史教育ではあるが、ないがしろにできないテーマだ。
「インドネシアで起きた日本軍による性犯罪を子供たちに教える目的は、日本の占領下で何が起きたのかという真実を伝えることです。過去を隠すことなどできませんから」とエラ・ユララワティさんは語る。ユララワティさんは、文部省で初等教育のカリキュラムを担当する責任者だ。
 学校教育課程に性犯罪問題を盛り込み、1942年から45年まで、インドネシアの女性たちが日本軍の性の奴隷として働かされるようになった事実を学校で教えるべきだと提案したのは、ジョクジャカルタの非政府組織(NGO)の「司法支援所」(LBH)だ。「インドネシアの子供たちが、自分たちの国の歴史を漏らすことなく学ぶことは重要なことです」とLBHの弁護士ブディ・ハルトノさんは言う。
一方、文部省の研究開発課程センター所長のスード・カリム氏によれば、「日本軍の残虐行為は、小中学校、高校の教科の中に盛り込まれることになる」。おそらく、改定されたカリキュラムが導入される来年には、実施されることになりそうだ。
 数十年前、第二次世界大戦中のインドネシアで、どのようにして女性たちが日本軍の「慰安婦」にさせられたかをよく知るインドネシア人は、高齢者も含め少ない。中国、韓国からフィリピンまで、東アジアで約20万人の女性たちが、占領日本軍から兵士たちの性の奴隷として働くよう強要された。インドネシア女性もその20万人の一部だ。
 「これまでインドネシアでは、日本軍による性犯罪の問題は決して教えられることがありませんでした。歴史の教科書はインドネシアの英雄たちのことだけを伝え、犠牲者としての女性を扱うことなどなかったのです」と文部省で教育課程の研究に携わるヘルマナ・ソマントリーさんは話す。例えば歴史教育に登場するインドネシアのヒロインとしてはカルティニさんが挙げられる。彼女は、インドネシアで女性が二流市民とみなされがちだった時代に女性の権利を訴えた活動家だ。
 「90年代になって、韓国やフィリピンの元慰安婦が証言するのを耳にするまで、インドネシア人はインドネシアで従軍慰安婦が存在したことすら知らなかったのです」。ソマントリーさんは、自分の過去について公言するようになった韓国とフィリピンの女性たちに触れながら、こう指摘した。彼女たちが証言してくれたおかげで、圧力を感じた日本政府はようやく、アジア中に設置された「慰安所」について「自責の念」を表明したのだった。今では高齢となった犠牲者らが「性の奴隷」に関する報道の正しさを証明した90年代初め以降のことだ。
 第二次世界大戦末期の日本軍による占領について、歴史の教科書はかなりの紙数を割いてはいるが、インドネシアの女性たちが性の奴隷として搾取された事実には触れていない。90年代に入ってようやく戦時中の性犯罪が明らかになったことを別にしても、2億1000万人の国民の大半がイスラム教徒であるインドネシアでは、とかく「性」がタブー視されがちだ。
 専門家によれば、歴史の教科書は、日本人について性以外の面で、悪いイメージを伝えているという。「インドネシアの女性が日本軍兵士の性の奴隷となった問題は学校で教えることがなかったものの、日本軍占領時代の日本人について、欲深い泥棒だったといった教え方がなされてきました」とソマントリーさんは指摘する。
 歴史教科書には例えば、日本軍兵士が住民から米や戦闘で利用できそうな物資を盗んだことが記されている。「彼らは戦争で必要なものとあれば何でもインドネシア人から奪いました」。ユララワティさんは歴史教科書の記述をこう紹介している。
 自国の国民に事実を知ってもらうことなく、多くの慰安婦がすでに他界している。現在も生存が確認されているのはジャワと東ヌサテンガラの計1156人だ。ただ、実際の元慰安婦の数は、これよりもっと多いとみられる。中には過去を葬りたがる女性たちもいるからだ。ソマントリーさんは言う。「恥だと思って、名乗り出ない元慰安婦がいるのです」
 だが、他のアジア諸国の犠牲者らのように、法的な謝罪と補償を求めて立ち上がった女性たちもいる。昨年は、過去の日本政府による補償がスハルト政権によって不当に流用されたとして、元慰安婦が追加補償を求める出来事があった。彼女らは、他のアジア諸国の元慰安婦が訴えているように、過去の日本政府による謝罪は形式的なものに過ぎないとして、明確な真の謝罪を要求した。
 ジョクジャカルタ出身で71歳になる元慰安婦のマルディイェムさんは言う。「私たちに対する行いについて日本政府にきちんと遺憾の気持ちを表現してほしいのです」。
 96年、スハルト政権は当時の社会相のインタン・スウェノ氏を通じ、90億ルピア(約90万米ドル)の金を元慰安婦支援金として受け取っている。資金源は、日本政府が寄付金を集めて創設したアジア女性基金だ。受け取った金のうち、7億7500万ルピアは、高齢者用の住宅5棟の建設費として使われたが、残りの使途は不明だ。「犠牲者は一文も手にしていないのです」と「正義と民主主義のためのインドネシア女性連合」に所属する国会議員のカトジャスンガナさんは言う。
 日本軍占領下でインドネシア人女性が強いられた苦境そのものを子供たちに教えることに加え、慰安婦問題の教育では、女性への暴力を減らすことも同様に大切な目的だ。「女性が守られなければならないこと、女性への暴力は許してはならないことをインドネシアの国民が学ぶことはとても重要なことなのです」とユララワティさん。
 文部省関係者は、日本軍が犯した性犯罪を倫理教育の中で教えることも予定している。「女性の苦しみや勇気に重点を置いた授業にするべきです」とユララワティさんは言う。「さらに、子供たちが日本人を憎むことにならないよう慎重に教える必要もあります」と主張する。
 日本軍の慰安婦問題以外の戦争犯罪についても教えるべきだと要求している専門家もいる。「なぜ日本軍の性犯罪だけを子供たちに教えるのか。オランダ軍の兵士だって、350年にわたる植民地時代に自分たちの性欲を満たすためインドネシア人女性を使ったではないですか」とユララワティさんは指摘する。

大日本帝国はインドネシアにおぞましいことをしました。米や労働力、そして、女性までも徴発し、奪いました。インドネシア人の女性は性奴隷として日本兵への性奉仕を強制されました。現在生存が確認されている被害者だけでこの記事では1156人で死去された方や実際に名乗りでない方、別の場所へ強制連行されて戻ることができずに残留された方、終戦時に日本軍によって虐殺された犠牲者などを含めれば、これ以上の数になるのは当然です。

日本のインドネシア占領と独立運動
   講師;藤原 彰先生(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)
http://www.ei-en.net/frenet/kouen5.htmより
 日本は、基本的には、インドネシアは独立させず、日本直轄の領土にすると言ってきたわけです。インドネシア人を、「兵補」とか「義勇軍」とかに編成したのも、日本軍の下働きをさせる意味だった。ですからインドネシア人は、兵補という形で日本軍に直接使われたり、或いは労務者として連れて行かれたりした。またインドネシアへは、軍隊だけなく商社もいっぱい資源開発のために出て行っている。日本人の人口は、軍隊よりも多かった。その人々のために、インドネシアの女性が何万人も慰安婦にされた。ということで、結局日本はインドネシアの独立の援助をしたのではなく、それを抑えた側に終始立っていた。

このサイトでは何万人もの女性が慰安婦にされたという。軍人だけでなく民間人も多くいて、そういう人たちのためにインドネシアの女性は性奴隷として弄ばれたという。
半月城通信 No. 36 性奴隷と奴隷条約
http://www.han.org/a/half-moon/hm036.htmlより
 被害者の証言以外では、インドネシアの事例がかなり明らかになっている。ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を連行したケースや、スマランからフローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が連行したとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したとする証言、アンボン島で地元女性を連行したとする証言などがある。

半月城通信 No. 36 インドネシア「慰安婦」(1)より
 私はインドネシアの場合、暴力的な強制連行・強制売春の方針は現地部隊止まりであったと考えています。陸軍省など軍首脳は暴力的な強制連行を国策上指示するはずはなかったと思います。
 一方、現地司令部の方針は、後に示すように、建前は女性の自由意志尊重、本音は強制連行もやむを得ないという姿勢であったようでした。これに反し、「慰安婦」集めに苦労していた現地部隊は暴走しがちで、時には暴力的な強制連行に走ったようでした。そのような暴走行為が判明しても、往々にして処罰はないがしろにされたようです。

国立国会図書館所蔵の極東軍事裁判の関係文書の中に、日本軍人の戦争犯罪を立証する尋問調書が見つかった。指揮官だった陸軍中尉が(インドネシア)モア島で現地の女性をむりやり「慰安婦」にしたことが供述されている。

問「ある証人はあなたが婦女たちを強姦し、その婦人たちは兵営に連れて行か れ、日本人たちの用に供せられたと言いましたが、それはほんとうですか」
答「私は兵隊たちのために娼家を一軒設け、私自身もこれを利用しました」

問「婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか」
答「ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした」

問「幾人女がそこにおりましたか」
答「六人です」

問「その女たちのうち、幾人が娼家に入るように強いられましたか」
答「五人です」

問「どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るように強いられたのですか」
答「彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘たちでありました」

問「ではその婦女たちは父親のしたことの罰として娼家に入るよう強いられたのですね」
答「左様です」

半月城通信 No. 36 インドネシア「慰安婦」(2)より
 日本軍により『ロームシャ』にされた人たちは、戦後、インドネシア兵補協会を結成し補償を求めていますが、その一環として元「慰安婦」の補償問題でも重要な役割を果たしているのは、よく知られていることと思います。
 日本人の調査では、ノンフィックション作家の川田文子さんたちがインドネシアを何回も訪れ、「慰安婦」の聞き取り調査を精力的に行いました。それに基づき、川田さんはインドネシアの軍事的性奴隷を、六つのタイプに分類しました(「インドネシアの『慰安婦』」、明石書店)。
1.人口の稠密なジャワ島の女性が他の島に連行された慰安所
2.日本軍駐屯地近くに住む女性たちが軍人に拉致されるなどして造られた慰安所
3.営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に連れ込み、専用の性奴隷にした例
4.当時、日本の植民地であった朝鮮、台湾の女性が連行された慰安所
5.オランダ人抑留所から若い女性が連行され、造られた慰安所
6.インドネシアの女性がフィリッピン、ビルマ、シンガポールなど他の国の慰安所に連行された例

 この分類を見ると、インドネシアでは実にさまざまな方法で多くの女性が日本軍の性奴隷にされたようです。そうした被害者二千人を対象に、インドネシア兵補協会が被害の実態を調査し、760名から回答者を得ました。
 アンケートで、「何が原因で『従軍慰安婦』になったのですか?」という
問いに対し、回答は次のとおりでした。

45% 逆らうと家族を殺すと日本兵に脅迫されて強制された。
45% 看護婦にしてやる、学校へ行かしてやる、職を紹介するなどと言わてだまされた。
 9% 帰宅途中、あるいは路上で拉致・誘拐されて。
 1% その他。

これをみると、脅迫・拉致・誘拐による強制連行が半数以上になります。

●13歳の時、学校から帰る途中に拉致された元インドネシア人「慰安婦」マリアムさんの証言
 両親はバティック(ジャワ更紗)の商人だったが、1932年に亡くなり
、マリアムさんは、カラテンガ村(現スカブミ市)の村長の秘書をしていた叔父に育てられ、スラバトゥにあった学校に通っていた。その学校は家から歩いて3キロぐらい、オランダ時代にはオランダ語で授業を行っていたが、日本の軍政が敷かれると、日本語の授業になった。
 日本語で授業を受けるようになってまだ間もない1942年10月のころである。学校の帰りに、突然四人くらいの剣を持った日本兵に囲まれた。剣を突きつけられたので、殺されるかと思ったが、日本兵は「歩け」と、身振りで指示した。その中の一人がツムラであった。
 同じ村の顔見知りの女性も何人か捕らえられていた。連れていかれたのはキリスト教会のすぐ側の建物だった。まだ13歳、何のためにその建物に入れられたのか、まったく分からなかった。そこに入れられた直後、軍医から性病検査を受けた。その検査も何のための検査であるのか、理解できなかった。
 三日目、叔父が会いに来た。叔父は、マリアムさんが学校へ行ったまま帰ってこなかったため、学校へ問い合わせるなどして、ようやく探し当ててきたのである。
「なぜ家に帰って来ないんだ」
 叔父は、マリアムさんが自分の意志でキプロス(ホテルやレストラン、オランダ語)に来たと思いこんでいた。日本兵に捕らわれたのだと話したが、充分説明しきれないうちに、叔父は部屋から出ていくようにと日本兵から警告された。その警告に逆らうことなどできなかった。
 キプロスを管理していたのはふたりの日本人男性である。まず最初に、そ
の建物から外に出ることは厳禁された。用便以外には部屋から出ることさえ自由にはできなかった。食事は他の女性が運ぶと説明されたが、食事を部屋に運んできたのは同じ村の六歳年上の女性だった。その女性は食事を運んだり、掃除をしたりなどの雑用をしていた。
 軍人は切符を持って、キプロスに来た。受付で軍人から切符を受け取って
いたのは、ふたりの日本人だが、もうひとり17,8歳のインドネシアの女性も受付にいた。彼女は軍人の相手もしたが、ふたりの日本人とともに、部屋にいる少女たちが逃げ出さないように、常に見張っていた。
 キプロスに入れられていた少女たちの全体の数は分からない。マリアムさんがキプロスにいた期間、ずっと一緒だったのは7名である。だまされてキプロスに連れてこられた人が多かった。
 キプロスを利用しに来たのは軍服を着た軍人だけである。兵隊は朝から夕方までの間に、階級が上の軍人は夜に来た。
 ツムラは度々やって来た。軍服の襟に星三つをつけていた。太っていて、年齢は40代だっただろうか。13歳のマリアムさんにはとても年をとっているように見えた。横暴な軍人で、しばしば、ここから逃げ出したら殺す、と脅された。マリアムさんの両親はすでに他界していたのに、お前がここから出ていけば両親の命はないものと思え、といった。
 キプロスに入って間もない頃は、軍人の要求をなかなか受け入れられなかった。すると、しばしば剣を突きつけられた。
 用便のため、部屋から出て、廊下で顔を合わせた他の部屋の少女と話をしていたら、逃亡を図っているとでも勘違いされたのだろうか。部屋に引き戻されて殴られたこともある。軍人のいうことに従わないと、罰として食事を減らされた。だが、日本語を理解できなかったから、何が原因で罰せられているのか、理解できないことの方が多かった。
 つらかったのは、マリアムさんには、キプロスに連れてこられた時に着て
いた服、たった一着しかなかったことだ。他の少女たちは、2,3枚着替えを持っていた。
 高原地帯であるスカブミは雨期には気温が20度以下になることもある。
そんな日には軍人の上着を部屋においてもらって、寒さをしのいだ。洗濯をする時にはツムラの服を借りるか、裸になって、乾くまで待つ他なかった。
「外に出ることはないし、軍人に犯されるために部屋に閉じ込められていたのだから、衣服は必要ないと思われていたのでしょう」
 と、マリアムさんはいった。
 性病検査は週に二回、民間の病院から中国人医師が定期的に来ていた。性病にかかると、ただちに病院に送られた。食事の量が少なく、体力が衰弱していたためであろうか、下痢など、性病以外の病気にかかる人も多かった。
 倉本部隊がスカブミから去り、キプロスから解放された時、マリアムさんは17歳になっていた。その時、金は一銭も受け取っていない。カラテンガ村の叔父のもとに帰ったが、受け入れられなかった。その直前までキプロスにいたことを、叔父は嫌ったのだ。
 近隣の人々も学校などを通じ、マリアムさんが日本軍に捕らえられていたことを知っており、蔑まれ、辱められた。叔父が受け入れてくれたとしても、カラテンガ村では暮らせなかったのだ。

●中曽根氏の発言
(略)中曽根氏は首相在任当時、「国家国民は汚辱を
捨て、栄光を求めて進む」と発言し、大見得を切りました(第5回自民党軽井沢セミナーでの特別講演)。
 この発言は、インドネシアでかっての部下である「イモ兵士」たちのために特別な「慰安所」を作ったと豪語する中曽根氏にふさわしいといえましょうか(注1)。このように、国家の帝国主義的な栄光しか眼中になく、恥知らずな汚辱の過去を切り捨てるという思考方式は、「新しい歴史教科書をつくる会」が唱える「誇りの持てる歴史教育」をほうふつとさせます。
 さて、イモ兵士の総指揮官であった中曽根氏ですが、同氏は、その当時「慰安婦」をどのように集めたかについては何も語りませんでした。あるいは台湾総督府に依頼して「慰安婦」を軍需物資として送ってもらったのかもしれません。(略)。
 あるいは、手っ取り早く現地女性を「調達」したのかもしれません。中曽根元首相と似たような境遇にあった、海軍(四南遣艦隊)司令部副官である東大出身の大島主計大尉が、インドネシアでの「慰安婦」集めについておよそこう述べたことが伝えられています(禾晴道「海軍特別警察隊」太平出版社)。              ・・・・・
 「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには宣撫用の物資も用意する。いまのところ集める場所は、海軍病院の近くにある元の神学校の校舎を使用する予定でいる。集まってくる女には、当分の間、うまい食事を腹いっぱい食べさせて共同生活をさせる。その間に、来てよかったという空気をつくらせてうわさになるようにしていきたい。そして、ひとりひとりの女性から、慰安婦として働いてもよいという承諾書をとって、自由意志で集まったようにすることにしています」
「特警隊なら通訳もいるし、おどしもきくから(女集めを)どうか」
 これに対し、特警隊の禾(のぎ)晴道中尉は「治安維持を任務としている特警隊の信頼はまったくなくなる」ことを理由に、「特警隊は協力することはできます。女性のリストをつくり現地人の警察隊とか、住民のボスを利用して、反感が直接日本軍にくることを防ぐ必要があります」と述べて、この任務を逃れました。結局、「慰安婦」集めは民政関係の現地人警察を指導している政務隊におしつけられ、副官が中心になり、特警隊は協力し、各警備隊・派遣隊もできるだけ候補者のリストをだして協力することになりました。 そうやって政務隊が「女集め」をしましたが、その後のエピソードを、担当の司政官が禾中尉に戦後、次のように語りました。
「あの慰安婦集めには、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞくと港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ! 娘を返せ! と叫んだ声が耳に残っていますよ。
 こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピスト
ルに手をかけましたよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなことをされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」
 このような強制連行でも、司令部副官のいうように「慰安婦として働いてもよいという承諾書」はとられたのかもしれません。この承諾書は前回、スマラン慰安所の例からすると、おそらく日本語で書かれ、うむをいわせずに承諾させられたのではないかと思われます。
 ここに書いたインドネシアの例はほんの一部にしかすぎません。ここ数年来、インドネシア「慰安婦」に関する研究も進展しだしましたので、今後、新たなたな事実が徐々に明るみに出されるのではないかと期待されます。(注1)
 <半月城通信、「従軍慰安婦」33,「イモ」の総指揮官>
 元首相の中曽根氏は「慰安所」をつくったと堂々と公言しています。元首相は回想記「二十三歳で三千人の総指揮官」で次のように記しています。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった」(松浦敬紀編「終わりなき海軍」文化放送開発センター)

半月城通信より引用しましたが、日本軍のおぞましさに寒気がします。インドネシアを日本軍は侵略しましたが、食糧や労働力を奪っただけではなく、女性そして13歳の少女まで奪ったのです。禾晴道「海軍特別警察隊」太平出版社という本に従軍慰安婦強制連行の事実が載っていることや、中曽根元首相が慰安所の開設などの日本軍の人権侵害に自ら手を下しているという事実が明らかになりました。

http://www.ask.ne.jp/~hism/nikki7.htmより
8月19日

吉見義明著「従軍慰安婦」はもう少しで読み終わる。
元慰安婦の人たちに、日本が補償することは不可能に思える。
国のお金で補償をするのに感情、同情ではできない。
元慰安婦の一人一人が異なったケースで慰安婦体験をしているし、慰安婦ではなく強姦、輪姦され挙げ句に証拠隠滅のために殺された人もいる。
(略)
吉見氏の「従軍慰安婦」のなかには証拠となるような資料が色々とあげられている。中曽根元総理の回想記「23歳で3000人の総指揮官」というものまである。中曽根氏は主計将校(中尉)として軍慰安所設営に関係していたそうで、フィリピンのダバオ、ボルネオのバリクパパンと転戦し、この間、みずから軍慰安所を開設したと回想記に書いてある。
 このように自らが手を下した経験のある人が厚顔無恥に世に憚っていることは従軍慰安婦の問題が国際的にも知られている中、日本人として恥ずかしく、また、そのような人に対する軽蔑の気持ちを抑えるのに苦労する。かなりお年を召した方だし、戦時中に洗脳されたまま今日まできてしまったのだろうと考える。

平成の妖怪・中曽根康弘を読む 鎌田 慧http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N87/KamataSatoshi.htmより
この古田班長は、松浦敬紀編『終わりなき海軍』でも重要な登場人物としてつかわれている。七十万円(現在の金額で数十億円という)の軍票(占領地で流通させる紙幣)を受け取った中曽根輸送隊隊長は、それを紙のベッドにして、勇躍ボルネオ島のバリクパパンに侵入した。が、ここでイギリス駆逐艦の攻撃を受け、古田班長は足に負傷する。
「片足がぶらぶらになり、皮一枚でくるぶしの下がぶらさがっている」と描写されている(「片足がぶらぶらになり」と「皮一枚でくるぶしの下がぶらさがっている」という様子はよく飲みこめない)。全身血まみれ(足をやられて全身血まみれとは、逆立ちでもしていたのか)の古田班長、ただ一言、「隊長すまねぇ」という。
「しっかりしろ、傷は浅いぞ」
と中曽根隊長、名セリフを言ったのだった。
「こうして古田正夫は、南の海で壮烈な戦死をとげたのである」。これがかれの自慢の戦闘体験なのだが、そのあとに書かれていた事実で、それ以降、忽然として消えてしまったエピソードがある。引用してみよう。

「三千人からの部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」

軍がつくった「慰安所」とは、いうまでもない、売春施設のことである。が、そこではたらく女性たちは、日本から志願して渡ってきた女性ではない。何人いたかは明らかではないが、これまでの侵略地での女性たちの証言で明らかにされているように、「拉致」だった、と考えられる。
とすると、まるで婦女拐帯の責任者、女衒のような仕事をしていた隊長が、のちに一国の首相になったことになる。まあ、戦犯だった岸信介も首相になったのだから、ことさら驚くこともないか。

中曽根はまさに妖怪。このような戦争犯罪に手を染めて、平然としている人間はどうかしている。このような戦争犯罪を犯した人間を日本政府あるいは日本国民は自らの手で処罰しなかった。それがいまの戦前から脈々と続く日帝悪の体質によって今まさに窮地に陥っている原因である。

従軍慰安婦資料集より
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/1794/ianfu.html
モア島での取調べ
モア島(現インドネシア)指揮官だった日本陸軍中尉が、連合国のオランダ軍の取り調べの中で、「現地在住の女性を無理やり慰安婦にした」と供述している(46年1月)。次のような問答があった。
問 ある証人は婦女を強姦し、その婦人たちは兵営に連れて行かれ、日本人達の用に供せられたと言いましたがそれは本当ですか。
答 私は兵士達のために娼家を一軒設け、私自身もこれを利用しました。
問 婦女たちはその娼家に行くことを快諾しましたか?
答 ある者は快諾し、ある者は快諾しませんでした。
問 幾人そこに居りましたか。
答 6人です
問 その女たちの中、幾人が娼家に入るように強いられましたか。
答 5人です
問 どうしてそれらの婦女たちは娼家に入るように強いられたのですか。
答 彼らは憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。
問 ではその婦女たちは父親たちのした事の罰として娼家に入るように強いられたのですね。
答 左様です。
モア島のすぐ西にあるチモール島のポルトガル領(現東チモール)では進駐した日本軍が、地元の酋長に慰安婦募集への協力を強要していた。その様子を目撃したポルトガル人の医院事務員が証言している。(46年6月)「私は日本人が酋長に原住民の女の子たちを娼家に送る事を強要した多くの場所を知っています。彼らはもしも首長が女の子達を送らないのなら、彼ら即ち日本人が酋長の家に行って彼らの近親の女達をこの目的で連れ去ると言って脅迫しました」
(97年3月31日、朝日新聞の朝刊)

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/slave.htmより
 管理される側の慰安婦は、どんな状況の下に暮らしていたのか。

 連合国軍がビルマで捕虜にした経営者、朝鮮人慰安婦に尋問してまとめた報告(四四年)では、一カ月三百―千五百円の稼ぎを得て、五〇―六〇%は経営者の取り分だった。「都会では買い物も許された」という。
 一方で、慰安婦たちが厳しい条件、監視の下に置かれたことを示す文書もある。東京裁判に提出された証拠資料の中に、ボルネオ島の慰安所状況について、オランダ軍が作成した報告書があった。
 「日本人と以前から関係のあった婦人たちは、鉄条網の張りめぐらされたこれらの性慰安所に強制収容されました。彼女らは特別な許可を得た場合に限り、街に出ることができたのでした。慰安所をやめる許可は守備隊司令からもらわねばなりませんでした」(四六年七月)

 インドネシアでは民間団体の呼びかけに対し、二万人以上が、「慰安婦にされた」「強姦された」などと名乗り出ている。同国政府と基金は今年三月、元慰安婦を優先する福祉施設建設の覚書に調印。日本政府が基金を通じて経費を出資する。インドネシアは「元慰安婦の特定は困難」などとして、個人対象の支援事業には応じていない。このほか、ジャワ島にいたオランダ人一人が提訴している。

◇インドネシア

 インドネシア・ジャワ島チマヒ出身のスハナさん(七〇)は一九四二年、無理やり慰安婦にされたとしている。家の前で遊んでいると、日本の軍服を着た五、六人の男に車に乗せられた。両親は留守だった。男たちは刀を持っており、抵抗できなかったという。
 連れて行かれたのはオランダ軍の旧兵舎だった。ほかにも多数の女性と通訳兼雑役係がいた。
 一週間は何もせず、八日目から兵士の相手をさせられた。
 「食事と衣料の支給はあった。現金をもらったことはない。いつも『お金は、あとで』と言われ続けた。一人の将校から二度、軍票をもらったが、額は覚えてない」
 外出はいっさい許されなかった。二年半ほどたって、突然家に帰るように言われた。両親はすでに死んでいた。

http://www31.ocn.ne.jp/~hinode_kogei/DATA02.htmlより
元日本軍「慰安婦」スハナさん(インドネシア出身)の証言

「一九四三年、私は一六歳でした。私が家の道端にいた時、突然「ダイニッポン」(日本軍)のジープがやってきました。ジープには軍人が六人ぐらい乗っていたと思います。その男たちは私に「一緒に来るか?」と訪ねました。私は「いやだ」と答えました。すると彼らは私に「ジープに乗れ」と命令しました。私が再び「いやだ」と拒否しますと、頬をぶたれました。私の両親は市場で店を出していたので、「それなら、お父さんとお母さんに行くと言わなければ」と私は言いました。しかしもちろん両親に会いに行くことを許してはもらえませんでした。彼らは私の長かった髪を、まるで馬のたてがみを引っ張るようにして私を引きずりました。私が必死に抵抗したので、結局彼らは私を抱え上げてジープのなかへ押し込みました。
 そのあと私は、もともとオランダ軍の将校用住宅だったグドゥン・ドゥラパンという建物へ連れて行かれました。日本兵は私に「働け」と命令しました。私は「いやだ、学校に行きたい。私の両親も私がここへ連れてこられたことを知らないから、絶対に働くのはいやだ」と言いました。
 しかし、その建物に入れられた後、別の部屋に連れて行かれました。そこには若い女性がたくさん、三十人くらい入れられていて驚きました。私は「家に帰りたい」と泣き続けていたら軍人に殴られました。すると、女性たちの一人がそばに来て、「泣くのはやめなさい。私たちはどうせ「囚われの身」なのだから」と私に言いました。
 一晩その部屋で過ごした翌日、私は中国人に別の部屋に連れて行かれました。その部屋に入れられると、まもなくして「ダイニッポン」の男がやってきて、そこで私はむりやり犯されました。抵抗しようとすると平手打ちされました。
 その日本軍の男は、私に服を脱ぐように命令しました。私はいやだったので抵抗したところ、私が腰に巻いている布をむりやり剥ぎ取り、下着も剥ぎ取りました。その「イケダ」という日本の軍人に私は犯されました。私はそのとき処女でした。私は本当に死んだような気がしました。
 そうやってその男に犯された後、私はまたもとのたくさん女の人がいる部屋に戻されました。部屋の中で私は泣きました。周りにいた人たちは同情してくれました。私が彼女たちの中では一番若かったからです。「これ以上泣いているとまた殴られるよ」となぐさめてくれました。その日から毎日毎日、イケダに限らず他の日本軍の男たちに犯され続け、とても時が長く感じられました。
 そして金曜日がやってきました。私は「タナカ」という医師に検査されました(性病の検査と思われる)。検査が終わると、また中国人にタナカ医師の家に連れて行かれました。そこでなんと、タナカ医師も私をレイプしたのです。そのときタナカ医師は、コンドームを使用しました。そのあと私はまたもとの部屋に帰されました。
(中略)
 軍人たちの相手をさせられる部屋は、私たち一人に一部屋ではなく、一部屋に三人入れられました。それなのに軍人たちは他の人がそういうことをやっていたり、あるいは他の人に見られているということも全然おかまいなしです。ですから、他の女性たちが同じ様な目に遭っている中にいて、私は周りをとても見ることができず、いつも目を覆っていました。そんな私を見て日本軍の男は「こんなこと恥ずかしがる必要はない」と言いました。
 また、拒否すると足蹴にされたり、頬を殴られたりしました。私は拒否をしたためにずいぶん殴られました。殴られるのが恐ろしかったので、私は仕方なく犯されざるをえませんでした。いろんな軍人が次々に指名してくるので体を休める暇もなく、終わったかと思うとまた次の軍人が来るという状況でした。」
(koβ註:スハナさんは犯され続けたためか、後に病気になり、一年半後、そのまま慰安所と共に放棄される形で日本軍から解放された。が、スハナさんの父親は日本軍により殺されており、母親も夫と娘を失ったショックから病気になり亡くなっていた。)

「インドネシア侵略と独立」(戦争犠牲者を心に刻む会・編 東方出版)より

「インドネシアで会った人々」(その3)
http://www.haruko.gr.jp/enews/enews2000/enews2000_16.html
スハルディさんは1943年従軍慰安婦にさせられました。日本名ミキと呼ばれました。
 「私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が家にきて『各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われました。壮年はロームシャ(労務者)に、青年はヘイホに、女の子は遠いところで事務の仕事をするた』と言われたので、二人でやってきたということでした。

 父は『たった一人の子なので行かせないで』と頼みました。母は村の代表の足にしがみついて『やめてほしい』といいました。しかし村長は、『心配するな。学校で教育を受けて働けるいいチャンスだ』と。また『子どもを行かせないとたいへんなことになる。日本兵に拷問される』といい、2日後、父親は村長のところに行きサインしました。5日後、42キロ離れている村長の事務所に父と歩いて行きました。15歳の時でした。少女達はスラバヤ行トラック二台に乗せられました。そのとき母が、『おまえともう一度会えるのか、会えないのか』と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐった)

 スラバヤ港から船に乗せられて出航したが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかは分からないが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸。軍艦の上で身体検査をされて、OK.の者から下船させられました。名前を呼ばれグループごとに別れました。グループは18人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって慰安所になった。病院に連れてゆかれ18人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れて行き、彼から暴力を受けました。・・中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。・・5時間に5人に奉仕しなければなりませんでした。一人の男が3回犯す場合もありましたが平均2回でした。夕方5時から労働の始まりです。・・・
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。」

「インドネシアで会った人々」(その4)http://www.haruko.gr.jp/enews/enews2000/enews2000_17.htmlより
 13才の時 元従軍慰安婦にさせられたスイボンさんは、私たちがあった三人の元従軍慰安婦の中で一番小柄でした。にこにことして私の手を取り身体をすり寄せる等、大変人なつこい態度でした。
 私たちは他の二人の元従軍慰安婦からはインドネシア語の通訳を介して話を聞きましたが、彼女は「インドネシア語が正確でない」とのことで、付き添いの人が中に入り、二重通訳で話を聞きました。

 それによると、「13才の時、村上という人物にジョクジャカルタの郊外に連れて行かれた。村上はいつの間にか自分の管理をするようになっていた。大きな家で女中をするといわれ、そのつもりでいたら夜男が襲ってきた。二年間そこにおかれ次から次に男が襲ってきた。そこには三人の女性がいて同じ運命にあった。一時間程度の外出は許可されたが、いつもスパイがついていた。町の外に行くことはできなかった。その後脱走して自分の家に帰ったが、病気をして病弱になった。」

http://www.ashir.net/siis/koron/shohgen.htmlより
 マルディエムさんは、淡々とご自分のつらい体験を話されました。13歳の時に侵略してきた日本軍から「芸能人募集」の誘いがあり、だまされてカリマンタン(ボルネオ)島につれて行かれました。慰安所にいれられ、そこで日本軍の将校・兵隊・民間人に連日レイプされ続けたことをはっきりと証言しました。妊娠がわかると日本軍は中絶の手術をし、また慰安婦として陵辱し続けたのです。マルディエムさんは、中絶させられた時(5ヶ月になっていたといいます)子どもに名前をつけ、忘れないようにしたといいます。連合軍の反撃が激しくなると、日本軍はマルディエムさんたちを放置し、逃走しました。故郷に帰るすべもなくボルネオ島に置き去りにされたのです。

 こんな女性たちに日本の政府は何の謝罪も補償もしていないのです。マルディエムさんは、一番若い方です。慰安婦にさせられた方々の多くは70歳をこえています。マルディエムさんはインドネシアで元慰安婦の方々の世話もしています。高齢で生活も苦しい方がたくさんいます。当然戦後も幸せな人生を送った方というのはほとんどありません。日本軍がこの人たちの人生を狂わせたからです。マルディエムさんは言います「日本の政府は責任をきちんととって欲しい。そして補償もすみやかに行うべきだ。時間がない」と。
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2006年03月21日

コピペ荒らしうっとおしい。

糞右翼どものコピペ荒らしがうっとおしい。コピペ荒らしという卑怯な手でしか私を貶めることしか能のないやつらだ。とりあえず、削除
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:25 | Comment(24) | TrackBack(8) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『国のウソ いつまで』沖縄返還 密約ない

東京新聞 2006.3.20. 朝刊 3面(総合・核心)
『国のウソ いつまで』 沖縄返還 密約ない
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20060320/mng_____kakushin000.shtml
 一九七一年の沖縄返還協定をめぐり、土地の原状回復費四百万ドルを日本側が極秘に肩代わりする密約があったとされる問題で、交渉責任者だった外務省の吉野文六(ぶんろく)元アメリカ局長(87)が本紙の取材に対し、密約の存在をあらためて認めた。米国では既に密約を裏付ける公文書も発掘されているが、政府は今も「密約はない」と強弁を続ける。機密漏えいをそそのかしたとして逮捕・起訴され、有罪が確定した元毎日新聞記者の西山太吉氏(74)は「国のうそは、(ライブドアが)有価証券報告書にうそを書くこととはけたが違う」と告発する。政府はいつまで国民を欺くのか。
  (社会部・瀬口晴義、佐藤直子)

 ■外務省交渉責任者だった吉野文六氏

 「私のイニシャルのサインが米国のアーカイブ(国立公文書館)の中に出てきた。自分のものだと言わざるを得ない」

 吉野氏は、政府が「米側の資産を有償で引き継ぐ」という名目で支払った総額三億二千万ドルの中に、米軍が占有していた土地を元に戻すための原状回復補償費四百万ドルが含まれていたことを認めた。

 密約をめぐり激震が走ったのは、返還が実現する直前の七二年三月。

 極秘の公電三通のコピーを手に追及した社会党(当時)の横路孝弘衆院議員(現・衆院副議長)の“爆弾質問”は、佐藤内閣を窮地に追い込んだ。

 資料は毎日新聞政治部の記者だった西山氏が前年六月、外務省の女性職員から入手。資料をもとに密約疑惑を報じたが「公の場で現物を突き付けないと絶対に認めない」と考え、同僚記者を介してコピーを横路議員に渡していた。

 女性職員が国家公務員法(守秘義務)違反、西山氏も同法違反(機密漏えいのそそのかし)容疑で逮捕されると、メディアは「知る権利や取材の自由を守れ」とキャンペーンを展開した。

 しかし、起訴状に「情を通じて…」という表現が盛り込まれると、世論の風向きは一変。密約の有無や「知る権利」は男女問題にすりかわってしまった。

 西山氏は一審で無罪判決を受けたが、二審で懲役四月、執行猶予一年の逆転有罪判決を受け、最高裁で確定した。

 吉野氏は「四百万ドルは機密のごく一部。VOA(米国の政府系ラジオ局)の移転費用など協定に書かれていない負担は、すべてが密約といえる」と振り返る。

 泥沼化したベトナム戦争で経済的に疲弊していた米国と戦争特需で潤った日本−。そんな時代背景を指摘した吉野氏は「米議会は『なぜ沖縄をただで返すのか』と反発した。だから(日本政府は)早く協定をまとめようという流れだった。三億二千万ドルを協定に入れてくれと持ってきたのは大蔵省だった。大蔵大臣も外務大臣も(首相の)佐藤さんも認めているから、入れざるを得ないと。(佐藤栄作首相が国民にアピールしたように)沖縄は無償で返還されるという先入観が日本側にあったから、ああいうこと(密約)になったのだろう」と静かに語った。

 ■疑惑を最初に報じた西山太吉氏

 七六年に毎日新聞を退社した西山氏は郷里に戻り、六十歳まで親類の会社で働き、沈黙を守ってきた。

 米国で密約を裏付ける公文書が見つかったのを受け、昨年四月、「不当な起訴で名誉を傷つけられた」として、国に三千万円余の損害賠償と謝罪を求める訴訟を東京地裁に起こした。

 米側公文書には、米軍施設改良費六千五百万ドルも盛り込まれていることが明記されている。これも密約だった。西山氏は「現在の思いやり予算の原型。密約でまかれた種が、毒草のようにはびこりだしているのが現在の在日米軍の状況だ」と話す。

 「吉野氏は返還交渉の主役で、生きている唯一の証人だ。今も否定を続ける国の態度は、私だけでなく、主権者を見下している」と政府の姿勢を厳しく批判した。

 西山太吉氏の話 吉野氏が密約を認め、真実を明かしている背景には、米国での文書発見と昨年の私の提訴があると推察する。国会答弁でうそをついたことや、(私を裁いた刑事)裁判で偽証した記憶がよみがえったはずで、外務省という組織を離れて一市民となった今、自身の視点で真実を語っているのだと思う。吉野氏は沖縄返還交渉を進めた最高実務担当者。彼が密約を認めたというのは絶対で、これ以上の証言はない。だが、政府はまだ密約を否定し続けている。こんなうそがまかり通るのは法治国家ではない。

 (メモ)沖縄返還をめぐる密約 戦後、米国統治が続いていた沖縄は、1971年6月の返還協定の調印を経て、72年5月に日本に施政権が返還された。日本政府は米軍が造った施設などの資産を有償で引き継ぐ名目として、3億2000万ドルを支払うことで合意したと発表していた。しかし、破壊された田畑を元に戻すなど、本来、米国が支払うべき軍用地の復元費400万ドルを日本が肩代わりする「秘密合意」があったとする疑惑が、西山元記者によって報じられた。政府は一貫して否定し続けているが、2000年、02年と相次いで、密約を裏付ける米側の公文書が見つかっている。

この国の嘘つき体質はほんとどうしようもないね、と思わせる記事が東京新聞から出ました。沖縄返還の密約があったという問題ですが、すでに米国で裏付ける公文書があって、証言者も出ているというのに、しらを切り続ける体質はどうしようもない。過去の戦争責任の問題(毒ガス、細菌戦、731部隊の問題)だって、公文書がないといい続けて隠蔽しようとするし、特殊法人、天下り、社会保険庁、もろもろ嘘と隠蔽と欺瞞で塗り固められて、国民を平気で欺き続けることができる戦前の大日本帝国を起源とする悪しき体質が脈々と受け継がれていることは明らかだ。私の日帝悪追及と右翼討伐、そして日本政府に戦争責任や戦争犯罪の問題に対する清算をとらせようと頑張っている良識派の運動と、日本国の維新につなげようとすることは繋がってくる。今後も『右翼討伐人』として頑張っていくつもりである。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 18:42 | Comment(9) | TrackBack(1) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

東アジアにおける日本軍初の民衆虐殺―甲午農民戦争の史実解明に取り組む 歴史研究者たち 「弾圧」したのは、四国から出征した貧しい兵士たちだった。

とりあえず、過去にあったニュース記事より。おそらく、日本軍が東アジアで行った始めての民衆の虐殺の記事です。

良識派による市民的ニュース総合研究スレ2
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1106654363/の私自身の投降より

甲午農民戦争の史実解明に取り組む 歴史研究者たち
「弾圧」 したのは、四国から出征した貧しい兵士たちだった。
事実と向き合う姿勢を
朝日新聞 マイタウン愛媛 2005年3月3日(おそらく)
http://mytown.asahi.com/ehime/news01.asp?c=5&kiji=571 (キャッシュにも情報なし)
 1894年の甲午農民戦争(東学党の乱) 時、抗日戦線を展開した東学農民軍の指導者を弾圧した日本軍の部隊があった。「後備第19大隊」。 農民軍を朝鮮半島西南端の珍島(チンド) へ追いつめ、指導者数百人を銃などで処刑。さらし首にし、遺体は路上に放置したとされる。その部隊を構成した約2千の兵士は、四国4県から徴兵された貧しい小作人や人力車夫、職人たちだった。

 この事実は、最近になってようやく日本で知られるようになった。調査を進めたのは北海道大学文学部教授の井上勝生(59) だ。

 井上は四国の図書館から、19大隊の出征の背景や戦況を伝える新聞記事を見つけた。どうやって戦勝を収め、日々何人の農民軍を殺したか、預ける先のない子を殺してまで国のために出征した兵士の気持ちはどうだったのか−−。そこには、兵士が郷里に向けて書いた手紙などが掲載されていた。

 明治維新史が専門の井上がこの問題にかかわり始めたのは、95年7月。きっかけは、退官した北大文学部教授の研究室から、古新聞に包まれた遺骨6体が見つかったことだった。1体に「韓国東学党首魁(しゅかい)」と墨書きがあった。添付の文書には、処刑された農民戦争の首謀者の遺骨を1906年の珍島視察に際して「採集」した、とあった 。

 このことが新聞などを通じて報道され、死者の尊厳を踏みにじる日本人の行為に当時、韓国側から大きな反発が起きた。学内の調査委員に指名された井上は「遺骨が来たルートを調べ、丁重に返すことが最低限必要だ」と感じた。

 珍島に足を運び、北大前身の札幌農学校の卒業生も調べた。そして遺骨を持ち出したのは農学校の卒業生で、珍島の綿花栽培試験場を監督する統監府の日本人農業技手だったことを突き止めた。

 翌96年、井上は「石をぶつけられる覚悟」 で遺骨返還のため訪韓。北大側は真摯(しんし) に非礼をわびた。韓国の民間団体は「正しい相互認識と新たな日韓関係を築く契機に」 と前向きに受け入れてくれた。

 日韓の研究者が協力し合い、珍島での日本軍による農民軍弾圧について調査を始め、新事実を明らかにしていった。

 ソウルでは、日本軍の珍島侵入を示す後備第19大隊長の資料を発見。また朝鮮政府による要請という形をとり、農民軍殱滅(せんめつ) を命じた司令部の訓令も見つけた。「日本軍による東アジアで初の民衆虐殺」 が明らかになった。

 井上は研究者としてこう考えている。「なぜ韓国で今も対日批判の声が根強いのか。日本が与えた被害が何も調査もされず、知られていないままだからだ。逃げずに向き合う姿勢があれば、理解してもらえる」

 松山在住の歴史研究家で、県歴史教育者協議会委員長の古谷直康(70)は、井上が資料収集のため来県した03年春から、この問題について関心を持って見つめてきた。井上が見つけた記事を読むと、やりきれない思いに駆られるという。

「南予は幕末の農民一揆が盛んだった。貧しさに耐え、決起した思いは韓国の農民軍と同じだったはず。それが残虐な弾圧を加える立場になった。戦争の皮肉です」

 古谷は9月18日に井上を松山に招き、講演会を開く。「愛媛にとって不本意な歴史でも、21世紀のアジアにおける愛媛のあり方を考える上で、知らなくてはいけない事実だ」

 甲午農民戦争 1894(甲午) 年、腐敗した封建政治と外国侵略に抵抗し、朝鮮南部を中心に農民が蜂起した。鎮圧のため朝鮮が清に援軍を求めると、日本も出兵し、日清戦争が勃発(ぼっぱつ)。近代装備を整えた日本軍に農民軍は惨敗し、死者3万人が出たとされる。

 日本の支配の視点から「東学党の乱」 と呼ばれたが、民衆革命的な性格から「甲午農民戦争」「東学農民革命」 などとも呼ばれる。


考えさせられる記事でした。愛媛という県は幕末の際、農民が決起したが、それは「甲午農民戦争」で決起した朝鮮南部の農民たちと決起した思いは一緒だった。しかし、この朝鮮の農民の反乱への鎮圧への日本軍の動員で歴史の皮肉で加害者になってしまった。今から一世紀以上前の出来事だが、愛媛や北海道をはじめとする良識派の償いへの動きには賛同したい。また、皮肉なことだが、日本軍の国外初の民衆虐殺に動員されたのは四国の貧しい農民たちで、明治体制下の抑圧と貧困の中にあった被害者たちだった。この思いを同じとする決起した朝鮮半島の農民たちを虐殺したのだ。『処刑された農民戦争の首謀者の遺骨を1906年の珍島視察に際して「採集」した、とあった 』とあるように、初期の大日本帝国の日本人はすでに死者に対する尊厳など全くなく、平気で踏みにじることができたのである。このことが今後の朝鮮半島や満州、台湾の植民地支配、そしてアジア・太平洋戦争で占領した地域での日本軍占領支配でいかに発揮されたのか、もはや言うまでもないでしょう。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:52 | Comment(25) | TrackBack(8) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月19日

50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて 森武麿著にみる日帝悪 冒頭の説明とマレー半島南部編

●初めに
『50年目の証言 アジア・太平洋の傷跡を訪ねて』森武麿著 集英社というのを読みました。
この本は著者がマレー半島南部、タイ・マレー半島北部、フィリピン、韓国、中国、アメリカ(ハワイ、西海岸)を歩き回った際、聞き取りを中心に編集した、アジア・太平洋戦争の傷跡を歩く歴史紀行本のようなものです。このうち、日帝悪事実とそれと現代に通じる日本の問題の部分を抜粋していこうと思います。@マレー半島南部(華人虐殺)、Aタイ・マレー半島北部(タイへの日帝侵略の事実、泰緬鉄道、華人虐殺)、Bフィリピン(日本軍占領時親日派の問題、フィリピンにおける数々の虐殺、バターン死の行進)、C中国(主として南京大虐殺)について扱っていきます。

 マレーシアについて。1941年12月8日にアジア・太平洋戦争の開戦と同時に日本軍が最初に攻撃した地域であった。真珠湾攻撃の一時間前であり、マレー半島の東海岸でタイ国境、コタバルに上陸し、翌年1月11日にマラヤ連邦の首都クアラルンプールを占領し、以後3年半にわたる過酷な日本占領統治がはじまったのである。これは著者が高嶋伸欣氏の主宰する「東南アジアで考える会」が行った1988年3月マレー半島南部の旅に参加したときの記録の章から日帝悪情報を抜粋していくことにします。

●日本軍占領時代の軍票p11〜13 
 1988年3月28日。午前10時30分、成田を出発して、7時間後にマレーシアのクラアルンプール空港に到着した。(略)通訳兼ガイドとして中国系マレーシア人、饒金華さんが出迎えてくれた。(略)
 最初の宿泊は、クラアルンプール中心街のチャイナタウンにあるマンダリン・ホテル。夜はチャイナ・タウンの露店を歩きまわることになった。(略)。チャイナタウンからの帰りに、近くの華人経営の酒屋に寄り、地元の酒、ウーチャービー(五加皮酒)を買った。酒屋の主人は、私が日本から来たと知ると、アジア・太平洋戦争の際、マレーシアを含む南方地域で日本軍が使用した軍票をくれた。バナナの描かれた10ドルの紙幣と1セント紙幣で、バナナ紙幣といわれた。日本軍の敗走後、ただの紙きれとなった軍票の補償を、日本政府がいまだに行っていないことへの批判として彼の行為を受け止めた。軍票を見たのはこのときがはじめてであったが、その後も、旅の先々で何度か同じ体験をすることになった。このように広範にマレーシア市民にばらまかれていたことを知って驚いた。この現在無価値となった軍票が、戦時下、日本軍によるアジアの日常物資略奪の手段であった。

 常々大日本帝国という国はとんでもない国だと思います。アジア民衆の受けた被害は戦闘行為の巻き添え、虐殺、強制労働などの人的被害および物的被害に留まらず、軍票というのをばらまいて経済的にも略奪していたのです。大日本帝国後の日本政府はそれらのことに対して、何も補償をしていません。つくづく情けなく嫌な国です。

●華僑殉難記念碑p14〜16
・・・・・クアラルンプール近郊の広東義山を訪れた。広東の華人を中心とした100年の歴史をもつ墓地である。その墓地の一角に「中華民国男女僑胞受難墓」という墓碑が建っていた。また、この殉難費の近くにセランゴール華僑抗戦殉難記念碑も建てられていた。これは、クラアルンプール周辺の抗日運動で日本軍によって殺された華人の慰霊碑であった。
 ここでたまたま、墓石職人の龍金氏と出会った。52歳の彼は、5,6歳のころ日本軍の華人虐殺を見たという。彼の話では、クアラルンプールの刑務所から日本軍が夕方100人ぐらいの華人を連れてきて穴を掘らせ、銃剣で突き殺し、そのなかに埋めた。まだ、現場はそのままで、骨は掘り起こされていないという。できれば、掘り起こして墓に骨を移してほしいと希望した。さきの記念碑はこのような人たちのために建てられた。
 1941年12月8日のマレー半島への日本軍侵入から日本軍政支配のなかで、とくに中国系住民に対しては「抗日分子」「ゲリラ」として、厳しい処罰が行われた。当時は蒋介石国民党によつ重慶政府の身分証明書をもっているだけで嫌疑を受け、敵対分子として処分されることが多かった。さきの龍金証言のように、日本軍が銃剣で刺殺していたのは銃弾を節約するためであり、ゲリラと認定すると、すぐさま処刑した。このような例はマレー半島全域で見られたようだ。南京大虐殺のように、中国本土における日本軍の虐殺については知られているが、東南アジア全域で起こった中国系住民受難の歴史―華僑粛正―については、私たちは、まだその実態を知らないのではなかろうか。


●日本軍による華人大虐殺・パリティンギー村の悲劇 p19〜20
・・・・クアラルンプールからバスで1時間ほどで隣のネグリセンビラン州セレンバンに到着した。ここから日本軍の虐殺のあったクアラピラーまで30分。待っていたのは、現地の証言者と新聞社であった。彼らと一緒に村はずれの「港尾村荘蒙難華族同胞記念碑」にお参りした。その前で、戦時下日本軍の虐殺からかろうじて生き残った蕭文虎氏の証言を聞くことができた。蕭文虎氏は1942年3月16日の出来事を話してくれた。「クアラピラーからすこし山に入ったパリティンギー村に日本軍が現れました。米やその他の食べ物を配給してくれるというので、村人は全員集合したのです。私はそのとき7歳で、父に連れてこられ一緒に行きました」と彼は話しはじめた。彼の両親は教師であった。
「日本の軍人はジャングルへ全員連れていきました。そこで全員を銃剣で刺し殺したのえす。父と母、弟、妹が殺されるのを見ました。母はそのとき妊娠中で、おなかに子供がいたのです。そのおなかを銃剣が突き抜けるのを見ました。腸が飛び出し、鮮血の海のなかで、自分も銃剣の傷を負ったのです。しかし、傷が浅かったために、命に別状はありませんでした。夜になると兵士は全員死んだか確かめに来ました。自分は息をひそめて隠れ、その後、逃げました。みると村は焼き払われていました」と、ここまで蕭氏はいっきに述べて、私たちにそのときに受けた傷跡を見せてくれた。背中から横腹まで5ヶ所の銃剣の傷跡がいまも残っていた。そして、最後に彼は、「私は決して忘れない」と涙を流した。

惨たらしい話です。パリティンギー村における犠牲者は現地では1000人にも達し、女性が半分、子供が450人ほどであり、ほとんどが女子供だったということになる。食糧配給は大人から子供まで人頭割りで配られるため、村人全員が集合した結果、事件に巻き込まれたのだった。虐殺の理由は、この村が抗日分子の拠点であるらしいという不確かな情報からだった。しかし、当時この村には抗日分子は存在していなかったし、仮に存在していても多数の子供や女性を含め罪もない人たちを皆殺しにする理由はならないことは言うまでもありません。しかし、著者はもう一方の"親日派"の立場の人の話を聞いています。p21より

 この場には、もう1人の張日昇氏という証言者がいた。彼は蕭氏の証言とは異なる立場から話をしてくれた。日本軍から交付された「良民証」を持ってきており、それを私たちに見せながら、「自分は日本軍に協力した義勇隊長である」と、懐かしさといささかの誇りをもって言明した。当時の日本軍の上司とは、いまも手紙のやりとりをしているという。これも当時の日本軍政の一端であることはまちがいない。村民全員を敵にまわして植民地統治はできないので、一部住民を懐柔して軍政のエージェントに利用したのである。

この張日昇という男はどうかしてるなと思った。自分が対日協力者として同胞の虐殺に加担したというのに罪の呵責を一片も感じていないとは。
p22
 さらに、実際の虐殺の現場であった華人の村、パリティンギーに行ってみた。虐殺の結果、この村は消滅しており、現在ではマレー人の農家が住み着いていた。当時、この村にはゴム園、木材、錫工場の華人労働者、農民が集まっていたという。
 ここでは林瑞徳氏が証言してくれた。彼は当時14歳であった。
「日本軍は70〜80人が村に来ました。そのうち、台湾人の軍属が10人ほどいました。台湾兵は先に案内役として村に入り、村人に『ツァウ』(走)と声をかけました。このあたりの華人は広東系のために、この言葉を『酒』(チュウ)を求められたと思って街へ買いに行きました。ところが、この言葉は台湾語では『逃げろ』という意味でした。
 台湾兵はこれから日本軍の虐殺が行われることを知って、華人同胞が殺されないように警告したのです。しかし結局、言葉を誤解したため、酒を買って戻ってきた人々はみな殺されてしまったのです」
 この話は、日本軍、日本軍の通訳として虐殺の道案内をした台湾兵、そして広東系華人の民族的矛盾の複雑さを示している。
「大人、子供を問わず無差別な殺戮が行われ、とくに赤ん坊は上に投げて銃剣で刺し殺した」という。体が小さい赤ん坊を確実に殺す方法であった。親を殺された赤ん坊は将来ゲリラになる可能性があるからとして有無を言わず殺したのである。度重なる証言で重苦しい気持ちになりながら、一村全滅したパリティンギーをあとにした。

大日本帝国の植民地であった台湾人も徴兵されて軍属として、徴兵されていました。抑圧されていた台湾人軍属の方は弱者の痛みが分かり、台湾で日本軍がいかに酷いことをしていたかというのを知っていたので、虐殺からマレー半島の華人を守るために日本兵に分からないようにして伝えようとしました。中国語が分かるので道案内として動員されていましたが、マレー半島の華人の使う中国語と台湾人の使う中国語では言語的に大きな断絶があり、悲劇を生むことになったのです。ところで、銃剣で赤ん坊を串刺しにするという日本兵の残虐な殺し方ですが、フィリピンでもでてきます。将来ゲリラになるからと行って有無を言わさずに、残虐行為を行うことができるように、有望な日本の若者を日本軍は殺人マシーンに作り変えてしまったのです。酷い話です。
p23〜24
スンガイルイ村では1942年7月31日、368人の村民が全員虐殺された。その一ヶ月後に残った人々によって慰霊碑が建てられたが、その碑も村全滅のためにジャングルの中に埋もれてしまった。慰霊碑が掘り起こされたのは、日本の文部省検定で「侵略」が「進出」に書き換えられたことによって、アジア諸国の激しい反発をもたらした1982年の教科書問題がきっかけであった。日本軍の侵略の証拠として発掘されたのである。
 慰霊碑にお参りしたのち、現地歓迎集会があるという知知(テイテイ)へ急いだ。時刻はすでに予定を大幅に遅れ、4時半をまわっていた。知知に入ると、町の人全員がわれわれのバスを取り巻くようにして歓迎してくれた。「通報」「南洋商報」などの現地の新聞記者が待つ町の集会場に行った。(略) 知知での日本軍による虐殺はすさまじく、このあたりの死者としては最大の1474人と現地では記録されている。1942年3月18日、日本軍はこの町を襲い、農民、錫鉱夫、商人の住む平和な200戸の町を一瞬にして修羅場と変えてしまった。老若男女問わず、皆殺しにしたのである。
 集会では、はじめに現地の代表者から挨拶があった。そのなかで、タイ―ビルマを結ぶ死の鉄道といわれた泰緬鉄道の建設に、労務者として強制動員させられた6人の生き残りの人が紹介された。この町から228人の労務者が駆り出され、3年8ヶ月のあいだ給料もなくただ働きさせられたという。
 今日の旅行を主催した高嶋伸欣氏によると、2年前に来たときは、町中がしーんと静まりかええり、「日本人がなぜ来るのか」という敵意がみなぎっていたという。いまだ、死の泰緬鉄道と大虐殺の張本人、日本人への悪感情はけっして消え去っていない。今回の歓迎ぶりは、日本へこの虐殺と労務動員の事実を伝え、「補償」を考えてほしいとの要請があるからだ。
 たとえば、虐殺時のことについて証言した蕭月嬌氏は、泣きながら虐殺のむごさを訴え、「この町を何度も訪ねるだけではなく、実際に学校の寄付などの将来の子孫に残るような実のあることもしてほしい」と注文をつけた。たんなる「物見」高さでこられては困るのであり、日本人は実質的な償いを果たすべきではないかということである。その歓迎集会を終えたのはもう6時近かった。

酷い話です。どれだけ酷いことをマレーシア人(特に華人の方々)に対してやってきたか認識すべきです。1988年からもう17年ほど経つんでしょうけど、いまだに反日感情は消えたいないいのではないでしょうか?しかし、今をもっても補償も謝罪も加害事実の認定も日本政府によって行われていません。嘆かわしいことです。

p25
 朝7時30分、ホテルを出発してマラッカに向かった。(略)
 マラッカへの途中、もうひとつの虐殺の村、文丁(マンテイン)を訪れた。1942年2月6日、日本軍はここのゴム農園を襲い、200人あまりを殺したという。虐殺のきっかけは、村人の袋叩きにあった泥棒が、恨みに思って日本軍に「あの村は抗日の村である」という嘘の告げ口をしたことによる。
 そのときの生き残りの証言者、葉雲氏に連れられて、虐殺現場のゴム園跡を訪ねた。日本軍が来たとき、村の人は人口の調査に来たのだと思い、鳥料理などのご馳走を出したという。夜8時ごろに、近くの広福成園、万福利園などのゴム農園の労働者、農民を園単位に数十人ずつ集め、日本軍は殺戮を重ねていった。万福利園には1929年と刻まれた家屋の礎石が残るだけで、まったく廃墟と化していた。葉氏はここが虐殺の現場であると指さした。
「日本兵は6,7人でやってきました。銃剣で首を突き、死体は古井戸に投げ込みました。自分は恐ろしくて、うまく逃げ出しましたが、2,3日はここに戻れませんでした」
 葉氏は村に戻って遺体を片づけ、ドラム缶2本に骨を集めた。それを教科書問題が起きたあと1984年に掘り起こしたという。虐殺現場の生々しい傷跡を見ながら話を聞いていると、30度を越える熱帯であるのに、なにか背筋が寒くなるような気がした。


もちろん、逆恨みして抗日の村だと告げ口した泥棒も悪い。このケースを考えるにあたり、個人的な私怨を晴らすのに、日本軍を利用したケースも中には存在したのかもしれない。先の張日昇というように、同胞の虐殺に加担しながら罪の呵責も感じないような人物がいるように。でも一番悪いのは日本軍であり、本来なら泥棒を捕まえて処罰するのが占領軍のやる仕事だ。泥棒の言うことを真に受けて、極端な虐殺行動に走ってしまう日本軍はどうかした世界一いかれた軍隊である。まあ、日本軍の占領下の初期にあっても、物資の徴発により経済が窮乏し、生活の困窮のために泥棒に走った、結果的に日本軍占領の被害者かもしれないが。それと村人たちは日本軍を歓迎して、鳥料理などのご馳走を用意したようだが、それを見ても抗日分子であるという疑いに疑問を抱かなかったのだろうか?たった、6〜7人の兵士たちは刺し殺している際、躊躇しなかったのだろうか?何の良心の呵責も感じなかったのだろうか?これだけでも当時の日本軍というのは恐ろしいものがある。
p27
昼食後、2時40分にマラッカの慰霊碑の前に到着した。蒋介石の筆なる「忠貞足式」という碑が目に入った。そこには1983年4月の「馬六甲華人抗日義士記念碑」の説明が記されていた。建立時期からすると、これも教科書問題の影響なのであろう。行く先々で、日本の教科書問題がアジアに与えた衝撃の大きさにあらためて驚かされた。この記念碑の後ろ一帯が「中国の丘」として華人墓地になっている。丘の麓には1406年、中国の鄭和提督の来訪を記念して、チェン・フー・テン寺が建てられた。

1982年、24年ほど前にあたって、私も生まれていないころだが、反動的政策がアジアに対して与えた影響はものすごいものがあったのだろうな。

p29〜32
 4月1日。8時すぎにホテルを出発した。バスは目的地、ジョホール・バルに向かった。
(略)

 バスは昼にアエル・ヒッタムに到着した。ここはマラッカからジョホール・バスへの中継地点である。食堂とおみやげ屋が立ち並び、チャイナ・タウンのような雑踏と活気にあふれている。ここにもジョホール州の華人慰霊碑が建っている。碑には「第二次世界大戦柔佛州華僑殉難列士公墓」と記されていた。ここで地元の人々の予想もしない歓迎を受けた。20〜30人の人が私たちを待っていた。
 ここでも1人の証言者が登場する。余金鑑氏である。27歳のときにムアールのゴム園に住んでいたという。
「1941年12月の日本軍のマレー侵攻以来、私のゴム園には戦火を逃れた難民が入っていました。インド人、中国人、イギリス人など、さまざまな人がいました。1942年3月、夕方4時ごろ日本軍が20人ほどでゴム園を調べに来たのです。そのとき、ゴムの薫製室の天井裏に難民のおいていった銃を隠していたのを見つけられてしまいました。このため、抗日分子と思われ殺戮が始まったのです。最初兄が銃剣で刺し殺され、つぎにおじいさんが殺され、従兄弟も殺されました。自分は隙をついて逃げました。後から銃で撃たれましたが、かすり傷ですみました。真夜中の2時まで走りつづけて、マラッカの親戚の家まで逃げたのです。日本軍が敗北するまで3年8ヶ月隠れていました」
 余氏もまた泣きながら話した。彼は、日本のマレーシアに対する戦後補償の少なさについて不満を訴えながら、「当時は天皇の命令であった。いまの日本とは関係ないが、現在の日本人は本当の歴史を知らない。マレーシアのこの事実を日本に伝えてください」と述べた。
 また、アエル・ヒッタムでは、1942年3月17日の清明祭のとき、日本軍の支配のもとに「平和」が戻ったとして町で宴会が行われた。そこで、町の人々は「天皇万歳」を唱和させられた。宴会のあと軍は町の有力者を連れていったが、それっきり彼らが待ちに戻ることはなかった。殺されたにちがいないという。たしかに当時、日本軍支配への抵抗の核となる有力者や教師などの知識層は真っ先に粛清の対象とされた。さらに、陳観鵬氏は、数名の婦人が強姦されるところを見たと証言し、それを避けるために、当時、若い女性は男の姿をしていた、と話した。
 現在、アエル・ヒッタムでは、この記念碑を中心として戦争記念館を建てるように州当局に働きかけている。


アエル・ヒッタムという町でもおぞましい蛮行が繰り広げられていたのです。抗日分子だと決め付ければ日本軍は容赦なく虐殺するようです。それと日本軍は支配にあたり、町の有力者や知識人を粛清するという独裁・圧政政権の典型的なことをやっていたようです。それと強姦を恐れて、女性は男装をしていたという情報ですが、フィリピンでも同様なことがありました。

48...フィリピン報告1
http://www.fluidlab.naoe.t.u-tokyo.ac.jp/heritage/ykondo/daily/daily48.htmlより
「私を入れて3人のフィリピン人女性が、7人の日本兵に連れて行かれたんだよ。その3人の中で一番年上の女の人は、さらに森の中に連れ込まれてレイプされたのよ」

 通りをゆっくりと歩いていた一人の老女に、ここバタアン半島で日本軍との間に何があったのか覚えていることを話してくれないか、と頼んだところ、老女は何もためらうこともなく淡々と話しだした。

「私はそのときまだ小さかったからレイプはされなかったけれど、服を上までまくられたんだ。50歳ほどの女性がレイプされるのも私は見た。隣人だったから見えてしまったのさ」
「それは1941〜42年頃、日本兵たちがフィリピンに入ってきたばかりのころのことだったと思うよ。町にはたくさんの日本兵がいた」
(略)

 老女は自分の体験を話しつづけた。
「多くの女性がアブカイ(バタアン半島内の町)で日本兵にレイプされたりしたんだよ。だから私たちは顔に炭を塗ってあたかもマラリアであるかのように装った。日本兵に連れて行かれないためにね。
 またある時期、私は家族とともに山の中に隠れたこともあったよ。そのおかげで収容所には入らないで済んだの。でも家族で山中からアブカイの町に降りていったときに、町で父が日本兵に捕まった。それでそのまま行方不明になってしまった。その後私たちは他のフィリピン人から、父が殺されたということを聞いたの。それが私の覚えている戦争体験だよ」

フィリピンでは男装ではなく、マラリアにかかったふりをして日本兵の強姦(性暴力)の魔の手を逃れようとしたようだ。日本軍占領下の現地の女性は日本兵の性暴力の魔の手から逃れようと疾駆八苦していたようである。ただし、マレーシア・シンガポールでは日本兵による女性とのトラブルはなかった・少なかったという情報もあり、フィリピンや中国戦線のようにレイプ魔ばかりではなく部隊や地域区分、民族間(華人系とマレー系)によって差があるかもしれない。

p32〜33
 バスはジョホール・バルに午後4時40分に到着した。(略)・・・・華人慰霊碑へ参拝した。碑名は「華僑殉難諸先烈公墓」と記されていた。ここには2000人におよぶ華人の戦争犠牲者が祀られている。その碑文のなかに、「1941年12月8日以来」の「日寇南進」という言葉を見つけた。当時のマレー半島の人々にとって、「倭寇」や「元寇」を連想させる略奪的海賊、侵略者という意味の「日寇」という言葉が、日本軍の姿だったのだろうか。
 慰霊碑の黙祷が終わって、バスは市内に入り、ジョホール州庁舎の下に止まった。日本軍の銃痕が残されていた。イギリス軍と日本軍の戦闘の跡である。さらに、その近くに憲兵隊本部のあった建物が残されており、その前のサッカー場が華人虐殺の死体を埋めた場所であるという。

日本軍の存在はマレーシアを含む東南アジアの人々にとって、まさに「元寇」の姿を彷彿とさせる「日寇」だったに違いない。

p33〜35
 4月2日。朝8時すぎに、マレーシアとシンガポール間のジョホール海峡をまたぐ1038メートルの橋をバスで渡って、いよいよシンガポールへの入国である。
(略)

・・・。午後、市内中心部近くにあるセントサ島にロープウェーで渡った。ロープウェー駅の近くに戦争博物館がある。
 1942年2月15日、日本軍司令官山下奉文大将は連合軍パーシバル将軍に「YES・OR・NO」と連合軍の無条件降伏を迫った。この場面とともに、敗戦時の板垣征四郎対象が行った日本軍降伏文書の調印の様子が蝋人形で表現されている。日本軍のマレー半島、コタバル上陸から各局面ごとに映画が上映されていた。とくに、「YES・OR・NO」のシーンと原爆の投下によって日本が敗北するシーンにひきつけられた。原爆はアジアの民衆にとって、戦争を終わらせる福音であったのだろうか。

>原爆はアジアの民衆にとって、戦争を終わらせる福音であったのだろうか。
その通りとしか言いようがない。もちろん、アメリカの原爆投下を正当化するつもりはない。トルーマンによれば、アジア民衆や米兵の犠牲を少なくするという考えよりは、なんとしても原爆を投下して全世界に影響力を見せ付けて、戦後の世界秩序を米国有利に牛耳るためと、原爆を都市への投下を実行することによって各方面の影響力をみる壮大な実験目的だったからだ。しかし、日本軍占領下の当時のアジア民衆は圧制と経済苦境に苦しんでいたおり、彼らにとって原爆投下が戦争の終結を遂げる祝福されるべき福音であったことは残念ながら疑う余地はあるまい。

p35〜36
 夕食前のひと時を街の本屋さんでつぶすことにした。書店に行く途中、2階建てバスの多さに驚いた。これもイギリス統治時代の影響であろうか。書店には日本の侵略を克明に記述したシンガポールの中学校の歴史教科書『現代シンガポールの社会経済史』が並んでいた。日本に関する事項が80ページにおよび、占領期の日本軍残虐行為も詳しい。日本の中高生がほとんど知らないことである。

今から25〜6年前の教科書問題が叫ばれていたころだが、いかに反発を招いたかどうかわかる。当時としてはより日本軍の残虐行為を知っている人がたくさんいたし、それだけ反発が大きかったのだろう。

●血債の塔p36〜37
 4月3日。朝9時、シンガポールの名物であるマリーナ湾に面するマーライオン近くにある血債の塔に行った。(略)
 血債の塔とは華僑粛正事件の慰霊碑である。シンガポール占領直後の1942年2月21日から25日にかけて、日本軍はシンガポール在住の12歳から60歳の華僑を集め粛清した。華僑義勇軍、共産党員、抗日団体員、重慶政府協力者が対象である。実際の検問はかなり杜撰なものであった。こうして日本側の発表では6000人、華僑側では4万人といわれる人々が「抗日分子」として虐殺された。日本軍は、後ろ手に縛った華人を艀に乗せてセントサ島の沖まで連れていき、機銃掃射を浴びせて虐殺した。艀は遺体とともに海に沈み、傷を受けたものも手を後ろに縛られているため海面下に没したという。さらに、海岸や山間の低地に連れていかれ銃殺されたもも多かった。
 血債の塔の台座には「日本占領時期死難人民記念碑1942―1945」と記されている。その実態は、敗戦後にシンガポールでイギリスを中心とした連合国によって開かれた戦犯裁判で明らかにされた。1961年からあいつぐ遺骨の発見によって中華総商会を中心に慰霊碑建立の気運が盛りあがり、1965年のシンガポール国独立の運動と連係しながら対日賠償要求運動に発展していった。その結果、1966年日本政府も重い腰を上げ、ようやく5000万円の無償援助を支払うことになったのである。碑が建てられたのが1967年であることから、慰霊と賠償を結びつけて「血債」の塔と呼ばれている。

日本軍は酷いことを行いました。

日本がアジアにしてきたこと
http://www.nara-wu.ac.jp/fuchuko/trip/95singapore/BF_SINGA.html/BF_SINGA23.htmlより
抗日義勇軍の生き残り幹部の話
「戦争の記憶は消えない。なぜなら、山下のやったこと、虐殺を忘れるわけにはいかないからだ。市民をやったんだ。兵隊を、でないんだ。しかも中国人を、中国人だけをやったんだ。インド人やマレー人にはしなかった。中国人のなかでも、若い連中ばかりをだ。全部で5万人になるだろう。年とった世代は、このことを絶対忘れない。これを知らない若い世代が、ふえてはきたが、過去のことといってはおれない。」

(略)

「いま、日本とシンガポールの関係はいい。あの戦争はすでに歴史の出来事になった。とはいっても、虐殺を忘れるわけにはいかない、絶対に。」

華人・華僑(中国人)だけを徹底的にやったそうである。マレー半島でも華人系とその他では日本軍政の扱い方に大きな差があったそうである。その点でシンガポールやマレー半島で行われた華人・華僑大虐殺はナチス・ドイツのユダヤ人ホロコーストに類似するものだといえよう。

p38
 シンガポールの日本人墓地を訪ねると、南方軍総司令官寺内寿一元帥の墓のほか、敗戦後チャンギー刑務所で戦犯として処刑された135人の慰霊碑および戦後死亡した作業隊(*)の慰霊碑や陸海軍軍人軍属の碑がある。処刑されたなかには、日本軍人、軍属として徴兵、動員された朝鮮人、台湾人(アジア全域で49人処刑)が含まれている。
 マレー半島からシンガポール侵攻に活躍した近衛歩兵第五連隊慰霊碑の後ろに、1987年10月11日付で真新しい碑文が建てられている。かつての戦友たちによって、碑文にはつぎのように記されていた。
「大東亜戦争勃発により南部仏印タイを経て南下 山下兵団に属し銀輪部隊としてマレーシンガポール攻略戦に参加 昭和17年2月15日遂にシンガポール要塞島は陥落せり」
 戦時中の文章かとも錯覚させるようなーシア、シンガポール攻略戦賛美であるかのような碑文が、シンガポールにいま建てられていることに驚きを禁じえない。ここには侵略戦争への反省とマレー半島民衆にいかに迷惑をかけたかの反省はない。40年たっても日本人の歴史認識は変わらなかったのであろうか。

40年どころか、60年どころたっても歴史認識が変わらないどころか、今もって悪化しているという実感がある。右翼勢力の台頭がそれだ。たとえば、侵略戦争の反省やマレー半島民衆に迷惑をかけたことを省みず、歴史反動の碑を建てた元近衛歩兵第五連隊連中のような爺どもがいるから、今の絶望的な日本がある。中帰連の方々のような侵略戦争を反省し、自身がアジアの民衆に加害したことを自覚して反省するように考えることはできなかったのだろうか?非常に嘆かわしい次第だ。

(*)作業隊・・・・1945年8月の敗戦後、日本軍兵士の中には武装解除され作業隊としてマレー半島に残され強制労働を課されたものがいたらしい。現地で帰国を待つ中で、戦時下の体力消耗とその後の過労、高温多湿の環境に耐え切れず多くの人が病気で亡くなったのである。20歳代の下級兵士が多かったという。シベリア抑留の"南方版"というべきかな。もちろん、マレー半島の民衆の上に加害者として君臨して痛めつけたから、戦後逆の立場に立って重労働を課されて苦しめられて当然だとは言うつもりはない。兵士とはいえ、国家の命令で有無を言わされずに連れてこられた被害者であっただろう。しかし、先の元近衛歩兵第五連隊連中のように1987年という戦後40年たってから来て日帝を美化し、侵略戦争とマレー半島民衆への加害の反省の欠片もない碑文を建てたような爺連中は許すことはできない。彼らとてこれまでの教科書問題の流れ、シンガポールにおける血債の塔などや華人の被害者の声を見聞きすれば、仮に自分がアジア民衆を痛めつけたり殺害したりした経験(こと)がなくても、日本軍がアジア民衆を虐げていて、日本兵である自分も加害国家・軍隊の一員であったという自覚が当時なくても、否応なく分かるはずだ。

●マハティールとクアン・ユー p41〜42
 マレー半島での日本軍の残虐行為などの歴史の掘り起こしはこれ以降急速に進み、現在マレー半島では30以上の虐殺慰霊碑が建てられている。高嶋氏は1993年にはクアラルンプール近郊のスンガイルイ村で記念碑を墓園として保存整備する運動を起こしている。こららマレー半島の虐殺の責任は第五師団で、広島を中心とする部隊であった。原爆の被害者であった広島の民衆がアジアの民衆に対して加害者であったことは衝撃的である。シンガポールの戦争博物館で原爆をみずからの解放の要因であるかのようにとらえる屈折した真理が読み取れるようだ。被支配者が支配者に、被害者が加害者になることは征服戦争や民族的対立のなかではしばしば起きることであった。
 アジアでは日本の戦争責任の追及と戦後補償の要求の高まりのなかで、1991年4月海部首相はマレーシア、シンガポールなど東南アジアを歴訪し、「日本が過去において、とくにアジア地域において耐えがたい苦痛を与えたことに深い自覚と反省の念」を表明し、1994年8月には村山首相も同様の謝罪を行った。同時に、土井たか子衆議院議長は歴代首相が一度も訪れたことのない日本軍虐殺の跡、シンガポール血債の塔を訪れて反省をこめて献花した。
 マハティール首相は、村山首相との会談のなかで、「過去」を「謝りつづけるのは理解できない」として「未来志向」に切りかえることを提唱して、EUやNAFTA(北米自由貿易協定)に対抗する地域経済圏構想としてEAEC(東アジア経済会議)への日本の参加協力を要請した。・・・(略)・・・。過去の歴史より現在の経済が大切だというわけだ。
 これに対してシンガポールのリー・クアン・ユー(1990年11月に首相を辞任し上級相に就任)は、「形式的な謝罪が問題ではない。需要なのは前回の戦争に対する基本的な態度です。歴史家の発見した事実を公表することです。事実は逃げ出せません」として戦争中の日本人を「組織的な残虐性を信奉する異なる人々」と断罪した(『朝日新聞』1994年12月31日)。リー・クアン・ユーはこの違いを、当時、自分が若い中国人であり、マハティールが若いマレー人であって、戦争中の苦しみ方が違っていると指摘している。たしかに、日本軍はマレー半島で中国人とマレー人を差別して分断したのである。

>マレー半島で中国人とマレー人を差別して分断したのである
確かにその通りである。
http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/singapole01.html
日本占領時期に犠牲となった約5万人の、慰霊塔である。
この塔の存在を知る日本人は少ない。
私は世話になったタクシーの運転手に「華僑粛清」の話を切り出した。運転手は、「戦争だからしかたないよ。日本もイギリスもアメリカも同じだよ。一番ひどいのは、今のアメリカだよ。何の抵抗もしないイラクに攻め込んでね、テロが起こるのは当たり前だよ。いやいや、一番のテロリストがアメリカ自身だよね。 わたしの祖父はマレー人でね、華僑のような目には遭わなかったんだ。ただ、日本軍の空襲は受けたんだよ。
 戦争だから仕方ないけどね、日本が犯したひとつの大きな間違いは、やっぱり中国人の大量殺人だよ」

マレー人どころか、パリティンギー村の事例で紹介したように、義勇隊として日本軍に協力した挙句に何の罪の呵責を現在も感じていない洗脳親日派張日昇という男がいるように同じ華人(中国人)内でも特定の層を懐柔して利用していた事実がある。
ところで、この著者の記述に少しだけ付け足したいことがある。マハティール氏は良識派である。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper16.htmより
 ルック・イースト政策をとり日本に学ぼうといっているマレーシア のマハティ−ル首相も、教科書問題について「(日本が)多くの人を殺し、多くの残虐行為について責任があるということを、日本人は理解しなくなる」ときびしく批判しているのはそのあらわれだ(『朝 日新聞』一九八二年八月二七日)。


半月城通信No.31より
http://www.han.org/a/half-moon/hm031.html#No.229
・・・・マハティール首相が登場するので、これに関連して同首相の発言を紹介します。日本では、同首相が日本の戦争責任を免罪していると誤解している人が多いようですが、これはすこしニュアンスが違うようです。
  同首相の発言を報道記事から拾ってみます。かって、マハティール首相は村山元首相に下記のように語りました(読売新聞、95.5.9)。

 「50年前のことに(日本が)謝り続けることは理解できない。過去は教訓とすべきだが、将来に向かって歩むべきだ。50年前のことを言えば、100年前、200年前のことも問題になり、結局は植民地宗主国に対する補償問題になりかねない」(94年8月)

  このように、同首相は「過去は教訓として、将来に向かって歩むべきだ」というところに力点を置いて発言しました。ここから日本の政治家に対する注文を述べています。そのことを、河野洋平元官房長官は思いで話として次のように記しました。

 「戦争から半世紀近くたち、冷戦も終わり、日本のアジア外交はこれまで以上に重要な段階に入っていた。日本の国際的地位は非常に高くなったが、一方でドイツのシュミット前首相やマレーシアのマハティール首相からは、もっとアジアの国々から理解されるように努力すべきだとの指摘があった」(朝日新聞、97.3.31)

  マハティール首相のこうした発言をつなげると次のようになるのではないでしょうか。
「日本は過去の戦争について、単なる謝罪の繰り返しに終始せず、これを教訓にアジアの人々からもっと理解されるよう努力し、将来に向かって歩むべきである」


少し著者の記述は誤解されると思う。マハティール氏本人が日本軍から悪いことをされた経験について聞いたことはないが、日本軍がアジアに対してやった悪行を免罪しているのではない。もちろん「未来志向」を訴えたのは事実でしょうが、>村山首相との会談のなかで、「過去」を「謝りつづけるのは理解できない」 の部分は少々違うと思う。単に謝り続けるだけではなく、もっと過去を教訓としてアジアの人々に理解されるように将来へ向けて行動するようにという感じか。それでも中国や韓国、シンガポールのリー・クアン・ユー氏に比べたら、相当弱い気がする。マハティール氏は過去に人類史上例がないほど凄惨な残虐行為をマレー半島で行ったのにも関わらず、半ば過去を抜きにして日本を見習えてと『ルックス・イースト』政策を打ち出したのは私個人としては納得できないですが。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:57 | Comment(12) | TrackBack(5) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

県内大学生ら慰安所跡回る

県内大学生ら慰安所跡回る
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200603161700_07.html
 日本軍「慰安婦」問題解決を目指す平和(ぴょんふぁ)会は十五日、那覇市内の慰安所跡や慰霊碑などを回るフィールドワークを開いた。ソウルの日本大使館前で、慰安婦問題の解決と補償を日本政府に求める「水曜集会」が十五日で七百回目に当たることから、連帯企画として実施。県内の大学生と大分の平和団体など約四十五人が参加し、辻の遊郭や御嶽などの歴史を学んだ。
 参加者は、戦時中慰安所があったという泊北岸や、対馬丸の慰霊碑が立つ旭ヶ丘公園を回った。

 女性史研究家の浦崎成子さんが、政府公認の売春である「公娼制度」を説明。「中国、朝鮮の女性たちだけでなく、家計のために幼くして売られた辻のジュリたちも、戦時中、『お国のため』と日本軍の相手もさせられた。軍の命令は絶対的で、人権蹂躙だった」と話した。

 また、歴史研究家の真喜志康徳さんが、ジュリの祭、「ジュリ馬」の前にジュリたちが回ったという辻近辺の御嶽を案内した。

 フィールドワーク後、参加者は「慰安婦の強制連行の事実を認めること」や「被害女性への正式謝罪と賠償」などを求める小泉純一郎首相あての要請書を沖縄総合事務局総務部総務課職員に手渡した。

 同課は「所掌ではないが、行政サービスとして預かり、東京の陳情要請の窓口に送る」と話した。

 同日、国内外の九カ所で同様の連帯企画が開かれた。


4日前のニュースですが、良識的なものなので紹介。慰安所跡や慰霊碑を回って大学生とか若者に大日本帝国の侵略・戦争加害を実感させるという試みはすばらしいものです。全国で実施されなければなりません。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:00 | Comment(11) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

いくつかの馬鹿右翼のコメントを削除しました。

もう我慢にならないので、いくつかの馬鹿右翼のコピペ嵐を削除しました。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 18:37 | Comment(41) | TrackBack(0) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月18日

なぜ私は『日帝悪』を追及し続けるのかについて

第一に純粋に日本の未来を考えてのことである。日本が明治維新当初から、自らの生存と発展のためには隣国を犠牲にして当然と考えていたこと。武力を背景に、朝鮮、中国に理不尽な要求を突き付け、ついには植民地化、侵略を重ね、ついにはアジア・太平洋戦争で広範囲の地域を占領・侵略し、多大な被害を与えるに至った。もちろん、アジア・太平洋地域の民衆だけではなく、末期に登場する特攻隊も、人間魚雷も、前途ある若者を、貴重な国家の民を、兵器扱いするまでに狂った獣のなせる業としか言いようのない墜ちるところまで墜ちた大日本帝国の姿があった。行き当たりばったりに日中戦争、そして太平洋戦争に進み、アジア・太平洋地域に多大な犠牲を与え、国民も破滅のどん底に追い込んで国家を亡国に追いやった大日本帝国の体質が現在の日本の政官業に今も残って受け継がれています。たとえば、薬害エイズ問題があります。薬害エイズの主要な被告企業であるミドリ十字が731部隊の出身者や関係者によって創設された企業というのは有名な話です。薬害エイズのほかにも、薬害ヤコブ、サリドマイド、スモン=キノホルム、クロロキン、ソリブジン、塩酸イリノテカンなど数限りない薬害が生み出されました。政官業の癒着、天下り、問題の先送りとその秘密性、密室性、何よりも何度薬害を起こしても反省・教訓化できないという体質が日本の政官業の各界に存在します。政治家や官僚、企業は国民の生命を無視してでも、利益や官益・役得、利潤の追求を第一として、産官学の癒着の体質と構造が残されてきた。たとえば、薬害のほかにもその体質は「バブル期の土地投機」にも現れていると思います。反対意見を抹殺する「村八文」のような体質がが色濃く残り、「臭いものに蓋」が今なおまかりと通るのがこの現代の日本である。大日本帝国の誤算、失敗、誤り、加害・侵略に至った歴史を反省してこなかった。嫌なことは見たくないから、そういった過去の大日本帝国の汚点、つまり日帝悪から目を背けてきたのである。侵略戦争を行い、無数の戦争犯罪を犯し、指導層の無策、無能、無責任、先見性・見識の欠如により多くの国民を犠牲にし国家を破滅に追いやることになった大日本帝国の体質、システム、官僚組織や指導者責任を日帝悪から目を背けることで免罪してきたのである。バブル期の不良債権、教育問題、年金(少子化対策の失敗)などの数多くの失敗を現代の日本社会にもたらした。BSE問題だってそう。国民の生命や健康を無視し、政治家・官僚・企業の権益を最優先し、それに米国従属国であるが故の米国の圧力も加わって、なし崩しに米国の牛肉の輸入が決まってしまった。明治維新以来の大日本帝国体制に端を発し、現在も続くその体質と人脈を断ち切るために、日帝悪を追及し、清算しなければならないと考えるし、結果的には日本の将来の国益につながる道だと考えます。

第二に戦後のアジアでの日本企業や日本人の行動や思想のあり方をもちろん、私自身を含めて正すためです。現地民衆の生活を無視した日本企業の公害輸出・森林破壊の問題があります。タイ、フィリピンなどの発展途上地域などでの日本人による売買春、特に児童売春の問題、人身売買などの問題があります。これらの行動はアジア民衆の反発を呼び起こしました。過去に大日本帝国は自らをアジアの指導民族と位置付ける教育を国民に行いました。当時の多くの日本人は他の文化の遅れたアジア民族を指導支配する事を当然と考えるようになったのは必然的でした。現人神(あらひとがみ)の天皇が統治する大和民族は世界最優秀民族だと考えるようにもなりました。ここには明らかにアジア人への蔑視が含まれ、南京大虐殺事件をはじめとして、戦争中のアジア人に対する虐殺、日常的なビンタ、暴行、罵倒は当然の成り行きだったのです。しかし、大日本帝国のアジア民衆に対する戦争加害や侵略を国民1人1人が反省することがなかったので、戦後の目覚しい復興を遂げて、日本企業や日本人が世界に進出した際、戦時下の日本軍のイメージとも合わさって、アジア民衆は反発しましたし、経済侵略だとして大東亜共栄圏という゛悪夢"をアジアの民衆の中に呼び起こしたのです。日帝悪を1人1人が見つめ、反省し、近隣諸国の被害者や犠牲者に対して心から謝る気持ちをもつことが日本人が真の国際人になる必須条件なのだと考えます。そういう気持ちを日本国民1人1人がもつことで戦後の日本企業や日本人の外国、特にアジア・アフリカなどの発展途上地域における有り方を批判し、外国に進出した日本企業のトップや現地法人の責任者も利益・利潤を最優先するのではなく、現地の民衆や社会を考えた経営・開発・投資・事業ができるようにおのずと考えるようになるでしょう。

第三としては大日本帝国犠牲者・被害者に対する戦後世代の反省という視点からです。とても深い意味があります。二度とこのような帝国主義や戦争の悲劇を引き起こさないこと、後の世代で同じような被害者を出さないようにすることを誓い、その過ちに至った過程を反省し、また、分析することで教訓を得て未来に生かすことです。これだけではありません。靖国神社公式参拝問題や、歴史教科書問題で、中国や韓国、さらには東南アジア各国から抗議の声が来ています。内政の問題で、とやかく言われる筋合いのものではないということを右翼や保守がよく言いますが、残虐非道な日本軍の行為が過去に行われており、中国や韓国、東南アジアの民衆のやり場のない憤りが、まだ治まっていないということを真に理解していないのです。分かるようになるためには大日本帝国の戦争加害被害者と同じ立場に立たなければならない。そうすることで人間的にも人の痛みや苦しみが分かる人間になれるからだ。同じような立場に立って同じ日本人の命までを無残に弄んだ大日本帝国に対する怒りを被害者と共有することで被害者の苦しみを癒し、被害者と和解し、初めて日本人は真のアジア人になれる。アジア地域の民衆同士が融和し、未来への関係の修復、そして平和社会、真の意味でのアジア共同体も夢ではない。過去の日帝悪に対し、現代の世代が反省するということは白人がインディアンやアボリジニーに先代のしたことを詫びたとするこれも同じこと。少数民族や異人種に対して、同じような迫害を起こさない、未来に向けて共存・共栄を図ってい人間になるという信念がこめられています。大日本帝国は「遅れてきた帝国主義」国家でしたが、国際戦略面においてのごう慢さ、国際法無視、無計画さにおいては他に類を見ないほどでした。西欧列強の植民地化の問題はインカやアステカ以来300年以上の歴史をもっています。日本は半世紀あるかないかですが、しかし、特に日中戦争からアジア太平洋戦争の8年間の本格的戦争期において、中国およびアジア・太平洋地域に与えた戦争加害は古代史から平成の現代のいかなる侵略・戦争・戦火と比べてもはその残虐非道・悪辣無道ぶり、広範囲にわたる性暴力のすさまじさ、アジア・太平洋各地域の人々、とりわけ女性が受けた屈辱と苦しみにおいて、人類史上前代未聞の惨禍でありました。日本人1人1人はそのことを認識しないといけません。そういう過去をもつ日本人の道義的な使命というのは過去の加害を反省し、世界を平和に導くために、先頭に立たなければならない義務があります。そうしないと、人類史上最も残虐な日本軍によって犠牲になった厖大な人々の魂は浮かばれないでしょう。また、加害を受けた国々の人々から真の許しは得られないと思います。歴史教科書は加害事実をありのままに子供達に教え、日帝犠牲者や被害者の痛みを心より理解させ、反省を踏まえた上で、かって大日本帝国に加害を受けた中国や韓国、アジア・太平洋地域の人達と、どのように付き合っていくべきかを考えることを真に怠ってはならない。まだ反省すべき人が反省していない。謝罪しなければならない人が、心から謝っていない。これがないから、いつまでも日本は「謝罪しろ!反省しろ!」と言われ続けねばならないだろう。私はいつまでも「日帝悪」を追及し続けなければならない。右翼勢力が駆逐され、大日本帝国の侵略・戦争加害責任の清算が終わるまで私は『右翼討伐人』であり続けます。真の「過去を克服」がなされ、近い将来に良識的な日本国に生まれ変わり、このブログ『右翼討伐委員会』の使命が果たされることを願っています。
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2006年03月17日

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麻生炭鉱徴用生存者、初めて確認

麻生炭鉱徴用生存者、初めて確認 MARCH 17, 2006 03:08
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=040000&biid=2006031778378
 日本の麻生太郎外相の一族が運営していた「麻生炭鉱」に連行された強制動員被害者の中に、生存者がいることが初めて確認された。

「日本植民地支配下強制動員真相究明委員会」は16日、「強制動員被害の申請者約20万人のうち、麻生炭鉱に連行された被害者は合わせて8人」と発表し、「そのうち、姜聖香(カン・ソンヒャン、84、慶尚北道栄州市)氏が、唯一の生存者であることを確認した」ことを明らかにした。

姜氏の生存の事実が確認されたことで、韓国の市民団体が日本政府に対して起こした損害賠償訴訟が、今後活気を帯びるものとみられる。日本の裁判所は、強制動員被害者の証言を重要な証拠資料として採択している。

1926年、母親とともに大阪に移住した姜氏は、1943年3月に鉱山労働隊に動員され、5ヵ月間、福岡県の麻生鉱業株式会社の赤坂炭鉱で働いた。麻生炭鉱の7つの炭鉱は、麻生炭鉱として共通している。

姜氏は、「日本の警察の令状で召集され、どこに行くのかも分からずに連れて行かれた」と話し、「鉱山労働隊として召集された在日韓国人は5ヵ月後に炭鉱を脱したが、大多数の韓国人強制動員者は、戦争が終わるまで炭鉱から出ることができなかった」と語った。

さらに、「当時の麻生炭鉱には、韓国人強制動員者の数千人が採炭工として働き、最悪の待遇と作業環境のため、毎日死傷者が続出した」ことを証言した。

太平洋戦争犠牲者遺族会の梁順任(ヤン・スンイム)会長は、「4月に麻生炭鉱と日本政府に対し、損害賠償を請求する計画で資料を収集してきたが、姜氏の生存で大きな力を得た」と述べた。


麻生太郎の一族の過去の汚点が明らかになりました。死傷者が続出するほどの劣悪な環境だったようですね。麻生太郎は外務大臣として自分の先祖が犯した罪を悔いて、朝鮮半島の被害者や犠牲者に懺悔する心をもつべきだと思います。ではないと、首相になるどころか、人間として生きていく資格はないと私は考えます。

元オランダ兵捕虜が水巻で絵画展

元オランダ兵捕虜が水巻で絵画展 福岡・北九州 2006年03月16日
http://mytown.asahi.com/fukuoka/news.php?k_id=41000000603160004
 第2次世界大戦で旧日本軍の捕虜になり、水巻町の炭坑で強制労働に就いた元オランダ兵のヘンク・シグモンド・メリンクさん(82)=写真=の抽象画展が、水巻町古賀3丁目の町図書館で開かれている。過酷な捕虜経験から戦後も続いた苦悩を整理するため、色彩を中心に描いた23点。来日したメリンクさんは「戦争の愚かさを多くの人に伝えたい」と話している。入場無料で18日まで。

 1923年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)で生まれた。日本軍の占領とともに19歳で捕虜になり、44年に水巻町の炭鉱へ。厳しい労働と粗末な食事で、命を削る日々だった。

 日本の敗戦でオランダに帰国。技師として働いたが、捕虜時代の悪夢にうなされる夜が続いた。86年に退職し、美術学校で本格的に絵を学んだ。

 「日本のシリーズ」と題した抽象画を描き始めたのは90年代前半。93年に戦後初めて来日し、水巻町を訪問した。町には日本で死んだオランダ兵を慰霊する「十字架の塔」があり、87年から元捕虜と町民が交流を続けている。メリンクさんも文化祭に招かれるなど歓待された。

 展示作は「捕虜時代の戦争体験」「日本との和解」「現代の日本の印象」の3部構成。戦時中の不安や終戦による解放感、町民との触れ合いでわだかまりが解けていく過程を豊かな色彩で表現した。次第に色彩が明るくなり、気持ちが癒やされる様子がうかがえる。

 メリンクさんは今月14日、外務省の招待で元捕虜の仲間ら3人と来日。絵画展は水巻町での交流事業を支える市民団体「水巻町十字架の墓標・平和と文化を育む会」(黒河博会長)などの協力で実現した。
(外尾誠)

いいニュースだと思います。九州といえば炭鉱が多いですが、戦時下にあっては日本人労働力は兵隊として戦地に送られましたが、その穴埋めをする形で韓国・朝鮮や中国、そして捕虜として欧米人などが強制連行されて特に人海戦術を必要とし、過酷で死傷者が続出して大量の労働力とその補充が必要な炭鉱に強制連行され、最悪の待遇と作業環境の中で重労働を課せられて日本人以外の人々に多くの犠牲を出したという過去の事実を直視しなければなりません。1人でも戦争の愚かさを知り、平和の理念の大切さを知る人が増えればいいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:38 | Comment(139) | TrackBack(182) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

慰安婦関連のニュース

慰安婦問題で日本に謝罪要求 日本の女性団体など 2006年03月16日
http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200603160272.html
 日本7都市の女性団体が加盟する「日本軍『慰安婦』問題緊急行動ネットワーク」が15日、日本、韓国、タイ、東ティモール、ドイツ、オランダ、台湾などの女性団体から寄せられた請願書9通を日本政府に手渡した。また、日本政府に対して、慰安婦を強制連行した事実を認め、被害者に謝罪し、被害者とその家族に賠償を行うよう求めた。新華網が伝えた。

 請願書は、日本の敗戦から61年を経た今も、日本政府は現在もまだ慰安婦強制連行の事実を公式に認めず、被害者への正式な謝罪と賠償も行っていないと指摘。また、日本政府が昨年、歴史教科書の検定を通して、「慰安婦」という言葉を全教科書から削除させたことに触れ、「歴史の事実をわい曲したり、覆い隠すことは許されない。日本政府は慰安婦問題について調査を実施し、歴史の真相を明らかにし、被害者に早く謝罪し、賠償を行うべきだ」と述べている。

元慰安婦、日本大使館前の抗議集会700回 2006年03月15日21時48分
http://www.asahi.com/international/update/0315/015.html
 日本の植民地統治下で旧日本軍とともに戦地などに駆り出された元慰安婦がソウルの日本大使館前で毎週、抗議の声を上げてきた「水曜デモ(集会)」が15日、700回目を迎えた。この日は日本人やドイツ人も参加し、日本政府の公式謝罪や責任者の処罰を要求。韓国政府に対しても日本に強く解決を迫るよう求めた。

 集会は、元慰安婦が初めて日本政府を相手取って補償を求める訴訟を起こした直後の92年1月に始まった。主催の中心になっている挺身隊(ていしんたい)問題対策協議会によると、登録された元慰安婦230人のうち、この14年間で半数近い105人が死去した。

 15日も参加者からは「集会をずっと続けていこう」という声があったが、「何も進歩がないまま、当事者が死ぬのを待つのか」とのいらだちも目立った。中国に連れて行かれて終戦まで慰安所生活を強いられた黄錦周(ファン・クムジュ)さん(83)は「雨の日も雪の日も集会を続けてきたのに、この年齢になるまで何も変わらないとは、あきれて言葉もない。日本だけでなく、問題を放置してきた韓国政府も憎い」と話した。

慰安婦問題の解決立法、野党が参院に提出へ 2006年03月15日21時49分
http://www.asahi.com/politics/update/0315/013.html
 民主、共産、社民各党と無所属の参院議員は月内に、旧日本軍の元慰安婦に対する政府の謝罪と名誉回復、金銭の支給などを求める「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を参院に再提出する。過去に6回廃案となっており、7回目の提出となる。

 永田町であった集会で民主党の岡崎トミ子参院議員は「戦後61年目の今年こそ、被害者の胸に届く法案を作りたい」と訴え、共産党の吉川春子参院議員も「委員会できちんと審議していきたい」と語った。


とりあえず、慰安婦関連のニュースを。まず最初のニュースは慰安婦、厳密には従軍性奴隷の被害者を支援し、日本政府の責任を追及する動きは衰えるどころかますます広がりを見せているようです。アジア女性基金などという民間基金による社会福祉施設建設などという愚策でごまかさず、首相自身が慰安婦被害者の方々と直に会って謝罪し、国家補償に向けた約束を取り消して全世界の前に誠意を見せるべきです。2番目のニュースはドイツ人が700回目の慰安婦被害者による「水曜デモ(集会)」に参加しました。戦争責任を果たし、過去の侵略および戦争加害の歴史教育のあり方で最前線を行くドイツ人が参加したということは喜ぶべきことです。最後のニュースは野党良識派議員の動きであり、「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」を再提出すること。おそらく否決されるでしょう。それにもめげず提出し続ける彼ら良識派議員の皆様にはエールを送りたいと思います。彼らが政権を担い、彼らの思いが実現することを祈りたいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:00 | Comment(11) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月16日

徴用被害者に補償 韓国政府が支援対策方針案

徴用被害者に補償 韓国政府が支援対策方針案 2006-03-15
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=26&category=4&newsid=6468
 韓国政府は8日、日本の植民地時代に海外に強制連行された被徴用者遺族と太平洋戦争被害者への支援対策方針案を明らかにした。方針案によれば、1945年8月までに海外で死傷した軍人、軍属、労働者など被徴用者の遺族に2000万ウォン(約240万円)の「慰労金」を支給する。たとえ行方不明でも、強制動員被害真相究明委員会が「死者」と判断すれば支援対象に含める。

 負傷者のうち重傷者にも2000万ウォン、軽症者には1000万ウオンが支払われる。負傷なしに無事帰還した被害者には年50万ウォン(約6万円)を限度に医療費を支援し、帰国後に亡くなった生還者の遺族が低所得階層であれば、3年間、毎年14万ウォンずつの学費を補助する。また、被徴用者が企業から受けられなかった賃金は、供託金名簿に明記されている額面の120倍の代替金が支払われる。

■□
ボールは日本側に等閑視許されない
李鐘太民生局長談話


 韓国政府の被強制連行者支援策は高齢化した被害当事者に配慮したもので、高く評価される。

 韓国政府にはこれを機会に国民の被害の実態と痛みを日本側が理解し、きちんと受け止めるようこれまで以上の外交折衝を積み重ねていくことが期待される。なかでも日本軍「慰安婦」、サハリン残留者、被爆者、シベリア抑留者、BC級元戦犯者などはその典型といえよう。

 これらはもともと韓日請求権協議の対象外だ。これら懸案事項の解決は韓国政府と日本政府との外交折衝にゆだねられている。一方、日本政府と企業には、自ら痛みを持って支援策に取り組む事実を重く受け止めてほしい。謝罪と補償責任のボールは韓国側から日本側に投げ返されたというべきだろう。こんどは日本側が応えるべきだ。

(2006.3.15 民団新聞)

韓国政府の人道的試みは高く評価できます。日本政府が自国民の戦災被害者、中国などのアジア地域における残留孤児にさえ、補償を拒む中で、韓国政府は被害者当事者が高齢化する中で偉大な決断だといえよう。本来ならば、責任をとらせるべきはずである。自国が過去に犯した戦争の後始末さえできない日本はいつまでたっても大人になれないのであろう。日本政府、政治家の日本の戦争加害・侵略についての反省なき軽率な態度を一切法律によって厳禁にした上で、これらの韓国人犠牲者・被害当事者が受けた痛みを知り、謙虚に反省すると同時に、彼らの気持ちを真摯に理解することが求められていることに気づくものだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:49 | Comment(16) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

在日の元「慰安婦」宋神道さん 10年の闘いの足どり映画化

在日の元「慰安婦」宋神道さん 10年の闘いの足どり映画化 2006-03-15
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=40&category=3&newsid=6463
9月完成へ

 日本政府の謝罪を求めて裁判してきた在日の元「慰安婦」被害者、宋神道さんと、その支援団体である「在日の慰安婦裁判を支える会」の10年間にわたる闘いの足どりを追ったドキュメンタリー映画「オレは負けていない=ナヌン チジアナッタ」(仮題)の撮影が9月の完成に向け、急ピッチで進んでいる。

 映画はこの間、支援団体が撮り貯めしてきた映像記録をもとに韓国在住の映像ジャーナリスト、安海龍さん(アジアプレス・インターナショナルソウル事務所代表)が監督を務めている。完成後は全国各地で自主上映を予定している。

「支える会」では制作費を賄うため4月8日午後6時から、JR亀戸駅前のカメリアプラザ3階ホールで支援コンサート「マンナム(出会い)」を開催する。出演は李政美さん、ミン・ヨンチ&「SANTA散打」、韓国の国楽打楽奏者のチャン・ジェヒョ。

 前売り一般3200円、学生・60歳以上2500円(当日4000円、中学生以下無料)。チケット受付はFAX03・3785・1181。映画制作カンパは郵便振替口座00130‐0‐760722 在日の慰安婦裁判を支える会で受け付けている。

(2006.3.15 民団新聞)

良識派グループがつくる映画の紹介です。期待したいです。日本ではもちろん、特に欧米諸国でヒットし、慰安婦問題などをめぐる日本の戦争責任をめぐる包囲網を再び活性化すればいいと思います。後は他のアジア・太平洋地域の国々でもヒットさせて、慰安婦問題が日本の侵略・戦争加害に関連する諸国で盛り上がって、性奴隷被害者がさらに訴えでて、アジア民衆に対する加害責任の前に日本政府を跪かせる一歩となればいいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:40 | Comment(4) | TrackBack(0) | 大日本帝国侵略・戦争被害諸国民衆による市民連帯結成を | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<寄稿>「つくる会」分裂・解体か 俵義文

<寄稿>「つくる会」分裂・解体か 俵義文 2006-03-15
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=23&category=2&newsid=6467
<寄稿>「つくる会」分裂・解体か 俵義文(子どもと教科書全国ネット21)

 新しい歴史教科書をつくる会(「つくる会」)が内部抗争で分裂・解体の危機に陥っている。1月16日の理事会後に西尾幹二が名誉会長を辞任・退会副会長)が新会長になった。八木、藤岡は理事として留まったが、宮崎は退職した。同時に藤岡信勝を除く3名の副会長(遠藤浩一・工藤美代子・福田逸)も辞任し、理事になった。さらに、2月27日の理事会で、八木秀次会長、藤岡副会長、宮崎正治事務局長が解任され、種子島経理事(元させられ、副会長と事務局長が不在という異常事態になり、まさに、解体・分裂の「危機」である。

事務局長と副会長不在

 27日の理事会の様子は28日に「つくる会」のHPの「FAX通信第165号」に詳しくでている。また、産経新聞(3月1日)にも一部が掲載された。このFAX通信は、種子島会長が指示した文書ではないとして、1日で削除され、種子島が報道機関に送った「新しい歴史教科書をつくる会の人事についてのお知らせ」に差し替えられている。削除された「FAX通信」は解任された宮崎がゲリラ的に掲載したという内部情報がある。

 理事会では、まず、藤岡と八木が議長に立候補し、8対6で藤岡が議長になり、最初に宮崎の解任が8対6で可決、次に八木、藤岡の解任動議が出され、八木は6対5(棄権3)で、藤岡は7対4(棄権3)で解任が可決された。削除された「FAX通信」には、八木解任に賛成・反対・棄権した理事名も出ている。

 今回の内紛は、昨年の採択で10%以上は確実に取れるといっていたのに、歴史0・39%、公民0・19%と「惨敗」(八木)した責任のなすりあいが一番の原因だと思われる。「つくる会」の内部情報によれば、昨年9月に西尾・藤岡が採択の責任を宮崎に押し付けて解任しようとしたが、八木が反対し、宮崎も退任に応じなかった。そこで、今度は1月の理事会で「会に財政的損害を生じさせた」という理由で西尾・藤岡らが宮崎を解任しようとしたが八木グループが抵抗して、逆に西尾が退任することになった。

 解任理由は、宮崎が「財政的損害を生じさせた」、八木が宮崎や事務局員数名と昨年12月に理事会の了承なく中国に行って、中国の研究者と論争したこととなっている。おそらく、八木らは「つくる会」の財政を使って中国に行き、それを「損害を与えた」理由にされたのではないか。

指導権巡り権力争いか

 内紛の一番の原因は採択結果であるが、これは「つくる会」内部の指導権をめぐる権力争いでもある。「つくる会」は、98年2月に初代事務局長の草野光隆を解任(追放)し、98年7月には藤岡と濤川栄太両副会長が指導権を争って泥仕合を演じて、2人とも副会長を解任されている(濤川は理事も辞任)。次いで99年9月には2代目事務局長の大月隆寛を「思想的に会にいないほうがいい人間」(西尾)といって、「後ろからいきなり斬りつけられた」(大月)ように解任した。

 02年には、西部邁理事と小林よしのり理事待遇が西尾・藤岡・八木などと、親米か反米かで対立して、小林・西部が退会した。

教科書発行やめ撤退を

 このように「つくる会」は、たえず内部抗争をつづけてきた政治組織であり、子どもの教科書をつくるにはふさわしくない組織である。藤岡は歴史教科書の代表著者、八木は公民教科書の代表著者である。このような無責任な組織と人物がつくった教科書を採択した杉並区、大田原市、東京都、滋賀県、愛媛県の教育委員会の責任は重大であり、今からでも採択を撤回すべきである。

 種子島は「原始福音・キリストの幕屋」という国粋主義・天皇主義のカルト集団の関係者であり、「つくる会」会員の4分の1は「幕屋」のメンバー、宮崎が退職後の事務局員もほとんど「幕屋」のメンバーだという内部情報もある。産経新聞社は住田社長や渡辺教科書担当キャップが八木支持を表明したという情報もあり、産経新聞(3月1日)は、この内紛を「西尾院政」「空洞化の恐れ」などと批判的に扱っている。扶桑社は、この際に教科書発行をやめて撤退することをすすめたい。(本文中一部敬称略)

(2006.3.15 民団新聞)


とりあえず、うれしいニュースです。つくる会という右翼勢力の一端が壊滅しそうです。残念ですが、良識派などの活躍により日本の良識的世論や日帝悪を憎む声が増大した結果ではなく、右翼歴史修正主義者グループの内ゲバ争いという見方が強いです。結局ナショナリズムを煽り傲慢な連中は結局はお互い仲良くできずに分裂していくということです。なんと、宗教団体が密接に絡んできているということです。このような組織と人物がつくった教科書を採択した杉並区、大田原市、東京都、滋賀県、愛媛県の教育委員会の責任は重大であり、今からでも採択を取り消すべきでしょう。また、教育委員長、あるいは区長なり市長なり都知事、県知事の責任問題にも発展させるべきです。私としてはこの動きを見守って行きたいでs。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:31 | Comment(4) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

とりあえず 過去のニュースより 真の日本人のあるべき精神とは―老神父ソウルへ贖罪の巡礼

【日韓】老神父ソウルへ贖罪の巡礼「加害者の子孫であること 子どもたちに学んでもらいたい」〔08/12〕
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1123821308/より
この夏、老神父が子どもたちを連れ、生まれ故郷の韓国・ソウルを巡礼する。前橋カトリック教会の主任司祭・岡宏さん(73)。戦後60年を迎え、「かつて、日本が朝鮮半島を植民地化していたことを償い、和解したい」との願いからだ。一行は14日、出発する。

岡さんは1932年、日本統治下のソウルで生まれた。13歳で敗戦。裕福だった一家は全財産を没収された。船で着いた福岡県で、戦災孤児の世話を焼くフランス人神父が目に残り、神学校に進んだ。

埼玉県の所沢教会にいたとき、非行を持て余した親から2人の息子を預けられたのをきっかけに、教会内の司祭館で「つっぱり少年」たちと寝起きをともにするようになった。前橋に移った今も、事情で家に戻れないなどの12〜20歳の6人と暮らす。

戦後50年の節目以来、2度目となる巡礼には、信者数人のほか、約10人の子どもたちも連れていく。現地でハングル文字の地図を渡し、目的地を決めてバスや電車で移動してもらう。日本は朝鮮半島で、日本語や日本名を強要した。 「逆の立場に立つことで、償いの気持ちを感じてほしい」と話す。

ソウルを中心とした巡礼の旅は1週間。岡さんは「戦争の傷跡を見て、自分たちは加害者の子孫であることも、子どもたちに学んでもらいたい」と話している。

ソース:朝日新聞
http://mytown.asahi.com/gunma/news01.asp?kiji=4622

過去のニュースより探してきました。大日本帝国が侵略・加害した被害者・犠牲者に対する精神は日本人であればこうあるべきという見本だと思います。もちろん、人にもよるでしょうが、全員が贖罪の巡礼へ日本が侵略し、加害したアジア・太平洋地域にいけるものではないでしょう。しかし正当な歴史認識を学び、日本人はその老神父である岡宏さん(73)と同じ償いの精神をもつように心がけ、現代に生きる世代として被害者や犠牲者遺族に償い、犠牲となった人たちの魂の尊厳を無駄にしないためにも二度と過ちを繰り返さないという清く正しい心と思想をもつべきだと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:48 | Comment(19) | TrackBack(6) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

在日中国人が献花 幼稚園児刺殺事件

在日中国人が献花 幼稚園児刺殺事件 2006年 3月10日 (金) 17:29
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20060310/20060310a4720.html
 滋賀県長浜市の幼稚園児刺殺事件で、在日中国人らのグループが10日、園児2人の遺体が見つかった現場を訪れて花束や折り紙を手向け、2人の冥福を祈った。

参加したのは大阪市の中国人向け新聞「関西華文時報」の編集長、叢中笑さんら4人。献花の後、「われわれ在日中国人は胸のつぶれるような深い悲しみと憤りを感じている」とする手紙を長浜市教育委員会の担当者に提出、園児の遺族に渡すよう依頼した。

同紙は3月1日付の社説で、ペルー人が逮捕された広島市の小1女児殺害事件で、南米出身者が被害者や家族に哀悼の気持ちを表したことを取り上げ、「在日中国人社会でそうした動きがないのは恥ずべきことだ」と主張。読者からの賛同の声を受けて、この日の現場訪問が決まったという。


園児2人のめい福祈る
長浜 在日中国人が献花 京都新聞 2006年3月10日(金)
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20060310/20060310a4720.html
 中国語新聞「関西華文時報」(大阪市中央区)の叢中笑編集長(37)ら在日中国人4人が10日、武友若奈ちゃん(5つ)と佐野迅ちゃん(5つ)の2人が殺害されたとされる同市相撲町の農道を訪れ、2人のめい福を祈った。

 叢編集長らは農道に、子どもの天国での幸せな姿を描いた中国絵画と花束を供えた。このあと、長浜市教委を訪れ、「同胞の手により大切な命と未来が奪われたことに深い悲しみを感じている」などと記した関西華文時報名義による遺族あての手紙を、学校教育課に託した。

 叢編集長は「本国のメディアは事件の原因を『日本社会の排他性』に求めようとしているが、どのような理由があっても命を奪うことは許されない」と話した。

 関西華文時報は関西・東海地区で月2回、三万部発行。事件後の社説で「遺族に哀悼と謝罪の気持ちを伝えよう」と在日中国人に呼びかけた。


2日前のニュースですが、良識的なニュースです。悲しむべきニュースですが、ご冥福をお祈りします。糞ネット右翼どもは在日中国人らの行動を見習って、南京大虐殺で犠牲になった中国人犠牲者のために、献花して日本軍の蛮行により犠牲になった人たちのために虐殺の現場へ行って追悼の意を表すという良識的な行動がどうしてできないんだろうね。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:17 | Comment(9) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サハリン先住民遺族 補償求め首相に要望書

過去のニュースより
旧日本軍徴兵のサハリン先住民遺族 補償求め首相に要望書 北海道新聞 2005年4月29日付け(キャッシュでも確認できず)
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20050429&j=0022&k=200504297297 より
 戦時中に徴兵、徴用され、戦後は「戦犯」として旧ソ連によって強制収容所に送られたとして、ロシア・サハリン州の先住少数民族の遺族が近く、補償を求める要望書を小泉純一郎首相に郵送する。

 支援団体の「ウィルタ協会」(網走市)の田中了代表が28日、道庁で記者会見し、明らかにした。

 要望書を出すのは、同州ポロナイスク(敷香)市に住む先住少数民族ニブヒ、ウイルタ、エベンキの6人で、いずれも親や親類が旧日本軍に徴兵されたり、日本の特務機関に徴用されたりしたとされる。

 戦後は旧ソ連の軍事法廷でスパイ罪などの判決を受け、シベリアで 強制労働に従事させられ、刑期終了後は故郷に帰れず、日本に退去させられ、見舞金などの戦後補償を受けずに亡くなったという。
要望書は「ロシアと日本の両大国の矛盾が、間にはさまった罪なき先住民を犠牲にした」と訴え、戦後補償のほか、遺族らによる墓参の実現などを求めている。


【国際】旧日本軍徴兵のサハリン先住民遺族 補償求め小泉首相に要望書
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1114779967/より

D・ゲンダーヌ
http://www.m-bros.com/goji-hamada/J-html/gh-j022.htmlより
 ダーヒンニィーニェ・ゲンダーヌという名前を日本語訳すると〈北の川のほとりに住む者〉という意味である。北方少数民族の呪者の家系に生まれたゲンダーヌは父ゴルゴロがそうであったように遊牧と狩りを生命の糧とする民族の末裔である。ウィルタという名前も、トナカイを引率しトナカイの為の豊かな地を探し求めて移動する民族という意味で、呪者はいわばトナカイの道先案内人ということであろう。少数民族に限らず多くの人々がそうであったように第二次大戦がゲンダーヌを含めてダーヒンニィーニェ一族の運命を大きく変えてしまった。ウィルタ族のほとんどはその頃樺太を中心に住んでいたが一部はロシアの奥地から南は北海道まで広く移動を繰りかえしていたという。第二次大戦。そしてポツダム宣言によってロシアによる北方領土の占領が決まった時ゲンダーヌ一族は北海道にとり残されることになってしまった。彼等の故郷は樺太というよりも北方全域の国境のない国である。たまたま北海道にきていたウィルタ族を日本軍は戦争の末期になり彼等まで兵士として徴兵し聖戦の名のもとに戦場へ送りだそうとしていた。「まったく、どうかしていると思わないですか、ハマダさん。ウィルタに天皇の為とか大君に、という考えがあると思っていたのでしょうかまったく」。まるで動物でも扱うように連れてこられた彼等の何人かは死に、生き残った者は土人として登録されたまま北海道にとり残されてしまった。海峡は遠くなりかつてその海峡の氷の上を自由に渡り歩いた昔日は帰ってこない。「ここ大曲という土地はネ。昔の樺太のオタスの森によく似ているんです。川が裏にあり唐松の林があり春には苔桃の芽があちこちに出てネ。でも―似ているけどここはチチハルでもないしシベリアでもない…」。ゲンダーヌは戦後十数年してから少数民族会議に出席するようになる。アイヌの友人にすすめられたからという。〈私達は第一に日本人ではない。第二に国をもっていない。国籍をもっていない。国籍をもたないという身分を返してくれ。日本国に国籍や市民権を返上したい。ウィルタはウィルタとして認めてくれ〉煎詰めればこのような主張である。奪われた国や国籍を返してくれ人権を返してくれという主張はさまざまな戦後処理の話の中ではよくきくことがあるが、国籍を返上したいという話はこの時私にとっては初めてだった。「ウィルタの言葉には平和という言葉がないのです」「もちろんその反対語である戦争という言葉もないのですが…」。言葉なり文字に平和という言葉がない民族というのを知ったのもこれが初めてである。ちなみにウィルタというのは彼等の正式名称で別称オロチョン。アイヌ語ではオローチともいうが、ゲンダーヌによればオロチョンという名称は日本人がアイヌ人からきいた言葉の蔑称だというのである。何故蔑称なのかは今もって解らないが、その語源を辿ってゆけばウィルタとアイヌの間に過去に何があったかも推理しなければならず、多分少々やっかいなことかもしれない。あるいは日本人に対する深層的嫌悪感が単にゲンダーヌをそうした感情にかりたてているのかもしれない。ともあれそれ以後私はオロチョンという呼び名をやめてウィルタということにした。


・ウィルタ協会 http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/

http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/kyokaitowa.html
 ウィルタ協会の前身は1975年7月に結成された「オロッコの人権と文化を守る会」で、翌年12月、現在の名称「ウィルタ協会」に改称しました。

 ウィルタとは、サハリン(樺太)にくらす少数民族の名称(自称)です。古くから隣接の民族であるアイヌの人々から「オロッコ」と呼ばれていました。当初、この民族名を会の名称として使用してきたのですが、1976年から彼らの自称「ウィルタ」を会の名称にいただいています。サハリンの民族名を冠せた私たちの組織が、なぜ日本に存在しているのでしょうか。それは彼らをめぐる彼らの「歴史」と、日本との関係に由来するものです。

 戦争が激しくなってきた昭和17年8月、陸軍特務機関から「召集令状」を受けたウィルタなどの日本領樺太にくらす少数民族の若者は、国境を接するソビエトの動きをキャッチするための軍事訓練や諜報活動に従事させられました。日本の敗戦後、ソビエトはこれら若者を戦争犯罪人として、多くをシベリアの刑務所へ送りました。シベリアで亡くなる者も少なくありませんでした。刑期を終えた人の中には、故郷のサハリンにとどまることなく日本への「引き揚げ」を希望した人もいます。
 ウイルタ協会の前身「オロッコの人権と文化を守る会」は、北海道に定住したウィルタ(オロッコ)の一人であるダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏(日本名・北川源太郎)の日本政府への「告発」をきっかけに誕生しました。ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏は、さまざまな困難や差別を乗り越えながら、周囲の人々の支援を受け自分たちの置かれてきた立場を日本政府に訴えることを始めました。それは日本政府に対する戦争責任の追求でした。

 ウイルタ協会は北方少数民族戦没者への補償を日本政府に求めるとともに、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ氏の夢を実現するため、さまざまなかたちで活動を展開してきました。資料館ジャッカ・ドフニの建設、戦没者慰霊碑の建立、そしてサハリンとの交流などが、それです。

サハリンだより
http://www.d2.dion.ne.jp/~bunkt/sakhalin.html
サハリン少数民族遺族会代表 小泉総理に戦後補償等四項目を要請
(略)
【日本語訳全文】

  日本国総理大臣 小泉殿

     要請
  サハリン州ポロナイスク市(シスカ)に居住する先住民北方少数民族の親族から日本政府に送る要望

 1995年3月から10年間が過ぎました。
 政治弾圧でシベリアに連行され、8年から10年にかけて自由の剥奪をうけ、苦痛を味わい罪なくして死んだ北方少数民族ウィルタ、ニブヒ、エヴェンキの夫たち、兄姉、息子たちの代表者が日本政府に送った文章から10年の月日がすぎました。
 日本国は戦争のために、サハリンの先住民族を強制的に軍隊に動員させた責任をもっています。政治弾圧(懲罰)の犠牲者となったサハリンの先住民族は刑期を服役し終えた後にも生まれ故郷に帰ることも出来ず、日本国に退去させられ、そのため親族のきずなと家族関係が破壊されました。
1963年まではシスカ(敷香、ポロナイスク市)に住むニブヒ、ウィルタたちは無国籍である住民でした。そのため戦後に生まれた先住民族の子どもたちも苦痛を味わいました。
 だが日本国は、この残ったわれわれの問題から目をそむけました。それは国際法「人類に対する犯罪」に関わることです。二大国ロシアと日本の矛盾が、その両国の間に挟まった元からサハリンに住んでいた罪なき先住民族を犠牲にしてしまったのです。
 上記に従い--サハリン州ポロナイスク市先住少数民族ニブヒ、ウィルタ、エヴェンキは賠償を申し立てます。若し、日本政府がこの問題の解決に着手しない場合、われわれはモスクワ市の弁護士(議院)、国連その他の機関にこの文章(問題)を送ります。
 この問題がこの10年の間、検討されていなかったのは事実です。これは国際人権自由問題を蹂躙することでもあり、また1966年に成立した国際協定(公民・政治権)第14条をも守らないことです。この第14条こそ人々の人権を守り遵守されるべきことを保障しております。
 下記はサハリン州先住北方少数民族の要望文章で日本政府に提出しております。

1政治弾圧の犠牲者たちの賠償にこたえることを日本政府に要求します。
2両国に住む先住民族の親族たちがお互いに訪問できることに協力してください、1945年8月15日以前に生まれた人たち、
3両国に住む1945年8月15日以降に生まれた(2世)親族たちも訪問できることに協力して下さい(肉親の再会、墓参要請)
4両国の文化(少数民族)交流の協力を促進して下さい。


とりあえず、過去のニュースよりピックアップ。サハリンは旧日本領でしたが、ここでも先住民を徴兵し、戦争へ駆りだしていました。戦争が終わると日本人じゃないから日本政府はいまだに補償もしていません。しかし、戦中は樺太は日本の植民地でしたから、日本人としてサハリン先住民を徴兵しました。そしてソ連に捕まり、日本人と同じようにシベリアでの強制労働を課したのです。そういう事実が存在します。こういう戦後補償を一刻もはやく実現させなければなりません。これは大日本帝国の負の遺産を引き継いだ現在の日本政府の義務です。強制的に戦争のため軍隊に動員させておいて、後は知らん振りはないと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:50 | Comment(7) | TrackBack(130) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3.10東京大空襲、朝鮮人も数千名が犠牲に

【韓国】(動画)3.10東京大空襲、朝鮮人も数千名が犠牲に[3/11]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1142067257/より
(動画URL)
http://news.naver.com/vod/vod.nhn?mode=LSD&office_id=052&article_id=0000110776
[キャスター]
第二次世界大戦の終盤だった1945年の3月10日、米軍は猛烈に抵抗した日本を無力化させる為に東京大空襲を行いました。当時の東京では、我が国の同胞数千人を含む約10万人の死亡者が発生して、東京大空襲61周年を迎えて犠牲者達の魂を慰める為の追慕行事が開かれました。東京からユン・ギョンミン特派員です。

[レポート]
1945年3月10日、夜明けの東京上空に現われた344機の米軍B29爆撃機が百万発、2千トンの爆弾を投下しました。

3時間に満たない空襲で、東京一帯は火の海となり、この日一日だけで約10万名の住民が命をいました。 その61周年を迎え東京都慰霊塔では犠牲者達の魂を慰める慰霊祭が開かれました。数百人の遺族と市民が参加して花を捧げて香を立てました。 慰霊祭が行われた東京慰霊塔には 犠牲者たちの遺骨が安置されています。被害にあったのは日本人だけではありません。

[ユン・ギョンミン特派員]
この慰霊塔には当時犠牲となった我が国の同胞50数名の遺骨も一緒に安置されています。当時の東京には10万人近い同胞が住んでいた点から推して少なくとも数千人が命を失った事と推定されます。主に強制徴用で連れて来られた人々だったので、遺族は尋ねにくいと思われます。

[インタビュー:榎本東京空襲犠牲者遺族会事務局次長]
「当時は強制連行でたくさんの人達が、色んな軍事工場で逃げられないように、一角の回り川で取り囲まれた場所に住んでいました」

去年の秋、この慰霊塔に安置された遺骨名簿に、我々の同胞50数名の名簿を捜し出した朝鮮強制連行真相調査団は先立って別に追悼式を行いました。

[録音:キム・イルウ東京大空襲、朝鮮人罹災を記録する会]
「数万人の同胞が被災し、数千名の同胞が死傷(※動画では負傷と発言)した事になりますが、未だ犠牲者数はおろかその被災の実態すら明らかにされていない事が実情です」

日本人遺族達は、日本政府と東京都が正確な犠牲の規模を調査して、賠償する事を促して訴訟を準備しています。

ところが戦争を起こした日本に連れて来られて、罪も無く犠牲となった韓半島出身の犠牲者は被害規模の欠片さえも把握されていなくて、切なさを付け加えています。

以上、東京からYTNのユン・ギョンミンでした。

ソース:NAVER/YTN(韓国語)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=052&article_id=0000110776

一国も早く、東京大空襲で犠牲や被害にあわれた韓国・朝鮮の方々の調査と実態を把握しなければならない。
東京大空襲の遺族ら国を提訴 損害賠償、謝罪求め
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/14227915.htmlで東京大空襲の遺族らが、損害賠償を国に提訴したというニュースを取り上げた。日本国籍の軍人・軍属だけが恩給を受けて、国内の戦災者には何の手当てもなかった。もちろん、国を提訴した東京大空襲の遺族らには補償されなければならないが、戦災被害者には韓国や朝鮮の方もいたことを忘れてはならないのである。大日本帝国の植民地支配の結果、強制的に徴用されたりして東京にも朝鮮や韓国の方々がいて、大空襲にあって被害にあったり、犠牲になったりした。
日本人ばかりの犠牲にとらわれて、多く犠牲になったであろう韓国や朝鮮の方々に 目を背けてはいけないのは言うまでもないでしょう。

2006年03月11日

特A級戦犯のヒロヒトを裁かぬ限り、日本が何度謝罪しても一切信用できない

【日韓】「特A級戦犯のヒロヒトを裁かぬ限り、日本が何度謝罪しても一切信用できない」…OhmyNews [03/10]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1142017242/より
今年1月28日の名古屋市内での講演で、国王(いわゆる「天皇」)の靖国神社参拝を主張して国際的批判を受けた麻生太郎外相が、今度はA級戦犯の分祀を示唆する発言で再び注目を集めている。麻生外相は3月8日の日本記者クラブでの会見で、「靖国は基本的に戦死者に祭祀を執り行なう所なのに、戦死者ではない方にも祭祀を執り行なっている」として、A級戦犯分祀の必要性を示唆した。<中略>靖国神社からA級戦犯を分祀しさえすれば国王や首相の参拝は何ら問題にならないとの認識を示唆したのだ。

そもそもA級戦犯の分祀と、国王が靖国を自由に参拝ができるようになることとは、どのような関係があるのだろうか? その点を理解するためには、日本の戦争責任に関してよく見なければならない。今日、韓国・北朝鮮・中国は絶えず日本の過去について謝罪を要求している。韓国国内の一部保守勢力や日本人らは、「もう何回も謝ったのに、どうしていつまでも謝罪を要求するのか?」と癇癪まじりの反応を見せている。

しかし周辺諸国が絶えず謝罪を要求するのには正当な理由がある。それは、日本の謝罪が本気ではないという判断をしているからだ。「謝罪する人が内心で何を考えているか、どうして分かるのか?」と聞き返す人がいるかもしれないが、日本人の謝罪が偽りであることは、彼らの行動によく現われている。

その行為とは何か? それこそまさに、彼らが最終的戦争責任者であるヒロヒト前国王を裁いていないという点だ。もし心からのお詫びの心を持っていたら、彼らは過去60年の間にヒロヒト前国王を裁いて清算しようと思ったはずだ。もちろん米国がヒロヒト前国王を庇護した側面もあるとはいえ、ヒロヒトを裁かない最終的責任は日本国民にあるのだ。こうした日本の恥知らずのため、周辺諸国は絶えず日本の謝罪を要求し、靖国参拝に反対するのだ。<中略>

そして現在、靖国問題は日本の国際的歩みを塞ぐ障害物になっている。言い換えれば、靖国問題は周辺諸国が日本を牽制する「好材料」になっているのだ。しかし日本右翼は靖国参拝を諦めることができない。なぜなら、自分たちの正当性がそこにあるからだ。<中略>

そこで日本右翼は、何とか靖国参拝を貫徹すべく、中国側の攻撃に逆攻勢を加えることにした。中国側は「A級戦犯が祀られた靖国神社を日本の首相が参拝することは、被害国の国民感情を傷つける」という批判論理を展開してきた。韓国政府も基本的にこのような論理に同調している。

ところが中国側の論理を逆に見れば、A級戦犯さえ分祀すれば国王や首相が靖国を参拝しても良いという論理になる。そこで一部の日本右翼勢力は、中国側の批判論理を逆用しようとする動きを見せている。最初から靖国神社自体の問題点を浮上させなかった中国政府の論理には、こうした落とし穴があったのだ。日本の首相が靖国を参拝しようとする理由はA級戦犯のためだけではなく、そこに祀られた全ての「戦犯」のためなのに、中国政府の攻撃ポイントはA級戦犯に限られているのだ。<中略>

日本右翼勢力がA級戦犯分祀を支持するのは、<中略>次の2つの効果を期待したものだ。一つ目は、中国などがこれ以上靖国参拝を問題視できなくなるはずだという点であり、もう一つは、ヒロヒト前国王がこれを機会に戦争責任から脱することができるという点だ。彼らの主な意図は後者にあると言える。戦争当時の東條首相などに戦争責任をなすりつけることで、「日本の象徴」である当時のヒロヒト国王を「擁護」しようとするものだ。<中略>

つまり麻生外相の3月8日の発言は、単に靖国参拝の障害物を除去するためのものであるだけではなく、一歩進んでヒロヒト前国王の戦争責任をA級戦犯らになすりつけるためのものなのだ。

したがって、A級戦犯に集中された中国政府の靖国批判は、今度の機会に修正されなければならない。中国政府の論理に同調している韓国政府も同じだろう。今後は靖国神社そのものを問題視するアプローチが必要であり、ヒロヒト前国王の戦争責任を最後まで「追撃」するアプローチが必要となろう。

「特A級戦犯」であるヒロヒト前国王が清算されない限り、日本がどんなに謝罪してもそれを信じることはできない。そして、日本人たちがヒロヒト前国王を裁かぬ限り、韓国・北朝鮮・中国は日本に対する批判と牽制を緩めてはなるまい。(金ジョンソン記者)

▽ソース:オーマイニュース(韓国語)(2006-03-10 10:35)
http://www.ohmynews.com/articleview/article_view.asp?at_code=315698


正論。韓国や中国側に靖国追及を起点として、戦争責任の追及のアプローチを変更するように提案した記事である。天皇の戦争責任については議論があるところ。天皇が侵略戦争を一貫して指導し、数々の蛮行に対してどれだけ責任をもちうるかというのについては大きな議論がある。ただし、一致しているのは少なくとも大日本帝国の憲法上は最高権力者であり、日本国民をはじめとして、植民地・内地の各地に御真影を配置し、教育勅語を発布し、天皇崇拝を植えつけようとした。天皇が象徴となり、当時の日本人を国家の奴隷として、侵略戦争に動員して、アジア・太平洋地域の民衆を加害、また植民地や占領国の民衆にも天皇を崇拝を強制して、大日本帝国の奴隷として扱き使おうともした。もちろん、天皇崇拝および天皇主権体制の影・裏側には軍政官財の利権マフィアが蠢いていたのは事実である。しかし、神格化された憲法上の最高権力者として崇拝の対象となり、国民を統合する対象として帝国主義体制および一連の侵略行為に加担した責任は天皇・ヒロヒトとして免れることはできない。こういうことを真摯に認識していれば、おのずとヒロヒトに対する戦争責任追及の声もあがるはずである。ヒロヒトは故人であるが、故人でも日本国民300万人、韓国、中国を含むアジア・太平洋諸国の民衆2000万人を犠牲に至らしめた先の大戦の責任についてきちんと裁き、韓国や中国の戦争犠牲者の魂、被害者の怒り、一般市民の声に答えなければならないのはいうまでもない。

植民地時代の国外強制連行 韓国、被害者に慰労金「慰安婦」補償は日本の責任追及

植民地時代の国外強制連行韓国、被害者に慰労金「慰安婦」補償は日本の責任追及
2006年3月10日(金)「しんぶん赤旗」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-10/2006031006_01_0.html
【ソウル=面川誠】韓国政府は八日、李海瓚首相主宰の会議を開き、日本による植民地支配(一九一〇―四五年)下で国外に強制連行された被害者に対し、慰労金支払いなどの支援策を決めました。

 これは昨年、日韓国交正常化(六五年)の関連文書が公開され、そのなかで植民地支配被害の補償に関する「日韓請求権協定」の交渉で、韓国政府が強制連行被害者への支援を行うと約束していたことが明らかになったことに伴う措置です。今年中に法を整備し、実施します。

 一方で韓国政府は、請求権協定の交渉で論議されなかった日本軍「慰安婦」など「反人道的な不法行為」への補償については、日本政府の責任を引き続き追及することを確認しました。

 韓国政府は一九七五年に、死亡した被害者の遺族に三十万ウォン(現在の二百三十四万ウォン=約二十八万円に相当)を支給しました。今回の支援対象は、負傷者、行方不明者、帰国船の沈没による死者、強制連行先での未払い賃金の支払いに拡大されています。

 死亡者への遺族には二千万ウォン(約二百四十万円)を慰労金として支給。負傷者には、本人または遺族に対し、負傷の程度に応じて一千万―二千万ウォンが支払われます。無事に帰国した被害者に対しては医療、教育支援を行います。支援の額は、八八―九五年に日本政府が台湾出身被害者に支払った金額を参考にしています。

 韓国政府は、支援の根拠が「道義的責任と人道主義原則」だとしています。李首相は「遅ればせながら、植民地下で一般国民が経験した以上の特別な被害を受けた方々を慰労し、支援することは、国民を保護すべき国家の当然の責務だ」と語りました。

 未払い賃金は、当時の一円を現在の千二百円に換算して支払います。賃金の根拠となる資料を持たない被害者については、日本政府に当時の供託金名簿を引き渡すよう求めます。戦後、サハリンに取り残された韓国(朝鮮)人、韓国人被爆者の問題は、日本との協議を通じて支援範囲を拡大する計画です。


韓国政府は本当にお人よしだと思う。日本の植民地支配に伴う被害者・犠牲者の補償はほとんど韓国政府が行うことに決めたようだ。日韓国交正常化交渉での「日韓請求権協定」にて、韓国政府が強制連行被害者等へ補償することを決めたことに基づくものであるが、独裁政権下におけるものであり、そして道義的には日本がすべて補償すべき義務があるはずだ。これで喜んではならない。請求権協定の交渉で論議されなかった日本軍「慰安婦」など「反人道的な不法行為」への補償については追及を続ける構えをみせている。サハリンの残留韓国人や韓国人被爆者の問題も日本政府が関与する余地の大きい問題である。韓国政府は大きく譲歩したが、残された問題に対していかに日本政府が真剣に取り組む姿勢をみせるか、そして、歴史認識に誠意のある態度をみせて、韓国社会の市民レベルで日本の戦争責任の取り組む姿勢に理解を得られるかが鍵になってくると思う。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:57 | Comment(14) | TrackBack(0) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国家犯罪に時効認めず 独裁政権の弾圧 賠償判決確定へ 韓国

国家犯罪に時効認めず 独裁政権の弾圧 賠償判決確定へ 韓国
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-11/2006031107_02_0.html
【ソウル=面川誠】朴正熙・独裁政権下の一九七三年に韓国中央情報部(KCIA=現在の国家情報院)による拷問で死亡した崔鍾吉教授(ソウル大法学部)事件で十日、遺族に対する国家賠償を命じたソウル高裁判決が確定することになりました。

 韓国法務省が国家犯罪に時効はないとした判決を受け入れたことによるものです。

 教授は七三年十月に連行されKCIA庁舎内で死亡。KCIAは「スパイ容疑を認めた後、飛び降り自殺した」と発表しました。

 この事件について、金大中政権下で設置された「疑問死真相究明委員会」は二〇〇二年五月、拷問による殺害との調査結果を発表。遺族が損害賠償を求め提訴していました。

 二月十四日のソウル高裁判決は「国家組織が文書をねつ造して組織的に事実を隠ぺいした事件において、国家が(賠償請求の)消滅時効を主張することは『信義誠実の原則』に反する」と判断。崔教授の遺族に十八億四千八百万ウォン(約二億二千三百万円)を支払うよう政府に命じていました。

 韓国の民法は、国家機関や公務員による不法行為に対する損害賠償の時効成立について、事件発生から十年、事件による損害を知ってから三年以内としています。

 国会には昨年七月、百四十五人の議員が署名した「反人権的な国家犯罪の公訴時効特別法案」が提出されました。法案は国家犯罪の起訴について時効を認めていません。

 日本では戦前の治安維持法による国家犯罪への賠償を求め、一九六八年に治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟が結成されています。日本弁護士連合会も、政府の公式謝罪と補償を勧告していますが、日本政府は応じていません。


韓国の人権意識・モラルの向上は目覚しいものがある。韓国は少なくとも日本以上の人権先進国になったようだ。独裁政権下でなおざりにされてきた日本の植民地支配下、戦時中の人権問題を追及し、それだけではなく解放後の朝鮮戦争や独裁政権下で行われた悲惨な人権侵害についても目をつぶらずに事実を明らかにしていこうと努力している。それに対して、日本は過去のアジア・太平洋地域の侵略や韓国や中国などに対する植民地支配の問題はもちろんのこと、治安維持法に伴う戦前・戦中の人権問題や戦後の薬害エイズ、現在に至るアスベストなどの三官民が絡み合った利権による国民生活に関わる問題についてなおざりにしようとして努力している。韓国とは大きな違いだ。いい加減目を覚まして、人権後進国であることを自覚すべきである。

ソ連が満州に侵攻した夏 半藤一利著 文藝春秋

『ソ連が満州を侵攻した夏』 半藤一利著を読み終わりました。
 なかなかの大作でした。大日本帝国の侵略そのものを問題にするというよりは、関東軍に着目の悲劇を生んだ無知蒙昧、無策、優柔不断といったとてつもない欠如を取り上げた本でした。満州国という巨大な植民地をもったがゆえに、不分相応な巨大な軍隊を編制しなければならず、それが政治というものを変節させて、幾多の悲劇を生む元となったのでした。また、この本では、"満州国"という今は亡き傀儡国家を中心に、満州事変以後の日本軍部の動き、ソ連との関わり、戦争中あるいは戦争末期での降伏問題、ソ連の対日参戦をめぐっての米英ソの各連合国の複雑怪奇ともいえる国際政治の駆け引きを知る上ですばらしいテキストだと思う。大日本帝国の加害という点ではないけど、国際感覚の欠如、無責任主義そして楽観主義など、体たらくには呆れるべきでした。
 スターリンが対日参戦(満州侵攻)を急いだのは、原爆投下で日本が早めに降伏することに焦ったからだ。米ソ冷戦の取引における「満州」の重要さ。ヤルタ、ポツダムの連合国首脳会談、ソ連を仲介とする和平工作、ドイツの敗北、ソ連軍の極東への大移動…その「夏」に向かって、怒濤のように展開した一九四五年の国際情勢が活写されている。日本がソ連が参戦する前に降伏すれば、アジア戦線での分け前を失ってしまう。日本が対米戦で戦力を喪失し、抵抗不能の熟した柿のような段階になってから、参戦する。トドメを刺す名優の役割を演じ、労せず、2分なり3分なりの分け前を取ることという計画が破産になってしまうからだ。それよりも許せないのが、これらの悲劇を生む原因となった大日本帝国首脳部の無能さ、荒廃ぶりだったのである。大日本帝国なり、日本軍部、陸軍そして関東軍というものが国民を守らなかったというのはこの本を読んでさらに痛感した。
 まず、帝国日本のソ連に対する姿勢は、「信用していないけれども、信用している」
とでも形容したくなる異常なものだった。朝鮮半島、中国、アジア・太平洋地域の人々を蔑視し、上から大和民族が頂点という形で見下していた。太平洋戦争がはじまれば鬼畜米英となった。ところが、ソ連・ロシアに関しては奇妙なほど心を傾斜させ、親近感させ抱いていた。その原因にはノモンハン事件があった。当時満州では国境をへだて日ソ両軍が相対することで、国境線が不明確のため、あるいは武力偵察のために越境事件が数々おきたという。そのうち最大のものがノモンハン事件であり、日本軍はほぼ一個師団消失という手痛い打撃を受けたという。ノモンハン事件ではソ連軍の砲兵、戦車、飛行機などの兵器の近代さと優秀さ。しかもそれら火力の緊密な協同攻撃のすさまじさに日本軍は圧倒された。あらゆる点で帝政ロシア軍とは違い、近代化し強力な軍となっていた。そうしたことと日中戦争という泥沼の戦いに足をとられていた日本陸軍は恐怖を抱いた。そのような強敵であればあるほど、正面衝突は避けたいという戦略意識が働いた。陸軍のみならず海軍、政治家そして知識層にまでノモンハン事件以後、奇妙なほどソ連への心の傾斜をみせてきたことをこの本では「ノモンハン症候群」と名づけていた。日ソ中立条約は不可侵条約ではない。ただし、「両国の領土の保全および不可侵を尊重する」の条文がある。また「締結国の一方が、1また2以上の第三国より軍事行動の対象になる場合、他方の締結国はその紛争の全期間中、中立を守る」という条文もあり、これの意味するところは独ソ戦が起これば日本は中立を守り、一方日米戦開戦となってもソ連は中立を守るということを意味する。事実上、日米衝突、独ソ衝突の状況下においては不可侵条約と同義なものだと考えてもいい。日ソ中立条約を結んだ背景には、ドイツとソ連も独ソ不可侵条約を結んでおり、ドイツ・イタリアとの三国同盟を結合させることで日独伊ソの四国協商ができる。海軍は当初反対していたが、ドイツの外相が日本を訪問し、ノモンハン事件で悪化した日ソ関係を戻すためドイツが仲介すると約束した。こうして日独伊三国同盟が成立する運びとなった。米英と対決する日本の立場を飛躍的高めると考えた。また、南進論という石油確保のために東南アジアを侵略・占領して、アジアの盟主になろうという八紘一宇論的指向が強く、ソ連と提携することで米英と安心して正面衝突できると考えたのだ。しかし、ドイツはソ連に侵攻し、三国同盟締結時の目標である日独伊ソの4カ国が提携して米英にあたるという夢は果かなく消えた。ヒトラーは西部戦線への電撃作戦後のアメリカの対独政策の急激な硬化に驚き、ソ連と提携することを考え、独ソ不可侵条約を結んだが、その構想が効果をあげないのをみるとあっさりと独ソ戦への道へ戻ったのであった。ドイツがソ連に侵攻することで、約束を破ったドイツと手を切り三国同盟から脱退、中立化して世界戦争から脱出できるチャンスが日本に訪れることになる。しかし、そうは考えなかった。ドイツの勝利を信じ、その後に来る新しい世界地図を妄想したからであった。日本は帝国主義国家であり野望を捨てきれなかったのだ。中立条約を結んだ直後であることを忘れて、陸軍も外務省も対ソ戦の発動に大きく動いた。その辺の変わり身の早さには呆れるものがあった。先制攻撃を考えるなど、条約としての絶対的価値を認めていない。右翼勢力は中立条約を破って、ソ連が侵攻したと非難するが、日本だってドイツが侵攻した直後、「バスに乗り遅れるな」と言ってソ連を叩くことを考えていたのだった。人の事をいえるものではない。ただし、実現はしなかった。ノモンハン事件の記憶が残っており、ソ連に対して及び腰であった。「極東ソ連軍の戦力半減」というのが対ソ連攻撃の条件であった。もちろん、ソ連は極東方面から兵力を抽出したものの、日本側の策略を見抜きただちに新兵力でソ満国境をかためた為、対ソ攻撃の条件が実現せず、日中戦争を続けていることと、7月下旬の南仏印(ベトナム)進駐にたいするアメリカの対日石油禁輸というのが重なり陸軍は対ソ攻撃を取りやめざる負えなかった。このことをソ連のスパイのリヒアルト・ゾルゲは見抜き、スターリンに対し「どうやら日本はドイツの勝利をあてにしている。その目途がついたらソ連を攻撃するつもりらしい。しかし、他力本願ということは、本気でソ連と戦う意思のないことを告白しているにすぎぬ」という情報を送った。ただし、ソ連に対してはあれだけ及び腰だったのに対し、ほとんど躊躇することなく12月8日真珠湾を奇襲攻撃、そしてマレー半島のコタバルに上陸し、対米英戦争に踏み切ったのであった。
その後、中央が関東軍に「対ソ静謐保持を厳命した。また、対外的にはニ正面作戦をするわけにはいかないので、「対ソ戦不参加」を改めて国家方針として決定するとともに、「ソ連と米英との間にくさびを打ちこむ」ことを外交方針として決めた。もちろん、ソ連侵攻に備えて国境を防備し、場合によっては反撃とれるような体制だけは整えていくことにした。しかし、ミッドウェイ開戦を境に次第に日本軍が非勢になってくる。そして、ソロモン諸島のガダルカナル島で昭和18年(1943)2月に撤退に追い込まれる。それ以後、日本軍は敗退を続けた。戦況が悪化しはじめた際、陸軍中央は関東軍作戦課長以下の全作戦の参謀を入れ替えた。理由は、南方戦局の切迫に伴い関東軍から兵力を抽出するためだ。戦局の悪化を喰いとめるために大量の兵力の補充が必要だったが、国内にはほとんど余裕がなかった。そこでほぼ無傷で、対ソ防衛に備えて精錬された満州から兵員や物資を戦局の悪化のため、転用しようと考えたわけである。「満州国」防衛のために貼り付けられた関東軍部隊は南方の苦戦の前に、順次引き抜かれていった。12個師団(25万人)が満州からひきぬかれて、フィリピン、台湾、沖縄、中部太平洋の島々へと運ばれた。そして、引き抜かれた兵力の穴埋めのために「満州」居留民の中から、在郷軍人や徴兵適齢者は根こそぎ徴兵された。屈強の青年層はもちろん、一家の大黒柱といえる父親までが。このことがのちに満州の国境付近の開拓団や居留民に悲劇をもたらすことになる。関東軍は兵力の空洞化という厳しい状況に直面して満州国におけるあらゆる作戦計画をこういった状況の中、あらゆる計画推進を中止した。しかし、民間人(とくに開拓農民)を国境線から引き下げるように、との命令はださなかった。そればかりか、満州の居留民に知らされることなく行われた。理由は国境付近はもちろんのこと、その他の地域の居留民に知らせることで、軍隊の保護がなくなるならばと大量の日本人が後方へ動き出すことが予想され、すべての秘匿行動が水泡に帰すからだという。もちろん、分からないではないが関東軍に満腔の信頼を傾け、まだ満州は安全な楽土であると信じきっていた開拓団の人たちを含め、一般の邦人たちは哀れである。満州移民を推進したのは関東軍そのものであった。しかも治安の悪いソ満国境付近まで入り込み、満州の先住民(中国人や韓国人)が拓いた土地に入植し、現地住民を追い払ったり圧迫したりして、恨まれてまでして開拓団がどんどん入植していったのは関東軍を信頼していればこそであった。それが夢まぼろしのようにはかなくなっている現実を、かれらはついに知らされることはなかったのだ。
 19年7月中旬ころの、参謀本部作戦部長の真田穰一郎少将の日記に,「満州大部ヲ放棄シ、初動ヨリ主力ハ南満ノ要線ニ於テ防衛スルハ己ムナシ。『ソ』ノ積極的企図ヲ諜知セバ、中・北満兵力ノ主力ヲ南満ニ後退セシメ、主要軍需品ノ残部ヲ後退ス」という記述がある。参謀本部ははやばやと満州の土地の大部分を放棄していることが読みとれる。さらにいえば、兵力の転用を決めた際、陸軍中央は関東軍を見捨てたのであった。関東軍が在留邦人を見捨てて、守らなかったと非難されているが、関東軍そのものも南洋作戦と本土決戦のために陸軍中央に見捨てられた存在だったのだ。ただし、関東軍の腐敗ぶりを非難せずにはいられない。関東軍からぞくぞくと精鋭兵団が引き抜かれ、満州には、いまや広大な原野と長い国境線を守りぬけるだけの戦力がなくなっていた。にも関わらず、日ソ中立条約によりかかり、いぜんとして「王道楽土」の逸楽をむさぼっていた。中国大陸からのB29空襲が前後3回あったからと、重要機関や軍需工場をソ連に近い北方へ移そうとしていた。さらには軍の幹部や、満鉄や満州国の要人たちは、家族を絨毯爆撃の下の日本本土においておくのは危険だからと、わざわざ満州へ呼びよせたりもしていたのである。関東軍に1945年5月13日に対ソ作戦準備を命じられた。もちろん、陸軍中央は大いにソ連に対して及び腰であったが、満州防衛と居留邦人の命と安全を守るはずの関東軍は2ヶ月近くも立ってようやく関東軍は作戦計画を策定したのであった。このことは太平洋の島々、沖縄、フィリピンで玉砕戦闘が続けられているときに、満州は別天地であり、戦争とは無縁だと高を括っていたのであった。また、その作戦計画はずさんなものでソ連軍が侵攻してきたときには、満州の広大な原野を利用して、後退持久戦にもちこむ、という戦術だった。それゆえに関東軍総司令部も新京を捨てて南満の通化に移る。そして主力は戦いつつ後退し、全満の4分の3を放棄し、最後の抗戦を通化を中心とした複廓陣地で行う。そうすることで朝鮮半島を防衛し、ひいては日本本土を防衛する、というものであった。しかし、はじめから満州の土地の大部分を放棄することが前提となっており、満州各地に散在する満州開拓団の人たちのことなど視野に入っていないし、さらに最後に集結して徹底抗戦の中心となるべき陣地など、その日までまったく造くろうとなどしていなかったのである。にも関わらず、8月2日、関東軍報道部長は新京放送局のマイクを通して豪語している。「関東軍は磐石の安きにある。邦人、とくに国境開拓団の諸君は安んじて、生業に励むがよろしい・・・」 と。国境開拓団を含む邦人を騙したのである。
もちろん、関東軍だけをこのことで責めるわけにもいかず、政府はずっとソ連に対して和平を依頼し続けていた。
小磯国昭内閣のときより和平斡旋について続けられ、1945年ソ連に提供する代償を想定している。工藤美知尋著『日ソ中立条約の研究』によれば、もうすでにこのとき、「日本は・・・ソビエト連邦の仲介で全般的和平が実現するなら、ソビエト連邦の要求をすべて受け入れる」と、最高戦争指導会議がきめていたという。戦時下の日本人は政府も軍部であっても「鬼畜米英」と叫びつつ、永遠の宿敵と目していたソ連にべったりと傾斜していくのである。天皇の側近内大臣木戸幸一が知人に語った言葉があった。「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義者ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国位のものではないか」 さらに木戸は条件が不真面目なものでなければ、ソ連が共産主義者の入閣を要求してきた場合、認めるともいっていた。また、終戦の年4月に鈴木内閣が成立するが、そのとき参謀本部は「今後採ルベキ対ソ施策ニ関スル意見」を起案した。それはそれは「ソ連に対し大譲歩をして、対ソ戦を回避し、さらにソ連をわが方に誘引せんとする」目的をもつものであった。5月8日にはドイツが無条件降伏、そして、日本軍の沖縄防衛戦も敗北が決定的となった。もはや手遅れであろうと、可能性皆無であろうと、ソ連の対日参戦防止にはあらゆる方途を講ずる必要ありと、陸軍中央は躍起になる。これに海軍中央も同調したのであった。さらに海軍は独断でソ連の参戦防止ばかりか軍需物資、とくに石油を買い入れようとすら考えていた。ソ連大使館に軍務局第二課長を派遣し、残っている軍艦の全部ソ連の飛行機を、燃料つきで交換しようと申しこんでいた。しかし、ソ連大使館に何度足を運ぼうが、ウォトカを振舞われるだけであった。当時の日本の指導者たちはやけくそになっていたのだろう。その対ソ哀願的国策に対し、東郷茂徳外相は1人反対した。東郷外相はノモンハン事件当時のソ連大使であり、ソ連のことをよく知っていた。東郷外相は反対したものの、押し切られ、「連合国との一般的な講和を締結する上で、ソ連に仲介を頼む」という国策方針を決定されてしまった。ソ連への和平仲介を依頼するのにあたり、ソ連は大きい代償を要求してくるのに違いないという結論に至った。そこで、和平仲介へのソ連への代償として、。(1)南樺太の返還(2)北洋漁業権の解消(3)津軽海峡の開放(4)北満における諸鉄道の譲渡(5)内蒙におけるソ連の勢力範囲の認定(6)旅順、大連の租借を覚悟する必要あるべく、場合によっては千島北半を譲渡するのもやむを得ざるべし。また南満州は中立地帯とする・・ということが決定された。しかし、ソ連との交渉は何の進展も見せなかった。1945年7月26日のポツダム会談でポツダム宣言という日本政府に降伏を呼びかける勧告を出したが、日本政府は黙殺した。なぜなら、宣言にスターリンの名がないので、ソ連仲介による和平に最後の望みを抱いたのであった。あえてソ連が中立を守り、会談の席で署名しなかったのは子守唄であやされているからだということは知らなかった。宣言にスターリンの名がないことに注目し、ソ連仲介による和平に最後の、そのまた最後の望みを抱く。追い詰められて、国体護持の一点を守るべく交渉に夢をつなぎ、国際情勢の動きに注意を払う暇もなかったのだ。そういう努力も空しく、ソ連は8月9日午前0時に満州への侵攻を開始する。しかし、これまでの流れの中で気付くことがある。満州というのは日露戦争で「10万の戦死者、20億円の国費」をかけて、手に入れた日本帝国の植民地であった。満鉄副総裁の松岡洋右が「満蒙は日本の生命線である」といい、親米派の吉田茂までが、同じ頃『対満政策私見』にて「日露戦争において20億円の国費を費やし、10万同胞の血をもってロシアの勢力を払いのけた"満州"は、まさしく日本の生命線、これを他に譲るわけにはいかぬ」と書いた。米国は「ハル・ノート」が突きつけたのは実質的に満州を含む日本の海外植民地の放棄であった。満州などを失うこと(日露戦争以前の状態に戻る)は我慢にならないからであった。しかし、このどうしようもない窮地に及んで宿敵ソ連の対日参戦防止のために満州を含むすべてを見捨てたのであった。和平の終局の条件は国体の護持だけであった。対米英戦争前の日本の指導者が当時の日本の国力を把握し、米国の潜在的能力を知っていたら米国に戦争を挑むのがどれだけ無謀か分かるはずだった。日本帝国の指導者はとことん無能だった。ハルノートを飲んで対米英戦争を回避していれば、300万人の日本国民や2000万人といわれるアジア民衆の犠牲を避けることができただろう。幾多の悲劇を繰り返さなくてもすんだ。ソ連への和平交渉への代償で決めた条件はハル・ノートを呑んだ時以上のものを放棄している。大戦下で日本国民、満州の開拓民の悲劇はそういった日本帝国指導者の見識のなさと、アジア・太平洋地域支配願望の強欲さの上に招いた悲劇だったといえる。過ちはこれだけではなく、1944年の7月のサイパンの陥落をもって、絶対国防圏がなくなり、勝ち目がないというのは軍部も身をもって確認していた。ソ連に無意味に願望を抱かず、ソ連に和平依頼の時呑む覚悟を決めていた条件でもって条件付き降伏をはっきりと意思表明していれば、その後の本土空襲、沖縄決戦、2つの原爆投下、各地の玉砕戦、そして満州の悲劇はなくてすんだのである。また日中戦争による中国民衆の犠牲も、アジア・太平洋地域の民衆の犠牲も、日本兵・日本国民自身の犠牲もより少なくて済んだはずである。避けられるはずだった幾多の犠牲、悲劇、悲しみ、憎悪を考えると私としては怒りを感じずにはいられない。

ところで話を満州に戻したい。関東軍も満州国もソ連への和平交渉の代償のため捨てられたということをこれまでに書いた。関東軍が捨てられたというが関東軍司令部が犯した数々の罪行を糾弾しないわけにもいかないのである。関東軍が満州防衛を担い、そして、満州にいる邦人の命を預かる軍隊として、ソ連に対して中央と同様に甘い考えを抱き、ソ連は当分参戦してこないと現実逃避していており許せないと思った。もっと糾弾されてしかるべきは関東軍がソ連侵攻の直後何をしたかという点にある。それは守るべきはずの開拓民や居留民を置き去りにして逃げたということにある。その狂態の一部を本書から抜き出したい。p205〜206より

 この新京の居留民の避難輸送にかんして、消し去ることのできない歴史的汚点を残したことは知られている。その経緯をていねいに書くには厖大な紙数を要するから、要点だけにとどめるが、軍官の要人会議できめられたはじめの輸送順序は、たしかに民・官・軍の家族の順であったようである。そして第一列車はその日の午後6時出発と決められている。
 実は、そこに問題が残った。会議決定は正午少し前であり、そのことが新京にいる邦人の一軒一軒に知らされるためには多くの時間がかかる。それとこのときになっても新京を離れたがらぬ人も多かったであろうし、また避難準備が手早くゆかない人もあったであろう。そこで、軍人の家族は緊急行動になれているし、緊急集合が容易であるから、これをさきに動かして誘い水にしようとした。軍の責任者はのちになってそう弁解する。
 ところが、事実は第一列車が小雨降るなかを出発したのは遅れに遅れて11日の午後1時40分なのである。避難民集合の不手際のためではなくて、列車編制と輸送ダイヤを組むのに時間がかかったからである。目的地は平壌。となれば近道は新京から四平街―奉天―木渓湖―安東―平壌であるが、このコースは満州南部の複廓陣地築城のための軍需物資集結に使っていた。そこでやむなく新京―吉林―梅河口―通化―平壌へのコースをとることになった。ダイヤの組み直しで時間がかかったのもやむをえない。そうであるから、時間はたっぷりとあった。一般市民に決定をくまなくゆきわたらせることもできたのではないか。
 さらにいえば、軍人家族には、午後5時に忠霊塔広場に集合、の非常命令が早く伝えられている。これは当初予定の第一列車出発のわずか一時間前。輸送順序で軍人家族が最後であるというなら、動かない市民を動かすための誘い水としても、あまりにも早すぎる呼集ではあるまいか。
 そして会議できまった避難順序がいつの間にか逆になるにつれて、こんどは軍人家族の集結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立った。自分らも、と駅に集まった市民は、なぜか憲兵に追いはらわれるようになった。
 こうして11日の正午ごろまでに18列車が新京駅を離れた。避難できたものは新京在住約14万人のうちの約3万8000人。内訳は軍関係家族2万310余人、大使館など官の関係家族750人、満鉄関係家族1万6700人。ほとんどないにひとしい残余が一般市民である。
 11日も昼すぎになると、新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入りホームにあるふぇ、怒号、叫び声そして泣き声が入りまじって異様な熱気にあたり一帯が包まれた。かれらは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の優先に対する不満と怨みの声をあげたのである。
こうした軍部とその家族、満鉄社員とその家族が、特権を利し列車を私した、という非難と責任追及の声は現在でも大きく叫ばれている。たいていは少しは理のある弁解や言い訳もないではないが、およそ耳をかす人はなく、通用しないといっていい。悲劇の体験記のほとんどすべてにおいて、その事実が告発されている。「牡丹江市では、軍の家族の引揚げにしげきされて、こんどは満鉄がお手のものの列車を仕立てて家族の引揚げをはじめた」とあり、「私たちが午後4時東寧駅に着いたとき、避難列車はとっくにでてしまったと聞かされた。・・・奇妙なことに私たちが『もう列車はでない』といわれて東寧駅を離れたあと、午後7時30分、第二次の避難列車が東寧駅を出発した。これには東寧の野戦鉄道司令官をはじめ軍人とその家族など約1000名が載った。・・・・午後11時30分、さらには第三次の避難列車が発車した。この列車には東寧県庁や県職員約50人をはじめ、軍人、その家族、満鉄社員の残り全員・・・」とあるなど、列挙に遑がない。書いているとその卑劣さには反吐がでそうとなる。

もちろん、新京から避難民を逃がそうと計画されたのは、関東軍総司令部が中央の命令どおりに南部の通化に移動するためと、数日後に大空襲や新京防衛線が予想されるので、居留民婦女子を急いで避難させて、満州国皇帝と満州国政府を通化に移すためという。ようは退却行動であるが、決められたはずの退却順序が守られず、関東軍は自分たちの家族だけを特権を利用して避難させた。ものすごく卑劣な行為である。卑劣さはこれだけでは留まらなかった。p212〜213より引用
 ソ連侵攻の予期せぬ大混乱のさなか、関東軍総司令部だけではない、軍の指導者・参謀たちの情けない卑劣そのものの行動を語るエピソードがほかにもある。
 満州国中が大混乱にあったとき、「関東軍の上級将校が家庭ともども列車を仕立てて、大連へ向かうという情報を予備士官学校の候補生がんできました。軍人たる者が何事かッ、学徒出身の私どもは怒りました。守備隊の武器庫から重機関銃を持ち出しまして通過駅の大石橋のプラットフォームの両端に一基ずつ据えました。果たして情報通りでした」とは、柏原健三氏(大阪教育大学教授)の語る終戦秘話である。読売新聞大阪社会部編『戦争8』「ああシベリア」に載っている。
 結果はどうなったか。下級将校たちの厳しい検問に、列車から金ピカの参謀肩章を吊った佐官クラスの士官たちが降りてきた。「惨めな居留民や開拓民を見捨てて逃げるとは何事か」と詰め寄る学徒出身将校たちを前に、参謀たちは平然として言いはなった。
「本官らは身を賭して本土防衛の任に赴くものである。それを何だ、貴様らの行為は抗命罪だぞ」
 この一言に、残念ながら、下級将校たちの一斉射撃の決断は突如として萎えてしまったという。もちろん、本土防衛に赴くなどはペテンもいいところである。列車内には参謀たちの妻子がいた。それで決戦場への急行もないものである。しかし、まだ命令系統と階級秩序は生きている。敗軍であればあるほど、軍紀は守らなければならないのである。「それにしても、なにゆえに女子供連れでありますか」ぐらいの、皮肉の一言も浴びせることも忘れて、空しく列車の立ち去るのを見送ってしまったことに、柏原氏はいまも地団太を踏んでいるという。 
 参謀たちの正体ならびにその後は不明である。ちなみに柏原氏たちはシベリアへその後送られている。氏が帰国したのは昭和24年のことである。

人間としての最低のあるまじき行為であろうと思う。そればかりではない。100万人ともいわれる一般の在留邦人については何ら確たる避難措置をとらずに見捨てたが、関東軍傘下の作戦に関係のない部隊については8月9日のソ連侵攻の当日という早業で後方に移している。その部隊は関東軍軍楽隊、関東軍化学部、防疫給水隊、毒ガス研究部隊、軍馬防疫廠などであり、特に防疫給水隊すなわち生物兵器作戦用の731部隊にいたっては、職員の婦女子・子供などの家族に至るまで一刻も早く日本本土へ避難させる措置を取った。その中でも細菌学の学士をもったたった53名の医官たちのためだけに軍用機を用意し直路、日本へ帰還させている。ほかの職員もその家族に至るまで避難において直通特急まで手配されている。この待遇の差は何なんだと思う。ほんとにどこまでも腐った連中である。腹立たしい。いち早く満州の大部分を見捨てて後退作戦を取った関東軍は橋や道路を破壊し、後から逃げてくる老人や婦女子たちの進路と速度を妨害した。その老人や婦女子たちはソ連軍に追いつかれたり、怒りに駆られた満州の原住民たちに囲まれてどんな目にあったかは言うまでもない。ちなみに著書によれば、ドイツでの"満州"の事例も紹介されている。p214〜215より
 ヒトラー自決後、敗亡のドイツの総指揮をまかされた海軍元帥デーニッツの回想録『10年と20日間』を想起せざるをえない。すでにドイツの敗北を予見していたかれは、海軍総司令官の権限で、降伏の4ヶ月前から水上艦艇の全部を、東部ドイツからの難民や将兵を西部に移送するため投入していた。ソ連軍の蹂躙から守るためである。こうして東部から西部へ運んだドイツ人同胞は200万人を超えている。
 敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、また被占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行である。ヨーロッパの戦史をみると、いかにそのことが必至に守られていたかがわかる。日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識すら無知であった。
 だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体維持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、非難してくる非戦闘員の処置をどうするか。この切実な質問にたいし陸軍中央の参謀はいったという。
「やむをえん、轢き殺して前進せよ」
そうした帝国陸軍の本質が、満州の曠野において、生き残った引揚者に「国家も関東軍もわれわれ一般民を見棄てた。私たちは流民なのだった。棄民なのであった。ソ連軍の飽くなき掠奪と凌辱、現地民の襲来、内戦の弾下の希望亡き日々」(村岡俊子氏)とつらい叫びをあげさせるもといをつくったのである。そして、こうした国家と軍の無知蒙昧そして無策が、スターリン元帥の思う壺だったのである。

大日本帝国は国家としての最低限の義務すら果たさなかった。ドイツの場合は海軍元帥デーニッツが敗北を予想して、東方からドイツ同胞を救出しようとした。もちろん、中央に反対し、満州居留邦人の命を救おうと努力した将兵・幹部もいないわけではなかったが、全体としてこの本に登場する将兵・幹部指導者連中の身勝手さには怒り心頭です。ところで著者は大日本帝国の軍隊を国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であり、国体維持軍であると言っている。ある一面では正解だ。戦争終結までに時間がかかったのも、満州に居留する邦人をあっさりと見捨てたのも大日本帝国指導部の中には「天皇制を守る」しか頭になかった。しかし、何のためにその天皇制を守ろうとしたのか、国体護持にこだわろうとしたのか?それは軍部や政治指導者、財閥、軍需複合体などの既得権益・利権体制温存にあったのである。それは旨い汁を失いたくなかったからだ。半藤一利氏は当時の日本の軍隊を、"天皇の軍隊"と評している。しかし、もっと突き詰めていけばもはや"天皇の軍隊"ですらなく、自らの野望のために多くの国民を犠牲にし、多くの中国人・韓国人、アジア・太平洋諸国の民衆の血を啜る軍事指導者・財閥・官僚役人などの利権吸血マフィアどもの手先となる傭兵組織でしかなかったと私は思う。その人間性の欠如、脳内の荒廃ぶりは現在の日本の官僚や政治制度にも受け継がれている。私たち日本国民はいかなる政府に生命や自分たちの暮らしを預けているのか問わねばなるまい。ソ連の侵攻後5日もたった8月14日にようやくポツダム宣言を受諾を決定し、その翌日の15日昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが正式に日本国民に知らされた。しかし、8月15日で第二次世界大戦が終結したわけではなかった。大日本帝国の指導者の間抜け・無知ぶりがここでも発揮された。国際法上でいえば、連合国にとって降伏意思の表明にすぎないし、法的拘束力はなかった。国際法上の正式の「降伏」を完了させるにはすべての降伏条件をみたす降伏文書に正式に調印しなくてはならなかったのだ。そういう国際法の知識すら軍事・政治の指導者たちは知らなかったのだ。正式の降伏はミズーリでの降伏文書調印の9月2日にまで待たなければいけなかったのである。停戦しようにもできない日本軍の各部隊との衝突は続き、満州ではいたずらに死傷者が増えていった。国際法無視のほかにも問題点があり、天皇の聖断を前にしても陸海軍軍人は血気盛んであり、降伏命令を誰が書くかをめぐって争いが繰り広げられていたようである。戦争終結の「聖断」は政治上の決定であって、統帥命令ではなかった。正式の停戦命令がこない間は、和戦の選択は現地軍の権限にでてくる。大本営が陸海軍全部隊に対し停戦命令を発したのがやっと16日の午後4時になってのことだった。14日の降伏決定から2日間の空白ができて、このことが各方面の前線部隊に無駄な犠牲をさらに強いることになった。しかもその停戦命令の中には「止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ゲズ」という文言が含まれており、自衛戦闘を許すあたりにも不徹底甚だしいものがある。満州では他の地域よりもさらに停戦が遅れた。アメリカが連合国の代表であり、連合国最高司令官はマッカーサーであると信じこんでしまったのである。実はそうではなく、ソ連はそれを認めてはいなかった。それゆえに、マッカーサーに停戦の正式通告をなそうとそれに関係なく、満州ではソ連軍の進軍が続いていた。米ソは日本の無知と無力の舞台裏で、日本占領後の占領地域の区分をめぐり熾烈な冷戦を続けていた。8月14日の天皇降伏声明は、無条件降伏の一般的声明にすぎず、日本軍に対し戦闘中止命令はでておらず、まだ抵抗を続けている。戦闘行為を中止し武器を捨てることを命令し、かつこの命令が実行されたときに初めて日本軍は降伏したものと認めることができる。したがって、日本軍の実質的降伏は存在しないので、ソ連軍は進撃をやめなかった。ソ連軍はたたみかけ、既に組織の体をなしていない関東軍を粉砕した。一方開拓団にとってはまさに悲劇そのものであり、屈強の青年や一家の主である父親がいない満州に散った子供、婦女子らを対象にした絶え間のない強姦と暴行、掠奪が続いた。ソ連軍は数々の軍人・将校らを捕らえていった。ポツダム宣言受諾後の満州においても戦闘は終結せず、悲劇はミズーリでの降伏文書調印の9月2日の翌日3日まで続いたのであった。ソ連や日本の文献も検索され、精度の高い著作だと思われる。
 しかし、満州中心なのはいいが、居留邦人以外の満州にいた中国人や朝鮮人の苦痛や彼らが何を体験し、何を思ったか、その引用や文献がほとんど紹介されていないのが残念だ。ただ、満州へ日本人が移民する際、もともと住んでいた朝鮮人や中国人から土地を取り上げたということについてのみ若干書かれていた。明治末から対満移民政策がとられ、、多くの日本人が海を越えて渡満した。農家の次男、三男の土地なき農民たちから挫折した人々(失恋から左翼運動まで)がこれにつづいたこと。満州の広大な土地は地の果てまでも開拓可能の一大沃野ではなく、3分の1が森林や沼沢や山岳であった。必然的に、すでに中国人や朝鮮人たちが開拓し、住み着いていた農地を日本人が強権的に奪うことが多くなったこと。昭和11年(1936)に、広田弘毅内閣が国策として決定した20ヶ年100万戸移民計画によって、この傾向はいっそう強くなったこと。既耕地をふくむ農地の強制買収によって、次々と開拓村が新設され和20年の敗戦までの移民数は30万人を超えたが、現地の中国人そして朝鮮人に与えた苦痛はなみなみならぬものがあったこと。対ソ戦に備えて、国境地帯8000キロに関東軍の予備軍として青少年義勇軍を配備させており、終戦の年8月までにその総数が8万6500人が超え、先住民をおしのけて、大地に住みついた。そこから日本および日本人に対するどす黒い怨嗟や憎悪が生まれたということも。当然8月15日も暮れてその夜、新京では満州国禁衛隊が叛乱を起こしたこと。これをきっかけ満州国軍の脱走、叛乱がつづき、日本軍との間に交戦が早くもはじまった。さらに満人の暴動も計画されて、漢字新聞は翌日の朝刊の一面に「東洋鬼を皆殺しにしろ!」の大見出しが載ったこと。「王道楽土」も「五族協和」も、日本人中心の虚偽にみちた作文でしかなかったことが当然明らかになったと。ただし、淡々としており、それ以上には詳しく著者は書かなかったようだ。開拓団の悲劇には目を覆うものがあった。もちろん、満州にいた当時の日本人は都市部の住民はもちろん、辺境の居留民や開拓団ですら「優越民族」として君臨し、現地人の土地を奪い、圧迫し苦しめた加害者であるという一面をもっていることは認めなくてはならない。それは"泣く子も黙る"関東軍の威力を背景にしてのことであった。関東軍はしかし、ある時満州の一般邦人たちを見捨ててしまう。時に辺境の居留民や開拓団の人々は急転直下して、今日まで続く被害者として追いやられてしまったのである。そんな彼らをソ連軍が急追してくる、さらには現地人が報復の意味を含めて匪賊のごとく襲撃してくる。根こそぎ動員によって、屈強のものがいないことを知れば、親しんできた満州の友人や使用人たちも加わって暴動化して、現地人がかたまって日本人の難民たちに一度に襲いかかったのであった。子供や婦女子ばかりであった。どんな凄惨な地獄絵図が繰り広げられたのであろうか?想えば胸が痛くなるばかりである。考えてみれば、開拓民や居留民の多くも最初から被害者だったのかもしれない。「王道楽土」「五族協和」などの国策プロパガンダを信じ、豊かな楽園の生活を夢見て貧困の中骨を埋める覚悟で海を渡り、移住してきた人たちが大半であろう。多くは加害者として満州の地に君臨するために来たのではない。その証拠に私も旧満州の在留日本人が書いたいくつかの出版されている手記を手にとって読んでいたが、異民族にまじりともに汗水たらして働いたり、土地や家屋を奪われたりして苦境に喘ぐ満州の人間を使用人に雇ったり家族に迎えるなりして救った日本人も多くいたことは確かである。逆に現地の人々のすべてが敗戦時に、開拓民や居留民に敵対行動をとったわけではなく、使用人として雇われ、「主人」である日本人と最後まで運命をともにした人もいたし、危険を冒して匿ってくれたりした現地人もいた。日本人の子供を保護してわが子のように育ててくれた人もいた。こういう草の根の助け合い/友情の部分にも視点を当てることで新たな日中友好の架け橋にもなるのではないだろうか。こういう可能性も満州にはたくさん残されていると感じた。まだまだ「満州」の問題は未解決である。天皇、軍人、政治家、外交官、ジャーナリズムの戦争責任の問題はまだまだ追及していかなければならない。また、今後誰かがまた次の“ソ連が満州に侵攻した夏”を書いてくれることを期待したい。今度は居留民の悲劇を強調するのではなく、満州にいてその影で痛めつけられた中国人の視点で、日本人ではなく中国人の手で書かれることを期待したい。在中朝鮮人の視点でもいい。次なる大作がでてくることを個人的には望みたい。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:47 | Comment(4) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月10日

「ヒトラー」挙げ靖国参拝非難=公式会見で異例発言−中国外相

「ヒトラー」挙げ靖国参拝非難=公式会見で異例発言−中国外相
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060307-00000096-jij-int
【北京7日時事】中国の李肇星外相は7日、全国人民代表大会(全人代=国会に相当)が開会中の北京の人民大会堂で記者会見し、日中関係に関して小泉純一郎首相の靖国神社参拝を念頭に「中国や他国民は日本の指導者によるA級戦犯参拝を受け入れられない」と強く非難した。ヒトラーやナチスを挙げ、「ドイツの指導者は戦後、崇拝していない」とした上で「ドイツ人も、日本の指導者がばかげた不道徳な行為をなぜ行うのか理解できない」と述べ、小泉首相に反省を求めた。李外相はさらに、「米国人も1941年12月に発生した事件(真珠湾攻撃)を忘れていないし、日本侵略者はマラッカ(マレー半島)も空襲し、多くの民衆を傷つけた。このような例はとても多く、3時間かけても話し終わらない」と、日本の過去に対し強い批判を続けた。
 李外相の発言はドイツや米国の当局者らの話を引用した形になっているが、中国外相が内外記者の出席した公式記者会見でここまで対日非難を展開するのは極めて異例。こうした発言に日本国内の反中感情が高まるのは必至で、日中関係が一層悪化する恐れが強い。 
(時事通信) - 3月7日21時1分更新


中国外相の言うことは正論。世界の普遍的な常識をもつものなら、靖国参拝など受け入れられないのは当たり前だ。こんなことは言うまでもない。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:14 | Comment(13) | TrackBack(6) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

東京大空襲の遺族ら国を提訴 損害賠償、謝罪求め

東京大空襲の遺族ら国を提訴 損害賠償、謝罪求め  2006年03月04日22時55分
http://www.asahi.com/national/update/0304/TKY200603040246.html
 約10万人が一夜のうちに死亡したとされる1945年3月の東京大空襲の遺族や被災者がつくる「東京空襲犠牲者遺族会」(石鍋健会長)が今年8月にも、国を相手取って、損害賠償と公式謝罪を求めて集団訴訟を起こす。100人を超える遺族、被災者が原告団への参加を希望している。東京大空襲の戦災者らによる集団提訴は初めて。

 同会は、昨年8月から集団提訴に向けた準備を進め、同会主催の4日の集会で提訴の方針を報告した。すでに10人の弁護士が弁護団への参加を決めており、遺族・被災者計40人余が当時の被害状況などを書いた陳述書を寄せている。

 空襲の遺族・被災者ら民間戦災者は、戦傷病者戦没者遺族等援護法が適用される旧軍人・軍属やその遺族と異なって、補償が行われていない。同会は、訴訟で東京大空襲の被害を改めて明らかにしたうえで、差別的取り扱いを放置した国の立法不作為の違法性などを問う考えだ。

 空襲の被災者が国を訴えた過去の事例では、名古屋空襲の戦傷病者2人が損害賠償を求めた訴訟があるが、87年、最高裁が「戦争犠牲ないし戦争損害は国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところ」と指摘し、請求を退けている。

 同会は、この最高裁判決の「戦争受忍論」の問題点や克服の方法を検討するため、今後、弁護士や法学者とともに、戦後50年を前に相次いで提起された数々の戦争責任裁判で積み上げられた法理論や、民間人への補償を定めた諸外国の事例を研究するという。

 同会の星野ひろし事務局長は「軍と民、戦場も内地もないと教育された。集団で訴えることで、戦後も続いた空襲の遺族や被災者の苦しみとその重さを示したい」と語った。中山武敏弁護士は「87年判決以降、旧軍人・軍属への手当はさらに拡充され、民間戦災者との格差が広がっている。一方で法理論は発展し、当時とは状況が変わっている」と話した。


そりゃ当然だな。国内のの戦争犠牲、あるいは戦争災害に対する手当の問題についても、同じ日本国民の中でもこういう待遇の差がうまれる。この裁判も戦後のあらゆる戦争犠牲者・被害者に対する政策の歪みを正し、考える上できっかけになったらいいと思う。忘れてはいけないのは、日本国内だけではなく、中国の残留孤児の方々、韓国や中国、他のアジア・太平洋諸国における戦争犠牲・被害者の問題だ。大日本帝国の侵略戦争の被害者・犠牲者であることは、国籍、立場関係なく、日本兵も当時の日本市民も、戦争の犠牲になったアジア・太平洋諸国の民衆も被害者であり、加害者は一部の軍国主義者であるという認識は一致している。ただ、被害者・犠牲者の苦しみとその重さは国籍や立場は関係ないはずだし、等しく被害に対しては補償しなければならない。そういう点で意義のある判決がでてほしい。

国連人権委特別報告者 日本政府に勧告、朝鮮学校生徒への暴力、無年金、ウトロ問題なども

国連人権委特別報告者 日本政府に勧告、朝鮮学校生徒への暴力、無年金、ウトロ問題なども [朝鮮新報 2006.3.4]
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2006/05/0605j0304-00001.htm より
朝鮮学校への差別的処遇根絶を

 国連人権委員会が任命した特別報告者のドゥドゥ・ディエン氏(セネガル出身)による初の日本公式訪問についての報告書『人種主義、人種差別、外国人嫌悪、関連する不寛容の現代的諸形態に関する特別報告者ドゥドゥ・ディエンの報告書:日本への公式訪問』が国連に提出された。昨年の日本滞在期間、京都朝鮮中高級学校や京都・ウトロをはじめ各地で実地調査を行いまとめた報告書は、日本政府に対し、人種差別と外国人嫌悪が存在すること、またそれらの歴史的、文化的根本原因も正式かつ公式に認めるよう求めたうえで、朝鮮学校に対する差別の撤廃などを勧告している。

社会、歴史的文脈まで包括的に

 今回報告書を提出したディエン氏は、昨年7月3日から11日まで大阪、京都、東京、北海道、愛知を訪問した。京都では京都朝鮮中高級学校を訪問、生徒の授業や公演を参観後、保護者や学校関係者と面談し、日本政府による朝鮮学校に対する差別の実態を聞き取り調査した。
 またウトロ(京都府宇治市)地域を視察したディエン氏は、戦後何の補償も受けず劣悪な環境のなかで必死に生きてきた在日同胞の姿を目の当たりにし、「ウトロにショックを受けた」と語っている。
 ディエン氏は、日本の外務副大臣をはじめ関連省庁担当者、大阪、京都、東京、札幌の自治体関係者らと面会し、人権協会を含む多くの当事者団体との会合も開いた。
 国連人権委員会の特別報告者が日本の人権問題について報告書を作成したのは、10年前のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」による「日本軍『慰安婦』に関する報告書」(1996年)以来二度目のことだ。
 今回の報告書において特筆すべきは、「日本には人種差別と外国人嫌悪が確かに存在する」と明言したうえで、日本政府に対し、人種差別が存在することを認めるよう迫っていることだ。
 私たち在日同胞は解放直後からこれまで、日本政府による差別と排除によってその存在を否定され、周辺化され続けてきた。ゆえに国際社会において「不可視の存在」であった在日朝鮮人であるが、毎年国連欧州本部(スイス、ジュネーブ)で開かれてきた国連人権委員会や小委員会、日本政府報告書を審査した2001年3月の人種差別撤廃委員会、同年8月に南アフリカのダーバンで開かれた反人種差別世界会議といった国際会議に参加し、差別の実態を暴露しながらその是正を求める活動を展開してきた。
 このような活動によって国際社会に徐々に、かつ確実に認識されつつあった在日朝鮮人に対する日本政府の差別的処遇の実態を、法的側面にとどまらず社会的、歴史的文脈にまで踏み込んで包括的に捉えた初めての国連文書が本報告書だと言える。

報告書、活動に活かし

 報告書は、「序文」「T.一般的背景」「U.公的機関の政治的、法的戦略」「V.関係する集団による自らの状況の提示」「W.特別報告者による分析と評価」「X.勧告」から構成されている。在日同胞団体や関係者の生の声を聞き、情報提供を受けその被害の実情をまとめたV・D項第57段落においては、「朝鮮学校には日本政府からの財政的援助がないため、親たちに非常に思い負担がかかっている」「親が朝鮮学校に寄付をしても免税措置の対象とされない」と明記されている。そのうえで、報告書は日本政府に対し次のように勧告している。
 「日本政府は、朝鮮学校と他の外国人学校との間にある、人種差別とみなすことのできる処遇の違いを根絶するために必要なあらゆる手段を講じるべきである。とくに朝鮮学校は、他の外国人学校と同等に、また日本に朝鮮人が存在することの特別な歴史的状況を考慮すればなおさら、助成金その他の財政的援助を受け取れるようにされるべきであり、また朝鮮学校の卒業証明書が大学入学試験受験資格として認められるべきである」(報告書X第89段落、日本語訳=筆者)
 続いて報告書は、朝鮮学校生徒に対する差別と暴力を予防し、加害者を処罰すること、国民年金から排除されている朝鮮人高齢者を救済すること、ウトロに居住する同胞の生活と居住を保障する措置をとることを日本政府に求めている。
 「なぜ朝鮮人は日本に存在するのか」「朝鮮人はどのような思いをもって朝鮮学校を設立したのか」「ウトロ地域はどのようにして形成されたのか」といった歴史的な事情を考慮し人種差別的処遇改善のための必要なあらゆる手段を講じるよう日本政府に求めた勧告の意義は大きい。
 日本社会は今、人種差別や外国人排斥を促進し助長する政策が執られ、人種差別に基づく事件も多数発生している。私たち在日同胞を取り巻く環境も以前にも増して厳しいものとなっている。そのような動きに抗し在日同胞の既得権を守り民族教育を発展させていくうえで、ディエン報告書は有効な武器となりうるものである。報告書をしっかりと研究し、私たち自身の運動の活性化と日本社会にはびこる在日同胞に対する差別の撤廃へとつなげていきたい。(宋恵淑、在日本朝鮮人人権協会)

日本政府への勧告内容

 ・日本社会における人種差別、外国人嫌悪の存在と、その歴史的、文化的根本原因を認め、これらと闘う政治的意思を表明すべきだ。

・緊急事項として、憲法および日本が締約国となっている国際文書の規定を国内法体制内で実施するよう、人種主義、差別、外国人嫌悪を禁止する国内法の採択に取り組むべきだ。

 ・朝鮮学校と他の外国人学校との間にある処遇の違いを根絶するために必要なあらゆる手段を講じるべきだ。

 ・コリアンの子どもたちに対する人種主義的動機に基づく暴力行為をやめさせ、断固として制裁するための強力な予防措置、罰則措置をとるべきだ。

 ・国籍条項が存在したことにより年金が給付されていないコリアンに対する救済措置をとるべきだ。

 ・ウトロのコリアン住民がこの土地に住み続ける権利を認めるための適切な措置をとるべきだ。

 (報告書の「X.勧告」のなかから抜粋、日本語訳=反差別国際運動日本委員会、整理=編集局)

報告書全文は下記サイトで入手可能。

 英語原文=http://www.ohchr.org/english/bodies/chr/sessions/62/listdocs.htm(I
tem6の文書記号E/CN.4/2006/16/Add.2)

 日本語訳(反差別国際運動)=http://www.imadr.org/japan/index.html


在日朝鮮人への差別撤廃は当然のこと。先進国として情けない。日本人としてはまず、在日朝鮮人のいる歴史的背景を考えなければならない。それには大日本帝国の植民地支配と、その土地収奪、米強制供出などの過酷な政策と、それらに伴う貧困があって、朝鮮半島の農民たちは苦境に喘ぎ、自分の愛した土地や故郷を離れて仇国である日本本土へ移住しなければならなかったこと。もう一つは戦争で、大日本帝国は無謀な侵略戦争を起こしたが、日本人の若者を多く徴兵したため、その労働力不足から、強制連行を含む手段で朝鮮人たちが日本の労働現場で強制労働させられたこと。こういう背景を認識しなければならない。戦争が終わり、大日本帝国が崩壊すると、彼らは用済みとして後は知らん振り。国籍も奪い、まともな権利を与えず、差別の中、在日朝鮮人たちはいまも苦境に喘いでいるという現状がある。こんな国は先進国とはいえないし、まともな国になるためにも在日朝鮮人の差別問題に真摯に取り組むこと。これも過去の日帝悪を清算する上で重要なこと。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:53 | Comment(11) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月04日

たまには時事でも 堀江メールについて

何かに騒がしいですね。

- メール問題、焦点は永田議員懲罰に…登院停止が有力(読売新聞) (3日22時18分)
- メール対応、地方に謝罪へ=批判必至、4日に全国幹事長会議−民主(時事通信) (3日21時1分)
- 謝罪文の新聞掲載を要求=「社会的評価回復を」−武部自民党幹事長の二男(時事通信) (3日21時1分)
- 武部氏二男、民主党と永田議員に謝罪広告掲載求める(読売新聞) (3日20時47分)
- <メール問題>自民、矛収める わずか半月で両党の状況逆転(毎日新聞) (3日20時42分)
- 民主が情報料提供否定、自民・平沢議員に対抗措置検討(読売新聞) (3日20時42分)
- 民主党は逆イナバウアー 中川氏、謝罪皮肉る(共同通信) (3日20時37分)
- <メール問題>元記者への法的措置も 鳩山幹事長(毎日新聞) (3日20時16分)
- <民主党>渡部氏、前原代表「任期までは務めさせたい」(毎日新聞) (3日19時11分)
- 登院停止30日で調整 永田氏の懲罰、除名回避(共同通信) (3日18時12分)
- 情報提供者への法的措置考える 鳩山幹事長(産経新聞) (3日15時51分)
- 送金は「事実無根」 メール問題、民主再回答書(産経新聞) (3日15時51分)
- <民主党>渡部氏 前原代表は任期まで務めさせたい(毎日新聞) (3日15時4分)
- メールを持ち込んだ仲介者の名前公表を検討=民主、法的措置も(時事通信) (3日15時0分)
- <送金メール>民主党 「根拠のない偽物」と再質問状に回答(毎日新聞) (3日14時49分)

堀江メールで騒いでいるけどなんか本質が違うような気がするけど。前原代表は相変わらず軽率だけど。
耐震偽装問題、BSE問題、防衛施設庁談合事件、ライブドア事件の4点セットで与党側が不利に立たされていた最中に起きた事件だった。自民党がおそらく仕掛けたのだろうけど、そのような自民党の謀略にあっさり乗せられてしまうメディア・報道も恐い。この国はまた、国民不在で、そのような政権の策略に踊らされる。ほんとどうしようもないね。

2006年03月03日

タイ・比・インドネシア 虐殺・略奪の過去超えて―朝日新聞、関西、語り継ぐ戦争

タイ・比・インドネシア 虐殺・略奪の過去超えて 2006年03月02日
http://www.asahi.com/kansai/kataritsugu/OSK200603020050.html
「ここでみんな死んだんだ。マレーシア人も白人も、日本人も」
旧日本軍が連合国軍捕虜やアジアの労働者に造らせ、「死の鉄道」と呼ばれるタイ・ミャンマー(ビルマ)間の旧泰緬(たいめん)鉄道。現在の終点のタイ・ナムトク駅近くでトムユー・サラワンクンピーさん(78)は言った。

 日本軍がマレー半島を占領した42年。生まれ育ったマレーシア北部の町コタバルの家を日本兵4人が銃を手に訪ねてきた。「タイで鉄道建設をしないか」。家1戸に1人の男性を出すよう強制され、拒めなかった。

 ショベルやツルハシで密林や岩山に道を開き、木を切り、枕木を敷く。

 無断で用を足しにいくと後ろ手に縛られ、体にはわされたアリに所かまわずかまれた。

 食事が貧しく、仲間が次々とマラリアやコレラで死んでいくのを見て、仲間約50人と脱走した。

 川に飛び込むと銃声が追ってきた。下流の村に隠れ、終戦を迎えた。

 いまも電話も通じない集落に住むトムユーさんは約5年前、貧しくて実現できなかった里帰りを日本人の援助で約60年ぶりに果たした。残っていたのは姉1人だけ。両親は亡くなっていた。

 「さびしくて、悲しくて……」。間をおき、「でも、もう日本を恨んではいない」と言って、家族と自分を引き離したレールに目を落とした。

 旧泰緬(たいめん)鉄道の建設に従事したトムユー・サラワンクンピーさんと別れて、現在はタイ国鉄が一部を運営するこの鉄道に乗った。

 クワイ川に沿う険しい地形を走る。片側に絶壁を見上げ、もう一方は川を見下ろす。難工事がしのばれた。

 2時間ほどで鉄橋にさしかかった。日本軍が連合国軍捕虜らに造らせ、映画「戦場にかける橋」で有名になったクワイ川鉄橋だ。橋のたもとで列車を降りると、世界各国から集まる観光客の話し声や、土産物店からの音楽に包まれた。

     ◇

 戦争の記憶はしだいに薄れる。一人でも多くの人に話を聞きたい。そんな思いに引っ張られて旅を続けた。

 日本人がほとんど知らない「事件」の現場がある――。そう聞いてフィリピン・ルソン島を訪れた。

 マニラから南へ車で約3時間、港町バウアンに着いた。町出身の男性が墓地に案内してくれた。立派な墓石の間に、小さな石が畳一畳分の地面にいくつもはめ込まれた墓所があった。

 「あの事件の後、身元不明の犠牲者が何十人も葬られたんです」

 男性が教えてくれた。何が起こったのかが知りたくて、丸一日たずね歩いた。町の中心近くに住むコルネリオ・アブラハンさん(85)にたどり着いた時は、夜になっていた。

 「家族以外に話すのは初めてだよ」と言いながら、コルネリオさんは自宅で61年前の2月28日の体験を話してくれた。

 「教会で集会がある。大人の男は来るように」。午前9時ごろ、そんな声が家の外から聞こえた。行ってみると、男たちが何百人もいた。

 礼拝堂に入った後、異様さに気づいた。銃剣付きの小銃を構えた100人くらいの日本兵が教会を取り囲んでいた。4時間ほど待たされた後、隣の住宅の半地下の部屋に押し込められた。突然爆発音がしてコンクリートの破片が落ちてきた。

 壊れた壁から外へ飛び出し、走った。後ろで銃声が響いた。数百メートル先の海岸で我にかえると、あちこちから血が出て左耳が聞こえなかった。

 「今も理解できないよ。私は貧しいキャッサバ(イモの一種)売りだった。武器を持ったことも日本軍に反抗したこともない」。左耳はいまも聞こえない。

     ◇

 豊富な資源を求め、日本軍は42年3月、フィリピンに続き蘭(らん)領東インド(現インドネシア)を占領した。当初、植民地として支配してきたオランダ軍を打ち破った日本軍に期待し、協力した人もいた。

 首都ジャカルタ近郊のデポで、日本語を話す人に会った。マリオノ・メルトデハルジョさん(85)。戦前から日本に留学していたという。

 開戦後に軍属として協力を求められ、42年には故郷のジャワ島に派遣された。通訳や日本式農業の指導官として日本の軍政に協力した。だが、実家や父の作った学校までが、日本軍憲兵の略奪にあった。

 「なんのために留学したのか、家族にまったく申し訳なかった」

 終戦直後、東京に戻ったマリオノさんに、ある日本の政治家が、紅白の横じまのインドネシア独立旗、いまの国旗を渡しながら聞いた。

 「日本は負けた。これからどうする」。マリオノさんは旗を握りしめ、直立不動で答えた。

 「友情があるのでありますっ!」

 そう言いながら、涙があふれてきたという。

 「その時の私の気持ちが分かってもらえるでしょうか」。マリオノさんは実際に直立不動になって話し、涙ぐんだ。私も目頭が熱くなった。

 「不幸なこともあったが、日本で出会った先生方や寮母さんの優しさを忘れられない。戦争が悪かった。今の日本には素晴らしい憲法がある。平和国家であることを誇り、大事にしてほしい」

     ◇

 旅で出会った、かつて日本人からつらい仕打ちを受けた人たちはだれも、日本人である私を責めなかった。その代わりに、彼らのことを忘れないよう、日本人に伝えてほしいと託された。海を越え、時を超えて人を結ぶ記憶をつむぐため、帰ってきたように思う。(四倉幹木)


少し感動しましたね。ただ、先の大戦がアジア解放のための戦争であり、日本人が誇るべきものだという方はこの記事をみて反省しなさい。この先の大戦が聖戦だといえるわけはありません。大日本帝国は誰もに対して苦痛を貸したのです。侵略の尖兵として働いた日本兵はもちろん、日本国民も、そして何よりアジアの民衆たちも苦痛に喘ぎました。誇るものではなく反省するものです。マリオノ・メルトデハルジョさんの最後の言葉、「今の日本にはすばらしい憲法がある。平和国家であることを大事にして欲しい」が身にしみる。東南アジアの人々が親日だというけど、特にインドネシアについては。それは大日本帝国そのものや日本軍、そして日本軍占領時代にあるものではなく、憲法9条という理想を守り、自衛隊という強大な武装組織をもっているが、まがりなりにも戦後一切戦争を起こさず平和国家としての体裁を守っていること(米英の侵略メンバーの一員としてイラクに自衛隊に派遣するなど微妙なところもあるが)に保っていることに対して親日感情を抱いていることを気付いてほしいね。今後、一層憲法9条改正や教科書美化運動、靖国参拝などの反動政策が続けば、この記事にでてきた親日の人たちも黙ってはいないだろう。
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韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って―朝日新聞、関西、語り継ぐ戦争

韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って 2006年03月02日
http://www.asahi.com/kansai/kataritsugu/OSK200603020051.html
 ソウルからバスで1時間の広州(カンジュ)。小雪が舞う町はずれの山あいに「ナヌムの家」はあった。ナヌムとは「分かち合い」。日本軍に性暴力を受けた元慰安婦9人が助け合い、静かに暮らしていた。

     ◇

 「やっと平穏な生活を手に入れることができた」。李玉善(イ・オクソン)さん(78)はオンドルのついた8畳ほどの個室で編み物をしていた。「家」に来たのは6年前。戦後55年間、連行先の中国で暮らしていたという。

 「無理やり連れて行ったうえ、戦争が終わっても、ほったらかし」。編み物をやめ、語気を強めた。

 韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。

 「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。

 多い日は40〜50人が列を作った。ある時、階級の高い兵が入ってきた。避妊具を使おうとしないので拒むと、殴られて短刀で腕を刺された。

 戦争がいつ終わったのかは知らないという。ある日、日本兵が「ここは危ない。一緒に逃げよう」と山に連れ出した。だが、女性たちを山に残したまま去った。山を下り、知り合った北朝鮮出身の男性の後妻になった。子どもはできなかった。

 「もう一度、家族に会いたい」。夫が亡くなり00年、韓国に戻った。両親はすでに亡くなり、自分の死亡届も出されていた。生きていると認めてもらうのに2年近くかかった。

 「慰安婦を認めようとしない日本人は、私たちが死ぬのを待っているんじゃないか」。李さんの言葉は、取材する私の胸に突き刺さった。

     ◇

 李さんの隣の部屋で暮らす金君子(キム・グンジャ)さん(79)。「私は天涯孤独。この世に生きて、何も残すものがない」と、硬い表情で天井を見つめた。

 幼い時に両親が死んで養女に。17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。列車で連行されたのが旧ソ連国境近くの中国・琿春。慰安所だった。

 「ジュンコ」と呼ばれ、日本兵の相手をする毎日。「死にたい」。首をつったが、ひもがちぎれて未遂に終わった。そのアザを見つけた日本兵が殴りかかってきた。日本語で返事できないと短刀で足を刺された。

 ある日、銃声がやみ、飛行機の音も聞こえなくなった。日本兵が「お前ら好きにしろ」と言う。慰安婦たち7人で40日ほど、祖国を目指して歩き続けた。畑で大根を盗んで食べた。手をつないで中国国境の豆満江を渡った。一番端の女性の手が離れ、流された。誰も助ける力がなく、じっと見ていた。

 故郷に戻ったが養家には帰らず、友人宅に居候した。連行を知っていたはずなのに何もしてくれなかった巡査の養父に、不信感を持っていた。

 数日後、昔の恋人が訪ねてきた。すでに結婚していたが、「親のために結婚した。一緒に住まないか」と告げられた。部屋を借りて同居したが、3カ月後、恋人は周りから責められ自殺した。

 恋人の子を身ごもっていた。生まれた女の子は5カ月後に死んだ。働いたり寺で修行したりと、各地を転々。ナヌムの家にたどり着いたのは98年のことだという。

 「慰安婦を知らない人が増えた。日本だけでなく韓国でも……」。金さんの顔が一層悲しく見えた。

     ◇

 「行きましょ」。取材後、李さんに食事に誘われた。日本語だった。人生を変えた日本。本当は私の顔を見ることも、日本語を聞くことも嫌だろうと思っていただけに、ちょっと救われた気がした。だが、彼女の日本語は植民地支配の証しでもある。過酷な体験と今も続く偏見に、口を閉ざす元慰安婦もいる中、李さんと金さんは服をめくり上げて傷跡を見せてくれた。「歴史の事実を忘れてほしくないから」と語り続ける彼女たちは、今も日本の戦争と闘っている。そう感じた。(深松真司)


韓国の元慰安婦の方たち。韓国からも戦争中、多数の女性が日本軍の慰安婦としてだまされたり、あるいは銃剣を突きつけて強制的に連行していった。一応“慰安婦”とはいっているが、実態は日本軍の性奴隷であり、日本兵のために性を奉仕する人間ではなく、道具としてしか扱われなかった女性たちである。この記事で取り上げている李玉善さんは話を聞けば、当初慰安婦ではなく、労務者として連行されたようだ。中国東北部の延吉で、電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場の草刈や滑走路の掃除をさせられた。待遇は非常に悪く、抗議すると、慰安所送りになった。もちろん、酷い話である。有無を言わさず強制的に自分の運命を狂わされたのだから。その狂わした張本人である大日本帝国は今はないが、後を継いだ日本国政府はこういった戦争被害者に対して、戦争が終わったらほったらかしという酷い話だと思う。特に「慰安婦を認めない日本人は私たちが死ぬのを待っているんじゃないか」という言葉は胸に突き刺さるものがある。日本語をできるという彼女は人生を狂わされた大日本帝国の植民地支配の証を一生背負っていかなければならなかった。彼女の中で日本の戦争はまだ終わっていないのである。今生きている彼女らを含む大日本帝国被害者たちに日本政府からの一刻も早い補償と謝罪、そして加害事実の余すことのなく実態をすべて解明し、国民の教育や国家政策に反映して誠意をみせるということが日本政府に求められているのだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:19 | Comment(10) | TrackBack(43) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月01日

下等遊民さまの投稿より シンガポール郊外のチャンギー刑務所における欧州人収容所での虐待について―スミダ・ハルゾウ中佐の犯罪

日本軍の戦争犯罪の事例としてコリン・ウィルソン「殺人百科」が取り上げているスミダ・ハルゾウ中佐の犯罪を紹介したいと思います。

 「1942年、シンガポールを攻略した日本軍は、シンガポール郊外のチャンギー刑務所のなかに、欧州人の収容所を設けた。1943年春には、収容者は男3千名、女子供4百名に達した。1943年夏、シンガポールその他で頻発する日本軍に対する妨害行為の陰謀の拠点兵によって捜索され、主な容疑者が逮捕された。彼等は憲兵隊本部の地下牢に入れられ、残酷な拷問を受け自白を強要された。シンガポールの主教は、最初の日10時間も拷問されたうえ、監房へ投げこまれ、翌日も再びかつぎ上げられ、テーブルの上に仰むけに寝かされ、ロープで200回以上殴られた。それから監房へ戻され3日間意識不明だった。3週間以上も立てなかった。主教の足はひどく殴られたので、尻からくるぶしまでパルプのようになっていた。ちょうど牛肉のように見えた。スタンレー博士は、何日も電気テーブルやさまざまな拷器にかけられ、嘘の自白書に署名させられた。やがてベランダから飛びおり自殺をはかって失敗し、骨盤が砕け、両脚は麻痺状態になったが、それでも取調べは続けられた。英語の話せる医者が来て彼を診察したが、大したことはないといった。やがて博士は取調べを受け帰ってきたときには、チョッキだけしか着ていなかった。わきの下、内股、膝のうしろ、足指の間などに火傷をしていた。小便の代りに、トマト・ソースのような液体がしたたり落ちた。チョイ夫妻は、いっしょに拷問された。夫はひどく殴られ、水責めに合い、電気をかけられ、煙草で焼かれた。それから夫人は、切口の鋭い薪の上に膝まづかされ、その次は発電機から2本の導線を引いて15分間も電気をかけられた。ミドルトンは、身長6フィート2インチ、体重182ポンドという立派な体格だったが、たびたび拷問を受けるうち、体一面に潰瘍のような黒い大きな傷ができた。目をそむけたくなるほどやせ細り、まるで骸骨の上にうすいゴムのシートを張ったようで、皮膚の上から骨がはっきり分かった。ライオネル・グッドールは、肩甲骨を折られ、睾丸はロープで殴られたため、ものすごくふくれあがった。最後に頭を強く殴られて意識を失った。意識が回復しかけると、電気針で背中を突き刺されてひどく出血した。それでもしゃべらないと分かると、ヨードを胸や背中に注ぎかけた。拷問は夜も昼も続けられ、憲兵隊本部は、いつも訊問者のどなり声と収容者の悲鳴に満ちていた。夜の間に冷たくなった者がいても翌日の午後まで放置された。大勢詰めこんだ地下牢はひどい状態で、次々と死んでいった。食物も殆ど食べられないようなもので、水も便器の中のを使うよりしかたなかった。赤痢、脚気、かいせん、潰瘍、浮腫などがひろがった。男も女もいっしょに入れられ、用便の仕切りもなかった。それどころか、看視兵は、自然な生理現象だから、なるべく人前でおおっぴらにやれといった。月経期間の婦人にも全く考慮が払われなかった。こうして取調べが行なわれた結果、15人が殺されたのである。」(以上は沢登佳人「性倒錯の世界」からの孫引き)


本当に恐ろしいですね。日本軍のやることは人権も糞もない。ちなみに同じような日本軍による収容所における虐待は 『リー・クアンユー回顧録 ザ・シンガポール・ストーリー』 リー・クアンユー著小牧利寿訳 日本経済新聞社日本軍占領時代の項でありました。こちらは欧州人捕虜・民間人抑留者ではなく、抗日の疑いをかけられて捕まったシンガポール人に対するものですが。のちほどブログで記事にしたいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:32 | Comment(8) | TrackBack(6) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3月1日といえば何の日

3月1日といえば、3.1独立運動の日であります。1919年3月1日におこりました。1918年にはパリ平和会議にて米大統領ウッドロウ・ウィルソンによる"十四か条の平和原則"が発表されています。このことが朝鮮半島民衆の民族意識を高めたのでした。1919年3月1日にパゴダ公園にて「独立宣言書」を読み上げ、大日本帝国からの独立運動の口火を切ったのでした。
大日本帝国からの圧政からの独立を求めて、朝鮮民衆は決起しました。しかし、その決起した非武装の朝鮮民衆に対し、発砲を含む血なまぐさい弾圧を日本軍および朝鮮総督府の官憲がおこない7500人以上の人命が奪われました。参加人員のべ約202万人で、死者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人に上りました。

「侵略と支配の正当化、危惧」韓国大統領が靖国参拝批判 2006年03月01日12時23分
http://www.asahi.com/international/update/0301/006.html
 韓国の盧武鉉(ノ・ム・ヒョン)大統領は1日、1919年に起きた植民地支配からの独立運動「3・1運動」87周年記念式典で演説、「我が国民としては日本が侵略と支配の歴史を正当化し、再び覇権の道に進みかねないとの危惧を抱くのは当然だ」として小泉首相の靖国神社参拝を強く批判した。大統領は靖国や歴史認識の問題で妥協をしない姿勢を明確にすると同時に、日本の憲法改正の動きも牽制した。

 大統領は演説で小泉首相の靖国参拝について、名前を挙げることは避けながら、「心の問題」などとしてきた首相の説明を暗に取り上げて批判。「国家指導者の言葉と行動の意味は自らの釈明ではなく、人類普遍の良心と歴史の経験に照らして適当かどうか評価されるべきだ」と真っ向から反論した。

 憲法改正や防衛力の向上を目指す日本側の動きについては、「普通の国、世界の指導的国家になろうとするなら、法を変え軍備を強化するのではなく、人類の良心と道理にあわせて行動し国際社会の信頼を得なければならない」と述べた。

 盧大統領は「昨年の演説で私は、韓日が真の和解と協力の道に踏み出そうと強調したが、この1年、(靖国)神社参拝と歴史教科書の歪曲、(日韓が領有権を主張する)独島(竹島)問題まで、(現状は)大きく変わってはいない」と日本側の対応を批判、首脳外交が中断するなど日韓関係が膠着状態にある責任は日本側にあるとの考えを示した。

 さらに「繰り返し、謝罪を求めない」とし、日本側が靖国神社参拝中止など実際の行動で応えるよう求めた。大統領は「謝罪にふさわしい実践を求め、謝罪を覆す行動に反対する」と述べた。


盧武鉉大統領の演説は正当。3.1独立運動の日にあって、靖国神社の参拝を非難している。憲法改正や防衛力を向上をめざす日本側の動きも批判し、人類の良心と道理にあわせて行動し、国際社会の信頼を得るようにと右傾化の進む日本が道を誤らないようにアドバイスをしてくれてもいる。改めて繰り返し謝罪を求めないといって、韓国大統領は大人の対応をみせた。子供であり、いまだに侵略を真摯に反省せず、周辺諸国の声に耳を傾けずに不信感を募らせて、ごねている子供のわが国日本政府は情けないね。

大日本帝国は台湾で65万人のもの命を奪った!?

ネット版「台湾同胞抗日戦争記念館」25日公開
http://www.people.ne.jp/2005/10/25/jp20051025_54606.htmlより
台湾光復(解放)60周年を記念するネット上の「台湾同胞抗日戦争記念館」が25日、共産党青年団中央と中国社会科学院によって25日、正式に公開される。(http://twkz.china5000.cn

台湾の同胞による抗日闘争は、中華民族全体の抗日闘争において、重要な位置を占める。日本の侵略と占領の被害に遭った半世紀の間、台湾の同胞は絶えず抵抗を繰り返し、計65万人が壮烈な戦死を遂げ、国家主権を維持し領土を守るために、後世に残る貢献を果たした。

ネット記念館は、13項目からなる。各項目は、台湾同胞による抗日闘争の紹介、台湾解放の経緯、年代記、抗日闘争の英雄、記念活動、歴史の思い出、日本の植民地支配下での苦難、当時の写真、評論や研究、台湾の概況、「台湾独立」という恥ずべき行為、英雄烈士へのネット献花、閲覧者のコメントなど。豊富かつ詳細な文字資料や、歴史的に価値の高い写真と生き生きとした映像資料によって、台湾の同胞が日本の侵略に立ち向かった勇敢で英雄的な足取りと愛国者精神を、生き生きと再現する。(編集CS)

「人民網日本語版」 2005年10月25日


台湾では65万人もの人命が大日本帝国の植民地下で犠牲になったことがネット上の「台湾同胞抗日戦争記念館」http://twkz.china5000.cnにて証明されているもよう。

早い話が:65万人は中国の定説 金子秀敏(キャッシュでも確認できませんでした)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050929k0000e070070000c.htmlより
 あまり注目されなかったが、中国の胡錦濤(こきんとう)国家主席は、9月3日の演説で気になることを言っている。例の「抗日戦勝60周年記念」の演説だ。
 胡氏は「抗日戦争の主役が国民党軍、脇役が共産党軍」という新しい歴史解釈を述べ、さらに続けた。
 「日本が台湾を侵略占拠していた50年間、台湾同胞は絶えず反抗し、65万人が犠牲となった」
 65万人−−毎年1万2000人づつ台湾の人を殺した計算になるのだが。大江志乃夫著「日本植民地探訪」(新潮選書)は、初期の「台湾征服戦争」による台湾側の死者を1万7000人、その後の「匪賊討伐」などで1万1946人(死刑を含む)と推定している。また、先住民の反乱「霧社(むしゃ)事件」では、644人が死亡したという。
 だが、植民統治を通じた犠牲者の総数は見あたらない。まだ研究が十分に進んでいない。
 65万について、台湾の知人は「学校で習った記憶はない」という。台湾の公式数字ではなさそうだ。だが胡主席の公式発言だから、少なくとも中国では65万が定説となったに違いない。
 数字だけではない。「大陸は抗日戦争。台湾は抗日闘争。共に日本と戦った」という論理にも意味がある。
 かつて日本の「皇民」だった台湾の人々(本省人)は、一貫して植民統治と戦っていたというのだ。「抗日」史観で大陸と台湾は結びついているのだから、台湾独立はありえない。
 「高砂族の霊を返せ」とタイヤル族の民族衣装で靖国神社に乗り込んできた台湾の女性がいた。女優で立法委員(国会議員)の高金素梅(こうきんそばい)さんだ。(中略)
 日本の植民統治に謝罪を求める台湾の運動は、胡演説の歴史認識と裏表だ。
 素梅さんは、母は先住民族だが、父は安徽(あんき)省籍の漢民族で、心情的には中国に近いという。素梅さんはこれから北京の民族大学に留学する。中国の少数民族理論を仕入れて戻ってきたら、台湾でも65万説が広がるのだろうか。 (論説委員)
 
毎日新聞 2005年9月29日 13時12分


という記事が毎日新聞に掲載されていた。毎日新聞は良識的メディアの一つだと思っていたが、この記事には納得できない。金子秀敏論説委員は高金素梅氏の運動に対して、中共のプロパガンダ的な背後を求め、中国側と見解を同じにしているから、65万人にけちをつけたいと見える。ネット右翼が白髪三千丈の中共プロパガンダだとレッテルを貼り付けて否定するようなことを毎日新聞の記者がやっているのだ。大江志乃夫著「日本植民地探訪」(新潮選書)によれば初期の「台湾征伐戦争」では台湾側の死者を1万7000人と推定しているらしい。しかし、全体を通して研究をしておらず、日本の植民地における台湾人全体の死者はまだ明らかになっていないということだ。信憑性はどうかというと、必ずしも65万人が正しいとはかぎらない。南京事件と同様に。ただ、南京事件が厳密な歴史的数字の意味で虐殺の犠牲者30万人が完全に正確とはかぎらなくても、日本軍が捕虜や無辜の民間人を10万以上の単位で虐殺し、多くの民間人を暴行と強姦の嵐で何十万単位で傷つけたということは証明されている。そして暴行や強姦の被害者や負傷者・戦傷者・戦災犠牲者をすべて含めたら、30万人をはるかに凌ぐことも。これと同様に台湾では植民地期全体を通してみれば、台湾民衆の虐殺および強制労働、政治犯の強制収容・拷問・処刑などの犠牲者は数十万人に及ぶことは大日本帝国ならやりかねないということを歴史を勉強するものなら、気づくはず。しかも、すでに65万人が信憑性の高い資料であることを私は見つけている。

台湾日本綜合研究所長 許介鱗の論文だけども明治のころにあって、日本軍は日清戦争や台湾の初期の「台湾征服戦争」でも“東洋の大量殺戮鬼”だったことを示すものだ

日本「武士道」の謎を暴く                             
http://homepage3.nifty.com/aab/busido.htm より引用
 台北市文献委員会副主任委員・王国?編著『台湾抗日史』によると、「台湾が日本人の手に落ちて五十と一年になろうとしているが……わが同胞で虐殺に遭った総数は約40万人近く、焼かれた家屋は乙未年(1895年)内だけでも三千余に達し、婦女の淫虐、壮丁の奴役にいたっては、その精神上の損失はさらにはかりがたい[30]。」

[30] 王国?編著『台湾抗日史』(甲篇)(台北文献委員会、1981年)327頁

には約40万人という数字がでてくる。初期の「台湾征服戦争」のころだから、台湾植民地が比較的安定した以降にも弾圧が行われ警察による拷問や処刑、大戦期には強制連行・強制労働、徴兵も行われ、それらのすべての犠牲者を含めれば65万人という数字もおかしくないのである。すくなくとも何十万単位の虐殺を行ったのであり、65万人という数字がただしいとするならば、終戦時の台湾の人口が600万人ということを考えれば1割にあたる人間を大日本帝国は殺したのである。台湾の先住民の件だけど、台湾征服戦争の過程を考えれば多くは山地にあり、霧社事件による犠牲者の多くも先住民である。先住民が台湾の人口に埋める割合が少ないが、その原因は大日本帝国が植民地下において先住民の大部分を虐殺したからだと考えるのが自然である。私は高砂義勇軍の慰霊碑に対して原住民の多くが撤去に反対しているが理解できないと改めて思った。日本の右翼の金が慰霊碑の建築費に入っているのだ。そのような高砂義勇軍の慰霊碑は台湾先住民にとっては恨の象徴でしかないように思えるのだがどうだろうか?台湾における大日本帝国加害事実も余すところなく、解明されて、犠牲者遺族や被害者にたいして誠意のある補償や謝罪がいっこくもはやくおこなわれることを望む。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:13 | Comment(11) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海南島での強制労働および連行者虐殺について

紀州鉱山の真実を明らかにする会
http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/sikin.htmlより
海南島

海南島は中華人民共和国とベトナムの境、トンキン湾の東にあります。1939年2月、日本軍は海南島を攻撃し、次々と島の要所を占領していきました。海南島はアジア・太平洋地域に侵略をすすめる日本軍の前線基地とされ、また資源獲得をめざすという国策のもと、多数の日本企業が海南島に進出しました。
軍事施設の建設、鉱山労働、道路などの建設工事には海南島住民をはじめ、広州・潮州・上海の人たち、朝鮮、台湾の人たちなどが苛酷な労働を強いられました。日本軍は植民地朝鮮・台湾の刑務所に服役していた人を「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」として海南島に連行し、労働を強制しました。「朝鮮報国隊」とされた人たちは海南島各地の飛行場建設、石碌鉱山(日本窒素)、鉄道・土木工事(西松組)、田独鉱山(石原産業)、港湾工事などで働かされていました。日本の敗戦前後、日本軍はこの1000人にのぼる「朝鮮報国隊」の人々を、三亜市郊外の「朝鮮村」(南丁村)で虐殺しました。

「朝鮮村」

「朝鮮村」の名前は近くに暮らす黎族の住民が日本軍に殺された朝鮮人を弔う意味でつけたそうです。朝鮮人と一緒に道路建設作業を日本軍に強制された、「朝鮮村」近くに住む符亜輪さん(87)は、こう証言しています。「朝鮮人は竹で作ったかごを背負って土を運んだ。…道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人を二人ずつ木に吊るして殴った。…死ぬまで殴って、死んだあと2、3人ずつ穴に埋めた。…(朝鮮人は)みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった…」。これまでの調査で「朝鮮村」では、100体を越える遺骨と軍隊手帳、薬きょう、白いボタン、青い布切れ、針金、銃剣などが見つかっています。遺骨のなかには、頭蓋骨に撃ち抜かれたような穴のあいたもの、腕の骨が異常に変形したものなど、明らかに外的な力を加えられたものもあります。わたしたちは各地で聞かれた、「『朝鮮報国隊』は青い服を着、そのボタンは白い色だった」という証言などから、「朝鮮村」に埋められている遺骨は「朝鮮報国隊」の人たちであると考えています。


台湾からも強制連行されていたのですね。日本軍による酷い強制労働がおこなわれたのです。数々の遺骨が発見されていますが、その名前さえ明らかになっていません。犠牲者の方々が不憫でなりません。

民族時報 第846号(98.3.11)より
http://www.korea-htr.com/jp/841850/jp84603tt.htmlより
旧日本軍が朝鮮人連行者1000人を虐殺 

 日本帝国主義の植民地支配、侵略戦争の過程で行われた、旧日本軍による残虐な戦争犯罪を示す貴重な資料が最近相次いで見つかり、改めて日本の戦争犯罪の実態が浮き彫りになった。

 一つは、旧日本軍が当時、朝鮮人を中国の海南島に強制連行、強制徴用させ、そのうち約一千人を虐殺し、山のふもとに穴を掘って埋めたという事実が、海南省全国人民政治協商会議(政協)が発刊した資料によって初めて明らかになった(「朝鮮日報」三月二日付)。

 政協が発刊した日本帝国主義の侵略記録資料によれば、日本が無条件降伏した一九四五年八月十五日、海南島の崖県地域に取り残された日本軍部隊は同地域の朝鮮人徴用者約一千人を動員し、三亜市南丁村付近の山のふもとに穴を掘らせ、武器や軍需物資などを隠した。日本軍は作業に動員した朝鮮人に隠し場所の横にさらに穴を掘らせた後、銃弾を節約するため刀で無差別に惨殺、埋めたという。資料には、この場所が現在「南丁千人坑」と呼ばれていると記録されている。

 この資料は九五年、三亜市幹部や民間人のうち七十歳以上の老人約五十人の口述をもとに作成されたもので、当時虐殺された一千人はすべて朝鮮人徴用者だった、との三亜市政協が調査した状況調査票も収録されている。

 十九歳のときに四一年から四年間、海南島の鉄鉱山で強制労働を経験した地元の張達雄さん(七十六歳)は「約一千人の朝鮮人が採掘作業に強制動員され、脱出しようとしたものは処刑された」と、当時の状況を生々しく証言した。また、政協三亜市委員会が発行した「日軍侵略暴行実録」にも、南丁村の虐殺地域一帯が地元の人によって「朝鮮村」に改名されたと記録している。

 もう一つの貴重な資料は、朝鮮人強制連行が最も多かった一九四四年の都道府県別連行予定数を示した当時の閣議決定の添付資料である。民間団体の「朝鮮人強制連行真相調査団」のグループが国立公文書館で発見した。

 資料によると、連行先での労働の種類が四つに分類されている。「石炭山」が約十一万九千人、「金属山」が約三万九千人 、「土木建設」が約七万四千人、「工場その他」が約五万八千人となっており、全国で計二十九万人を連行する計画だったという。都道府県別の強制連行予定数は、北海道が約四万人で、福岡の約六万一千人、長崎の約一万八千人、福島の約一万四千人などが多い。

 調査団メンバーは「全都道府県で強制連行があったことがやっと確認されたといえる。炭坑などから土木建設へ連行先の変化も読み取れ、全容解明につなげたい」としている。 こうした歴史的事実を示す貴重な資料を前に、日本政府は過去に犯した戦争犯罪の実態を余すところなく解明し、応分の謝罪と補償を誠実に行うことが改めて求められている。


海南省全国人民政治協商会議(政協)が発刊した資料によってすでに証明されているようですね。日本軍は作業動員の朝鮮人をおそらく機密の隠避のために、穴を掘らせた上で無差別に虐殺して、埋めたという。これらの国家犯罪の実態を余すところなく解明したうえで、応分の謝罪と補償を誠実におきなうことが責任ある大人の国家になるためにも日本政府に求められているのだと思いますね。

HANboardより
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/5317.html
1.田独鉱山で

ほぼ60年前の1939年2月、日本陸海軍が奇襲攻撃をして海南島を占領し、軍政をしいた。その半年後、8月に石原産業は、海南島南部(現:三亜市郊外)の田独鉱山を独占し、翌年7月から鉄鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめた。

このころから、石原産業は、三重県の紀州鉱山で朝鮮人を働かせていた(『パトローネ』27、28、29、31号に紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする記事が掲載されています)。

田独鉱山では、海南島の民衆だけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人々が酷使された。

中国人民抗日戦争勝利50周年を紀念して政治協商会議三亜市委員会が編集し、1995年8月に発行した『三亜文史D日軍侵崖暴行実録』(「崖」は、海南島南部の現三亜市、楽東県の沿海地域を指す)には、日本軍と石原産業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれている。
(略)

2,侵略戦争と強制連行・強制労働

日本軍政下の海南島で、日本窒素は石碌鉄鉱山、三菱工業は那大錫鉱山と羊角嶺水晶鉱山、浅野セメントは抱坡嶺石灰山の資源の略奪を始めた。

日本の植民地とされた中国東北部では、1932年から多くの中国人が、鉱山、発電所などで強制労働させられていたが、海南島でも、日本軍・日本企業は、中国人・朝鮮人・台湾人…を強制労働させた。

それにもかかわらず、大蔵省管理局がだした『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島編)』には、「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦い、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐るべき熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかった程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生まれ変わった海南島が建設されたのである」と書かれている。

3,海南島の万人抗

万人抗は、日本支配下の鉱山で酷使され命を失わされた人々が重なって埋められている「墓地」あるいは大虐殺現場あるいは大処刑場であり、中国東北部の撫順炭坑、老頭溝炭坑、豊満ダム、大石橋マグネサイト鉱山、鶏西炭坑、鶴岡炭坑、北票炭坑、七道溝鉄鉱山、華北の大同炭坑、准南炭坑などにその跡が残されている。

海南島には、田独鉱山、石碌鉱山や八所港などに万人抗がある。

1958年に田独万人抗に「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が建てられた。石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事でも多くの人命が奪われた。八所港の万人抗には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた(「瓊」は海南島を意味する)。数万人がいのちを奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」が建てられた。

万人抗は、日本ではつくられなかった。中国各地の万人抗は、その地での強制労働の苛酷さを示している。

4.朝鮮村

田独鉱山は、三亜市東方の郊外にあるが、三亜市北方の郊外に、朝鮮村という名の黎族の村がある。そこで殺害され埋められた1000人以上といわれる朝鮮人を偲んで村人が、解放後に村名を変えたのだという。『日軍侵崖暴行実録』には、日本軍は朝鮮の「政治犯」1000人を現在の朝鮮村にあった収容所で殺害した、と書かれている。

わたしたちは、海南島に着いた翌日、政治協商会議三亜市委員会の蔡文恵氏に案内されて、朝鮮村を訪れた。黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細氏(83歳)から話を聞かせていただくこともできた。周亜細氏自身も日本兵によって左足に傷を負わされたという。

日本に戻ってから、わたしたちは、防衛研究図書館で、『海南警備府戦時日誌』(全30冊)をふくめ、数十冊の資料を点検したが、この事実の関係資料をみつけることができなかった。だが、橋正図書館では、いくつかの資料を探しだすことができた。その資料には、1943年から1944年にかけて、朝鮮から全獄中者の約1割の人びとが「南方派遣報国隊」の名で海南島に強制連行され、強制労働させられたという事実が示されていた(「南方派遣報国隊」は、海南島では「朝鮮報国隊」とよばれたという)。

さらにその後、わたしたちは韓国の記録保存所で、海南島に強制連行された獄中者に関する資料(名簿の一部など)を発見した。その名簿には、「治安維持法」違反の人も含まれていた。

7月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、朝鮮村の虐殺現場のわずかな一部分を「発掘」し、7人の遺骸に対面した。取材班は遺骸を埋めもどし、祭祀をおこなった。

KBSの取材班をつうじて、わたしたちは、「南方派遣報国隊」の隊員として海南島に強制連行され、虐待され、朝鮮人虐殺を目撃した人が、韓国慶尚南道の固城におられることを知った。この人によれば、いったん「京城刑務所」に集められてから海南島に強制連行された獄中者のなかには、マラリアなどで病死した人も多かったという。

8月31日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮のいのち」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。

50年あまりがすぎたいま、ようやく海南島に朝鮮人獄中者が強制連行され命を奪われたという事実が、日本と韓国で明るみにだされようとしている。

5,民衆の持久的な抵抗とたたかい

日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、しばしば民衆を虐殺した。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、婦女暴行、掠奪、軍隊性奴隷強要……)のすべてを、日本軍は、1939年2月以降、海南島でもおこなった。

抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。日本軍が海南島全域を占領・支配したことはなかった。1944年から、山岳部を中心に解放区が拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。

6,民衆のネットワークを

強制連行された朝鮮人が紀州鉱山で働かせていた時期に、海南島の田独鉱山でなにがおこなわれていたかは、これまで日本では隠されていた。

これから、田独鉄山やフィリピンのカランバヤンガン鉱山(ここでも石原産業は日本軍とともに資源と労働力と人命を奪っている)などでの強制労働の実態をその地域の民衆とともに、明らかにしていくなかで、強制連行・強制労働の現場であるアジア太平洋の各地と日本の各地をつなぐ民衆のきずなを強めていきたい。


心が痛む話で、言葉がでてきません。ほんとに。しかし、こんなに酷い大日本帝国の蛮行がメディアが発達した現在でも多くの人は知らないのではないでしょうか?海南島では現地の住民だけでなく、他の地域の中国人、台湾人、韓国人が連行されて、多く犠牲になっています。日本軍だけでなく侵略の尖兵として日本企業がたくさんの労働力と人命を奪い、血と肉と多くの苦しみを糧にして暴利を貪ったことも忘れてはいけないと思います。日本や中国本土、他のアジア・太平洋地域にも、日本軍とともに、日本企業が資源と労働力と人命を奪い苦しめた強制連行・強制労働現場がたくさん残されており、国家犯罪の実態を余すところなく解明することが大事です。また、戦争を知らない世代の戦後の加害責任をとる意味で、我々が育った日本という国の土壌にはにはかつての侵略戦争での多くの犠牲者の人命が埋まっていることを知り、日本政府に応分の謝罪と補償を誠意あるように被害者や犠牲者遺族にさせ、国民の総意として余すところなく加害事実を伝えていくことが必要なのではないでしょうか?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:02 | Comment(16) | TrackBack(2) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お知らせ 主に海南島の大日本帝国の悪行についての催しについて

[paml:05153] 海南島「現地調査」と「朝鮮村試掘」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会は、3月19日から4月5日まで、10回目の海南島「現地調査」をおこないます。
 この期間に部分的にでも参加しようと思われる人は、連絡してください。日程
表を送ります。
■訪問する地域
 ★五指山地域(海南島中央山岳地帯の旧抗日軍根拠地):聞きとり。
 ★尖峰嶺地域(海南島南部の):聞きとり。
 ★澄邁県新呉鎮龍楼村:1941年虐殺の聞きとり。
 ★海口市永興鎮雷虎:旧日本軍雷虎嶺洞窟調査。
 ★文昌市秀田村:上映会とさらなる聞きとり。
 ★文昌市東坡村:駐屯日本軍は何をやったか。
 ★三亜市回新村:上映会とさらなる聞きとり。
 ★三亜市「朝鮮村」:さらに詳細な聞きとり。
 ★三亜市「旧六郷村」:日本人農業「移民」の跡地探索。
 ★陵水県后石村:1939年虐殺の聞きとり。
 ★東方市感恩鎮:「朝鮮報国隊」の軌跡を中心とする聞きとり。
 ★東方市北黎:アヘン用ケシ栽培地跡の探索。
 ★楽東県嶺東:王子製紙による森林鉄道建設・森林破壊・樹木略奪の跡の探索

 ★八所港・石碌鉱山・田独鉱山
 ★旧日本軍飛行場跡(掃水飛行場、黄流飛行場跡・三亜飛行場)。
 ★陵水「慰安所」跡・新村「特攻艇基地」跡。
■協働作業
 海南島虐殺(「朝鮮村虐殺」を含む)の真相究明のための協働作業(聞きとり
・歴
史研究・「調査」・資料探索収集など)を、今回も、海南島の民衆組織や個人と
いっ
しょに、具体的にすこしでもすすめていきたいと思います。
■朝鮮村の「試掘」準備
 今回、海南島で、つぎのように「朝鮮村試掘」の準備を具体的にすすめます。
  1、「試掘地点」の確認と確定。
  2、「朝鮮村」村民に協力要請。
  3、遺骨・遺品の暫定的な保存体制確立。
  4、海南島の考古学者・鑑定者との連絡。
  5、現場で使用するテントや用具などの確保。
■朝鮮村の「試掘」・「発掘」の展望
 本格的な「発掘」をめざして、「朝鮮村」の「試掘」をできるだけ早期に実現
したいと、わたしたちは考えています。
 「試掘」も「発掘」も原状を破壊する1回かぎりの作業ですから、可能なかぎ
り科学的に厳密に慎重に行なわなければなりません。
 わたしたちは、考古学的な鑑定者、法医学的な鑑定者に参加してもらい、その
指示にしたがって「試掘」作業を進めていきます。「試掘」のまえに、遺骨・遺品の
暫定的な保存体制、「試掘」過程の詳細な記録(文書・図面・映像)を残していく体
制をつくります。
 みなさんのご協力をおねがいします。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会 佐藤正人
 http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/


[AML 6136] 3・4「戦場における死〜その責任をめぐって〜」
[paml:05159] 3・4「戦場における死〜その責任をめぐって〜」
3月4日(土)の企画のご案内です。近づいてきましたので、再送いたします。複
数のMLに送っています。重複失礼します。MLの主旨に沿わない場合は伏してお詫びい
たします。ご不要な方はお手数ですが削除をお願いします。

東京労働会館の地図は↓です。

http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/gyojimap_rapasuhoru.htm

ただし、少し古いもので、地図中の「あさひ銀行」は
現在「りそな銀行」です。

あと、賛同団体に「海外派兵をやめろ!戦争抵抗者の会」
が加わりました。

攝津正


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☆信頼できるMLや仲間の皆さんへの転送を歓迎します★
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「テロリストは誰?九条の会」設立1周年企画

■戦場における死〜その責任をめぐって〜■
 『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこと―』
  映画上映とディスカッション

【趣旨】九条改悪を軸とした憲法改悪への流れは、昨年
    の総選挙での自民党圧勝や民主党の「改憲容認」
    の方向性でますます強まっています。私達「テ
    ロリストは誰?九条の会」は、設立1周年を迎
    え、九条改悪阻止の一点で連帯する各地の「九
    条の会」の取組みに連携しながら、過去の侵略
    と今日の自衛隊派兵という事実を踏まえ、形骸
    化している九条を“鍛え直す”観点で本集会を
    開催します。
    本集会では、@『日本が占領した海南島で―60
    年前は昨日のこと―』を上映し、映画を制作さ
    れ、「日本軍隊性奴隷」となった女性達の日本
    政府への訴訟を支援するキムチョンミさんをお
    招きし、いまだ日本国家と日本人自身によって
    明らかにしていない侵略と虐殺の事実を見つめ
    直し、「日本人の平和」に狭められた「平和運
    動」の意味を問い直します。A今日の高まるナ
    ショナリズムに随伴して、新たに市民社会が戦
    争を支える体制に雪崩れ込んでいる実態につい
    て、靖国解体企画の山口素明さんと現代企画室
    の太田昌国さんより報告をいただきます。Bそ
    して「戦場における死」が、公務として賞賛さ
    れる死と自己責任として蔑まれる死と二分され
    る現在、私たちはどのような立場で「反戦平和」
    「九条改悪阻止」を進めてゆくのか、参加され
    る皆さんとともに考えてゆきます。

【主催】テロリストは誰?九条の会 
【共催】現代企画室 
【賛同】靖国解体企画(賛同団体を募集しています)
【日時】3月4日(土)14:00−17:00
    (終了後、交流会を予定)
【場所】東京労働会館7Fラパスホール
    (参加費1000円)
    豊島区南大塚2−33−10
    (JR大塚駅、丸の内線新大塚駅、徒歩7分) 
【映画】『日本が占領した海南島で―60年前は昨日のこ
     と―』
    『8月15日事件の記録映像』(予定)
【報告】キムチョンミさん 1949年大阪生まれ。
    『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史
    序説』(現代企画室、1992)、『水平運動史
    研究―民族差別批判』(同、1992)、『故郷
    の世界史―解放のインターナショナリズムへ』
    (同、1996)
    山口素明さん 1966年東京生まれ。
    予備校講師。靖国解体企画。『公務死を加速
    させる栄典制度の改革を許すな』(情況別冊
    特集「反派兵」2004.1月)、『バックパック
    の青年の殺害によって何が殺されようとして
    いるのか』(インパクション、144号)
    太田昌国さん 1943年北海道生まれ。
    現代企画室・編集長。『「ペルー人質事件」
    解読のための21章』(現代企画室、1997)、
    『ゲバラを脱神話化する』(同、2000)、
    『「拉致」異論―あふれ出る「日本人の物語」
    から離れて』(太田出版、2003)『「国家と
    戦争」異説―戦時体制下の省察』(現代企画
    室、2004)、他。

★ 映画『日本が占領した海南島で―60年前は昨日の
  こと―』(65分)
  1939年2月、天皇ヒロヒトが「裁下」し、日本軍が
 海南島に奇襲上陸しました。それから1945年8月まで、
 6年半。村を襲撃された海南島住民、植民地朝鮮の監
 獄から海南島へ連行され殺された「朝鮮報国隊」の人
 たち、アジアの各地から連行され酷使された人たち、
 「日本軍隊性奴隷」とされた人たちにとって、60年前
 の日本政府・日本軍・日本企業による虐殺・暴行・略
 奪・人権侵害・日本「文化」強制は、昨日のことです。
 アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は、
 反日・抗日闘争の時代でした。その時代は、全世界規
 模で、まだ、終わっていません。(DVD解説文より)
★「8月15日事件」とは?
  2005年8月15日、靖国神社でおこなう軍国主義者に
 よる黙祷に反対し、戦争と軍国主義に反対するプラ
 カードを持った50名の市民に対して重装備の警察が
 暴力で襲いかかり、4名の市民を逮捕した事件。
★「テロリストは誰?九条の会」とは?
  アメリカのイラク侵略、自衛隊派兵に反対する首
 都圏の主に20〜30代のメンバーが映画「テロリ
 ストは誰?」の上映会を開催したことをきっかけに
 今年2月結成。地域・職業・年齢・国籍を問わず参
 加できる。各地の九条の会や反戦平和運動と連携し
 ながら、とくに「平和の積極的創造」を重視し、協
 同労働・アソシエーションなどの社会連帯の創出活
 動に力を入れている。現在ML会員85名。毎月の
 定例会議と2ヶ月ごとの企画を開催している。

【問合せ】
TEL090-3504-0662(テロリストは誰?九条の会・鈴木)   03-3293-9539(
現代企画室・太田昌国)   
メール whats_a9@yahoo.co.jp
    (テロリストは誰?九条の会・事務局)  
    gendai@jca.apc.org
    (現代企画室)  
ホームページ http://whatsa9.web.fc2.com
    (テロリストは誰?九条の会)  
    http://www.jca.apc.org/gendai
    (現代企画室)


[paml:05158] ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』と『朝鮮報国隊』 
紀州鉱山の真実を明らかにする会からのお知らせです。

■ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日の
 こと』上映とディスカッション。
  「第1部・海南島で日本は何をしたのか」
  「第2部・戦場における死〜その責任をめぐって」
  報告者:キムチョンミ、山口素明、太田昌国
 【主催】テロリストは誰?九条の会
 【共催】現代企画室
 【賛同】靖国解体企画、海外派兵をやめろ!戦争抵抗者の会
 【日時】2006年3月4日(土)14:00-17:00
 【参加費】1000円   
 【場所】東京労働会館7Fラパスホール
      豊島区南大塚2-33-10(JR大塚駅、丸の内線新大塚駅、徒歩7分)


■ドキュメンタリー『朝鮮報国隊』(2部作)。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2004年4月に製作した『日本が占領
した海南島で 60年まえは昨日のこと』につづいて、今年1月に、『朝鮮報国
隊』(第1部「雨降る夜の声(仮題)」、第2部「死者の証言(仮題)」)の制作
をはじめました。
 製作に参加・協力してください。
 秋に完成予定の第1部の構成はつぎのとおりです。

『朝鮮報国隊』第1部 雨降る夜の声
 1、「朝鮮報国隊」・「朝鮮村
 2、現風景と証言@ 日本軍三亜航空基地跡で
 3、現風景と証言A 后石村・英州・新村で
 4、現風景と証言B 黄流で
 5、現風景と証言C 田独・石碌・八所で
 6、現風景と証言D 「朝鮮村」・羅逢・南林で
 7、韓国での証言 犠牲者の故郷の現風景
 8、韓国での証言 旧日本軍朝鮮人兵士
 9、日本での証言 加害者の証言拒否
        加害者の故郷の現風景
 10、海南島で日本軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性
 11、「南方」の島に強制連行された朝鮮人
     グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島、トラック島……の朝鮮人
 エンディング:被虐殺者の語る世界史

 
佐藤正人
紀州鉱山の真実を明らかにする会
http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/


このドキュメンタリーが日本の家庭のお茶の間に放送されることをいつか願ってやまないです。海南島でも大日本帝国はとんでもないことをしでかしたんだなと思いました。

追加
[paml:05164] 追悼碑を建立する会『会報』43号
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ち蠹ル)の追悼碑を建立する会は、1926年1月3日に熊野市民が朝鮮人を襲撃し虐殺したことを「素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』を書き換えること、紀州鉱山に強制連行され死亡した朝鮮人の追悼碑を建立することなどを求める公開抗議要請を、熊野市の市長と教育長に、1月20日におこないました(回答期限2月末)。
 きょう3月1日に発行した『会報』43号(定価100円)の内容は、つぎのとおりです。

『熊野市史』書きかえなど、公開で熊野市に抗議・要請。
紀州鉱山で死亡した朝鮮人労働者とその家族の本籍地などの調査・開示を要請。
竹本昇「2005年の追悼集会に参加して」。
キムチョンミ「2005年冬 韓国で」。
文公輝「大阪人権博物館の総合展示がリニューアル」。
改装した大阪人権博物館の“木本事件”にかんする新展示。
佐藤正人「第10回海南島“現地調査”と“朝鮮村発掘”の展望」。
新ドキュメンタリー『朝鮮報国隊』制作開始。
小谷英治「2005・9・28裁判傍聴記」。
「海南島戦時性暴力被害訴訟」口頭弁論と証言集会。
 3月8日13時半から、原告の陳亜扁さんが証言します。
        18時半から、陳亜扁さんを囲んで証言集会。 
    東京地裁103号法廷での証言を傍聴し、集会に参加してください。
    3月22日13時半から、最終口頭弁論→結審、です。
概彿櫺輜臓ζ炒真諭σ「だぁ�藥笋論亀舛鯀覆┐襦…ケ・Δ気鵑了廚そ弌廖」
丹波マンガン記念館特別展示:「日本は海南島でなにをしたのか」。
金平雄さんからの手紙。
2005年9月第9回海南島「現地調査」関係新聞記事。
『伊勢新聞』05年12月17日記事「中国・海南島占領の実態暴く」。
『中日新聞』06年2月15日記事「記録にない朝鮮人殉職 市民団体が調査要請」。


 佐藤正人
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ち蠹ル)の追悼碑を建立する会
 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
 追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の合同ブログを新設しました。
 http://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 21:54 | Comment(11) | TrackBack(0) | 大日本帝国侵略・戦争被害諸国民衆による市民連帯結成を | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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