p85〜87
1989年3月26日。私は成田から発ち、マニラで「アジア・太平洋戦争地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の事務局長、上杉聡さんと待ち合わせることにしていた。飛行機の席に隣り合わせたのは22,3歳ぐらいのフィリピン女性である。彼女は去年から「のりちゃん」という名前を使って、横浜のスナックで働いている。1年ぶり1週間ほどフィリピンに帰るのだという。その隣には、近くマニラのエルミタにカラオケ・スナックを開店するという福岡県のIさんがいた。
3人の話題は、のりちゃんの日本における労働条件がいかに悪いかということをめぐってであった。のりちゃんは、マニラのカレッジを出たあと、日本に出稼ぎに来ている。彼女は朝から昼まで品川区の大井町にある日本語学校に通い、夜6時から12時までスナックで働くという。
彼女によれば、「給料は安くて月10万円程度であり、フィリピン人の友だち2人とアパートを借りて下宿代に2万円、さらに食事代、日本語学校の授業料を加えると手元に残る金はいくらにもならない」そうである。
こんな話をしていると、Iさんが割って入る。「そんなことを言ってはいけない。われわれスナックを経営する立場からは、きみたちをフィリピンから呼ぶために、かなりのお金を使っているのだ。日本への旅行の支度、パスポートに飛行機代、宿泊代など、すべてきみらのためにかけているのだ。日本に来れるだけでもありがたいと思わなければならない」と言う。
Iさんは福岡で小動物の販売店を経営しており、ここ10年ほど犬や猫を求めてフィリピンに来ているうちに、その儲けでスナック経営を始めるようになった。マニラに現地妻をもっているという。ところで、彼は10年フィリピンで仕事をしているにもかかわらず、フィリピン語はいうまでもなく、英語をまったく話せない。出入国カードの書き方もわからないので、かわりに私に書いてくれと言うほどである。のちちゃんは、「私たちは日本語を覚えなければならないが、日本人はフィリピンで日本語ですむのです」といった。(略)
・・・・・マニラの繁華街であるエルミタ・マビニ通りの日本人相手のスナックやバーでは現地の女性が日本語を話し、経営者は日本語で商売ができる。マニラはアメリカにかわって日本の植民地支配国となったかのようである。
のちちゃんとIさんの会話の中に、いまの日本とフィリピンの関係が反映されているような気がした。じゃぱゆきさん、マニラの日本人スナック、現地妻、英語を話せない日本人、これらの言葉が現在の日本の関係の一面を象徴している。
フィリピン人女性が日本に来るときは、日本語をマスターしなければならない。日本語学校にも通わなければならない。日本のスナックへ出稼ぎにいくのはいいが生活費や雑費等で消えてしまう。スナックの経営者Iの傲慢さにも腹が立った。賃金の割には労働がきついし、思っていたほど稼げなかったフィリピン女性の"のりちゃん"が不満を言うのは当たり前だと思う。「日本に来れるだけでもありがたいと思わなければならない」と傲慢なことを言う。フィリピンという国を発展途上だ、自分は優秀な先進国の人間である日本人だと言って見下しているのだろう。フィリピンがスペイン、アメリカの植民地支配を受け、そして日本軍がフィリピンに侵略し、過酷な圧政を敷いてたくさんのフィリピン人が死んだという歴史的事実を踏まえているのだろうか?日本人は気楽である。戦後もアジアで傲慢に振舞っている。フィリピン語も英語も話せないでフィリピンに行き来して、現地妻を持てて商売もできて、やり放題だ。いい気なものだ。生意気なこういう日本人に分からせるためにも、大日本帝国の戦争加害問題カードというのを使って、自分たちがフィリピンにどんな酷いことをしたかというのを分からせないといけない。
p87
午後11時にマニラ空港に到着した。(略)
私たちの宿泊先はNCCPという教会の宿泊施設がある。NCCPはカトリック、プロテスタントを超えたクリスチャンの社会運動の拠点となっている。ちなみに、上杉さんはカトリックの信者である。このように、現在フィリピンを含めてアジアの問題に真剣に関心を寄せている人々にクリスチャンが多いことに気づかされる。
たしかにその通りである。日本の戦争責任問題などのアジアの関心事項に取り組んでいる方にはクリスチャンが多い。
●戦時下の親日勢力p88〜91
3月27日。日本軍占領下のフィリピン史の専門家で現地在住の寺見元恵さんに同行してもらい、聞き取り調査を向かった。
フィリピンでは20世紀初頭スペインにかわり、アメリカが植民地宗主国となる。その後にアギナルドを指導者とする反米独立運動が展開されるが弾圧された。1933年にはベニグノ・ラチスを指導者として結成されたサクダル党が反米独立運動の中心となった。サクダルは、アメリカ支配に対抗するために、日本から資金、武器などの援助を期待し、日本の右翼内田良平、小池四郎などと結びついていた。
最初に紹介されたヘラネリア牧師は1929年生まれで、現在マニラ在住である。ヘラネリアさんの父親はサクダルの有力メンバーであり、戦前ラグナ集のカプヤオ周辺で500人の農民を組織し、反米独立運動と反地主闘争を展開。大地主の車を止めて、武器、金品を奪うゲリラ闘争を行ったという。サクダル党は中部ルソン、南部タガログ諸州の貧農を基礎にしていた。
サクダル党は1935年6万5000人の蜂起によって弾圧されるが、その結果、アメリカの支持のもとにフィリピン独立準備政府としてケソンを初代大統領とするフィリピン・コモンウェルス政府が成立する。この蜂起のとき、ヘラネリアさん両親は逮捕、37年にも再逮捕され、以後軟禁状態におかれたという。
1941年12月8日、日本軍のフィリピン侵攻が始まり、42年1月2日マニラ陥落、5月6日コレヒドール陥落によって米軍は降伏した。1943年10月14日、ホセ・P・ラウレルを大統領とする日本の傀儡政府、フィリピン共和国が成立する。サクダルの残党は反米独立のため日本軍に協力した。党首ラモスはサクダル党から新たにガナップ党を組織して、日本軍によるフィリピン地主階級の一掃を期待した。日本軍はこの民衆の要求を逆手にとり、傀儡政権下にフィリピン愛国連盟(マカピリ)を組織して、サクダルメンバーを日本の手足として利用した。しかし、日本軍が地主階級を一掃したわけではなかった。
日本軍の占領下でサクダルの残党であったヘラネリアさんの父は、日本軍に動員され労務者として協力したという。アメリカ軍が1944年10月21日、レイテ島とルソン島のバタンガスに上陸すると、彼は日本軍から一緒に逃げるように誘われた。このため、戦後、彼は日本軍協力者として糾弾され、抗日ゲリラに家族全員みせしめの拷問を受けた。しかし、ゲリラの1人が母と親しかったので殺されずにすんだという。
1945年当時16歳になったばかりだったヘラネリア牧師の話は、両親に関することに終始した。ただ、日本について、つぎのように話してくれたのが印象的であった。
「日本軍が占領下においてフィリピンの反日ゲリラを殺すのは当然である。日本のもとで戦後独立したほうがよかった。戦後、自分らの評価が低くアメリカ中心の勝者の歴史となったことは不満である。私はいまも親日である」
そして、戦時下のサクダルの旗と日本軍によって発行された住民証明所を見せてくれた。住民証の文面には、つぎのように記されていた。
「本証明書ノ所持者ハ『ガナップ』党員サクダル党員タルヲ証シ、党員ハ皇軍ニ協力スルト共ニ比島新建設ト東亜建設ニ忠実ナルヲ誓フ」
日本軍はフィリピン侵略のなかで、フィリピン民衆の反米ナショナリズム=反植民地意識を巧みに利用した。サクダルはその道具であった。そのため、フィリピン人は内部抗争をするようになり、相互に殺し合うなどの悲惨な経験を経なければならなかった。
ここでも日本軍の戦争を賛美する洗脳親日派がいます。ただし、その背景には複雑な影が隠れていることは確かです。一部の反米ナショナリズムを持つフィリピン人が日本軍に懐柔・利用されて、手先として使われ、フィリピン人同士で殺し合うことになったことは以外にも知られてません。
http://web.archive.org/web/20040422060131/http://www.h4.dion.ne.jp/~ftc/travel/9810/9810_k8.htmlより
「日本兵にもいい奴がいっぱいいた。」
抗日派だったフィリピンの老人にそういわれるのは私は2度目でした。
アメリカ軍と日本軍の戦闘で、丸裸に焼き払われたまま再生していない森林もいくつもあります。住民は親日派と抗日派に分かれて、闘ったり、密告しあったり、強制労働もあったし、ゲリラつぶしのための大虐殺もあった。
でも私は、日本軍がフィリピンにきていたことすらろくに知らないで育っています。
互いの憎しみを乗り越えようとする対話
http://blog.livedoor.jp/soliton_xyz/archives/50003808.htmlより
1942年1月、アメリカの植民地だったフィリピンに侵攻した日本は、独立を約束してフィリピン人に協力を求めたが、過酷な軍政は住民の怨恨を招き、抗日ゲリラ運動は激化した。
このため、日本は1943年に形式的にフィリピンを独立させたが、退却していたアメリカ軍が攻勢に転じると、フィリピン自治政府軍が統合されていたアメリカ極東軍指揮下のUSAFFEゲリラをはじめとする抗日ゲリラはアメリカ軍と協力して日本軍と戦った。
1944年10月、アメリカ軍がレイテ島に再上陸すると、同年12月、抗日ゲリラの掃討に苦戦していた日本軍は、義勇軍・フィリピン愛国同志会「マカピリ」を創設した。
日本語教育や軍事訓練を受けたマカピリの兵士たちは、山岳地帯に追い込まれた日本軍が降伏するまで行動を共にした。
「マカピリ」は、タガログ語で「国を愛する者たち」を意味するが、戦後のフィリピンでは「裏切り者」を指す言葉として今も使われているという。
マカピリの兵士約5,000人のほとんどは貧しい農民だったが、戦後、フィリピン政府による国民特別裁判で反逆者・対日協力者として裁かれた約5,500人のうち半分以上はマカピリの兵士たちだった。
日本の占領に協力した政治エリートたちに適用された大赦も、元マカピリには適用されず、中には10年以上の実刑を受けた者もいるという。
日本とアメリカの戦いは、ゲリラとマカピリというフィリピン人同士の戦いになりました。
この歴史はフィリピン人の在り方を考えるための重要な課題です。
と語るフィリピン国立歴史研究所のオーガスト・デビアーナ氏は、元マカピリの兵士の証言を歴史の記録として残そうと聞き取り調査を行っている。
農民や欧米的教育を受けた中産階級で組織されたUSAFFEゲリラは、退役軍人として扱われ年金も支給されているが、その多くは日本軍やマカピリによって肉親や友人を殺された体験を持っている。
私たちの教育は、英語でアメリカのものです。だから、気持ちは自然とアメリカに近くなります。
日本人に味方できないのは当然でしょう。
マカピリはいつも日本人と一緒で、籠で顔を隠して指差します。密告されたらお終いでした。
と語るアウレリオ・バト氏は、電気技師の父を持ち比較的裕福な家庭に育った。フィリピン政府から受け取る年金は、毎月5,000ペソ(約1万円)である。
ガブリエル・ビアト氏は、バト氏の戦友だが、80人いた部隊で生き残ったのは、彼ら2人だけだった。
日本軍によるゲリラの掃討作戦で犠牲になった住民は10万人を超えており、戦後の国民特別裁判の記録によれば、ゲリラやその容疑者に対してマカピリも拷問や虐殺を行い、生きたまま突き刺し焼き殺した例もあったという。
スペインやアメリカから侵略された時の話を両親から聞いていました。
私たちの小さな土地は、アメリカ人と金持ちに奪われました。
日本人を見てマカピリに入りました。日本人は私たちと同じ肌の色でした。
なぜ、日本人を愛さず、アメリカ人を愛せたのでしょう?
アメリカ人は、私たちから土地を奪っていきました。
と元マカピリの一人が言うと、バト氏は家族を殺された思いをぶつけた。
叔父は、この町の警察署長だった。
ある日、叔父が日本人に連れていかれた。連れていったのは日本人とフィリピン人だった。3日後、叔父は殺された。
それは心に深く刻まれた。だから私はゲリラになったのだ。
NewsでNonfixな日々というブログより引用させていきました。ちょっと泣けてきました。一番悪いのは、フィリピン人同士を殺し合いにさせるように自身の支配に利用した日本軍です。しかし、そのフィリピン人同士の親日派・抗日派に分かれた殺し合いにはアメリカやスペインの植民地支配の背景もあったということです。アメリカやスペインの植民地支配で土地を奪われ、貧しい生活でどうしようもなくなった貧農たちが活路を見出すために日本軍に積極的に協力しようとしました。もちろん、日本軍は彼らの要求に答えるわけはありません。ただ、利用されただけでした。ヘラネリアさんの事例は単純に親日派であるから駄目だというわけにはいかないようです。大日本帝国と米国帝国主義の覇権争いの場の一つがフィリピンの土地だったのですが、一番犠牲になったのはフィリピンの民衆です。日本軍によってたくさんのフィリピン人が虐殺されました。それだけではなく、同じフィリピン人が日本軍に密告したり、場合によってはフィリピン人自らが同じフィリピン人を殺したというのです。同胞に殺されたフィリピン人犠牲者やあるいは同じフィリピン人を戦争中密告したり、あるいは自ら手を下して殺した加害者としての傷をもつフィリピン人も多いはずです。日本は過去に自ら生んだこのような惨劇に対して白を切り通すつもりなんでしょうか?
●マニラ虐殺p91〜92
・・・私たちはマニラ市内のコラソン・ノブレさんのお宅にうかがった。ノブレさんはスペイン系の血をひく、いかにもヨーロッパ的な美しい顔立ちであり、元女優であったことをうなずける。1945年2月、米軍によってマニラを放棄せざるをえなくなった日本軍は、マニラ市内の各所で住民虐殺を行い、犠牲者は1万人以上におよんだという。戦後、山下奉文司令官を代表被告とするマニラの戦犯裁判ではじめて明らかになった事件である。ノブレさんはマニラ住民虐殺事件の生き残りの1人である。
日本軍は、ノブレさんを含む付近の住民を証明書を交付するためと称して病院に集めた。住民と病院の医者、看護婦合わせて120人を中庭に集めたが、無差別に銃撃、刺殺を繰り返し、ほとんどを殺戮したという。彼女も顔など数ヶ所を刺され、重症を負ったが、奇跡的に助かった。生存者はわずか8人であった。
彼女の証言のなかで衝撃的だったのは、日本軍による幼児虐殺の目撃である。日本兵が赤ちゃんを上に放り投げて、落ちてくるところを銃剣で刺し殺したという。彼女はそのことを淡々と話してくれた。マレーシアの幼児虐殺を乗せた三省堂の英語の教科書が文部省検定不合格になったことがあるが、彼女の証言はフィリピンでも日本軍が幼児虐殺を行っていたのではないかとうかがわせるものであった。
もうひとつ気になったのは、彼女が「日本兵よりもっと悪いのは朝鮮兵である」と繰り返したことである。虐殺に直接手を下したのは朝鮮人であり、残虐行為をしたのは朝鮮人が多かったというのである。日本軍が民族的差別下の朝鮮兵士を虐殺の尖兵として使ったということもじゅうぶん推測される。実際に戦後、BC級戦犯裁判で処刑になった人々に朝鮮人、台湾人が多かった。
マニラでも45年2月、戦況が悪化し、マニラを放棄せざる負えない事態に日本軍は追い込まれたが、組織的な虐殺が行われた。よく南京大虐殺やマラヤの華人虐殺において、日本兵が赤ちゃんを上に放り投げて、落ちてくるところを突き刺して殺すという残酷な幼児殺害の話がでてくるが、これが事実だと確かめられた。もうひとつはやはり気になったのは、残虐行為に手を下したのは朝鮮人兵士が多かったというノブレさんからの指摘である。
キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html より
現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その后も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。
こういう言説を出すと、すぐに朝鮮人差別主義者たる右翼が飛びつきそうだ。しかし、朝鮮人兵士に罪はない。朝鮮兵は日本軍の中では最下位層に位置し、上司である日本兵に強要された場合どうしようもないし、あるい日本軍の被差別植民地人である朝鮮兵に対する扱いや虐めが苛酷であり、(日本人兵士でさえ初年兵に対する扱いはすさまじい)、どうしようもない鬱憤がそういったさらに下位の日本軍占領地民衆への残虐性として現れたのかもしれない。
●日本軍政下の親日派内部の分裂p93〜94
3月28日。ケソン市からマイクロバスをチャーターして、ラグナ州のカプヤオに向かった。カプヤオで合流した寺見さんの案内でサクダル党の生き証人であるヘラミス・アデアさんに会った。アデアさんはマニラ周辺で有力なサクダル党のリーダーであった。
「サクダルではアメリカから即時完全独立を求めて闘争しました。日本軍がマニラに入ってくると、われわれに協力を求めてきました。大東亜共栄圏は賛成でした。日本の意図が、白人の植民地をなくすことだったからです。1943年ごろ1年間、仲間70人と日本軍に同行してリサール州のシェラマドレー山脈のマッキンレー要塞に行きました。そこで、日本軍のトレーニングを受けました。われわれはおもに日本軍のためのフィリピン労務者の監督を行いました。このため仲間の多くがフクバラハップに殺されました」
このようにアデアさんは、サンダルと日本軍の協力関係を証言しあた。このなかに出てくるフクバラハップとは、1942年に中部ルソンの水田地帯の農民を基盤に成立する抗日人民軍であり、1930年代の共産党、社会党系の農民運動を背景にしてきた。目標は日本軍追放と地主打倒である。フクバラハップは日本軍支配下で急速に勢力を伸ばし、44年末には中部から南カタログ地方に正規軍、予備軍2万人、50万人の民衆を解放区支配下においた
「その後、サクダルは内部対立が激しくなりました。私は、日本軍は私たちの目的を理解していない、戦争中は静かにしていようと思いました。このなかでフクバラハップの首領が私に連絡役を派遣し、サクダルとの連携を申し込んできました。私は行きませんでした。行けば殺されると思ったからです」
アデアさんの話は思いもかけず、フクバラハップとサクダルの統一への動きの証言となった。私ははじめてこのような動きがあったことを知って驚いた。サクダル内部の動揺を示すものとして非常に興味深いものであった。この背後には、サクダルの目標であった地主打倒の課題を日本軍に期待したが、裏切られていったという現実があった。
そして、最後にアデアさんはこのように言った。「いまでもフクバラハップから一緒にやろうと言ってきている」と。現在のフクバラハップとは新人民軍(NPA)のことであろう。新人民軍とは、1969年に結成されたフィリピン共産党の武装組織である。毛沢東路線により農村を拠点に活動している。
アデアさんは戦後1950年にフクバラハップに協力したとしてフィリピン国軍に逮捕されている。アデアさんの戦後は、米軍によって戦犯としてモンテンルパの刑務所に送られたことから始まり、親日反米であったがゆえに終始「裏切り者」の汚名を背負って歩かなければならなかった、いばらの道であった。
日本軍占領時代の親日派組織サクダル内部でも対立が激しくなりました。アデアさんは「日本の意図が、白人の植民地をなくすことだったからです」と言ってますが、それは間違いです。たとえば、仏印ではナチスの同盟であり、フランス南部を支配していたビシー政権と協力関係を結び、共同統治を行いました。白人の植民地をベトナム、カンボジア、ラオスでは残しています。1945年5月までの仏印武力処理までは形式的にはフランス(ビシー政権)の植民地でした。ただ、それ以外(フィリピンやインドネシアなどを含めて)についてはそれが正しいといえばそうではなく、白人の植民地はなくしましたが、白人の変わりに大和民族(日本人)の植民地になりました。日本の意図は、白人の変わりに日本がアジアを植民地にして支配することだったのです。
もう一つは日本軍占領下における地主の扱いですが、
http://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/rk1993.htmlより
当時,フクバラハップは一定の地域で警察・行政権さえ確立,抗日収穫闘争を展開して,農民の生計は改善,地主・小作の力関係には大きな変化が生じつつあった。それゆえ,中部ルソン地方では,支配の維持を望む地主層と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したのである。とあり、地域によっては、農民を搾取する地主と米の獲得を望む日本軍の思惑が一致したとあり、積極的かどうかは分からないが、協力的関係に近いものがあった模様。サクダルは親日で、フクバラハップとはイデオロギーこそ違うが、貧農の権利を獲得し、搾取する地主階層を一掃するという共通目標を抱えていた。とはいえ、抗日ゲリラの躍進に悩まされる日本軍は地主階層と対決するわけにはいかず、農村部における抗日ゲリラの勢力の増大を防ぐために、懐柔して利用しないわけにはいかなくなったというわけ。そうした中でサクダルは日本軍のフィリピン民衆に対する虐待の事実と相まって離反する動きがでてきたと考えられる。
●リパの大虐殺 p95〜100
3月29日。リパの朝は早い。今日は1945年2月26日の5000人とも2万人ともいわれるリパ大虐殺の現場を石田<石田甚太郎>さんの案内で訪ねる。街から数分のところに日本軍の憲兵隊司令部の建物が残っていた。元リパの資産家のものを日本軍が接収したという。この家の庭に日本軍が掘った防空壕が残されている。この建物のすぐ先に、フランシスコ・カッペリオさんが住んでおられた。彼の案内でリパ大虐殺の現場に向かった。
1945年2月、リンガエン湾と同時にバタンガスから再上陸した米軍は日本軍を追い詰めてマニラを解放し、南タガログ地方の日本軍をほぼ掃蕩しつつあった。戦況悪化の混乱のなかで、日本軍はすべての住民がゲリラの見方であるとして疑心暗鬼になり、リパの住民の皆殺しをはかった。
リパ大虐殺の責任者は南タガログ地方のバダンガス、ラグナ、ケソン州の各部隊約1万2000人を率いた通称「藤兵団」司令官、歩兵第17連隊本部長、藤重正従大佐である。当時の様子については、友清高志著『狂気―ルソン住民虐殺の真相』に詳しく書かれている。当時、兵士であった友清氏は、このときの藤重の発言を記録している。
「ゲリラが、いかに我軍に危害を加えているか、諸士の報告で明瞭である。このゲリラを徹底的に粛清すべき時がきた!住民でゲリラに協力する者あらば、そいつもゲリラと見做せ。責任は一切この藤重が負う。対米決戦はそれからである」「思い切りやってしまえ。後世の人間が世界戦史をひもといた時、全員が鳥肌立つような大虐殺をやってみせろ」
こうして藤兵団は粛清命令を発する。リパの近くのアニアラ、アンチポロ村のゲリラを粛清するため、16歳から60歳の男全員をリパの小学校に連れてきて全員虐殺することを命じたのである。この村には米軍兵器が大量に搬入され、日本軍襲撃が準備されているという不確かな密告が行われた結果である。
2月26日未明から日本軍はリパ市長、警察署長を軟禁し、リパ市内の住民を男女の別なく試し切りにしていた。日本軍に協力するガナップ党(サクダルの後身)の宣撫班がアニオラ、アンチポロ村へ行って、「本日以降リパ市近郊の通行を規制する。住民には通行証を交付するから16歳から60歳の男は全員リパの小学校に集合すること」と伝えた。2つの村から約800人の住民がやってきた。
ここから通行証を渡すために、住民を10人ずつに分けて、外の雑木林の前まで日本兵が連れていくことにした。日本兵は途中で「爆音」だと叫び、米軍の空襲を避けるためと称して、近くの掘っ建て小屋に住民を追い込んだ。そこで待ち構えていた日本兵が住民をいっきに縛りあげて数珠つなぎにし、建物裏の雑木林のなかに連れていった。雑木林の側面は17メートルの切り立った崖をなっていた。住民は次々に銃剣で刺し殺され、足蹴にされた死体は崖から下の渓谷に投げ落とされた。日本兵はゲリラの処刑は当然だとして800人の住民を交替で殺戮しつづけた。朝7時から夜6時まで11時間におよぶ虐殺であった。
案内役のカッペリオさんは70歳を越えた小柄なやさしそうな老人である。しかし、最初に住民が集合した場所は小学校ではなく、当時神学校だった。(略)。また、雑木林のなかにあったこの土地の持ち主を、日本軍は口封じのために未明に殺戮したという。カッペリオさんは言う。
「私は手を縛られて数珠つなぎにされましたが、道路から雑木林のなかに連れていかれたとき、これはおかしいと感じました。私は手を動かしてなんとか縄をふりほどきました。近くの人に一緒に逃げようと言いましたが、逃げるとかえって危ない、と拒否されました。私は雑木林のなかを下りながら、全員が右に曲がったとき、いっきに渓谷のほうに下った。そして、日本兵の銃撃のなかを思い切って渓谷へ飛び込みました。まっさかさまに20メートルほど転がり落ちましたが、運よく下が草で助かりました。それから渓谷の反対側によじ登り、日本軍の追跡を振り切りました。私はしばらくして日本兵に対する怒りからゲリラになろうと思い、ゲリラを探しましたが、ついに見つけることができませんでした。そのため仕方なく家に戻り、ボロ(フィリピンの山刀)を磨いて、今度来たら日本軍をやっつけようと決心しました」
(略) 死体はそのまま戦後まで残され、付近一帯には死臭が漂い、衛生問題にもなったので、米軍がブルドーザーで処理したという。また、付近の住民の言い伝えで、このあたり一帯には死者の叫び声が夜な夜な聞こえるという。怨念の地である。
カッペリオさんにお礼を言ってリパ中心部に戻った。つぎに、石田さんはデメトリオ・アントニオさんを紹介してくれた。アントニオさんの首のうなじの中央には、包丁で切り裂いたような鋭い刀傷が深々と残っていた。刀傷はこれまで何人かに見せてもらったが、これほどむごいものははじめてである。よく首が落ちなかったものだと驚くような傷で、正視に耐えない。
アントニオさんは、いまリパに住んでいるが、1945年2月、バタンガス州のサンカルロスでこの傷を負った。日本軍は村民を集めて刺したのち、井戸のなかに投げ込んだ。幸い井戸は空であり、しかもアントニオさんは最後に放り込まれたので、かろうじて這い上がることができた。他の人は、みな死んだという。しかし、1人生きのびたことを親日組織マカピリ(フィリピン愛国連盟)が密告した。そのため、彼は翌日から日本軍に追われる身となったという。アントニオさんは次のように言う。
「戦争は終わった。私は自分の戦争体験を忘れようとしている。しかし、妻はいまでも日本人を許せないと言っている」
アントニオさんの聞き取りを通りに面した家の前で続けていると、街の人々がまた物めずらしげに集まってきた。なかの1人が私にも傷跡があると言ってシャツを脱ぐと、背中に5、6ヶ所の銃剣の傷跡があった。
すざまじい惨劇です。人間といい、組織・集団といい追い詰められると何でも疑心暗鬼になり、ついには精神を病み、人殺しなどなんとも思えない皆殺しまでとことん進むポルポト的な発想に至ってしまうのであろう。対米決戦のため、ゲリラを粛清するために関係のない多くの人々が虐殺された。しかし、こうなる前に降伏すべきだった。勝ち目がないというのはもはや分かるはず。日本軍はそれでも"敗北"という2文字はなく、住民を1人残らず皆殺しにしてでも突き進む異常で凶暴な軍隊である。敵や抗日ゲリラに協力しているとか、すべての住民がゲリラの見方であるとか、そういった妄想を含めて検証せずに男女こどもも含めて皆殺しにしてしまうことを当然と考える日本軍の体質があった。その体質とこのような追い詰められた日本軍にとっての窮状が合わさってこのような惨劇に至ったのであろう。ガナップ党やマカピリという組織も一連の虐殺に加担していたことが読み取れる。今回は日本軍のフィリピン民衆虐殺の側面だけではなく、一方でそれに協力して洗脳されて狂信的に日本軍に協力するフィリピン人親日派の姿がそこにはあり、考えさせられるものがある。
●日本企業の公害汚染等の現在における日本の問題p102
3月30日。マニラ市内からバターン半島行きのバスに乗り込む。驚くのは小学生くらいの小さい子が物売りをしていることである。(略)
半島南部マリベレスは、1970年ごろまでは美しい農村であった。70年代を通してのマルコス時代に輸出加工区として急速に工場団地が建設され、外国企業が誘致された。日本からも多くの企業が進出した。従来の漁民は労働力として工場に吸収され、漁場は工場排水のために汚染され、漁業は衰退した。漁民は労働者に流れていったが、厳しい労働条件のために80年代に激しい労働争議が頻発した。このため外国企業のいくつかは現在も操業を停止しているという。バターンの全人口の35万6000人のうち、工場労働者は現在17パーセントに達している。(略)
半島全域の漁民は、とくに日本との関係で困難を抱えている。日本の大資本によるトロール漁法の底引きによって根こそぎ魚を捕られ、バターンの中小漁民は生活に困っている。本来、200カイリ規制のため日本漁船はフィリピン近海に入れないのだが、なぜか自由にフィリピン沿岸で操業している。漁民の非難は日本漁船に集まっている。
著者がこのときフィリピンに旅行したのは16年ほど前になるのだが、日本企業や日本漁船の横暴はすごかったようだ。戦後もフィリピンの人たちに迷惑をかけたのである。最も冒頭のスナックの出稼ぎフィリピン人の問題であり、日本企業や日本漁船の問題は何回も言うように戦前に身についたアジア人の視点で物を考えられず、日本人本位で物事を考えて、アジアの人々を見下す見方を変えていないということに尽きる。フィリピンでわが国がいかに酷い蛮行を行ったか知り、フィリピンに対して償いの念をもって接していれば、フィリピンの大地や民衆に対する横暴な態度は慎むことができるはずだ。
●バターン死の行進p106〜107
午後3時、マリベレスにジプニーで出発することにした。「バターン死の行進」の出発点はひとつは半島最南端のマリベレスであり、もうひとつは西海岸のバガックである。
1941年12月、アメリカ軍は日本軍が上陸するとマニラを捨て、バターン半島に立てこもって持久戦にもちこもうとした。しかし、1942年4月9日アメリカ軍は降伏する。この結果、バターンで捕虜になった兵士は、フィリピン軍6万4000人、アメリカ軍1万2000人という膨大な人数である。彼らはここから、パンパンガ州のサンヘルナンドまで陸路112キロを歩かされることになった。サルヘルナルドからは鉄路でタルラック州で送られ、さらに徒歩で約16キロの地点が捕虜収容所のあるオドンネルである。最終目的地オドンネルに着いたときには、5万9000人になったいた。この間、1万7000人(うちアメリカ兵1200人)が死亡したことになる。5ヶ月にわたる持久戦で体力を消耗したうえ、マラリアにかかった捕虜も多かった。日本軍はろくな食糧、水の用意もなく、100キロ以上も歩かせたから犠牲者が出たのは当然であった。これが「バターン死の行進」である。結局、収容後3ヶ月後に医薬品や食糧不足のため、約3万人(うちアメリカ兵1500人)が死亡した。「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を受けてきた日本兵の考えから容易に捕虜を虐待して、簡単に打ち殺すようなこともやったのである。
バターン死の行進といえば、糞女笹幸恵である。
【文春】「バターン死の行進」記事、「マルコポーロ」を廃刊に追い込んだユダヤ人団体が抗議
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1137204832/
【ロサンゼルス=古沢由紀子】
日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。
記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。
ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。
「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。
行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。
同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm
Apes! Not Monkeys!
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060309235131/index.htmlより
『文藝春秋』05年12月号の「「バターン死の行進」女一人で踏破」という記事もまた、結局は「「祖父母・曾祖父母の罪」を暴くなという欲望の発露でしかない。なにしろ、その骨子は
・人間は100キロ程度を4日間で歩いただけでは死なない
・元捕虜の証言は鵜呑みにできない(だけど日本軍の戦史は信用できる?)
・一番悪いのは兵士たちをマラリアなどに罹患させたアメリカ軍だ
結局はとんでもない馬鹿女がいたもんである。バターン死の行進は悲惨なものだった。バターンの死の行進と同等以上に悲惨だったのが、オドンネルの捕虜収容所での惨状だった。「バターン死の行進」を歩き乗り切ったとしても兵士たちの苦しみは終わったわけではなかった。結果的には7万6000人のアメリカ・フィリピン軍兵士のうち4万7000人もの兵士たちがなくなった。ただし、そのうちアメリカ兵は2700人であり、残りの4万4000人ほどはフィリピン人であった。日本と米国の戦争であり、日本とフィリピンとの戦争ではない。結局アジア人という弱者がこの戦争で一番犠牲になっている。
●ユサッフェ・ゲリラの証言p110〜
3月31日。この朝、牧師さんに2人の戦争体験者を紹介してもらった。一人は、ディオニシオ・プラスさん、もう1人は、メリコール・モレノさんである。
プラスさんは1922年バターン州サマール生まれの66歳。元フィリピン厚生省の高官で、ユサッフェとして日本軍と戦い、その後ゲリラとして活躍したという経歴の持ち主である。彼の戦争体験はつぎのようであった。
「1941年3月に高校を卒業すると、3ヶ月の軍事訓練のうち、12月に徴兵されました。19歳でした。アメリカはオレンジ作戦によってバターン半島に兵力を集中したので、私は42年1月バランガへ配属になりました。日本軍はその北アブカイに前線基地を築きました。われわれはしだいに南に追い詰められていき、2月にはもう食糧難になり、それから162日間、水のみの生活が続きました。栄養失調でマラリア、伝染病にかかる兵士が増えました。私は無線(無線はなかった)担当で、日本軍と自分の情報を司令部に連絡していました。3月には兵士はついに最南端マリベレスに追い込まれ、兵士の食糧は枯渇し、木の実を食べ、死体の浮いた泥水さえ飲みました。4月3日に爆撃で股にケガをし、8日の朝、日本軍の戦車の音を聞いて、壊れた銃を捨てて逃げました。4月9日の降伏に従って、マリベレスで投降し、死の行進に参加しました」
「4月10日、死の行進が始まると私はその夜、仲間2人と一緒に逃げました。オリオンから小舟で故郷のサマールへ行きました。家族はサマール山のほうへ逃げたあとで会えませんでした。ここで村の女性が日本兵にたくさん強姦されたことを聞きました。女たちはそのため泥を顔に塗り、汚い格好をしていました。私はマラリアが悪化しており、パンパンガ州へ行って5月まで養生しました。その後、体力を回復してからゲリラとなり、ピラーからアブカイ山中で活動しました。日本兵は村に来ては、家探しをしたあと、かならず銃撃していました」
プラスさんは、死の行進を一日で逃げ出し、その後、ユサッフェ・ゲリラになったのである。
もう1人のモレノさんは、1925年バターン州オリオン生まれの63歳。1945年に15歳だったから直接的な戦闘体験はないが、オリオンという激しい戦闘地帯に少年時代を過ごした。
「オリオンの小学校では、日本軍の爆撃のためにたくさんの死傷者が出ました。水田で働いている人が爆弾に直撃され、粉々に吹き飛んだのを見ました。また、日本軍が侵攻してくると、多くの女性が強姦されました。赤ん坊は上に放り投げて、銃剣で殺しました。日本軍は教会に人を集め、ゲリラ狩りのために検問し、名前がゲリラに似ていれば、すぐ殺されました。たとえば、マチューとマティのような場合です。こうして、オリオンでは1000人以上の人々が殺されました。
村の食糧事情は極度に悪く、砂糖、魚はおろか、米もなく(日本軍の略奪のため)。サツマイモの葉、カテオの葉、バナナの芯も食べました。42年から44年の前半にかけて空襲が続き、電気、ランプをつけられず、防空壕によく入りました。日本兵はゲリラを探しており、村の人は赤ん坊を泣かせないよう口を押さえました。見つかると、ゲリラを知っているかと拷問しました」
ゲリラとみなされると、日本軍は連行してただちに処刑したという。
「サマールのカラギヤン村では100人の民間人が連行され、殺されました。いまでも一ヶ所から白骨がたくさん掘り出されます。また、オリオンのブクタン村では30人の男の首を日本兵が切り落としたが、そのなかの1人は首を切り落とされたまま、恐怖と衝撃のため胴体だけで3メートルほど走りました」
日本兵の赤ん坊串刺しの話は、マレーシアでもよく聞かれたが伝聞が多く実際の証言者を探すのは困難であった。しかし、モレノさんの話では4回ほど実際の現場を見たという。日本兵は度胸だめしと「訓練」のため、中国を含めアジア各地でこのような残虐行為を平気で行っていたようである。(略)
4月1日。ロスバニオスにフェリ・オレリエさんを訪ねる。1945年3月5日、オレリエ家に押し入ったに日本兵は、彼女の母親と弟、妹の計5人を殺した。
「家にいた家族では私だけが生き残りました。日本兵が去ってから、5日間私は眠れませんでした。その後も傷口をそのままに放置していたため化膿してしまい、手術で皮膚移植しなければなりませんでした。その後も傷口をそんままに放置していたために化膿してしまい、手術で皮膚移植しなければなりませんでした。いまでも、寒い日にはそのときの傷口が痛みます」
当時24歳であった彼女が一生独身で暮らすことになったのは、もしかしたら、このときの傷が原因ではなかろうかと、私は考えた。
「私たちが2階に上げられる前に、2人の若い娘が選ばれ、別の場所に連れられていかれました。その後、動物のような悲鳴が聞こえました。きっと強姦されて、そのあと殺されたのだと思います」
オレリエさんは、戦後のマニラにおける戦犯裁判に出席して証言している。
「山下奉文将軍が被告席にいるのを見ましたが、彼は虐殺の証拠写真をけっして見ようとしませんでした。ただ、頭を下げたままでした」と法廷の様子を語った。
ユサッフェ・ゲリラとは連合軍西南太平洋司令部の指揮下に属するゲリラのこと。ようは米軍のゲリラ戦部隊のようなもの。
それにしても、おぞましい蛮行でした。まさに人間とは思えません。日本兵は東洋鬼だったのでしょう。女性は平気で強姦して殺害する。人の首を平気で跳ねる。ゲリラだと決めつけたら、ろくに調べもせず殺害する。名前だけでゲリラだと決めつけて殺す。平気で赤ん坊を銃剣で串刺しにする。これでもフィリピンにおける日本軍の蛮行についてしらを切るつもりでしょうか?この世で存在するありとあらゆる武装組織(正規軍、ゲリラ・反政府軍を問わない)の中で人命軽視、残虐非道さにおいて日本軍に敵う組織はないと断言できます。ちなみに元ユサッフェ・ゲリラの兵士と米国の間にも補償問題らしきものがある。ディオシオ・プラスさんはユサッフェの戦いはアメリカと日本の戦争であり、フィリピンの戦いではないと言う。フィリピン解放のための戦いではなく、結局はアメリカのための利益のための戦争だと言う。アメリカ兵の給料は49ペソであり、フィリピン人は18ペソに過ぎなかったと言う。フィリピン人ゲリラの補償は死傷者については行われたが、生きている者に対しては行われなかったと言う。アメリカもフィリピン政府も補償を考えて欲しいと言う。いろいろ複雑であり、考えさせられるものがある。このことは朝鮮人軍人・軍属などと日本政府の間でも問題になっている。
p114〜115
4月2日。朝ジプニーでサンチャゴ要塞に行った。ここは、スペイン植民地時代からの要塞で、アメリカ統治時代は司令部がおかれ、日本占領時代は憲兵隊本部がおかれていた。また、スペイン時代から政治犯や捕虜の収容所として利用された。いま憲兵隊本部跡に建物はないが、ただ地下室が残っているようであった。この地下室は、日本軍が敵のゲリラとかスパイとみなしたものを収容し、拷問を行った場所である。(略)
サンチャゴ要塞を出て、マニラ大聖堂の横を通り、インストラムロスというスペイン時代の要塞都市の跡に入る。ここは1945年も空襲でほとんどが破壊されたが、唯一奇跡的に残ったのが、サン・オーガスチン教会。1571年に建てられたフィリピン最古の石造教会である。(略)
教会ホールのなかに白い四角い台のりっぱなモニュメントがおかれている。この説明文によると、第二次世界大戦のマニラ占領末期に日本軍によって殺された141人の墓であるという。さっそく、教会の警備員にこのことを尋ねてみた。すると、1945年2月、この教会の中庭に住民が集められて、いっせいに銃撃されて殺されたのだという。米軍がマニラにふたたび入るのは2月3日であるから、敗走する日本軍によるフィリピン民衆の虐殺がここでも起きたということであろうか。調べてみると、マニラの軍事法廷で裁かれた山下奉文起訴状にサン・オーガスチン教会の虐殺(インストラムス内600人)と記載されていた。
日本はつくづくフィリピンで虐殺をやりまくったのだなと。敗走中だというがとっとと敗北を認めて、虐殺などせず降伏すればよかったのだが、どうして虐殺という凶行に及んでしまうのであろうか。
p116〜117
4月3日。朝9時すぎにケソン市にあるフィリピン大学の元教授アルセニオ・マニュエルさんを訪ねた。マニュエルさんが保管している日本軍の占領当時の宣伝ビラを見せてもらった。本人は1000万ドルで売りたいというのだ。とても個人で手を出せるものではない。
そのいくつかをここで紹介してみよう。たとえば、「アングロ・アメリカン粉砕! 新生フィリピン建設!」(Crush Angro-American! Build up Philippines!)、「アジアは我が幸せな家族」(ASIA-OUR HAPPY HOME)は5月27日の海軍記念日のもの。アジアの各国旗を持った馬上の人々が円を描き、大東亜共栄圏の民族協和をうたっている。また、アイウエオという片仮名を描いた、「アジアノコトバニッポンゴ」は、日本語教育の宣伝。「アメリカ 日本の赤十字船を爆撃」はアメリカの非人道的行為を非難したもの。大東亜戦略地図(表題は THE WAR OF THE GREAT EAST ASIA)では、アジアから南太平洋全域を、占領地域、親日国家、海軍の戦闘地域、爆撃地域の4つの地域に区別し、色分けしている。
すべてがカラー印刷でみごとな出来ばえである。イラスト、漫画、写真を駆使して「大東亜共栄圏」をフィリピンの人々の意識に植えつけようとしたのだろう。それまでのアメリカ支配を逆手にとって反米親日を訴えようとする日本軍の意図は明白である。
どんな宣伝ビラか見てみたい。必至になって、アジア民衆をひきつけようとしたのだろう。大層な美辞麗句な言葉ばかり並べて、アジア地域の光ニッポンを訴えているが、実態は共産主義国家のアジビラのようなものだ。フィリピンだけではなく、マレーシア、インドネシアなどでも行われただろうが、実態は欧米にかわり、大日本帝国がアジアの盟主になって君臨しようとしたというだけのこと。しかし、それらの地域を引っ張っていくだけの国力・経済力・政策力はなく、経済政策の失敗・失策や軍票乱発による悪性インフレ・経済崩壊、労働者の強制連行、従軍慰安婦、日本兵の奇行や強姦、暴行、殺戮の横行、ゲリラ刈りと称する一般民衆の無差別虐殺、戦況の悪化によりますます苛酷化する圧政によってアジア人の反発が強まっていった。ただ、一部に懐柔に成功したりした層や前の統治国の悪政からくる狂信的親日派(対日協力)層(フィリピンでいえば、マカピリ、サクダルなど)の出現により、同じアジア占領地域内でも被支配民衆同士の対立の部分も生まれた。
p119〜120
1992年4月は「バターン死の行進」から50年で、フィリピン、日本、アメリカ、オーストラリアのキリスト教徒200人が出発点マリベレスに集合してオンドネルキャンプまで150キロの平和行進を行った。
日本軍による住民虐殺の地、バタンガス州リパでは、1992年2月にフィリピン在住16年の三木睦彦氏の努力によって「謝罪の慰霊碑」が建てられた。これは東京、横浜、大阪の市民の援助金によるもので、フィリピンと日本との戦争責任をめぐる心の交流は着実に進んでいる。
また、1995年2月にはルソン島北部のカガヤン州沖でプラチナ金塊が発見され、旧日本軍の隠し資金としていわゆる山下(奉文)財宝だと報じられた。すぐに単なる金塊であることが明らかになったが、現在もフィリピンでは日本軍の残した戦争の傷跡は生きている。
1994年8月には村山首相はフィリピンを訪問し、ラモス大統領と会談し、「過去の歴史を直視し軍事大国にならない」と発言し、フィリピンの従軍慰安婦問題についても言及し、戦後50年を期して途上国援助(ODA)による女性の職業訓練センター設置を約束した。すでにフィリピンでは日本軍の慰安婦にされた200人が名乗りをあげて補償を要求しているが、職業センター建設では補償にならないとして不満が高まっている。また、現在、約2000人いるといわれるフィリピン残留孤児の問題、すなわち敗戦後の混乱で両親と離ればなれになった日本人移民の子どもたちに、肉親さがしと国籍回復の問題が起きている。さらに、フィリピンから日本人男性とフィリピン人女性のあいだに生まれた子供の問題、日本にいるフィリピン女性労働者の問題への保護、援助が日本政府に要請されている。
日本軍がアジア・太平洋戦争中に残した問題が今もほとんど解決を見ず山積している。もちろん、戦後の日本企業や日本人、日本がフィリピンに対して引き起こした問題も多い。しかし、良識派である日本人もいっぱいいる。すでに日本の戦争責任をめぐるフィリピンとの心の交流は進んでいる。しかし、そう簡単に日本軍の占領支配の残酷さや戦争の爪痕は簡単に消えるものではない。フィリピンに対して、日本はたった3年ほどの支配をしただけだが、アメリカやスペインの数百年の植民地支配をはるかに凌ぐ残虐な統治を行った。フィリピン人同士でも殺し合わせることをした。もはや過去には戻れないし、行ってしまったことは取り返しはつかないが、やってしまったことに対する償いはきちんと行うべきである。