2006年02月26日

『世界204ヶ国を旅して』の管理人の答え。

世界204ヶ国を旅して
http://tabisite.com/ というサイトの管理人に質問をぶつけてみました。


●質問
はじめまして。右翼討伐人といいます。参照先のURLに私の管理するブログのサイトを書き込んでおきました。メールはuyotoubatsunin@yahoo.co.jpです。よろしくお願いします。
私は大日本帝国の侵略・戦争加害について関心をもつ者です。世界中の多くの国・地域を旅しているということですが、特に韓国、北朝鮮、中華人民共和国、マーシャル諸島、ミクロネシア、パラオ、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東チモール、フィリピン、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ナウル共和国、キリバス共和国の国々、サイパンを含むマリアナ諸島、サハリン、千島列島、グアム、玉砕のあったアッツ島を含むアリューシャン列島、アンダマン・ニコバル諸島、の日本に植民地下されたり、占領されたり、戦場になったりした地域を旅行されていると思いますが、日本軍によって強制労働されたり、憲兵隊によって拷問されたり、従軍慰安婦にされた女性、虐殺・暴行・強姦などによる犠牲者遺族・被害者自身の話を聞いたことはありますでしょうか?また、大日本帝国および日本軍が行った残虐行為について旅行中見聞きしたことはあるのでしょうか?情報をお待ちしています。http://tabisite.com/kunijoho/timor.htmというページにて、東チモールおよび西チモール旅行中、日本時代を懐かしみ、よかったという人がいたということですが、日本軍による被害者には会わなかったのでしょうか?
http://peaceact.jca.apc.org/paml/5100/5119.htmlによれば、日本軍により食糧の供出や強制労働、そして従軍慰安婦にされたり、強姦されたりした被害者が多くいたようで、東チモールの人々にとって日本軍占領時代は地獄のような世界だったようですが、そのような話は聞かなかったのでしょうか?お手数ですがよろしくお願いします。


●管理人の解答
>日本軍によって強制労働されたり、憲兵隊によって拷問されたり、従軍慰安婦にされた女性、虐殺・暴行・強姦などによる犠牲者遺族・被害者自身の話を聞いたことはありますでしょうか?
ありません

>大日本帝国および日本軍が行った残虐行為について旅行中見聞きしたことはあるのでしょうか?
ありません

>日本軍による被害者には会わなかったのでしょうか?
会いませんでした。ただし、親族が被害者という人には韓国で会いました。

>日本軍占領時代は地獄のような世界だったようですが、そのような話は聞かなかったのでしょうか?
文献上で読んだことがあるだけ。

東チモール以外の太平洋諸国でも日本統治か時代が良かったという人ばかり。文献から予想していた事実とあまりに違うので、私自身非常にと惑いました。
もっとも旅行者ですから、好意を持った人が話し掛けてくるのだとも考えられますよ。

ご自分で訪れ、確かめることを切に希望します。
それも早急に! 生き証人がいるうちに…もう遅いかなぁ。
このような場で私が言える事はそれだけです。


管理人の方は文献を読んで勉強はされているようです。実際のところはギャップがあり、ほとんど被害者と呼べる人に出会わなかったようです。日本軍が行った残虐行為についても見聞きすることはなかったようです。戦後半世紀以上たったいま、風化が激しいのでしょうか?管理人さまはこうおっしゃっています。『もっとも旅行者ですから、好意を持った人が話し掛けてくるのだとも考えられますよ。』もしかしたら、日本軍によって酷い目にあわされて恨みを抱いている人は旅行者である日本人なんかにわざわざ話かけたりすることは考えられないでしょう。旅行者という立場ではなく、積極的に大日本帝国の侵略・戦争加害を反省する気持ちでもって、相当下調べして長期間掛けて、被害者の方で話を聞きたいという一心で行くということがないと実際のところ出会うのは難しいかもしれません。自分自身で歩いて、自分自身で確かめるしかないですね。しかし、お金と時間がございません・・・・(泣)
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 21:13 | Comment(22) | TrackBack(14) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

むじなさまへ part3

答えることが忘れていた部分がありました。

高砂義勇隊の記念碑撤去のお知らせ
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13440456.htmのコメント欄より
当のタイヤル族からなるタイヤル族民族議会は、祈念碑の撤去に反対しています↓。

http://taiwandaily.com.tw/news.asp?News_no=17616&News_class_NO=04&Up_date=2006/02/24
高砂義勇軍紀念碑北縣府今移除  泰雅爾族批周錫造成對立希望史、人文及民間交流各自回歸勿以政治干預

もちろん、彼らだって、日本人右翼が勝手に押し付けた碑文の内容を完全に賛成しているわけではありませんが、しかし今回の国民党の台北県長が公権力を発動して「撤去させる」という権力行為は、白色テロそのもので、おかしいということです。

碑文内容が不適当だと思うなら、改善を求めればいいだけのこと。
ただちに「撤去する」という権力発動に向うのはおかしいし、それを「右翼討伐」といっている人が、何も疑問に思わない神経があきれる。

あなたがたは、国民党ファッショ集団の権力的な行動を支持するのか?だとしたら、あなたがたこそ右翼でファシストというべきだろう。

とにかく、タイヤル族は撤去に反対している。
それを日本人が勝手に「撤去に賛成」するとしたら、あなたがたは帝国主義民族として、かつて支配してきた台湾原住民の意思を踏みにじることになる。それもファッショ的で帝国主義的な行為といえる。

25日の台湾・原住民テレビのニュースでは、台北県政府が強制撤去したことについて、批判的に報道していました。
とくにタイヤル族民族議会などの先住民団体や学者たちは、「問題のある碑文を覆って隠すこと」は同意したものの、強制撤去に反対していることを主に伝えていました。

台湾原住民(先住民)自身は、撤去に反対しているのに、撤去に諸手を挙げて賛成する「右翼討伐人」って、一体、何者ですかな(わら)


どうやら、台湾原住民は大方慰霊碑の撤去に反対しているようですね。一方で撤去に賛成する原住民の側もいると思います。別に慰霊碑はともかくとして碑文の先の大戦が聖戦であり、高砂義勇兵として死んだ人たちがその聖戦のために偉大なる戦死を遂げたという大日本帝国賛美部分を書き換えて、先の大戦は日本の侵略戦争でありどうのこうの・・・・という風にすれば、撤去しなくてもすみますしね。原住民の多数派の意思を尊重してみることにします。私は撤去に賛美してましたが、少し考え直しました。ただ、日本の右翼勢力や日本の政界の政治争いにしてはいけないと思います。台湾では日本軍によって65万人が犠牲になりました。そして、台湾の原住民は日本の植民地下で特に苦難に喘ぎました。原住民の人口は少ないですが、日本軍による原住民大量虐殺に起因するとされています。その辺の歴史を日本人として忘れてはいけませんね。ところで、むじなさまはマレーシアやインドネシアなどの東南アジア諸国へ行ったことがあるのでしょうか?日本軍占領時代を経験した方々にお会いしたことがあるのでしょうか?
むじなさまへ part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13831718.htmlでも書きましたが、
日本の現代史と戦争責任についてのホームページ
林博史研究室
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/というホームページが参考になると思います。私はちなみに日本から一度も出たことはありません。しかし、林博史研究室のホームページをつぶさに読む限りにおいては、日本軍占領時代は長い欧米の植民地時代よりも比較にならないほど過酷で、多くの傷をアジアに残したといいます。日本軍占領下がよかったとか、その背景には日本よりも酷い欧米の植民地支配があるということ自体、妄言だと思います。台湾については現在台湾にお住まいで、いくつかの著書を出していらっしゃるということですが、台湾、韓国、中国以外のアジア・太平洋諸国については行ったことはなく、あるいは戦争中の話を聞いたことがなく、無知なのではと思いました。アジア・太平洋諸国における大日本帝国の植民地時代・軍事占領時代をどう位置づけるかという点で大同小異で私はむじなさんと違わないと書きましたが、その辺大きく違うようですね。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:47 | Comment(7) | TrackBack(76) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

むじなさまへ part2

『世界204ヶ国を旅して』というサイトの管理人に聞いてみる。
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13782492.htmlでのむじなさまのコメントより
>日本時代がよかったという証言が飛び出しているのです。にわかに信じられません。

それはね、日本が来る以前の支配者のほうがひどかったからだよ。

実際、あなたが行けばわかること。

南洋諸島に限らず、インドネシアやマレーシアのマレー系(華人系じゃなく)、それから旧満州の朝鮮人は、一般的に日本軍政支配時代を評価する傾向があるのね。

それはなぜかといえば、インドネシアを支配したオランダ、マレーシアを支配した英国、満洲を戦後支配した中国と比べたら、日本のほうがまだしも現地人を公平に扱ったから。

これらの地域は、日本の侵略以前もそれ以降も基本的に植民地だった。同じ植民地の中で比較して日本が「まだマシだった」といっているわけ。

それは考えてみれば、非常に悲しい運命を背負っていたということ(あの日本ですらマシに見えるほど過酷な歴史の連続だったということ)。

そうした過酷な歴史的背景に考えが及ばないで「信じがたい」などといって、南洋諸島などの人々の感情を頭ごなしに否定するあなたは、まさに帝国主義者というべきもの。

あなたは「日本を評価する」からそれを間違いだと思いこむとしたら、それは「日本を評価する」からといって喜んでいる右翼の単なる裏返しをしているに過ぎない。
彼らが「日本を評価する」のは、決して日本の右翼を喜ばせるためではなくて、彼らの過酷な運命と歴史を示しているものだと、なぜ、考えられないのか?

あなた頭の固さと悪さを哀れに思う。


私は頭は柔らかくないですし、良くはありません。しかし、日本が来る以前の支配者のほうが酷かったという見方には到底同意できません。日本軍の支配のほうが以前の支配者(欧米)よりもはるかに酷いです。大日本帝国・日本軍は悪の化身であり、暴力性と凶暴性ではもちろん、地域によって一概にはいえない点があるものの、史上存在した軍隊の中では圧倒的一位であり、他の追随を許さないものがありあす。その証拠として

http://www10.ocn.ne.jp/~war/rape.htmより
・・・・しかしこのたび中国においては、惨殺のほかにさらに普遍的に強姦と略奪が行なわれている。これは日本の紀律の一歩進んだ破壊であり、日本の前途にとって意義は非常に大きい。九・一八以来、敵軍が東北で婦女を強姦することは、もともと、常のことであったが、総じて今回のように普遍的で残酷なことはなかった。南北の広大な占領地で善良な女性を蹂躙することは極点に達している。一つの城鎮が占領されると、汚辱したのち、さらにこれを惨殺する。幼女で辱められて死に至るものは数えきれない。多くの地方では、幾百幾十の婦女が拘禁され、終日、裸にされて辱めを受けている。この種の多大な獣行は南京などの外国人が見聞しており、報告はたいへん多く、書きつくせない。中国の盗匪は婦女の強姦をつよく戒めており、犯すものは仲間に受け入れられない。日本の軍人はなんと盗匪よりはるかに下であり、強姦したのち殺害するにいたっては、さらに残酷卑劣で形容しようがない。敵軍はなぜこうなのだろうか?本質上からも解答を探し出すことができる。なぜなら全世界でもっとも女性を蔑視しているのは日本だからである。そしてこのたび敵軍が中国でこのような獣行をはたらくのは、主要には自らを征服者と思い、中国人を人とみなしていないからである。

(「漢口大公報 社説:敵軍の紀律問題の本質について 民国27年2月11日」南京事件資料集A中国編P-38)


当時の日本軍は中国の盗匪以下の存在した。特にフィリピン、中国大陸では婦女レイプをやりまくりました。アジア・太平洋地域で女性を強制連行し、女性を日本兵の性家畜として強制労働させました。その女性たちは一日で何十人もの日本兵によってレイプされました。日本軍による集団レイプであり、これ以上に女性レイプで悪質なものは現代に至るまでに日本軍に勝る武装集団はないはずです。

東ティモール全国協議会ホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/のHPをみていただきたいのですが、日本軍占領下の東ティモールは地獄でした。婦女子は根こそぎ連行されて、日本軍によって集団レイプされ続けたのです。強制労働・食糧供出、飢餓および虐殺によって東ティモールでは人口の一割にあたる4万人以上が犠牲になったのです。本来ならば、日本軍時代がよかったという証言はでないはずです。インドネシア統治時代はともかくとして、日本軍以前のポルトガル支配では4万人以上も死んでません。短期間で人口の一割ということは何十年も続いたポルトガル支配よりもすさまじいものがあり、『同じ植民地の中で比較して日本が「まだマシだった」といっているわけ』という要素などあるはずはないのです。
マレーシア、インドネシアについては、林博史研究室のホームページを参考にしたいと思います。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
たとえば英領マレーでは、ゴムとスズをアメリカに輸出し、タイから米を、イギリスから工業製品を輸入するという貿易構造だった。基本的に東南アジアから原材料を輸出し、欧米から工業製品を輸入する構造だが、宗主国との二国間ではなく多角的な構造になっていた。
 ところが日本の占領により、このネットワークが寸断された。日本は東南アジアの原材料を受け入れるだけの工業力はなく、工業製品を提供できる能力もなかった。英領マレーでは、ゴムとスズの生産は減少し、一方米の輸入が途絶えて食糧不足になった。工業製品が入ってこなくなり物不足が深刻化した。そうした中で日本軍は軍票(占領地で発行した紙幣)を流通させた。普通、紙幣には番号が付けられ、経済状況にあわせて発行量が調整されるが、軍票には番号がない。そして必要な物資の買い付けのために軍票を乱発したのですさまじいインフレが襲った。シンガポールの物価指数は、開戦時の一九四一年一二月を一〇〇とすると、翌年一二月には三五二、四四年一二月には一〇七六六、四五年八月には三五〇〇〇と三五〇倍になっている。特に米は開戦時、六〇キロが五ドルだったのが、四五年六月には五千ドルと一千倍になっている。
 経済が破綻して職を失い、食糧が不足する中で、人々は庭や空き地を耕してさつまいもやタピオカを作った。タピオカはキャッサバ(いも)から作ったでんぷんであり、マレーシアの人々は、日本占領時代を「タピオカ時代」と呼んでいる。

日本軍占領下のマラヤではすざまじいインフレが進行し、経済が破綻する中で、さらにタイからの米の輸入が途絶えて食料不足になったのである。英国植民地下では衣食住には苦労しなかただろうし、日本軍占領時代が「タピオカ時代」として呼ばれるほど厳しかったことを考えれば、マレーシアについても日本軍占領時代を評価する傾向どころか、日本軍占領時代をほとんどの人は苦難の時代として憎んでいるということがいえると思う。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
 インドネシアの中では、スマトラが石油の供給地とされ、人口が多く食糧が豊富なジャワは米と労働力の供給地にされた。
 ロームシャという言葉はインドネシア語になっている。行政機関を通じて強制的に徴用されたロームシャはジャワ島内だけでなくマレー半島やビルマ、太平洋の島々にまで連れていかれた。泰緬鉄道をはじめ過酷な労働や病気、飢えなどにより多くの犠牲を出した。約四〇〇万人がロームシャにされたと言われている。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htmより
 当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきたインドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。

「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」


日本軍がアジア地域でやったことは数十年、数百年と支配した欧米の比ではないということ。泰緬鉄道についても、欧米の植民地主義者とは比べ物にならないほどアジア人の命を粗末に扱い、多くを虐殺し、死に至らしめたのである。

映画「ムルデカ」が決して描かなかったこと。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/4551/ciner02.htmによれば
オランダは、20世紀初期までにアチェとバリ島を含む全諸島を支配下においた。1928年、スカルノらによりインドネシア国民党が結成され、公然と独立を呼びかけた。第二次世界大戦中、日本軍は1942年、諸島を占領した。インドネシアは当初日本によって、独立が達成されることを期待した。しかし日本の軍政は、オランダ統治時代より悲惨なものだった強制労働により多くの国民が死に、天然資源、食糧の搾取により農業生産は低下し飢饉が襲い、餓死者が多数でた。反乱も多発し、日本軍により鎮圧された。日本の無条件降伏の二日後、1945年8月17日、スカルノはインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシアの再植民地化をねらうオランダは武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まった。インドネシア軍の抵抗と国際世論の非難により、オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグにおける会議で、独立が合意された。


日本軍のたった3年間の占領だったが、オランダ時代よりも過酷だったのである。ポルポト政権下のカンボジアだと思ってもいい。強制労働によって多く死に、食糧搾取による飢餓によって多数の餓死者がでた。大戦中のインドネシアの死者は200〜400万人であり、オランダが蘭印で反乱等により処刑したり虐殺したインドネシア人の総数を越えるとみていい。イリアンジャアやカリマンタンなど一部の地域が戦場になったものの、ジャワやスマトラなどがほとんど戦闘もなく、平時に近い中であってこれだけのインドネシアの民間人が犠牲になるのは驚くべきこと。
これで、インドネシアとマレーシアにおいて『同じ植民地の中で比較して日本が「まだマシだった」といっているわけ。』という妄言などでてくるわけはありません。もし、日本軍時代がよかったという人がいるとすれば、ごく一部の対日協力者で日本軍占領時代おいしい思いをした人だけです。アジア地域だけでも何千万人と殺しているわけです。たった3年間の日本軍の占領下で殺されたり、強姦されたり、暴行を受けたアジア人の被害者・犠牲者の総数が欧米の植民地下におけるそれと比較にならないほど厖大であることは疑いようの余地がないと私は思います。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper19.htmより
 マレーシアに滞在していたある人は、東マレーシアのサラワクの映画館で「ライジング・サン」という第一次・二次世界大戦のドキュメント映画を見たとき、映画のラストシーンに原爆の雲がでてく ると、見ていた華人の観客が一斉に大きな拍手をしたのに心底驚いたという経験を語っている(荒川 純太郎「アジアの民衆から見た日本」)。原爆についてのこのような受け止め方は、日本軍によって痛めつけられた華人だけではない。分断 統治のために利用されたマレー人の場合を、マレーシアの作家イスマイル・フセインが語っている。
 「原爆の投下をラジオで聴いて、家族は、大変な技術の進歩だ、三日間で長い間の戦争に終止符 をうってくれた、と話していました。長い間のマレーシアの苦しみがこれで終わって、戦争から解放 されたという興奮がマレーシアの村々を駆け巡ったのです」(『反核と第三世界』)。

 インドネシアのジャワでも、原爆投下の話を聞いた街の人々は喜び、一人のイスラム導師は「日本は神から罰せられたのだ」と語ったという(中村平治はか編「アジア一九四五年」)。原爆の投下は、けっしてアジアの解放のためではなく、むしろアメリカによる冷戦の開始を告げる ものであり、人類にとって核時代という新たな危機の時代を示すものであるが、アジアの人々は、原 爆を日本の圧政からの「神の救い」と受け止めたのである(高嶋伸欣『族しよう東南アジアヘ』)。


原爆はアジアにとって「神の救い」だと考えられているのですね。私は日本人として原爆を正当化しようとは思いません。しかし、当時のアジアの人々は原爆の到来を日本軍による圧政からの救いの神だとあがめたという事実については認めないといけないでしょう。以上が私の意見です。むじなさんこそ、20万人以上の女性を借り出して、日本兵のための性家畜として扱ったり、その凶暴な日本軍によって多数の無辜の民間人が犠牲になったという事実を前にして日本軍以前の歴史的背景など歴史的事実を直視すれば、目に入らないはずです。戦後の経済発展のことならともかく、日本軍占領期を評価する意見があれば、私は疑います。『・・・信じがたい」などといって、南洋諸島などの人々の感情を頭ごなしに否定するあなたは、まさに帝国主義者というべきもの』というのは侵害です。日本軍の尋常ではない残虐行為事実を知っているならば、頭ごなしに否定してくなるのはかつての加害を与えた国の国民である日本人としてはごく当たり前の反応だと思います。もし本当に日本軍を評価する人がいるのであれば、その背景を疑うべきです。日本の右翼勢力から金をもらっているではないだろうか?対日協力者としておいしい思いをしたり、日本軍によって懐柔された層の人間であるとか・・・etc。私の意見は以上です。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:08 | Comment(8) | TrackBack(0) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

むじなさまへpart1

とりあえず、コメント欄ではなく、ブログの記事にして意見を申し上げたいと思います。

高砂義勇隊の記念碑撤去のお知らせ
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13440456.htmlのコメント欄におけるむじなさまの意見について、

結論をまず最初に言いましょう。私個人としてはむじな氏とこれ以上争う理由はないと思っています。第一に私の人としてみる基本中の基本である大日本帝国について、韓国や中国、台湾、東南アジアを占領し、植民地化したり、軍事占領したことを侵略であるということについては一致します。大日本帝国を憎み、近隣諸国に与えた被害や苦痛について贖罪感情をもち、反省し、歴史を美化したり、加害事実を否定、矮小化したりする右翼勢力を憎むという点も一致しています。台湾やその他の点についての私とむじな氏の認識の違いなど、むじな氏と日本人として基本的常識が一致している私からすれば、大同小異であり、これ以上争う必要はないと考えています。ただし、2点だけ。

まず、1点として
だったら、同じように、米国や中国が、本来他人の土地である南洋諸島、あるいはチベットや満洲を、勝手に自国の領土に併合することも、日本帝国主義と同じことをやっていることになるんじゃないの?

違いますか?

ところが、君は米国や中国のやったことならすべて正しいという。いっていることが、支離滅裂でダブルスタンダード。


とおっしゃってますが、私個人としては米国が太平洋戦争で日本を破った際、日本が植民地として統治していた南洋諸島を再び米国が委任統治領として統治したことを侵略という見方に反対していません。また、チベットに中国軍が侵攻したことも然りです。また、『米国や中国のやったことがすべて正しい』となんてそんなこと一言も書いてませんし、きめつけないでください。
ただし、個人的な見方をすれば、南洋諸島については大日本帝国の植民地支配はすさまじいものがありました。特に戦時下にあっては、日本軍兵士が多数駐屯し、島民の古来からの土地を奪われたりしました。戦争も中盤に差し掛かると関東軍や中国大陸に派兵されていた部隊が転戦させられて、南洋諸島にやってきます。それらの日本軍部隊は粗暴きわまりないものでした。島民から食糧を徴発し、スパイ容疑で島民を拷問したり、処刑したり、島民から慰安婦を調達したり、兵士たちが女性を拉致したりして集団レイプし、ヒトラーやスターリンも真っ青の軍隊の規律もなく、軍隊の形をなしていない軍閥のような集団でした。戦況が悪化すると、制海権が奪われ、孤立し、補給や兵站が断絶した各々の島々では多数の兵士とともに住民は飢餓地獄に陥りました。そうした中で、日本軍を駆逐した米軍を解放軍として南洋諸島の原住民たちが迎えるのは当然のことです。
チベットについていえば、国際法上は一貫して中国の領土であり、一度も独立国家として認められたことはありません。ただし、辛亥革命以来一貫して独立状態だったことは事実です。国共内戦を勝ち取った人民解放軍がチベットに進駐したことが、侵略だったかどうかを考えるときは人それぞれであると私は考えます。ただ、チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳によれば、チベット社会は腐敗しており、僧院が頂点として牛耳る搾取社会でした。特に東チベットが酷く、匪賊集団が牛耳るような酷い社会だったようです。そうした中で中国の人民解放軍に対して、多くの人々が敵対したどころか、解放軍として迎えて、協力しました。当初あっさりとチベットの広大な地域をほとんど抵抗もなく主権を確立することができた背景にはこういう点があることも見逃せません。ただし、中国共産党がチベットにした政策を手放しに賛美することはできないと思いますし、多数の問題があり、歴史の批判を受けるべき点は当然あると思っています。ただし、一般の日本人、まして右翼が中国を非難する権利はないと思います。日本軍が中国の大地を踏みにじり、2000万人ともいえる中国人を殺しました。731部隊による人体実験、日本軍による国際法違反の毒ガス・細菌攻撃、三光作戦、南京事件に対して、誠意のある贖罪意識をもたず、罪の呵責を感じてもいない一般の日本人がチベットどうのこうのを言うべきではありません。そのことは申し上げておきます。もう一つは

『世界204ヶ国を旅して』というサイトの管理人に聞いてみる。
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13782492.htmlでのむじなさまのコメントですが、同意できない点がありますのでpart2で書きます。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 17:55 | Comment(10) | TrackBack(0) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

終戦後も寛大中国人に感謝

終戦後も寛大中国人に感謝 2006年02月22日
http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000150602220001
 滝達雄(77)=彦根市

 私は南満州鉄道(満鉄)に就職するため、14歳半ばで旧満州(中国東北部)へ渡り、1947年に帰国するまでの4年間、戦争の明暗を体験した。終戦の年の晩秋、炭鉱へ連れて行かれ、爆破作業など危険な作業の毎日だった。落石で亡くなった同胞の霊が今もそのままと聞く。

 終戦後は日中の立場が逆転したが、炭鉱にいた中国人は同じ職場の仲間として扱ってくれた。寒い日にはカエルを捕ってきてストーブで焼き、「食べないと死ぬ」とすすめてくれた。「なぜ、どうして」と思った。雑穀しか食べられない当時、カエルは唯一の栄養源で、「謝謝(シェシェ)」と礼を言って口に運んだ。

 先日、残留日本人孤児を育てた中国人養父母を取り上げたテレビ番組を見て涙した。同様の事例が多いと聞いている。「敵国の子」なのに、なんて寛大なことだろう。なぜ日本はこのような国の人たちとしっかり手をつなげないのか、日本の未来を憂う。


4日前だけどいいニュースだと思った。残留日本人孤児を育ててくれた中国人の方々には頭が上がらない。中国大陸を侵略した加害者であり、殺されたり、暴虐に喘いだ中国人にとってはたくさんの中国人を殺した東洋鬼子であろう。満州の炭鉱ということだが、満州の炭鉱には過酷な労働の中、死亡した中国人労働者を廃坑や山あいに放り込んだ。一日に何時間も重労働させ、ほとんど食事も与えず、また、病気や怪我をしても治療もさせず働かせた。こういう過酷な重労働の中で、多くの中国人労働者が死亡。拷問やリンチによる死者も多く、廃坑や山あいに放り込んでいく死体が増えて、万人坑ができあがったのである。敗戦後、日中の立場は当然逆転するが、炭鉱にいた中国人労働者に同じ仲間として扱ってくれたこと。カエルまで捕ってきて、食べさしてくれた中国人に対して感謝を述べているが、加害に関するものは「私もかつて中国人を虐げたことがある同じ日本人なのに」というだけである。それがちょっと気に入らないと思った。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 16:57 | Comment(6) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『世界204ヶ国を旅して』というサイトの管理人に聞いてみる。

世界204ヶ国を旅して
http://tabisite.com/
というサイトを見つけました。ここで、大日本帝国の侵略・戦争加害情報をもっていないかどうかぶつけたいと考えています。

東チモール情報
http://tabisite.com/kunijoho/timor.htmというページにて
感想
 『大昔に外国人が地図上だけで引いた線にこだわって独立する意味があるのか非常に疑問。別国の占領時代が長く、文化が違うとの主張での独立だが、占領時代に影響を受けたのは港町だけ。内陸の開発は一切なされず、大半の地域の文化は東西チモールで同一である。ジャワ人の支配に抵抗するなら東西チモール共同してせめてテトゥン人が団結せねば意味がない。産業もなく、将来採掘されるであろう海底資源を当てにして独立してやっていけるのか。』などと独立前から批判的に思っていたこともあり、自分の中に訪問したという盛り上がりがありませんでした。入国前に発生した暴動も、やっぱりという感じだったのです。
 訪問しての感想は、「これではUN、特にオーストラリアの植民地。」。オーストラリアの巨大な基地は要塞のようです。先進国と同様な品物を並べるスーパーの客は外国人ばかり。レストランも同じ。ビーチでも車で遊びに来る外国人が我が物顔。UNの建物の前には英語での求人広告。……。
 うれしかった事を一つ。外国人がまず飲まないであろうヤシ酒を飲んでいて、日本語を戦時中に覚えたおじいさんに会いました。日本時代は良かったととても懐かしそうに話してくれ、ちょっとだけ幸せな気分に。西チモールでも同様な事がありました。たった3年間日本軍がいただけなのにね。


日本時代がよかったという証言が飛び出しているのです。にわかに信じられません。

たとえば、言うまでもなく、
[paml:05119] 賛同依頼:日本の東ティモールにおける戦争責任についての申し入れ
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13536399.htmlより
 日本軍は、村長やリウライ(伝統的な首長)に命じて、住民の乏しい作物や
家畜を徴用し、住民を軍用道路やバラック建設のために働かせました。駐屯地
には「慰安所」が開設され、脅迫によって集められた多くの女性が長期にわたっ
て性的暴行を受け続けました。占領の後半では、日本軍は制海・制空権を失い、
物資の補給が途絶したため、収奪のレベルは高まり、「慰安婦」も含め日本軍
に酷使される人々に食糧の自己調達を強いるような事態となりました。また、
日本軍は、連合軍兵士や連合軍を支持するポルトガル人を助けた住民を容赦せ
ず、彼らを捕え、拷問し、処刑に至る例も多々ありました。日本軍への協力を
拒んだ村長やリウライは討伐の対象になりました。あるリウライは女性を差し
出すことを拒否して処刑されました。一方日本軍に協力した者は、戦後ポルト
ガル政庁によって恣意的な報復を受け、アタウロ島の監獄に収容された多くの
人が、栄養失調と虐待により命を落としました。


ということで、東ティモールの人々は日本軍占領中想像を絶する迫害を受けたのです。書k量の調達、労働力の供出、労働力の酷使、そして性奴隷です。これらの証言に接することはなかったのでしょうか?
世界のほとんど各国を旅しているということは、日本軍が占領したアジア・太平洋地域のほとんどを旅したことになり、住民の対日感情や日本軍占領時代を知る人物などにであった可能性が高いと思います。その辺はどうなのでしょうか?質問してみたいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:07 | Comment(9) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

「日の丸・君が代」強制やめて 都教委に 都立高31校の保護者ら要請

「日の丸・君が代」強制やめて都教委に 都立高31校の保護者ら要請
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-02-24/2006022414_02_0.html
 卒業・入学式を前に、都立高校三十一校の保護者と元保護者の有志が二十三日、卒業・入学式における「日の丸・君が代」の強制をやめ、生徒や教職員の自主性を尊重するよう都教育委員会の中村正彦教育長へ要請、現役の高校生も参加し都庁内で記者会見しました。

 「日の丸・君が代」をめぐっては、都教委が二〇〇三年十月に出した通達によって強制が加速。今月十日には、公立学校長あてに強制指導を徹底するよう求める教育庁通知を出しています。

 記者会見で保護者らは、強制に反対する教職員が不当処分されるなか、「一番自由に物がいえる保護者として責任を果たしたい」と強調。思想・良心・信教の自由を尊重するよう求めました。

 戸山高校卒業生の保護者、森田麻里子さんは、「『起立斉唱しなければ先生が処分される』という恐怖感を子どもたちに与えている。都教委は、どれだけ子どもを傷つけているか考えてほしい」とのべました。

 さまざまな国籍の生徒が通う国際高校三年生で在日朝鮮人の女子生徒は「生徒の自主性を大切にし、国籍に隔たりなく学べる学校だと思ってきたのに、最後の最後になぜ押しつけをするのか理解できない」と話しました。戸山高校三年生の男子生徒は「先生を人質に、指導されているようで悲しい。自分で考え、生きる力をつける教育を押さえ込むのはおかしい」と憤りを語りました。


本当にこの国には正義がないのかと思う。君が代起立斉唱強制などもう古い。たとえ教職員であっても許されることではない。教育というのは子供たちを教える場で権力が教職員の思想・信条の自由を犯し、反対する教職員を処分するファシスト的な教育現場を見せ付けることが子供たちの健全な教育の場にとってふさわしいわけがない。そもそも君が代など古い。それに大日本帝国の天皇ファシスト体制の頂点、天皇という存在を賛美する君が代を教育の場で流すことが戦前・戦中に回帰させ、私個人としても気持ちよくないしやめてもらいたいね。君が代という時代錯誤の国歌を一刻もはやくかえるべきだし、そんなものがいまだに国歌として残っていることは、大日本帝国の被害者や犠牲者自身の尊厳を汚すものだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:14 | Comment(4) | TrackBack(5) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国際派弁護士、金敬得氏を偲ぶ

国際派弁護士、金敬得氏を偲ぶ 2006/02/25
http://www.janjan.jp/living/0602/0602240807/1.php?PHPSESSID=89e8f7e60dd5a7f2dd373fa809276843
在日コリアンの人権運動の現場で、常に中心となり活躍してこられた金敬得(キム・キョンドク)弁護士を偲ぶ会が、友人・知人たちの主催で25日に東京全電通会館で開催される。

 金敬得弁護士は昨年12月28日、胃がんでご逝去された。享年56歳。最初に訃報を聞いたとき、2004年にソウル市明洞のホテルでお会いした時のお元気な姿が思い出された。そして、まだまだ金弁護士にはやりたいことがあったに違いないと胸が痛んだ。

 金弁護士は、日本に住む外国人が弁護士になる道を開いた人物である。彼が弁護士になることを決意したのは、大学4年生の時に、大きな就職差別の壁にぶつかったからだ。実は金弁護士は大学を卒業するまでずっと、韓国・朝鮮がイヤで日本人のフリをして生きていたという。しかしずっと葛藤が続いた。隠して生きていくか、堂々と韓国人として生きていくか――。

 ずいぶん前に金弁護士の講演を聞いたときに、“自己奪還”という言葉を使ってお話くださったことを覚えている。

 「大学を卒業するまで否定し続けた自分を取り戻すために、自己奪還のためにやれることを考えた。そうしたらやはり差別から逃げてはいけない、差別の壁にぶち当たって差別の壁を叩き潰さなければならない。そう決意した」。そうして選んだ職業が弁護士だった。

 司法試験に合格したのは1976年。しかし合格してもすぐに弁護士になれるわけではない。まずは「司法研修院」に入らなければならないが、当時、外国人は司法研修院に入所できず、弁護士資格の取得が不可能だった。日本人への帰化を勧められるが、弁護士資格に国籍条項があるのはおかしい、とそれを拒否し、国籍条項撤廃運動をスタートさせた。

 その結果、日本の多くの法曹家が金弁護士に同調し、10年以上はかかると思われた闘いも1年で決着がついた。1977年には日本の司法部は国籍要件を緩和して、彼が弁護士になることができる道を開いた。そして現在では40人ほどの在日コリアンが、韓国・朝鮮籍を維持したまま、弁護士資格を取得している。

 差別と闘う在日コリアンの求心的な存在として、金弁護士はこの26年間、指紋押捺(おうなつ)拒否事件、元日本軍慰安婦の戦後補償、東京都管理職試験受験資格確認訴訟など、外国人の人権擁護のための裁判にかかわるとともに、定住外国人の地方参政権獲得や民族共生教育を目指す運動に取り組んだ。そして、祖国韓国においてもソウル地方弁護士会名誉会員として活躍した。

 ありきたりな表現しか思い浮かばないのだが、本当に惜しい人を亡くしてしまったと、彼の足跡を辿るたびに思われる。

 「偲ぶ会」では、金弁護士が在日コリアンの人権運動の足跡を辿り、彼の残した業績を称え、故人を偲びあいたいと関係者は語る。

■金敬得弁護士を偲ぶ会
日時:2006年2月25日(土)13時〜15時
  *開場12時〜13時まで自由献花/会終了後15時〜16時献花
場所:全電通ホール
 ◇東京都千代田区神田駿河台3−6 電話03(3219)2211
  ◇JR御茶ノ水駅、地下鉄千代田線新御茶ノ水駅、丸の内線淡路町駅、
   都営新宿線小川町駅から各徒歩5分以内。駐車場はありません。
会費:1,000円
  ◇事前の申し込みは不要です。
  ◇平服でおこし下さい。

<連絡先>
〒160−0004 東京都新宿区四谷3−3 J&K法律事務所内
電話03(3359)8831 FAX03(3359)8832


金敬得弁護士の逝去は悲しむべきことです。金敬得弁護士は在日韓国人でありながら、弁護士をめざすのですが、最初の戦いは弁護士資格取得の国籍条項撤廃だった。日本国籍をとるようにすすめられたが、断固拒否し、条項を撤廃させた。まさに人権派弁護士の鏡であり、韓国籍・朝鮮籍を維持しながら、弁護士資格を取る道を開いたのである。

ちなみに
今、国籍を保持して生きる意味
金敬得弁護士の寄稿から
http://www.mindan.org/shinbun/990217/topic/topic_b.htmより
■国籍法改正で変化

 しかし八五年の国籍法改正によって日本社会に変化が起こった。国籍法改正と同時に戸籍法の改正も行われた。改正前は日本の戸籍に外国姓を載せることは絶対に認めなかった。改正後は外国人配偶者の姓を使う場合は婚姻後六カ月以内に届ければ可能になった。

 このような国際結婚から産まれた子で、日本国籍を持つ外国人親の姓を使う存在がでてきた。

 韓国籍を持つ在日同胞は現在五十五万人のうち、民族名を名乗っているのは一割から二割。帰化者と二重国籍者を会わせた数はおそらく韓国籍を上回っている。帰化者と二重国籍者の内、民族名を使っているのは一%ほどに過ぎない。

 このような状況の中で、「民族と国籍は違う」ので日本国籍を取得し、本名を使って民族的に生きればよいという論理は、現実的には担保されていない。ただ、民族名を使う部分が少しずつ増えていることも事実だ。

 在日韓国人にとって韓国籍を保持しながら日本で民族的に生きていくことの意味を今、改めて考えなければならない。一つは、植民地支配の残滓である創氏改名からすらも解放されていない状況を克服するためにも、民族的主張としての国籍が必要だ

 民族名でも帰化を認める現状の中で、国籍は日本でも民族名を名乗ればいいとする論議もある。

 しかし、大多数が民族名を名乗れていない在日社会では、民族的に生きるための抵抗概念としての国籍という意味が強い。少数の個人が日本国籍取得後も民族名を持って生きているが、トータルとしてはできていない。日本国籍取得が民族的な生き方を在日同胞全体におよぼすことになるだろうか。

■ボーダーレス時代に

 もう一点は、二十一世紀の社会で日本国内の少数民族という存在になることのみではつまらない。二十一世紀は間違いなくボーダーレス社会となり、ヨーロッパがEU(欧州連合)になっていくように、日本も韓国も国民国家概念は無くなっていく。ボーダーレス社会になっていくとはいっても、その方向へ導いていこうとする少数者がいなくてはならない。その先駆者になるのが在日同胞だ

 在日同胞は、歴史の犠牲者として日本に居住し、日本の同化政策に抗しながら外国人としての権利を求め、今や内外人平等社会の先頭に立とうとしている。この方向性を進めていってこそ歴史に積極的な役割を残せる。
 居住国において国籍を維持しながら日本の社会を国際化する事も必要。同時に韓国の国際化を韓国国民としての自覚を持って進めることが求められる。このような方向こそが在日韓国人としての今後の生き方ではないだろうか。日本の国籍差別を受ける存在であるからこそ、韓国に対しても国籍差別をなくすよう主張できるのではないか。

 日本で生まれ育ったからこそ日本社会を内外人平等に開いていき、同時に韓国、北韓に対しても主張していくことができる。

 世界的にグローバルになっていくのであって、日本が先か韓国が先かという時代ではない。できるところから進めていくという主張をするために、あえて日本の中の外国人として生きていくことに意味がある。


金敬得弁護士の主張はすばらしいと思います。内外人平等主義を引っ張っていくのが在日韓国・朝鮮人だというのは間違いありません。大日本帝国の植民地支配の被害者という歴史の闇をもち、今をもって日本の同化政策に抵抗し、民族的アイデンティティを守り貫こうとする在日韓国・朝鮮人が内外人平等、つまり地球市民の概念を引っ張っていくリーダーになるのはそう遠くないと思います。





韓国政府、徴用被害者に「補償」のニュース

韓国:被徴用者救済で基本方針 生存者対象除外で反発も
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060221k0000m030148000c.html
 
【ソウル堀山明子】韓国政府は日本植民地時代に軍人・軍属や労働者、慰安婦などの形で日本などに強制連行された人たちへの支援策について、45年8月の解放前に朝鮮半島外で死傷した人に対象を絞る基本方針を決め、遺族会などの市民団体に提示したことが20日、分かった。しかし、市民団体側は「不十分」と反発している。

 支援策は国家責任を認める補償ではなく、人道的な次元の支援と位置づけられる。追加支援策を検討している「韓日条約文書公開対策団」が今月8日、遺族会などと会合を持ち、支援基準を提示した。しかし、この基準では、生存者や解放前に帰国し、その後に死亡した人が支援対象から外れるため、市民団体側から反発が出たという。

 強制連行被害調査を行っている韓国政府の「強制動員被害真相究明委員会」によると、2月1日までに韓国国内で21万人以上が被害申請した。国外では昨年6月の統計で11カ国・地域で3626人、うち日本からは39人が申請した。21万人のうち生存者は5万人以上おり、今回の救済策が被害者団体との合意につながらなかった場合、戦後補償請求運動が再び活発化する可能性がある。

毎日新聞 2006年2月21日 3時00分


韓国、徴用被害者に「補償」へ 死亡・負傷10万人対象 2006年02月23日03時01分
http://www.asahi.com/international/update/0223/003.html
 韓国政府は、日本の植民地統治下(1910〜45年)で日本企業や軍隊に徴用された韓国人のうち、死亡・負傷した人やその遺族に対して実質的な個人補償をする方針を固めた。最高で約10万人が対象になるとみられ、無事に生還した人は除外される。また、徴用者に対する日本企業からの未払い賃金が計2億3000万円に上ると推定。これについても政府レベルでは日本側に要求せず、韓国の国費で肩代わりする方向だ。

 複数の政府関係者が明らかにした。韓国政府は今後、日本政府に対し、企業からの未払い賃金供託金名簿など被害者特定のための資料提示で協力を求める。

 今回の措置は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が進める現代史の見直しの一環。65年の日韓国交正常化で、朴正熙(パク・チョンヒ)軍事政権は、韓国が財産・請求権を放棄する代わりに、日本が無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を行うという政治決着に応じた。しかし韓国内には不満が残った。盧政権は昨年、日韓交渉文書を全面公開し、徴用問題などを「韓国自身で解決する」と宣言していた。

 日韓交渉で韓国側は、徴用による被害者が103万人、損害額が3億ドル余に上るとの資料を示したことがある。朴政権は75〜77年、無償3億ドルの1割以下を使って、徴用者約8500人の遺族に30万ウォン(現在の約3万7000円)ずつ支払うなどしたが、その後、支給範囲や金額が不十分だと批判を浴びた。90年代以降は被害者らが日本政府や企業を相手取って徴用の賠償や未払い賃金返還を求める訴訟を起こす例も相次いだ。

 支給の根拠について韓国政府は、国家責任を認めるものではなく、生活支援だと位置づけているが、政府関係者は「実質的には補償だ」と話している。韓国内の戦争犠牲者・遺族団体の中には「当時の3億ドルは全額、戦争被害者に与えられるべきものだった」と支援予算の拡大を要求する声もあり、支給額の決定は3月までもつれる見込みだ。また、慰安婦など交渉当時に論議されなかった人道的問題に関しては、政府も「なお日本に法的、道義的責任が残る」としている。

 朝鮮半島の植民地支配をめぐっては、今月上旬の日朝国交正常化交渉で、北朝鮮が経済協力とは別の補償が必要だと主張しており、今後の日朝協議に影響する可能性もある。


本来なら、日本政府が補償すべきところを、韓国政府が国費を払って大日本帝国の被害者に補償している。情けない。ちょっと日本政府に対して、呆れて激怒まではいかないけれど(怒)。大人の国家としては、過去のけじめをつけ、きちんと誠意のある態度を韓国人の被害者や犠牲者遺族に対して示すためにも本来は日本政府が行うべきです。金の出所元は少なくとも日本政府であるべきです。毎日新聞の記事ではあくまで韓国政府が朝鮮半島外で死傷した被害者に限定したため、解放前に帰国し、その後(強制労働の障害等)により死亡した人、生存者などが外れるためです。記事には書かれていませんが、朝鮮半島内動員(朝鮮半島内の鉱山や軍事工場での強制労働)の事例も対象外でしょう。韓国政府としては国費でやるために、対象を限定したかったためですが、日本がすべての犠牲者遺族や被害者自身に補償するならば、何の問題もありません。このような韓国人同士の不用意な争いを引き起こした罪もあります。それにしても日本のマスメディア界はどうでしょうか?知らん振りです。大日本帝国が残した負の遺産のために、韓国人同士が争っているのに、その当事者である日本政府、日本のマスメディア界は何をしているのでしょうか?この国は本当に情けないです。情けなくてものもいえません。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:54 | Comment(7) | TrackBack(0) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ミクロネシア、パラオ、マーシャル諸島および太平洋地域全般における大日本帝国加害事実

ミクロネシア、パラオ、マーシャル諸島および太平洋地域全般における大日本帝国加害事実について

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper51.htmより
(7)太平洋諸島
 太平洋諸島においては日米両軍の死闘がくりひろげられました。多くの島で日本軍は玉砕し、またガダルカナル島をはじめ多数の餓死者を出しました。たとえばギルバート諸島のタラワ、マキン鳥は日本軍「全員玉砕」の地として知られています。両島で日本人、朝鮮人約五、〇〇〇人(朝鮮人は飛行場建設のため強制連行された人々です)、米軍約一、〇〇〇人が戦死しました。
 ここで忘れられてはならないのは、これらの島々にはもとから住んでいる人々がいたということです。彼らは飛行場建設に動員され、荷かつぎをさせられました。ギルパートのある老人が知っていた日本語は、歌のほかに「シゴト、カカレ、ヤスメ」という言葉でした(小田実『世界が語りかける』)。家も樹もふきとぷ戦闘の中で、彼らにも当然冬多数の犠牲者が出たでしょう。しかしこのことは、日米両国民には、まったく目にはいらないかのようです。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
16 太平洋諸島 

 ミクロネシアの島々は戦前は南洋諸島と呼ばれ、日本の統治下におかれていた。これらの島々にも日本軍が配置されていた。島民はロームシャとして駆り立てられ、食糧を供出させられた。特に日本の戦況が悪化すると外部との連絡が途絶え、多くの日本兵が駐屯していたため食糧難に陥った。また米軍に通じているとして疑いをかけられ、殺された人も多い。これらの島々はかつてのスペイン統治の影響でカトリック教徒が多く、グアムやロタでは白人の神父がスパイ容疑で処刑されている。
 グアム島はアメリカ領だったので、地元のチャモロ人は日本に反感が強かった。一九四四年七月米軍が上陸する直前にメリーソン村で、米軍に通報したという理由で一六人が捕らえられ、手榴弾で殺された。さらに三〇人も同じようにして殺された。その一方、村にいた日本兵と在留邦人たちが村の男たちを監禁したうえで若い女性を一人ずつ連れ込み泊まらせた。その直後にメリーソン村の日本人は、地元民に荷物を担がせて避難を始めたが、その途中、地元民に襲われ一一人が殺される事件がおきた。
 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。
(略)
日本軍が駐留していた各地の島々で、敵に通じているという疑いや食糧を盗んだという理由で住民が拷問・処刑され、時には集団虐殺される事件がたくさん起こっていたと推測される。さらに米軍が上陸してきた場合には、激しい爆撃や艦砲射撃、地上戦により住民にも多くの犠牲が出た。サイパンやテニアンなどでは、降伏を許されず、追い詰められた在留邦人が絶壁から身を投げたり手榴弾で「自決」したことは有名だが、こうした太平洋の島々の人々に日本軍が与えた被害については、ほとんど忘れられたままである。


滝尾英二的こころ
http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/2005/11/より
 「パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルートに、1922年に日本政府によってつくられた「南洋庁」によって、日本植民地下のこれら4箇所の島々にハンセン病収容所がつくられたこと。その収容所に強制収容されたハンセン病患者は「‥‥由来島民は其の伝染性を信じないので当局は常に適当なる方策を講じ隔離治療を行う要あるを痛感し大正一五年(=1926年)サイパン島に癩療養所を設け、之に患者を収容して‥‥糧食等は夫々親族縁故者の負担とした‥‥」(『南洋群島要覧=南洋庁』より)。

 また、パラオの元挺身隊員であったヤノ・マリウスさんが1991年に日本のアジア・太平洋地域戦後補償国際フォーラムで証言されたなかで「(パラオでは)ハンセン病患者四名は銃殺、あるいは剣で刺し殺されました」と発言されています(国際フォーラム実行委員会編『戦後補償を考える』29ページ、東方出版)。このようなことが、ミクロネシア四島の各地であったのではないでしょうか。(『飛礫』47号・2005年7月発行の滝尾英二著「ミクロネシアのハンセン病政策」を参照)。


大日本帝国の植民地下におけるハンセン病強制隔離問題については厚生省が補償を行うという解決への一歩が見出せたが、太平洋地域におけるハンセン病隔離問題についてはまだ未解決である。ナウル共和国にしろ、パラオなどの南洋諸島にしろ、台湾や韓国における事例よりもさらに非道なものだった可能性が高いと思う。被害事実の解明と、日本政府一刻も早い、被害者本人や犠牲者遺族に対する補償に向けて、圧力をかけていかないといけないと思う。
太平洋の島々でも戦争被害
http://web.archive.org/web/20020821094546/www5.sdp.or.jp/central/shinpou/newsfiles98/6sensouhigai0812.htmlより
アジア太平洋戦後補償国際フォーラム
 第二次世界大戦での旧日本軍による残虐行為については、すでに中国をはじめ東南アジア各地で明らかにされているが、太平洋の島々やニューギニアにおいても、住民に対する虐殺や強姦、「慰安婦」などか烈な戦争被害があったことが、被害者らの証言で明らかになった。

 七月二十六日に東京で開かれた、アジア太平洋戦後補償国際フォーラム(戦後補償アジア太平洋被害者団体国際協議会主催)に参加したトラック諸島、マーシャル諸島、パプアニューギニアから来日した被害者や関係者が語ったもの。

 このなかで、マーシャル諸島のミリ・アトール出身のタリナ・レイトさん(七十二歳・女性)は、戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言。「私は兵士たちがした残虐行為を生きている限り決して忘れない。神様がいつかこの残虐な人びとに罰を下してくださるよう祈っている」と、訴えた。

 また、戦争中飢餓地獄といわれたニューギニアで、日本軍の炊事係として部隊に同行した体験をもつパプアニューギニアからきたブガ・グロ・ハウエバルさん(七十五歳・男性)は、日本兵十一|十二歳の少女を強姦した後、銃剣で殺害したことや、行軍途中の村々で、若い女性たちを性の奴隷とするため部隊に従軍させ、その途中で強姦した女性の乳房を切りとり、兵士たちの食料として揚げて食べたという、現地住民を対象とした組織的な人肉食が行なわれた事実について証言。

 また、同じくパプアニューギニアから来日した「日本軍による戦争被害に補償を求める会」代表のガブリエル・ラクさんは、これまでの現地での聞き取りなどの調査により、戦争中に住民七千七百四十八人が日本兵に殺害されたほか、食料不足を補う目的で二千三百八十八人が人肉の犠牲となり、また、一万六千百六十一人の女性が日本兵の性的奴隷として「慰安婦」にされたと報告した。

 フォーラムを主催した同協議会代表で、これまでアジアの戦争犠牲者の戦後補償問題に取り組んできた弁護士の高木健一さんは「これまで韓国や台湾、フィリピン、インドネシアやオランダについては、アジア女性基金など不十分ながら償いの事業がなされているが、なぜ太平洋地域についてはできないのか。この地域の人びとを、日本政府と日本人は軽んじてはならない」と発言、具体的な償いの実現に向けて今後も努力していく考えを強調。

 また、この日のフォーラムには、社民党戦後補償問題プロジェクトチーム事務局長の清水澄子参院議院が出席、「被害者に対して個人補償するのが政治。皆さんと力を合わせてやっていきたい」と激励。翌二十七日には、清水議員が窓口になって高木弁護士や来日した被害者とともに、外務省アジア局地域政策課と総理府外政審議室の担当者と交渉、「日本政府としてこの問題に誠実に真剣に取り組んでほしい」と要請した。


ミリ・アトール出身のタリナ・レイトさんについてぐぐってみましたが何も分かりませんでした。ともあれ、凄惨な蛮行が繰り広げられたようです。
>戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言
日本軍という存在はどこかの野蛮な軍閥か、蛮族の集団のようですね。

◇第一作 『日本軍歌思考』第二部
http://homepage3.nifty.com/alexcompany/novel_02.htmlより
 日曜の或るテレビ番組に出場のコメンテーターは、この現象を指して“歴史はくりかえす”と言ったが、気掛かりなのはその不況だけではなく、前述した昭和九年の世上をもいっしょくたに繰り返されたのでは困るのである。何となれば、昭和初期に見舞われた不況のそれから先の道筋は戦争であるからだ! 
 博識にあるコメンテーターの言をかり、それをそこまで二重写しにして気にかけるのは、杞憂というものであろうか… とりもなおさず、それは前述の「衆愚政治」なる言に過去の傷口がうずき、そこをひじくられそうにあるからだ。 
 腹立ちついでに、これも真実に違いあるまいと思われるので、付け加えておきたい。それは、これを書きかけ中に目にふれた極く最近の新聞記事で、読んでるうちに、日本人なら誰もが忸怩たるの思いをさせられる内容のものであった。

 それによれば、“南太平洋の声とゞかず”の見出しに始まるそこは、かって旧日本軍の占領下にあったところである。で、住民の強制移住や土地の強制接収等の被害をこうむった周辺三カ国(パプアニューギニア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)の民間人代表七人が過去の補償を求め、七月下旬に来日した。
 ミクロネシア・トラック諸島の代表は奪われた先祖代々の土地についての補償を、パプアニューギニアの代表は被害調査の最新データ(旧日本軍から被害を被った犠牲者、生存者、遺族合わせてその数九万五千余人。そのうち人肉食の被害が二千三百余人、強姦殺人が約六千五百人)を提示して、その補償を迫った。
 また、マーシャル諸島の元慰安婦であった代表は、自らの体験を何度も語り、現在フィリピンなどで進められている“アジア女性基金”の「償い事業」を南太平洋でも展開するよう求めるものであった。
 だが、むなしさがつのるとはこのことであろうか…。
 もとより、これの交渉の場としては、国会議員の仲介で政府との会合が実現し、各国の実態報告書が手渡されたのであるが、外務省、内閣外政審議室、アジア女性基金の反応はいちように鈍く、「新たな判断材料があれば…」(内閣外政審議室)「何らかの公的文書がないと」(外務省)といった具合で、引率の弁護士は「人肉食など日本軍が記録するはずがないじゃないか」と反論しても、前向きの答えはなかったという。
 さらに、マーシャル諸島の被害者組織代表から、「今も続く重大な被害」として残留不発弾の処理問題が訴えられ、それによれば、ミリ島の旧日本軍が連合国に敗れ撤退する際、千発以上の砲弾を放置したゝめ、危険で農地を耕すことができないという。
 それでも何の回答もないので、組織代表は手をあげて、「最後に言いたい」と次のように語り,記述はこれを以って締めくゝられている。
 「マーシャルでは三十一人の元慰安婦がいることがわかっている。遺族の中には、父親が日本人だったという人もいる。証拠を出せと言われても難しいが、証人ならいる。真実を知ってほしい」
 かくして、政府側の終始「公的史料がなければ補償しにくい」とする杓子定規な物言いの態度に代表は折れ、「戦争で荒れ果てた島に公的文書など元々なく生き証人の言葉を信じてもらえないのか」の言を残し、彼らは帰国したとある。

 これでは証拠を出せないのをいゝことに、それを出せと意地悪くされているのと同じようなものである。とかく、弱者は既存の施策から踏んだり蹴ったりの仕打ちを受けるが、これはそれの典型のように思えてならない。
 抑も、これのやりとりは、被害にあった国の人々がこちらに出向いて実情を訴えるのではなく、被害を与えた日本側が占領した各地へ出向いて実情を調査し、それによっては出来るかぎりの誠意を尽くすのが筋というもので、こゝに見られる何でもが証拠一点張りの対応には、情実のないじれったさが感じられ、日本人そのものが問われられているようで嘆かわしい…。


http://u-air.net/social-science/theses/kuri.pdfより
b. 経済活動
(略)
「従順だが未開であるため労働力としては使用
し得ない」と見なされていた島民に与えられた仕事は、日本人移住者がやりたがらない類
のものであった。


3. 国連信託統治領 アメリカ統治時代
 1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。南洋群島は、日本にとって重要な軍事拠点となり、パラオもまた戦火に巻き込まれていった。
1943年には、数十人の島民により「パラオ挺身隊」が組織されニューギニア戦線へ送られた。半数が戦死、行方不明となる。1944年9月に入ると、パラオもアメリカの本格的な攻撃を受けるようになり、ペリリユー島とアンガウル島は玉砕の島となった。1945年8月15日、日本の無条件降伏により太平洋戦争は終結し、第二次世界大戦もその幕を閉じた。


こだわらない強み −ミクロネシア連邦モエン島の現状に対する島民の意識−
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/harada.pdfより
 しかし1941年に太平洋戦争がはじまると事態は一変した。「海の生命線」と呼ばれ、戦略的拠点となったミクロネシアの島々には、非常に数多くの軍人や軍属が来島し、島民は土地を奪われ、軍作業や食糧増産に使役された。戦争は4年間続いた。島のお年寄りの方も戦争中は大変だったと話してくれた。 「私は戦争の時は兵隊さんと一緒に働いた。戦争がひどくなると兵隊さんは食料をくれないから多くの島民が水曜島へ引っ越したよ。パンの実やバナナ、ココナッツ、何もくれなかったから。昼間は勤労奉仕で軍隊で働いて、夜は防空壕掘ったり、畑仕事したり。働かなかったら罰でした。空襲があるときは寝られないし、たくさんの島民が日本兵と一緒の防空壕で死にました。」 「戦争の時は苦しかったよ。戦争中は食べ物はみんな軍隊のものになったし、家もとられて、島民は山の奥にいた。夜は寝られないし、昼は軍隊の仕事。戦争最中はトラックの人をぶん殴ったりもしていました。」 「軍隊で働きました。各部隊に分かれて兵隊さんのお手伝いとか、伝令をするとか、まるで兵隊さんのようにやったんです。敵が来たら僕らもみんな向かうからね、僕らも軍隊になっちゃう、そうでしょ。例えば敵陣島陸すれば僕らは日本人と働いているから向かうし敵も僕らをねらうでしょ。僕らは軍人と同じなんですよ。」


http://www.tkfd.or.jp/publication/reserch/2005-10.pdf p7より
 大東亜戦争が始まると島の人々も戦争に協力した。青年団は挺身隊に編成され、軍隊を支えた。1940 年、南洋群島大政翼賛会が結成されると、島民も参加し、日本本土と同じように宮城遥拝、君が代と愛国行進曲の合唱、国防献金、慰問袋作り、戦勝祈願の儀式、勤労奉仕をした。さらにパラオ調査隊、パラオ挺身隊、ポナペ決死隊としてニューギニア等の南方戦線で日本兵とともに戦った島民もいる。


高橋潤次さんの戦争体験
http://www.geocities.jp/haguma27/hiromi/sensoutaiken1/page02top.htmより
 北朝鮮による拉致闘題は許せないが、誓本人からみて許せないことは朝鮮人、中国人からみても許せないとおもいます。この近くでも久根鉱山、峰の沢鉱山など、天竜川流域の銅山やトンネル工事に、強制連行された朝鮮・中国人が労働につかわれ、かなりの犠牲者も出ているのですが、これらのことに補償らしい補償がまったくないのが現状です。
  わたしが戦争に反対する大きな理由は、爆撃で手をとられて前途まっくらになった、わたし自身が被害者という意識が強くあったことからです。戦後五年間くらいは占領軍により軍人恩給もストップされていた。講和条約成立後に恩給は再開したが、金はもらえても手は返してもらえない。こんなことは他の人にはぜったい経験させたくない、だから戦争反対と強くおもった。その被害者意識から出発して、転機となっこのは、1980年にベラウに行ったことです。
 べラウでは、日本の海軍軍艦のはなしが、現地の婦人から涙ながら訴えでられました。当時ベラウの人口、一万二、三千人のうち約半分の六千人が死んでいる。なくなった原因の多くは飢え死にです。
  そのもっとも大きな要因となったのは、ベラウ諸島の最南端、ペリリュー島という島に、一万二千人の日本の陸海軍が要塞を作ってたてこもっていた(*この軍隊は三十八名が残っただけで全滅した)ことです。宝の島といわれたぺリリュー島は、野菜、果物やコメまでつくり、ベラウ全島に供給していたところです。
  それに追い討ちをかげたのが、海軍の艦船の寄港でした。たとえば戦艦「大和」も、1944年2月にトラック島の米軍の空襲からのがれて、ベラウへ逃げこんできています。「大和」のほか五隻ぐらいの船がついていた。これらを全部あわせると、約五千人の人口です。これらに相当する人口が、水や生鮮食料品、ニワトリやブタの肉などもまきあげられたといいます。島の人々はアメリカの空襲を避けてジャングルへ逃げたけれど、ジヤングルのなかには食べるものは何もなかった。
  それをきいてショックだった。わたしらの船もそれをやってきたのです。
  マーシャル群島へ寄港したとき、ヤシの若芽をつんで食べていました。野菜がない状態でしたから、うまい、うまいと。ヤシは土地の人には重要な生活手段であり食料です。それを若芽のうちにつんでしまっていた。
  わたし自身は航海士で、艦の運行の仕事をしていました。大砲はおろか鉄砲一発撃ったことがなかったのに、れっきとした加害者だったのです。


核超大国のエゴに向き合う
アジアボランティアセンター(AVC)代表・平田 哲
http://www.shinshukyo.com/webup/back04/main04/2004.06.04.htmより
 日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝した米国のビキニ水爆実験から50年の3月1日、実験地のマーシャル諸島共和国の首都マジュロで(同国政府主催)の記念式典に参加した。式の模様や今なお核実験の後遺症に苦しむ島民の実情が、日本でも報道されたが、少し補足したい。
 マーシャル諸島は、侵略の歴史に塗りつぶされた人類史の恥部が凝縮されている。日本の施政権下にあった第二次大戦中は、旧日本軍がヤルート島やミリ環礁などで多くの島民を虐殺した。犠牲者の子孫の何人かから、私も直接その話を聞かされた。
 戦後は新たな支配者である米国の核実験で、多くの島民が土地を追われた。とくに象徴的なのは、被曝難民が米国の核補償金への依存を強いられて以来、島民全体の生活はゆがみ、自立への意欲にも水を差していることだ。日本のNGOの一つとして、この状況を改善する事業を進めるため、私は数年前から5回、同国を訪れたが、そのたびに力のない民衆を犠牲にして恥じない大国のエゴに、憤りがこみ上げる。


第3回 南海の楽園と被曝のトラウマ 05/10/31
教育ジャーナリスト 渡辺 幸重
http://kaze.shinshomap.info/report/gaikokujin/03.html
島よ、蘇れ——日本人としてできること
 私たちは、推し測ることができないほど深い傷が島民の社会にトラウマとなって存在していることを十分に認識しながら活動しなければならない、と感じている。フォトジャーナリストの島田興生さんは、著書『還らざる楽園/ビキニ被曝40年 核に蝕まれて』(小学館)の中で「被曝の後遺症は、単に島民たちの身体的障害だけにとどまらない。家族、村、島社会における生活共同体、環境や生態系、文化や伝統など、すべてにわたって破壊の爪あとを残している」と指摘している。
 同時に私たちは、南方系の底抜けの明るさを併せ持つことも必要だ。今回の報告会と前歯検査を通じて、帰島実現に一歩近づいた。このことについては、私たちは島民と一緒に心から喜び合うことができる。サヨナラパーティーで来年の現地調査と併行して若者が参加するサマーキャンプをやろうという話が出たとき、被曝経験を持つ女性から「自分たちも行こう」と元気な声が上がり、盛り上がった。被曝の後遺症や共同体社会が破壊されたことによる苦しさよりも、現在から未来に向かっての明るさをあっけらかんと表現し、顔をくしゃくしゃにしながら体全体で笑い合う彼女たちの姿に接すると、私たちもつい嬉しくなり、躊躇も恥ずかしさもなく抱き合ったりするのだった。
 太平洋の島々は、西洋の大航海時代から受難の歴史をたどってきた。太平洋戦争の爪あとは戦地となった島のあちこちに今でも残されている。マーシャル諸島の島々で、破壊された日本軍の軍事施設跡やいまだにヤシも生えない日本軍のコンクリート滑走路を見、日本軍によるマーシャル人や朝鮮人の虐殺や兵站を断たれた日本兵を含む人々の餓死などの話を聞いてきた島田さんは、島の生態系と人々の伝統的な生活が回復できるよう「せめて、島を昔の状態に戻すのが日本人としての最低の義務だと思う」と訴えている。


質問主意書情報
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/syuisyo/132/syuh/s132009.htmより

質問主意書


質問第九号

マーシャル諸島ミリ環礁における旧日本軍の武器撤去と復旧問題に関する質問主意書右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。
  
平成七年三月八日




竹 村 泰 子
  

       参議院議長 原  文 兵 衛 殿
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   マーシャル諸島ミリ環礁における旧日本軍の武器撤去と復旧問題に関する質問主意書

 一九九四年八月に東京で行われた「アジア・太平洋戦後補償国際フォーラム」に、マーシャル諸島共和国のミリ環礁出身の国会議員および島民の代表が来日し、同環礁で行われた旧日本軍による住民虐殺について証言するとともに、日本政府に対し、終戦に際しここに旧日本軍が放置した武器、弾薬などの撤去と復旧を訴えた。こうした活動はマーシャル諸島共和国議会によって支持されており、武器、弾薬、特に地雷などの撤去と復旧問題は、爆発の可能性が高く危険であるとして、一九九五年二月に開催された「アジア・太平洋国会議員連盟」の会議においても同共和国代表によって言及された。
 ミリ環礁は、連合軍の反攻作戦に対する前線基地として要塞化されたことは明らかであり、戦後こうした武器、弾薬が放置されているとすれば、住民の安全を脅かし、経済活動を阻害するものとして、見過ごすことができない問題であると考える。戦後五十年に当たり、戦後補償の一環として、以下のことを質問する。
 こうした旧日本軍の放置した軍事物資や施設に関し、住民から強い撤去と復旧要請もあり、これに対する人道上の対応として、まず早急に、実務的な実態調査の必要があると思われるが、政府はどう考えているか。中国に残した旧日本軍の化学兵器の撤去問題に関しては、すでに政府の調査団を派遣している事実もある。また、これに代わる対策として検討中のものがあれば、これを明らかにされたい。

  右質問する。


○まとめ
パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島において大日本帝国は委任統治領として植民地支配しましたが、特に戦争時は酷かったようです。多くの住民が日本軍によって虐殺されたり、孤立し補給がなくなったため、島の住民も日本軍と同じく飢餓に陥りました。従軍慰安婦や強姦、強制労働の被害者の傷は今も癒えてません。そして戦後日本軍が残していった砲弾や兵器類が問題となり、島民の生活を脅かしているのです。詳しいことはぐぐってもでてきませんでした。パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、サイパン、グアムを含むマリアナ諸島などの太平洋諸国・地域に大日本帝国が与えた被害について、メディアはおろかネット上からも多くが抹殺されてしまったようです。の今はミクロネシアなり、マーシャル諸島政府なりが韓国や中国のように日本に対して過去の侵略、戦争被害に対する謝罪や補償問題を提起する動きがないようなのですが、その辺どうなのでしょうか?日本人として情けなくなります。大人の国家、そして国際社会で真に認めてもらう国家になるためにも、日本政府にしかるべき責任をとらせるべきだと思います。歴史の闇にこれらの被害事実を葬って済まされる問題ではありません。いつになったら、この日本に正義が訪れるときがくるのでしょうか?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:36 | Comment(10) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グアム島における大日本帝国加害事実

グアムにおける大日本帝国加害事実について

● 次に消されるのはだれ? ● グアム先住民の旅、2004年春
http://prof.mt.tama.hosei.ac.jp/~otadashi/travel_prof9.htmlより
<日本の責任>
死を恐れず勇敢に、しかもなんだか不思議なユーモアをもって、アメリカの支配とたたかって独立を求めるチャモロの人々。見ていて気持ちいいし、いっしょにいて楽しい。しかし、チャモロの人々の苦しみについていくと、日本という国、日本の会社、日本人の責任ということを考えずにはいられない。
Hさんのくれたタダ券で2人の学生がパラセイリングに挑戦。レンタカーの都合もありみんなでその浜におしかけ、帰りを待つ。あたりは日本人観光客ばかり。レジャー・クラブのプライベート・ビーチだ。浜辺のホテルのプールを浜から隔てる壁の隅に、ちょっとした石碑のようなものがある。近づいて読めば、「ここは植民地化以前のチャモロ人の集落…、浜は墓場…、30数体の遺骨が発掘され、ここに眠る」とある。日本資本のホテルがひしめくタモン湾の大ホテル街のプライベート・ビーチは、すべてチャモロの先祖たちの墓だ。私の母がまず立ち上がり、私も反対運動をやったけど、すべて掘り返されて、ホテルになった。抗議を受けたホテルはいちおう埋葬しなおしたけど、どこに骨を捨てたかわからないホテルもたくさん。京都に行ったときに、日本人は、先祖を敬うりっぱな墓を作る民族だとわかった。それなのに、どうしてグアムでこんなことができるの?…そんなHさんの話を聞くと、あくまで透き通って美しい水に白い砂浜のビーチのホテル街にも近づきたくなくなる。
(略)
<戦争による損害賠償委員会>
Hさんがみせてくれた昨年12月の新聞。グアム政府が、第二次大戦による損害賠償委員会を立ち上げて、証言を集めている、とある。泣き崩れる女性の写真入り。子供だった彼女の目の前で、縛り上げられた母親は日本軍に銃剣で刺され、倒れたところをレイプされ、収容所で食料を盗んだ弟は殺されたという。…グアムに日本軍の「従軍慰安所」もあり、チャモロ人女性も犠牲になったことは我々も事前勉強会で知っていた。知り合いの女性の人権NGOの人からは、オランダやアジア各地の女性たちと呼応して名乗り出て、訴えて出る被害者が現れてこないかどうか、調べてきて、とも頼まれていた。…この女性の訴えは、Hさんにもショックだったという。日本軍のレイプによる被害は地元社会では周知の事実なのに、これまで自分からその被害を訴え出る人はいなかった、というのだ。
その委員会は、レイプや収容所での虐待、虐殺ばかりでなく、日本軍による土地や財産の没収についての証言も受け付けている。被害状況をまとめて、アメリカ政府に対して、戦後処理の妥当性を問い、改めて日本政府に対する損害賠償を検討したい、という。チャモロ人にしてみれば、自分たちの被害をろくに調査もせず、意見を聞くでもなく、アメリカ政府が勝手に日本政府と話をつけて賠償問題のけりをつけてしまっている、というわけだ。日本軍が奪った土地の問題は、それをそのまま使い続けるアメリカの責任に直結する。


● …ああ美しい、天皇陛下の… ● グアム先住民の旅、2004年秋
http://prof.mt.tama.hosei.ac.jp/~otadashi/travel_prof12.htmlより
<白地に赤く…>

   しろじにあかく、ひのまるそめて、
   ああうつくしい、てんのうへいかのくには

最後のことばが、天皇陛下の「国」だったか、「旗」だったか。彼自身もウラ覚えで、口を濁した。私の記憶もさだかでない。一列に並んで虐殺の洞窟に向かう丘の道を登りながら、はるかにグアム最南端の青い海を見下ろせる尾根に出た。とたんに、先頭に立つ元村長のじいさんが歌いだしたのだ。驚いて顔を見合わせるわたしたち。その直前にいっしょに昼食をとったときにも、突然に、流暢な日本語が断片的に飛び出す時があった。小学校の高学年の3年間、日本軍統治時代のグアムで叩きこまれたという日本語。私たちといっしょにいて、驚く私たちの反応を見るうちに、どんどんよみがえってくるらしい。山歩きのリズムは、この70を越えた老人の体の中から「日の丸」の歌のメロディまでよみがえらせたようだ。ぼくの小学校時代、音楽の教科書にのっていたこの「日の丸」の歌の歌詞には「天皇陛下」なんてことばはなかったけど。…

<おまえ、立て!>
すこし歩いて林に入り、その洞窟の前に着いた。洞窟はすでに埋められている。入り口の前には、小さな石碑があって、20名ばかりの犠牲者の名前が刻んである。そのとき、すでにアメリカ軍の艦船は、集結して、この山から見えるグアム南方の沖合いにまで迫っていた。日本軍は、もうひとつの洞窟で、先住民村のリーダー格のものたち20名ばかりを虐殺したあと、この洞窟では、さらに特に体格のいいものを選んで、殺した。元村長は、その話をしながら、突然、ぎろりと私たちをにらむと、「I will show you. Sit down please, here.(どんなだったか見せてあげよう。ここに座ってみて。)」と言って、Oさん、Rくん、それにわたしを含む同行の男性3人を石碑の側に並べてしゃがませた。そして、Rくんの前に立って、頭を指差すと、軍隊調の日本語で叫んだ。「おまえ、立て!」驚いたRくんがのそりと立ち上がると、こんどは、Oさんの前にいって、「おまえ、立て!」…こうして連れて行かれた、身長180センチ以上はある体格のいい、その先住民村の若者たちは、2度と帰ってこなかったという。
(略)

<3泊4日グアム・リゾート>
今年3月に、ゼミの学生諸君と先住民問題を中心とするグアム研修旅行をやったあと、日本の戦争被害証言を聞こうという趣旨のNGO「アジア・フォーラム」との間で、あれよあれよと話が展開。9月末には、3泊4日で、グアムを再訪することになった。12月に予定されている講演会のために、グアムから、日本軍による先住民虐殺の生存者を招待するための予備調査、というわけである。3月にお世話になった先住民運動の活動家Hさんに再び全面的にお世話になっての調査。…戦後生まれのHさんにとっても、戦争中のことを掘り起こすのは、なんとなく、荷が重い感じ。…しかし、過去のことをしっかり見据えて、グアムの先住民と日本の住民たちとの間の未来をつくっていきたい、という私たちの説得・協力要請に、Hさんは最大限の下準備をして答えてくれた。グアム先住民の墓をブルドーザーで壊してホテルを乱立させてしまった日本資本と観光客に対して、先住民の尊厳の立場から、果敢に墓地保存・乱開発反対運動にも取り組んできたHさん。いつもながらのエネルギッシュな仕事ぶりで、われわれを乗せてバンをすっとばし、こちらをのぞきこんでしゃべるので、同上の私たちは、生きた心地がしない。…

<チャモロ・ハーブの女性>
最も始めの時期にわれわれがリクエストしていたのは、昨年暮れの日本軍による被害証言委員会で、初めて明確な証言をして地元紙にも大きく取り上げられた女性。日本軍は、彼女の目前で母親をレイプして殺し、弟は収容所で食べ物を盗んだとして殴り殺された、という。Hさんは、ひょんなことで、チャモロの伝統的なハーブを採っていた彼女と話をしたという。…ずいぶん迷った末に探し出した彼女の家は、質素な木造平屋の小屋のようなもの。それでも、テレビもあれば冷蔵庫も。マリア像や、造花や、終日灯しつづけるという蝋燭、そんなおごそかな伝統的なチャモロ・クリスチャンの祭壇を中心とする部屋。奥のベッドルームから椅子をもってきて、近所のおばさんと合わせてみんなで座る。ドアのすぐそばの台所では、大きな鍋に、カゼ薬として調合したというチャモロの伝統的なハーブ茶。草やら木の枝、妙な果実などがぐつぐつ煮えている。ちょっとカゼ気味というHさんは、ペットボトルに入れてもらう。われわれにもおおきなカップにいっぱい。やはりカゼからかろうじて回復したばかりの私には、実においしく、何杯もおかわりを。…Hさんはチャモロ語で原料を聞いている。家伝のもので、症状に応じて、さまざまなものを混ぜるとか。

<ほんとうのことを知ってほしい>
そのことにすこし触れただけでも、すぐに涙いっぱいになってくる彼女に、Hさんはとても細やかな気遣いを見せる。手を握って、チャモロ語で話しかける。…かろうじて、彼女が証言する気になったいきさつを聞かせてもらう。…もう70歳を過ぎた彼女の親しい友人が亡くなった。ほんとうのことを知る人がどんどん死んでいってしまう。…悲しいこと、恥ずかしいこと、思いだしたくないことだと思って、ずっと黙ってきた。でも、ほんとうのことを知ってほしい。死ぬ前に言っておきたいと思った、と。

<ほんとうの歴史を知ってほしい>
もうひとりの女性の生存者は、今回訪問の本命の人。あの元村長が見た洞窟の虐殺と同じ頃の、別の集団虐殺の生き残り。ある洞窟では、女性ばかりが押し込められ、集団レイプされたうえで、殺された。私たちが合った女性は、その洞窟の近くで、男性が中心だった洞窟での虐殺の生き残りだった。…初日の家への訪問では、あいにく不在でからぶりに終り、会いたくないのではないかと心配していたHさん。こんどは、孫の誕生パーティーが終った頃に、会場になっていた海辺の公園へ。孫はどこかに遊びにいったのであろう。長髪の若い息子と椅子に座っていた彼女は、とても穏やかな笑顔のおばあさん。…ひとめでお互いに気に入ったらしいHさんと、しっかりほとんど英語で受け答えする。我々の訪問意図にしっかりとうなずき、歴史として、戦争のほんとうのことを子供たちに伝えたい、と言う。自分が虐殺の生き残りであることは、息子にも孫にも言わずに過ごしてきた。でも、孫に、「おばあちゃん、戦争にいったんでしょ? どうやって戦ったの?」なんて言われると、戦争のほんとうのことを伝えたいと思う、と。彼女の知り合いには、そのレイプ虐殺の生き残りのひともいるという。名乗り出なくても、村人には公然の秘密なのだ。…息子さんか、親戚をいっしょに招待すれば、可能性はあるかもね。でも、心臓が悪いといっていたから、すこし心配、とHさん。
(略)
<自然と歴史に向き合う>
次の日の朝はどしゃぶりの雨。飛行機出発までの数時間、ようやくおさまった雨雲の雲間を縫うように、レンタカーを飛ばして、ほんの10分あまり泳ぐために、北部の自然保護区内のビーチへ。3月に来たときにHさんに教えてもらった、地元民しか泳ぎにこない穴場。浜辺の椰子の木陰ですばやく着替えて、ゴーグルをつけ、サンゴ礁へ。…スペイン人がくる前は、人々はほんとうに真っ裸だった。男も女も、素っ裸で海を抱きしめ、魚をとった。こんな暖かくなまめいた海。…Hさんたちが展示した大聖堂のチャモロ民族博物館には、ほんの数年前に出されたという、ローマ法皇による過去の暴力的な宣教へのお詫びと反省の文があった。スペインのあとにきたアメリカ。そのあとにきた日本。そしてアメリカ。どれもとりかえしのつかないほどの爪あとを島の人々に残した。歴史は消せない。記憶は消せない。日の丸の、天皇陛下の歌はじいさんの頭から消せない。水爆の放射能は、何千年たっても消せない。…博物館には、体格のいい裸の男性に裸の人々がひざまずいている絵もあった。スペイン人が来る前のこの島も階級社会。天国なんかじゃない。…どんな歴史も自然も、おれたちでしっかり向き合って、これからのために生かしていくしかない。傷ついた人々と自然へのケアって、そういうことじゃないかしら。


【土生長穂、11月の一言】 グアムという戦場
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nhabu/kotoba0411.html より
 今年は、グアムから先住民チャモロの方を招いての証言集会です。グアムと言えば若い人々にはリゾートの島と言う印象しかないでしょうし、事実日本から年間100万もの人がグアムへリゾートで訪れるとのことです。しかし、太平洋戦争の時にはアメリカ領だったグアムを日本が攻撃して1944年まで2年半以上占領していました。44年8月アメリカ軍の反撃によって2万の日本軍がほぼ全滅(生存者千名余にすぎなかった)しました。その際追いつめられた日本軍はグアムの先住民チャモロの人々を洞窟に押し込めて虐殺するなどの被害を与えました。こうして、グアムを奪回したアメリカ軍はサイパンとグアムを日本空襲の基地として使用しました。東京大空襲も広島長崎への原爆投下もここから行われたのです。そして、グアムは今でも沖縄と同じように墓地の島なのです。 

   
グアム戦略記
http://www1.linkclub.or.jp/~oya-wm/guamfile/guamhistory.htmlより
 グアム奪還のために米軍は約7000名の死傷者を出した。日本軍の兵力は約20000名と言われているが、収容所に収容されたのは1250名余りであった。当時グアムには邦人約300名、現地住民約24000名がおり、彼らも戦闘に巻き込まれた。又木山の東、高原山に避難した邦人の婦女子たちは自殺を強要させられている。西海岸バンギ岬には、敗走中の日本兵に虐殺されたグアム島住民チャモロ人の慰霊碑が建てられている。犠牲者数は正確には把握されていない。
 1978年、米議会の決議によって、『第二次世界大戦の際に太平洋で作戦に参加した者の勇気と犠牲を讃え、またグアム島の素晴らしい自然環境と歴史的価値の産物を現在及び将来に渡り保存維持していくことを目的に』ガン岬をはじめとする米軍が上陸した海岸などは「太平洋戦争国立歴史公園(War in the Pacific National Historical Park )」として指定された。


この夜のしじまに:グアムの防空壕跡にて
http://nue.cocolog-nifty.com/sijima/2005/01/post_11.htmlより
グアムで、ラッテ・ストーン公園という公園を訪れた。ラッテ・ストーンと呼ばれるグアムに特徴的な石の柱の遺跡を移築したところだ。
ここには戦時中の防空壕の跡があり、アメリカの史跡として指定されている。おそらくは、防空壕があるから、ここを公園にして、ラッテ・ストーンを移築したという経緯ではないかと思われる。

防空壕の説明は、チャモロ語、英語、日本語の3つの言語で書かれているが、その内容がどうも食い違っている。日本語では、防空壕を「実際に掘ったのはチャモロ人の使役労働者」と書いてあるのに、英語では、チャモロ人、朝鮮人、沖縄人の強制労働者(forced labor)と書いてある。チャモロ語は判らないものの、チャモロ語版の説明の中にチャモロ人、朝鮮人、沖縄人と並べて書いてあることは確認できた。

つまり、日本語の説明では、わざわざ朝鮮人、沖縄人が働いていた(働かされていた)ことを削除しているわけだ。まず、この記述をどんな意図で日本語では削除したのか(日本語の説明文が一番短くなっており、記載する場所が足りなくて省略されているわけではない)、そこにどんな配慮があったのかが良く理解できない。事実ならば省略する必要は全くなさそうなものだが。

さらに、(1)朝鮮人の強制労働、(2)沖縄人の強制労働と書かれているものが、実態としてどのようなものだったのだろう。防空壕が作られたのは戦時中のことだが、そんななかで敢えて徴用された特別な"forced labor"だったのか、あるいは、他の地域出身の日本人も同様に働いたのか否か。直感的には日本本土での徴用による強制労働の話とは事情が多少なりとも違う気もしないではないが、実際に当時の朝鮮や沖縄から強制労働者が送り込まれていたのであれば、普通には視野に入りにくい戦中の歴史がここにあるということだろう。

ちなみに、チャモロ語でも防空壕はBoukungo'と言うらしい。少なくともチャモロ人が被害者であったことは間違いなかろう。


http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal9/react546.htmlより
グアムでも従軍慰安婦 国連人権委で近く報告−−朝鮮人連行調査団が確認
96.4.3 毎日新聞東京本紙夕刊 
米国領・グアムで地元女性が従軍慰安婦として売春を強制されていた事実を朝鮮人強制連行真相調査団(日本側団長・鈴木二郎都立大名誉教授)が確認し、当地で行われている国連人権委員会で非政府組織(NGO)として近く報告する。これまで朝鮮、オランダなどの慰安婦が大きな問題になっていたが、米国領内での慰安婦問題が国際社会で取り上げられるのは初めて。調査団は昨年から米国領内に存在したとされる慰安婦の実態調査を行っていたが、米国立公文書館のマイクロフィルムや日本政府の法務省に残されていた裁判資料から、日本軍にグアム島が占領された3カ月後1942年2月、グアムの日本人会幹部が地元女性2人を強制的に慰安婦にし性的虐待を強いていたとする裁判資料を発見した。法務省の資料では「現地の女性を慰安婦として日本軍にあっせんしていた」と記述されており、この日本人会幹部は、戦後、グアム戦争裁判で売春強制罪などに問われ15年間の強制労働の判決を受けていた。資料は同委員会のクマラスワミ特別報告官(スリランカ)も入手、「旧日本軍の行為は人道に対する罪であり、元従軍慰安婦に対する国家補償と加害者の処罰が必要だ」として2月に公表した特別報告書の基礎にもなっている。 同調査団は「グアムのケースは戦争犯罪として法的に処罰されており、従軍慰安婦問題の法的責任を日本政府が明確にしないのはおかしい」としている。


http://www.guam-shinbun.com/islandnews/newstop_past/878.html
戦後補償に
2,500万ドル
 
 グアム戦後補償再審委員会の報告書が発表され、1941年から1944年の日本占領時代のチャモロ人の被害に対し2,500万ドルを請求していることが明らかになった。

 85ページの報告書の作成は昨年米議会が戦争被害の再審査のための議会委員会を設置することを承認したことを受けて作成されたもので、この報告書に基づきグアムのボダリオ米下院代議士が委員会に法案作成を求めることになっている。

 報告書の要求の概要は、●日本統治時代に死亡した人の家族に2万5,000ドル支払う。この家族とは配偶者、子供、両親に限られ、優先順位もこの順序となる。●強姦や栄養失調、強制労働、避難命令などを含み個人的な障害・苦痛を受けた人に対しては1万2,000ドル支払う。●補償金によって基金を創設し、奨学金、医療施設その他のグアム住民のための施設のために使用する。●補償受給対象は1990年当時にまだ存命していた占領統治のチャモロ人生存者。体験者であっても1990年以前に死亡した人は対象とならない。

 報告書によれば占領期に死亡したチャモロ人口は1,000人。1990年度の人口統計に基づいた推算では、8,551人のチャモロが戦争を生き延びたということになる。今回の補償請求ではこれらのうち、1990年まで生存した人が対象となる。ただし島外に移住した人については1990年度統計に含まれていない。

 グアムでは戦後補償として1945年に「グアムの『勲功』に応えるための補償法」によってグアム住民から賠償請求がまとめられ、総額800万ドルが支払われている。しかしチャモロ人側は1948年の戦後補償法にもとづく財産の破壊と損失を対象にした支払いは行われていないとして長年、連邦政府に補償の見直しを迫っていた。今回の報告書は「グアム議会はチャモロへの補償のために1990年の米議会の行動に対し積極的に応じなかったことを後悔している」として、グアム議会の行動力のなさも含めて戦後補償問題がまだ未解決であることを強調している。


http://www.jca.apc.org/JWRC/center/library/jihyo46-1.htmより
グアムの戦後補償問題

荒井信一 

 2004年9月28日、アメリカ下院はグアム解放60周年記念決議(下院決議737号)を可決した。グアム島は、ミクロネシアにある米領の島で、太平洋最大と称される米軍の基地がおかれている。ハワイとならぶ南海の楽園として毎年多くの日本観光客が訪れるが、敗戦を知らずに潜伏していた横井庄一元陸軍軍曹が、28年ぶりに「恥ずかしながら」といって島のジャングルから姿を現したとき以外、この島が太平洋戦争の戦場であったことは、日本人の意識にあまりのぼらない。
 決議は、開戦と同時にグアムが日本軍の攻撃をうけ、1941年12月10日から44年7月21日まで日本軍に占領されていたことを想起する。そしてグアムの人々が「合衆国への一貫した忠誠のゆえに残忍な占領を経験し」「32ヶ月の占領中に強制労働、死の行進、抑留、障害および公開処刑をふくむ死を経験した」と明記している。決議が「グアムの人々」と呼んでいるのは、具体的には島の先住民、チャモロ人のことである。1940年当時、人口の90%以上を占めていたが、1990年には人口の43.3%となった。
 軍事基地と観光産業への依存により島の経済・社会が変容し、チャモロの生活文化が脅かされ、島の自然が取り上げられ汚染されているのが現状である。島民の自治権要求も次第にたかまった。決議は、戦時中の島民の合衆国への忠誠を強調するが、それは逆に島民と合衆国の紐帯がうすれつつあることへの警戒をしめすもののようにも思える。
 決議が、解放60年の記念の年に、あらためて日本軍による占領中の残虐行為を想起していることは重要である。日本との緊密な同盟関係にもかかわらず、アメリカ議会が日本軍の非人道行為を直視している証しである。またチャモロ人の受けた戦争被害が具体的に言及されていることにも注意すべきであろう。先住民の復権の動きと結びつくからである。
 戦後、アメリカ政府は占領中の損失財産と死傷者への補償を約束したが、実際に支払われたのは虐殺された人にたいする一人当たり200ドルの支払いだけだという。ようやく2002年になって議会はおもい腰をあげて下院に「グアム戦後補償審査委員会」を設け、32ヶ月に及ぶ占領中に日本軍がおこなった虐殺、暴行などの被害実態を調査することとした。04年の議会決議直前の6月、報告書が米政府と議会に提出された。「日本の占領はとくに残虐、圧政的かつ野蛮」だったと指摘、殺された人の遺族に一人当たり2万5千ドル、負傷者や強制労働被害者には一人当たり1万2千ドル、総額1億2500万ドルの補償支払いを勧告した。今回の下院決議はその内容を反映しているが、補償には言及していない。法案が近く議会に提出される予定といわれている。それはアメリカと先住民との和解の一歩となる。同時に日本がこの和解のプロセスにたいしどう関与してゆくかが問われる問題でもあろう。


以上グアムについての大日本帝国加害事実を追加しました。まとめてみると日本兵による集団強姦や女性の従軍慰安婦強制、強制労働、集団虐殺というまで、沖縄の事例とそっくりだと思います。近年、沖縄における日本軍の加害行為も問題視されていますが、グアムやほかの太平洋の島々でもそっくりでしょう。この小さな太平洋諸国における戦争被害については見落とされがちですね。沖縄とグアムとの類似点ですが、日本政府の戦争責任に対する動きと、同じ米軍基地を抱え米国の影響力が強く、米国に対する抵抗運動と今まで抑圧されて本土の思うがままになされてきたことに対する反発と民族自決権に対する民族的覚醒における民衆の動きと密接にリンクしていることが大きく類似していきます。

追記します 2006年2/16(日)
ファニータ・クルスさんの証言 1 -日本軍によるグアム先住民虐殺事件-。
http://blogs.yahoo.co.jp/asiaforum3tama/11599072.htmlより
私の名前はファニータ・クルスです。70歳です。母の名前はマリア・パンゲリナン・ナプティ・イグナシオです。父は1938年に亡くなりました。モンモン(グアムの首都ハガニャ近郊の集落)に住んでいました。8歳の時に初めて日本兵に会いました。飛行機がたくさん飛んできたのを覚えています。軍人や馬が私の農場に入ってきました。上空には飛行機が飛んでいました。あまりそのことを考えずに仕事をしていました。

次の日に、20人くらいの日本兵が馬に乗ってやってきました。私は馬を見たことがありませんでした。日本軍の兵士と馬が農場に入ってきたのです。一人の日本兵士が母に平手打ちをしました。日本語で何か言いました。母はチャモロ語で「それは食べ物です」と言いました。馬が畑の作物を食べてしまったのです。日本兵は馬のえさにするため、私たちの畑に入ってきたのです。隊長がやってきて、母をココナツの木にしばろうとしました。私は母をしばった布をほどこうとしました。別の兵隊が私を銃剣で刺そうとしました。私の足にその先が当たりました。隊長は母をしばってしまいました。馬に食料を与えた後、母の縄を解いて、そこに倒し、レイプしたのです。私と弟は母を助けようとしました。2時間ぐらいそのままでした。私と弟はそばにいるだけでした。母は何とか自分ではって家に入りました。母が「薬をとって」というので、薬を取ってきて貼り、体を洗いました。

その後2週間、母は寝ていました。薬をあげたりしていました。1ヶ月くらいして、体をうごかせて働けるようになりました。日本兵が鶏や豚を取っていってしまったので、食べるものがありません。魚を取ったりして食べていました。仕方がないので、ココナツで飢えをしのぐ状態でした。
2ヶ月後に再び日本兵がやってきて、服を洗濯するよう言われました。兵士に食べ物も渡しました。家の中をチェックするので隠すことはできません。


ファニータ・クルスさんの証言 2 -日本軍によるグアム先住民虐殺事件-
http://blogs.yahoo.co.jp/asiaforum3tama/11599930.html より
ある日、白人のアメリカ人のような人が家にやってきてバーガーグに来るように言いました。そこでは石を拾ったりしました。そこは飛行場を作るための土地でした。
また、マネンゴンの収容所に行くように言われました。私は10歳になっていました。沢山の人と一緒に歩きました。5時間ほど歩きました。日本兵に追い立てられて歩き続けました。日本兵に何度も平手打ちされてり、殴られたりする人も沢山いました。倒れると余計殴られました。立ち上がれないと殺されました。首を切り落とすのも見ました。悲しくて恐怖でいっぱいでした。その恐怖というのは、母に何をするかわからないという恐怖でした。私たちは休むことが許されませんでした。

到着したマネンゴンは鉄条網がはりめぐらされていました。人の手で作られた洞窟もありました。私たちの多くがここに押し込められました。逃げようとした人に向かっては銃で殺してしまいました。生き残った者は鉄条網で囲まれたところに収容されました。そこには食べ物がほとんどありませんでした。ある時どうして逃げたのかわかりませんが、母が外に行って小さな魚を取ってきました。私と弟に渡して「隠しておくように」と言いました。しかし兵士が来てしまいました。私は大丈夫でしたが、兵士は弟の口をこじ開け、舌を切り落としてしまいました。弟はそこで死んでしまいました。私はありったけの布で弟をくるみました。

アメリカ兵が(解放しに)来たとき、私は病気でした。日本兵の銃剣の破片が足に刺さっていたのです。体調が今でも良くありません。悪夢を見ます。

このことを私の子どもたちは知りません。娘たちは言います「日本人を嫌いにならなくたって・・・。いい人たちでしょう」と言いますが、私には難しいことです。

(2004年12月10日神宮前区民会館、12月11日立川女性センターアイムでの証言)
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ナウル共和国における大日本帝国加害事実

ナウル共和国における大日本帝国加害事実について

第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策より
http://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/17.pdf
第4 太平洋地域

日本は、1919(大正八)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12 月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。こうしたなか、1942(昭和17)年8 月25 日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。ナウル島にはナウル行政府が設置したハンセン病専門病院(Leper Station)があり、日本軍占領時、39 人の患者が入院していた。敗戦後の1948(昭和23)年、ナウルの行政官マーク・リッジウエィは、占領から1 年後、「日本軍は彼らを1 隻のボートに追い集め、そのボートは海に向かって曳航され、銃撃により破壊された。ひとりの生存者の痕跡もない」という衝撃的な証言をおこなった(NEWSITEMS, International Jou nal of Lepro y,Vol16,No.4,1948)。

さらに、1952(昭和27)年に発表されたレオナード・ウッド記念研究所のH・W・ウエイドとナウル政府医官ウラジミル・レドウスキーの共同研究も、次のように記している。

日本の占領はナウル島のハンセン病患者に激烈な変化をもたらした。1943 年6 月頃、隔離施設のすべての入院患者はどこか他の場所に移送するという口実のもとに穴の空いたボートに乗せられ、ランチに曳航されていった。たった3 人の者だけが見送ることを許された。これらの患者の運命についてはまったく不明である。しかし、彼らのうちひとりとて2 度と姿を見せることはなかった(H.W.Wade & Vladimir Ledowsky, The Leprosy Epidemic at Nauru; A Review with Date on The Status since 1937, International Journal of Leprosy,Vol.20,No.1,1952)。

1943(昭和18)年の夏、ナウル島のハンセン病患者は日本軍により虐殺されたことは疑い得ない。ナウルの事例は、占領地における隔離政策の帰結として記憶しておくべきであろう。


ナウル共和国におけるハンセン病患者の虐殺については、即急に被害事実を解明し、日本政府はただちに補償と謝罪を行うべきです

日本「アジア英語」学会ニューズレター第12 号Japanese Association for Asian Englishes
http://www1.linkclub.or.jp/~jafae/NL12.pdfより
ナウル共和国のその後   O.T(帝塚山学院大学)

 2000 年、在外研究の機会を得て1年間、豪ニューイングランド大学に行ってきた。国内外の著名な言語学者を迎えての言語学セミナーへの参加は私のような若手の研究者にとってはたいへん有益なものであった。しかし何と言っても時間がたっぷりある中での3度目となるナウル島へのフィールドワークはセミナー以上の興奮をおぼえた。
 目的は1940 年代に成立したと思われる中間言語としてのニホンゴの可能性を探ることとピジン英語との関連を調べることであった。お年寄りへの聞き取り調査をすすめながら数多くの資料が集まったが、戦後55 年を経た今日でもナウル人の記憶としてニホンゴが生き続けているのが不思議である。中でも「ミー ビョウキ」ということばにはたいへん興奮した。戦時中、日本軍は島内に3つの滑走路を作るために地元の人々を強制的に働かせた。風邪をひいていても怪我をしていても作業を休むことは許されなかった。それでもどうしても休みたくて、自分は病気だから動けないということを日本兵に伝えるために必死になっておぼえた表現である。「ミー」は既存のピジン英語からの借用であると考えられる。ナウル人にはピジン英語および英語の知識がすでにあった。したがってme やyou といった代名詞形が日本人との接触の初期の段階で頻繁に使われたとしても不思議ではない。これはフォリナートークに関する仮説としてネウストプニーが指摘したことと合致する。つまり、代名詞の特殊な使用に該当する。ナウル人は日本人が来島する前は中国人との間でピジン英語を使っていたし、中国人との容姿が似ている日本人と接触したときに、とっさにナウル人の口から出たとしても不思議ではない。
 一方、日本人の間では当時、英語が敵性語として位置付けられていたこともあってか、上記の代名詞形が使われた形跡がない。ニューギニア島では日本軍が土地の人から食糧を獲得するための手段としてニューギニアのピジン英語を獲得したという報告があるが、ナウル島ではそのようなことはなかったようである。さらに初期の接触段階で特徴的な命令調の表現が観察されない(例えば「ユー ゴー」とか「ユー カム」のような表現)。
 したがって、このニホンゴはピジン化したニホンゴと捉えるのではなく、個人的な差異が著しい段階である一種の中間言語と考えた方がよさそうではあるまいか。その他詳しくは追手門学院大学の『オーストラリア研究紀要』第26 号をご覧いただきたい。
「言語学者は優秀な歴史学者でなければならない」といったのは言語学者であるギリアン・サンコフである。たしかに、ある特定の時期において当該言語に何が起こったのかを知るには当時の歴史的・社会的背景を知らずには解決できないことが多々ある。そのようなことを思い知らされた1年であった。


PEACEBOAT-クルーズ-第32回 「地球一周の船旅」
4月25日 ▼バナバ島からきた人たちと交流▼
http://www.peaceboat.org/cruise/report/32nd/apr/0425/land_a.htmlより
4月25日 ▼バナバ島からきた人たちと交流▼
 フィジー共和国の北端に位置するランビ島には、そこからさらに1000km北に位置するバナバ島(現キリバス共和国領)を故郷とする「バナバ人」のコミュニティーがあるという。
1900年、イギリスの会社がバナバ島内でリン鉱石を発見、その利権に目を付ける。以来、イギリスによる採掘と土地の買い上げが始まり、島は破壊つくされてしまった。採掘のために強制移住させられたバナバの人々は、故郷を遠く離れたまま、60年近くを生きてきたのだ。このコースでは、首都スバに移り住んできたバナバ人たちのコミュニティを訪れ、「南太平洋の忘れられた人々」と呼ばれる彼らの話を聞き、文化交流をおこなった。

スパ市内にあるバナバ人コミュニティ集会所に到着すると、とびきりの笑顔とあったかい握手で迎えられた。私たちも「コナマウリ!(こんにちは)」と覚えたての言葉でごあいさつ。「このようにみなさんと交流の場を持てることを非常にうれしく思います」と代表のロンゴロンゴさんから愛嬌たっぷりの挨拶。集会所は一気に和やかなムードに包まれた。

コミュニティの「長老」カロロさん夫妻に、バナバ民族の歴史と現在をお話しいただいた。私たちが大きな衝撃を受けたのは、バナバ人が故郷を追われた歴史に日本が大きく関わっているという事実。

1942年、第二次世界大戦の最中、英軍の後がまとしてバナバ島に上陸した日本軍は、イギリスと同じくリン鉱石に目をつけ、採掘の邪魔となるバナバ人たちをコスラエ、ナウルといった周辺の島々へと強制移住させた。移住先では重労働が課され、罪も無い人に対する虐殺行為も行われていたという。戦後、日本軍に代わって「戻ってきた」イギリスが、リン鉱石の採掘を続けるため、さらに人々をランビ島へ移住させ、現在のバナバ人コミュニティができあがった。
実際にバナバ島からの強制移住を体験した「被害者」の1人であるカロロさんが、「今はみんな友達なのさ」と微笑んでくれた。


http://www.tabiken.com/history/doc/M/M207L100.HTM
●デ=ロバート

大洋州 ナウル共和国 AD1922 

 1922〜 ナウル共和国の政治家。ナウル中等学校を卒業後,オーストラリアに留学。ヴィクトリア州のギーロン工科学校を卒業し,1940年にナウルに帰って学校教員となった。太平洋戦争が始まり1942年(昭和17)8月にナウルが日本軍に占領されたのち,デ=ロバートは日本軍によってほかの多くのナウル人とともにトラック島に強制移住させられ同島の軍用滑走路建設の労働者とされた。1945年9月にアメリカ軍によって解放され,生き残ったナウル人とともに1946年1月31日にナウルに帰って教職に復帰したが,1947年にナウル問題局の連絡官となり1951年まで勤務。その後教職に戻ったが1956年にナウル地方財務評議会の首席酋長に選ばれ政治活動に入った。1960年からナウル独立のためオーストラリアと交渉,1962年〜1967年まで国連ナウル特別代表のアドバイザーをつとめた。1968年立法評議会議員に選ばれ,同年1月31日独立したナウル共和国初代大統領となり,1976年一時大統領職を離れたが,1978年再び大統領に復帰して今日に至っている。


消滅の危機、ナウル共和国のいま 小林 泉(こばやし いずみ)
http://www.jaipas.or.jp/124/124_3.htmより
日本とナウルの関係
 30年も前にナウルと関わりをもったのは、私の所属する太平洋諸島地域研究所(旧称日本ミクロネシア協会)の中に日本ナウル協会の事務局が置かれていたからだったが、そもそも、この協会の設立経緯はこうである。

 日本は、1942年から45年まで、豪、NZ、英の三国施政下にあった委任統治領ナウルを占領した。当時の島人口は2千人弱だったが、日本軍はそのうちの千数百人を疎開と称してトラック諸島に強制移住させ、海軍基地や関係農場の労働者に徴用したとする記録がある。このとき、日本人との様々な交流もあったようだが、飢餓や病気、戦火に巻き込まれたりして、戦後無事に帰島できたのは3分の2。この中にハンマー・デロバートという酋長家系の青年リーダがいた。そして、その青年デロバートが、独立したナウル共和国の初代大統領となった。

 ナウルの大統領が、トラック諸島で親交のあった南洋拓殖会社の旧社員たちを捜しているという話が日本側に伝わったのは、独立後間もない頃であった。その尋ね人の一人で、日本ミクロネシア協会の設立時に常務理事を務めた石川二郎氏は「大統領が私たちを捜していると聞いたときは、かなりビビりましたよ。戦後20数年たってはいるが、独立を機に何か戦争当時の責任を追及されるんじゃないかってね」と、そのときの心情を素直に語っていた。

 南洋拓殖株式会社、通称「南拓」とは、朝鮮半島の東洋拓殖会社と同様に、植民地の主として農業分野の開発を目的に設立された国策会社である。トラック諸島に強制移住させられたナウル人は、基地労働や農場で軍に供給する蔬菜類を作る仕事に従事させられていた。石川氏らは、恐る恐る東京で大統領に面会したが、顔を見るとすぐにその懸念は吹き飛んだ。デロバート氏は全身に懐かしさを漂わせ、彼らとの久しい再会を喜んだからである。そして、こう言った。「ナウルは独立し、私が大統領になりました。これからはどこの国とも自由に親交を結べます。私は貴方がたを通じて日本との友好関係を築きたい。昔のように仲良くやりましょう」。この言葉に感激した元南拓社員たちは、すぐさまかつての仲間たちに呼びかけて、大統領の歓迎会を開催。それから間もない1970年に、南洋拓殖のOBたちで組織する「南拓会」を母体にして、日本ナウル協会が設立されたのである。


日本軍によってトラック島に強制移住させられ、重労働に従事させられた被害者であるデロバート氏がナウル共和国の初代大統領だったようだが、この男は最低である。加害者であり、大日本帝国・日本軍の尖兵である南洋拓殖株式会社の連中に対して懐かしさを漂わせ、こともあろうに大日本帝国の加害の歴史を前に謝罪や補償などの歴史問題を抜きにして、日本との友好関係を築きたいなど最低な奴だと思った。多くの島民が強制移住させられて、3分の1が命を落とし、被害者や犠牲者遺族の悲しみや国民的感情もあるのに、それを抜きにして目の前の利益のために、日本に媚びる態度は許されるべきではない。それがたたってか、ナウル共和国は崩壊状態にあるのだろうと思う。アジア諸国の多くは、経済侵略援助という名目上の賠償だけで、自国民の日本に対する個人補償に対する権利までも国民総意によるプロセスを経ずに独断で決めてしまったのである。これのせいで今にいたる右翼勢力や反動政治家が牛耳る日本の現状があるんだろう。

retreatist ■[本]うんこでできた島
http://d.hatena.ne.jp/anhedonia/20050309より
[本]うんこでできた島
アホウドリの糞でできた国―ナウル共和国物語
作者: 古田靖, 寄藤文平
出版社/メーカー: アスペクト
発売日: 2004/12
メディア: 単行本

太平洋に浮かぶナウル共和国の数奇な運命

第二次世界大戦では、このナウル島を日本軍が占領して、1200人ものナウル島の住民をトラック島に送ってしまい、戦争が終わったときには、737人になっていたという。そんな悲劇を経験したりしている。

かなり悲惨なお話のだけれど、ナウル政府のやっていることはかなり滅茶苦茶。すっとぼけた挿し絵のせいもあってか、何処か可笑しくて笑いそうになってしまう。

ちなみに、ナウル共和国のこととはべつに、燐鉱石の枯渇は我が国の農業にとっても非常に重要な問題なのだ。


ナウル共和国の歴史
http://platform.or.tv/rs/nauru.htmlより
:::1798:::
イギリスの捕鯨船がナウル島を発見
:::1888:::
ナウル,ドイツ保護領に
:::1900:::
イギリスがリン鉱石を発見。ドイツから鉱業権を取得
:::1914:::
オーストラリア軍が占領
:::1920:::
国連委任統治領(オーストラリア・ニュージーランド・イギリスが施政)に
:::1942:::
日本軍が占領。この時,国民約1200人が労働力としてトラック島に強制移住させられる
:::1947:::
国連信託統治領(オーストラリア・ニュージーランド・イギリスが施政)に
:::1968/01:::
ナウル共和国として独立


以上まとめますと、ナウルのハンセン病患者の虐殺に加え、大日本帝国の加害行為はナウル島民に対する強制移住と移住先での強制労働・虐殺ということがいえると思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:32 | Comment(9) | TrackBack(196) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マーシャル諸島における朝鮮人軍属の反乱と、朝鮮人・島民の虐殺について

http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htmより
また、マーシャル諸島のミレー島では約1万人の朝鮮人軍属を飛行場建設工事に使役していました。
1944年1月頃、補給が絶たれて食糧が足りなくなったため、ミレー島の日本軍は朝鮮人軍属と共に周辺の小島に分散することになりました。
その中でのチェルボン島ではジャングルの中でネズミや蛇や魚を採集する毎日でしたが、ある日、食糧を採集に行った朝鮮人軍属2名を日本人軍属が密かに殺害し、その死体を喰い、さらに事情をしらない朝鮮人軍属に「鯨肉」と称して食べさせました。
被害者の二人が帰ってこないのでこの事実に気がついた朝鮮人軍属らは、自らも食人の犠牲になることを恐れ、クーデター計画を立てましたが事前に発覚し、恐れた日本軍は島を脱出して救援を求めました。
そして日本海軍陸戦隊約60名と、朝鮮人軍属及び地元の酋長が率いるマーシャル人の間で銃撃戦が起こりましたが、戦力の優劣は明らかでした。
日本軍は降伏して手を上げる朝鮮人軍属も射殺しました。結局、朝鮮人軍属約100名、チェルボン島に住むマーシャル人(女子供老人含む)全員が銃殺または斬殺されました。
(こうして現在に至るまでチェルボン島は無人島になっています。 戦後、マーシャル人は事実を調査し、日本政府に補償を求めましたが、日本政府は1969年の米国とのミクロシア協定で解決済みだとしています。)(*注31)


プレスリリース
http://www.ktv.co.jp/info/press/050815.htmlより
8月15日(月) 15:59〜16:54
終戦記念日特集
「飢餓戦線の果てに」〜南の島の60年目の証言〜
戦後60年ドキュメンタリー
「戦争の悲惨さ」、「人間とは」、「家族とは」、「国家とは」…
後世の人たちに戦争の記憶を風化させまい、日韓国交正常化40周年を節目に
未来志向の「日韓関係」を願いながら、後世の人たちにメッセージを託す

岡県在住の金丸利美さんは、元日本海軍軍人。韓国のソウルに住む李仁申(イインシン)さんは、元日本軍の韓国人軍属。二人はいずれも81歳。
60年以上前の太平洋戦争中、中部太平洋のマーシャル諸島にあるミレー島で米軍と戦った。日本の敗色が濃くなった1943年末ごろ、連日の米軍による猛攻撃で、「第2南海丸」が撃沈され、ミレー島への食料などの補給路が絶たれた。その日を境に、約5700人の日本軍人や韓国人軍属にとって、飢餓との戦いが始まった。極限状況と飢餓地獄の中、ミレー環礁のある島で韓国人軍属による反乱事件が起きた。日本軍の鎮圧隊によって、100人以上の韓国人軍属が殺された。李さんはその時、別の島にいて助かった。金丸さんは1970年代の前半から、度々ミレー島に眠る3100人余りの英霊たちのために、慰霊の旅をするようになった。そこで偶然、金丸さんたちは、遺骨の収集に来ていた李さんら元韓国人軍属に出会う。当然、険悪な雰囲気になった。あの反乱事件の鎮圧隊とは関係ないのに、金丸さんは李さんに辛く当たられる。それでも一緒に、慰霊の旅を続けているうちに、ミレー島で生死をともにした金丸さんと李さんたちは和解する。

あれから10年。
あの時、ミレー島で一緒だった元日本軍人や元韓国人軍属たちの中で、今も健在なのは、金丸さんと李さんだけになった。李さんたちが、日本政府を相手に裁判を起こした「戦後補償訴訟」は去年12月、最高裁判所で敗訴が確定した。現在、戦後補償については、韓国政府が「個人補償」を担う流れに変わりつつある。
戦後、日本と韓国でそれぞれ異なった人生を歩んできた「金丸さん」と「李さん」。お互いに「人生の黄昏」を迎えている。

実は、10年前、ミレー島で戦後初めて、日本軍人に出会った李さんは、金丸さんに「あの時の非礼」を詫びる手紙を出していたのだった。その時、二人の心に通じ合える何かがあったのかも。「戦後60年」を迎える現在、戦争体験者は少なくなりつつある。「戦後70年」を迎える10年後には、彼らのような人たちが、どれだけ生きているのだろうか?

番組では、金丸さんと李さんのそれぞれの戦後の人生を軸に描きながら、「戦争の悲惨さ」、「人間とは」、「家族とは」、「国家とは」などを浮き彫りにする。「戦争の記憶を風化させまい」、「日韓国交正常化40周年」を節目に、未来志向的な「日韓関係」を願いながら、後世の人たちにメッセージを託す。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。


酷い話です。許せませんよね。日本政府は米国とのミクロネシア協定で解決済みというのはどういう意味でしょうか?マーシャル諸島は米国の植民地ではありません。立派な独立国家です。マーシャル諸島政府はもっと強くでて、完全な被害事実解明と補償問題についてきっちりと話し会うべきです。この問題には強制連行されてきた朝鮮人軍属の補償問題にも絡んでおり、大人の国家としての責任を日本政府は果たすべきです。
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太平洋諸国・地域(パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、サイパン・グアム、ナウル共和国など)における大日本帝国加害事実 http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13683780.htmlを分割します。

太平洋諸国・地域(パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、サイパン・グアム、ナウル共和国など)における大日本帝国加害事実
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13683780.htmlについて
○パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、および太平洋地域全般
○マーシャル諸島における朝鮮人軍属の反乱と、朝鮮人・島民の虐殺について
○ナウル共和国における大日本帝国加害事実
○グアム島における大日本帝国加害事実 の4つにわけて再編しなおしました。
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2006年02月24日

太平洋諸国・地域(パラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島、サイパン・グアム、ナウル共和国など)における大日本帝国加害事実

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper51.htmより
(7)太平洋諸島
 太平洋諸島においては日米両軍の死闘がくりひろげられました。多くの島で日本軍は玉砕し、またガダルカナル島をはじめ多数の餓死者を出しました。たとえばギルバート諸島のタラワ、マキン鳥は日本軍「全員玉砕」の地として知られています。両島で日本人、朝鮮人約五、〇〇〇人(朝鮮人は飛行場建設のため強制連行された人々です)、米軍約一、〇〇〇人が戦死しました。
 ここで忘れられてはならないのは、これらの島々にはもとから住んでいる人々がいたということです。彼らは飛行場建設に動員され、荷かつぎをさせられました。ギルパートのある老人が知っていた日本語は、歌のほかに「シゴト、カカレ、ヤスメ」という言葉でした(小田実『世界が語りかける』)。家も樹もふきとぷ戦闘の中で、彼らにも当然冬多数の犠牲者が出たでしょう。しかしこのことは、日米両国民には、まったく目にはいらないかのようです。


http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper01.htmより
16 太平洋諸島 

 ミクロネシアの島々は戦前は南洋諸島と呼ばれ、日本の統治下におかれていた。これらの島々にも日本軍が配置されていた。島民はロームシャとして駆り立てられ、食糧を供出させられた。特に日本の戦況が悪化すると外部との連絡が途絶え、多くの日本兵が駐屯していたため食糧難に陥った。また米軍に通じているとして疑いをかけられ、殺された人も多い。これらの島々はかつてのスペイン統治の影響でカトリック教徒が多く、グアムやロタでは白人の神父がスパイ容疑で処刑されている。
 グアム島はアメリカ領だったので、地元のチャモロ人は日本に反感が強かった。一九四四年七月米軍が上陸する直前にメリーソン村で、米軍に通報したという理由で一六人が捕らえられ、手榴弾で殺された。さらに三〇人も同じようにして殺された。その一方、村にいた日本兵と在留邦人たちが村の男たちを監禁したうえで若い女性を一人ずつ連れ込み泊まらせた。その直後にメリーソン村の日本人は、地元民に荷物を担がせて避難を始めたが、その途中、地元民に襲われ一一人が殺される事件がおきた。
 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認されている。
(略)
日本軍が駐留していた各地の島々で、敵に通じているという疑いや食糧を盗んだという理由で住民が拷問・処刑され、時には集団虐殺される事件がたくさん起こっていたと推測される。さらに米軍が上陸してきた場合には、激しい爆撃や艦砲射撃、地上戦により住民にも多くの犠牲が出た。サイパンやテニアンなどでは、降伏を許されず、追い詰められた在留邦人が絶壁から身を投げたり手榴弾で「自決」したことは有名だが、こうした太平洋の島々の人々に日本軍が与えた被害については、ほとんど忘れられたままである。


http://www10.ocn.ne.jp/~war/siganheiseido.htmより
また、マーシャル諸島のミレー島では約1万人の朝鮮人軍属を飛行場建設工事に使役していました。
1944年1月頃、補給が絶たれて食糧が足りなくなったため、ミレー島の日本軍は朝鮮人軍属と共に周辺の小島に分散することになりました。
その中でのチェルボン島ではジャングルの中でネズミや蛇や魚を採集する毎日でしたが、ある日、食糧を採集に行った朝鮮人軍属2名を日本人軍属が密かに殺害し、その死体を喰い、さらに事情をしらない朝鮮人軍属に「鯨肉」と称して食べさせました。
被害者の二人が帰ってこないのでこの事実に気がついた朝鮮人軍属らは、自らも食人の犠牲になることを恐れ、クーデター計画を立てましたが事前に発覚し、恐れた日本軍は島を脱出して救援を求めました。
そして日本海軍陸戦隊約60名と、朝鮮人軍属及び地元の酋長が率いるマーシャル人の間で銃撃戦が起こりましたが、戦力の優劣は明らかでした。
日本軍は降伏して手を上げる朝鮮人軍属も射殺しました。結局、朝鮮人軍属約100名、チェルボン島に住むマーシャル人(女子供老人含む)全員が銃殺または斬殺されました。
(こうして現在に至るまでチェルボン島は無人島になっています。 戦後、マーシャル人は事実を調査し、日本政府に補償を求めましたが、日本政府は1969年の米国とのミクロシア協定で解決済みだとしています。)(*注31)


チェルボン島での朝鮮人やマーシャル人に対する大量殺戮。許せませんね。結局はうやむやにされてしまいましたが。それにても、米国とのミクロネシア協定で解決済みというのはどういう意味でしょうか?マーシャル諸島は米国の植民地ではありません。立派な独立国家です。マーシャル諸島政府はもっと強くでて、完全な被害事実解明と補償問題についてきっちりと話し会うべきです。

第十七 旧植民地、日本占領地域におけるハンセン病政策より
http://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/17.pdf
第4 太平洋地域

日本は、1919(大正八)年以降、マリアナ・マーシャル・パラオ・カロリン諸島を国際連盟の委任統治として事実上、植民地支配し、1928(昭和3)年にヤルート島に、1929(昭和4)年にサイパン島に、1930(昭和5)年にヤップ島に、1931(昭和6)年にパラオ島に、南洋庁がそれぞれ小規模なハンセン病療養所を設置していたが、1941(昭和16)年12 月の対米英開戦以降、太平洋地域の島嶼の占領を拡大した。こうしたなか、1942(昭和17)年8 月25 日、海軍はオーストラリアの委任統治下にあったナウル島を占領した。ナウル島にはナウル行政府が設置したハンセン病専門病院(Leper Station)があり、日本軍占領時、39 人の患者が入院していた。敗戦後の1948(昭和23)年、ナウルの行政官マーク・リッジウエィは、占領から1 年後、「日本軍は彼らを1 隻のボートに追い集め、そのボートは海に向かって曳航され、銃撃により破壊された。ひとりの生存者の痕跡もない」という衝撃的な証言をおこなった(NEWSITEMS, International Jou nal of Lepro y,Vol16,No.4,1948)。

さらに、1952(昭和27)年に発表されたレオナード・ウッド記念研究所のH・W・ウエイドとナウル政府医官ウラジミル・レドウスキーの共同研究も、次のように記している。

日本の占領はナウル島のハンセン病患者に激烈な変化をもたらした。1943 年6 月頃、隔離施設のすべての入院患者はどこか他の場所に移送するという口実のもとに穴の空いたボートに乗せられ、ランチに曳航されていった。たった3 人の者だけが見送ることを許された。これらの患者の運命についてはまったく不明である。しかし、彼らのうちひとりとて2 度と姿を見せることはなかった(H.W.Wade & Vladimir Ledowsky, The Leprosy Epidemic at Nauru; A Review with Date on The Status since 1937, International Journal of Leprosy,Vol.20,No.1,1952)。

1943(昭和18)年の夏、ナウル島のハンセン病患者は日本軍により虐殺されたことは疑い得ない。ナウルの事例は、占領地における隔離政策の帰結として記憶しておくべきであろう。


ナウル共和国におけるハンセン病患者の虐殺については、即急に被害事実を解明し、日本政府はただちに補償と謝罪を行うべきです。

滝尾英二的こころ
http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/2005/11/より
 「パラオ・サイパン・ヤップ・ヤルートに、1922年に日本政府によってつくられた「南洋庁」によって、日本植民地下のこれら4箇所の島々にハンセン病収容所がつくられたこと。その収容所に強制収容されたハンセン病患者は「‥‥由来島民は其の伝染性を信じないので当局は常に適当なる方策を講じ隔離治療を行う要あるを痛感し大正一五年(=1926年)サイパン島に癩療養所を設け、之に患者を収容して‥‥糧食等は夫々親族縁故者の負担とした‥‥」(『南洋群島要覧=南洋庁』より)。

 また、パラオの元挺身隊員であったヤノ・マリウスさんが1991年に日本のアジア・太平洋地域戦後補償国際フォーラムで証言されたなかで「(パラオでは)ハンセン病患者四名は銃殺、あるいは剣で刺し殺されました」と発言されています(国際フォーラム実行委員会編『戦後補償を考える』29ページ、東方出版)。このようなことが、ミクロネシア四島の各地であったのではないでしょうか。(『飛礫』47号・2005年7月発行の滝尾英二著「ミクロネシアのハンセン病政策」を参照)。


大日本帝国の植民地下におけるハンセン病強制隔離問題については厚生省が補償を行うという解決への一歩が見出せたが、太平洋地域におけるハンセン病隔離問題についてはまだ未解決である。ナウル共和国にしろ、パラオなどの南洋諸島にしろ、台湾や韓国における事例よりもさらに非道なものだった可能性が高いと思う。被害事実の解明と、日本政府一刻も早い、被害者本人や犠牲者遺族に対する補償に向けて、圧力をかけていかないといけないと思う。

http://www.jca.apc.org/JWRC/center/library/jihyo46-1.htmより
グアムの戦後補償問題

荒井信一 

 2004年9月28日、アメリカ下院はグアム解放60周年記念決議(下院決議737号)を可決した。グアム島は、ミクロネシアにある米領の島で、太平洋最大と称される米軍の基地がおかれている。ハワイとならぶ南海の楽園として毎年多くの日本観光客が訪れるが、敗戦を知らずに潜伏していた横井庄一元陸軍軍曹が、28年ぶりに「恥ずかしながら」といって島のジャングルから姿を現したとき以外、この島が太平洋戦争の戦場であったことは、日本人の意識にあまりのぼらない。
 決議は、開戦と同時にグアムが日本軍の攻撃をうけ、1941年12月10日から44年7月21日まで日本軍に占領されていたことを想起する。そしてグアムの人々が「合衆国への一貫した忠誠のゆえに残忍な占領を経験し」「32ヶ月の占領中に強制労働、死の行進、抑留、障害および公開処刑をふくむ死を経験した」と明記している。決議が「グアムの人々」と呼んでいるのは、具体的には島の先住民、チャモロ人のことである。1940年当時、人口の90%以上を占めていたが、1990年には人口の43.3%となった。
 軍事基地と観光産業への依存により島の経済・社会が変容し、チャモロの生活文化が脅かされ、島の自然が取り上げられ汚染されているのが現状である。島民の自治権要求も次第にたかまった。決議は、戦時中の島民の合衆国への忠誠を強調するが、それは逆に島民と合衆国の紐帯がうすれつつあることへの警戒をしめすもののようにも思える。
 決議が、解放60年の記念の年に、あらためて日本軍による占領中の残虐行為を想起していることは重要である。日本との緊密な同盟関係にもかかわらず、アメリカ議会が日本軍の非人道行為を直視している証しである。またチャモロ人の受けた戦争被害が具体的に言及されていることにも注意すべきであろう。先住民の復権の動きと結びつくからである。
 戦後、アメリカ政府は占領中の損失財産と死傷者への補償を約束したが、実際に支払われたのは虐殺された人にたいする一人当たり200ドルの支払いだけだという。ようやく2002年になって議会はおもい腰をあげて下院に「グアム戦後補償審査委員会」を設け、32ヶ月に及ぶ占領中に日本軍がおこなった虐殺、暴行などの被害実態を調査することとした。04年の議会決議直前の6月、報告書が米政府と議会に提出された。「日本の占領はとくに残虐、圧政的かつ野蛮」だったと指摘、殺された人の遺族に一人当たり2万5千ドル、負傷者や強制労働被害者には一人当たり1万2千ドル、総額1億2500万ドルの補償支払いを勧告した。今回の下院決議はその内容を反映しているが、補償には言及していない。法案が近く議会に提出される予定といわれている。それはアメリカと先住民との和解の一歩となる。同時に日本がこの和解のプロセスにたいしどう関与してゆくかが問われる問題でもあろう。


グアムでは日本人の観光客が行くところであるが、熱帯の楽園というイメージが先行して、日本軍による加害が行われた事実に対して、ほとんど知らないのではないだろうか?日本人としてどのような罪の清算の仕方があるのか考えていかないといけない。

こだわらない強み −ミクロネシア連邦モエン島の現状に対する島民の意識−
http://www.apa-apa.net/~jinrui/soturon/paper/harada.pdfより
 しかし1941年に太平洋戦争がはじまると事態は一変した。「海の生命線」と呼ばれ、戦略的拠点となったミクロネシアの島々には、非常に数多くの軍人や軍属が来島し、島民は土地を奪われ、軍作業や食糧増産に使役された。戦争は4年間続いた。島のお年寄りの方も戦争中は大変だったと話してくれた。 「私は戦争の時は兵隊さんと一緒に働いた。戦争がひどくなると兵隊さんは食料をくれないから多くの島民が水曜島へ引っ越したよ。パンの実やバナナ、ココナッツ、何もくれなかったから。昼間は勤労奉仕で軍隊で働いて、夜は防空壕掘ったり、畑仕事したり。働かなかったら罰でした。空襲があるときは寝られないし、たくさんの島民が日本兵と一緒の防空壕で死にました。」 「戦争の時は苦しかったよ。戦争中は食べ物はみんな軍隊のものになったし、家もとられて、島民は山の奥にいた。夜は寝られないし、昼は軍隊の仕事。戦争最中はトラックの人をぶん殴ったりもしていました。」 「軍隊で働きました。各部隊に分かれて兵隊さんのお手伝いとか、伝令をするとか、まるで兵隊さんのようにやったんです。敵が来たら僕らもみんな向かうからね、僕らも軍隊になっちゃう、そうでしょ。例えば敵陣島陸すれば僕らは日本人と働いているから向かうし敵も僕らをねらうでしょ。僕らは軍人と同じなんですよ。」


大日本帝国の無謀な侵略戦争に対して南洋諸島の島々は苦しめられて、犠牲を強いられました。

高橋潤次さんの戦争体験
http://www.geocities.jp/haguma27/hiromi/sensoutaiken1/page02top.htmより
 北朝鮮による拉致闘題は許せないが、誓本人からみて許せないことは朝鮮人、中国人からみても許せないとおもいます。この近くでも久根鉱山、峰の沢鉱山など、天竜川流域の銅山やトンネル工事に、強制連行された朝鮮・中国人が労働につかわれ、かなりの犠牲者も出ているのですが、これらのことに補償らしい補償がまったくないのが現状です。
  わたしが戦争に反対する大きな理由は、爆撃で手をとられて前途まっくらになった、わたし自身が被害者という意識が強くあったことからです。戦後五年間くらいは占領軍により軍人恩給もストップされていた。講和条約成立後に恩給は再開したが、金はもらえても手は返してもらえない。こんなことは他の人にはぜったい経験させたくない、だから戦争反対と強くおもった。その被害者意識から出発して、転機となっこのは、1980年にベラウに行ったことです。
 べラウでは、日本の海軍軍艦のはなしが、現地の婦人から涙ながら訴えでられました。当時ベラウの人口、一万二、三千人のうち約半分の六千人が死んでいる。なくなった原因の多くは飢え死にです。
  そのもっとも大きな要因となったのは、ベラウ諸島の最南端、ペリリュー島という島に、一万二千人の日本の陸海軍が要塞を作ってたてこもっていた(*この軍隊は三十八名が残っただけで全滅した)ことです。宝の島といわれたぺリリュー島は、野菜、果物やコメまでつくり、ベラウ全島に供給していたところです。
  それに追い討ちをかげたのが、海軍の艦船の寄港でした。たとえば戦艦「大和」も、1944年2月にトラック島の米軍の空襲からのがれて、ベラウへ逃げこんできています。「大和」のほか五隻ぐらいの船がついていた。これらを全部あわせると、約五千人の人口です。これらに相当する人口が、水や生鮮食料品、ニワトリやブタの肉などもまきあげられたといいます。島の人々はアメリカの空襲を避けてジャングルへ逃げたけれど、ジヤングルのなかには食べるものは何もなかった。
  それをきいてショックだった。わたしらの船もそれをやってきたのです。
  マーシャル群島へ寄港したとき、ヤシの若芽をつんで食べていました。野菜がない状態でしたから、うまい、うまいと。ヤシは土地の人には重要な生活手段であり食料です。それを若芽のうちにつんでしまっていた。
  わたし自身は航海士で、艦の運行の仕事をしていました。大砲はおろか鉄砲一発撃ったことがなかったのに、れっきとした加害者だったのです。


ベラウというのはパラオのこと。太平洋戦争中、パラオでは全島の人口の半分が飢餓の犠牲になりました。ペリリュー島に陸海軍が立て篭もったため、食糧の供給ができなかったからでした。

太平洋の島々でも戦争被害
http://web.archive.org/web/20020821094546/
www5.sdp.or.jp/central/shinpou/newsfiles98/6sensouhigai0812.html
より
アジア太平洋戦後補償国際フォーラム
 第二次世界大戦での旧日本軍による残虐行為については、すでに中国をはじめ東南アジア各地で明らかにされているが、太平洋の島々やニューギニアにおいても、住民に対する虐殺や強姦、「慰安婦」などか烈な戦争被害があったことが、被害者らの証言で明らかになった。

 七月二十六日に東京で開かれた、アジア太平洋戦後補償国際フォーラム(戦後補償アジア太平洋被害者団体国際協議会主催)に参加したトラック諸島、マーシャル諸島、パプアニューギニアから来日した被害者や関係者が語ったもの。

 このなかで、マーシャル諸島のミリ・アトール出身のタリナ・レイトさん(七十二歳・女性)は、戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言。「私は兵士たちがした残虐行為を生きている限り決して忘れない。神様がいつかこの残虐な人びとに罰を下してくださるよう祈っている」と、訴えた。

 また、戦争中飢餓地獄といわれたニューギニアで、日本軍の炊事係として部隊に同行した体験をもつパプアニューギニアからきたブガ・グロ・ハウエバルさん(七十五歳・男性)は、日本兵十一|十二歳の少女を強姦した後、銃剣で殺害したことや、行軍途中の村々で、若い女性たちを性の奴隷とするため部隊に従軍させ、その途中で強姦した女性の乳房を切りとり、兵士たちの食料として揚げて食べたという、現地住民を対象とした組織的な人肉食が行なわれた事実について証言。

 また、同じくパプアニューギニアから来日した「日本軍による戦争被害に補償を求める会」代表のガブリエル・ラクさんは、これまでの現地での聞き取りなどの調査により、戦争中に住民七千七百四十八人が日本兵に殺害されたほか、食料不足を補う目的で二千三百八十八人が人肉の犠牲となり、また、一万六千百六十一人の女性が日本兵の性的奴隷として「慰安婦」にされたと報告した。

 フォーラムを主催した同協議会代表で、これまでアジアの戦争犠牲者の戦後補償問題に取り組んできた弁護士の高木健一さんは「これまで韓国や台湾、フィリピン、インドネシアやオランダについては、アジア女性基金など不十分ながら償いの事業がなされているが、なぜ太平洋地域についてはできないのか。この地域の人びとを、日本政府と日本人は軽んじてはならない」と発言、具体的な償いの実現に向けて今後も努力していく考えを強調。

 また、この日のフォーラムには、社民党戦後補償問題プロジェクトチーム事務局長の清水澄子参院議院が出席、「被害者に対して個人補償するのが政治。皆さんと力を合わせてやっていきたい」と激励。翌二十七日には、清水議員が窓口になって高木弁護士や来日した被害者とともに、外務省アジア局地域政策課と総理府外政審議室の担当者と交渉、「日本政府としてこの問題に誠実に真剣に取り組んでほしい」と要請した。


ミリ・アトール出身のタリナ・レイトさんについてぐぐってみましたが何も分かりませんでした。ともあれ、凄惨な蛮行が繰り広げられたようです。
>戦時中、島に進駐してきた日本兵が「部隊の洗濯と炊事のために働くように」と無理やり部隊の兵舎に連行、連日のように兵士によって強姦が行なわれた事実を証言
日本軍という存在はどこかの野蛮な軍閥か、蛮族の集団のようですね。

◇第一作 『日本軍歌思考』第二部
http://homepage3.nifty.com/alexcompany/novel_02.htmlより
 日曜の或るテレビ番組に出場のコメンテーターは、この現象を指して“歴史はくりかえす”と言ったが、気掛かりなのはその不況だけではなく、前述した昭和九年の世上をもいっしょくたに繰り返されたのでは困るのである。何となれば、昭和初期に見舞われた不況のそれから先の道筋は戦争であるからだ! 
 博識にあるコメンテーターの言をかり、それをそこまで二重写しにして気にかけるのは、杞憂というものであろうか… とりもなおさず、それは前述の「衆愚政治」なる言に過去の傷口がうずき、そこをひじくられそうにあるからだ。 
 腹立ちついでに、これも真実に違いあるまいと思われるので、付け加えておきたい。それは、これを書きかけ中に目にふれた極く最近の新聞記事で、読んでるうちに、日本人なら誰もが忸怩たるの思いをさせられる内容のものであった。

 それによれば、“南太平洋の声とゞかず”の見出しに始まるそこは、かって旧日本軍の占領下にあったところである。で、住民の強制移住や土地の強制接収等の被害をこうむった周辺三カ国(パプアニューギニア、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)の民間人代表七人が過去の補償を求め、七月下旬に来日した。
 ミクロネシア・トラック諸島の代表は奪われた先祖代々の土地についての補償を、パプアニューギニアの代表は被害調査の最新データ(旧日本軍から被害を被った犠牲者、生存者、遺族合わせてその数九万五千余人。そのうち人肉食の被害が二千三百余人、強姦殺人が約六千五百人)を提示して、その補償を迫った。
 また、マーシャル諸島の元慰安婦であった代表は、自らの体験を何度も語り、現在フィリピンなどで進められている“アジア女性基金”の「償い事業」を南太平洋でも展開するよう求めるものであった。
 だが、むなしさがつのるとはこのことであろうか…。
 もとより、これの交渉の場としては、国会議員の仲介で政府との会合が実現し、各国の実態報告書が手渡されたのであるが、外務省、内閣外政審議室、アジア女性基金の反応はいちように鈍く、「新たな判断材料があれば…」(内閣外政審議室)「何らかの公的文書がないと」(外務省)といった具合で、引率の弁護士は「人肉食など日本軍が記録するはずがないじゃないか」と反論しても、前向きの答えはなかったという。
 さらに、マーシャル諸島の被害者組織代表から、「今も続く重大な被害」として残留不発弾の処理問題が訴えられ、それによれば、ミリ島の旧日本軍が連合国に敗れ撤退する際、千発以上の砲弾を放置したゝめ、危険で農地を耕すことができないという。
 それでも何の回答もないので、組織代表は手をあげて、「最後に言いたい」と次のように語り,記述はこれを以って締めくゝられている。
 「マーシャルでは三十一人の元慰安婦がいることがわかっている。遺族の中には、父親が日本人だったという人もいる。証拠を出せと言われても難しいが、証人ならいる。真実を知ってほしい」
 かくして、政府側の終始「公的史料がなければ補償しにくい」とする杓子定規な物言いの態度に代表は折れ、「戦争で荒れ果てた島に公的文書など元々なく生き証人の言葉を信じてもらえないのか」の言を残し、彼らは帰国したとある。

 これでは証拠を出せないのをいゝことに、それを出せと意地悪くされているのと同じようなものである。とかく、弱者は既存の施策から踏んだり蹴ったりの仕打ちを受けるが、これはそれの典型のように思えてならない。
 抑も、これのやりとりは、被害にあった国の人々がこちらに出向いて実情を訴えるのではなく、被害を与えた日本側が占領した各地へ出向いて実情を調査し、それによっては出来るかぎりの誠意を尽くすのが筋というもので、こゝに見られる何でもが証拠一点張りの対応には、情実のないじれったさが感じられ、日本人そのものが問われられているようで嘆かわしい…。


みてて腹が立ってきます。マーシャル諸島やトラック諸島の被害者・住民、ついでにパプアニューギニアの被害者自身が、日本軍の人肉食・レイプなどの戦争加害、従軍慰安婦、戦時下の奪われた土地の補償、日本軍が残していった残留不発弾の処理を求めて、日本政府に訴えたが門前払いされたようです。詳しいことはぐぐっても載ってなかったですし、今はミクロネシアなり、マーシャル諸島政府なりが韓国や中国のように日本に対して過去の侵略、戦争被害に対する謝罪や補償問題を提起する動きがないようなのですが、その辺どうなのでしょうか?情報をこれだけ集めてみまして、日本人の1人として恥ずかしい思いです。いつになったらこの国に正義が訪れるのでしょうか?
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:00 | Comment(9) | TrackBack(7) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月23日

首相、外相が“蚊帳の外” 対中外交

首相、外相が“蚊帳の外” 対中外交

 政府の対中外交は、小泉純一郎首相の靖国神社参拝が原因で首脳、外相会談が開けないまま、直接の担当ではない二階俊博経済産業相や与党幹部が中国首脳クラスと相次いで会談するなど、いびつな状況になってきた。ポスト小泉をにらんだ中国側の外交戦略も絡み、本来外交の中軸であるべき首相と外相が“蚊帳の外”に置かれる構図が当分続きそうだ。
 中国は今年に入り親中派議員に相次いで訪中を要請。今月8日に自民党の野田毅元自治相が北京で唐家セン国務委員と会談したのを皮切りに、22日には二階氏が温家宝首相らと、中川秀直自民党政調会長が唐氏らとそれぞれ会談した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060223-00000225-kyodo-pol

中国側に無視される小泉と麻生。哀れだな。まあ、当然か。私なら、対アジア外交建て直しのために、その親中派議員がポスト小泉になってほしいね。

キムチ&あんにょん

[AML 6050] キムチ&あんにょん
開催が迫ってきましたので、再度案内します。
重複お許しください。

キムチづくりのみ、映画のみの参加もOKです。

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【関西の方へご案内】

恒例となりました、李熙子(イ・ヒジャ)さんのキムチづくり教室と、
日韓共同ドキュメンタリー「あんにょん・サヨナラ」の上映会を行います。
地域での上映を計画されている方は、
李熙子さんと直接交流できる貴重な機会ですので、
ぜひご活用ください。

===========================
「あんにょん・サヨナラ」の李熙子(イ・ヒジャ)さんが
教えるキムチづくり教室
===========================

2月26日(日)大阪府立ドーンセンター(地下鉄天満橋駅徒歩5分)

4階調理室 参加費2000円(キムチのおみやげつき)

10時・14時 

参加希望の方は事前にメールで申し込みください。
(↓をコピー&ペーストして
 gun2@r9.dion.ne.jp まで送ってください)

◇キムチづくり教室参加申込書

氏名
参加者数
希望時間

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日韓共同ドキュメンタリー「あんにょん・サヨナラ」上映
===========================

2月26日(日)大阪府立ドーンセンター(地下鉄天満橋駅徒歩5分)

5階セミナー室C 
参加費1000円(キムチ教室参加者は700円)

14時・18時
(16時に主人公・李熙子さんと古川さんのトークがあります)


◆◇◆ 前日25日にも大阪と神戸で上映会があります ◆◇◆

大阪府立ドーンセンター(14時・18時)(主催:ぐろっぴい)

神戸学生青年センター(14時・16時・19時)
(主催:神戸学生青年センター&日朝関係を考える神戸ネットワーク)

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このドキュメンタリーの主人公、イ・ヒジャさんは1997年に、父が靖国神社に神
として祀られていることを初めて知りショックを受けます。彼女はソウル近くの
『望郷の丘』という共同墓地に父のお墓を建てます。しかしその墓石には何の文
字も刻まれていません。「靖国に父の名前がある限り、私はこのお墓に父の名前
を刻めません。私の中では、まだ戦争は終わっていない」。なぜ、彼女の父は靖
国の「英霊」とされたのでしょうか。靖国は他の神社と何が違うのでしょうか。
このドキュメンタリーでは、日本の遺族、韓国の遺族、靖国に賛成する人、反対
する人や研究者など、様々な立場の人のインタビューからそれを浮かび上がらせ
ています。

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『あんにょん・サヨナラ』は、釜山国際映画祭ドキュメンタリー部門最優秀賞/
ソウル独立映画祭最高栄誉賞/山形国際ドキュメンタリー映画祭特別招待作品/
ブエノスアイレス国際映画祭招待作品/Mini INPUT 2005(台湾のド
キュメンタリーフォーラム)招待作品、その他、アメリカやイタリア、フランス
の映画祭でも上映予定。日韓共同で靖国神社の問題に取り組んだ世界初のドキュ
メンタリーは世界中で大きな反響をまき起こしています。

********************
在韓軍人軍属裁判を支援する会 古川 雅基
メール:gun2@r9.dion.ne.jp
ホームページ:http://www.gun-gun.jp


[paml:05140] Re: 3月18日『あんにょん・サヨナラ』上映&トー ク【神戸でも2/25に上映。大阪でも2/26に。イ・ヒジャさんのトークと キムチ作りも】

こんばんは。秀村@神戸です。
『あんにょん・サヨナラ』、山崎さんがおっしゃるとおり、多くの方に見て頂き
たいドキュメンタリーですね。
神戸でも今週の土曜日、25日に上映しますので、ご案内致します。26日(日)に
は大阪でも下記のようにイ・ヒジャさんが来られてキムチ作り教室とトークもあ
るようです(キムチ作りのほうは申込みが必要とのことで、まだ可能かどうかは
分かりませんが)。

=========================
2月25日(土) 
ドキュメンタリーフィルム
 「あんにょん・サヨナラ」上映と講演の集い

上映: 午後2時〜 / 午後4時〜 / 午後7時〜
講演: 午後6時〜
場所 神戸学生青年センター
     案内:http://www.ksyc.jp/map.html
     阪急「六甲」駅下車 徒歩3分
     神戸市灘区山田町3−1−1
     TEL:078−851−2760
内容 講演:「アジア太平洋戦争と日本軍の元朝鮮人軍人軍属」
     古川 雅基 さん(在韓軍人軍属裁判を支援する会事務局長)
料金 1,000円(学生:500円)

主催 神戸学生青年センター&対話で平和を!日朝関係を考える神戸ネットワー

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ださい)



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     TEL:078−851−2760
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=======================−−


ぜひ見に行ってください。
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東京高裁での百人斬り裁判、原告側(右翼側)の敗訴ほぼ確定

[AML 6059] 南京事件・百人斬り裁判 高裁で劇的な一回結審! より

熊谷伸一郎@史実を守る会です。
 ただいま東京高裁からお送りしています。
 本日の第一回の審理は興味深い展開をしました。以下、
ご報告いたします。

 今日の第一回の法廷では向こう側(南京事件を否定した
い人たち)が控訴の理由を主張し、こちら側がそれに意見、
今後の審理について協議することになっていました。

 向こう側の主張のポイントは「証人を採用しろ」という点に
あります。といっても、せいぜい「いろいろと関係者の話を
聞いたけど、百人斬りが事実だという人はいなかった」とい
う阿羅健一さんのお話ていどなのですが(^.^

 こちら側は「もはや事実は明らかであるので、すみやか
に結審すべし」。これに裁判所がどのような対応をするのか、
証人を採用するのかしないのかで、かなり今後も見えてく
るという状況でありました。

 さて、裁判所がどういう結論を出すか、緊張した思いで
本日を迎えました。

 史実を守る会(今日発足)は朝8時20分に東京地裁前
に集合、街頭宣伝を行ない、チラシを配布しました。若い
人たちばかり7名の参加でありました。

 だいたい50枚の傍聴券を求めて90人ほどの傍聴希望
者が並びました。あっちの人たちも来ておりましたが、支援
団体分裂の影響か、小競り合いなども起きていたようです。
やっぱり分裂ってのは力を弱めますねえ。

 13時30分、開廷。
 あちら側の中心人物、この前の選挙で自民党の議員とな
られた稲田朋美先生もいらっしゃいました。

 まず向こう側の「どうして控訴したのか」という主張を行なう
のですが、裁判長が「不適切な部分があるのでそこは陳述
しないでください」と稲田に指示。稲田が抗弁し、「どうしてで
すか」と反問するも「それは言わなくてもわかるでしょう」と
返され、さらに稲田先生は憮然とした表情でブツブツと文句
を言っておりました。

 その不適切な部分というのは、以下の部分です。

「良識ある日本人であるなら『日本刀で100人以上の中国
人を斬り殺す』などということがいかに荒唐無稽な作り話で
あるかを一瞬にして見抜くことができるはずであるが、原審
の裁判官らはその荒唐無稽さが理解できないくらい目が
曇っているのか、それとも(中略)政治的に判断した結果
なのか、結果としてきわめて理不尽な結論を出した」

 これじゃあ裁判所も怒るでせうね(笑
 ところが、稲田先生は冒頭に「遺憾だ」と抗議し、裁判長
の指示にしたがわず上の部分を朗々と朗読。

 証人採用の求めに対してはコチラ側の弁護士が「必要な
い」と主張。

 裁判長が「合議する」といって、いったん退廷。その結果が
どう出るか、心臓をドキドキさせつつ待っておりました。5分
ほどだったか、裁判長が出てきた。口を開く。

「証人の申請は、すべて採用しません。以上で弁論を終結し、
結審します」

 コチラ側の支援者の「よーし」という掛け声とともに、つくる
会の理事でもある高池勝彦弁護士がすかさず「裁判長を
忌避します!」というが、時すでに遅し。あれは「結審します」
という前に言わないとダメなのですね。トロイぞ、高池!(笑

 裁判長が「結審後の忌避ということになりますが、いいんで
すか」と確認し、裁判は終了。

 敵失もあってのことではありますが、アチラ側の証人申請を
すべて却下、一回で結審という満額回答でありました。まあ、
ほぼ勝利判決は確定であります。

 さて、これからの本会の発足集会は、勝利前祝の会となり
ます。もちろん本会は、この勝利を超えて先に進んでいきま
す。あらたな裁判支援や行動もばしばし提起していきますの
で、皆様、今後ともご支援のほどよろしくお願いします。

 取り急ぎの速報でありました!

kuma@office.email.ne.jp 熊谷 伸一郎 拝


というわけでした。右翼の泣き顔が見れそうです。百人斬りはとっくの昔に結論がでています。右翼の歴史修正的試みがまた一つ崩れました。ニュースにでてくるのが楽しみです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:33 | Comment(4) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月21日

関東軍の地下要塞における労働者の大量虐殺(過去のニュース記事より)

【日中】関東軍の地下要塞の全貌が明らかに。「建設に動員された中国人100万人が犠牲」[08/14]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1124025319/
日本の関東軍が第二次大戦当時に中ソ国境、中蒙国境地帯に極秘裡に建設した
大規模な地下要塞の全貌が明かされた。この要塞に駐屯する軍人たちのために
朝鮮人慰安婦も大挙動員されたことが明らかになった。

中国黒竜江省の抗日戦争史研究会所属の学者たちは14日、日本軍が1934年5月
から敗戦直前の1945年8月まで11年間にわたり吉林省琿春から内モンゴル自治区
ハイラルに至る国境地帯に計19ヶ所、4700kmにおよぶ要塞を建設したと、明らかに
した。地下に建設された地下要塞も総延長1700kmにおよぶ。<中略>

ハルビン市社会科学院の金成民(ジン・チョンミン)731研究所長は、「11年間の要塞建設
期間中に日本軍は320万人の中国人勤労者を動員し、このうち100万人余りが建設
過程や建設直後に死亡した」と語った。

相当数の勤労者たちは機密保持のため、工事終了時に提供された食事に混ぜられ
た毒薬や、予防注射という理由で注射された毒物で死んだ。一部は日本軍の殴打
で死亡して犬のエサになったり、「万人坑」のように1万人ほどが集団で生き埋めに
された場合もあると、学者たちは説明した。<後略>

▽ソース:京郷新聞(韓国語)<日 関東軍 地下要塞 極秘建設>
http://www.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=200508141826481&code=970204

【中国】日本軍『魔の要塞』の大型ドキュメンタリー…従軍慰安婦からも聞き取り調査[05/08]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1115524143/
日本の関東軍が第二次大戦中にソ連軍の侵攻を阻止するために満洲地方に建設した「魔の要塞」(魔域要塞)の実態が、中国テレビ放送局のドキュメンタリーを通じて公開される。中国黒竜江省ハルビン(哈爾濱)テレビ放送局は、来る8月15日の中日戦争戦勝60周年記念放映に合わせて、毎回15分の30回分の大型ドキュメンタリーである「魔の要塞」を製作中だと国営新華社通信が8日報道した。日本の敗戦後も公開を憚った「東洋版マジノ線」の正体がこのドキュメンタリーを通じて神秘のベールを脱ぐと、咸明哲監督は言った。

この要塞が建設されたのは1930年代の初め。満洲地方を占領した日本軍は、南は吉林省琿春、北は内蒙古ハイラル(海拉爾)に至る5千キロの長さの中露・中-蒙国境地帯の軍事的要衝地に14個の要塞を建設した。ソ連軍の満洲侵攻に備えた膨大な規模の要塞建設には、数百万人の韓国・中国・ロシアの労動者と戦争捕虜らが動員された。これらはの大部分が、軍事機密と保安維持名目で要塞建設後に殺害されたと伝えられる。

14の要塞の中の東寧要塞では、日本が降伏した8月15日以後にも日本軍とソ連軍の間に10数日以上熾烈な戦闘が起った。東寧戦闘は第二次大戦最後の戦闘と呼ばれる。咸明哲監督は、このドキュメンタリー製作のために要塞現場を悉皆踏査する一方、生存した当時の労動者、従軍慰安婦、歴史学者らを対象に幅広く資料を収集したと明らかにして、過去史を反省しない日本の侵略性を知らせなければならないという考えで製作に臨むようになったと語った。


ソース:連合ニュース(韓国語)を犇さんが翻訳
<ドキュメンタリーで公開される 日本軍 魔の要塞>
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20050508/030000000020050508114735K6.html

恐るべき大日本帝国の国家犯罪。百万人もの人間を殺しておいて、罪行を隠して平然としている日本政府にあきれてものが言えません。過去ニュースよりとりあげておきます。

虎頭要塞
大半の日本人が存在を知らない大要塞                小島悦行
http://kojima.boy.jp/page004_kotou.htmlより
 このウスリーのわずか数百メートルの川を越えて、1945(昭和20)年8月9日にソ連軍の攻撃が開始された。弾丸が飛び交い、空は硝煙に包まれ、炸裂する爆弾で虎頭街は大混乱となる。
 一時期は守備隊兵士八千から一万人いた備えも南方戦線に転出して、わずか1500名に激減していた。周辺の邦人、開拓団員の数百名も要塞内に避難した。
8月9日の開戦から15日の終戦になっても激しい戦闘は続いたが、近代装備のソ連軍には敵わず、次々に幾多の要塞、各陣地も玉砕した。連絡を絶たれて終戦を知らずに戦闘を続行、途中で白旗を掲げた邦人の使者が終戦の事実を告げにソ連軍より派遣されたが、終戦を信じず終戦を報せる使者を逆に切り捨ててソ連軍の怒りをかい、その後の攻撃で徹底的に破壊された。守備隊兵士の生き残りは50名ほどで民間人の生き残りは100名足らずで、ほとんど全滅に等しい悲惨な結末で終えた。
 激しい戦闘も8月26日で組織的な戦闘は幕を閉じた。8月15日が第二次世界大戦の最後の戦闘とすれば、ここ虎頭要塞の攻防は本当の第二次世界大戦最後の地といえよう。だが近くの牡丹江市のロシアの国境に面した東寧にも日本軍の要塞があり、ここも8月の終りまで闘い、最後の地として宣伝して譲らない。
  2001年5月オープンしたばかりの侵華日軍虎頭要塞博物館を鶏西市朱成富副市長、虎林市張志良副市長の両氏の案内で見学する。米津和幸先生と私の二人が、思いもかけず日本人の見学者の第一号の栄誉を頂いた。第二号は父をこの虎頭の戦闘で亡くし、追悼に虎頭に行かれた遺児の北海道の諸冶京子さんが朝日新聞に「父に会いに虎頭に行く」と題した投稿文で判明し、諸冶さんに連絡して確認できた。
  館内の一階は日本軍、ロシア軍の砲弾や軍装品が展示されている。虎頭鎮政府の文化担当者から「日本人から見られていかがでしょうか?」と問われたが、兵役の経験のない私から見れば十分であった。日本軍の軍装品は、米津和幸先生の友人の岐阜市辻田文雄氏がすでに寄贈した本物だ。辻田氏は戦争考古学家として、中国各地の日本軍の遺跡の発掘に活躍中の人だが、不治の満州病を医者の米津先生に感染されたとか、本稿にも貴重なご指摘をいただいている。
 開拓団農家の内部が復元してあった。「日本の満州の写真集などから検証して、足りないものを贈りましょう」と、第一号の奇縁で約束をする。
 二階は抗日戦線およびロシア軍の勇士の戦闘の模様を中心として、中国人民の愛国教育として主に展示してある。。ひときは目につくのは、要塞構築に狩出された中国人労働者の作業図であり、要塞の完成後は秘密保持のために殺害されたのが真相のようだ。
(略)
  思えば他国で日本だけの国益を理由に、他国の人々を酷使して要塞は構築された。中国、日本、ロシアの尊い三カ国の犠牲の骸である。中国と友好、慰霊、戦争の無意味さを訴え、平和への努力を日本人が一番努力をしないと申し訳ないと痛感した。
 虎頭要塞の全貌を巡れば数日はかかる。生き残りの日本人兵士の一人岡崎哲夫氏がが、虎頭要塞跡を世界戦争遺産に提案されたと聞いた。日本人として万里の長城の見学も必要だ、ぜひ、一度は虎頭要塞の見学もお薦めしたい。


機密保持のため、建設後中国人労働者を殺害したことが分かると思う。このような加害事実が日本人の間でほとんど知られていないのが残念だ。南京大虐殺ばかりにとらわれてはいけないと思う。南京大虐殺の30万人を上回る虐殺が第二次大戦当時の中ソ国境、中蒙国境地帯の関東軍の地下要塞で行われたという事実を知って、痛感し、平和のための努力を日本人1人1人に求められているのだと思います。日本軍『魔の要塞』のドキュメンタリーはもう製作されて、中国や韓国で放送されたのでしょうか?その辺詳しい方はご連絡ください。日本でもぜひ放送すべきだと考えています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:01 | Comment(21) | TrackBack(104) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旧日本軍通訳の銅像完成 泰緬鉄道慰霊の永瀬さん

旧日本軍通訳の銅像完成 泰緬鉄道慰霊の永瀬さん
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060219-00000112-kyodo-int
【カンチャナブリ(タイ西部)19日共同】第2次大戦中、旧日本軍が捕虜を使ってタイ、ミャンマー国境に敷いた泰緬(たいめん)鉄道の建設にかかわり、戦後はタイを訪れて戦争犠牲者の慰霊や福祉活動に取り組んでいる元陸軍通訳の永瀬隆さん(88)=岡山県倉敷市=の銅像がタイ西部カンチャナブリに完成し、19日に除幕式が行われた。
 銅像は、永瀬さんの支援を受けて日本で学んだタイの元留学生らが「感謝の意を示そう」と、クワイ川を見下ろす寺院敷地内に建立した。除幕式に出席した永瀬さんは「感無量。私が死んでも、ここでクワイ川を見下ろすことができると思うと幸せだ」と話した。
 除幕式には橋本龍太郎元首相の妻、久美子さんも出席した。
(共同通信) - 2月19日18時17分更新


永瀬さんはどういう方かといえば、
http://www.philanthropy.or.jp/contents/activity/machikado_2000.html
2000年 第3回受賞者
まちかどのフィランソロピスト賞 ・・・・・・・・・
永瀬 隆(ながせ たかし)氏 (本名:藤原 隆、倉敷市在住)
太平洋戦争時、タイ国で旧日本陸軍通訳として従事。帰国時タイ政府から支給された「飯盒1杯のお米」に感激。その恩に報いるため、1986年タイに「クワイ河平和基金」を設立し、小中学生・看護学生に奨学金を授与。また、連合軍兵士及び日本兵のための寺院建立、老人ホームの設立など、タイ国への寄付を続けている。著書に「クワイ河捕虜収容所(現代教養文庫)」「クワイ河捕虜墓地捜索行(同左)」等。(当日の書籍販売あり)。


永瀬隆氏は、1918年、岡山市生まれの82歳。

第二次世界大戦で、陸軍通訳(職名)を志願し、南方軍総司令部付を経て、タイ国駐屯軍司令部付となり、1943年9月、泰緬鉄道建設作戦要員として、カンチャナブリ憲兵分隊に出向勤務を命ぜられ、捕虜の思想動向などの情報収集、防諜任務に当たり、敗戦。 

戦後、連合軍命令により、戦争墓地委員会の通訳となり、墓地捜索隊とともに文字どおり、ジャングルの草の根を分け、朽ち果てた十字架を目印に、3週間にわたり捕虜の遺体探しに協力した。この時目撃した犠牲者の悲惨な状況に、必ず巡礼に戻ろうと決意。また日本兵13万人が帰還船にて祖国日本へ出発する際、タイ国政府は、敗戦国日本に帰る兵士が満足な食料も口にすることが出来ないだろうと心配し、13万人の兵士各人に、飯盒1杯の米と、中盒には当時貴重品であった砂糖をお土産として寄贈してくれた。このご恩は決して忘れてはならぬ、いつか必ず恩返しをしたい、と心に誓った。この、タイ国政府の温情が、永瀬氏のその後のフィランソロピー人生を決定づけるものとなった。

 帰国後、永瀬氏は、千葉県立佐原第二高校に勤務したが、体調すぐれず、帰郷し、岡山県倉敷市で私塾青山英語学院を経営した。生徒数も500名を超え、経営も安定してきた1968年、永瀬氏は連合軍兵士の眠るタイ中西部カンチャナブリを訪れ、連合軍墓地の十字架に深く頭を垂れた。そのとき、それまでの心のわだかまりがすっと消え去ったという実感を得、その帰途、日本大使館に立ち寄り、タイ人の留学生を二名受け入れることを約束、永瀬氏の「飯盒一杯のお米」への恩返しが始まったのである。

 その後20年間、約30名の留学生の世話を続けてきた。そして、1986年2月20日永瀬さんの誕生日に、連合軍兵士の霊を慰める為クワイ河平和寺院を建立、12月には、貧しい家庭や少数民族の子どもたちへの援助活動を安定的に継続する為、クワイ河平和基金を設立した。

 運営は、永瀬さんが面倒を見た留学生たちがタイに帰国し、一人前になって各方面で活躍しているので、彼らに任せることにした。小・中・高・看護学生に奨学金の授与を続けている。また、1997年より、クワイ河医療診断所を設立、カンチャナブリ県の過疎地域で巡回診療事業を実施。2000年には、高価な眼鏡が買えずにいる同県の貧しい人たちに、岡山・香川県内の企業や市民の協力で眼鏡を集め、視力を測ったり、検診も行いながら、2500名の住人に眼鏡を寄贈した。この時、奨学生が立派な看護婦になってボランティアとして手伝いに来てくれ、永瀬さんを感激させた。

こうして、永瀬氏が撒いた種は、国内外で広がり、永瀬氏の思いを受けて、平和の心、人を愛する心が育っていっている。本年6月には、日本兵の慰霊のために、念仏堂「クンユワム星露院」を建立。同時に老人ホームも建設・寄贈した。永瀬氏のフィランソロピー総額は、35年間で約七千万円に達する。

永瀬氏は、「死の鉄道建設」といわれた泰緬鉄道建設にまつわる悲惨な出来事を、通訳という微妙な立場に立たされながらつぶさに見てきた数少ない証人の一人であるが、犠牲者となった人々への消しがたい追悼の思い、タイ政府から受けた恩情への感謝が、永瀬氏の活動を支える原動力である。 

永瀬氏のフィランソロピー活動は、まさに文字通り敵・味方を超え、人種を超えて深い人間愛(フィル・アントロポス)からわき出た発露であり、二十世紀最後の年、新しい世紀を迎えるにあたり、普遍的な人間愛のあり方を私たち一人ひとりに示したものとして、

2000年の第3回「まちかどのフィランソロピスト賞」にふさわしいものである。


戦後も連合軍捕虜犠牲者のため、日本兵の引揚者たちに暖かい温情を与えてくれたタイ政府、そしてタイ国民のため、戦後の各国の和解のため、尽力をつくしてきた方です。銅像が立つのにふさわしい方だと思います。

捕虜兵士の無念 胸に刻んで
http://www.tokyo-np.co.jp/60th_hukei/txt/050704.html
 
 横浜市保土ケ谷区にある英連邦戦死者横浜墓地。管理が行き届いた芝生が美しいこの墓地は、戦後間もなく造成された。主に太平洋戦争中に日本軍の捕虜となり、日本各地の収容所で死亡した英国やオーストラリアなどの兵士ら千八百人以上が眠っている。

 ここで一九九五年から毎年八月に追悼礼拝を行っている日本人がいる。岡山県倉敷市に住む永瀬隆さん(87)。大戦中、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道建設現場で陸軍憲兵隊の通訳を務めた。しかし、なぜ連合国軍兵士の墓を…。

 「トラウマ(心的外傷)になっているのです。あの体験が…」と、永瀬さんが語り始めた。四三年十一月、バンコク北西部の収容所で、スパイ容疑をかけられた英国人捕虜に拷問が行われた。手足を骨折している捕虜をあおむけに拘束し、憲兵が口にホースで水を流し込む。「マザー、マザーと泣き叫ぶのです」

 戦後、偶然にもこの捕虜が生きていることが分かった。自らは手を下すことのなかった永瀬さんだが、自責の念から英国に謝罪の手紙を送り続け、九三年三月にはタイのクワイ河鉄橋で再会を果たす。「その後来日し、モア・ザン・フレンド(友達以上)と言ってくれた」。永瀬さんは今年も横浜の墓地に立つ。母国への帰還を果たせなかった英連邦兵士たちのために。

  (長久保宏美)

 (2005年7月4日)


ここまで熱心に尽力される方は珍しいと思います。永瀬さんは直接は加害を実行しなかったものの、通訳として加担していたという罪の感情が心の奥底にあり、タイ政府の暖かい支援も加わって、人間的な心をもって和解に尽力されているのでしょう。永瀬氏の功績はすばらしいと思います。まさにノーベル平和賞ものでしょう。これからもご活躍をお祈りします。


posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:26 | Comment(4) | TrackBack(187) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

慰安婦の真相を告発の朴頭理(パク・トゥリ)さん死亡

【韓国】慰安婦の真相を告発の朴頭理(パク・トゥリ)さん死亡[2/20]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140445856/
日本の山口地方裁判所下関支部で、従軍慰安婦・被害者賠償判決を導いた
朴頭理(パク・トゥリ)お婆さんが結局、日本の謝罪と補償を受ける事の無いまま
19日の午後、闘病中だった安陽(アンヤン)メトロ病院で寂しく亡くなった。

享年80歳。

1924年釜山で生まれた朴お婆さんは1940年の17才当時、三浪津邑の工場に
就職させてくれるという話を聞いて付いて行き、解放されるまで台湾で日本軍の
慰安婦生活をした。

光復と一緒に帰国した朴お婆さんは92年、光州(クァンジュ)ナヌムの家の設立と
同時に入居した後、被害者申告をしてその年に始まった日本大使館前の
水曜集会などに参加して日本の謝罪と補償を促して来た。お婆さんの叫ぶ声は
音ないエコーだけではなかった。

98年彼女は山口地方裁判所下関支部が、『韓国人従軍慰安婦の3名に30万円
ずつの慰謝料を支払いなさい』と言う判決を出して、善は悪を駆逐するという
真理を全世界に知らせた。

朴お婆さんの葬儀は21日の午前9時、メトロ病院にて市民社会自治体により
行われ、死体は天安望郷の丘に葬られる。


ソース:NAVER/京郷新聞(韓国語)
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=032&article_id=0000164776
ご冥福をお祈りします。彼女の意志を忘れずに、私たちが日本政府を生涯にわたり追及し続けますから、安心してお眠りください。

2006年02月20日

ネット右翼について考えること

ネット右翼は日帝の戦争責任や侵略を今をもって、追及し、政府レベルで目立って動くのは中国や韓国、北朝鮮だけの3ヶ国だと思っている。確かに間違いではないかもしれない。でも民間レベルに目を移してみると、大日本帝国の侵略や戦争加害を受けたほとんどの国および地域に及んでいるのである。ネット右翼は民間レベルだというとサヨクとかプロ市民が勝手に焚きつけているだけだと主張するだろうが、そうではない。大日本帝国がアジアに対してやったことは、つまり半世紀以上たった今をもっても被害者が苦痛を訴え出ると言う現状、加えて現在の日本政府をも今もって憎むと言うほど、凄惨なことをやってのけたのだ。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/kotosisyougen2.htmにみるように、たとえばマレーシアでは華人や華僑だけではなく、"マレー系"の被害者も日本の戦争責任の追及に向けて立ち上がったのだ。、"マレー系"からも泰緬鉄道強制労務被害者が名乗り出た。華人とマレー系と民族対立の枠を超えて、共同戦線を貼ろうとしている動きがでているのだ。国内の民族間や宗派対立の和解そしてアジアの民主化が今後とも進めば進むほど、大日本帝国の悲惨な占領圧政を追及する動きが今後とも大きくなってでていくのだ。戦争責任の所在の明言を避け続け、不十分な謝罪と補償で済ませようとする日本政府や歴史美化勢力である日本右翼勢力に対する包囲網は広がり続けるのだ。

日本政府と右翼勢力が目を覚ます時期がいつになったら来るのだろうか。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:42 | Comment(6) | TrackBack(7) | 日々の雑感ならびに考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[paml:05119] 賛同依頼:日本の東ティモールにおける戦争責任についての申し入れ

[paml:05119] 賛同依頼:日本の東ティモールにおける戦争責任についての申し入れ
http://peaceact.jca.apc.org/paml/5100/5119.htmlより転載
皆さま

《賛同依頼:日本の東ティモールにおける戦争責任についての申し入れ》
 皆さま、東ティモール全国協議会の文珠(mnjmko@skyblue.ocn.ne.jp)です。
今年も日本政府に対し、「東ティモールにおける日本の戦争責任についての申
し入れ」を行うことになりました。
 以下に掲載しております「申し入れ」にご賛同いただけますようお願い申し
上げま
す。
 もし、ご賛同いただけますなら、文珠までご連絡頂きたくお願い申しあげま
す。ご賛同いただけます場合、お名前を公表してもよろしいでしょうか。公表
不可の時は匿名扱いにさせていただきます。時間がタイトですが、ご返事は2月
19日夕方までにお願いいたしく、よろしくお願い申し上げます。
 「申し入れ」は2月20日か21日(現在調整中)に持ってゆく予定にして
おります。

東ティモール全国協議会 文珠幹夫
mnjmko@skyblue.ocn.ne.jp

--------------------------------
東ティモールにおける日本の戦争責任についての申し入れ

内閣総理大臣 小泉純一郎様
外務大臣 麻生太郎様
 
 1942年2月20日、日本軍は当時中立であったポルトガル領ティモールに侵攻し、
1945年8月15日の敗戦まで約3年半にわたり占領を続けました。この占領は戦争に
何のかかわりもない現地の人々に甚大な被害をもたらしました。

 日本軍は、村長やリウライ(伝統的な首長)に命じて、住民の乏しい作物や
家畜を徴用し、住民を軍用道路やバラック建設のために働かせました。駐屯地
には「慰安所」が開設され、脅迫によって集められた多くの女性が長期にわたっ
て性的暴行を受け続けました。占領の後半では、日本軍は制海・制空権を失い、
物資の補給が途絶したため、収奪のレベルは高まり、「慰安婦」も含め日本軍
に酷使される人々に食糧の自己調達を強いるような事態となりました。また、
日本軍は、連合軍兵士や連合軍を支持するポルトガル人を助けた住民を容赦せ
ず、彼らを捕え、拷問し、処刑に至る例も多々ありました。日本軍への協力を
拒んだ村長やリウライは討伐の対象になりました。あるリウライは女性を差し
出すことを拒否して処刑されました。一方日本軍に協力した者は、戦後ポルト
ガル政庁によって恣意的な報復を受け、アタウロ島の監獄に収容された多くの
人が、栄養失調と虐待により命を落としました。

 しかし、今日にいたるまでこれらの被害に対する日本政府の謝罪と補償は皆
無であり、東ティモールは日本の戦後補償の空白地帯と化しています。戦後も
継続したポルトガルの独裁政権は対日賠償請求の問題をうやむやにしました。
現在の東ティモール政府は東ティモール側からはこの問題に関して何も要求し
ないという態度を取っています。しかし、これらの方針は被害者たちとの協議
を経ずに一方的に決められたものです。

 東ティモール全国協議会は2000年に東京で開催された「日本軍性奴隷制を裁
く女性国際戦犯法廷」をきっかけに、おもに女性の性暴力被害者からの聞き取
りと文献調査を実施してきました。日本軍占領による被害実態を明らかにする
ことは、当会にとって結成以来の課題でしたが、インドネシア軍駐留下でそう
した調査を実施することは不可能でした。当会は戦後60年にあたる2005年に東
ティモール人権協会と共同で性暴力被害に関する新たな調査プロジェクトを開
始し、その一環として2006年1月6日と7日、東ティモールの首都ディリにあるカ
ノッサ会修道院ホールで「従軍慰安婦の歴史を知ろう」と題する公聴会を共催
しました。この公聴会には最大で200名近い参加者があり、現地の法曹、人権、
教会、外交、報道関係者の他に、熱心に聴き入る一般の若い人々の姿も見受け
られました。

 この公聴会では6名の被害者(1名はビデオ証言)と被害者の息子2名、そして
目撃者として元日本軍補助兵1名、民間人2名が証言を行ないました。すべての
証言が被害者たちがいかに逃れえない状況で性的な暴力を受け続けたかを伝え
ていました。またほとんどの被害者が日本軍は服も食物もお金も与えなかった
と述べました。フランシスカ・マセドさんは日本軍につけらえた「トミコ」と
いう名の入れ墨をされました。何度も逃げることを考えたが両親を殺すと脅さ
れていたので断念したと語りました。アリシア・プレゴさんは最初に日本軍の
将校に犯された後自ら命を絶つことを考えたそうです。マリアナ・アラウジョ・
ダ・コスタ・マルケスさんは、終戦後に村へ帰る時、裸で歩いて帰ったことが
つらかった、服も与えられなかったのは自分たちを動物だと思っていたからで
はないかと語りました。ビルジニア・ダ・コスタさんは村へ戻ると日本軍から
たくさんものをもらっただろうと村人からあらぬ疑いをかけられ侮辱されたそ
うです。また結婚した後も子どもができませんでした。子どもができなかった
のはアリシアさんも同じです。日本人の血をひくジョゼ・アシンソコさんは
「自分はいったい何人なのか。日本からも東ティモールからも見放されている
気持ちがする」とその孤絶感を語りました。アシンソコさんの母親が無理矢理
その軍人の妻にされたことは複数の証言からすでに明らかになっています。公
聴会の最後で被害者たちは現在の厳しい生活への支援と孫たちの就学支援を願
うと語りました。

 被害者の人生は残り少ないものとなりました。2000年に被害事実を公にして
から日本政府による謝罪と補償を求め続けたエスメラルダ・ ボエさんが2006年
2月3日に亡くなりました。東ティモール全国協議会は、日本政府が自らの責任
において、日本軍占領期の被害に関して誠意ある対応を行なうことを願い、以下
を要請します。

・被害事実に関する公的調査を一刻も早く開始する。
・性的暴力被害者の名誉を回復するため、一刻も早く公式な謝罪を行なう。
・日本軍占領期の被害に対する補償の方法を検討するため、東ティモール政府、
被害者、関連団体との協議を早急に開始する。

 日本政府の誠実な行動は今後長きにわたり両国の友好関係の礎となり、かつ
真の国益にそうものと確信します。

 以上。
 
【呼びかけ団体】
東ティモール全国協議会
札幌東ティモール協会
仙台・東チモールの会
東京東チモール協会
東ティモール支援・信州
名古屋YWCA東チモールを考える会
大阪東ティモール協会
岡山・東ティモールの声を聞く会
下関・東チモールの会
大分・アジアと日本の関わりを見つめる会
東ティモールと連帯する長崎の会
長崎東ティモール協会
日本カトリック正義と平和協議会


東ティモールは意外に知られていないが、アジア太平洋地域の中では日本軍の残忍な統治を受けた地域の一つである。日本軍兵力が一万に対し、当時の東ティモール住民は40万人。日本軍兵力の現地住民に対する比率が最も高い地域だろうといわれている。東ティモールでは6万人にのぼる一割以上の住民が犠牲になった。ポルトガル軍が戦後戻ってきて、対日協力者とされた人々を強制収容所に入れて、迫害したりして多くの人々がまた犠牲になった。そんな悲劇を生み出した日本が戦争責任を認めず、戦後補償についての国内的議論も政府のコンセンサスもない空白地域として残っているのである。最近独立した国であるが、この悲劇的な国である東ティモールに対する日本政府の責任を認めて、日本政府の東ティモールに対する謝罪、そして日本政府と東ティモールとの戦後補償交渉を通じて、戦争責任を避けたい日本政府と、利権・利得に目が眩んでいたアジアの被害国の為政者との間でなおざりにされた戦後補償の枠組みに対して再考し、もう一度真に構築できる機会にもなればいいと思っています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:29 | Comment(62) | TrackBack(0) | 大日本帝国侵略・戦争被害諸国民衆による市民連帯結成を | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

比地滑り悲劇の背景に日本企業の熱帯雨林伐採 60―70年代に大量の丸太輸入 保水力失った「はげ山」残す

比地滑り悲劇の背景に日本企業の熱帯雨林伐採 60―70年代に大量の丸太輸入 保水力失った「はげ山」残す
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200602180552116より
 
 【東京18日=石山永一郎】フィリピンのレイテ島南部で発生、行方不明者が2500人に上っている大規模地滑りをめぐっては、1960年代から70年代にかけ、フィリピンの森林を伐採、丸太などの木材を大量に輸入してきた日本の責任も大きい。今回の地滑りについて、フィリピンの地元メディアは現地の違法業者による森林伐採が原因の一つと指摘しているが、フィリピンの森林を再生不可能なレベルまでに最初に破壊したのは、大手商社を中心とした日本企業だった。


日本という国は戦中、フィリピンを侵略し、110万人以上のフィリピン人を犠牲に至らしめ、物的にも、経済的にも、人的にも甚大な被害を与えただけにとどまらず、日本企業はフィリピンの森林を根こそぎ伐採し、平成18年になった今、こういう地滑りの悲劇となって、たくさんのフィリピン人を殺したのである。

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part10
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13284122.htmlより、
 私たちが学んだ明らかな教訓は、日本人は負けずぎらいだということだ。そのために―決して過去の行為を悔いたからではなく―日本人は戦争と軍部にかかわる一切のことを社会から抹殺しようとした。もちろんそれは大成功した。あまりにもうまくいったので日本の古来の民族的アイデンティティさえ除かれてしまったほどであった。
 私たちはもっとも安易な道を選んだ。米国人がいうところの民主主義を唯々諾々として受けいれ、米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである。日本が世界から羨まれるような繁栄を達成したことは事実である。にもかかわらず我々が世界の大半から好かれず感謝されないならば、責めを負うべきは我々自身である。今日、日本企業は、他人の感情にまったく配慮することなく、自分たちの利益のためだけに過去我々があれほどの苦しみを与えた国々に考えもなく進出し、怒りにであって当惑している。こんなことが起きるのも、我々が引き起こした戦争について反省することなく、民族的アイデンティティを欠いてしまっているからだと私は思う。アジアの人々が我々を見る目と、我々が自分を見る目には大きなギャップがある。それというのも日本人はすでに自分がなにものだかわからなくなっているからだ。このままほうっておけば過去にも味わった孤立状態に再び追い込まれるに違いない。

自分の書いた記事ですが、木村肥佐生氏のいうこととそっくりになってきそうです。日本は戦中とは違って、経済分野で侵略に乗り出しました。現地の事情や生態・環境を考えずに、ハイエナのようにフィリピンに高い森林を伐採したからこそ、平成18年たったいま、地滑り悲劇につながったのです。反日運動が起きるかもしれませんね。日本企業や日本人自身の戦後責任、明治維新で韓国や中国大陸を侵略し、第二次世界大戦でアジア・太平洋地域において侵略してきたこと、そのときの軍部やそして財閥・現地の日本人の対アジア意識はどうなのか、大日本帝国のの畏敬をもって凶暴な支配者として植民地・占領地に君臨したこと、大戦で敗北し、それが失敗だったことを学ぶ。そして、戦後始まった高度成長でエコノミックアニマルとして政財界のODA利権とともに、日本の多国籍企業がハイエナのように群がりましたが、日本企業の体質と、それを黙認するマスコミや日本人自身の体質が戦前や戦中のそれと変わっていないことを反省するのです。そうしたことが求められていると考えます。

救助難航、比地滑り 死亡不明3千人の可能性
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060218-00000146-kyodo-int
 【ギンサウゴン(フィリピン中部レイテ島)18日共同】フィリピン中部の南レイテ州(レイテ島)セントバーナード付近で起きた地滑りで、レリアス州知事は18日、被災地のギンサウゴン村では2次災害の恐れがあり、生存者の救助作業は「危険で困難だ」と語った。これまでに100人以上の遺体が確認され、救助当局者らは死者・行方不明者が最大3000人に上る可能性も指摘している。同日は生存者救出は確認されていない。
 この日の救助作業は悪天候などの影響でヘリコプターが自由に飛行できない状態。今後の作業も難航が予想される。
 17日の被災当時、教諭と児童合わせて約250人がいたとみられる小学校での救出について、レリアス州知事は「生存者がいる兆候はないが、希望は持ち続けている」と語った。地元当局者によると、同日夜に小学校の生存者から家族に携帯電話のメッセージが送られてきたが、18日は応答がないという。
(共同通信) - 2月18日18時23分更新


レイテ島地滑り 村の面影なく 土砂の厚さは数メートル
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060219-00000000-maip-int

【ギンサウゴン村(比レイテ島南部)大澤文護、中尾卓司】「どこに村があったのですか」と聞くと、泥だらけの救助作業員が手にしたスコップを、足元の土砂に突き立ててつぶやいた。「ここさ。ここが村さ」。フィリピン中部レイテ島の南レイテ州で起きた大規模な地滑りから一夜明けた18日、被害が集中した人口約2000人のギンサウゴン村に入った。そこにあった、という村の面影はどこにもなく、多くの命をのみ込んだ大量の土砂だけが静かに広がっていた。
 村にのしかかるようにそびえるカン・アバグ山が幅数百メートルにわたって崩落した現場は、地滑りから一昼夜がたっても、救助活動は本格化せず、生き残った住民は、遠くから変わり果てた村の姿を眺めていた。
 州政府によると、村に積もった土砂の厚さは数メートル。2週間も降り続いた雨を吸った重い土砂は、321世帯の村の家々を完全にのみ込んだ。
 積もった土砂に一歩踏み込むと、腰まで泥に埋まった。そんな悪条件の中で、人々はスコップだけを「武器」に、大量の土砂に埋まった生存者の行方を捜し続けてゆく。
 遺体捜索を続ける市の救助隊員が地面に顔をつけるようにしてにおいをかいだ。「ここかもしれない」。狙いをつけた場所を4人のチームが掘り始める。彼らの顔が緩んだ。「遺体じゃなかった。家畜の死がいです」
   ×  ×
 生き残った人たちは村から車で30分のセントバーナード町中心部の中央小学校に避難した。
 地滑りが起きた当時、村中心部の集会所では女性の記念日のパレード中だった。多くの住民が集まり、ダンスや歌声が響いていた。楽しいムードが一瞬にして、悲鳴の渦に変わった。
 ドミンゴ・イヒドさん(63)は、地滑りの時、家の近くのココナツ畑にいた。直前に地震を感じ、続いて大きな音が村を包んだ。「音は、動物の叫び声のようだった。次の瞬間、泥と土と水が押し寄せてきた。ただただ、必死に逃げた」
 児童246人が通うギンサウゴン小学校は山のふもとにあった。避難した人々によると、授業中の子どもたちと教師5人は逃げる間もなく、土砂に巻き込まれたという。
 「『助けて』と叫ぶ大きな声が聞こえた。2歳の息子を抱いて逃げるしかなかった」と村のはずれに住む女性、エルサ・パゴドンさん(38)は語った。6人の子どものうち、小学校5年生のエブリンさん(11)と3年生のダニエル君(10)の2人は他の児童とともに土砂流に流された。別の場所にある高校に通っていて助かった高校1年の娘、アーリンさん(14)は「今でも怖い」と母の腕をつかんだ。
 エルサさんは「なぜ、子どもたちを助けられなかったのか」と、避難所で、うなだれた。外では終日、雨が降り続いた。
   ◇  ◇
 AP通信によると、比軍救助部隊の幹部は、18日夕までの捜索で少なくとも55人の遺体が発見されたことを明らかにした。17日に救助されていた57人のうち、子供1人が頭部のけがの悪化から死亡した。AFP通信はフィリピン政府当局者らの見通しとして死者は1400〜3000人と報じた。現地では小規模な地滑りが散発的に続いており、軍当局者は「(救助関係者の)二次災害の危険性」を指摘している。
(毎日新聞) - 2月19日10時40分更新


犠牲者のご冥福をお祈りします。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:00 | Comment(8) | TrackBack(0) | 激怒(むかついた)ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 従軍慰安婦、日本軍以外の捕虜など対する記述、現地住民などへの加害part2

part1の続き

★従軍慰安婦についての記述について抜き出してみる。従軍慰安婦についてははっきり触れられている2ヶ所。彼女らは日本軍によって半ば強制的に連れてこられ、酷い兵隊の性欲処理の家畜として従軍させられた。ちなみに水木しげる氏は行列のため、慰安所を利用をあきらめたらしく、慰安所を利用していない。かといって、強姦もしていない。当時としてはめずらしいケースにあたるのではないだろうか。水木しげる氏自身穏やかな性格であり、好奇心旺盛な青年で現地の文化をしったり、風景を描いて、暴力が嫌いな童心の冒険者として振舞っていたのではないでしょうか。part1の記述からも伺えます。

p26より
 
 上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか103兵站病院もあり従軍慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜とか祭日にお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。
 彼女たちは徴用されて無理やりつれてこられて、兵隊と同じ待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。


(日々の軍隊生活を送っているうちに、水木しげる氏らは前線へ行くように命令される。)
p62〜63より

 
 寝ようとしていると、曹長が「遺書を書け」という。とにかく、なんでも書けばいいだろうと思ったものの"遺書"ということになると、カンタンなものではない。
 (略)
 ココボは夜になると、不気味な鳥が鳴くから、よけい遺書のフンイキが出た。
 それ"認識票"と称する、金属でできた番号の入ったものをもらう。これは金属だから"ニクタイ"がくさってもくさらないというわけだ。死んでも人の骨を墓にうめる時、身元がわかった方がいいだろうと思い、首にかけることにした。
 そのあくる日、ピー屋(従軍慰安婦)に行っていいという命令が出た。早速行ってみると、なんと長い行列ではないか。これはなにかの間違いではにかと観察すると、行列は小さい小屋まで連なっている。そういう小屋が6つばかりあり、いずれも、50人位並んでいる。
 やる方も必死だが、こうなるとやられる女の側は下手すると死ぬのではないかと思った。
50人もいるとすると、終りは何時になるかも分からない。2、3時間まったが行列の人数は少しもへらない。初年兵2、3人で行ったが、あまりの行列にやめようということになり、近くの土人部落に行った。
 あくる日、前線行きについての訓示があった。乗船の順番などだったが、かんじんのどこにゆくのかは、言われなかった。


引用しましたが、水木しげる氏も慰安婦らは強制的に徴用されて連れて来られているというのを認識しています。沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」という呼び名がついていました。
Wikipedia 従軍慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6より
当時の文献によると、慰安婦のほかに「酌婦」「(慰安所)従業婦」「(慰安所)稼業婦」「醜業婦」などという呼び名も存在し、また現地の軍人は慰安婦のことを「ピー」という蔑称で呼んでいたと言われている。また、海軍では特要員の名目で戦地に送られたとも言われている。

らしいです。ピーって、なんか馬鹿にした言い方ですね。いかにも兵隊の性欲処理用家畜として女性が扱われていたかわかります。
後半のp62〜63ではさらに悲惨な慰安婦の実態がわかります。性奴隷といっても過言ではありません。兵隊たちは列をなして群がり、日夜慰安婦たちはセックスをさせられました。2、3時間かけても列は減らないし、もしかしたら24時間レイプされ続けたのかもしれません。水木しげるのラバウル戦記では、少なくともラバウルでは日常的に日本兵が慰安所に通っていたわけではないようですが、前線へ行かされるとなると慰安所へ行ってもいいという許可がでるようです。前線へ兵隊が行くたびに女性たちはセックス地獄に陥ります。もちろん、戦況が悪化するにつれて、前線へ部隊が行かされる頻度が増えるのは普通ですから、戦況が悪化するにつれて彼女たちはさらに過酷になったのでしょう。後、慰安所へいってもいいという許可が出たさい、コンドームが配られた気配はないですし、衛生もずさんだったのでしょう。慰安所へ行ってもいいという命令がでたという事実そのものが軍部隊が慰安所を保有し、まさにただの売春婦ではなく、”従軍”だったと示すものであります。

★日本兵以外で(連れてこられ)強制労働させられて人々がいた事を示す記述
p25より

 
船をおりると大発(上陸用舟艇)がまっており、みな乗船したが、最後の上陸の時は水の中におりた。
「あーっ、ここがラバウルか」というと、「ここはココボというところだ」という。
 こういう変化のある時は、初年兵はなぐられない。なにかにヒマになるとやられる。毎日なぐられていると、安心の時間が分かる。
 里美は、「ここは墓場だ」と悲観的なセリフをはく。椰子林といい入道雲といい、すべてのものがめずらしい。
 海岸で老インド兵がぼんやり海をながめていた。聞くと、ビルマの方から使役として連れてこられたらしい。
いつまでも水平線をみていた。 
 考えてみればインド兵こそいい迷惑だ。英国にかり出されて戦争にゆき、日本の捕虜になってラバウルまで連れてこられるなんて、と思った。


ほんとインド兵についてはいい迷惑ですね。

p37より

 
朝5時に起きて、移動が始まった。海岸から山の中へ入るのだ。途中インドネシアの捕虜たちがいた。
 日本軍がジャワ島に上陸した時、オランダ軍といっしょにいたというので、連れてこられただろう。飛行場の整備などをさせられていたようだ。 
 飛行場を使えないように、毎週爆撃機の編隊がやってきて爆弾を落として穴をあけるから、穴をうめないと、飛行機は飛ぶことも着陸することもできない。
 もっとも、その時日本軍の飛行機はほとんどいなかったが、いつでも飛んできたら使えるように穴をうめるのが、彼らの仕事らしい。
 毎日穴をうめていたようだが、終戦の時まで日本の飛行機は一機もこなかった。
 なにも悪いことしてないようなインドネシア人を連れてきてコキ使うというのは、やはりなんだか気の毒みたいだった。
 ぼくのゆくところはトーマというところだということが途中で分かった。トーマというところはいいところだったが、配属された中隊はガダルカナルから転戦してきた中隊で、普通の中隊の半分位しかいなかった。


著者はインドネシアの捕虜だというが、オランダ軍にインドネシア人はいたのだろうか?もしかしたら、ロウムシャ、あるいはヘイホとしてインドネシアから強制連行された一般人(ジャワの貧しい農民)だった可能性もあるのでは。
余談ですが、>普通の中隊の半分位しかいなかった
ガダルカナルがいかに悲惨だったかどうかがわかります。この中隊では半分しか生き残れなかったようですね。ちなみにこの兵隊での著者ら初年兵の虐待事実はpart1のp38〜39、p40〜41、p41〜42、p46〜47の部分に引用されています。

p133
 
 海軍はソルジャーボーイと称して20人近くの土人を雇って雑用させている。風呂をわかしたり掃除したり、あるいは食糧集めに使っているかもしれない。


p134
 時々、飛行機が夕方やってきて、近くに急にエンジンを静かにし、低空でなにかを落としているようだった。多分近くにいる敵の特殊部隊への補給だろう。(あとになって気づいた。)
 それから2,3週間すぎた頃、海軍で使っていたソルジャーボーイが全員消えたというのだ。即ち、彼らの宿舎に行ってみても、もぬけの空だというのだ。
 海軍の人と協議したが、夕方でもあり、対策は明日にして、今夜はこのまま寝ることになった。


ソルジャーボーイとして現地の人を労働させていたという事実がラバウル戦記にも書かれていました。ただし、連合軍は巧妙であり、使っていた現地人労働者が連合軍のスパイだったりしていたようだ。このことがのちに、フィバラップという抗日ゲリラが割拠していたフィリピンのように、ラバウルを含むニューブリテン島でも現地民衆に対して凄惨な虐殺行動が行われたかもしれない。

★現地人に対するを含む日本軍加害事実・・・あまりでてこないのだが。

p68における『ラバウル戦記その2 前線での生活』の説明文において

 
 ここからズンゲンでの生活が始まる。
 上陸の夜は野宿だった。とにかくばかに静かなところだった。
 あくる日、兵長のいう天国説を信じてあたりをさがしたが、パパイヤの木は一本もなかった。ただゆけどもゆけども名前の分からない木がたくさん生えており、道はなかった。
 この場所は、オーストラリア戦史の第一項をかざる場所であったらしい。2.3年前日本海軍が上陸し、オーストラリア軍約一個大隊(500人?)が、ラバウルからズンゲンに逃れた。半分の兵隊は船で引き揚げ、半分はズンゲンに残って、船をまっていたらしい。しかし、日本軍の発見するところとなり、全員この場所で殺されたらしい。
 ぼくは、偶然、山の上で100人以上の遺骨を発見した。しかしその時我々はなにも知らなかった。毎日めずらしいところを見せてもらうので、不安な中にも面白かった。やはり"若さ"のせいだろう。


ズンゲンに残されたオーストラリア軍250人ほどが日本海軍によって虐殺されました。敵兵とはいえ戦争犯罪です。日本海軍の残虐な体質が浮き彫りになっています。戦後のBC級戦犯で裁かれたかどうかはわかりません。ぐぐってもはっきりとしたことは分かりませんでした。

p86〜87(水木しげる氏は食糧調達に行かされる)

 
 誰がみつけてきたのか、ウルグット河に面して、城の堀の石垣のように丸太をはりめぐらしたところに土人の畑があった。
 要するに野ブタとかそういうものに畑が食い荒らされない天然の要塞みたいな畑だ。丸太橋を渡ってゆくと広い面積の土人の畑だ。大木を焼いて畑にしたところだ。
 なんでもあった。ぼくは2年ばかり食べたことのないトマトがあったので、夢中で食べた。
 とにかく野菜だけでカマス(トンゴロス)に20袋以上もってかえった。かなりな大泥棒だ。おそらく土人たちは、あとでおどろいているに違いない。
 そのかわり、その日からタロ芋の煮たものとか、キュウリのつけものなぞでおかずが
グーンとよくなった。
 毎日重労働でマラリヤ患者もたくさんいたから、栄養をつけてもらわんと、敵がくる前にそれこそ全滅してしまう。
 土人の畑の野菜とりよりも、休日にやるわけだから休みがないわけだ。とにかく敵がくるから陣地構築が優先するわけだ。


ほとんど唯一の現地住民に対する加害事実というべきところ。水木しげる氏は大泥棒であることは認識しているのですが『おそらく土人たちは、あとでおどろいているに違いない。』
という風に対して罪悪感をもっておらず、むしろ自分自身の部隊の食事事情が改善されてよろこんだという風に見えます。しかし、現地住民にとっては死活問題です。気候的にも、また、近代化を受けていない未開の原住民であることを考えても、こいれだけ大量に食糧を盗まれては死活問題です。略奪を行ったときの部隊はpart1で引用したp73以降の"鬼軍曹"の部隊であり、日常的に略奪を行う暇などなかったのでよかったものです。他の部隊も同様であり、陸軍はもともと現地民衆のことを考えて、外から補給するという発想がほとんどなく、また物理的にも各部隊への食料品輸送手段もなかったため、現地自活でした。現地自活すなわち、強制徴発、あるいは略奪という行為そのものです。現地人の反発を招かないわけはありません。この項ではしばらく現地人との交流はでてこなかったのですが、おそらく反日感情も相当あったに違いありません。ところで海軍の場合はp88〜89より引用すれば、

 
 海軍というと、別の国の人みたいで、大事にされ、むこうもめずらしがっていろいろなものをくれたりした。
 正月にはブタをとってこいという命令が出て、10人ばかりで出かけたが、どこにブタがいるのかも分からなかった。
 海軍の話によると「野生のブタを捕るのは大変だ。まるで猪みたいになってるから、よく手足をかまれた土人もいる」という話で、正月用のブタどころではなかった。
 海軍の人は気の毒がり、海軍の飼っている一番大きなブタをやる、というのだ。早速大きなブタを出してノドを切ってかついでかえることになったが、ブタがノドを切られる時「キイキイ」大きな声を出すのだ。そして死んだブタの重かったこと、4人でかつぐのはとても大変だった。
 ここのブタは、ブタというより猪に近い感じだった。
 海軍はバカに親切で、食事をしてゆけという。陸軍と違って、どうしたわけかごちそうだった。人員も陸軍の20分の1位、即ち2、30人で乾パンなぞたくさんもっていた。
 なんでこんなに食糧が豊富なのですかときくと、「いやァ、時々遭難した船があるので主に大発ですけど。人はおらず、品物だけあるもんですから、運ぶんです」といったぐあい。

という風に陸軍と違い食糧事情はたいへん豊かでした。みると遭難した船から食糧を調達しているようである。大発というのは陸軍の輸送船である。陸軍は海軍と仲が悪く、海軍の力を借りないために自力で海上輸送船をつくっていましたが、出来が悪く、うまくいってなかったのだろう。大日本帝国軍の欠陥がこういうところにも現れている。

p237の『おわりに』に現地住民を加害しただろうという記述がでてくる。

23年ぶりにラバウルを訪ねたらしい。トペトロとトペトロの義弟トマリルにあう。彼らはラバウルの日本軍時代に著者が知り合った“土人”である。引用すると、

 それから度々訪れることになるのだが、ぼくはトペトロのところへ一週間もとまったことがある。
 その時、家の中は足のふみ場もないほど若い者が寝ていて、よく小便にゆくとき、顔だとか胸をふんづけたりしたものだ。
 その時は「なんてノンキだろう」と思っていたが、今から考えるとトペトロの深い配慮だった。
 即ち、電気もないまっ暗なところだから、1人拉致されたって分からないところだ。それに、日本軍にいじめられたり、肉親を殺されたりしたのもいるから「昔の日本兵がやってきた」といえば、良からぬ考えをおこす土人だっている。
 そういう事を配慮して、若い者を一ダースばかりぼくのまわりに寝かしたのだ。


最後になって、日本軍によっていじめられたり、肉親を殺されたりした人もきちんとラバウルにはいるということが分かりました。しかし、日本軍によっていじめられたというのは古参兵が初年兵にした以上のことを雇った現地人にしたのでしょうか。肉親を殺されたといっても日本軍が略奪し、中国やフィリピンの村々や町々でしたことを程度は小さいかもしれませんが、やったのでしょう。以上でこのエントリーを終わり。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 22:06 | Comment(4) | TrackBack(5) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

水木しげるのラバウル戦記にみる日帝悪 日本軍内部の暴力性part1

『水木しげるのラバウル戦記』 水木しげる著 筑摩書房を読みました。水木しげる氏は漫画家でゲゲゲの鬼太郎、そして妖怪作家で有名です。読んだ感想ですががっくりしました。戦記といってますが、ほとんど戦闘といえる描写はなかった。捕虜になったインド兵やインドネシア人が連れてこられたことも書かれているが、日本軍の彼らに対する非人道性を描写するものはほとんどない。それか本人の興味どおりに美しい景色や“土人部落"と呼ばれる現地住民のところへ行っての彼らとの交流が描かれていたりする。日本軍が現地住民を強制労働させるとか、虐殺・虐待するとかいった加害的記述はほぼ皆無である。というわけで大日本帝国の加害性を描くという点では私にはがっくりといったところ。ただし、日本の軍隊の異常性が描かれている。古参兵による初年兵に対するすごい虐待というものが描写されていた。(著者自身、当時、ラバウルへは日本から兵員の補給が来なかったため、永久の初年兵になってしまい、扱かれっぱなしだったという恨みめいた話になっているが。)古参兵たちも初年兵のころはすごい虐待を受けていたに違いないのだが、彼らが古参兵になった時点で自分がやられたことを軍隊に入ってきたばかりの初年兵にやり返すのである。こうして日本軍内部の暴力性が蓄積される過程が分かる気がする。ただ、中国大陸の事例と違って、ラバウル戦線では現地住民に対する暴力という形では現れなかったようだが。後は、従軍慰安婦に対する描写もあった。それらについて本書より抜き出していきたい。

まず、日本軍隊の内部的暴力性について、抜き出してみる。
ラバウル戦記 その一出発 p6〜9より

 
船の中は、なんと人間の船室が三段になっている。即ち豚か山羊を輸送する仕掛けになっているのだ。「我々の船室はもっと奥だろう」と思っていると、その三段のブタ輸送に似たそれが我々のネグラときいて、一同おどろいたが、アフリカからアメリカにおくられた奴隷船よりはましだろうと思った。
 というのは、足をのばせば寝られるのだ。なんというありがたいことだと思っていると、出港。「おいみんな、最後の内地だぞ、よくみておけ」という軍曹どのの半ばやけ気味のセリフを聞いて外に出てみると、夕方だった。 (略)
 これでいよいよ永久に内地とはお別れかもしれないと、海をながめていると、「みんな船室に集まれ」という声。
 酒の配給である。運んだり、分けたりするのはすべて初年兵の仕事、なにかの手違いでヘマをすると、すぐにビンタがビビンのビンとくる。(略)
 船は5日、6日すると、なんとパラオに着いた。水も緑もきれいだ。
 半日ばかりたって上陸ということになった。「なんだパラオか、ラバウルじゃなかったのか」とひとりごとをいうと、「初年兵のくせに、知ったふうなことぬかすなーっ」と意味もなく、ビンタが左右にサクレツする。
「古兵殿、御注意ありがとうございます」そう思わなければいけないのだ。古兵の御命令は天皇陛下の御命令と同じなのだという、分かったような分からんような規則みたいなものがあるのだ。
 小舟でコロールというところに上陸、南方のきれいな島々(パラオのあたりは特に小島が多い)をながめていると「その兵隊なにやってるんだ!!」という、景色と似つかわしくない怒声に、はっと我にかえると、みな上陸して、残るは 我一人。特に「軍人勅諭」の暗唱を命ぜられ、あげくのはては、ビンタさくれつ(ありがとうございます。)
 上陸したものの、手配がうまく行っていないらしく、6時間もぼんやりさせられた。(略)
やがて船がきて「コロールから本島にゆく」という。「なんだ本島があったか」と、だまされた気になって歩き出すと、島にしてはバカに大きく、コロールほどきれいでもない。ただの南の島という感じ。


p10より

 
一分隊というと約10人いたが、その中には初年兵は5人いた。その5人で、古兵殿の食事の用意から食器洗い、下手すると褌の洗濯まで命ぜられる。
 古兵殿は、カミサマみたいなもので、終日家の中で談笑にふけっている。ぼくたちは、寝床の用意までやらされた上、おそいとか、下手だとか、難くせつけられて、毎日小言を頂戴し、運が悪いとなぐられる。
 ある日、食器洗いに行ってかえったら、他の初年兵は体操をやらされている。ぼくは、途中だからゆかなくてもいいだろうと解釈して、じっとしていた。
 古兵の一人から「初年兵は、みんな集まって体操してるんだから、おめえもゆかないとまずいぞ」といわれたが、ぼくは無視した。ゆけばよかったのだが、ゆくのが大儀だったのだ。
 すると、分隊長が帰ってきて、ぼくだけが3分間ビンタをくらわされた。即ち「なまいきな初年兵」だというわけだ。


p20(船上にて)より

 
不思議に思って、ながめていると、「空襲だーっ」という。空襲の時は"完全軍装"をして集まれということだったから、あわてて船底から鉄砲をもって甲板へ出ると、「銃を空にむけろ」という。
「空にむけて何を撃つんですか」といったのがいけなかった。ビビビビ――ンとビンタ。即ち、小銃で敵機を撃ち落とすという"軍人精神"が欠けているというのだ。


p28〜29 (ラバウルでの生活)

 とにかく、毎日のように夜になるとネズミが出た。ねぼけて手をやるとおどろくほど群がっている。
 どうしたわけか、毎日が日曜日だった。要するに命令がこないのだ。
 初年兵は"めし上げ"と称する、桶にめしをもらい、それを飯盒に分配し、古兵どのに食べて頂くという作業や、荷物運びなどというものはあったが、古兵殿は一日中寝ていて、初年兵のあげ足をとるのだ。
 帽子のかぶり方が悪いとか、歩き方がだらしがないとか、バカにうるさい。
 中には(他の分隊だが)整列させて、お互いになぐらせるようなこともしていた。
 朝は起床5時、しなくてもいい体操をさせられて、めし上げ。ある時などは、意地の悪い古兵どのが初年兵になりすまして一人おり、談笑しながら歩いていると、態度がだらしないというご注意。
 ご注意だけならいいのだが「きをつけ」をしてお互いになぐり合うという、バカな真似をさせられ、なぐり方が軽いと、やりなおしを命ぜられるから、罪もない同年兵をビンビンなぐならねばいかん。
 古兵側は、非常にいいことをしているという意識があるから、悪びれる様子もない。軍隊では畳と初年兵はなぐるほど良くなるという明治時代からの金言がはばをきかしているのだ。
「あんた、こんな地の果てのようなところへきて、ビンタゲームでもないでしょう」と言いたかったが、だまっていた。
 そんなことを言えば、おそらく古兵は語りあっておしかけ、半殺しの目にあっただろう。
 古兵になぐられて「ありがとうございました」というのもこっけいな話だ。


p38〜39

トーマというところはいいところだったが、配属された中隊はガダルカナルから転戦してきた中隊で、普通の中隊の半分位しかいなかった。
トーマはいいところであっても、景色のいいところにいると爆撃されるということもあって、中隊は見晴らしの悪いところにいた。即ち、山の中腹みたいなところだった。
 そこで、毎日穴をほるのが仕事だった。2年後、即ち終戦後(日本人は敗戦後といわないところがおもしろい)ぼくは一時期トーマにいたが、中隊がいたところとぜんぜんちがう場所でとてもいいところだった。(略)
 ぼくが配属された中隊は、平田部隊の一中隊なのだが、バカに厳しい中隊だった。どうしたわけか、初年兵の寝るところだけ屋根がないのだ。
 雨が降った場合、どうなるかという心配よりも、寝る場所の心配で大変だった。即ち、どうにか横になれる空間を確保するのに必死だった。
 ビッシリだから、となりの兵隊と体がふれる。夜中に便所にいって帰ってくると、もうぼくの空間はない。ビッシリだから、ほんのちょっと誰かが自由な空間を主張すると、他の人の分がないのだ。こんなひどい話はない。寝るところがないのだ。
仕方がないから、つぎの兵隊が便所にゆくまでしゃがんで待つ。
 そして、毎日やたらに穴を掘るのだ。それを陣地構築と称していた。全山を要塞にして戦うというのが、方面軍の命令らしいのだ。それにしても、ひどい"初年兵いじめ"だった。上の方の連中は"練成"していると思っているから平気だった。


p40〜41より

 
銃にサビがついていると、天皇陛下からいただいた銃を粗末にしたといって、半殺しの目にあうから、一日のわずかな時間をさいて掃除しておかなくてはならない。
 夜になると、古兵どのたちが、昔の牢名主みたいに上座に並んで、ガダルカナルでの武勇伝に始まって、でかい声で講義が始まる。
 おそるべき恐怖政治だったから、古兵どのとの空間が、なんと2メートルもあいているのだ。従って初年兵の空間がなくなってしまうのだ。
 もう少し空間に体が入るようにすればいいのだが、誰もこわがって、古兵との空間を生めない。おそらく、なにかに言いがかりをつけていじめられるだろう。
 とにかく"武勇"を尊ぶ中隊だったから、人間を寝かす空間については配慮が及ばなかったのだろう。
夜は"地獄"だった。
 朝の5時、即ち点呼は6時だから点呼前の出来事だった。「キャーッ」という狂ったような声に目がさめると、みんなおきてワラ人形のようなものに向かって銃剣の練習である。
 これは、点呼前に"間稽古"と称し自発的に"武勇"をためす、あるいは練習するものらしい。"武勇"を尊ぶ、この中隊独特のものかもしれない。
 これに参加しないと、古兵どのの機嫌をそこねるというので、兵隊はあわてふためいて参加した。
 恐らく近藤勇の試衛館道場みたいなものであろう。新撰組というのは、外敵を殺した数よりも内部の隊士を殺した方が多かった。どうも"新撰組"に似た中隊だった。要するに、上の方の連中は、強い兵隊を作ろうとしていたわけだ。


ラバウル戦記その2 前線での生活 p73より

 
古兵たちは、あくびなんかして人間らしい動作だったが、初年兵はうつむいて銃なんか手入れしたふりをしていないといけなかった。のんびり足をのばしていると、「動作がでかい!!」と一喝されるからだ。古兵は談笑したり、将棋をさしたりしていた。


p74〜75
 
雨が少しやむと、なんと古兵たちが狂ったように動き出した。陣地構築である。彼らは手なれているらしく、バカに素早くうまい。ぼくは要領が悪くて、しかられ通しだった。
   (略)
 初年兵は普通の作業が終わっても、いろいろ雑用をさせられたから、休むひまがない。
 その最たるものが"めし上げ"で、遠くまでめし上げにゆき、桶から飯盒に分配する。(略)
 めし上げの時、大きな炊事用のしゃもじで3発なぐられた。即ち、めし桶を充分に洗っていないというのだ。(略)


p76

 
陣地は平地に作るかと思っていたら、なんと本命は山だということだった。
 毎日、山に登っては、穴を掘るのだ。しかもなまけられない。ぼくは要注意人物だったらしく、ちょっと腰をぬかしただけで古兵たちにののしられるのだ。
 それをよいことに、日頃からなぐりたがっている上等兵が、「メガネはずせ」とくる。そして、なにも悪いことをしたおぼえがないのに、ビンタ十発!! (略)
 それが毎日なのだからたいてい敵よりもこの古兵にやられてしまう。むしろ敵の方がアッサリしていていい感じだと、初年兵同士で話し合ったものだ。初年兵はすべて"ノイローゼ"気味だった。


p77〜78
 
どうにか兵舎もたち、毎日の重労働がつづいた。
 軍隊では日曜日は休みのはずだったが、どういうわけか古兵たちは休まない。どうも木内軍曹という鬼軍曹がいけないらしい。日曜日に、食糧とりとか兵舎の修理をさせるのだ。他の隊は日曜日は休んでいた。
 小林は鬼軍曹の分隊だった。小林は、古兵たちに囲まれて、苦しかったらしく、夜になると外に出て煙草を吸うくせがあった。月の夜はきれいだし、空の星もよくみえた。
 ある夜、なんとなくやかましいので外をみると、小林が古兵たちになぐられていた。外で煙草を吸って、それが敵にみられたらどうするのかというのが、小林のなぐられた理由のようだった。
 そういうことで、小林はだんだんと青ざめてゆき、やせておどおどし出した。もともと体も小さく、丈夫な方ではなかったから、こんな山奥で作業するのは、ちょっとムリなのだ。
 普通に材木をかつげないとか、点呼の時ヒザががくがくふるえていたといったようなことがみなにいじめられる理由のようだったが、軍隊で体が弱いほど、哀れなことはない。


 p81
 
鬼軍曹は、家を建てることに興味があったらしく、今までの兵舎は雨もりもしないのに、新しい兵舎を思いつき、日曜日にやるために、大切な休日がなくなってしまった。みな一日中、休みなしで働かされた。


以上これだけを引用しましたが、まず目につくのがビンタである。p28〜29では初年兵はなぐればなぐるほどよくなるという金言があり、まずそのような暴力が横行するもととなっていること。古参兵の権力が強く、初年兵にとっては天皇陛下の命令であり絶対服従である。人殺しを命じられたら、自分の良心に逆らっても実行しなければならない。異常ないじめの横行、そして初年兵はみなノイローゼになり、その初年兵が上等兵になることには、また初年兵に対して同じことをやり返す暴力の堂々巡りが起きてくるのである。暴力は推奨されており、暴力を振るった古参兵は悪びれる様子はなく、むしろ、いいことをしたと自我自尊しており、初年兵はそれを"ありがとうございます"と感謝しなければならない。こんな非道な世界は日本軍だけである。他には兵隊の健康や体力、気持ちを考えない鬼軍曹がいて、強制労働を日夜やらされる。日本軍の中では小アウシュビッツという内部的暴力システムが築かれていた。現代でも過労死が問題視されるが、労働者を酷使し、労働者の権利や健康、個人自身の事情を考えない横暴な企業体質が旧日本軍的な暴力性を受け継いでいることにみられる。日帝残滓の掃討であり、こういう日本軍の体質批判を通じて、日本の制度的改革も行っていくべきだと考える。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 19:55 | Comment(5) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「南京への道」・史実を守る会が発足

[AML 6017] 2・22 「南京への道」・史実を守る会が発足します よりお知らせ

こんにちは、熊谷伸一郎です。
 重複投稿すいません、転送転載歓迎であります。

 東京地裁では完全勝利した「南京事件・百人斬り競争」
裁判でありますが、南京事件の史実を認めたくない人々
が控訴し、審理は東京高裁へと移っております。

 これまた皆さんご存知のように、東京高裁は人権の砦
ではなく反動の砦でありまして、勝って当然の本訴訟にお
きましても少しの油断もできないところです。

 ひとつは南京事件という、絶対に繰り返してはならない
過去を胸に刻むため、ひとつは史実を描くことが「名誉毀
損」となるというような言論規制をはねのけるため、高裁
にむけて裁判支援を強めるべく、このたび「南京への道」・
史実を守る会という団体をあらたに出発させることになり
ました。

 下記に呼びかけ文を掲載しますので、皆々様のご参加と
ご支援をよろしくお願いいたします!!

 なお、参加方法は末尾です!
 22日の発足集会と裁判傍聴については別便で!

======================

「南京への道」・史実を守る会

 結 成 呼 び か け 文


 1937年、当時の中国の首都・南京へと殺到する日本軍が
ひきおこした南京大虐殺事件は、侵略戦争の狂気を今に伝え
ています。

 南京へと向かう日本軍のなかに、「どちらが先に100人を日
本刀で殺せるか」を競い合った「N」と「M」という二人の将校が
いました。彼らの行なった殺人競争の模様を東京日日新聞(現
在の毎日新聞)は「美談」として日本に伝えています。

 日本の敗戦後、南京で開かれた軍事法廷で二人の将校は
死刑に処せられます。侵略の戦場における狂気の象徴ともい
えるこの殺人競争を現在に紹介したのが、ジャーナリストの本多
勝一氏が書き、朝日新聞社が掲載したルポルタージュ『南京へ
の道』でした。

 以来、南京事件という史実を否定し、あわよくば日本の侵略と
いう事実自体をも否定したいという勢力から、「百人斬り競争」は
「まぼろし」だったという言説が繰り返し流されてきました。しかし、
戦時中に「N」自身が「百人斬り競争」が実は捕虜殺害だったと
出身地の小学校で話していたという証言や、当時の報道にたず
さわった記者やカメラマンの証言が世に出され、少なくとも二人の
将校自身が「百人斬り競争」を実行したと話していたこと自体は
史実として確定しました。

 事件から66年が経過した2003年になって、突然、二人の
将校の遺族が本多勝一氏や朝日新聞社を「名誉毀損」だとして
提訴しました。「百人斬り競争」自体が虚偽だとして、その行為を
ルポとして報告したことが死者に対する名誉毀損だというのです。
この提訴の背後には、南京事件の史実を否定する勢力や、
現自民党国会議員の弁護士などがいました。

 しかし、提訴以来、史実を守ろうとする多くの良心的なジャーナ
リストや市民により、数多くの新資料が発掘されました。両将校の
部下として虐殺行為の一部始終を見ていた望月証言を筆頭に、
「百人斬り競争」が実は無抵抗の捕虜・農民に対する虐殺行為
だったことが明らかとなったのです。

 2005年8月に出された地裁判決は、当然のことながら、遺族側
の請求をすべて退ける、本多氏側の全面勝利判決でした。すでに
社会的に決着がついていた問題を蒸し返し、誤った歴史認識を広げ
ようとする悪しき企みが失敗したといえるでしょう。

 しかし、遺族側は控訴し、審理は東京高裁へと移りました。また、
現在、南京で審理が進められている事案など、南京事件をめぐっ
ては今後も新たな支援活動が必要になってくる可能性があります。
南京事件の過去を歪めず、忘れず、今の戒めとすることを願う私た
ちは、あらためて支援活動を強化するべく、ここに「南京への道」・
史実を守る会を結成することを呼びかけます。史実を守り、後世へ
の戒めとして語り継いでいくために、目的を同じくする多くの方の
参加を呼びかけます。

2006年2月15日 呼びかけ人一同

あしな・荒川和晴 (慶應義塾大学教員)・荒川美智代(撫順の奇蹟を
受け継ぐ会本部事務局)・石山久男(歴史教育者協議会委員長)・
inti-sol・ウサギの眼・烏龍茶・大谷猛夫(中国人戦争被害者の要求を
支える会事務局長)・金子美晴(ハイナンネット)・川原しのぶ(学生)・
クマ(問答有用)=熊谷伸一郎(編集者)・鈴木千慧子(南京事件調査
研究会)・高橋亨(「対抗言論のページ」主宰)・龍野瑶子・俵義文(子
どもと教科書ネット21事務局長)・とほほ(「とほほのとほほ空間」)・
南典男(弁護士)・穂積剛(弁護士)・Maris・指輪・横山好雄   他

===========================

●以上の趣旨に賛同する方はどなたでも会員になれます。
・年会費1口1000円〜です。
・以下の必要事項を記入し、下記のアドレスまでお送りください。
honda_sien-owner@egroups.co.jp
・おって振込用紙と資料をお送りいたします。

・・・・・・・・(キリトリ線)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

【史実を守る会に参加します】

・氏名:
・連絡先:〒
・メールアドレス:
・メッセージ:

・・・・・・・・(キリトリ線)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・


ということですので、南京大虐殺の史実を後世に残すために守らないといけないと思います。
私も応援したいと考えています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 17:51 | Comment(6) | TrackBack(0) | 大日本帝国侵略・戦争被害諸国民衆による市民連帯結成を | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【社説】日本外相の浅薄な歴史意識

【社説】日本外相の浅薄な歴史意識
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=72272&servcode=100§code=110より

「天皇の靖国神社参拝がいちばん望ましい」 日本外相の麻生太郎氏の言葉だ。

話にならないことはない。

日本を象徴的に代表し、なおかつ戦争責任から自由ではない天皇が直接すればよいという話であるだろう。

しかしいくら総裁選挙を目前にした政略的発言でも言うべきこととそうでない言葉がある。多くの日本の神社をめぐり韓国も中国も物申したことはない。ただ靖国神社に対してのみ言うのだ。

なぜか?

靖国は日本帝国主義の侵略歴史を美化する代表的な宗教機関だからだ。

一度聞いてみよう。

これまでの天皇が靖国神社を参拝したのか。われわれが知っているのは天皇は太平洋戦争A級戦犯の位牌が靖国に移された1978年以後、参拝を中断している。

なぜか?

その合祀の意味が侵略戦争の美化に触れたためだ。それなのに麻生外相は「タバコを吸うなと言えばもっと吸いたくなるのと同じ」と首相の靖国参拝を擁護した。それとともに天皇の参拝を促した。一言で政略的戦線の拡大であり、政治的出世のためならどんな手段もいとわないという切迫さが感じられる。

一国の、それも国連の安保理常任理事国を狙うという国の外相がアジアの多くの人々に忘れられない傷をつけた侵略歴史問題を喫煙心理にたとえるとは。所信をうんぬん述べては靖国参拝を続ける小泉首相さえも、今回はあわてて「個人的意見」だと言いながら鎮火に乗り出したほどだ。

麻生外相が「隣近国家とは良い関係を結びにくいというのが私の基本認識」と言ったことは知っている。総務相時代「創氏改名は朝鮮人が願ったこと」と言ったことも覚えている。

それでは彼を任命した小泉首相は何か。その首相に外相か。こんな批判も内政干渉だろうか。それとも酷い、過去に対しての絶え間ない自主合理化だというのか。

もう一言だけ言おう。

ワイツゼッカードイツ元大統領の1985年演説。

「記憶するということは過去を歪曲せずに振り返り、自分の内的な生の一部になるようにすることだ。これには真の誠実さが要求される」


麻生太郎の低脳ぶりを酷評した社説です。ちょっと古いですかね。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 17:39 | Comment(35) | TrackBack(173) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Wikipediaにみる右翼の「高砂義勇軍ほとんど志願説」の破綻

高砂義勇隊の記念碑撤去のお知らせ
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13440456.htmlの追記という形で書こうと思いましたが、やめて一つのエントリーという形で書きます。

Wikipediaに記事がありました。
高砂義勇隊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8Aより
高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は太平洋戦争末期、台湾原住民が戦闘員としてフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。正規には軍属であり兵士ではないが、実際上は戦闘に参加し、戦死者の割合が正規軍よりも多かったといわれている。しかし、戦後、生存者も遺族も一切恩給や補償を全く得られず、また台湾国内においても、日本国内においても、全く目も向けられず、冷たい対応をされていた。1974年末にインドネシアのモロタイ島で発見された台湾人日本兵、中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)も台湾先住民アミ族出身の義勇隊員であり、彼の確認が、世間で「高砂義勇軍」が話題に上った最初のきっかけとなった。


軍属だけども、実際のところは、正規軍よりも戦死者の割合が高く、苦しんだというわけ。戦後は一切の恩給や保証を全く得られずに、歴史の闇に葬り去られようとしていたと。

正規軍ではないため、現在高砂義勇軍についての詳しい資料は残っていないので、明らかではないのだが、推測では約7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したと考えられている。参加者のほとんどが志願であると宣伝されたため、皇民化教育の成果として謳われたが、実際は多くの生存者及び遺族からの証言では、日本に支配され、反抗できない雰囲気の中で、自らの意思に反して参加させられたという証言が最も多かった。唯一、高砂義勇軍の遺族と自称する「烏来地区タイヤル族酋長」の周麗梅さん(日本名秋野愛子、民族名リムイ・アベオ)が日本の一部右翼団体から資金提供を受け、「高砂義勇軍戦没英霊記念碑」を建てて、高砂義勇軍がすべて皆自らの意思で志願して、天皇のために戦死した英霊であると主張している。


ここにも日本の右翼の関与がみられる。2chの右翼は強制ではなく、志願だといっていたが、植民地のもと、反抗できない雰囲気のもと、生存者や遺族からの証言では自分の意思に反して参加させられた、つまり強制であることが多いということ。日本の右翼勢力から資金提供を受けた周麗梅という奴が、日本の右翼勢力の走狗となって、「高砂義勇軍戦没者英霊記念碑」なるものを建てたということ。

実際、台湾国内の一般的な意見としては、一部日本軍に協力的な者を除き、殆どが事実上は自らの意思に反し、または日本国内の「赤紙」を受けて、徴兵されたような心境で戦地に赴いたになっている。自ら志願して、協力する人も当然一部いたものの、平和を愛する台湾原住民が事実上日本によって徴兵されれば、当然仕方なく随従するが、それを「殆ど志願して戦地に赴いた」と唱える説は、多くの身近な生存者や遺族の証言からしても、信頼性を欠けるというのは台湾国内の一般的な見方である。


右翼の説は完膚なきままに否定されましたと。

戦後、未払いの軍事郵便貯金の払い戻し(確定債務問題)、戦死者の靖国神社からの分祀などを巡って生存者や遺族の一部は裁判等で係争を続けていたが、2005年9月30日の大阪高裁の判決で敗訴が確定した。この裁判では、旁論ではあるものの、小泉純一郎総理の靖国参拝が憲法違反であると示している。その他福岡地裁など、日本各地でこのような裁判が起こされているが、一部の日本国内の論客はこれをすべて「中国共産党の陰謀と策略である」と、遺族を侮辱する傾向も見られる。


でたね。また「中国共産党の陰謀と策略」。好きだね。純粋に高砂義勇隊で日本軍に尽くした際、未払いの軍事郵便貯金の払い戻しを求めたり、大日本帝国の侵略を正当化し、加害者である軍国主義指導者とともに祀られることが嫌だから、分祀してくれというのは何が悪いんだろうね。

(略)台湾では先祖を自宅で祭る文化があり、自宅で先祖を祭らない者は「不孝者」として、コミュニティ、世間体から変な目を向けられる文化がある。このような背景の下で、台湾原住民及びその他台湾出身の旧日本軍遺族の強い意思で、靖国神社からの分祀(台湾へ先祖の魂を呼び戻すための「迎霊招魂」儀式)を望んでいるのに、靖国神社が断固として台湾の遺族の意思、そして台湾の文化を無視した点については、台湾の主要メディアは殆ど高金素梅ら及び遺族に対して同情を示し、また日本政府及び靖国神社の強硬な対応を批判した。


台湾では高金素梅氏の運動は大きな同情を受けており、高砂義勇隊の撤去を阻止しようと日本の右翼勢力と台湾の親日反動勢力が頑張っているが、結局のところ、台湾の世論の強い意思のもと撤去される可能性が高いということだ。

高砂義勇軍の遺族と自称する「烏来地区タイヤル族酋長」の周麗梅(日本名秋野愛子、民族名リムイ・アベオ)が日本の一部右翼団体から資金提供を受け、「高砂義勇軍戦没英霊記念碑」を建てて、高砂義勇軍がすべて皆自らの意思で志願して、天皇のために戦死した英霊であると主張している。現在記念碑は長男の邱克平(民族名Makai‧rimui)、甥の簡福源(民族名Tari‧watan)が管理しているが、慰霊碑の敷地を提供していた台北郊外にある観光会社が、新型肺炎 (SARS) 流行による日本人観光客激減で倒産してしまい、慰霊碑は撤去されそうになったといわれている。この事態に対し一部の右翼団体及び日本の2ちゃんねるユーザーを中心とする有志が、義援金を拠出し、慰霊碑は移転させて存続する事になった。その結果、2005年8月には日本側の支援の動きに呼応して建立委員会(代表烏来郷元郷長(町長)簡福源氏)ができ、社団法人「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」の設立準備を進める一方、台北県から県有地の提供を受けることで交渉がまとまった。


これが本質だろうね。わが2chのネット右翼たちは洗脳されて、運動に加担させられているが、この運動の背後にある右翼の闇勢力の背景には日本会議などが絡んでいるに違いないね。
少なくとも右翼の「高砂義勇軍ほとんど志願説」は否定されましたとさ。以上
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 10:35 | Comment(10) | TrackBack(0) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高砂義勇隊の記念碑撤去のお知らせ

【台湾】高砂義勇隊記念碑周辺の日本国旗に高金素梅が激怒 県政府も記念碑撤去の方針[02/17]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1140174573/
烏来に立てられた日本の国旗 県政府が遺憾の意 高金素梅が蘇貞昌の責任を追及
---
烏来瀑布公園に建立された高砂義勇隊の記念碑の後ろに大きく立てられた日本国旗に、原住民立法委員の高金素梅が17日、話を聞いた後に激怒し、前の県長(*1)の蘇貞昌(*2)と 現県長の周錫☆は責任を負い、公然と説明するよう要求した。
また、県政府はすぐに謝罪を表明し、これが間違いなく史実の歪曲に及んでいると認め、不適当であるとして、関係部署にできるだけ早期に取り壊すように指示した。

烏来瀑布公園は、「高砂義勇隊記念協会」に記念碑建設のために貸し出しており、現在烏来瀑布公園付近のいたるところに日本の国旗が立つなど思いもよらなかった。
そのうえ、たくさんの日本語記念碑があり、日本の天皇に忠誠を尽くす文章や、あろうことか日本の国歌の全文が書かれているものもあり、観光客に時間を間違わせ、あたかも日本にいるかのようにさせる。

これらの石碑は高砂義勇隊が日本に対して貢献したことへの記念によるものだが、碑文の内容はかえって日本の軍国主義を宣伝しているかのような感覚にさせる。
訪れる人に対し、一種の烏来は未だに日本の統治下にあるかのような感覚を生じさせる恐れがある。ある観光客はここを通過した後、頭を振らずにはいられなくなり、大きく罵った。「走狗」。

無党団結聯合の立法委員である高金素梅はこれを聞いて反応し、大変興奮し、現在行政院長で元県長の蘇貞昌と現在の県長である周錫☆は責任を負うべきだと強調した。
特に蘇貞昌は、対外的に事情の顛末を公開すべきだとし、原住民に釈明すべきとした。

★ ソースは、東森新聞網 [台湾] とか。
http://www.ettoday.com/2006/02/17/122-1906551.htm (中国語・繁体字)

★ 画像。(烏来は占領された?高金素梅「当時の蘇県長は責任を負うべき」)
http://www.ettoday.com/newspic/997/i997034.jpg


高砂義勇兵慰霊碑 台北県が撤去要請
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060218-00000018-nnp-int
【台北17日遠矢浩司】日本からの募金で撤去の危機を免れ台湾北部・烏来郷で今月八日に落成式があったばかりの「高砂義勇兵」慰霊碑について、一部地元メディアや立法委員(国会議員)から「軍国主義的だ」との批判がおこり、設置された公園管理者の台北県政府(県庁)は十七日、遺族団体に碑の撤去を求めた。

 県当局は「行政のミスもあったが、環境規定などに適合しておらず、碑文も公有地に建てるものとしては不適切」として、一週間以内に設置者が撤去しなければ県が強制撤去するとしている。

 碑は、日本統治下の台湾から日本兵として従軍した台湾先住民を慰霊するもの。先住民タイヤル族の団体「台北県烏来郷高砂義勇隊記念協会」(簡福源理事長)が設置。落成式では李登輝前総統や日本の対台湾交流機関「交流協会」台北事務所代表らが祝辞を述べた。

 十七日付の台湾紙「中国時報」は一面トップで「公園が日本に占領された」との見出しを掲げ「碑文は天皇に対する忠誠心を称賛している」などと報道。また対日批判活動で知られる高金素梅・立法委員は同日、県政府を訪れ、県の対応を求めた。一方、簡理事長は「設置は県に正式に申請したもの。碑は慰霊のためで政治的意図はない」と話している。
(西日本新聞) - 2月18日2時22分更新


「高砂義勇兵」慰霊碑というのはどういうものか。高砂義勇兵英霊慰霊碑募金によって建てられたプロパガンダ建造物みたいなものだ。そもそもこの募金の背景が怪しい。普通の人なら、こんなもんつくる金があるなら、もっと慈善事業に使えと思うだろう。もともと、ぼやきくっきりを斬るのエントリーで台湾をとりあげたさい、原住民の大量殺戮のソースを示したが、台湾先住民は被害者である。高砂義勇軍として 戦争に駆り出されて戦死した台湾の高砂族の犠牲者たちをあたかも自発的で、先の大戦がアジアのために戦い、祖国を守った偉大な聖戦のために戦ったかのように美化する慰霊碑など糞くらいである。そのようなものが存在することが大日本帝国の無謀な侵略主義の果てに死んだすべての人たちに対して泥を塗る行為である。2chネット右翼が中心になって建てた大日本帝国を美化するという野蛮な目的のために建てた碑を撤去されるのはうれしい次第である。高金素梅氏の今後の活動を見守っていきたい。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:35 | Comment(36) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ぼやきくっくりを斬る

ぼやきくっくり
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri/
というブログがある。

がんばれ麻生さん!がんばるな熊本市!
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri/index.php?eid=309
麻生マンセーの記事。知性が知れる。
くっきりさんの熊本市総連の件ですが、

■熊本市 「朝鮮会館の税金免除は違法」との高裁判決に対し上告(NNNニュース)

 熊本市の朝鮮会館に対する税金の免除をめぐる裁判で、熊本市は15日、「免除は違法」とした福岡高裁の判決を不服として、上告した。

 この裁判は、朝鮮総連(=在日本朝鮮人総連合会)熊本県本部が入っている朝鮮会館について、熊本市が固定資産税を免除しているのは違法だと、北朝鮮の拉致問題に取り組む「救う会熊本」が訴えているもの。一審の熊本地裁は、会館に公益性を認めて原告の訴えを退けたが、福岡高裁は今月、「朝鮮総連の活動は日本社会の利益のために行われていない」と、公益性を認めず、市に課税を命じる逆転判決を言い渡した。

 上告について、熊本市は「高裁判決は公益性の意味を狭く解釈している」と話している。

 一方、救う会熊本は「会館の閉鎖性は市民の多くが感じている。公益性を認めるのはおかしい」と、市を批判した。
[16日1時53分更新]


私もはじめてしりました。しかし、私なら熊本県GJといいたい。救う会という組織は拉致被害者を食い物にした右翼団体の一つであり、強制連行を否定する運動にも関わっているところ。
AMLの配信にこういうものがあった。反論になっているので掲載。市民運動の動きがこういう反動的な右傾化の動きに歯止めをかけたことを示すものである。

[AML 5860] 熊本朝鮮会館福岡高裁判決についてのお願い 

熊本朝鮮会館行政訴訟をめぐる福岡高裁判決について全国のみなさんへのお願


2月2日熊本朝鮮会館の固定資産税減免措置の取り消しを求めて「救う会熊
本」が起こした行政訴訟の控訴審判決で福岡高裁(中山弘幸裁判長)は一審
熊本地裁の減免措置を適法とする判決を否定し、減免措置を取り消す判決を
下しました。

この判決は「救う会熊本」など極右勢力が主張する内容に沿ったきわめて政
治的判断が先行した判決であり、在日朝鮮人だけでなく在日外国人総体の日
本社会での生活や生存権を脅かす偏狭な排外主義に貫かれたものと言わざる
を得ません。

一審熊本地裁は昨年、熊本朝鮮会館がその利用対象者、設備や利用実態、事
業内容などから見て公益性を備えており「公民館類似施設」に当たるとする
熊本市の決定は適法であるという判断を下しました。
 熊本朝鮮会館で日頃行われている活動は民族教育のための事業や日本人と同
 等の社会保障が受けられない在日朝鮮人の人権と生活を守るための活動、高
 齢者・障害者支援などの福祉活動、さらに国交がない状況下で日朝友好親善
 のための諸活動など多岐にわたっています。在日朝鮮人以外の利用も規則や
 運用上可能とされており、駐車場が狭くて車三台程度しか駐車できない点や、
 会館の老朽化の進行で一般の公民館のような利便性はなくとも、私たち熊本
 県民が会議などで利用することもあります。

しかし福岡高裁判決はこのような朝鮮会館の活動内容を検討の対象とはせず、
「減免措置の対象となる『公益性』は『わが国社会一般のために』と解する
べきことは文脈上からも、本件の対象が国内の固定資産であることからも当
然である」という偏狭な判断基準に基づき「総連の組織及び活動にかんする
事実から、総連は北朝鮮の指導のもと、北朝鮮と一体の関係にあり、北朝鮮
の国益や在日朝鮮人の私的利益を擁護するために活動している。その活動が
わが国社会一般の利益のために行われていないことは言うまでもない」とし、
「市長が特に必要と認める固定資産」には当たらないと結論づけたのです。

裁判所が作る判決文に「北朝鮮」なる国名が登場することがまず問題とされ
るべきですが、この裁判が「北朝鮮」国家そのものの是非を争う裁判でない
ことはもちろんのこと、「総連」とは在日本朝鮮人総聯合会のことを差すと
思われますが、「総連」が北朝鮮の国益や在日朝鮮人の「私的利益」を擁護
する活動を行っており、それが日本社会一般の利益と対立するという一方的
な結論の導き方はまさに北朝鮮バッシングを行う週刊誌以下的な認識を示す
ものです。金末幸委員長は「会館活動に公共性がないと言うことは私たちに
死ねと言うことと同じだ」と言われましたが、まさにそれほどひどい内容を
含んでいます。朝鮮総連がこれまで日朝友好親善に果たしてきた役割の評価、
在日朝鮮人の存在にたいする歴史的な認識も欠落し、ピョンヤン共同宣言の
実現に向けてともに進むべきパートナーであるという対象ではなく、まさに
「北朝鮮」の指導のもと日本の国益に逆らう活動を行う違法な存在であると
いう描き方をしています。これは悪辣な政治的判断にほかなりません。外国
人排斥という最悪の排外主義を助長し、国際人権規約にも抵触する内容と言
わざるを得ません。

 しかしこの判決の持つ法的拘束力は単に朝鮮総連傘下の在日朝鮮人だけに限
 定されたものではありません。最も近い存在として韓国民団の「韓国会館」
 があります。私は朝鮮会館だけでなく韓国会館にも良く伺いますが、活動内
 容はほぼ朝鮮会館の場合と同じといえます。もしこの判決が確定すれば、朝
 鮮会館と同じように韓国会館も固定資産税の減免措置は受けられなくなるの
 です。その他日本国内で民族的な活動のためにたてられた在日外国人のため
 の「公民館類似施設」のほとんどがこの判決の影響を受けることになります。
 韓国民団の関係者からもすぐに私のところへ電話で「日本の社会が怖くなり
 ました」という大変厳しい認識が示されました。私たちはこの言葉をとても
 重く受け止めなくてはいけません。

そこでこれからのことでみなさんにお願いがあります。今後最高裁へ上告す
るのかどうかが問題となりますが、「救う会熊本」と熊本市長の間での訴訟
ですので、熊本市長が上告するか否かにかかります。幸山政史市長は監査委
員会の勧告を拒否して非課税を継続したいきさつもあり、簡単にこの判決を
受け入れるとは思われませんが、右翼の街宣車が毎日市役所周辺を動き回っ
ているという情報もあります。

 この問題を憂慮する全国のみなさんから幸山政史熊本市長宛に、不当な判決
 を許さず上告して闘ってくれるように励ましのメッセージをメールやFAX
 で伝えていただけないでしょうか。上告審の重要な意義、アドバイスなどお
 書きいただければ幸いです。また福岡高裁中山裁判長への抗議のメッセージ
 もお願いします。
熊本では今週中に仲間たちと市長に申し入れに参ります。

熊本市長宛のメールは熊本市役所秘書課宛に hisho at city.kumamoto.lg.jp
FAX 096−351−2180
福岡高裁中山弘幸裁判長への抗議は福岡高裁民事第5部まで
FAX 092−781−3183


この問題については触れられるとおり、一方的に救う会の主張を鵜呑みにし、「総連の組織及び活動にかんする 事実から、総連は北朝鮮の指導のもと、北朝鮮と一体の関係にあり、北朝鮮 の国益や在日朝鮮人の私的利益を擁護するために活動している。その活動が わが国社会一般の利益のために行われていないことは言うまでもない」とし、「市長が特に必要と認める固定資産」には当たらないと一方的に結論づけた不当極まりないもの。この判決は深刻で、他の外国人の「公民館類似施設」がこの判決の影響を受けることになり、深刻危険極まりないもの。市民運動のおかげで、熊本県が上告してとりあえず安心しました。普通の人物であれば、救う会が熊本県に対して総連の施設に課税しないのはおかしいと訴えたという動き裏があり、在日朝鮮人に対する右翼勢力の妨害行為であることは考えれば分かるのですが、くっきりさんは他の右翼と同様、救う会の側を鵜呑みにし、異常なほどの総連憎し、在日朝鮮人蔑視のレイシズム的なバイアスがかかった見方をしていると思う。良識派の方々はこのAML配信の記事をみて、右傾化する動きに歯止めをかけて、北朝鮮・朝鮮総連憎しの一方的な世論の傾向に染まらないようにしていただきたい。

 もう一つは台湾と麻生についてであり、麻生をくっきりさんはほめ称えているが、そんな人物ではないことは言うまでもあるまい。一外相が大日本帝国の侵略・加害行為を正当化するということ自体をわかってはいない。大日本帝国は日清戦争の講和条約で不当に高い賠償金を奪いとって、台湾を割譲させて植民地化した。

『新しい歴史教科書』(扶桑社)を斬る14
「戦前日本は台湾で何をやったのか」のその2
http://kyoukasyonet.fc2web.com/kiru14.htmlより
その植民地化による抵抗運動鎮圧の過程で、2例をあげれば

台湾植民地戦争の第二期
(平野部で農業を営む中国系住民を対象とする、"糖業帝国主義"的統治体制の確立過程)
第二期は台湾人民のゲリラ的抵抗を鎮圧する植民地戦争に移行し、だいたい日露戦争前の1903年までつづく。
この時期につまりゲリラ的抵抗鎮圧戦争における殺害総数として、後藤新平民政長官の報告として、10950人という数字が挙げられているが、これも正確なところは分からない。『後藤新平』第二巻によると1897年から1901年までに死刑や殺戮した数は、11946人にのぼる。
「雲林の虐殺」は不明
しかし、上の数字は1896年4月から12月までの数字が抜けている。実はその間のはげしいゲリラ的抵抗の鎮圧における、中国人殺害者数が不明となっている。国際問題にまでなったのが、1896年6月の雲林支庁の斗六周辺の虐殺事件であった。台湾警察の正史である『台湾総督府警察沿革誌』IIに、
「後民戸の兵燹(へいせん:戦争のためにおこる火事)に罹(かか)りしものを調査せるに斗六街に於て三百九十六戸を首(はじ)めとして、付近村庄五十五庄三千八百九十九戸に及び土民殺載の数の如きは審(つまびらか)にすべからざりき。」
とあり、一般住民もゲリラもすべて一まとめにして殺戮(さつりく)し、民家に放火し、その犠牲者数不明という、大惨劇を演じた。
この「第一次の討伐は、世上(せじょう:世間)所謂(いわゆる)雲林の虐殺と伝えられ、深く地方民の怨恨を買いたるを以て」、しかも中国で漢字紙・英字紙などにより報道されたので、天皇が罹災民に見舞の金を賜い、総督府も救恤(きゅうじゅつ)金を支出するなど慰撫策を講じ、かつ責任者を処罰した。しかし、その犠牲者数は不明のままである。



台湾植民地戦争の第三期("樟脳帝国主義"的支配体制確立期)
以下は、『日本植民地探訪』(大江志乃夫著,新潮選書,1998)
の文章をそのまま引用する。(・・・は省略したところ)

・・・日露戦争が終わったとき、山地先住民つまり「高砂(たかさご)族」にたいする制圧はまだほとんど手がつけられていなかった。かつて台湾の中国系農民にたいする支配が「糖業帝国主義」と呼ばれたことがあったが、私はこれにちなんで、山地先住民にたいする制圧作戦をかって「樟脳(しょうのう)帝国主義」と名付けた。石炭化学工業の発達によるナフタリンの生産まで、台湾特産の天然樟脳は、防虫剤・医薬品のカンフル、セルロイドやフィルムの原料として世界的独占商品であった。良質の樟脳は樹齢五〇年以上の芳樟(台湾のみに生育)の根から採取されるため、樹齢の大きい芳樟を求めて次第に山深くに入らねばならなくなり、必然的に山地先住民の生活領域を犯し、あるいは樟脳採取者(脳丁と呼ぶ)と山地先住民との衝突・流血沙汰も頻発するようになった。しかも、一八九八年に樟脳は総督府の専売商品として盛んに輸出されていた。樟脳を手に入れつづけるためにも、山地先住民の制圧は不可避とされた。

(略)

塩を絶ち死に追い込む残酷な戦術
・・・総督府は、樟脳を手に入れるために、「熟蕃」でさえもが反乱せざるをえないような窮地に追いこむことを辞さなかったのであるから、「生蕃」に対してはどのような残酷な手段もはばからなかった。
一九〇四年(明治三十七)の鳳紗山方面の隘勇線(いつゆうせん)圧縮作戦は、まさに残酷な作戦であった。宜蘭庁のパリシャ管内では、前年、製脳地保護の目的から隘勇線を開設したが、「今年になって、多大の製脳を増したところ、たちまち原料が欠乏した」ので、隘勇線を圧縮し、「生蕃」を生存に必要な物資の入手が不可能な奥地の高山に追いあげ、その生活の道を絶ったのである。こうした仮借なき隘勇線の圧縮は、一九〇八年(明治四十一)のタイヤル族中の南澳族に対する海岸線からの隘勇線の推進が、「彼等が生命とも頼む食塩が、自分の海岸で得らるる」という基本的な生存条件の意図的な破壊を目的として行われたことからも、その非人間的な残酷さを知ることができる。
一九〇九年(明治四十二)、時の総督陸軍大将佐久間左馬太は、五か年計画で、軍隊を投入しての大討伐を行い、隘勇線を前進させて包囲の鉄環をちぢめ、「生蕃」を標高三〇〇〇メートル以上の高山がつらなる台湾脊梁山系に追いあげ、追いつめ、糧道を絶って、降伏か餓死かの二者選択を迫るという大作戦を開始した。五年目の一九一四年(大正三)、当時の台湾守備隊の兵力の大部分を投入して西側から脊梁山系を越えさせ、東海岸から警察隊を進撃させ、最後の包囲網圧縮を行い、五か年計画を終了させたのであった。
こうして、台湾植民地戦争は第三期の最終段階を終った。この間の山地系住民の餓死させられあるいは殺害された人命の被害「傭役」された中国系の隘勇や巡査補の死傷についての具体的な資料の存在を私は知らない。
・・・しかし、そこでは、アメリカ合衆国における白人の「インディアン狩り」、オーストラリアとくにタスマニア島における白人の「アボリジニ狩り」に劣らぬ、残酷な「人間狩り」が日本人の手でおこなわれたのであった。とくに塩を絶つ作戦はタスマニアでおこなわれた前例があり、日本はそれから学んだのではないかとさえ思われる。


樟脳は台湾総督府の専売商品だった。本来なら、服従を拒む地域・部族については無理に支配に組み込まずに、自然においておくのが人道たるやり方だが、ことあろうに樟脳を供給し続けるために、大日本帝国は前代未聞の先住民大量殺戮をやってのけたのである。アイヌだけではない。台湾でもだ。くっきりさんも糞麻生氏もこいった台湾における大日本帝国の殺戮の歴史を知らないでいる。右翼としてではなく、日本人として恥ずかしいと思わないのか?そういう神経がすごいと思う。

■2/11付朝日社説:麻生発言 外交がとても心配だ
 (朝日社説のリンクは1週間で消えてしまうので、例によってmumurブルログさんに貼らせてもらってます<(_ _)>)

 かつて日本は朝鮮半島や台湾を植民地にした。しかし、それは必ずしも悪いことではなかった。麻生外相はそう言いたくて仕方がないかのようだ。

 先週末、福岡市での講演で、日本が戦後のアジア各国の発展を支えたと説くなかでこう述べた。

 「日清戦争のころ、台湾という国を日本に帰属することになった時に、日本が最初にやったのは義務教育です。貧しい台湾の人々が子どもを学校にやったらカネをやるという大英断を下した」

 「結果として、ものすごく教育水準があがって識字率が向上した。おかげで、台湾という国は極めて教育水準が高い国であるがゆえに、今の時代に追いつけている」


に対する反論として

・植民地時代に教育水準向上 麻生外相、台湾に触れ

 麻生太郎外相は4日午後、福岡市で講演し、日本が植民地支配下の台湾の義務教育に力を入れたと指摘した上で「台湾はものすごく教育水準が上がって識字率などが向上したおかげで今極めて教育水準が高い国であるがゆえに、今の時代に追いつけている」と述べた。
 日本と関係の深い地域として台湾に言及する中での発言。
 麻生氏は「これは台湾の偉い方から教えてもらった話で、年配者は全員知っていた。われわれの先輩はやっぱりちゃんとしたことをやっとるなと正直その時思った」と述べた。
 また、当時の日本の政策について「最初にやったのは義務教育。(台湾の家族が)子どもを学校に出したら1日の日当を払う大英断を下した」と強調した。
(共同通信) - 2月4日20時21分更新


をあげているが、糞麻生がほんとうに台湾を訪れて、年配層に話を聞いたのかという事柄に対して何の疑いもなく盲目的に信じている。私なら百歩譲って本当だとしても、台湾の親日派であり、先の取り上げた討伐過程における先住民の大量虐殺や霧社事件などの事件を知らずして、台湾で教育を行ったという一面を取り上げて、日本の植民地支配を賛美するなどして一外相がしてはならないことが分からないらしい。後、台湾の声というとんでもない日本極右の声を取り上げているが、このくっきりさんはどうかしていると思う次第である。


麻生外相とはこんな人物
今日のおコトバ 麻生太郎
http://tadanorih.hp.infoseek.co.jp/okotoba/okotoba07.htmより
麻生太郎 自民党政調会長(当時)
「創氏改名は、朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」
2003年東大五月祭講演会での発言

結局、麻生太郎は「学生にわかりやすく説明しようとして言葉が足りなくなり、真意が伝わらなかった」とお茶を濁して“陳謝”した。なんとも情ない話だ。麻生の口にしまりがないのは有名で、かの『アサヒ芸能』にすら、「『ちゃんと根回しをしないでやるのは前戯もなくいきなり×れてしまうようなもの』など発言が下品すぎてテレビで肉声を流せない」と書かれるほどらしい。
こんな品性下劣な殿方の素性を調べてみると、なんと筑豊を牛耳る麻生財閥の御曹司。吉田茂の孫・三笠宮寛仁親王妃信子の兄、学習院大学政経学部卒業、米スタンフォード大学大学院留学、英ロンドン大学大学院留学、という金持ちの××息子用ゴールデン・コース。麻生財閥は戦前に炭坑・銀行・電力・病院までを傘下においた大財閥で、現在でもセメント事業を中心に建設・人材派遣業など80社をひきいる麻生グループを形成。麻生財閥が所有していた飯塚炭坑で、強制連行してきた朝鮮人労働者を酷使・虐待していたのは地元では有名な話。そんな「原罪」を知ってか知らずか、「日本会議国会議員懇談会」会長として、教育基本法改悪や靖国神社公式参拝の旗を振ってきた張本人なのだから、麻生の「真意」など言わずとも知れている。
ところがそれ以上に興味深いのが、麻生発言が話題になった6月6日の自民党総務会。その場で奥野誠亮元法相(90歳!)らが「日本と同じ処遇をしようとしたもので強制ではなかった」と麻生に同調したという事実だ。麻生と同じく奥野も妄言専門政治家として有名だが、創氏改名についてはかつて「日本国になり日本人になったんだから、日本人と同じようにしたければさせてあげようということで、日本流の「氏」を使い、名を使うなら申請すればそのようにしてあげましょう、としたんです」(『月刊国会ニュース』95年4月号)と放言している大先輩。大正2年生まれの奥野は、朝鮮統治を担った旧内務省官僚で、どうやら当時の「内鮮一体」という虚構の金看板を棺桶まで持ち込みたいようだ。麻生をかばうのも、同類相憐れむの心情だろう。
怒ったソウル大学の学生たちが、「麻生先生、ぜひ私たちの大学で講演してください」と“招請状”を送ったそうだ。麻生もいまこそ「大和魂」を発揮して、「真意」なるものをソウルで熱く語ればよかろう。 


創始改名については
http://www10.ocn.ne.jp/~war/sousi.htmを読んでください。
例をあげれば、

1.「親日地主」の自殺に纏わるエピソード

宇垣一成・朝鮮総督の秘書だった鎌田沢一郎氏の「朝鮮新話」(創元社、1950年)は、植民地朝鮮に於ける歴代総督在任中の施政について論評を加えています。鎌田氏の論調は宇垣以外に対してはあまり好意的ではなく、とりわけ7代目総督の南次郎に対しては辛辣に批判しています。

南次郎が朝鮮総督に就任した1936年は日本が大陸での泥沼の戦争に突入する前年でした。これ以降朝鮮人に対して過大な戦争協力が求められ、また「皇民化」政策が推進され、激しい圧迫となって朝鮮人を苦しめました。これは南自身の失政というよりもこの時代の趨勢と言えますが、鎌田氏は様々な「悲喜劇」を交えて南総督時代の施政を批判しています。その中に「創氏改名」に関する興味深いエピソードがありますので引用します。

(略)
内鮮一体のスローガン実施に当つて、もつとも大きい失政は、世に有名なる創氏と国語常用の問題だ。即ち朝鮮人に日本の姓を与え、加藤清正とか石川五右衛門とか名乗らせることだ。名は体を現はすことなるが故に、日本名を名乗らせて、その中味をも、完全な日本人にしようといふことであつた。

もつともそのころは、日華事変から太平洋戦争へ引きつづく重大時期で、国家意識は昂揚され、軍国主義が高調される段階であつて、朝鮮人の中にも、創氏改名を希望する者も相当あつた。そのころ著者が外遊中に於ても、欧州やアメリカで滞在する朝鮮人、中国人の多くは、大抵日本名を名乗り、日本人と称してゐた。ホテルレジスターなどで、意外な日本名が記録されてゐることを発見することなどしばしばであつたのだ。

然るに南はそれを全鮮に強制した。各地にいろいろの悲喜劇が発生した。裁判所などで終日被告控室で待ち続け遂に呼出しがない。しかるに判決は欠席裁判で有罪となつて居る。段々聞けば裁判所は創氏の日本名で呼ぶのだが、本来その名は自分が改名したものでなくて、面長や駐在所の巡査などが勝手に改めて、夫々登録されたものであるから、本人は全く知らなかつたり、又うつかり忘れて了ふところから起きる喜劇であつた。

悲劇は至るところで発生し、それが猛烈な反日思想に発展し、対日非協力の地下運動になつて行つた。その一例に全羅北道高敞郡に薜鎭永といふ中地主の奮家があつた。主人は実に真面目な愛国者で戦争が段々と進んで軍糧米が次第に不足になつて来たころ、自家の一年分の小作米全部二千石を献納して、朝鮮軍司令部をあつと驚かせた。一年分の小作米収入がなくとも、どうやら税金と小使銭は若干の貯金で賄へるから、お国の為になつて真裸身になつて御奉公したいといふ奇特な申出であつたのだ。

その特志家の家へも、御多分に洩れずに、ぜひ創氏改名せよと面長や郡守から強制して来た。しかしこればかりは許して貰ひたいといつてどうしても肯かない。それは挑戦の大家族主義は系譜を非常に尊重する。特にこの薜鎭永の家は奮家としての誇りがあつて、祖父から系譜を大切にせよ、名を汚すなと言はれてゐた。だから整然たる系譜をもつこの家名だけは残しておきたいから諒承を乞ふ、決して反日感情のためではない。愛国者として人後に落ちないことはすでに皆さん御承知の通りなのですと、実に筋道の通つた話なのだ。

ところがこの薜家が改名しなければ、その附近の村落全部に於て一人として改名するものがない。焦つた當局はその愛児の通ふ小学校の教員を動員して、創氏しなければ学校の進級をとめるぞと脅迫したものだ。子供は泣く泣く帰宅して、之を父に訴へぜひ創氏して欲しい、それでなければ学校へゆけないとせがまれて、薜鎭永氏は子供可愛さに遂に決心し、翌日面事務所へ行つて、創氏改名の手続きを完全に済ませ、学校へも届けて子供を喜ばせた上、その翌日、石を抱いて井戸に沈み祖先への申譚を死によつて果したのであつた。

その話を著者にした全北知事の孫永穆は、両眼から涙をぽたぽた落とし乍ら、非圧迫民族の悲痛さを嘆いたが、彼は最後まで創氏改名をしなかつた。慶北知事の金大羽もさうであつた。


糞麻生は創始改名が朝鮮人自身の意思であり、日本へ頼み込んだという風に妄言を吐いたが、どうして死者が出る事態にまで発展したのか分かっているのかといいたい。当時の朝鮮植民地統治の非人道性を示すものである。創始改名に対する朝鮮人の抵抗はすごく、井戸に飛び込み、死をもって先祖に償うほど朝鮮人にとっては屈辱的だったのである。こういう事実について学習しないくっきりさんと糞麻生には日本人の資格はないとこの記事を締めくくろう。

2006年02月17日

キリバス共和国における大日本帝国加害事実

いま、なぜ、世界史か
http://home.att.ne.jp/wave/natsu/ryo/sekaisijo.htmより
97年の8月,新聞に「バナバ民族舞踏団」が来日したという小さな記事が載っているのを読んで,ぎょっとし,またまた私の世界像の補修をせまられた。
バナバ民族は,現在のナウル共和国とキリバス共和国の中間にある,周囲約60キロのバナバ島で,長く自給自足の生活をしてきた。

ここで,太平洋の地図を開いて,ナウル共和国とキリバス共和国を確認してみよう。
高校用の世界地図なら,バナバ島がのっているだろう。フィジーのランビ(またはラビ島)は,のってない。

大平洋戦争がはじまって間もない1942年,約500人の日本軍がリン鉱石を狙って上陸。自転車やカヌ一などを奪い,敵を防ぐ高圧電線の人体実験で少なくとも数十人を殺害した

その後,数百キロ離れた三つの島へ強制移住させられた。戦後はイギリスが,バナバ島から2000キロ南のランビ島(フィジー)に移住させた。
いまも民族のほとんどの約8000人が故郷に戻ることができないままである。
この夏,東京の市民グループの招きで民族舞踏団が来日した。
歌劇には旧日本軍の戦闘機に銃撃されて逃げまどったり,目隠しされて銃殺される場面もある。
“撃て”という日本語がそのままのこっているというのだ(『朝日新聞』97.8.7夕刊と,たまたま旅先の富山県の宿で読んだ『北日本新聞』97.8.21)。


キリバス共和国を日本軍は侵略したということはご存知ですか?
http://www.foejapan.org/pacific/countries/kiribati.htmlより
1606年 スペイン人キロス、ブタリタリ島(ギルバート諸島)を発見。
1892年 英国、ギルバート諸島、次いでエリス諸島を保護領と宣言。
1916年 英国、ギルバート、エリス諸島を併合、植民地とする。
1939年 英及び米国、カントン島及びエンダベリ島(フェニックス諸島)を共同統治。
1941年 日本軍、バナバ、タラワ、マキンを占領。
1979年 7月12日 独立。


日本軍はリン鉱石等を狙って、キリバス共和国のバナバ島を侵略。敵を防ぐ高圧電線の実験で数十人を殺害しました。歌劇の残すところによれば、旧日本軍の戦闘機によって機銃掃射されて島民が虐殺されたり、目隠しされて殺されるということがあったと言います。私は知りませんでしたし、ネットサイト上でもこれ以上情報が見つかりませんでしたが、私たち日本人が知らない蛮行はまだまだアジア・太平洋地域には存在するということです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:53 | Comment(8) | TrackBack(6) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このカテゴリーの紹介、戦後賠償の血塗られた汚点―日本工営社長 久保田豊

このカテゴリーは私がネットサーフィンをして、大日本帝国の侵略や戦争被害等に関する事実を見つけてアップします。

キティ総研の
●NHKビデオ全12巻
   「戦後50年その時日本は第1巻 アジアがみつめた「奇跡の大国」」
                                  1996
http://square.umin.ac.jp/kitty/nhksengo50-1.htmlより
●NHKビデオ全12巻
   「戦後50年その時日本は第1巻 アジアがみつめた「奇跡の大国」」
                                  1996

    日本の経済力によるアジア進出の背景をさまざまな資料で検証する。フィ
    リピン、インドネシア、中国、大韓民国、タイなどへの戦後賠償と経済進
    出の光と影を関係者の証言を交えて立体的な構成で描き出す。
    
    なつかしいフィリピン国家が上院でうたわれていた。マラカニアン宮殿、
    日本軍統治下でのフィリピン大統領だったホセ・ラウレルが日比賠償交渉
    の担当。8億ドルで決着。アジア全体で6000億円強の賠償
    
    日本工営社長 久保田豊 賠償によって南ベトナムに経済援助をそれは防共
    ベトナム中部の高原に拡がるダニム・ダム、総発電量16万キロワット
    (1964年)1957年の久保田の提案 賠償はかたちが残りかつ経済的効果が
    あがるものがよい久保田豊は戦前植民地の朝鮮に強大なダムを建設した技
    術者。そのとき満州国官僚であった岸信介と親交をむすび、岸の信頼を得
    た。久保田=ゴ・ディン・ジェム会談で賠償協定以前に建設決定。1957年岸
    南ベトナム訪問。南ベトナムだけに賠償金を支払う。賠償金の140億円のう
    ち7割をダニムダムの建設へ。設計日本工営、三菱、東芝、鹿島、間などの
    企業。現在はダニム発電所は国際協力事業団が再び見ている。日本工営の
    当時の技術者神田氏が担当。この30年間でベトナム、ミャンマー、インド
    ネシア、韓国でダムを造ってきた。
    
    日本軍の米の強制供出による北ベトナムでの大量飢饉、餓死という事実。タ
    イビン省では人口の40パーセントが飢饉で死亡。被害者個人には賠償を支
    払っていない日本。
    
    その後久保田豊は賠償で東南アジア各地にダムを造っていった。
    
    スカルノは日本の賠償で経済の自立をめざした。スカルノ=岸会談。インド
    ネシアから日本への賠償留学生。賠償プロジェクト サリナデパート、ホ
    テルインドネシア、独立記念塔 コミッションを日本企業(商社)から大
    統領に支払っていた。賠償をめぐっての汚職?岸首相と商社とスカルノ大
    統領の東京での密談汚職は日本でもインドネシアでもコミッションという
    かたちであった。日本の商社マンは賠償プロジェクトをあさり、価格の水
    増しをするようインドネシア側にすすめた。商社(東日貿易)が歌手根本
    七保子(デヴィ・スカルノ)を紹介。1959年スカルノ夫人に。賠償をきっ
    かけにしての東南アジアへの企業進出。日本は資源と市場を手に入れた。
    軽んぜられる個人補償。
    
    石油危機に対処するためアジアの資源を確保した。1974年1月の田中角栄タ
    イ訪問。学生たちによるはげしい反日運動。「札ビラで人の頬をたたくよ
    うな行為、何から何まで売り込む、タイが乗っ取られるのではないか。」
    年間2億ドルを超える対日貿易赤字でタイは苦しんでいた。大学生の全国組
    織・タイ全国学生センター、これまでの日本の進出は2回、軍事的進出、経
    済進出。1月10日田中氏はタイ首相官邸で学生たちのリーダーと会見。タイ
    全国学生センターの当時のソンバット書記長が代表で質問。1月14日ジャカ
    ルタに到着。反日暴動15日にピーク、日本大使館に投石、日の丸が引きず
    りおろされる。焼かれたり川に投げ込まれた車が200台以上。軍隊も出動。
    11名死亡。逮捕者775名。田中首相は大統領宮殿から一歩もでられずヘリコ
    プターで空港まで脱出。インドネシア大学学生評議会。スハルトの開発か
    学生の民主化か。焼き討ちされたトヨタ・アストラ・モーター(華僑との
    合弁)完成車の輸入禁止。1977年国産車「キジャン」完成。今ではインド
    ネシアの国民車といわれる。工場で指導的な役割を果たしたのは日本への
    賠償留学生


日本ってむちゃくちゃなことを戦後でもアジア諸国に対してやらかしたのですね。戦後賠償といわれる経済侵略の実態がまとまっていると思って紹介しました。アジア諸国との賠償協定が締結されましたが、当時のアジア諸国は開発独裁で、被害国であるアジア側も当時の日本政府も、大日本帝国や日本軍による犠牲者遺族や被害者個人のことは頭の片隅にすらなかったのです。しかし、アジアが民主化しつつあるいま、
アジア各地で従軍性奴隷被害者、ロウムシャ・ヘイホといった犠牲者遺族や被害者たちが預貯金や被害を受けた苦痛に対する慰謝料を求めて、日本政府に対して立ち上がっています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 20:13 | Comment(10) | TrackBack(110) | 各国民衆の大日本帝国侵略・戦争被害情報コーナー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このコーナーの紹介 mumurブルログーーー典型的な馬鹿ブログ右翼を殴り倒してみる。

このコーナーではカテゴリー名の通り、私がネットサーフィンで右翼サイト・ブログ、あるいは右翼的記述を発見し、ここで殴り倒すコーナーです。まず、血祭りにあげるのは、

mumurブルログ
http://blog.livedoor.jp/mumur/
ここの管理人は重症な病気です。

「在日の強制連行は嘘」 朴一教授渋々認めるも、反省の言葉無し
民潭新聞
朴一教授招き在日理解講座 箕面市国際交流協 2006-02-15
http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50376895.html

タイトルのつけ方が恣意的ですね。在日強制連行が嘘ではなく、在日がすべて強制連行でいるわけではないということだけです。もちろん、自発的に来た人や戦後、済州島の虐殺など朝鮮戦争前後の混乱から日本へ来た人もそれなりにいます。しかし、本当に自発的に来た人は少なく、背景には土地収奪、米の強制供出、大日本帝国の政策の失敗によってもたらされた貧困に起因してやむ負えなく来た人が多いわけです。真の”自発”という意味で来た人は数%もいないでしょう。そういう在日韓国・朝鮮人がいる暗い歴史背景を知らずに、恥ずかしいと思いません?
土地収奪という点であれば、ノンポリ氏の資料が詳しいですね。
http://www10.ocn.ne.jp/~war/buyaku.htm
反骨の士である“耕堂”中野正剛は、著作「我が観たる満鮮」(大正四年五月二十八日 政教社)にて、「夫役」の実態をレポートしています。

(略)


而して此道路を開くには、人民の土地を没収し、人民に負役を課せざる可ならず、其困難は警務部長が机上に鉛筆を弄して、直線道路を書くの比に非ざるなり。然れども斯の如き人民の怨嗟は毫も上に達せられず、且又人民の為に苦痛を訴えんとする新聞紙もなし。是に於てか警務部長は軍隊的に其成績を報告して曰く、大田より公州に向ひて直線道路を開く、一路坦々軍隊の通過に対しては、別して便利を興ふと。総督は遂に此れ以上の報告を得る能はず。

大田にて憲兵専制の実例を目撃せし余は、世人の憲兵に対する怨嗟の、決して偶然ならざるを感じたり。然れども更に南下して江景に到り、諸種の事情を見聞するに及びて、余が曩に(さきに)大田にて目撃せしが如き事例は、此地方一円に行はるる尋常茶飯事なるを知り、喫驚禁ずる能はざるに至れり。


人民を強制労働させて、道路をつくるために土地を奪い、このような暴虐に日帝支配下の朝鮮人民はさらされていたわけです。mumur氏はもっと歴史を学習しなさい。アホ右翼のくせに。

再確認しておくけど、朝鮮総連・民潭等の民族団体や朝日新聞等の左派系マスコミは「我々在日は強制連行されて仕方なく日本に住んでいる」と主張し、それを報道してきた。その主張は長年信じられ、在日が日本人を黙らせるカードとして利用されてきた。
また、文化人・言論人・ジャーナリスト等の所謂知識人は「日本の悪行」の具体例として挙げてきた。
その主張には限定はなく、あたかも全ての在日は強制連行の被害者であるというイメージが作られていった。

 しかし、インターネットの普及によりマスコミによる情報統制は有名無実化し、これまで朝鮮人・韓国人が作り上げてきた嘘が全て暴かれるようになった。
すると、朝鮮総連・民潭やマスコミは強制連行「等」と密かに逃げ道を用意し始めた。

ここで、朴一は一歩踏み込み、在日強制連行説を否定した。
この意義は大きい。

しかし、これで許してはダメ。
しっかりとケジメをつけさせることが大事。
ケジメをつけないということは、今後も「大きい声で嘘をついた奴が勝ち」という嫌な風潮を残すことになる。朝鮮半島ではそういう風潮でもかまわないが、ここは日本。しっかりと追及するべき。


管理人は馬鹿ですね。>朴教授は、在日のすべてが強制連行ではないとしながらも
としているではないですか。在日強制連行説を否定したわけではありません。何回も言うように。そもそも、在日韓国・朝鮮人のすべてが(狭義の)強制連行に起因するものではないというのは前々から知られている話です。何を許すだって?しっかりとケジメをつけるのはお前だって mumurさん。
ちなみに 『悲しみの島 サハリン 戦後責任の背景』角田房子 新潮社のp30〜31より引用すれば、

 
 1937年(昭和12年)に始まった日中戦争の長期化と、1941年(昭和16年)からの"大東亜戦争"のため日本の男性の多くが兵役に服し、労働力不足は深刻な問題となった。この対策として日本政府は朝鮮人労働力を確保する措置を講じ、それは次第に強化された。1941年6月に朝鮮総督府内に朝鮮労務協会が作られ、総督府と協会が一体となって、事実上の強制連行がだんだんと増していった。
 国家総動員体制の下で、日本内地では1939年(昭和14年)7月から"徴用令"が適用されたが、朝鮮に対しては民族的反発や抵抗をおそれて控えられていた。だが戦局は悪化の一途をたどり、終に1944年(昭和19年)9月には朝鮮にも"徴用令"が適用され、法の強制で朝鮮人の強制連行が行われることになった。これに対する朝鮮人の抵抗が各地で激化したことは、当時の帝国議会の説明資料にも現れている。
 しかし、"徴用令"の適用によって、連行の強制力が急に増したわけではない。それまでに用いられていた"募集"や"官斡旋"も名称が違うだけで、それを拒むことは不可能の場合が多かったという。これは時期や地域によっても差があった。私が話を聞いた人々の中には、"徴用令"適用の一年も二年も前に連行されているのに、「適用で連れてこられた」と答えた人がかなりある。朝鮮労務協会や警察の末端では適用前から"徴用"という言葉を口にして、絶対命令であることを示していたのではないだろうか。
 "募集""官斡旋""徴用令"によって、どれほどの朝鮮人が連行され、日本の戦争に協力を強いられたのか。それを正確に知る資料がないのは戦争末期の混乱や資料の処分、散逸のためであろうが、朝鮮半島全体で動員計画数約90万、実際の動員数70万以上というのが最低限の数字だといわれている。


というわけで、強制連行というのは、"徴用令"が適用される前から幅広く行われていたことであり、否定することはできません。ちなみに前掲書はサハリンの残留韓国人の戦後の苦境や40年以上も故郷に残した家族と引き裂かれた人々の悲劇を角田房子氏が取材したもので、畑仕事をしているとき、巡査に拉致されサハリンまで連れて行かれたという韓国人の証言もたくさんでてきます。ぜひ読んでください。

ブログのスタイルシート変更

ブログのスタイルシートを変更しました。シンプルホワイトが一番見やすいと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 16:32 | Comment(2) | TrackBack(22) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[AML 5985] 人種差別特別報告者、「慰安婦」教科書記述を勧告

AMLより転載します。

[AML 5985] 人種差別特別報告者、「慰安婦」教科書記述を勧告より、

前田 朗です。

2月16日

先に一部のMLに、国連人権委員会62会期に提出されたエルテュルクさんの
「女性に対する暴力報告書」と、ディエンさんの「人種差別報告書」を紹介しま
した。

下記のサイトに掲載されています。

http://www.ohchr.org/english/bodies/chr/sessions/62/listdocs.htm

このうちディエン報告書(E/CN.4/2006/16/Add.2)に、日本軍性奴隷制に関する
記述がありましたので、紹介します。

ドゥドゥ・ディエン「人種主義・人種差別・外国人排斥に関する特別報告者」
は、2005年7月に来日調査して報告書をまとめています。勧告では、主に、
人種差別があることを公式に認めること、人種差別禁止法を制定することを呼び
かけています。部落差別、アイヌ、在日コリアン、移住労働者などにも言及し、
数多く勧告しています。

パラグラフ59で、「慰安婦」に言及しています。

パラグラフ82で、歴史教科書問題に言及して、少数者の歴史と文化の記述、
「慰安婦」制度の記述を求めています。

59. Finally, concerning the most shameful form of discrimination endured
by the Koreans - the system of sexual slavery of Korean women put at the
disposal of the Japanese military during the Second World War - only in
1991 did the Government of Japan recognize its responsibility in the
establishment of this system. However, issues such as official apology,
compensation and proper education about this tragic historical episode
known as “comfort women” have still not been settled. The Special
Rapporteur was even informed that, starting from next year, school
textbooks will not include any reference to the “comfort women”.

82. The Government should revise history textbooks in order to better
reflect, with objectivity and accuracy, the history of minorities and
the relations with neighbouring countries. The Special Rapporteur
noticed with concern that the parts of the history books dedicated to
the history of the Buraku people, the Ainu, the people of Okinawa, the
Koreans and the Chinese have been particularly reduced, and therefore
urges the Government to proceed to the revision of such textbooks in
order to include a detailed section on the history and culture of these
groups, in the perspective of the long memory of history, the relations
and interactions with the people and communities concerned, and the
origins and reasons of the discrimination to which they were subjected.
Their important contribution to the construction of the Japanese
identity should also be highlighted. Textbooks should also include
explanations of the crimes linked to the colonial era and wartime
committed by Japan, including a recognition of it responsibility, and
for the establishment of the “comfort women” system. The Special
Rapporteur is concerned that decisions on the content of the school
textbooks can be taken locally without any capacity of control at the
national level. He therefore recommends the adoption of a legal
provision at the national level which guarantees that the
above-mentioned minimum content requirements be included in school
textbooks. Moreover, given the fundamental impact of the drafting and
teaching of history in the actual and future relations between the
countries of the region, the Special Rapporteur recommends that, in the
spirit and the scientific methodology of the drafting by UNESCO of the
regional histories of Africa, Latin America, the Caribbean countries and
Central Asia, Japan in consultation and with the agreement of all the
countries of the region invite UNESCO to start the process of drafting
the general history of the region.


またまたすばらしいお知らせです。おそらくどこの日本のメディアでは伝えていないでしょうが。日本の戦争責任を追及する運動は国際舞台の水面下では進んでいます。慰安婦の記述はつくる会の教科書にとどまらず、ほぼ全社の歴史教科書で削除されてしまいました。これほど大規模かつ、日帝の悪行の中では悪質なものが日本の教育現場から抹殺されようとしているのは歴史教育の危機だと思います。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:47 | Comment(14) | TrackBack(14) | 仮称:大日本帝国侵略・戦争加害問題関係諸国会議機構 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[AML 5976] 靖国参拝問題、アメリカの変化

AMLに加入しました。AMLより記事を転載します。

[AML 5976] 靖国参拝問題、アメリカの変化

半月城です。北京放送BBS中日友好関係に書いた文を転載します。
         +++++++++++++++++
  小泉首相は希望的観測からか、国会においてまで「中国、韓国以外に靖国参拝を批判する国はありません」と答弁しましたが、世界情勢には目を閉ざしているようです。
  シンガポールのゴー・チョクトン上級相は6日に開かれた第4回アジア太平洋円卓会議で、「靖国神社参拝問題は日本の内政問題でもあり、国際的な外交問題でもある」として、靖国参拝をやめ、他の戦没者追悼方式を検討するよう日本の指導者に求め、こう語りました(朝日新聞,06.2.7)
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 靖国問題において日本の指導者は、すべての事実に基づいて判断を下さなければならない。事実上日本はこの問題において、外交的孤立状態に置かれている。他のアジア諸国はすべて、米国さえも、この問題で日本側だけについてはいない。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  小泉首相は「首相個人の心の問題」で内外から集中砲火をあび、反抗期の少年のようによけい意固地になっている現状では「すべての事実に基づいて判断」することを首相に期待するのはしょせん無理かもしれません。
  その猪突猛進ぶりたるや、アメリカのブッシュ大統領に対してすら「あなたが行くなと言っても私は行く」と告白するほどだったようです(毎日新聞,06.2.3)。
  昨年のブッシュ大統領来日について、私は成果のひとつとして「金閣寺を見てもらったこと」と書きましたが、日米首脳会談の話題のひとつが靖国神社だったなんて、これこそ一徹な小泉「外交」の神髄ではないでしょうか。

  ゴー・チョクトン上級相は「米国さえも、この問題で日本側だけについてはいない」と語りましたが、どうやらアメリカは「ついてはいない」どころか、今や警戒心をもち、マイナス面を心配しつつあるようです。それを毎日新聞(1/30)はこう分析しました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
小泉外交・光と影/米国、「遊就館」を注視
 ◇皇国史観、靖国不信広がる
 ・・・・・
 旧敵国であり、今は同盟国である米国の内部に微妙な変化が生まれている。靖国神社に併設されている戦争博物館の、第二次大戦に至るルーズベルト政権の対日政策や米軍主導の戦犯裁判を批判する展示や映画の強調が、米国を身構えさせている。

 「yushukan(ユーシューカン)」を話題にしたのは米共和党穏健派の重鎮で、昨年2月まで駐日大使を務めたハワード・ベーカー氏だった。

 「あれでは日本が戦争に勝ったみたいだ」

 離任に先立って自民党の有力議員を訪ね、日中問題について意見交換した時のこと。ベーカー大使は苦笑を交えて不満を伝えた。

 靖国神社が創建130年記念事業の一環として戦争博物館「遊就館」の大改修を終えたのは02年7月。改修後は皇国史観が一段と強調された。日米開戦は資源禁輸で日本を追いつめた米国による強要であり、日本は「自存自衛」と「白人優越世界打破」のために立ち上がったという歴史観が整然と示された。売店には日本の戦争責任を問い続ける中国を逆批判する書籍類が平積みされ、政治性を強めた。当時既に80歳に迫っていたべーカー氏は自ら足を運び、確かめたのだ。

 旧日本軍による真珠湾攻撃から64年にあたる昨年12月7日(日本時間8日)。犠牲者を悼む半旗が掲げられたワシントンで、米国のアジア問題専門家たちが訪米中の前原誠司・民主党代表を招き、朝食会を開いた。

 日中両国のナショナリズムが話題になったこの席で、昨年1月までブッシュ政権の東アジア外交担当官だったジム・ケリー前国務次官補が「靖国神社参拝によって、日本の首相が yushukan の考え方を肯定していると受け取られないか」という懸念を表明した。

 遊就館を知らないという知日派外交官は、まずいない。東京勤務が長かった古株の一人は今月中旬、匿名を条件にワシントンで毎日新聞の取材に応じ、こう語った


 「日中間に歴史解釈の違いがあるというだけの話なら米国は無視するが、yushukanは無視できない。真実を語っているとは思えない。首相が戦没者に敬意を払うのはいいが、問題は yushukan とのかかわりだ」

 ポール・ジアラ元国防総省 日本部長も遊就館の展示に対する不満を記者にぶつけた。

 「第二次大戦が他国の過失によるという印象を受けるどころか、日本の戦争が正しいとさえ思わせる高慢な内容だ」

 ジアラ氏は「outrageous(常軌を逸している)」という表現を用いて首相の靖国参拝を批判、「日本の孤立化を招き、ひいては同盟国アメリカまでアジアから孤立する」とつけ加えた。

 ブッシュ大統領自身は靖国参拝を批判していない。だが、足元の官僚や政治家の間で不満が広がっている。日米同盟が根底から揺らぐわけではないが、以前は「日本の問題」として発言を控えていた人々が不満を隠さなくなった。この傾向は、昨年10月17日の小泉首相の秋季例大祭参拝直後から目立ち始めている。

 小泉純一郎首相が就任以来5度目の靖国神社参拝に踏み切った直後の昨年10月20日、米共和党の重鎮、ヘンリー・ハイド下院外交委員長が加藤良三駐米大使に書簡を送った。靖国神社に首相が参拝することに対して「遺憾の意」を伝えると書いてあった。現在81歳のハイド氏は第二次大戦に従軍し、フィリピンで日本軍と戦っている。

 自衛隊のイラク派遣に感謝する書簡を小泉首相に送り、北朝鮮による日本人拉致問題の解決を支援してきたハイド氏だが、A級戦犯合祀(ごうし)の神社に日本の首相が参拝するという事態は黙過できなかったようだ。11月16日、京都にブッシュ大統領を迎え開かれた日米首脳会談は、大統領が「中国をどう見ているか」と切り出し、日中関係をめぐる意見交換に最も時間が割かれた。

 大統領の質問の背景には、米議会内で「いまや日中問題こそアジア最大の懸案」という見方が急速に広がっている事情があったと見るべきだろう。下院は「日中関係悪化が米国の国益を損なう」という問題意識を踏まえて3月にも日中関係の公聴会を開く予定だ。

 東アジアに詳しい下院事務局のスタッフに公聴会が開かれる背景について尋ねると、匿名を条件にこう答えた。

 「アジアで政治的、軍事的危機をはらむ地域といえば朝鮮半島、台湾海峡、インド・パキスタンだが、現在のホットトピックは日中だ」「米国の債券は北京、上海、東京にあり、日中摩擦は米国にも波及する」
 ・・・・・
 議会のみならず、政府内でも中国の勢いが目立つ。ブッシュ政権1期目のアジア外交は知日派のリチャード・アーミテージ前国務副長官が仕切った。昨年2月、後任に就いたロバート・ゼーリック氏はアーミテージ氏が始めた「日米戦略対話」は引き継がず、中国との間に新しい高官協議の仕組みを整えた。

 その米中高官協議の第2回定期会合がワシントンで開かれた昨年12月9日。協議を終えたゼーリック氏は戴秉国外務次官をニューヨーク州ハイドパークにあるF・ルーズベルト元大統領記念図書館へ誘った。

 第二次大戦で旧連合国を勝利に導き、米露英仏中による戦後体制の基礎を築いたF・ルーズベルトの記念館は、靖国神社の遊就館とはまったく相いれない歴史観で貫かれている。折しも真珠湾奇襲記念日から2日後。米中の両高官は時間をかけ「恐怖からの自由」と銘打たれた記念館の展示を見学し、内外に蜜月をアピールした。
 ・・・・・
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  小泉首相の「常軌を逸している」靖国参拝に端を発する日中関係悪化をアメリカは国益を害する要因として本気で懸念しているようです。日中関係の悪化が自国の国益やアジアの安定や繁栄を害するという認識はシンガポールにも共通しているようで、先ほどのゴー・チョクトン上級相はこう続けました。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 中国が日本との摩擦を図っているとは思わない。中国の現在の第一課題は、経済の転換期において国内の安定を保つことだ。中国は経済成長と国内発展に集中するため、平和な外的環境を必要としている。
 中日関係は靖国問題や歴史問題よりも重要だが、歴史問題は中日関係が前進する前に解決されなければならない。中日友好は両国の利益に合致する。安定した堅固な中日関係はアジアの未来と東アジアの復興にとって極めて重要だ。
       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  中国はゴー上級相の読みどおり「安定した堅固な中日関係はアジアの未来と東アジアの復興にとって極めて重要」との認識から中日外務次官級会談を再開しましたが、基本的に中日関係が前進するためには「歴史問題」の解決が必至です。そのためには、まず小泉首相の outrageous な靖国参拝を止めるべきではないでしょうか。

(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

まさにすばらしいニュースです。このまま靖国神社参拝を続ければ、大日本帝国侵略・戦争加害問題関係諸国会議機構の事実上の成立も近くはありません。戦争を肯定し、美化するかごとくの靖国神社は第二次世界大戦に関連したすべての国にとって癌です。小泉ファシストや右翼勢力はアジアから孤立するということを思い知ることになるでしょう。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:39 | Comment(10) | TrackBack(0) | 仮称:大日本帝国侵略・戦争加害問題関係諸国会議機構 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

右翼どもについて思うこと

傍では右翼どもはニートとか、フリーター、オタクが多いとか言われているが、私からすればどうでもいいこと。しかし、日帝の犠牲者や被害者の魂の尊厳を侮辱し、かつての中国や韓国といったかつての被害国民の感情を逆なでする人間の顔をした生き物。このような生き物が
この世に生を受けてのうのうと生きていられる世の中が信じられないでいる。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:19 | Comment(12) | TrackBack(62) | 日々の雑感ならびに考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お勧めの良識的サイトを紹介します。

順次追加予定!勝手にリンクさせてもらいますが、もしリンクが嫌という方があれば、コメントもしくはトラックバックで送ってきてください。

★ブログ
不条理日記
http://himadesu.seesaa.net/
Click for Anti War
http://d.hatena.ne.jp/claw/
STOP THE KOIZUMI
http://nokoizumi.exblog.jp/
旗旗 - 草加耕助のお部屋
http://hatahata.mods.jp/index.php
カサナグのフィリピン(従軍慰安婦)
http://blog.so-net.ne.jp/tamashige/
サブカル雑食手帳
http://yakenn2002.seesaa.net/

反米嫌日戦線「狼」(美ハ乱調ニ在リ)

http://anarchist.seesaa.net/
Apes! Not Monkeys!
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/


★通常サイト
日本の戦争に関する個人的なメモ帳 +α
http://www10.ocn.ne.jp/~war/top.htm
李刊 中帰連
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/
日本の現代史と戦争責任についてのホームページ
林博史研究室
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/
日本の戦争責任資料センター 
http://www.jca.apc.org/JWRC/index-j.html
AML オルナティブメーリングリスト
http://list.jca.apc.org/manage/listinfo/aml
南京事件 小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/
南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
とほほのとほほ空間
http://t-t-japan.com/tohoho/
半月城通信
http://www.han.org/a/half-moon/

★掲示板・その他
Keep9
9条守ろう!ブロガーズ・リンク
http://www.our.sakura.ne.jp/9/
問答有用
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_index
思考錯誤
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?id=sikousakugo
オルタナティブ@政治経済
http://yy31.kakiko.com/x51pace/
戦争を語り継ごう―リンク集―
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/

posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:14 | Comment(22) | TrackBack(12) | 右翼勢力と戦う良識的サイトの紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月14日

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part10

part9の続き。カリンボンで敗戦を確かめた木村氏はホームシックに陥る。自己への信頼が木っ端微塵に打ち砕かれて、大日本帝国が占めていた空虚な空間に落下すると同時に、ホームシックに落ち込んでいくのであった。木村氏はこの空虚さは故郷に戻らない限り癒されることはないと感じていた。しかし、第一に金がないし、仮にあったとしても、横浜もしくは神戸行きの船に乗りこむことはできなかった。そんなことをすれば、スパイ容疑で逮捕されるからだ。敗戦国のスパイとはいえ、スパイである。ダンザンとツェレンツォーも共犯として捕まるかもしれない。その後、木村氏はその後新聞社に就職。木村氏は大日本帝国のスパイであり、敗戦後は”祖国を失ったスパイ”となった。その後、チベット人の民族主義者とも交流し、英国情報部のために働く。東チベット探査行やチベットの反政府活動・改革活動家にも従事することになり、この本の本質の部分でもある。しかし、この部分は日帝悪とは本質的に関係ないので省略する。エピローグのほうで木村氏が母国である日本の現状にふれ、彼の「戦後責任」に言及する部分がある。p340より

 
最後に母国である日本の現状についてふれよう。1930年代と現在の日本青年をひき比べてみると、これほど世代間のギャップのある年代は見当たるまい。内モンゴルを発つ直前、私は髪と爪を同封の上両親に別れの手紙を送った。お国のために自らを犠牲にできることを自分はうれしく思う、ここまで育ててきてくれたことに感謝し、その恩に報いることができなかったことをお詫び申し上げる。だが自分は決して金やロマンチックな夢を追い求めてこの任務に出るのではないという文句で手紙はしめくくられていた。物にあふれた快楽主義の今日の社会では、このような手紙が書かれることは決してないだろう。
 ある意味でそれはそれなりによかったのだろう。私たちは自分自身を純粋で高貴な存在とみなしていたが,所詮偽りの大ゲームの中のひとつの駒にすぎなかったのだ。日本の軍部や政府は「大東亜共栄圏」の薔薇色の夢を描いて見せていたが、結局のところ私たちは悪しき他民族征服計画に携わっていたにすぎないことを、私は苦い後悔の念をもって思い出す。当初戦争の残虐さを気づいていたものはほとんどいなかったが、最後まで真実に気づかなかったからといってなんの弁解にもならない。この戦争の最大の悲劇は、日本が敗北したことではなく、我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティを見つけられぬままここまできてしまったことだ。
 

 木村氏自身が大東亜戦争の走狗となって、侵略に加担し、アジアの民衆を苦しめたことを後悔している。アジアを侵略すべきではなく、占領地で自分を含む日本人がとってきた行動はアジアを反日運動に駆り立てて苦しめただけであり、最後までそれに気づかなかったことを反省しているのである。しかし、木村氏がさらに言及するのは我々日本人の戦争後のあり方kつまり「戦後」に対する反省も語っているのであった。確かに木村氏のように自分自身を薔薇色に描き、アジア解放の使命に燃え、理想主義に浸っていた人はたくさんいたであろう。しかし、それも木村氏の言うように『偽りの大ゲームの中のひとつの駒』にすぎなかったわけだし、知らず知らずに他民族征服計画に加担していただけだったというのもその通りである。『我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティを見つけられぬままここまできてしまったことだ』というのもまさにこの通りである。

p341より

 
私たちが学んだ明らかな教訓は、日本人は負けずぎらいだということだ。そのために―決して過去の行為を悔いたからではなく―日本人は戦争と軍部にかかわる一切のことを社会から抹殺しようとした。もちろんそれは大成功した。あまりにもうまくいったので日本の古来の民族的アイデンティティさえ除かれてしまったほどであった。
 私たちはもっとも安易な道を選んだ。米国人がいうところの民主主義を唯々諾々として受けいれ、米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである。日本が世界から羨まれるような繁栄を達成したことは事実である。にもかかわらず我々が世界の大半から好かれず感謝されないならば、責めを負うべきは我々自身である。今日、日本企業は、他人の感情にまったく配慮することなく、自分たちの利益のためだけに過去我々があれほどの苦しみを与えた国々に考えもなく進出し、怒りにであって当惑している。こんなことが起きるのも、我々が引き起こした戦争について反省することなく、民族的アイデンティティを欠いてしまっているからだと私は思う。アジアの人々が我々を見る目と、我々が自分を見る目には大きなギャップがある。それというのも日本人はすでに自分がなにものだかわからなくなっているからだ。このままほうっておけば過去にも味わった孤立状態に再び追い込まれるに違いない。

 なるほどと思う。さすがに木村氏は生の占領地の人々と生に接し、波乱万丈の人生を送ってきたことがある。もちろん、軍部という組織・制度を取り除いたことは正解だった。しかし、戦争と軍部に関わることを何もかしこも日本人は抹殺してしまった。それは間違いである。軍部や戦争の暴力性・非道性・冷酷性、占領地の民衆に対する加害体験や事実、戦争の悲惨さ、苦しかった戦争の生の体験・記憶などの数々が日本の侵略や戦争から得られたはず。このような戦後の教訓や学習に活かせるものまで抹殺してしまったのである。軍部という存在が消えただけで、政治家・官僚役人組織は何も変わっていない。憲法9条改正が進み、米国従属も増し、軍部が果たした役割を新たに誕生した自衛隊と米軍が担おうとしていて、また亡国の危機を歩もうとしているのだ。

p342〜343より
 
大学で教えていることもあって、私は若い世代を観察できる絶好の立場にいる。学期の初めに、学生たちのクラブが新入会員勧誘のため、キャンパスに出店をするのだあ、それを見れば若い世代の混乱ぶりがはっきりわかるというものだ。キャンパスに何百というポスターが貼りだされるが、そこに書かれた英語はほとんど必ずどこかに間違いがある。たとえ間違いがあってもまったく問題ではないのだ、外国人学生を除けば英語のポスターを(その英語が正しかろうとなかろうと)読める学生などいないのだから。これを見れば一般的な日本人がわざわざ苦労して外国語の正しい用法など覚える気がないことがよくわかる。視覚的に「いかした」ポスターでありさえすればいいのだ。これは我が大学のキャンパスだけではなく、日本社会全体にあまねくみられる問題である。そしてこの問題の伝えているメッセージは、「日本語ではものたりない。他の言語にも好奇心をそそられるが、真剣に考慮するほどのものではない」であるように思われる。
 私がみるところ、今日の日本のもっとも憂慮すべき風潮は、発展途上国での日本人の行動である。日本人は欧米諸国へ行くと借りてきた猫のようにおとなしいが、アフリカや東南アジアでは態度ががらりと変わる。日本人はアジアの高度の精神文明にはまったく理解を示さず、そのことは1930年代とまったく変わっていない。ときおり才能と思いやりのある教師や農業労働者、学者(私が若かりし頃、善隣協会にいたような)が出たとしても、当時と同じく彼らの貢献はほとんど理解されない。その昔、軍事征服だけが意義あることとみなされていたように、今日では経済征服だけが大切なのだ。


前半では大学キャンパスで、クラブの勧誘ポスターに書かれた英語の例を持ち出している。日本人は外来語を取り入れたり、日本語だけでは満足せず、英語などをまぜてポスターや看板、パンフレットをつくるのは好きなのである。しかし、使われた他の言語の文法が間違っていようといまいと関係ない、そこに他の言語が使用されいたり、その文があることが重要でカッコイイというものである。日本の過去の帝国主義に喩えるなら、日本本土だけでは物足りないから、他のアジア・太平洋において植民地がほしく、好奇心がそそられるが、そこの原住民の意思や文化、事情を真剣に考慮するほどのものではないということ。
後半の部分では、明治維新以後、アジア蔑視の価値観が出来上がり、現在も続いていることを示す。戦前も戦後も欧米びいきである。第二次世界大戦中は別で鬼畜米英であり、白人さえも蔑視し、大和民族至上思考であったが、敗戦後、米国によって占領されると、戦争期間中のみ持ちえた欧米人に対する敵対・蔑視思想は米国によって排除されてしまった。欧米人に対しては猫のように大人しくなり、欧米偏重が続いている。外国人といえば、欧米人をあげるし、映画・ドラマ、文化、CMにまで及んでおり、無意識のうちにステレオタイプの理想、憧れのイメージを欧米の白人たちに抱いているのだ。それは大日本帝国時代にもいえて、戦争期間中、欧米諸国と対立した時期を除けば、この種の欧米人偏重思想をもっていた。しかし、アジアやアフリカなどの有色人種やその地域に対しては、明治維新以後、一貫して蔑視・優越思想をもっている。なぜならば、植民地にならなかっただけでなく、産業革命を成功させ、他の地域煮植民地をもって、帝国主義陣営に参加した唯一の民族が日本人だったからである。しかし、その帝国主義が破綻した後も、後述の「戦後」責任を振り返ることがなかったために、この種のアジア・アフリカ蔑視思想を受け継いでしまった。確かに産業や技術の面では日本は近代化によりほかのアジア諸国よりも高度になった部分があるし、現在もそうである。アジアは植民地下されていたが、それ以前には多くの文明や文化があったし、植民地化された後も抑圧されながらも高度な精神文明を発達させてきたのである。たとえば、字が書けない、読めない文盲の未開の民族と、現代の都市に住み、読み書きもできて現代の技術社会を享受する文明人とどっちが優秀かという問題につながる。しかし、私は後者の文明人のほうが、前者の未開人よりも優秀だとは思わない。人は人であり、さまざまな個性をもっており、人に優劣をつけるのは間違いである。いろいろと脱線したが、日本人はこの種の蔑視思想を持ち続けている。「戦後」責任を振り返らなかったために、日本は今もアジアを侵略し続けている。ただ、侵略といってもかつての日本軍がやったのではなく、今は企業や財界が主体である。しかし、そのつけはいつか来ると思う。私は右翼が嫌いであり、今も大日本帝国の悪行や侵略・戦争責任を追及し続けているが、日本や日本人に今後同じ轍を踏んでほしくないからだ。しかし、木村氏のいう「戦後」責任、大日本帝国の行った侵略・戦争加害に対する責任を果たし、清算しないと、いつかまた、失敗し過去に味わった孤立・無縁、そして敗北が訪れるでしょう。

 というわけで長くなりましたが、このエントリーを終わります。一つだけ参考になったページを。

木村肥佐生論
http://homepage3.nifty.com/dabohaze/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪シリーズを書き上げるために、き坊の棲みかさんところのモンゴル・ノート(その3) 木村肥佐生論を参考にさせて頂きました。この種のテーマに興味のある方は一読ください。

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part1
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13208784.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part2
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13210164.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part3
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13211549.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part4
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13226122.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part5
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13235043.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part6
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13238032.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part7
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13241409.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part8
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13251888.html
チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part9
http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13257734.html
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part9

part8の続き。ツァイダム盆地より木村氏一行は出発した。木村氏自身熱病にかかり、新疆ウイグル情勢悪化により難しい決断を迫られたのだろう。長い旅の末、ラサへ到着した。到着したころには、戦争は終わった。日本の諜報員としてモンゴル人ダワ・サンボーとなり、内モンゴルの「蒙彊政権」下から出発し、ダンザン夫妻とともにチベットのラサについたのが2年後の1945年9月のことだったから。日本軍は全面降伏したということだった。著者はその状況を信じられず、日本人だと気づいたバーリン・ジンパ氏に導かれ、現地の状況を知るべく、ラサの蒙蔵委員会に向かった。そこでp192より抜粋する。

 
私たちは蒙蔵委員会へ向かった。応対に出た、眼鏡をかけ、にやけた感じの中国人の尊大な話しぶりを私は決して忘れることができないだろう。中国人が上機嫌で話をしてくれる間、バーリン・ジンバが通訳にあたってくれたが、述べられた事実を和らげることはできなかった。「そのとおり。日本は負けたのだ。無条件降伏でね。今では国民軍が日本全土を占領している。これから奴らは我々の支配下に入る。奴らは支配されるとはどんなものだか身をもって学ぶのさ。もちろん米国軍も何個隊か日本に入っているそうだが・・・・」。激情に駆られてなにか口走り、自分の正体を暴露する前に、バーリン・ジンパに磯かされるまま私はその場を去った。

当然激情にかられるだろう。モンゴル人から生の日本批判が聞けるほどいかにモンゴル僧に"偽装"していたとはいえ、信じていた国が敗れて、しかも無条件降伏で国民党軍が全土を占領していると聞かされれば。蒙蔵委員会を訪れた後、さらに正確に情報を知るべく英国代表部にも訪れた。英国代表部のチベット系シッキム人もさしたる情報はもっていなかったが、「日本はたしかに無条件降伏しました」と告げた。さらには状況ははっきりしないが、都市ひとつを一発で完全に破壊できるだけの新型爆弾の話もそこで耳にすることになる。p192〜193より

 
バーリン・ジンバの慰めの声もほとんど耳に入らず、戻るべき国すら失ったのではないかという疑念が頭の中を堂々巡りしていた。子供の頃から「皇軍は退却することを知らず」とたたきこまれてきた私である。植民地支配にいかに失策があろうと、個々の高級官僚がいかに貪欲な表情を見せようと、われら一兵卒は天皇の地にひとりの敵兵も足を踏み入れさせてはならないと堅く信じ込んでいたのだ。意気消沈しながらも私はただちに次の計画を練った。インドならここから3週間の旅程だ。最悪の場合、つまりこれまで耳にしたことがすべて真実であったとしても、まっすぐビルマをめざせばよいと思った。ビルマならまだ日本軍の占領下にあるはずだから。


この段階では木村氏自身、日本が敗戦したことを受け入れ切れていないのである。まだ期待を捨てきれないでいる。それくらい大日本帝国に対する忠誠心が高く、すごい愛国青年だったことが分かる。
ところで、インド行きの計画のため、お金を工面しなければならなくなった。バーリン・ジンパと木村氏の間で日本軍につながる重要な部分を抜粋しておきたい。p145〜196より

「ナムジル・ダーラマのことを聞いたことはあるかね?」
「東スニット旗チャガン・オボ廟(スム)出の人物かい」
「そうだ。彼は日本側と相当深く関わっていた人物でね。ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者を探しだす計画だったらしい。あなたがた日本人は、政治的目的のためにいつも宗教を利用するんだからたちが悪い。中でもこの計画は最も巧妙なものだった。ジェプツンダンパの転生者を探しだせたなら、内モンゴルから多大な支援を得ることができただろうし、逆に外モンゴル政府にはつきることのない問題を生じさせることだろうな」
 私もその計画のことは耳にしていたが、その結果がどうなったかまでは知らなかった。ジェプツンダンパは言ってみればモンゴルのダライ・ラマであり、一菩薩の化身である。チベットのダライ・ラマと同じく、モンゴルのジェプツンダンパは宗教的・政治的な指導者である。1921年に社会主義政権がモンゴルに成立すると、ジェプツンダンパが反対運動の要になる怖れがあると素早くみてとり、次代の転生者の捜索を禁止した。ダライ・ラマ13世が共産主義と名のつくものをまったく信用しなくなったのも、外モンゴルのこの政策があったからである。。そかしそれ以外の外モンゴルの宗教政策はきわめて穏当なものであった。少なくとも、1930年代に反乱が発生することを期待して日本軍が密かにモンゴルの僧院に武器を運びこむまではである。この一件が露見すると、一斉に宗教弾圧の嵐が吹き荒れ、外モンゴルの僧院の大半は閉鎖の憂き目にあった。それと同時に大量の難民が南方に流出した。難民の指導者の中でも最も重きをなしていたデロワ活仏(ゲゲン)に出会ったことがあった。日本側がモンゴル最高位の活仏の転生者の探索のためにチベットに送り込もうとしていた人物がこのデロワ活仏(ゲゲン)であったのである。バーリン・ジンパが会ってみるようにすすめたナムジル・ダーラマはデロワとともにチベットへ向かった人物だった。私はバージン・リンパにその後2人に何が起こったのかを訪ねた。
「日本軍はこの使命のためにふんだんに金を支給してくれたそうだ。デロワは自分の宗教上の使命さえ達成できれば、金の出どころは問わないという態度でね。日本人はやってきてもいずれは去っていく。だが仏法の光だけは永遠だというわけさ。2人は海路カルカッタに渡り、ダージリン経由でラサ入りするはずだった。ところが内モンゴルの国民党のスパイが重慶に通牒し、情報がそのまま英国に流れたため、デロワ活仏は香港で足止めをくらった。香港に船が停泊中、英国側がデロワを拘留してそのまま国民党に引き渡したそうだ。国民党は活仏を重慶に軟禁しているが、弟子をとるのは自由なため、いまじゃモンゴルとチベット全土にまたがる一大情報網を作りあげているとか。国民党の監視下にあっても、張家口からラサに至るまで何が起こっているのか一番よく把握しているのは彼だという噂だね」
「デロワが重慶で拘留されているのに、ナムジルはラサで何をやっているのかね」
バージン・リンパは笑った。「デロワの部下がラサで何をやっているかだって?とにかく用立てられた大半のお金とともにナムジルは香港で見逃され、せっかくのラサ詣でをあきらめる手はないというので、ナムジルはそのまま旅をつづけることにした。いまじゃここラサで日本軍の金をもとでに、金貸しをやっている。金貸しらしく抜け目はないが、好人物らしく、非道なことはしないそうだ。いってみれば何もかもデロワのためにやっているわけだしな。あれだけの金を託されているのに生活だってごく質素だ。別に金を増やそうという気はないようだ。あんな金貸し商売をやって指の間から金がこぼれおちていかないだけでも誉めてしかるべきだろう」・・・・・・


この部分では、日本軍がダライ・ラマと同じモンゴル人の宗教的・政治的な指導者を利用しようとしていたことが明らかとなる。外モンゴル侵略のためにまず、日本軍は密かに僧院に武器を運び込み、過激な外モンゴル社会主義政権の弾圧を引き起こしたこと。難民が大量に発生し、熾烈な弾圧を続ける社会主義政権からのモンゴル民衆の解放と外モンゴル侵略の言い分ができる。また、外モンゴル政府を困らせるために、難民の指導者の中で、最も重きをなしたデロワ活仏というのをチベットへ送り込み、ジェブツンダンパの転生者を探し出そうとする。外モンゴル社会主義政権を揺さぶることにつながるし、転生者の発見の功績を日本軍が握り、モンゴル人の支持を得て、モンゴル侵略の偉大な大義名分ができるというわけである。まあ、国民党スパイの通牒により失敗し、日本軍の金は金貸し業に使われているのだが。失敗して幸いである。徳王の例を出すまでもなく、転生者ジェプツンダンパを一時的にモンゴル人の皇帝として利用したのち、実権を日本人が奪い、操り人形となり、統治機構が完成すれば、日本の侵略遂行のためにモンゴル人は奴隷化されるのだから、失敗してよかったと思う次第である。

 インド仏跡巡礼を強く希望しているダンザン夫妻とともに、木村氏はラサ見物もそこそこに、初めてのヒマラヤ越えをしてインドに出る。インドのカリンボンを訪れた。ラサのモンゴル人仲間から紹介されていた外モンゴルのダルマ氏を探しにいった。ダルマ氏の家に到着した。ダルマの家には、グル・ダルマという名のブリヤート・モンゴル人の僧侶が同居していた。腰を下ろして、木村氏が内モンゴル東スニット旗であると自己紹介すると、たちまちグル・ダルマに祖国の解放を祝されることになる。その会話部分を抜粋する。p202より

 
私が内モンゴル東スニット旗出身であると自己紹介すると、たちまちグル・ダルマに祖国の解放を祝された。「安心しなされ。戦争は終わりましたぞ。盗人どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ」
「戦争は本当に終わったのですか?」私は懸念の色をあらわにしないように尋ねた。「ラサでは噂でしかわからなくて」「日本人はみな故郷に送りかえされとります。これから日本は外国の統治下に入るとか」。ごく実際的な口調だったが、ラサの中国人官吏から満足げに聞かされた時よりもショックだった。かつて日本人が占領地の人間を扱った時と同様の扱いを、今度は日本人が受けるはめになるのだろうか。
「どこでそんな話を聞いたのです?」
「インドは近代国家ですからな、世界各地の出来事を知る手段はたくさんありますわい。新聞もあれば、ラジオもある。映画だってありますぞ。映画に行ったことは?」
「ありません」と私は嘘をついた。
「ならば、今晩一緒に見に行こうじゃありませんか。映画の前にニュース・フィルムを流すんです。それを見れば、日本人がどんな顔をしているか分かるというもの」

 木村氏はそうとうショックを受けたようである。これ以上何もしたくないというので宿に帰った。晩方、グル・ダルマが木村氏をフットボール場近くの映画館に連れていった。そこでニュース映画をみて、敗戦の事実を直視することになる。p203〜204

映画へ行くのは張家口以来初めてのことである。ニュース映画が始まった時、闇が私の外見を覆い隠してくれることを感謝せずにいられなかった。
 映し出されたのは廃墟だった。英語のナレーションはほとんどわからなかったが、展開されるシーンをみればいわんとすることは明らかである。最初に映しだされたのは完全に焼き野原になった東京を航空撮影したものである。形を留めているのは皇居だけだ。かつて大東亜共栄圏政策を誇らしげに傲慢にぶちあげた東条英機首相は自殺未遂、米軍のMPの傍らにあってひときわみすぼらしく、萎縮して見える。それに続く場面では、日本兵が日本兵としてはありえざる行為を行っていた。自ら武器を敵軍に渡して投降していたのである。その時どっという歓声が映画館に侵入してきた。「グルカ兵がビルマから帰還してきだんですよ」とグル・ダルマが私の耳に囁いた。「ビルマの戦闘を戦いぬいたのはほとんどがグルカ兵ですからな」
 ニュース映画のなかでも最悪だったのは、焼け野原になった都市の貧困さであった。ボロを着た人々が必死になって廃墟の中を行きぬこうとしている。日本が誇る新しい工業文明はどこへ行ってしまったのだ?植民地による領土拡張の成果として「日本人全員にもう一杯のご飯」が約束されていたはずなのに、あれはどうなっていまったのか?私とてその謳い文句を信じてモンゴルに脚を踏み入れたというのに。
 目には苦い涙が浮かび、混みあった映画館に息苦しさを覚えたが、中座のための口実をもうけるエネルギーさえ残っていなかった。幕はおりた。噂話かプロパガンダか悩む必要ももうない。続いて長編映画が上演される間、私は茫然として座っていた。スクリーン上では、着飾った米国の男女が恋の駆け引きを行っていたが、私の目には別のシーンが映じていた。張家口でリキシャひきの苦力(クーリー)を打倒する日本軍士官。道端で中国人を侮辱する日本の交易会社の雇い人。日本軍が中国の農村で何をしたのか、私は知りすぎるほど知っていた。中国軍が逆に日本を占領したのが本当なら、日本への復讐もそれ相応のすさまじいものになるだろう。

こんときに木村氏の戦後がはじまった。この映像をみて日本が完全なる敗北を遂げたというのを認めざる負えなくなるのである。木村氏が「恥辱と苦悩」の中で考えたことが木村氏の半生をしめしている。自分がこれまで気づくことのなかった日本軍や日本人のアジア民衆に対する蛮行、そして、アジア・太平洋地域の多くを武力によって占領して支配し、徹底的に搾取してきたこと、そして中国軍が逆に日本を占領したのが事実なら、それ相応のすざまじい報復をされている光景が木村氏の頭の中で広がっていたに違いない。
 噂にはこれまで聞いていたことだが、これほどはっきりと敗戦の事実を告げられては心の整理がつけられなかったようである。カリンボンの通りをあてもなくさまよい。恥辱、ぶつけようのない怒り、心の中にぽっかりと穴があいたように病んだ状態になっていた。木村氏は宿に戻った。そのときから引用する。p205〜206より

その晩はろくに寝つくことができず、翌朝は早く起き出した。そのまま町の後にある丘に登って大岩を見つけ、ひがな一日じっと腰を下ろしていた。何かを考えるどころか、恥辱と苦悩の波がひたひたと押しよせてくるのを感じるのみ。それからの一週間というもの、私は毎日のようにこの岩のところに来ていた。目の前には深い峡谷があり、峡谷の向こうは隆起してシッキムの麓になっている。その彼方には、カンチェンジュンガの雪を冠した峨々たる山容があった。周囲には、ヒンドゥ教や仏教寺院が散在する小さな町がひろがっている。キリスト教の教会やヨーロッパ製の絵本にあるような石のコッテージも見えた。そんな光景も私にとっては何の意味ももたなかった。かくも平和で静寂にみちた場所がインドの片隅にあるとは。祖国日本が敗北を喫し、破壊され、苦しみをなめている最中だというのに、どうして自分はこんなところに安穏としていられるのだ?
 日本人は命令とあれば盲目的に、考えもなくそれに従うことで有名だが、モンゴルへ行く前の私は、自分はそんな同国人とは違うと自負していた。だが今ではそんな自負心も何の役にも立たなかった。いやもっと始末に悪い。私はこの敗戦の恥辱を前もって予期してしかるべきだったからだ。「大東亜共栄圏」の幻想は私たちの足元に崩れ落ち、その実態を曝け出した。1930年代に内モンゴルの蒙政会会議に出席した内モンゴル人の言葉がおのずと脳裏に甦った。「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけて日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海の中に叩きだすだろうよ」。彼は正しかったのだろう。占領地の人間と友情を結んだ日本人もないではなかったが、一般論を言えばあれほど過酷な統治を強いた相手から忠誠を期待できるはずもなかった。
 人間が自分の存在感を少しでも味わうためには、ひとつの集団に属する必要があると言われる。あれこれ言っても私の人生は全治全能の天皇陛下の保護のもと、日本という国家に属しているという仮定のもとに成り立ってきたのだ。それを自己欺瞞と呼びたいなら、呼ぶがいい。いずれにせよ、すべては終わった。心のなかにぼっかりとあいた穴を埋めるものはなにもない。モンゴル人のふりをしてみても所詮私は偽モンゴル人にすぎない。モンゴル人が第一に忠誠を誓うのは宗教であって国家ではない。


長い葛藤の末、一定の帰結に達したことが読み取れる。「蒙政会会議」に出席した男の日本批判はpart8の部分で触れている。大日本帝国によって木村氏も洗脳されていた。一般の日本人よりは草の根の民衆の声を聞き、良心をもっているはずだが、ここまで敗戦の事実を突きつけられ、ショックを受けないと気づかないものなんかなと思ったりする。木村氏は天皇制国家が崩壊したことを知り、帝国主義も天皇そのものも自分が世界に出て行く根拠にはなりえなかったことをようやく悟ったのだ。ものすごく哲学的だが、このことは敗戦のとき、日本人ならみんな心に問いかけなければならないことなのだろう。国家と集団とは何なのか・・・?
part9は終わりとし、続きはラストのpart10で
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2006年02月13日

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part8

part7の続き。part8では西北行きに出発し、各地で大日本帝国の悪行を耳にすることになる。このことを中心に扱いたい。
 木村氏とダンザン夫妻の3人はモンゴル僧に偽装し、青海省のクンブム僧院をめざして出発した。クンブム僧院はチベットとモンゴルの文化的国境に位置する大僧院である。ただし、そこへ到着するためには前途に待ち受ける内モンゴルと寧夏省の国境を突破しなければならなかった。厳重に監視された国境を渡り、国民党、外モンゴル、イスラーム軍が巡回する砂漠の中におりていかなければならない。イスラーム軍は蒋介石の中央政府に形ばかり従属していたが、独立精神にとんでおり、国民党の傅作義は日本軍と戦うことよりも多くの時間を費やしている。またカザフ人やチベット人の盗賊のことも考慮に入れておくほか、この国境地帯にはありとあらゆるスパイがいるため、実際のところだれも信用できるわけがないのである。出発して12月15日、荒れ狂う雪嵐の中、大日本帝国の最前線、山峡のハンガイヌージにあると特務機関に到着した。特務機関長に面会するために、部屋に通された。p57より引用する。

 
案内された部屋には、吉沢特務機関長と、砂原、吉永両氏がストーブを囲んでいた。内モンゴルのこんな僻地で日本人に会うのはなつかしい限りである。そして日本人に会うのもおそらくこれが最後になるだろう。
 これまでは名目上にしろ、日本軍の支配地域に身をおいていたが、これからはまったく状況が変わってくる。3人は薄暗いランプのもとに地図を広げて、寧夏省境の中国軍と外モンゴル軍の配置状況を説明してくれた。日本勢力は寧夏省境までだ。その南側は傅作義中央軍、西側は馬鴻逵イスラム軍、北側は外モンゴル軍が固めていて、国境警備兵が絶えず巡回している。彼らに共通点があるとすれば、こぞって日本人を憎んでいることだ。もしここで捕らえられれば、彼らも容赦しまい。

 国民党の中央軍、イスラム軍、外モンゴル軍はお互い仲は当然よくはないが、共通していることは日本人を憎んでいることである。それは当然である。大日本帝国がこの地にいることはおかしいし、大陸でのおぞましい蛮行を考えれば、3つの軍の兵士の中に日本軍によって身内を殺されたりして恨んでいる人がたくさんいて反日感情に燃えているのは当然の帰結である。
 著者らは巡礼僧に変装したのは、どこでも自由に行けるからである。特務の3人は用心するようにいい、外モンゴル国境近くまで北上して安全な迂回ルートをとるようにすすめてくれたそうだ。特務機関を出発し、長城路にそって西に進み、ハナンに到着。木村氏はその翌日旧友のドルジ老と会う予定であった。寧夏省境の警備状況を偵察のため、約3ヶ月前から派遣されていて、完全に信頼している数少ない人間の一人であったそうだ。ドルジ老と会うと2人だけになると、特務機関が以前与えてくれた情報と彼の収集した情報を把握し、境界を越える方法を話し合ったそうである。ある晩、この問題について頭を悩ましているところに、木村氏らが漢方薬(西洋薬をそれらしくみせかけたもの)の術を心得ていることを聞きつけたドンゴという老人が訪ねてきた。息子が苦しんでいるので助けてほしいというのだ。木村氏らは断るわけにもいかず、「水神の怒りをかっている」と老人に告げた。「水神を祭りなさい。さらに息子のお茶にこの粉末薬を混ぜれば、水神の怒りを鎮めることになろう」と行って、鍋ズミで色をつけた粉末の西洋薬を老人に渡した。ここでその老人は占いに感謝し、世間話をはじめる。ここで日本人の悪行を耳にすることになるのだ。p61より引用

 
老人は私の占いに感謝したが、草原に住んでいる者特有の気楽さで世間話をはじめた。彼は一生を寧夏省境で遊牧して過ごし、すべての公道、間道を知っているという。彼は中国人と日本人の、特に後者の到来を嘆いた。日本人のことを耳にするまえは、生活は平和だったし、放牧も楽だった。今では法をふりかざす連中が、私的なことや、宗教や商売にあれこれ口出しするので、どこへ行くにも夜間にこっそり抜けるか、無人地帯を抜けていくしなければならない。


この老人にとって招かれざる客として中国人と日本人をあげているが、日本人のほうがはるかに最悪だったようだ。日本人よりも前に当然中国人はやってきたが、日本人のことを耳にするまでは生活は平和だった。しかし、今では法をふりかざす官憲の横暴がすごく、どこへ行くにも何もするにも苦労するようになったというわけだ。

一応木村氏一行はこの老人に省境を超えるための道案内を頼んだ。数時間のうち、薄暗いうちに出発した。ここでもドンゴ老人は話をする。日帝悪に関するものなので抜粋する。p63〜64より、

ドンゴ老人の話によると、この無人の地が日本軍勢力の最前線で、ここからは中国軍の斥侯の数が日本軍のそれをまさっているのだそうである。「他の軍よりも中国軍のほうがましですわい。少なくともやつらは怠慢で非能率ですからな」とドンゴ老人は唾をはいた。「日本人はどうして自分の国にとどまろうとしないんですかねえ?日本がどこにあるのかしらんが、わしらをそっとしておいてほしいもんだ」


ドンゴ老人の言葉がよくわかる。「日本人はどうして自分の国にとどまろうとしないんですかねえ?日本がどこにあるのかしらんが、わしらをそっとしておいてほしいもんだ」・・・・・韓国であれ、他の中国大陸であれ、東南アジアであれ、占領地に住む人々全員が思う言葉であろう。やがて木村氏は省境を越え、クンブム僧院へ到着する。クンブム僧院での出来事は日帝悪と関係がないので省略する。クンブム僧院には10日余り滞在し、その後ツァイダム盆地に向かった。ツァイダム盆地のジェーン旗というところへ到着した。新彊ウイグルへわたる機会を
伺うが、クンブム僧院で新彊ウイグルの情勢が極めて危険なことを知らされている。蒋介石政府を援助する物資がトラックで運ばれているが、魅力的でカザフ族たちに襲撃される。しかし、その後蒋介石政府の報復はなまやさしいものではなく、カザフ討伐のために大軍を派遣する。そのため、避難民がチベット方面へなだれ込んできた。ツァイダム盆地はカザフ族のたえまない進入になやまされた。実に残虐で家畜をとるだけでは気が済まず、まるで殺すという行為を楽しんでいるらしい。ツァイダム盆地のチャガン・ガオスでイスラム軍から嫌疑がかかった。故郷内モンゴルへ送還される途中の巡礼者の一団から男3人、女1人が護衛数名を負傷させて逃走中であると連絡が入ったようだった。そうした嫌疑によって足止めを食らってしまう。平凡な日々が続く。そのツァイダム盆地滞在中、木村氏はある男から内モンゴルにおける日本支配を非難する声を聞くことになる。その男は、1934年に百霊廟で開かれた「蒙政会会議」に出席したある旗代表の従者として内モンゴルに数年間行っていて、日本占領下の内モンゴルの様子を見てきたという。p151〜153より引用

 
ちょうどその頃、胃病の治療を求めてやったきた男が内モンゴルでの日本人の行動を非難する演説を一席ぶったことも、私の気分をさらに重苦しいものにした。
 「日本人があんたの故郷寧夏になだれこまなくて、あんた幸運だったね」。彼は1934年に百霊廟で開かれた蒙政会会議に出席したある旗の代表者として、内モンゴルに行ったことがあり、日本占領下の内モンゴルを数年にわたってつぶさに見てきたという。「徳王は立派なお方だ。だが中国人と日本人に敵対できるほどモンゴル人の数は多くない。いずれかと同盟を結ぶ必要がある。徳王や各旗の王様たちは、中国にかけてみることにした。しかしほとんどのモンゴル人は中国人を信用していない。そのうち中国軍が弱体化しはじめると、徳王は頼るべき相手を日本に乗り換えた。日本軍を利用して中国人を追い出し、それがすんだら今度は日本人を追い出せばいいという目論みだったのさ。ところがどっこい、やつらは抜け目がなかった。徳王より一枚上手だったのさ。今じゃ徳王は日本軍の手中にあってていのいい操り人形だ。自治政府と称するものの実権を握っているのは日本人だ。やつらはずるがしこい貪欲な民族だよ。あんたがもっと東から来たんだったら、巡礼に出るのも一苦労だったはずだ。なにせゲルの外に足を踏みだすのでさえ、許可証がいるくらいなんだからな」。
 自身の体験からも内モンゴルにはそこらじゅうに、外モンゴル、国民党、共産党のスパイ等がいることはわかっている。だから日本軍が行動の制限を強いる理由もわかる。だが日本軍の占領地から遠ざかれば遠ざかるほど、いったいなんの権利があって私たち日本人はそんな場所にいるのだろうといぶからずにはいられなかった。「日本人が富み太っていく一方で、モンゴル人は貧しくなるばかりだ」と私の患者は話し続けた。「奴らに念頭があるのは、わしらモンゴル人から、肉や皮、木材、馬を絞りとることだけさ。奴らの軍隊に必要な品々を手に入れるために、わしらモンゴル人を奴隷にするつもりなんだ」
 彼の話を聞いているうちに、長いこと思い出しもしなかったある情景が不意に脳裡に浮かび上がった。初めて日本から北京へ行く途中、私は朝鮮と満州の国境を越えた。朝鮮人の若い税関吏が私のスーツをあけながら、名前と目的地を質問した。10代特有の、世界はおれが救うという思いあがりにとりつかれていた私は、モンゴル独立のために闘っているモンゴル人たちを手助けしにいく途中だと答えた。生まれてこのかた日本の統治下で生きてきたに違いない税関吏はそれに対して一言も答えず、当時の私には理解できなかった、だが忘れようのない奇妙なまなざしを私の投げかけた。あれから数年たった今、私はようやくそれが何を意味していたのか理解しはじめたのである。
 訪問者の冗舌はまだ終わっていなかった。「あんな愚かな民族がどうしてわれわれを支配できるのか疑問だね。だが、そう遠くない日に、奴らも足元をすくわれて愕然とするだろうさ。今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海のなかに叩きだすだろうよ」。その晩、私はいつものように炉の西側に横たわったものの寝つけず、ツェレンツォーの乱れがちな呼吸を聞きつつ、過去4年間の生活をふりかえってみた。興亜義塾、実験農場、西北行の計画、そして旅。こうしたことをすべてただ自分のために行ってきたのではないかという疑問が拭いきれなかった。

 
 木村氏はこうして生の声に接することになる。完璧といっていいほどモンゴル僧に偽装して、諜報員として活動する著者は裏側から大日本帝国占領の実情を耳にするのである。生の声を何の警戒心もなくしゃべるくらい木村氏の”偽装”は完璧だったのだ。このようにして、大日本帝国批判を占領地の虐げられた民衆からの生の声を聞くことができた日本人はほとんどいなかったのではないだろうか。有色人種の国として植民地化を免れたばかりではなく、産業革命も成功させ、後発でありながら帝国主義の道を歩んだ日本人であるが、有色人種の中で最も愚かな民族に成り果てたということに当時の日本人は誰一人として気づいていない。戦争を経験した世代ももちろん、現代の若い世代も、明治維新から敗戦にかけてまでの富国強兵帝国主義時代、最も愚かな人種であったということを知らないし、知ろうとしない。まことに嘆かわしいと思う。モンゴル人の批判を聞きながら、木村氏はふと何年も前の満州に渡るための朝鮮半島での旅行の出来事をふと思い出す。こうした批判を聞くことで当時モンゴルを救うと妄言を吐いたときの朝鮮半島での税関吏の表情が日本の植民地の非道性を示す静かなサインであったと気づくのである。日本の侵略責任についても木村氏は敗戦後感じていることをpart9で触れることになると思う。木村氏一行は新疆ウイグル行きをあきらめチベットをめざすことになる。
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part7

part7ではいよいよ『チベット偽装の十年』の本題へ入っていくことにする。ここでも日帝悪につながる記述がある。その前に前置きをしておく。
 木村氏は農場で過ごすも、西方への憧れをいだいていた。あるとき、張家国に休暇旅行に出かけ、彼の上司にあたる善隣協会理事の中沢達吉氏と昼食にでかけた。仕事のことだけでなく、21歳も間近にせまり、兵隊にとられる可能性について話すためだ。高級和食レストランの2階の畳部屋で日本大使館調査室長の次木一氏に出会う。次木氏はモンゴルにおける特務活動の統括者であり、2.26事件のつわものであった。戦争の初期段階にあって、連戦連勝を重ねて全盛期にあった時期であった。日本軍が広範囲に侵略の手を広げようとしていたことを示す記述をp42〜43より抜粋する。

 
昼食後、私の存在は多かれ少なかれ忘れ去られたようだった。当時の私はたったの20歳、二日酔いの辮髪の若者にすぎず、畳の上で日本酒を飲みながら、自分には雲の上の人とも思える実力者2人の高度な会話を耳にしているだけで十分幸せであった。当時の次木氏は仕事に忙殺されていた。戦争の初期段階は日本軍は予想以上の勝利を重ねており、情報活動は時代からとり残されていた。今では日本軍は外モンゴルや中国の西部、はてはチベットにまで興味を示すようになっていた。フフホト(厚和)では研究センターとともに「新疆回教作戦」が動きだし、地元の特務員を募って、キャラバン隊のルートぞいに送り込んでいた。一方ビルマでも「チベット作戦」があわただしく開始されていた。噂によるとダライ・ラマ13世の篤い信頼をかちえたこともある青木文教(今や半分伝説の人となりつつあった)がこの作戦に協力したという。

 外モンゴル、チベット、新疆にまで日本軍は目をつけていたのである。
一応、このときの話題は日本が秘密戦争で見事な一撃を加えたことに終始したようである。この時期、日本はベンガル人の独立闘士スババ・チャンドラ・ボースの協力をとりつけることに成功し、さらにインドから英国を駆逐するためにマレーシア、シンガポール、香港、ビルマで捕虜になったインド人兵士を組織して「インド国民軍」を編成しつつあるという。次木氏は自ら関わる作戦にこれに匹敵するような成功がないことを嘆いていたようだ。
 その後、木村氏はフフホト(厚和)で徴兵検査を受ける。その結果は甲ではなく、第一乙に分類された。木村氏にとっては最悪な状況で、誰一人望んでいない種羊の無為に育てながら待機させられる可能性が高いからだ。ところが著者は少々ついていたようである。p45より

 
私の生活ぶりを知った面接官は感銘を受けたようだった。どうやらこの期間に面接した徴収兵の中でみこみがありそうな者は草原に住む私だけだったようで、面接官は私がまことに有益な仕事をしており、兵士になるより効果的に国に奉仕しているとの言葉をもたらした。もちろん私は自分の労働の成果のたどる悲しい運命など口にしなかった。だが仮に面接官がそのことを知っていても、同時期に面接したものとは対照的にスパルタ式生活をおくっていることを認めてくれたに違いない。今から考えると、1943年1月に「第一乙、公平の八番なれど入営におよばず」という秘密の電報をもらったのもこの面接官の影の力があったからではないか。私は欣喜雀躍し、西北行に再度志願した。

 木村氏の言語および異民族と交わる才能は尋常だはなかったようだ。草原に住んで、日々モンゴル語と触れ合い、スパルタ式の厳しい生活に耐えて、特務員(スパイ)の任務に耐えうる人物は面接官の受け持つ中では木村氏ただひとりだったのである。
 1943年9月に張家口に呼び出されることになる。次木氏の上司にあたる安木偉久太氏と木村氏は話をした。一年以内に帰還すると言う条件と日本大使館に雇われる形で西北行きを許可された。その後、著者らは準備をはじめることになる。ところで、また当時の日本の腐敗を示す記述があるのだが、p49より引用
 後になるまで知らなかったのだが、その間に大使館の役人のあるものが私服を肥やすためにこの西北行を利用しようとたくらみ、ためには旅はさらに危険なものになっていた。彼らは道ぞいにもっと現地の特務員を送り込んでおいたほうがいいと主張し、特務員の訓練と維持費の口実で金を引き出し、その大半を着服したのであった。こうした不運な「特務員」たちはろくな準備もなしに送り込まれ、少なくともそのうちひとりは国境地帯の日本の特務機関の役人に捕まり、私を待ちうけていることが認められるまで拷問を受けるはめになった。

 この記述も当時の大日本帝国というものが骨の髄まで腐敗していたのである。現在でも外交機密費の問題や外交官による莫大な公費のプールなどが行われているが、現在の日本政府は大日本帝国時代と体質は変わっていなと思う。
 いよいよ木村氏は西北行きへ出発することになる。メンバーはダンザンハイロブことダンザンとその妻ツェレンツォー(ダンザン夫妻)と木村氏である。ダンザン夫妻が身のまわりをできるように実験農場にたちよったり、最後の支持を仰ぐために次木氏を待ったことで数週間足止めをくった。次木氏の指示は、道筋に派遣してある現場の特務員を利用して機会をのがさず報告書を送れ、であった。一旦新疆ウイグルに着いたら、「隠れスパイ」(スリーパー)として現地を収集して、日本軍が威風堂々と到着するというのを待つというもの。そのことは大日本帝国が明確に新疆ウイグル侵略を狙っていることを示すものである。最終的に出発できたのは1943年の10月末のこと。しかしこの頃太平洋のガダルカナルでは大敗北していたのだ。とりあえず、国境を突破し、寧夏省に入り、青海省のクンブム僧院を木村氏らはめざすことになった。
 ところで若干西北行きを補足しておけば、木村氏には2つの目的があって、ひとつはモンゴル民族や西北地方へのあこがれというべき知的要求、もう一つは、戦時下の青年として、西北援蒋ルートを探るという国家的忠誠心に基づくものである。(注:南方援蒋ルートはビルマを日本軍が占領したこと、もうひとつはチベット政府が中立政策をとったため、チベット経由のルートが開けなかったことにより事実上消滅した。蒋援ルートは新疆ウイグル(西北地区)を通ってのソ連ルートのみである。また西北地方は共産党根拠地の延安があり、そういった意味でも日本軍にとって戦略的に重要であると思われる)。後者についてはチベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part2http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/13210164.htmlで示したとおり、ばりばりの愛国青年であり、そういうあこがれがあっても国家的忠誠心を忘れることがなかったのである。とりあえずpart7を終了し、続きはpart8で
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チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part6

part5の続きです。ここでは張家口(カルガン)という町の様子を紹介します。張家口という町は日本の傀儡、蒙古連合自治政府(蒙古連盟自治政府)の行政府が置かれたところです。実験農場の草原に身を置く木村氏でも一年の2度の休暇のために、街にくりだすわけです。その様子を紹介したいと思います。
p38〜40より引用

 
いくら、草原での生活を享受し、鉄道の通る町よりも草原に身をおくことを誇りに思っていても、1年に2度めぐってくる休暇ほど心ときめくものはなかった。この時ばかりはシラミのたかったモンゴル服を脱ぎ捨て、貨車に乗って2日の張家口の町にくりだす。張家口は来るたびに拡張し、洗練されていくように見えた。舗装した道路、ガラスのはまった建物、走りまわる自動車―これらはすべて驚異であり、適応するまでに数日はかかった。中国人、イスラーム教徒、日本人であふれかえった通りをみればめまいがした。モンゴル人は数少なく、みぐるしくも場違いな存在にみえた。
 ここにはまた清廉な畳の香りが郷愁を誘う日本宿もあった。日本の着物をきた女性が深々と頭を下げて私を母国語で迎えてくれる。こちらはまるで高貴な人物になった気分である。なにはともあれまず長風呂を楽しみ、何層にも重なった垢とすすをこそげおとす。それからパリッとした清潔な服に着替えて、夜の町でのお楽しみにくりだすのであった。
 こうして夜の町にくりだしてみれば、何故張家口が日本人居住者にこれほど人気があるのかわかろうというもの。歓楽街には若い男が望むすべての欲望と幻想が存在していた。特別な一画をめいざしながら、私は自分が愛唱するトルグート・モンゴル人の民謡の英雄ミンガンになった気分だった。
 
朝焼けの空を金に色どる。
   曙に似た火のような美しさ
 人妻が人目見ると
   帯がひとりでに腰から落ちる
 娘が一目見ると
   胸のボタンがはじける、という
 よちよち歩く婆さんでも
   そんな婆さんでも笑いながらつけ足す
 「おや、お前さんはどうして
   私の娘のころに来なかったんだい」

 魅力の点では伝説の英雄に劣るかもしれないが、私のポケットには6ヶ月分の給料ではちきれんばかりになっており、相手は日本人、中国人、朝鮮人の玄人とよりどりみどりであった(モンゴル人だけはいなかった。土地もそうだがモンゴル人にとって性を売買するなど考えられないことだった)。日本人のある者は、草原からやってきた辮髪に髭姿の私たちに幾分の疑いのまなこをむけたのだが、こうした女の子たちはいつでも私たちを歓迎してくれた。日本人の売春婦は、実家の借金を背負い満州やモンゴルで大金を手にしようとやったきたしたたかなプロだった。
 女の子の好みは単純だった。ポケットで金が膨らんでいさえすれば、客の髪の長さなど問題ではない。私も長生きできるとは思っていなかったから、金を貯めることに興味はなかった。こうした放蕩生活を一ヶ月も続けると、そろそろ草原が懐かしくなってくる。私が本来属するべきは草原だったからだ。
 母国語を同じくする女と臥床を共にするのもくつろげたが、話ができることが最優先というわけでなく、私は専ら中国の娼館を愛好していた(朝鮮の女はあえて避けた。誘拐されたり、だまされたり、強制されて売春婦をやっているものが多かったからだ)。客はまず阿片をすすめられ(これはいつも辞退した)、次に名前を読み上げられるとともに女の子が登場する。そこで客の方もじっくり敵娼(あいかた)を選べるというものだった。日本の娼館では敵娼を写真から選ばなければならない。
 私がなにがしの愛着を抱き、定期的に訪れていた唯一の女性は中国人だった。真冬のある晩、橋のうえで泥酔して寝込んでいる私を見つけて家につれ帰ってくれた女である。おそらく私が凍死せずにすんだのは彼女のおかげにちがいない。後に彼女が金持ちの老人によって苦界から救い出され、結婚したと聞いた時はほっとしたものである。


長く引用しましたが、気になるところを3点だけ。一応娼館という言葉がでてきている。慰安所については残念ながら見当たらない。「(朝鮮の女はあえて避けた。誘拐されたり、だまされたり、強制されて売春婦をやっているものが多かったからだ)」という記述がある。朝鮮では従軍慰安婦として女性たちが強制的に連れ出され、各地の慰安所に送られ、日本兵の性奴隷として扱き使われたとしたとして有名である。こういった普通の娼館の業界でも強制連行が多発していたことが示す。もう一つは「(モンゴル人だけはいなかった。土地もそうだがモンゴル人にとって性を売買するなど考えられないことだった)」の部分で、モンゴル人の土地に性売春産業を持ち込んで、彼らの土地を不浄なものにした大日本帝国の罪は非常に重いものがあると考える。つづいてはアヘンで「客はまず阿片をすすめられ(これはいつも辞退した)、」と著者はさらりと流しているが、内モンゴルの傀儡政府というのは阿片の生産・供給地域として有名。また、内モンゴルにおける売春業界と阿片との密接に癒着していたことを示すものである。阿片の元締めは日本軍、特務機関、自治政府であったことを考ればさまざまな闇の関係が明らかになるかもしれない。
一ヶ月くらい前になるが

旧満州国の中央銀、アヘン専売制へ資金 公文書館に資料
朝日新聞 2006年1月4日付け(リンク切れ、キャッシュ等で確認してください)
http://www.asahi.com/national/update/0104/OSK200601030009.html
 
日本が戦前、中国東北部につくった旧満州国で実施されたアヘンの専売制度をめぐり、同国の中央銀行だった「満州中央銀行」が、生産や販売に資金を提供するなど制度確立に重要な役割を果たしていたことが明らかになった。愛知県立大の倉橋正直教授(中国近現代史)が、中国・吉林省の公文書館にあたる「档案館(とうあんかん)」が保存していた同銀行の内部文書を入手した。同国は建国当初からアヘンを歳入の柱の一つとしており、背後にあった当時の日本のアヘン戦略の全体像を解明する手がかりになる可能性もある。

 満州国のアヘン専売は建国された1932年度に始まった。今回見つかったのは、同銀行が保管していた33年度(同国年号で大同2年度)の「阿片専売特別会計」の一部や、アヘンの原料となるケシの栽培農家に同銀行が費用を貸し出していたことを示す36年(同康徳3年)の資料など計約260ページ。档案館には敗戦時に散逸を免れた同銀行の内部文書が約5万点収蔵されており、その中に残されていた。

 「阿片専売特別会計」は、アヘンの集荷や原料からの製品化を受け持つ専売公署と同銀行との資金のやりとりの記録。首都の新京(現・吉林省長春市)にある公署以外に、国内に計10カ所あった専売支署が各地の同銀行分行や支行と個別に資金を収受していた状況が記されている。

 専売制度発足直後で軌道に乗っていなかったためか、「鴉片(アヘン)作業費 減額 六八四二九七六・一二」などと、年度末に収入見込みの減額を赤い数字で記入した文書が多かった。一方で、「違法阿片」を押収してその分を繰り入れたことによる収入増を「臨時密生産鴉片収納費 新規 三六八四五」と黒字で記して報告した文書もあった。

 各専売支署は地域ごとの販売権を政府指定の卸売人に独占させ、アヘンを流通させていた。35年7月30日付の「阿片収売人並ニ卸売人ノ保証金利息支払ニ関スル件」とした専売公署の通知は、卸売人から預かった保証金の利子を同銀行から各卸売人に支払うよう求めていた。

 1912年のハーグアヘン条約などでアヘンの輸出は国際法違反とされていたが、日本は国内で生産したアヘンを、アヘン戦争以降も多数の中毒患者のいた中国大陸に大量に流通させた。満州国でのアヘン専売は、同国を日本の傀儡(かいらい)政権とみなした国際連盟から厳しい非難を浴びたが、制度自体は敗戦まで継続した。


というニュースが朝日新聞にあった。満州国や蒙古連合自治政府、他の日本の親日傀儡政府にとって、阿片専売制度というんは主要な資金源となった。汚職役人や日本軍の特務機関、日本の当時の商社がハイエナのように群がり、中国大陸の民衆を阿片漬けにして生活を破壊し、貪っていたのである。中国で大日本帝国が阿片で巨利を得て、各々の自治政府の運営や軍隊の資金源になっていたことはあまり知られていない。しかし、公然化することができない重大な国家犯罪であるが、敗戦後徹底的に書類や証拠を消滅させることによって、東京裁判ではあまり追及することができなかったのだろう。私はあまり詳しい知識があるわけではないわけなので、ここまでにしておくが、こんなところでもさらりとこういう大日本帝国の闇が浮かび上がってくるのである。part7に続く。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 18:05 | Comment(4) | TrackBack(42) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part5

part4の続きです。さっそくですがp35〜36を引用します。

 
農場での季節が過ぎ行くうち、私は過酷な環境で生きぬくべく苦労しているモンゴル人の利権と、彼らからできるだけ多くの馬や肉や羊毛をとりあげようとする日本軍の利権が、根本的に相反するものであることに遅ればせながら気づきはじめた。日本人の中にもまっとうな人間はいた。日露戦争からこのかたモンゴルに住み、モンゴル人のことを心底考えている者もいないではなかったが、実際の政策にかかわり、施行するのはそういった人間ではなく、政策決定権は軍部の手に握られていた。役人もほとんどの場合自らの懐を肥やすことに夢中であっ。
 とはいえ役得の多い満州や中国に派遣されるのと違って、モンゴルに送られるのは懲罰の意味合いも強かった。ここは2.26事件に連座して処分をうけた若い兵士や文官が大勢いたが、ものわかりのよい行政官になる気はなさそうだった。相反する利益の狭間で引き裂かれ、無慈悲な日本の軍部が自分と等しく感じられるようになった民を搾取するのを2年間にわたって目にし続けた結果、私の理論は風にはためく礼とう旗よろしくボロボロになり混乱し切っていた。いまだ「祖国を救う」ことを・む一方で、モンゴル人の友人の子持ちもよくわかった。自分たちにはとても容認できない、不合理なまでの頭数の馬を税金として日本の役人に要求されるとモンゴル人が嘆くのは、単なる苦情ではなく、死活問題にかかわるからなのだ。

木村氏は大日本帝国の内モンゴル植民地支配に対して疑問をもちはじめるのです。無慈悲に民を搾取する日本軍。占領地の民(遊牧民)と現場で接して深く交流する立場にあった木村氏の心はその民と軍部の間で揺れ動いているのです。しかし、こうまであっても国家への忠誠は変わっていません。木村氏と長坂氏は実験農場に査定のため訪れた調査官に対して嫌がらせをします。何よりもモンゴルの遊牧民の生活を守るためです。その調査官というのは誰からなく威張りたがり、予想しうる最悪の連中で、臭い「土着民」と生活をともにしている人物に対しては特に優越感を抱く輩でした。家畜に去勢をほどこす時期だったため、不運な家畜がうしなったものをつまみとして出したり、乗ってきたトラックに細工し、乗りにくい逆V字型のモンゴル鞍で馬に乗せて全速力で失踪させたり、集団去勢の現場を見学させたりして、調査官に対していろいろ悪戯をやったりしたということが書いてあった。木村氏らの現場の日本人の興味深い抵抗のエピソードである。そしてp37〜38の記述に続く。
 
 
大人気ない悪戯であったが、なんら大勢に賊響を及ぼすことはできなかった。はるか草原に住んでいながら、「モンゴル独立」闘争がたぶんに道化芝居であり、日本が民族運動の指導者徳王(デムチュクドンロブ)の後押しをするのも自らのもくろみがあるからだと実感するの、こんな人物にあったときだった。
 徳王はチンギス・ハーンの31代目の子孫であり、伝統に連なる貴族の最高位であり、西スニット旗の支配者であった。民族運動といっても中国・外モンゴル・日本で教育を受けた急進的な若いインテリと、それぞれ意見が異なるモンゴル人王侯(彼らのあるものは、北京に住み、保守的かつ貪欲、愚かでさえあった)の間で根深い分裂があった。もう少し時間があれば、徳王も「自治区」を作り上げることができたかもしれない。しかし、搾取をもくろんでいた日本軍にしてみれば独立運動の分裂は理想的といえた。私が興亜義塾で学んでいた頃、徳王の首都は厚和(フフホト)にあり、軍隊――といっても忠誠心のはなはだ怪しげなもと山賊が大部分―――がその地に駐屯していた。徳王の政府(蒙古連盟自治政府)といっても、日本人の吹くメロディに合わせて踊りつづけることによって存在を許されている傀儡政府で、しばらくするうちに
重要なポストはすべて日本人に乗っ取られていた。
 ここでモンゴル人に対して情深い態度を見せておけばよかったものを、日本はせっかくの機会をどぶに捨てつつあるようだった。モンゴル人は中国が農民を草原地帯に移住させるのを、放牧地が破壊され、遊牧民の生存が脅かされるのを、なすすべもなく見守ってきた。だからモンゴル人にしてみれば中国のくびきをふり捨てることを・むもっともな理由があったのだ。ここで日本人が貪欲さをむきだしにすることなく善意をもって行動したならば、全世界から称賛を受ける可能性があっただろうに。


これが内モンゴルの植民地支配の実態である。蒙古連盟自治政府とはいっても、日本人の手中で踊り続けていて、実態は日本の植民地であり、重要なポストはすべて日本人によって乗っ取られていた。満州国と同じである。トップだけ蒙古連盟自治政府では徳王、満州国では清朝最後の皇帝溥儀を担ぎ込んで忠実な操り人形としたわけである。「ここで日本人が貪欲さをむきだしにすることなく善意をもって行動したならば、全世界から称賛を受ける可能性があっただろうに。」という部分は著者の皮肉というべきである。そんなことは大日本帝国の歴史をみれば不可能なのだ。侵略と膨張、天皇体制と暴力性、帝国主義としての程度の悪さを内在させて常に45年の敗戦で敗れるまで成長させてきた歴史をもつ。大日本帝国は膨大なアジア・太平洋地域、中国大陸を占領下に治めるにいたったが、感謝された例は皆無に等しい。そればかりか、各々の侵略現場で残してきた傷は今になっても新たな日本軍の蛮行事例の発見や従軍慰安婦・731部隊・強制連行・労働訴訟などとなって沸いてくるのである。それだけのことをしたのだから、反省しろと右翼勢力には言いたい。
part5へ続く
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 17:14 | Comment(2) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part4

 part3の続きです。
木村氏は実務を行いながらも勉強を続ける時間がたっぷりありました。たまたま訪れる巡回獣医を除けば、日本人は興亜義塾の同期生・長坂芳治氏ひとりだけでした。ただし、どちらかが休暇に出ているか、実験農場の離れた場所で去勢や交配の監督をしなければならなかったので日本語で会話する機会がなく、いやでもモンゴル語が上達するほどでした。農場には、馬、ラクダ、牛、羊の群を管理する遊牧民の6家族が住んでいました。しかし、その誰もが過酷な運命にあい、家畜の数が少なすぎて税金が納まられなかった人々ばかりで、旗の事務所は農場にいる木村氏らにその人らを押し付けたのでした。木村氏は無用とされた土地と人々を受け入れ、2つを組み合わせて生産隊をつくりだし、動物を管理していました。
 実験農場で日々を送る中、事件が発生します。p31〜32より引用

 
そうした人々とはべつの経緯をたどってこの農場に現われた男もいた。彼は後に私のモンゴル人の親友の一人となり、後の旅の道連れになった。男の名はダンザンハイロブ、縮めてダンザンといった。彼は一種の政治犯としてこの農場に抑留されていたのである。これは善隣協会が軍部と鋭く対立した事件のひとつであった。
 ダンザンは包頭の北にあるバダゲル(五当召)・スム(スムとはモンゴル語で僧院、廟のこと)という大廟の僧侶だったが、親孝行の彼は母親のたっての願いをかなえるために僧院を離れてラサへ巡礼へ出た。何年かの旅の後、2人は廟に戻ってきたが、すでにひどく老いていた彼の母は新たな願いを抱き始めていた。故郷東モンゴルに戻って死にたいというのである。孝行息子は母親と連れ立って再び旅に出た。自分は馬に、母親を自分の引く荷車に乗せて。しかし道中彼は日本の特務機関に外モンゴルのスパイの容疑をかけられ、逮捕されてしまったのである。
 たまたまダンザンの子供時代の親友であり、西スニット旗のすぎ北にある僧院に住んでいたドルジが、親友の苦況をききつけて善隣協会のスタッフに泣きついた。ドルジはラサ近郊のデプン僧院で12年間学んだ経験をもつ老僧で、語学学習のために僧院に派遣された若い労働者と親しい仲になってから、善隣協会のスタッフにはよく知られた存在になっていた。彼の訴えは暖かく受理され、善隣協会は石頭の軍部をだだめすかし、時には議論をふっかけて、ダンザンの身柄を保証してなんとか実験農場にひきとることに成功した。長坂氏と私が農場にやってきた時には彼はすでにここにいた。


 実験農場は蒙古善隣協会が管理していました。善隣協会と軍部が対立することになるという記述はp16〜17で見受けられました。引用しますと

 
張家口は万里の長城ぞいの、ほとんど木の影のない荒涼たる峡谷の中にあり、砂塵混じりの風が常に吹きつけている。初めて見たときは、僻地のうち寂しい駐屯地という印象だったた、ここに住む日本人がこの町を気に入っていると知ったときには驚いたものである。その後、4年間にわたってこの町は私の都会生活の基盤となってくれた。半年おきの休暇もこの町で過ごした。私たちの訓練の任にあたる「蒙古善隣協会」の本部もここにあった。善隣協会は、表向きは民間機関で(ただし、興亜院から財政補助を受けていた)、鉄道ぞいに多くの学校や病院を、また北方、内モンゴルの草原にもいくつもの実験農場を経営していた。
 ある意味で善隣協会は後の平和部隊やUSAIDのような米国の団体と比較することもできるだろう。会員の多くは私のように若く、多少ロマンチックで、少なくとも最初のうちは、信じられないほど純真で理想に燃えており、満州やモンゴルなどにたむろする普通の若い民間人とは大違いだった。この地にある青年の多くはできるだけ手っ取りばやく大金をこしらえ、その大部分を歓楽街につぎこむことに熱中していた。学校や病院を設置したのも、日本のイメージ改善以外のなにものでもなかったが、協会に勤務するものの大半は地元の人々と深い絆を培い、結果として軍部と対立することになった。


p16の段階では「結果として軍部と対立することになった」という意味深長な語句の背景は示されていませんでしたが、p31〜32の引用をみれればみえてくると思います。善隣協会とはいっても軍部の機関である興亜院から財政補助を受けており、実質は民間団体ではなく、蒙古における日本の侵略に加担した機関であるわけです。"善隣"とはついているものの、ちっとも善隣ではなく、遊牧民などを利用して、無駄な羊などの動物をつくって、軍需物資を生産し、侵略遂行努力のために尽くす大日本帝国と一体となった組織だと思います。学校や病院を設置したといっても、大日本帝国に対する住民の支持を取り付け、結果的に効率よく日本軍の戦争に動員する軍部の宣撫上の目的の一部分を担ったにすぎません。しかし、日本軍の侵略遂行のための組織である善隣協会とはいえ、軍部と対立する結果となったのは、軍部が石頭すぎて、要求が過大だったということと、もう一方で住民と草の根で交流し、深い絆をもつにいたった人々がいっぱいいたこと、生の占領地民衆の声に接することで軍隊組織や当時の一般の日本人には養いにくかった良心・良識をもてたことにほかならないと私は考えます。

p32にはまた大日本帝国が外モンゴル侵略の目的をもっていたことを示す記述が現われます。
 
さほど 遠くない外モンゴル避難民部落も新たな友人を作るのに適していた。日本人はこうした外モンゴルからの避難民に対してきわめてよくしてやっていた。彼らの故郷を侵略する計画をもっていた軍部は、彼らを協力者として用いるつもりだったのである。軍部はまたモンゴル人民共和国によって禁じられたモンゴルの最高位の活仏ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者捜索計画に資金を提供していた。この地域で働いていたおり、私はよく生粋の外モンゴル方言を楽しむためにこうした部落に馬を走らせたものだ。


続いてpart4に移りたいと思います。part4では農場での日々を過ごすうちに、モンゴル人の利権と日本軍の利権が合わないことにうすうす気づいてきます。日本軍の内モンゴルでの侵略ぶりの一端がだんだんと明らかになってきます。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 13:25 | Comment(7) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part3

著者は瀋陽で国境を越え、列車を乗り継ぎ、北京で同期生と合流した後、張家口を経てフフホト(厚和)に到着。興亜義塾の第二期生となりました。蒙古善隣協会が著者らの教育を受け持ち、そして教室で訓練を受けます。フフホト滞在中、言語だけでなくモンゴルの歴史と経済の基本も軍部の望むままに学習させられました。ところでp18〜19に興味深い日帝悪につながる記述があるので紹介します。
 
モンゴルの遊牧民がどこへでも好きな場所に彷徨っていける自由な民と考えるのは完全に間違っていると知ったのはこの時のことである。17世紀、満州人は清王朝を建設し、遊牧民を盟(チョールガン)、「旗(ホンヨー)」「佐(ソム)」に編成しなおした。遊牧民が自由に移動できる地域を規定するのは「旗」であり、この旗が遊牧民にとっての一種の国家となっている。この制度を導入したのは満州人(彼らも遊牧民である)で、中国のどの王朝にとっても頭痛の種だった、そして一度は中国を征服して王朝をうちたてたモンゴル人のエネルギーを封じ込め、抑制することに成功したのであった。
 またモンゴル人の居住地域がいかに広大かということもわかりはじめた。東は満州から西はヴォルガまで、北はシベリアのブリヤート・モンゴル人の住む土地から内外モンゴルを通って中国の万里長城まで。これらの地域と人々の大半は1921年に外モンゴル、つまりモンゴル人民共和国の中に組み込まれていた。この国を共産主義の圧政から解放するのが我々に課せられた義務の一部であると教わっていた。1930年代後半、外モンゴルで反宗教キャンペーンがおき、大部分の僧院が閉鎖され、難民の流出が起きた事実がしきりと強調された。また、日本側は外モンゴルからの避難民のために草原にセンターを設立し、故郷に戻れるよう協力すると約束していた。ただし、1930年代、外モンゴルの僧院の多くが日本から送られてきた武器であふれかえっており、それが宗教弾圧を招いたことは私たち生徒のあずかりしらぬところであった。

 日本軍がモンゴルで内乱を起こすように、僧院に対して武器を送り工作したということがかかれています。外モンゴルの共産政権に宗教弾圧を引き起こさせ、それを口実に外モンゴルを侵略しようと伺っていたことがとれます。
 話を戻しますが、教室だけでの訓練には限界があり、6ヶ月後実地訓練として、チャガントロガイ・ホラルというチベット式の寺におかれ、モンゴル語の訓練を受けます。少年僧やその地域の子供たちを相手に著者はモンゴル語を学んでいきます。木村氏は単なる日常会話だけでなく、こみいった討論や遊牧民が語る物語までも理解できるようにまでなってきました。しかし、語学研修も戦時経済の犠牲になりました。1942年4月のことです。真珠湾攻撃も終わり、連合国とも交戦状態に入っていました。研修期間が中止になり、内モンゴルの西スニット旗と東スニット旗のザリン廟付属の実験農場に任用されることになります。(旗というのはモンゴルの行政単位)。
 実験農場と実験農場の役割、および著者がでくわした失敗の部分を抜粋してみます。
p28〜30より
「実験農場」という言葉からは、現代風の建物に白衣の技術者が歩き回っているという光景が彷彿させられるが、実際のところ、本部は3つのユルトといくつかのモンゴル式のテントがあるにすぎなかった。外見からは他の遊牧民の幕営地と何らかわりなく、2人の若い日本人労働者のために特にしつらえられた近代設備は皆無だった。
 この農場が他の幕営地と実際に異なっている点は2つしかなかった。一つは私たちが掘った井戸である。両旗は善隣協会に土地をわけ与えることには同意したが、私たちをひやかすつもりだったか、タムチン・タル、「地獄平原」と呼ばれる水もない場所をよこしたのである。さほど深くないところに地下水があるのがわかったが、井戸の壁を支える材料がみつからず、せっかく掘っても砂混じりの土壌が穴を埋めてしまう。私たちは柳の枝を編んで作った大きなむしろを筒状にして、掘った穴に埋め込むことでこの問題を解決した。遊牧民にはこうした井戸はもの珍しいらしく、喉のかわいた家畜をつれた遊牧民が群をなして私たちのもとを訪れるようになった。自分たちが何を企てているのか彼らに知っておいてもらいたかったからである。
 実験農場のもう一つの際立った特徴は、新種の羊であった。実際のところモンゴル羊の改良が私たちの真の仕事だったのだ。鉄道ぞいの学校や病院は目に見える形で地元民に利益を還元したといえるが、こうした実験農場は、まったく異なる目的で始められた。第二次世界大戦開始以前からオーストラリアと米国は日本への家畜類輸出禁止措置をとったため、日本は肉、羊毛、皮といった必需品を欠くようになっていた。そこでこのモンゴル羊の「改良」も、専ら日本の戦争努力のために肉と羊毛を配給しようという試みだったからである。
 私たちは満州方面から手に入れたオーストラリア産の種牡〔メリノー種〕の羊を用いて品種改良を行なっていた。3代目の混血種は在来種よりずっと強く大きく、実際に成人を乗せることもできるほどであった。また羊毛もずっと上質で細かくなった。一代目の混血種の牡ともとの種牡を交配させれば外見上はオーストラリア種とほどんど変わらない種羊ができる。私たちの主要な仕事はこの雑種の種牡をできるだけ多く生産し、おもだった遊牧民にわけ与えることであった。私たちの当初の予定では遊牧民はこの種牡をつかって自分たちの持っている羊を品種改良し、その羊毛を大蒙公司に売却するはずであった。
 これは簡単きわまる計画に思われ、確かに私たちの実験は遊牧民の間に多大な興味を呼び起こした。ところが私たちがつくりあげた交配種の一頭を誇らしげに遊牧民にわけ与えるまではいいのだが、哀れなその羊はせっかくの能力を示す機会を与えられず、あっという間に殺され、食われてしまう。遊牧民たちは誰一人として自分たちの羊の群れにこの突然変異の羊の血が混ざることを望まないようだった。この計画の立案者が考えに入れていなかったのは尻尾だった。モンゴル在来種の羊は外見こそ奇妙だが、タフな生きものである。その際立った特徴のひとつは、平らな尻尾である。これがモンゴル人の大好物、最も美味な部分なのである。遊牧民にしてみれば、この美味たる尻尾のない羊など、瘤のないラクダ、ひづめのない馬も同然である。私たちの種牡は犬のような尻尾をしているといわれた。そんな羊を自分たちの群れに放すぐらいなら、単なる食肉とみなしたほうが安全というものである。おまけにその肉もモンゴル在来種より多少劣っているとみなされていた。


せっかく改良した品種を受け入れられず、食べられてしまったというところですが、典型的に当時の日本人の責任者というものは軍部といい、その一実験農場といい典型的なアホということが分かります。この計画の立案者は遊牧民というものが分かっておらず、どんな羊でも羊に変わりないとしか頭になかったのでしょう。大日本帝国は戦争遂行努力のために、内モンゴルまで侵略し、そこに暮らす遊牧民まで動員し、彼らの生活を踏みにじろうとしました。とりあえず、今日のところはここまで。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 01:37 | Comment(3) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part2

 当時の愛国青年というのはどのようなものだったか、『チベット偽装の十年』より木村氏自身の事例より見ていきたいと思います。

前掲書p13〜14より引用

 
強い国が弱い国を併合し、なおかつ何の責めも受けないのが普通であった時代のことである。こうした行為はよこしまな不道徳な行為であるとか、世界が植民地時代から移り変わりつつあるなどと考える日本人はほとんどいなかった。私自身、日本が世界を――――少なくともアジアを救済しているという誇りを抱きつつ大きくなった。日本が満州を占領したのは私が9歳の時、そして中国を侵略したのは14歳の時だった。学校では国家の政策を批判したり、疑問を呈したりすることはもちろん、それについて考えをめぐらせることも奨励されず、天皇の錦の御旗のもと、我が国の聖なる使命と戦闘の華々しい成果だけがたたきこまれた。冒険心に富んだ無邪気で理想主義者の少年にしてみれば、未来は前途洋々であった。
 帝国主義と軍国主義が蔓延した30年代の日本を背景に理想主義をもちだすのは奇妙に思えるかもしれないが、同じ年代のヨーロッパ諸国の青年たちが「文明化の使命」をかかげてアジアやアフリカも植民地に出かけていったことを考えればさほど奇妙とはいえまい。当時は何かを提供できると考えることはよい口実になったのだ。日本はアジアで唯一植民地化を逃れた国であっただけでなく、明治の大変革期に産業革命を成功させた国でもあった。ならばアジアの他の地域を教え導き、日本と同じような発展をおしすすめさせることによって、西洋帝国主義の悪に対抗できるのではないか?西洋諸国によって踏みにじられた東洋諸国が日本の指導力と励ましをあてにする――これほど自然なことはないのではないか?明治時代、農民の反乱がしばしば起き、政府から酷い弾圧を受けていたことは都合よく忘れ去られ、田舎で農民が貧困にあえぎ、右翼が跳粱していたことは顧みられることはなかった。
九州出身の人間は孫文を積極的に援助することで辛亥革命の初期段階に重要な役割を果たしていた。そんな話を耳にしながら成長した私は、普通の少年なら軍服を身にまとって天皇陛下のために出征したいと願うところを、無私無欲で中国の日本化に協力の手をさしのべた革命家たちと競うことを夢見た。当時の私は愛国主義も理想主義も一枚のコインの裏表にすぎないとは思いもせず、自由と尊厳を取り戻すために闘っている中国を援けることが、結果的には日本のさらなる栄光をもたらすという考えになんら矛盾を感じなかった。


 お前らアジア諸国は遅れて非近代的だから、大和民族が頂点にたって他の黄色人種を指導してやるとでも考えているのでしょうか?あまりにも尊大的で同じアジアの民衆の立場だったら腹が立ちますね。
>西洋諸国によって踏みにじられた東洋諸国が日本の指導力と励ましをあてにする
ふざけんじゃないと。大日本帝国の朝鮮半島侵略、満州侵略、大東亜共栄圏と名のつく大日本英国覇権搾取体制の背景にはこの種の優越感やアジア蔑視感があったことは間違いありません。

p16〜17より引用
 
なにはともあれ、私の夢想は当時の日本の新聞が大々的に書き立てていた新たな闘いにひきよせられていた。内モンゴルの人々が中国の圧政からのがれて独立したがっており、日本が私欲抜きでモンゴルに援助を与えているという(少なくとも私はそう教えられた)。ここに自分が積極的に果たすべき役割があるはずだと私は頭から信じ込んだ。興亜院は軍部のアジア政策と対立する文民の動きを封じこめる目的で設立された。私設の外務省とでもいうべき存在だったが、私は興亜院の政策を詳しく調べてみる必要があるなどとは考えもしなかった。
 私は申請し、4人の志願者とともに採用された。北京にすぐさま出頭し、報告せよと命じられた。これまでそれほど仲がよかったわけではない父がわざわざ下関まで見送ってくれた。下関からはフェリーで朝鮮半島の南岸、釜山に渡る。朝鮮半島を北上した旅のことはほとんど記憶に残っていない。将来を思うあまり、心を現在にたゆたわせるゆとりなどなかった。この不幸な国でわが国がいかなる政策をとっているか、列車の窓の外の光景からうかがい知ることはできなかった。日本名で呼ばれて返事をしなかった学校の生徒たちが殴られ、射殺されていることも、徹底した経済搾取のことも何一つ知らず、また幸いにととでもいうべきか、反日武装ゲリラがいることにさえまったく気づかなかった。実際の話、これほど広大な土地が日本の統治下にあり、自分が今そこを旅していることに感銘さえ受けていたのだ


多くの当時の日本人は当時の朝鮮人などの被植民地・占領民衆の生の悲惨な心の叫びに気づいていなかったのでしょう。それほど、当時の大日本帝国は日本人自身を愛国主義で洗脳していました。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:48 | Comment(8) | TrackBack(122) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子訳にみる日帝悪part1

チベット偽装の十年 木村肥佐生著 スコットベリー編 三浦順子編とわけでこの本は私的にはチベットやネパール、ラダック、シッキム等に旅行して、チベットマニアである在日コリアンの友人からちょっと薦められたもので、チベット問題には関心がなかったし、あまり読む気もしなかったが、驚くべきことにこの著書は大日本帝国が新疆ウイグル、チベット、外モンゴルまで侵略の手を伸ばそうとしており、実にダーティで侵略現場およびその覇権主義において、英米やナチスのそれとひけをとらないくらい程度の悪いものかを示すものである。この本は決して大きくはないと思うが、扱う歴史が大きく、チベット史、モンゴル史、イスラーム史、その時代背景、スパイ・特務員の裏の事象を扱うため、私には網羅することはできない。ここでは日帝悪、つまり大日本帝国の罪行や加害・侵略現場・事項について中心に扱いたいと考えます。
 この本について簡単にいえば、日本軍の特務員として、モンゴル僧になりすまし、新疆省に潜入しようとしたスパイの話です。
 木村肥佐生氏の経歴については省略。陸軍、海軍、航空士官学校へと若者を誘う当時のプロパガンダに心が動いていた純粋な愛国青年だったおうです。海軍経理学校の入学試験も受けました。興亜院支援のもと、中国行きの若者をつのる新聞広告を目にして、若者らしいアジア本土への熱い思いのもと受験しました。合格し、下関から釜山へフェリーで渡り、鉄道で朝鮮半島を抜け、北京を経て張家口へいきます。綏遠(厚和 フフホト)の興亜義塾の第2期生になりました。1940年4月のことです。
ところで興亜院というのは
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2003_11/bookreview_imura.pdf'
興亜院は,日中戦争下日本の対中国政策を実施するために1938年12月に設立され,42年11月大東亜省に吸収されるまでの4年足らずの間存在した機関である。興亜院は日本が支配した中国占領地の行政を統括した機関であり,占領政策立案のために数多くの調査員や技術者を動員して調査を行い,調査報告書を編纂刊行した。

ということらしいです。
本書のp16より引用すれば
 
なにはともあれ、私の夢想は当時の日本の新聞が大々的に書き立てていた新たな闘いにひきよせられていた。内モンゴルの人々が中国の圧政からのがれて独立したがっており、日本が私欲抜きでモンゴルに援助を与えているという(少なくとも私はそう教えられた)。ここに自分が積極的に果たすべき役割があるはずだと私は頭から信じ込んだ。興亜院は軍部のアジア政策と対立する文民の動きを封じこめる目的で設立された。私設の外務省とでもいうべき存在だったが、私は興亜院の政策を詳しく調べてみる必要があるなどとは考えもしなかった。

というわけで、いずれにしろ、興亜院という機関を設けるなど、軍部は大陸侵略やる気満々だったことが分かります。とりあえず、前置きはここまでにしておいて具体的に大日本帝国の悪行の事実について本書より抜粋していきたいです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:25 | Comment(5) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月12日

あまり更新しないと言ってみたものの・・・・・

ブログって結構楽しいですね。この調子でしばらくどしどしと更新しちゃいます。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 23:30 | Comment(6) | TrackBack(44) | 備忘録・その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私が問答有用に投稿した記事を紹介

問答有用
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=38361&range=1にて投稿した記事

死の行進歪曲と文春に抗議 生き残りの米国男性ら
 【ロサンゼルス13日共同】第2次大戦中フィリピンで起きた「バターン死の行進」で生き残った退役軍人の米国男性が13日、ロサンゼルスで記者会見し、月刊誌「文芸春秋」が2005年12月号で掲載した同行進についての検証記事に対し「事実を著しく歪曲(わいきょく)している」として抗議、同誌に謝罪を求める手紙を送ったことを明らかにした。
 同誌を出版する文芸春秋社長室は14日、「いまだ書面が届いていないのでコメントはできません」としている。
 「死の行進」では旧日本軍の捕虜となった米兵やフィリピン人住民が1942年4月、約100キロの行進をさせられ、多数が死亡したとされる。
 記事では、ジャーナリスト笹幸恵氏が昨年10月にほぼ同じ行程を実際に歩いた。たまたま体調不良で炎天下、4日間歩き続けたが、「この距離を歩いただけでは人は死なない」「(旧日本軍の)組織的な虐待という指弾はあたらない」などと結論付けた。
http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=IBR&PG=STORY&NGID=intl&NWID=2006011401001517

「バターン死の行進」記事、ユダヤ人団体が文春に抗議
 【ロサンゼルス=古沢由紀子】日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。
 記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。
 行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
 同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。
 同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm
文芸春秋社は過去に前科があり、月刊誌「マルコポーロ」がナチスのホロコーストを歪曲記事を載せて、抗議され廃刊になったことで有名。発刊している雑誌、「週刊文春」、「文藝春秋」、「諸君」にて従軍慰安婦や南京大虐殺、さまざまな歴史修正右翼記事、ナショナリズム煽動記事、政治家や芸能人などのスキャンダル名誉毀損記事などを出すなど罪深き会社が文藝春秋社である。今回のバターン死の行進に限って言えば、欧米で広く知られており、捕虜を非人道的に扱った日本軍の戦争犯罪として有名である。バターン死の行進の背景には日本軍は「戦陣訓」にある「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」が象徴するように、兵士は投降するものだと考えていなかったことや、補給体制の貧弱さによる薬品や食糧の不足、日本軍は大原則として移動手段は徒歩であり、米軍は機械化されており、ジープで移動などの基本体制の差が背景にあったのである。何よりも許せないのが、歩けない兵士を虐待するとか、列から遅れたり、はみ出したりするだけで殴ったり刺し殺したりする残虐性、まして何の理由もなく、列から引っ張り出して殴り殺したり射殺するのはとんでもないことだし、助けようとした周りのフィリピン民衆に対しても刺し殺したり、射殺したりする非道性である。どうせ南京大虐殺否定の東中野がやるような非科学的で言いがかりのトンデモ検証でバターン死の行進に疑問をさして、日本の国家犯罪に疑問を向け記事を書かせるとは恥を知れといいたい。この抗議を気に、中国や韓国だけではなく、バターン死の行進の現場で100万人以上が犠牲になったフィリピンの方々やアメリカの方々、そしてユダヤの方々が日本の歴史歪曲・右翼問題に目を向けて下さったら、私としては幸いだと思います。日本の右翼勢力や小泉政権、今後小泉後に誕生する日本の政権は歴史・靖国問題の前に四面楚歌という状況を向かえることになればと思います。そうしないと日本の新しい歴史教科書問題や戦争責任問題、靖国問題は解決しないと思いますし、今後の進展を見ていきたいと考えてます。

このカテゴリーについて

このカテゴリーをどうするか考えていたのですが、闘争記録と呼べるものはあまりありませんので、2ちゃんねるなどの他の掲示板に私が投稿したものでよりすぐりなものを紹介したいと考えています。あるいは他人の方でもすばらしい投稿を拾えばここで扱えたらいいと考えています。

「9条守ろう! ブロガーズ・リンク」へ賛同いたします。

憲法9条を守りましょう。

9条守ろう! ブロガーズ・リンク
http://our.sakura.ne.jp/9/
に賛同しました。というのも、右翼勢力の目的と憲法9条改正および軍国主義化は一体です。戦争をできる、武力によって各国へ覇権するような国にしてはいけません。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 12:24 | Comment(13) | TrackBack(9) | 「9条守ろう! ブロガーズ・リンク」へ賛同いたします。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著 明石書店にみる日帝悪および山西省残留日本兵についてpart3

肝心の山西省残留日本兵については、本書にこういう記述がある。
V 私とチャーズ P168〜171より 引用

 
平成5年の朝日新聞の記事の見出しに「中国残留は軍の命令」とありました。防衛庁で発見された資料によれば、旧日本軍首脳部の命令により敗戦後も武装解除されず、日本兵はそのまま1946年の4月まで中国共産党軍を相手に戦わされたということです。軍は「兵士たちは植林作業を指導するのが目的」 「本人の希望による留用者」というウソの書類を作っていました。「中国残留は軍の命令だった」との事実の確認を求めている旧日本軍兵士に対し、日本国は軍命令はなかったと判断しているそうです。
 戦争末期の日本の軍隊は、末端まで命令が届くような組織も機能も失っていたのですから、
「軍首脳の命令」などなかったという旧満州国にいた元軍人もいます。しかし、山西省では太原に帰還した閻錫山が、その後も現地日本軍と合作して共産党軍の進出をくいとめるために戦うという事態が起こったということは『中国の歴史』第9巻に書かれています。同じく平成5年に、横浜の市民が開いた「南京大虐殺」についてのフォーラムでは、元日本軍関係者がこれを裏づける証言をしていました。つまり徹底的な教育で天皇への忠義をたたき込まれた聖戦主義者たちは、どうしても戦いに終止符を打つことができなかったので、山西省で兵士たちの武装を解除させなかったとのことです。驚くべきことに、その人は「南京虐殺で多くの南京市民を殺した上に、戦後4年間中国に残留し、今度は国民党と日本軍とのあいだで秘密協定を結んで、共産党と戦いつづけた」と勇気をもって告白していました。
 戦後いちはやく市民を大陸に置きざりにして本国に逃げ帰った軍人幹部たち。一方であたかも本人の希望だったかのように書類が作られ、強制留用の上、戦後も戦いつづけねばならなかった兵士たち。「満州国」というまぼろしの国を支えた日本軍は、きちんと軍隊を解散させる処置を取らなかったために、戦後も中国の人びとを苦しめつづけたのです。

残留孤児の問題のほかに、中国には山西省において残留日本兵の問題があった。インドネシアの独立戦争で戦った元日本兵のように自発的なものではなく、国家の命令による強制的なものだったようです。戦時中はもちろん、彼らは中国民衆に対して罪行を犯し続けましたが、戦後も国共内戦に従軍し、加害行為を続けなければならなかったのです。軍の幹部は逃げ帰りましたが、末端の兵士たちは強制留用させられ、罪を重ねなければならなかったのでした。ここにもゆがんだ大日本帝国の構図が見えてくると思います。
 ちなみに山西省残留日本兵のニュースで過去にはこういうものもありました。

終戦後「軍命」で中国残留 最高裁 軍人恩給を認めず
神戸新聞 2005/12/17 (リンク切れ、キャッシュ等で確認してください)
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00045468sg200601171000.shtml
 
太平洋戦争終戦後、中国北部の山西省で、軍命を受けて在留邦人の帰国支援のための残留部隊を組織、抑留生活を送ったとして、元日本兵が国に軍人恩給を求めていた訴訟で、最高裁第二小法廷(津野修裁判長)は十六日までに、元日本兵らの上告を受理せず、原告敗訴の二審東京高裁判決が確定した。

 裁判では、原告側が当時の命令文書などを提出し「軍命による残留」を主張。これに対し、被告の国は、厚生省引揚援護局(当時)が終戦後にまとめた資料から、「原告らは志願して残った。恩給の支払いは認められない」とした。

 津野裁判長は上告不受理の決定理由について、「原告側の主張は事実誤認か、または単なる法令違反を主張するもので、上告の規定に該当しない」とした。

 二〇〇一年、元日本兵ら十三人が国を相手取り残留中の恩給を求めて提訴。一審東京地裁、二審東京高裁とも、元日本兵らの訴えを退けた。

 原告らはこの日、東京都内で集会を開き、「的外れの判決だ」と批判。石原純孝さん(80)=兵庫県美方郡香美町=は「われわれは確かに軍の命令で残留部隊の特務団に組み込まれた。原告団も次々亡くなり、今では四人になってしまった。亡くなった方のことを思うと申し訳ない気持ちだ」と語った。

 「全国山西省在留者団体協議会」の藤田博会長(80)=芦屋市親王塚町=は「司法では勝てると信じていたのに」と話した。

 一方、総務省人事・恩給局は「妥当な判決。残留兵の問題については、当時の厚生省で適切に処理されたものと考えている」とコメントした。(横田良平)


酷い話です。これも戦後補償の矛盾の一つです。大日本帝国は朝鮮人や中国人、他のアジアの民衆だけではなく、満州開拓移民をはじめ、日本人ですら、たくさん捨石にして遺棄してきたとんでもない国です。そもそも、『軍命』で残留したと被告が主張しているのに、帰還しなかったため、脱走兵扱いで、恩給が受けられないと国は見なしているのだろうか?とんでもない話である。軍人恩給とは何のためにあるのか考えていただきたい。純粋に国による自国の戦争被害者に対する補償という観点で行うべきだ。軍人とはいえ、国の命令で残留させられ、戦後も戦争をさせられた被害者である。こういう一つ一つの歪みの修正を怠ってきたからこそ、今の絶望的な日本があるのではないでしょうか?

山西省残留日本兵については右翼のサイトしかヒットしなかった。
山西残留の日本兵問題1
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_1.htm
山西残留の日本兵問題2
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/1HA_2.htm
中国山西残留の日本兵問題
http://www.tetsusenkai.net/official/e-mail/120917/godzillaswife/

とりあえず、参考に。詳細を知っている方がいらしゃったら、こちらまで投稿していただけるとありがたいです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 12:06 | Comment(11) | TrackBack(1) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

STOP THE KOIZUMIに賛同いたしました。

小泉のペテン改革と右翼ファシスト政治の断固阻止を



ブロガー同盟に賛同します。
従米売国奴ファシスト小泉にNO!!

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朝日新聞の良識的社説

良識派による市民的ニュース総合研究スレ9
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1135937263/で投稿したものを再度

麻生発言 外交がとても心配だ
【社説】2006年02月11日(土曜日)付
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
 
かつて日本は朝鮮半島や台湾を植民地にした。しかし、それは必ずしも悪いことではなかった。麻生外相はそう言いたくて仕方がないかのようだ。

 先週末、福岡市での講演で、日本が戦後のアジア各国の発展を支えたと説くなかでこう述べた。

 「日清戦争のころ、台湾という国を日本に帰属することになった時に、日本が最初にやったのは義務教育です。貧しい台湾の人々が子どもを学校にやったらカネをやるという大英断を下した」

 「結果として、ものすごく教育水準があがって識字率が向上した。おかげで、台湾という国は極めて教育水準が高い国であるがゆえに、今の時代に追いつけている」

 思い出されるのは、麻生氏が自民党政調会長だった03年、韓国を植民地支配した時代の創氏改名について、朝鮮の人々が望んでいたかのような発言をして猛反発を招いたことである。

 望んでいたのだから創氏改名には問題がなかった、朝鮮人のためを思ってやったことだ。そう言わんばかりだった。

 日本の植民地統治の負の部分は素通りして、プラスの側面ばかりを強調する。これでは、植民地支配を正当化しようとする勢力の主張と重なり合って見られても仕方がない。

 日本政府は植民地支配を反省し、謝罪を表明している。小泉首相も昨年8月の首相談話で明快に語った。この政府の見解を繰り返し説明し、理解を得る努力をするのが外相の本来の仕事のはずだ。

 なのに、国内向けにはトーンの違う発言をし、外国から疑念を招いている。米国の有力紙ボストン・グローブは社説で麻生発言を紹介し、近隣諸国を挑発する愚かしさを批判した。

 歯に衣(きぬ)着せぬ「本音トーク」は、麻生氏の政治家としての「売り」のひとつかもしれない。だが、首相の靖国神社参拝にからんで「天皇陛下の参拝が一番」と発言したのに続き、軽率に過ぎないか。日本外交を麻生氏に委ねるのは、極めて心配だ。

 麻生氏の講演にはもうひとつ、別の問題があった。「ひとつの中国」という政府の方針に反して、台湾を「国」と繰り返し表現したことである。

 米中、日中間で台湾問題はとても微妙な事柄だ。中国が不可分の領土と主張する台湾に「国」の呼称を使うことの意味を、外相が知らぬはずはあるまい。「地域」とすべきところを言い誤ったのだと思いたい。

 だが、2日後の記者会見では「国」と述べた発言の報道を否定して、こう述べた。「台湾を国と言ったら問題になるということぐらい、25年間朝日新聞にやられてますから。そんなにバカでもない」

 あまりに強く否定するので、こちらも録音を聞き直したら、確かに言っているではないか。口が滑ったというのなら、素直に自らの言葉の不適切さを認めるべきだ。


糞麻生の馬鹿め。とりあえず、朝日新聞の良識的社説にGJといいたいところ。
麻生外相にはアジア外交はゆだねることはできない。小泉は小泉で言行不一致であり、
侵略戦争を反省するといいながら、靖国参拝は問題ないというし、麻生のようなくず右翼を外相にする。
米国の有力紙も麻生外相の近隣諸国を挑発する発言を批判している。台湾は比較的親日であり、台湾の独立派など日本の右翼に通じる反動派が多いと知り、台湾を日本統治の正当化し、自身の右翼思想のオナニーの道具として利用しているわけだが、そのような魂胆が見え見えでどこまで麻生外相の頭が腐っているのかとあきれてものがいえんといったところか。素直に自分の言葉の不適切さを認めることだ。学習しない奴は馬鹿だが、学習する前の基礎的な歴史的認識や知識、常識や人間としての理性が麻生には欠如している。こんな奴は外相どころか、日本人、いや人間である資格すらないよ。同じ日本人として恥ずかしい。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 00:16 | Comment(16) | TrackBack(0) | 良識的ニュース・記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月11日

『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著 明石書店にみる日帝悪および山西省残留日本兵についてpart2

本書より興味深い記述を抜粋していきます。
T「満州」崩壊とチャーズへの道
5 八路軍が長春を一時占拠 P41より

 
八路軍が長春を占領していたのは、一ヵ月ほどでした。ボロを身にまとった八路軍の軍規は厳しく、略奪、婦女子への暴行の類はまったく行いませんでした。軍規の一つに、大衆の物は針一本、糸一筋も奪ってはならないとありましたが、戦犯への追及に関しては非常に厳しかったといわれます。このとき人民裁判で処刑された日本人も多く、中国人でも資産を持った者は摘発されました。


八路軍がいかに民衆に愛されいたかわかります。この原動力が八路軍および中国共産党の抗日戦争の草の根での原動力を支えて、日本の敗戦および国共内戦を破って中華人民共和国を建国することができたのです。

U知られざるチャーズの悲劇、
5 三反運動と私 P147〜149より

 私は中国の太々になて青空市場のなかで商いをしていた日本人のことを思い出す。この人は南の方にいて、ずっと日本の軍閥が中国を侵略していた頃に田舎にいたのだそうである。どんなことでそこへ流れ込んだのか知らないけれど、中国人と一緒に暮らしていたらしい。この人の話によると、小さい村にもときおり、日本軍から追われた狙撃兵が逃げ込むことがある。このとき、八路の人であると「パーお帰り」とか「兄さんお帰り」とかいうそうである。勢い込んで追いかけて来た日本兵は、兵隊が逃げ込んだはずだと家探しをするが、逃げて来た兵隊はその家族の一員としてすわっているので、どうしてもわからない。しかたなく出て行く。夜になるとその兵隊は感謝しながら、つぎの機会を約束して出て行くというのである。
 こうして民兵の名にふさわしく、兵隊が民衆に溶け込んだそうである。民衆は八路を信じ、
この兵隊のためにはどんな苦労も惜しまない。軍も民衆のために畑を耕し、道をつくり、戦いの合間には鉄砲を鍬に持ちかえて一生懸命働くのである。
 ここが八路軍の強いところであるという。八路軍は決して無理をしない。もし兵力の損害が多いとわかるとどこまでも退却する。敵はいい気になって追い込み、ついに深追いをしすぎて失敗するのである。
 中国人は国民党が来ると皆恐れて門を閉ざす。必ずといっていいくらい略奪が行われるという。しかし八路にはそれがない。事実、長春に八路が入ったときもいろいろのものを我が家に借りに来たけど、撤退するときは必ずこれらを返し、なにがしろのお礼をくれたことを思い出した。
 赤大根という表現は面白い。我々はなるほど赤大根だが、どうせ日民青の青年たちだって我々をなかまで赤くさせようと思っているわけではない。ただあまり資本主義的、ファシズム的にならないよう教えるだけである。


八路軍の軍規のよさは世界有数であることは知られているところ。軍規が粗暴であり、凶暴な日本軍兵士が日中戦争に勝つなど無理な話というわけだ。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 15:34 | Comment(6) | TrackBack(79) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著 明石書店にみる日帝悪および山西省残留日本兵についてpart1

良識派による市民的ニュース総合研究スレ7
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1123352639/にて投稿したものの焼きまわしとなるのですが、とりあえず、エントリーしておきます。

まず、チャーズというものの説明から。ネット右翼によって中国共産党のせいにされているのですが、実際のところはそうではありません。中国共産党の責任もありますが、実際のところは篭城作戦をとった国民党軍の責任も大きいのです。
『満州、チャーズの悲劇』 浜朝子・福渡千代著という本は餓死・離散の危機にさらされた日本人家族から中華人民共和国成立、帰国するまでを描いた物語であり、大地の子をはじめ、ここの種の悲劇を描いた書籍であれば、数多く出ています。もちろん、日本の民間人、しかもか弱き女性や子供とはいっても満州や中国の大地を侵略し、多くのか弱き中国や満州の民を踏みにじり、上に立って搾取し、苦しめたという事実を変えることはできませんし、受け入れなければなりません。しかし、日本の敗戦によってて中国の大地に取り残された日本人婦女や子供たちも哀れで悲惨な犠牲者であることには変わりありません。チャーズの説明をしたいと思います。

まず、チャーズというのはその真空地帯のことを意味します。チャーズというのは長春(日帝が満州国をつくったときの首都・新京)に存在しました。時代背景でいえば、国共内戦の終盤ぐらいで、共産党の人民解放軍は各地を制圧し、国民党軍は長春、吉林、瀋陽、営口、錦州などの都市に追い詰められていました。1948年から戦線が膠着状態に入り、長春では小競り合い程度の遊撃戦が続くような状態にありました国民党軍は兵士が捕虜になったり、共産党軍へ走るものが多く、だんだんと双方の兵力が拮抗してきました。
人民解放軍は長春を完全に包囲し、市民は市外へでていくことはできなくなりました。人民解放軍は長春での戦いでは一挙に攻めるという手段はとらず、周辺の農民を教育しながら、じわじわと長春を締め上げるために食糧封鎖という戦術をとりました。そんな中で起こった悲劇です。戦う意味を失いつつも、国民党軍は降伏せず、共産党軍の攻撃から自らを守るために長春市のまわりに塹壕を掘り、鉄条網を築き、言い換えれば長春は鉄条網の環の中にあったというわけです。長春市を脱出する経路が5箇所もあったのに、絶たれ、市の南の洪煕街の一箇所だけになった。国民党軍も食糧がなくなり、市民から取り立てるようになりました。厳しい食糧難のなか、市民は生き残りをかけて、長春から脱出を試みました。国民党軍にとっては、
長春市民が脱出してくれるほうが窮乏生活を耐え凌ぐには都合がよかったわけです。そんなわけで一度脱出した人が戻ることを認めませんでした。戻ろうとして関門の見えるところまで近づくと射殺されました。逆に共産党側は市民が出てくれば食糧封鎖の効果が減るのであまりでてきてほしくはありません。そこで両陣営のあいだに、多くの人々が立ち往生しました。
洪煕街という通りの先1キロばかりの「チャーズ」と言う地帯は「真空地帯」とも呼ばれ、生きる手段がまったくない地獄の場所というわけです。チャーズといわれる地獄地帯の出現は中国共産党の責任かと言われる問題があります。もちろん、中国共産党の責任もあります。もちろん、戦争には勝ったが、兵糧攻めにして、飢餓で殲滅させるという戦術は非人道的すぎます。しかしです。本書には書いてあるが、そういう非難を向けられて毛沢東は食糧封鎖を命じたのは自分ではないと断言した。(第三次国内革命戦争概況)。当時毛沢東は当時「長春を包囲してもよいが人民を痛めつけてはならぬ」と命じていたそうです。ところが林彪が長春における兵糧攻めの戦法を決定しました。 当時、東北部の解放軍を指揮した人物である。文化大革命では毛沢東への裏切り者とされ、飛行機で逃げるところを墜落し、(あるいは撃墜され)、死亡したとされています。というわけで、共産党への右翼の非難はあたらないというわけです。さらに言えば、餓死させる戦術を長引かせたのは、国民党軍にも大いに責任があります。国民党が勝ち目がないと明らかになっても降伏しなかったからです。しかもさらに本書ではアメリカについての責任も言及しています。もちろん、その希望を与えた一因にアメリカの援助があり、アメリカが国民党軍のために物資を運び込むという援助をしたからです。国民党とアメリカとは切り離せないものがあります。アメリカは中国の共産化を避けるために、国民党を援助していました。この本ではソ連にも批判の矛先を向けています。ソ連は終戦間際に満州に侵攻しました。 東北抗日軍が関東軍に追い詰められ、ソ連で再編された共産党軍が含まれていました。中ソ合同軍は長春に無血入場、各都市への進出を果たしました。ソ連は旧満州にあった中国の東北部を中国共産党側に引き渡して引き上げるのが当然でした。しかし、毛沢東や中国共産党、中国民衆の知らないところで密約が成立していました。ソ連の満州における利権や戦後における利益を補償するために密約がありました。ヤルタ協定です。ちなみにヤルタ協定は米・英・ソで、当事国の中国が入っていませんでした。大国の論理で密約が成立していました。ソ連が中国のアメリカの非共産化政策を阻止せず、共産党に日本軍の武器を渡したぐらいで、各都市から撤退するように命じた上で広大な満州の大地のほうは国民党側に渡しましたというのです。 このことを本書では厳しく書かれていました。小さい本ですが、戦後の中国・満州情勢をめぐる中でいろいろ勉強になりました。
チャーズというのはあまり聞きませんが、大日本帝国から解放された満州にあっても、このような悲惨な悲劇が起こったということを頭の片隅において置いてください。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 15:32 | Comment(4) | TrackBack(92) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ワイルドスワン ユン・チアン著 土屋京子訳 講談社にみる日帝悪part1

第3章「満州よいとこ、よいお国」 ―日本占領下の暮らし(1938年〜1949年) p74〜より引用

 
学校教育、とりわけ歴史と修身は、日本人によってきびしく統制されていた。学校では、中国語ではなく日本語が公用語だった。小学4年生以上になると、すべての授業が日本語でおこなわれ、先生もほとんど日本人だった。


つまり満州国は独立国家ではなく、大日本帝国の植民地・占領地にすぎなかったというわけだ。朝鮮半島や台湾と同じように日本人同化政策を推し進めたというわけ。

p74〜75より引用
1939年9月11日、母が小学校2年生のとき、満州国皇帝溥儀と皇后が錦州を公式訪問することになった。母は、皇帝夫妻が到着したときに皇后に花束を渡す役に選ばれた。(略)。溥儀と皇后が姿をあらわすと、ブラスバンドが満州国国家を演奏した。全員、直立不動の姿勢をとった。母は進み出て、大きな花束のバランスをとりながら、腰をかがめてお辞儀をした。(略)。
 母はたしかに出来のよい生徒であったが、皇后に花束を渡す大役に抜擢された理由は、成績だけではない。夏先生にならって、国籍の欄にいつも「満州」と記入していたからだ。満州は満人の独立国家ということになっていた。溥儀は、日本人にとってまことに都合のよい存在だった。ほとんどの満人が、自分たちを支配している人物―かりに彼らがそのようなことに興味を示したとしての話だが―は満州皇帝だといわれれば納得したからである。夏先生も、みずからを満州皇帝の忠実な臣民と考えていた。祖母も同じだった。中国ではむかしから、夫の言うことすべてに賛同するのが妻の愛情表現とされていたから、祖母も当然、それを踏襲した。祖母は夏先生が大好きだったから、ほんの少しでも先生と考えが違うのがいやだったのだ。
 学校では、私たちの母国は満州国です、と教わった。満州国のとなりに中国人の共和国がふたつあり、ひとつは蒋介石が率いる敵対国、もう一つは汪精衛(中国の一部を支配していた日本の傀儡政権)を首班とする友好国である、とも教わった。しかし、満州も含めた中国全体がひとつの国であると教わらなかった。


いかに満州皇帝溥儀と満州国自体が日本にとって都合のいい存在であるかわかります。大日本帝国ファシストの統治自体が巧妙で、長年の内乱と皇帝統治の歴史によってつくりだされた中国人自身の思考形態を逆手にとって、都合のいいような奴隷につくりあげていこうとしたかが、これだけの引用でもわかるでしょう。

とりあえず、このエントリーではこのようにして、日帝悪の記述が含まれる書籍を中心に取り上げて、大日本帝国がいかに醜い存在であったかというのを皆様に知らしめていきたいと考えています。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 14:29 | Comment(6) | TrackBack(93) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

このカテゴリーの紹介

このカテゴリーでは日帝悪情報をメインに扱っていきます。日帝悪というのは、過去の日本の体制、大日本帝国・天皇ファシスト体制が日本国民および韓国や中国、アジア民衆に与えたあらゆる加害事項についてです。
posted by 右翼討伐人改めアクアリウス at 13:44 | Comment(7) | TrackBack(0) | 書籍などにみる日帝悪および書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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