part1の続き
★従軍慰安婦についての記述について抜き出してみる。従軍慰安婦についてははっきり触れられている2ヶ所。彼女らは日本軍によって半ば強制的に連れてこられ、酷い兵隊の性欲処理の家畜として従軍させられた。ちなみに水木しげる氏は行列のため、慰安所を利用をあきらめたらしく、慰安所を利用していない。かといって、強姦もしていない。当時としてはめずらしいケースにあたるのではないだろうか。水木しげる氏自身穏やかな性格であり、好奇心旺盛な青年で現地の文化をしったり、風景を描いて、暴力が嫌いな童心の冒険者として振舞っていたのではないでしょうか。part1の記述からも伺えます。
p26より
上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか103兵站病院もあり従軍慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜とか祭日にお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。
彼女たちは徴用されて無理やりつれてこられて、兵隊と同じ待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。
(日々の軍隊生活を送っているうちに、水木しげる氏らは前線へ行くように命令される。)
p62〜63より
寝ようとしていると、曹長が「遺書を書け」という。とにかく、なんでも書けばいいだろうと思ったものの"遺書"ということになると、カンタンなものではない。
(略)
ココボは夜になると、不気味な鳥が鳴くから、よけい遺書のフンイキが出た。
それ"認識票"と称する、金属でできた番号の入ったものをもらう。これは金属だから"ニクタイ"がくさってもくさらないというわけだ。死んでも人の骨を墓にうめる時、身元がわかった方がいいだろうと思い、首にかけることにした。
そのあくる日、ピー屋(従軍慰安婦)に行っていいという命令が出た。早速行ってみると、なんと長い行列ではないか。これはなにかの間違いではにかと観察すると、行列は小さい小屋まで連なっている。そういう小屋が6つばかりあり、いずれも、50人位並んでいる。
やる方も必死だが、こうなるとやられる女の側は下手すると死ぬのではないかと思った。
50人もいるとすると、終りは何時になるかも分からない。2、3時間まったが行列の人数は少しもへらない。初年兵2、3人で行ったが、あまりの行列にやめようということになり、近くの土人部落に行った。
あくる日、前線行きについての訓示があった。乗船の順番などだったが、かんじんのどこにゆくのかは、言われなかった。
引用しましたが、水木しげる氏も慰安婦らは強制的に徴用されて連れて来られているというのを認識しています。沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」という呼び名がついていました。
Wikipedia 従軍慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%93%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6より
当時の文献によると、慰安婦のほかに「酌婦」「(慰安所)従業婦」「(慰安所)稼業婦」「醜業婦」などという呼び名も存在し、また現地の軍人は慰安婦のことを「ピー」という蔑称で呼んでいたと言われている。また、海軍では特要員の名目で戦地に送られたとも言われている。
らしいです。ピーって、なんか馬鹿にした言い方ですね。いかにも兵隊の性欲処理用家畜として女性が扱われていたかわかります。
後半のp62〜63ではさらに悲惨な慰安婦の実態がわかります。性奴隷といっても過言ではありません。兵隊たちは列をなして群がり、日夜慰安婦たちはセックスをさせられました。2、3時間かけても列は減らないし、もしかしたら24時間レイプされ続けたのかもしれません。水木しげるのラバウル戦記では、少なくともラバウルでは日常的に日本兵が慰安所に通っていたわけではないようですが、前線へ行かされるとなると慰安所へ行ってもいいという許可がでるようです。前線へ兵隊が行くたびに女性たちはセックス地獄に陥ります。もちろん、戦況が悪化するにつれて、前線へ部隊が行かされる頻度が増えるのは普通ですから、戦況が悪化するにつれて彼女たちはさらに過酷になったのでしょう。後、慰安所へいってもいいという許可が出たさい、コンドームが配られた気配はないですし、衛生もずさんだったのでしょう。慰安所へ行ってもいいという命令がでたという事実そのものが軍部隊が慰安所を保有し、まさにただの売春婦ではなく、”従軍”だったと示すものであります。
★日本兵以外で(連れてこられ)強制労働させられて人々がいた事を示す記述
p25より
船をおりると大発(上陸用舟艇)がまっており、みな乗船したが、最後の上陸の時は水の中におりた。
「あーっ、ここがラバウルか」というと、「ここはココボというところだ」という。
こういう変化のある時は、初年兵はなぐられない。なにかにヒマになるとやられる。毎日なぐられていると、安心の時間が分かる。
里美は、「ここは墓場だ」と悲観的なセリフをはく。椰子林といい入道雲といい、すべてのものがめずらしい。
海岸で老インド兵がぼんやり海をながめていた。聞くと、ビルマの方から使役として連れてこられたらしい。
いつまでも水平線をみていた。
考えてみればインド兵こそいい迷惑だ。英国にかり出されて戦争にゆき、日本の捕虜になってラバウルまで連れてこられるなんて、と思った。
ほんとインド兵についてはいい迷惑ですね。
p37より
朝5時に起きて、移動が始まった。海岸から山の中へ入るのだ。途中インドネシアの捕虜たちがいた。
日本軍がジャワ島に上陸した時、オランダ軍といっしょにいたというので、連れてこられただろう。飛行場の整備などをさせられていたようだ。
飛行場を使えないように、毎週爆撃機の編隊がやってきて爆弾を落として穴をあけるから、穴をうめないと、飛行機は飛ぶことも着陸することもできない。
もっとも、その時日本軍の飛行機はほとんどいなかったが、いつでも飛んできたら使えるように穴をうめるのが、彼らの仕事らしい。
毎日穴をうめていたようだが、終戦の時まで日本の飛行機は一機もこなかった。
なにも悪いことしてないようなインドネシア人を連れてきてコキ使うというのは、やはりなんだか気の毒みたいだった。
ぼくのゆくところはトーマというところだということが途中で分かった。トーマというところはいいところだったが、配属された中隊はガダルカナルから転戦してきた中隊で、普通の中隊の半分位しかいなかった。
著者はインドネシアの捕虜だというが、オランダ軍にインドネシア人はいたのだろうか?もしかしたら、ロウムシャ、あるいはヘイホとしてインドネシアから強制連行された一般人(ジャワの貧しい農民)だった可能性もあるのでは。
余談ですが、>普通の中隊の半分位しかいなかった
ガダルカナルがいかに悲惨だったかどうかがわかります。この中隊では半分しか生き残れなかったようですね。ちなみにこの兵隊での著者ら初年兵の虐待事実はpart1のp38〜39、p40〜41、p41〜42、p46〜47の部分に引用されています。
p133
海軍はソルジャーボーイと称して20人近くの土人を雇って雑用させている。風呂をわかしたり掃除したり、あるいは食糧集めに使っているかもしれない。
p134
時々、飛行機が夕方やってきて、近くに急にエンジンを静かにし、低空でなにかを落としているようだった。多分近くにいる敵の特殊部隊への補給だろう。(あとになって気づいた。)
それから2,3週間すぎた頃、海軍で使っていたソルジャーボーイが全員消えたというのだ。即ち、彼らの宿舎に行ってみても、もぬけの空だというのだ。
海軍の人と協議したが、夕方でもあり、対策は明日にして、今夜はこのまま寝ることになった。
ソルジャーボーイとして現地の人を労働させていたという事実がラバウル戦記にも書かれていました。ただし、連合軍は巧妙であり、使っていた現地人労働者が連合軍のスパイだったりしていたようだ。このことがのちに、フィバラップという抗日ゲリラが割拠していたフィリピンのように、ラバウルを含むニューブリテン島でも現地民衆に対して凄惨な虐殺行動が行われたかもしれない。
★現地人に対するを含む日本軍加害事実・・・あまりでてこないのだが。
p68における『ラバウル戦記その2 前線での生活』の説明文において
ここからズンゲンでの生活が始まる。
上陸の夜は野宿だった。とにかくばかに静かなところだった。
あくる日、兵長のいう天国説を信じてあたりをさがしたが、パパイヤの木は一本もなかった。ただゆけどもゆけども名前の分からない木がたくさん生えており、道はなかった。
この場所は、オーストラリア戦史の第一項をかざる場所であったらしい。2.3年前日本海軍が上陸し、オーストラリア軍約一個大隊(500人?)が、ラバウルからズンゲンに逃れた。半分の兵隊は船で引き揚げ、半分はズンゲンに残って、船をまっていたらしい。しかし、日本軍の発見するところとなり、全員この場所で殺されたらしい。
ぼくは、偶然、山の上で100人以上の遺骨を発見した。しかしその時我々はなにも知らなかった。毎日めずらしいところを見せてもらうので、不安な中にも面白かった。やはり"若さ"のせいだろう。
ズンゲンに残されたオーストラリア軍250人ほどが日本海軍によって虐殺されました。敵兵とはいえ戦争犯罪です。日本海軍の残虐な体質が浮き彫りになっています。戦後のBC級戦犯で裁かれたかどうかはわかりません。ぐぐってもはっきりとしたことは分かりませんでした。
p86〜87(水木しげる氏は食糧調達に行かされる)
誰がみつけてきたのか、ウルグット河に面して、城の堀の石垣のように丸太をはりめぐらしたところに土人の畑があった。
要するに野ブタとかそういうものに畑が食い荒らされない天然の要塞みたいな畑だ。丸太橋を渡ってゆくと広い面積の土人の畑だ。大木を焼いて畑にしたところだ。
なんでもあった。ぼくは2年ばかり食べたことのないトマトがあったので、夢中で食べた。
とにかく野菜だけでカマス(トンゴロス)に20袋以上もってかえった。かなりな大泥棒だ。おそらく土人たちは、あとでおどろいているに違いない。
そのかわり、その日からタロ芋の煮たものとか、キュウリのつけものなぞでおかずが
グーンとよくなった。
毎日重労働でマラリヤ患者もたくさんいたから、栄養をつけてもらわんと、敵がくる前にそれこそ全滅してしまう。
土人の畑の野菜とりよりも、休日にやるわけだから休みがないわけだ。とにかく敵がくるから陣地構築が優先するわけだ。
ほとんど唯一の現地住民に対する加害事実というべきところ。水木しげる氏は大泥棒であることは認識しているのですが『おそらく土人たちは、あとでおどろいているに違いない。』
という風に対して罪悪感をもっておらず、むしろ自分自身の部隊の食事事情が改善されてよろこんだという風に見えます。しかし、現地住民にとっては死活問題です。気候的にも、また、近代化を受けていない未開の原住民であることを考えても、こいれだけ大量に食糧を盗まれては死活問題です。略奪を行ったときの部隊はpart1で引用したp73以降の"鬼軍曹"の部隊であり、日常的に略奪を行う暇などなかったのでよかったものです。他の部隊も同様であり、陸軍はもともと現地民衆のことを考えて、外から補給するという発想がほとんどなく、また物理的にも各部隊への食料品輸送手段もなかったため、現地自活でした。現地自活すなわち、強制徴発、あるいは略奪という行為そのものです。現地人の反発を招かないわけはありません。この項ではしばらく現地人との交流はでてこなかったのですが、おそらく反日感情も相当あったに違いありません。ところで海軍の場合はp88〜89より引用すれば、
海軍というと、別の国の人みたいで、大事にされ、むこうもめずらしがっていろいろなものをくれたりした。
正月にはブタをとってこいという命令が出て、10人ばかりで出かけたが、どこにブタがいるのかも分からなかった。
海軍の話によると「野生のブタを捕るのは大変だ。まるで猪みたいになってるから、よく手足をかまれた土人もいる」という話で、正月用のブタどころではなかった。
海軍の人は気の毒がり、海軍の飼っている一番大きなブタをやる、というのだ。早速大きなブタを出してノドを切ってかついでかえることになったが、ブタがノドを切られる時「キイキイ」大きな声を出すのだ。そして死んだブタの重かったこと、4人でかつぐのはとても大変だった。
ここのブタは、ブタというより猪に近い感じだった。
海軍はバカに親切で、食事をしてゆけという。陸軍と違って、どうしたわけかごちそうだった。人員も陸軍の20分の1位、即ち2、30人で乾パンなぞたくさんもっていた。
なんでこんなに食糧が豊富なのですかときくと、「いやァ、時々遭難した船があるので主に大発ですけど。人はおらず、品物だけあるもんですから、運ぶんです」といったぐあい。
という風に陸軍と違い食糧事情はたいへん豊かでした。みると遭難した船から食糧を調達しているようである。大発というのは陸軍の輸送船である。陸軍は海軍と仲が悪く、海軍の力を借りないために自力で海上輸送船をつくっていましたが、出来が悪く、うまくいってなかったのだろう。大日本帝国軍の欠陥がこういうところにも現れている。
p237の『おわりに』に現地住民を加害しただろうという記述がでてくる。
23年ぶりにラバウルを訪ねたらしい。トペトロとトペトロの義弟トマリルにあう。彼らはラバウルの日本軍時代に著者が知り合った“土人”である。引用すると、
それから度々訪れることになるのだが、ぼくはトペトロのところへ一週間もとまったことがある。
その時、家の中は足のふみ場もないほど若い者が寝ていて、よく小便にゆくとき、顔だとか胸をふんづけたりしたものだ。
その時は「なんてノンキだろう」と思っていたが、今から考えるとトペトロの深い配慮だった。
即ち、電気もないまっ暗なところだから、1人拉致されたって分からないところだ。それに、日本軍にいじめられたり、肉親を殺されたりしたのもいるから「昔の日本兵がやってきた」といえば、良からぬ考えをおこす土人だっている。
そういう事を配慮して、若い者を一ダースばかりぼくのまわりに寝かしたのだ。
最後になって、日本軍によっていじめられたり、肉親を殺されたりした人もきちんとラバウルにはいるということが分かりました。しかし、日本軍によっていじめられたというのは古参兵が初年兵にした以上のことを雇った現地人にしたのでしょうか。肉親を殺されたといっても日本軍が略奪し、中国やフィリピンの村々や町々でしたことを程度は小さいかもしれませんが、やったのでしょう。以上でこのエントリーを終わり。